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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-05-17T19:50:53Z</updated>
		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%9F%A5%E7%9A%84%E9%9A%9C%E5%AE%B3&amp;diff=5780</id>
		<title>知的障害</title>
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				<updated>2007-06-03T08:14:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{保護}}&lt;br /&gt;
'''知的障害'''（ちてきしょうがい）とは、一般的には金銭管理、[[識字|読み書き]][[計算]]など、日常生活や[[学校]]生活の上で[[脳|頭脳]]を使う[[知能|知的]]行動に支障があることを指す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''精神遅滞'''（せいしんちたい、英：mental retardation）とほぼ同義語である。[[日本]]では1950年代から学校教育法では、精神薄弱という表現が50年近くそのままに放置されていたため、1994年頃から数年間メディア一般では、精神薄弱を「精神遅滞」という表現に一斉に変更して使用していた時期がある。2000年に法改正があって、「知的障害」に変わったため、精神遅滞は一般には使われなくなった。「精神」の所在が明示できないため、「精神遅滞」ではすべての資質、能力が遅れているのか、という印象を与えるためである。ただし、[[アメリカ合衆国]]などでは、こうした障害は「精神遅滞」と呼ばれているのが常で、この分野の国際学会も、「mental retardation」という表現を用いている。この場合の「mental」は、かならずしも「精神」という意味ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 法律上の定義 ==&lt;br /&gt;
[[法令]]上、一般的な'''知的障害'''の定義は存在しない。[[福祉]]施策の対象者としての知的障害者について定義する法令は存在するが、個々の法令においてその定義はまちまちである。客観的な基準を示さず、支援の必要性の有無・程度をもって知的障害者を定義する法令すら存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
客観的基準を示す法令にあっては、[[発達]]期（おおむね18歳未満）において遅滞が生じること、遅滞が明らかであること、遅滞により適応行動が困難であることの3つを要件とするものが多い。遅滞が明らかか否かの判断に際して「[[標準化]]された[[知能検査]]（田中ビネーやWISCやK-ABCなど）で[[知能指数]]が70ないし75未満（以下）のもの」といった定義がなされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通常、[[事故]]の後遺症や[[痴呆]]といった発達期以後の知能の低下は知的障害としては扱われない。事故の後遺症については通常の医療給付の問題であり、痴呆については[[老人福祉]]の問題と考えられるためである。したがって、法令上の用語としての知的障害は、[[精神医学]]の領域における'''知的発達障害'''に照応することが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== よくある傾向 ==&lt;br /&gt;
* 乳幼児期&lt;br /&gt;
: 同年齢の幼児との交流が上手くいかなかったり、言葉に遅れがあったりする場合が多い。[[染色体異常]]などの病理的原因（後述）の場合は早期に発見されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学齢]]期（6 - 15歳ごろ）&lt;br /&gt;
: 判断力や記憶力などの問題で、普通学級&amp;lt;!-- 通常学級？ --&amp;gt;の授業についていけない場合が多い。複雑なルールの遊びに参加することは困難である。そういったストレスから、各種[[二次障害]]が発生する場合もある。また、後期[[中等教育]]への進学に当たっては、各種の問題がある&amp;lt;sup&amp;gt;※1&amp;lt;/sup&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 成年期（18歳 - ）&lt;br /&gt;
: 一般的な職場への就労はハードルが高いが、本人の能力に合っている環境であれば問題はない。一般的な職場での就労が困難な場合は、障害者の保護者やボランティアなどが開設する通所施設で活動する例が多い。また、日常的でない判断（高額な契約など）が難しく、時に判断を誤ることや、悪意の接触にだまされることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※[[ダウン症]]の青年（女性）が大学（[[国文学]]科）に進学し、卒業した事例もあるので、一概に高等教育に不向きであるとは言えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 呼称の変遷 ==&lt;br /&gt;
以前は、「独:schwachsinn」「英:feeble mindedness」「英:mental deficiency」などの外来語の直訳として「'''精神薄弱'''（せいしんはくじゃく、略称・精薄）」という用語が広く使われており、法律用語にも多用されていたが、「[[精神]]」という言葉は人格も含むうえ、[[精神障害]]と混同されやすいため、関係団体などでは「知的障害」という用語が使われるようになった。平成12年（[[2000年]]）3月からは法律上の表記も、知能面のみに着目した「知的障害」という用語に改められた。なお、この場合の「mental」を「精神」と訳したのは誤訳に近いという人もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、かつては重度知的障害を「白痴（はくち）」、中度知的障害を「痴愚（ちぐ）」、軽度知的障害を「魯鈍・軽愚（ろどん、けいぐ）」と呼称しており、これらの用語は[[法律]]などにも散見されたが、偏見を煽るとして「重度」「中度」「軽度」という用語に改められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
医学的な診断名には「英:mental retardation:MR」の訳として「'''精神遅滞'''（せいしんちたい）」、「'''精神発達遅滞'''（せいしんはったつちたい）」という用語が用いられる。これらは「知的障害」と同じ意味で使われる場合が多い。ただし、厳密な医学的分類では「精神遅滞」・「精神発達遅滞」と「知的障害」を使い分ける場合もある。[[DSM-IV]]や[[アメリカ精神遅滞学会]](AAMR)の定義では、「精神遅滞」は「知的障害」の症状に加えて生活面、すなわち「意思伝達・自己管理・家庭生活・対人技能・地域社会資源の利用・自律性・学習能力・仕事・余暇・健康・安全」のうち、2種類以上の面にも適応問題がある場合をさす。しかし、こういった生活面に適応問題があるかどうかを判断するのは難しく、現実的には知能のみで判断しているので、知的障害と精神遅滞は同義語だと考えても差し支えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、[[教育]]分野や[[行政]]や[[マスコミ]]などでは、「知的障害」や「知的発達障害」や「知的発達遅滞」と呼ばれることが多く、[[医学]]関係では、「精神遅滞」や「精神発達遅滞」と呼ばれることが多い。また、古くからあるくだけた言い方、俗に使われる名称として「知恵遅れ（ちえおくれ）」という言葉もあるが、蔑視的な雰囲気もあるので、これを嫌がる人もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また近年は、困難に直面しているという意味で、[[身体障害者]]なども含めて「'''チャレンジド'''（challenged）」ともいわれる。しかし、この言葉も2ちゃんねる等で蔑称的に使われていることを考えると、また別の言葉に変える必要が出てくるのも時間の問題である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 社会における歴史と現状 ==&lt;br /&gt;
=== 日本国外での歴史 ===&lt;br /&gt;
[[19世紀]]までも、重度の知的障害者がいた事は確実である。しかし、軽度の知的障害者の場合は、あまり支障なく社会生活を送れていたことが多かった。しかし、近代的な[[学校制度]]が普及するにつれて、[[年齢]]基準の[[学年]]編成では、どうしても付いていけない[[児童]]の存在が明らかになってきた。そしてそういった児童生徒には、単純に怠けていたり、学業への興味がなかったりするために成績が悪い生徒と、努力しても成績が悪い生徒の二種類があるということも段々気付かれてきた。[[1905年]]に、フランスの[[アルフレッド・ビネー]]が世界初の[[知能検査]]を公表したが、これ以降、知的障害の児童は、厳密な診断のものさしで区分されることになった。ビネー死後、知能検査はさまざまな心理学者によって改良され、現在では[[知能指数]]を基にして知的障害を判定するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ナチス]]の障害者政策、福祉国家[[スウェーデン]]の[[不妊手術]]発覚など、諸外国でも知的障害者は社会的に抑圧されていたが、[[ピープル・ファースト]]運動などによって自立の機運が高まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本での歴史 ===&lt;br /&gt;
知的障害者福祉は民間から始まった。明治20年代に[[立教女学院]]教頭の職にあった[[石井亮一]]が、孤女学院を開設したことにはじまる。[[濃尾大地震]]の震災孤女を引き取った亮一は、孤女の中に知的障害児がいたことで強い関心を示し、アメリカへの二度にわたる留学を経て、日本初の知的障害者福祉施設[[滝乃川学園]]を開設したのが、日本における知的障害者福祉の先鞭である。亮一は、夫人[[石井筆子|筆子]]とともに知的障害者福祉事業に生涯をささげ、後には[[日本精神薄弱児愛護協会]]を設立し、その活動を広く啓蒙しようと尽力した。戦後、政府による知的障害者福祉への取り組みが実り、現在は国内に3600を数える施設が運営されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重度障害児には[[就学免除]]などが強制的に適用されていたが、[[養護学校]]は[[1979年]]に[[義務教育]]の[[学校]]となり、重度障害児も入学可能となった。また、近年は[[統合教育]]への流れも起きている。21世紀に入り、[[特別支援教育]]の制度の改革が始まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 統計 ====&lt;br /&gt;
[[知的障害者基礎調査]]によると、平成12年の時点で推計459,100人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 公的支援 ===&lt;br /&gt;
知的障害があると認定されると[[療育手帳]]が交付され、各種料金の免除などの特典が与えられる。[[自治体]]によって、「'''愛の手帳'''」や「'''緑の手帳'''」などの名称がある。また、[[障害年金]]や[[特別障害者手当]]などの制度もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知能指数の分布から予測すると、IQ70以下の人は2.27%存在するはずなので、理論的には日本の知的障害者数は284万人になる。しかし、公的に知的障害者とされている人は推計41万人であり、実際に存在するはずの障害者数と比較すると6分の1ないし7分の1であり、著しく少ない。また、上記の41万人のうち84%が療育手帳所持者であるが、軽度・中度の手帳の所持者が55%、重度・最重度の手帳の所持者が45%であり、理論上の出現頻度は障害が軽いほど多いので、それを考慮すると、軽度・中度の手帳所持者は実際の軽度・中度の人数のうちのごく一部であると考えられる。こういった乖離（かいり）の原因としては、特に障害が軽い場合、学校や生活での不便は感じていても、障害認定を受けられる可能性に気付かない場合や、[[世間体]]や[[自尊心]]を保ったり、[[いじめ]]を懸念したりするためにあえて申請しない場合などがあるためであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 知的障害者関連の犯罪 ===&lt;br /&gt;
一部では、知的障害者が加害者や被害者などになる事件がある。また、加害者ではないのに加害者だとみなされたり、被害者・証人であっても[[証言]]に信頼性がないとされたりする場合もある。また行動の犯罪性自体を理解できず教唆されて犯罪に巻き込まれる場合もある。知的障害者にとって、被害者となった場合、告発などの手続は分かりにくく、必要な支援も得難いため実際の被害はかなり多いと思われる。加害者となったり冤罪被害者になった場合も裁判手続が難解で充分な主張がなされない場合が多い。イギリスでは「適切な大人」という名の知的障害者の裁判支援要員が制度化されている。一方、「問題行動」によって被害が発生する場合もあり、「地域社会で十分な受け皿が整っていないにもかかわらず、拙速な[[ノーマライゼーション]]が実践されたため」と見る向きもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元[[議員]][[山本譲司]]は、不正受給問題で[[懲役]]刑を受けた時の体験から[[獄窓記]]という書籍を出版し、[[刑務所]]内の知的障害者の比率が一般社会と比べて異常に高いと指摘している&amp;lt;sup&amp;gt;※1&amp;lt;/sup&amp;gt;。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[野田事件]] :[[千葉県]][[野田市]]で起きた幼女殺害事件に際し近くに住む知的障害を持つ青年（当時）が犯人として逮捕された事件。裁判でも無実を主張したが認められず、「刑期満了」している。供述の変遷や取調べの過程における問題などから[[冤罪]]であると主張されており、この点に関する文献が多数出版されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[甲山事件|甲山&amp;lt;sup&amp;gt;カブトヤマ&amp;lt;/sup&amp;gt;事件]] :[[西宮市]]の知的障害者施設で園生（当時の呼称）の死亡事故が発生。当初は事故として扱われたが[[検察審査会]]の決定により保母（当時の呼称）の女性が「貯水槽に突き落とした」とされ、検察の取り調べ時に園生が「見た」という証言が得られたとして起訴され、裁判で有罪とされた[[冤罪]]事件。第二次再審控訴審で無罪。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[水戸事件]] :[[水戸市]]の段ボール加工業者が、住み込みで働いていた知的障害者を[[虐待]]した事件。同社は障害者雇用の優良企業として評判が高かったが、内部では知的障害者に対して激しい虐待を行なっていたため、大きな社会問題になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※1 しかしながらこれは知的障害者が犯罪へと追い込まれる社会的条件によるものであり、本来知的障害と犯罪は無関係なものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 脱施設化 ===&lt;br /&gt;
[[宮城県]]などを中心として、[[障害者コロニー]]を解体するという脱施設の流れが高まっている（「解体」は[[浅野史郎]]宮城県[[知事]]（当時）の表現）。これには賛否両論があり、「崇高な理念によるものではなく、財政節約が目的である」との声と、「[[ノーマライゼーション]]の実践である」との声がある。&lt;br /&gt;
しかしながらノーマライゼーションとは、いわば「不自由を緩和するよう適度にゲタを履かせる」という概念であり、バリアフリー化と対になる概念である。バリアフリー化を伴わないノーマライゼーションは存在せず、後者の意見は全くの的外れである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 知的障害の分類 ==&lt;br /&gt;
=== 原因による分類 ===&lt;br /&gt;
; 病理的要因 :[[ダウン症候群]]などの[[染色体異常]]・低機能[[自閉症]]などの先天性疾患によるものや、出産時の酸素不足・脳の圧迫などの[[周産期]]の事故や、生後の高熱の後遺症などの、疾患・事故などが原因の知的障害。&amp;lt;br/&amp;gt;[[脳性麻痺]]や[[てんかん]]などの[[脳]]の障害や、[[心臓病]]などの[[内部障害]]を合併している（'''重複障害'''という）場合も多く、身体的にも健康ではないことも多い。[[染色体異常]]が原因の場合は知的障害が中度・重度であることが多く、外見的には特徴的な容貌であることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 生理的要因 :特に知能が低くなる疾患があるわけではないが、たまたま知能指数が低くて障害とみなされる範囲（IQ70または75以下）に入ったというような場合。生理的要因の知的障害がある親からの遺伝や、知的障害がない親から偶然に知能指数が低くなる[[遺伝子]]の組み合わせで生まれたことなどが原因である。合併症はないことが多く、健康状態は良好であることが多い。知的障害者の大部分はこのタイプであり、知的障害は軽度・中度であることが多い。「単純性精神遅滞」などともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 心理的要因 :現代日本ではあまり見られないが、養育者の[[児童虐待|虐待]]や会話の不足など、発育環境が原因で発生する知的障害。[[リハビリ]]によって知能が回復することは可能である。関連用語に「[[情緒障害]]」がある（ただし、自閉症が情緒障害に分類される場合もあるが、現在は自閉症は先天性疾患と考えられているので注意）。また、離島や山岳地帯や船上などの刺激が少ない環境で成育した児童の場合も、IQが低い場合が多い（[[知能指数#生活環境]]参照）。IQテスト自体○や△など抽象的な図柄を見分けるといった文明社会に馴染んだ者にとって有利な問題となっている。従って、都会生活を経験したことのない先住民族などには不利な評価が下されることになる。このことは意図的にアメリカで有色系移民を排除する目的で誤用されたことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 知能による分類 ===&lt;br /&gt;
基本的には、知能指数が100に近い人ほど人数が多い。しかし、知能検査の種類によっては最重度まで正確な存在数比率を出せない場合もあるため、問題となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教育の分野では、軽度の生徒を「教育可能」、中度の生徒を「訓練可能」と分類していた時代もあったが、これは障害が重い人に対して先入観を与え、可能性を奪うものとして今では全く用いられていない。&lt;br /&gt;
; ボーダー（境界域） :[[知能指数]]は70～85程度。知的障害者とは認定されない場合が多いが、認定されないために支援を受けられずに、かえって厳しい状況におかれることもある。&lt;br /&gt;
; 軽度 :知能指数は50～70程度。理論上は知的障害者の約8割がこのカテゴリーに分類されるが、本人・周囲とも障害にはっきりと気付かずに社会生活を営んでいて、障害の自認がない場合も多いため、認定数はこれより少なくなる。生理的要因による障害が多く、健康状態は良好であることが多い。&lt;br /&gt;
; 中度 :知能指数は35～50程度。&lt;br /&gt;
; 重度 :知能指数は20～35程度。大部分に合併症が見られる。&lt;br /&gt;
; 最重度 :知能指数は20以下。大部分に合併症が見られる。寝たきりの場合も多い。しかし運動機能に問題がない場合もあるため、多動などの行為が問題になる場合があり、「動く重心児」という呼び方をされ、施設解体の流れでどうなるかや、ケアの仕方が問題となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大島分類表 ===&lt;br /&gt;
運動能力と知能指数による分類として、大島一良による大島分類が使用されている。下記の表は大島分類の表に障害別の大まかな分布範囲を表記したものであるが、個人差があることに注意されたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:大島分類.PNG]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他の障害との関連 ==&lt;br /&gt;
=== 知的障害と自閉症 ===&lt;br /&gt;
「[[自閉症]]」という障害は、知的障害があるもの（低機能自閉症・カナー症候群）と、知的障害がないもの（高機能自閉症・[[アスペルガー症候群]]）に便宜的に分類されている。&amp;lt;br/&amp;gt;知的障害は、知能面の全体的な障害であり、自閉症の本質であるコミュニケーション障害は、対人関係面のみの障害である。昔から知られている種類の自閉症は低機能自閉症のことであるが、これはコミュニケーション障害などの障害と知的障害が合わさったものである。近年知られてきた種類の自閉症である高機能自閉症は、コミュニケーション障害などの障害のみであり、知的障害はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 知的障害と学習障害 ===&lt;br /&gt;
[[学習障害]]は、読み・書き・計算などの学習面の一部または全部に困難さがあるが、会話能力・判断力などの知能の他の面では障害がない。しかし知的障害は、学習面も含めて、知能面などで全般的に困難さがあるという点が違っている。ただし両者は相容れないものではなく、例えば軽度の知的障害がある人が、学習面で重度の困難があるような場合は、知的障害と学習障害を合併しているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[差別]] - [[ロボトミー]]&lt;br /&gt;
* [[アルジャーノンに花束を]] - [[八日目]]&lt;br /&gt;
* [[ピープル・ファースト]]&lt;br /&gt;
* [[スペシャルオリンピックス]]&lt;br /&gt;
* [[全日本手をつなぐ育成会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n173/n173_034.htm フォーラム'95「精神薄弱」に替わる用語の問題]&lt;br /&gt;
* [http://www.saturn.dti.ne.jp/~teramoto/ ピープルファースト東京]&lt;br /&gt;
* [http://asano.arukikata.li/ 浅野幸恵ネット - 脳と子供の成長について]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|知的障害}}&lt;br /&gt;
[[Category:発達障害|ちてきしょうがい]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別支援教育|ちてきしょうがい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%8A%80%E8%A1%8C&amp;diff=5779</id>
		<title>イスラム銀行</title>
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				<updated>2007-06-03T08:13:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''イスラム銀行'''（いすらむぎんこう（ただし、記事内では'''イスラーム銀行'''と表記する。））は、[[イスラーム]]（[[イスラム教]]）の教義、慣行に基づいて運営される[[銀行]]のこと。イスラーム教徒（[[ムスリム]]）は、[[シャリーア]]（イスラーム法）において[[利子]]を取ることが禁止されているため、基本的に無利子の金融機関として運営される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== イスラーム銀行の前提 ==&lt;br /&gt;
イスラームでは、利子（[[リバー]]と呼ばれる）を取って金銭を貸すことを禁止する[[クルアーン]]（コーラン）の言葉に従って、シャリーアにおいて利子の取得が禁止されている。したがって、理屈の上では[[イスラム共同体|イスラーム共同体]]の間で利子を取る銀行は存在不可能であるため、[[イスラーム圏]]においては、いわゆるイスラーム銀行が各地に存在し、この記事において述べられるような営業を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし注意せねばならないのは、このような業務を行う銀行が誕生したのは近代以降であるという点である。それ以前には、シャリーアにおける利子禁止規定は、[[ヒヤル]]（奸計）と呼ばれる抜け穴によって巧みに回避し、実質的には有利子金融が行われていた。そのため、「イスラーム社会には無利子金融しか存在しない」と簡単に言ってしまうことはできない。（[[リバー]]、[[利子]]、[[ヒヤル]]などについては該当記事参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== イスラーム銀行の概要 ==&lt;br /&gt;
イスラーム文化における経済は、それ自体「イスラーム経済」の名で呼び考察するに足る。ただし特別な経済体制があるという意味ではなく、「[[アッラーフ|アッラー]]の御心にかなう経済」ということである。イスラームの経済価値の根本には、『この世は神が作った世界であるから、世界のすべて（人もモノも金銭も）の所有権は神にある』というムスリムの思想が存在する。無利子の金融の他に、イスラーム経済の特色と言える要素として、喜捨（[[ザカート]]、[[サダカ]]）などがあり、イスラーム銀行はそれらも背景にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史 ===&lt;br /&gt;
シャリーアの規定に則って無利子の金融をおこなう「無利子銀行」が初めて試みられたのは、[[1950年代]]の[[パキスタン]]においてであった。このころパキスタンでは、イスラームの教義を国家運営に適用しようとする動きが強まっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: ''「1950年代末にパキスタンの一地方で、敬虔なイスラーム徒地主たちを中心に無利子の預金を集め、貧困なイスラーム徒農民に農業改善資金を無利子（運営経費を賄うため少額の手数料を徴収）で貸し出す無利子銀行が開設された。この銀行は、無利子で融資を受けたい希望者は数多くいたのに対し、無利子で預金してくれるものは一回だけはお付き合いで預金してくれるだけで、後がつづかなかったことが主因で、やがて運営に行きづまり、崩壊してしまったといわれる」''&amp;lt;ref&amp;gt;片倉もとこ(編)『人々のイスラーム-その学際的研究』〔日本放送出版協会 1987年〕石田進「イスラームの無利子銀行の理論と実際」p.134から&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
続いて登場したイスラームの教えに適う金融機関は、[[エジプト]]に現れた。&lt;br /&gt;
# [[1963年]]：ミトル・ガムス貯蓄銀行開設。&lt;br /&gt;
#: アフマド・エミル＝ナガルという人物が、理想と同胞の便宜を図るために設立した。この銀行は成功したが、その理由としては、借り入れ希望者に、少額の定期預金を義務化したことが挙げられる。これにより預金量が増大し、安定した経営が成立した。&lt;br /&gt;
#: （1～3年返済の比較的短期のローンが中心。この時点での形態では、ムダーラバ方式（後述）に基づいていなかった）&lt;br /&gt;
# [[1972年]]：公的資金を導入し、ナセル社会銀行設立。&lt;br /&gt;
#: 上記貯蓄銀行（のちに合併）で築いた資本と、公的資金を資本金として設立。この公的資金の支出は、アフマド・エミル＝ナガルの考えが、新しい時代の「[[イスラム社会主義|イスラーム社会主義]]」を標榜する大統領[[ガマル・アブデル・ナセル|ナセル]]の考えと合致したことから成立したといわれる（「イスラーム」と「社会主義・共産主義」は、理想社会を構築しようとする思想や弱者救済などの点からも、「似ている」とも言われるが、後者が宗教を禁止しているなどの点で明らかに相反する。ナセルは良い所のみ選んで取り入れ、「プロレタリア独裁・反宗教・私的所有権否認・暴力革命」を否定した「イスラーム社会主義」の実現を図った。ナセルはいわゆる「[[イスラム原理主義|イスラーム原理主義]]」に対しては抑圧的であったことにも留意）。ナセル社会銀行は、発足したとき既にナセル病死（[[1970年]]）の後であり、敬意を込めて彼の名を冠することになった。同行は[[1980年代]]には、預金残高は2億ドルを越え、全国に数十の代理店を有する金融機関に成長した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[1970年代]]以降、西側金融の枠組みで運用される潤沢なオイルマネーを活用して、アル＝バラカ銀行、ドバイ・イスラーム銀行、[[イスラム諸国会議機構|イスラーム諸国会議機構]](OIC)の拠出によるイスラーム開発銀行、ファイサル・イスラーム銀行などが設立され、[[イスラム復興|イスラーム復興]]の潮流に乗って、[[1990年代]]までに、イスラーム圏のみならず世界中に広まった。銀行・金融会社などを含め、無利子を標榜している銀行や投資会社は全世界に200以上あり、総資産は1160億ドル（95年ベース）、年率15～20%で成長している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラーム銀行は、当初は国際金融システムの中で特異な金融機関と見られがちであったが、のちには[[国際通貨基金]]（IMF）が公認する銀行システムのひとつとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 運営 ===&lt;br /&gt;
イスラーム銀行は、[[ウラマー]]（シャリーアの知識を備えた知識人、学者）からなるシャリーア評議会を持ち、評議会の勧告に従って金融活動を行う。実際の運営においては、シャリーア評議会も柔軟な解釈を行っており、ほとんど他の銀行と異ならない業務を行っている銀行もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 業務内容 ===&lt;br /&gt;
イスラームでは、「利子」は否定されるが、「利潤」は認可され、推奨される。ゆえに、イスラーム銀行は、シャリーアの認める範囲内で「利潤」を最大限追求し、現代資本主義の世界に適用することを目指すことを掲げている。また、利益の配分方法は、「銀行と事業家の間では1/3対2/3」「銀行と預金者の間では2/3対1/3」あるいは、アル＝バラカ・トルコ銀行の場合「銀行2割、預金者8割」とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 基本的なサービス ====&lt;br /&gt;
イスラーム銀行は、下にあげるようなシャリーア上の商業・金融契約の制度を援用し、利子を獲得することなく利潤をあげ、一般の預金者を含む出資者に還元する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; ムダーラバ&lt;br /&gt;
: ムダーラバ（mud&amp;amp;#257;raba）は、出資者（ムダーリブ、mud&amp;amp;#257;rib）が、信頼すべき商才や手腕の持ち主と認めた事業家（ダーリブ、d&amp;amp;#257;rib）に[[資本]]を全額出資するパートナーシップ契約のことで、すべてのイスラーム金融の基本となる契約形態で、イスラーム銀行以前から広く行われている。&lt;br /&gt;
: ただし、ムダーラバ契約のみでは、複雑化する西洋型を中心とする現在の経済・金融には対応できない。それに、個人の小口預金者には、このような「ハイリスク・ハイリターン」な契約を結ぶことは不可能である。そこで、銀行の介在する「二重のムダーラバ関係」などが登場することになる。（[[ムダーラバ]]参照）&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; ムラーバハ&lt;br /&gt;
