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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>トルコ</title>
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				<updated>2007-06-03T08:04:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{未検証}}&lt;br /&gt;
{{正確性}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 国|&lt;br /&gt;
 略名 =トルコ|&lt;br /&gt;
 日本語国名 =トルコ共和国|&lt;br /&gt;
 公式国名 =&amp;lt;B lang=&amp;quot;tr&amp;quot;&amp;gt;T&amp;amp;#252;rkiye Cumhuriyeti&amp;lt;/b&amp;gt;|&lt;br /&gt;
 国旗画像 =Flag of Turkey.svg|&lt;br /&gt;
 国章画像 = [[画像:Türkiye_arması.svg|100px|トルコの国章]]|&lt;br /&gt;
 国章リンク = [[トルコの国章|国章]]|&lt;br /&gt;
 標語 =&amp;lt;i lang=&amp;quot;tr&amp;quot;&amp;gt;Yurtta Sulh, Cihanda Sulh''&amp;lt;/i&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt; （トルコ語: 内に平和、外に平和）|&lt;br /&gt;
 位置画像 =LocationTurkey.png|&lt;br /&gt;
 公用語 =[[トルコ語]]|&lt;br /&gt;
 首都 =[[アンカラ]]|&lt;br /&gt;
 最大都市 =[[イスタンブル]]|&lt;br /&gt;
 元首等肩書 =[[トルコの大統領|大統領]]|&lt;br /&gt;
 元首等氏名 =[[アフメト・ネジデト・セゼル]]|&lt;br /&gt;
 首相等肩書 =[[トルコの首相|首相]]|&lt;br /&gt;
 首相等氏名 =[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|R・タイイップ・エルドアン]]|&lt;br /&gt;
 面積順位 =36|&lt;br /&gt;
 面積大きさ =1 E11|&lt;br /&gt;
 面積値 =780,580|&lt;br /&gt;
 水面積率 =1.3%|&lt;br /&gt;
 人口統計年 =2004|&lt;br /&gt;
 人口順位 =17|&lt;br /&gt;
 人口大きさ =1 E7|&lt;br /&gt;
 人口値 =68,893,918|&lt;br /&gt;
 人口密度値 =88|&lt;br /&gt;
 GDP統計年元 =2005|&lt;br /&gt;
 GDP値元 =4,838億|&lt;br /&gt;
 GDP統計年MER =2005|&lt;br /&gt;
 GDP順位MER =21|&lt;br /&gt;
 GDP値MER =3,402億|&lt;br /&gt;
 GDP統計年 =2003|&lt;br /&gt;
 GDP順位 =22|&lt;br /&gt;
 GDP値 =4,553億|&lt;br /&gt;
 GDP/人 =6,700|&lt;br /&gt;
 建国形態 =[[建国]]&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;amp;nbsp;- 宣言|&lt;br /&gt;
 建国年月日 =[[共和制]]宣言&amp;lt;br/&amp;gt;[[1923年]][[10月29日]]|&lt;br /&gt;
 通貨 =[[新トルコリラ]]  |&lt;br /&gt;
 通貨コード =TRY|&lt;br /&gt;
 時間帯 =+2|&lt;br /&gt;
 夏時間 =+3|&lt;br /&gt;
 国歌名 =独立行進曲|&lt;br /&gt;
 ccTLD =TR|&lt;br /&gt;
 国際電話番号 =90|&lt;br /&gt;
 注記 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''トルコ共和国'''（トルコきょうわこく）、通称'''トルコ'''（土耳古）は[[西アジア]]の[[アナトリア半島]]（小アジア）と[[東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]東端の東[[トラキア]]地方を領有する、[[アジア]]と[[ヨーロッパ]]の2つの[[州]]にまたがる[[共和国]]。首都はアナトリア中央部の[[アンカラ]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北は[[黒海]]、南は[[地中海]]に面し、西で[[ブルガリア]]、[[ギリシア]]と、東で[[グルジア]]、[[アルメニア]]、[[イラン]]、[[イラク]]、[[シリア]]と接する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民の99%がスンナ派[[イスラム教]]を[[信仰]]するため、日本の地域区分では地理的な位置関係と、欧州即ちキリスト教というステレオタイプから[[中東]]、西アジアに含めることがほとんどであるが、[[サッカー]]協会や[[近代オリンピック|オリンピック]]委員会などでは[[ヨーロッパ]]の統一団体に属す。経済的、政治的にもヨーロッパの一員として扱われることがあり、現在[[欧州連合]](EU)へ加盟申請中である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
トルコ語による正式国名は、''Türkiye Cumhuriyeti''（テュルキエ・ジュムフリイェティ）、通称''Türkiye''（テュルキエ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式の英語表記は、''Republic of Turkey''。通称''Turkey''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[英語]]など諸外国語では、トルコ共和国の前身である[[オスマン帝国]]の時代から、この国家をTurkey, Turquieなど、「[[トルコ人]](Turk, Turc)の国」を意味する名で呼んできたが、トルコ共和国の前身で、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」、「オスマン家の王朝」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。トルコ語で「トルコ人」を意味するTürkに[[アラビア語]]起源の抽象名詞化語尾-iyeを付したTürkiyeは[[近代]]になってヨーロッパから「トルコ人の国」概念を逆輸入して考案された名詞である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]後、国土が列強に分割されほぼアナトリア半島のみに縮小したオスマン帝国に代わって新しい政権を打ち立てた人々は、初めてTürkiyeを国名とし、かつてのオスマン国家は、他称においても自称においても「トルコ人の国」であるトルコ共和国となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、Türk（[[テュルク]]）は、アナトリアへの移住以前、[[中央アジア]]で暮らしていたトルコ人が、[[モンゴル高原]]を中心とする[[遊牧帝国]]、[[突厥]]を築いた[[6世紀]]ころにはすでに使われていた民族名だが、語源は明らかではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本語名のトルコは、西欧の諸言語でトルコ人を意味するトゥルク（Turk, Turc）の変形である。漢字'''土耳古'''は、この音を中国語で音訳した「{{lang|en|T&amp;amp;#365;'&amp;amp;#277;rg&amp;amp;#365;}}」に由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[トルコの歴史]]を参照''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコの国土の大半を占めるアジア側の[[アナトリア半島]]（小アジア）とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側の[[イスタンブル]]は、[[古代]]から[[ヒッタイト]]・[[フリュギア]]・[[リディア]]・[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]などさまざまな[[民族]]・[[文明]]が栄えた地である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[11世紀]]に、[[テュルク|トルコ系]]の[[イスラム王朝]]、[[セルジューク朝]]の一派がアナトリアに立てた[[ルーム・セルジューク朝]]の支配下で、[[ムスリム]]（イスラム教徒）の[[トルコ人]]が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展した[[オスマン帝国|オスマン朝]]は、[[15世紀]]にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都とし、東は[[アゼルバイジャン]]から西は[[モロッコ]]まで、北は[[ウクライナ]]から南は[[イエメン]]まで支配する大帝国を打ち立てる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[19世紀]]になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、[[ナショナリズム]]が勃興して諸[[民族]]が次々と独立してゆき、帝国は[[第一次世界大戦]]の敗北により完全に解体された。しかしこのとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立した[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]（アタテュルク）のもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1923年]]、アンカラ政権は共和制を宣言。翌[[1924年]]に[[オスマン家|オスマン王家]]の[[カリフ]]をイスタンブルから追放して、[[西洋]]化による近代化を目指す[[イスラム世界]]初の[[世俗主義]]国家トルコ共和国を建国した。[[第二次世界大戦]]後、[[ソビエト連邦|ソ連]]に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、[[北大西洋条約機構|NATO]]、[[経済協力開発機構|OECD]]に加盟する。[[国父]]アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進してきたが、その目標である[[欧州連合|EU]]への加盟には[[クルド人|クルド問題]]や[[キプロス|キプロス問題]]、[[アルメニア人虐殺問題]]が大きな障害となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[トルコの政治]]、[[トルコの法制度]]、[[トルコの国際関係]]を参照''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1982年]]に定められた現行の[[憲法]]では、世俗主義（[[政教分離原則]]）が標榜されている。三権は分立しており、立法府として一院制の[[トルコ大国民議会]]（T&amp;amp;#252;rkiye B&amp;amp;#252;y&amp;amp;#252;k Millet Meclisi 定数550名、任期5年）が強い権限をもつ。行政は議会によって選出される[[元首|国家元首]]の[[トルコの大統領|大統領]]（任期7年）が務めるが、[[トルコの首相|首相]]の権限が強い[[議院内閣制]]に基づいている。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のために、[[2002年]]の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された[[公正発展党]]と、野党で中道左派系・世俗主義派の[[共和人民党]]の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外交面では、[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟国として伝統的に西側の一員である。&lt;br /&gt;
[[画像:UE_TURK1.png|thumb|right|240px|&amp;lt;center&amp;gt;'''EUとトルコ'''&amp;lt;/center&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
また、外交面では欧州連合(EU)への加盟を長年の目標としてきた。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からのEUへの加盟交渉の開始が勧告された。しかし、その後のEU加盟交渉はさまざまな要因から停滞している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国父ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍がしばしば政治における重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。[[1960年]]に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、[[参謀総長]]と陸海空の三軍および内務省[[ジャンダルマ]]の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議(Milli G&amp;amp;#252;venlik Kurulu)が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は[[1997年]]にイスラム派の[[福祉党 (トルコ)|福祉党]]主導の連立政権を崩壊に追い込み、[[2007年]]には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍事 ==&lt;br /&gt;
トルコには軍事組織として、陸軍・海軍・空軍で組織される[[トルコ軍]]（Türk Silahlı Kuvvetleri）と内務省に所属する[[ジャンダルマ]]（Jandarma）・[[トルコ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]（Sahil Güvenlik）が置かれている。トルコは[[良心的兵役拒否]]すら認めない完全な国民皆兵制度（ただし男性のみ）をとっているため兵員定数はないが、三軍あわせておおむね65万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマ・沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下にはいることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長（Genelkurmay Başkanı）に属すると憲法に明示されており、戦時においてはトルコには[[文民統制]]は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、トルコ軍は歴史的にも、また現在においてもきわめて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の15%程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金等からの歳入であるなど、平時においてもトルコ軍に対する文民統制には疑問も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍事同盟には1952年以降[[北大西洋条約機構|NATO]]に加盟し、1992年以降は[[WEU]]に準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまで[[中央条約機構|CENTO]]加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年[[イスラエル]]と軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年には、実際に[[アメリカ合衆国]]・イスラエル・トルコの3国で共同軍事演習が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地方行政区分 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Turkiye-iller.png|thumb|374px|トルコの地方行政区分図]]&lt;br /&gt;
''詳細は[[トルコの地方行政区画]]を参照''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコの地方行政制度は[[オスマン帝国]]の州県制をベースとして[[フランス]]に範をとり、全土を県(il)と呼ばれる地方行政区画に区分している。[[1999年]]以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事(vali)が置かれ、県の行政機関(valilik)を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県の下には民選の首長を有する行政機関(belediye)をもった市(&amp;amp;#351;ehir)・郡(il&amp;amp;#231;e)があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町(belde)と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村(k&amp;amp;#246;y)がある。イスタンブル、アンカラなどの大都市行政区(b&amp;amp;#252;y&amp;amp;#252;k &amp;amp;#351;ehir)は、市の中に特別区に相当する自治体として区(il&amp;amp;#231;e)とその行政機関(belediye)を複数もち、都市全体を市自治体(b&amp;amp;#252;y&amp;amp;#252;k &amp;amp;#351;ehir belediyesi)が統括する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[トルコの地理]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
国土は[[ヨーロッパ大陸]]と[[アジア大陸]]にまたがり、北の[[黒海]]と南の[[エーゲ海]]・[[地中海]]を繋ぐ[[ボスポラス海峡]]・[[マルマラ海]]・[[ダーダネルス海峡]]によって隔てられる。[[アナトリア半島]]は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部は[[チグリス川]]・[[ユーフラテス川]]の源流である。東部イラン国境近くには[[ヴァン湖]]と[[アララト山]]がある。国内最高所は標高5166mである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ケッペンの気候区分|気候帯]]は内陸は[[冷帯気候]]・[[ステップ気候]]で夏は乾燥し、冬は寒く積雪が多い。地中海沿いなど海に近い部分は[[地中海性気候]]で、[[オリーブ]]などの生産が盛んである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコは国内に多くの[[断層]]をもつ地震国であり、[[1999年]]には[[イズミル]]からイスタンブルにかけてのマルマラ海沿岸の人口密集地で大規模地震が起こり、大きな被害を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主な都市 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Turkey_map.png|right|400px|トルコの地図]]&lt;br /&gt;
[[画像:Anatolia_composite_NASA.png|right|400px|トルコのサテライトイメージ]]&lt;br /&gt;
* [[アダナ]]&lt;br /&gt;
* [[アンカラ]]&lt;br /&gt;
* [[アンタキヤ]]&lt;br /&gt;
* [[ボル]]&lt;br /&gt;
* [[イスタンブル]]&lt;br /&gt;
* [[イズニク]]&lt;br /&gt;
* [[イズミル]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァン]]&lt;br /&gt;
* [[エディルネ]]&lt;br /&gt;
* [[エルズィンジャン]]&lt;br /&gt;
* [[カイセリ]]&lt;br /&gt;
* [[ガズィアンテプ]]&lt;br /&gt;
* [[カルス (都市)|カルス]]&lt;br /&gt;
* [[コンヤ]]&lt;br /&gt;
* [[サムスン (都市)|サムスン]]&lt;br /&gt;
* [[スィヴァス]]&lt;br /&gt;
* [[トラブゾン]]&lt;br /&gt;
* [[ブルサ]]&lt;br /&gt;
* [[ベルガマ]]&lt;br /&gt;
* [[ギョレメ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[トルコの経済]]を参照''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
産業は近代化が進められた[[工業]]・[[商業]]と、伝統的な[[農業]]とからなり、農業人口が国民のおよそ40%を占める。漁業も目立たないが沿岸部では比較的盛んで、領海問題や公海上の漁獲量をめぐる国際問題が起きることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 工業 ===&lt;br /&gt;
工業はもっぱら[[軽工業]]が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥である[[サバンジュ財閥]]と[[日本]]の[[トヨタ自動車]]、国内2位の財閥である[[コチ財閥]]と[[イタリア]]の[[フィアット]]、国内4位の財閥である[[オヤック財閥]]と[[フランス]]の[[ルノー]]があげられる。また、[[コチ財閥]]のアルチェリッキ・ベコ、[[ゾルル財閥]]のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 農業 ===&lt;br /&gt;
ただし、工業化が進んでいるのは北西部の[[マルマラ海]]沿岸地域がほとんどで、観光収入の多い[[地中海]]・[[エーゲ海]]沿岸地域と、首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。とくに東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鉱業 ===&lt;br /&gt;
トルコの国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では[[石炭]]の埋蔵量が多い。2002年時点では亜炭・褐炭の採掘量が6348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの1/20に過ぎない。原油（252万トン）と天然ガス（12千兆ジュール）も採掘されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属鉱物資源では、世界第2位（200万トン、世界シェア17.9%）の[[マグネシウム]]をはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサントを産出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、石炭は発電など燃料として国内で消費し、石油の生産量は国内消費をまかなう量がないこと、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度（2002年時点）に過ぎない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 経済成長 ===&lt;br /&gt;
[[1990年代]]の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速な[[インフレーション]]に悩まされている。&amp;lt;!--[[1994年]]1月を100とする卸売物価指数で、[[2001年]]1月は2686.8、[[2002年]]1月は5157.4、[[2003年]]1月は6840.7、[[2004年]]1月は7576.5であった{{要出典}}--&amp;gt;。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、[[2000年]]から[[国際通貨基金|IMF]]の改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。&amp;lt;!--リラの[[変動相場制]]移行をおこなった[[2001年]]にはリラの対[[ドル]]価が50%以上暴落、実質[[国民総生産|GNP]]成長率はマイナス9.4%となった。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]]以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権のもとでインフレの拡大はおおよそ沈静化した。[[2005年]]1月1日には100万[[トルコリラ]]（TL）を1[[新トルコリラ]]（YTL）とする新通貨を発行し、実質的な[[デノミネーション]]が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
トルコにおいて交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄（TCDD）が存在し10,940kmの路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎・路線・その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速160kmの新型車両を導入したが、7月にその新型車両が脱線事故を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、その後鉄道乗客数は激減している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコ政府は道路整備を重視しており、トルコ国内の道路網は2004年現在63,220kmにおよんでいる。また、[[イスタンブル]]・[[アンカラ]]を結ぶ高速道路（Otoyol）も完成間近である。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心もバスによる陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わずトルコの都市にはかならず長距離バスターミナル（Otogal/Terminal）が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコでは雇用所得がまだ低いことや、高額の自動車税（1600cc未満28%、1600cc以上40%）、非常に高価なガソリン価格（2004年現在1リットル当たり200万トルコリラ（約150円）程度）のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日には、アンカラやイスタンブルとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国民 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--''詳細は[[トルコの国民]]を参照''--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコでは民族構成に関する正確な調査は存在せず、またトルコにおいては、民族よりもイスラム教徒であることを第一のアイデンティティとするもの、あるいは国籍上の意味合いにおいてのトルコ人であることを優先するものなどが存在すること、その上最大多数派であるトルコ人の定義自体が、アナトリア半島が歴史的に非常に複雑で重層的な混血と混住が行われてきた地域であることもあり、人種的な意味合いにおいてまったく不明瞭であること、などの理由により、なにをもって民族を定義するかということ自体が困難であるため、民族構成に関する数字は明らかではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつてトルコにおいては、国民は一体であるという原則から、トルコ国民はすべてトルコ人でありトルコ語を母語とするという建前を取っていたが、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も存在することをトルコ政府は公式に認めている。&lt;br /&gt;
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少数派の民族としてとしては、[[クルド人]]、[[アラブ人]]、[[ラズ人]]、[[ギリシャ人]]、[[アルメニア人]]、[[ザザ人]]などが存在するとみなされている。とくにクルド人はトルコにおいてトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は数百万人とも、一千万人を超えるとも言われている。かつてトルコ政府はトルコ国内にクルド人は存在しないとの立場をとり、クルド語での放送・出版を禁止し、またクルド人にたいし「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど差別的な行為を行っていた。しかしながら、現在においては山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党（DEP：共和人民党から分離した民主党（DP）とは別組織）ザナ党首の釈放と同日に、国営放送第3チャンネル（TRT3）においてクルド語放送が行われた。&lt;br /&gt;
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クルド人はいわゆる北部[[クルディスタン]]、すなわちトルコにおける呼称で言う南東アナトリア地域にのみ居住しているのではなく、トルコにある81の県全てにおいて、地域によって差はあるものの、ある程度のまとまりを持った社会集団として存在している。実際、クルド系政党民主国民党（DEHAP）はトルコ全域において政治活動を行い、総選挙においても得票をあげている。逆に、南東アナトリア地域において居住しているのはクルド人のみではなく、トルコ人、アルメニア人、ザザ人なども共和国成立以前から存在している。1960年以降は全国的な農村部から都市への移住が増加にともないクルド人も都市部への移住が進み、そのため現在においては、クルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。1990年以降において、もっとも多数のクルド人が存在するのは南東アナトリア6県のいずれでもなくイスタンブル県であるとの推計も存在する。一般に都市に居住するクルド人は所得水準が低く、また敬虔なイスラム教徒であり、このことが都市部において大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党の躍進をもたらしたものとする考えは比較的有力なものである。&lt;br /&gt;
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宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査が存在する。それによると、人口の99%以上がムスリム（イスラム教徒）であるが、身分証明書においても宗派は記載事項ではないため、詳細な宗派区分については不明な点も多い。しかし、その大多数が[[スンナ派]]であると一般には考えられている。その一方でかなりの数の[[アレヴィー派]]も存在し、20%を越えるとも言われる。その他の宗教には[[東方正教会]]、[[アルメニア正教会|アルメニア使徒教会]]、[[ユダヤ教]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[プロテスタント]]などがあるが、いずれもごく少数である。&lt;br /&gt;
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== 教育 ==&lt;br /&gt;
義務教育機関として、8年制の初等教育学校（ilk öğretim okulu）が置かれ、そのほか4年制（2004年9月入学以降、それ以前は3年制）の高等学校（lise）、大学（üniversite）などが置かれている。ほかに就学前教育機関として幼稚園（anaokulu）なども存在する。初等教育学校を含めほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1ヶ月間の学費は、給食費・施設費等込みで一般労働者の月収とほぼ同等で、きわめて高価である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。トルコにも受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾（dershane）に通うことも珍しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も貧弱で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の不十分さに関しては国も認識し、[[世界銀行]]からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進まないのが現実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
成年識字率は2003年統計{{要出典}}で88.3%（男性95.7%、女性81.1%）。ただし、トルコは20歳以下人口が全人口の35%程度を占めるきわめて若い国であることに注意する必要がある。特に高齢の女性には非識字者が多い。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、トルコ政府は、「さあ、女の子たちを学校へ（Hadi Kızlar Okula）」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非修学者の問題には、経済事情に加え、男女共学のうえ、ヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[トルコの文化]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコの国土は、[[ヒッタイト]]、[[古代ギリシア]]、[[ローマ帝国]]、[[イスラム教|イスラーム]]などさまざまな文明が栄えた地であり、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、[[世界遺産]]に登録されたものも9件に及ぶ（詳しくは[[トルコの世界遺産]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコの伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受けあいながら発展してきた。例えば、世界三大料理のひとつとも言われる[[トルコ料理]]は、その実では[[ギリシャ料理]]や[[歴史的シリア|シリア地方]]の料理とよく似通っているし、伝統的な[[トルコ音楽]]のひとつ[[オスマン古典音楽]]は[[アラブ音楽]]との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くは[[オスマン帝国]]の帝都イスタンブルに暮らした作曲家が残したものである。俗に[[トルコ風呂]]などと呼ばれている公衆浴場文化（トルコ本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である。詳細は下記参照）は、中東地域に広く見られる[[ハンマーム]]の伝統に連なる。逆に、中東の後宮として理解されている[[ハレム]]とは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、[[オリエンタリズム]]的な幻想に乗って伝えられたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西欧文明を積極的に取り入れてきたが、それとともに[[トルコ文学]]、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結びついてトルコ独自の歴史を歩んできた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術などいくつかの伝統的な技芸は既に失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれない事実上の放置状態に置かれてきた。近年は、いくつかの有名なギリシャ・ローマ時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんどまったく手付かずの状態である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;table border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;2&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;caption style=&amp;quot;font-weight:bold;font-size:120%&amp;quot;&amp;gt;祝祭日&amp;lt;/caption&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;&amp;gt;日付&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;&amp;gt;日本語表記&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;&amp;gt;現地語表記&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;&amp;gt;備考&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[1月1日]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;元日&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;Y&amp;amp;#305;lba&amp;amp;#351;&amp;amp;#305;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;法令上は祝祭日ではなく休日&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[4月23日]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;国民主権と子供の日&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;Ulusal Egemenlik ve&amp;lt;br/&amp;gt; &amp;amp;#199;ocuk Bayram&amp;amp;#305;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt; - &amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[5月19日]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;アタテュルク記念と&amp;lt;br/&amp;gt;青少年とスポーツの日&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;Atat&amp;amp;#252;rk&amp;amp;#8217;&amp;amp;#252; Anma ve&amp;lt;br/&amp;gt; Gen&amp;amp;#231;lik ve Spor Bayram&amp;amp;#305; &amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt; - &amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[8月30日]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;戦勝記念日&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;Zafer Bayram&amp;amp;#305;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt; - &amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[10月29日]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;共和国記念日&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;Cumhuriyet Bayram&amp;amp;#305;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt; - &amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;移動&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[断食明けの祭り]]（砂糖の祭）&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;Ramazan Bayram&amp;amp;#305;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;初日の13時から3日半&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;移動&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[犠牲祭]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;Kurban Bayram&amp;amp;#305;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;初日の13時から4日半&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/table&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スポーツ ==&lt;br /&gt;
{{Main|トルコのスポーツ}}&lt;br /&gt;
トルコにおいて国民的なスポーツとしては、まず[[サッカー]]（トルコ語でfutbol:発音フトボル）があげられる。国内には18のプロチームが参加するシュペルリグ（Süper Lig）を頂点に2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部の地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のサッカーチームが存在する。また、サッカーチームの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボール・バレーボールなど、他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トルコは[[欧州サッカー連盟|UEFA]]加盟国であるため、シュペルリグ上位チームは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]・[[UEFAカップ]]に参加可能である。多くのチームの中でもイスタンブルの[[フェネルバフチェ]]（Fenerbahçe）・[[ガラタサライ]]（Galatasaray）・[[ベシクタシュJK|ベシクタシュ]]（Beşiktaş）とトラブゾンの[[トラブゾンスポル]]（Trabzon Spor）は4大チームと呼ばれ、テレビ・新聞などでの報道量も他のチームに比べ抜群に多い。これらのチームは実力的にも上位にあるためUEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するチームは、なかばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪チームは地域にかかわらず全国的に人気がある。また、イスタンブルのフェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3チームは、イスタンブル証券取引所に上場する上場企業でもある。トルコ代表は[[2002 FIFAワールドカップ]]で3位に入るなど健闘した。この大会では韓国と日本に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝つという珍しい記録を達成した。また優勝したブラジルには2回敗北している。&lt;br /&gt;
ほかにプロスポーツとしては[[バスケットボール]]・[[バレーボール]]のプロリーグが存在する。特にバスケットボールは[[NBA]]でのトルコ人選手の活躍や2010年の[[2010年バスケットボール世界選手権|世界選手権]]を控えていることもあり、近年人気が上昇している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、2005年からは[[フォーミュラ1|F1]][[トルコグランプリ|トルコGP]]が開催されており、[[世界ラリー選手権|WRC]]のラリー・オブ・ターキーとあわせて、[[モータースポーツ]]における発展も期待できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
650年の歴史をもつ伝統格闘技として[[ヤールギュレシ]]（オイルレスリング）があり、トルコ共和国の[[国技]]となっている。アマチュアスポーツとしては、[[レスリング]]、[[重量挙げ]]などに人気がある。またトルコ人の気風を反映してか、[[空手]]・[[柔道]]の道場も非常に多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[トルコ関係記事の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[トルコの世界遺産]]&lt;br /&gt;
* [[トルコ風呂 (性風俗)]]&lt;br /&gt;
* [[トルコ語]]&lt;br /&gt;
* [[ターキー]]&lt;br /&gt;
* [[突厥]]&lt;br /&gt;
* [[テュルク諸語]]&lt;br /&gt;
* [[オスマン語]]&lt;br /&gt;
* [[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
* [[ケマル・アタテュルク]]&lt;br /&gt;
* [[メフテル]]（オスマン軍楽、トルコ軍楽）&lt;br /&gt;
* [[エルトゥールル号遭難事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコの写真 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--画像:Ankaracenter.jpg|アンカラセンター--&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Kiz_kulesi_at_night-2004.jpg|[[ボスポラス海峡]]に浮かぶ「[[乙女の塔]]」（イスタンブル）&lt;br /&gt;
画像:413252_4345.jpg|[[ベイオール]]の[[イスティクラル大通り]]を走る路面電車（イスタンブル）&lt;br /&gt;
画像:Istanbul_bridge.jpg|[[オルタキョイ・モスク]]と夕暮れのボスポラス海峡（イスタンブル）&lt;br /&gt;
画像:Turkish_folk.jpg|トルコの[[フォークダンス]]&lt;br /&gt;
画像:274556_5280.jpg|ユルドゥルム・バヤズィド・モスク（[[ブルサ]]）&lt;br /&gt;
画像:Selimiye_Camii.jpg|[[セリミエ・モスク]]（[[エディルネ]]）&lt;br /&gt;
画像:Aya_sofya.jpg|[[アヤソフィア]]（イスタンブル）&lt;br /&gt;
画像:Whirling_Dervishes.jpg|[[メヴレヴィー教団]]の旋回舞踊&lt;br /&gt;
画像:Pamukkale00.JPG|[[パムッカレ]]のヒエラポリス&lt;br /&gt;
画像:Pamuk04.jpg|パムッカレ&lt;br /&gt;
画像:Erciyes_ve_tepeleri.jpg|[[エルジェス山]]（[[カイセリ]]）&lt;br /&gt;
画像:Peri_Bacaları-Ürgüp.jpg|「妖精の煙突」と呼ばれる[[カッパドキア]]の奇岩&lt;br /&gt;
画像:Mount_olympos_turkey.jpg|タフタル山（オリンポス山）&lt;br /&gt;
画像:Divers.jpg|オリンポスのダイバー&lt;br /&gt;
画像:Manavgat_waterfall_by_tomgensler.JPG|マナヴガットの滝&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Turkey}}&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
* [[トルコの通信]]&lt;br /&gt;
* [[トルコの交通]]&lt;br /&gt;
* [[トルコの軍事]]&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 新井政美『オスマンvsヨーロッパ』講談社、2002年&lt;br /&gt;
* 新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年&lt;br /&gt;
* 大島直政『遠くて近い国トルコ』中央公論社、1968年&lt;br /&gt;
* 小島剛一『トルコのもう一つの顔』中央公論社、1991年 &lt;br /&gt;
* 鈴木董『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社、1993年 &lt;br /&gt;
* 鈴木董（編）『暮らしがわかるアジア読本 トルコ』河出書房新社、2000年&lt;br /&gt;
* 松谷浩尚『現代トルコの政治と外交』剄草書房、1987年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.nittokai.com/ 日本トルコ文化交流会]&lt;br /&gt;
{{wikitravel}}&lt;br /&gt;
* 政府公式サイト&lt;br /&gt;
