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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>利用者・トーク:Beyond</title>
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				<updated>2007-07-24T11:06:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: 追伸&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''提案・要望などは、[[Yourpedia:運営上の課題]]にて行ってください。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[/過去ログ2007年5月]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メインページについて ==&lt;br /&gt;
はじめまして。提案があります。メインページに簡易版ページとモバイル向けページの2つがありますが、簡易版ページ1つにしてはどうでしょうか？モバイル向けページよりも簡易版ページのほうが良いように思います。モバイル版を削除して、簡易版をメインにしたほうが良いと思い、管理者さんに相談させてもらいました。検討してみてください、お返事待っています。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月2日 (土) 01:34 (JST)&lt;br /&gt;
: 簡易版とかモバイル版とかは、単なる名前なので、具体的なものを見ないと判断できません。現時点のものを比較する限り、簡易版をメインにする理由は無いので（簡易版ページの方が情報が古いなど）、メインにする必要は無いと思います。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月2日 (土) 04:20 (JST)&lt;br /&gt;
::情報が古いとはどういう意味でしょうか？名前とかの問題ではないのですが、簡易ページをトップにした方が良いと思いました。簡易ページをメインにしてもメリットは特にありませんが、現在のトップページよりは雰囲気もよくありませんでしょうか。是非、お願いします。と--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月4日 (月) 16:26 (JST)&lt;br /&gt;
:::管理者さん、どこがおかしいですか？それなりに夕方から仕上げてみました。指摘をお願いします。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月15日 (金) 22:35 (JST)&lt;br /&gt;
::::よろしければ、これで保護していただけないでしょうか？よろしくお願いします。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月15日 (金) 22:46 (JST)&lt;br /&gt;
:::::とりあえず、古い情報にするのはやめてください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月15日 (金) 23:04 (JST)&lt;br /&gt;
:::::どこが古い情報になっていますか？そこを指摘してくだされば訂正します。お願いします。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月15日 (金) 23:07 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*Beyond氏へ提案。[[利用者:あ|あ]]氏はご自分のメインページ提案を強行掲載されているようなので、議論で合意事項が決まるまでページの保護を提案します。メインページが何度もリバード・差し戻しの状態は芳しくない状況と考えます。--[[利用者:SANGARI|SANGARI]] 2007年6月15日 (金) 23:58 (JST)&lt;br /&gt;
:::::とりあえず、私が夕方から編集したこの記事のどこに問題があるか、そこを教えてください。一方的に差し戻しされては困ります。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月16日 (土) 00:06 (JST)&lt;br /&gt;
:*この議論に貴方が夕方から編集したことは一切関係ありません。あなたの主観でメインページをシンプルにすることには反対します。--[[利用者:SANGARI|SANGARI]] 2007年6月16日 (土) 00:12 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お願い ==&lt;br /&gt;
アップロードした画像が重複してしまったので、'''↓'''この画像を削除してください。よろしくお願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月2日 (土) 20:49 (JST)&lt;br /&gt;
* http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Saddam_Hussein_Execution.jpg&lt;br /&gt;
: 削除しました。本人確認が必要なので、今度からは署名をお願いします。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月2日 (土) 20:39 (JST)&lt;br /&gt;
::どうも。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月2日 (土) 20:49 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質問があります。この画像をアップロードすることは可能ですか？--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 13:59 (JST)&lt;br /&gt;
*http://en.wikipedia.org/wiki/Image:NORTHKOREANNN.jpg&lt;br /&gt;
: 技術的には可能だと思いますが、何かエラーが出るのでしょうか？--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月3日 (日) 14:24 (JST)&lt;br /&gt;
::いや、エラーが出るわけではないです。信頼できる管理者に了承をいただいてからアップロードしたいと思いました。英語版ウィキペディアのものですが、ユアペディアでは問題ないですか？--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 14:31 (JST)&lt;br /&gt;
::: 個別のことに一々答えていてはきりが無いので、自己責任でご利用ください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月3日 (日) 20:56 (JST)&lt;br /&gt;
::::はい。どうも。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 21:07 (JST)&lt;br /&gt;
*http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:saddam_hussein_execution.jpg&lt;br /&gt;
*http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:North_Korea_nuclear_test.jpg&lt;br /&gt;
*（追加）http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:October_14._2006.jpg&lt;br /&gt;
この画像も削除してください。アップロードする画像とファイル名を間違えてしまったので。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 18:45 (JST)&lt;br /&gt;
:削除どうも。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 21:07 (JST)&lt;br /&gt;
::（追加）アップロードのミスです。手が空いている時にでも削除お願いします、いつでも構わないので。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月5日 (火) 17:15 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*追加:http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:North_korea_nuclear_test.jpg&lt;br /&gt;
*追加:http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Korean_Central_News_Agency.jpg&lt;br /&gt;
*追加http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE_%E6%A0%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C.jpg&lt;br /&gt;
*追加:http://ja.yourpedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93&lt;br /&gt;
重複しています、この画像と記事は削除してください。申し訳ありません。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月23日 (土) 17:11 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==お願い==&lt;br /&gt;
私に対して、嫌がらせをしてる人がいます。恐らく[[利用者:キリカ]]だと思いますが、[[利用者:Shiohata]]と装って、勝手に記事を作っています。[[利用者:Shiohata]]のIPを特定次第、即時IPの開示、無期限ブロックをお願いします。とりあえず[[利用者:キリカ]]は、[http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/hobby/1178996032/301-40|2ch]で私の陰口、馬鹿呼ばわりするなど、悪質な行為を繰り返しておりますので、[[利用者:Shiohata]]と別人でも同時に無期限ブロックお願いします。コテは「 ◆9G12fmecqU 」だと思います。昨日はコテを隠していました。早急に対処してください、よろしくお願いします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[2006年ニューヨーク小型機衝突事故]]&lt;br /&gt;
*[[朝鮮民主主義人民共和国の核実験 (2006年)]]&lt;br /&gt;
*[[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2006年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この3つの記事は[[利用者:Shiohata]]が嫌がらせ目的で作成したものなので、すぐ削除お願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 12:07 (JST)&lt;br /&gt;
: ２ちゃんねるなどの陰口については良く分からないため、また後で読んでみます。それで、３つの記事が、どういう理由で「嫌がらせ」となるのか全く分かりません。個人に対する記述は無いようですし、普通の記事のように見えます。ご説明ください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月6日 (水) 12:13 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その3つの記事は、wikipediaのものであり、固執して私が編集したものです。[[利用者:Shiohata]]は、私に装って嫌がらせで同じものを引っ張り出してきたのでしょう。荒らしは間違いないです。削除をどうかお願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 12:21 (JST)&lt;br /&gt;
:すいませんが、意味が全く分かりません。何に「固執」しているのですか？Wikipediaの履歴には、複数人が関わっているようですが、どれが「ん」さんですか？どういう理由での削除か、分かりません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月6日 (水) 12:44 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::こちらで真面目に編集させてもらおうと思っていた為、wikipediaの話はあまりこちらには持ってきたくありませんが、私は、wikipediaで他ユーザーと何やらでトラブルが起きて無期限ブロックされました。そういうこともあって、目を付けられているわけです。ユアペディアでも、編集するたびにいちいち文句や陰口を2chで言われています。その3つの記事に特にこだわりがあって、wikipediaで自己流に編集していたのですが、他ユーザーには全く理解してもらえず、何度も差し戻されてしまっていました。編集合戦も何度もやり、投稿ブロックも何度もされました。そして最期には無期限となったわけです。そのため、ここに来たわけです。簡単に言うと、[[利用者:Shiohata]]は私のwikipediaでのユーザー名です。誰かが、私を装って嫌がらせをしているのです。ユアペディアの[[利用者:Shiohata]]は私ではありません。なので上記に記したことを早急に対処していただきたい。こちらでは、これ以上事を荒立たせたくありません。お願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 13:08 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::私目が勝手に荒らしとされているようですね。ユーザー名がWikipedia上の人物と同様なのは確かですが、同名の無関係な人物です。もちろん、[[利用者:キリカ]]なぞでもありませんが。一応、誤解を招くようなので利用者ページにその旨を記述しておきました。それより、'''勝手に人を荒らしと決めつけ、キリカ氏のノートページでの発言を勝手に除去する[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%AB&amp;amp;curid=3036&amp;amp;diff=6362&amp;amp;oldid=6350][[利用者:ん]]氏'''のほうがよほど、害悪だと思いますがね。上記の3項目についてもWikipediaのコピペであり、あなたに関する記述は一切しておりませんが、何か。--[[利用者:Shiohata|Shiohata]] 2007年6月6日 (水) 14:43 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::[[利用者:Shiohata]]、いい加減にして下さいよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::＞'''茨城県在住の大学生なのだ。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::＞'''数検 1級です、英検 1級でつ、漢検 4級でちゅ。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::＞'''僕はウィキペヂアで無期限です。[http://ja.wikipedia.org/wiki/WP:SHIO Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Shiohata]'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::'''これは何ですか？'''明らかにおかしいでしょう。今更ページの内容を変えても、分かっていますよ。2chでも陰口を言っているのは判明しています。こういう非常に悪質な行為は許せません。他人に装うのは卑怯ですね、[[利用者:キリカ]]さん。それと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::*'''上記の3項目についてもWikipediaのコピペであり、あなたに関する記述は一切しておりませんが、何か。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::私に関する記述が書いてあるとか、そういう事じゃないんですよね…。私を装って、私が編集していたwikipediaの記事をわざと持ってくることを言っているんですよ。その記事はユアペディアでは要りません。わざとやる必要はないでしょう。上記の3つの記事は不必要なので、削除するべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::[[利用者:Beyond|Beyond]]さん、これで分かりましたよね。即時に無期限ブロックが必要だと思います。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 15:06 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:とりあえず、裁定はCheckUserを行ってから考えたいと思います。現在のバージョンには、CheckUserを入れられないようなので、今日明日中に1.10にバージョンアップします。少々、お待ちください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月6日 (水) 15:46 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::ありがとうございます。とても感謝してます。もしCUで[[利用者:Shiohata]]と[[利用者:キリカ]]が同一人物なら同時に無期限ブロック、別人ならば、[[利用者:Shiohata]]のみ無期限ブロックお願いします。しかし、個人的に2chでの陰口が酷いため、別人だとしてもどちらも同時にしてもらいたいと希望しています。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 15:53 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:最近、文字が縮小されてるのは何故ですか？バージョンアップしたからですか？--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月8日 (金) 06:52 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:文字サイズを通常に戻せないでしょうか？小さくて見づらいのですが。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月9日 (土) 14:53 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::バージョンアップしたせいで、字が小さくなったようです。字の大きさを設定している場所を調べたら、元に戻そうと思います。あと、一般的な要望については、[[Yourpedia:運営上の課題]]でご報告ください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月9日 (土) 20:41 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::文字サイズの件、お願いします。あと、[[利用者:Shiohata]]のCUの件はどうでしょうか？それと、上記の記事3つは今すぐにでも削除できないでしょうか？いろいろ押し付けて申し訳ないです。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 14:17 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::[[利用者:Shiohata]]氏に関しては、sysop名で警告しております。今後、説明無しに編集を行うようでしたら、編集ブロックを実施します。また、記事については具体的な権利侵害があるわけではないので、削除する必要は無いかと思います。必要でしたら、[[Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン]]、[[Yourpedia:プライバシー・ポリシー]]をご覧の上、ツールボックスの「この利用者にメールを送信」でメールを送ってください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 16:36 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::::3つの記事は私がこれからここで作成しようとしていたものでもあり、重複もしています。削除は早急にしてもらいたいと思います。勝手ですが、画像の時のように削除してくれないでしょうか。無理でしょうか。お願いします。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 17:12 (JST)&lt;br /&gt;
::::::普通に編集して、大幅に書き換えれば良いのでは無いでしょうか？--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 17:17 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::そう思われるとは感じていました。他人を装って悪質ないたずらをしたユーザーの履歴が残るのも不快なんです。新しく作成したいんですが、無理でしょうか？駄目でしょうか。勝手なのは分かっていますが。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 17:28 (JST)&lt;br /&gt;
::::::::不快なのは分かりますが、この程度のことで「削除→新規作成」を行っていてはきりがありません。Yourpediaにおいて削除は、客観的な理由による具体的な権利侵害が行われた場合に限っております。主義主張も異なる複数の人が参加すれば、ある程度は不快な編集が行われるのは仕方が無いことだと思います。「なりすまし」についても、ネットの特性であって同様です。それを一切許容できないということであれば、Yourpediaへの適正や参加資格が疑われるところです。今回の場合は、記事の内容自体に問題が無い以上、「履歴が不快だから」といった理由での削除は行えません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 18:10 (JST)&lt;br /&gt;
:履歴が不快だけではないんですが、3つの記事は私に対してのいたずらと嫌がらせ目的で作成された記事ですよ？この3つの記事に関しては、[[利用者:Shiohata]]によって'''いたずら・嫌がらせ'''目的で作成されたものでもあるため、削除するべきではないですか。嫌がらせでも何でもない記事だったら、履歴が不快だから削除してくださいとは私も言いません。[[利用者:Shiohata]]の編集・新規作成したものは削除すべきです。しつこいようで申し訳ないです。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 18:33 (JST)&lt;br /&gt;
::既に「なりすまり」問題が解決しているのですから、先編集主義に基づく嫌がらせの目的は達することは出来ないのでは？現時点において削除するかどうかは、内容のみで判断すべき事柄です。投稿そのものが嫌がらせと判断するのは不可能です。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 19:37 (JST)&lt;br /&gt;
:::管理者さんが断じて拒否されるなら敵いませんが、削除を希望してるのに削除することはできないのでしょうか？そちらから見れば、3つの記事にはなんら問題が無いように見えて削除する必要は全くないと思うと思いますが、外見だけで見られてしまうとどうしようもありませんね。嫌がらせと分かってるのは自分自身だけですからね。どうしても削除してほしいものです…。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 20:40 (JST)&lt;br /&gt;
::::返事くださいな。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 22:23 (JST)&lt;br /&gt;
::::どう嫌がらせになるのか、全く分かりません。客観的に分かるように説明してください。どちらにしろ、削除要請は[[Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン]]、[[Yourpedia:プライバシー・ポリシー]]をご覧の上、メールで送ってください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月14日 (木) 09:23 (JST)&lt;br /&gt;
:::::これ以上どう説明すれば良いのか分かりません。説明は一応上記に書いたつもりです。[[Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン]]、[[Yourpedia:プライバシー・ポリシー]]を読んでみましたが、メールというのはどこから送って誰へ送るんですか？管理者へとは書いてありますが。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 09:54 (JST)&lt;br /&gt;
::::::メールは、私に送ってください。このページの左側にある「ツールボックス」から、「この利用者にメールを送信」をクリックすると私にメールが送信できます。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月14日 (木) 09:58 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::分かりました。削除要請をメールで提出すれば削除されるということですか？朝っぱらから何度も申し訳ないです。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 10:01 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::「送信先のアドレスがありません。」と表示されて出せないんですが、これはなんですか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 10:08 (JST)&lt;br /&gt;
::::::::右上のメニューにある「オプション」で、メールアドレスは登録してありますか？--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月14日 (木) 10:28 (JST)&lt;br /&gt;
::::::::登録してないです。実際にPCで使ってるメールアドレスを登録するようですか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 10:32 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::::PCで使っているメールアドレスを登録してください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月15日 (金) 22:27 (JST)&lt;br /&gt;
:個人情報漏れなどの問題はないですか？メールアドレスを登録するということは他人にも知られてしまいますか？一応聞いておきます。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月17日 (日) 16:29 (JST)&lt;br /&gt;
::メールアドレスを登録しても、システム上、メールを送らない限りアドレスが知られることは無いはずです。ただし、セキュリティーホールなどが無いとは言えませんので、自己責任でご利用ください。MediaWikiのソースは公開されております。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月18日 (月) 00:57 (JST)&lt;br /&gt;
:::分かりました。今すぐには無理なんですが、メール設定をしてあなたへメールでご相談などを近々したいと思います。ちょっと待っていてください、すみません。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月20日 (水) 19:27 (JST)&lt;br /&gt;
:（報告）メールをあなたへ送信しました、確認してみてください。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月23日 (土) 15:46 (JST)&lt;br /&gt;
&amp;gt;&amp;gt;Beyondさん&lt;br /&gt;
*先編集主義は、編集の方針であって、削除の方針ではないはずです。この場で適用させるのは、不適当です。&lt;br /&gt;
*その3つの記事は、GNUFに基づく履歴を継承を行われていません。（ノートにでも記載すれば良いでしょうけど。）&lt;br /&gt;
*[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia‐ノート:削除要請への対応ガイドライン&amp;amp;oldid=7277 削除要請への対応ガイドライン]&lt;br /&gt;
*メールでやりとりする、と言う事は、jawpと同様、削除の議論を非公開にする、おつもりですか？[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月15日 (金) 06:49 (JST)&lt;br /&gt;
:削除要請をメールで送ることと、議論をメールでやることは別問題です。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月15日 (金) 22:27 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;&amp;gt;Coさん&lt;br /&gt;
*不快感や嫌悪感といった感情は、運営にどこまで考慮されると、お考えでしょうか？&lt;br /&gt;
*jawpの様に事実を指摘しただけでも『暴言』となり、その『暴言』を理由に投稿ブロックをかけるのは、流石に行き過ぎだと思いますが。。。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月15日 (金) 06:49 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:どうして[[利用者:Shiohata]]の肩を持つのですか？投稿ブロックされると自分にとって不利になることでもあるんですか？それとも、いたずらをしたのはやはりあなたですか。別人であるなら[[利用者:Shiohata]]をめぐる問題に必死に口出しをする必要はないはずです。どうしてもあなたが[[利用者:Shiohata]]に見えてしまいます。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月15日 (金) 11:12 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質問に質問で返すのは、あまりよい傾向ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「肩を持つ」の意味が不明です。質問しただけで肩を持つことにはならない。&lt;br /&gt;
*「投稿ブロック」←今回の話題と無関係。分別をした議論をお願いします。&lt;br /&gt;
*「問題に口出しする必要（略）」ないはずがありません。削除やブロックは、普遍的な問題なのですから、口出しする資格はあると考えます。&lt;br /&gt;
*『[[利用者:Shiohata|Shiohata]]』のアカウントについては、[[利用者:Co|Co]]さんに譲るのが良いと考えてます。他人の署名を許可なく使うのはダメです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あと、人を疑ったのですから、相応の覚悟はあるのですか？　人を疑うのはリスクを負って然るべきです。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月17日 (日) 11:31 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:そもそも、アカウントを譲ることなど出来るんですか？とりあえずWikipediaで使用していたユーザー名など要りません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:*不快感や嫌悪感といった感情は、運営にどこまで考慮されると、お考えでしょうか？&lt;br /&gt;
:他人を装うのは非常に悪質で卑怯な嫌がらせです。これは考慮されると考えています。&lt;br /&gt;
:*jawpの様に事実を指摘しただけでも『暴言』となり、その『暴言』を理由に投稿ブロックをかけるのは、流石に行き過ぎだと思いますが。。。&lt;br /&gt;
:『暴言』が理由ではありません。私に対して'''嫌がらせ・迷惑行為'''するためにアカウントを取得したためです。これは珍しい荒らし行為ですな。記事をめぐる荒らしなどはありますが、こういう荒らしは珍しいし、おかしくて失笑してしまいます。[[利用者:Shiohata|Shiohata]]の正体は分かりませんが、この人は頭がおかしいと思えるくらいであります。出来れば今すぐにでも無期限ブロックしてもらいたくて仕方がありません。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月17日 (日) 16:52 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　すみません。議論が混ざってる気がします。記事の処置と、アカウントの対処は分けて考えるべきでしょう。常識的にも『[[利用者:Shiohata|Shiohata]]』については、名前が混ざると混乱を招きますから、投稿ブロック以上の対処は必要です。議論の結論は同じだと思います。&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　今回、私が言及してるのは、記事の削除についてです。その3つの記事の削除要請の理由を『嫌がらせ』として通すのは、無理強いになると思うのです。&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　『アカウントが非常識だから、記事までも非常識』を押し通すのは、引っかかります。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月19日 (火) 04:33 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==投稿ブロックの件==&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　質問です。ypの投稿ブロックは、2chみたいに原則行わないつもりですか？　それともjawpみたいに頻繁にするつもりですか？　そこの所を初期の段階で、明確にして頂きたいのです。&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　これは私の経験なのですが、日本のWiki界では、安易な投稿ブロックにより、執筆途中で記事が止まってしまいます。これが非常に迷惑！！　アンサイクロペディアでも、jawpでも、執筆途中なので困ってます。それどころか、jawpの利用者は私の書き込みを、勝手に改竄してます。他にも、山ほど聞きたい事があるのですが、まずは、最後まで執筆できるか否かを明確にして頂きたいのです。でなければ、辞めます。（ブログに移る）&lt;br /&gt;
*過度な、利用者からの投稿ブロック要求は、突っぱねますか？　Yes or Noでお答えを頂きたいです。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月19日 (火) 04:33 (JST)&lt;br /&gt;
:現在のところ、「利用者による投稿ブロック要求」といった手続きはありません。そういう意味では、Yesです。全てのブロック依頼は、「ご意見」として処理されます。ご意見が多ければ、新たな方針などが作られる可能性がありますが、現在のところ手続き的なものではありません。ただし、[[Yourpedia:編集についての方針|先編集主義]]違反に対しては、見つけ次第ブロックします。気づかない場合もあるので、「ブロック要求」後にブロックが行われるときもあります。その場合、「要求」ではなく「違反の報告」が正しい言い方ですが、言い方は問題ではありませんので、「要求」によって見つけたということでブロックを行います。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月19日 (火) 04:59 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少し、議論の整理を・・・。私が質問したのは「ブロックの手続き」ではなく「ブロックの方針の策定」についてでした。つまり&lt;br /&gt;
**利用者からブロック要求があった場合、要求に基づき新しく方針を策定して、方針に従わせるのか？&lt;br /&gt;
**あるいは要求に基づき、管理者の裁量で個別にブロックをかけるのか？　という事です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*確認のために伺いますが、その先編集主義違反によるブロックは、Beyondさんの判断ですよね？　先編集主義の方針には投稿ブロックの規定は入っていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*あと、利用者をブロックした後は、どうするおつもりでしょう？　放置ですか？　ブロック解除の手続きを作るのですか？&lt;br /&gt;
[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月20日 (水) 01:00 (JST)&lt;br /&gt;
: どんな方針を決めたとしても、結局は管理者の裁量なのですから、ブロックの様なレアケースについての規則を定める必要は無いと思います。だから、裁量といえば裁量です。また、期間については、Wikipediaのような懲罰的なブロックを実施するつもりは無いので、基本的には、無期限というか永久ブロックのみということになります。それゆえ、逆にブロックについての判断は慎重に行うべきであり、機械的に判断可能な場合のみに限られるかと思います（SPAM投稿や、騙り行為、先編集主義違反など）。だから、要求によってブロックということはありえず、「報告」によるブロックと言うことになります。あと、先編集主義の方針には投稿ブロックの規定が入っていませんでしたので、追加しました。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月20日 (水) 14:01 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教えてください。 ==&lt;br /&gt;
この[http://ja.yourpedia.org/wiki/Yourpedia:%E5%AD%A3%E7%AF%80%E3%81%AE%E7%94%BB%E5%83%8F]を編集したんですが、2つの画像を囲んでる枠が、上下にページの画面を動かすと消えてしまうんですが、これは何ででしょうか？ご存知ならアドバイス下さい、よろしくお願いします。--[[利用者:がんばる|がんばる]] 2007年6月21日 (木) 00:04 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ずっと返事を待ってるんですが、無視をしないようお願いします。教えてください。--[[利用者:がんばる|がんばる]] 2007年6月22日 (金) 22:39 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんで[[メインページ（1）]]だけ字が小さくなってるんですか？--[[利用者:がんばる|がんばる]] 2007年6月23日 (土) 13:09 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==質問==&lt;br /&gt;
:[[ノート:マスメディア]]にも書いた事なのですが現在[[マスメディア]]に書かれている内容は私が『メ』と『ベ』を間違えて書いた[[マスベディア]]からの転載です。しかもマスベティアの方は同時刻に白紙化されるといった手の込みようです。『移動』という手があった事から悪意に解釈し、パクられたと考えております。こういう場合は私の泣き寝入りになるのですか？&lt;br /&gt;
:これからもマスメディアについて出典を付けつつ発展させていきたいと思っていたので、マスメディアの先編集権を取り戻したいと考えておりますし、似たような事はこれからも行われる可能性があるのでご検討の程よろしくお願いします。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月21日 (木) 04:52 (JST)&lt;br /&gt;
::先編集権は、形式ではなく実態で判断します。元々、マスベディアから転載したことが明らかですから、マスメディアの先編集権は現在でもGungunさんにあると判断します。よろしければ、経緯をマスメディアのノートに書いて置いてください。まあ、非ログインユーザー（IPアドレスの人）は、移動という手段が使えませんから、善意で転載したのだと思います。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月21日 (木) 06:30 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::なるほどそういう事でしたか。了解いたしました。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月22日 (金) 05:40 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==画像の引用==&lt;br /&gt;