: ムラーバハ（mur&amp;amp;#257;baba）とは、ある[[財]]を、購入した際の[[原価]]よりも高い代金によって転売する形態の売買のことで、購入者が、原価と代金の差額を了解し、差額を転売者の売却益として納得した上で契約が結ばれることを前提とする。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行ではこのシャリーアの制度を利用し、設備・備品を希望する顧客に代わって、それを銀行が購入し、顧客に渡す。このとき、「手数料」を上乗せして分割払いあるいは後払いとする。こうすることによって、銀行は利子ではなく、売却益として顧客から利益を受けることができる。イスラームにおいては利子は否定され、利潤は肯定・推奨されるが、この「手数料」は「利潤」と見なされうる。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; ムシャーラカ&lt;br /&gt;
: ムシャーラカ（mush&amp;amp;#257;raka）は、資本の出資者と[[労働]]を提供する事業家が、共同出資により事業の共同経営を行い、ここで生じた利益を契約時にあらかじめ決められた比率によって、もしくは損失が生じれば出資比率に応じて、それぞれ配分する契約形態のことである。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行においては、銀行と企業・個人の出資者が提供する資金によって共同資本をつくり、出資者全てがその経営に関わることを前提とする制度として運用される。&lt;br /&gt;
: ムシャーラカの特徴は、資金の提供者もまた事業の組織や経営に参画し、事業主も一定の支出をするところにあり、発言権は概ね出資比率に準ずる。ムシャーラカによる共同プロジェクトが軌道にのったとき、主として資金を提供した側は、その出資分を処分してプロジェクトから手を引いても良く、また共同経営を継続しても良い。ムダーラバでは資金提供先の選択が限定的になる傾向があったのに比べ、相手方も一定の出資力があることを前提とするこのムシャーラカでは、その傾向がある程度は緩和されることが期待される。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; イジャーラ&lt;br /&gt;
: イジャーラ（ij&amp;amp;#257;ra）は、[[賃貸借]]契約を意味する[[アラビア語]]。シャリーアにおいては、物件に対する所有権は、その物を所有し最終的に処分する権利（ラカバ（raqaba）、所有権）と、その物を利用しそこから得られる利益を独占する権利（マンファア（manfa'a）、用益権）の2つから成り立つと考えられており、イジャーラ契約とはすなわち所有者である賃貸者から賃借者への用益権の移転である。西欧型経済におけるリースに相当する。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行においては、顧客の求めに応じて銀行が設備等を購入し、顧客に賃貸して使用料を取る[[リース]]として運用される。「売り切り」と「リース」の違いが、ムラーバハとイジャーラの違いと言える。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; イジャーラ・ワ・イクティーナ&amp;lt;!--イクティナー、のほうが正しい？/FeZn--&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 「顧客に賃貸して使用料を取る」まではイジャーラ（リース）と同じであるが、顧客は、銀行に口座を開設して積立てる、いわば「リース購入」である。この積み立ての積算が、購入代金プラス手数料（コミッション）の額となったところで、当該物件の（用益権に加えて）所有権が顧客に移る。この場合も、コミッションは売却益であって利子ではない。&lt;br /&gt;
: この方式の特徴は、ここで開設した口座が当座勘定ではなく投資勘定として開設され、積み立てる間の「投資の配当」が、顧客の収入になる点にある。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; カルド・ハサン&lt;br /&gt;
: カルド（qard）は、借主が貸主の所有物を消費した上で、同種同等の物を貸主に返還する貸借契約のことで、「消費貸借」とも訳される。カルドがシャリーアに照らして合法となるには、返還される物件が、借りた物とまったく同種・同等でなければならず、貸主が貸し出したことによって利得を得てはならない。このような合法と見なされるカルドのことを、カルド・ハサン（qard al-hasan）と言う。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行においては、「人道的」無利子ローンとして活用される。この契約においては、借主はあらかじめ定められた期間内で貸主に返済することになる。むろん、銀行側には利益は全くない。金融機関によっては一定額の「手数料」を徴収するところもある。これは金額に連動したり、期間に随伴したりすることはない。10万でも100万でも、手数料の額は同じということになる。（先述した『利子』の定義「金額」「期間」「定率」を参照。つまり、利子の定義には当てはまらないという理屈になる）&lt;br /&gt;
: しかしこれには異論もある。「『定額の手数料』は『定額の報酬』に通じ、『定額の報酬』は『定率の利子』に通じるため、カルド・ハサンは完全に人道的にゼロ・コミッションでおこなうべき」、と主張する先鋭的な学者もいる。手数料の問題に限らずイスラームの無利子金融の具体的在り方については、ウラマーの間でも統一見解がなく、[[イスラム法学派|法学派]]などによって食い違う見解が併存している場合が多い。&lt;br /&gt;
: [[サウジアラビア]]の例では、（完全な）無利子貸し付けをおこなっている一般商業銀行はない。いずれも定率のサービスチャージ（手数料）を課しており、これも銀行と借り手の“交渉”で決まる（この点がシャリーアで禁じられたリバー、すなわち“定率の利子”とは異なる、との理由）のが一般的であるという。個人や法人から融資の申請があったとき、専門の調査機関が申請者の信用や業績などの調査を行う。また、担保や保証人などのリスク回避の手段を講じた後に、貸付金から手数料などをあらかじめ差し引いた金額を申請者に渡すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 有利子金融との接点 ==&lt;br /&gt;
現代の世界金融市場の主役の一つとなっている[[ヘッジファンド]]や、[[先物取引]]のような金融システムは、イスラームにおいては基本的に認められない。イスラーム銀行の立場としては、実体経済と遊離したデリバティヴ（金融派生商品）は「言語道断」であり、同時に先物取引もクルアーン（胎内にいる子の価値を見越して母ラクダの売買をしてはならないという規定）により禁止されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小国の経済を食い荒らす「マネー」の動きを危険視するのはイスラームに独特のものではなく、非イスラーム圏の研究者の中にも存在する。また、現代において無利子金融を行おうという発想もイスラームに独特のものではない。そもそもが古来より禁止ないし制限が加えられていたわけであるが、それの復活というわけではなく、現代の時代状況下においての脱資本主義的な研究・検討、そして[[地域通貨]]運動などに見られる実践がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、西洋経済の中心たる[[アメリカ合衆国]]の最先端技術の集積地であるシリコンバレーの成長を支える原動力は、イスラーム金融に似ている（[[ベンチャー企業]]記事参照）。というのも、投資家は企業家に出資するとき、「融資」ではなく「株式の購入」という形態を取るため、起業家には「元本保証」や「利潤確保」の義務が生じない。また、投資家が資本分散によって危険を避ける点、担保ではなく人物と経験を評価することによって投資するかどうかを決める点なども、ムダーラバ契約を思い起こさせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主な相違点としては、融資ではなく株式購入であること、投資家は株主であるため会社の運営に対して口出しできることなどが挙げられる。また、詳しい資料はないが、ムダーラバの長距離キャラバン交易の成功率は、少なくとも現代ネットベンチャーの「約20%」という数字よりは大きかったであろうと思われる。このエンジェル←→ベンチャーの関係は、まさにムダーリブ←→ダーリブの関係を思わせ、しかも銀行の扱う二重ムダーラバよりも遥かに、預言者ムハンマドがおこなっていたような「ムダーラバの基本形」に近い、似ている、とすら言えるかもしれない。世界経済をリードする集団と言えるアメリカ、シリコンバレーのベンチャー企業群は、実は「有利子経済」ではなく「無利子経済」の恩恵によって爆発的成長を遂げたものと言うことができるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつてアル＝バラカ・グループは西洋型金融の中心地である[[ロンドン]]の金融街にも進出していたが、ここからは撤退している&amp;lt;!--このあたり経緯の追記が必要--&amp;gt;。ただし逆に西洋系の銀行の中にも、イスラーム圏においてはムスリム向けの無利子金融商品（上述のイスラーム金融の基本に則ったもの）の提供したり、イスラーム銀行を子会社に持つ試みがなされはじめている。また一方、イスラーム金融機関の中でも国・地域によってシャリーアの解釈に偏差が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういった点からも分かるとおり、イスラーム無利子金融と、有利子金融とは、根本的に対立するものではない。また、上述のとおり、名目や立脚点が異なっていようとも、その内実において非常な類似が認められる。この両者の間に根本的な差異が存在すると言う前提は、成り立ち得ず、これらの要素は「イスラーム的(と仮に呼ぶ)」と「西洋的(と仮に呼ぶ)」、二つの極の間でスペクトルを成している、と考えることもできるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 勃興の背景 ==&lt;br /&gt;
利子禁止あるいは制限規定は人類の歴史の中でなにも特異なものではなく、通時的・通文化的に見られるものであり、そして現代日本において自明のものとされる（アメリカ主導の）規制のゆるやかな「自由競争体制」こそが、むしろ特異な状態と言えるのかもしれない。いっぽう現代イスラーム圏の人々は何故無利子経済体制を選んだ（選びつつある）のか。ヨーロッパも、[[中世]]には[[旧約聖書]]から導かれる利子禁止（制限）規定が、表向きなりとは言え社会を覆っていた点においては同様である。それがなぜ、ヨーロッパでは利子つき金融が、それも複利計算のもとに認可されてその後の経済発展の基盤を築いているのに対し、イスラームの諸国では近現代に入って逆に、それまで見過ごされて来た利子つき金銭貸借が、シャリーア（イスラーム法）の厳密な適用によって排除されようとしているのかについての検討が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クルアーンにおいて禁じられている「[[リバー]]」という単語を、「[[利子]]」一般ではなく、特に「高利」のみを指す言葉であると解釈すれば、ヨーロッパ型の金融システムを、躊躇なく導入することが可能となる。にも関わらずその方法を採用しない理由については、研究者によっても見解が分かれる。仮に「リバー」が「利子」すべてを指すとしても、それまで通り[[ヒヤル]]を用いて実質的な有利子金融を実行すれば良いとも言える。ただこれは、単純な金銭貸借契約においてすら、二つの随伴する契約を結ぶことになり、さらに権利関係が複雑になるような金融商品や、保険契約、先物取引などには対応仕切れないという欠点を抱えていることもある。そもそもこうしたイスラーム銀行が、中世においては登場せず、現代に入って登場・発展してきた理由を探ることが、その本質を知る手がかりとなる。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--普通は1970年代からの「イスラーム復興」と結びつけてる気がします--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
# '''「ムスリムだから」'''&lt;br /&gt;
#: もっとも一般的な、あるいは門外漢にも分かりやすい説明としては、「ムスリムであるから、クルアーンにしたがって利子は受け取らない。だから、無利子銀行に預金するのだ」という説明が為される。ただし、例えばムスリムであっても、大っぴらに飲酒することが抵抗なく行われる土地、社会もあるので注意が必要であろう。&lt;br /&gt;
#: 既に述べたように、最初期無利子銀行の失敗例もあるから、ムスリムであるから当然のように彼らは無利子銀行に預金するのだろう、という論理のみでは無利子銀行の成長・拡大を語るには無理があろう。また、それに、かつてヒヤルが認められていたことの説明がつかない。&lt;br /&gt;
#: 無論、「ムスリムだから、無利子」というこの要素は根本的なものであろうし、無利子銀行の誕生以前は金融技術の未発達によってリバーのない銀行が成立しえず、ムスリムたちは仕方なく預金を自分のところにしまい込むか、あるいは有利子の銀行に預けていた、とも言い得るのだが、基本的にはこの理由のみをことさら重視することはできない。&lt;br /&gt;
# '''「植民地化とオスマン帝国の解体」'''&lt;br /&gt;
#: 世界史を俯瞰する視点からは、次のような解釈が導かれる。[[19世紀]]からイスラーム世界の各地で進められてきたヨーロッパ列強による植民地化は、[[20世紀]]において[[オスマン帝国]]の敗北と解体、それによる旧オスマン領[[アラブ諸国]]の植民地化によって頂点に達した。このインパクトが世界のムスリムに大きな影響を与え、それまでとは違う形の「イスラーム世界」の認識が形成され、強大なヨーロッパと改めて直面しなおすことで、ムスリムとしての自覚が再認識された。&lt;br /&gt;
#: また、[[1924年]]のオスマン朝のカリフ制の廃絶は、植民地化の中でもカリフの権威にすがってイスラーム世界の一体を意識しようとしていた[[インド亜大陸]]や[[東南アジア]]のムスリムにも、「正当な」[[ウンマ]]（イスラーム共同体）の消失を明確な形でムスリムに突きつけることになったが、これによってむしろムスリムたちは「イスラームの世界」と自己の立脚点の再認識をおこなうこととなり、それがムスリムに、一つ一つの教義を再確認し、遵守する方向性を持ったと考えられる。&lt;br /&gt;
# '''「アラブの『動かす』文化」'''&lt;br /&gt;
#: また、片倉もとこ『「移動文化」考』のように、文化間の差異に着目しこれを理由の一つとして挙げる著作もある。&lt;br /&gt;
#: 日本にも「流るる水は腐らず」という[[諺]]があるが、中東では古来より、「留まる水は濁る」とでもいうべき、“動かずにあるものは不浄”という思想がある。[[遊牧民]]は水や牧草の都合によってキャンプ地を定期的に移動するが、アラブ遊牧民の場合は、そういった条件が変わらずとも一定の期間が過ぎると移動することがあるという。たとえそれによって水場から遠くなるとしても、である。&lt;br /&gt;
#: 同様に経済についても、動かさない金銭は不浄であるため、富豪は金銭を蓄え込まず、貧しい人に差し出すことによって社会に還流させようとする思想がアラブ社会に存在する。&lt;br /&gt;
#: しかし、ここでの問題はアラブのみに留まらず、東南アジア、そして世界全体のイスラーム銀行に及ぶため、アラブの文化のみで語ることはできない。ただ、現代につながる無利子金融が成立し発展してきたのはまさにアラブの地であり、《移動文化》の担い手らによって無利子銀行が先導されてきたことは事実である。&lt;br /&gt;
# '''「宗教的背景」'''&lt;br /&gt;
#: 上掲の説に似るが、ムスリムであるがゆえに教条を遵守するというのではなく、現状イスラーム諸国で喜捨や断食が真面目に行われ、輸送手段の発達にも助けられて巡礼者が爆発的に増大しているように、3の説よりも広範かつ漠然とした要素と言える。&lt;br /&gt;
#: 慣習による互助的システムを、機能が似ているからといって発端の異なる無利子金融と短絡的に結び付けることには疑問が残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どれかの説が決定的なものというわけではない。ただ、「動かす」ことを文化的背景とするアラブ世界で、ムハンマドのもたらしたイスラームによって、従前よりも強化・明文化された互助システムが慣習として広がって定着し、近代のイスラームの「危機」に対してかえって「ムスリム」としての意識が明確化し、イスラーム圏に導入された近代西欧の金融技術を応用して無利子銀行が作られ、信仰やオイルマネーに支えられて拡大してきた……というように、複合的要因として考えるのが適切であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 中東・東南アジア以外への伝播 ==&lt;br /&gt;
前節まで主として扱って来たのは中東諸国、および最大のムスリム人口を持つ東南アジアのイスラーム無利子金融であった。ここでは諸地域への伝播について扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域別に見ると、[[1980年代]]には既に[[ギニア]]、[[リベリア]]、[[ニジェール]]、[[南アフリカ]]にまでイスラーム金融機関が進出を遂げており、[[1996年]]には[[デンマーク]]、[[ジブチ]]でも登場している。[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]の支配から脱した[[中央アジア]]諸国は依然として空白地帯であり、その地域における市場経済の定着と資本の集積はすぐにはできないため、無利子銀行が開設されるのは先のことだろうが、当のイスラーム国からは中東・東南アジアのイスラーム金融機関に関心と期待が寄せられているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、無利子銀行のムダーラバやムシャーラカといった貸付方式は、経済的インフラの僅少な地域で長期的な視野で経済を立ち上げることに適しているといった指摘もある。実際、スーダンでは8行ものイスラーム銀行が営業し、経済開発に大きく関わっている。これについては上述したような、シリコンバレーの「アイディアと意欲はあるが資本のない起業家」の支援システムとの類似が指摘できよう。仮に事業が失敗しても、借りた者が多重債務を背負い込まないこのシステムは、資本を持たない者が「新しい何事か」を起こすのに適している。発展途上国が多額の債務と利払いに苦しむ現状は、融資が無利子金融の形態であったならば起こらなかったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 将来の展望 ==&lt;br /&gt;
=== ムスリムによる将来展望 ===&lt;br /&gt;
イスラーム圏の大規模な企業組織では、内部に、企業の行動をシャリーアと照らして検討するための諮問委員会を持っている例がある。そういった場での議論では、現時点では無理としても、長い長い時間をかければ、無利子経済が有利子を駆逐していくだろうという楽観的な考えがあり、これは、ムスリムの学者の多くによって共有されている模様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえばムスリムである研究者 Hussein Mullick （パキスタン）は、無利子銀行が資本主義の搾取システムを止め、貯蓄家を資本家に変えてゆき、経済を活性化する点などから「無利子銀行制度が西洋の銀行制度に勝ることはあまりに明らかである」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 非ムスリムによる将来展望 ===&lt;br /&gt;
対して、イスラーム社会の外部から、研究対象として観察する側の意見はそれとは異なる。宗教的情熱のみでは無利子システムの維持は困難であるため、無利子金融機関は、有利子金融の利子と同程度か、それに遜色ない程度の業績をあげる（上回る場合は問題ない）ことが可能ならば、資本主義の有利子企業に伍して資本主義世界で営業を続けて行くことも可能であり、アラブ・イスラーム諸国の資金力に支えられて、西欧型金融が多数を占める中で、小さく頑健な岩礁のように存続していくだろう、という視点で語られる。その根拠としては、パキスタンにおいてすら1950年代には最初の無利子銀行の試みが挫折し、ミトル・ガムス貯蓄銀行においてようやく成功、本当の萌芽は国庫からの資金を入れたナセル社会銀行、そして発展はオイルマネーによってであることが挙げられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アラブ・イスラーム諸国の資金力とは、つまるところ[[石油]]である。石油で潤った富豪たちはイスラーム銀行に多額の無配当預金をしている（彼らがこういった、自らに利益のない行動に出るのは、[[ザカート]]に代表されるイスラーム社会の互助的環境のゆえである）が、これらがなければ、中東の無利子銀行の成長も、遅れたかもしれない。そしてオイルマネーとは、大量の石油を消費する西欧消費文明に由来している。一面では、無利子銀行はオイルマネーによって支えられ、オイルマネーはヨーロッパ・アメリカ社会（日本を含む）によって支えられているという指摘もできるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無利子銀行の恩恵に浴していないムスリムたちは地球上に大勢いるし、西洋にも有利子経済に疑問符を投げかける運動がある。無利子金融は今後、現状よりも拡大してゆく公算が非常に大きいが、このままの成長の先にヨーロッパ型の経済体制を単純に打破する未来像があるとは、考えにくい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ムスリム人口が拡大しつつある中、その需要によってイスラームの無利子銀行は拡大するだろうが、優勢な勢力となり得るとは考え難い。共通点を見た西洋の脱資本主義的運動が力を持つとしても、有利子の需要がある限り、そう簡単に現状世界経済を変えることはできないと言えよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ウンマ (イスラム)]] - [[ザカート]] - [[ムダーラバ]]&lt;br /&gt;
* [[ヒヤル]]&lt;br /&gt;
* [[利子]] - [[リバー]]&lt;br /&gt;
* [[金融]] - [[ヘッジファンド]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 石田進 「イスラーム無利子金融の理論と実際」『人々のイスラーム その学際的研究』 [[片倉もとこ]]編、[[日本放送出版協会]]、1987年&lt;br /&gt;
* 石田進「イスラーム無利子金融の動向」『現状イスラム経済‐中東ビジネスのすすめ‐』 武藤幸治・石田進・田中民之、[[日本貿易振興会]]、1988年&lt;br /&gt;
* 板垣雄三 他 『イスラーム世界がよくわかるQ&amp;amp;A100 人々の暮らし・経済・社会』 亜紀書房、1998年&lt;br /&gt;
* 片倉もとこ 『「移動文化」考 イスラームの世界をたずねて』 [[日本経済新聞社]]、1995年&lt;br /&gt;
* 河邑厚徳・グループ現代 『エンデの遺言「根元からお金を問うこと」』 日本放送出版協会、2000年&lt;br /&gt;
* 木村喜博 『中東イスラム諸国におけるイスラムと現代的思潮』 日本放送出版協会、1996年&lt;br /&gt;
* [[小杉泰]]（監）[[日本放送協会|NHK]]「イスラム」プロジェクトチーム（著） 『イスラム潮流』日本放送出版協会、2000年&lt;br /&gt;
* 小杉泰 『イスラームとは何か』 [[講談社]]、1994年&lt;br /&gt;
* 小林克己 『イスラムの謎と矛盾』 [[産能大学]]出版部、1991年&lt;br /&gt;
* 小馬徹 『贈り物と交換の文化人類学 人間はどこから来てどこへ行くのか』 [[御茶の水書房]] 2000年&lt;br /&gt;
* 私市政年 『イスラム聖者‐奇跡・予言・癒しの世界‐』 &amp;lt;!--手元にないため版元不明--&amp;gt;1996年&lt;br /&gt;
* ナイーマ・モハメド 『アラブ・イスラム世界 文化と政治』アラブ日本文化交流センター、2000年&lt;br /&gt;
* [[宮田律]] 『中東政治構造の分析‐民族・イスラーム政治を考える』 学文社、1996年&lt;br /&gt;
* 『[[日経ビジネス]]』2000年10月9日（通巻1061）号&lt;br /&gt;
* RODANSON, Michel ''Islam and Capitalism'' 1983 （『イスラームと資本主義』 山内永 訳、[[岩波書店]]、1978）&lt;br /&gt;
* MULLICK, Hussein &amp;lt;!--原著題名不明--&amp;gt;『パキスタンにおけるイスラム化経済の出現‐その起源、最近の諸手段、成功の見込み、回教世界に及ぼす影響‐』 [[日本経済調査協議会]]（訳、刊）1982年&lt;br /&gt;
* AHMAD, Khurshid（編）''Studies in Islamic Economies'' The Islamic Foundation （[[イギリス]]）&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|イスラム銀行}}&lt;br /&gt;
[[Category:銀行|いすらむ]]&lt;br /&gt;
[[Category:イスラム教|いすらむきんこう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%8A%80%E8%A1%8C&amp;diff=5778</id>
		<title>イスラム銀行</title>
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				<updated>2007-06-03T08:12:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=イスラム銀行&amp;amp;oldid=12837795&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''イスラム銀行'''（いすらむぎんこう（ただし、記事内では'''イスラーム銀行'''と表記する。））は、[[イスラーム]]（[[イスラム教]]）の教義、慣行に基づいて運営される[[銀行]]のこと。イスラーム教徒（[[ムスリム]]）は、[[シャリーア]]（イスラーム法）において[[利子]]を取ることが禁止されているため、基本的に無利子の金融機関として運営される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== イスラーム銀行の前提 ==&lt;br /&gt;
イスラームでは、利子（[[リバー]]と呼ばれる）を取って金銭を貸すことを禁止する[[クルアーン]]（コーラン）の言葉に従って、シャリーアにおいて利子の取得が禁止されている。したがって、理屈の上では[[イスラム共同体|イスラーム共同体]]の間で利子を取る銀行は存在不可能であるため、[[イスラーム圏]]においては、いわゆるイスラーム銀行が各地に存在し、この記事において述べられるような営業を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし注意せねばならないのは、このような業務を行う銀行が誕生したのは近代以降であるという点である。それ以前には、シャリーアにおける利子禁止規定は、[[ヒヤル]]（奸計）と呼ばれる抜け穴によって巧みに回避し、実質的には有利子金融が行われていた。そのため、「イスラーム社会には無利子金融しか存在しない」と簡単に言ってしまうことはできない。（[[リバー]]、[[利子]]、[[ヒヤル]]などについては該当記事参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== イスラーム銀行の概要 ==&lt;br /&gt;
イスラーム文化における経済は、それ自体「イスラーム経済」の名で呼び考察するに足る。ただし特別な経済体制があるという意味ではなく、「[[アッラーフ|アッラー]]の御心にかなう経済」ということである。イスラームの経済価値の根本には、『この世は神が作った世界であるから、世界のすべて（人もモノも金銭も）の所有権は神にある』というムスリムの思想が存在する。無利子の金融の他に、イスラーム経済の特色と言える要素として、喜捨（[[ザカート]]、[[サダカ]]）などがあり、イスラーム銀行はそれらも背景にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史 ===&lt;br /&gt;
シャリーアの規定に則って無利子の金融をおこなう「無利子銀行」が初めて試みられたのは、[[1950年代]]の[[パキスタン]]においてであった。このころパキスタンでは、イスラームの教義を国家運営に適用しようとする動きが強まっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: ''「1950年代末にパキスタンの一地方で、敬虔なイスラーム徒地主たちを中心に無利子の預金を集め、貧困なイスラーム徒農民に農業改善資金を無利子（運営経費を賄うため少額の手数料を徴収）で貸し出す無利子銀行が開設された。この銀行は、無利子で融資を受けたい希望者は数多くいたのに対し、無利子で預金してくれるものは一回だけはお付き合いで預金してくれるだけで、後がつづかなかったことが主因で、やがて運営に行きづまり、崩壊してしまったといわれる」''&amp;lt;ref&amp;gt;片倉もとこ(編)『人々のイスラーム-その学際的研究』〔日本放送出版協会 1987年〕石田進「イスラームの無利子銀行の理論と実際」p.134から&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
続いて登場したイスラームの教えに適う金融機関は、[[エジプト]]に現れた。&lt;br /&gt;
# [[1963年]]：ミトル・ガムス貯蓄銀行開設。&lt;br /&gt;
#: アフマド・エミル＝ナガルという人物が、理想と同胞の便宜を図るために設立した。この銀行は成功したが、その理由としては、借り入れ希望者に、少額の定期預金を義務化したことが挙げられる。これにより預金量が増大し、安定した経営が成立した。&lt;br /&gt;
#: （1～3年返済の比較的短期のローンが中心。この時点での形態では、ムダーラバ方式（後述）に基づいていなかった）&lt;br /&gt;
# [[1972年]]：公的資金を導入し、ナセル社会銀行設立。&lt;br /&gt;
#: 上記貯蓄銀行（のちに合併）で築いた資本と、公的資金を資本金として設立。この公的資金の支出は、アフマド・エミル＝ナガルの考えが、新しい時代の「[[イスラム社会主義|イスラーム社会主義]]」を標榜する大統領[[ガマル・アブデル・ナセル|ナセル]]の考えと合致したことから成立したといわれる（「イスラーム」と「社会主義・共産主義」は、理想社会を構築しようとする思想や弱者救済などの点からも、「似ている」とも言われるが、後者が宗教を禁止しているなどの点で明らかに相反する。ナセルは良い所のみ選んで取り入れ、「プロレタリア独裁・反宗教・私的所有権否認・暴力革命」を否定した「イスラーム社会主義」の実現を図った。ナセルはいわゆる「[[イスラム原理主義|イスラーム原理主義]]」に対しては抑圧的であったことにも留意）。ナセル社会銀行は、発足したとき既にナセル病死（[[1970年]]）の後であり、敬意を込めて彼の名を冠することになった。同行は[[1980年代]]には、預金残高は2億ドルを越え、全国に数十の代理店を有する金融機関に成長した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[1970年代]]以降、西側金融の枠組みで運用される潤沢なオイルマネーを活用して、アル＝バラカ銀行、ドバイ・イスラーム銀行、[[イスラム諸国会議機構|イスラーム諸国会議機構]](OIC)の拠出によるイスラーム開発銀行、ファイサル・イスラーム銀行などが設立され、[[イスラム復興|イスラーム復興]]の潮流に乗って、[[1990年代]]までに、イスラーム圏のみならず世界中に広まった。銀行・金融会社などを含め、無利子を標榜している銀行や投資会社は全世界に200以上あり、総資産は1160億ドル（95年ベース）、年率15～20%で成長している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラーム銀行は、当初は国際金融システムの中で特異な金融機関と見られがちであったが、のちには[[国際通貨基金]]（IMF）が公認する銀行システムのひとつとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 運営 ===&lt;br /&gt;
イスラーム銀行は、[[ウラマー]]（シャリーアの知識を備えた知識人、学者）からなるシャリーア評議会を持ち、評議会の勧告に従って金融活動を行う。実際の運営においては、シャリーア評議会も柔軟な解釈を行っており、ほとんど他の銀行と異ならない業務を行っている銀行もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 業務内容 ===&lt;br /&gt;