** [http://www.cankaya.gov.tr/ 大統領府]（トルコ語）&lt;br /&gt;
** [http://www.tbmm.gov.tr/ 大国民議会]（トルコ語、英語）&lt;br /&gt;
** [http://www.mfa.gov.tr/ 外務省]（英語）&lt;br /&gt;
** [http://www.kultur.gov.tr/ 文化観光省]（英語）&lt;br /&gt;
** [http://home.turkey.or.jp/ 政府観光局]（日本語ほか）&lt;br /&gt;
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkey/index.html 日本外務省 トルコの情報]（日本語）&lt;br /&gt;
* [http://www.torukomania.com/ トルコ]（日本語）&lt;br /&gt;
* [http://www.pbase.com/dosseman Pictures of Turkey]&lt;br /&gt;
* [http://dataranking.com/country.cgi?LG=j&amp;amp;CO=28 経済社会データランキング／トルコの統計]&lt;br /&gt;
* [http://www.yeminlitercuman.com/japonya 日本のトルコ日本翻訳 / Turkish-Japanese Translators in Japan]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アジア}}&lt;br /&gt;
{{OIC}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|トルコ}}&lt;br /&gt;
[[Category:トルコ|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:イスラム教国|とるこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:テュルク|とるこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AB%E5%B3%B6&amp;diff=5769</id>
		<title>コルシカ島</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AB%E5%B3%B6&amp;diff=5769"/>
				<updated>2007-06-03T08:03:49Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: /* 関連図書 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Corsica_Island.png|frame|right|コルシカ島の位置]]&lt;br /&gt;
'''コルシカ島'''（''Corsica''） は、[[地中海]]西部、[[イタリア半島]]の西に位置する[[フランス|フランス領]]の[[島]]である。面積は約8,700[[平方キロメートル|km&amp;amp;sup2;]]（日本の[[広島県]]と同程度）と、地中海では[[シチリア島]]、[[サルデーニャ島]]、[[キプロス島]]に次いで4番目に大きく、人口は約26万人（[[東京都]][[目黒区]]と同程度）を数える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「コルシカ」（Corsica）は[[イタリア語]]での名称であり、[[フランス語]]では「コルス」（Corse）、[[コルシカ語]]では「コルシガ」（Corsica）となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全域が[[コルス地域圏]]（[[コルス＝デュ＝シュド県]]+[[オート＝コルス県]]）に属し、政治的には海外領土ではなくフランスの本土（内地）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この島は[[ナポレオン・ボナパルト]]の出身地として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Korsika-satelite.jpg|thumb|right|衛星写真]]&lt;br /&gt;
島のほとんどが急峻な山岳で占められ、2500メートルを超える高峰が連なる。最高峰は[[チント山]]（コルシカ語ではモンテ・ヂントゥ）で2710メートル、ついでロトンド山（コルシカ語ではモンテ・ロドンドゥ、2625メートル）、アル・バルダート山（同カブ・アウ・ベルダードゥ、2583メートル）、ビアンコ山（同カブ・ウィアンク、2562メートル）、ミヌータ山（同プンタ・ミヌーダ、2556メートル）である。これら高峰は島を二つに分けるように西北から南東へ連なっており、その西側と東側では風俗や社会形態、言語などが対照的に異なっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
沿岸部の気候は他の地中海沿岸地域と大差なく年中温暖で少雨であるが、山岳地域は冷涼多雨で冬季には雪が積もり、スキー場が4箇所ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
沿岸部の地形は東部（東海岸）と西部（西海岸）でまったく異なっている。東海岸は極めて単調で、コルシカに数少ない平野も広がり、[[ラグーン]]（潟）も所々で見られる。ラグーンのうち主なものは北部にある全域が自然保護区に指定されているビグリア潟（コルシカ語で「ビグーヤ」）、中部アレリア近辺にあり[[カキ_(貝)|カキ]]や[[ムール貝]]の養殖が行われているディアヌ潟（同「ディアナ」）、ウルビノ潟（同「ウルビーヌ」）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方西海岸は断崖絶壁が続き、平野は中部のグラヴォナ川（コルシカ語で「ア・ラウォーナ」）河口付近にあるのみである。西海岸北西部には[[世界遺産]]で有名な奇岩群[[ポルト湾|ジロラーダ、スカンドーラ、カランケの景勝地]]がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コルシカ島は面積の割に急峻な山岳地帯が大半を占め、あまりまとまった農業・産業が展開できない土地であるため居住人口は少なく、沿岸部および山岳部には手付かずの自然が残されている。島全体の4割近くがコルシカ地域自然公園（PNR）に指定されており、夏にはハイカーが大数訪れる。&amp;lt;!--しかしながら、コルシカ島の夏季は乾燥することが多く、公園内での喫煙や指定場所以外での焚き火は禁止されている。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
コルシカ島の歴史は波瀾に満ちている。太古の昔は山岳部に居住する先住民と外来の支配者に明確に区分されていた。先住民についてはその詳細は今だ解明されていないが、[[ケルト人|ケルト先住民]]と共通する文明、例えば[[巨石記念物|巨石文明]]や人物の彫塑のある石柱が島の南部に多数見られる。一方、外来者は紀元前にはフォカイア、[[エトルリア]]、[[カルタゴ]]などが、中継貿易拠点としてコルシカ島の沿岸地帯の[[覇権]]を争った。島東部海岸にあるアレリアにはエトルリアの遺跡がある。最終的に島に対する覇権を握ったのはカルタゴだったが、[[ポエニ戦争]]で[[古代ローマ]]に敗れたため、紀元前3世紀頃から島の支配権はローマに移る。ローマはアレリアに都市を建造し、さらに北部バスティア南郊にマリアナを築く。ローマによる繁栄はしばらく続くが、ローマ帝国が東西に分裂し、[[ゲルマン人|ゲルマン勢力]]の侵入が始まると、コルシカ島には外部勢力、特に[[海賊]]による襲撃が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6世紀後半頃から[[十字軍]]によるイスラム勢力のヨーロッパからの駆逐が完了する11世紀頃までこの状態が続き、島ではこの期間を「暗黒時代」と呼んでいる。山岳部の先住民たちはローマ時代には平地に降りて、ローマ人と共存した時期もあったが、暗黒時代になると外部民族の襲撃を恐れて、再び山岳部の小集落（パエーゼ）に身を潜めて自給自足の生活にもどる。近代以降フランスではコルシカの独自の風習が取り上げられているが、その独自性はこの暗黒時代に遡るようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中世]]になると[[イタリア半島]]の[[都市国家]]、[[ピサ]]と[[ジェノヴァ]]がコルシカ島を植民支配する。ローマ教皇の命により11世紀ピサがコルシカ島を統治するが、その後ジェノヴァが徐々に島の沿岸地帯に城塞都市を建造し、ピサからその支配権を奪い取ってゆき、13世紀にはジェノヴァの支配が確立する。現在のコルシカにある都市のほとんどがジェノヴァ統治時代にジェノヴァによって建造されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジェノヴァの支配は過酷であり、島民はたびたび反乱を起こした。中世では16世紀のサンピエール（サンピエロ・コルソ）の反乱が最大のもので、これはジェノヴァによって鎮圧されたが、1729年に始まる40年戦争はかつてなく大規模かつ組織的な闘争だったためにジェノヴァはこれを抑えられず、1768年にジェノヴァとフランスはフランス軍をコルシカに派兵するかわりにジェノヴァは一定期間のコルシカ統治権をフランスに譲るという内容の、[[ヴェルサイユ条約_(1768年)|ヴェルサイユ条約]]を締結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方のコルシカは1755年、独立運動の指導者パスカル・パオリを首班とする独立政府を樹立し、コルシカの国歌や国旗、憲法、通貨や大学、徴兵制など近代国家の原型ともいえる制度も創出して行き、1769年、フランス軍とコルシカ軍との間で戦争が始まった。バスティア南郊のボルゴの戦いではコルシカ軍はフランス軍を駆逐したが、同年5月のポンテ・ノーウ（ポンテ・ヌオーヴォ）の戦いでは、フランス軍の圧倒的兵力の前にコルシカ軍は敗れ去り、パオリは英国に亡命する。これ以降島はフランス領になり、ナポレオンは義兵を率いてコルシカ独立を目指した反乱を起こすもフランス軍に敗北し、その上事前に察知していたナポレオン一家は既に島を出ていたものの帰国したパオリによってナポレオン家は焼き討ちにされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした歴史的背景もあって、コルシカ島ではフランス併合後、断続的に民族主義運動が起きている。しかしそれはフランスからの独立というよりは、その経済規模の小ささとフランス国家への歴史的な依存性からフランス共和国の中にとどまりながら立法権など政治的決定権を獲得する自治主義が中心である。1975年8月に自治主義勢力とフランス治安当局との間で激しい闘争（アレリア闘争）が展開され、自治主義勢力が非合法化されると、分離主義勢力のFLNC（コルシカ民族解放戦線）が組織されるが、1982年に地方分権政策の一環としてコルシカ地域議会が設置されると求心力を失い分裂する。そして現在繰り広げられている武力闘争は独立戦争などではなく、民族主義を名乗るグループ同士の内部抗争であり、近年は失業で悶々としている島の若者たちを徴用するなど非行問題化しつつある。一般の島民は民族主義には理解を示しつつも、政治運動からは一線を画しており、コルシカ人がフランスからの独立を望んでいるという指摘は不正確である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
コルシカ島は文化や言語の面でフランス本土とは異なった面を持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年はコルシカにおけるアイデンティティの高まりにより、コルシカの文化やこれを基盤にした芸術などを見直すさまざまな活動が行われているが、その代表がかつての即興詩吟をベースにしたポリフォニーである。複数の男性が楽器を使わずに奏でる多声合唱がその中心で、グループ「イ・ムヴリニ」がその代表格である。それ以外に「ア・ヴィレーッタ」、「ティアミ・アディアレージ」、「カンター・ウ・ボーブル・ゴールス」、「スルディエンティ」などのグループがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コルシカ島は現在、フランスの領土であるため、島民の日常語は[[フランス語]]である。しかし島の固有の言語である[[コルシカ語]]も依然として、学校教育やテレビ・ラジオ放送、広告・商標、文化活動などで盛んに用いられている。コルシカ語は表記や単語の綴字法は[[イタリア語]]に近いが、音韻からはフランス語や[[カタルーニャ語]]の影響が窺い知れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 産業 ==&lt;br /&gt;
コルシカ島の特産物は豚および豚肉燻製品、[[クリ]]の粉から作った菓子類である。[[ワイン]]や[[チーズ]]の産地としても有名で、ワインは「パトリモニオ」や「ミュスカ・デュ・カップ・コルス」、[[チーズ]]ではフレッシュチーズのブローッチュが有名である。クリで作られたビール「ピエチュラ」（ピエトラ）もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、生産的な産業といえばこれらの農産物に限られ、コルシカは観光・サービス業に大きく頼らざるを得なくなっている。だが、観光はシーズン期が7月と8月のみで、また近隣に[[コート・ダジュール]]やイビサ（スペインのバレアレス諸島の一つ）、イタリアの[[リグーリア海岸]]など国際的リゾート基地に囲まれており、大規模リゾート型の観光はあまり期待できない状況である。サービス業はスーパー・マーケットなどの小売業の他、運輸・公務関係者が圧倒的に多い。コルシカ島にとって最大のお得意様は「親方三色旗」（フランス共和国の国家財政）なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、コルシカ島内では食料品をはじめとして衣料品、石油製品、住宅関連費用、電気、ガス、水道などにかかる付加価値税がフランス本土よりも低く設定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
コルシカ島には四つの空港があり、日本からの直行便はないが、[[パリ]]をはじめとして、[[ニース]]や[[マルセイユ]]などのフランスの地中海沿岸の都市と航空路で連絡されている。一方、航路はマルセイユ、ニース、トゥーロン、イタリアのサヴォナ、[[ジェノヴァ]]、サルデーニャ島との連絡があり、最高35[[ノット_(単位)|ノット]]を誇る高速フェリー路線もある。ただし、コルシカ島への公共交通機関を利用しての出入りの際には税金（入島税、出島税）がかかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
島内交通はアジャクシオ、バスティア、コルテ、カルヴィを連絡するコルシカ鉄道があるが、それ以外には公共交通機関はない。よって、島内を巡るには一日に1、2便しかないバスを利用するか、レンタカー、タクシーを利用する他はない。島内には国道193、194、196、197、198、200号線があるが、高速道路はない。国道の道路事情は極めて悪かったが、1990年代以降は徐々に改善されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
島の一般道を閉鎖して行われる[[ラリー]]は『ツール・ド・コルス』と呼ばれ、1956年から毎年開催。1973年から始まったWRC（[[世界ラリー選手権]]）のラウンドにも組み込まれている。「直線が200mあったらコルスではない」とまで言われる、非常にテクニカルな[[ターマック]]（舗装路）ラリーコースとして数々の名場面を生み出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山岳地帯を縫うように走る断崖路で行われるこのイベントでは、ワークスドライバーであってもしばしば大事故を引き起こす。[[グループB]]時代の1985年、1986年にはランチアのワークスドライバーがコースオフし死亡。グループBカテゴリ消滅のきっかけとなった。ほかにも1997年にはこの年のワールドチャンピオン、三菱の[[トミ・マキネン]]が路上に出てきた牛に衝突し崖下に転落してリタイアしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www1.odn.ne.jp/cah02840/CORSICA 日本コルシカ協会・コルシカガイドのページ]（日本語）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{commons|Corse}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連図書 ==&lt;br /&gt;
* ジャニーヌ・レヌッチ著『コルシカ島』白水社 1999年&lt;br /&gt;
* 長谷川秀樹著『コルシカの形成と変容』三元社 2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|コルシカ島}}&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの島|こるしかとう]]&lt;br /&gt;
[[Category:地中海の島|こるしかとう]]&lt;br /&gt;
[[Category:イタリアの国際関係|こるしかとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2&amp;diff=5768</id>
		<title>ロシア</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2&amp;diff=5768"/>
				<updated>2007-06-03T08:03:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: /* その他 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruseslist|現代のロシア連邦|帝政ロシア時代|ロシア帝国|旧ソ連に加盟していたロシア共和国|ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 国|&lt;br /&gt;
 略名 =ロシア|&lt;br /&gt;
 日本語国名 =ロシア連邦|&lt;br /&gt;
 公式国名 =&amp;lt;B&amp;gt;{{lang|ru|Российская Федерация}}&amp;lt;/B&amp;gt;|&lt;br /&gt;
 国旗画像 =Flag of Russia.svg|&lt;br /&gt;
 国章画像 =[[画像:Russia coa.svg|100px|ロシアの国章]] &amp;lt;!-- 国章画像の削除の議論は、画像:Russia_coa.svgに限定されている --&amp;gt;|&lt;br /&gt;
 国章リンク =[[ロシアの国章|国章]]|&lt;br /&gt;
 標語 =なし|&lt;br /&gt;
 位置画像 =LocationRussia.png|&lt;br /&gt;
 公用語 =[[ロシア語]]&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;|&lt;br /&gt;
 首都 =[[モスクワ]]|&lt;br /&gt;
 最大都市 =モスクワ|&lt;br /&gt;
 元首等肩書 =[[ロシアの大統領|大統領]]|&lt;br /&gt;
 元首等氏名 =[[ウラジーミル・プーチン]]|&lt;br /&gt;
 首相等肩書 =[[ロシアの首相|首相]]|&lt;br /&gt;
 首相等氏名 =[[ミハイル・フラトコフ]]|&lt;br /&gt;
 面積順位 =1|&lt;br /&gt;
 面積大きさ =1 E13|&lt;br /&gt;
 面積値 =17,075,200|&lt;br /&gt;
 水面積率 =0.5%|&lt;br /&gt;
 人口統計年 =2005|&lt;br /&gt;
 人口順位 =7|&lt;br /&gt;
 人口大きさ =1 E8|&lt;br /&gt;
 人口値 =142,893,540|&lt;br /&gt;
 人口密度値 =8|&lt;br /&gt;
 GDP統計年元 =2005|&lt;br /&gt;
 GDP値元 =20兆9,439億|&lt;br /&gt;
 GDP統計年MER =2005|&lt;br /&gt;
 GDP順位MER =10|&lt;br /&gt;
 GDP値MER =7,554億|&lt;br /&gt;
 GDP統計年 =2005|&lt;br /&gt;
 GDP順位 =10|&lt;br /&gt;
 GDP値 =1兆5,890億|&lt;br /&gt;
 GDP/人 =11,100|&lt;br /&gt;
 建国形態 =[[独立]]&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;amp;nbsp;- [[主権]]宣言&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;amp;nbsp;- 完全独立|&lt;br /&gt;
 建国年月日 =[[ソビエト連邦]]解体による&amp;lt;br/&amp;gt;[[1990年]][[6月12日]]&amp;lt;br/&amp;gt; [[1991年]][[12月26日]]|&lt;br /&gt;
 通貨 =[[ロシア・ルーブル]](A$)|&lt;br /&gt;
 通貨コード =RUB|&lt;br /&gt;
 時間帯 =+2 ～ +12|&lt;br /&gt;
 夏時間 =+3 ～ +13|&lt;br /&gt;
 国歌名 =ロシア連邦国歌|&lt;br /&gt;
 ccTLD =RU|&lt;br /&gt;
 国際電話番号 =7|&lt;br /&gt;
 注記 =註1 : 連邦構成主体の各共和国は連邦公用語（ロシア語）とは別に、自らの公用語を定めうることが憲法で認められている。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''ロシア連邦'''（ロシアれんぽう、{{lang|ru|Росси́йская Федера́ция}}、Rossiyskaya Federatsiya）、別称'''ロシア'''（[[ロシア語]]：''{{lang|ru|Росси́я}}''）は、[[ヨーロッパ]]と[[アジア]]にまたがる世界最大の[[領土]]を持つ[[連邦|連邦制]]の[[共和国]]。ロシア連邦およびロシアは双方とも正式名称である[http://en.wikisource.org/wiki/Constitution_of_the_Russian_Federation]。首都は[[モスクワ]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北西から順に[[ノルウェー]]、[[フィンランド]]、[[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[ベラルーシ]]、[[リトアニア]]、[[ポーランド]]（ポーランドとの[[国境]]は[[バルト海]]とリトアニアに囲まれた[[飛び地]]領である[[カリーニングラード州]]である）、[[ウクライナ]]、[[グルジア]]、[[アゼルバイジャン]]、[[カザフスタン]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[モンゴル国|モンゴル]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と国境を接し、北は[[北極海]]、東は[[太平洋]]に囲まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本]]とは[[海]]を隔てた隣国で、日本との間には国境が不確定な部分が有るため正確な数値は出せないが、[[北方領土]]他を除く日本の最北端である[[北海道]][[稚内市]]の[[宗谷岬]]と[[サハリン州]]のサハリン島（[[樺太島]]）南端の距離は43kmであり、日本の領土からみて最も近くにある国である。（ただし、サハリンの南半分については、日本政府は「[[国際法]]上は所属未定地」との立場を取っている。） また、[[実効支配]]という観点から見ると、北海道[[根室市]]の[[納沙布岬]]と、日本が[[領有権]]を主張しているがロシアが実効支配している、いわゆる[[北方領土]]の[[貝殻島]]との距離はわずか3.7kmしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
正式名称は、{{lang|ru|Российская Федерация}}（Rossíjskaja Federácija; ラスィースカヤ・フィジラーツィヤ）。略称{{lang|ru|РФ}}。通称、{{lang|ru|Россия}}（Rossíja; ラシーヤ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[キリル文字]]のラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここにあげたものは一例である（本記事の以下の転写も同じ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本語表記は、'''ロシア連邦'''。通称'''ロシア'''（まれに'''ロシヤ'''とも。また旧ロシア帝国を個別に指す場合は「'''帝政ロシア'''」とも）。日本語の漢字表記は'''露西亜'''で、略称は'''露'''（現在は旧ロシア帝国と区別するため'''ロ'''とも示される事もある）。江戸時代には'''をろしや'''と呼ばれていた。また、19世紀の江戸時代から明治時代にかけては'''魯西亜'''という表記もなされ、[[1855年]]に両国間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシアの国名は、現在のロシア北西部と[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]にあたる[[ルーシ]]という地域をギリシア語の発音によって変更された名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こった[[モスクワ大公国]]が周辺の地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐって[[リトアニア]]と対立していた[[16世紀]]の[[イヴァン4世]]（雷帝）の頃に使われ始め、[[18世紀]]初頭の[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]（大帝）がと称したことにより正式の国名となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア帝国期以前は、ロシアという語はかつてのルーシ全域を指し、ロシア北西部を「大ロシア」、ウクライナを「小ロシア」（「ルーシの中心地」という意味）、ベラルーシを「白ロシア」と呼んでいた。しかし、ウクライナとベラルーシの人々は次第にロシア人と異なった民族意識を醸成していったために、これらの国々はソ連邦下でロシアと別々の共和国とされ、ソ連邦の解体により別々に独立することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[ロシアの歴史]]を参照''&lt;br /&gt;
=== ロマノフ朝以前 ===&lt;br /&gt;
ロシアと[[ウクライナ]]・[[ベラルーシ]]の原型である[[中世]]の[[ルーシ]]地域は、[[862年]]に[[ノルマン人]][[リューリク]]が[[ノヴゴロド]]の公となり、その一族が[[東スラヴ人]]の居住地域に支配を広げていく過程で形成されたと[[年代記]]に記録される。当初のルーシの中心は、現在はウクライナの首都である[[キエフ]]であり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境で、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。支配者層を含めてスラヴ化した[[キエフ大公国]]は、[[9世紀]]に[[東ローマ帝国]]（ビザンツ帝国）から[[東方正教会]]派の[[キリスト教]]と[[ギリシャ]]＝ビザンツ文化を受容し、独特の文化を育んだが、[[13世紀]]初頭に[[モンゴル]]によって征服され、[[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン国]]の支配下に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかった[[モスクワ大公国|モスクワ公]]は、モンゴル支配下でルーシ諸公が[[ハーン|ハン]]に納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、[[15世紀]]にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。モスクワ大公は[[イヴァン3世]]のとき[[ツァーリ]]（皇帝）の称号を名乗り、その支配領域は[[ロシア帝国]]へと発展してゆく。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られていた。[[16世紀]]に[[イヴァン4世]]（雷帝）が近代化と皇帝集権化、[[シベリア]]進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後は大貴族の抗争で国内が大混乱に陥り、[[ポーランド王国|ポーランド]]によるモスクワ占領まで起こった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ロマノフ朝（帝政ロシア） ===&lt;br /&gt;
[[1613年]]に[[ロマノフ朝]]が成立すると、大貴族と[[農奴制]]に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。[[18世紀]]、[[ピョートル1世]]（大帝）は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都[[サンクトペテルブルク]]の建設（1703）、[[大北方戦争]]（1700～1721）での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に[[皇帝]]の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。また、[[エカチェリーナ2世]]は[[ポーランド分割]]に参加し、欧州での影響力を増加させた。[[大黒屋光太夫]]が彼女に謁見したことにより、[[アダム・ラクスマン]]が日本に派遣され[[日露関係史]]が実質的に始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[19世紀]]になるとロシアは[[ナポレオン戦争]]に参戦し、[[1812年]]には[[ナポレオン・ボナパルト]]指揮のフランス軍に侵攻されたが、大損害を負いながらこれを撃退し、戦後は[[フィンランド]]や[[ポーランド立憲王国]]を支配して、[[神聖同盟]]の一員として[[ウィーン体制]]を維持する欧州の大国となった。国内での[[デカブリストの乱]]やポーランド反乱などの自由主義・民族主義運動は厳しく弾圧された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
19世紀後半からは[[不凍港]]を悲願として[[南下政策]]を推し進めていき、これによって[[トルコ]]等周辺国と戦争を引き起こし、[[イギリス]]との対立が激化していく。しかし[[クリミア戦争]]ではイギリス・[[フランス]]に惨敗し、帝国の後進性が明確になった。[[1861年]]に皇帝[[アレクサンドル2世]]は[[農奴解放令]]を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、[[ナロードニキ]]による農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は[[アナキズム|無政府主義者]]による皇帝暗殺まで発展した。この時期、極東では[[アロー戦争]]の仲介料として[[沿海州]]を清から獲得し[[ウラジオストク]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
19世紀末には、ロシアはそれまでのドイツ・オーストリアとの[[三帝同盟]]からフランスとの[[露仏同盟]]に外交の軸足を移し、[[汎スラヴ主義]]による[[バルカン半島]]での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により[[シベリア鉄道]]の建設が行われている。[[1905年]]に[[血の日曜日事件 (1905年)]]が発生し、[[日露戦争]]で敗れると、ロシアはイギリスと[[英露協商]]、日本と[[日露協約]]を締結し、[[三国協商]]に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内では[[ドゥーマ]]（国会）の開設や[[ピョートル・ストルイピン]]による改革が行われたが、皇帝[[ニコライ2世]]の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ソビエト連邦 ===&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]では連合国の一員としてドイツ・オーストリアと開戦したが、敗北を重ねて領土深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の[[1917年]]に起こった[[ロシア革命]]で[[ロマノフ王朝]]は倒された。革命後、[[ウラジーミル・レーニン]]は[[ポーランド]]・[[バルト三国]]・[[フィンランド]]の独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、[[ボリシェヴィキ]]（共産党）を率いて[[ロシア内戦|内戦]]に勝利し、[[1922年]]にボリシェヴィキの[[一党独裁]]支配を国是とする[[ソビエト連邦]]を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国（その後15まで増加）のうち、[[ロシア人]]が多数派を占める大部分の地域は'''[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]'''となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都はレニングラードと改称されたサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに戻された。また、ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて[[自治共和国]]、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソビエト体制ではロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。[[ソビエト連邦共産党]]内に「ロシア共産党」は創設されず、[[第二次世界大戦]]後の[[国際連合]]でもウクライナや白ロシア（現在のベラルーシ）と異なり単独での加盟が認められなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二次世界大戦では西部の広大な地域を[[ドイツ]]に占領され、大きな被害を受けた。戦後はソ連国内の戦災地を中心に新たな国内移住が進められ、経済復興が進められた。特に[[エストニア]]や[[ラトヴィア]]などではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。また、[[1946年]]には旧ドイツ領の[[東プロイセン]]の北部を[[カリーニングラード州]]、日本に侵攻して占領したサハリン島南部（[[南樺太]]）と[[クリル列島]]（[[千島列島]]、[[歯舞諸島]]・[[色丹島]]を含む）全域を[[サハリン州]]として編入した。一方、[[1954年]]には黒海沿岸の[[クリミア半島]]（クリミア州）がウクライナに割譲され、現在のロシア連邦にあたる領域になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、日本政府はサハリン州のうち、千島列島南部の[[北方領土]]について返還を要求し、それ以外の千島列島および南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地としている。詳しくは北方領土の項目を参照する事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、ソ連は世界の二大超大国の一方として[[アメリカ合衆国]]と[[冷戦]]を繰り広げたが、[[計画経済]]の破綻等から次第に[[共産主義]]の矛盾を露呈した。[[1980年代]]にソ連の指導者となった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]は冷戦を終結させる一方、[[ペレストロイカ]]、[[グラスノスチ]]を掲げてソ連を延命させるため改革に取り組むが、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ソ連崩壊 ===&lt;br /&gt;
党内抗争に敗れた改革派の[[ボリス・エリツィン]]はソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、[[1990年]]に最高会議議長となると、同年[[6月12日]]に'''ロシア共和国'''と改称して[[主権]]宣言を行い、自らを大統領とした。[[1991年]]の[[ソ連8月クーデター]]ではエリツィンが鎮圧に活躍し、同年[[12月26日]]に[[ソ連崩壊|ソ連は崩壊]]した。ロシアは旧ソ連構成国の連合体である[[独立国家共同体]]（{{lang|ru|СНГ}}）加盟国のひとつとなった。ロシアは旧ソ連が有していた国際的な権利（国連の[[常任理事国]]など）や[[国際法]]上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持し続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに国名は[[1992年]][[5月]]、ロシア連邦条約により、現在の'''ロシア連邦（ロシア）'''の国名が最終確定した（ロシア連邦への国名変更は、ゴルバチョフ・[[ソビエト連邦|ソ連]]大統領辞任の当日である[[1991年]]12月25日、当時のロシア[[最高会議]]決議による）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[1999年]]12月8日には、当時のエリツィン大統領と、[[ベラルーシ]]の[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]大統領との間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指す[[ロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約]]が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任した[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]が、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は、事実上、停滞状態となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
{{節現在進行}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--''詳細は[[ロシアの政治]]を参照''--&amp;gt;&lt;br /&gt;
''ロシア連邦政府の組織に関する詳細は[[ロシア連邦政府]]を参照''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国制は[[連邦制]]を取るが、[[国家元首]]である[[大統領]]（任期4年）が[[行政]]の中心として強いリーダーシップを発揮する。大統領は、[[首相]]（[[議会]]の信任を要する）を含む政府の要職の指名権・任命権と、議会の同意を得ないで政令（大統領令）を発布する権限を持ち、[[軍隊]]と国家安全保障会議の長を兼ねる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年豊富な[[原油]]や[[天然ガス]]をなどエネルギーをてこに、特に[[欧州]]と[[中央アジア]]に対し急速に影響力を拡大している。&lt;br /&gt;
[[ソ連崩壊]]後の弱体ぶりから比べると、相当影響力を取り戻したといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''[[ロシア連邦議会]]'''（{{lang|ru|Федеральное Собрание Российской Федерации}}, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii）は二院制で、各[[ロシア連邦の地方区分|連邦構成主体]]の行政府と立法府の代表ひとりずつからなり[[上院]]に相当する'''連邦院'''（'''連邦会議'''、{{lang|ru|Совет Федерации}}, Sovet Federatsii、定員178名）と、[[下院]]に相当する'''国家院'''（'''国家会議'''、{{lang|ru|Государственная Дума}}, Gosudarstvennaja Duma、定員450名）からなる。下院議員は、任期4年で、[[小選挙区制]]と[[比例代表制]]により半数ずつ選出される仕組みであったが、[[2005年]][[4月23日]]完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中央政界で活動する主要な政党については、[[ロシアの政党]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 加盟している国際機関 ===&lt;br /&gt;
* [[国際連合]]&lt;br /&gt;
* [[欧州安全保障協力機構]]&lt;br /&gt;
* [[欧州・大西洋パートナーシップ理事会]]&lt;br /&gt;
* [[欧州評議会]]&lt;br /&gt;
* [[独立国家共同体]]&lt;br /&gt;
* [[集団安全保障条約]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地方行政区分 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--[[画像:Russia_sub_mini.png|thumb|348px|ロシアの連邦構成主体区分図（黄色が共和国）]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Russian-regions.png|thumb|322px|ロシアの連邦構成主体区分図（黄緑色が共和国）]]&lt;br /&gt;
''詳細は[[ロシア連邦の地方区分]]を参照''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシアは、86の'''連邦構成主体'''（ロシア連邦を構成する21の共和国と10の[[自治管区]]）と呼ばれる地方行政体からなる[[連邦国家]]である。連邦構成主体のうちには、非ロシア系[[民族]]が住民の主体を占める地域にある21の[[共和国]]が含まれるが、これらの共和国には連邦からの分離独立権がなく、連邦中央政府の強いコントロール下に置かれているため、実質的には民族自治区と異ならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ウラジーミル・プーチン]]政権は、中央政府の各連邦構成主体への影響力拡大を図り、[[2000年]][[5月13日]]に全土を7つに分けた[[連邦管区]]を設置した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[中央連邦管区]]（本部[[モスクワ]]）&lt;br /&gt;
* [[北西連邦管区]]（本部[[サンクトペテルブルク]]）&lt;br /&gt;
* [[南部連邦管区]]（本部[[ロストフ・ナ・ドヌ]]）&lt;br /&gt;
* [[沿ヴォルガ連邦管区]]（本部[[ニジニ・ノヴゴロド]]）&lt;br /&gt;
* [[ウラル連邦管区]]（本部[[エカテリンブルク]]）&lt;br /&gt;
* [[シベリア連邦管区]]（本部[[クラスノヤルスク]]）&lt;br /&gt;
* [[極東連邦管区]]（本部[[ハバロフスク]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{地域区分表|CONTENTS=&lt;br /&gt;
 {{地域区分表列&lt;br /&gt;
 |NAMEJ=[[中央連邦管区]]&lt;br /&gt;
 |NAMEL=[[:ru:Центральный_федеральный_округ|Центральный федеральный округ]]&lt;br /&gt;
 |POP=37,142,300&lt;br /&gt;
 |CAPJ=[[モスクワ]]&lt;br /&gt;
 |CAPL=[[:ru:Москва|Москва]]&lt;br /&gt;
 |ETC=&lt;br /&gt;
 }}&lt;br /&gt;
 {{地域区分表列&lt;br /&gt;
 |NAMEJ=[[北西連邦管区]]&lt;br /&gt;
 |NAMEL=[[:ru:Северо-Западный_федеральный_округ|Северо-Западный федеральный округ]]&lt;br /&gt;
 |POP=14,282,900&lt;br /&gt;
 |CAPJ=[[サンクトペテルブルク]]&lt;br /&gt;
 |CAPL=[[:ru:Санкт-Петербург|Санкт-Петербург]]&lt;br /&gt;
 |ETC=&lt;br /&gt;
 }}&lt;br /&gt;
 {{地域区分表列&lt;br /&gt;
 |NAMEJ=[[南部連邦管区]]&lt;br /&gt;
 |NAMEL=[[:ru:Южный_федеральный_округ|Южный федеральный округ]]&lt;br /&gt;
 |POP=21,471,300&lt;br /&gt;
 |CAPJ=[[ロストフ・ナ・ドヌ]]&lt;br /&gt;
 |CAPL=[[:ru:Ростов-на-Дону|Ростов-на-Дону]]&lt;br /&gt;
 |ETC=&lt;br /&gt;
 }}&lt;br /&gt;
 {{地域区分表列&lt;br /&gt;
 |NAMEJ=[[沿ヴォルガ連邦管区]]&lt;br /&gt;
 |NAMEL=[[:ru:Приволжский_федеральный_округ|Приволжский федеральный округ]]&lt;br /&gt;
 |POP=32,017,800&lt;br /&gt;
 |CAPJ=[[ニジニ・ノヴゴロド]]&lt;br /&gt;
 |CAPL=[[:ru:Нижний_Новгород|Нижний Новгород]]&lt;br /&gt;
 |ETC=&lt;br /&gt;
 }}&lt;br /&gt;
 {{地域区分表列&lt;br /&gt;
 |NAMEJ=[[ウラル連邦管区]]&lt;br /&gt;
 |NAMEL=[[:ru:Уральский_федеральный_округ|Уральский федеральный округ]]&lt;br /&gt;
 |POP=12,603,200&lt;br /&gt;
 |CAPJ=[[エカテリンブルク]]&lt;br /&gt;
 |CAPL=[[:ru:Екатеринбург|Екатеринбург]]&lt;br /&gt;
 |ETC=&lt;br /&gt;
 }}&lt;br /&gt;
 {{地域区分表列&lt;br /&gt;
 |NAMEJ=[[シベリア連邦管区]]&lt;br /&gt;
 |NAMEL=[[:ru:Сибирский_федеральный_округ|Сибирский федеральный округ]]&lt;br /&gt;
 |POP=20,792,500&lt;br /&gt;
 |CAPJ=[[ノヴォシビルスク]]&lt;br /&gt;
 |CAPL=[[:ru:Новосибирск|Новосибирск]]&lt;br /&gt;
 |ETC=&lt;br /&gt;
 }}&lt;br /&gt;
 {{地域区分表列&lt;br /&gt;
 |NAMEJ=[[極東連邦管区]]&lt;br /&gt;
 |NAMEL=[[:ru:Дальневосточный_федеральный_округ|Дальневосточный федеральный округ]]&lt;br /&gt;
 |POP=7,169,400&lt;br /&gt;
 |CAPJ=[[ハバロフスク]]&lt;br /&gt;
 |CAPL=[[:ru:Хабаровск|Хабаровск]]&lt;br /&gt;
 |ETC=&lt;br /&gt;
 }}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[2004年]]12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名し地方議会が承認するという方式に転換した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 代表的な都市 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* [[ヴォルゴグラード]]（旧名スターリングラード）&lt;br /&gt;
* [[イルクーツク]]&lt;br /&gt;
* [[ウファ]]&lt;br /&gt;
* [[ウラジオストク]]&lt;br /&gt;
* [[エカテリンブルク]]（旧名スヴェルドロフスク）&lt;br /&gt;
* [[オムスク]]&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* [[カザン]]&lt;br /&gt;
* [[クラスノヤルスク]]&lt;br /&gt;
* [[サマーラ]]（旧名クイビシェフ）&lt;br /&gt;
* '''[[サンクトペテルブルク]]'''（旧名レニングラード）&lt;br /&gt;
* [[チェリャビンスク]]&lt;br /&gt;
* [[ニジニ・ノヴゴロド]]（旧名ゴーリキイ）&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* [[ノヴォシビルスク]]&lt;br /&gt;
* [[ハバロフスク]]&lt;br /&gt;
* [[ペルミ]]&lt;br /&gt;
* [[ムルマンスク]]&lt;br /&gt;
* '''[[モスクワ]]''' （[[首都]]）&lt;br /&gt;
* [[ユジノサハリンスク]]&lt;br /&gt;
* [[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[ロシアの地理]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