:文字だけでは伝えにくい情報を分かりやすくするため、英語のウィキペディアみたいに見栄えをよくし日本のウィキペディアに差をつけるため、著作権のある画像の引用をしたいと考えています。ユアペディアでは引用可能にする予定はありませんか？&lt;br /&gt;
:もし問題のある掲載の仕方があった場合画像のみ削除すればいいはずなのに、日本のウィキだと法律に臆病な方が多くできません。しかし、ここならガイドラインを作り、やれると思うのです。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月21日 (木) 04:52 (JST)&lt;br /&gt;
::わざわざガイドラインを作らなくても、引用すれば良いと思います。引用の場合は、出典を忘れないでください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月21日 (木) 06:30 (JST)&lt;br /&gt;
:::ありがとうございます。引用には最善の注意を払いながらやらせてもらいます。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月22日 (金) 05:42 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文字==&lt;br /&gt;
以前にも話しましたが、文字が縮小してしまったの件はどうでしょうか？あまりにも小さくなっているので、編集などをしている利用者の目にも影響が出るかと思います。出来れば早めに解決できたらなと思います。どこに文字を設定する場所があるのでしょうか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月21日 (木) 12:07 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者になる方法 ==&lt;br /&gt;
是非どうやったら管理者になれるのか教えてください。--[[利用者:ヨエ|ヨエ]] 2007年6月24日 (日) 10:55 (JST)&lt;br /&gt;
:なる方法は、ありません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月24日 (日) 22:51 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文字の設定は完了ですか？ ==&lt;br /&gt;
文字が大きくなったんですね、少しウィキペディアと字形が違う気もしますが…。これで大丈夫なんですか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月27日 (水) 17:11 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アップロードについて == &lt;br /&gt;
管理人様、始めまして。画像劣化の少ない'''png'''形式でファイルをアップロードしたときに「指定したファイルは壊れているか拡張子が正しくありません。ファイルを確認の上再度アップロードをしてください」と表示されpng形式でアップロードできません。なぜでしょうか??--[[利用者:腹立つ|腹立つ]] 2007年6月27日 (水) 21:59 (JST)&lt;br /&gt;
:良く分かりませんが、調査します。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月30日 (土) 01:21 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あの･･･ ==&lt;br /&gt;
2度も無期限ブロックするとはどういう事ですか？これじゃwikipediaと同じじゃないですか？同一記事の大量投稿が理由で無期限ブロックを強行するはどうかと思います。同一記事を何度も編集するのはいけない事なんですかねえ･･･。対話拒否もやめてください、ゆあぺでぃあの管理者は'''あなた'''だけなんですよ？私らが頼りに出来るのも'''あなた'''だけなんですよ？ｗ--[[利用者:頑張る|頑張る]] 2007年6月29日 (金) 23:38 (JST)&lt;br /&gt;
:いちいち同一人物かどうかチェックしてませんので、2度かどうか知りません。ブロックは、同一'''内容'''の記事を多数投稿したことによるものです。同一記事を編集したことによるブロックではありません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月30日 (土) 01:19 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==謝罪==&lt;br /&gt;
spamをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。今後は気をつけて編集をしたいと思います。--[[利用者:Co|Co]] 2007年7月1日 (日) 21:02 (JST)&lt;br /&gt;
;提案の件&lt;br /&gt;
もう一つ先ほど送った「提案」についても私のメールへお返事下さい。よろしくお願いします。--[[利用者:Co|Co]] 2007年7月1日 (日) 21:02 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あらし修復 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あらしは修復しておきました。ご安心を。--[[利用者:SYSOP|SYSOP]] 2007年7月23日 (月) 21:14 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== このあらしは ==&lt;br /&gt;
ネット上で「ウィキメディア財団、著作権違法サイトを訴訟へ」というニュースの中にユアペディアがあり、それに反応したもののようです。ご注意を。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 予告 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近いうちにみんなでまた遊びに来るよ。よろしくね～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だからむりだって、無駄な抵抗はやめたほうがいいよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あらしみてました ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私、移動できない。残念ならない。あらしにくい。速く直して。よろしくおねがいする。--[[利用者:Lee Wein|Lee Wein]] 2007年7月24日 (火) 19:29 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Proxy Block Option ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
をONにされたようですが、あれには致命的なバグがあり、次のようなエラーがでます。&lt;br /&gt;
*正規のユーザをブロックしてしまう&lt;br /&gt;
*サーバの安定が悪くなる&lt;br /&gt;
それでもお使いなるというなら、無理に止めはしませんが･･･。もうちょっとMediaWikiを勉強されたほうが良いですよ。ちゃんと調べてから対処されても遅くはないと思います。所詮一般権限のあらしなど、いくらでも戻せるんですから。--[[利用者:85.214.91.152|85.214.91.152]] 2007年7月24日 (火) 20:04 (JST)&lt;br /&gt;
P.S.私は正規の登録ユーザですが、ログオンできなくなってしまったので場所を変えて書きました。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>85.214.91.152</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Beyond&amp;diff=10180</id>
		<title>利用者・トーク:Beyond</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Beyond&amp;diff=10180"/>
				<updated>2007-07-24T11:04:21Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: Proxy Block Option&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''提案・要望などは、[[Yourpedia:運営上の課題]]にて行ってください。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[/過去ログ2007年5月]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メインページについて ==&lt;br /&gt;
はじめまして。提案があります。メインページに簡易版ページとモバイル向けページの2つがありますが、簡易版ページ1つにしてはどうでしょうか？モバイル向けページよりも簡易版ページのほうが良いように思います。モバイル版を削除して、簡易版をメインにしたほうが良いと思い、管理者さんに相談させてもらいました。検討してみてください、お返事待っています。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月2日 (土) 01:34 (JST)&lt;br /&gt;
: 簡易版とかモバイル版とかは、単なる名前なので、具体的なものを見ないと判断できません。現時点のものを比較する限り、簡易版をメインにする理由は無いので（簡易版ページの方が情報が古いなど）、メインにする必要は無いと思います。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月2日 (土) 04:20 (JST)&lt;br /&gt;
::情報が古いとはどういう意味でしょうか？名前とかの問題ではないのですが、簡易ページをトップにした方が良いと思いました。簡易ページをメインにしてもメリットは特にありませんが、現在のトップページよりは雰囲気もよくありませんでしょうか。是非、お願いします。と--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月4日 (月) 16:26 (JST)&lt;br /&gt;
:::管理者さん、どこがおかしいですか？それなりに夕方から仕上げてみました。指摘をお願いします。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月15日 (金) 22:35 (JST)&lt;br /&gt;
::::よろしければ、これで保護していただけないでしょうか？よろしくお願いします。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月15日 (金) 22:46 (JST)&lt;br /&gt;
:::::とりあえず、古い情報にするのはやめてください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月15日 (金) 23:04 (JST)&lt;br /&gt;
:::::どこが古い情報になっていますか？そこを指摘してくだされば訂正します。お願いします。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月15日 (金) 23:07 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*Beyond氏へ提案。[[利用者:あ|あ]]氏はご自分のメインページ提案を強行掲載されているようなので、議論で合意事項が決まるまでページの保護を提案します。メインページが何度もリバード・差し戻しの状態は芳しくない状況と考えます。--[[利用者:SANGARI|SANGARI]] 2007年6月15日 (金) 23:58 (JST)&lt;br /&gt;
:::::とりあえず、私が夕方から編集したこの記事のどこに問題があるか、そこを教えてください。一方的に差し戻しされては困ります。--[[利用者:あ|あ]] 2007年6月16日 (土) 00:06 (JST)&lt;br /&gt;
:*この議論に貴方が夕方から編集したことは一切関係ありません。あなたの主観でメインページをシンプルにすることには反対します。--[[利用者:SANGARI|SANGARI]] 2007年6月16日 (土) 00:12 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お願い ==&lt;br /&gt;
アップロードした画像が重複してしまったので、'''↓'''この画像を削除してください。よろしくお願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月2日 (土) 20:49 (JST)&lt;br /&gt;
* http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Saddam_Hussein_Execution.jpg&lt;br /&gt;
: 削除しました。本人確認が必要なので、今度からは署名をお願いします。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月2日 (土) 20:39 (JST)&lt;br /&gt;
::どうも。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月2日 (土) 20:49 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質問があります。この画像をアップロードすることは可能ですか？--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 13:59 (JST)&lt;br /&gt;
*http://en.wikipedia.org/wiki/Image:NORTHKOREANNN.jpg&lt;br /&gt;
: 技術的には可能だと思いますが、何かエラーが出るのでしょうか？--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月3日 (日) 14:24 (JST)&lt;br /&gt;
::いや、エラーが出るわけではないです。信頼できる管理者に了承をいただいてからアップロードしたいと思いました。英語版ウィキペディアのものですが、ユアペディアでは問題ないですか？--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 14:31 (JST)&lt;br /&gt;
::: 個別のことに一々答えていてはきりが無いので、自己責任でご利用ください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月3日 (日) 20:56 (JST)&lt;br /&gt;
::::はい。どうも。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 21:07 (JST)&lt;br /&gt;
*http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:saddam_hussein_execution.jpg&lt;br /&gt;
*http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:North_Korea_nuclear_test.jpg&lt;br /&gt;
*（追加）http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:October_14._2006.jpg&lt;br /&gt;
この画像も削除してください。アップロードする画像とファイル名を間違えてしまったので。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 18:45 (JST)&lt;br /&gt;
:削除どうも。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月3日 (日) 21:07 (JST)&lt;br /&gt;
::（追加）アップロードのミスです。手が空いている時にでも削除お願いします、いつでも構わないので。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月5日 (火) 17:15 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*追加:http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:North_korea_nuclear_test.jpg&lt;br /&gt;
*追加:http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Korean_Central_News_Agency.jpg&lt;br /&gt;
*追加http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE_%E6%A0%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C.jpg&lt;br /&gt;
*追加:http://ja.yourpedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93&lt;br /&gt;
重複しています、この画像と記事は削除してください。申し訳ありません。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月23日 (土) 17:11 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==お願い==&lt;br /&gt;
私に対して、嫌がらせをしてる人がいます。恐らく[[利用者:キリカ]]だと思いますが、[[利用者:Shiohata]]と装って、勝手に記事を作っています。[[利用者:Shiohata]]のIPを特定次第、即時IPの開示、無期限ブロックをお願いします。とりあえず[[利用者:キリカ]]は、[http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/hobby/1178996032/301-40|2ch]で私の陰口、馬鹿呼ばわりするなど、悪質な行為を繰り返しておりますので、[[利用者:Shiohata]]と別人でも同時に無期限ブロックお願いします。コテは「 ◆9G12fmecqU 」だと思います。昨日はコテを隠していました。早急に対処してください、よろしくお願いします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[2006年ニューヨーク小型機衝突事故]]&lt;br /&gt;
*[[朝鮮民主主義人民共和国の核実験 (2006年)]]&lt;br /&gt;
*[[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2006年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この3つの記事は[[利用者:Shiohata]]が嫌がらせ目的で作成したものなので、すぐ削除お願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 12:07 (JST)&lt;br /&gt;
: ２ちゃんねるなどの陰口については良く分からないため、また後で読んでみます。それで、３つの記事が、どういう理由で「嫌がらせ」となるのか全く分かりません。個人に対する記述は無いようですし、普通の記事のように見えます。ご説明ください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月6日 (水) 12:13 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その3つの記事は、wikipediaのものであり、固執して私が編集したものです。[[利用者:Shiohata]]は、私に装って嫌がらせで同じものを引っ張り出してきたのでしょう。荒らしは間違いないです。削除をどうかお願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 12:21 (JST)&lt;br /&gt;
:すいませんが、意味が全く分かりません。何に「固執」しているのですか？Wikipediaの履歴には、複数人が関わっているようですが、どれが「ん」さんですか？どういう理由での削除か、分かりません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月6日 (水) 12:44 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::こちらで真面目に編集させてもらおうと思っていた為、wikipediaの話はあまりこちらには持ってきたくありませんが、私は、wikipediaで他ユーザーと何やらでトラブルが起きて無期限ブロックされました。そういうこともあって、目を付けられているわけです。ユアペディアでも、編集するたびにいちいち文句や陰口を2chで言われています。その3つの記事に特にこだわりがあって、wikipediaで自己流に編集していたのですが、他ユーザーには全く理解してもらえず、何度も差し戻されてしまっていました。編集合戦も何度もやり、投稿ブロックも何度もされました。そして最期には無期限となったわけです。そのため、ここに来たわけです。簡単に言うと、[[利用者:Shiohata]]は私のwikipediaでのユーザー名です。誰かが、私を装って嫌がらせをしているのです。ユアペディアの[[利用者:Shiohata]]は私ではありません。なので上記に記したことを早急に対処していただきたい。こちらでは、これ以上事を荒立たせたくありません。お願いします。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 13:08 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::私目が勝手に荒らしとされているようですね。ユーザー名がWikipedia上の人物と同様なのは確かですが、同名の無関係な人物です。もちろん、[[利用者:キリカ]]なぞでもありませんが。一応、誤解を招くようなので利用者ページにその旨を記述しておきました。それより、'''勝手に人を荒らしと決めつけ、キリカ氏のノートページでの発言を勝手に除去する[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%AB&amp;amp;curid=3036&amp;amp;diff=6362&amp;amp;oldid=6350][[利用者:ん]]氏'''のほうがよほど、害悪だと思いますがね。上記の3項目についてもWikipediaのコピペであり、あなたに関する記述は一切しておりませんが、何か。--[[利用者:Shiohata|Shiohata]] 2007年6月6日 (水) 14:43 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::[[利用者:Shiohata]]、いい加減にして下さいよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::＞'''茨城県在住の大学生なのだ。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::＞'''数検 1級です、英検 1級でつ、漢検 4級でちゅ。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::＞'''僕はウィキペヂアで無期限です。[http://ja.wikipedia.org/wiki/WP:SHIO Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Shiohata]'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::'''これは何ですか？'''明らかにおかしいでしょう。今更ページの内容を変えても、分かっていますよ。2chでも陰口を言っているのは判明しています。こういう非常に悪質な行為は許せません。他人に装うのは卑怯ですね、[[利用者:キリカ]]さん。それと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::*'''上記の3項目についてもWikipediaのコピペであり、あなたに関する記述は一切しておりませんが、何か。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::私に関する記述が書いてあるとか、そういう事じゃないんですよね…。私を装って、私が編集していたwikipediaの記事をわざと持ってくることを言っているんですよ。その記事はユアペディアでは要りません。わざとやる必要はないでしょう。上記の3つの記事は不必要なので、削除するべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::[[利用者:Beyond|Beyond]]さん、これで分かりましたよね。即時に無期限ブロックが必要だと思います。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 15:06 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:とりあえず、裁定はCheckUserを行ってから考えたいと思います。現在のバージョンには、CheckUserを入れられないようなので、今日明日中に1.10にバージョンアップします。少々、お待ちください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月6日 (水) 15:46 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::ありがとうございます。とても感謝してます。もしCUで[[利用者:Shiohata]]と[[利用者:キリカ]]が同一人物なら同時に無期限ブロック、別人ならば、[[利用者:Shiohata]]のみ無期限ブロックお願いします。しかし、個人的に2chでの陰口が酷いため、別人だとしてもどちらも同時にしてもらいたいと希望しています。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月6日 (水) 15:53 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:最近、文字が縮小されてるのは何故ですか？バージョンアップしたからですか？--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月8日 (金) 06:52 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:文字サイズを通常に戻せないでしょうか？小さくて見づらいのですが。--[[利用者:ん|ん]] 2007年6月9日 (土) 14:53 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::バージョンアップしたせいで、字が小さくなったようです。字の大きさを設定している場所を調べたら、元に戻そうと思います。あと、一般的な要望については、[[Yourpedia:運営上の課題]]でご報告ください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月9日 (土) 20:41 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::文字サイズの件、お願いします。あと、[[利用者:Shiohata]]のCUの件はどうでしょうか？それと、上記の記事3つは今すぐにでも削除できないでしょうか？いろいろ押し付けて申し訳ないです。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 14:17 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::[[利用者:Shiohata]]氏に関しては、sysop名で警告しております。今後、説明無しに編集を行うようでしたら、編集ブロックを実施します。また、記事については具体的な権利侵害があるわけではないので、削除する必要は無いかと思います。必要でしたら、[[Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン]]、[[Yourpedia:プライバシー・ポリシー]]をご覧の上、ツールボックスの「この利用者にメールを送信」でメールを送ってください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 16:36 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::::3つの記事は私がこれからここで作成しようとしていたものでもあり、重複もしています。削除は早急にしてもらいたいと思います。勝手ですが、画像の時のように削除してくれないでしょうか。無理でしょうか。お願いします。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 17:12 (JST)&lt;br /&gt;
::::::普通に編集して、大幅に書き換えれば良いのでは無いでしょうか？--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 17:17 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::そう思われるとは感じていました。他人を装って悪質ないたずらをしたユーザーの履歴が残るのも不快なんです。新しく作成したいんですが、無理でしょうか？駄目でしょうか。勝手なのは分かっていますが。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 17:28 (JST)&lt;br /&gt;
::::::::不快なのは分かりますが、この程度のことで「削除→新規作成」を行っていてはきりがありません。Yourpediaにおいて削除は、客観的な理由による具体的な権利侵害が行われた場合に限っております。主義主張も異なる複数の人が参加すれば、ある程度は不快な編集が行われるのは仕方が無いことだと思います。「なりすまし」についても、ネットの特性であって同様です。それを一切許容できないということであれば、Yourpediaへの適正や参加資格が疑われるところです。今回の場合は、記事の内容自体に問題が無い以上、「履歴が不快だから」といった理由での削除は行えません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 18:10 (JST)&lt;br /&gt;
:履歴が不快だけではないんですが、3つの記事は私に対してのいたずらと嫌がらせ目的で作成された記事ですよ？この3つの記事に関しては、[[利用者:Shiohata]]によって'''いたずら・嫌がらせ'''目的で作成されたものでもあるため、削除するべきではないですか。嫌がらせでも何でもない記事だったら、履歴が不快だから削除してくださいとは私も言いません。[[利用者:Shiohata]]の編集・新規作成したものは削除すべきです。しつこいようで申し訳ないです。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 18:33 (JST)&lt;br /&gt;
::既に「なりすまり」問題が解決しているのですから、先編集主義に基づく嫌がらせの目的は達することは出来ないのでは？現時点において削除するかどうかは、内容のみで判断すべき事柄です。投稿そのものが嫌がらせと判断するのは不可能です。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月13日 (水) 19:37 (JST)&lt;br /&gt;
:::管理者さんが断じて拒否されるなら敵いませんが、削除を希望してるのに削除することはできないのでしょうか？そちらから見れば、3つの記事にはなんら問題が無いように見えて削除する必要は全くないと思うと思いますが、外見だけで見られてしまうとどうしようもありませんね。嫌がらせと分かってるのは自分自身だけですからね。どうしても削除してほしいものです…。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 20:40 (JST)&lt;br /&gt;
::::返事くださいな。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月13日 (水) 22:23 (JST)&lt;br /&gt;
::::どう嫌がらせになるのか、全く分かりません。客観的に分かるように説明してください。どちらにしろ、削除要請は[[Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン]]、[[Yourpedia:プライバシー・ポリシー]]をご覧の上、メールで送ってください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月14日 (木) 09:23 (JST)&lt;br /&gt;
:::::これ以上どう説明すれば良いのか分かりません。説明は一応上記に書いたつもりです。[[Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン]]、[[Yourpedia:プライバシー・ポリシー]]を読んでみましたが、メールというのはどこから送って誰へ送るんですか？管理者へとは書いてありますが。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 09:54 (JST)&lt;br /&gt;
::::::メールは、私に送ってください。このページの左側にある「ツールボックス」から、「この利用者にメールを送信」をクリックすると私にメールが送信できます。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月14日 (木) 09:58 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::分かりました。削除要請をメールで提出すれば削除されるということですか？朝っぱらから何度も申し訳ないです。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 10:01 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::「送信先のアドレスがありません。」と表示されて出せないんですが、これはなんですか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 10:08 (JST)&lt;br /&gt;
::::::::右上のメニューにある「オプション」で、メールアドレスは登録してありますか？--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月14日 (木) 10:28 (JST)&lt;br /&gt;
::::::::登録してないです。実際にPCで使ってるメールアドレスを登録するようですか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月14日 (木) 10:32 (JST)&lt;br /&gt;
:::::::::PCで使っているメールアドレスを登録してください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月15日 (金) 22:27 (JST)&lt;br /&gt;
:個人情報漏れなどの問題はないですか？メールアドレスを登録するということは他人にも知られてしまいますか？一応聞いておきます。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月17日 (日) 16:29 (JST)&lt;br /&gt;
::メールアドレスを登録しても、システム上、メールを送らない限りアドレスが知られることは無いはずです。ただし、セキュリティーホールなどが無いとは言えませんので、自己責任でご利用ください。MediaWikiのソースは公開されております。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月18日 (月) 00:57 (JST)&lt;br /&gt;
:::分かりました。今すぐには無理なんですが、メール設定をしてあなたへメールでご相談などを近々したいと思います。ちょっと待っていてください、すみません。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月20日 (水) 19:27 (JST)&lt;br /&gt;
:（報告）メールをあなたへ送信しました、確認してみてください。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月23日 (土) 15:46 (JST)&lt;br /&gt;
&amp;gt;&amp;gt;Beyondさん&lt;br /&gt;
*先編集主義は、編集の方針であって、削除の方針ではないはずです。この場で適用させるのは、不適当です。&lt;br /&gt;
*その3つの記事は、GNUFに基づく履歴を継承を行われていません。（ノートにでも記載すれば良いでしょうけど。）&lt;br /&gt;
*[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia‐ノート:削除要請への対応ガイドライン&amp;amp;oldid=7277 削除要請への対応ガイドライン]&lt;br /&gt;
*メールでやりとりする、と言う事は、jawpと同様、削除の議論を非公開にする、おつもりですか？[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月15日 (金) 06:49 (JST)&lt;br /&gt;
:削除要請をメールで送ることと、議論をメールでやることは別問題です。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月15日 (金) 22:27 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;&amp;gt;Coさん&lt;br /&gt;
*不快感や嫌悪感といった感情は、運営にどこまで考慮されると、お考えでしょうか？&lt;br /&gt;
*jawpの様に事実を指摘しただけでも『暴言』となり、その『暴言』を理由に投稿ブロックをかけるのは、流石に行き過ぎだと思いますが。。。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月15日 (金) 06:49 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:どうして[[利用者:Shiohata]]の肩を持つのですか？投稿ブロックされると自分にとって不利になることでもあるんですか？それとも、いたずらをしたのはやはりあなたですか。別人であるなら[[利用者:Shiohata]]をめぐる問題に必死に口出しをする必要はないはずです。どうしてもあなたが[[利用者:Shiohata]]に見えてしまいます。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月15日 (金) 11:12 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質問に質問で返すのは、あまりよい傾向ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「肩を持つ」の意味が不明です。質問しただけで肩を持つことにはならない。&lt;br /&gt;
*「投稿ブロック」←今回の話題と無関係。分別をした議論をお願いします。&lt;br /&gt;
*「問題に口出しする必要（略）」ないはずがありません。削除やブロックは、普遍的な問題なのですから、口出しする資格はあると考えます。&lt;br /&gt;
*『[[利用者:Shiohata|Shiohata]]』のアカウントについては、[[利用者:Co|Co]]さんに譲るのが良いと考えてます。他人の署名を許可なく使うのはダメです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あと、人を疑ったのですから、相応の覚悟はあるのですか？　人を疑うのはリスクを負って然るべきです。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月17日 (日) 11:31 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:そもそも、アカウントを譲ることなど出来るんですか？とりあえずWikipediaで使用していたユーザー名など要りません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:*不快感や嫌悪感といった感情は、運営にどこまで考慮されると、お考えでしょうか？&lt;br /&gt;
:他人を装うのは非常に悪質で卑怯な嫌がらせです。これは考慮されると考えています。&lt;br /&gt;
:*jawpの様に事実を指摘しただけでも『暴言』となり、その『暴言』を理由に投稿ブロックをかけるのは、流石に行き過ぎだと思いますが。。。&lt;br /&gt;