イスラームでは、「利子」は否定されるが、「利潤」は認可され、推奨される。ゆえに、イスラーム銀行は、シャリーアの認める範囲内で「利潤」を最大限追求し、現代資本主義の世界に適用することを目指すことを掲げている。また、利益の配分方法は、「銀行と事業家の間では1/3対2/3」「銀行と預金者の間では2/3対1/3」あるいは、アル＝バラカ・トルコ銀行の場合「銀行2割、預金者8割」とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 基本的なサービス ====&lt;br /&gt;
イスラーム銀行は、下にあげるようなシャリーア上の商業・金融契約の制度を援用し、利子を獲得することなく利潤をあげ、一般の預金者を含む出資者に還元する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; ムダーラバ&lt;br /&gt;
: ムダーラバ（mud&amp;amp;#257;raba）は、出資者（ムダーリブ、mud&amp;amp;#257;rib）が、信頼すべき商才や手腕の持ち主と認めた事業家（ダーリブ、d&amp;amp;#257;rib）に[[資本]]を全額出資するパートナーシップ契約のことで、すべてのイスラーム金融の基本となる契約形態で、イスラーム銀行以前から広く行われている。&lt;br /&gt;
: ただし、ムダーラバ契約のみでは、複雑化する西洋型を中心とする現在の経済・金融には対応できない。それに、個人の小口預金者には、このような「ハイリスク・ハイリターン」な契約を結ぶことは不可能である。そこで、銀行の介在する「二重のムダーラバ関係」などが登場することになる。（[[ムダーラバ]]参照）&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; ムラーバハ&lt;br /&gt;
: ムラーバハ（mur&amp;amp;#257;baba）とは、ある[[財]]を、購入した際の[[原価]]よりも高い代金によって転売する形態の売買のことで、購入者が、原価と代金の差額を了解し、差額を転売者の売却益として納得した上で契約が結ばれることを前提とする。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行ではこのシャリーアの制度を利用し、設備・備品を希望する顧客に代わって、それを銀行が購入し、顧客に渡す。このとき、「手数料」を上乗せして分割払いあるいは後払いとする。こうすることによって、銀行は利子ではなく、売却益として顧客から利益を受けることができる。イスラームにおいては利子は否定され、利潤は肯定・推奨されるが、この「手数料」は「利潤」と見なされうる。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; ムシャーラカ&lt;br /&gt;
: ムシャーラカ（mush&amp;amp;#257;raka）は、資本の出資者と[[労働]]を提供する事業家が、共同出資により事業の共同経営を行い、ここで生じた利益を契約時にあらかじめ決められた比率によって、もしくは損失が生じれば出資比率に応じて、それぞれ配分する契約形態のことである。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行においては、銀行と企業・個人の出資者が提供する資金によって共同資本をつくり、出資者全てがその経営に関わることを前提とする制度として運用される。&lt;br /&gt;
: ムシャーラカの特徴は、資金の提供者もまた事業の組織や経営に参画し、事業主も一定の支出をするところにあり、発言権は概ね出資比率に準ずる。ムシャーラカによる共同プロジェクトが軌道にのったとき、主として資金を提供した側は、その出資分を処分してプロジェクトから手を引いても良く、また共同経営を継続しても良い。ムダーラバでは資金提供先の選択が限定的になる傾向があったのに比べ、相手方も一定の出資力があることを前提とするこのムシャーラカでは、その傾向がある程度は緩和されることが期待される。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; イジャーラ&lt;br /&gt;
: イジャーラ（ij&amp;amp;#257;ra）は、[[賃貸借]]契約を意味する[[アラビア語]]。シャリーアにおいては、物件に対する所有権は、その物を所有し最終的に処分する権利（ラカバ（raqaba）、所有権）と、その物を利用しそこから得られる利益を独占する権利（マンファア（manfa'a）、用益権）の2つから成り立つと考えられており、イジャーラ契約とはすなわち所有者である賃貸者から賃借者への用益権の移転である。西欧型経済におけるリースに相当する。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行においては、顧客の求めに応じて銀行が設備等を購入し、顧客に賃貸して使用料を取る[[リース]]として運用される。「売り切り」と「リース」の違いが、ムラーバハとイジャーラの違いと言える。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; イジャーラ・ワ・イクティーナ&amp;lt;!--イクティナー、のほうが正しい？/FeZn--&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 「顧客に賃貸して使用料を取る」まではイジャーラ（リース）と同じであるが、顧客は、銀行に口座を開設して積立てる、いわば「リース購入」である。この積み立ての積算が、購入代金プラス手数料（コミッション）の額となったところで、当該物件の（用益権に加えて）所有権が顧客に移る。この場合も、コミッションは売却益であって利子ではない。&lt;br /&gt;
: この方式の特徴は、ここで開設した口座が当座勘定ではなく投資勘定として開設され、積み立てる間の「投資の配当」が、顧客の収入になる点にある。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; カルド・ハサン&lt;br /&gt;
: カルド（qard）は、借主が貸主の所有物を消費した上で、同種同等の物を貸主に返還する貸借契約のことで、「消費貸借」とも訳される。カルドがシャリーアに照らして合法となるには、返還される物件が、借りた物とまったく同種・同等でなければならず、貸主が貸し出したことによって利得を得てはならない。このような合法と見なされるカルドのことを、カルド・ハサン（qard al-hasan）と言う。&lt;br /&gt;
: イスラーム銀行においては、「人道的」無利子ローンとして活用される。この契約においては、借主はあらかじめ定められた期間内で貸主に返済することになる。むろん、銀行側には利益は全くない。金融機関によっては一定額の「手数料」を徴収するところもある。これは金額に連動したり、期間に随伴したりすることはない。10万でも100万でも、手数料の額は同じということになる。（先述した『利子』の定義「金額」「期間」「定率」を参照。つまり、利子の定義には当てはまらないという理屈になる）&lt;br /&gt;
: しかしこれには異論もある。「『定額の手数料』は『定額の報酬』に通じ、『定額の報酬』は『定率の利子』に通じるため、カルド・ハサンは完全に人道的にゼロ・コミッションでおこなうべき」、と主張する先鋭的な学者もいる。手数料の問題に限らずイスラームの無利子金融の具体的在り方については、ウラマーの間でも統一見解がなく、[[イスラム法学派|法学派]]などによって食い違う見解が併存している場合が多い。&lt;br /&gt;
: [[サウジアラビア]]の例では、（完全な）無利子貸し付けをおこなっている一般商業銀行はない。いずれも定率のサービスチャージ（手数料）を課しており、これも銀行と借り手の“交渉”で決まる（この点がシャリーアで禁じられたリバー、すなわち“定率の利子”とは異なる、との理由）のが一般的であるという。個人や法人から融資の申請があったとき、専門の調査機関が申請者の信用や業績などの調査を行う。また、担保や保証人などのリスク回避の手段を講じた後に、貸付金から手数料などをあらかじめ差し引いた金額を申請者に渡すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 有利子金融との接点 ==&lt;br /&gt;
現代の世界金融市場の主役の一つとなっている[[ヘッジファンド]]や、[[先物取引]]のような金融システムは、イスラームにおいては基本的に認められない。イスラーム銀行の立場としては、実体経済と遊離したデリバティヴ（金融派生商品）は「言語道断」であり、同時に先物取引もクルアーン（胎内にいる子の価値を見越して母ラクダの売買をしてはならないという規定）により禁止されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小国の経済を食い荒らす「マネー」の動きを危険視するのはイスラームに独特のものではなく、非イスラーム圏の研究者の中にも存在する。また、現代において無利子金融を行おうという発想もイスラームに独特のものではない。そもそもが古来より禁止ないし制限が加えられていたわけであるが、それの復活というわけではなく、現代の時代状況下においての脱資本主義的な研究・検討、そして[[地域通貨]]運動などに見られる実践がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、西洋経済の中心たる[[アメリカ合衆国]]の最先端技術の集積地であるシリコンバレーの成長を支える原動力は、イスラーム金融に似ている（[[ベンチャー企業]]記事参照）。というのも、投資家は企業家に出資するとき、「融資」ではなく「株式の購入」という形態を取るため、起業家には「元本保証」や「利潤確保」の義務が生じない。また、投資家が資本分散によって危険を避ける点、担保ではなく人物と経験を評価することによって投資するかどうかを決める点なども、ムダーラバ契約を思い起こさせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主な相違点としては、融資ではなく株式購入であること、投資家は株主であるため会社の運営に対して口出しできることなどが挙げられる。また、詳しい資料はないが、ムダーラバの長距離キャラバン交易の成功率は、少なくとも現代ネットベンチャーの「約20%」という数字よりは大きかったであろうと思われる。このエンジェル←→ベンチャーの関係は、まさにムダーリブ←→ダーリブの関係を思わせ、しかも銀行の扱う二重ムダーラバよりも遥かに、預言者ムハンマドがおこなっていたような「ムダーラバの基本形」に近い、似ている、とすら言えるかもしれない。世界経済をリードする集団と言えるアメリカ、シリコンバレーのベンチャー企業群は、実は「有利子経済」ではなく「無利子経済」の恩恵によって爆発的成長を遂げたものと言うことができるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつてアル＝バラカ・グループは西洋型金融の中心地である[[ロンドン]]の金融街にも進出していたが、ここからは撤退している&amp;lt;!--このあたり経緯の追記が必要--&amp;gt;。ただし逆に西洋系の銀行の中にも、イスラーム圏においてはムスリム向けの無利子金融商品（上述のイスラーム金融の基本に則ったもの）の提供したり、イスラーム銀行を子会社に持つ試みがなされはじめている。また一方、イスラーム金融機関の中でも国・地域によってシャリーアの解釈に偏差が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういった点からも分かるとおり、イスラーム無利子金融と、有利子金融とは、根本的に対立するものではない。また、上述のとおり、名目や立脚点が異なっていようとも、その内実において非常な類似が認められる。この両者の間に根本的な差異が存在すると言う前提は、成り立ち得ず、これらの要素は「イスラーム的(と仮に呼ぶ)」と「西洋的(と仮に呼ぶ)」、二つの極の間でスペクトルを成している、と考えることもできるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 勃興の背景 ==&lt;br /&gt;
利子禁止あるいは制限規定は人類の歴史の中でなにも特異なものではなく、通時的・通文化的に見られるものであり、そして現代日本において自明のものとされる（アメリカ主導の）規制のゆるやかな「自由競争体制」こそが、むしろ特異な状態と言えるのかもしれない。いっぽう現代イスラーム圏の人々は何故無利子経済体制を選んだ（選びつつある）のか。ヨーロッパも、[[中世]]には[[旧約聖書]]から導かれる利子禁止（制限）規定が、表向きなりとは言え社会を覆っていた点においては同様である。それがなぜ、ヨーロッパでは利子つき金融が、それも複利計算のもとに認可されてその後の経済発展の基盤を築いているのに対し、イスラームの諸国では近現代に入って逆に、それまで見過ごされて来た利子つき金銭貸借が、シャリーア（イスラーム法）の厳密な適用によって排除されようとしているのかについての検討が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クルアーンにおいて禁じられている「[[リバー]]」という単語を、「[[利子]]」一般ではなく、特に「高利」のみを指す言葉であると解釈すれば、ヨーロッパ型の金融システムを、躊躇なく導入することが可能となる。にも関わらずその方法を採用しない理由については、研究者によっても見解が分かれる。仮に「リバー」が「利子」すべてを指すとしても、それまで通り[[ヒヤル]]を用いて実質的な有利子金融を実行すれば良いとも言える。ただこれは、単純な金銭貸借契約においてすら、二つの随伴する契約を結ぶことになり、さらに権利関係が複雑になるような金融商品や、保険契約、先物取引などには対応仕切れないという欠点を抱えていることもある。そもそもこうしたイスラーム銀行が、中世においては登場せず、現代に入って登場・発展してきた理由を探ることが、その本質を知る手がかりとなる。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--普通は1970年代からの「イスラーム復興」と結びつけてる気がします--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
# '''「ムスリムだから」'''&lt;br /&gt;
#: もっとも一般的な、あるいは門外漢にも分かりやすい説明としては、「ムスリムであるから、クルアーンにしたがって利子は受け取らない。だから、無利子銀行に預金するのだ」という説明が為される。ただし、例えばムスリムであっても、大っぴらに飲酒することが抵抗なく行われる土地、社会もあるので注意が必要であろう。&lt;br /&gt;
#: 既に述べたように、最初期無利子銀行の失敗例もあるから、ムスリムであるから当然のように彼らは無利子銀行に預金するのだろう、という論理のみでは無利子銀行の成長・拡大を語るには無理があろう。また、それに、かつてヒヤルが認められていたことの説明がつかない。&lt;br /&gt;
#: 無論、「ムスリムだから、無利子」というこの要素は根本的なものであろうし、無利子銀行の誕生以前は金融技術の未発達によってリバーのない銀行が成立しえず、ムスリムたちは仕方なく預金を自分のところにしまい込むか、あるいは有利子の銀行に預けていた、とも言い得るのだが、基本的にはこの理由のみをことさら重視することはできない。&lt;br /&gt;
# '''「植民地化とオスマン帝国の解体」'''&lt;br /&gt;
#: 世界史を俯瞰する視点からは、次のような解釈が導かれる。[[19世紀]]からイスラーム世界の各地で進められてきたヨーロッパ列強による植民地化は、[[20世紀]]において[[オスマン帝国]]の敗北と解体、それによる旧オスマン領[[アラブ諸国]]の植民地化によって頂点に達した。このインパクトが世界のムスリムに大きな影響を与え、それまでとは違う形の「イスラーム世界」の認識が形成され、強大なヨーロッパと改めて直面しなおすことで、ムスリムとしての自覚が再認識された。&lt;br /&gt;
#: また、[[1924年]]のオスマン朝のカリフ制の廃絶は、植民地化の中でもカリフの権威にすがってイスラーム世界の一体を意識しようとしていた[[インド亜大陸]]や[[東南アジア]]のムスリムにも、「正当な」[[ウンマ]]（イスラーム共同体）の消失を明確な形でムスリムに突きつけることになったが、これによってむしろムスリムたちは「イスラームの世界」と自己の立脚点の再認識をおこなうこととなり、それがムスリムに、一つ一つの教義を再確認し、遵守する方向性を持ったと考えられる。&lt;br /&gt;
# '''「アラブの『動かす』文化」'''&lt;br /&gt;
#: また、片倉もとこ『「移動文化」考』のように、文化間の差異に着目しこれを理由の一つとして挙げる著作もある。&lt;br /&gt;
#: 日本にも「流るる水は腐らず」という[[諺]]があるが、中東では古来より、「留まる水は濁る」とでもいうべき、“動かずにあるものは不浄”という思想がある。[[遊牧民]]は水や牧草の都合によってキャンプ地を定期的に移動するが、アラブ遊牧民の場合は、そういった条件が変わらずとも一定の期間が過ぎると移動することがあるという。たとえそれによって水場から遠くなるとしても、である。&lt;br /&gt;
#: 同様に経済についても、動かさない金銭は不浄であるため、富豪は金銭を蓄え込まず、貧しい人に差し出すことによって社会に還流させようとする思想がアラブ社会に存在する。&lt;br /&gt;
#: しかし、ここでの問題はアラブのみに留まらず、東南アジア、そして世界全体のイスラーム銀行に及ぶため、アラブの文化のみで語ることはできない。ただ、現代につながる無利子金融が成立し発展してきたのはまさにアラブの地であり、《移動文化》の担い手らによって無利子銀行が先導されてきたことは事実である。&lt;br /&gt;
# '''「宗教的背景」'''&lt;br /&gt;
#: 上掲の説に似るが、ムスリムであるがゆえに教条を遵守するというのではなく、現状イスラーム諸国で喜捨や断食が真面目に行われ、輸送手段の発達にも助けられて巡礼者が爆発的に増大しているように、3の説よりも広範かつ漠然とした要素と言える。&lt;br /&gt;
#: 慣習による互助的システムを、機能が似ているからといって発端の異なる無利子金融と短絡的に結び付けることには疑問が残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どれかの説が決定的なものというわけではない。ただ、「動かす」ことを文化的背景とするアラブ世界で、ムハンマドのもたらしたイスラームによって、従前よりも強化・明文化された互助システムが慣習として広がって定着し、近代のイスラームの「危機」に対してかえって「ムスリム」としての意識が明確化し、イスラーム圏に導入された近代西欧の金融技術を応用して無利子銀行が作られ、信仰やオイルマネーに支えられて拡大してきた……というように、複合的要因として考えるのが適切であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 中東・東南アジア以外への伝播 ==&lt;br /&gt;
前節まで主として扱って来たのは中東諸国、および最大のムスリム人口を持つ東南アジアのイスラーム無利子金融であった。ここでは諸地域への伝播について扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域別に見ると、[[1980年代]]には既に[[ギニア]]、[[リベリア]]、[[ニジェール]]、[[南アフリカ]]にまでイスラーム金融機関が進出を遂げており、[[1996年]]には[[デンマーク]]、[[ジブチ]]でも登場している。[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]の支配から脱した[[中央アジア]]諸国は依然として空白地帯であり、その地域における市場経済の定着と資本の集積はすぐにはできないため、無利子銀行が開設されるのは先のことだろうが、当のイスラーム国からは中東・東南アジアのイスラーム金融機関に関心と期待が寄せられているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、無利子銀行のムダーラバやムシャーラカといった貸付方式は、経済的インフラの僅少な地域で長期的な視野で経済を立ち上げることに適しているといった指摘もある。実際、スーダンでは8行ものイスラーム銀行が営業し、経済開発に大きく関わっている。これについては上述したような、シリコンバレーの「アイディアと意欲はあるが資本のない起業家」の支援システムとの類似が指摘できよう。仮に事業が失敗しても、借りた者が多重債務を背負い込まないこのシステムは、資本を持たない者が「新しい何事か」を起こすのに適している。発展途上国が多額の債務と利払いに苦しむ現状は、融資が無利子金融の形態であったならば起こらなかったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 将来の展望 ==&lt;br /&gt;
=== ムスリムによる将来展望 ===&lt;br /&gt;
イスラーム圏の大規模な企業組織では、内部に、企業の行動をシャリーアと照らして検討するための諮問委員会を持っている例がある。そういった場での議論では、現時点では無理としても、長い長い時間をかければ、無利子経済が有利子を駆逐していくだろうという楽観的な考えがあり、これは、ムスリムの学者の多くによって共有されている模様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえばムスリムである研究者 Hussein Mullick （パキスタン）は、無利子銀行が資本主義の搾取システムを止め、貯蓄家を資本家に変えてゆき、経済を活性化する点などから「無利子銀行制度が西洋の銀行制度に勝ることはあまりに明らかである」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 非ムスリムによる将来展望 ===&lt;br /&gt;
対して、イスラーム社会の外部から、研究対象として観察する側の意見はそれとは異なる。宗教的情熱のみでは無利子システムの維持は困難であるため、無利子金融機関は、有利子金融の利子と同程度か、それに遜色ない程度の業績をあげる（上回る場合は問題ない）ことが可能ならば、資本主義の有利子企業に伍して資本主義世界で営業を続けて行くことも可能であり、アラブ・イスラーム諸国の資金力に支えられて、西欧型金融が多数を占める中で、小さく頑健な岩礁のように存続していくだろう、という視点で語られる。その根拠としては、パキスタンにおいてすら1950年代には最初の無利子銀行の試みが挫折し、ミトル・ガムス貯蓄銀行においてようやく成功、本当の萌芽は国庫からの資金を入れたナセル社会銀行、そして発展はオイルマネーによってであることが挙げられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アラブ・イスラーム諸国の資金力とは、つまるところ[[石油]]である。石油で潤った富豪たちはイスラーム銀行に多額の無配当預金をしている（彼らがこういった、自らに利益のない行動に出るのは、[[ザカート]]に代表されるイスラーム社会の互助的環境のゆえである）が、これらがなければ、中東の無利子銀行の成長も、遅れたかもしれない。そしてオイルマネーとは、大量の石油を消費する西欧消費文明に由来している。一面では、無利子銀行はオイルマネーによって支えられ、オイルマネーはヨーロッパ・アメリカ社会（日本を含む）によって支えられているという指摘もできるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無利子銀行の恩恵に浴していないムスリムたちは地球上に大勢いるし、西洋にも有利子経済に疑問符を投げかける運動がある。無利子金融は今後、現状よりも拡大してゆく公算が非常に大きいが、このままの成長の先にヨーロッパ型の経済体制を単純に打破する未来像があるとは、考えにくい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ムスリム人口が拡大しつつある中、その需要によってイスラームの無利子銀行は拡大するだろうが、優勢な勢力となり得るとは考え難い。共通点を見た西洋の脱資本主義的運動が力を持つとしても、有利子の需要がある限り、そう簡単に現状世界経済を変えることはできないと言えよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ウンマ (イスラム)]] - [[ザカート]] - [[ムダーラバ]]&lt;br /&gt;
* [[ヒヤル]]&lt;br /&gt;
* [[利子]] - [[リバー]]&lt;br /&gt;
* [[金融]] - [[ヘッジファンド]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 石田進 「イスラーム無利子金融の理論と実際」『人々のイスラーム その学際的研究』 [[片倉もとこ]]編、[[日本放送出版協会]]、1987年&lt;br /&gt;
* 石田進「イスラーム無利子金融の動向」『現状イスラム経済‐中東ビジネスのすすめ‐』 武藤幸治・石田進・田中民之、[[日本貿易振興会]]、1988年&lt;br /&gt;
* 板垣雄三 他 『イスラーム世界がよくわかるQ&amp;amp;A100 人々の暮らし・経済・社会』 亜紀書房、1998年&lt;br /&gt;
* 片倉もとこ 『「移動文化」考 イスラームの世界をたずねて』 [[日本経済新聞社]]、1995年&lt;br /&gt;
* 河邑厚徳・グループ現代 『エンデの遺言「根元からお金を問うこと」』 日本放送出版協会、2000年&lt;br /&gt;
* 木村喜博 『中東イスラム諸国におけるイスラムと現代的思潮』 日本放送出版協会、1996年&lt;br /&gt;
* [[小杉泰]]（監）[[日本放送協会|NHK]]「イスラム」プロジェクトチーム（著） 『イスラム潮流』日本放送出版協会、2000年&lt;br /&gt;
* 小杉泰 『イスラームとは何か』 [[講談社]]、1994年&lt;br /&gt;
* 小林克己 『イスラムの謎と矛盾』 [[産能大学]]出版部、1991年&lt;br /&gt;
* 小馬徹 『贈り物と交換の文化人類学 人間はどこから来てどこへ行くのか』 [[御茶の水書房]] 2000年&lt;br /&gt;
* 私市政年 『イスラム聖者‐奇跡・予言・癒しの世界‐』 &amp;lt;!--手元にないため版元不明--&amp;gt;1996年&lt;br /&gt;
* ナイーマ・モハメド 『アラブ・イスラム世界 文化と政治』アラブ日本文化交流センター、2000年&lt;br /&gt;
* [[宮田律]] 『中東政治構造の分析‐民族・イスラーム政治を考える』 学文社、1996年&lt;br /&gt;
* 『[[日経ビジネス]]』2000年10月9日（通巻1061）号&lt;br /&gt;
* RODANSON, Michel ''Islam and Capitalism'' 1983 （『イスラームと資本主義』 山内永 訳、[[岩波書店]]、1978）&lt;br /&gt;
* MULLICK, Hussein &amp;lt;!--原著題名不明--&amp;gt;『パキスタンにおけるイスラム化経済の出現‐その起源、最近の諸手段、成功の見込み、回教世界に及ぼす影響‐』 [[日本経済調査協議会]]（訳、刊）1982年&lt;br /&gt;
* AHMAD, Khurshid（編）''Studies in Islamic Economies'' The Islamic Foundation （[[イギリス]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:銀行|いすらむ]]&lt;br /&gt;
[[Category:イスラム教|いすらむきんこう]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ar:مصرفية_إسلامية]]&lt;br /&gt;
[[de:Islamic_Banking]]&lt;br /&gt;
[[en:Islamic_banking]]&lt;br /&gt;
[[eo:Islama_banko]]&lt;br /&gt;
[[he:בנקאות_אסלאמית]]&lt;br /&gt;
[[id:Perbankan_syariah]]&lt;br /&gt;
[[ms:Perbankan_Islam]]&lt;br /&gt;
[[nl:Islamitisch_bankieren]]&lt;br /&gt;
[[sv:Islamiskt_bankväsen]]&lt;br /&gt;
[[zh:伊斯蘭銀行]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%BA%E5%90%8D&amp;diff=5777</id>
		<title>人名</title>
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				<updated>2007-06-03T08:11:49Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: /* 出典 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''人名'''（じんめい）とは、[[ヒト]]個人の[[名前]]一般を指す概念である。現代日本での人の名前は[[姓]]と[[名]]からなるため'''姓名'''とも呼ばれるが、こうした構成を持たない社会も多い。他に、'''名前'''、'''氏名'''などともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
漢字文化圏において姓と[[氏]]、さらには日本における[[名字|苗字]]は本来は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、明治維新以前は氏（[[ウヂ]]：本姓）と苗字に代表される家名は区別されていた。名は名前とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いを認識し、指示し、[[コミュニケーション]]をとる際に使われる。人は多くの場合、戸籍などに登録されるなどした、公式の名前（'''本名'''（ほんみょう））を持つが、それがそのまま用いられる場面は限られており、名前を元にした呼び名、[[あだ名]]、[[敬称]]との組み合わせなどが用いられることも多い。非近代社会ではしばしば真の人名は霊的な人格と不可分のものとされ、本名を実際に他者が口にして用いることに強いタブーを持つ社会が多く見られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前にはその主要な属性として、音と表記がある。例えば日本人の個人名が外国の文字で表記されることがあるが、これは一つの名前の別表記と考えることができる。逆に、漢字名の場合、場合によって読み方が変わることがある。こういった表記、発音の変化に対する呼ばれる側としての許容範囲は様々である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされ、姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに[[古代ギリシア]]などにその形跡があるとされ、東方では[[周]]代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。また、非近代社会においてはさまざまな理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域が多かったが、[[1989年]]に[[国際連合|国連]]総会で採択された[[児童の権利に関する条約]]7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「児童は、出生の時から氏名を有する権利……を有する(shall have the right from birth to a name)」と定めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人名の構造、使用とその多様性==&lt;br /&gt;
人の名前は多くの文化で、2つかそれ以上の種類の部分からなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの場合、「所属を示す名前」と「個人を指す名前」の組合わせが用いられる(ここでは便宜上仮にそれを&amp;quot;個人名&amp;quot;と呼ぶことで説明する)。あるいはそのどちらか一種類だけの場合もある。その数や扱いについては様々な習慣・制度が見られる。(詳細は後述)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分かりやすい例としては、その[[個人]]が属する「[[家]]([[家族]])の名前」と「個人の名前」の組み合わせである。&lt;br /&gt;