世界最大の面積を持つロシアは、[[ユーラシア大陸]]の北部に[[バルト海]]沿岸から[[太平洋]]まで東西に伸びる広大な国土を持つ。国土の北辺は[[北極圏]]に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。[[ヨーロッパ]]部と[[アジア]]部（[[シベリア]]）の大部分は広大な平原で、南部の[[ステップ_(地形)|ステップ]]から北は広大な[[タイガ]]がその大部分を占めており、さらに高緯度になると、樹木の生育しない[[ツンドラ]]地帯となる。[[黒海]]と[[カスピ海]]の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰の[[エルブルス山]]を含む[[カフカース山脈]]があり、ヨーロッパとロシアの境界には[[ウラル山脈]]がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国土を囲む海域には[[北極海]]の一部である[[バレンツ海]]、[[白海]]、[[カラ海]]、[[ラプテフ海]]、[[東シベリア海]]と、[[太平洋]]の一部である[[ベーリング海]]、[[オホーツク海]]、[[日本海]]、そして西の[[バルト海]]と西南の[[黒海]]があり、海岸線は37,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、[[ゼムリャフランツァヨシファ]]、[[ノヴァヤゼムリャ]]（米国を越える史上最大規模の[[核実験]]が行われた）、[[セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島]]、[[ノヴォシビルスク諸島]]、[[ウランゲル島]]、[[サハリン]]（樺太）、そして[[日本]]との領土問題を抱える[[千島列島|クリル諸島]]（千島列島）がある。 特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は[[北極]]寒波の影響が強いため厳寒であり、[[氷点下]]を下回る日が長く続く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部の[[ドン川]]、大型で良質の[[チョウザメ]]が多数生息する[[ヴォルガ川]]、[[カマ川]]、[[オカ川]]、アジア部の[[オビ川]]、[[エニセイ川]]、[[レナ川]]、[[サケ類]]の漁獲で有名な[[アムール川]]などの大河があげられる。これらの下流域は日本で大河とされる[[最上川]]、[[北上川]]や[[四万十川]]よりも川幅が広く、いずれも[[セントローレンス川]]下流域に近い川幅がある。 また、[[ブリヤート共和国]]の[[バイカル湖]]は世界一古く水深の深い[[湖]]として有名な[[構造湖]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Russia_map.png|ロシアの地図]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--''詳細は[[ロシアの経済]]を参照''--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソビエト連邦解体後、[[ボリス・エリツィン]]大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このためにかえって急速な[[インフレーション]]を招き、[[1990年代]]半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが[[1997年]]の[[アジア経済危機]]の影響を受けて[[1998年]]に[[ロシア財政危機|財政危機]]を招き、再び落ち込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、ロシアは[[サウジアラビア]]、[[アメリカ合衆国|米国]]に次ぐ世界第3位の[[原油]]生産国であり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し、石油産業を中心とする成長が続く。このためロシアの経済は市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた。[[2000年]]には[[国内総生産|GDP]]成長率が10%を越える一方インフレーションも抑制され、好調が続いている。このためロシアは[[ブラジル]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[インド]]と共に「[[BRICs]]」と呼ばれる新興経済国群の1つに挙げられるまでになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら自由化の恩恵に与った者（[[ロシアの新興財閥|オリガルヒ]]、新ロシア人、ニュー・リッチに代表される）とそうでない者の貧富の格差の拡大、[[チェチェン人]]による[[テロ]]のリスクなど、不安定要因が多いのもまた事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鉱業 ===&lt;br /&gt;
ロシアは最も鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ（以下の統計数値は「鉱業便覧 平成14年版 経済産業調査会」による2002年時点のものである）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
有機鉱物資源では、[[天然ガス]]（21807千兆ジュール、21.9%、2位）、[[原油]]（3.5億トン、10.3%、2位）、燃料に用いられる亜炭（8668万トン、9.5%、4位）、[[石炭]]（1.6億トン、シェア4.4%、6位）の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国（[[サウジアラビア]]、[[アメリカ合衆国]]）との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭 (88%) と天然ガス (69%) である。一方、原油の国内消費比率は29%と低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位（1億6211万トン、&amp;lt;!-- この項のみ --&amp;gt;2001年）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国民 ==&lt;br /&gt;
国民の80%以上は[[ロシア人]]である。ロシア人以外の主要な民族には、[[ウクライナ人]]、[[チェチェン人]]、[[イングーシ人]]、[[オセット人]]、[[カルムィク人]]、[[タタール人]]、[[バシキール人]]、[[チュヴァシ人]]、[[トゥヴァ人]]、[[ヤクート|サハ人]]、[[エヴェンキ|エヴェンキ人]]、[[タイミル人]]、[[マリ人]]、[[モルドヴィン人]]、[[カレリア人]]、[[イヌイット]]、[[ドイツ人]]、[[ユダヤ人]]、[[朝鮮民族|朝鮮人]]など、100を越える多くの非[[スラブ人|スラブ]]系民族がいるが、公用語である[[ロシア語]]が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用し、ロシア化が進んでいる。また、極東を中心に[[漢民族]]の移住が増えており、沿海地方では将来的には人口でロシア人を上回るといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア人を含めた多くの民族が[[ロシア正教会]]の信徒であるが、[[カトリック教会|カトリック]]、[[プロテスタント]]や[[イスラム教]]、[[ユダヤ教]]、[[仏教]]などの信徒も少なくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1992年以降人口減少が続いている。原因には、[[出生率]]が著しく低下していること、男性の[[平均寿命]]が極めて短くなっていることがある。現在のロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、'''58歳'''11ヶ月16日となっている。対照的に、女性は'''72歳'''4ヶ月4日であり、男女格差が極めて大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教育 ==&lt;br /&gt;
{{main|ロシアの教育}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[ロシアの文化]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[ロシア文学]]&lt;br /&gt;
* [[バレエ]]&lt;br /&gt;
* [[国民楽派|ロシア国民楽派]] - [[ロシア5人組]]&lt;br /&gt;
* [[ロシア料理]]&lt;br /&gt;
* [[ロシア建築]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界遺産 ===&lt;br /&gt;
ロシア国内には、[[ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が7件ある。さらにモンゴルとにまたがって1件の自然遺産が、リトアニアとにまたがって1件の文化遺産が登録されている。詳細は、[[ロシアの世界遺産]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 祝祭日 ==&lt;br /&gt;
[[クリスマス]]が[[1月7日]]なのは、キリスト教の宗教行事は[[ロシア正教会|ロシア正教]]が公認している[[ユリウス暦]]に基づいて行われていることによる。現在の暦である[[グレゴリオ暦]]は歴史的にはカトリック側が作った暦であるためである。すなわちグレゴリオ暦（新暦）1月7日がユリウス暦の[[12月25日]]に相当する。また、[[2100年]][[2月28日]]まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
&amp;lt;caption&amp;gt;&amp;lt;font size=+1&amp;gt;'''祝祭日'''&amp;lt;/font&amp;gt;&amp;lt;/caption&amp;gt;&lt;br /&gt;
!日付&lt;br /&gt;
!日本語表記&lt;br /&gt;
!現地語表記&lt;br /&gt;
!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月7日]]||[[クリスマス]]||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;Рождество Христово&amp;lt;/span&amp;gt;||正教会のクリスマス&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月14日]]||旧正月||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;Старый Новый год&amp;lt;/span&amp;gt;||ユリウス暦の1月1日に相当（2100年まで）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[2月23日]]||祖国英雄の日||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;День защитника Отечества&amp;lt;/span&amp;gt;||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[3月8日]]||[[国際女性デー]]||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;Международный женский день&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[5月1日]]||春と労働の日||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;Праздник весны и труда&amp;lt;/span&amp;gt;||旧[[メーデー]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[5月9日]]||対ドイツ戦勝記念日||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;День Победы&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[6月12日]]||ロシア主権宣言の日||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;День России&amp;lt;/span&amp;gt;||[[ソビエト連邦]]から主権宣言した日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[11月4日]]||国民団結の日||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;День народного единства&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[12月12日]]||憲法記念日||&amp;lt;span lang=&amp;quot;ru&amp;quot;&amp;gt;День Конституции Российской Федерации&amp;lt;/span&amp;gt;||現在のロシア憲法が公布された日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[12月31日]]||年末の休日&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ロシア関係記事の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[ロシア人の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[ロシアの交通]]&lt;br /&gt;
* [[ロシア・ソ連の軍服]]&lt;br /&gt;
* [[ロシア連邦軍]]&lt;br /&gt;
* [[ロシア時間]]&lt;br /&gt;
* [[ロシアの国歌]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--* [[ロシアの通信]]&lt;br /&gt;
* [[ロシアの軍事]]&lt;br /&gt;
* [[ロシアの国際関係]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[ロシアにおけるイスラーム]]&lt;br /&gt;
* [[ロシア大百科事典]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
=== 公式 ===&lt;br /&gt;
* [http://www.gov.ru/ ロシア政府公式サイト]（ロシア語）&lt;br /&gt;
* [http://www.council.gov.ru/ ロシア連邦議会連邦院]（ロシア語、英語）&lt;br /&gt;
* [http://www.duma.gov.ru/ ロシア連邦議会国家院]（ロシア語）&lt;br /&gt;
* [http://www.embassy-avenue.jp/russia/index-j.htm 在日ロシア大使館] （日本語、英語）&lt;br /&gt;
* [http://www.rusconsul.jp/hp/index.php 在日ロシア大使館領事部]（日本語、英語）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/russia/ 日本外務省 ロシアの情報]&lt;br /&gt;
* [http://www.ru.emb-japan.go.jp/japan/index.html 在ロシア日本国大使館] （日本語、ロシア語）&lt;br /&gt;
* [http://www.moj.go.jp/KOUAN/NAIGAI/NAIGAI18/naigai18-00.html 平成18年「内外情勢の回顧と展望」] （[[公安調査庁]]）&lt;br /&gt;
* [http://www1.odn.ne.jp/ruscons_sapporo/ 在札幌ロシア連邦総領事館]&lt;br /&gt;
* [http://src-home.slav.hokudai.ac.jp/ 北海道大学スラブ研究センター]&lt;br /&gt;
* [http://www.fesu.ac.jp/ ロシア極東国立総合大学函館校]&lt;br /&gt;
* [http://www.kt.rim.or.jp/~jes/ 日本ユーラシア協会（旧 日ソ協会）]&lt;br /&gt;
* [http://www2.dango.ne.jp/sakhalin/ 日本サハリン協会]&lt;br /&gt;
* [http://www.russigator.ru/ Russigator（ロシア情報ステーション）]&lt;br /&gt;
{{国連安全保障理事会理事国}}&lt;br /&gt;
{{ヨーロッパ}}&lt;br /&gt;
{{独立国家共同体}}&lt;br /&gt;
{{上海協力機構}}&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|ロシア}}&lt;br /&gt;
[[Category:ロシア|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:G8加盟国|ろしあ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF&amp;diff=5617</id>
		<title>イラク</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF&amp;diff=5617"/>
				<updated>2007-05-30T04:11:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''イラク共和国'''（イラクきょうわこく）は[[中東]]・[[西アジア]]の[[国]]である。[[首都]]は[[バグダード]]（バグダッド）。[[サウジアラビア]]、[[クウェート]]、[[シリア]]、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[ヨルダン]]と隣接する。通称は'''イラク'''。古代[[メソポタミア|メソポタミア文明]]を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。&lt;br /&gt;
{{基礎情報 国|&lt;br /&gt;
  略名         =イラク|&lt;br /&gt;
  日本語国名   =イラク共和国|&lt;br /&gt;
  公式国名     =&amp;lt;b lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الجمهورية العراقية&amp;lt;/b&amp;gt; &amp;lt;small&amp;gt;（アラビア語）&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;b lang=&amp;quot;ku&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;كۆماری عێراق&amp;lt;/b&amp;gt; &amp;lt;small&amp;gt;（クルド語）&amp;lt;/small&amp;gt;|&lt;br /&gt;
  国旗画像     =Flag of Iraq.svg|&lt;br /&gt;
  国章画像     =[[画像:Iraq-COA.png|80px|イラクの国章]]|&lt;br /&gt;
  国章リンク   =([[イラクの国章|国章]])|&lt;br /&gt;
  標語         =&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الله أكبر&amp;lt;/span&amp;gt; (allahu akbar)&amp;lt;br&amp;gt;（アラビア語: [[神]]は偉大なり）|&lt;br /&gt;
  位置画像     =LocationIraq.png|&lt;br /&gt;
  公用語       =[[アラビア語]]、[[クルド語]]&amp;lt;ref&amp;gt;4つのクルド地方では第一公用語&amp;lt;/ref&amp;gt;|&lt;br /&gt;
  首都         =[[バグダード]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[クルド人自治区]]の首府はアルビール&amp;lt;/ref&amp;gt;|&lt;br /&gt;
  最大都市     =バグダード|&lt;br /&gt;
  元首等肩書   =[[大統領]]|&lt;br /&gt;
  元首等氏名   =[[ジャラル・タラバニ]]|&lt;br /&gt;
  首相等肩書   =[[首相]]|&lt;br /&gt;
  首相等氏名   =[[ヌーリ・マリキ]]|&lt;br /&gt;
  面積順位     =57|&lt;br /&gt;
  面積大きさ   =1 E11|&lt;br /&gt;
  面積値       =437,072|&lt;br /&gt;
  水面積率     =1.1%|&lt;br /&gt;
  人口統計年   =2004|&lt;br /&gt;
  人口順位     =44|&lt;br /&gt;
  人口大きさ   =1 E7|&lt;br /&gt;
  人口値       =25,374,691|&lt;br /&gt;
  人口密度値   =58|&lt;br /&gt;
  GDP統計年元 =2005|&lt;br /&gt;
  GDP値元     =48兆9566億|&lt;br /&gt;
  GDP統計年MER=2006|&lt;br /&gt;
  GDP順位MER  =|&lt;br /&gt;
  GDP値MER    =406億6000万|&lt;br /&gt;
  GDP統計年    =2006|&lt;br /&gt;
  GDP順位      =64|&lt;br /&gt;
  GDP値        =879億|&lt;br /&gt;
  GDP/人       =2,900|&lt;br /&gt;
  建国形態     =[[独立]]&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;amp;nbsp;-&amp;amp;nbsp;日付|&lt;br /&gt;
  建国年月日   =[[イギリス|英国]]の[[委任統治]]から&amp;lt;br/&amp;gt;[[1932年]][[10月3日]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[連合国暫定当局|CPA]]から&amp;lt;br/&amp;gt;[[2004年]][[6月28日]]|&lt;br /&gt;
  通貨         =[[イラク・ディナール]]|&lt;br /&gt;
  通貨コード   =IQD|&lt;br /&gt;
  時間帯       =(+3)|&lt;br /&gt;
  夏時間       =なし|&lt;br /&gt;
  国歌名       =我が祖国|&lt;br /&gt;
  ccTLD      =IQ|&lt;br /&gt;
  国際電話番号 =964|&lt;br /&gt;
  注記 =&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
*国歌: クルド人はEy Reqîb（守護者よ）を唄う&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
正式名称は[[アラビア語]]で、&amp;lt;b lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1604;&amp;amp;#1580;&amp;amp;#1605;&amp;amp;#1607;&amp;amp;#1608;&amp;amp;#1585;&amp;amp;#1610;&amp;amp;#1577; &amp;amp;#1575;&amp;amp;#1604;&amp;amp;#1593;&amp;amp;#1585;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1602;&amp;amp;#1610;&amp;amp;#1577;&amp;lt;/b&amp;gt; （[[ラテン文字]]転写は、al-Jumh&amp;amp;#363;r&amp;amp;#299;ya al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q&amp;amp;#299;ya。読みは、アル＝ジュムフーリーヤ・アル＝イラーキーヤ）。&amp;lt;!-- 検索用: Al-Jumhuriyah Al-Iraqiyah --&amp;gt;通称は、&amp;lt;b lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1604;&amp;amp;#1593;&amp;amp;#1585;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1602;&amp;lt;/b&amp;gt; （al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q。アル＝イラーク）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式の英語表記は、''Republic of Iraq''（リパブリック・オブ・イラーク）。通称、''Iraq''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本語の表記は、'''イラク共和国'''。通称、'''イラク'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アラビア語のイラーク (al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q) は、古代[[セム語]]で「川と川の間」という意味の &amp;quot;Uruk&amp;quot; に由来する。この場合の川と川とは、[[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラークという地名は伝統的に[[メソポタミア]]地方を指す「[[アラブ人]]のイラーク」(al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q al-&amp;amp;#145;Arab&amp;amp;#299;) と、[[ザグロス山脈]]周辺を指す「[[ペルシア人]]のイラーク」(al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q al-Ajam&amp;amp;#299;) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。&lt;br /&gt;
* [[1921年]] - [[1958年]]：イラク王国&lt;br /&gt;
* 1958年 - 現在：イラク共和国&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[イラクの歴史]]を参照''&lt;br /&gt;
[[画像:Tableta_con_trillo.png|left|250px|thumb|キシュから出土した石灰岩の書き板（紀元前3500年）]]&lt;br /&gt;
=== メソポタミア ===&lt;br /&gt;
現イラクの国土は、歴史上の[[メソポタミア|メソポタミア文明]]が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野は[[ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]により形成された[[沖積平野]]で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから[[農業]]を営む定住民があらわれ、西の[[歴史的シリア|シリア地方]]及び[[エジプト]]の[[ナイル川]]流域とあわせて「[[肥沃な三日月地帯]]」として知られている。紀元前4000年ごろから[[シュメール]]や[[アッカド]]、[[アッシリア]]、そして[[バビロニア]]など、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じた[[ガラス]]が遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。イラクのテル・アル・リマー遺跡からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イスラム帝国 ===&lt;br /&gt;
西暦[[634年]]、[[ハーリド・イブン＝アル＝ワリード]]の指揮のもと約18,000人の[[アラブ人]][[ムスリム]]（イスラム教徒）からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国（[[サーサーン朝]]）軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国]]への絶え間ない出征のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、[[イスラム帝国]]の支配下で[[アラビア半島]]からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク（イラーク）と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。[[8世紀]]には[[アッバース朝]]の[[カリフ]]がバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オスマン帝国 ===&lt;br /&gt;
[[1258年]]にバグダードが[[モンゴル]]の[[フレグ|フレグ・ハン]]によって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、[[イラン高原]]を支配する諸王朝（[[イルハン朝]]、[[ティムール朝]]など）の勢力下に入った。[[16世紀]]前半にイランに興った[[サファヴィー朝]]は、[[オスマン帝国|オスマン朝]]とバグダードの領有を巡って争い、[[1534年]]にオスマン朝の[[スレイマン1世]]が征服、[[1624年]]にはサファヴィー朝の[[アッバース1世]]が奪還した。[[1638年]]、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大英帝国 ===&lt;br /&gt;
[[19世紀]]の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードと[[バスラ]]、[[モースル]]をそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。[[第一次世界大戦]]末になって、[[イギリス]]と[[フランス]]は、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定([[サイクス・ピコ協定]]など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。大戦が終結した時点でもモースルは依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスは[[セーヴル条約]]によりモースルを放棄させ、[[1921年]]に前述の3州をあわせてイギリス[[委任統治]]領のイラクを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られる[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世_(イラク王)|ファイサル・イブン＝フサイン]]を国王に据えて王政を布かせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、[[サバーハ家]]の[[アミール]]（首長）のもとで自治を行っていた[[ペルシア湾]]岸の[[クウェート]]は、大戦以前の[[1899年]]に既にイギリスの[[保護国]]となっていたことから、新たに形作られたイラク国から切り離され、[[1961年]]に別の国として独立する。この経緯がイラクのクウェート侵攻の理由となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 王政・独裁・戦争 ===&lt;br /&gt;
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、[[スンナ派]]を中心とする国家運営を始め，[[1932年]]には'''イラク王国'''として独立を達成した。1958年にはエジプトとシリアによって結成された[[アラブ連合共和国]]に対抗して同じハーシム家が統治するヨルダンと[[アラブ連邦]]を結成したが、同年[[アブデル・カリム・カセム]]准将率いる[[自由将校団]]の[[クーデター]]によって倒され、[[共和制]]となった。そのカセム政権も[[1963年]]に[[バース党_(イラク)|バース党]]将校団のクーデターで倒れる。かくしてバース党が権力を握り、[[1968年]]に[[アフマド・ハサン・アル＝バクル]]、続いて[[1979年]]に[[サッダーム・フセイン]]が大統領に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1984年]]に[[イラク]]は[[アメリカ]]と国交を回復し、[[1988年]]に至るまで[[サッダーム・フセイン]]政権に総額297億ドルの兵器供給を行った。[[サッダーム・フセイン]]政権は[[1980年]]から[[1988年]]まで国境紛争で[[イラン]]と戦い（[[イラン・イラク戦争]]）、この戦争のさなか[[1988年]]3月に、フセイン政権が国内に住む[[クルド人]]に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時の[[米国]]政府[[レーガン政権]]もこれを黙認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]に[[石油|石油資源]]を求め隣国の[[クウェート]]に侵攻、[[国際連合|国連]]の決定による[[1991年]]の[[湾岸戦争]]で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を中心とする[[多国籍軍]]との戦いに敗れて、周辺国からも国際社会からも孤立した。また湾岸戦争後、兵器購入や研究を困難にするための[[経済制裁]]によって市民は貧困に喘いだ（[[イラク武装解除問題]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカの侵攻と新政府 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq-patrol.jpg|thumb|right|250px|イラクをパトロールするアメリカ軍（2005年6月）]]&lt;br /&gt;
[[2003年]]3月、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとして、アメリカ主導による[[イラク戦争]]が起こり、フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束された。その後アメリカ・イギリスを中心とする[[有志連合]]の軍事占領下に置かれ、戦後一年余に渡って[[連合国暫定当局]]（CPA）によって統治されていたが、[[2004年]][[6月28日]]をもって[[イラク暫定政権|暫定政権]]に主権が移譲されて暫定行政当局は解散した。また、同時に有志連合軍は[[国際連合]]の多国籍軍となり、治安維持などに従事することとなった。暫定政権は[[2005年]][[1月30日]]にイラクで初めての[[議会]][[選挙]]を実施し、[[3月16日]]に初の国民議会が召集された。この議会で準備が進められた[[イラク移行政府|移行政府]]は[[4月28日]]に発足して新[[憲法]]草案の政策に取り掛かり、[[10月25日]]に憲法草案を賛成多数で可決承認させ、[[12月15日]]に正式政府発足に向けて2度目の議会選挙を行った。しかし、政権を巡りスンニ派とシーア派とクルド人勢力と3大勢力の対立があり争いが発生し、実質は内戦状態･無政府状態であるとされ、1日あたり約60人のイラク人が犠牲になっていると言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]][[4月22日]]にシーア派議員連合のイラク統一同盟が[[ヌーリ・マリキ]]を首相に選出、[[5月20日]]に米国のイラク民主化プロセス最終段階となる[[イラク正式政府|正式政府]]が議会に承認されて発足した。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- : ''詳細は[[イラクの政治]]を参照'' 2007年2月の秀逸再選考以前からの赤リンクをいったんコメントアウト --&amp;gt;&lt;br /&gt;
サッダーム政権当時の政治は、[[革命指導評議会]](RCC)が担っていた。行政権はもちろん、立法権も評議会に属する9人の元にあった。さらに、RCC議長は、大統領、首相、国軍最高司令官を兼ねており、極端な権力の集中が見られた。定数250人の国会にあたる[[一院制]]の国民議会が存在していたが、RCCが国会の議決を差し戻すことができた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの新憲法は、[[2005年]][[10月15日]]の[[国民投票]]での承認により成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元首|国家元首]]の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、[[スンナ派]]（スンニ派）、[[シーア派]]、[[クルド人]]から各1名ずつが国民議会によって選ばれる。評議会は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行政府の長である[[首相]]は、国民議会議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名（首相・副首相を除く）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
憲法は、[[立法府]]について[[両院制]]を定めるが、上院は未成立。下院である国民議会は275議席、任期4年で、第1回総選挙が2005年[[12月15日]]に行われた。政党（政党連合）別獲得議席数は以下の通りである。&lt;br /&gt;
* 統一イラク同盟:  128 - シーア派&lt;br /&gt;
* クルディスタン同盟: 53 - クルド人&lt;br /&gt;
* イラク合意戦線: 44 - スンナ派&lt;br /&gt;
* イラク国民リスト: 25&lt;br /&gt;
* 国民対話イラク戦線: 11 - スンナ派&lt;br /&gt;
* その他7党: 14&lt;br /&gt;
議会は、[[2006年]][[3月16日]]に開会した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
=== 司法 ===&lt;br /&gt;
サッダーム政権下の司法体系は大きく3つに分かれていた。下級裁判所、治安裁判所、シャリーアに基づいた判決が一部認められている家庭裁判所である。[[陪審制]]を採用していないほか、いずれも大統領に判決を覆す権利が与えられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
下級裁判所は刑事裁判の一審を担当する。二審は最高裁に相当する控訴裁判所である。ただし、法定刑が7年以上となる場合は、一審を介さず直接控訴裁判所が判決を下す。民事裁判は刑法以外に商法、民法に関わる裁判も扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
治安裁判所は刑法のうち、反体制色の強い犯罪、すなわち外国為替法、輸出入法違反、さらに禁止薬物の取引、軽度のスパイ活動を裁いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非常設の法廷として、国家安全保障に直接影響するとみなされた事件は別に設けられた特別裁判所の管轄となった。また、国家元首の暗殺等、体制中枢を狙った犯罪は革命裁判所が裁いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 外交 ===&lt;br /&gt;
イラクと中東諸国との関係は多様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年に入ってイラクは、80年から88年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[エジプト]]は1979年に[[イスラエル]]との和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトの[[アンワル・アッ＝サーダート]]大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年には[[アラブ連盟]]の会議はイラクの首都バグダッドで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる（エジプトの地位は1987年に回復される）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクは「エジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだ」と度々主張し、1984年の[[イスラム諸国会議機構]]におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクとエジプトの関係は更に、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になって[[バッシャール・アサド]]が大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは[[湾岸戦争]]においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。2000年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクは[[中東戦争]]に際しては1948年、1967年、1973年に参戦するなどイスラエル問題について強硬な態度をとることが多い。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ（この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた）、1982年の[[ロナルド・レーガン|レーガン]]米国大統領による平和交渉にも反対せず、同年アラブ首脳会談によって採択された[[フェス憲章]]にも支持を表明している。しかし、戦後は態度を硬化させ、特に湾岸戦争以後は、イスラエルの全面的な解消を度々提唱している。湾岸戦争の際にはイラクは、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルの解消を要求したこともあり、イスラエルの民間施設を[[スカッド・ミサイル]]によって攻撃したこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの地理]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq_map_japanese.png|right|300px|イラクの地図]]&lt;br /&gt;
イラクの地理について、国土の範囲、地表の外形、地殻構造、陸水、気候の順に説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの国土はいびつな三角形をなしており、東西870km、南北920kmに及ぶ。国土の西端は[[シリア砂漠]]にあり、シリア、ヨルダンとの国境（北緯33度22分、東経38度47分）である。北端はトルコとの国境（北緯37度23分、東経42度47分）で、[[クルディスタン山脈]]に位置する。東端は[[ペルシャ湾]]沿いの河口（北緯29度53分、東経48度39分）だ。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境（北緯29度3分、東経46度25分）の一部である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの地形は3つに大別できる。&lt;br /&gt;
国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる二本の大河、南側の[[ユーフラテス川]]と北側の[[ティグリス川]]だ。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠と[[ネフド砂漠]]が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は最高高度1000mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。二本の大河周辺は[[メソポタミア平原]]が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のジジャーラ丘陵だ。なお、二本の大河はクルナの南で合流し、シャッタルアラブ川となる。直線距離にして約160km、川の長さにして190km流れ下り、ペルシャ湾に達する。ティグリス川の東は高度が上がり、イランの[[ザグロス山脈]]に至る。バクダットと同緯度では400mから500m程度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなだらかでなくなっているのはザグロス山脈の峰と尾根が国境線となっているからだ。イラク最高峰のハジ・イブラヒーム山 (3600m) もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30km四方はイラクで最も高い山々が群立している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような地形が形成されたのは、イラクの国土が[[アラビアプレート]]と[[ユーラシアプレート]]にまたがっているからだ。アラビアプレートはユーラシアプレート側に移動している。イラクとイランの国境線、さらにペルシャ湾北岸にわたって褶曲山脈であるザグロス山脈が形成されたのは、アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込んでいるためである。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000mに達する峰が複数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された理由も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、[[プレートテクトニクス]]で説明されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200kmにも伸びる[[ハンマール湖]]が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ（沼沢地アラブ）と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと[[スイギュウ|水牛]]を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は1/10程度まで縮小している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖だ。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジなど複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400kmを上回り、4本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジであり、480kmに達する。&lt;br /&gt;
[[画像:ClimateBaghdadIraq.PNG|right|300px|thumb|バクダット（標高34m）の月別最高・最低気温（赤棒）と平均降水量（青棒）]]&lt;br /&gt;
イラクの気候は、ほぼ全土にわたり[[砂漠気候]]に分類される。チグリス側の北岸から北は[[ステップ気候]]、さらに[[地中海性気候]]に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30度を上回ることは珍しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界最高気温を1921年に記録したバスラ（58.8度）は30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バクダッドの平均気温は8.5度（1月）、34.2度（7月）だ。年降水量は僅かに140mmである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 動物 ===&lt;br /&gt;
砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物は[[レイヨウ]]、次いで[[ガゼル]]である。肉食獣としては、[[ジャッカル]]、[[ハイエナ]]、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、[[トビネズミ]]、モグラ、[[ヤマアラシ]]が分布する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。[[ウズラ]]（水鳥でも捕食者でもない）、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、[[ワタリガラス]]が代表だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 植物 ===&lt;br /&gt;
ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ ''Astragalus gummifer'' だ。樹皮から分布される樹脂を[[アラビアガム]]として利用するほか、香料として利用されている。聖書の[[創世記]]にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ ''Erodium cicutarium''、大輪の花が目立つ[[ハンニチバナ科]]の草、ヨーロッパ原産の[[ムシトリナデシコ]]が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、[[クコ]]、[[ハス]]、[[パピルス]]、[[ヨシ]]が密生する。土手には[[ハンノキ]]、ポプラ、ヤナギも見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ ''Quercus aegilips'' が有用だ。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。イラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地方行政区分 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの（地域区分）]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:IraqNumberedRegions.png|right|イラクの行政区分]]&lt;br /&gt;
18の県 (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;محافظة&amp;lt;/span&amp;gt;、muḥāfaẓa、ムハーファザ) に分かれる。&lt;br /&gt;
* 1)[[バグダード県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;بغداد&amp;lt;/span&amp;gt; ; Baghdād) - 県都名同じ（[[バグダード]]）&lt;br /&gt;
* 2)[[サラーフッディーン県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;صلاح الدين&amp;lt;/span&amp;gt; ; Ṣalāḥ ad-Dīn) - 県都：[[ティクリート]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;تكريت&amp;lt;/span&amp;gt; ; Tikrīt)&lt;br /&gt;