:『暴言』が理由ではありません。私に対して'''嫌がらせ・迷惑行為'''するためにアカウントを取得したためです。これは珍しい荒らし行為ですな。記事をめぐる荒らしなどはありますが、こういう荒らしは珍しいし、おかしくて失笑してしまいます。[[利用者:Shiohata|Shiohata]]の正体は分かりませんが、この人は頭がおかしいと思えるくらいであります。出来れば今すぐにでも無期限ブロックしてもらいたくて仕方がありません。--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月17日 (日) 16:52 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　すみません。議論が混ざってる気がします。記事の処置と、アカウントの対処は分けて考えるべきでしょう。常識的にも『[[利用者:Shiohata|Shiohata]]』については、名前が混ざると混乱を招きますから、投稿ブロック以上の対処は必要です。議論の結論は同じだと思います。&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　今回、私が言及してるのは、記事の削除についてです。その3つの記事の削除要請の理由を『嫌がらせ』として通すのは、無理強いになると思うのです。&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　『アカウントが非常識だから、記事までも非常識』を押し通すのは、引っかかります。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月19日 (火) 04:33 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==投稿ブロックの件==&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　質問です。ypの投稿ブロックは、2chみたいに原則行わないつもりですか？　それともjawpみたいに頻繁にするつもりですか？　そこの所を初期の段階で、明確にして頂きたいのです。&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;　これは私の経験なのですが、日本のWiki界では、安易な投稿ブロックにより、執筆途中で記事が止まってしまいます。これが非常に迷惑！！　アンサイクロペディアでも、jawpでも、執筆途中なので困ってます。それどころか、jawpの利用者は私の書き込みを、勝手に改竄してます。他にも、山ほど聞きたい事があるのですが、まずは、最後まで執筆できるか否かを明確にして頂きたいのです。でなければ、辞めます。（ブログに移る）&lt;br /&gt;
*過度な、利用者からの投稿ブロック要求は、突っぱねますか？　Yes or Noでお答えを頂きたいです。[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月19日 (火) 04:33 (JST)&lt;br /&gt;
:現在のところ、「利用者による投稿ブロック要求」といった手続きはありません。そういう意味では、Yesです。全てのブロック依頼は、「ご意見」として処理されます。ご意見が多ければ、新たな方針などが作られる可能性がありますが、現在のところ手続き的なものではありません。ただし、[[Yourpedia:編集についての方針|先編集主義]]違反に対しては、見つけ次第ブロックします。気づかない場合もあるので、「ブロック要求」後にブロックが行われるときもあります。その場合、「要求」ではなく「違反の報告」が正しい言い方ですが、言い方は問題ではありませんので、「要求」によって見つけたということでブロックを行います。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月19日 (火) 04:59 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少し、議論の整理を・・・。私が質問したのは「ブロックの手続き」ではなく「ブロックの方針の策定」についてでした。つまり&lt;br /&gt;
**利用者からブロック要求があった場合、要求に基づき新しく方針を策定して、方針に従わせるのか？&lt;br /&gt;
**あるいは要求に基づき、管理者の裁量で個別にブロックをかけるのか？　という事です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*確認のために伺いますが、その先編集主義違反によるブロックは、Beyondさんの判断ですよね？　先編集主義の方針には投稿ブロックの規定は入っていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*あと、利用者をブロックした後は、どうするおつもりでしょう？　放置ですか？　ブロック解除の手続きを作るのですか？&lt;br /&gt;
[[利用者:キリカ|キリカ]] 2007年6月20日 (水) 01:00 (JST)&lt;br /&gt;
: どんな方針を決めたとしても、結局は管理者の裁量なのですから、ブロックの様なレアケースについての規則を定める必要は無いと思います。だから、裁量といえば裁量です。また、期間については、Wikipediaのような懲罰的なブロックを実施するつもりは無いので、基本的には、無期限というか永久ブロックのみということになります。それゆえ、逆にブロックについての判断は慎重に行うべきであり、機械的に判断可能な場合のみに限られるかと思います（SPAM投稿や、騙り行為、先編集主義違反など）。だから、要求によってブロックということはありえず、「報告」によるブロックと言うことになります。あと、先編集主義の方針には投稿ブロックの規定が入っていませんでしたので、追加しました。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月20日 (水) 14:01 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教えてください。 ==&lt;br /&gt;
この[http://ja.yourpedia.org/wiki/Yourpedia:%E5%AD%A3%E7%AF%80%E3%81%AE%E7%94%BB%E5%83%8F]を編集したんですが、2つの画像を囲んでる枠が、上下にページの画面を動かすと消えてしまうんですが、これは何ででしょうか？ご存知ならアドバイス下さい、よろしくお願いします。--[[利用者:がんばる|がんばる]] 2007年6月21日 (木) 00:04 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ずっと返事を待ってるんですが、無視をしないようお願いします。教えてください。--[[利用者:がんばる|がんばる]] 2007年6月22日 (金) 22:39 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんで[[メインページ（1）]]だけ字が小さくなってるんですか？--[[利用者:がんばる|がんばる]] 2007年6月23日 (土) 13:09 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==質問==&lt;br /&gt;
:[[ノート:マスメディア]]にも書いた事なのですが現在[[マスメディア]]に書かれている内容は私が『メ』と『ベ』を間違えて書いた[[マスベディア]]からの転載です。しかもマスベティアの方は同時刻に白紙化されるといった手の込みようです。『移動』という手があった事から悪意に解釈し、パクられたと考えております。こういう場合は私の泣き寝入りになるのですか？&lt;br /&gt;
:これからもマスメディアについて出典を付けつつ発展させていきたいと思っていたので、マスメディアの先編集権を取り戻したいと考えておりますし、似たような事はこれからも行われる可能性があるのでご検討の程よろしくお願いします。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月21日 (木) 04:52 (JST)&lt;br /&gt;
::先編集権は、形式ではなく実態で判断します。元々、マスベディアから転載したことが明らかですから、マスメディアの先編集権は現在でもGungunさんにあると判断します。よろしければ、経緯をマスメディアのノートに書いて置いてください。まあ、非ログインユーザー（IPアドレスの人）は、移動という手段が使えませんから、善意で転載したのだと思います。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月21日 (木) 06:30 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::なるほどそういう事でしたか。了解いたしました。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月22日 (金) 05:40 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==画像の引用==&lt;br /&gt;
:文字だけでは伝えにくい情報を分かりやすくするため、英語のウィキペディアみたいに見栄えをよくし日本のウィキペディアに差をつけるため、著作権のある画像の引用をしたいと考えています。ユアペディアでは引用可能にする予定はありませんか？&lt;br /&gt;
:もし問題のある掲載の仕方があった場合画像のみ削除すればいいはずなのに、日本のウィキだと法律に臆病な方が多くできません。しかし、ここならガイドラインを作り、やれると思うのです。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月21日 (木) 04:52 (JST)&lt;br /&gt;
::わざわざガイドラインを作らなくても、引用すれば良いと思います。引用の場合は、出典を忘れないでください。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月21日 (木) 06:30 (JST)&lt;br /&gt;
:::ありがとうございます。引用には最善の注意を払いながらやらせてもらいます。--[[利用者:Gungun|Gungun]] 2007年6月22日 (金) 05:42 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文字==&lt;br /&gt;
以前にも話しましたが、文字が縮小してしまったの件はどうでしょうか？あまりにも小さくなっているので、編集などをしている利用者の目にも影響が出るかと思います。出来れば早めに解決できたらなと思います。どこに文字を設定する場所があるのでしょうか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月21日 (木) 12:07 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者になる方法 ==&lt;br /&gt;
是非どうやったら管理者になれるのか教えてください。--[[利用者:ヨエ|ヨエ]] 2007年6月24日 (日) 10:55 (JST)&lt;br /&gt;
:なる方法は、ありません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月24日 (日) 22:51 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文字の設定は完了ですか？ ==&lt;br /&gt;
文字が大きくなったんですね、少しウィキペディアと字形が違う気もしますが…。これで大丈夫なんですか？--[[利用者:Co|Co]] 2007年6月27日 (水) 17:11 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アップロードについて == &lt;br /&gt;
管理人様、始めまして。画像劣化の少ない'''png'''形式でファイルをアップロードしたときに「指定したファイルは壊れているか拡張子が正しくありません。ファイルを確認の上再度アップロードをしてください」と表示されpng形式でアップロードできません。なぜでしょうか??--[[利用者:腹立つ|腹立つ]] 2007年6月27日 (水) 21:59 (JST)&lt;br /&gt;
:良く分かりませんが、調査します。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月30日 (土) 01:21 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あの･･･ ==&lt;br /&gt;
2度も無期限ブロックするとはどういう事ですか？これじゃwikipediaと同じじゃないですか？同一記事の大量投稿が理由で無期限ブロックを強行するはどうかと思います。同一記事を何度も編集するのはいけない事なんですかねえ･･･。対話拒否もやめてください、ゆあぺでぃあの管理者は'''あなた'''だけなんですよ？私らが頼りに出来るのも'''あなた'''だけなんですよ？ｗ--[[利用者:頑張る|頑張る]] 2007年6月29日 (金) 23:38 (JST)&lt;br /&gt;
:いちいち同一人物かどうかチェックしてませんので、2度かどうか知りません。ブロックは、同一'''内容'''の記事を多数投稿したことによるものです。同一記事を編集したことによるブロックではありません。--[[利用者:Beyond|Beyond]] 2007年6月30日 (土) 01:19 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==謝罪==&lt;br /&gt;
spamをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。今後は気をつけて編集をしたいと思います。--[[利用者:Co|Co]] 2007年7月1日 (日) 21:02 (JST)&lt;br /&gt;
;提案の件&lt;br /&gt;
もう一つ先ほど送った「提案」についても私のメールへお返事下さい。よろしくお願いします。--[[利用者:Co|Co]] 2007年7月1日 (日) 21:02 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あらし修復 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あらしは修復しておきました。ご安心を。--[[利用者:SYSOP|SYSOP]] 2007年7月23日 (月) 21:14 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== このあらしは ==&lt;br /&gt;
ネット上で「ウィキメディア財団、著作権違法サイトを訴訟へ」というニュースの中にユアペディアがあり、それに反応したもののようです。ご注意を。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 予告 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近いうちにみんなでまた遊びに来るよ。よろしくね～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だからむりだって、無駄な抵抗はやめたほうがいいよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あらしみてました ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私、移動できない。残念ならない。あらしにくい。速く直して。よろしくおねがいする。--[[利用者:Lee Wein|Lee Wein]] 2007年7月24日 (火) 19:29 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Proxy Block Option ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
をONにされたようですが、あれには致命的なバグがあり、次のようなエラーがでます。&lt;br /&gt;
*正規のユーザをブロックしてしまう&lt;br /&gt;
*サーバの安定が悪くなる&lt;br /&gt;
それでもお使いなるというなら、無理に止めはしませんが･･･。もうちょっとMediaWikiを勉強されたほうが良いですよ。ちゃんと調べてから対処されても遅くはないと思います。所詮一般権限のあらしなど、いくらでも戻せるんですから。--[[利用者:85.214.91.152|85.214.91.152]] 2007年7月24日 (火) 20:04 (JST)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>85.214.91.152</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)&amp;diff=5309</id>
		<title>元 (王朝)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)&amp;diff=5309"/>
				<updated>2007-05-28T08:38:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%83_%28%E7%8E%8B%E6%9C%9D%29&amp;amp;oldid=12270639&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{中国の歴史}}&lt;br /&gt;
'''元'''（げん）は、'''元朝'''（げんちょう）ともいい、[[1271年]]から[[1368年]]まで[[中国]]と[[モンゴル高原]]を中心とした領域を支配し、その後は北へ逃れ、遊牧政権としては最終的には[[1635年]]まで存続した[[モンゴル]]人[[王朝]]であり、[[モンゴル帝国]]の[[ハーン|大ハーン]]直轄世襲領である。正式の国号は'''大元'''（だいげん）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国王朝としての元は、[[北宋]]崩壊以来の中国統一政権であり、元の北走後は[[明]]が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、モンゴル帝国に受け継がれた[[遊牧国家]]特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指す[[ウルス]]という語を用いて特に'''大元ウルス'''と呼ぶべきであるとする意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元は、[[1260年]]、モンゴル帝国の第五代大ハーンに即位した[[チンギス・ハーン]]の孫[[クビライ]]（フビライ）が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、[[モンゴル語]]では'''ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス'''(Dai-&amp;amp;#246;n Yeke Mong&amp;amp;#947;ol Ulus)すなわち「大元大蒙古国」と称した。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の大ハーン政権のことである。[[中国史]]の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・ハーンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライが大ハーンの位につく過程において、ハーンのモンゴル帝国全体に対する統率力は減退しており、元の国号が採用された前後に[[中央アジア]]で[[オゴデイ・ハン国|オゴデイ家]]（オゴタイ）の[[カイドゥ]]（ハイドゥ）がクビライに対抗して自立するなど、ハーンの権威が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。こうして成立した元は、モンゴル帝国のうちクビライの子孫である大ハーンの直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された国家となり、その実態は緩やかな連合となったモンゴル帝国のうちの、中国とモンゴル高原を主として支配するクビライ家の世襲領（ウルス）にあたる。&lt;br /&gt;
[[画像:元朝系図.png|thumb|300px|元朝系図]]&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
クビライ登位以前については[[モンゴル帝国]]の項を参照してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== モンゴル帝国の再編 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1259年]]、第4代大ハーン[[モンケ]]が[[南宋]]遠征中に病死したとき、モンゴル高原にある当時の首都[[カラコルム]]の留守を預かっていた末弟[[アリクブケ]]（アリクブカ）は、モンケ派の王族を集めて[[クリルタイ]]を開き、西部の[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]ら諸王家の支持を取り付けて大ハーン位に就こうとしていた。これに対し、モンケと共に南宋へ遠征を行っていた次弟クビライは、閏11月に軍を引き上げて内モンゴルに入り、東方三王家（チンギス・ハーンの弟の家系）などの東部諸王の支持を得て、翌年の3月に自身の本拠地である内モンゴルの開平府（のちの[[上都]]）でクリルタイを開き、大ハーン位に就いた。アリクブケは一月遅れて大ハーンとなり、モンゴル帝国には南北にふたりの大ハーンが並存し、モンゴル帝国史上初めて大ハーン位を武力争奪する事態となった。この時点では、モンケの葬儀を取り仕切り、帝都カラコルムで即位したアリクブケが正当な大ハーンであった。カラコルムにも戻らず、帝国全土の王侯貴族の支持も無く、勝手に大ハーンを称したクビライは、この時点ではクーデター政権であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライとアリクブケの両軍は何度と無く激突するが、カラコルムは中国からの物資に依存していたために、中国を抑えたクビライ派に対してアリクブケ派は圧倒的な補給能力の差をつけられ、劣勢を余儀なくされた。緒戦の[[1261年]]のシムトノールの会戦ではクビライが勝利するが、アリクブケは北西モンゴルの[[オイラト]]の支援を受けて抵抗を続けた。しかし、最終的はアリクブケの劣勢と混迷をみてチャガタイ家などの西部諸王がアリクブケから離反し、[[1264年]]、アリクブケはクビライに降伏した。この一連の争乱を、勝利者クビライを正統とする立場から、'''アリクブケの乱'''という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アリクブケの降伏により大ハーンの位は再び統合されたが、西の[[中央アジア]]方面では、アリクブケの乱がもたらした混乱が大ハーンの権威に決定的な打撃を与えていた。[[1269年]]、中央アジアを支配するチャガタイ家の[[バラク]]とオゴデイ家のカイドゥ、そして[[ジョチ・ウルス|ジョチ家]]（ジュチ）（キプチャク・ハン国）の諸王がタラス河畔で会盟して中央アジアの大ハーン領を分割し、大ハーン・クビライに対する自立の態度を明確にした。やがてオゴデイ家のカイドゥが中央アジア諸王の間で盟主としての地位を確立し、カイドゥの反抗はモンゴル帝国を東西に分ける抗争へと発展する（'''カイドゥの乱'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その間、クビライは、政治機関として[[中書省]]を設置し、カラコルムにかわる新都として中国北部に[[大都]]（現在の[[北京]]）を造営、地方ではモンゴル帝国の[[金 (王朝)|金]]攻略の過程で自立してモンゴルに帰附し、華北の各地で在地支配を行ってきた漢人世侯と呼ばれる在地軍閥と中央政府、モンゴル貴族の錯綜した支配関係を整理して各路に総管府を置くなど、中国支配に適合した新国家体制の建設に着々と邁進し、[[1271年]]に国号を'''大元'''とした。モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配の消滅と、中国に軸足を置いた新しい大ハーン政権、大元の成立をもってモンゴル帝国の緩やかな連合への再編がさらに進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国の統一支配 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当時のクビライはいまだ金を滅ぼして領有した[[華北]]を保有するだけで、中国全体の支配は未だ不完全であり、南宋の治下で発展した[[江南]]（[[長江]]下流域南岸）の富は、クビライの新国家建設には欠かせざるものであった。かくて、クビライは即位以来、南宋の攻略を最優先の政策として押し進め、[[1268年]]漢水の要衝[[襄陽]]の攻囲戦を開始する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライは、皇后[[チャブイ]]に仕える用人であった中央アジア出身の商人[[アフマド・ファナーカティー|アフマド]]を財務長官に抜擢して増収をはかり、南宋攻略の準備を進める一方で、既に服属していた[[高麗]]を通じ、南宋と通商していた[[日本]]にもモンゴルへの服属を求めた。しかし、日本の[[鎌倉幕府]]はこれを拒否したため、クビライは[[1274年]]にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送るが、失敗に終わった（[[元寇|文永の役]]）。日本遠征は失敗に終わったが、その準備を通じて遠征準備のために設けた出先機関の征東行省と高麗政府が一体化し、新服の属国であった高麗は元の朝廷と緊密な関係を結ぶことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1273年]]になると襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊する。元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇する等して南宋の降軍を自軍に組み込んでいった。[[1274年]]旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、[[1276年]]に首都臨安（[[杭州]]）が陥落する。その後海上へ逃亡した南宋の遺民を[[1279年]]の涯山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げることのできるよう、後に詳しく述べる経済制度を整備し、元の経済は華北を中心とした政権としては空前の繁栄を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後の軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。[[1281年]]には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり（[[元寇|弘安の役]]）、[[1285年]]と[[1288年]]には[[ベトナム]]に侵攻した軍が[[陳朝]]に相次いで敗れた。さかのぼって[[1276年]]には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子[[シリギ]]が反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは三度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、[[1287年]]には、即位時の支持母体であった東方三王家が[[ナヤン]]を指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。&lt;br /&gt;
また[[1292年]]に[[ジャワ]]遠征を行っているがこれも失敗に終わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライの死後、[[1294年]]に孫の[[テムル]]が継ぐが、彼の治世期の[[1301年]]にカイドゥが死に、[[1304年]]に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は大ハーンを頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆる[[シルクロード]]交易の活況ぶりは空前となった。この状況を指して'''パクス・モンゴリカ'''（「モンゴルの平和」）と呼ばれることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、[[マルコ・ポーロ]]など数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄は[[ヨーロッパ]]にまで伝えられた。江南の港湾都市では海上貿易が隆盛し、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本からも、私的な貿易船や留学僧の渡来は続き、ある程度の交流が続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 衰退への道 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1307年]]、テムルが皇子を残さずに死ぬと、モンゴル帝国で繰り返されてきた後継者争いがたちまち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず権力争いの中心となったのは、チンギス・ハーンの皇后[[ボルテ]]、クビライの皇后チャブイ、テムルの母[[ココジン]]らの出身部族で、クビライ、テムルの2代においても[[外戚]]として権勢をふるってきた[[コンギラト]]部を中心に結束した元の宮廷貴族たちであった。テムルの皇后[[ブルガン]]はコンギラト部の出身ではなかったため、貴族の力を抑えるためにテムルの従弟にあたる安西王[[アナンダ]]を皇帝に迎えようとしたが、傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちは[[クーデター]]を起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥[[カイシャン]]を皇帝に迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カイシャンの死後は弟[[アユルバルワダ]]が帝位を継ぐが、その治世期には代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者であるコンギラト部出身のアユルバルワダの母、[[ダギ|ダギ・カトン]]が宮廷内の権力を掌握し、ハーンの命令よりも母后の命令のほうが権威をもつと言われるほどであった。そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が[[1320年]]に終わり、[[1322年]]にダギが死ぬと再び政争が再燃する。翌[[1323年]]にアユルバルワダの後を継いでいた[[シデバラ]]が殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダが死んでから[[1333年]]に[[トゴン・テムル]]が即位するまで、13年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に、[[広西チワン族自治区|広西]]で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていた[[キプチャク]]親衛軍の司令官[[エル・テムル]]に疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後は[[オセット人|アスト]]親衛軍の司令官である[[バヤン (メルキト部)|バヤン]]がエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、[[1340年]]にはバヤンの甥[[トクト]]が伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやまったく軍閥の内部抗争によって動かされていた。そのうえ成人したハーンも権力を巡る対立に加わり、[[1347年]]から[[1349年]]までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この政治混乱の中で、おそらくヨーロッパで流行した[[ペスト]]と同じとみられる[[伝染病]]が中国に流行し、相次ぐ天災が農村を荒廃させた。しかし、中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 元の北走 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1348年]]、[[浙江省|浙江]]の[[方国珍]]が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、[[1351年]]には[[賈魯]]による[[黄河]]の改修工事をきっかけに[[白蓮教|白蓮教徒]]の[[紅巾の乱|紅巾党]]が蜂起した。[[1354年]]には、大規模な討伐軍を率いたトクトが、彼が強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これはハーンの権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた[[朱元璋]]が他の反乱者たちをことごとく倒して[[華南]]を統一し、[[1368年]]に[[南京]]で皇帝に即位して[[明]]を建国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、[[1368年]]にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルの大ハーン政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は'''[[北元]]'''と呼んでこれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子である[[アユルシリダラ]]と[[トグス・テムル]]が相次いで皇帝の地位を継ぐ（明は当然、その即位を認めず[[韃靼]]という別称を用いた）が、[[1388年]]にトグス・テムルが殺害されて、クビライ以来の直系の王統は断絶する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉える事には問題がある。まず華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られた事によって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである（朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある）。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、[[1367年]]に明軍に捕らえられた[[戸部尚書]]の[[張昶]]は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。[[清]]の[[歴史学者]][[趙翼]]は元に殉じた（漢民族の）官吏の数においては激しい抵抗が行われた南宋に次いで多かったと指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その後の北元===&lt;br /&gt;
北元では[[1388年]]にトゴン・テムルの子孫が絶えてクビライ家の大ハーン世襲が終焉し、クビライ家政権としての元は断絶した。しかし、その後もチンギス・ハーンの子孫を称するハーンたちが元の君主としてモンゴルには立ちつづけ、[[15世紀]]末にはクビライ家が復権を果たす。元が最終的に終焉を迎えたのは、クビライの子孫を称する君主、[[リンダン・ハーン]]が死に、[[モンゴル]]諸部族がリンダンの代わりに[[満州民族|満州人]]の皇帝[[ホンタイジ]]をモンゴルのハーンに推戴した[[1636年]]であった。詳細は、[[北元]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の政治制度、および後述する経済・財政制度はモンゴル帝国特有の制度がかなり維持されていたために、中国の諸王朝の歴史上でみれば、きわめて特異なものとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央政府 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の首都は[[大都]]（現在の北京）および[[上都]]（内モンゴル自治区）であるが、少なくとも初期の皇帝は、遊牧国家の伝統にのっとって都城の城壁内で暮らすことはなく、冬の都である大都と夏の都である上都の近郊の草原の間を季節移動する帳幕（[[ゲル (家屋)|ゲル]]）群が宮廷（[[オルド]]）となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モンゴル帝国の大ハーンのもとには、第二代オゴデイの時代から、時代と設置状況により、漢語で「[[中書省]]」、「[[尚書省]]」など様々な名称で呼ばれる書記・財務官僚機構が存在した。即位以前からモンケによって中国の征服事業を委ねられ、手元に漢人を含む様々なブレーンを集めていたクビライは、即位するとまず漢人ブレーンを中書省に組織した。このクビライの中書省は、オゴデイ時代の中央書記官庁のとしての中書省の性格を継承するとともに、唐以来の中書省の伝統を引き継いで下に[[三省六部|六部]]を置き、民政・財政・軍事の一切を統括した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1263年]]には中書省から軍政機能を分離して中央軍政機関として[[枢密院]]が設置され、中書省とあわせてクビライの嫡子[[チンキム]]が総裁し、中央政府管轄地域の庶政を父であるハーンにかわって代行した。しかし、これにより中央政府のすべての機能が中書令チンキムのもとに束ねられたわけではなく、[[1270年]]にはアフマドを長官とする財務官庁が拡大され、中書省と並ぶ地位の尚書省となる。さかのぼって[[1268年]]には中国王朝にならって[[御史台]]が設置されており、民政・軍政・財政・監察のそれぞれに関わる機関がひととおり整備された。ただし、中央官庁は中書省・枢密院・尚書省などの中国風の名前を持ってはいたが、職掌や官吏の定数に関する規定はなく、さらに後述するように省庁の要職は宮廷に仕える皇帝の側近たちから任用され、特に左右丞相などの長官クラスを務める者は家臣、隷属民、軍隊などを自ら保有するモンゴル貴族からなっていた。このため、官庁の行う業務は実際には官庁に定められた官僚機構ではなく、高官たちの個性や宮廷での力関係などに左右された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、元代の中書省では、総裁である中書令を除くと、右丞相が長官、左丞相が次官であった。中国や日本の伝統的な官制では左が上、右が下であるから、右が上とされた元代はこの点でも特異であるが、これは、モンゴル人が右を尊いとする通念をもっていたためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元のモンゴル人は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する[[征服王朝]]である[[遼]]や[[金 (王朝)|金]]と比較しても、特に民族固有の支配体制を維持していた。元では[[律令]]のような体系的な法令を編纂することはなかったので、政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねがそのまま法令となり、中でも皇帝の名をもって出される聖旨（ジャルリグ）や、令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書（ウゲ）が高い権威をもった。モンゴル人は文字として[[モンゴル文字]]と、クビライが新たに作らせた[[パスパ文字]]をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれた[[モンゴル語]]を正文としていた。[[漢文]]の翻訳も付されはしたが、そこでは口語的・直訳的な文体が用いられていた。なお、こうして積み上げられた法令は、『元典章』という[[中国語]]で書かれた書物にまとめられて現存しているが、文章は直訳体に加え、当時の官吏が使っていた特殊な文体、吏読が用いられており、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地方制度 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Yuan provinces.png|thumb|290px|行中書省の配置]]&lt;br /&gt;