英語圏では、個人名+家族名 (''given name'' + ''family name'') の順に表記されることが多い(配置に着目しファーストネーム+ラストネームとも呼ばれるが、文脈に応じ逆順で表記されることや文化混合による混乱を避けるために、given nameなる呼称が選ばれる流れがある)。現代の日本の一例を挙げれば「鈴木 + 一郎」である。それぞれ、[[姓|姓(せい)]]、[[名|名(めい)]]などと呼ばれる。家族名はまた[[苗字]]、[[名字]]とも呼ばれる。&amp;quot;個人名&amp;quot;の部分は「[[名]](な)」と呼んだり、なんら明確には呼ばずに済ませたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:(注) 日本語の人名では、英語の ''given name'' にあたる概念を、他の概念と明確に区別し、かつ肯定的に指し示す名称が成立していない。明治以前の今日より複合的で複雑な人名要素における「いみな(諱)(=忌み名)」などという名称には既に否定的な概念が含まれており（ただしそれ自体を忌避して否定的にとらえているのではなく、霊的人格との一体性という概念ゆえの神聖視により、みだりに用いるのを忌避しているのであるが）、その裏返しとして成立している「[[字]](あざな)」では正式の本名ではないという含意からのズレがあり、どちらも現代的な使用には向かない。また「[[名]](な、めい)」では、フルネームを指す可能性があり、明確な指示が困難になる。明治期に、法令によって人名の近代化を迅速に行った影響が今日も後を引いているとも、今日の日本人の人名構成様式が、まだ非常に浅い歴史しか持たないものだとも言える。そのため苦肉の策で日本人同士でも英語の表現を借用し「あなたのファーストネームは？」などと聞いたり、「下の名前は？」などと表現する事態が見受けられる。以下の説明では「名」(な)という言葉で&amp;quot;個人名&amp;quot;を指している箇所があるので注意されたい。)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===構成要素の数===&lt;br /&gt;
姓名の構成要素の数、すなわち、ある個人のフルネームがいくつの部分から構成されているかは、文化によって異なっている。[[アメリカ大陸の先住民族]]など、個人を指す名前のみを用いる文化もある。[[サウジアラビア]]のように、3代前にまで遡って4つの部分からなるフルネームを用いることが当たり前の文化などもある。[[ブラジル]]のように一貫していない場合もある（これは、姓を持つ習慣が普及しつつあるが、完全に普及しきっていないためであると考えられる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、親子の間での姓をめぐる取扱いも文化によって異なる。子供が両親のいずれか、あるいは両方の名前を受け継ぐ習慣や制度があるかどうかは文化によって異なっている。受け継がれていくのは姓に代表される血縁集団名、家系名であるとは限らず、姓を持たない文化においては、「[[小泉純一郎|純一郎]]、[[小泉純也|純也]]の息子、[[小泉又次郎|又次郎]]の孫」などといった形で名前が受け継がれていくこともある。インドでは逆に「純一郎、[[小泉孝太郎|孝太郎]]の父」などといった形で、ある子供が生まれた時に与えられる名前に、さらにその子供の名前として使われるべき名が含まれているものもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===構成要素の順序===&lt;br /&gt;
姓名の構成要素の順序についても、民族・文化圏により異なることが知られている。[[日本]]、[[中国]]、[[朝鮮]]、[[ハンガリー]]などでは名前は姓→名の順をとり、フルネームで呼ぶ場合にはその順で呼び、フルネームを記す場合にはその順に記す。基本的には、その文化の言語においての修飾句と被修飾句の順による。これは、名こそが個人を表すものであり、姓はそれを修飾するものだと考えられるからであろう（[[名前空間]]も参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前を記す際などに、その一部を省略することも多く行われる。[[英語]]圏ではミドルネームはイニシャルだけが記されることが多くある。[[スペイン語]]圏では、複数部分からなる姓の一部が省略されることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===名前の変更===&lt;br /&gt;
基本的には、人名は通常、慣習や法などによって決まっている部分（姓）や生まれた時に両親などによって与えられ、それ以後変わることのない部分（名）のいずれか、またはその組合わせからなることが多く、生涯を通じて変わらない文化も多い。だが、ここにも例外がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[婚姻]]や婚姻の解消に際して、夫婦間の姓の変更が行われる文化がある。婚姻やその解消は親子関係の変更を含むこともあるため、子の名前の変更を伴うこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
婚姻以外にも、人生の節目において名前を与えられたり改めたりする場合がある。一部のドイツ人の間では[[洗礼]]に伴ってミドルネームが与えられ、以後はファーストネームではなくその洗礼名が頻繁に用いられることになる。日本でも、[[豊臣秀吉]]のように武士が元服や出世とともに姓名を変えるケースがあった（日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===名前の由来===&lt;br /&gt;
名前の由来についても、文化的多様性や共通性があることが知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大雑把に分けると、その文化圏で用いられている言語で何らかの意味を考えて付ける文化と、その文化圏で伝統的に用いられている名前から選んで付ける文化に人名選択の傾向が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、今日のヨーロッパなどのユダヤ教・キリスト教社会では親の名前の一部を子の名前に付けるとか、尊敬する誰か他の人の、既にある名前を取って付けられることが多い。[[ユダヤ人]]の間には、生まれた子に死んだ親戚の名前を付ける風習があった。ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒は、聖書などの[[聖典]]に登場する古代の人物の名前（ポピュラーネーム）を子に付ける者も多い（アブラハム、イブラーヒームなど）。キリスト教社会の[[洗礼名]]が特にこの性質を強く持ち、宗派によっても異なるが、聖人あるいは聖書やキリスト教の歴史の中で重要な働きをなした人物の名が選ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これらの社会で受け継がれてきた名前も、古代においてそうした人名を考案した社会においては、そこで用いられた言語で何らかの意味を考えて付けられたものだったのである。例えば、旧約聖書に由来する人名はヘブライ語の（例：[[ヨハネ]]＝[[ヤハウェ|ヤハヴェ]]は「恵み深い」）、古代ギリシア人に由来する人名はギリシア語の（例：ピリッポス＝「馬を愛する」）、中世初期のゲルマン人指導者に由来する人名はその時代のゲルマン語派の諸言語の（ウィルヘルム＝「意思と兜」）意味を持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漢字文化圏の日本では、漢字の意味と訓読した時の意味の両方を考慮して命名することが多い（例：[[水野勝成]]（かつなり→勝つ成り・[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]始祖、日向守）が、尊敬する誰かの名前にちなんでその名前を付けることもある。同じ漢字文化圏でも逆に、[[大韓民国|韓国]]人の名のように、他人が持っている名を避けるケースもあり、むしろ漢字文化圏全体の伝統はこちらが主流である。特に昔の中国では、皇帝の姓や名前に用いられた字を使った命名をすることは重大なタブーであった（[[避諱]]・ひき）。その為、代字が多数作られ（例：[[清]]の[[乾隆帝]]の名“弘暦”を避けて、弘→宏、暦→歴）[[字体#異体字|異体字]]が増える原因の一つにもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、姓に代表される血縁集団名、家系名の由来にも様々なものがあることが知られている。生まれた土地の名、職業、性格や容姿などの特徴などと結び付いている例が多くの文化に見られる。日本では元来は姓と苗字は別のものであり、苗字の多くは地名と結び付いている。例えば田中、山本、小林、中村などであり、これはその家系が所領や名田などとして権利義務を有した土地の名を家名にしたことが多かったためである。英語圏ではMcDonald（ドナルドの息子）やJohnson（ジョンの息子）のように始祖に当たる人物の息子という形の家名や、Smith（鍛冶屋）のようにその職業にちなんだ家名、Longfellow（のっぽ）のように祖先のあだ名にちなんだ家名が目立つ。同じく「子孫」を表すMc（マクドナルド、マッカーサーなど）は[[スコットランド]]系、O'（オブライエン、オコーナーなど）は[[アイルランド]]系に多数見られる姓の接頭語である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の多様性===&lt;br /&gt;
また、家系名や個人名の多様性も文化によって大きく異なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本人の苗字の種類は10万とも20万ともいわれ、世界で最も苗字の種類が多い民族とされる。&lt;br /&gt;
一方、中国人の姓は500以下であるとされる。最近の中国科学院の調査では、李・王・張・劉・陳がトップ5とのことで、特に李（7.4%），王（7.2%），張（6.8%）の3つで20%強（約3億人）を占める。ベトナム人は、最も多い3つの姓で90%を占める。（[[百家姓]]参照のこと）&lt;br /&gt;
韓国人の姓は、金（{{lang|ko|&amp;amp;#44608;}}）・李（{{lang|ko|&amp;amp;#51060;}}）・朴（{{lang|ko|&amp;amp;#48149;}}）・崔（{{lang|ko|&amp;amp;#52572;}}）・鄭（{{lang|ko|&amp;amp;#51221;}}）の5種類で55%にのぼり、「石を投げれば金さんに当たる」「ソウルで金さんを探す（無駄な努力のたとえ）」などという成句もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、韓国人は子の名を付ける際に、基本的に他の誰も持っていないオリジナルな名を与える（ただし、ある程度の流行はある）。&lt;br /&gt;
これに対して、ドイツでは「すでに存在する名前」しか受理されない。&lt;br /&gt;
フランスにおいても、ナポレオン法典の時代には、新生児の名は誕生日ごとに決められた聖人の名前から選ぶこととされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、多くの文化においては、正式な名前とは別に[[愛称]]・[[敬称]]などがあり、そのパターンは文化ごとに異なっている。そうした呼称は名前を省略したり変形して用いる場合もあり、名前ではなく帰属や当事者間の関係（父と子など）を用いる場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人名と文化、社会==&lt;br /&gt;
人名をめぐる習慣や制度は一般的に、次のような文化的・社会的事象と結び付いている傾向にある。&lt;br /&gt;
*個人・家族・帰属についての考え方（とりわけ姓をめぐる習慣や制度）&lt;br /&gt;
*価値観。人にとって何がよい性質であるか（とりわけ名をめぐる習慣や制度）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、こうした姓名についての知識は次のような場面で活用される。&lt;br /&gt;
*歴史研究や家系図の作成などに際しての資料の解釈、記録された名前と個人の対応付け&lt;br /&gt;
*犯罪捜査&lt;br /&gt;
*[[戸籍]]・名簿などの管理・作成。それに関連したコンピュータ・データベースの構築&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==日本における人名をめぐる文化、制度、歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===言葉としての特徴===&lt;br /&gt;
今日の日本人の名前は、典型的には、苗字が漢字2文字、名が漢字2文字からなる。ただし法的制限などがあるわけではなく、苗字・名とも漢字1文字や3文字のものも多い。研究者の間で確認されている限りでは、苗字は漢字5文字のものが最長である。漢字5文字からなる苗字は、その種類もごく限られている。名においては、女性には平仮名も比較的多く見られる。片仮名は、男性には時代を通じて稀であるが、女性においては戦前には比較的よく使われた。戦後になって使用される例は減ったが、近年では個性的な名前を望む風潮から使われる例が増えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的な例）&lt;br /&gt;
*1文字苗字：東、西、南、北、乾、巽、辻、森、林、谷、原、岡、星、耀(あかる)、桂…など&lt;br /&gt;
*2文字苗字：佐藤、鈴木、田中、山本、高橋、中村、渡辺、小林…など&lt;br /&gt;
*3文字苗字：長谷川、佐々木、五十嵐、久保田、佐久間、小笠原、大久保、小野寺…など&lt;br /&gt;
*4文字苗字：勅使河原（勅使川原・てしがわら）、小比類巻（こひるいまき）、長宗（曽）我部（ちょうそかべ）…など&lt;br /&gt;
*5文字苗字：勘解由小路（かでのこうじ）、左衛門三郎（さえもんさぶろう）、正親町三条（おおぎまちさんじょう）…など　　&lt;br /&gt;
:※読み方は代表的なものを記載。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
苗字・名どちらも比較的独自の語彙があるため、ある人の姓名を聞いて、それが人の姓名だとわかるのが普通である。また、苗字か名かいずれかを聞いた場合、「わかな」「はるな」「みなみ」などのごく稀な例外を除いて、それがどちらであるかを区別することも比較的易しい（これは、例えば英語でRyan Douglas Scottのように姓にも名にも用いられる語がかなり多くの人の人名に使われていることと対照的である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、姓名を聞いた時にそれがどのような文字で書かれるかについては必ずしも分からない場合が多い。これは同じ読みのものがたくさん存在するという漢字の特徴にちなむ。&lt;br /&gt;
また、漢字で書かれた名前から正しい読み方が特定できない場合もある。これは、馴染みの薄い読み方（難読人名）であるために起こることもあるが、単に2つ以上のよく知られた読み方があるために起こる場合もある。日本の漢字は読み方が多いためこのようなことが起こりやすい（例えば、「裕史」という名はひろし、ひろふみ、ゆうし、ゆうじ、などと最低4通りの読みがある/字面通りの読みである必要はないので、実際にそれ以上存在する）。そのため、各種の申込書・入会書・願書・申請書などに名を記す時に[[振り仮名]]の記載を求められる場合が多いが、法的にそれを証明する手段が乏しい（名前の読みまで記したものが殆どない）。これは、戸籍が読みではなく字を基準にした制度であるためで、同じ戸籍内の者に「異音同字」の名前をつけることは出来ない（稀に夫婦で同名というケースもあるが、これは問題ない）。ちなみに「異字同音」の名前は可。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
苗字の大半は地名に基づいているため、地名に多い田・山・川・村・谷・森・木・林・瀬・沢・岡・崎などの漢字を含むものが名字の多数を占める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[僧侶]]の名前などは音読みとなる場合が圧倒的に多い。文筆家の号も音読みのことが多く、[[藤原俊成]]（としなり・しゅんぜい）や[[藤原定家]]（さだいえ・ていか）、[[藤原家隆]]（いえたか・かりゅう）のように、本来訓読みでも音読みで読み慣わしている例もある。（→[[有職読み]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前を聞いたり見たりした場合に、その名前の主が男性であるか女性であるかを見分けることは比較的易しい場合が多いが、『ユウキ』『ヒロミ』『ツカサ』『カオル』など、旧来から男女両方に使われる名もある。但し、女性的に見える名前が男性に付けられる事はある（例：[[蘇我馬子]]・[[小野妹子]]・[[平国香]]・[[正親町三条実愛]]・[[一条忠香]]([[明治天皇]]の岳父)などの歴史上の人物や、[[吉田照美]]の様に「～美」を付ける男性もいる。「～美」は男女が非常に判り辛い）。&lt;br /&gt;
男性の名には一般的に「健」「武」「大」「俊」など力強さや雄大さを連想させる文字がよく使われ、「～介」「～之」「～太」と続く名前が多い。生まれた順番に郎・朗を付けて「一郎（太郎）」「二郎（次郎）」「三郎」などとすることは昔に比べ少なくなったが、前に漢字を付し「健一」「浩二」「慎太郎」とすることは現在でも散見される。&lt;br /&gt;
女性の名には「～奈」「～香」「～美」という名が多く、「優」「舞」「愛」「香」などの可愛らしさ・優しさを連想させる文字や、花の名前（「桜」「桃」等）がよく使われる。「～子」で終わる名前は少なくなってきている。また、男性に比べ名前が平仮名である割合が多い。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--ただし、最近では『ナギサ』『チヒロ』など、旧来は女性名とされてきたものが男性に使用される場合や『アキラ』のように男性名とされてきたものが女性に使われる場合もあり、ボーダーレス化はやや進んでいるといえよう。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に男性・女性にそれぞれ力強さ・優しさを求めるといった大仰な意味で名付けが行われることは少なく、どちらかといえば響きの良さ・慣例が重視されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また近年では『レオ』『サラ』など本来外国語・外国人名であるものも用いられだし、この割合も年々高まってきている。中でも『ジョウジ（ジョージ）』『ナオミ』『エリカ』『リサ』などは、今や日本人名として広く定着している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===姓の継承と変更===&lt;br /&gt;
婚姻により夫と妻が新たな戸籍を作る際には、その姓（苗字のこと。法制度上は、「[[氏]]」と称していることに注意）として夫・妻いずれかの結婚前の姓を付けるものとされており、結果として結婚後の両者の姓は統一される。どちらの姓を採るかはその夫妻の決定に委ねられるため、単純に考えれば双方5割前後となるはずだが、[[民法|旧民法]]の[[家制度]]の下で妻は嫁として夫の「家」に入ってその姓を名乗るもの、という意識が広まった結果、[[民法|新民法]]の下でも95％以上の戸籍で夫の姓を採用している。この制度については1990年代半ば頃から見直しの気運が高まっており、「[[夫婦別姓]]」問題として議論されている。結婚後も夫婦別姓を採用することの利点として、姓を変える側（通常女性）が一方的に蒙る社会生活における煩雑さや不便が避けられること、結果の平等の視点にたち男女平等の精神に即したものであること、などが指摘されている。反対意見として夫婦の絆を弱めるものだとの意見や、夫婦の間に生まれた子供の苗字をどちらにするかの問題などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[養子縁組]]の場合は養親の姓を名乗ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近世以降、現代の日本における姓の動向については、特に記事 「[[姓]]」 に挙げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===名付け===&lt;br /&gt;
現代の日本では、上述したように、正式な名前は姓と名からなる。これは戸籍に登録されており、新生児は出生後14日以内（国外で出生があった時は3ヶ月以内）に登録する（戸籍法第49条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前は親や祖父母などが考えて決める場合が多い。子供の名前を集めた本や[[姓名鑑定]]など[[占い]]の類を参考にする場合もあるが、出生当時の社会情勢が子供の名付けに反映されることも多い&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.meijiyasuda.co.jp/ 明治安田生命保険]の調査結果サイトも参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、昭和10年代では戦時体制下を反映して男性の名前に「勝」「勇」などの名が上位に見られるが、戦後昭和21年以降になると「勝」は上位10位から姿を消す。昭和50年代以降は有名スポーツ選手やテレビドラマなどの主人公名が上位に見られるようになる（例えば、[[荒木大輔]]が高校野球で大活躍した時期には「大輔」が流行した。[[松坂大輔]]もその一人とされる）。女性の名前から「○子」が少なくなるなどの変化が見られる。また、[[皇室]]の影響を受ける場合も多く、[[今上天皇]]（[[明仁]]）が[[皇太子]]時代に成婚した際は「美智子」という命名が流行し、続いて皇太子[[徳仁親王]]生誕の際には浩宮にちなんで「浩」という漢字を付けることも流行した(浩之・浩子など)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===姓名の使用===&lt;br /&gt;
死亡すると、仏式の[[葬儀]]を行い、[[戒名]]（[[浄土真宗]]では[[法名]]）（例：○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○）を付けられる者も多い。[[日蓮正宗]]では男子が出家得度して僧侶となった場合、師匠から道号が付けられ、これまでの名を改め道号が名前となる。[[能化]]に昇級すれば日号（[[朝山日乗]]など）が名前となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以前から[[芸能人]]や[[作家]]は、[[芸名]]や[[ペンネーム]]を用いる者が多かったが、近年では[[インターネット]]の普及によってそれ以外の人々が[[ハンドルネーム | ハンドル]]を使用することも普通に行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正式な姓名は、人が互いを呼び合う際にはほとんど用いられることはない。あだ名、名、姓や名に「さん」「ちゃん」などを付けたもの、肩書きや続柄に関係したもの、二人称代名詞などが代わりに用いられることが多い。上記のハンドルを実社会で使う例もしばしば見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。また、歴史的には、日本語の一人称の一部は時代の経過とともに二人称として用いられるようになる傾向がある。「手前」（てまえ）はかつて一人称であったが、現在ではそこから転じた「てめえ」が二人称である。「自分」はかつて[[大日本帝国陸軍|陸軍]]における一人称であったが（[[陸上自衛隊]]でも使用されている）、関西地方では近代以降に二人称として用いられている。このことから、日本語を学ぶ外国人が最も苦しむのが二人称であり、日本の商習慣も相まって非常に難解とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===日本人の姓名の歴史的変遷===&lt;br /&gt;
この項では、いわゆる[[日本民族]]としての日本人の姓名の変遷について記述する。沖縄あるいはアイヌは異なる歴史を持っており、これについては後述する。&lt;br /&gt;
歴史的には、古代の[[律令]]国家の時代には庶民も姓（[[本姓|セイ]]）を持っていたことが現存する当時の[[戸籍]]から明らかである。しかし、この姓（セイ）は、古代社会である一つの氏（[[氏|ウヂ]]）集団（[[氏族]]組織）の一員であることを意味するものであり、今日の[[苗字]]と同義の姓（セイ）とはその性質を大きく異にする。支配者層の姓（セイ）である氏（ウヂ）には、[[氏姓の制]]により、朝廷とその氏（ウヂ）との関わりを示す姓（[[カバネ]]）が付された。例えば、今日[[藤原鎌足]]として知られる藤原朝臣鎌足（ふじわらのあそんかまたり）では、藤原が氏（ウヂ）＝姓（セイ）、朝臣が姓（カバネ）、鎌足が[[名]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、平安時代になると古代から中世への社会変動の中で古代的な氏族組織は衰退して行き、新たに社会の上層から次第に「[[家]]」を単位とする組織化が進行した。そして古代的な姓（カバネ）は[[朝廷]]との関わりにおいてのみ温存されていくことになった。例えば、摂関家の近衛家などは朝廷との関わりにおいては藤原氏という姓（セイ、[[本姓]]）を名乗り、摂政関白を家業として継承する家としては近衛という[[家]]名（のちの苗字に相当）を名乗ったのである。こうした家名の中で、[[領主]]身分を獲得した[[武士]]によって用いられ始めたのが今日の苗字である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在地社会ではいったん古代豪族に率いられた伝統社会が崩壊した後、貴族や大寺社の寄人（よりうど）となることなどを通じて、それに応じた姓（セイ）が各々賦与されるようになり、百姓身分であっても藤原・紀・秦・清原といった古代豪族や朝廷貴族と同じ姓を名乗るようになった。その上で、律令戸籍に見られた姓（セイ）とは異なる形で、すなわちより実利を重視する形で新たに氏（ウヂ）集団が形成されようになった。しかし、[[鎌倉時代]]末期あたりを境に百姓身分も安定した婚姻関係を基礎に継続的な家組織を持つようになり、氏（ウヂ）集団への依存度が減少した。この頃から庶民が姓（セイ）を名乗る習慣は消滅していき、代わって、独立的な家名としての苗字を名乗ることが一般的になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
庶民が[[氏]]を名乗っていた中世前期までは、例えば清原氏を名乗る百姓の女性ならば名前は清原氏女（きよはらうじのむすめ）などと記され、婚姻後であっても出自する氏の構成員としての地位を保っていた。しかし庶民が苗字を名乗る中世後期になると、庶民の女性も童名のままながら「ねね」「やや」「とら」などより独立した存在としてその存在を記録に残されるようになった。その一方、女性は婚姻後は出自の家ではなく婚家の家組織に従属するという習慣も明瞭となってきた。[[枕草子]]を書いた[[清少納言]]は、父[[清原元輔]]が少納言であったことから清原の「清」を取って名付けられている。しかし、時代が移り変わるに連れて、[[関白]]の母を[[大政所]]、正妻を[[北政所]]、江戸時代の[[征夷大将軍]]の正妻を[[御台所]]と呼ぶように、女性は婚家の夫・子供の視座から呼称されるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[東アジア]]では[[アニミズム]]的な背景により実名（[[諱]]：いみな）を他人が呼ぶことの禁忌があったため、同等者や目下の者が呼ぶために通称が発達した。例えば太郎、二郎、三郎といった誕生順（[[源義光]]を新羅三郎と呼ぶ等）や、武蔵守、上総介といった[[律令制|律令]]官名がよく用いられた。&lt;br /&gt;
なお、およそ公家武家を問わず諱については先祖代々の通字を用いることが多い（鎌倉[[北条氏]]の「時」、[[足利氏]]の「義」、[[織田氏]]の「信」、[[徳川氏]]の「家」など）。偏諱（へんき）といって主君の諱の一字拝領をすることが栄誉とされた他（[[北条高時]]→[[足利尊氏|足利高氏・足利尊氏]]←[[後醍醐天皇]]“尊治”）、烏帽子親の一字を受けることが多かった（北条高時は高氏・尊氏の烏帽子親である）。また、家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、祖先と同じ諱を称する先祖返りという習慣もあった（[[伊達政宗]]など）。また偏諱にも2通りあり、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があり、前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者はその人物と個人的な主従関係を現す場合が多い。例えば、[[豊臣秀吉]]の場合、前者として[[小早川秀秋]]、[[宇喜多秀家]]、後者には[[田中吉政]]、[[堀尾吉晴]]、[[大谷吉継]]などがある。さらに、何度も[[改名]]することもあり、[[上杉謙信]]は、'''長尾景虎'''→'''上杉景虎'''（[[関東管領]][[山内上杉氏]]から姓を授かる）→'''上杉政虎'''（[[上杉憲政]]の偏諱）→'''上杉輝虎'''（[[足利義輝]]の偏諱）→'''上杉謙信'''と目まぐるしい。江戸時代には、将軍からの偏諱を受ける家が決まっていたこともある（[[島津氏]]、[[伊達氏]]など）。更に、[[隠居]]や人生の転機、自尊心・虚栄心に、名を音読みや僧侶風・文化人風名に改める風習も未だ残っている（例：[[島津忠良]]→島津日新斎、[[柳生宗厳]]→柳生石舟斎、[[細川藤孝]]→細川幽斎、[[森田必勝]]（まさかつ・ひっしょう）[[佐藤孝行]]（たかゆき・こうこう）、芸能人でも見られ、二代目・市川猿之助→[[市川猿翁|猿翁]]、八代目・松本幸四郎→[[松本白鸚 (初代)|白鸚]]、など枚挙に暇が無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、明治維新以前の日本では、特に社会の上層に位置する場合はなおさら、一人の成人男性は氏（本姓）・家名の2つの一族名、諱と通称の2つの個人名を持っていたことになる。ここで気をつけなければならないのは、これらを組にして呼ぶ時の組合わせが決まっていたことである。例えば、忠臣蔵で知られる[[大石内蔵助]]はフルネームを記すと「大石内蔵助藤原良雄（おおいしくらのすけふじわらのよしたか）」であり、家名（名字）が大石、通称が律令官名で[[内蔵寮]]の次官を意味する内蔵助、氏が藤原、諱が良雄となる。この例に示されるように、家名には通称が、氏には諱が組み合わされ、家名に直接諱を組にすることは正しくなかった。例えば今日、織田弾正忠平朝臣信長（おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが）は「[[織田信長]]」と通称されるが、同時代的には「織田弾正忠」あるいは「織田弾正忠信長」と呼ばれても、「織田信長」という呼び方は呪詛の時など特殊な場面を除くとほとんど用いられなかった。もちろん、朝廷の公文書に記される時は「平朝臣信長」が正しい書式となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また賜姓という姓を授ける習慣もあった。例えば豊臣秀吉の賜姓による羽柴○○（[[徳川家康]]の羽柴武藏守大納言、[[前田利長]]の羽柴肥前守など）・豊臣○○（[[真田信繁]]など）、江戸幕府の外様大名の宗家への、松平賜姓による松平○○守（[[前田利常]]の松平筑前守、後の前田家の松平加賀守、島津家の松平薩摩守、毛利家の松平長門守など）と名乗らされていたなどである。（幕末[[戊辰戦争]]後に元の姓に復帰。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで明治維新以前の日本人男子名の構成要素を[[漢文]]表現と比較すると次の箇条書きのようになる。前者が日本における固有表現、後者が漢文表現である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*家名・苗字　→氏（シ）&lt;br /&gt;
*通称・あざな→[[字]]&lt;br /&gt;
*氏（ウヂ）　→姓（セイ）・本姓&lt;br /&gt;
*姓（カバネ）→対応なし&lt;br /&gt;