* 3)[[ディヤーラー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;ديالى&amp;lt;/span&amp;gt; ; Diyālā) - 県都：[[バクーバ]] (バゥクーバ ; &amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;بعقوبة&amp;lt;/span&amp;gt; ; Baʿqūbah)&lt;br /&gt;
* 4)[[ワーシト県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;واسط&amp;lt;/span&amp;gt; ; Wāsiṭ) - 県都：[[クート]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الكوت&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Kūt)&lt;br /&gt;
* 5)[[マイサーン県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;ميسان&amp;lt;/span&amp;gt; ; Maysān) - 県都：[[アマーラ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;العمارة&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-ʿAmārah)&lt;br /&gt;
* 6)[[バスラ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;البصرة&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Baṣrah) - 県都名同じ（[[バスラ]]）&lt;br /&gt;
* 7)[[ジーカール県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;ذي قار&amp;lt;/span&amp;gt; ; Dhī Qār) - 県都：[[ナーシリーヤ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الناصرية&amp;lt;/span&amp;gt; ; an-Nāṣirīyah)&lt;br /&gt;
* 8)[[ムサンナー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;المثنى&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Muthannā) - 県都：[[サマーワ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;السماوة&amp;lt;/span&amp;gt; ; as-Samāwah)&lt;br /&gt;
* 9)[[カーディーシーヤ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;القادسية&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Qādisīyah) - 県都：[[ディーワーニーヤ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الديوانية&amp;lt;/span&amp;gt; ; ad-Dīwānīyah)&lt;br /&gt;
* 10)[[バービル県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;بابل&amp;lt;/span&amp;gt; ; Bābil) - 県都：[[ヒッラ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الحلة&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Ḥillah)&lt;br /&gt;
* 11)[[カルバラー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;كربلاء&amp;lt;/span&amp;gt; ; Karbalā') - 県都名同じ（[[カルバラー]]）&lt;br /&gt;
* 12)[[ナジャフ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;النجف&amp;lt;/span&amp;gt; ; an-Najaf) - 県都名同じ（[[ナジャフ]]）&lt;br /&gt;
* 13)[[アンバール県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الأنبار&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Anbār) - 県都：[[ラマーディー]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الرمادي&amp;lt;/span&amp;gt; ; ar-Ramādī)&lt;br /&gt;
* 14)[[ニーナワー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;نينوى&amp;lt;/span&amp;gt; ; Nīnawā) - 県都：[[モースル]] (マウシル ; &amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الموصل&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Mawṣil)&lt;br /&gt;
* 15)[[ダフーク県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;دهوك&amp;lt;/span&amp;gt; ; Dahūk) - 県都名同じ（[[ダフーク]]）&lt;br /&gt;
* 16)[[アルビール県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;أربيل&amp;lt;/span&amp;gt; ; Arbīl) - 県都名同じ（[[アルビール]]）&lt;br /&gt;
* 17)[[タミーム県]] (タゥミーム ; &amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;التعميم&amp;lt;/span&amp;gt; ; at-Taʿmīm) - 県都：[[キルクーク]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;كركوك&amp;lt;/span&amp;gt; ; Kirkūk)&lt;br /&gt;
* 18)[[スライマーニーヤ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;السليمانية&amp;lt;/span&amp;gt; ; as-Sulaymānīyah) - 県都名同じ（[[スライマーニーヤ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの経済]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年に[[キルクーク]]で発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末から発明が続いていたガソリン・エンジンは既に実用化され、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリス系の企業のもとに留まった。利益はすべてイギリス系企業の収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50％がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。1972年、イラク政府はイギリス系企業の油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1980年に始まったイラン・イラク戦争は石油が原因ではなく、クルド人問題が発端である。しかし、戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、石油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は石油である。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。世界の石油埋蔵量の約1/2を占めるイラク、クウェート、サウジアラビアのうち、クウェートを抑え、さらに隣国サウジアラビアに軍事的な脅威を与えることに成功すれば、石油価格を上昇させ、自国の利益を最大化することができただろう。&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq-oil-power.jpg|thumb|right|250px|イラクの原油産出施設]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
イラクの原油生産量、単位:万トン (United Nations ''Statistical Yearbook'')&lt;br /&gt;
* 1927年 - 4.5（イラクにおける石油の発見）&lt;br /&gt;
* 1930年 - 12.1&lt;br /&gt;
* 1938年 - 429.8&lt;br /&gt;
* 1940年 - 251.4&lt;br /&gt;
* 1950年 - 658.4（石油の利益の1/2がイラクに還元）&lt;br /&gt;
* 1960年 - 4746.7&lt;br /&gt;
* 1970年 - 7645.7&lt;br /&gt;
* 1972年 - 7112.5（油田と付帯施設を国有化）&lt;br /&gt;
* 1975年 - 1億1116.8&lt;br /&gt;
* 1986年 -  8265.0（イラン・イラク戦争による被害）&lt;br /&gt;
* 1990年 - 1億0064&lt;br /&gt;
* 1993年 - 3230（湾岸戦争による被害）&lt;br /&gt;
* 1997年 - 5650&lt;br /&gt;
* 2003年 - 1億9000（イラク戦争終結時）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。&amp;lt;!-- 古くから外貨の95%がこの原油の交易によってもたらされていた。--&amp;gt;8年間にわたる[[イラン・イラク戦争]]による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油産出施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの構築や破壊された施設の復帰などにより原油の輸出は徐々に回復した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった[[多国籍軍]]による戦闘行為（[[湾岸戦争]]）で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年12月に[[国際連合|国連]]の[[石油と食糧の交換計画]]実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、[[国連安全保障委員会]]はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出はまだイラン・イラク戦争前よりも低い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Dates_on_date_palm.jpg|left|150px|thumb|デーツを実らせたナツメヤシ]]&lt;br /&gt;
=== 農業 ===&lt;br /&gt;
[[世界食糧計画]]（WFP）の統計（2003年）によると、イラクの農地は国土の13.8%を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8%という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農業従事者の割合は低く、全国民の2.2%にあたる62万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同2005年の統計によると、主要穀物では[[小麦]]（220万トン）、次いで[[大麦]]（130万トン）の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、[[米]]の生産量は13万トンと少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
野菜・果実ではトマト（100万トン）、ぶどう（33万トン）が顕著だ。商品作物としては[[ナツメヤシ]]（87万トン）が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6%を占める。畜産業では、ヤギ（165万頭）、ウシ（150万頭）が主力である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバクダードのナツメヤシが有力。バスラには800万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バクダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバクダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 工業 ===&lt;br /&gt;
イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1%から2%に達する（2002年時点で1.6%）。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エネルギー ===&lt;br /&gt;
イラクは世界有数の産油国であるため、2003年時点の総発電量295億kWhの98.5%は石油による火力発電でまかなっている。残りの1.5%はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運行はイギリスによって始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交通 ===&lt;br /&gt;
イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200kmだ。旅客輸送量は22億人キロ、貨物輸送量は11億トンキロに及ぶ。イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。バクダットと[[アナトリア半島]]中央南部のコニアを結ぶイラク初の鉄道路線はドイツによって建設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台（うち65万台が乗用車）に留まる。舗装道路の総延長距離も8400kmに留まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貿易 ===&lt;br /&gt;
イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9%、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1%であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
輸出品目別では、石油（燃料）83.9%、石油（原料）8.0%、食品5.0%、石油化学製品1.0%である。食品に分類されている品目はほとんどが[[デーツ]]である。輸入品目別では、機械73.1%、基礎的な工業製品16.1%、食品5.0%、化学工業製品1.0%。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6%、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6%、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1%と高かったにも関わらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9%と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国民 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの国民]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- （住民の人種構成、言語、宗教など） --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 本文 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Iraqi_girl_smiles.jpg|thumb|right|250px|[[バグダード]]に住むイラクの少女（2003年5月）]]&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq_demography.jpg|thumb|right|300px|イラクの民族と宗教の分布　地方行政区分とは一致しない。オレンジ色はアラブ人（イスラム教シーア派）、北部の青色はクルド人（シーア派）、緑色はアラブ人（スンナ派）、北部の赤紫色はアッシリア人・カルデア教徒・アルメニア人（いずれもキリスト教徒）、北部の赤色はトゥルクマーン（シーア派もしくはスンナ派）、南部の紫色は[[マンダ教|マンダ教徒]]、斜線部は人口希薄地帯、白色部は砂漠である]]&lt;br /&gt;
[[画像:Barrages irakiens.png|right|300px|thumb|イラクの水利システム 複数のダム (barrage) と灌漑水路、排水路を組合せて乾燥地、沼地のいずれも農地に変えていった]]&lt;br /&gt;
[[画像:Karbala_shrineofhusain_(PD).jpg|thumb|right|250px|[[カルバラー]]にある[[モスク]]]]&lt;br /&gt;
イラク国民は、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻後、それに続く2003年からのイラク戦争によって悪影響を被っている。例えば、戦前、平均寿命は1985年の63.0歳（男性）、64.8歳（女性）から、1990年の77.43歳（男性）、78.22歳（女性）へと向上した。これはフセイン政権による医療改革の影響である。1990年時点の平均寿命はほぼ連合王国（イギリス）と同水準にまで向上していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、戦乱が続く中、2000年には57歳（男性）、60歳（女性）まで後退してしまう。乳児死亡率は、69‰（1985年）、57.8‰（1990年）、95.3‰（1995年）、102‰（2004年）と変化しており、平均寿命の変化と一致している。都市人口率の変化を追うと、70.2％（1987年）、70.3％（1988年）、69.9％（1990年）、67.2％（2003年）となっており、産業人口率の変化と併せると、都市の破壊、都市機能の低下が平均寿命や乳児死亡率の変化と同じ時期に進行したことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民族 ===&lt;br /&gt;
国連の統計によれば、住民は[[アラブ人]]が79%、[[クルド人]]16%、[[アッシリア人]]3%、[[トゥルクマーン]]2%である。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。右図にあるように各民族ははっきりと分かれて居住している。クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるマホメットを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 言語 ===&lt;br /&gt;
[[アラビア語]]、[[クルド語]]が公用語である。その他アルメニア語や[[アラム語|現代アラム語]]（アッシリア語）なども少数ながら使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書き言葉としてのアラビア語（[[フスハー]]）は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからだ。しかし、話し言葉としてのアラビア語（[[アーンミーヤ]]）は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのは[[アラビア語イラク方言|イラク方言]]だ。ただし、イラク国内で共通語となっているバクダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗教 ==&lt;br /&gt;
イスラム教徒が国民の95%を占め、次いでキリスト教4%、[[マンダ教]]である。歴史的にはユダヤ教徒も存在したが、現在は数百人以下だとされている。住民の分布と宗教の分布には強い関係がある。イスラム教徒の最大派はアラブ人[[シーア派]]の50%。アラブ人[[スンナ派]]の25%、クルド人スンナ派の20%が続く。キリスト教([[カトリック教会|カトリック]]、[[東方正教会]]、[[アッシリア正教会]]等)はアッシリア人と少数民族に限られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''イスラム教シーア派'''&lt;br /&gt;
全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は[[ムハンマド・イブン＝アブドゥッラーフ|預言者]]の後継者・最高指導者（[[イマーム]]）が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要な[[イスマーイール派]]、[[ザイド派]]、[[十二イマーム派]]、[[ハワーリジュ派]]などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシャドである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''イスラム教スンナ派'''&lt;br /&gt;
スンナ派ではシャーフィイー派、[[ハナフィー派]]、ハンバル派、マーリク派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ （Abu Hanifa、699年-767年）は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バスラのアブー・アル＝ハサン・アル＝アシュアリー（Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年）は、合理主義を標榜したムータジラ学派に属していたが、後に離れる。ムータジラ派がよくしていたカラーム（弁証）をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル＝ガザーリー（Al-Ghazali、1058年-1111年）は、ペルシア人であったがバクダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラム哲学自体に批判を下していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル＝バスリー（al-Hasan al-Basri、642年-728年）が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムータジラ派を開く。ムータジラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義（[[スーフィズム]]）につながっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''イスラム教ヤジーディー派'''&lt;br /&gt;
シーア派に分類されるが、正当派とは大きく異なり異端とされる。異端の少ないシーア派には珍しい。イラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、[[旧約聖書]]、[[新約聖書]]。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''キリスト教'''&lt;br /&gt;
1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。4割強が東方諸教会に属する{{要出典}}。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつ[[アッシリア正教会]]の[[ネストリウス派]]に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、[[帰一教会|東方帰一教会]]の一つとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''マンダ教（サービア教）'''&lt;br /&gt;
[[マンダ教]]は[[コーラン]]に登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。[[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]に付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバクダット下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。キリスト教以前の東洋に起源をもつ信仰が加わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''ユダヤ教'''&lt;br /&gt;
[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。[[イスラエル]]建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの文化]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 教育 ===&lt;br /&gt;
イラクにおける教育制度は、伝統的な[[コーラン]]を学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、[[義務教育]]が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備過程を終了する必要がある。首都バクダッドを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 食文化 ===&lt;br /&gt;
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、[[茶]]である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63kgの茶を消費していた。これは[[カタール]]、[[アイルランド]]、[[イギリス]]についで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イスラム美術 ===&lt;br /&gt;
*細密画、アラブ書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地の廟建築&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 === &lt;br /&gt;
[[Image:Oud.jpg|right|150px|thumb|ウードの全体像 糸倉が後ろに曲がっていることが特徴]]&lt;br /&gt;
[[Image:Holding the risha pos 1.jpg|right|150px|thumb|ウード（奥）とバチ　ウードの弦は複弦であり五コース～六コースのものが多い]]&lt;br /&gt;
伝統的な[[楽器]]として[[リュート]]に類似する[[ウード]]、[[バイオリン]]に類似するレバーブ、その他[[チター]]に似た[[カーヌーン]]、葦の笛[[ナーイ]]、酒杯型の片面太鼓[[ダラブッカ]]などが知られている。&lt;br /&gt;
ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では三世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、[[ファーラービー|アル=ファーラービー]]によれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は五千年前のメソポタミア南部（イラク）にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、[[マカーム]]の演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においても[[マグリブ]]地方において古形を見い出す事が出来るが、伝承では九世紀に[[キンディー]]（あるいはズィリヤーブとも云う）によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い（正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦～十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最高音弦は単弦となる）。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バクダット音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてアッシリア人だが、ウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する[[撥弦楽器]]であり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクの[[バグダード]]は[[エジプト]]の[[カイロ]]と並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、[[アッバース朝]]時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ＝ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は[[千夜一夜物語]]にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム（マカーム・アル＝イラーキー）と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。&lt;br /&gt;
民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、[[パスタ]]などが知られる。&lt;br /&gt;
伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれる[[チャルメラ]]状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。&lt;br /&gt;
また[[クルド人]]は独特の音楽を持つ。&lt;br /&gt;
現代のイラク人は西洋の[[ロック_(音楽)|ロック]]、[[ヒップホップ]]、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 - 詩、詩人、近代&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界遺産 ===&lt;br /&gt;
イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に[[世界遺産|世界遺産条約]]を受託している。1985年にバクダードの北西290kmに位置する平原の都市遺跡[[ハトラ]]（[[ニーナワー県]]）が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50kmにあるティグリス川に面した都市遺跡[[アッシュール]]（[[サラーフッディーン県]]）がやはり文化遺産に認定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:Hatra ruins.jpg|left|150px|thumb|ハトラの遺跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれた[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]は紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、[[パルティア|パルティア帝国]]の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国は[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]を名乗る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していた[[アッカド|アッカド帝国]]の都市となり、[[ウル第三王朝]]を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。[[アッシリア]]が成立すると、その版図となり、古アッシリア時代の[[シャムシ・アダド1世]]（前1813年-前1781年在位）は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていた[[エンリル|エンリル神殿]]を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国の[[アッシュールナツィルパル2世]]はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した[[新バビロニア|新バビロニア王国]]によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンの[[ペルガモン]]博物館に展示・収蔵されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 祝祭日 ===&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;2&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|日付&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|日本語表記&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|現地語表記&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月1日]]|| 元日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月6日]]|| イラク国軍の日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[2月8日]]|| 第14回ラマダーン革命記念日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[7月14日]]|| 建国記念日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[7月17日]]|| 平和革命記念日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[ヒジュラ暦]]第1月1日 ||イスラム元日|| ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ヒジュラ暦第3月12日 || [[マウリド・アン＝ナビー]] || || ムハンマドの生誕祭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ヒジュラ暦第10月1日 || [[イード・アル＝フィトル]]|| || 断食月明けの祭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ヒジュラ暦第12月10日 || [[イード・アル＝アドハー]] || || 犠牲祭&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&amp;lt;center&amp;gt;フセイン政権下の祝祭日を示した。&amp;lt;/center&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[イラク関係記事の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[イラク人一覧]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの歴史]]&lt;br /&gt;
* [[バアス党]]&lt;br /&gt;
* [[イラン・イラク戦争]]&lt;br /&gt;
* [[湾岸戦争]]&lt;br /&gt;
* [[イラク武装解除問題]]&lt;br /&gt;
* [[イラク戦争]]：[[イラク戦争の年表]]&lt;br /&gt;
* [[クルディスタン]]&lt;br /&gt;
* [[革命指導評議会]]&lt;br /&gt;
* [[イラク暫定政権]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
* [[イラクの通信]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの交通]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの軍事]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの国際関係]]&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[アメリカ帝国主義]]&lt;br /&gt;
*[[ガートルード・ベル]]&lt;br /&gt;
*[[歴史上の推定都市人口]]&lt;br /&gt;
*[[イッザト・イブラーヒーム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{commons|Iraq}}&lt;br /&gt;
=== 公式 ===&lt;br /&gt;
* イラク暫定政府公式サイト: [http://www.iraqigovernment.org/ アラビア語]、[http://www.iraqigovernment.org/index-EN.htm 英語]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [http://www.iraqimage.com イラクのイメージ] &lt;br /&gt;
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/ 日本外務省 イラクの情報]&lt;br /&gt;
* [http://japan.usembassy.gov/j/policy/tpolicyj-iraq.html 在日アメリカ合衆国大使館 イラク関連]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[池澤夏樹]]ほか『イラクの小さな橋を渡って』光文社、 2003年 (ISBN 4334973779)&lt;br /&gt;
* [[大塚和夫]]ほか（編）『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年 (ISBN 4000802011)&lt;br /&gt;
* [[佐藤次高]]（編）『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年 (ISBN 4634413809)&lt;br /&gt;
* [[日本イスラム協会]]ほか（監修）『新イスラム事典』平凡社、2002年 (ISBN 4582126332)&lt;br /&gt;
* [[酒井啓子]]、『イラクとアメリカ』、岩波書店、2002 (ISBN 4004307961)&lt;br /&gt;
* 岩佐俊吉、『図説熱帯の果樹』、養賢堂、2001年、ISBN 4842500786&lt;br /&gt;
* Robert B. Clarke, ''PEOPLES OF THE EARTH'', Vol.17  Arab world, Tom Stacey Ltd., 1973&lt;br /&gt;
* ''Worldmark Encyclopedia of the Nations'', Vol.4, Thomson Gale, 2006 (ISBN 1414410891)&lt;br /&gt;
* ''Demographic Yearbook'', United Nations, 1990.&lt;br /&gt;
* ''Statistical Yearbook'', United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002.&lt;br /&gt;
* [http://www.oud.eclipse.co.uk/ The Oud] 英[[エクセター大学]]のDavid ParfittのWebページ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|イラク}}&lt;br /&gt;
{{アジア}}&lt;br /&gt;
{{OIC}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:イラク|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:イスラム教国|いらく]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF&amp;diff=5616</id>
		<title>イラク</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF&amp;diff=5616"/>
				<updated>2007-05-30T04:10:57Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=イラク&amp;amp;oldid=12803807&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''イラク共和国'''（イラクきょうわこく）は[[中東]]・[[西アジア]]の[[国]]である。[[首都]]は[[バグダード]]（バグダッド）。[[サウジアラビア]]、[[クウェート]]、[[シリア]]、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[ヨルダン]]と隣接する。通称は'''イラク'''。古代[[メソポタミア|メソポタミア文明]]を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。&lt;br /&gt;
{{基礎情報 国|&lt;br /&gt;
  略名         =イラク|&lt;br /&gt;
  日本語国名   =イラク共和国|&lt;br /&gt;
  公式国名     =&amp;lt;b lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الجمهورية العراقية&amp;lt;/b&amp;gt; &amp;lt;small&amp;gt;（アラビア語）&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;b lang=&amp;quot;ku&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;كۆماری عێراق&amp;lt;/b&amp;gt; &amp;lt;small&amp;gt;（クルド語）&amp;lt;/small&amp;gt;|&lt;br /&gt;
  国旗画像     =Flag of Iraq.svg|&lt;br /&gt;
  国章画像     =[[画像:Iraq-COA.png|80px|イラクの国章]]|&lt;br /&gt;
  国章リンク   =([[イラクの国章|国章]])|&lt;br /&gt;
  標語         =&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الله أكبر&amp;lt;/span&amp;gt; (allahu akbar)&amp;lt;br&amp;gt;（アラビア語: [[神]]は偉大なり）|&lt;br /&gt;
  位置画像     =LocationIraq.png|&lt;br /&gt;
  公用語       =[[アラビア語]]、[[クルド語]]&amp;lt;ref&amp;gt;4つのクルド地方では第一公用語&amp;lt;/ref&amp;gt;|&lt;br /&gt;
  首都         =[[バグダード]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[クルド人自治区]]の首府はアルビール&amp;lt;/ref&amp;gt;|&lt;br /&gt;
  最大都市     =バグダード|&lt;br /&gt;
  元首等肩書   =[[大統領]]|&lt;br /&gt;
  元首等氏名   =[[ジャラル・タラバニ]]|&lt;br /&gt;
  首相等肩書   =[[首相]]|&lt;br /&gt;
  首相等氏名   =[[ヌーリ・マリキ]]|&lt;br /&gt;
  面積順位     =57|&lt;br /&gt;
  面積大きさ   =1 E11|&lt;br /&gt;
  面積値       =437,072|&lt;br /&gt;
  水面積率     =1.1%|&lt;br /&gt;
  人口統計年   =2004|&lt;br /&gt;
  人口順位     =44|&lt;br /&gt;
  人口大きさ   =1 E7|&lt;br /&gt;
  人口値       =25,374,691|&lt;br /&gt;
  人口密度値   =58|&lt;br /&gt;
  GDP統計年元 =2005|&lt;br /&gt;
  GDP値元     =48兆9566億|&lt;br /&gt;
  GDP統計年MER=2006|&lt;br /&gt;
  GDP順位MER  =|&lt;br /&gt;
  GDP値MER    =406億6000万|&lt;br /&gt;
  GDP統計年    =2006|&lt;br /&gt;
  GDP順位      =64|&lt;br /&gt;
  GDP値        =879億|&lt;br /&gt;
  GDP/人       =2,900|&lt;br /&gt;
  建国形態     =[[独立]]&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;amp;nbsp;-&amp;amp;nbsp;日付|&lt;br /&gt;
  建国年月日   =[[イギリス|英国]]の[[委任統治]]から&amp;lt;br/&amp;gt;[[1932年]][[10月3日]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[連合国暫定当局|CPA]]から&amp;lt;br/&amp;gt;[[2004年]][[6月28日]]|&lt;br /&gt;
  通貨         =[[イラク・ディナール]]|&lt;br /&gt;
  通貨コード   =IQD|&lt;br /&gt;
  時間帯       =(+3)|&lt;br /&gt;
  夏時間       =なし|&lt;br /&gt;
  国歌名       =我が祖国|&lt;br /&gt;
  ccTLD      =IQ|&lt;br /&gt;
  国際電話番号 =964|&lt;br /&gt;
  注記 =&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
*国歌: クルド人はEy Reqîb（守護者よ）を唄う&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
正式名称は[[アラビア語]]で、&amp;lt;b lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1604;&amp;amp;#1580;&amp;amp;#1605;&amp;amp;#1607;&amp;amp;#1608;&amp;amp;#1585;&amp;amp;#1610;&amp;amp;#1577; &amp;amp;#1575;&amp;amp;#1604;&amp;amp;#1593;&amp;amp;#1585;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1602;&amp;amp;#1610;&amp;amp;#1577;&amp;lt;/b&amp;gt; （[[ラテン文字]]転写は、al-Jumh&amp;amp;#363;r&amp;amp;#299;ya al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q&amp;amp;#299;ya。読みは、アル＝ジュムフーリーヤ・アル＝イラーキーヤ）。&amp;lt;!-- 検索用: Al-Jumhuriyah Al-Iraqiyah --&amp;gt;通称は、&amp;lt;b lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1604;&amp;amp;#1593;&amp;amp;#1585;&amp;amp;#1575;&amp;amp;#1602;&amp;lt;/b&amp;gt; （al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q。アル＝イラーク）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式の英語表記は、''Republic of Iraq''（リパブリック・オブ・イラーク）。通称、''Iraq''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本語の表記は、'''イラク共和国'''。通称、'''イラク'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アラビア語のイラーク (al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q) は、古代[[セム語]]で「川と川の間」という意味の &amp;quot;Uruk&amp;quot; に由来する。この場合の川と川とは、[[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラークという地名は伝統的に[[メソポタミア]]地方を指す「[[アラブ人]]のイラーク」(al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q al-&amp;amp;#145;Arab&amp;amp;#299;) と、[[ザグロス山脈]]周辺を指す「[[ペルシア人]]のイラーク」(al-&amp;amp;#145;Ir&amp;amp;#257;q al-Ajam&amp;amp;#299;) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。&lt;br /&gt;