元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原（内モンゴル）と、[[河北省|河北]]・[[山東省|山東]]・[[山西省|山西]]の華北一帯においてのみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「[[行中書省]]」（行省）という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で行われている地方区分としての[[省]]は、元代の行省制度を起源とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家の大ハーン政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路、州、県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、[[ダルガチ]]が負った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、元の直轄支配地域の地方では、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じように季節移動を行う直轄所領（「位下」「投下」と呼ばれる）を持ち、それぞれの所領はチンギス・ハーン以来の権利によって貴族が所有する財産とみなされていたため、皇帝の直接支配を受けず、まったくの自治に委ねられていた。しかもひとつひとつの位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状にちりばめられた領民・領地をもっており、皇帝の直接所有する領土・領民は、元の全領域から王族・貴族の位下領・投下領を除いた部分にすぎなかった。定住地帯においては、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任命したので、彼らは領主からの代官として働き、皇帝の直接の支配権が及ばないその支配がその位下領・投下領の含まれる地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元に服属したかつての独立王国である[[天山ウイグル王国]]や[[高麗]]は、所属する行省のモンゴル人たちによる掣肘は受けたものの、個々の従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。特に高麗の場合、[[忠宣王]]以降の国王はモンゴル皇女を母とし、即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようになっていったほどであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように元の地方制度は、一見中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配に服しながらこれらとは異なる制度に置かれる例外として、[[チベット]]（[[吐蕃]]）があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、[[土司]]として掌握され、[[チベット仏教]]の[[サキャ派]]の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人材運用 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府の人材登用では、チンギス・ハーン時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備までハーンの身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関である[[ケシク|ケシクテン]]が重要な意味をもち、政府の要職に任ぜられ政治に携わるものの多くは、ハーンである皇帝との個人的主従関係に基づき取り立てられたケシクテン所属者（ケシク）たちが出向を命ぜられたものであった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定はハーンとケシクに列する有力者の合議により行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宰相など最高位の官職は、ケシクの中でもハーンに近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に[[千戸制|千人隊長]]（千戸長）などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣[[ムカリ]]、[[ボオルチュ]]、[[チラウン]]、[[ボロクル]]の子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿（&amp;lt;font lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#39385;&amp;lt;/font&amp;gt;馬）となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な[[耶律楚材]]のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハーン家との封建的主従関係に基づく世襲を旨とする元においては、[[科挙]]によってハーンからみて新参者の官僚を登用する必要は存在しなかったので、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われることはなく、ハーンの臣民となったのがもっとも遅い南宋の遺民たちが官界で立身する可能性は絶望的であった。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され[[戸籍]]に登録された人々、「儒戸」によってまかなわれていた（その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、ハーン家との姻戚関係などのハーンとの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の[[封建制|封権制度]]が元を支えており、宋以来の皇帝独裁制による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『[[元朝秘史]]』が、チンギス・ハーンの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴族の家門に属さなくとも出世することができた者もいたが、彼らはモンゴル帝国の初期から財政官僚として登用された[[色目人]]（[[ウイグル]]、[[ムスリム]]など）の商人たちだった。[[オルトク]]と呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じてハーンや貴族と金銭を通じた繋がりをもった彼らは財務に明るいことから重用された。しかし、商業税や専売税の請け負いなど、中国の伝統的な財政観に馴染まない政策を取り、彼らの経済搾取を行ったことは中国人の怨嗟のまととなった。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなく、幸運に官界で引きたてられても首領官と呼ばれる吏員の管理職に列することが限界だった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人（金の支配下にいた華北の人々で、[[漢民族]]と漢化した[[渤海 (国)|渤海人]]、[[契丹|契丹人]]、[[女真|女真人]]などからなる）と南人（南宋の支配下にいた江南の人々）の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。元代は[[士大夫]]階層の多くにとって挫折の時代となり、多くの知識人が処士として在野にあることに甘んじた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民政制度 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民間の掌握にあたっても、元では、個々の民とハーンとの個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上で既に触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いに格差が見られるようになった。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南人の四等身分制度である。四等身分制度が実態をもって存在したかは疑問が残るが、おおよそモンゴル人の貴族が元において支配の頂点に立ち、財務に優れた色目人たちは中国で財政を任せられ、漢人の中でモンゴルとの結びつきの深い一部の者は政治・軍事に関わって特権を享受したが、漢人の残る大多数と南人は政治からほぼ完全に排除されていた。ただし、元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のようにもともとモンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右したことからわかるように、ある程度の流動性はあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにモンゴルの慣習に固執し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その多核的、分権的であるがゆえに[[中世]]的とも看做せる支配は、[[唐]]代以来貴族階層の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。しかし、その一方で、流通と貿易を振興し、紙幣を貨幣として流通させるなど、経済・商業政策における先進性はきわめて注目に値する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
（単位は以下の通り ; 10升=1石=約95リットル。1畝=約565平方メートル。10銭=1両=37.3グラム）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興することで達成された。すなわち、塩の国家専売による莫大な収入と、経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からあがる商税が国庫を支えた。元はこれも中国王朝としては異例なことに経済政策を商業に偏重させていたが、先述したようにその経済政策を担当していた者は多くは色目人であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国統一の経済効果 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国の全土を見渡すと、元の国土の内側でもっとも生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の[[隋]][[唐]]時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「蘇湖熟すれば天下足る」「蘇常熟すれば天下足る」と言う南宋で生まれた言葉は、この事実を示している。この言葉は、[[蘇州]]・[[湖州]]・[[常州]]（湖州・常州は[[江蘇省]]太湖の西と南のこと）の作物が実ってくれれば他の地域が不作だったとしても心配は無いという意味である。これは決して大げさには言っていたわけではなく、元が江南を併合する前とした後では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の小作地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する小作料が得られる官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいたが、元はこれを接収すると南宋の皇族や高官、不正を働いた者などから没収した田を加えて官田をさらに拡大し、江南で莫大な穀物を国庫に収めることができた。これに加え、クビライは『[[農桑輯要]]』という官撰の[[農書]]を刊行した。これまでにも同様の書籍はあったが、それらはあくまでも役人や知識人の個人的な関心の元で編纂されたものであり、国家の政策として同書が編纂されたと言う事は、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進された事を物語っている。更に[[虞集]]に代表される農業水利の専門家が登用されて、江南から移民を募って戦乱で荒廃した華北の農地の再建を図るなどして、農業生産の充実に努めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、クビライは海に面した現在の[[天津]]から大都まで80kmほどの[[運河]]を穿ち、大都の中に港をつくって江南の穀物がはるか北の大都へと流入するようにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える[[塩]]、[[茶]]、[[酒]]、[[明礬]]などの専売制の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度だった。専売制による利益は巨大であり、特に、塩は生活に絶対に欠かせないことから厳重に管理されていたし、後述するように元の経済制度の根幹に関わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この江南の経済力を元に繁栄が築かれたわけだが、これは別の一面からいえば、江南からの収入が無ければ元は立ち行かないということであり、南中国で反乱がおこってからの元が急速に衰退し、また反乱者の中で勝ち残ったのが江南を奪った群雄であったのは、必然でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税制 ===&lt;br /&gt;
（政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は[[1260年]]のクビライ即位の年の例に拠っている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の税制は、かつての金の領土（漢地）と、南宋の領土（江南）とで異なっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
税糧は、各戸の壮丁（労働に耐えうる男性）ごとに粟（穀物）1石、あるいは土地1畝ごとに[[畑]]は3升、[[灌漑|灌漑地]]は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、面積に対してかかる一般的な田税とは異なるし、田を持っていなくても成年男子であればすべての者に課せられるという点で、中国の税制の歴史において後にも先にも見られなかったものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で[[絹|絹糸]]を22両4銭（重量）を収め、包銀は[[銀]]6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられたが、結果として中国史上でははじめて、税の銀納を義務付けた税となり、銀と、後に銀と換算される紙幣として流通される交鈔の通貨としての地位を高めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、江南の方では、南宋から引き継いだ[[両税法]]をそのまま用いていた。両税法では、各戸が[[夏]]に[[木綿]]などの物産、[[秋]]に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入にほとんどを依存していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税設定の特異な点は、都市や港湾を商品が通過するときにかけられていた関税を撤廃し、最終売却地で、売却時に商税を支払えばよいようにした点にある。こうして物流にともなう関税の煩雑な手続きが避けられるようになり、しかも実質税額が低く抑えられたので、元では遠隔地交易が活性化し、国庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 金融政策と塩専売制度 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国では[[北宋]]代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた[[紙幣]]を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔（こうしょう、あるいは単に鈔とも）と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した[[1260年]]に中統元宝交鈔（通称・中統鈔）と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
交鈔は[[金]][[銀]]との兌換（交換）が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して[[1287年]]に中統鈔の五倍の価値に当たる至元鈔を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、[[消費財]]である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歳出と国際商業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギス・ハーンの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていたハーンは、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。ハーンの側から見れば、ハーンたる皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、[[14世紀]]に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は[[1356年]]に廃止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--元の経済政策は商業を重視する点で先進的であったが、中国王朝がもっとも統治にあたって意を注ぐべきとされてきた農村社会の安定を軽視し、また発達した商業資本が徴税請負人や高利貸など農村に経済的な搾取者として君臨し、農村がややもすれば荒廃に向かうことをまったく問題としていなかった点が大きな欠点であり、元末の反乱続発の要因ともなった。←元が歴代王朝の中で商業を重視していたのは事実だが、積極的な勧農政策の推進の事実もあり農業軽視というのは事実に反する。また、商業資本の問題は南宋以来のものである。よって一旦コメントアウト --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文化==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宗教 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元来[[シャーマニズム]]を信仰してきたモンゴルは、チンギス・ハーンの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神（テングリ）を祀るものとして保護してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた[[全真教]]を始めとする[[道教]]教団で、教主[[丘長春]]自らがチンギス・ハーンの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにハーンのために祈ることを命ぜられた。しかし、彼らは道教と[[仏教]]のいずれを上位とするかを中国仏教、チベット仏教との間で争い、のちのモンケの代に行われた論争で敗れて勢力を一時的に後退させた。もっとも根本的に道教が弾圧されたわけではなく、また南宋の併合が進むと、[[後漢]]の[[五斗米道]]の系譜をひく[[正一教]]が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仏教は、はじめに保護を獲得したのは[[禅宗]]で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に[[杭州]]の[[中峰明本]]（[[1263年]] - [[1323年]]）がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパ（パスパ）に対し､[[1260年]]に「国師」、[[1269年]]に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認た。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。もっとも、次第にこれに耽溺するモンゴル王侯が増え、[[ラマ]]に過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方から[[イスラム教]]が流入し、[[泉州]]などの沿岸部や[[雲南省]]などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。もうひとつの大宗教は[[キリスト教]]で、モンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていた[[ネストリウス派]]のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、また[[ローマ教皇]]の派遣した宣教師が大都に常設の[[教会]]を開いて布教を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は[[儒教]]を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は[[孔子]]や[[孟子]]の子孫の保護、[[曲阜]]の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである。既に述べた「儒戸」も、儒教の宗教指導者階層として捉えられていた可能性が高い。儒教の排斥とは、現実には、モンゴルの伝統を重んじる元が、従来の中国王朝に比べ、儒学の影響力をあまり受ける必要がなかったということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、復活後の元の科挙では、従来の科挙と比べると詩賦よりも経義に置かれており、しかも経の解釈で[[朱子]]の解釈を正統とすることが定められていたことが画期的な点として注目される。これは、実践を重んじる[[朱子学]]が元の時代的風潮の中で、儒教の主流の座を獲得していたことを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 科学技術 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モンゴル・元代には有名な[[マルコ・ポーロ]]、[[イブン＝バットゥータ]]のように、西方からの旅行者が数多く中国にやってきたことで知られるが、それだけ交易など様々な理由で元の領土に留まった無名の人々も非常に多く、彼らにより数多くの西方の知識・文物が持ち込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[イラン]]出身の[[ジャマールッディーン]]により暦法と天体観測器が持ち込まれ、[[1271年]]にそれを基とした回回司天台と呼ばれる天文台が作られている。クビライの側近であった中国人学者[[郭守敬]]は、この観測結果をもとに新しい暦、[[授時暦]]を作り、この暦は明の滅亡まで使用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
回回（ふいふい）は、「回教」と同じくイスラム教、イスラム教徒のことである。元は南宋の拠点であった[[襄陽]]の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘し、マンジャニークと呼ばれる西洋式の投石機をつくった。このマンジャニークも、中国では回回砲という名で知られていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の時代の文学で特筆すべきは[[雑劇]]と呼ばれる[[戯曲 (中国)|戯曲]]の作品である。[[漢文]]、[[唐詩]]、[[宋詞]]、[[元曲]]など言われるようにこの時代の[[曲]]は歴代でも最高とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[小説]]にも才能のある作者が集まり、[[西遊記]]、[[水滸伝]]や[[三国志演義]]などはこの時代に原型が出来たとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは[[漢詩]]と[[歴史]]であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である[[趙孟フ|趙孟頫]]（子昴）、元の四大家と言われる虞集・楊載・范梈・掲傒斯などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族（色目人）の詩人があらわれ、ムスリムの進士（科挙合格者）である[[薩都剌]]を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美術 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、[[書道|書]]は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、[[絵画]]は[[北宋]]以来の[[院体画]]を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には[[黄公望]]、[[倪サン|倪瓚]]、[[呉鎮]]、[[王蒙]]の「[[元末四大家]]」が趙孟頫の画風を発展させ、[[南宗画]]とも後に区分される[[山水画]]の技法を確立していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陶磁器は、中国史上最高と呼ばれる宋のものを受け継いだが、さらに元代には[[染付]]などの鮮やかな新技法と大盤など大きな器形が新たに登場し、宋代までの[[青磁]]などの静謐と簡潔を重んじる美意識と対象をなす。青花と呼ばれる染付に使われている[[コバルト]][[顔料]]は西方からの輸入品で回回青と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示している。明以降の青花は輸入が途絶えたために色合いが元代とは変ってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠く[[トルコ]]、[[イスタンブル]]の[[オスマン帝国]]の宮廷[[トプカプ宮殿]]や、[[イラン]]、[[アルダビール]]の[[サファヴィー朝]]の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代皇帝 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''クビライ以前のモンゴル帝国大ハーン'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#太祖[[チンギス・ハーン]]（[[1206年]] - [[1227年]]）&lt;br /&gt;
#太宗[[オゴデイ]]（[[1229年]] - [[1241年]]）チンギス・ハーンの次男。&lt;br /&gt;
#定宗[[グユク]]（[[1246年]] - [[1248年]]）オゴデイの長男。&lt;br /&gt;
#憲宗[[モンケ]]（[[1251年]] - [[1259年]]）チンギス・ハーンの子[[トルイ]]（睿宗）の長男。&lt;br /&gt;
#世祖[[クビライ]]（[[1260年]] - [[1271年]]）睿宗トルイの次男。憲宗モンケの弟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''元の皇帝'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#世祖[[クビライ]]（[[1271年]] - [[1294年]]）&lt;br /&gt;
#成宗[[テムル]]（[[1294年]] - [[1307年]]）世祖クビライの次男[[チンキム]]（裕宗）の三男。&lt;br /&gt;
#武宗[[カイシャン]]（[[1307年]] - [[1311年]]）裕宗チンキムの次男[[ダルマバラ]]（順宗）の子。テムルの甥。&lt;br /&gt;
#仁宗[[アユルバルワダ]]（[[1311年]] - [[1320年]]）順宗ダルマバラの次男。武宗カイシャンの弟。&lt;br /&gt;
#英宗[[シデバラ]]（[[1320年]] - [[1323年]]）仁宗アユルバルワダの長男。&lt;br /&gt;
#泰定帝[[イェスン・テムル]]（[[1323年]] - [[1328年]]）裕宗チンキムの子[[カマラ]]（顕宗）の長男。&lt;br /&gt;
#天順帝[[アリギバ]]（[[1328年]]）泰定帝イェスン・テムルの長男。&lt;br /&gt;
#文宗[[トク・テムル]]（[[1328年]] - [[1329年]]）武宗カイシャンの次男。&lt;br /&gt;
#明宗[[コシラ]]（[[1329年]]）武宗カイシャンの長男。文宗トク・テムルの兄。&lt;br /&gt;
#文宗[[トク・テムル]]（[[1329年]] - [[1332年]]）(8)と同一人物。&lt;br /&gt;
#寧宗[[イリンジバル]]（[[1332年]] - [[1333年]]）明宗コシラの次男。&lt;br /&gt;
#順帝(恵宗)[[トゴン・テムル]]（[[1333年]] - [[1368年]]）明宗コシラの長男。寧宗イリンジバルの兄。&lt;br /&gt;
#*「順帝」は[[明]]により贈られた諡号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''クビライ家の北元皇帝'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#恵宗[[トゴン・テムル]]（[[1368年]] - [[1370年]]）元の(12)。&lt;br /&gt;
#昭宗[[アユルシリダラ]]（[[1370年]] - [[1378年]]）恵宗（順帝）トゴン・テムルの子。&lt;br /&gt;
#天元帝[[トグス・テムル]]（[[1378年]] - [[1387年]]）昭宗アユルシリダラの弟？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 元の年号 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#中統（[[1260年]] - [[1264年]]）&lt;br /&gt;
#至元（[[1264年]] - [[1294年]]）&lt;br /&gt;
#元貞（[[1295年]] - [[1297年]]）&lt;br /&gt;
#大徳（[[1297年]] - [[1307年]]）&lt;br /&gt;
#至大（[[1308年]] - [[1311年]]）&lt;br /&gt;
#皇慶（[[1312年]] - [[1313年]]）&lt;br /&gt;
#延祐（[[1314年]] - [[1320年]]）&lt;br /&gt;
#至治（[[1321年]] - [[1323年]]）&lt;br /&gt;
#泰定（[[1321年]] - [[1328年]]）&lt;br /&gt;
#致和（[[1328年]]）&lt;br /&gt;
#天順（[[1328年]]）&lt;br /&gt;
#天暦（[[1328年]] - [[1330年]]）&lt;br /&gt;
#至順（[[1330年]] - [[1333年]]）&lt;br /&gt;
#元統（[[1333年]] - [[1335年]]）&lt;br /&gt;
#至元（[[1335年]] - [[1340年]]）&lt;br /&gt;
#至正（[[1341年]] - [[1368年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[愛宕松男]]『アジアの征服王朝』河出書房、1968年。&lt;br /&gt;
* 愛宕松男・[[寺田隆信]]『元・明』講談社、1974年。&lt;br /&gt;
* [[岡田英弘]]『モンゴル帝国の興亡』筑摩書房（ちくま新書）、2001年。&lt;br /&gt;
* [[小松久男]]（編）『中央ユーラシア史』山川出版社、2000年。&lt;br /&gt;
* [[斯波義信]]ほか（編）『世界歴史体系 中国史3 五代～元』山川出版社、1997年。&lt;br /&gt;
* [[杉山正明]]『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』朝日新聞社（朝日選書）、1995年。&lt;br /&gt;
* 杉山正明『モンゴル帝国の歴史』全2巻、講談社（講談社現代新書）、1996年。&lt;br /&gt;
* 杉山正明『遊牧民からの世界史 民族も国境もこえて』日本経済新聞社、1997年。&lt;br /&gt;
* [[宮脇淳子]]『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房、2002年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.hoolulu.com/zh/ 二十五史 (簡体中国語／繁体中国語)]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-align=&amp;quot;center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;30%&amp;quot;|前の時代：[[南宋]]　[[金 (王朝)|金]]&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;40%&amp;quot;|[[中国史]]&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;30%&amp;quot;|次の時代：[[明]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中国の歴史|けん]]&lt;br /&gt;
[[Category:モンゴル帝国|けん]]&lt;br /&gt;
[[Category:元朝|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:モンゴルの歴史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ca:Dinastia Yuan]]&lt;br /&gt;
[[cv:Юань династийĕ]]&lt;br /&gt;
[[da:Yuan-dynastiet]]&lt;br /&gt;
[[de:Yuan-Dynastie]]&lt;br /&gt;
[[en:Yuan Dynasty]]&lt;br /&gt;
[[eo:Dinastio Yuan]]&lt;br /&gt;
[[es:Dinastía Yuan]]&lt;br /&gt;
[[eu:Yuan dinastia]]&lt;br /&gt;
[[fi:Yuan-dynastia]]&lt;br /&gt;
[[fr:Dynastie Yuan]]&lt;br /&gt;
[[hr:Dinastija Yuan]]&lt;br /&gt;
[[id:Dinasti Yuan]]&lt;br /&gt;
[[it:Dinastia Yuan]]&lt;br /&gt;
[[ko:원나라]]&lt;br /&gt;
[[lt:Juan dinastija]]&lt;br /&gt;
[[nl:Yuan-dynastie]]&lt;br /&gt;
[[no:Yuan-dynastiet]]&lt;br /&gt;
[[pl:Dynastia Yuan]]&lt;br /&gt;
[[pt:Dinastia Yuan]]&lt;br /&gt;
[[ru:Юань (династия)]]&lt;br /&gt;
[[sh:Dinastija Yuan]]&lt;br /&gt;
[[simple:Yuan Dynasty]]&lt;br /&gt;
[[sv:Yuandynastin]]&lt;br /&gt;
[[th:ราชวงศ์หยวน]]&lt;br /&gt;
[[tr:Yuan Hanedanı]]&lt;br /&gt;
[[vi:Nhà Nguyên]]&lt;br /&gt;
[[zh:元朝]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>85.214.91.152</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;diff=5308</id>
		<title>オスマン帝国</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;diff=5308"/>
				<updated>2007-05-28T08:36:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 過去の国&lt;br /&gt;
|略名          = オスマン帝国&lt;br /&gt;
|日本語国名    = オスマン帝国&lt;br /&gt;
|公式国名      = &amp;lt;big&amp;gt;دولت عالیه عثمانیه&amp;lt;/big&amp;gt; &amp;lt;small&amp;gt;（[[アラビア文字]]）&amp;lt;/small&amp;gt; &amp;lt;br&amp;gt; Devlet-i Âliye-yi Osmâniyye &amp;lt;small&amp;gt;（[[ラテン文字]]転写）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|建国時期      = 1299年&lt;br /&gt;
|亡国時期      = 1922年&lt;br /&gt;
|先代1         = セルジューク朝&lt;br /&gt;
|先旗1         = Sin bandera.svg&lt;br /&gt;
|先代2         = ビザンツ帝国&lt;br /&gt;
|先旗2         = Flag of Palaeologus Emperor.svg&lt;br /&gt;
|次代1         = トルコ共和国&lt;br /&gt;
|次旗1         = Flag of Turkey.svg&lt;br /&gt;
|次代2         = ギリシャ王国&lt;br /&gt;
|次旗2         = Flag of Greece (1828-1978).svg&lt;br /&gt;
|次代3         = アルジェリア&lt;br /&gt;
|次旗3         = Flag of France.svg&lt;br /&gt;
|次代4         = エジプト王国&lt;br /&gt;
|次旗4         = Egypt flag 1882.svg&lt;br /&gt;
|次代5         = ブルガリア王国 (近代)&lt;br /&gt;
|次旗5         = Bg-1913.gif&lt;br /&gt;
|次代6         = アルバニア公国&lt;br /&gt;
|次旗6         = Albania 1914 Flag.gif&lt;br /&gt;
|次代7         = フランス委任統治領シリア&lt;br /&gt;
|次旗7         = Flag of Syria French mandate.svg&lt;br /&gt;
|次代8         = フランス委任統治領レバノン&lt;br /&gt;
|次旗8         = Lebanese French flag.svg&lt;br /&gt;
|次代9         = イギリス委任統治領イラク&lt;br /&gt;
|次旗9         = Flag of the United Kingdom (3-5).svg&lt;br /&gt;
|次代10         = イギリス委任統治領パレスチナ&lt;br /&gt;
|次旗10         = Palestine-Mandate-Ensign-1927-1948.svg&lt;br /&gt;
|国旗画像      = Ottoman Flag.svg&lt;br /&gt;
|国章画像      = [[画像:OttomanCOA.jpg|85px]]&lt;br /&gt;
|国章リンク    = （国章）&lt;br /&gt;
|標語          = ''دولت ابد مدت'' &amp;lt;br&amp;gt; （ラテン文字転写:''Devlet-i Ebed-müddet''） &amp;lt;br&amp;gt; （オスマン語:永遠の国家）&lt;br /&gt;
|国歌名        = オスマン帝国の国歌&lt;br /&gt;
|国歌追記      = &lt;br /&gt;
|位置画像      = Ottoman 1683.png&lt;br /&gt;
|公用語        = [[オスマン語]]&lt;br /&gt;
|首都          = [[ソウト]]（[[1299年]] - [[1326年]]） &amp;lt;br&amp;gt; [[ブルサ]]（[[1326年]] – [[1365年]]） &amp;lt;br&amp;gt; [[エディルネ]]（[[1365年]] – [[1453年]]） &amp;lt;br&amp;gt; [[イスタンブル]]（[[1453年]] – [[1922年]]）&lt;br /&gt;
|元首等肩書    = [[オスマン帝国の君主|スルタン]]&lt;br /&gt;
|元首等年代始1 = [[1281年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終1 = [[1326年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名1   = [[オスマン1世]]（初代）&lt;br /&gt;
|元首等年代始2 = [[1918年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終2 = [[1922年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名2   = [[メフメト6世]]（最後）&lt;br /&gt;
|首相等肩書    = 大宰相&lt;br /&gt;
|首相等年代始1 = [[1320年]]&lt;br /&gt;
|首相等年代終1 = [[1331年]]&lt;br /&gt;
|首相等氏名1   = アラアッディン・パシャ（初代）&lt;br /&gt;
|首相等年代始2 = [[1920年]]&lt;br /&gt;
|首相等年代終2 = [[1922年]]&lt;br /&gt;
|首相等氏名2   = アフメト・テヴフィク・パシャ（最後）&lt;br /&gt;
|面積測定時期1 = [[1680年]]&lt;br /&gt;
|面積値1       = 12,000,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期1 = [[1856年]]&lt;br /&gt;
|人口値1       = 35,350,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期2 = [[1906年]]&lt;br /&gt;
|人口値2       = 20,884,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期3 = [[1914年]]&lt;br /&gt;
|人口値3       = 18,520,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期4 = [[1919年]]&lt;br /&gt;
|人口値4       = 14,629,000&lt;br /&gt;
|変遷1         = [[建国]]&lt;br /&gt;
|変遷年月日1   = [[1299年]]&lt;br /&gt;
|変遷2         = 空位時代&lt;br /&gt;
|変遷年月日2   = [[1402年]] - [[1413年]]&lt;br /&gt;
|変遷3         = [[オスマン帝国憲法]]発布&lt;br /&gt;
|変遷年月日3   = [[1876年]][[12月23日]]&lt;br /&gt;
|変遷4         = [[青年トルコ人革命]]起こる&lt;br /&gt;
|変遷年月日4   = [[1908年]][[7月3日]]&lt;br /&gt;
|変遷5         = 滅亡&lt;br /&gt;
|変遷年月日5   = [[1922年]][[11月17日]]&lt;br /&gt;