*諱（イミナ）→諱&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本姓・氏（ウヂ）は父系の血統を示すので、養子に入っても変えることはできないのが本来の原則であった。しかし、後世になるほどこの原則はそれほど厳密には適用されなくなり、他家の名跡を継いだ場合などの、他家の本姓に変わる例外も少なくなくなった。例えば、長尾景虎は、長尾氏は平氏なので平景虎だが、上杉氏の名跡を継ぎ上杉輝虎（上杉謙信）となった後は、上杉氏の姓の藤原から藤原輝虎となった。女性の場合、本姓はもちろん婚姻後も変わらず、家名は女性が自らの名前に冠することは通例ではなかったようである。中国でも同姓族集団の解体と氏の発生が起きたが、これは日本の同姓族集団の解体と家名の発生とは並行現象ではなく、中国での氏の扱いは父系血統を示す姓の扱いに近い。ただし、日本でも中国でも姓概念と氏概念の混同、日本における固有概念と中国の漢文概念の混同がしばしば見られ、実際の用例に当たるに際して注意を要する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、朝廷と関わりが生じるような階層でなければ実生活で諱を使うことは滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。西郷吉之助平隆永（さいごうきちのすけたいらのたかなが）の名前が明治維新に際し、周囲の者が父の諱「隆盛」を彼のものと誤解して朝廷に奏上してしまったために、以後新政府の公文書ではそのまま「平朝臣隆盛」、[[戸籍令]]以降は「[[西郷隆盛]]」と呼ばれるようになってしまったのが良い例である。&amp;lt;!--父の諱だったかどうかはともかく、それもかなり疑問なのだが、西郷の墨字を官吏が読み間違えたためじゃなかったかな--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には苗字は厳密に武士や武士から苗字を許された者の特権的[[身分表徴]]となり、公式な場で家名を名乗るのも武士や[[公家]]などの支配階級に限られていた。しかし[[百姓]]身分や[[町人]]身分であっても、村や町の自治的領域内では個々の家に属した上でそれらの構成員となっており、当然のことながら家名を有した。こうした百姓や町人の家名は私称の苗字とも呼ばれる。ただし、村や町を支配した武家政権はその内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、彼等が個々の百姓や町人を呼ぶ場合は家名を冠せずに百姓何某、町人何某と呼んだのである。また町人の場合は[[大黒屋光太夫]]など[[屋号]]を苗字の代わりに使うこともしばしばある。東日本では百姓も屋号を名乗ることが多かったが、八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の名字と組にして用いた。しかし、武士や公家は姓と苗字を持っていたが、苗字を私称した百姓や町人は私称した苗字を持つだけで姓は持たなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]によって新政府が近代国家として[[国民]]を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏（姓）と家名（苗字）の別、および諱と通称の別を廃して全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名において、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば[[夏目漱石]]の戸籍名である夏目金之助の金之助は通称系、[[野口英世]]の英世は諱系の名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===沖縄における姓名の歴史的変遷===&lt;br /&gt;
史料から見る限り、[[1392年]]に帰化したといわれる閩人三十六姓及びその子孫である久米村士族を例外として、[[第一尚氏|第一尚氏王統]]が成立するまでの王名を初めとする人名のほとんどは「[[琉球語|琉球語／琉球方言]]」によると推測される名のみであり、姓ないし氏があったことは確認できない。[[尚巴志王]]が[[三山時代|三山]]を統一し[[明]]に[[朝貢]]すると、国姓として「尚」を賜り、以後の王は中国風の姓名をもつようになった。中国風の姓名は「唐名（からなー）」と呼ばれ、以後士族一般に広がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、[[第二尚氏|第二尚氏王統]]成立後、士族はその采地（国王より与えられた領地）の地名を位階称号に冠して呼ばれる慣習が一般化し、さらに日本風の「名乗り」（前節の「諱」に相当、ただし全て[[音読み]]で読まれる）を持つことが普通になると、「采地名」＋「位階称号」＋「名乗り」が別の呼称システムとして確立した。これを「大和名（やまとぅなー）」と呼ぶことがある。「采地名」の人名化は日本における「氏」（苗字）の起源と並行するが、日本のように「采地名」が固定化した「氏」になることはなく、采地の変更にともなって変わりうる一時的な呼称にとどまった（王の[[世子]]は[[中城村|中城]]を所領とし、常に「中城王子」と称した。つまり「中城」という「采地名」は王世子のみに与えられる称号であり、継承されない）。また、それまでつけられていた「琉球語／琉球方言」による名は「童名（わらびなー）」とカテゴライズされ、公共領域からは排除されていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにして、同一人物が「大和名」と「唐名」の双方を持つようになったため、後世、特に近代以降にそれ以前の歴史上の人物を呼ぶ場合、人物によって通用する名前が異なる現象が生じている（主に久米村士族が「唐名」で呼ばれる）。例えば[[羽地朝秀]]（唐名：向象賢）は「大和名」が、[[蔡温]]（大和名：具志頭文若）は「唐名」の方が通用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[薩摩藩]]の琉球侵攻以後、「大和めきたる」風俗の禁止に伴い、多くの地名（したがって「采地名」）の漢字が日本本土に見られないものに置き換えられたため、本土と語源が共通する「采地名」も異なる漢字で書かれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
琉球処分後、日本の戸籍制度が沖縄にも適用されると、国民皆姓制度の導入と姓名の単一化が迫られた。士族、及び分家として「采地名」をもっていた王族はすべて「大和名」（「采地名」＋「名乗り」）を戸籍名としたが、[[尚泰王]]のみは「采地名」をもたなかったため、王とその直系の子孫のみは（「采地名」をもっていても）「尚」を姓とし、「唐名」を戸籍名とした。このため、王族出身者でも「大和名」を名乗った分家（伊江家、今帰仁家など）では姓名の形式がより「本土風」であるのに対し、「尚」家の多くの男子は今も原則として漢字一字をもって命名されている。また、全体として王族、士族出身者の名の読みには音読みが根強く残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、独特の漢字遣いをする姓を「本土風」の漢字に置き換える改姓を行ったり、逆に同じ漢字を使いながら読みを[[標準語]]に近づけるなど、日本本土への同化傾向が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[先島諸島]]においても、[[尚真王]]による征服以前に分立していた領主の名前には、領地名を名に冠したと考えられるもの（[[石垣島]]の平久保加那按司）、名だけが伝えられているもの（石垣島の[[オヤケアカハチ]]、[[与那国島]]のサンアイイソバなど）など、独特のものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお詳細は[[沖縄の歴史]]、[[琉球の位階]]、[[第二尚氏#尚氏と向氏|尚氏と向氏]]、[[沖縄の名字]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==諸文化の人名をめぐる習慣==&lt;br /&gt;
世界中、歴史上の諸文化における名前の扱いについて体系的に整理した包括的な研究資料などは現在のところ存在しないと思われる。だが、個別の事例については少なからぬ量の情報が入手可能である。以下ではそのようなさまざまな文化における姓名をめぐる習慣について、特徴的と思われる事例を紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===イスラム圏の名前===&lt;br /&gt;
[[アラブ人]]の伝統的な名前は'''クンヤ'''（「某の親」）、'''イスム'''（本人の名）、'''ナサブ'''（「某の子」）、'''ニスバ'''（出自由来名）、'''ラカブ'''（尊称・あだな）の要素から成り立っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; クンヤ&lt;br /&gt;
: クンヤは「アブー＝某」（某の父）、「ウンム＝某」（某の母）という形を取る。ただし、初代[[正統カリフ]]の[[アブー＝バクル]]はクンヤで名が知られるために、アブー＝バクルの名をイスムに用いる場合もある。歌手の[[ウンム＝クルスーム]]も、クンヤによる名前が知られている例である。&lt;br /&gt;
; イスム&lt;br /&gt;
: イスムは本人の名である。男性には[[ムハンマド・イブン＝アブドゥッラーフ|ムハンマド]]、[[ウマル・イブン＝ハッターブ|ウマル]]、[[ウスマーン・イブン＝アッファーン|ウスマーン]]、[[アリー・イブン＝アビー＝ターリブ|アリー]]など[[イスラム教|イスラム]]初期の指導者の名や、イブラヒーム（[[アブラハム]]）、ムーサ（[[モーゼ]]）、イーサ（[[イエス・キリスト|イエス]]）など[[預言者]]たちの名のほか、神のもつ99種の別名に奴隷を意味する「アブド」をつけたアブドゥッラー（神の僕）、アブドゥッラフマーン（慈悲深き方の僕）などの名も好まれる。女性には[[ハディージャ]]、[[ファーティマ]]などムハンマドの家族に由来する名前や、ヤスミーン（ジャスミン）、ズフラ（美）、ヌール（光）など女性らしさ・美しさを表す名前がよくつけられる。&lt;br /&gt;
; ナサブ&lt;br /&gt;
: ナサブは「イブン＝某」（某の息子）、「ビント＝某」（某の娘）という形を取る。また、某（本人の名）・イブン＝某・イブン＝某・…と本人の名の後にナサブを連結して先祖をたどる表現もできる。イブンはビン、ブンと言うこともあり、[[イラク]]などでは、元イラク大統領サッダーム・フセインのように「ビン」が省略されて、ナサブ（この場合はフセイン）をイスム（この場合はサッダーム）の後ろに直接連結する（イラクの例の詳細は後述）。&lt;br /&gt;
; ニスバ&lt;br /&gt;
: ニスバは出身地・所属部族・所属宗派に形容詞形語尾「イー」を付けた形を取る。[[マグリブ]]出身ならばマグリビー、[[アフガニスタン]]出身なら[[アフガーニー]]となる。&lt;br /&gt;
; ラカブ&lt;br /&gt;
: ラカブは本人のもつ尊称である。例えば[[アイユーブ朝]]の建設者ユースフ・ブン＝アイユーブは[[サラーフッディーン]]のラカブを持ち、このラカブが転訛した「サラディン」の名がよく知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上からわかるように、本来アラブ人には親子代々が継承する姓は厳密には存在しないが、部族民や上流階級などの成員で、祖先がはっきりしている者は、ナサブやニスバやラカブが『家名』のように用いられることもある。日本や欧米の人々には一般に姓と見なされている[[オサマ・ビンラディン|オサマ・ビン＝ラディン]]のビン＝ラディンは、何代前もの先祖某の名を使った「ビン＝某」がいわば『家名』のようなものとして用いられた例にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は[[スンナ派]]と[[シーア派]]、[[北アフリカ]]地域と[[アラビア半島]]地域とで異なるというように、集団・地域による傾向に大きな差が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば[[サウジアラビア]]ではパスポートに記載される名前は、「本人の名(イスム)、父の名によるミドルネーム（ナサブ）、祖父の名によるミドルネーム（ナサブ）、『家名』（先祖のナサブ、ニスバ、ラカブなど）」という順に表記される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[イラク]]の場合は、元大統領[[サッダーム・フセイン|サッダーム・フセイン・アッ＝ティクリーティー]]（Sadd&amp;amp;#257;m Husayn al-Tikr&amp;amp;#299;t&amp;amp;#299;）は[[ティクリート]]出身のフセインの子サッダームと読み解ける。サッダームの長男[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ＝ティクリーティー]]（Uday Sadd&amp;amp;#257;m Husayn al-Tikr&amp;amp;#299;t&amp;amp;#299;）はティクリート出身のフセインの息子サッダームの子ウダイ、サッダームの次男[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ・サッダーム・フセイン・アッ＝ティクリーティー]]（Qusay Sadd&amp;amp;#257;m Husayn al-Tikr&amp;amp;#299;t&amp;amp;#299;）はティクリート出身のフセインの息子サッダームの子クサイとなる。ウダイとクサイの例からわかるように、地名によるニスバは必ずしも当人の出身地を表すのではなく、父や祖先の出身地を表す場合もあるので注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非アラブのイスラム教徒の間では、[[ペルシア語]]で「息子」を意味する「ザーデ」、[[トルコ語]]で「息子」を意味する「オウル（オグル、オール）」の語を、ナサブに該当する部分に用いる他は、概ねアラブ人の名と似通った名が伝統的に使われていた。しかし、[[トルコ]]と[[イラン]]ではそれぞれ[[1930年代]]に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級はアラブと同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけた。この結果、両国では姓名は「本人の名」・「家の姓」の二要素に統合された。例えば、トルコ人[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]](Recep Tayyip Erdo&amp;amp;#287;an)はレジェップ・タイイップが名、エルドアンが姓であり、イラン人[[マフムード・アフマディーネジャード]]（Mahm&amp;amp;#363;d Ahmad&amp;amp;#299;nej&amp;amp;#257;d）はマフムードが名、アフマディーネジャードが姓である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、旧ソ連の[[アゼルバイジャン]]・[[トルクメニスタン]]・[[ウズベキスタン]]・[[タジキスタン]]・[[キルギスタン]]・[[カザフスタン]]や[[ロシア]]に住む[[チェチェン人]]などのイスラム教徒は、長くロシア人の強い影響下にあったために、[[スラブ諸語|スラブ語]]の父称を用いたスラブ式の姓が一般的である。例えば、アリーから創られた姓は[[ヘイダル・アリエフ|アリエフ]]、ラフマーンから創られた姓は[[エモマリ・ラフモノフ|ラフモノフ]]と言い、[[ソビエト連邦]]解体後もそのまま使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国人の名前===&lt;br /&gt;
中国人の名前は典型的には漢字1文字の姓（氏）と漢字1文字または2文字の名からなり、「父方の姓」「その父系血族の同世代に共通の漢字（'''輩行字'''）」「子に特有の漢字」という順に表記される（現在では輩行字に従わない命名もある）。例えば[[毛沢東]]には二人の弟がおり、それぞれ毛沢民、毛沢覃という名であったが、この三人に共有されている「沢」が輩行字である。漢字1文字名には輩行字がないことになるが、その場合でも同世代で共通の部首をもつ字のみを名付けることがある。元来姓は父系の血統を示すので原則としては[[夫婦別姓]]であるが、女性は結婚に伴って、夫の姓を名乗るようになることがある。夫の姓に続けて自分の姓を書く（従って漢字4文字になる）場合もある。二文字の姓（'''複姓'''）もあり、諸葛・上官・欧陽・公孫・司馬などが有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、歴史を遡れば姓と氏は別のものであった。[[周]]代には周王の一族は「[[姫 (姓)|姫]]」、太公望[[呂尚]]の子孫である[[斉]]公の一族は「姜」、後に[[始皇帝]]を出した[[秦]]公の一族は「嬴」といった姓を持ったが、これは[[漢族]]形成以前の部族集団の呼称とでもみるべきもので、族長層だけがこれを名乗った。こうした族集団の内部の父系血族集団が「氏」であった。例えば周代の姫姓諸侯である晋公の重臣であり、後に独立諸侯にのし上がった[[韓]]氏は姫姓であって周の族長層に出自するが、氏は韓であった。しかし[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]になると社会の流動性が高くなり、それによって姓はその根拠となる族集団が形骸化していった。また姓を持たず氏のみを持つ非族長層も社会の表舞台に立つようになっていった。そして[[漢]]代になると古代の姓の多くが忘れられ、氏が姓とも呼ばれて両者が混同される形で父系の血縁集団を示す語として用いられるようになったのである。前漢の[[皇帝]]を出した劉氏も姓を持たない階層に出自した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに伝統的に下層階級以外の男性は目上の者だけが呼んでよい名（「[[諱]]」とも言う）と別に同等者や目下の者が呼ぶ「[[字]]（あざな）」という呼び名を持った。現在は字の風習は廃れつつあるようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===韓国人・朝鮮人の名前===&lt;br /&gt;
韓国人・朝鮮人の名前は中国の影響を受けて、典型的には漢字2文字または3文字（まれに4文字）からなる。統一[[新羅]]の時代以前は今とまったく違う名前を用いていた。日本書紀や古事記に見られる朝鮮半島系の渡来人の名は中国式の名ではなかったことからもわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[高句麗]]王朝末期の貴族、[[淵蓋蘇文|泉蓋蘇文]]は今日の韓国では漢語発音で「チョン・ケ=ソ=ムン」と呼ばれているが、日本書紀の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「イリ・カスミ」と発音したことが知られている。「イリ」は高句麗語で泉を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「カスミ」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の[[万葉仮名]]に類似した表記方法と考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の姓名体系は統一新羅の時代に中国式を真似たものである。姓は基本的には漢字一文字であるが、皇甫などの二字姓（複姓）も少数だが存在する。これとは別に、祖先の出身地（本貫）を持ち、同じ姓・同じ本貫（同姓同本）を持つものを同族と見なす。この同族意識はかなり強固なものであり、かつては同姓同本同士の結婚は禁じられていた。ただし、同姓でも本貫が違う場合は問題ない。現在、朝鮮半島内で最も多いのは金海金氏（[[釜山広域市]]付近の[[金海市]]を本貫とする金氏）である。族譜（{{lang|ko|족보}}）という先祖からの系図を書いたものがあるが、女性の名は族譜に記載されない。族譜は[[李氏朝鮮]]ごろに党争の激しくなったころから作られ始めた。族譜の中で始祖のころの系図は伝説に依拠していたり、古代の偉人に結びつけただけのものが多く、信憑性はあまりない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名が漢字2文字の場合、同族で同世代の男子が世代間の序列を表すために名に同じ文字を共有する'''行列字'''という習慣がある。行列字は[[陰陽五行説]]に基づいて決められる。つまり「木・火・土・金・水」の入った字を順番に付けていく。たとえば、ある世代で木の入った字（根、桓）、次の世代は火の入った字（煥、榮）、次の世代は土の入った字（圭、在）……と続く。[[十干]]（甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸）、[[十二支]]（子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥）を使うこともある。ある世代で名前の漢字二文字のうち前の字を行列字にしたら、次の世代は後の字を行列字にする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では姓名はハングル表記であり、名の部分に関しては漢字では表記できない[[固有語]]を用いる例もある（日本語のように固有語に漢字を当てる訓読みの慣習を有さない故）。[[在日コリアン|在日韓国・朝鮮人]]は韓国・朝鮮式の本名のほかに日本式の通名を持っている場合が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===モンゴル人の名前===&lt;br /&gt;
モンゴル人は縁起の良い言葉や仏教的な言葉を選んで子供を名付ける。姓にあたるものはないが、[[氏族]]（オボク）の名称が姓に近い役割を持ち、中国の[[内モンゴル自治区]]では氏族名を姓として中国式に姓名で表記することがある。例えば、[[チンギス・ハーン]]家のオボクはボルジギン氏族（孛儿只斤氏）であるため、内モンゴル出身のチンギス・ハーンの子孫はボルジギン・某（孛儿只斤某）と称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、[[モンゴル国]]ではロシアの影響で父の名を姓の代わりに使い、本人の名の前に置く。例えば、[[朝青龍明徳]]の本名ドルゴルスレン・ダグワドルジは、ダグワドルジが本人の名、ドルゴルスレンが父の名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ベトナム人の名前===&lt;br /&gt;
[[ベトナム]]は[[漢字文化圏]]に属しており、人名も漢字1ないし2文字の姓と漢字1文字から2文字（まれに3文字）の名からなる構造面では中国と共通しているが、各字の機能面からみるとかなり異なっている。名のうち1字目の字は「間の名（tên đệm、ミドルネーム）」と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字、朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上に対しても呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、「間の名」は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはめったにない（姓を呼称に使うのはきわめて例外的な高い敬意を表すときに限る。典型例が[[ホー・チ・ミン]]を「ホーおじさん」と呼ぶ場合である）。たとえば「[[ゴ・ディン・ジエム]]（Ngô Đình Diệm、呉廷琰）」は、姓が「ゴ」、「間の名」が「ディン」、「呼びかけの名」は「ジエム」である（「ジエム政権」とはいうが「ゴ政権」とはいわない）。「間の名」に使われる字は男性で「Văn（文）」女性で「Thị（氏）」などある程度決まっているが、由緒ある家系では支派の名の区別に使われることがある。この場合支派の名は「姓」＋「間の名」で弁別され、世代を超えて継承されるため、時として両者があわせて2字姓（複姓）であるかのように扱われることもある。なお名付けに使われる語は必ずしも漢字名に限らず、庶民の間では[[固有語]]による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には上記の説明にあてはまらない固有のシステムをもつものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===インドシナ半島の名前===&lt;br /&gt;
[[ベトナム]]を除いて、伝統的にこの地域では姓はない。しかし、[[カンボジア]]・[[ラオス]]でも旧宗主国フランスの影響で父の名などを姓として名のうしろに付加するようになった。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[ミャンマー]]には今も家系に共通の姓はなく、必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。また、名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''[[タイ王国|タイ]]に関しては、[[タイの名前]]を参照のこと''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===インドネシア・マレーシアの名前===&lt;br /&gt;
この両国でも姓は義務づける法はないが、[[スマトラ島]]のバタック人や、[[マルク諸島]]（モルッカ諸島）、[[フロレス島]]などでは氏族名を姓のように用いる。[[ジャワ島]]のジャワ人とスンダ人の多くは名しか持たないが、貴族の家系は姓を持っていて名のうしろにつける。イスラム教徒のマレー人、アチェ人、ジャワ人、スンダ人はアラブ式に父の名による呼び名を持ち、名のうしろにつけて姓のように使う場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===フィリピンの名前===&lt;br /&gt;
フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある(例：グロリア・マカパガル・アロヨ）。姓は植民地時代にスペイン人の姓から選んで名乗ったため、スペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== キリスト教圏の名前 ===&lt;br /&gt;
[[キリスト教]]圏では、姓についての慣習は各国語圏で異なるが、名については[[聖人]]・[[天使]]に由来する名前が好んで付けられる。例えば、「[[マイケル]]」（英語）・「[[ミシェル]]」（フランス語）・「[[ミヒャエル]]」（ドイツ語）・「[[ミケーレ]]」（イタリア語）・「[[ミゲル]]」（スペイン語）・「[[ミハイル]]」（ロシア語）・「[[ミカ]]」（フィンランド語）は、すべて大天使[[ミカエル]]に由来する名である。その他、[[聖書]]に登場する人物の名が多い。ポール・パウル・パオロ・パブロ・パヴェル（聖[[パウロ]]）、ルイス・ルートヴィヒ・ロドヴィコ・ルイージ・ルドヴィクス（[[ルイ9世 (フランス王)|聖ルイ]]）、ジョン・ハンス・ヨハン・ヨハネス・ジャン・ジョヴァンニ・フアン・ジョアン・イヴァン・ヨアニス・ヤン・ショーン（使徒[[ヨハネ]]）などなど。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、古代ローマ人の名を由来とすることも多い（例：ジュリアス←[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の「ユリウス」の英語読み）。女性については、花などの名前を付けることも多い（例：ローズ←[[バラ]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[:en:Counterparts of given names|Counterparts of given names]]の項(英語)も参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スラブ系の名前 ===&lt;br /&gt;
[[スラヴ人|スラブ]]系の諸民族では個々の民族によって異なるが「名・ミドルネーム・姓」の3つの部分から成りミドルネームは父親の名前を基にして作るという人名の付け方を持つ民族が多く見られる。ここでは一例として[[ロシア語]]名を取り上げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア人の名前をフルネームで表記する時は原語での順序は「名・ミドルネーム・姓」となる。但し公式文書等では「姓,名・ミドルネーム」と書かれる。ミドルネームは'''父称'''（ふしょう）といい父親の名前を基にして作るので性別を同じくする同父兄弟のミドルネームと姓は必ず同一となる。性別を同じくすると特にことわるのは、[[ロシア語]]には[[文法]]上の[[性 (文法)|性]]として男性、中性、女性の三性がありロシア人のミドルネーム・姓は殆ど全ての場合個人の生物学上の性に依って男性形・女性形の異なる語尾を採る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;4&amp;quot; style=&amp;quot;float: right; margin: 0 0 1em 1em; border-collapse: collapse;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ '''ロシア人の父称の付け方'''&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
| align=center rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | '''父の名の語尾'''&lt;br /&gt;
| align=center colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | '''父称'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=center | 男性形&lt;br /&gt;
| align=center | 女性形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| -a/-ja&lt;br /&gt;
| -ich&lt;br /&gt;
| -ichna/-inichna&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| -i/-ji&lt;br /&gt;
| -jevich&lt;br /&gt;
| -jevna&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| （子音）&lt;br /&gt;
| -ovich&lt;br /&gt;
| -ovna&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父称は父親の名前にその語尾の音に応じた適切な語尾を付加して作られる（右表参照）。父称の男性形は男性のミドルネーム・女性形は女性のミドルネームに用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば父の名が1)Ilija（イリヤ）、2)Nikolaji（ニコライ）、3)Ivan（イワン）の三つの場合で父称男性形はそれぞれ1)Iliich（イリイチ）、2)Nikolajevich（ニコラエヴィチ）、3)Ivanovich（イワノヴィチ）となり父称女性形は1)Iliinichna（イリイニシナ）､2)Nikolajevna（ニコラエヴナ）、3)Ivanovna（イワノヴナ）となる。現代では｢-イチ｣の形が多くなっているが、中世までは「-シ｣（「～の息子」という意味合い）という語尾を採る父称が多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
姓の部分は[[形容詞]]の変化に準じて男性形・女性形となる。-skij、-in、-jev、-ov等は地名などについてその場所に帰属する、又は出身である等を示してスラブ人の姓を造る接尾辞であるが、これらは形容詞男性形で対応する形容詞女性形語尾は、-skaja、-ina、-jeva、-ova等となる（-in, -jev, -ovは姓に限らず一般に名詞に付けて物主形容詞を造る接尾辞である）。こうして自分の名がニコライ、姓がカレーニンで父の名がイワンという男性の場合はニコライ・イワノヴィチ・カレーニンが正式なフルネームとなる。この人の姉妹で、アンナという女性の場合は、アンナ・イワノヴナ・カレーニナがフルネームとなる。またストラヴィンスキーなどの姓は女性の場合ストラヴィンスカヤとなる。ロストフ（Rostov）というような姓は女性だとロストワ（Rostova）となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア語以外での人名の規則や傾向についてはロシア語名と異なる部分も少なくないが、基本概念は同じである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===スペイン語圏の名前===&lt;br /&gt;
スペイン語圏では、姓は他の多くの国と同じ様に、基本的に父方から子へと父系相続で伝えられるのが基本となるが、個人の姓名を構成する部分の数は人によって異なる。名が最初に来る点では共通で、それに続く部分は父方の姓と母方の姓の一部または全部からなる。例えば「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」と3つの部分からなる名前がある。あるいは「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓、母方の祖母の姓」と4つまたは5つの部分からなる姓名を持つ場合もある。また、女性は結婚すると「名、父方の祖父の姓、 de+夫の父方の祖父の姓」で名乗るのが一般的となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ポルトガル語圏の名前===&lt;br /&gt;