* [[1921年]] - [[1958年]]：イラク王国&lt;br /&gt;
* 1958年 - 現在：イラク共和国&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[イラクの歴史]]を参照''&lt;br /&gt;
[[画像:Tableta_con_trillo.png|left|250px|thumb|キシュから出土した石灰岩の書き板（紀元前3500年）]]&lt;br /&gt;
=== メソポタミア ===&lt;br /&gt;
現イラクの国土は、歴史上の[[メソポタミア|メソポタミア文明]]が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野は[[ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]により形成された[[沖積平野]]で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから[[農業]]を営む定住民があらわれ、西の[[歴史的シリア|シリア地方]]及び[[エジプト]]の[[ナイル川]]流域とあわせて「[[肥沃な三日月地帯]]」として知られている。紀元前4000年ごろから[[シュメール]]や[[アッカド]]、[[アッシリア]]、そして[[バビロニア]]など、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じた[[ガラス]]が遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。イラクのテル・アル・リマー遺跡からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イスラム帝国 ===&lt;br /&gt;
西暦[[634年]]、[[ハーリド・イブン＝アル＝ワリード]]の指揮のもと約18,000人の[[アラブ人]][[ムスリム]]（イスラム教徒）からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国（[[サーサーン朝]]）軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国]]への絶え間ない出征のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、[[イスラム帝国]]の支配下で[[アラビア半島]]からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク（イラーク）と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。[[8世紀]]には[[アッバース朝]]の[[カリフ]]がバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オスマン帝国 ===&lt;br /&gt;
[[1258年]]にバグダードが[[モンゴル]]の[[フレグ|フレグ・ハン]]によって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、[[イラン高原]]を支配する諸王朝（[[イルハン朝]]、[[ティムール朝]]など）の勢力下に入った。[[16世紀]]前半にイランに興った[[サファヴィー朝]]は、[[オスマン帝国|オスマン朝]]とバグダードの領有を巡って争い、[[1534年]]にオスマン朝の[[スレイマン1世]]が征服、[[1624年]]にはサファヴィー朝の[[アッバース1世]]が奪還した。[[1638年]]、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大英帝国 ===&lt;br /&gt;
[[19世紀]]の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードと[[バスラ]]、[[モースル]]をそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。[[第一次世界大戦]]末になって、[[イギリス]]と[[フランス]]は、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定([[サイクス・ピコ協定]]など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。大戦が終結した時点でもモースルは依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスは[[セーヴル条約]]によりモースルを放棄させ、[[1921年]]に前述の3州をあわせてイギリス[[委任統治]]領のイラクを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られる[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世_(イラク王)|ファイサル・イブン＝フサイン]]を国王に据えて王政を布かせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、[[サバーハ家]]の[[アミール]]（首長）のもとで自治を行っていた[[ペルシア湾]]岸の[[クウェート]]は、大戦以前の[[1899年]]に既にイギリスの[[保護国]]となっていたことから、新たに形作られたイラク国から切り離され、[[1961年]]に別の国として独立する。この経緯がイラクのクウェート侵攻の理由となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 王政・独裁・戦争 ===&lt;br /&gt;
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、[[スンナ派]]を中心とする国家運営を始め，[[1932年]]には'''イラク王国'''として独立を達成した。1958年にはエジプトとシリアによって結成された[[アラブ連合共和国]]に対抗して同じハーシム家が統治するヨルダンと[[アラブ連邦]]を結成したが、同年[[アブデル・カリム・カセム]]准将率いる[[自由将校団]]の[[クーデター]]によって倒され、[[共和制]]となった。そのカセム政権も[[1963年]]に[[バース党_(イラク)|バース党]]将校団のクーデターで倒れる。かくしてバース党が権力を握り、[[1968年]]に[[アフマド・ハサン・アル＝バクル]]、続いて[[1979年]]に[[サッダーム・フセイン]]が大統領に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1984年]]に[[イラク]]は[[アメリカ]]と国交を回復し、[[1988年]]に至るまで[[サッダーム・フセイン]]政権に総額297億ドルの兵器供給を行った。[[サッダーム・フセイン]]政権は[[1980年]]から[[1988年]]まで国境紛争で[[イラン]]と戦い（[[イラン・イラク戦争]]）、この戦争のさなか[[1988年]]3月に、フセイン政権が国内に住む[[クルド人]]に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時の[[米国]]政府[[レーガン政権]]もこれを黙認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]に[[石油|石油資源]]を求め隣国の[[クウェート]]に侵攻、[[国際連合|国連]]の決定による[[1991年]]の[[湾岸戦争]]で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を中心とする[[多国籍軍]]との戦いに敗れて、周辺国からも国際社会からも孤立した。また湾岸戦争後、兵器購入や研究を困難にするための[[経済制裁]]によって市民は貧困に喘いだ（[[イラク武装解除問題]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカの侵攻と新政府 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq-patrol.jpg|thumb|right|250px|イラクをパトロールするアメリカ軍（2005年6月）]]&lt;br /&gt;
[[2003年]]3月、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとして、アメリカ主導による[[イラク戦争]]が起こり、フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束された。その後アメリカ・イギリスを中心とする[[有志連合]]の軍事占領下に置かれ、戦後一年余に渡って[[連合国暫定当局]]（CPA）によって統治されていたが、[[2004年]][[6月28日]]をもって[[イラク暫定政権|暫定政権]]に主権が移譲されて暫定行政当局は解散した。また、同時に有志連合軍は[[国際連合]]の多国籍軍となり、治安維持などに従事することとなった。暫定政権は[[2005年]][[1月30日]]にイラクで初めての[[議会]][[選挙]]を実施し、[[3月16日]]に初の国民議会が召集された。この議会で準備が進められた[[イラク移行政府|移行政府]]は[[4月28日]]に発足して新[[憲法]]草案の政策に取り掛かり、[[10月25日]]に憲法草案を賛成多数で可決承認させ、[[12月15日]]に正式政府発足に向けて2度目の議会選挙を行った。しかし、政権を巡りスンニ派とシーア派とクルド人勢力と3大勢力の対立があり争いが発生し、実質は内戦状態･無政府状態であるとされ、1日あたり約60人のイラク人が犠牲になっていると言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]][[4月22日]]にシーア派議員連合のイラク統一同盟が[[ヌーリ・マリキ]]を首相に選出、[[5月20日]]に米国のイラク民主化プロセス最終段階となる[[イラク正式政府|正式政府]]が議会に承認されて発足した。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- : ''詳細は[[イラクの政治]]を参照'' 2007年2月の秀逸再選考以前からの赤リンクをいったんコメントアウト --&amp;gt;&lt;br /&gt;
サッダーム政権当時の政治は、[[革命指導評議会]](RCC)が担っていた。行政権はもちろん、立法権も評議会に属する9人の元にあった。さらに、RCC議長は、大統領、首相、国軍最高司令官を兼ねており、極端な権力の集中が見られた。定数250人の国会にあたる[[一院制]]の国民議会が存在していたが、RCCが国会の議決を差し戻すことができた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの新憲法は、[[2005年]][[10月15日]]の[[国民投票]]での承認により成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元首|国家元首]]の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、[[スンナ派]]（スンニ派）、[[シーア派]]、[[クルド人]]から各1名ずつが国民議会によって選ばれる。評議会は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行政府の長である[[首相]]は、国民議会議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名（首相・副首相を除く）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
憲法は、[[立法府]]について[[両院制]]を定めるが、上院は未成立。下院である国民議会は275議席、任期4年で、第1回総選挙が2005年[[12月15日]]に行われた。政党（政党連合）別獲得議席数は以下の通りである。&lt;br /&gt;
* 統一イラク同盟:  128 - シーア派&lt;br /&gt;
* クルディスタン同盟: 53 - クルド人&lt;br /&gt;
* イラク合意戦線: 44 - スンナ派&lt;br /&gt;
* イラク国民リスト: 25&lt;br /&gt;
* 国民対話イラク戦線: 11 - スンナ派&lt;br /&gt;
* その他7党: 14&lt;br /&gt;
議会は、[[2006年]][[3月16日]]に開会した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
=== 司法 ===&lt;br /&gt;
サッダーム政権下の司法体系は大きく3つに分かれていた。下級裁判所、治安裁判所、シャリーアに基づいた判決が一部認められている家庭裁判所である。[[陪審制]]を採用していないほか、いずれも大統領に判決を覆す権利が与えられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
下級裁判所は刑事裁判の一審を担当する。二審は最高裁に相当する控訴裁判所である。ただし、法定刑が7年以上となる場合は、一審を介さず直接控訴裁判所が判決を下す。民事裁判は刑法以外に商法、民法に関わる裁判も扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
治安裁判所は刑法のうち、反体制色の強い犯罪、すなわち外国為替法、輸出入法違反、さらに禁止薬物の取引、軽度のスパイ活動を裁いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非常設の法廷として、国家安全保障に直接影響するとみなされた事件は別に設けられた特別裁判所の管轄となった。また、国家元首の暗殺等、体制中枢を狙った犯罪は革命裁判所が裁いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 外交 ===&lt;br /&gt;
イラクと中東諸国との関係は多様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年に入ってイラクは、80年から88年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[エジプト]]は1979年に[[イスラエル]]との和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトの[[アンワル・アッ＝サーダート]]大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年には[[アラブ連盟]]の会議はイラクの首都バグダッドで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる（エジプトの地位は1987年に回復される）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクは「エジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだ」と度々主張し、1984年の[[イスラム諸国会議機構]]におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクとエジプトの関係は更に、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になって[[バッシャール・アサド]]が大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは[[湾岸戦争]]においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。2000年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクは[[中東戦争]]に際しては1948年、1967年、1973年に参戦するなどイスラエル問題について強硬な態度をとることが多い。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ（この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた）、1982年の[[ロナルド・レーガン|レーガン]]米国大統領による平和交渉にも反対せず、同年アラブ首脳会談によって採択された[[フェス憲章]]にも支持を表明している。しかし、戦後は態度を硬化させ、特に湾岸戦争以後は、イスラエルの全面的な解消を度々提唱している。湾岸戦争の際にはイラクは、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルの解消を要求したこともあり、イスラエルの民間施設を[[スカッド・ミサイル]]によって攻撃したこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの地理]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq_map_japanese.png|right|300px|イラクの地図]]&lt;br /&gt;
イラクの地理について、国土の範囲、地表の外形、地殻構造、陸水、気候の順に説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの国土はいびつな三角形をなしており、東西870km、南北920kmに及ぶ。国土の西端は[[シリア砂漠]]にあり、シリア、ヨルダンとの国境（北緯33度22分、東経38度47分）である。北端はトルコとの国境（北緯37度23分、東経42度47分）で、[[クルディスタン山脈]]に位置する。東端は[[ペルシャ湾]]沿いの河口（北緯29度53分、東経48度39分）だ。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境（北緯29度3分、東経46度25分）の一部である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの地形は3つに大別できる。&lt;br /&gt;
国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる二本の大河、南側の[[ユーフラテス川]]と北側の[[ティグリス川]]だ。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠と[[ネフド砂漠]]が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は最高高度1000mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。二本の大河周辺は[[メソポタミア平原]]が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のジジャーラ丘陵だ。なお、二本の大河はクルナの南で合流し、シャッタルアラブ川となる。直線距離にして約160km、川の長さにして190km流れ下り、ペルシャ湾に達する。ティグリス川の東は高度が上がり、イランの[[ザグロス山脈]]に至る。バクダットと同緯度では400mから500m程度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなだらかでなくなっているのはザグロス山脈の峰と尾根が国境線となっているからだ。イラク最高峰のハジ・イブラヒーム山 (3600m) もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30km四方はイラクで最も高い山々が群立している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような地形が形成されたのは、イラクの国土が[[アラビアプレート]]と[[ユーラシアプレート]]にまたがっているからだ。アラビアプレートはユーラシアプレート側に移動している。イラクとイランの国境線、さらにペルシャ湾北岸にわたって褶曲山脈であるザグロス山脈が形成されたのは、アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込んでいるためである。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000mに達する峰が複数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された理由も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、[[プレートテクトニクス]]で説明されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200kmにも伸びる[[ハンマール湖]]が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ（沼沢地アラブ）と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと[[スイギュウ|水牛]]を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は1/10程度まで縮小している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖だ。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジなど複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400kmを上回り、4本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジであり、480kmに達する。&lt;br /&gt;
[[画像:ClimateBaghdadIraq.PNG|right|300px|thumb|バクダット（標高34m）の月別最高・最低気温（赤棒）と平均降水量（青棒）]]&lt;br /&gt;
イラクの気候は、ほぼ全土にわたり[[砂漠気候]]に分類される。チグリス側の北岸から北は[[ステップ気候]]、さらに[[地中海性気候]]に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30度を上回ることは珍しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界最高気温を1921年に記録したバスラ（58.8度）は30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バクダッドの平均気温は8.5度（1月）、34.2度（7月）だ。年降水量は僅かに140mmである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 動物 ===&lt;br /&gt;
砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物は[[レイヨウ]]、次いで[[ガゼル]]である。肉食獣としては、[[ジャッカル]]、[[ハイエナ]]、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、[[トビネズミ]]、モグラ、[[ヤマアラシ]]が分布する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。[[ウズラ]]（水鳥でも捕食者でもない）、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、[[ワタリガラス]]が代表だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 植物 ===&lt;br /&gt;
ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ ''Astragalus gummifer'' だ。樹皮から分布される樹脂を[[アラビアガム]]として利用するほか、香料として利用されている。聖書の[[創世記]]にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ ''Erodium cicutarium''、大輪の花が目立つ[[ハンニチバナ科]]の草、ヨーロッパ原産の[[ムシトリナデシコ]]が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、[[クコ]]、[[ハス]]、[[パピルス]]、[[ヨシ]]が密生する。土手には[[ハンノキ]]、ポプラ、ヤナギも見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ ''Quercus aegilips'' が有用だ。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。イラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地方行政区分 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの（地域区分）]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:IraqNumberedRegions.png|right|イラクの行政区分]]&lt;br /&gt;
18の県 (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;محافظة&amp;lt;/span&amp;gt;、muḥāfaẓa、ムハーファザ) に分かれる。&lt;br /&gt;
* 1)[[バグダード県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;بغداد&amp;lt;/span&amp;gt; ; Baghdād) - 県都名同じ（[[バグダード]]）&lt;br /&gt;
* 2)[[サラーフッディーン県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;صلاح الدين&amp;lt;/span&amp;gt; ; Ṣalāḥ ad-Dīn) - 県都：[[ティクリート]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;تكريت&amp;lt;/span&amp;gt; ; Tikrīt)&lt;br /&gt;
* 3)[[ディヤーラー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;ديالى&amp;lt;/span&amp;gt; ; Diyālā) - 県都：[[バクーバ]] (バゥクーバ ; &amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;بعقوبة&amp;lt;/span&amp;gt; ; Baʿqūbah)&lt;br /&gt;
* 4)[[ワーシト県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;واسط&amp;lt;/span&amp;gt; ; Wāsiṭ) - 県都：[[クート]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الكوت&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Kūt)&lt;br /&gt;
* 5)[[マイサーン県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;ميسان&amp;lt;/span&amp;gt; ; Maysān) - 県都：[[アマーラ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;العمارة&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-ʿAmārah)&lt;br /&gt;
* 6)[[バスラ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;البصرة&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Baṣrah) - 県都名同じ（[[バスラ]]）&lt;br /&gt;
* 7)[[ジーカール県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;ذي قار&amp;lt;/span&amp;gt; ; Dhī Qār) - 県都：[[ナーシリーヤ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الناصرية&amp;lt;/span&amp;gt; ; an-Nāṣirīyah)&lt;br /&gt;
* 8)[[ムサンナー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;المثنى&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Muthannā) - 県都：[[サマーワ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;السماوة&amp;lt;/span&amp;gt; ; as-Samāwah)&lt;br /&gt;
* 9)[[カーディーシーヤ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;القادسية&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Qādisīyah) - 県都：[[ディーワーニーヤ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الديوانية&amp;lt;/span&amp;gt; ; ad-Dīwānīyah)&lt;br /&gt;
* 10)[[バービル県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;بابل&amp;lt;/span&amp;gt; ; Bābil) - 県都：[[ヒッラ]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الحلة&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Ḥillah)&lt;br /&gt;
* 11)[[カルバラー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;كربلاء&amp;lt;/span&amp;gt; ; Karbalā') - 県都名同じ（[[カルバラー]]）&lt;br /&gt;
* 12)[[ナジャフ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;النجف&amp;lt;/span&amp;gt; ; an-Najaf) - 県都名同じ（[[ナジャフ]]）&lt;br /&gt;
* 13)[[アンバール県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الأنبار&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Anbār) - 県都：[[ラマーディー]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الرمادي&amp;lt;/span&amp;gt; ; ar-Ramādī)&lt;br /&gt;
* 14)[[ニーナワー県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;نينوى&amp;lt;/span&amp;gt; ; Nīnawā) - 県都：[[モースル]] (マウシル ; &amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;الموصل&amp;lt;/span&amp;gt; ; al-Mawṣil)&lt;br /&gt;
* 15)[[ダフーク県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;دهوك&amp;lt;/span&amp;gt; ; Dahūk) - 県都名同じ（[[ダフーク]]）&lt;br /&gt;
* 16)[[アルビール県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;أربيل&amp;lt;/span&amp;gt; ; Arbīl) - 県都名同じ（[[アルビール]]）&lt;br /&gt;
* 17)[[タミーム県]] (タゥミーム ; &amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;التعميم&amp;lt;/span&amp;gt; ; at-Taʿmīm) - 県都：[[キルクーク]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;كركوك&amp;lt;/span&amp;gt; ; Kirkūk)&lt;br /&gt;
* 18)[[スライマーニーヤ県]] (&amp;lt;span lang=&amp;quot;ar&amp;quot; dir=&amp;quot;rtl&amp;quot;&amp;gt;السليمانية&amp;lt;/span&amp;gt; ; as-Sulaymānīyah) - 県都名同じ（[[スライマーニーヤ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの経済]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年に[[キルクーク]]で発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末から発明が続いていたガソリン・エンジンは既に実用化され、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリス系の企業のもとに留まった。利益はすべてイギリス系企業の収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50％がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。1972年、イラク政府はイギリス系企業の油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1980年に始まったイラン・イラク戦争は石油が原因ではなく、クルド人問題が発端である。しかし、戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、石油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は石油である。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。世界の石油埋蔵量の約1/2を占めるイラク、クウェート、サウジアラビアのうち、クウェートを抑え、さらに隣国サウジアラビアに軍事的な脅威を与えることに成功すれば、石油価格を上昇させ、自国の利益を最大化することができただろう。&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq-oil-power.jpg|thumb|right|250px|イラクの原油産出施設]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
イラクの原油生産量、単位:万トン (United Nations ''Statistical Yearbook'')&lt;br /&gt;
* 1927年 - 4.5（イラクにおける石油の発見）&lt;br /&gt;
* 1930年 - 12.1&lt;br /&gt;
* 1938年 - 429.8&lt;br /&gt;
* 1940年 - 251.4&lt;br /&gt;
* 1950年 - 658.4（石油の利益の1/2がイラクに還元）&lt;br /&gt;
* 1960年 - 4746.7&lt;br /&gt;
* 1970年 - 7645.7&lt;br /&gt;
* 1972年 - 7112.5（油田と付帯施設を国有化）&lt;br /&gt;
* 1975年 - 1億1116.8&lt;br /&gt;
* 1986年 -  8265.0（イラン・イラク戦争による被害）&lt;br /&gt;
* 1990年 - 1億0064&lt;br /&gt;
* 1993年 - 3230（湾岸戦争による被害）&lt;br /&gt;
* 1997年 - 5650&lt;br /&gt;
* 2003年 - 1億9000（イラク戦争終結時）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。&amp;lt;!-- 古くから外貨の95%がこの原油の交易によってもたらされていた。--&amp;gt;8年間にわたる[[イラン・イラク戦争]]による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油産出施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの構築や破壊された施設の復帰などにより原油の輸出は徐々に回復した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった[[多国籍軍]]による戦闘行為（[[湾岸戦争]]）で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年12月に[[国際連合|国連]]の[[石油と食糧の交換計画]]実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、[[国連安全保障委員会]]はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出はまだイラン・イラク戦争前よりも低い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Dates_on_date_palm.jpg|left|150px|thumb|デーツを実らせたナツメヤシ]]&lt;br /&gt;
=== 農業 ===&lt;br /&gt;
[[世界食糧計画]]（WFP）の統計（2003年）によると、イラクの農地は国土の13.8%を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8%という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農業従事者の割合は低く、全国民の2.2%にあたる62万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同2005年の統計によると、主要穀物では[[小麦]]（220万トン）、次いで[[大麦]]（130万トン）の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、[[米]]の生産量は13万トンと少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
野菜・果実ではトマト（100万トン）、ぶどう（33万トン）が顕著だ。商品作物としては[[ナツメヤシ]]（87万トン）が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6%を占める。畜産業では、ヤギ（165万頭）、ウシ（150万頭）が主力である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバクダードのナツメヤシが有力。バスラには800万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バクダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバクダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 工業 ===&lt;br /&gt;
イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1%から2%に達する（2002年時点で1.6%）。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エネルギー ===&lt;br /&gt;
イラクは世界有数の産油国であるため、2003年時点の総発電量295億kWhの98.5%は石油による火力発電でまかなっている。残りの1.5%はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運行はイギリスによって始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交通 ===&lt;br /&gt;
イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200kmだ。旅客輸送量は22億人キロ、貨物輸送量は11億トンキロに及ぶ。イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。バクダットと[[アナトリア半島]]中央南部のコニアを結ぶイラク初の鉄道路線はドイツによって建設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台（うち65万台が乗用車）に留まる。舗装道路の総延長距離も8400kmに留まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貿易 ===&lt;br /&gt;
イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9%、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1%であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
輸出品目別では、石油（燃料）83.9%、石油（原料）8.0%、食品5.0%、石油化学製品1.0%である。食品に分類されている品目はほとんどが[[デーツ]]である。輸入品目別では、機械73.1%、基礎的な工業製品16.1%、食品5.0%、化学工業製品1.0%。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6%、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6%、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1%と高かったにも関わらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9%と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国民 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの国民]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- （住民の人種構成、言語、宗教など） --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 本文 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Iraqi_girl_smiles.jpg|thumb|right|250px|[[バグダード]]に住むイラクの少女（2003年5月）]]&lt;br /&gt;
[[画像:Iraq_demography.jpg|thumb|right|300px|イラクの民族と宗教の分布　地方行政区分とは一致しない。オレンジ色はアラブ人（イスラム教シーア派）、北部の青色はクルド人（シーア派）、緑色はアラブ人（スンナ派）、北部の赤紫色はアッシリア人・カルデア教徒・アルメニア人（いずれもキリスト教徒）、北部の赤色はトゥルクマーン（シーア派もしくはスンナ派）、南部の紫色は[[マンダ教|マンダ教徒]]、斜線部は人口希薄地帯、白色部は砂漠である]]&lt;br /&gt;
[[画像:Barrages irakiens.png|right|300px|thumb|イラクの水利システム 複数のダム (barrage) と灌漑水路、排水路を組合せて乾燥地、沼地のいずれも農地に変えていった]]&lt;br /&gt;
[[画像:Karbala_shrineofhusain_(PD).jpg|thumb|right|250px|[[カルバラー]]にある[[モスク]]]]&lt;br /&gt;
イラク国民は、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻後、それに続く2003年からのイラク戦争によって悪影響を被っている。例えば、戦前、平均寿命は1985年の63.0歳（男性）、64.8歳（女性）から、1990年の77.43歳（男性）、78.22歳（女性）へと向上した。これはフセイン政権による医療改革の影響である。1990年時点の平均寿命はほぼ連合王国（イギリス）と同水準にまで向上していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、戦乱が続く中、2000年には57歳（男性）、60歳（女性）まで後退してしまう。乳児死亡率は、69‰（1985年）、57.8‰（1990年）、95.3‰（1995年）、102‰（2004年）と変化しており、平均寿命の変化と一致している。都市人口率の変化を追うと、70.2％（1987年）、70.3％（1988年）、69.9％（1990年）、67.2％（2003年）となっており、産業人口率の変化と併せると、都市の破壊、都市機能の低下が平均寿命や乳児死亡率の変化と同じ時期に進行したことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民族 ===&lt;br /&gt;
国連の統計によれば、住民は[[アラブ人]]が79%、[[クルド人]]16%、[[アッシリア人]]3%、[[トゥルクマーン]]2%である。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。右図にあるように各民族ははっきりと分かれて居住している。クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるマホメットを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 言語 ===&lt;br /&gt;
[[アラビア語]]、[[クルド語]]が公用語である。その他アルメニア語や[[アラム語|現代アラム語]]（アッシリア語）なども少数ながら使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書き言葉としてのアラビア語（[[フスハー]]）は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからだ。しかし、話し言葉としてのアラビア語（[[アーンミーヤ]]）は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのは[[アラビア語イラク方言|イラク方言]]だ。ただし、イラク国内で共通語となっているバクダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗教 ==&lt;br /&gt;
イスラム教徒が国民の95%を占め、次いでキリスト教4%、[[マンダ教]]である。歴史的にはユダヤ教徒も存在したが、現在は数百人以下だとされている。住民の分布と宗教の分布には強い関係がある。イスラム教徒の最大派はアラブ人[[シーア派]]の50%。アラブ人[[スンナ派]]の25%、クルド人スンナ派の20%が続く。キリスト教([[カトリック教会|カトリック]]、[[東方正教会]]、[[アッシリア正教会]]等)はアッシリア人と少数民族に限られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''イスラム教シーア派'''&lt;br /&gt;
全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は[[ムハンマド・イブン＝アブドゥッラーフ|預言者]]の後継者・最高指導者（[[イマーム]]）が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要な[[イスマーイール派]]、[[ザイド派]]、[[十二イマーム派]]、[[ハワーリジュ派]]などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシャドである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''イスラム教スンナ派'''&lt;br /&gt;
スンナ派ではシャーフィイー派、[[ハナフィー派]]、ハンバル派、マーリク派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ （Abu Hanifa、699年-767年）は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バスラのアブー・アル＝ハサン・アル＝アシュアリー（Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年）は、合理主義を標榜したムータジラ学派に属していたが、後に離れる。ムータジラ派がよくしていたカラーム（弁証）をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル＝ガザーリー（Al-Ghazali、1058年-1111年）は、ペルシア人であったがバクダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラム哲学自体に批判を下していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル＝バスリー（al-Hasan al-Basri、642年-728年）が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムータジラ派を開く。ムータジラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義（[[スーフィズム]]）につながっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''イスラム教ヤジーディー派'''&lt;br /&gt;
シーア派に分類されるが、正当派とは大きく異なり異端とされる。異端の少ないシーア派には珍しい。イラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、[[旧約聖書]]、[[新約聖書]]。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''キリスト教'''&lt;br /&gt;
1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。4割強が東方諸教会に属する{{要出典}}。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつ[[アッシリア正教会]]の[[ネストリウス派]]に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、[[帰一教会|東方帰一教会]]の一つとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''マンダ教（サービア教）'''&lt;br /&gt;
[[マンダ教]]は[[コーラン]]に登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。[[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]に付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバクダット下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。キリスト教以前の東洋に起源をもつ信仰が加わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''ユダヤ教'''&lt;br /&gt;