|通貨          = クルシュ、[[トルコリラ]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''オスマン帝国'''（オスマンていこく、[[オスマン語|オスマン語]]: دولت عالیه عثمانیه ''Devlet-i Âliye-yi Osmâniyye'' ）は、[[テュルク|トルコ系]]の王家[[オスマン家]]を[[オスマン帝国の君主|君主]]に戴き、現在の[[トルコ]]の都市[[イスタンブル]]を[[首都]]とし、西は[[モロッコ]]から東は[[アゼルバイジャン]]に至り、北は[[ウクライナ]]から南は[[イエメン]]に至る広大な領域を支配した[[帝国|多民族帝国]]（[[1299年]] - [[1922年]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アナトリア半島|アナトリア]]（小アジア）の片隅に生まれた小君侯国から発展した[[イスラム王朝]]であるオスマン朝は、やがて[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]などの[[東ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]諸国、[[マムルーク朝]]などの[[西アジア]]・[[北アフリカ]]の[[イスラム教]]諸国を征服して[[地中海]]世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展するが、やがて衰亡してその領土は蚕食されて解体し、[[20世紀]]初頭についに最後に残った領土アナトリアから新しく生まれ出た[[トルコ人|トルコ民族]]の[[国民国家]]、[[トルコ|トルコ共和国]]に取って代わられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
西欧人がオスマン帝国を {{lang|en|''Ottoman Turks''}}, {{lang|en|''Turkish Empire''}} と呼んだことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在は'''オスマン帝国'''あるいは単に'''オスマン朝'''と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、[[オスマン帝国の君主|君主]]（[[パーディシャー]]、[[スルターン|スルタン]]）の出自は[[トルコ人|トルコ系]]で宮廷の言語も[[オスマン語]]と呼ばれる[[ペルシア語]]や[[アラビア語]]の語彙を多く取り込んだ[[トルコ語]]ではあったが、支配階層には[[民族]]・[[宗教]]の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の[[国家]]とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる {{lang|tr|''Osmanl&amp;amp;#305; &amp;amp;#304;mparatorlu&amp;amp;#287;u''}} や「オスマン国家」にあたる {{lang|tr|''Osmanl&amp;amp;#305; Devleti''}} の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖[[オスマン1世]]がアナトリア（小アジア）西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる[[1299年]]を建国年とするのが通例であり、[[スルターン|スルタン]]制が廃止されて[[メフメト6世]]が廃位された[[1922年]]が滅亡年とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 建国と拡大の時代 ===&lt;br /&gt;
[[13世紀]]末に[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]と[[ルーム・セルジューク朝]]の国境地帯であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長、[[オスマン1世]]が率いる軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、遊牧民の集団であったとする説も根強いが、一般にはオスマンを指導者として結集した[[ムスリム]]（イスラム教徒）のガーズィー（[[ジハード]]に従事する戦士）たちであったとする説が有力である。彼らオスマン集団は、周辺の[[キリスト教徒]]やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する'''オスマン君侯国''' (Osmanl&amp;amp;#305; Beyli&amp;amp;#287;i) を築き上げた。&lt;br /&gt;
[[画像:Sipahi3.jpg|right|200px|thumb|初期オスマン帝国の騎兵（[[シパーヒー|スィパーヒー]]）]]&lt;br /&gt;
[[1326年]]頃オスマンの後を継いだ子の[[オルハン]]は、即位と同じ頃にビザンツ帝国の地方都市プロウサ（現在の[[ブルサ]]）を占領し、さらに[[マルマラ海]]を隔てて[[ヨーロッパ大陸]]を臨むまでに領土を拡大した。ブルサはオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1346年]]、オルハンはビザンツの共治皇帝[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]との同盟をきっかけに[[ダーダネルス海峡]]を渡って[[バルカン半島]]の[[トラキア]]に進出、ヨーロッパ側での領土拡大を開始した。オルハンの子[[ムラト1世]]は、即位するとすぐにコンスタンティノープルと[[ドナウ川]]流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル（現在の[[エディルネ]]）を占領、ここを第二の首都とするとともに、常備歩兵軍[[イェニチェリ]]を創設するなど国制を整え、[[1389年]]に[[コソボの戦い|コソヴォの戦い]]で[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を破った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ムラトの子[[バヤズィト1世]]は、[[1396年]]に[[ブルガリア]]北部における[[ニコポリスの戦い]]で[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]を中心とした[[十字軍]]を撃破、領土を大きく広げた。しかし、[[1402年]]の[[アンカラの戦い]]で[[ティムール]]に敗れて憤死し、バヤズィトの諸子の間で後継争いが起こって帝国の拡大は一時停滞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バヤズィトの子[[メフメト1世]]は、[[1412年]]に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子[[ムラト2世]]は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に[[1453年]]、ムラトの子[[メフメト2世]]はビザンツ帝国の首都[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]を攻略し、ついにビザンツ帝国を滅ぼした（[[コンスタンティノープルの陥落]]）。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシア語に由来する[[イスタンブル]]という呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして[[15世紀]]末までにバルカンとアナトリアのほぼ全土を平定し、[[黒海]]北岸や[[エーゲ海]]の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至ったオスマン帝国を[[1512年]]に継承した第9代[[セリム1世]]は、[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]を滅してイスラム世界における支配領域を[[アラブ人]]居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていた[[イスラム教]]の二大聖地[[マッカ]]（メッカ）と[[マディーナ]]（メディナ）の保護権を掌握して[[スンナ派]][[イスラム世界]]の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあった[[アッバース朝]]の末裔から[[カリフ]]の称号を譲られ、スルタン＝カリフ制を創設したとする伝説は[[19世紀]]の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オスマン帝国の最盛期 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Suleiman_Mohacs.jpg|right|200px|thumb|スレイマン1世（在位1520年-1566年）]]&lt;br /&gt;
第10代[[スレイマン1世]]のとき、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は[[中央ヨーロッパ]]、[[北アフリカ]]にまで広がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スレイマン1世は即位するとまず[[ベオグラード]]を征服してハンガリー領に進出し、[[ロードス島]]でムスリムに対する海賊行為を行っていた[[聖ヨハネ騎士団]]と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。[[1526年]]には[[モハーチの戦い]]で[[ハンガリー王国]]を破り、その大半を占領する。さらに東では[[サファヴィー朝]]から[[イラク]]の[[バグダード]]を奪い、南では[[イエメン]]に出兵して[[アデン]]を征服した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこれに前後して[[ハプスブルク家]]と対立していた[[フランス]]の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と同盟し、[[1529年]]にはハプスブルク家の[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の都[[ウィーン]]を1ヶ月以上にわたって包囲した。[[第一次ウィーン包囲]]と呼ばれるこの作戦は失敗に終わったものの、オスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことは西欧諸国に強い衝撃を与えた。さらに、[[1538年]][[プレヴェザの海戦]]では、[[スペイン]]などの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど[[大宰相]]（首相）が担うようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、軍事構造の転換によって[[火砲]]で武装した[[歩兵]]であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が高まり、その人員が爆発的に増大して維持費が軍事費を圧迫し、かわって在地の[[騎士]]である[[シパーヒー|スィパーヒー]]層が没落していった。それに応じてスィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来の[[ティマール制]]は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる[[徴税請負制]]（イルティザーム制）が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。[[#制度|制度の項]]で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、[[カピチュレーション]]（恩恵的待遇）を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での[[治外法権]]などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした[[19世紀]]には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 帝国支配の動揺 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Lepanto.jpg|right|200px|thumb|レパントの海戦]]&lt;br /&gt;
スレイマンの死から5年後の[[1571年]]、[[レパントの海戦]]でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に敗北し、地中海の覇権を失った。もっとも、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、[[1573年]]には[[キプロス島]]、翌年には[[チュニス]]を獲得したほどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。[[1579年]]、スレイマン時代から帝国を支えた大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が暗殺されて以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに[[17世紀]]前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、[[16世紀]]末頃から新大陸産の[[銀]]の流入による物価の高騰や、連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発するに至り、帝国内は急速に動揺し始める。&lt;br /&gt;
[[画像:Europa 1600 en kairyou.JPG|right|right|thumb|200px|1600年のヨーロッパ]]&lt;br /&gt;
そのような情勢の下で[[1645年]]に起こった[[ヴェネツィア共和国]]との戦争は[[1656年]]、ヴェネツィア艦隊の海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢された[[キョプリュリュ・メフメト・パシャ]]は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]が続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いた[[キョプリュリュ家]]の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国は[[クレタ島]]やウクライナにまで領土を拡大し、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿[[カラ・ムスタファ・パシャ]]は功名心から[[1683年]]に[[第二次ウィーン包囲]]を強行する。一時包囲を成功させるも、欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入る。戦後、[[1699年]]に結ばれた[[カルロヴィッツ条約]]において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家の[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に奪われた。[[1700年]]にはロシアと[[スウェーデン]]の間で起こった[[大北方戦争]]に巻き込まれ、スウェーデン王[[カール12世]]の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、[[ピョートル1世]]の治下で国力の増大著しい[[ロシア帝国]]との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、[[1711年]]の[[プルート川の戦い]]で有利な講和を結ぶことに成功するが、続くオーストリアとの戦争のために、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でセルビアの重要拠点ベオグラードを失う。&lt;br /&gt;
[[画像:Koceks_-_Surname-i_Vehbi.jpg|right|200px|thumb|アフメト3世の時代（1720年頃）の祝祭の様子。王子の[[割礼]]を祝う様子を描く。]]&lt;br /&gt;
このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。中でも[[アフメト3世]]の大宰相[[イブラヒム・パシャ]]（在任[[1718年]]-[[1730年]]）の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入された[[チューリップ]]が装飾として流行したことから、'''[[チューリップ時代]]'''と呼ばれている。しかし、[[1730年]]、サファヴィー朝の混乱に乗じて行われたイラン戦役が、[[ナーディル・シャー]]の登場でオスマン側に劣勢に動き始めると、浪費政治への不満を募らせていた人々は[[パトロナ・ハリルの乱]]を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて[[1739年]]の[[ベオグラード条約]]でベオグラードを奪還し、[[1747年]]にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握した[[アーヤーン]]と呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいたが、しかし[[産業革命]]が波及して急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は、決定的になっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近代化をめざす「瀕死の病人」 ===&lt;br /&gt;
[[18世紀]]末に入ると、[[ロシア帝国]]の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。[[1774年]]、[[キュチュク・カイナルジ条約|キュチュク・カイナルジャ条約]]によって帝国は黒海の北岸を喪失し、[[1792年]]にも再び敗れてロシアの[[クリミア半島]]の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感した[[セリム3世]]は翌[[1793年]]、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「[[ニザーム・ジェディード]]」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、[[ギリシャ]]北部から[[アルバニア]]を支配した[[テペデレンリ・アリー・パシャ]]のように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに[[1798年]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]をきっかけにエジプトの実権を掌握した[[ムハンマド・アリー]]は、[[1830年]]反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。&lt;br /&gt;
[[画像:Naval_Battle_of_Navarino_by_Carneray.jpg|right|200px|thumb|ギリシャ独立戦争の敗北（[[ナヴァリノの海戦]]）]]&lt;br /&gt;
一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族の[[ナショナリズム]]を呼び覚まし、[[ギリシャ独立戦争]]（[[1821年]] - [[1829年]]）によって[[ギリシャ王国]]が独立を果たした。これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、[[19世紀]]のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を[[東方問題]]という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、[[20世紀]]初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。[[1808年]]に即位した[[マフムト2世]]はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに[[1839年]]、[[アブデュルメジト1世]]は、改革派官僚[[ムスタファ・レシト・パシャ]]の起草した[[ギュルハネ勅令]]を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る'''[[タンジマート]]'''を始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1853年]]にはロシアとの間で[[クリミア戦争]]が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、[[1856年]]に[[改革勅令]]を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法（[[シャリーア]]）と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代[[教育]]を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の[[借款]]を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために[[農業]]のモノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、[[1875年]]、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、[[1876年]]、大宰相[[ミドハト・パシャ]]のもとで「アジア最初の成文憲法」と言われる[[オスマン帝国憲法]]（通称'''ミドハト憲法'''）を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の[[法治国家]]であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムの[[オスマン人|オスマン臣民]]としての完全な平等を定めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが憲法発布から間もない[[1878年]]に、オスマン帝国はロシアとの戦争に完敗し、帝都イスタンブル西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望む[[アブデュルハミト2世]]は、ロシアとは[[サン・ステファノ条約]]を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまるが、この時代は専制の一方で財政破産以降に帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界大戦から滅亡への道 ===&lt;br /&gt;
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは[[1889年]]に結成された「[[統一と進歩委員会]]」（通称「統一派」）をはじめとする[[青年トルコ人]]運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。&lt;br /&gt;
[[画像:Ismail_Enver.jpg|right|200px|thumb|エンヴェル・パシャ]]&lt;br /&gt;
[[1908年]]、サロニカ（現在の[[テッサロニキ]]）の統一派を中心とする[[マケドニア]]駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた（[[青年トルコ革命]]）。彼らは[[1909年]]には保守派の反革命運動を鎮圧、[[1913年]]には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者[[タラート・パシャ]]、[[エンヴェル・パシャ]]らを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間にも、サロニカを含む[[マケドニア]]と[[アルバニア]]、[[リビア]]が帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は[[汎スラヴ主義]]拡大の脅威に対抗するため[[ドイツ]]に近づき、[[1914年]]に始まる[[第一次世界大戦]]では同盟国側で参戦した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、[[ガリポリの戦い]]などいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。帝国は[[1918年]]に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝[[メフメト6世]]は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍が[[イズミル]]に上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]（ケマル・パシャ）を指導者として、トルコ人が多数を占める地域（アナトリアとバルカンの一部）の保全を求める運動が起こり、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会]]を組織して抵抗政府を結成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方連合国は、[[1920年]]、講和条約として[[セーヴル条約]]をメフメト6世に押し付けた。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容だったため、ギリシャ軍のアナトリア進攻に正当性を与えたが、かえってトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍を破り、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約の履行を諦め、新しい講和条約の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。[[1922年]]、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機に[[スルタン]]と[[カリフ]]の職権分離と、'''スルタン制の廃止'''を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世は[[マルタ]]へ亡命し、オスマン帝国政府は滅亡した（[[トルコ革命]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1923年]]、大国民議会は[[共和制]]を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家[[トルコ|トルコ共和国]]に生まれ変わった。トルコ共和国は[[1924年]]、スルタン制の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン王権は完全に終焉した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 制度 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Suleiman II.jpg|right|200px|thumb|四重冠を着用するスレイマン1世の像。この四重冠はスレイマンがイタリアの金細工職人につくらせたもので、[[ローマ教皇]]の[[教皇冠|三重冠]]を意識したものだと言われている。]]&lt;br /&gt;
オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。歴史的にヨーロッパの歴史家たちはこの国家を東方的専制帝国の典型として、一方、オスマン帝国の歴史家たちは、高貴な家柄である[[オスマン家]]がイスラムの伝統に基づいて打ち立てた世界国家であるとみなしてきた。さらに19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また20世紀前半にはヨーロッパにおいてビザンツ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制とビザンツ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいてビザンツ帝国滅亡から間もない時代には[[オスマン帝国の君主]]がルーム（[[ローマ帝国]]）の[[カエサル|カイセル]]（[[皇帝]]）と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国が[[コンスタンティノープル総主教]]の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの[[皇帝教皇主義]]の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国はビザンツ帝国すなわち[[東ローマ帝国]]の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、君主を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍制は、地方に居住し徴税権を委ねられた[[ティマール制]]による騎兵[[スィパーヒー]]と、中央の[[カプクル]]（「門の奴隷」の意）常備軍団からなり、カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集する[[デヴシルメ]]制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍[[イェニチェリ]]は、火器を扱うことから軍事革命の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝国の領土は直轄州、独立採算州、[[属国]]からなる。属国（[[クリミア・ハン国|クリミア]]、[[ワラキア]]、[[モルダヴィア]]、[[トランシルヴァニア]]、[[ヒジャーズ]]など）は[[君主]]の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州（[[エジプト]]など）は州知事（総督）など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。直轄州は州（大軍管区）、県（小軍管区）、郡（法官管区）に分かれ、郡ごとに[[カーディー]]が任命されて行政を担当し、県と州にはそれぞれサンジャクベイ（県知事）、ベイレルベイ（州知事）と呼ばれる軍人が任命されて管区内の兵を統括した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中央では、君主を頂点とし、大宰相（[[大宰相|サドラザム]]）以下の宰相（[[ワズィール|ヴェズィール]]）がこれを補佐し、彼らと軍人法官（[[カザスケル]]）、財務長官（[[デフテルダル]]）、国璽尚書（[[ニシャンジュ]]）から構成される御前会議（[[ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン]]）が最高政策決定機関として機能した。[[17世紀]]に君主が政治の表舞台から退くと、大宰相が君主の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府（[[バーブ・アーリー]]）に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長（[[レイスルキュッターブ]]）、大宰相府の幹部である大宰相用人（[[サダーレト・ケトヒュダース]]）などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。&lt;br /&gt;
[[画像:Bab-i_Ali.jpg|right|200px|thumb|大宰相府（バーブ・アーリー）の門]]&lt;br /&gt;
中央政府の官僚機構は、軍人官僚（カプクル）と、法官官僚（ウラマー）と、書記官僚（キャーティプ）の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、[[マドラサ|メドレセ]]（宗教学校）でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授や[[ムフティー]]の公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官（[[カザスケル]]）であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」（[[シェイヒュルイスラーム]]）である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、[[宦官]]を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に[[西欧]]を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた[[閣議]]の長とされて事実上の[[内閣]]を率いる[[首相]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、[[イスラム国家]]としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
オスマン朝では、[[神学]]や[[哲学]]のような形而上の学問では[[アラブ]]・[[イラン]]のものを上回るものはあらわれなかったと言われるが、それ以外の分野では数多くの優れた作品を残した。&lt;br /&gt;
[[画像:Pitcher_Iznik_Louvre_OA7595.jpg|left|200px|thumb|イズニク陶器の水差し（16世紀頃）]]&lt;br /&gt;
建築は、イスラムの伝統様式に加えてギリシャ建築の影響を受け、[[オスマン建築]]と呼ばれる独特の様式を生み出した。[[モスク]]などに現存する優れた作品が多く、[[17世紀]]に立てられた[[スルタンアフメット・モスク]]（ブルーモスク）がもっとも有名である。建築家はイスタンブルの[[スレイマニエ・モスク]]やエディルネの[[セリミエ・モスク]]を建てた[[16世紀]]前半の[[ミマール・スィナン]]が代表的であるが、[[アルメニア人]]の建築家も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築の[[トプカプ宮殿]]や、[[バロック]]様式とオスマン様式を折衷させた[[ドルマバフチェ宮殿]]が名高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陶芸は、16～17世紀の[[イズニク]]で、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心は[[キュタヒヤ]]に移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文学は、[[トルコ語]]に[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させた[[オスマン語]]が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野で[[ペルシア文学]]の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく（[[トルコ文学]]の記事も参照）。&lt;br /&gt;
[[画像:Surname.jpg|right|160px|thumb|楽人（レヴニー画）]]&lt;br /&gt;
美術の分野では、[[イスラム世界]]から受け継いだ[[アラビア文字]]の[[書道]]が発展し、絵画はイラン経由で中国絵画の技法を取り入れた[[ミニアチュール]]（細密画）が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
音楽は[[アラブ音楽]]の影響を受けたリュート系統の[[弦楽器]]や[[笛]]を用いた繊細な宮廷音楽（[[オスマン古典音楽]]）と、[[チャルメラ]]・[[ラッパ]]や[[太鼓]]・[[ドラム]]の類によって構成された勇壮な軍楽（[[メフテル]]）とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている（[[トルコ音楽]]の記事も参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[園芸]]では、[[チューリップ]]、[[ヒアシンス]]、[[アネモネ]]、[[ラナンキュラス]]などが庭園で栽培され園芸植物化され、多くの品種を生じた。これらは16世紀にヨーロッパに伝えられ、[[フローリスツ・フラワー]]として発展し、現在も重要な園芸植物として扱われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ゲーム ==&lt;br /&gt;
* Ottomans The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571（Strategy &amp;amp; Tactics 222号）Decision Games 、2004年。(英語）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[オスマン家]]&lt;br /&gt;
* [[オスマン帝国の君主]]&lt;br /&gt;
* [[ローマ帝国]]&lt;br /&gt;
* [[ビザンツ帝国]]&lt;br /&gt;
* [[トルコ]]&lt;br /&gt;
* [[オスマン語]]&lt;br /&gt;
* [[ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年。&lt;br /&gt;
* 新井政美『オスマン vs. ヨーロッパ』（講談社選書メチエ）講談社、2002年。&lt;br /&gt;
* 鈴木菫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』（講談社現代新書）講談社、1992年。&lt;br /&gt;
* 永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』（世界の歴史15）中央公論社、1998年。&lt;br /&gt;
* 永田雄三（編）『西アジア史II イラン・トルコ』（新版世界各国史9）山川出版社、2002年。&lt;br /&gt;
* 林佳世子『オスマン帝国の時代』（世界史リブレット）山川出版社、1997年。&lt;br /&gt;
* テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』（「知の再発見」双書）創元社、1996年。&lt;br /&gt;
* ロベール・マントラン『トルコ史』（文庫クセジュ）白水社、1982年。&lt;br /&gt;
* 三橋冨治男『トルコの歴史』（紀伊国屋新書）紀伊国屋書店、1962年。&lt;br /&gt;
* [[スティーヴン・ランシマン]]『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1969年。&lt;br /&gt;
* オスマン帝国史を題材にとった歴史文学には[[塩野七生]]の以下の作品がある。&lt;br /&gt;
** 『コンスタンティノープルの陥落』（新潮文庫）&lt;br /&gt;
** 『ロードス島攻防記』（新潮文庫）&lt;br /&gt;
** 『レパントの海戦』（新潮文庫）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Ottoman Empire}}&lt;br /&gt;
* [http://www.lahana.org/blog/index.htm 450+ Articles and abstracts about Ottoman Empire]&lt;br /&gt;
* [http://www.lahana.org/resimler/thumbnails.php?album=7 Miniatures and pictures of Ottomans (politic, social life and military)]&lt;br /&gt;
* [http://trboard.org/modules/makale/makale.php?id=63 States that have been founded over the Ottoman Lands]&lt;br /&gt;
* [http://trboard.org/modules/makale/index.php?cat_id=6 Osmanlı Medeniyeti - オスマン帝国 ]（英語）&lt;br /&gt;
* [http://www.osmanli700.gen.tr/english/engindex.html Ottoman Web Site]（英語）&lt;br /&gt;
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* [http://gold.natsu.gs/WG/ En hommage a SPI SPIへのオマージュ] -「Ottomans:The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571の日本語版ルール」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/オスマン帝国 '''オスマン帝国''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=オスマン帝国&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