ポルトガル語圏では、姓名の構成はスペイン語圏によく似ているが、姓名に父方の姓と母方の姓を並称する場合は「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」の語順となり、スペイン語圏と反対である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ドイツの名前===&lt;br /&gt;
18世紀ドイツにおいては、洗礼の際にミドルネームが与えられることがあった。（必ず与えられたわけではない）もしミドルネームが与えられた場合には、その人はそのミドルネームで知られることになり、ファーストネームは余り用いられなかった。しばしば教会の記録などでもファーストネームが省略され、ミドルネームとラストネームだけが用いられた。また、ある一家の男の子達が全員ヨハネスというファーストネームを持つ、というようなこともあった。この場合でも、洗礼と共に各人に別々の名前が与えられ、その名前が用いられるようになるため、問題がなかったとされる。また、女性のファミリーネームを記録する際には元の名前の最後にinを付す習慣があった。（例えば「Hahn」が「Hahnin」と書かれる。）また、一家で最初に生まれた男の子には父方の祖父の名を、一家で最初に生まれた女の子には母方の祖母の名をつけることがしばしば見られた。「花の咲く土地」を意味すると思われる姓Floryに、他にもFlori、Florea、Florey、Flurry、Flury、Florie、など似た姓が数多くある。これはその姓を持っていた人々が文字を書くことができず、名前を発音することはできても綴ることができなかったため、筆記を行った人によって異なる綴りになったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===英語圏の名前===&lt;br /&gt;
英語圏の姓名は多くの場合、3つの構成要素からなる。ファーストネーム、ミドルネーム、ラストネームである。ファーストネームはギブンネーム(given name)とも呼ばれ、ラストネームはサーネーム(surname)、ファミリーネーム (family name)などとも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラストネームは、日本における姓とほぼ同じもので、父系の家系を通じて受け継がれる。稀に、母のラストネームが父のラストネームとハイフンでつながれて子に受け継がれることなどもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミドルネームはファーストネームと同時に親が名付けるもので、多くの場面でイニシャルだけの省略系が用いられる。（ミドルイニシャルと呼ばれる。）稀に、ミドルイニシャルだけを持ち、ミドルネームがない場合もある。[[ハリー・S・トルーマン]]大統領はその一例であり、このようにイニシャルだけを与えることはアメリカ南部に見られた風習だとされる。なお、ミドルネームが無い場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西欧社会では女性は結婚と共にそれまでの姓を夫の姓に換えることが普通であったが、アメリカでは、20世紀中ごろから女性が結婚後も姓を変えない風習がひろまりつつある。また、両者の姓を併記するカップルもいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古代ローマ人の名前 ===&lt;br /&gt;
[[古代ローマ]]の自由人男性の氏名は多くの場合3～4の部分からなっていた。個人の名前、氏族の名前、家族の名前、および添え名である。例えば[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、「ユリウス氏族のカエサル家のガイウス」という名であった。このうち個人名のバリエーションは少なく、20種類ほどに限られていた。また個人名はバリエーションが少ないこともあって略して記されることも少なくない。以下はその対応。&lt;br /&gt;
*[[ガイウス (個人名)|ガイウス]] - C　&lt;br /&gt;
*[[マルクス]] - M &lt;br /&gt;
*ルキウス - L &lt;br /&gt;
*ティトゥス - T&lt;br /&gt;
*[[ティベリウス (個人名)|ティベリウス]] - Ti &lt;br /&gt;
*プブリウス - P&lt;br /&gt;
*クィントゥス - Q&lt;br /&gt;
*デキムス - D&lt;br /&gt;
*グナエウス - Cn&lt;br /&gt;
*アウルス - A&lt;br /&gt;
*ヌメリウス - N（またはNum）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自由人女性には個人名はなく、氏族名の女性形やあだ名で呼ばれていた。例えばクラウディウス氏族の娘はクラウディアと呼ばれ、ユリウス氏族の娘は[[ユリア]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
養子の場合にはもとの姓を家族名の後ろにつけた。例えば、[[オクタウィアヌス]]の場合「ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス」がカエサル家に養子となった後は「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス」となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
沿え名は国家に功績のある場合などに元老院の決議などにより与えられた。多くアフリカヌス、ゲルマニクスなど勲功を上げた土地の名にちなんで与えられた。また出身地の名称からとられることもあった。こうした添え名は一代限りのものも多かったが世襲を許され、家族名として用いられるものもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===オランダの名前===&lt;br /&gt;
[[オランダ]]では前置詞 van を含んだ姓 (surname) が多く見られる。van は英語 of あるいは from の意味を持ち、出身地を示すが、現代ではもともとの意味はほとんど失われている。英語圏で見られるようなミドルネームは持たない。複数の個人名 (given name) を持つこともあるが、日常的に用いるのはそのうちの1つだけであり、ほとんどの場合はファーストネームを使う。そのため大部分の人はファーストネーム・サーネームの組み合わせで広く知られることになるが、フルネームで最も良く認識されている場合もある。貴族の家系では Huyssen van Kattendijke などの[[複合姓]] (double surname) を持つこともあり、この場合 Huyssen はファーストネームではないことに留意する必要がある。[[ナイト]]に対応する称号として ridder が知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ファーストネームが複雑な場合には省略した通称で呼ばれることもあり、例えば Hieronymusch が通称 Jeroen などとなる。大きな契約や結婚、IDカードなど以外には通称を用いるのが普通である。複数の個人名を持っている場合、通称も複数個からなるものを用いることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の国や地域===&lt;br /&gt;
*[[インド]]については、[[インド人の名前]]を参照。&lt;br /&gt;
*[[アイスランド]]では、家系に共通の姓はない。姓名は通常、子供の名と、父の名の語尾に接尾語を加えた名の2つの部分からなる。接尾語は、男の子には息子を意味するソン（son）、女の子には娘を意味するドッティル（dottir）を父の名の後に付すという形をとる。[[電話帳]]では、ファーストネームにより検索することになる。&lt;br /&gt;
*[[トルコ]]では、1934年に導入された創姓法によって、国民全員が姓を持つことが義務付けられた。&lt;br /&gt;
*[[フランス]]ではナポレオン法典によって子供につけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-PaulやJean-Lucのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような状況の中で名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子供に付けられる名前が少なく（アラン、フィリップなど）、同じ名前の人物が多数いるという状況で、苦情が絶えない。&lt;br /&gt;
*[[ギリシャ人]]は長男に父方の祖父の名をつける、などの習慣がある。また「～の息子」を意味する「～プーロス」という姓が用いられることも多い。（例：「ステファノプーロス」=「ステファノスの息子」→ギリシャ系アメリカ人で米TVコメンテーターの[[ジョージ・ステファノポロス]]等が有名）。また古代ギリシャ人では姓は一般化せず、姓が普及したのは有力貴族が成長してきた9世紀の[[東ローマ帝国]]時代以降のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人間以外の名前 ==&lt;br /&gt;
犬や猫などの[[ペット]]には通常、人名と同様の個体固有の名前が与えられる。日本では犬の「ポチ」猫の「タマ」などが比較的典型的な名前として知られている。アメリカでは犬には「Dude」が多い。これらの名前からわかる通り、ペットの名前は人間の名前とは明らかに異なるものである場合も多い。&lt;br /&gt;
だが、最近「ペットは家族の一員」という考えが広まるにつれ、人間と同様の名前をつけるケースも多くなっている、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日本には茶道具、刀剣や船などに人名に類似した固有名をつけてきた伝統があり、今日でも産業用[[ロボット]]にも個体固有の名前を与えることがあるが、これは欧米などに見られないものであるとされる。これは日本人の工場労働者がロボットを敵対視しないため、と説明されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[愛称]]、[[ハンドルネーム|ハンドル]]、[[ラジオネーム]]、[[ペンネーム]]、[[ビジネスネーム]]、[[洗礼名]]、[[通名]]、[[源氏名]]、[[芸名]]、[[二つ名]]、[[戒名]]&lt;br /&gt;
*[[ユダヤ人の姓名]]&lt;br /&gt;
*[[名前]]、[[改名]]、[[呼称]]、[[夫婦別姓]]、[[固有名]]、[[寿限無]]、[[戸籍法]]&lt;br /&gt;
*[[人名一覧]]&lt;br /&gt;
*[[漢風の姓名]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
=== 参考文献 ===&lt;br /&gt;
* 松本脩作・大岩川嫩　『第三世界の姓名 人の名前と文化』、明石書店、1994年　ISBN 4750305790&lt;br /&gt;
* 朝日ジャーナル編　『世界のことば』、朝日新聞社、1991年、125頁（アイスランド人の名前について） ISBN 4022595361&lt;br /&gt;
* 東京外国語大学語学研究所　『世界の言語ガイドブック』(2)「アジア・アフリカ地域」、三省堂、1998年、269頁（ミャンマー人の名前について）　ISBN 438535815X&lt;br /&gt;
*&amp;quot;Names&amp;quot; The New Encyclopaedia Britannica (15th ed.) 2002. Chicago, IL: Encyclopaedia Britannica.&lt;br /&gt;
*&amp;quot;Naming&amp;quot; Encyclopedia of Marriage and the Family. David Levinson (editor in chief, 1995. New York, NY: Simon &amp;amp; Schuster Macmillan&lt;br /&gt;
*&amp;quot;Name&amp;quot; The World Book Encyclopedia. Chicago,IL:World Book Inc.&lt;br /&gt;
* 21世紀研究会 編『人名の世界地図』 文春新書　[[文藝春秋 (出版社)|文藝春秋]] 2001年　ISBN 4166601547&lt;br /&gt;
* 梅田修 『世界人名ものがたり―名前でみるヨーロッパ文化』講談社現代新書　[[講談社]]　1999年 ISBN 4061494376&lt;br /&gt;
* 梅田修 『ヨーロッパ人名語源事典』大修館書店 2000年　ISBN 4469012645&lt;br /&gt;
* 梅田修 『世界人名ものがたり―名前でみるヨーロッパ文化 』講談社現代新書　講談社 1999年　ISBN 4061494376&lt;br /&gt;
* 辻原康夫『人名の世界史』[[平凡社]] 2005年 ISBN 4582852955&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他言語版ウィキペディアの関連項目 ===&lt;br /&gt;
*[[:en:Family Name]]（en）&lt;br /&gt;
*[[:en:Harry S Truman]]（en）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html 全国の苗字（名字）１０万種掲載]&lt;br /&gt;
*[http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/shiro.html 静岡大学人文学部 城岡研究室] - 日本、静岡、沖縄、ドイツの姓についての資料がある&lt;br /&gt;
*[http://www.myshop.co.jp/japancal/fname/name.htm 名字見聞録]&lt;br /&gt;
*[http://park14.wakwak.com/~myj/ 苗字館]&lt;br /&gt;
*[http://www.jetro.go.jp/turkey/middleeast/special/riyadh_arabjinmei.html アラブ人名の由来と正しい呼び方] - [[日本貿易振興会]]（[[ジェトロ]]）リヤド事務所&lt;br /&gt;
*[http://www.awave.or.jp/home/town/cherry/story/06.htm ミャンマー人の名前]&lt;br /&gt;
*[http://www.nhk.or.jp/dig/essay/morimoto/0002.html 流れにのってアニッサ・ミャンマー 0002.もう一度思いを確かめに] 森本綾 &lt;br /&gt;
*[http://www.meijiyasuda.co.jp/ 明治安田生命保険] - 旧明治生命による[[1912年]]以降の名前上位10位の内容がある。&lt;br /&gt;
*[http://homepage2.nifty.com/zatsugaku/zatugaku/000625.html アメリカ人の姓] - 吉祥寺村立雑学大学通信&lt;br /&gt;
*[http://www.laeff.esa.es/~jmaiz/longnames.html Why are some Spanish names so long?]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.com/SiliconValley/Heights/5445/sname.html South Indian Naming Fundas]&lt;br /&gt;
*[http://mlprevention.homestead.com/files/Alert_-_KYC_Naming_Conventions.doc Untitled Document] , James R. Richards in Money Laundering Prevention &amp;amp; Deterrence &lt;br /&gt;
*[http://csssrvr.entnem.ufl.edu/~jhf/kiss15.htm 15. First name, middle initial, last name]&lt;br /&gt;
*[http://freepages.genealogy.rootsweb.com/~florey/names.html German naming practices and Flory/ Flora names]&lt;br /&gt;
*[http://www.encyclopedia.com/html/n1/name.asp Name] - Encyclopedia.com&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書 ==&lt;br /&gt;
*紀田順一郎  『名前の日本史』 文藝春秋　ISBN 4166602675 &lt;br /&gt;
*阿辻哲次 『「名前」の漢字学』日本人の“名付けの由来”をひも解く 青春出版社 ISBN 4413041283&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出典==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|人名}}&lt;br /&gt;
[[category:人名|*]]&lt;br /&gt;
[[category:民族|しんめい]]&lt;br /&gt;
[[category:戸籍|しめい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%8C%96%E7%A4%BE%E4%BC%9A&amp;diff=5776</id>
		<title>情報化社会</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%8C%96%E7%A4%BE%E4%BC%9A&amp;diff=5776"/>
				<updated>2007-06-03T08:11:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=情報化社会&amp;amp;oldid=12883022&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''情報化社会'''（じょうほうかしゃかい）とは、 [[情報]]を扱う諸活動が顕著であることを特徴とする[[社会]]のことである。   &lt;br /&gt;
    &lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
どのような活動が、どのような意味において顕著であるかについては、情報化社会という語を用いる専門家の間で基準が統一されているわけではないが、よく見られる議論には次のようなものがある。   &lt;br /&gt;
*情報関連産業や関連技術が他の経済部門、技術部門と比べて顕著な成長を見せること   &lt;br /&gt;
*労働者、企業、国家の経済的繁栄のために情報技術の活用が重要な鍵となりつつあること   &lt;br /&gt;
*政治、文化、教育、日常生活など様々な場面に情報技術が浸透し、大きな変化をもたらすこと   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
また、情報を扱う諸活動が顕著な社会については情報社会と呼び、そのような社会への移行の速度が顕著であるような社会（情報化が顕著である社会）を指して情報化社会とする用法も見られる。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
[[1990年代]]半ば以降、[[インターネット]]や[[携帯電話]]の普及に伴い、情報社会や情報化社会の語、概念は広く用いられるようになったが、着想は[[1960年代]]前半にまで遡るとされるのが普通である。基本的には、批評家、未来学者、官僚、社会学者など，時代の変容や大規模な社会変動を考える人々によって多く用いられてきた語である。情報社会のあり方を予測したものや、あるべき姿を提唱したものは、一般的に「情報社会論」と呼ばれる。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
情報化社会や情報社会の概念は、未来の社会像として予測、あるいは提案するべく用いられる場合もあり、現代社会の特徴であるとされる場合もある。ちなみに、既に情報化が完了した、あるいは情報化の逆行現象（脱情報化、とでも呼ぶべき事態）が進行している、とする論は非常に稀である。以下に紹介するように情報社会の概念には多くの批判が寄せられているが、そうした論も情報化が起こる可能性を否定したり、情報化が社会を特徴づける概念として不適切であることを指摘したり、情報化が危険を孕むものでばら色の未来ではありえないと警鐘を鳴らすものではあっても、脱情報化が進んでいる、情報化は既に過去のものとなった、といった類の議論ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情報化社会の特色 ==   &lt;br /&gt;
最も典型的には、[[産業社会]]（工業社会とも）、[[農耕社会]]、[[狩猟社会]]などとの対比で語られ、その場合には社会の発展段階のひとつとしての意味合いが強い。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
産業社会の成立のきっかけとなった一連の出来事を[[産業革命]]と言うことがあるが、これに対して情報化社会の進展を[[情報革命]]と称することもある。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
情報化社会には様々な類義語がある。類義語は「情報」にまつわる語を伴うのが普通であり、マルチメディア社会、デジタル社会、知識社会、ネットワーク社会、高度情報化社会、情報ネットワーク社会、グローバル・ネットワーク社会、などがある。それらの語の「社会」を「時代」におきかえたものも一部に見られる。他に、特定の論者による造語として認知されているものに知価社会（堺屋, )、情報文明（公文, ）、複合的ネットワーク社会（須藤, ）、などがある。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
更に、「情報」、「[[コンピュータ・ネットワーク|ネットワーク]]」、「[[メディア]]」等の語を含まない「脱工業社会」、「ポストモダニティ」（脱近代）、「ポストフォーディズム」、「後期資本主義」などの概念、用語も、内容的には関連のあることがしばしば認識されている。これらの概念は、情報や情報技術をきっかけとした社会や経済の質的変換、あるいは飛躍的発展などを指すために用いられることがある。但し、情報や情報技術の社会的効果は必ずしも強調されているとは限らず、社会変動をもたらす多くの要素の一つであったり、あるいは原因というよりも結果、あるいは社会変化を測定する際の指標といった位置づけになっているものもある。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
具体的に何が情報化するのか、という点になると意見は様々だが、初期に目立った議論は、[[経済]]の情報化である。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
一般に、情報化が経済だけに見られるものである場合には、情報経済と呼んで社会全般については問題にしないケースもある。但し、そのような情報経済についての研究が、情報社会論の文脈で引用、解釈されて、情報社会の到来を裏付けるひとつの根拠として扱われる場合も少なくない。一般に、情報社会論は情報経済論を含むものとして論じられている（逆に、情報社会論が情報経済論に取り込まれている場合もある）。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
より具体的には、次のような根拠で、ある社会が情報社会ないし情報経済だとされる。   &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
* 情報の製造、加工、流通を主とする[[産業]]（情報産業）やそれに準ずる産業が[[国民総生産]]に占める割合が大きいこと   &lt;br /&gt;
* 情報を扱うことを主とする職種に従事する労働力の割合が大きいこと   &lt;br /&gt;
* 情報産業の急速な成長が、[[経済成長率]]へ貢献する度合いが高いこと   &lt;br /&gt;
* 情報を扱うことを主とする職種に従事する労働力の割合が増大していること   &lt;br /&gt;
* 情報産業によって提供される[[情報サービス]]や[[情報処理技術]]が、その他の諸部門の生産性上昇や競争力増強に貢献する度合いが高いこと   &lt;br /&gt;
* [[消費財]]における、情報的な側面が、それ以外の側面よりも商品の価値を大きく左右すること。情報的な側面は、[[広告]]によって付加される商品のイメージ、ブランドのイメージ、商品のデザイン（実用的な機能と対照される）、など様々に定義される   &lt;br /&gt;
* [[情報財]]の消費量の増加。物質的な豊かさを追求するための消費に代えて、精神的な豊かさを追求するための消費の台頭   &lt;br /&gt;
* 情報インフラの発達と共に、企業の立地がより自由になり、事務処理や生産などの機能をグローバルに展開させることが容易になること。また、その為に国際競争や地域間競争における勢力関係が変質する、または変質する可能性があること。   &lt;br /&gt;
* 情報財が主となる経済では、従来のような希少性に基づく競争原理が成立せず、共有、共創型の経済に転換すること   &lt;br /&gt;
* 情報技術の活用によって、企業の経営形態や労使関係、労働の形態などが変化すること   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
他に、政治、文化、生活などの諸側面についても、様々な説が提唱されているが、経済分野の情報化に関する研究に特徴的なことは、情報化の度合いを測定することに対する強い関心である。情報化は果たして本当に起こりつつある変化なのか、それはどのような指標によって最もよく把握できるのか、といった点についての議論は多く、各国の情報化の度合いを比較する統計も多く出ている。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
政治に関する研究においては、例えば[[電子政府]]、[[電子投票]]、政党によるインターネットの活用などを測定、観察し、それを持って政治の情報化を語る研究はそれほど盛んではない。代わりに、そのような情報化が進むと政治がどのように変容するのか、ということについての議論は多い。それは、一方では、実証的なケーススタディやサーベイ調査の対象になるものがあり、現在進行中の情報化として検証されている。但し、こうした調査が、情報社会が実現した、もうすぐである、まだまだ情報化が始まったばかりである、という類の診断を主な目的としている場合は少ない。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
もう一方では、電子民主主義、サイバー・ポリティクスなどといった用語を用いながら、政治のラディカルな変容を描き出す論がある。ケーススタディー、顕著な事例などを先駆的な事例と考えて比較的大胆な議論を展開するものも多い（そうでないものもある）。描き出される情報化社会の政治体制としては、アナーキズムや直接民主主義、グローバル民主主義、市民社会の復権、草の根民主主義、コミュニティーの復権、といったものがある。但し、初期の情報社会論、メインフレーム系のコンピュータを想定したものの中には、知識の大規模集積とそれを活用した計画・予測技術の飛躍的発展を予測するようなものもある。また、一般に、情報社会におけるテクノクラシーの台頭、政府の管理・監視能力の増大などを警戒する論も多い。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
== 学説としての起源 ==   &lt;br /&gt;
情報化社会の概念を初期に提唱した、影響力の大きな論説として、非常に頻繁に言及される研究、著作がいくつかあるのでそれを以下に挙げる。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
* [[1962年]] - [[フリッツ・マッハルプ]] 『知識産業』 (和訳 1969年)   &lt;br /&gt;
* [[1963年]] - [[梅棹忠夫]]『情報産業論』&lt;br /&gt;
* [[1968年]] - [[増田米二]]『情報社会入門：コンピュータは人間社会を変える』   &lt;br /&gt;
* [[1969年]] - [[林雄二郎]]『情報化社会』   &lt;br /&gt;
* [[1969年]] - [[アラン・トゥレーヌ]]『脱工業化の社会』 （原著はフランス語、英訳は 1971年、和訳は 1970年）   &lt;br /&gt;
* [[1973年]] - [[ダニエル・ベル]] 『[[脱産業社会の到来]]』（[[ポスト産業社会]]とも）   &lt;br /&gt;
* [[1977年]] - [[マーク・ポラト]]『情報経済』（和訳 1982年）   &lt;br /&gt;
* [[1980年]] - [[アルビン・トフラー]]『[[第三の波]]』 （和訳 1982年）   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
一般に日本における情報化社会論、情報社会論の文脈では、梅棹忠夫が最初であるとされ、それ以前に遡る論はないようである。また、日本において「情報化社会」という言葉を提唱したのは林雄二郎である。英語圏では社会学者ダニエル・ベルと評論家アルビン・トフラーへの言及が非常に多く、マッハルプへの言及は少ないが、マッハルプ以前に遡るものはほとんどないようである。それ以外の研究者、著作については紹介者によって含まれたり含まれなかったりする傾向にある。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
1960年代前半におけるマッハルプと梅棹の業績は、日本では、通常相互に独立したものと考えられている。梅棹の業績は英語圏においてはあまり知られておらず、むしろ日本発の情報社会論としては増田米二が著名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
増田米二の情報社会論は当時もてはやされていた[[未来学]]の影響の下にあったが、情報メディアの発達が経済分野を超え、社会・文化全般にわたる価値変容を促すこと、その中で個人がいかにして主体的な価値創造を行ない得るかという問題に注目を向けた点で、初期研究者の中では傑出しているといえる。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
また、これだけを見ると1960年代における先駆的な研究があり、1970年前後から本格的な研究、著作が出版されるようになったとも見える。だが、実際にはベルは独立した書籍の形でこそ出版していなかったものの1960年代前半からポスト産業社会について論じており、最も早いものは、ボストンで開催されたセミナーのタイトルで、1962年にまで遡るという (Bell, 1973; Ito, 1980)。 ちなみに、同じポスト産業化という用語を用いたフランスにおけるトゥレーヌの仕事はベルのものとは独立したものであったと一般に考えられている。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
日本では、早くから[[行政]]が情報化社会、情報社会の概念に注目して来た。研究者の中でも余り引用されることはないが、その最も早いものは恐らく経済計画審議会情報研究委員会が[[1969年]]に編集した『日本の情報化社会：そのビジョンと課題』であろう。これはダイヤモンド社から発行された書籍と、パンフレット状のものと2種類があるが、後者については佐枝 (1999) に当時の背景や分析などが見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な批判 ==   &lt;br /&gt;
#:このような情報社会論、情報化社会論の類に対しては、いくつもの批判が提示されている。   &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
# 「[[技術決定論]]」的であること。   &lt;br /&gt;
#: すなわち、情報技術に注目し、それが社会変動を予測する鍵となると考える傾向があり、&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
他の諸要素—文化、政治、経済、など—が充分に考慮されていない、とする批判である。   &lt;br /&gt;