[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。[[イスラエル]]建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ''詳細は[[イラクの文化]]を参照'' --&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 教育 ===&lt;br /&gt;
イラクにおける教育制度は、伝統的な[[コーラン]]を学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、[[義務教育]]が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備過程を終了する必要がある。首都バクダッドを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 食文化 ===&lt;br /&gt;
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、[[茶]]である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63kgの茶を消費していた。これは[[カタール]]、[[アイルランド]]、[[イギリス]]についで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イスラム美術 ===&lt;br /&gt;
*細密画、アラブ書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地の廟建築&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 === &lt;br /&gt;
[[Image:Oud.jpg|right|150px|thumb|ウードの全体像 糸倉が後ろに曲がっていることが特徴]]&lt;br /&gt;
[[Image:Holding the risha pos 1.jpg|right|150px|thumb|ウード（奥）とバチ　ウードの弦は複弦であり五コース～六コースのものが多い]]&lt;br /&gt;
伝統的な[[楽器]]として[[リュート]]に類似する[[ウード]]、[[バイオリン]]に類似するレバーブ、その他[[チター]]に似た[[カーヌーン]]、葦の笛[[ナーイ]]、酒杯型の片面太鼓[[ダラブッカ]]などが知られている。&lt;br /&gt;
ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では三世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、[[ファーラービー|アル=ファーラービー]]によれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は五千年前のメソポタミア南部（イラク）にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、[[マカーム]]の演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においても[[マグリブ]]地方において古形を見い出す事が出来るが、伝承では九世紀に[[キンディー]]（あるいはズィリヤーブとも云う）によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い（正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦～十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最高音弦は単弦となる）。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バクダット音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてアッシリア人だが、ウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する[[撥弦楽器]]であり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクの[[バグダード]]は[[エジプト]]の[[カイロ]]と並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、[[アッバース朝]]時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ＝ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は[[千夜一夜物語]]にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム（マカーム・アル＝イラーキー）と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。&lt;br /&gt;
民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、[[パスタ]]などが知られる。&lt;br /&gt;
伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれる[[チャルメラ]]状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。&lt;br /&gt;
また[[クルド人]]は独特の音楽を持つ。&lt;br /&gt;
現代のイラク人は西洋の[[ロック_(音楽)|ロック]]、[[ヒップホップ]]、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 - 詩、詩人、近代&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界遺産 ===&lt;br /&gt;
イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に[[世界遺産|世界遺産条約]]を受託している。1985年にバクダードの北西290kmに位置する平原の都市遺跡[[ハトラ]]（[[ニーナワー県]]）が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50kmにあるティグリス川に面した都市遺跡[[アッシュール]]（[[サラーフッディーン県]]）がやはり文化遺産に認定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:Hatra ruins.jpg|left|150px|thumb|ハトラの遺跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれた[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]は紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、[[パルティア|パルティア帝国]]の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国は[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]を名乗る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していた[[アッカド|アッカド帝国]]の都市となり、[[ウル第三王朝]]を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。[[アッシリア]]が成立すると、その版図となり、古アッシリア時代の[[シャムシ・アダド1世]]（前1813年-前1781年在位）は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていた[[エンリル|エンリル神殿]]を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国の[[アッシュールナツィルパル2世]]はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した[[新バビロニア|新バビロニア王国]]によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンの[[ペルガモン]]博物館に展示・収蔵されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 祝祭日 ===&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;2&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|日付&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|日本語表記&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|現地語表記&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#efefef&amp;quot;|備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月1日]]|| 元日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月6日]]|| イラク国軍の日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[2月8日]]|| 第14回ラマダーン革命記念日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[7月14日]]|| 建国記念日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[7月17日]]|| 平和革命記念日 || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[ヒジュラ暦]]第1月1日 ||イスラム元日|| ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ヒジュラ暦第3月12日 || [[マウリド・アン＝ナビー]] || || ムハンマドの生誕祭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ヒジュラ暦第10月1日 || [[イード・アル＝フィトル]]|| || 断食月明けの祭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ヒジュラ暦第12月10日 || [[イード・アル＝アドハー]] || || 犠牲祭&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&amp;lt;center&amp;gt;フセイン政権下の祝祭日を示した。&amp;lt;/center&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[イラク関係記事の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[イラク人一覧]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの歴史]]&lt;br /&gt;
* [[バアス党]]&lt;br /&gt;
* [[イラン・イラク戦争]]&lt;br /&gt;
* [[湾岸戦争]]&lt;br /&gt;
* [[イラク武装解除問題]]&lt;br /&gt;
* [[イラク戦争]]：[[イラク戦争の年表]]&lt;br /&gt;
* [[クルディスタン]]&lt;br /&gt;
* [[革命指導評議会]]&lt;br /&gt;
* [[イラク暫定政権]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
* [[イラクの通信]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの交通]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの軍事]]&lt;br /&gt;
* [[イラクの国際関係]]&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[アメリカ帝国主義]]&lt;br /&gt;
*[[ガートルード・ベル]]&lt;br /&gt;
*[[歴史上の推定都市人口]]&lt;br /&gt;
*[[イッザト・イブラーヒーム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{commons|Iraq}}&lt;br /&gt;
=== 公式 ===&lt;br /&gt;
* イラク暫定政府公式サイト: [http://www.iraqigovernment.org/ アラビア語]、[http://www.iraqigovernment.org/index-EN.htm 英語]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [http://www.iraqimage.com イラクのイメージ] &lt;br /&gt;
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/ 日本外務省 イラクの情報]&lt;br /&gt;
* [http://japan.usembassy.gov/j/policy/tpolicyj-iraq.html 在日アメリカ合衆国大使館 イラク関連]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[池澤夏樹]]ほか『イラクの小さな橋を渡って』光文社、 2003年 (ISBN 4334973779)&lt;br /&gt;
* [[大塚和夫]]ほか（編）『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年 (ISBN 4000802011)&lt;br /&gt;
* [[佐藤次高]]（編）『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年 (ISBN 4634413809)&lt;br /&gt;
* [[日本イスラム協会]]ほか（監修）『新イスラム事典』平凡社、2002年 (ISBN 4582126332)&lt;br /&gt;
* [[酒井啓子]]、『イラクとアメリカ』、岩波書店、2002 (ISBN 4004307961)&lt;br /&gt;
* 岩佐俊吉、『図説熱帯の果樹』、養賢堂、2001年、ISBN 4842500786&lt;br /&gt;
* Robert B. Clarke, ''PEOPLES OF THE EARTH'', Vol.17  Arab world, Tom Stacey Ltd., 1973&lt;br /&gt;
* ''Worldmark Encyclopedia of the Nations'', Vol.4, Thomson Gale, 2006 (ISBN 1414410891)&lt;br /&gt;
* ''Demographic Yearbook'', United Nations, 1990.&lt;br /&gt;
* ''Statistical Yearbook'', United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002.&lt;br /&gt;
* [http://www.oud.eclipse.co.uk/ The Oud] 英[[エクセター大学]]のDavid ParfittのWebページ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
{{アジア}}&lt;br /&gt;
{{OIC}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:イラク|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:イスラム教国|いらく]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link_FA|sv}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured_article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[af:Irak]]&lt;br /&gt;
[[an:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[ang:Irac]]&lt;br /&gt;
[[ar:العراق]]&lt;br /&gt;
[[arc:ܥܪܩ]]&lt;br /&gt;
[[ast:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[az:İraq]]&lt;br /&gt;
[[be:Ірак]]&lt;br /&gt;
[[bg:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[br:Irak]]&lt;br /&gt;
[[bs:Irak]]&lt;br /&gt;
[[ca:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[cs:Irák]]&lt;br /&gt;
[[cv:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[cy:Irac]]&lt;br /&gt;
[[da:Irak]]&lt;br /&gt;
[[de:Irak]]&lt;br /&gt;
[[diq:İraq]]&lt;br /&gt;
[[el:Ιράκ]]&lt;br /&gt;
[[en:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[eo:Irako]]&lt;br /&gt;
[[es:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[et:Iraak]]&lt;br /&gt;
[[eu:Irak]]&lt;br /&gt;
[[fa:عراق]]&lt;br /&gt;
[[fi:Irak]]&lt;br /&gt;
[[fr:Irak]]&lt;br /&gt;
[[frp:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[fy:Irak]]&lt;br /&gt;
[[ga:An Iaráic]]&lt;br /&gt;
[[gd:Iorac]]&lt;br /&gt;
[[gl:Iraq - العراق]]&lt;br /&gt;
[[he:עיראק]]&lt;br /&gt;
[[hi:इराक़]]&lt;br /&gt;
[[hr:Irak]]&lt;br /&gt;
[[hsb:Irak]]&lt;br /&gt;
[[ht:Irak]]&lt;br /&gt;
[[hu:Irak]]&lt;br /&gt;
[[hy:Իրաք]]&lt;br /&gt;
[[ia:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[id:Irak]]&lt;br /&gt;
[[ilo:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[io:Irak]]&lt;br /&gt;
[[is:Írak]]&lt;br /&gt;
[[it:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[iu:ᐃᕉᒃ/irak]]&lt;br /&gt;
[[ka:ერაყი]]&lt;br /&gt;
[[kk:Ирақ]]&lt;br /&gt;
[[ko:이라크]]&lt;br /&gt;
[[ku:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[kw:Irak]]&lt;br /&gt;
[[la:Iraquia]]&lt;br /&gt;
[[lb:Irak]]&lt;br /&gt;
[[li:Irak]]&lt;br /&gt;
[[lt:Irakas]]&lt;br /&gt;
[[lv:Irāka]]&lt;br /&gt;
[[mk:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[ml:ഇറാഖ്‌]]&lt;br /&gt;
[[mo:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[mr:इराक]]&lt;br /&gt;
[[ms:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[na:Irak]]&lt;br /&gt;
[[nds:Irak]]&lt;br /&gt;
[[nl:Irak]]&lt;br /&gt;
[[nn:Irak]]&lt;br /&gt;
[[no:Irak]]&lt;br /&gt;
[[nov:Irak]]&lt;br /&gt;
[[oc:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[os:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[pam:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[pdc:Iraek]]&lt;br /&gt;
[[pl:Irak]]&lt;br /&gt;
[[pms:Irak]]&lt;br /&gt;
[[ps:عراق]]&lt;br /&gt;
[[pt:Iraque]]&lt;br /&gt;
[[qu:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[ro:Irak]]&lt;br /&gt;
[[ru:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[sa:ईराक]]&lt;br /&gt;
[[scn:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[se:Irak]]&lt;br /&gt;
[[sh:Irak]]&lt;br /&gt;
[[simple:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[sk:Irak]]&lt;br /&gt;
[[sl:Irak]]&lt;br /&gt;
[[sq:Iraku]]&lt;br /&gt;
[[sr:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[sv:Irak]]&lt;br /&gt;
[[sw:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[ta:ஈராக்]]&lt;br /&gt;
[[tg:Ироқ]]&lt;br /&gt;
[[th:ประเทศอิรัก]]&lt;br /&gt;
[[tl:Irak]]&lt;br /&gt;
[[tpi:Irak]]&lt;br /&gt;
[[tr:Irak]]&lt;br /&gt;
[[tt:Ğíraq]]&lt;br /&gt;
[[udm:Ирак]]&lt;br /&gt;
[[uk:Ірак]]&lt;br /&gt;
[[ur:عراق]]&lt;br /&gt;
[[uz:Iroq]]&lt;br /&gt;
[[vi:Iraq]]&lt;br /&gt;
[[vo:Lirakän]]&lt;br /&gt;
[[yi:איראק]]&lt;br /&gt;
[[zh:伊拉克]]&lt;br /&gt;
[[zh-min-nan:Iraq]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A5%B3%E6%80%A7%E9%81%94&amp;diff=5353</id>
		<title>アメリカ独立戦争における女性達</title>
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				<updated>2007-05-29T03:25:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: /* アフリカ系アメリカ人の女性、愛国者及び王党派 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''アメリカ独立戦争における女性達'''（アメリカどくりつせんそうにおけるじょせいたち、英:Women in the American Revolution）では、[[アメリカ独立戦争]]中とその前後で、様々な立場に置かれた女性達がどのように行動し、またその立場がどう変わっていったかについて述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立戦争の頃、政治と戦争に参加するのは男性に限られていた。しかし、女性がいなければ政治も戦争も動かなかったことも事実である。積極的に戦争の遂行に協力した女性の中には歴史に名を留めた者もいる。8年間にも及ぶ戦争とその前後の激動の時代を生き抜くためには多くの試練に耐え、また生活様式を変えていくことを女性達に強要した。新生したアメリカ合衆国の中で、女性の姿がすこしづつ社会の表に現れ始めた時代とも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アングロサクソン系のアメリカ人で愛国者の女性 ==&lt;br /&gt;
[[アメリカ独立戦争]]は、戦うのは自分達だと考えていた男達によって遂行されたものと認識されている。しかし、この戦争は広く伝えられた主義信条がなければ続けられなかったのと同様に、アメリカ植民地中の男性と女性両方の住人によって物質的に支えられなければ遂行できなかった。公の政治の場面には女性が登場しないが、女性が戦争に直面し、戦争が政治や公衆・家庭内の生活のあらゆる面で浸透してくるに連れて、通常の家庭の振る舞いが政治的に重要な意味合いを持つようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女性が自発的に愛国者であったかどうかという質問を戦争は投げかけるが、政治的な同一性を維持しつつ、植民地の女性達が態度で表してみせた。伝統的な女性の職業による支援がこのことをよく表した。戦場で起こったことは既に家庭でも、国内の経済でも、また夫や父親の実業の世界で受け入れられていたことだった。女性達は[[イギリス]]製品のボイコットに参加し、兵士のための物資を生産し、[[イギリス軍]]の情報収集活動をやり、軍隊と行動を共にして兵士達のために洗濯や料理を行い、極秘の伝令となり、時には男性に扮して戦場で戦った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国内の支援 ===&lt;br /&gt;
独立戦争の当時、女性は家庭内の諸事を遣り繰りする責任があった。このことに関連して女性はホームスパン運動で働いた（ホームスパンは手織りの布）。輸入されたイギリス製の衣服を着たり購入する代わりに、愛国者の女性達は長く伝統のある機織りや紡績をやって自分達の衣類を家族の衣類に作り替えた。独立戦争の前の数年間における事態の推移により、この行動は政治的な意味合いを与えられた。糸を紡ぎ機を織られた「アメリカ製の」衣類は反抗の中の一機構となり、消費についても同じような行動となった。[[1769年]]、クリストファー・ギャスデンは植民地の女性達に直接呼びかけた「この危機に及んで我々の政治が動いていくかは、緊縮財政に係っており、それをなすためには女性達が主となって礼節とともに遣り繰りしていくかに掛かっている。（サウスカロライナの農園主、機械工、不動産の自由保有権者に。イギリス製品の輸入を閉ざせ。1769年[[6月22日]]）。イギリス製織物のボイコットに加えてホームスパン運動は[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]が必要とする衣類や毛布を生産することで貢献した。男性の製造業者はそのような製品と交換に徴兵を免れていたが、同じことをやる女性にはそのような代償も無かった。紡績、機織り、縫製は植民地の女性達の一部の仕事になった。愛国者としてその技能を使い独立戦争に荷担したことになった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
国内経済が沈滞する中で、主婦はその購買力を使って愛国者側の製造者を支援した。女性はイギリス製品を家庭用に購入することを拒絶した。例えば紅茶のボイコットは自分やその家庭が愛国者の立場に立っていることを表明する比較的やさしい方法であった。[[1773年]]の[[ボストン茶会事件]]はボイコットの表れとして最も広く認識されているが、この爆発的な行動の何年も前に愛国者の女性達が政治的声明としてまさにそのイギリス製品の消費を拒んでいたことは重要である。同様なボイコットは様々なイギリス製品に広がり、女性達は購入する代わりにアメリカ製品を作り出す道を選んだ。この「非消費ボイコット」が国家的政策によっていた（作ったのは男性）としても、女性はその支配する家庭の中で実行に移したのである。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
女性達は経済活動にも積極的に関わった。[[1778年]]、一団の女性が、コーヒーを貯蔵しているという商人の噂に接してその倉庫に乗り込んだ。女性達はは倉庫を開放し、コーヒーを取り出して「没収」した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
独立戦争中、アメリカ製品を買うことは愛国者であるという姿勢を見せることであった。加えて倹約（独立戦争前は賞賛される女性の美徳）は政治声明となり、家事の切り盛りで戦時体制に貢献するよう求められた。しかし、戦時体制を維持するための女性達に対する要求は家庭内経済による貢献を超えるものになった。女性達はその家屋そのものを公衆の益のために差し出すことを求められ、共和制が形を取るにつれて大陸軍の兵士や役人の宿舎にも提供された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女性達は[[フィラデルフィア]]婦人協会のような組織を通じても愛国者側に貢献した。この組織は戦時体制に貢献する女性の能力を組織として活用したものである。フィラデルフィアの女性達は資金を集めて戦費の助けとした。これは[[マーサ・ワシントン]]が受け取って、その夫[[ジョージ・ワシントン]]将軍に渡された。他の植民地でもこの例に倣い、エスター・デバート・リード（ペンシルバニア知事の妻）やサラ・フランクリン・バッチ（[[ベンジャミン・フランクリン]]の娘）が起案者となった。[[1780年]]、戦争も半ばの頃、植民地から上がった女性組織によって集められた資金は34万ドル以上にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 愛国者の女性と前線 ===&lt;br /&gt;
多くの愛国者女性は自分の家で植民地軍を支える活動を行ったが、戦争の最前線にいて厳しい現実に直面した女性もいた。戦闘が家産に近づくにつれて、それを守ろうと奮闘する女性達は暴力の脅威に直面することになった。敵の軍隊による陵辱は常に可能性があり、一人で家を守る女性には恐怖の根源であった。イギリス軍の略奪者から守るために武器と度胸を備えなければならない女性もいた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
周りに男性がいない家に留まることを拒む女性がいれば、夫の留守中に経済的にやっていけない女性もいた。このような女性達は大陸軍に付いていき、将兵達の洗濯女、料理人、看護婦、裁縫師、性の相手、清掃人などをこなし、時には兵士あるいはスパイとなった。軍隊についていく女性達は、指揮官達によって「必要な厄介者」とか「お荷物」と呼ばれた。それでもこれらの女性達は軍宿営地の運営を円滑にする役割を果たした。売春婦もいたが、性病の蔓延を恐れた軍の指導者にとっては迷惑な存在であった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
上級士官の妻（例えばマーサ・ワシントン）がしばしば宿営地を訪れた。宿営地にいる貧乏な女性達とは異なり、これら富裕層の女性が宿営地を訪れることの価値は実用というよりも象徴的なことであった。彼女たちがいるだけで、すべてのものが戦争になんらかの犠牲を捧げているという宣言になった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
大陸軍についていく女性達の数は資料によって異なり、2万人というものもあり、少なく見積もっても宿営地全体の3％はいたということである。女性達は様々な理由で軍隊に加わった。飢えや陵辱の恐れ、寂しさ、切迫した貧乏、最後の頼みの綱、夫に付いてきた、などであった。宿営地の女性達は兵士と同じ指揮官に従ったが、あれこれと言うことは許されなかった。激しい戦闘が行われた地域や敵に占領された地域では、安全な地域よりも女性の数が多かった。これは戦闘が行われた地域では大陸軍の保護を求める女性が多かったことによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦争で戦った女性達は、その女性の動機や行動によって賞賛と侮蔑の間で揺れ動く二律背反の感情で迎えられた。男に従って献身的に尽くした女性は賞賛され、徴兵の報奨金欲しさに入ってきたような女性は男達の侮蔑をかった。（前者の例はアンナ・マリア・レーン、マーガレット・コルビンなど、後者の例はアン・ベイリー（偽名サミュエル・ゲイ）である。ベイリーは除隊され、罰金を科され、2週間刑務所に入れられた。またアン・スミスは報奨金のために軍隊に入ろうとしたことで非難された。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デボラ・サンプソン、ハンナ・スネル、サリー・セントクレアは巧妙にその性別を隠した（セントクレアの場合は死ぬまで）。サンプソンは見つかったが名誉の除隊を遂げ、古参兵の年金を数年後に貰えた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
軍隊の機密情報を含む伝言や手紙をペチコートの下に隠して敵の占領地をすり抜け届けた女性もいた。デボラ・チャンピオン、ハリエット・プルーデンス・パターソン・ホールおよび[[アメリカ独立戦争の情報戦略#リディア・ダラー|リディア・ダラー]]がこれにあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政治的活動 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Abigail Adams.jpg|right|thumb|200px|アビゲイル・アダムズ]]&lt;br /&gt;
建国の父達によって信奉された自由と平等そして独立という理念は、女性達の生活を特に改善するものではなかった。女性達は家庭とその周りの領域に属するものとされ、政治や経済の領域では歓迎されなかった。ホィッグの政治理論化の考えでは、男性の独立（土地の所有に基づく）が投票権となったが、女性の場合は夫、息子あるいは父親に依存していたために政治や経済の領域では独り立ちして振る舞うことはできなかった。理想的なホィッグの女性は自分の領域から愛国者達を助け、家庭内の雑用をこなし、独立のために戦う男性の価値観に従って次世代を教育する準備をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大部分の女性は政治的なものを手紙や日記の範囲に留めたがアビゲイル・アダムズ([[ジョン・アダムズ]]の妻）やマーシー・オーティス・ウォーレンのような女性は公衆の面前で政治の世界に入っていった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし独立戦争後は、様々な女性の活動や社会の変革が家庭内の美徳を通じた共和国の改良に向かって動き出した。これらの組織は当初希なものであったが、愛国者の女性達が共和制の母の役目を果たすようになった（子供達に共和制の価値と理想を吹き込んで良き市民となる準備をさせた）。子供達が成長するにつれて、アメリカの母親達は独立した共和制の新しい理想を子供達に教え込むことを任されるようになり、その結果新しいアメリカ的共和制が発展を続けることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アングロサクソン系のアメリカ人で王党派の女性 ==&lt;br /&gt;
イギリス王室に対する政治的忠誠心の危機は、植民地アメリカの女性の社会構造を崩壊させた。男性が国王に対する連帯を表明しようとしていまいと、階級、家庭、友情の絆が解かれ、以前の結びつきから女性を孤立化させた。女性の夫に対する忠誠心はかっては私的なことであったが、イギリスに対する忠誠を表明した夫に対する場合は特に政治的な行動に変わった。これら王党派の女性達は独立戦争の間大変な逆境に直面した。女性達は夫が反逆者という理由で自警団や暴徒によって有罪とされ犠牲にされた。富裕な王党派の妻は特に、反逆者と考えられる男の財産を没収したい革命政府の格好のターゲットになった。自分自身の財産を持っている女性の場合は、没収行動が通常は持参金の部分を除外していたので、愛国者の圧力にも耐えられた。しかし社会的な立場がどうあれ、王党派の女性は政治的少数派の一部であり、それゆえに近所や友人の支援も無くなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの王党派女性達は敵の中で生活するよりもその社会を離れる道を選んだ。一人の女性が突然立ち退くとしても、この選択は家財一切を持たずに出て行くことを意味した。王党派の多くは[[カナダ]]に移動した。そこでは沢山の王党派の仲間がいた。古参兵、家族、寡婦、子供達が[[ノバスコシア]]に殺到した。王党派の中には土地の愛国者政府に安全な通行を願い出て、家財を持ってイギリスの領土に移動する者もいた。このような場合でも愛国者の役人は女性が持って行くものを制限し、移動のために支払う費用を請求した。最悪の事態では、12歳を超える息子の場合に愛国者軍隊への従軍を求められ残して行くしかなかった。&lt;br /&gt;
           &lt;br /&gt;
王党派の女性にとって抵抗が別の選択肢となった。[[1779年]]、3人の女性、マーガレット・イングリス、スザンナ・ロビンソン、メアリー・モリスは[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]市長の子供の誘拐計画を立てた。新しい政府に対する忠誠を誓うことを拒否するように友人を唆す者もいた。イギリス王を積極的に支持する女性達の多くは王党派軍隊を支援するために従軍し、あるいはイギリス軍のために情報を集めた。夫を逮捕から免れるように隠す女性がいたし、重要な書類や金を当局に取られないよう隠す女性もいた。これらの行動は女性達の政治的活動で自主性に関する問題を投げかけた。つまりその行動は妻としての忠誠なのか、あるいは政治的に独立した選択なのかということであった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
役人は反逆罪を定義する規則に使う言葉を変えることにより、王党派女性の自発的行動の可能性を徐々に認めていった。初めに使われていた言葉は「男」であったが、「人」に置き換えられ、「彼」は「彼または彼女」に置き換えられた。[[1779年]]のマサチューセッツの反逆罪に関する規則では、反逆者の資産没収をうたっていたが、伝統的な定義に従って、その妻の私有財産権は保護されていた。不在の男に関する規則は罰則が厳しくなり、女性が夫の資産の中で自分の財産権の保護を求めるならば、自分自身で政治的関与をしなければならないとした。これらの規則では、女性が夫に従って逃げ出す場合には、その財産も没収の対象とするとしていた。この留まる妻と立ち去る妻との間の識別で、マサチューセッツの規則は家族の分割と妻の独立した政治的決断を促した。戦争が終わって逃亡王党派の寡婦が自身の財産権を主張したので、結婚した女性が何に対して忠実であるかという問題が生じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 先住民の女性、愛国者および王党派 ==&lt;br /&gt;
[[アメリカ州の先住民族]]にとって、独立戦争は愛国主義でも独立でもなかった。[[七年戦争]]の結果として多くの土地が[[フランス]]からイギリスに渡ったが、西部辺境の土地は実際には先住民族のものであった。北アメリカの「開拓されていない」部分の「所有権」は、闘争によって決着がつけられる感があった。イギリスの西方に対する利権はヨーロッパでは認められていたものの、先住民は蚕食する開拓者やイギリス軍の大部隊の存在に直面することになった。アメリカ独立戦争が近くなると、イギリスの戦略は海岸に近い[[ニューヨーク]]や[[ボストン]]を支配することになったので、兵士達の多くがそこに移動し、西部辺境は白人の開拓者と先住民との絶え間ない紛争が急増していった。これに加えて[[1763年]]までに飢饉や伝染病が先住民社会に広く広がる問題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカ先住民の多くは、ヨーロッパの紛争に巻き込まれても何の得にもならないので中立を望んでいたが、実際にはどちらかの側に付くことを強制された。独立戦争中、愛国者民兵によって先住民の集落が襲われることがあったが、特定の種族がどちらの側に付いているかなどにはお構いなしのこともあった。白人にとって先住民はすべて同じように見えた。先住民の大多数がイギリス側についた。先住民にとって愛国者側が勝てばそれは西方への進出を意味し、彼らの土地を蚕食されることを意味した。一方そこには住んでいないイギリスであればよりましと考えていた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
先住民の女性にとって戦争の最も基本的な影響は、家、家庭、農耕生活の破壊であった。一般に先住民の女性は農耕に対する責任があり、戦争による収穫物や家産の破壊は特に大きな打撃であった。女性達は同族の繋がりを保ち裁定する者であり、家庭内の領域では大きな支配力があった。戦時には白人の開拓者やヨーローッパの交易業者と先住民との交易も難しくなった。とりわけ異なる種族間の交易は打撃であった。女性達はその社会での交易者でもあったので生活を維持して行く上での困難さが増していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
白人との接触は、戦争に絡む変化とアメリカの戦後政策の結果として伝統的な家庭内領域にあった女性の地位を変化させたと主張する歴史家もいる。独立戦争の後の指導要綱は先住民の「文明化」であり、ほとんどすべての先住民社会が女性による農耕を行っていたという事実にも拘わらず、狩猟社会から農耕社会への転換が主唱された。しかし、アメリカ合衆国の政策立案者は女性が主な農耕従事者であるならば、先住民社会において農耕が主要部分とはなっていないと信じていた。アメリカ合衆国政府は先住民の女性達に紡績や機織りを行わせ、男達に農耕を行わせるよう奨励した。性の役割を変えることは先住民の文化に悪影響を与える大きな社会問題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イロコイ族の女性達 ===&lt;br /&gt;
独立戦争は[[イロコイ連邦|イロコイ族]]にとっては特に大きな問題となった。イロコイ連邦の諸種族は当初アメリカ独立戦争に対し中立であろうと努めた。イロコイ族は他の多くの先住民と同じく、紛争には何の利点も見いだしていなかった。むしろ先の七年戦争に参加したことによって、逆境に陥ってもいた。しかし、ウィリアム・ジョンソン卿の説得によって、幾つかの種族がイギリス側に荷担することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この同盟の結果、大陸軍の[[ジョン・サリバン]]将軍の遠征隊によって、今日のニューヨーク州北部の約40の村が焼かれ完全に破壊され、多くのイロコイ族住人が追放された。この結果、先住民女性達が育てていた数百エーカーの土地の作物と果樹が失われ、その後に続く飢餓で多くのイロコイ族が殺された。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
=== チェロキー族の女性達 ===&lt;br /&gt;
七年戦争では、[[チェロキー]]族はイギリス軍とともにフランスと戦い、アメリカ独立戦争では大陸軍に対して戦うことに決めた。これは土地に飢えた愛国者開拓民の蚕食を防ぐためという理由が大きかった。独立戦争中はチェロキー族が特に大きな被害を受け多くの男達が殺されたために、多くの寡婦ができてしまった。戦争終結後チェロキー族の女性の数は男性の数の10倍にもなったという試算もある。この両性の数の違いは戦士の位置付けを上昇させチェロキー族社会の両性の役割と力関係を変えたという歴史家もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チェロキー族は多くの意味でアメリカ先住民の経験した途方もない例であるが、最も変化し積極的に「文明化」を取り入れた集団でもある。多くのチェロキー族男女が完全に白人社会に融け込んだ。しかし、1830年に制定されたアメリカ・インディアン移住法によって、「涙の道」を辿って移住を強制され、現在は[[オクラホマ州]]に住んでいる。新政府の同化政策に強く抵抗したチェロキー族もいた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
結局、チェロキー族のように強制移住させられた先住民は独立戦争中にアメリカ愛国者側についたといっても結果は変わらなかった。愛国者側についた者も、イギリスについた者も、また中立であった者も一様に強化された居住地制限を課されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カトーバ族の女性達 ===&lt;br /&gt;
アメリカ独立戦争の前、[[カトーバ族]]とヨーロッパ系移住者の間の関係は用心しながら敵対的なものであり、どちらも開戦に興味を抱かなかった。土地の所有問題での緊張が紛争を生んだ。開拓者達が私有地と信じ土地の周りに柵を張り巡らせる一方で、カトーバ族は何者も土地の所有権を主張できないものと信じて柵を倒してしまった。カトーバ族の男達は「ゲーム」を求めて辺りをうろつき回り、開拓者達は狩人を侵略者と見なして狩りの宿営地を壊した。開拓者達は新しい農耕法ももたらし、カトーバ族の生活様式を変えた。どの社会も農耕に深く依存していたようにカトーバ族もその存続の道を農耕の追求に変えていった。この変化は男達が狩りをする傍らで農耕に励んでいた女性達に特に影響した。他の部族のようにカトーバ族は伝統的な生活様式を維持できなかった。生き残るためには開拓者との共存の道を探らねばならなかった。カトーバ族の女性が作った生活用品を開拓者達と取引し、伝統工芸が益の出る事業に変わった。[[1772年]]頃にはカトーバ族の女性達が工芸品を持って開拓者達の家に売り歩いた。&lt;br /&gt;
       &lt;br /&gt;
カトーバ族が開拓者達との関係を改善する最良の道はアメリカ独立戦争に参加することだった。その居住地の位置から見て選択肢はあまりなかった。南部先住民の監督者ジョン・スチュアートは[[1775年]]に「彼らは[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ]]と[[サウスカロライナ州|サウスカロライナ]]の開拓地に散らばって住んでいる」と記録した。[[1775年]]7月、2人のカトーバ族が[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]を訪れ、王党派と植民地人の争いについて多くを学んでいった。植民地人の安全委員会は植民地の不満を説明する文書を携えた代表団を派遣し、カトーバ族が南部カロライナと友好を保つこと、交易を続け働いてくれたカトーバ族には賃金を支払うことを伝え、カトーバ族が協力を拒めば何が起こるかを警告した。それに続く8年以上の間、カトーバ族は愛国者側で戦い、愛国者側に対する忠誠を示しもした。イギリス軍は先住民を家から追い出し、村や作物を破壊した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
独立戦争中カトーバ族の戦士は南部の多くの戦いで大陸軍について戦った。家に残っていたカトーバ族は愛国者達に食料を供給した。カトーバ族においても伝統的に女性と子供達が農業に携わる役目であったので、戦時に愛国者側に供給する責任が女性達に重く課せられた。カトーバ族の中にはその隣人、他の種族に非公式の外交大使となったものもいた。その一人がサリー・ニュー・リバーという女性で、同族の人からもまた土地の白人からも敬意をもって迎えられた。訪問者が予告無しに到着した時、リバーは準備ができていると請け合った。リバーは家長がカトーバ族の土地を初めて賃貸した白人であるスプラット家との付き合いが長かった。彼女の死後50年経っても、土地の白人達は「老いたるサリーおばさん」と言って懐かしんだ。&lt;br /&gt;
    &lt;br /&gt;
しかし全体的に見て、カトーバ族の戦争における役割は「むしろ無視できる」程度のものだった。戦争に参加した者の数も少なく、この種族が戦闘の勝敗を決するようなことはなかった。カトーバ族の貢献の意味はその活動的で目に見える支持であった。愛国者側との同盟は急速に変化する環境への適応を容易にした。[[1782年]]に州政府は夏を乗り切るためのトウモロコシ500ブッシェル (1760 リットル)を送り、軍隊に協力した者に給与を支払い、供給した物資に対する補償を行った。しかし、カトーバ族に対する開拓者達の一時的な親密感は将来を保証するものではなかった。先住民は[[キリスト教]]に対する無関心を続け、カトーバ族の中から選ばれた者を[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]で教育し彼らが村に帰って改宗しあるいは他のものを改宗させることを期待していた開拓者達をいらつかせた。この努力は失敗したが、先住民の劣等性について一般の感情をかき立てる役割は果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カトーバ族と開拓者達の間の関係は、カトーバ族が愛国者側で戦うと決断したにも拘わらず、長い間改善されなかった。独立戦争の後で、以前先住民から土地を借りていたものが所有者になることを要求した。[[1830年代]]には、サウスカロライナ議会が土地の売却について交渉団を派遣した。続く圧力と合衆国政府の移住政策により、[[1840年]]の春、ネーション・フォード条約の調印ということになった。この条約では、カトーバ族は144,000エーカー (576 平方km)の土地をサウスカロライナに譲渡することになった。この同意によってカトーバ族の国家は絶えた。サウスカロライナ州知事デイビッド・ジョンソンは[[1847年]]にカトーバ族について「国家として、彼らは事実上解体された」と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アフリカ系アメリカ人の女性、愛国者及び王党派 ==&lt;br /&gt;
アメリカ独立戦争の自由と平等という美辞麗句の影に隠れて、間もなく合衆国となる国で最も虐げられた集団は同時期の学者達にも忘れられる存在だった。[[アフリカ系アメリカ人]]の女性達は、その大多数は奴隷であり、戦中に重要な役割を果たしたものの、その始まりに期待した程には得るものが少なかった者達である。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[1770年代]]、アフリカ系アメリカ人の大多数は北部でも南部でも奴隷であった。戦争への緊張が高まった時に、イギリスは奴隷が植民地の弱点であることに気付いた。実際にアメリカ独立戦争の前後の20年間というものは、奴隷社会の動揺が最も大きかった。[[1775年]]1月、[[英国議会|イギリスの議会]]はすべてのイギリス領土における一般の開放が提案され、「バージニアや南部植民地の謙虚な貴族階級の精神」を政治的に操作しようとした。（イギリス議会及びウェストミンスター・ホールにおける[[エドマンド・バーク]]の演説）植民地の奴隷達はその要求に対するイギリスの開放性を認めた。[[1774年]]2人の奴隷が、イギリス軍の総司令官でマサチューセッツ総督の[[トマス・ゲイジ]]に、戦争で戦う替わりに自由を請願した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