[[Category:オスマン帝国|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:帝国|おすまんていこく]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>85.214.91.152</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;diff=5307</id>
		<title>オスマン帝国</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;diff=5307"/>
				<updated>2007-05-28T08:35:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;amp;oldid=12788862&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 過去の国&lt;br /&gt;
|略名          = オスマン帝国&lt;br /&gt;
|日本語国名    = オスマン帝国&lt;br /&gt;
|公式国名      = &amp;lt;big&amp;gt;دولت عالیه عثمانیه&amp;lt;/big&amp;gt; &amp;lt;small&amp;gt;（[[アラビア文字]]）&amp;lt;/small&amp;gt; &amp;lt;br&amp;gt; Devlet-i Âliye-yi Osmâniyye &amp;lt;small&amp;gt;（[[ラテン文字]]転写）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|建国時期      = 1299年&lt;br /&gt;
|亡国時期      = 1922年&lt;br /&gt;
|先代1         = セルジューク朝&lt;br /&gt;
|先旗1         = Sin bandera.svg&lt;br /&gt;
|先代2         = ビザンツ帝国&lt;br /&gt;
|先旗2         = Flag of Palaeologus Emperor.svg&lt;br /&gt;
|次代1         = トルコ共和国&lt;br /&gt;
|次旗1         = Flag of Turkey.svg&lt;br /&gt;
|次代2         = ギリシャ王国&lt;br /&gt;
|次旗2         = Flag of Greece (1828-1978).svg&lt;br /&gt;
|次代3         = アルジェリア&lt;br /&gt;
|次旗3         = Flag of France.svg&lt;br /&gt;
|次代4         = エジプト王国&lt;br /&gt;
|次旗4         = Egypt flag 1882.svg&lt;br /&gt;
|次代5         = ブルガリア王国 (近代)&lt;br /&gt;
|次旗5         = Bg-1913.gif&lt;br /&gt;
|次代6         = アルバニア公国&lt;br /&gt;
|次旗6         = Albania 1914 Flag.gif&lt;br /&gt;
|次代7         = フランス委任統治領シリア&lt;br /&gt;
|次旗7         = Flag of Syria French mandate.svg&lt;br /&gt;
|次代8         = フランス委任統治領レバノン&lt;br /&gt;
|次旗8         = Lebanese French flag.svg&lt;br /&gt;
|次代9         = イギリス委任統治領イラク&lt;br /&gt;
|次旗9         = Flag of the United Kingdom (3-5).svg&lt;br /&gt;
|次代10         = イギリス委任統治領パレスチナ&lt;br /&gt;
|次旗10         = Palestine-Mandate-Ensign-1927-1948.svg&lt;br /&gt;
|国旗画像      = Ottoman Flag.svg&lt;br /&gt;
|国章画像      = [[画像:OttomanCOA.jpg|85px]]&lt;br /&gt;
|国章リンク    = （国章）&lt;br /&gt;
|標語          = ''دولت ابد مدت'' &amp;lt;br&amp;gt; （ラテン文字転写:''Devlet-i Ebed-müddet''） &amp;lt;br&amp;gt; （オスマン語:永遠の国家）&lt;br /&gt;
|国歌名        = オスマン帝国の国歌&lt;br /&gt;
|国歌追記      = &lt;br /&gt;
|位置画像      = Ottoman 1683.png&lt;br /&gt;
|公用語        = [[オスマン語]]&lt;br /&gt;
|首都          = [[ソウト]]（[[1299年]] - [[1326年]]） &amp;lt;br&amp;gt; [[ブルサ]]（[[1326年]] – [[1365年]]） &amp;lt;br&amp;gt; [[エディルネ]]（[[1365年]] – [[1453年]]） &amp;lt;br&amp;gt; [[イスタンブル]]（[[1453年]] – [[1922年]]）&lt;br /&gt;
|元首等肩書    = [[オスマン帝国の君主|スルタン]]&lt;br /&gt;
|元首等年代始1 = [[1281年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終1 = [[1326年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名1   = [[オスマン1世]]（初代）&lt;br /&gt;
|元首等年代始2 = [[1918年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終2 = [[1922年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名2   = [[メフメト6世]]（最後）&lt;br /&gt;
|首相等肩書    = 大宰相&lt;br /&gt;
|首相等年代始1 = [[1320年]]&lt;br /&gt;
|首相等年代終1 = [[1331年]]&lt;br /&gt;
|首相等氏名1   = アラアッディン・パシャ（初代）&lt;br /&gt;
|首相等年代始2 = [[1920年]]&lt;br /&gt;
|首相等年代終2 = [[1922年]]&lt;br /&gt;
|首相等氏名2   = アフメト・テヴフィク・パシャ（最後）&lt;br /&gt;
|面積測定時期1 = [[1680年]]&lt;br /&gt;
|面積値1       = 12,000,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期1 = [[1856年]]&lt;br /&gt;
|人口値1       = 35,350,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期2 = [[1906年]]&lt;br /&gt;
|人口値2       = 20,884,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期3 = [[1914年]]&lt;br /&gt;
|人口値3       = 18,520,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期4 = [[1919年]]&lt;br /&gt;
|人口値4       = 14,629,000&lt;br /&gt;
|変遷1         = [[建国]]&lt;br /&gt;
|変遷年月日1   = [[1299年]]&lt;br /&gt;
|変遷2         = 空位時代&lt;br /&gt;
|変遷年月日2   = [[1402年]] - [[1413年]]&lt;br /&gt;
|変遷3         = [[オスマン帝国憲法]]発布&lt;br /&gt;
|変遷年月日3   = [[1876年]][[12月23日]]&lt;br /&gt;
|変遷4         = [[青年トルコ人革命]]起こる&lt;br /&gt;
|変遷年月日4   = [[1908年]][[7月3日]]&lt;br /&gt;
|変遷5         = 滅亡&lt;br /&gt;
|変遷年月日5   = [[1922年]][[11月17日]]&lt;br /&gt;
|通貨          = クルシュ、[[トルコリラ]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''オスマン帝国'''（オスマンていこく、[[オスマン語|オスマン語]]: دولت عالیه عثمانیه ''Devlet-i Âliye-yi Osmâniyye'' ）は、[[テュルク|トルコ系]]の王家[[オスマン家]]を[[オスマン帝国の君主|君主]]に戴き、現在の[[トルコ]]の都市[[イスタンブル]]を[[首都]]とし、西は[[モロッコ]]から東は[[アゼルバイジャン]]に至り、北は[[ウクライナ]]から南は[[イエメン]]に至る広大な領域を支配した[[帝国|多民族帝国]]（[[1299年]] - [[1922年]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アナトリア半島|アナトリア]]（小アジア）の片隅に生まれた小君侯国から発展した[[イスラム王朝]]であるオスマン朝は、やがて[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]などの[[東ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]諸国、[[マムルーク朝]]などの[[西アジア]]・[[北アフリカ]]の[[イスラム教]]諸国を征服して[[地中海]]世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展するが、やがて衰亡してその領土は蚕食されて解体し、[[20世紀]]初頭についに最後に残った領土アナトリアから新しく生まれ出た[[トルコ人|トルコ民族]]の[[国民国家]]、[[トルコ|トルコ共和国]]に取って代わられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
西欧人がオスマン帝国を {{lang|en|''Ottoman Turks''}}, {{lang|en|''Turkish Empire''}} と呼んだことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在は'''オスマン帝国'''あるいは単に'''オスマン朝'''と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、[[オスマン帝国の君主|君主]]（[[パーディシャー]]、[[スルターン|スルタン]]）の出自は[[トルコ人|トルコ系]]で宮廷の言語も[[オスマン語]]と呼ばれる[[ペルシア語]]や[[アラビア語]]の語彙を多く取り込んだ[[トルコ語]]ではあったが、支配階層には[[民族]]・[[宗教]]の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の[[国家]]とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる {{lang|tr|''Osmanl&amp;amp;#305; &amp;amp;#304;mparatorlu&amp;amp;#287;u''}} や「オスマン国家」にあたる {{lang|tr|''Osmanl&amp;amp;#305; Devleti''}} の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖[[オスマン1世]]がアナトリア（小アジア）西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる[[1299年]]を建国年とするのが通例であり、[[スルターン|スルタン]]制が廃止されて[[メフメト6世]]が廃位された[[1922年]]が滅亡年とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 建国と拡大の時代 ===&lt;br /&gt;
[[13世紀]]末に[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]と[[ルーム・セルジューク朝]]の国境地帯であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長、[[オスマン1世]]が率いる軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、遊牧民の集団であったとする説も根強いが、一般にはオスマンを指導者として結集した[[ムスリム]]（イスラム教徒）のガーズィー（[[ジハード]]に従事する戦士）たちであったとする説が有力である。彼らオスマン集団は、周辺の[[キリスト教徒]]やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する'''オスマン君侯国''' (Osmanl&amp;amp;#305; Beyli&amp;amp;#287;i) を築き上げた。&lt;br /&gt;
[[画像:Sipahi3.jpg|right|200px|thumb|初期オスマン帝国の騎兵（[[シパーヒー|スィパーヒー]]）]]&lt;br /&gt;
[[1326年]]頃オスマンの後を継いだ子の[[オルハン]]は、即位と同じ頃にビザンツ帝国の地方都市プロウサ（現在の[[ブルサ]]）を占領し、さらに[[マルマラ海]]を隔てて[[ヨーロッパ大陸]]を臨むまでに領土を拡大した。ブルサはオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1346年]]、オルハンはビザンツの共治皇帝[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]との同盟をきっかけに[[ダーダネルス海峡]]を渡って[[バルカン半島]]の[[トラキア]]に進出、ヨーロッパ側での領土拡大を開始した。オルハンの子[[ムラト1世]]は、即位するとすぐにコンスタンティノープルと[[ドナウ川]]流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル（現在の[[エディルネ]]）を占領、ここを第二の首都とするとともに、常備歩兵軍[[イェニチェリ]]を創設するなど国制を整え、[[1389年]]に[[コソボの戦い|コソヴォの戦い]]で[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を破った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ムラトの子[[バヤズィト1世]]は、[[1396年]]に[[ブルガリア]]北部における[[ニコポリスの戦い]]で[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]を中心とした[[十字軍]]を撃破、領土を大きく広げた。しかし、[[1402年]]の[[アンカラの戦い]]で[[ティムール]]に敗れて憤死し、バヤズィトの諸子の間で後継争いが起こって帝国の拡大は一時停滞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バヤズィトの子[[メフメト1世]]は、[[1412年]]に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子[[ムラト2世]]は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に[[1453年]]、ムラトの子[[メフメト2世]]はビザンツ帝国の首都[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]を攻略し、ついにビザンツ帝国を滅ぼした（[[コンスタンティノープルの陥落]]）。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシア語に由来する[[イスタンブル]]という呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして[[15世紀]]末までにバルカンとアナトリアのほぼ全土を平定し、[[黒海]]北岸や[[エーゲ海]]の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至ったオスマン帝国を[[1512年]]に継承した第9代[[セリム1世]]は、[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]を滅してイスラム世界における支配領域を[[アラブ人]]居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていた[[イスラム教]]の二大聖地[[マッカ]]（メッカ）と[[マディーナ]]（メディナ）の保護権を掌握して[[スンナ派]][[イスラム世界]]の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあった[[アッバース朝]]の末裔から[[カリフ]]の称号を譲られ、スルタン＝カリフ制を創設したとする伝説は[[19世紀]]の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オスマン帝国の最盛期 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Suleiman_Mohacs.jpg|right|200px|thumb|スレイマン1世（在位1520年-1566年）]]&lt;br /&gt;
第10代[[スレイマン1世]]のとき、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は[[中央ヨーロッパ]]、[[北アフリカ]]にまで広がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スレイマン1世は即位するとまず[[ベオグラード]]を征服してハンガリー領に進出し、[[ロードス島]]でムスリムに対する海賊行為を行っていた[[聖ヨハネ騎士団]]と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。[[1526年]]には[[モハーチの戦い]]で[[ハンガリー王国]]を破り、その大半を占領する。さらに東では[[サファヴィー朝]]から[[イラク]]の[[バグダード]]を奪い、南では[[イエメン]]に出兵して[[アデン]]を征服した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこれに前後して[[ハプスブルク家]]と対立していた[[フランス]]の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と同盟し、[[1529年]]にはハプスブルク家の[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の都[[ウィーン]]を1ヶ月以上にわたって包囲した。[[第一次ウィーン包囲]]と呼ばれるこの作戦は失敗に終わったものの、オスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことは西欧諸国に強い衝撃を与えた。さらに、[[1538年]][[プレヴェザの海戦]]では、[[スペイン]]などの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど[[大宰相]]（首相）が担うようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、軍事構造の転換によって[[火砲]]で武装した[[歩兵]]であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が高まり、その人員が爆発的に増大して維持費が軍事費を圧迫し、かわって在地の[[騎士]]である[[シパーヒー|スィパーヒー]]層が没落していった。それに応じてスィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来の[[ティマール制]]は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる[[徴税請負制]]（イルティザーム制）が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。[[#制度|制度の項]]で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、[[カピチュレーション]]（恩恵的待遇）を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での[[治外法権]]などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした[[19世紀]]には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 帝国支配の動揺 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Lepanto.jpg|right|200px|thumb|レパントの海戦]]&lt;br /&gt;
スレイマンの死から5年後の[[1571年]]、[[レパントの海戦]]でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に敗北し、地中海の覇権を失った。もっとも、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、[[1573年]]には[[キプロス島]]、翌年には[[チュニス]]を獲得したほどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。[[1579年]]、スレイマン時代から帝国を支えた大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が暗殺されて以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに[[17世紀]]前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、[[16世紀]]末頃から新大陸産の[[銀]]の流入による物価の高騰や、連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発するに至り、帝国内は急速に動揺し始める。&lt;br /&gt;
[[画像:Europa 1600 en kairyou.JPG|right|right|thumb|200px|1600年のヨーロッパ]]&lt;br /&gt;
そのような情勢の下で[[1645年]]に起こった[[ヴェネツィア共和国]]との戦争は[[1656年]]、ヴェネツィア艦隊の海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢された[[キョプリュリュ・メフメト・パシャ]]は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]が続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いた[[キョプリュリュ家]]の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国は[[クレタ島]]やウクライナにまで領土を拡大し、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿[[カラ・ムスタファ・パシャ]]は功名心から[[1683年]]に[[第二次ウィーン包囲]]を強行する。一時包囲を成功させるも、欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入る。戦後、[[1699年]]に結ばれた[[カルロヴィッツ条約]]において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家の[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に奪われた。[[1700年]]にはロシアと[[スウェーデン]]の間で起こった[[大北方戦争]]に巻き込まれ、スウェーデン王[[カール12世]]の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、[[ピョートル1世]]の治下で国力の増大著しい[[ロシア帝国]]との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、[[1711年]]の[[プルート川の戦い]]で有利な講和を結ぶことに成功するが、続くオーストリアとの戦争のために、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でセルビアの重要拠点ベオグラードを失う。&lt;br /&gt;
[[画像:Koceks_-_Surname-i_Vehbi.jpg|right|200px|thumb|アフメト3世の時代（1720年頃）の祝祭の様子。王子の[[割礼]]を祝う様子を描く。]]&lt;br /&gt;
このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。中でも[[アフメト3世]]の大宰相[[イブラヒム・パシャ]]（在任[[1718年]]-[[1730年]]）の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入された[[チューリップ]]が装飾として流行したことから、'''[[チューリップ時代]]'''と呼ばれている。しかし、[[1730年]]、サファヴィー朝の混乱に乗じて行われたイラン戦役が、[[ナーディル・シャー]]の登場でオスマン側に劣勢に動き始めると、浪費政治への不満を募らせていた人々は[[パトロナ・ハリルの乱]]を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて[[1739年]]の[[ベオグラード条約]]でベオグラードを奪還し、[[1747年]]にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握した[[アーヤーン]]と呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいたが、しかし[[産業革命]]が波及して急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は、決定的になっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近代化をめざす「瀕死の病人」 ===&lt;br /&gt;
[[18世紀]]末に入ると、[[ロシア帝国]]の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。[[1774年]]、[[キュチュク・カイナルジ条約|キュチュク・カイナルジャ条約]]によって帝国は黒海の北岸を喪失し、[[1792年]]にも再び敗れてロシアの[[クリミア半島]]の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感した[[セリム3世]]は翌[[1793年]]、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「[[ニザーム・ジェディード]]」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、[[ギリシャ]]北部から[[アルバニア]]を支配した[[テペデレンリ・アリー・パシャ]]のように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに[[1798年]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]をきっかけにエジプトの実権を掌握した[[ムハンマド・アリー]]は、[[1830年]]反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。&lt;br /&gt;
[[画像:Naval_Battle_of_Navarino_by_Carneray.jpg|right|200px|thumb|ギリシャ独立戦争の敗北（[[ナヴァリノの海戦]]）]]&lt;br /&gt;
一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族の[[ナショナリズム]]を呼び覚まし、[[ギリシャ独立戦争]]（[[1821年]] - [[1829年]]）によって[[ギリシャ王国]]が独立を果たした。これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、[[19世紀]]のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を[[東方問題]]という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、[[20世紀]]初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。[[1808年]]に即位した[[マフムト2世]]はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに[[1839年]]、[[アブデュルメジト1世]]は、改革派官僚[[ムスタファ・レシト・パシャ]]の起草した[[ギュルハネ勅令]]を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る'''[[タンジマート]]'''を始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1853年]]にはロシアとの間で[[クリミア戦争]]が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、[[1856年]]に[[改革勅令]]を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法（[[シャリーア]]）と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代[[教育]]を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の[[借款]]を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために[[農業]]のモノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、[[1875年]]、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、[[1876年]]、大宰相[[ミドハト・パシャ]]のもとで「アジア最初の成文憲法」と言われる[[オスマン帝国憲法]]（通称'''ミドハト憲法'''）を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の[[法治国家]]であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムの[[オスマン人|オスマン臣民]]としての完全な平等を定めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが憲法発布から間もない[[1878年]]に、オスマン帝国はロシアとの戦争に完敗し、帝都イスタンブル西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望む[[アブデュルハミト2世]]は、ロシアとは[[サン・ステファノ条約]]を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまるが、この時代は専制の一方で財政破産以降に帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界大戦から滅亡への道 ===&lt;br /&gt;
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは[[1889年]]に結成された「[[統一と進歩委員会]]」（通称「統一派」）をはじめとする[[青年トルコ人]]運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。&lt;br /&gt;
[[画像:Ismail_Enver.jpg|right|200px|thumb|エンヴェル・パシャ]]&lt;br /&gt;
[[1908年]]、サロニカ（現在の[[テッサロニキ]]）の統一派を中心とする[[マケドニア]]駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた（[[青年トルコ革命]]）。彼らは[[1909年]]には保守派の反革命運動を鎮圧、[[1913年]]には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者[[タラート・パシャ]]、[[エンヴェル・パシャ]]らを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間にも、サロニカを含む[[マケドニア]]と[[アルバニア]]、[[リビア]]が帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は[[汎スラヴ主義]]拡大の脅威に対抗するため[[ドイツ]]に近づき、[[1914年]]に始まる[[第一次世界大戦]]では同盟国側で参戦した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、[[ガリポリの戦い]]などいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。帝国は[[1918年]]に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝[[メフメト6世]]は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍が[[イズミル]]に上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]（ケマル・パシャ）を指導者として、トルコ人が多数を占める地域（アナトリアとバルカンの一部）の保全を求める運動が起こり、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会]]を組織して抵抗政府を結成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方連合国は、[[1920年]]、講和条約として[[セーヴル条約]]をメフメト6世に押し付けた。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容だったため、ギリシャ軍のアナトリア進攻に正当性を与えたが、かえってトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍を破り、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約の履行を諦め、新しい講和条約の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。[[1922年]]、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機に[[スルタン]]と[[カリフ]]の職権分離と、'''スルタン制の廃止'''を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世は[[マルタ]]へ亡命し、オスマン帝国政府は滅亡した（[[トルコ革命]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1923年]]、大国民議会は[[共和制]]を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家[[トルコ|トルコ共和国]]に生まれ変わった。トルコ共和国は[[1924年]]、スルタン制の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン王権は完全に終焉した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 制度 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Suleiman II.jpg|right|200px|thumb|四重冠を着用するスレイマン1世の像。この四重冠はスレイマンがイタリアの金細工職人につくらせたもので、[[ローマ教皇]]の[[教皇冠|三重冠]]を意識したものだと言われている。]]&lt;br /&gt;
オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。歴史的にヨーロッパの歴史家たちはこの国家を東方的専制帝国の典型として、一方、オスマン帝国の歴史家たちは、高貴な家柄である[[オスマン家]]がイスラムの伝統に基づいて打ち立てた世界国家であるとみなしてきた。さらに19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また20世紀前半にはヨーロッパにおいてビザンツ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制とビザンツ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいてビザンツ帝国滅亡から間もない時代には[[オスマン帝国の君主]]がルーム（[[ローマ帝国]]）の[[カエサル|カイセル]]（[[皇帝]]）と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国が[[コンスタンティノープル総主教]]の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの[[皇帝教皇主義]]の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国はビザンツ帝国すなわち[[東ローマ帝国]]の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、君主を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍制は、地方に居住し徴税権を委ねられた[[ティマール制]]による騎兵[[スィパーヒー]]と、中央の[[カプクル]]（「門の奴隷」の意）常備軍団からなり、カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集する[[デヴシルメ]]制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍[[イェニチェリ]]は、火器を扱うことから軍事革命の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝国の領土は直轄州、独立採算州、[[属国]]からなる。属国（[[クリミア・ハン国|クリミア]]、[[ワラキア]]、[[モルダヴィア]]、[[トランシルヴァニア]]、[[ヒジャーズ]]など）は[[君主]]の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州（[[エジプト]]など）は州知事（総督）など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。直轄州は州（大軍管区）、県（小軍管区）、郡（法官管区）に分かれ、郡ごとに[[カーディー]]が任命されて行政を担当し、県と州にはそれぞれサンジャクベイ（県知事）、ベイレルベイ（州知事）と呼ばれる軍人が任命されて管区内の兵を統括した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中央では、君主を頂点とし、大宰相（[[大宰相|サドラザム]]）以下の宰相（[[ワズィール|ヴェズィール]]）がこれを補佐し、彼らと軍人法官（[[カザスケル]]）、財務長官（[[デフテルダル]]）、国璽尚書（[[ニシャンジュ]]）から構成される御前会議（[[ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン]]）が最高政策決定機関として機能した。[[17世紀]]に君主が政治の表舞台から退くと、大宰相が君主の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府（[[バーブ・アーリー]]）に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長（[[レイスルキュッターブ]]）、大宰相府の幹部である大宰相用人（[[サダーレト・ケトヒュダース]]）などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。&lt;br /&gt;
[[画像:Bab-i_Ali.jpg|right|200px|thumb|大宰相府（バーブ・アーリー）の門]]&lt;br /&gt;
中央政府の官僚機構は、軍人官僚（カプクル）と、法官官僚（ウラマー）と、書記官僚（キャーティプ）の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、[[マドラサ|メドレセ]]（宗教学校）でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授や[[ムフティー]]の公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官（[[カザスケル]]）であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」（[[シェイヒュルイスラーム]]）である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、[[宦官]]を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に[[西欧]]を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた[[閣議]]の長とされて事実上の[[内閣]]を率いる[[首相]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、[[イスラム国家]]としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