# 情報革命と称される事態は実際には決して到来しない、とする批判。   &lt;br /&gt;
#: 20世紀後半に限っても、[[双方向ケーブル]]、[[ビデオテクスト]]、[[ケーブルテレビ]]など、&amp;lt;BR&amp;gt;社会に大きな変革をもたらすと一部で考えられ、またそのように論じられた技術があるが、それらは実際には広く利用されないままに終わったり、普及したものの大きな社会変動をもたらすことなく終わったりしている。情報社会の到来を告げる論はそうした過去の例を軽視、あるいは無視する傾向にあることを指摘する論がある。一般に、[[メディア (媒体)|メディア]]が社会を変革するという発想は非常に多く見られ、また的外れなものに終わっているという指摘もある。   &lt;br /&gt;
#: 更に、メディアの浸透や新しい情報、コミュニケーション技術が社会を大きく変動させるとする議論は「情報社会」の誕生を遥か遡って存在していることも指摘されている。電報や新聞が社会変動をもたらすと考えられたことがあり、そこで議論された社会変動の内容には、今日情報社会論として流布しているものとよく似た論点が含まれている。   &lt;br /&gt;
# 上記の情報社会の到来にたいして懐疑的な見方と関連しているが、昨今の情報技術の発展は情報の量的な変化を起こすかもしれないが、伝播される情報の質的な変化はもたらさない、とする批判。そこでは，情報技術がもたらしたのは情報を伝える速さや量、また手段であり、それらは社会が動く仕組みに抜本的な変化をもたらしているわけではない，とされている。   &lt;br /&gt;
# 情報社会の到来を告げる議論は、技術を売り込みたい[[情報産業]]の広告として機能している、あるいは情報技術立国を目指す[[国家]]の片棒を担がされている、とする批判。情報社会の研究はしばしばそうした企業や政府の資金援助を受けて行われるものであることを指摘する場合もある。これは、上記の2点とは異なり、必ずしも「そのような予測は外れる」という形の批判ではない。むしろ、企業や国家の思惑に操られてしまい、批判的に物事を見ることを怠っている、社会にとって本当に望ましいことが何であるかを真剣に考えることを忘れてしまっている、といった含みを持っている場合も多い。   &lt;br /&gt;
# 革命的な変化を通じて[[ユートピア]]が実現される、という論調に異を唱えるもの。このタイプの批判は、情報社会と呼びうる何かが到来することは必ずしも否定しないが、それは理想的な社会とは程遠く、様々な害悪をもたらすものだ、と警鐘を鳴らす。多くの研究者によって描かれている情報社会のネガティブなビジョンには次のようなものがある。   &lt;br /&gt;
#* [[データベース]]や[[監視カメラ]]などに代表される監視・管理技術が発達し、政府や企業によって[[プライバシー]]が侵害され、[[言論の自由]]や[[思想の自由]]が脅かされる社会。実際にイギリス政府は主に犯罪を減らすために監視カメラ(CCTV)を広範囲に導入しており、さまざまな議論をよんでいる。   &lt;br /&gt;
#* 少数の企業によって[[報道機関]]が[[独占]]（あるいは[[寡占]]）され、多様な言論が流通する健全な[[民主主義]]が脅かされ、少数派の意見、企業や[[資本主義]]を批判する意見などが抑圧される、反民主主義的な社会   &lt;br /&gt;
#* 少数の企業によって文化産業が独占（あるいは寡占）され、消費者が健全な道徳や判断力を失ったり、「[[豊かさ]]」について誤った理解をしたり、文化的な多様性や創造性が失われたりする結果生まれる、貧しく、空しい社会   &lt;br /&gt;
#* [[情報技術]]への理解が深く、[[情報処理]]能力に長け、情報へのアクセスに恵まれた、一部のエリートと、それ以外の人々の間の貧富の格差が広がり、より強固な搾取の構造が打ち立てられる社会   &lt;br /&gt;
#* [[犯罪]]を実行する為の関連技術と誰でも簡単に触れる事が出来てしまい、[[治安]]が劇的に悪化している社会。現実にインターネットを悪用した犯罪は急増している。&lt;br /&gt;
# 情報の過剰化により本来得られるべき情報が得られず、また偽情報の氾濫などにもより、情報自体の意味が損なわれる。つまり、「情報化社会とは情報がゴミと化す社会のことだ。」との批判もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==   &lt;br /&gt;
* [[情報]]   &lt;br /&gt;
* [[情報革命]]   &lt;br /&gt;
* [[情報技術]]   &lt;br /&gt;
* [[情報格差]]&lt;br /&gt;
* [[情報教育]]&lt;br /&gt;
* [[情報・メディア・コミュニケーション研究]]&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
情報化社会は，[[サイエンス・フィクション|SF]]の題材にされる事もある。その中にはSFの歴史にその名を残す物も多い。特に1980年代に発表された、[[サイバーパンク]]と呼ばれるジャンルは高度にネットワーク化された社会の到来を予言し、そこで使われていた[[サイバースペース]]という概念は後年になって広く用いられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*小説&lt;br /&gt;
** [[ニューロマンサー]]　[[ウィリアム・ギブスン]]&lt;br /&gt;
* 映画&lt;br /&gt;
** [[ブレードランナー]]&lt;br /&gt;
** [[マトリックス]]&lt;br /&gt;
* 漫画&lt;br /&gt;
** [[攻殻機動隊]]　[[士郎正宗]]&lt;br /&gt;
* アニメ&lt;br /&gt;
** [[デジタルモンスター]]&lt;br /&gt;
** [[攻殻機動隊]]&lt;br /&gt;
* 特撮　&lt;br /&gt;
** [[電光超人グリッドマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==   &lt;br /&gt;
* 梅棹忠夫 (1963).「情報産業論」放送朝日 1月号 p.4—17&lt;br /&gt;
* 加納寛子(2007)．『情報社会論―超効率主義社会の構図』北大路書房  &lt;br /&gt;
* 公文俊平 (1998).「情報社会論の偉大な先達」、[http://www.mmbc.jp/mmbc/inter/net/980220ne-1.html]（2003年7月5日閲覧）   &lt;br /&gt;
* 経済審議会情報研究委員会 編 (1969).『日本の情報化社会：そのビジョンと課題』 ダイヤモンド社   &lt;br /&gt;
* 佐枝三郎「日本の情報化社会-これまでの30年、次の30年」『総研レビュー』三井情報開発 v.26 pp.8-18.、[http://research.mki.co.jp/actualresult/review/review26/rv26_spec.pdf]（2003年7月5日閲覧）   &lt;br /&gt;
* 通商産業省重工業局情報産業室編 (1969). 情報化社会へ向って : -われわれの課題- 産業構造審議会情報産業部会答申 コンピュータ・エージ社   &lt;br /&gt;
* 通商産業省産業構造審議会(1969). 情報処理および情報産業の発展のための施策に関する答申   &lt;br /&gt;
* 日本情報処理開発協会 (1972).『情報社会への計画-西暦2000年をめざす国家目標』   &lt;br /&gt;
* 林雄二郎 (1969).『情報化社会』講談社現代新書&lt;br /&gt;
* 福田豊 (1996).『情報化のトポロジー』御茶の水書房&lt;br /&gt;
* Bell, Daniel (1973). The Coming of Post-Industrial Society: A Venture in Social Forecasting. New York: Basic Books.   &lt;br /&gt;
*: （和訳：ダニエル・ベル『脱工業社会の到来:社会予測の一つの試み』内山忠夫ほか訳、ダイヤモンド社、1975年）   &lt;br /&gt;
* Beniger, James R. (1986). The control revolution : technological and economic origins of the information society. Cambridge, MA: Harvard University Press.   &lt;br /&gt;
* Drucker, Peter F. (1969). The Age of Discontinuity.    &lt;br /&gt;
*: （和訳　ピーター・ドラッカー『断絶の時代』林雄二郎訳、ダイヤモンド社、1980年）   &lt;br /&gt;
* Harvey, D. (1989). The condition of postmodernity : an enquiry into the origins of cultural change. New York: Blackwell.   &lt;br /&gt;
*: （和訳　デイヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』吉原直樹監訳、青木書店、1999年）   &lt;br /&gt;
* Ito, Yoichi (1980). The ‘Johoka Shakai’ approach to the study of communication in Japan. Keio Communication Review 1 (March, 1980).    &lt;br /&gt;
* Kumar, Krishan (1995). From Post-Industrial to Post-Modern Society: New theories of the contemporary world.    &lt;br /&gt;
* McLuhan, Marshall (1967). Understanding Media - Extention of man.   &lt;br /&gt;
*: （和訳 マーシャル・マクルーハン『メディア論 - 人間拡張の諸相』 栗原裕ほか訳、みすず書房、1987年）   &lt;br /&gt;
* Machlup, Fritz (1962). The Production and Distribution of Knowledge in the United States. Princeton, NJ: Princeton University Press.   &lt;br /&gt;
*: （和訳 フリッツ・マッハルプ『知識産業』高橋建男ほか監訳、産業能率短期大学出版部、1969年）   &lt;br /&gt;
* Masuda, Yoneji (1981). The information society as postindustrial society, Bethesda, MD: World Futures Society. (1981 Institute for the Information Society, Tokyo, Japan.   &lt;br /&gt;
*Naisbitt. J. Megatrends: ten new directions transforming our lives. Macdonald, 1984.    &lt;br /&gt;
*: （和訳　ジョン・ネイスビッツ『メガ・トレンド』竹村健一訳、三笠書房、1982年）   &lt;br /&gt;
* Porat, Marc Uri (1977). The Information Economy: Definition and measurement. (v.1 - v.5) Washington DC: United States Department of Commerce.   &lt;br /&gt;
*: （和訳 マーク・ポラト『情報経済入門』小松崎清介 監訳、コンピュータ・エージ社、1982年）   &lt;br /&gt;
* Roszak, T. Where the Wasteland Ends: Politics and Transcendence in Postindustrial Society. London: 1973.   &lt;br /&gt;
* Touraine, Alan. (1971). The Post-Industrial Society: Tomorrow's social history: classes, conflict and culture in the programmed society, New York: Random House.   &lt;br /&gt;
*: （原著 Alain Touraine, La Société postindustrielle, Paris, Denoel, 1969）   &lt;br /&gt;
*: （和訳 アラン・トゥレーヌ『脱工業化の社会』寿里茂・西川潤訳、河出書房新社、1970年）   &lt;br /&gt;
*Webster, Frank (1995). Theories of the information society. London: Routridge.   &lt;br /&gt;
*: （和訳 フランク・ウェブスター『「情報社会」を読む』田畑暁生訳、青土社、2001年）   &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|情報化社会}}&lt;br /&gt;
[[category:情報|しようほうかしやかい じょうほうかしゃかい]]   &lt;br /&gt;
[[Category:情報社会|*しようほうかしやかい じょうほうかしゃかい]]   &lt;br /&gt;
[[Category:社会史|しようほうかしやかい じょうほうかしゃかい]]   &lt;br /&gt;
[[Category:情報技術史|しようほうかしやかい じょうほうかしゃかい]]   &lt;br /&gt;
[[Category:デジタル革命|しようほうかしやかい じょうほうかしゃかい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%B8%82&amp;diff=5775</id>
		<title>八王子市</title>
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				<updated>2007-06-03T08:10:39Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: /* 地図・航空写真 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の市|&lt;br /&gt;
自治体名=八王子市|&lt;br /&gt;
都道府県=東京都|&lt;br /&gt;
支庁=|&lt;br /&gt;
コード=13201-2|&lt;br /&gt;
面積=[[1 E8 m²|186.31]]|&lt;br /&gt;
境界未定=なし|&lt;br /&gt;
人口=542,196|&lt;br /&gt;
人口の時点=2007年5月1日|&lt;br /&gt;
隣接自治体=東京都 [[町田市]]、[[多摩市]]、&amp;lt;br/&amp;gt;[[日野市]]、[[昭島市]]、[[福生市]]、&amp;lt;br/&amp;gt;[[あきる野市]]、[[檜原村]]&lt;br /&gt;
[[神奈川県]][[相模原市]]|&lt;br /&gt;
木=[[イチョウ]]|&lt;br /&gt;
花=[[ヤマユリ]]|&lt;br /&gt;
シンボル名=市の鳥|&lt;br /&gt;
鳥など=[[オオルリ]]|&lt;br /&gt;
郵便番号=192-8501|&lt;br /&gt;
所在地=八王子市元本郷町三丁目24番1号&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;center&amp;gt;[[画像:Hachioji_cityhall_02.JPG|220px|八王子市役所（事務棟10F・議会棟6F）]]&amp;lt;/center&amp;gt;||&lt;br /&gt;
電話番号=042-626-3111|&lt;br /&gt;
外部リンク=[http://www.city.hachioji.tokyo.jp/ 八王子市]|&lt;br /&gt;
経度=東端：東経139度25分48秒&amp;lt;br/&amp;gt;西端：東経139度09分42秒|&lt;br /&gt;
緯度=南端：北緯 35度35分52秒&amp;lt;br/&amp;gt;北端：北緯 35度43分07秒&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
※日本測地系|&lt;br /&gt;
位置画像=[[画像:Map_tokyo_hachioji_city_p01-01.png|thumb|center|200px|八王子市の位置]]|&lt;br /&gt;
特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''八王子市'''（はちおうじし）は、[[東京都]]の島嶼部を除く地域の南西部に位置する[[市]]で、[[中核市]]の要件を満たす、[[多摩地域]]の中心的な市の一つである。国からは[[業務核都市]]、東京都からは[[東京都#多摩の「心(しん)」|多摩の「心（しん）」]]として位置づけられている。人口全国第24位、東京都内では[[特別区]]に次いで第2位、全国の政令指定都市及び候補市（市町村合併の結果人口が70万人を越えた市）を除くと全国第5位の市。[[2007年]][[4月]]に[[保健所政令市]]に移行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]には[[城下町]]、[[江戸時代]]には[[宿場|宿場町]]として栄えたことに加え、多摩地域内で最も早く市制施行したことや[[南多摩郡]]の郡役所所在地であったことから、多摩地域や南多摩地域の中心的都市とみることもできる。また、かつて[[絹織物]]産業・[[養蚕業]]が盛んであったために「'''桑の都'''」および「'''桑都'''（そうと）」という美称があり、[[西行]]の歌にも「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」と詠まれている。国産ネクタイ地の製造シェアは日本一である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
[[画像:八王子市の衛星写真001.jpg|thumb|right|220px|八王子市の{{ランドサット}}]]&lt;br /&gt;
[[画像:Asakawa_tokyo_01.jpg|thumb|right|220px|浅川に架かる萩原橋の上から下流を望む（2003年6月28日）]]&lt;br /&gt;
[[画像:高尾山金比羅台風景001.jpg|thumb|220px|right|高尾山金比羅台から眼下に市街を望む]]&lt;br /&gt;
八王子市は東京都の[[島嶼]]部を除く地域の南西部、都心から約40kmに位置している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市域全体を概観すると、山地・丘陵を三方の周縁とし、東へ流れる[[浅川_(多摩川水系)|浅川]]を中心に、八王子盆地と呼ばれる東にひらけた半[[盆地]]状の複合[[扇状地]]をなしている。かつてその扇状地は[[クワ|桑]]畑として利用されたが、現在では住宅地や工業用地として転用されほとんど見ることができない。西部の山地に源を発する浅川は市の中央部付近で南浅川と合流し市の中心域を流れ、川口川と合流、日野台地のせり出しを受けて東南に下り、山田川、湯殿川と合流して[[日野市]]へと向かう。その他の主要河川である北部の谷地川、南東部の大栗川はそれぞれ市の外で[[多摩川]]に合流する。中心部の標高は海抜100m前後である。（市内最高所は[[醍醐丸]]＝上恩方町、標高862.7m、最低所は大栗川＝大塚、標高63.0m）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世から近世・近代に至るまで東西を走る[[甲州街道]]と、[[川越市|川越]]・[[桐生市|桐生]]・[[日光市|日光]]（[[日光脇往還]]）など関東北西部、[[小田原市|小田原]]・[[鎌倉市|鎌倉]]・[[横浜市|横浜]]（[[浜街道]]）など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であった。とくに[[江戸時代]]には、甲州街道の宿場町として栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在でも、[[国道20号]]（甲州街道）と横浜から川越方面へと向かう[[国道16号]]（東京環状）、そして[[青梅市|青梅]]を経て[[甲府市|甲府]]へ向かう[[国道411号]]（[[滝山街道]]、[[青梅街道]]）の交点である。また、[[中央自動車道]]と[[首都圏中央連絡自動車道]]との交点である[[八王子ジャンクション]]も建設中である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄道輸送においても[[JR]][[中央本線]]と[[横浜線]]・[[八高線]]の交点として、また[[日本貨物鉄道|JR貨物]]八王子総合鉄道部や[[京王電鉄]]の始発駅2駅を抱え、主要拠点となっている。&lt;br /&gt;
{{Wide image|八王子市街地.jpg|1500px|高尾山から見た八王子市街}}&lt;br /&gt;
{{Wide image|Hachioji-nw2.jpg|1500px|八王子市北西部風景}}&lt;br /&gt;
{{Wide image|Hachioji-sw.jpg|1000px|八王子市南西部風景}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地形 ===&lt;br /&gt;
[[関東山地]]の一部である[[高尾山]]や[[陣馬山]]など標高500mから900m弱の山々を西端として、小河川を挟んで[[第四紀]]層の[[上総層群]]で形成されている各丘陵が舌出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、標高200mほどの西部の[[恩方丘陵]]および南部から東南部の[[多摩丘陵]]の西端が関東山地の東縁に連なり、そして北部では多摩川およびその支流の[[秋川_(多摩川水系)|秋川]]と川口川の間に[[加住丘陵]]（標高200m前後）が、北西部には川口川と[[浅川_(多摩川水系)|浅川]]の支流である北浅川との間に[[川口丘陵]]が突き出ている。加住丘陵の東端は標高を下げながら北東部の[[日野台地]]へと続く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市域は[[関東山地]]と[[関東平野]]とを隔てる[[八王子構造線]]に跨っており、その名称の由来ともなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森林面積は8,582haで、市域全体の約46%を占める。[http://www.toukei.maff.go.jp/shityoson/map2/13-01/201/forestry.html 農水省統計]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 気候 ===&lt;br /&gt;
内陸部の小盆地であるため、市の中心部における冬の最低気温は東京都心部に比して5℃ほど低く（最高気温はほぼ同じ）、夏の最高気温は同じく2-3℃ほど高いこともある。1月の平均最低気温は北関東の[[前橋市]]よりも低く、冷え込みが厳しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市内最高気温は39.9℃（[[1997年]]7月5日）。最低気温は-12.0℃（[[1960年]]1月25日）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
''近代以降の行政区域の変遷については[[八王子市#行政区域の変遷（市町村制施行以後）|別項]]を、各時代の詳細については[[八王子市の歴史]]を参照のこと。''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[北条氏照]]が城を築いた[[深沢山]]には、[[牛頭天王]]の八人の[[王子神]]である「八王子権現」が祀られていたため[[八王子城]]と名づけられた。この城名が市名の由来である。八王子城が[[豊臣秀吉]]の[[小田原攻め]]により落城すると、この地方は[[後北条氏]]の旧領全域とともに[[徳川家康]]に与えられた。交通の要衝であるため、江戸を甲州口から守るための軍事拠点としての役割も担った。徳川家康が武田家の遺臣を召抱えて組織した[[八王子千人同心]]の根拠地となったのはそのためである。そして、[[江戸時代]]には関東各地の直轄領（御料）を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の[[大久保長安]]が代官頭をつとめてこの地方の開発および[[甲州街道]]の整備にあたった。その結果八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の[[宿場町]]として、また多摩地区の物資の集散地として栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開国ののち、[[明治維新]]期以降は織物産業が繁栄した。特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは[[群馬県|群馬]]・[[秩父市|秩父]]や[[山梨県|山梨]]・[[長野県|長野]]からも荷が集まり、輸出港である[[横浜港|横浜]]への物流中継地としても機能していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1960年代]]以降は、織物など繊維産業の衰退もあり、かわって[[東京]]の[[衛星都市]]としての機能が求められるようになった。そのため、市の郊外には[[多摩ニュータウン]]などの大規模な住宅団地や、[[北八王子工業団地]]などの工業団地が建設された。また、都心のキャンパスが手狭になった[[大学]]の移転が相次ぎ、学園都市とよばれるようになった。そのため、産学共同研究が近年は盛んである。&lt;br /&gt;
市の西部の[[高尾山]]、[[陣馬山]]などの山々はハイキングコースとして人気があり、また[[中村雨紅]]の生誕地にある『夕焼け小焼け文化農園』なども行楽客を集めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人口 ==&lt;br /&gt;
{{人口統計|code=13201|name=八王子市}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 行政 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Hachioji cityhall 01.jpg|thumb|right|200px|八王子市役所本庁舎&amp;lt;br/&amp;gt;側面には八王子市域の地図がデザインされている。]]&lt;br /&gt;
行財政改革、ごみ有料化の実施などの環境対策、中心市街地の活性化など各種産業の振興が主な行政課題となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行政区域の変遷（市町村制施行以後） ===&lt;br /&gt;
* [[1889年]][[4月1日]] [[神奈川県]][[南多摩郡]]八王子町の成立（[[町村制]]の施行）。&lt;br /&gt;
** 横山村・浅川村・元八王子村・恩方村・川口村・加住村・小宮村・由井村・由木村が成立。&lt;br /&gt;
* [[1893年]]4月1日 [[東京府]]南多摩郡八王子町（[[三多摩]]の東京府移管）。&lt;br /&gt;
* [[1917年]][[9月1日]] 東京府'''八王子市'''（八王子町に[[市制]]施行。全国66番目、多摩地区では初）。&lt;br /&gt;
** [[1927年]][[11月3日]] 浅川村が浅川町に。&lt;br /&gt;
** [[1934年]][[10月1日]] 小宮村が小宮町に。&lt;br /&gt;
* [[1941年]]10月1日 [[小宮町]]を[[市町村合併|編入]]。&lt;br /&gt;
* [[1943年]][[7月1日]] [[東京都]]八王子市（東京都の発足）。&lt;br /&gt;
* [[1955年]]4月1日 [[横山村_(東京都)|横山村]]・[[元八王子村]]・[[恩方村]]・[[川口村_(東京都)|川口村]]・[[加住村]]・[[由井村]]を編入。&lt;br /&gt;
* [[1959年]]4月1日 [[浅川町_(東京都)|浅川町]]を編入。&lt;br /&gt;
* [[1964年]][[8月1日]] [[由木村]]を編入。&lt;br /&gt;
* [[1971年]]4月1日 高月町切欠を[[西多摩郡]][[秋川市|秋多町]]（現[[あきる野市]]）へ編入。同時に秋多町雨間の一部を編入。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴代市長 ===&lt;br /&gt;
（+印は在職中死去）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|初代||柴田榮吉||1917年12月14日||[[1921年]]12月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2||平林定兵衛+||1922年2月16日||[[1925年]]2月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3||武藤文吾||1925年5月26日||[[1929年]]5月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4||秋山文太郎||1929年7月8日||1929年11月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5||城所國太郎||1929年12月11日||[[1933年]]12月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6||杢代龍喜||[[1934年]]1月16日||[[1938年]]1月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7-9||関谷源兵衛||1938年1月22日||[[1942年]]9月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10||深沢友彦||1942年9月1日||[[1945年]]9月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11-14||小林吉之助||1945年10月29日||[[1957年]]2月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15||野口義造||1957年2月25日||[[1961年]]2月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16-18||植竹圓次||1961年2月24日||[[1973年]]2月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19-21||後藤聰一||1973年2月24日||[[1983年]]12月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|22-25||波多野重雄||[[1984年]]1月30日||[[2000年]]1月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|26-27||[[黒須隆一]]||2000年1月29日||現職&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行政機構 ===&lt;br /&gt;
2005年4月1日現在の市職員数（短期契約職員を除く）は3,217人である。職員数は2010年度までに2,897人とすることを目標として削減を進めており、同規模の都市や東京26市の平均と比べると市民1人当たりの職員数は少なくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 市長&lt;br /&gt;