奴隷制度は南部社会の根幹であり、イギリスはその解体が南部の抵抗を弱めるものと考えた。[[1775年]]4月、[[バージニア植民地]]知事のダンモア卿はバージニア議会が反抗を企んでいると疑い、植民地の火薬庫を押収した。このことが武器を取った暴動に繋がった。ダンモア卿はバージニアの海岸から軍艦で逃げる際にダンモアの宣言を発した。この宣言は戒厳令を発し、「すべての契約に基づく召使い、黒人その他の者は自分の意志で武器を取ることができる」として解放を提案していた。1775年のイギリス議会提案と同様に、ダンモアの宣言はバージニアの奴隷保有者を怖がらせ奴隷達を勇気づける意図があった。特に黒人男性は主人を捨て、平等の理念に基づく反乱を起こさないように意図された。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
ダンモアの宣言に反応した奴隷の3分の1は女性であった。植民地時代に逃亡者の約8分の1は女性だった。逃亡を試みた女性の比率が小さかったのは、彼女たちが奴隷家族をつなぎ止める役目を果たしていたからであった。大部分の女性は家族、特に子供を残して逃げることはなく、もし大集団で走れば捕まる可能性を急激に増すものだったので、単に逃亡しない選択をしていただけだった。もし奴隷の女性が所有者のもとを離れるとすれば、売られてしまった家族と再会するためであることが多かった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
ダンモア卿の宿営地に殺到した男達の中には実際に戦闘に参加する者もいた。ダンモアは元奴隷の中から約500名の「エチオピア連隊」を作り、彼らの前の主人との戦いに加わらせた。しばしば彼らの妻達も従軍させ、宿営地の料理人、洗濯女、看護婦をやらせた。ダンモアの主宿営地にいた独身女性も同じような仕事に就いた。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[1776年]]6月、[[ヘンリー・クリントン]]将軍が、主人のもとから逃れイギリス軍宿営地に駆け込んだ奴隷は「この戦線の内側での安全と適当と考える職業を保証する」約束を宣言した。イギリスの奴隷に関する宣言と同様に、クリントンの宣言は自己中心的で二律背反的であり、戦後の自由を得るために大陸軍に加わったアフリカ系アメリカ人の存在によって警告を発せられた。しかし南部の奴隷所有者達は、クリントンのフィリスバーグ宣言を彼らの財産と人生に対する攻撃であり、無政府状態を生むものと見なした。この宣言は反イギリス感情を喚起し、南部愛国者を励ます声を強くすることになった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
フィリスバーグ宣言後にクリントン将軍のもとに加わった奴隷達の多くは家族ごと家を離れたものであった。クリントンはこれらの黒人を登録して、平和と秩序を脅かすとも見られる主のない多くの男達を管理しようとした。この登録作業の中でクリントンは、王党派のシンパから逃げ出した奴隷をすべて元に帰らせた。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
留まることを許された奴隷の中で、労働の仕分けは性別で分けられた。男は通常、砲兵部隊や工兵部隊で、大工、車輪修理工、鍛冶、木こり、道具の修理人、馬車や台座の作成と修理を行う者などとして雇われた。男も女もマスケット銃の薬包を作ったり、飢えた兵士のために食肉処理したり保存したりした。南部の黒人女性と子供達は辺りの地形を良く知っていたので、間違えやすく湿地の多い地域では道案内を務めた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
イギリス軍はこれらの奴隷達を戦利品と見ていた。士官達は奴隷を自分のものにし、多くの元奴隷が個人的な召使いとして仕えた。イギリス政府はこれに対する異議を唱え、彼らは王室の財産であり、公的な作業計画での労働、あるいは一般的な形で農耕に従事させるべきであるとした。大部隊のイギリス軍は常に食料の補給を必要とし、船で運ぶのは高くついたので、農耕労働は是非とも必要なものであった。これらの奴隷達は奉仕の見返りとして解放を約束された。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
南部における多くの奴隷所有者は逃亡や戦争による奴隷の殺害を防ぐために、その奴隷達を匿うようになった。彼らは実戦とは遠く離れた地域、通常はフロリダや西部辺境域の所有地に送られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリス軍と同様に、アメリカ政府も黒人達を軍隊の潜在的な戦力と認識していた。しかし、ジョージ・ワシントン将軍は当初、人種問題に基づく反論のために、また管理できなくなるくらい多くの黒人が徴兵されることを恐れて、解放と引き替えに奴隷達を戦争に駆り立てることを逡巡していた。それゆえに、戦争の開始とともに自由黒人、人口でみればほんの数パーセントが従軍することを許された。しかし、[[1777年]]から[[1778年]]にかけての[[バレーフォージ]]の冬、ワシントンは戦力の不足を感じて、あらゆる黒人男性の入隊を認めた。さらに黒人奴隷はその主人のもとで、あるいは監督下で従軍できるものとした。イギリス軍にいたドイツ人傭兵の士官は1777年に「黒人が沢山いない連隊はみあたらない」としている。大陸軍には、ダンモアのエチオピア連隊と同じく、すべて黒人からなる大隊が2個あった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
南部の愛国者にとって、黒人奴隷の女性は必要なものであった。彼女たちは、[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]や[[サバンナ (ジョージア州)|サバンナ]]などあちこちの町や都市の包囲戦で防壁を作ったり修理したりする大量の労働力であった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
戦争の終わった直後の期間はアフリカ系アメリカ人にとって多くの期待と優柔不断が続いた時期であった。新国家はその理想に則って奴隷制度を廃止するものと予測する者が多かった。しかし、奴隷制度は事実上新憲法にも組み入れられた。奴隷制度が通常見られず特に利益にも繋がらなかった北部諸州ですら、段階的奴隷制度廃止に多くの年月と法廷闘争を要することになった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
法廷闘争の有名な例は西部マサチューセッツで育った奴隷のマム・ベット事件である。[[1781年]]にマム・ベットは所有者のもとを離れ弁護士セオドル・セジウィックの支援により、裁判所に請願した。その内容は奴隷制度が「人間は生まれながらに自由で平等である」とうたった新しいマサチューセッツ憲法前文に相容れないものであるということであった。州裁判所は2年後に判決を下し、奴隷制度はマサチューセッツ州では違法であると宣言した。マム・ベットはもはや奴隷ではなくなったので、エリザベス・フリーマンを名乗った。同様に[[1782年]]、ベリンダという名の奴隷女性が、その解放のためではなく、奴隷として仕えた50年間に対する補償を求めてマサチューセッツ議会に請願を行った。しかし、すべての州がマサチューセッツの先例に素早く反応したわけではなく、[[1810年]]でも北部諸州にまだ27,000名の奴隷が存在した。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
終戦後、[[17世紀]]の大陸移民ほど多くはないにしても、多くの黒人が北部の都市に移動した。この移動は大部分が女性であった。独立戦争前の北部の都市人口は男性が圧倒的多数であった。[[1806年]]までにニューヨーク市の女性人口は男性に対して4対3にまでなった。この不均衡の拡大は海洋産業が独立戦争後の最大の黒人男性雇用者となったことで、多くの若い黒人男性が一時に数年間海に出て行ったことによっていた。北部の農村地帯にいるアフリカ系アメリカ人はまだ男性の方が多かった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
北部の都市に住んだ黒人の多くはサービス産業に雇われた。料理や配達、馬小屋の掃除、散髪や御者などであった。この都市黒人社会では家庭生活が崩壊した。多くの家族は独立戦争の間に、その混乱の中であるいは奴隷に戻って、家族の一員を失っていた。多くの雇用者は黒人の家族を丸抱えすることは拒み、家庭内の女性あるいは男性の労働者のみを雇うことを好んだ。一緒に住むことを選んだ家庭は下宿人をとって収入を補うか、他の黒人家族と同居して、独立戦争後の伝統に囚われない黒人家庭の生活様式を作っていった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
南部では奴隷制度がより揺るぎないものになり、西部にも広がるにつれて、崩壊する家庭が増えた。例えばチェサピーク地域では、農耕と経済の態様が戦後に変わった。現金を生む作物としての煙草は労働集約的であったので、これを嫌って他の作物に転換する農場主が多かった。奴隷による農業が拡張していた低地南部や西部に多くの奴隷が売られて行った。売られない奴隷であっても技能を持った男達は賃貸されて家族からは切り離された。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
戦後、多くの王党派が合衆国を離れ、ノバスコシアやイギリス領[[バミューダ諸島]]に移住した。彼らは奴隷も帯同したが、奴隷にされたアフリカ系アメリカ人は解放を経験することもなく、偏見が減るでもなく、また自由黒人は多くの試練を味わうことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立戦争の美辞麗句は多くの変化を約束したが、アフリカ系アメリカ人、特にその女性にとっては約束はほとんど果たされなかった。多くの女性の位置付けは、いいようには変わらなかった。南部では家庭生活が不安定なものになり、北部では奴隷制度が徐々に廃止されたが、経済的な機会や家族の安定は都市部でゆっくりと失われていった。黒人女性は愛国者側にも王党派側にも大きく貢献したが、その進む方向は予想外のものになっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ独立戦争における女性達 '''アメリカ独立戦争における女性達''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=アメリカ独立戦争における女性達&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ独立戦争|あめりかとくりつせんそうにおけるしよせいたち]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1776-1865)|あめりかとくりつせんそうにおけるしよせいたち]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A5%B3%E6%80%A7%E9%81%94&amp;diff=5352</id>
		<title>アメリカ独立戦争における女性達</title>
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				<updated>2007-05-29T03:22:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=アメリカ独立戦争における女性達&amp;amp;oldid=12758729&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''アメリカ独立戦争における女性達'''（アメリカどくりつせんそうにおけるじょせいたち、英:Women in the American Revolution）では、[[アメリカ独立戦争]]中とその前後で、様々な立場に置かれた女性達がどのように行動し、またその立場がどう変わっていったかについて述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立戦争の頃、政治と戦争に参加するのは男性に限られていた。しかし、女性がいなければ政治も戦争も動かなかったことも事実である。積極的に戦争の遂行に協力した女性の中には歴史に名を留めた者もいる。8年間にも及ぶ戦争とその前後の激動の時代を生き抜くためには多くの試練に耐え、また生活様式を変えていくことを女性達に強要した。新生したアメリカ合衆国の中で、女性の姿がすこしづつ社会の表に現れ始めた時代とも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アングロサクソン系のアメリカ人で愛国者の女性 ==&lt;br /&gt;
[[アメリカ独立戦争]]は、戦うのは自分達だと考えていた男達によって遂行されたものと認識されている。しかし、この戦争は広く伝えられた主義信条がなければ続けられなかったのと同様に、アメリカ植民地中の男性と女性両方の住人によって物質的に支えられなければ遂行できなかった。公の政治の場面には女性が登場しないが、女性が戦争に直面し、戦争が政治や公衆・家庭内の生活のあらゆる面で浸透してくるに連れて、通常の家庭の振る舞いが政治的に重要な意味合いを持つようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女性が自発的に愛国者であったかどうかという質問を戦争は投げかけるが、政治的な同一性を維持しつつ、植民地の女性達が態度で表してみせた。伝統的な女性の職業による支援がこのことをよく表した。戦場で起こったことは既に家庭でも、国内の経済でも、また夫や父親の実業の世界で受け入れられていたことだった。女性達は[[イギリス]]製品のボイコットに参加し、兵士のための物資を生産し、[[イギリス軍]]の情報収集活動をやり、軍隊と行動を共にして兵士達のために洗濯や料理を行い、極秘の伝令となり、時には男性に扮して戦場で戦った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国内の支援 ===&lt;br /&gt;
独立戦争の当時、女性は家庭内の諸事を遣り繰りする責任があった。このことに関連して女性はホームスパン運動で働いた（ホームスパンは手織りの布）。輸入されたイギリス製の衣服を着たり購入する代わりに、愛国者の女性達は長く伝統のある機織りや紡績をやって自分達の衣類を家族の衣類に作り替えた。独立戦争の前の数年間における事態の推移により、この行動は政治的な意味合いを与えられた。糸を紡ぎ機を織られた「アメリカ製の」衣類は反抗の中の一機構となり、消費についても同じような行動となった。[[1769年]]、クリストファー・ギャスデンは植民地の女性達に直接呼びかけた「この危機に及んで我々の政治が動いていくかは、緊縮財政に係っており、それをなすためには女性達が主となって礼節とともに遣り繰りしていくかに掛かっている。（サウスカロライナの農園主、機械工、不動産の自由保有権者に。イギリス製品の輸入を閉ざせ。1769年[[6月22日]]）。イギリス製織物のボイコットに加えてホームスパン運動は[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]が必要とする衣類や毛布を生産することで貢献した。男性の製造業者はそのような製品と交換に徴兵を免れていたが、同じことをやる女性にはそのような代償も無かった。紡績、機織り、縫製は植民地の女性達の一部の仕事になった。愛国者としてその技能を使い独立戦争に荷担したことになった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
国内経済が沈滞する中で、主婦はその購買力を使って愛国者側の製造者を支援した。女性はイギリス製品を家庭用に購入することを拒絶した。例えば紅茶のボイコットは自分やその家庭が愛国者の立場に立っていることを表明する比較的やさしい方法であった。[[1773年]]の[[ボストン茶会事件]]はボイコットの表れとして最も広く認識されているが、この爆発的な行動の何年も前に愛国者の女性達が政治的声明としてまさにそのイギリス製品の消費を拒んでいたことは重要である。同様なボイコットは様々なイギリス製品に広がり、女性達は購入する代わりにアメリカ製品を作り出す道を選んだ。この「非消費ボイコット」が国家的政策によっていた（作ったのは男性）としても、女性はその支配する家庭の中で実行に移したのである。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
女性達は経済活動にも積極的に関わった。[[1778年]]、一団の女性が、コーヒーを貯蔵しているという商人の噂に接してその倉庫に乗り込んだ。女性達はは倉庫を開放し、コーヒーを取り出して「没収」した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
独立戦争中、アメリカ製品を買うことは愛国者であるという姿勢を見せることであった。加えて倹約（独立戦争前は賞賛される女性の美徳）は政治声明となり、家事の切り盛りで戦時体制に貢献するよう求められた。しかし、戦時体制を維持するための女性達に対する要求は家庭内経済による貢献を超えるものになった。女性達はその家屋そのものを公衆の益のために差し出すことを求められ、共和制が形を取るにつれて大陸軍の兵士や役人の宿舎にも提供された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女性達は[[フィラデルフィア]]婦人協会のような組織を通じても愛国者側に貢献した。この組織は戦時体制に貢献する女性の能力を組織として活用したものである。フィラデルフィアの女性達は資金を集めて戦費の助けとした。これは[[マーサ・ワシントン]]が受け取って、その夫[[ジョージ・ワシントン]]将軍に渡された。他の植民地でもこの例に倣い、エスター・デバート・リード（ペンシルバニア知事の妻）やサラ・フランクリン・バッチ（[[ベンジャミン・フランクリン]]の娘）が起案者となった。[[1780年]]、戦争も半ばの頃、植民地から上がった女性組織によって集められた資金は34万ドル以上にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 愛国者の女性と前線 ===&lt;br /&gt;
多くの愛国者女性は自分の家で植民地軍を支える活動を行ったが、戦争の最前線にいて厳しい現実に直面した女性もいた。戦闘が家産に近づくにつれて、それを守ろうと奮闘する女性達は暴力の脅威に直面することになった。敵の軍隊による陵辱は常に可能性があり、一人で家を守る女性には恐怖の根源であった。イギリス軍の略奪者から守るために武器と度胸を備えなければならない女性もいた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
周りに男性がいない家に留まることを拒む女性がいれば、夫の留守中に経済的にやっていけない女性もいた。このような女性達は大陸軍に付いていき、将兵達の洗濯女、料理人、看護婦、裁縫師、性の相手、清掃人などをこなし、時には兵士あるいはスパイとなった。軍隊についていく女性達は、指揮官達によって「必要な厄介者」とか「お荷物」と呼ばれた。それでもこれらの女性達は軍宿営地の運営を円滑にする役割を果たした。売春婦もいたが、性病の蔓延を恐れた軍の指導者にとっては迷惑な存在であった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
上級士官の妻（例えばマーサ・ワシントン）がしばしば宿営地を訪れた。宿営地にいる貧乏な女性達とは異なり、これら富裕層の女性が宿営地を訪れることの価値は実用というよりも象徴的なことであった。彼女たちがいるだけで、すべてのものが戦争になんらかの犠牲を捧げているという宣言になった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
大陸軍についていく女性達の数は資料によって異なり、2万人というものもあり、少なく見積もっても宿営地全体の3％はいたということである。女性達は様々な理由で軍隊に加わった。飢えや陵辱の恐れ、寂しさ、切迫した貧乏、最後の頼みの綱、夫に付いてきた、などであった。宿営地の女性達は兵士と同じ指揮官に従ったが、あれこれと言うことは許されなかった。激しい戦闘が行われた地域や敵に占領された地域では、安全な地域よりも女性の数が多かった。これは戦闘が行われた地域では大陸軍の保護を求める女性が多かったことによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦争で戦った女性達は、その女性の動機や行動によって賞賛と侮蔑の間で揺れ動く二律背反の感情で迎えられた。男に従って献身的に尽くした女性は賞賛され、徴兵の報奨金欲しさに入ってきたような女性は男達の侮蔑をかった。（前者の例はアンナ・マリア・レーン、マーガレット・コルビンなど、後者の例はアン・ベイリー（偽名サミュエル・ゲイ）である。ベイリーは除隊され、罰金を科され、2週間刑務所に入れられた。またアン・スミスは報奨金のために軍隊に入ろうとしたことで非難された。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デボラ・サンプソン、ハンナ・スネル、サリー・セントクレアは巧妙にその性別を隠した（セントクレアの場合は死ぬまで）。サンプソンは見つかったが名誉の除隊を遂げ、古参兵の年金を数年後に貰えた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
軍隊の機密情報を含む伝言や手紙をペチコートの下に隠して敵の占領地をすり抜け届けた女性もいた。デボラ・チャンピオン、ハリエット・プルーデンス・パターソン・ホールおよび[[アメリカ独立戦争の情報戦略#リディア・ダラー|リディア・ダラー]]がこれにあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政治的活動 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Abigail Adams.jpg|right|thumb|200px|アビゲイル・アダムズ]]&lt;br /&gt;
建国の父達によって信奉された自由と平等そして独立という理念は、女性達の生活を特に改善するものではなかった。女性達は家庭とその周りの領域に属するものとされ、政治や経済の領域では歓迎されなかった。ホィッグの政治理論化の考えでは、男性の独立（土地の所有に基づく）が投票権となったが、女性の場合は夫、息子あるいは父親に依存していたために政治や経済の領域では独り立ちして振る舞うことはできなかった。理想的なホィッグの女性は自分の領域から愛国者達を助け、家庭内の雑用をこなし、独立のために戦う男性の価値観に従って次世代を教育する準備をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大部分の女性は政治的なものを手紙や日記の範囲に留めたがアビゲイル・アダムズ([[ジョン・アダムズ]]の妻）やマーシー・オーティス・ウォーレンのような女性は公衆の面前で政治の世界に入っていった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし独立戦争後は、様々な女性の活動や社会の変革が家庭内の美徳を通じた共和国の改良に向かって動き出した。これらの組織は当初希なものであったが、愛国者の女性達が共和制の母の役目を果たすようになった（子供達に共和制の価値と理想を吹き込んで良き市民となる準備をさせた）。子供達が成長するにつれて、アメリカの母親達は独立した共和制の新しい理想を子供達に教え込むことを任されるようになり、その結果新しいアメリカ的共和制が発展を続けることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アングロサクソン系のアメリカ人で王党派の女性 ==&lt;br /&gt;
イギリス王室に対する政治的忠誠心の危機は、植民地アメリカの女性の社会構造を崩壊させた。男性が国王に対する連帯を表明しようとしていまいと、階級、家庭、友情の絆が解かれ、以前の結びつきから女性を孤立化させた。女性の夫に対する忠誠心はかっては私的なことであったが、イギリスに対する忠誠を表明した夫に対する場合は特に政治的な行動に変わった。これら王党派の女性達は独立戦争の間大変な逆境に直面した。女性達は夫が反逆者という理由で自警団や暴徒によって有罪とされ犠牲にされた。富裕な王党派の妻は特に、反逆者と考えられる男の財産を没収したい革命政府の格好のターゲットになった。自分自身の財産を持っている女性の場合は、没収行動が通常は持参金の部分を除外していたので、愛国者の圧力にも耐えられた。しかし社会的な立場がどうあれ、王党派の女性は政治的少数派の一部であり、それゆえに近所や友人の支援も無くなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの王党派女性達は敵の中で生活するよりもその社会を離れる道を選んだ。一人の女性が突然立ち退くとしても、この選択は家財一切を持たずに出て行くことを意味した。王党派の多くは[[カナダ]]に移動した。そこでは沢山の王党派の仲間がいた。古参兵、家族、寡婦、子供達が[[ノバスコシア]]に殺到した。王党派の中には土地の愛国者政府に安全な通行を願い出て、家財を持ってイギリスの領土に移動する者もいた。このような場合でも愛国者の役人は女性が持って行くものを制限し、移動のために支払う費用を請求した。最悪の事態では、12歳を超える息子の場合に愛国者軍隊への従軍を求められ残して行くしかなかった。&lt;br /&gt;
           &lt;br /&gt;
王党派の女性にとって抵抗が別の選択肢となった。[[1779年]]、3人の女性、マーガレット・イングリス、スザンナ・ロビンソン、メアリー・モリスは[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]市長の子供の誘拐計画を立てた。新しい政府に対する忠誠を誓うことを拒否するように友人を唆す者もいた。イギリス王を積極的に支持する女性達の多くは王党派軍隊を支援するために従軍し、あるいはイギリス軍のために情報を集めた。夫を逮捕から免れるように隠す女性がいたし、重要な書類や金を当局に取られないよう隠す女性もいた。これらの行動は女性達の政治的活動で自主性に関する問題を投げかけた。つまりその行動は妻としての忠誠なのか、あるいは政治的に独立した選択なのかということであった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
役人は反逆罪を定義する規則に使う言葉を変えることにより、王党派女性の自発的行動の可能性を徐々に認めていった。初めに使われていた言葉は「男」であったが、「人」に置き換えられ、「彼」は「彼または彼女」に置き換えられた。[[1779年]]のマサチューセッツの反逆罪に関する規則では、反逆者の資産没収をうたっていたが、伝統的な定義に従って、その妻の私有財産権は保護されていた。不在の男に関する規則は罰則が厳しくなり、女性が夫の資産の中で自分の財産権の保護を求めるならば、自分自身で政治的関与をしなければならないとした。これらの規則では、女性が夫に従って逃げ出す場合には、その財産も没収の対象とするとしていた。この留まる妻と立ち去る妻との間の識別で、マサチューセッツの規則は家族の分割と妻の独立した政治的決断を促した。戦争が終わって逃亡王党派の寡婦が自身の財産権を主張したので、結婚した女性が何に対して忠実であるかという問題が生じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 先住民の女性、愛国者および王党派 ==&lt;br /&gt;
[[アメリカ州の先住民族]]にとって、独立戦争は愛国主義でも独立でもなかった。[[七年戦争]]の結果として多くの土地が[[フランス]]からイギリスに渡ったが、西部辺境の土地は実際には先住民族のものであった。北アメリカの「開拓されていない」部分の「所有権」は、闘争によって決着がつけられる感があった。イギリスの西方に対する利権はヨーロッパでは認められていたものの、先住民は蚕食する開拓者やイギリス軍の大部隊の存在に直面することになった。アメリカ独立戦争が近くなると、イギリスの戦略は海岸に近い[[ニューヨーク]]や[[ボストン]]を支配することになったので、兵士達の多くがそこに移動し、西部辺境は白人の開拓者と先住民との絶え間ない紛争が急増していった。これに加えて[[1763年]]までに飢饉や伝染病が先住民社会に広く広がる問題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカ先住民の多くは、ヨーロッパの紛争に巻き込まれても何の得にもならないので中立を望んでいたが、実際にはどちらかの側に付くことを強制された。独立戦争中、愛国者民兵によって先住民の集落が襲われることがあったが、特定の種族がどちらの側に付いているかなどにはお構いなしのこともあった。白人にとって先住民はすべて同じように見えた。先住民の大多数がイギリス側についた。先住民にとって愛国者側が勝てばそれは西方への進出を意味し、彼らの土地を蚕食されることを意味した。一方そこには住んでいないイギリスであればよりましと考えていた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
先住民の女性にとって戦争の最も基本的な影響は、家、家庭、農耕生活の破壊であった。一般に先住民の女性は農耕に対する責任があり、戦争による収穫物や家産の破壊は特に大きな打撃であった。女性達は同族の繋がりを保ち裁定する者であり、家庭内の領域では大きな支配力があった。戦時には白人の開拓者やヨーローッパの交易業者と先住民との交易も難しくなった。とりわけ異なる種族間の交易は打撃であった。女性達はその社会での交易者でもあったので生活を維持して行く上での困難さが増していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
白人との接触は、戦争に絡む変化とアメリカの戦後政策の結果として伝統的な家庭内領域にあった女性の地位を変化させたと主張する歴史家もいる。独立戦争の後の指導要綱は先住民の「文明化」であり、ほとんどすべての先住民社会が女性による農耕を行っていたという事実にも拘わらず、狩猟社会から農耕社会への転換が主唱された。しかし、アメリカ合衆国の政策立案者は女性が主な農耕従事者であるならば、先住民社会において農耕が主要部分とはなっていないと信じていた。アメリカ合衆国政府は先住民の女性達に紡績や機織りを行わせ、男達に農耕を行わせるよう奨励した。性の役割を変えることは先住民の文化に悪影響を与える大きな社会問題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イロコイ族の女性達 ===&lt;br /&gt;
独立戦争は[[イロコイ連邦|イロコイ族]]にとっては特に大きな問題となった。イロコイ連邦の諸種族は当初アメリカ独立戦争に対し中立であろうと努めた。イロコイ族は他の多くの先住民と同じく、紛争には何の利点も見いだしていなかった。むしろ先の七年戦争に参加したことによって、逆境に陥ってもいた。しかし、ウィリアム・ジョンソン卿の説得によって、幾つかの種族がイギリス側に荷担することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この同盟の結果、大陸軍の[[ジョン・サリバン]]将軍の遠征隊によって、今日のニューヨーク州北部の約40の村が焼かれ完全に破壊され、多くのイロコイ族住人が追放された。この結果、先住民女性達が育てていた数百エーカーの土地の作物と果樹が失われ、その後に続く飢餓で多くのイロコイ族が殺された。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
=== チェロキー族の女性達 ===&lt;br /&gt;
七年戦争では、[[チェロキー]]族はイギリス軍とともにフランスと戦い、アメリカ独立戦争では大陸軍に対して戦うことに決めた。これは土地に飢えた愛国者開拓民の蚕食を防ぐためという理由が大きかった。独立戦争中はチェロキー族が特に大きな被害を受け多くの男達が殺されたために、多くの寡婦ができてしまった。戦争終結後チェロキー族の女性の数は男性の数の10倍にもなったという試算もある。この両性の数の違いは戦士の位置付けを上昇させチェロキー族社会の両性の役割と力関係を変えたという歴史家もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チェロキー族は多くの意味でアメリカ先住民の経験した途方もない例であるが、最も変化し積極的に「文明化」を取り入れた集団でもある。多くのチェロキー族男女が完全に白人社会に融け込んだ。しかし、1830年に制定されたアメリカ・インディアン移住法によって、「涙の道」を辿って移住を強制され、現在は[[オクラホマ州]]に住んでいる。新政府の同化政策に強く抵抗したチェロキー族もいた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
結局、チェロキー族のように強制移住させられた先住民は独立戦争中にアメリカ愛国者側についたといっても結果は変わらなかった。愛国者側についた者も、イギリスについた者も、また中立であった者も一様に強化された居住地制限を課されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カトーバ族の女性達 ===&lt;br /&gt;
アメリカ独立戦争の前、[[カトーバ族]]とヨーロッパ系移住者の間の関係は用心しながら敵対的なものであり、どちらも開戦に興味を抱かなかった。土地の所有問題での緊張が紛争を生んだ。開拓者達が私有地と信じ土地の周りに柵を張り巡らせる一方で、カトーバ族は何者も土地の所有権を主張できないものと信じて柵を倒してしまった。カトーバ族の男達は「ゲーム」を求めて辺りをうろつき回り、開拓者達は狩人を侵略者と見なして狩りの宿営地を壊した。開拓者達は新しい農耕法ももたらし、カトーバ族の生活様式を変えた。どの社会も農耕に深く依存していたようにカトーバ族もその存続の道を農耕の追求に変えていった。この変化は男達が狩りをする傍らで農耕に励んでいた女性達に特に影響した。他の部族のようにカトーバ族は伝統的な生活様式を維持できなかった。生き残るためには開拓者との共存の道を探らねばならなかった。カトーバ族の女性が作った生活用品を開拓者達と取引し、伝統工芸が益の出る事業に変わった。[[1772年]]頃にはカトーバ族の女性達が工芸品を持って開拓者達の家に売り歩いた。&lt;br /&gt;
       &lt;br /&gt;
カトーバ族が開拓者達との関係を改善する最良の道はアメリカ独立戦争に参加することだった。その居住地の位置から見て選択肢はあまりなかった。南部先住民の監督者ジョン・スチュアートは[[1775年]]に「彼らは[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ]]と[[サウスカロライナ州|サウスカロライナ]]の開拓地に散らばって住んでいる」と記録した。[[1775年]]7月、2人のカトーバ族が[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]を訪れ、王党派と植民地人の争いについて多くを学んでいった。植民地人の安全委員会は植民地の不満を説明する文書を携えた代表団を派遣し、カトーバ族が南部カロライナと友好を保つこと、交易を続け働いてくれたカトーバ族には賃金を支払うことを伝え、カトーバ族が協力を拒めば何が起こるかを警告した。それに続く8年以上の間、カトーバ族は愛国者側で戦い、愛国者側に対する忠誠を示しもした。イギリス軍は先住民を家から追い出し、村や作物を破壊した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
独立戦争中カトーバ族の戦士は南部の多くの戦いで大陸軍について戦った。家に残っていたカトーバ族は愛国者達に食料を供給した。カトーバ族においても伝統的に女性と子供達が農業に携わる役目であったので、戦時に愛国者側に供給する責任が女性達に重く課せられた。カトーバ族の中にはその隣人、他の種族に非公式の外交大使となったものもいた。その一人がサリー・ニュー・リバーという女性で、同族の人からもまた土地の白人からも敬意をもって迎えられた。訪問者が予告無しに到着した時、リバーは準備ができていると請け合った。リバーは家長がカトーバ族の土地を初めて賃貸した白人であるスプラット家との付き合いが長かった。彼女の死後50年経っても、土地の白人達は「老いたるサリーおばさん」と言って懐かしんだ。&lt;br /&gt;
    &lt;br /&gt;
しかし全体的に見て、カトーバ族の戦争における役割は「むしろ無視できる」程度のものだった。戦争に参加した者の数も少なく、この種族が戦闘の勝敗を決するようなことはなかった。カトーバ族の貢献の意味はその活動的で目に見える支持であった。愛国者側との同盟は急速に変化する環境への適応を容易にした。[[1782年]]に州政府は夏を乗り切るためのトウモロコシ500ブッシェル (1760 リットル)を送り、軍隊に協力した者に給与を支払い、供給した物資に対する補償を行った。しかし、カトーバ族に対する開拓者達の一時的な親密感は将来を保証するものではなかった。先住民は[[キリスト教]]に対する無関心を続け、カトーバ族の中から選ばれた者を[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]で教育し彼らが村に帰って改宗しあるいは他のものを改宗させることを期待していた開拓者達をいらつかせた。この努力は失敗したが、先住民の劣等性について一般の感情をかき立てる役割は果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カトーバ族と開拓者達の間の関係は、カトーバ族が愛国者側で戦うと決断したにも拘わらず、長い間改善されなかった。独立戦争の後で、以前先住民から土地を借りていたものが所有者になることを要求した。[[1830年代]]には、サウスカロライナ議会が土地の売却について交渉団を派遣した。続く圧力と合衆国政府の移住政策により、[[1840年]]の春、ネーション・フォード条約の調印ということになった。この条約では、カトーバ族は144,000エーカー (576 平方km)の土地をサウスカロライナに譲渡することになった。この同意によってカトーバ族の国家は絶えた。サウスカロライナ州知事デイビッド・ジョンソンは[[1847年]]にカトーバ族について「国家として、彼らは事実上解体された」と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アフリカ系アメリカ人の女性、愛国者及び王党派 ==&lt;br /&gt;
アメリカ独立戦争の自由と平等という美辞麗句の影に隠れて、間もなく合衆国となる国で最も虐げられた集団は同時期の学者達にも忘れられる存在だった。[[アフリカ系アメリカ人]]の女性達は、その大多数は奴隷であり、戦中に重要な役割を果たしたものの、その始まりに期待した程には得るものが少なかった者達である。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[1770年代]]、アフリカ系アメリカ人の大多数は北部でも南部でも奴隷であった。戦争への緊張が高まった時に、イギリスは奴隷が植民地の弱点であることに気付いた。実際にアメリカ独立戦争の前後の20年間というものは、奴隷社会の動揺が最も大きかった。[[1775年]]1月、[[英国議会|イギリスの議会]]はすべてのイギリス領土における一般の開放が提案され、「バージニアや南部植民地の謙虚な貴族階級の精神」を政治的に操作しようとした。（イギリス議会及びウェストミンスター・ホールにおける[[エドマンド・バーク]]の演説）植民地の奴隷達はその要求に対するイギリスの開放性を認めた。[[1774年]]2人の奴隷が、イギリス軍の総司令官でマサチューセッツ総督の[[トマス・ゲイジ]]に、戦争で戦う替わりに自由を請願した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
奴隷制度は南部社会の根幹であり、イギリスはその解体が南部の抵抗を弱めるものと考えた。[[1775年]]4月、[[バージニア植民地]]知事のダンモア卿はバージニア議会が反抗を企んでいると疑い、植民地の火薬庫を押収した。このことが武器を取った暴動に繋がった。ダンモア卿はバージニアの海岸から軍艦で逃げる際にダンモアの宣言を発した。この宣言は戒厳令を発し、「すべての契約に基づく召使い、黒人その他の者は自分の意志で武器を取ることができる」として解放を提案していた。1775年のイギリス議会提案と同様に、ダンモアの宣言はバージニアの奴隷保有者を怖がらせ奴隷達を勇気づける意図があった。特に黒人男性は主人を捨て、平等の理念に基づく反乱を起こさないように意図された。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
ダンモアの宣言に反応した奴隷の3分の1は女性であった。植民地時代に逃亡者の約8分の1は女性だった。逃亡を試みた女性の比率が小さかったのは、彼女たちが奴隷家族をつなぎ止める役目を果たしていたからであった。大部分の女性は家族、特に子供を残して逃げることはなく、もし大集団で走れば捕まる可能性を急激に増すものだったので、単に逃亡しない選択をしていただけだった。もし奴隷の女性が所有者のもとを離れるとすれば、売られてしまった家族と再会するためであることが多かった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
ダンモア卿の宿営地に殺到した男達の中には実際に戦闘に参加する者もいた。ダンモアは元奴隷の中から約500名の「エチオピア連隊」を作り、彼らの前の主人との戦いに加わらせた。しばしば彼らの妻達も従軍させ、宿営地の料理人、洗濯女、看護婦をやらせた。ダンモアの主宿営地にいた独身女性も同じような仕事に就いた。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[1776年]]6月、[[ヘンリー・クリントン]]将軍が、主人のもとから逃れイギリス軍宿営地に駆け込んだ奴隷は「この戦線の内側での安全と適当と考える職業を保証する」約束を宣言した。イギリスの奴隷に関する宣言と同様に、クリントンの宣言は自己中心的で二律背反的であり、戦後の自由を得るために大陸軍に加わったアフリカ系アメリカ人の存在によって警告を発せられた。しかし南部の奴隷所有者達は、クリントンのフィリスバーグ宣言を彼らの財産と人生に対する攻撃であり、無政府状態を生むものと見なした。この宣言は反イギリス感情を喚起し、南部愛国者を励ます声を強くすることになった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
フィリスバーグ宣言後にクリントン将軍のもとに加わった奴隷達の多くは家族ごと家を離れたものであった。クリントンはこれらの黒人を登録して、平和と秩序を脅かすとも見られる主のない多くの男達を管理しようとした。この登録作業の中でクリントンは、王党派のシンパから逃げ出した奴隷をすべて元に帰らせた。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
留まることを許された奴隷の中で、労働の仕分けは性別で分けられた。男は通常、砲兵部隊や工兵部隊で、大工、車輪修理工、鍛冶、木こり、道具の修理人、馬車や台座の作成と修理を行う者などとして雇われた。男も女もマスケット銃の薬包を作ったり、飢えた兵士のために食肉処理したり保存したりした。南部の黒人女性と子供達は辺りの地形を良く知っていたので、間違えやすく湿地の多い地域では道案内を務めた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
イギリス軍はこれらの奴隷達を戦利品と見ていた。士官達は奴隷を自分のものにし、多くの元奴隷が個人的な召使いとして仕えた。イギリス政府はこれに対する異議を唱え、彼らは王室の財産であり、公的な作業計画での労働、あるいは一般的な形で農耕に従事させるべきであるとした。大部隊のイギリス軍は常に食料の補給を必要とし、船で運ぶのは高くついたので、農耕労働は是非とも必要なものであった。これらの奴隷達は奉仕の見返りとして解放を約束された。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
南部における多くの奴隷所有者は逃亡や戦争による奴隷の殺害を防ぐために、その奴隷達を匿うようになった。彼らは実戦とは遠く離れた地域、通常はフロリダや西部辺境域の所有地に送られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリス軍と同様に、アメリカ政府も黒人達を軍隊の潜在的な戦力と認識していた。しかし、ジョージ・ワシントン将軍は当初、人種問題に基づく反論のために、また管理できなくなるくらい多くの黒人が徴兵されることを恐れて、解放と引き替えに奴隷達を戦争に駆り立てることを逡巡していた。それゆえに、戦争の開始とともに自由黒人、人口でみればほんの数パーセントが従軍することを許された。しかし、[[1777年]]から[[1778年]]にかけての[[バレーフォージ]]の冬、ワシントンは戦力の不足を感じて、あらゆる黒人男性の入隊を認めた。さらに黒人奴隷はその主人のもとで、あるいは監督下で従軍できるものとした。イギリス軍にいたドイツ人傭兵の士官は1777年に「黒人が沢山いない連隊はみあたらない」としている。大陸軍には、ダンモアのエチオピア連隊と同じく、すべて黒人からなる大隊が2個あった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
南部の愛国者にとって、黒人奴隷の女性は必要なものであった。彼女たちは、[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]や[[サバンナ (ジョージア州)|サバンナ]]などあちこちの町や都市の包囲戦で防壁を作ったり修理したりする大量の労働力であった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
戦争の終わった直後の期間はアフリカ系アメリカ人にとって多くの期待と優柔不断が続いた時期であった。新国家はその理想に則って奴隷制度を廃止するものと予測する者が多かった。しかし、奴隷制度は事実上新憲法にも組み入れられた。奴隷制度が通常見られず特に利益にも繋がらなかった北部諸州ですら、段階的奴隷制度廃止に多くの年月と法廷闘争を要することになった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
法廷闘争の有名な例は西部マサチューセッツで育った奴隷のマム・ベット事件である。[[1781年]]にマム・ベットは所有者のもとを離れ弁護士セオドル・セジウィックの支援により、裁判所に請願した。その内容は奴隷制度が「人間は生まれながらに自由で平等である」とうたった新しいマサチューセッツ憲法前文に相容れないものであるということであった。州裁判所は2年後に判決を下し、奴隷制度はマサチューセッツ州では違法であると宣言した。マム・ベットはもはや奴隷ではなくなったので、エリザベス・フリーマンを名乗った。同様に[[1782年]]、ベリンダという名の奴隷女性が、その解放のためではなく、奴隷として仕えた50年間に対する補償を求めてマサチューセッツ議会に請願を行った。しかし、すべての州がマサチューセッツの先例に素早く反応したわけではなく、[[1810年]]でも北部諸州にまだ27,000名の奴隷が存在した。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
終戦後、[[17世紀]]の大陸移民ほど多くはないにしても、多くの黒人が北部の都市に移動した。この移動は大部分が女性であった。独立戦争前の北部の都市人口は男性が圧倒的多数であった。[[1806年]]までにニューヨーク市の女性人口は男性に対して4対3にまでなった。この不均衡の拡大は海洋産業が独立戦争後の最大の黒人男性雇用者となったことで、多くの若い黒人男性が一時に数年間海に出て行ったことによっていた。北部の農村地帯にいるアフリカ系アメリカ人はまだ男性の方が多かった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
北部の都市に住んだ黒人の多くはサービス産業に雇われた。料理や配達、馬小屋の掃除、散髪や御者などであった。この都市黒人社会では家庭生活が崩壊した。多くの家族は独立戦争の間に、その混乱の中であるいは奴隷に戻って、家族の一員を失っていた。多くの雇用者は黒人の家族を丸抱えすることは拒み、家庭内の女性あるいは男性の労働者のみを雇うことを好んだ。一緒に住むことを選んだ家庭は下宿人をとって収入を補うか、他の黒人家族と同居して、独立戦争後の伝統に囚われない黒人家庭の生活様式を作っていった。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
南部では奴隷制度がより揺るぎないものになり、西部にも広がるにつれて、崩壊する家庭が増えた。例えばチェサピーク地域では、農耕と経済の態様が戦後に変わった。現金を生む作物としての煙草は労働集約的であったので、これを嫌って他の作物に転換する農場主が多かった。奴隷による農業が拡張していた低地南部や西部に多くの奴隷が売られて行った。売られない奴隷であっても技能を持った男達は賃貸されて家族からは切り離された。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
戦後、多くの王党派が合衆国を離れ、ノバスコシアやイギリス領[[バミューダ諸島]]に移住した。彼らは奴隷も帯同したが、奴隷にされたアフリカ系アメリカ人は解放を経験することもなく、偏見が減るでもなく、また自由黒人は多くの試練を味わうことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立戦争の美辞麗句は多くの変化を約束したが、アフリカ系アメリカ人、特にその女性にとっては約束はほとんど果たされなかった。多くの女性の位置付けは、いいようには変わらなかった。南部では家庭生活が不安定なものになり、北部では奴隷制度が徐々に廃止されたが、経済的な機会や家族の安定は都市部でゆっくりと失われていった。黒人女性は愛国者側にも王党派側にも大きく貢献したが、その進む方向は予想外のものになっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ独立戦争|あめりかとくりつせんそうにおけるしよせいたち]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1776-1865)|あめりかとくりつせんそうにおけるしよせいたち]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Women in the American Revolution]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%AA%9E&amp;diff=5351</id>
		<title>古代朝鮮語</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%AA%9E&amp;diff=5351"/>
				<updated>2007-05-29T03:21:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''古代朝鮮語'''（こだいちょうせんご）とは、[[中期朝鮮語]]以前の[[朝鮮語]]を指す。[[河野六郎]]の定義によれば、[[訓民正音]]創製（1443年）以前の朝鮮語を古代朝鮮語という。韓国では「古代国語」と呼ぶが、これは「中世国語」（10世紀初～16世紀末）以前の朝鮮語、すなわち統一[[新羅]]時代、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]、あるいはそれ以前の朝鮮語を指す。従って、高麗時代の朝鮮語は、河野六郎の区分では古代朝鮮語に属するが、韓国における区分では「中世語（前期中世語）」に属することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三国時代以前の朝鮮語については、資料がほとんど存在しないため、その姿を知ることはできない。また、三国の言語のうち高句麗語と百済語は、歴史書などにおける地名・人名の漢字表記などから、若干の[[形態素]]が抽出できる程度しか判明しておらず、現在のところ言語の全体像を知ることはできない。言語像をある程度知ることができるのは、資料が比較的多く残されている新羅語だけであるが、それでも資料は非常に限定されており、言語の全体像を把握するのはなお困難である。以下、新羅語について記述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 資料と表記 ==&lt;br /&gt;
古代朝鮮語期は[[ハングル]]が作られる以前の時期であるので、その資料は『[[三国史記]]』、『[[三国遺事]]』あるいは『[[日本書紀]]』などの朝鮮や近隣諸国の歴史書に現れる地名や人名、[[吏読]]・[[郷札]]・[[口訣]]など[[漢字]]表記された資料に限られる。朝鮮語が漢字によって暗示的に表示されるため、その語形を厳密に復原するのは容易でない。以下に、いくつかの復原例を示す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三国史記（巻34）の新羅地名「永同郡本吉同郡」の記述から「永」と「吉」が等価であることが分かる。この部分の元の朝鮮語は「*{{lang|ko|길}}」であると推測されるが、「{{lang|ko|길}}」と同音の漢字を当てて表記したものが「吉」であり、形容詞「{{lang|ko|길-}}（長い）」の意の漢字を当てて表記したものが「永」である。このことから、新羅において「長い」の意の形容詞が，現代朝鮮語と同じく「{{lang|ko|길-}}」であったと推測することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郷歌「処容歌」に現れる[[郷札]]表記「遊行如可」は「*{{lang|ko|놀니다가}}」あるいは「*{{lang|ko|노니다가}}」と解釈される。「如可」は[[吏読]]において「{{lang|ko|다가}}」と読まれ、郷歌においても同様だったと推測される。「遊」、「行」はそれぞれ[[中期朝鮮語]]の「{{lang|ko|놀-}}（遊ぶ）」、「{{lang|ko|니-}}（行く）」と関連づけられ、その合成語「{{lang|ko|노니-}}（遊び回る）」であると推測される。ただし、中期朝鮮語では「{{lang|ko|놀-}}（遊ぶ）」の音節末子音（{{lang|ko|ㄹ}}）が脱落するが、古代朝鮮語では脱落していなかった可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 音韻 ==&lt;br /&gt;