オスマン朝では、[[神学]]や[[哲学]]のような形而上の学問では[[アラブ]]・[[イラン]]のものを上回るものはあらわれなかったと言われるが、それ以外の分野では数多くの優れた作品を残した。&lt;br /&gt;
[[画像:Pitcher_Iznik_Louvre_OA7595.jpg|left|200px|thumb|イズニク陶器の水差し（16世紀頃）]]&lt;br /&gt;
建築は、イスラムの伝統様式に加えてギリシャ建築の影響を受け、[[オスマン建築]]と呼ばれる独特の様式を生み出した。[[モスク]]などに現存する優れた作品が多く、[[17世紀]]に立てられた[[スルタンアフメット・モスク]]（ブルーモスク）がもっとも有名である。建築家はイスタンブルの[[スレイマニエ・モスク]]やエディルネの[[セリミエ・モスク]]を建てた[[16世紀]]前半の[[ミマール・スィナン]]が代表的であるが、[[アルメニア人]]の建築家も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築の[[トプカプ宮殿]]や、[[バロック]]様式とオスマン様式を折衷させた[[ドルマバフチェ宮殿]]が名高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陶芸は、16～17世紀の[[イズニク]]で、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心は[[キュタヒヤ]]に移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文学は、[[トルコ語]]に[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させた[[オスマン語]]が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野で[[ペルシア文学]]の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく（[[トルコ文学]]の記事も参照）。&lt;br /&gt;
[[画像:Surname.jpg|right|160px|thumb|楽人（レヴニー画）]]&lt;br /&gt;
美術の分野では、[[イスラム世界]]から受け継いだ[[アラビア文字]]の[[書道]]が発展し、絵画はイラン経由で中国絵画の技法を取り入れた[[ミニアチュール]]（細密画）が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
音楽は[[アラブ音楽]]の影響を受けたリュート系統の[[弦楽器]]や[[笛]]を用いた繊細な宮廷音楽（[[オスマン古典音楽]]）と、[[チャルメラ]]・[[ラッパ]]や[[太鼓]]・[[ドラム]]の類によって構成された勇壮な軍楽（[[メフテル]]）とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている（[[トルコ音楽]]の記事も参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[園芸]]では、[[チューリップ]]、[[ヒアシンス]]、[[アネモネ]]、[[ラナンキュラス]]などが庭園で栽培され園芸植物化され、多くの品種を生じた。これらは16世紀にヨーロッパに伝えられ、[[フローリスツ・フラワー]]として発展し、現在も重要な園芸植物として扱われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ゲーム ==&lt;br /&gt;
* Ottomans The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571（Strategy &amp;amp; Tactics 222号）Decision Games 、2004年。(英語）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[オスマン家]]&lt;br /&gt;
* [[オスマン帝国の君主]]&lt;br /&gt;
* [[ローマ帝国]]&lt;br /&gt;
* [[ビザンツ帝国]]&lt;br /&gt;
* [[トルコ]]&lt;br /&gt;
* [[オスマン語]]&lt;br /&gt;
* [[ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年。&lt;br /&gt;
* 新井政美『オスマン vs. ヨーロッパ』（講談社選書メチエ）講談社、2002年。&lt;br /&gt;
* 鈴木菫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』（講談社現代新書）講談社、1992年。&lt;br /&gt;
* 永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』（世界の歴史15）中央公論社、1998年。&lt;br /&gt;
* 永田雄三（編）『西アジア史II イラン・トルコ』（新版世界各国史9）山川出版社、2002年。&lt;br /&gt;
* 林佳世子『オスマン帝国の時代』（世界史リブレット）山川出版社、1997年。&lt;br /&gt;
* テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』（「知の再発見」双書）創元社、1996年。&lt;br /&gt;
* ロベール・マントラン『トルコ史』（文庫クセジュ）白水社、1982年。&lt;br /&gt;
* 三橋冨治男『トルコの歴史』（紀伊国屋新書）紀伊国屋書店、1962年。&lt;br /&gt;
* [[スティーヴン・ランシマン]]『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1969年。&lt;br /&gt;
* オスマン帝国史を題材にとった歴史文学には[[塩野七生]]の以下の作品がある。&lt;br /&gt;
** 『コンスタンティノープルの陥落』（新潮文庫）&lt;br /&gt;
** 『ロードス島攻防記』（新潮文庫）&lt;br /&gt;
** 『レパントの海戦』（新潮文庫）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Ottoman Empire}}&lt;br /&gt;
* [http://www.lahana.org/blog/index.htm 450+ Articles and abstracts about Ottoman Empire]&lt;br /&gt;
* [http://www.lahana.org/resimler/thumbnails.php?album=7 Miniatures and pictures of Ottomans (politic, social life and military)]&lt;br /&gt;
* [http://trboard.org/modules/makale/makale.php?id=63 States that have been founded over the Ottoman Lands]&lt;br /&gt;
* [http://trboard.org/modules/makale/index.php?cat_id=6 Osmanlı Medeniyeti - オスマン帝国 ]（英語）&lt;br /&gt;
* [http://www.osmanli700.gen.tr/english/engindex.html Ottoman Web Site]（英語）&lt;br /&gt;
* [http://www.theottomans.org/english/index.asp TheOttomans.org]（英語）&lt;br /&gt;
* [http://www.kultur.gov.tr/portal/tarih_en.asp?belgeno=1258 Ottoman Empire - トルコ文化省]（英語）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [http://gold.natsu.gs/WG/ En hommage a SPI SPIへのオマージュ] -「Ottomans:The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571の日本語版ルール」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:オスマン帝国|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:帝国|おすまんていこく]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured_article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[be-x-old:Асманская імпэрыя]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ar:عثمانيون]]&lt;br /&gt;
[[ast:Imperiu Otomanu]]&lt;br /&gt;
[[az:Osmanlı İmperiyası]]&lt;br /&gt;
[[bg:Османска империя]]&lt;br /&gt;
[[br:Impalaeriezh otoman]]&lt;br /&gt;
[[bs:Osmanlijsko carstvo]]&lt;br /&gt;
[[ca:Imperi Otomà]]&lt;br /&gt;
[[cs:Osmanská říše]]&lt;br /&gt;
[[cy:Ymerodraeth yr Otomaniaid]]&lt;br /&gt;
[[da:Osmanniske Rige]]&lt;br /&gt;
[[de:Osmanisches Reich]]&lt;br /&gt;
[[diq:İmparatoriya Usmanıci]]&lt;br /&gt;
[[el:Οθωμανική αυτοκρατορία]]&lt;br /&gt;
[[en:Ottoman Empire]]&lt;br /&gt;
[[eo:Otomana imperio]]&lt;br /&gt;
[[es:Imperio Otomano]]&lt;br /&gt;
[[fa:امپراتوری عثمانی]]&lt;br /&gt;
[[fi:Osmanien valtakunta]]&lt;br /&gt;
[[fr:Empire ottoman]]&lt;br /&gt;
[[gl:Imperio Otomán]]&lt;br /&gt;
[[he:האימפריה העות'מאנית]]&lt;br /&gt;
[[hr:Osmansko Carstvo]]&lt;br /&gt;
[[hu:Oszmán Birodalom]]&lt;br /&gt;
[[ia:Imperio Ottoman]]&lt;br /&gt;
[[id:Kesultanan Utsmaniyah]]&lt;br /&gt;
[[io:Otomana Imperio]]&lt;br /&gt;
[[it:Impero Ottomano]]&lt;br /&gt;
[[ka:ოსმალეთის იმპერია]]&lt;br /&gt;
[[ko:오스만 제국]]&lt;br /&gt;
[[ku:Împaratoriya Osmanî]]&lt;br /&gt;
[[la:Imperium Ottomanicum]]&lt;br /&gt;
[[lb:Osmanescht Räich]]&lt;br /&gt;
[[lt:Osmanų imperija]]&lt;br /&gt;
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[[nds:Osmaansch Riek]]&lt;br /&gt;
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[[oc:Empèri otoman]]&lt;br /&gt;
[[pl:Imperium osmańskie]]&lt;br /&gt;
[[pt:Império Otomano]]&lt;br /&gt;
[[rmy:Otomano Thagaripen]]&lt;br /&gt;
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[[ru:Османская империя]]&lt;br /&gt;
[[sh:Otomanski Imperij]]&lt;br /&gt;
[[simple:Ottoman Empire]]&lt;br /&gt;
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[[sl:Osmansko cesarstvo]]&lt;br /&gt;
[[sq:Perandoria Osmane]]&lt;br /&gt;
[[sr:Османско царство]]&lt;br /&gt;
[[sv:Osmanska riket]]&lt;br /&gt;
[[th:จักรวรรดิออตโตมัน]]&lt;br /&gt;
[[tr:Osmanlı Devleti]]&lt;br /&gt;
[[uk:Османська імперія]]&lt;br /&gt;
[[ur:سلطنت عثمانیہ]]&lt;br /&gt;
[[uz:Usmonlilar imperiyasi]]&lt;br /&gt;
[[vi:Đế quốc Ottoman]]&lt;br /&gt;
[[zh:奥斯曼帝国]]&lt;br /&gt;
[[zh-classical:鄂圖曼帝國]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>85.214.91.152</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%8B%95%E8%AA%AC&amp;diff=5306</id>
		<title>天動説</title>
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				<updated>2007-05-28T08:30:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Cellarius_ptolemaic_system.jpg|thumb|250px|right|天動説の図]]&lt;br /&gt;
'''天動説'''（てんどうせつ）は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと。大別して、エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と、プトレマイオスの天動説の2種がある。単に天動説と言う場合、後発で最終的に体系を完成させたプトレマイオスの天動説のことを指すことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[2世紀]]に[[クラウディオス・プトレマイオス]]によって体系化された。[[地動説]]に対義する学説である。[[地球]]が[[宇宙]]の中心にあるという'''地球中心説'''ともいうが、地球が動いているかどうかと、地球が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、天動説は「Geocentric model (theory)（＝地球を中心とした構造模型）」の訳語として不適切だとの指摘もある。なお中国語では「地心説」という。後述する、半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される。（しかし、日本語では、「天動説」という語が当てられたため、天上の天体が運動しているという世界観のすべてが天動説であると誤解されることが多い）13世紀から17世紀頃までは、[[カトリック教会]]公認の世界観だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代、多くの学者が[[宇宙]]の構造について考えを述べた。古代[[ギリシャ]]では、[[アリストテレス]]やエウドクソスは、宇宙の中心にある地球の周りを全天体が公転しているという説を唱えていたが、エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは[[地球]]も[[太陽]]も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた。（古代ギリシア以外の宇宙観については後述）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それらの学説からより確からしいものを集め、体系化したのが[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]である。[[ヒッパルコス]]の説に改良を加えたものだと考えられているが、確証はない。地球が宇宙の中心にあるという説を唱えた学者はこれ以前にもいるし、[[惑星]]の位置計算を比較的に正確に行った者もそれ以前にいたが、最終的にすべてを体系化したプトレマイオスの名をとり、今なおこの形の天動説は、'''プトレマイオスの天動説'''とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含めすべての天体は約1日かけて地球の周りを[[公転]]する。だが、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。[[天球]]という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含むすべての天体を包み込んでいる。[[恒星]]は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、[[神]]が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と[[月]]の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天動説は単なる[[天文学]]上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが[[人間]]の住む特別の天体だからである。地球は宇宙の中心であるとともに、すべての天体の主人でもある。すべての天体は地球の僕であり、主人に従う形で運動する。中世ヨーロッパにおいては、当時アリストテレス哲学をその体系の枠組みとして受け入れていた中世[[キリスト教]]神学に合致するものとして、天動説が公式な宇宙観とみなされていた。14世紀に発表された[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の叙事詩『[[神曲]]』天国篇においても、地球のまわりを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 天動説の歴史 ==&lt;br /&gt;
=== エウドクソスの同心天球 ===&lt;br /&gt;
[[紀元前4世紀]]、[[古代ギリシア]]の[[エウドクソス]]は、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星がちりばめられており（恒星球）、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する（日周運動）。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する（年周運動）。太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその[[正中|南中]]高度が変わり、季節が説明される。恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた。地球から見て[[惑星]]は[[星座]]の中をゆっくりと動くように見える。これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星は天球上で速さを変えたり、[[順行・逆行|逆行]]といって一時期だけ逆に動くことがある。逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した。これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない。エウドクソスの同心天球は[[アリストテレス]]の宇宙像に組み入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アポロニウスの周転円 ===&lt;br /&gt;
[[紀元前3世紀]]ごろの[[ペルガのアポロニウス|アポロニウス]]あるいは&lt;br /&gt;
[[紀元前2世紀]]の[[ヒッパルコス]]は、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を'''周転円'''、周転円が乗っている大きな円を'''従円'''と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、進む方向や速さが変化するように見える。これによって惑星の接近による明るさの変化、巡行と逆行の速度の差を大雑把に説明できた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全ての惑星が同一平面上にある太陽を中心とした円軌道を等速運動しているのであれば、地球から見た惑星の運動は、円軌道と一つの周転円のみで記述することができるはずである。しかし、現実の惑星の運動はそのようにはなっておらず、惑星の運動を天動説で正確に記述するためにはより複雑な体系が必要になる。そのためヒッパルコス以降、プトレマイオスを始めとしてさまざまな天動説モデルが提唱され、最終的には地動説の[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]を経て[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[万有引力の法則]]に基づく宇宙モデルに至ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プトレマイオスの体系 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Ptolemaic elements.svg|thumb|200px|プトレマイオスによる惑星の運動&amp;lt;br/&amp;gt;離心円の中心Xは地球の中心とは異なる。離心円の回転は、エカント点（・）から見る角速度が一定となるように動く。]]&lt;br /&gt;
[[2世紀]]に[[アレクサンドリア]]で活躍した[[プトレマイオス]]は周転円を取り入れつつ、'''離心円'''と'''エカント'''([[:en:equant|equant]])を導入、体系化した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる（離心円）。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
図は比較的簡単な例であるが、これでも図示されている大きな離心円と小さな周転円のほかに、離心円の中心Xの運動、恒星球の日周運動、エカント点を中心とする角度など、このひとつの惑星の運行に5つの動きが絡んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系では地球から惑星までの平均距離にほぼ相当する離心円の径をどう採っても、視方向が同じである周転円を作ることができる。とりあえず各惑星の周転円が重なり合うことを避けるため、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった。その外側を恒星球が取り囲む。この宇宙像は、エウドクソス、アリストテレスの同心天球の拡張形とも言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プトレマイオス後の展開 ===&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系をまとめた『[[アルマゲスト]]』は、中世イスラム世界を経て中世ヨーロッパへ引き継がれ、およそ1500年にわたって教科書的な権威を持ち続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いっぽう、[[6世紀]]インドの[[アリヤバータ]]([[:en:Aryabhata|Aryabhata]])は太陽中心の地動説を唱えている。インドには[[古代ギリシア]]の天文学が入ってきており、その影響が指摘されている。彼の著作は[[8世紀]]にアラビア語に、[[13世紀]]にはラテン語に翻訳されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[8世紀]]に[[アッバース朝]]が建設した都[[バグダード]]は、[[ヘレニズム]]文明、文化の継承とインド文明などが出会う「るつぼ」であり、[[イスラム科学]]の中心地となった。&lt;br /&gt;
[[9世紀]]ごろシリア地方で活躍した[[バッターニー]]は、詳しい観測を行い、プトレマイオスの体系を継承発展させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[14世紀]][[ウマイヤ朝]]の[[ダマスカス]]に居た[[イブン・アル＝シャーティル]]([[:en:Ibn al-Shatir|Ibn al-Shatir]])は、天動説の立場に立ちながらエカント点を排除する、コペルニクスと数学的にそっくりの系を考えた。円運動から直線往復運動を作り出す手法はシャーティルに先だって[[13世紀]]の[[ナスィールッディーン・トゥースィー|ナスィール・アル＝ディーン・トゥースィー]]([[:en:Nasir al-Din Tusi|Nasir al-Din Tusi]])によって編み出されている(トゥースィーの対円、[[:en:Tusi-couple|Tusi-couple]])。&lt;br /&gt;
彼らの業績がコペルニクスの説に影響を与えた可能性も指摘されているが、証拠は認められていない。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--[[パドヴァ大学]]に居たジョヴァンニ・バッティスタ・アミーコの1536年の著作はトゥースィーの手法を使っている。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヨーロッパでの受容と展開 ===&lt;br /&gt;
[[十字軍]]遠征やイベリア半島における[[レコンキスタ]]、地中海貿易などは、ヨーロッパとイスラム世界との接触を活発にした。11-13世紀にかけて、イスラム科学の成果は[[シチリア王国]]の首都[[パレルモ]]、[[カスティーリャ王国]]の首都[[トレド]]などで精力的に研究され、翻訳が成された（→[[12世紀ルネサンス]]）。&lt;br /&gt;
アリストテレスなど古代ギリシアの文献も、アラビア語訳からの重訳という形でヨーロッパにもたらされた。&lt;br /&gt;
それまでの[[カトリック教会]]の[[神学]]は[[アウグスティヌス]]など[[ラテン教父]]による、[[ネオプラトニズム]]を基盤にしたものであった。[[1210年]]にパリの聖職者会議がアリストテレスを教えることを禁止するなど、新しく流入した知識を採り入れることに抵抗はあったものの、13世紀後半に活躍する[[アルベルトゥス・マグヌス]]や[[トマス・アクィナス]]らにより、けっきょくはアリストテレスの哲学は[[スコラ学]]の主流となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系も受け入れられて、[[13世紀]]に[[カスティーリャ王国]]の[[アルフォンソ10世]]のもとで編纂された『[[アルフォンソ天文表]]』は、その後の補正を受けながらも[[17世紀]]までヨーロッパで使われていた。&lt;br /&gt;
[[15世紀]]のドイツでプトレマイオスなどの研究をした[[レギオモンタヌス]]（ヨハン・ミューラー）の業績は、彼の死後[[1496年]]に『アルマゲスト綱要』として出版され、コペルニクスの研究に大きな影響を与えた。このころになると、『アルマゲスト』もアラビア語からの重訳ではなく、ギリシア語原典に当たることができていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[16世紀]]のヨーロッパで[[ニコラウス・コペルニクス]]が[[地動説]]を唱えた。コペルニクスの説は太陽を中心に地球を含む惑星が公転するという点で画期的であるとともに、エカント点を排除してすべての運行を大小の等速円運動で記述した。エカント点の排除に小周転円が必要だったので、計算の手間はプトレマイオスと大して変わらなかったし、予測精度も大きく上がることはなかった。地球の位置が動くならば恒星の見える方向が変化するはずなのに、当時の観測精度ではそれ（年周視差）が認められなかったことも、コペルニクスの説がただちには受け入れられなかった理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Tychonian_system.svg|thumb|200px|ティコの太陽系。動かぬ地球を中心に、他の惑星を引き連れた太陽が回転する。]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コペルニクス説の影響を受けて、[[17世紀]]の[[ティコ・ブラーエ]]は、動かぬ地球を中心にしながらも、月と地球を除く惑星が太陽の回りを周回する宇宙を考えた。ティコの太陽系はプトレマイオスの天動説の発展形とも言える。プトレマイオスの体系でも太陽系というものがまったく存在しなかったわけではない。[[内惑星]]である水星と金星の離心円の回転角は、太陽のそれと同じであった。しかし[[外惑星]]は別扱いされた。内惑星を地球から見ると太陽からある程度以上は離れることはないが、外惑星は太陽の反対側へも回り込む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系では、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていた。この配列で水星、金星、太陽を見ると、この順に離心円の径が大きくなる。しかし、ティコはこれらを同じにした。周転円が重なり合うことを問題にしなければこれができ、これに応じて周転円の径を変えると地球からの視方向が同じであるものができる。この系では太陽の回りを水星、金星が回る。さらに外惑星も同じようにできるが、この場合は離心円の径と周転円の径の大小が反転する。しかし、もともと ''離心円の径 &amp;gt; 周転円の径'' であったのは、周転円同士が重なり合わないための要請で、それを取り払うと問題ではなくなる。すなわち、ティコが破ったプトレマイオスの掟は周転円同士の重なりであった。もとのプトレマイオスの体系でも離心円同士は重なっていたのだから、周転円同士の重なりを回避するのは不自然な要請だったのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[16世紀]]に[[ニコラウス・コペルニクス]]が地動説を唱えた後にも、天動説を脅かす事件は続いた。新星が観測されたことは月より遠方ではいかなる変化も起きないというアリストテレス的宇宙観にとって、これは大きな問題となった。さらに、[[ティコ・ブラーエ]]が[[彗星]]を観測し、この天体が月より遠方にあることを証明した。これは激しい論争を生んだ。多くは彗星を気象現象として考えようというものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地動説 ==&lt;br /&gt;
そして破綻は[[17世紀]]にやってきた。[[ガリレオ・ガリレイ]]は望遠鏡を用い、[[木星]]に[[衛星]]があることを発見した。当時、[[地動説]]を攻撃する理由に、次のようなものがあった。いわく、もし[[地球]]が[[太陽]]の周りを公転するのならば、月は飛ばされてどこかに行ってしまうだろう。しかし、天動説でも全く同様の問題が生じることが、これにより明らかになったのである。しかし、当時は[[望遠鏡]]を何かまやかしやごまかしの器具であると考えた者もいて、天動説を捨てる学者はなかなか現れなかった。天動説への不利な観測結果は、望遠鏡を用いて次々にもたらされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的に、[[ヨハネス・ケプラー]]の地動説モデル([[ケプラーの法則]])に基づくルドルフ星表の正確さが誰の目にも明らかになると、議論は収束に向かった。[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]は、ケプラーの法則の証明として[[慣性]]の概念を始めとした[[ニュートン力学|運動の法則]]、および[[万有引力の法則]]という極めて普遍的な法則を導きだしたが、これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力についての問題、月が飛ばされない問題等の困難を解決すると共に、惑星のみならず石ころから[[恒星]]まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった。これらの輝かしい成功によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった。慣性の概念と万有引力の法則は、太陽を全宇宙の中心とする旧来の地動説をも葬り去ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他文明と天動説 ==&lt;br /&gt;
古代ギリシア・古代ローマ文明以外では、天動説に類する[[宇宙観]]は生まれないか、発展しなかった。[[メソポタミア文明]]では、詳しい惑星の位置観測結果が粘土板として出土しているが、この文明がどのような[[世界観]]を持っていたのかは不明である。多くの文明は、半球状の世界の中心に観測者がいるという世界観を持っていた。この場合、球状の「地球」が世界の真ん中に浮かんでいるという概念がまだ存在しないので、天動説とは呼ばない。古代[[インド]]では、須弥山説（ヘビの上にカメが乗り、その上にゾウが乗って、その上に人間の住む世界があるという世界観）が唱えられ、古代[[中国]]では、[[蓋天説]]や[[渾天説]]が唱えられた。ただし、これらの文明と古代ギリシア文明とは、学問の上で大きな接触があったとはいえず、これらの説や天動説が互いに影響を与えたかどうかについては詳しい研究はない。中国独自の無限宇宙論といえる[[宣夜説]]の形成には、天動説が影響したと考える研究者もいるが、確証はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前述したとおり、その後、天動説は古代ギリシア・ローマからアラビア文化圏を経て中国に渡り、アラビアと中国で独自の発展を遂げた。これらの文化圏が既に持っていた世界観との乖離は、特に問題とはならず、その地の知識人は抵抗もなくこれらの学説を受け入れた。しかし、アラビア、中国での天動説の発展は主に観測精度の向上で、体系の発展はあまりなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代における天動説の立場 ==&lt;br /&gt;
[[2004年]][[国立天文台]]の研究者のアンケートによると、小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思っており、3割は太陽の沈む方角を答えられないという結果が出たという。[[文部科学省]]の答弁によると、「これらのことは、中学校で教育する。」とのことだったが、日本における[[理科離れ]]、科学リテラシーの低さとあわせて問題視する意見もある。一方で、多大な労力を要することになるが、それさえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能であり、単に地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうかは今後の議論が必要である。天動説が無知な古代人の妄想ではなく、緻密な数学的背景を持った科学的体系であったことを認識することは大切である。但し、天動説（地球中心説）が正しいのはあくまで数学的にであって、[[物理]]的（[[力学]]的）にはもちろん完全に破綻している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、地球中心説としての天動説は誤りであったが、太陽が動いているという意味での天動説は、現在では新たな意味を持って復活している。ニュートンの万有引力の法則は、太陽が宇宙の中心ではない可能性を示唆するものでもあり、実際に太陽は宇宙の中心ではなかった。現在では太陽は[[銀河系]]を構成する無数の星のひとつとして（ちょうど地球が他の惑星と共に太陽のまわりを回っているように）他の星々と共に銀河系の中心のまわりを回っていることが知られており、その銀河系もまたこの宇宙に無数に存在する[[銀河]]の一つに過ぎないことが知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『アルマゲスト』[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]著 ; [[薮内清]]訳 ; 恒星社厚生閣 1982年&lt;br /&gt;
* 『天體の囘轉について』[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]著 ; 矢島祐利訳 ; 岩波書店 1953年 ISBN 4003390512&lt;br /&gt;
* 『天文対話』（上下巻）[[ガリレオ・ガリレイ]]著 ; 青木靖三訳 ; 岩波書店 1959年 ; 上巻：ISBN 400339061X 、下巻：ISBN 4003390628&lt;br /&gt;
* 『天動説の絵本—てんがうごいていたころのはなし』[[安野光雅]]著 ; 福音館書店 1979年 ; ISBN 4834007510&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[地動説]]&lt;br /&gt;
* [[宇宙論]]&lt;br /&gt;
* [[クラウディオス・プトレマイオス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.astron.pref.gunma.jp/kyozai01/tendou/tendou_top.html 天動説と地動説]&lt;br /&gt;
* [http://www12.plala.or.jp/ksp/mechanics/chap2/ptolemaios.html プトレマイオスの天動説]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/天動説 '''天動説''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=天動説&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
[[Category:アリストテレス|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:天文学|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:太陽|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:科学史|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:世界観|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:否定された仮説|てんとうせつ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>85.214.91.152</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>天動説</title>
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				<updated>2007-05-28T08:30:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%8B%95%E8%AA%AC&amp;amp;oldid=12742159&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Cellarius_ptolemaic_system.jpg|thumb|250px|right|天動説の図]]&lt;br /&gt;