=== 子音 ===&lt;br /&gt;
古代朝鮮語には平音と激音の対立があったものと思われる。例えば三国遺事（巻3）「或作異次、或云伊處、形音之別也、譯云厭也（異次と言ったり伊処と言ったりするが方言の違いである。訳せば「厭」である）」の「次、處」は[[清濁|次清]]字であるが、「異次、伊處」は[[中期朝鮮語]]「{{lang|ko|잋-}}（疲れる）」に通じる単語である。その一方で、濃音についてはその存在をはっきり示す資料がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中期朝鮮語にあった語中の摩擦音 {{lang|ko|ㅸ}} {{IPA|β}}、{{lang|ko|ㅿ}} {{IPA|z}}、{{lang|ko|ㅇ}} {{IPA|ɦ}} が古代朝鮮語でいかなる音であったかについては説が分かれるが、それぞれ破裂音 *{{lang|ko|ㅂ}}、*{{lang|ko|ㅅ}}、*{{lang|ko|ㄱ}} に遡るとする説が有力である。また、これと関連して、中期朝鮮語におけるある種の {{lang|ko|ㄹ}} が古代朝鮮語において *{{lang|ko|ㄷ}} に遡ると見られる。例：波珍 *bat@r「海」（中期朝鮮語：bar@r）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 母音 ===&lt;br /&gt;
単母音は中期朝鮮語と同じく7母音体系であったと見られるが、一部に/{{lang|ko|ㅣ}}/に2種類（{{ipa|i}} と {{ipa|ɨ}}）があったとする説がある。/{{lang|ko|ㆍ}}/（アレア）は中期朝鮮語では {{IPA|ʌ}} だったと見られているが、古代朝鮮語では円唇性のより強い {{IPA|ɔ}} だったと推測される。中期朝鮮語における /{{lang|ko|ㅓ}}/ の一部は、古代朝鮮語で /{{lang|ko|ㆍ}}/ に遡るものがあると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文法 ==&lt;br /&gt;
古代朝鮮語の主な語尾としては、以下のようなものが知られている（カッコ内は中期朝鮮語形）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*格語尾&lt;br /&gt;
**主格 ― 伊・是（-i）&lt;br /&gt;
**属格 ― 衣・矣（-@i/-yi）、叱（-s）&lt;br /&gt;
**対格 ― 乙（-r～-r@r/-ryr～-@r/-yr）&lt;br /&gt;
**処格 ― 中、良中（-ai/-ei。[[吏読]]の読みでは「h@i、ah@i」）&lt;br /&gt;
**具格 ― 留（-ro～-@ro/-yro）&lt;br /&gt;
**共格 ― 果（-oa/-goa）&lt;br /&gt;
**呼格 ― 良～也（-a～-ia）、下（-ha）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*副語尾&lt;br /&gt;
**隱（-n～-n@n/-nyn～-@n/-yn）&lt;br /&gt;
**置（-do）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中期朝鮮語では[[体言]]が子音語幹か母音語幹かによって、また[[母音調和]]によって語尾にいくつかの[[異形態]]がありえたが、古代朝鮮語では異形態の存在について明示的でない。例えば、対格の場合、中期朝鮮語の場合のように「-r～-r@r/-ryr～-@r/-yr」といった異形態が古代朝鮮語にもあったと十分に推測しうるが、現実の表記は「乙」1種類のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*用言語尾&lt;br /&gt;
**終止形 ― 如（-da）、古（-go）&lt;br /&gt;
**連体形 ― 尸（-r）、隱（-n）、期&lt;br /&gt;
**接続形 ― 古・遣（-go）、弥（-mie）、良（-a/-e）如可（-daga）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[接尾辞]]&lt;br /&gt;
**尊敬 ― 賜（-si-）&lt;br /&gt;
**謙譲 ― 白（-s@v-）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参照 ==&lt;br /&gt;
*[[郷札]]&lt;br /&gt;
*[[吏読]]&lt;br /&gt;
*[[口訣]]&lt;br /&gt;
*[[中期朝鮮語]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*金芳漢（1983）“韓國語{{lang|ko|의}} 系統”，{{lang|ko|민음사}}&lt;br /&gt;
*{{lang|ko|남풍현}}（2000）“吏讀研究”，{{lang|ko|태학사}}&lt;br /&gt;
*{{lang|ko|박종국}}（1996）“{{lang|ko|한국어 발달사}}”，{{lang|ko|문지사}}&lt;br /&gt;
*李基文（1998）“國語史概説”，{{lang|ko|태학사}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/古代朝鮮語 '''古代朝鮮語''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=古代朝鮮語&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
[[Category:韓国・朝鮮語|こたいちようせんこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%AA%9E&amp;diff=5350</id>
		<title>古代朝鮮語</title>
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				<updated>2007-05-29T03:20:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=古代朝鮮語&amp;amp;oldid=12784358&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''古代朝鮮語'''（こだいちょうせんご）とは、[[中期朝鮮語]]以前の[[朝鮮語]]を指す。[[河野六郎]]の定義によれば、[[訓民正音]]創製（1443年）以前の朝鮮語を古代朝鮮語という。韓国では「古代国語」と呼ぶが、これは「中世国語」（10世紀初～16世紀末）以前の朝鮮語、すなわち統一[[新羅]]時代、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]、あるいはそれ以前の朝鮮語を指す。従って、高麗時代の朝鮮語は、河野六郎の区分では古代朝鮮語に属するが、韓国における区分では「中世語（前期中世語）」に属することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三国時代以前の朝鮮語については、資料がほとんど存在しないため、その姿を知ることはできない。また、三国の言語のうち高句麗語と百済語は、歴史書などにおける地名・人名の漢字表記などから、若干の[[形態素]]が抽出できる程度しか判明しておらず、現在のところ言語の全体像を知ることはできない。言語像をある程度知ることができるのは、資料が比較的多く残されている新羅語だけであるが、それでも資料は非常に限定されており、言語の全体像を把握するのはなお困難である。以下、新羅語について記述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 資料と表記 ==&lt;br /&gt;
古代朝鮮語期は[[ハングル]]が作られる以前の時期であるので、その資料は『[[三国史記]]』、『[[三国遺事]]』あるいは『[[日本書紀]]』などの朝鮮や近隣諸国の歴史書に現れる地名や人名、[[吏読]]・[[郷札]]・[[口訣]]など[[漢字]]表記された資料に限られる。朝鮮語が漢字によって暗示的に表示されるため、その語形を厳密に復原するのは容易でない。以下に、いくつかの復原例を示す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三国史記（巻34）の新羅地名「永同郡本吉同郡」の記述から「永」と「吉」が等価であることが分かる。この部分の元の朝鮮語は「*{{lang|ko|길}}」であると推測されるが、「{{lang|ko|길}}」と同音の漢字を当てて表記したものが「吉」であり、形容詞「{{lang|ko|길-}}（長い）」の意の漢字を当てて表記したものが「永」である。このことから、新羅において「長い」の意の形容詞が，現代朝鮮語と同じく「{{lang|ko|길-}}」であったと推測することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郷歌「処容歌」に現れる[[郷札]]表記「遊行如可」は「*{{lang|ko|놀니다가}}」あるいは「*{{lang|ko|노니다가}}」と解釈される。「如可」は[[吏読]]において「{{lang|ko|다가}}」と読まれ、郷歌においても同様だったと推測される。「遊」、「行」はそれぞれ[[中期朝鮮語]]の「{{lang|ko|놀-}}（遊ぶ）」、「{{lang|ko|니-}}（行く）」と関連づけられ、その合成語「{{lang|ko|노니-}}（遊び回る）」であると推測される。ただし、中期朝鮮語では「{{lang|ko|놀-}}（遊ぶ）」の音節末子音（{{lang|ko|ㄹ}}）が脱落するが、古代朝鮮語では脱落していなかった可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 音韻 ==&lt;br /&gt;
=== 子音 ===&lt;br /&gt;
古代朝鮮語には平音と激音の対立があったものと思われる。例えば三国遺事（巻3）「或作異次、或云伊處、形音之別也、譯云厭也（異次と言ったり伊処と言ったりするが方言の違いである。訳せば「厭」である）」の「次、處」は[[清濁|次清]]字であるが、「異次、伊處」は[[中期朝鮮語]]「{{lang|ko|잋-}}（疲れる）」に通じる単語である。その一方で、濃音についてはその存在をはっきり示す資料がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中期朝鮮語にあった語中の摩擦音 {{lang|ko|ㅸ}} {{IPA|β}}、{{lang|ko|ㅿ}} {{IPA|z}}、{{lang|ko|ㅇ}} {{IPA|ɦ}} が古代朝鮮語でいかなる音であったかについては説が分かれるが、それぞれ破裂音 *{{lang|ko|ㅂ}}、*{{lang|ko|ㅅ}}、*{{lang|ko|ㄱ}} に遡るとする説が有力である。また、これと関連して、中期朝鮮語におけるある種の {{lang|ko|ㄹ}} が古代朝鮮語において *{{lang|ko|ㄷ}} に遡ると見られる。例：波珍 *bat@r「海」（中期朝鮮語：bar@r）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 母音 ===&lt;br /&gt;
単母音は中期朝鮮語と同じく7母音体系であったと見られるが、一部に/{{lang|ko|ㅣ}}/に2種類（{{ipa|i}} と {{ipa|ɨ}}）があったとする説がある。/{{lang|ko|ㆍ}}/（アレア）は中期朝鮮語では {{IPA|ʌ}} だったと見られているが、古代朝鮮語では円唇性のより強い {{IPA|ɔ}} だったと推測される。中期朝鮮語における /{{lang|ko|ㅓ}}/ の一部は、古代朝鮮語で /{{lang|ko|ㆍ}}/ に遡るものがあると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文法 ==&lt;br /&gt;
古代朝鮮語の主な語尾としては、以下のようなものが知られている（カッコ内は中期朝鮮語形）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*格語尾&lt;br /&gt;
**主格 ― 伊・是（-i）&lt;br /&gt;
**属格 ― 衣・矣（-@i/-yi）、叱（-s）&lt;br /&gt;
**対格 ― 乙（-r～-r@r/-ryr～-@r/-yr）&lt;br /&gt;
**処格 ― 中、良中（-ai/-ei。[[吏読]]の読みでは「h@i、ah@i」）&lt;br /&gt;
**具格 ― 留（-ro～-@ro/-yro）&lt;br /&gt;
**共格 ― 果（-oa/-goa）&lt;br /&gt;
**呼格 ― 良～也（-a～-ia）、下（-ha）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*副語尾&lt;br /&gt;
**隱（-n～-n@n/-nyn～-@n/-yn）&lt;br /&gt;
**置（-do）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中期朝鮮語では[[体言]]が子音語幹か母音語幹かによって、また[[母音調和]]によって語尾にいくつかの[[異形態]]がありえたが、古代朝鮮語では異形態の存在について明示的でない。例えば、対格の場合、中期朝鮮語の場合のように「-r～-r@r/-ryr～-@r/-yr」といった異形態が古代朝鮮語にもあったと十分に推測しうるが、現実の表記は「乙」1種類のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*用言語尾&lt;br /&gt;
**終止形 ― 如（-da）、古（-go）&lt;br /&gt;
**連体形 ― 尸（-r）、隱（-n）、期&lt;br /&gt;
**接続形 ― 古・遣（-go）、弥（-mie）、良（-a/-e）如可（-daga）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[接尾辞]]&lt;br /&gt;
**尊敬 ― 賜（-si-）&lt;br /&gt;
**謙譲 ― 白（-s@v-）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参照 ==&lt;br /&gt;
*[[郷札]]&lt;br /&gt;
*[[吏読]]&lt;br /&gt;
*[[口訣]]&lt;br /&gt;
*[[中期朝鮮語]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*金芳漢（1983）“韓國語{{lang|ko|의}} 系統”，{{lang|ko|민음사}}&lt;br /&gt;
*{{lang|ko|남풍현}}（2000）“吏讀研究”，{{lang|ko|태학사}}&lt;br /&gt;
*{{lang|ko|박종국}}（1996）“{{lang|ko|한국어 발달사}}”，{{lang|ko|문지사}}&lt;br /&gt;
*李基文（1998）“國語史概説”，{{lang|ko|태학사}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:韓国・朝鮮語|こたいちようせんこ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Old Korean]]&lt;br /&gt;
[[ko:고대 한국어]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E9%83%A1%E5%BA%81%E8%88%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=5349</id>
		<title>ギルフォード郡庁舎の戦い</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox|&lt;br /&gt;
battle_name=ギルフォード郡庁舎の戦い&lt;br /&gt;
|campaign=&lt;br /&gt;
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|date=[[1781年]][[3月15日]]&lt;br /&gt;
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|casualties2=死者93、傷者413、行方不明26、合計532&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
'''ギルフォード郡庁舎の戦い'''（ギルフォードぐんちょうしゃのたたかい、英:Battle of Guilford Court House）は、[[アメリカ独立戦争]]中の[[1781年]][[3月15日]]に[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ]]の現在の[[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]で、[[ナサニエル・グリーン]]将軍指揮の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]と[[チャールズ・コーンウォリス]]将軍指揮の[[イギリス軍]]の間で戦われた戦闘である。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この戦闘に投入された両軍の戦力はそれ程多くはないが、独立戦争の中でも決定的に重要な戦闘の一つと考えられている。この戦闘の前は、イギリス軍が王党派の助けもあって[[ジョージア州|ジョージア]]と[[サウスカロライナ州|サウスカロライナ]]を抑え、ノースカロライナも掴んでしまいそうに見えていた。この戦闘の結果としてグリーンはサウスカロライナに入り、コーンウォリスは[[バージニア植民地|バージニア]]を侵略する道を選んだ。その結果、グリーンはイギリスが支配していた南部を再度大陸軍の支配下に戻し、コーンウォリスは[[ヨークタウンの戦い]]と降伏に向かっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 背景 ==&lt;br /&gt;
カウペンスの戦いの後、コーンウォリスはグリーンの軍隊を壊滅させることを目標においた。しかし、[[カウペンスの戦い]]で軽装歩兵隊の多くを失い補給が止まっていたので、追跡できるほど融通の利く軍隊を持っていなかった。コーンウォリスはグリーンをダン川に追ったが、グリーンは水で溢れる川を横切りバージニアの安全地帯に逃げてしまった。コーンウォリスはヒルスボロに宿営し、物資を挑発してノースカロライナでも王党派を徴兵しようと試みた。しかし兵士がそろそろみすぼらしくなっていたこともあり、またパイルの虐殺の影響もあって王党派は集まらなかった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
[[1781年]][[3月14日]]ディープ川の分岐点で宿営していたコーンウォリスは、大陸軍のリチャード・バトラー将軍が攻撃に向かってくるという知らせを受けた。バトラーの部隊はノースカロライナの民兵であり、これにバージニアからの援軍が加わっていた。バージニア軍は民兵と州連隊に18ヶ月の若年兵、さらに[[メリーランド州|メリーランド]]の新兵を加え総勢3,000名であった。これらの部隊がグリーンの配下に加わり、9,000から10,000名に膨れ上がっていた。その夜の新たな知らせでは、大陸軍は約12マイル (20 km) 先のギルフォード郡庁舎付近にいるとのことだった。コーンウォリスは手勢が1,900名しかいないにも拘わらず、戦闘を仕掛けることにした。コーンウォリスはハミルトン中佐に輜重隊と100名の歩兵、20名の騎兵を預け、ディープ川を下ったベルズ・ミルに向かわせた。一方グリーンは援軍の到着を受けて、今一度ダン川を渡りコーンウォリスと対戦することにした。翌[[3月15日]]、両軍はギルフォード郡庁舎で会した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦闘 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Battle of Guilford Courthouse 15 March 1781 (DWR).jpg|thumb|350px|right|ギルフォード郡庁舎の戦い　戦場地図]]&lt;br /&gt;
前衛部隊同士がクエーカー教団のニューガーデン集会所近くで遭遇した。ギルフォード郡庁舎からは4マイル (6 km)のところで、[[バナスター・タールトン]]の竜騎兵がライトホース・ハリー・リーのリー竜騎兵隊と交戦した。イギリス軍の第23歩兵連隊が援軍を送ったので、リー隊は撤退しグリーンの本隊に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コーンウォリスは、グリーン隊が庁舎から約1.5マイル (2.5 km)の下り坂に部隊を配置していることがわかった。イギリス軍の前面には農園があり、中の道を挟んで両側に大きく農地が広がり、左手は200ヤード (180 m)ほどの林に仕切られてさらに2つの農園が見えた。右手の農地の向こうは林が数マイル延びていた。最初の農地の向こう側は柵で囲まれた奥行き1マイル (1.6 km)の森であり、その中の道を抜けると庁舎前の広い空地が広がっていた。森の手前の縁に沿って、大陸軍の第1線防御陣が6ポンド大砲を道の両側に据えて防壁となっていた。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
グリーンは防御陣を3列にした。第1列はノースカロライナの民兵であり、その後方の左右両翼にライフル狙撃兵を配して前進するイギリス軍を狙い撃たせるようにした。第2列にはバージニア民兵を置いた。グリーンの正規兵が最終列になった。この列の中央には6ポンド砲2門が据えられた。第3列の最強部隊には、バージニア連隊の他に[[デラウェア州|デラウェア]]歩兵と第1･第5メリーランド連隊が、互いに400ヤード (360 m)の間隔を置き、道の西側に角度を付けて配置された。一見、カウペンスで[[ダニエル・モーガン]]が採用して成功した配置によく似ているが、列と列の間が数百ヤード離れており、互いに支援することはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道路の東側はほとんど開けていたので、コーンウォリスは西側を攻撃することを選び、午後1時半に第1列の大砲の据えてある場所に自軍の大砲の集中砲火を浴びせ、兵士を前進させた。柵の手前150ヤード (135 m)まで来たとき、大陸軍の長射程の銃はイギリス軍のマスケット銃より射程が長かったので一斉射撃が行われた。しかしイギリス兵は前進を続け、マスケット銃の射程まで近づいてから一斉射撃で反撃した。指揮官ウェブスターの命令でさらに前進を続け、第1列まで50歩ほどの所で停止した。この時のことを第23連隊のラム軍曹が、ノースカロライナ民兵は、「武器を見せて柵に寄りかかり...かなり正確に照準を定めていた」と語った。ウェブスターに駆り立てられてイギリス兵は前進を続けた。道の西側にいたノースカロライナ民兵はマスケット銃を発砲すると、取るものも取り合えず振り向いて森の中に逃げ込んだ。イギリス兵は第2列の所まで進んだ。ここで激しい抵抗にあったが、ウェブスターは側面を回りこませて、大陸軍の第3列に向かわせた。森は大変深くて銃剣は使えなかった。イギリス軍は2つの戦列を抜けるためにかなりの損失を被っていた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
第71連隊擲弾兵隊と第2衛兵隊が中央に向かい、第33歩兵連隊と第23連隊からの発砲に続いて左翼に向かった。右翼には第1衛兵隊とドイツ人傭兵隊がリーの部隊に向かった。イギリス軍の大砲とタールトンの軽装竜騎兵隊が道に沿って歩を進めた。中央の第2衛兵隊はサリスベリー道路の左の庁舎の周りの開けた所に出てきていた。イギリス軍は大陸軍歩兵の大部隊を前にして、即座に攻撃を仕掛け、6ポンド砲を捕獲した。続いて大陸軍を森の中に追い込もうとしたが、ワシントン大佐の竜騎兵隊と第1メリーランド連隊に反撃され、捕獲したばかりの大砲を放棄してしまった。イギリス軍の2門の3ポンド砲部隊を指揮していたマクロード中尉が到着し、竜騎兵隊に向かって大砲を撃ち始めた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
多くのイギリス兵が同士討ちで殺される間に、大陸軍も戦列を崩され戦場から撤退した。コーンウォリスは第71連隊と第23連隊に騎兵の一部を付けて大陸軍を追わせたが、深追いは出来なかった。タールトンと残りの竜騎兵は右翼に回ってボーズの隊と合流し、ワシントンとの戦いを終わらせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘中にコーンウォリスは馬を撃たれてしまった。大陸軍のベンジャミン・ウィリアムス大佐は後にその個人的な勇敢さで勲章を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦いの後 ==&lt;br /&gt;
戦闘はわずか90分間で終わった。イギリス軍は戦術的に大陸軍を破ったが、自隊の4分の1以上を失ってしまった。イギリス軍の損害は死者が5名の士官と88名の兵卒、傷者が24名の士官と389名の兵卒だった。他に6名が行方不明となった。ウェブスターは戦闘中に傷つき、2週間後に死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリス軍は数的に勝る敵軍に対しその慣れた粘り強さで敵陣を取って戦術的な勝利となった。この戦闘を古典的な辛勝と見た[[ホイッグ党 (イギリス)|イギリス・ホィッグ党]]の指導者で軍事評論家のチャールズ・ジェイムズ・フォックスは[[プルタルコス|プルターク]]の有名な言葉「こんな戦いをもう一度やったらイギリス軍の破滅だ」と言った。&amp;lt;ref&amp;gt;As noted in the book ''Another Such Victory'', by Thomas E. Baker, Eastern Acorn Press, 1981, ISBN 0-915992-06-x&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コーンウォリスが副官のブロードリック大尉に託してイギリスの[[ジョージ・ジャーメイン]]卿に届けた手紙では、次のように言っている。「我々の観察したところと、最善の方法で勘定してみたところでは、敵は7,000名を超えていたに違いないと思う（グリーンの勘定では4,400に近い）...私は敵の損失を正確には掴めないが、かなりの数量、200ないし300名の死体が戦場に残されていた...傷者の多くは逃亡した...我々の略奪隊が集めた情報では、我々から6マイルないし8マイルの円の中に入る家には敵軍の負傷兵で溢れていた...捕虜はほとんど取らなかった。」&lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
コーンウォリスはイギリス軍については次のように述べている。「この小さな軍隊を構成した士官や兵卒のとった行動や戦いぶりは、私が言葉で表せないぐらい賞賛に値するものだった。戦闘中の粘り強く大胆な行動、困難な状況にも打ち負けない忍耐、それに600マイル以上行軍して幾つかの大河や無数の小川を渡ってきたことによる疲れ、それらの川は世界のどこの国にある大河にも匹敵していただろうし、天候が悪くてもテントや覆いもなく、時には食料も無かった。これらのことは国王と祖国に対する栄誉と関心の熱烈さを十分に証明してみせた。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘の後、イギリス軍は食料や保護具も持たずに広い森の中に散開した。夜の間に車軸を流すような雨が降り出した。傷者のうち50名は日の出前に死んだ。イギリス軍が撤退する大陸軍を追っていれば、大陸軍の輜重車隊に出会ったかもしれない。輜重車隊はサリスベリー道路の西、戦闘前は古い農地であったところに宿営していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グリーンはキャムデンの二の舞を避けるために損傷の少ないうちに部隊を撤退させた。コーンウォリスの軍隊は2000足らずの小さな勢力でグリーンに田舎に連れ出されまた数を減らし、ヒルスボロに戻ることになった。コーンウォリスは王旗を掲げ、住民に対する保護を提案し、その時点では見かけ上ジョージアと2つのカロライナを制覇したように見えた。しかし数週間のうちにコーンウォリスは、その州の中心部を捨てて海岸の[[ウィルミントン (ノースカロライナ州)|ウィルミントン]]に行き、徴兵と部隊の再編成を行なおうとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルミントンでコーンウォリスは重大な問題に直面した。それに対する決断は自身の責任において予想外にも7ヵ月後の戦争の終結に導くことになった。コーンウォリスはカロライナに留まる代わりにバージニアに侵攻する事にした。 その根拠はバージニアまでを抑えなければ、コーンウォリスが制圧してきた南部諸邦はしっかりと保持できないだろうというものであった。この結論は軍の基準に合わないものとして[[ヘンリー・クリントン]]に鋭く批判された。しかもクリントンの命令にも背くものであった。5月にクリントンはコーンウォリスに宛てて書き送った。「貴殿の意図するところの可能性について考えているのだったら、私は貴殿を止める努力をすべきだったろう。前にも言ったようにそのような移動は南部諸邦における我々の利益にとって危険なものになると思われる。」コーンウォリスは3ヶ月の間、近くの農園やプランテーションを略奪し、竜騎兵隊のために何百頭もの馬を確保した。700名の歩兵を騎兵に転換した。この略奪の間に多くの奴隷を解放し、そのうちの12,000名を自隊に加えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
危険は突然違った方向にやってきた。グリーンはコーンウォリスの後を追って海岸に行くよりも、大胆にキャムデンと[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]に向かった。これは敵対者を1年前にいた所まで引っ張っていこうという思惑と、コーンウォリスが残していったロードン卿の部隊を追い出そうという考えによるものだった。グリーンの主な目標であった南部諸邦の回復は、大きな戦闘も無くまた逆襲もなく、その年の終りには成し遂げられた。戦い、撃たれ、また戦う、これがグリーンの言葉であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦闘の再現 ==&lt;br /&gt;
戦場跡は、ギルフォード郡庁舎国立軍事公園として記念されている。&lt;br /&gt;
毎年3月15日頃に戦場跡の近くで当時の服装をした人々が独立戦争当時の戦闘法を再現する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画の中の戦闘 ==&lt;br /&gt;
2000年の映画[[パトリオット (2000年の映画)|パトリオット]]の終幕の戦闘場面はアメリカ独立戦争の2つの戦闘、カウペンスの戦いとギルフォード郡庁舎の戦いからヒントを得ている。大陸軍は2回ともほぼ同じ基本戦術を使った。戦闘の名前と勝った方の軍はカウペンスの戦いから採られた。しかし、戦った戦力と将軍達グリーンとコーンウォリスはギルフォード郡庁舎の戦いから採られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references /&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[アメリカ独立戦争]]&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.nps.gov/guco/ Guilford Courthouse National Military Park website]&lt;br /&gt;
*[http://www.dean.usma.edu/history/web03/staff%20rides%20site/sret%20pages/guilford%20courthouse/pages/GCH-Book.pdf Primary Source Reference Book For the 1781 Guilford Courthouse Campaign]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{1911}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/ギルフォード郡庁舎の戦い '''ギルフォード郡庁舎の戦い''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ギルフォード郡庁舎の戦い&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1776-1865)|きるふおとくんちようしやのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ独立戦争|きるふおとくんちようしやのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ独立戦争の戦闘|きるふおとくんちようしやのたたかい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>81.169.137.209</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E9%83%A1%E5%BA%81%E8%88%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=5348</id>
		<title>ギルフォード郡庁舎の戦い</title>
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				<updated>2007-05-29T03:18:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;81.169.137.209: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ギルフォード郡庁舎の戦い&amp;amp;oldid=12751402&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox|&lt;br /&gt;
battle_name=ギルフォード郡庁舎の戦い&lt;br /&gt;
|campaign=&lt;br /&gt;
|image=&lt;br /&gt;
|caption=&lt;br /&gt;
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|casualties2=死者93、傷者413、行方不明26、合計532&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
'''ギルフォード郡庁舎の戦い'''（ギルフォードぐんちょうしゃのたたかい、英:Battle of Guilford Court House）は、[[アメリカ独立戦争]]中の[[1781年]][[3月15日]]に[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ]]の現在の[[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]で、[[ナサニエル・グリーン]]将軍指揮の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]と[[チャールズ・コーンウォリス]]将軍指揮の[[イギリス軍]]の間で戦われた戦闘である。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この戦闘に投入された両軍の戦力はそれ程多くはないが、独立戦争の中でも決定的に重要な戦闘の一つと考えられている。この戦闘の前は、イギリス軍が王党派の助けもあって[[ジョージア州|ジョージア]]と[[サウスカロライナ州|サウスカロライナ]]を抑え、ノースカロライナも掴んでしまいそうに見えていた。この戦闘の結果としてグリーンはサウスカロライナに入り、コーンウォリスは[[バージニア植民地|バージニア]]を侵略する道を選んだ。その結果、グリーンはイギリスが支配していた南部を再度大陸軍の支配下に戻し、コーンウォリスは[[ヨークタウンの戦い]]と降伏に向かっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 背景 ==&lt;br /&gt;
カウペンスの戦いの後、コーンウォリスはグリーンの軍隊を壊滅させることを目標においた。しかし、[[カウペンスの戦い]]で軽装歩兵隊の多くを失い補給が止まっていたので、追跡できるほど融通の利く軍隊を持っていなかった。コーンウォリスはグリーンをダン川に追ったが、グリーンは水で溢れる川を横切りバージニアの安全地帯に逃げてしまった。コーンウォリスはヒルスボロに宿営し、物資を挑発してノースカロライナでも王党派を徴兵しようと試みた。しかし兵士がそろそろみすぼらしくなっていたこともあり、またパイルの虐殺の影響もあって王党派は集まらなかった。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
[[1781年]][[3月14日]]ディープ川の分岐点で宿営していたコーンウォリスは、大陸軍のリチャード・バトラー将軍が攻撃に向かってくるという知らせを受けた。バトラーの部隊はノースカロライナの民兵であり、これにバージニアからの援軍が加わっていた。バージニア軍は民兵と州連隊に18ヶ月の若年兵、さらに[[メリーランド州|メリーランド]]の新兵を加え総勢3,000名であった。これらの部隊がグリーンの配下に加わり、9,000から10,000名に膨れ上がっていた。その夜の新たな知らせでは、大陸軍は約12マイル (20 km) 先のギルフォード郡庁舎付近にいるとのことだった。コーンウォリスは手勢が1,900名しかいないにも拘わらず、戦闘を仕掛けることにした。コーンウォリスはハミルトン中佐に輜重隊と100名の歩兵、20名の騎兵を預け、ディープ川を下ったベルズ・ミルに向かわせた。一方グリーンは援軍の到着を受けて、今一度ダン川を渡りコーンウォリスと対戦することにした。翌[[3月15日]]、両軍はギルフォード郡庁舎で会した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦闘 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Battle of Guilford Courthouse 15 March 1781 (DWR).jpg|thumb|350px|right|ギルフォード郡庁舎の戦い　戦場地図]]&lt;br /&gt;
前衛部隊同士がクエーカー教団のニューガーデン集会所近くで遭遇した。ギルフォード郡庁舎からは4マイル (6 km)のところで、[[バナスター・タールトン]]の竜騎兵がライトホース・ハリー・リーのリー竜騎兵隊と交戦した。イギリス軍の第23歩兵連隊が援軍を送ったので、リー隊は撤退しグリーンの本隊に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コーンウォリスは、グリーン隊が庁舎から約1.5マイル (2.5 km)の下り坂に部隊を配置していることがわかった。イギリス軍の前面には農園があり、中の道を挟んで両側に大きく農地が広がり、左手は200ヤード (180 m)ほどの林に仕切られてさらに2つの農園が見えた。右手の農地の向こうは林が数マイル延びていた。最初の農地の向こう側は柵で囲まれた奥行き1マイル (1.6 km)の森であり、その中の道を抜けると庁舎前の広い空地が広がっていた。森の手前の縁に沿って、大陸軍の第1線防御陣が6ポンド大砲を道の両側に据えて防壁となっていた。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
グリーンは防御陣を3列にした。第1列はノースカロライナの民兵であり、その後方の左右両翼にライフル狙撃兵を配して前進するイギリス軍を狙い撃たせるようにした。第2列にはバージニア民兵を置いた。グリーンの正規兵が最終列になった。この列の中央には6ポンド砲2門が据えられた。第3列の最強部隊には、バージニア連隊の他に[[デラウェア州|デラウェア]]歩兵と第1･第5メリーランド連隊が、互いに400ヤード (360 m)の間隔を置き、道の西側に角度を付けて配置された。一見、カウペンスで[[ダニエル・モーガン]]が採用して成功した配置によく似ているが、列と列の間が数百ヤード離れており、互いに支援することはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道路の東側はほとんど開けていたので、コーンウォリスは西側を攻撃することを選び、午後1時半に第1列の大砲の据えてある場所に自軍の大砲の集中砲火を浴びせ、兵士を前進させた。柵の手前150ヤード (135 m)まで来たとき、大陸軍の長射程の銃はイギリス軍のマスケット銃より射程が長かったので一斉射撃が行われた。しかしイギリス兵は前進を続け、マスケット銃の射程まで近づいてから一斉射撃で反撃した。指揮官ウェブスターの命令でさらに前進を続け、第1列まで50歩ほどの所で停止した。この時のことを第23連隊のラム軍曹が、ノースカロライナ民兵は、「武器を見せて柵に寄りかかり...かなり正確に照準を定めていた」と語った。ウェブスターに駆り立てられてイギリス兵は前進を続けた。道の西側にいたノースカロライナ民兵はマスケット銃を発砲すると、取るものも取り合えず振り向いて森の中に逃げ込んだ。イギリス兵は第2列の所まで進んだ。ここで激しい抵抗にあったが、ウェブスターは側面を回りこませて、大陸軍の第3列に向かわせた。森は大変深くて銃剣は使えなかった。イギリス軍は2つの戦列を抜けるためにかなりの損失を被っていた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
第71連隊擲弾兵隊と第2衛兵隊が中央に向かい、第33歩兵連隊と第23連隊からの発砲に続いて左翼に向かった。右翼には第1衛兵隊とドイツ人傭兵隊がリーの部隊に向かった。イギリス軍の大砲とタールトンの軽装竜騎兵隊が道に沿って歩を進めた。中央の第2衛兵隊はサリスベリー道路の左の庁舎の周りの開けた所に出てきていた。イギリス軍は大陸軍歩兵の大部隊を前にして、即座に攻撃を仕掛け、6ポンド砲を捕獲した。続いて大陸軍を森の中に追い込もうとしたが、ワシントン大佐の竜騎兵隊と第1メリーランド連隊に反撃され、捕獲したばかりの大砲を放棄してしまった。イギリス軍の2門の3ポンド砲部隊を指揮していたマクロード中尉が到着し、竜騎兵隊に向かって大砲を撃ち始めた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
多くのイギリス兵が同士討ちで殺される間に、大陸軍も戦列を崩され戦場から撤退した。コーンウォリスは第71連隊と第23連隊に騎兵の一部を付けて大陸軍を追わせたが、深追いは出来なかった。タールトンと残りの竜騎兵は右翼に回ってボーズの隊と合流し、ワシントンとの戦いを終わらせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘中にコーンウォリスは馬を撃たれてしまった。大陸軍のベンジャミン・ウィリアムス大佐は後にその個人的な勇敢さで勲章を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦いの後 ==&lt;br /&gt;
戦闘はわずか90分間で終わった。イギリス軍は戦術的に大陸軍を破ったが、自隊の4分の1以上を失ってしまった。イギリス軍の損害は死者が5名の士官と88名の兵卒、傷者が24名の士官と389名の兵卒だった。他に6名が行方不明となった。ウェブスターは戦闘中に傷つき、2週間後に死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリス軍は数的に勝る敵軍に対しその慣れた粘り強さで敵陣を取って戦術的な勝利となった。この戦闘を古典的な辛勝と見た[[ホイッグ党 (イギリス)|イギリス・ホィッグ党]]の指導者で軍事評論家のチャールズ・ジェイムズ・フォックスは[[プルタルコス|プルターク]]の有名な言葉「こんな戦いをもう一度やったらイギリス軍の破滅だ」と言った。&amp;lt;ref&amp;gt;As noted in the book ''Another Such Victory'', by Thomas E. Baker, Eastern Acorn Press, 1981, ISBN 0-915992-06-x&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コーンウォリスが副官のブロードリック大尉に託してイギリスの[[ジョージ・ジャーメイン]]卿に届けた手紙では、次のように言っている。「我々の観察したところと、最善の方法で勘定してみたところでは、敵は7,000名を超えていたに違いないと思う（グリーンの勘定では4,400に近い）...私は敵の損失を正確には掴めないが、かなりの数量、200ないし300名の死体が戦場に残されていた...傷者の多くは逃亡した...我々の略奪隊が集めた情報では、我々から6マイルないし8マイルの円の中に入る家には敵軍の負傷兵で溢れていた...捕虜はほとんど取らなかった。」&lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
コーンウォリスはイギリス軍については次のように述べている。「この小さな軍隊を構成した士官や兵卒のとった行動や戦いぶりは、私が言葉で表せないぐらい賞賛に値するものだった。戦闘中の粘り強く大胆な行動、困難な状況にも打ち負けない忍耐、それに600マイル以上行軍して幾つかの大河や無数の小川を渡ってきたことによる疲れ、それらの川は世界のどこの国にある大河にも匹敵していただろうし、天候が悪くてもテントや覆いもなく、時には食料も無かった。これらのことは国王と祖国に対する栄誉と関心の熱烈さを十分に証明してみせた。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘の後、イギリス軍は食料や保護具も持たずに広い森の中に散開した。夜の間に車軸を流すような雨が降り出した。傷者のうち50名は日の出前に死んだ。イギリス軍が撤退する大陸軍を追っていれば、大陸軍の輜重車隊に出会ったかもしれない。輜重車隊はサリスベリー道路の西、戦闘前は古い農地であったところに宿営していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グリーンはキャムデンの二の舞を避けるために損傷の少ないうちに部隊を撤退させた。コーンウォリスの軍隊は2000足らずの小さな勢力でグリーンに田舎に連れ出されまた数を減らし、ヒルスボロに戻ることになった。コーンウォリスは王旗を掲げ、住民に対する保護を提案し、その時点では見かけ上ジョージアと2つのカロライナを制覇したように見えた。しかし数週間のうちにコーンウォリスは、その州の中心部を捨てて海岸の[[ウィルミントン (ノースカロライナ州)|ウィルミントン]]に行き、徴兵と部隊の再編成を行なおうとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルミントンでコーンウォリスは重大な問題に直面した。それに対する決断は自身の責任において予想外にも7ヵ月後の戦争の終結に導くことになった。コーンウォリスはカロライナに留まる代わりにバージニアに侵攻する事にした。 その根拠はバージニアまでを抑えなければ、コーンウォリスが制圧してきた南部諸邦はしっかりと保持できないだろうというものであった。この結論は軍の基準に合わないものとして[[ヘンリー・クリントン]]に鋭く批判された。しかもクリントンの命令にも背くものであった。5月にクリントンはコーンウォリスに宛てて書き送った。「貴殿の意図するところの可能性について考えているのだったら、私は貴殿を止める努力をすべきだったろう。前にも言ったようにそのような移動は南部諸邦における我々の利益にとって危険なものになると思われる。」コーンウォリスは3ヶ月の間、近くの農園やプランテーションを略奪し、竜騎兵隊のために何百頭もの馬を確保した。700名の歩兵を騎兵に転換した。この略奪の間に多くの奴隷を解放し、そのうちの12,000名を自隊に加えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
危険は突然違った方向にやってきた。グリーンはコーンウォリスの後を追って海岸に行くよりも、大胆にキャムデンと[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]に向かった。これは敵対者を1年前にいた所まで引っ張っていこうという思惑と、コーンウォリスが残していったロードン卿の部隊を追い出そうという考えによるものだった。グリーンの主な目標であった南部諸邦の回復は、大きな戦闘も無くまた逆襲もなく、その年の終りには成し遂げられた。戦い、撃たれ、また戦う、これがグリーンの言葉であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦闘の再現 ==&lt;br /&gt;
戦場跡は、ギルフォード郡庁舎国立軍事公園として記念されている。&lt;br /&gt;
毎年3月15日頃に戦場跡の近くで当時の服装をした人々が独立戦争当時の戦闘法を再現する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画の中の戦闘 ==&lt;br /&gt;
2000年の映画[[パトリオット (2000年の映画)|パトリオット]]の終幕の戦闘場面はアメリカ独立戦争の2つの戦闘、カウペンスの戦いとギルフォード郡庁舎の戦いからヒントを得ている。大陸軍は2回ともほぼ同じ基本戦術を使った。戦闘の名前と勝った方の軍はカウペンスの戦いから採られた。しかし、戦った戦力と将軍達グリーンとコーンウォリスはギルフォード郡庁舎の戦いから採られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references /&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[アメリカ独立戦争]]&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.nps.gov/guco/ Guilford Courthouse National Military Park website]&lt;br /&gt;
*[http://www.dean.usma.edu/history/web03/staff%20rides%20site/sret%20pages/guilford%20courthouse/pages/GCH-Book.pdf Primary Source Reference Book For the 1781 Guilford Courthouse Campaign]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{1911}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1776-1865)|きるふおとくんちようしやのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ独立戦争|きるふおとくんちようしやのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ独立戦争の戦闘|きるふおとくんちようしやのたたかい]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[de:Schlacht von Guilford Court House]]&lt;br /&gt;
[[en:Battle of Guilford Court House]]&lt;br /&gt;
[[no:Slaget ved Guilford Court House]]&lt;/div&gt;</summary>
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