'''天動説'''（てんどうせつ）は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと。大別して、エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と、プトレマイオスの天動説の2種がある。単に天動説と言う場合、後発で最終的に体系を完成させたプトレマイオスの天動説のことを指すことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[2世紀]]に[[クラウディオス・プトレマイオス]]によって体系化された。[[地動説]]に対義する学説である。[[地球]]が[[宇宙]]の中心にあるという'''地球中心説'''ともいうが、地球が動いているかどうかと、地球が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、天動説は「Geocentric model (theory)（＝地球を中心とした構造模型）」の訳語として不適切だとの指摘もある。なお中国語では「地心説」という。後述する、半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される。（しかし、日本語では、「天動説」という語が当てられたため、天上の天体が運動しているという世界観のすべてが天動説であると誤解されることが多い）13世紀から17世紀頃までは、[[カトリック教会]]公認の世界観だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代、多くの学者が[[宇宙]]の構造について考えを述べた。古代[[ギリシャ]]では、[[アリストテレス]]やエウドクソスは、宇宙の中心にある地球の周りを全天体が公転しているという説を唱えていたが、エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは[[地球]]も[[太陽]]も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた。（古代ギリシア以外の宇宙観については後述）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それらの学説からより確からしいものを集め、体系化したのが[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]である。[[ヒッパルコス]]の説に改良を加えたものだと考えられているが、確証はない。地球が宇宙の中心にあるという説を唱えた学者はこれ以前にもいるし、[[惑星]]の位置計算を比較的に正確に行った者もそれ以前にいたが、最終的にすべてを体系化したプトレマイオスの名をとり、今なおこの形の天動説は、'''プトレマイオスの天動説'''とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含めすべての天体は約1日かけて地球の周りを[[公転]]する。だが、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。[[天球]]という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含むすべての天体を包み込んでいる。[[恒星]]は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、[[神]]が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と[[月]]の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天動説は単なる[[天文学]]上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが[[人間]]の住む特別の天体だからである。地球は宇宙の中心であるとともに、すべての天体の主人でもある。すべての天体は地球の僕であり、主人に従う形で運動する。中世ヨーロッパにおいては、当時アリストテレス哲学をその体系の枠組みとして受け入れていた中世[[キリスト教]]神学に合致するものとして、天動説が公式な宇宙観とみなされていた。14世紀に発表された[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の叙事詩『[[神曲]]』天国篇においても、地球のまわりを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 天動説の歴史 ==&lt;br /&gt;
=== エウドクソスの同心天球 ===&lt;br /&gt;
[[紀元前4世紀]]、[[古代ギリシア]]の[[エウドクソス]]は、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星がちりばめられており（恒星球）、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する（日周運動）。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する（年周運動）。太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその[[正中|南中]]高度が変わり、季節が説明される。恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた。地球から見て[[惑星]]は[[星座]]の中をゆっくりと動くように見える。これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星は天球上で速さを変えたり、[[順行・逆行|逆行]]といって一時期だけ逆に動くことがある。逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した。これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない。エウドクソスの同心天球は[[アリストテレス]]の宇宙像に組み入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アポロニウスの周転円 ===&lt;br /&gt;
[[紀元前3世紀]]ごろの[[ペルガのアポロニウス|アポロニウス]]あるいは&lt;br /&gt;
[[紀元前2世紀]]の[[ヒッパルコス]]は、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を'''周転円'''、周転円が乗っている大きな円を'''従円'''と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、進む方向や速さが変化するように見える。これによって惑星の接近による明るさの変化、巡行と逆行の速度の差を大雑把に説明できた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全ての惑星が同一平面上にある太陽を中心とした円軌道を等速運動しているのであれば、地球から見た惑星の運動は、円軌道と一つの周転円のみで記述することができるはずである。しかし、現実の惑星の運動はそのようにはなっておらず、惑星の運動を天動説で正確に記述するためにはより複雑な体系が必要になる。そのためヒッパルコス以降、プトレマイオスを始めとしてさまざまな天動説モデルが提唱され、最終的には地動説の[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]を経て[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[万有引力の法則]]に基づく宇宙モデルに至ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プトレマイオスの体系 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Ptolemaic elements.svg|thumb|200px|プトレマイオスによる惑星の運動&amp;lt;br/&amp;gt;離心円の中心Xは地球の中心とは異なる。離心円の回転は、エカント点（・）から見る角速度が一定となるように動く。]]&lt;br /&gt;
[[2世紀]]に[[アレクサンドリア]]で活躍した[[プトレマイオス]]は周転円を取り入れつつ、'''離心円'''と'''エカント'''([[:en:equant|equant]])を導入、体系化した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる（離心円）。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
図は比較的簡単な例であるが、これでも図示されている大きな離心円と小さな周転円のほかに、離心円の中心Xの運動、恒星球の日周運動、エカント点を中心とする角度など、このひとつの惑星の運行に5つの動きが絡んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系では地球から惑星までの平均距離にほぼ相当する離心円の径をどう採っても、視方向が同じである周転円を作ることができる。とりあえず各惑星の周転円が重なり合うことを避けるため、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった。その外側を恒星球が取り囲む。この宇宙像は、エウドクソス、アリストテレスの同心天球の拡張形とも言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プトレマイオス後の展開 ===&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系をまとめた『[[アルマゲスト]]』は、中世イスラム世界を経て中世ヨーロッパへ引き継がれ、およそ1500年にわたって教科書的な権威を持ち続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いっぽう、[[6世紀]]インドの[[アリヤバータ]]([[:en:Aryabhata|Aryabhata]])は太陽中心の地動説を唱えている。インドには[[古代ギリシア]]の天文学が入ってきており、その影響が指摘されている。彼の著作は[[8世紀]]にアラビア語に、[[13世紀]]にはラテン語に翻訳されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[8世紀]]に[[アッバース朝]]が建設した都[[バグダード]]は、[[ヘレニズム]]文明、文化の継承とインド文明などが出会う「るつぼ」であり、[[イスラム科学]]の中心地となった。&lt;br /&gt;
[[9世紀]]ごろシリア地方で活躍した[[バッターニー]]は、詳しい観測を行い、プトレマイオスの体系を継承発展させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[14世紀]][[ウマイヤ朝]]の[[ダマスカス]]に居た[[イブン・アル＝シャーティル]]([[:en:Ibn al-Shatir|Ibn al-Shatir]])は、天動説の立場に立ちながらエカント点を排除する、コペルニクスと数学的にそっくりの系を考えた。円運動から直線往復運動を作り出す手法はシャーティルに先だって[[13世紀]]の[[ナスィールッディーン・トゥースィー|ナスィール・アル＝ディーン・トゥースィー]]([[:en:Nasir al-Din Tusi|Nasir al-Din Tusi]])によって編み出されている(トゥースィーの対円、[[:en:Tusi-couple|Tusi-couple]])。&lt;br /&gt;
彼らの業績がコペルニクスの説に影響を与えた可能性も指摘されているが、証拠は認められていない。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--[[パドヴァ大学]]に居たジョヴァンニ・バッティスタ・アミーコの1536年の著作はトゥースィーの手法を使っている。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヨーロッパでの受容と展開 ===&lt;br /&gt;
[[十字軍]]遠征やイベリア半島における[[レコンキスタ]]、地中海貿易などは、ヨーロッパとイスラム世界との接触を活発にした。11-13世紀にかけて、イスラム科学の成果は[[シチリア王国]]の首都[[パレルモ]]、[[カスティーリャ王国]]の首都[[トレド]]などで精力的に研究され、翻訳が成された（→[[12世紀ルネサンス]]）。&lt;br /&gt;
アリストテレスなど古代ギリシアの文献も、アラビア語訳からの重訳という形でヨーロッパにもたらされた。&lt;br /&gt;
それまでの[[カトリック教会]]の[[神学]]は[[アウグスティヌス]]など[[ラテン教父]]による、[[ネオプラトニズム]]を基盤にしたものであった。[[1210年]]にパリの聖職者会議がアリストテレスを教えることを禁止するなど、新しく流入した知識を採り入れることに抵抗はあったものの、13世紀後半に活躍する[[アルベルトゥス・マグヌス]]や[[トマス・アクィナス]]らにより、けっきょくはアリストテレスの哲学は[[スコラ学]]の主流となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系も受け入れられて、[[13世紀]]に[[カスティーリャ王国]]の[[アルフォンソ10世]]のもとで編纂された『[[アルフォンソ天文表]]』は、その後の補正を受けながらも[[17世紀]]までヨーロッパで使われていた。&lt;br /&gt;
[[15世紀]]のドイツでプトレマイオスなどの研究をした[[レギオモンタヌス]]（ヨハン・ミューラー）の業績は、彼の死後[[1496年]]に『アルマゲスト綱要』として出版され、コペルニクスの研究に大きな影響を与えた。このころになると、『アルマゲスト』もアラビア語からの重訳ではなく、ギリシア語原典に当たることができていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[16世紀]]のヨーロッパで[[ニコラウス・コペルニクス]]が[[地動説]]を唱えた。コペルニクスの説は太陽を中心に地球を含む惑星が公転するという点で画期的であるとともに、エカント点を排除してすべての運行を大小の等速円運動で記述した。エカント点の排除に小周転円が必要だったので、計算の手間はプトレマイオスと大して変わらなかったし、予測精度も大きく上がることはなかった。地球の位置が動くならば恒星の見える方向が変化するはずなのに、当時の観測精度ではそれ（年周視差）が認められなかったことも、コペルニクスの説がただちには受け入れられなかった理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Tychonian_system.svg|thumb|200px|ティコの太陽系。動かぬ地球を中心に、他の惑星を引き連れた太陽が回転する。]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コペルニクス説の影響を受けて、[[17世紀]]の[[ティコ・ブラーエ]]は、動かぬ地球を中心にしながらも、月と地球を除く惑星が太陽の回りを周回する宇宙を考えた。ティコの太陽系はプトレマイオスの天動説の発展形とも言える。プトレマイオスの体系でも太陽系というものがまったく存在しなかったわけではない。[[内惑星]]である水星と金星の離心円の回転角は、太陽のそれと同じであった。しかし[[外惑星]]は別扱いされた。内惑星を地球から見ると太陽からある程度以上は離れることはないが、外惑星は太陽の反対側へも回り込む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プトレマイオスの体系では、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていた。この配列で水星、金星、太陽を見ると、この順に離心円の径が大きくなる。しかし、ティコはこれらを同じにした。周転円が重なり合うことを問題にしなければこれができ、これに応じて周転円の径を変えると地球からの視方向が同じであるものができる。この系では太陽の回りを水星、金星が回る。さらに外惑星も同じようにできるが、この場合は離心円の径と周転円の径の大小が反転する。しかし、もともと ''離心円の径 &amp;gt; 周転円の径'' であったのは、周転円同士が重なり合わないための要請で、それを取り払うと問題ではなくなる。すなわち、ティコが破ったプトレマイオスの掟は周転円同士の重なりであった。もとのプトレマイオスの体系でも離心円同士は重なっていたのだから、周転円同士の重なりを回避するのは不自然な要請だったのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[16世紀]]に[[ニコラウス・コペルニクス]]が地動説を唱えた後にも、天動説を脅かす事件は続いた。新星が観測されたことは月より遠方ではいかなる変化も起きないというアリストテレス的宇宙観にとって、これは大きな問題となった。さらに、[[ティコ・ブラーエ]]が[[彗星]]を観測し、この天体が月より遠方にあることを証明した。これは激しい論争を生んだ。多くは彗星を気象現象として考えようというものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地動説 ==&lt;br /&gt;
そして破綻は[[17世紀]]にやってきた。[[ガリレオ・ガリレイ]]は望遠鏡を用い、[[木星]]に[[衛星]]があることを発見した。当時、[[地動説]]を攻撃する理由に、次のようなものがあった。いわく、もし[[地球]]が[[太陽]]の周りを公転するのならば、月は飛ばされてどこかに行ってしまうだろう。しかし、天動説でも全く同様の問題が生じることが、これにより明らかになったのである。しかし、当時は[[望遠鏡]]を何かまやかしやごまかしの器具であると考えた者もいて、天動説を捨てる学者はなかなか現れなかった。天動説への不利な観測結果は、望遠鏡を用いて次々にもたらされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的に、[[ヨハネス・ケプラー]]の地動説モデル([[ケプラーの法則]])に基づくルドルフ星表の正確さが誰の目にも明らかになると、議論は収束に向かった。[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]は、ケプラーの法則の証明として[[慣性]]の概念を始めとした[[ニュートン力学|運動の法則]]、および[[万有引力の法則]]という極めて普遍的な法則を導きだしたが、これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力についての問題、月が飛ばされない問題等の困難を解決すると共に、惑星のみならず石ころから[[恒星]]まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった。これらの輝かしい成功によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった。慣性の概念と万有引力の法則は、太陽を全宇宙の中心とする旧来の地動説をも葬り去ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他文明と天動説 ==&lt;br /&gt;
古代ギリシア・古代ローマ文明以外では、天動説に類する[[宇宙観]]は生まれないか、発展しなかった。[[メソポタミア文明]]では、詳しい惑星の位置観測結果が粘土板として出土しているが、この文明がどのような[[世界観]]を持っていたのかは不明である。多くの文明は、半球状の世界の中心に観測者がいるという世界観を持っていた。この場合、球状の「地球」が世界の真ん中に浮かんでいるという概念がまだ存在しないので、天動説とは呼ばない。古代[[インド]]では、須弥山説（ヘビの上にカメが乗り、その上にゾウが乗って、その上に人間の住む世界があるという世界観）が唱えられ、古代[[中国]]では、[[蓋天説]]や[[渾天説]]が唱えられた。ただし、これらの文明と古代ギリシア文明とは、学問の上で大きな接触があったとはいえず、これらの説や天動説が互いに影響を与えたかどうかについては詳しい研究はない。中国独自の無限宇宙論といえる[[宣夜説]]の形成には、天動説が影響したと考える研究者もいるが、確証はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前述したとおり、その後、天動説は古代ギリシア・ローマからアラビア文化圏を経て中国に渡り、アラビアと中国で独自の発展を遂げた。これらの文化圏が既に持っていた世界観との乖離は、特に問題とはならず、その地の知識人は抵抗もなくこれらの学説を受け入れた。しかし、アラビア、中国での天動説の発展は主に観測精度の向上で、体系の発展はあまりなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代における天動説の立場 ==&lt;br /&gt;
[[2004年]][[国立天文台]]の研究者のアンケートによると、小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思っており、3割は太陽の沈む方角を答えられないという結果が出たという。[[文部科学省]]の答弁によると、「これらのことは、中学校で教育する。」とのことだったが、日本における[[理科離れ]]、科学リテラシーの低さとあわせて問題視する意見もある。一方で、多大な労力を要することになるが、それさえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能であり、単に地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうかは今後の議論が必要である。天動説が無知な古代人の妄想ではなく、緻密な数学的背景を持った科学的体系であったことを認識することは大切である。但し、天動説（地球中心説）が正しいのはあくまで数学的にであって、[[物理]]的（[[力学]]的）にはもちろん完全に破綻している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、地球中心説としての天動説は誤りであったが、太陽が動いているという意味での天動説は、現在では新たな意味を持って復活している。ニュートンの万有引力の法則は、太陽が宇宙の中心ではない可能性を示唆するものでもあり、実際に太陽は宇宙の中心ではなかった。現在では太陽は[[銀河系]]を構成する無数の星のひとつとして（ちょうど地球が他の惑星と共に太陽のまわりを回っているように）他の星々と共に銀河系の中心のまわりを回っていることが知られており、その銀河系もまたこの宇宙に無数に存在する[[銀河]]の一つに過ぎないことが知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『アルマゲスト』[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]著 ; [[薮内清]]訳 ; 恒星社厚生閣 1982年&lt;br /&gt;
* 『天體の囘轉について』[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]著 ; 矢島祐利訳 ; 岩波書店 1953年 ISBN 4003390512&lt;br /&gt;
* 『天文対話』（上下巻）[[ガリレオ・ガリレイ]]著 ; 青木靖三訳 ; 岩波書店 1959年 ; 上巻：ISBN 400339061X 、下巻：ISBN 4003390628&lt;br /&gt;
* 『天動説の絵本—てんがうごいていたころのはなし』[[安野光雅]]著 ; 福音館書店 1979年 ; ISBN 4834007510&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[地動説]]&lt;br /&gt;
* [[宇宙論]]&lt;br /&gt;
* [[クラウディオス・プトレマイオス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.astron.pref.gunma.jp/kyozai01/tendou/tendou_top.html 天動説と地動説]&lt;br /&gt;
* [http://www12.plala.or.jp/ksp/mechanics/chap2/ptolemaios.html プトレマイオスの天動説]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:アリストテレス|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:天文学|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:太陽|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:科学史|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:世界観|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:否定された仮説|てんとうせつ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured_article}}&lt;br /&gt;
{{Link_FA|he}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|he}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[az:Dünyanın geosentrik sistemi]]&lt;br /&gt;
[[bg:Геоцентрична система]]&lt;br /&gt;
[[ca:Teoria geocèntrica]]&lt;br /&gt;
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[[da:Geocentrisk]]&lt;br /&gt;
[[de:Geozentrisches Weltbild]]&lt;br /&gt;
[[en:Geocentric model]]&lt;br /&gt;
[[es:Teoría geocéntrica]]&lt;br /&gt;
[[et:Geotsentriline maailmasüsteem]]&lt;br /&gt;
[[fi:Maakeskinen maailmankuva]]&lt;br /&gt;
[[fr:Géocentrisme]]&lt;br /&gt;
[[he:המודל הגאוצנטרי]]&lt;br /&gt;
[[is:Jarðmiðjukenningin]]&lt;br /&gt;
[[it:Sistema geocentrico]]&lt;br /&gt;
[[lt:Geocentrizmas]]&lt;br /&gt;
[[lv:Ģeocentrisms]]&lt;br /&gt;
[[nds-nl:Geozentrisme]]&lt;br /&gt;
[[nl:Geocentrisme]]&lt;br /&gt;
[[no:Geosentrisme]]&lt;br /&gt;
[[pl:Teoria geocentryczna]]&lt;br /&gt;
[[pt:Geocentrismo]]&lt;br /&gt;
[[ru:Геоцентрическая система мира]]&lt;br /&gt;
[[sk:Geocentrizmus]]&lt;br /&gt;
[[sv:Geocentrisk världsbild]]&lt;br /&gt;
[[tr:Geosantrizm]]&lt;br /&gt;
[[vi:Thuyết địa tâm]]&lt;br /&gt;
[[zh:地心说]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>85.214.91.152</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89&amp;diff=5304</id>
		<title>ジハード</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89&amp;diff=5304"/>
				<updated>2007-05-28T08:28:39Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;85.214.91.152: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Islam}}&lt;br /&gt;
'''ジハード'''（{{arL|&amp;amp;#1580;&amp;amp;#1607;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1583;}} jih&amp;amp;#257;d）は、[[イスラム教|イスラーム教]]において信徒（[[ムスリム]]）の義務とされている行為のひとつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ムスリムの主要な義務である[[五行 (イスラム教)|五行]]には含まれないが、五行にこれを加えて「第六番目の行」に加えようという主張もみられる。一般には「[[聖戦]]」と訳されているが、単純にそうは訳し切れない面がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラーム教の[[教典]]コーラン（[[クルアーン]]）には、例えば「神の道のために努力することに務めよ」というような句が散見される。この中の「努力する」に当たる動詞の語根 ''jahada'' （アラビア語：جهد）がジハードの[[語源]]であり、ジハードの語は[[アラビア語]]で「ある目標をめざした奮闘、努力」を意味する。この「努力」の語自体に「神聖」あるいは「[[戦争]]」の意味はまったく含まれていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 二つのジハード ==&lt;br /&gt;
イスラーム学者によって整理されたところによると、ジハードには2種類が存在するという。&lt;br /&gt;
* 個人の内面との戦い。内へのジハード、大ジハード ({{lang|ar|الجهاد الأكبر ''al-jihād l-akbar''}}) と呼ばれる。&lt;br /&gt;
* 外部の不義との戦い。外へのジハード、小ジハード ({{lang|ar|الجهاد الأصغر ''al-jihād l-asghar''}})と呼ばれる。&lt;br /&gt;
「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪、不正義と戦って、内面に正義を実現させるための行為のことである。例えば、[[イスラム共和制|イスラーム共和制]]をとる[[イラン]]では、「ラマダーン月はジハードの月」などの標語において、緩みがちなムスリムたちの規律を正し、イスラーム共和国の理想を思い起こさせるための行為、との意味で「ジハード」が用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようなジハードが「内へのジハード」であり、「小ジハード」である「外へのジハード」以上に優先されなくてはならない「大ジハード」である。もっとも、「内へのジハード」を「大ジハード」として重くみる観念はすべてのムスリムの間に認められているとは言い切れない面があり、実際には、主としてイスラーム神秘主義（[[スーフィズム]]）の潮流で非常に好まれてきたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従って、一般に「ジハード」と言った場合は、ほとんどが上の定義に言う「外へのジハード」であるのが実態と言っても差し支えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外へのジハード ==&lt;br /&gt;
一般に「聖戦」と訳されるジハードが、ここでいう「外へのジハード」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[正統カリフ]]の[[イスラム共同体|イスラーム共同体]]（[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]）から[[イスラム帝国|イスラーム帝国]]へと発展していく、[[イスラム世界|イスラーム世界]]拡大の戦いが落ち着き、イスラーム世界のおおよその範囲が定まっていった[[8世紀|8]]～[[10世紀]]頃に整備されたイスラーム法（[[シャリーア]]）は、初期イスラームの拡大戦争を支えたイデオロギーである「外へのジハード」を以下のような観念にまとめた。すなわち、&lt;br /&gt;
: （外への）'''ジハードとは、イスラーム世界を拡大あるいは防衛するための行為、戦い'''&lt;br /&gt;
である。イスラーム教とシャリーアの理念においては、世界の理想的な姿はイスラーム共同体の主権が確立され、シャリーアが施行される領域、'''ダール・アル＝イスラーム'''（直訳すれば「イスラームの家」だが、イスラーム世界のこと）に包摂されていなければならない。しかし、現実には「イスラームの家」の外部には、イスラーム共同体の力が及ばない'''ダール・アル＝ハルブ'''（同じく「戦争の家」だが、イスラームの及ばない世界のこと）が存在するから、「戦争の家」を「イスラームの家」に組み入れるための努力、すなわちジハードを行うことはムスリムの義務とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上の定義から、イスラーム共同体の支配に服さない異教徒に対するジハードは、イスラームの教えに照らせば原則として正しい行為である、という論理が導き出される。イスラーム教がしばしば好戦的な宗教と見られる所以である。しかし、ここで注意しなくてはならないことは、「イスラームの家」を拡大する行為とは単純に武力に訴えた[[戦争]]行為ではないことであり、[[中央アジア]]や[[東南アジア]]のように一種の平和的なジハードにより「イスラームの家」が拡大された場合も少なくないことである。その担い手はこれらの地域に赴いた商人やイスラム神秘主義者（[[スーフィー]]）たちであった。また、「イスラームの家」の内側に組み込まれた[[啓典の民]]である[[ユダヤ教]]徒や[[キリスト教]]徒（のちには拡大解釈が行われ、[[ゾロアスター教]]徒や[[ヒンドゥー教]]徒、[[仏教]]徒まで啓典の民として扱われるようになる）たちは、イスラムの主権を認めてムスリムの保護民（[[ジンミー]]）になることで満足すれば、信仰と一定の自治を認められ、改宗を強制されたり生命を脅かされたりすることはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時には、「戦争の家」に住む異教徒たちが、「イスラームの家」に対して戦争を仕掛けてくることもありえるから、このような場合にもイスラーム共同体防衛のためのジハードがムスリムの義務となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジハードに従事するものは[[ムジャーヒディーン|ムジャーヒド]]と言う。彼らに対して、[[アッラーフ|神]]はコーランを通じて「神の道に戦うものは、戦死しても凱旋しても我らがきっと大きな褒美を授けよう」と教え、ジハードで戦死すれば[[殉教者]]として[[最後の審判]]の後必ず[[天国]]に迎えられると約束する。一方で、コーランは「敵に背を向けるものは、たちまち神の怒りを背負い込み、その行く先はジャハンナム（[[地獄]]）」であると語り、ジハードの忌避を激しく非難している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、戦争が神の道を実現するためにふさわしい努力行為、ジハードとして正当な戦争たりうるためには、異教徒がイスラム共同体に対して戦いを挑み、不義をなした場合に限られる、ともコーランは説いており、従って、異教徒たちがイスラム共同体と一時の和平を結び、不義の戦争を停止しようとしているならば、イスラーム共同体の側も異教徒に対する害意を捨てて和平を認めねばならない。この論理にもとづき、イスラーム共同体はイスラームとの戦いを望まず正義を認めている「戦争の家」の諸国とならば、[[条約]]を結び[[外交]]関係を樹立することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような理念を持つ「外へのジハード」は、日常においては個々人のムスリムの義務ではなく、全体としてのムスリムの義務であって、個々人のムスリムはジハードを間接的に支援するだけでも良いとされる。もし、ある戦争行為をジハードとして遂行することが必要となった場合は、統治者（[[カリフ]]や[[スルタン]]）は[[ムフティー]]にその戦争がジハードとして認められるかどうかを諮問しなければならない。その結果、ムフティーが合法であるとする[[ファトワー]]を発することで、統治者はジハードを宣言し、彼らの統治する個々のムスリムにジハードへの参加義務を課し、彼らをジハードである戦争に動員することが可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、ムスリムであっても、イスラームの信仰に逸脱する信条を抱くようになったものは不信心者（カーフィル）と呼ばれ、「戦争の家」に住む異教徒以上の悪であり、すみやかにジハードによって打倒されなくてはならない者と見なされる。かつて[[スンナ派]]の[[オスマン帝国]]と[[シーア派]]の[[サファヴィー朝]]が領土を巡って戦争するときは、お互いを不信心者と決め付けることによってその戦争をジハードと位置付け、戦争の正当性を確保したし、[[イラン・イラク戦争]]においてイラン側が世俗主義を標榜する[[バアス党]]政権の[[イラク]]に対して激しい敵意を抱いたのはこのような思想を背景とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに過激なものでは、[[エジプト]]の[[ジハード団]]のように、イスラームの教えに則って社会生活を送らない者は全て不信心者であり、[[テロリズム]]によって殺害して構わないという解釈をとるものもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ジハードの実際 ==&lt;br /&gt;
歴史的に見れば、全イスラーム共同体がジハードの意識を高め、異教徒との戦いにあたったのは、イスラーム世界を侵略し、多くのムスリムを殺害した[[十字軍]]が[[中東]]に出現した時代に見られるのみである。実際には、ジハードの語は政治的な動機によって引き起こされた個々の戦争をイスラムの名のもとに正当化するための論理として用いられることが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[近代]]においても大筋においてはその傾向は変わらず、[[第一次世界大戦]]のときオスマン帝国が発したジハードの宣言も、[[インド]]のムスリムの対英協力や[[アラブ人]]の反乱を押し留めることはできなかった。しかしその一方で、[[19世紀]]には主にイスラーム世界の辺境である[[西アフリカ]]、[[マグリブ]]、[[スーダン]]、インドや東南アジアで、ジハードを宣言する反[[植民地]]主義、反[[帝国主義]]の戦いが頻発し、防衛のためのジハードの意識は高まっていったことも事実である。[[20世紀]]には[[イスラエル]]の拡大と戦う[[パレスチナ]]の[[ハマース]]や[[ソビエト連邦]]の侵攻と戦う[[アフガニスタン]]の[[ムジャーヒディーン]]運動が盛り上がるが、これらの根底には近代ムスリムの侵略に対する抵抗運動としての防衛ジハードの思想との共通性を見出すことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年には、政治的な動機による戦争の正当化や、過激派の[[テロリズム]]を正当化する標語として、ジハードの語がきわめて頻繁に用いられ、本来ジハードの宣言を行う資格のない者がジハードを唱える局面が増えつつある。しかし、ジハードを標榜する政治家やテロリストの言葉がある程度のムスリムの人々をひきつけているのは事実として認められる。これは、[[欧米]]が支援する（と少なくともムスリムは考えている）イスラエルが、パレスチナのムスリムたちを追いやり、弾圧していることや、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の空爆がアフガニスタンやイラクの独裁政権のみならず、ムスリム民衆たちまでをも死に追いやっているという現実に対し、侵略される側の者としての怒りの意識を多くのムスリムが共有しているために、「いまこそがイスラーム共同体を防衛するためジハードを行うべきときである」という政治家やテロリストたちの言葉に、彼らが多かれ少なかれ共感を抱くからに他ならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ジハードのイメージ ==&lt;br /&gt;
日本においては、聖戦という訳が与えられるジハードという語には、ジハードとは異教徒に武力によって改宗を迫る行為（いわゆる「[[コーランか剣か]]」・「右手にコーラン、左手に剣」）であるとするステレオタイプの認識がつきまとうようである（正確には、「コーランか&amp;quot;貢納&amp;quot;か剣か」である）。しかし、それはイスラーム帝国の拡大や十字軍に対する抵抗の歴史を読み誤ったキリスト教徒の人々の誤解から始まったと言ってよく、認識は改められつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし同時に、近年の[[オサマ・ビンラディン]]による[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ同時多発テロ]]や、[[サッダーム・フセイン]]による[[イラク戦争]]のジハード宣言は、粗暴なムスリムの過激な聖戦というイメージを改めて日本の社会に植え付けつつあるように思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、一種の[[オリエンタリズム]]ではあろうが、中東とヨーロッパの接触と衝突の歴史あるいはイスラーム過激派のアンダーグラウンドなイメージを想起させる、ロマンティックかつエスニックなキーワードとして、ジハードという言葉が独特の人気を集めることがあるようであり、[[小説]]などの作品の題や[[ロックバンド]]の名前、[[ファンタジー]][[ゲーム]]のキャラクタ等の名前、[[競走馬]]の名前（[[エアジハード]]）として用いられることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ジハードの語を名前に使用する作品 ===&lt;br /&gt;
* ジハード - 十字軍時代を舞台とした[[定金伸治]]の[[小説]]。『[[ジハード (小説)]]』を参照。&lt;br /&gt;
* ジハード - [[定金伸治]]原作、[[山根和俊]]作画の[[漫画]]。『[[ジハード (漫画)]]』を参照。&lt;br /&gt;
* [[G-HARD]] - [[史村翔]]原作、[[所十三]]作画の漫画。&lt;br /&gt;
* 女たちのジハード - [[篠田節子]]著作の小説。&lt;br /&gt;
* [[ファイナルファンタジーVI]] - [[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]の[[コンピュータRPG]]。召喚獣ジハードが登場。&lt;br /&gt;
* [[伝説のオウガバトル]] - [[クエスト (ゲーム会社)|クエスト]]の[[シミュレーションロールプレイングゲーム|シミュレーションRPG]]。登場キャラクター・セラフィムの攻撃方法が「ジハド」で、聖属性のビームで攻撃する。&lt;br /&gt;
* [[Z-HARD]]-日本のロックバンド[[Janne Da Arc]]のメジャーデビュー後2枚目のアルバム。「-救世主 メシア-」、「7-seven-」など収録。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 後藤明・飯塚正人「ジハード」『新イスラム事典』平凡社、2002年&lt;br /&gt;
* 鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ オスマン帝国における諸民族の統合と共存』リブロポート、1993年&lt;br /&gt;
* 横田貴之「ジハード」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/ジハード '''ジハード''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ジハード&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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