** 収入役&lt;br /&gt;
*** 出納課&lt;br /&gt;
** 助役（2名）&lt;br /&gt;
*** 総合政策部&lt;br /&gt;
*** 行政経営部&lt;br /&gt;
*** 市民活動推進部&lt;br /&gt;
*** 総務部&lt;br /&gt;
*** 財務部&lt;br /&gt;
*** 税務部&lt;br /&gt;
*** 生活安全部&lt;br /&gt;
*** 市民部&lt;br /&gt;
*** 健康福祉部&lt;br /&gt;
*** こども家庭部&lt;br /&gt;
*** 産業振興部&lt;br /&gt;
*** 環境部&lt;br /&gt;
*** まちづくり計画部&lt;br /&gt;
*** まちなみ整備部&lt;br /&gt;
*** 道路事業部&lt;br /&gt;
*** 下水道部&lt;br /&gt;
*** 水道部&lt;br /&gt;
** 固定資産評価員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 市役所事務所 ===&lt;br /&gt;
* 中央部：八王子駅前事務所&lt;br /&gt;
* 東南部：北野事務所・由井事務所&lt;br /&gt;
* 西南部：横山事務所・館事務所・浅川事務所&lt;br /&gt;
* 西部：元八王子事務所・川口事務所・恩方事務所&lt;br /&gt;
* 北部：加住事務所・石川事務所&lt;br /&gt;
* 東部：南大沢事務所・由木事務所・由木東事務所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 財政 ===&lt;br /&gt;
2005年度の当初予算規模は約3,160億円である。1995年度をピークに不況による税収の減少が続いているが、人員削減・経費の抑制・債務返済などの効果もあり、2005年度決算では約24億円程度の黒字であった。市債残高は2005年度末時点で2,735億円となりピークであった2000年度の3,184億円から449 億円減少している。単年度の歳入における地方債依存度は年々低下し、2005年度では4.0%であった。市債の発行目的は主に小中学校の校舎建設や[[都市計画]]事業、住民税の減税補填の費用であった。施設整備などの投資的経費の減少により地方債の発行が抑制されたため、2002年度の歳入に占める自主財源の比率は63.0%である。また、一般財源の比率は68.4%であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年度の[[ラスパイレス指数]]は105.0で指定都市を除く全市区町村の中では8番目に高く、東京26市の中では7番目に高かったが、給与の引き下げなどの対策によって2005年度は101.8で全国でも20位となった。2005年度決算における歳出に対する人件費比率は20.3%で、年々縮減される傾向にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、2006年度の当初予算規模は次のようになっている。&lt;br /&gt;
* 一般会計:1,596億円&lt;br /&gt;
* 特別会計:1,649億円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 広域行政 ===&lt;br /&gt;
* 東京都十一市競輪事業組合 - 武蔵野、青梅、昭島、調布、町田、小金井、小平、日野、東村山、国分寺および本市の11市で[[京王閣競輪場|京王閣競輪]]を開催している。&lt;br /&gt;
* [[東京都六市競艇事業組合]] - 昭島、武蔵野、町田、小金井、調布、および本市の6市で[[江戸川競艇場|江戸川競艇]]を開催している。&lt;br /&gt;
* 東京たま広域資源循環組合 - 日の出町にある「二ツ塚廃棄物広域処分場」を運営している。多摩地域のあきる野市、奥多摩町、日の出町、檜原村を除く25市1町で構成される。&lt;br /&gt;
* 多摩ニュータウン環境組合 - 町田、多摩、および本市の3市で「''多摩清掃工場''」を運営している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行政機関 ===&lt;br /&gt;
==== 警察 ====&lt;br /&gt;
* [[警視庁]][[交通機動隊|第九交通機動隊]]&lt;br /&gt;
* [[八王子警察署]]&lt;br /&gt;
* [[高尾警察署]] - 警視庁100番目の警察署として1995年3月1日に開署。市西部の元八王子、恩方、浅川、横山、館地区を管轄とする。&lt;br /&gt;
* 八王子市南大沢1丁目に新署建設計画が進行中。この警察署は八王子市の由木・由木東地区（いわゆる多摩ニュータウン地域）と町田市北西部を管轄する予定となっている。仮称は「[[多摩西警察署]]」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 消防 ====&lt;br /&gt;
消防は市町村の責任業務であるが、本市は多摩地区の多くの自治体と同様に[[東京消防庁]]へ業務を委託している。以前は多摩地区は全域が第8方面に等しかったが、1990年に第9方面が新設、方面本部は本市の小宮出張所に置かれた。&lt;br /&gt;
* 第九消防方面本部（石川町2099-4）&lt;br /&gt;
** 八王子消防署（大横町1-4）特別・山岳兼務救助隊・救急隊2&lt;br /&gt;
*** 由木分署（下柚木542-8）救急隊1※[[2006年]][[4月1日]]付で出張所から昇格&lt;br /&gt;
**** 富士森出張所（台町1-25-5）救急隊1&lt;br /&gt;
**** 元八王子出張所（大楽寺町366-1）救急隊1&lt;br /&gt;
**** 小宮出張所（石川町2099-4）救急隊1&lt;br /&gt;
**** 浅川出張所（東浅川町882-2）消防活動二輪部隊・救急隊1&lt;br /&gt;
**** 北野出張所（北野町575-1）[[東京消防庁#特別消火中隊_(A-one)|特別消火中隊]]・救急隊2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 八王子市南大沢3丁目に新署建設計画がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 郵便（日本郵政公社） ====&lt;br /&gt;
* 集配局&lt;br /&gt;
** 八王子郵便局&lt;br /&gt;
** 八王子西郵便局&lt;br /&gt;
** 八王子南郵便局&lt;br /&gt;
** 恩方郵便局（集配特定局）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国・都の行政機関 ===&lt;br /&gt;
前出のものを除く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 国の機関 ====&lt;br /&gt;
* [[財務省_(日本)|財務省]][[国税庁]]東京国税局八王子税務署&lt;br /&gt;
* [[国土交通省]]相武国道事務所&lt;br /&gt;
* 国土交通省八王子国道出張所&lt;br /&gt;
* [[厚生労働省]]東京労働局八王子労働基準監督署&lt;br /&gt;
* 厚生労働省東京労働局八王子公共職業安定所（ハローワーク）&lt;br /&gt;
* 厚生労働省[[社会保険庁]]東京社会保険事務局八王子社会保険事務所&lt;br /&gt;
* [[農林水産省]]関東森林管理局高尾森林センター&lt;br /&gt;
* 農林水産省[[林野庁]]森林技術総合研修所&lt;br /&gt;
* [[内閣府]][[宮内庁]]多摩陵墓監区事務所&lt;br /&gt;
* [[自動車検査独立行政法人]]関東検査部八王子事務所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[都市再生機構]]東日本支社南八王子開発事務所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人都市再生機構都市住宅技術研究所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[国際協力機構]]八王子国際センター&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[産業技術総合研究所]]バイオニクス研究センター八王子サイト 東京工科大学内&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[森林総合研究所]]多摩森林科学園&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[労働者健康福祉機構]]高尾みころも霊堂管理事務所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[国立高等専門学校機構]]本部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 都の機関 ====&lt;br /&gt;
* 主税局八王子都税事務所&lt;br /&gt;
* 主税局八王子自動車税事務所&lt;br /&gt;
* 建設局南多摩西部建設事務所&lt;br /&gt;
* 産業労働局八王子労政事務所&lt;br /&gt;
* 産業労働局労働相談情報センター八王子事務所（八王子労政会館）&lt;br /&gt;
* 産業労働局森林事務所浅川林務出張所&lt;br /&gt;
* 水道局多摩水道改革推進本部南多摩西部事務所（建設中）&lt;br /&gt;
* 下水道局八王子水再生センター&lt;br /&gt;
* 都立産業技術研究所八王子庁舎（旧・都立繊維工業試験場）&lt;br /&gt;
* 都立小宮公園管理事務所&lt;br /&gt;
* 都立八王子霊園管理事務所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 立法 ==&lt;br /&gt;
=== 市議会 ===&lt;br /&gt;
八王子市議会は定数40人。2007年の[[統一地方選挙]]では、保守系候補が15人当選し、議会内会派・新政会を組織している。&lt;br /&gt;
新政会は[[公明党]]とともに、市長に対し与党的立場を取っている。与党25議席対野党15議席となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市議会議長は飯沢俊一（いいざわしゅんいち 選出日:2005年6月9日）で、市議会議員（任期満了日:2007年4月30日）の数は40となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
定例会の初日には、議場で20分間のミニコンサートが開かれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 会派の構成 ====&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!会派名!!議席数!!代表者&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[自民党]]新政会||align=&amp;quot;right&amp;quot;|15||水野淳&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|八王子市議会公明党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|10||市川潔史&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[民主党_(1996-)|民主党]]・無所属クラブ||align=&amp;quot;right&amp;quot;|6||上原洋&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本共産党]]八王子市議会議員団||align=&amp;quot;right&amp;quot;|5||山口和男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[生活者ネットワーク]]・[[社会民主党_(日本)#社会民主党(1996年)|社会民主党]]||align=&amp;quot;right&amp;quot;|3||井上睦子&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|諸派||align=&amp;quot;right&amp;quot;|1||(陣内泰子)&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
公明党の議席占有率が25%と高く、同党(つまり、[[創価学会]])の地盤が強いといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 市議会の組織 ====&lt;br /&gt;
議会運営委員会の他、常任委員会と特別委員会がそれぞれ4つ設置されている。また、3月定例会では予算等審査特別委員会が、9月定例会では決算審査特別委員会が開かれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[議会運営委員会]]&lt;br /&gt;
* 常任委員会&lt;br /&gt;
** 総務企画&lt;br /&gt;
** 厚生水道&lt;br /&gt;
** 文教経済&lt;br /&gt;
** 都市建設&lt;br /&gt;
* 特別委員会&lt;br /&gt;
** ニュータウン対策&lt;br /&gt;
** 交通対策&lt;br /&gt;
** 中心市街地対策&lt;br /&gt;
** 少子・高齢化対策&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京都議会議員 ===&lt;br /&gt;
本市でひとつの選挙区（八王子市選挙区）をなす。その定数は'''5'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2001年]][[6月]]の選挙では、自民党新人の候補が全選挙区中第3位の得票で当選、自民2議席と[[公明党|公明]]・[[日本共産党|共産]]・[[民主党_(1996-)|民主]]の各党で1議席ずつを分け合った。&lt;br /&gt;
* 2005年7月 最終投票率：'''43.99%'''&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東村くにひろ||当選||公明||53,626&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|相川ひろし||当選||民主||34,302&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清水ひで子||当選||共産||31,316&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|石森たかゆき||当選||自民||28,456&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|串田克巳||当選||自民||25,447&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|佐久間ひろ子||落選||[[東京・生活者ネットワーク]]||19,095&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|坂口ゆきたか||落選||無所属||2,744&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 2001年6月 最終投票率：'''53.71%'''&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|萩生田光一||当選||自民||53,822&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東村邦浩||当選||公明||49,379&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清水ひで子||当選||共産||29,307&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|串田克巳||当選||自民||23,759&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|相川博||当選||民主||23,716&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|五十嵐ゆきこ||落選||[[社会民主党_(日本)#社会民主党(1996年)|社民]]||14,242&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[佐野美和]]||落選||無所属||13,604&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|上島よしとも||落選||[[自由党_(日本)#自由党 (日本 1998-2003)|自由]]||10,280&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国会議員 ===&lt;br /&gt;
[[衆議院]]小選挙区では本市で[[東京都第24区|東京24区]]をなす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1996年]][[10月]]の新制度による選挙以来、現職候補が当選しないというジンクスがあったが、[[2005年]][[9月]]の総選挙では、現職の[[自由民主党_(日本)|自民党]]候補が現職（前回は比例復活当選）の[[民主党_(1996-)|民主党]]候補を破って再選した。敗れた民主党候補は[[比例代表]]の復活当選を果たせなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 2003年11月（[[第43回衆議院議員総選挙]]）最終投票率：60.09%&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[萩生田光一]]||当||自民||108,843&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[阿久津幸彦]]||比||民主||106,733&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|藤本実||||共産||21,407&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|石橋薫||||無所属||8,762&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 2005年9月（[[衆議院議員総選挙]]）最終投票率：66.78%&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[萩生田光一]]||当||自民||150,552&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|阿久津幸彦||||民主||106,459&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|長谷川あきら||||共産||26,233&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 司法 ==&lt;br /&gt;
明神町に、多摩地域全域を管轄している東京地方裁判所八王子支部、東京地方検察庁八王子支部、東京家庭裁判所八王子支部、および府中刑務所八王子拘置支所が隣接して所在する。[[2008年]]を目処に、これらを立川市に移転するとの方針が国から提示されている。なお、跡地には東京法務局八王子支局をはじめとした合同庁舎が設置される予定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 司法機関 ===&lt;br /&gt;
* 東京[[地方裁判所]]八王子支部（明神町）&lt;br /&gt;
* 東京[[地方検察庁]]八王子支部（明神町）&lt;br /&gt;
* 東京[[家庭裁判所]]八王子支部（明神町）&lt;br /&gt;
* [[法務省]]東京[[法務局]]八王子支局（南大沢）&lt;br /&gt;
* [[府中刑務所]]八王子拘置支所（明神町）&lt;br /&gt;
* [[八王子医療刑務所]]（子安町）&lt;br /&gt;
* 多摩[[少年院]]（緑町）&lt;br /&gt;
* 八王子[[少年鑑別所]]（中野町）&lt;br /&gt;
* 東京婦人補導院（中野町）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
=== 産業 ===&lt;br /&gt;
[[産業#分類|第3次産業]]が、事業所数・従業者数ともに全体の約8割を占める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[北八王子工業団地]]には、各種計測機器などの精密機器製造業の他、交通の利便性により、各社の物流拠点がある。北八王子工業団地のほかには、浅川工業団地、狭間工業団地、八王子繊維工業団地、下恩方工業団地、美山工業団地、北野工業団地がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
機業地であった歴史を受け継ぎ、絹織・ニット製品・染色業などの工場も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中心市街地では、大型小売店舗の撤退・中小小売店舗の閉店により、活性化が求められている。&lt;br /&gt;
現在では、鉄道沿線の市区（新宿区・立川市・町田市など）や市郊外の大型小売店舗に買い物客が流れている傾向がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主な産業 ====&lt;br /&gt;
（産業別事業所数上位5位まで。カッコ内は構成比。2001年10月1日現在）&lt;br /&gt;
# 卸売・小売業、飲食店 7,681 (40.3%)&lt;br /&gt;
# サービス業 5,648 (29.7%)&lt;br /&gt;
# 製造業 1,947 (10.2%)&lt;br /&gt;
# 建設業 1,905 (10.0%)&lt;br /&gt;
# 不動産業 984 (5.2%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 産業人口 ====&lt;br /&gt;
（産業別就業者数上位5位まで、単位・人。カッコ内は構成比。2001年10月1日現在）&lt;br /&gt;
# サービス業 73,987 (34.9%)&lt;br /&gt;
# 卸売・小売業、飲食店 66,041 (31.2%)&lt;br /&gt;
# 製造業 34,032 (16.1%)&lt;br /&gt;
# 建設業 13,520 (6.4%)&lt;br /&gt;
# 運輸・通信業 10,680 (5.0%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 農林漁業 ====&lt;br /&gt;
農家の戸数は 1,529 戸で、販売農家と自給農家の比率はほぼ同じである。[[八王子市農業協同組合]]（JA八王子）が、八王子市全域の[[農協]]業務を執り行っている。&lt;br /&gt;
東京都にある[[養蚕]]農家 23 戸のうち 10 戸が八王子市にある。&lt;br /&gt;
西部の山地・丘陵の農地では、サル・イノシシなどの獣害対策が課題となっており、ボランティアによる駆除活動が行なわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農業粗生産額は 27 億円である。内訳は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
# 生乳 (15.2%)&lt;br /&gt;
# ほうれんそう (9.0%)&lt;br /&gt;
# 小松菜 (7.8%)&lt;br /&gt;
# 鉢物類（花卉） (6.9%)&lt;br /&gt;
# 大根 (6.1%)&lt;br /&gt;
# その他 (55.0%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農地面積は 957ha（市域全体の約 5.1%）で、内訳は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
# 畑 629ha(65.7%)&lt;br /&gt;
# 樹園 245ha(25.6%)&lt;br /&gt;
# 田 83ha(8.67%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浅川上流（上恩方・西寺方町）にはマス釣場があり、[[ニジマス]]・[[ヤマメ]]の遊漁が可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 工業 ====&lt;br /&gt;
[[明治時代|明治期]]以降、繊維工業が隆盛したが、第二次世界大戦後、[[1960年代]]ごろから次第にその数を減らした。しかし現在でも絹織・ニット製品・染色業などの工場が市内に 140（2000年現在）あり、海外の高級ブランド製品の委託生産や、地域ブランド化など、製品の差別化によってその付加価値を高めようしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1970年代]]以後、工業団地の造成にともない、電気機械・精密機器製造業の比重が高まり、関連する中小の企業も市内各地に点在している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]の工業事業所数は 1,714 、従業員数は 26,391 人、製品出荷額は約 7,892 億円である。&lt;br /&gt;
それぞれの上位5位までの業種と比率は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 工業事業所数 =====&lt;br /&gt;
# 電気機械器具 339(19.8%)&lt;br /&gt;
# 一般機械器具 278(16.2%)&lt;br /&gt;
# 金属製品 176(10.3%)&lt;br /&gt;
# 繊維工業 140(8.2%)&lt;br /&gt;
# プラスチック製品 127(7.4%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 工業従業員数 =====&lt;br /&gt;
（単位：人）&lt;br /&gt;
# 電気機械器具 9,310(35.3%)&lt;br /&gt;
# 一般機械器具 4,646(17.6%)&lt;br /&gt;
# 食料品 1,760(6.7%)&lt;br /&gt;
# 出版印刷関連 1,497(5.7%)&lt;br /&gt;
# プラスチック製品 1,490(5.7%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 工業製品等出荷額 =====&lt;br /&gt;
（単位：万円）&lt;br /&gt;
# 電気機械器具 31,459,795(39.9%)&lt;br /&gt;
# 一般機械器具 19,468,689(24.7%)&lt;br /&gt;
# 化学工業 7,831,992(9.9%)&lt;br /&gt;
# 出版印刷関連 3,561,241(4.5%)&lt;br /&gt;
# プラスチック製品 2,436,606(3.0%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主な企業 ====&lt;br /&gt;
===== 製造業 =====&lt;br /&gt;
* [[アジレントテクノロジー]]（日本本社。[[半導体]]部品・生化学分析機器）&lt;br /&gt;
* [[沖電気工業]]（八王子事業所。研究技術開発）&lt;br /&gt;
** [[多摩沖電気]]（本社・工場。[[集積回路|IC]]性能計測など）&lt;br /&gt;
* [[オリンパス]]（八王子事業所。研究技術開発）&lt;br /&gt;
* [[カシオ計算機]]（八王子研究所）&lt;br /&gt;
* [[ケンウッド]]（本社・八王子事業所）&lt;br /&gt;
* [[コニカミノルタ]]（東京サイト八王子。コピー機、光学レンズ、医療用・印刷機器用フィルム製造）&lt;br /&gt;
* [[東京精密]]（八王子工場。計測機器・半導体製造機械）&lt;br /&gt;
* [[トヨタ自動車]]（東京デザイン研究所。デザイン研究開発、トヨタ東京整備専門学校）&lt;br /&gt;
* [[日本ヒューレット・パッカード]]（八王子事業所）&lt;br /&gt;
* [[蛇の目ミシン工業]]（八王子事業所）&lt;br /&gt;
* [[三省堂]]印刷（本社・工場）&lt;br /&gt;
* [[日本ビクター]]（八王子工場）&lt;br /&gt;
* [[HOYA]]（八王子工場）&lt;br /&gt;
* [[佐藤製薬]]（八王子工場）&lt;br /&gt;
* [[フジタ製薬]]（東京工場）&lt;br /&gt;
* [[日本水産]]（八王子総合工場）&lt;br /&gt;
* [[日本分光]]（本社。計測機器）&lt;br /&gt;
* [[中央電子]]（本社。電子機器）&lt;br /&gt;
* [[スリーボンド]]（本社。化学・自動車関連）&lt;br /&gt;
* [[東京特殊車体]]&lt;br /&gt;
* [[アラジン]]ジャパン（日本本社。ソフトウェア開発）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 物流拠点 =====&lt;br /&gt;
* [[東日本旅客鉄道]]（JR東日本）（八王子支社）&lt;br /&gt;
* [[日本貨物鉄道]]（JR貨物）（八王子総合鉄道部）&lt;br /&gt;
* [[中日本高速道路]]（八王子支社・八王子管理事務所）&lt;br /&gt;
* [[花王]]ロジスティクス東京&lt;br /&gt;
* [[日本アムウェイ]]（八王子流通センター）&lt;br /&gt;
* [[日本通運]]&lt;br /&gt;
* [[西濃運輸]]&lt;br /&gt;
* [[福山通運]]&lt;br /&gt;
* [[日本図書輸送]]（八王子営業所）&lt;br /&gt;
* 中央[[ヤクルト]]物流（東京営業所）&lt;br /&gt;
* [[日本オイルターミナル]]&lt;br /&gt;
* [[八王子総合卸売センター]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 量販店 =====&lt;br /&gt;
* [[村内ファニチャーアクセス]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[セキド]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[ムラウチ]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[くまざわ]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[九州屋]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[スーパーアルプス]]（本社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 健康・福祉・子育て・衛生 ==&lt;br /&gt;
2004年1月1日現在、市民の平均年齢は41.03歳である。[[2003年]]度の高齢者人口は81,879人で、総人口比は15.56%である。うち[[独居老人]]は5,440人、寝たきり人口は732人である。独居老人は漸増傾向にあるが、寝たきり人口は減少している。2004年1月1日現在、市内最高齢者は男103歳、女107歳である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 健康・福祉・子育て施設 ===&lt;br /&gt;
* 財団法人&lt;br /&gt;
** 社会保険八王子健康管理センター&lt;br /&gt;
** とうきょう社会保険センター八王子&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** 八王子小児病院（2007年度に廃止予定）&lt;br /&gt;
** 八王子授産場&lt;br /&gt;
** 八王子児童相談所&lt;br /&gt;
** 八王子少年センター&lt;br /&gt;
** 甲ノ原少年心理相談センター&lt;br /&gt;
** 八王子生活実習所&lt;br /&gt;
** 八王子福祉作業所&lt;br /&gt;
** 八王子福祉園&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** 八王子市保健所&lt;br /&gt;
** 保健センター&lt;br /&gt;
** 大横福祉センター&lt;br /&gt;
** 東浅川保健福祉センター&lt;br /&gt;
** 南大沢保健福祉センター&lt;br /&gt;
** 地域子ども家庭支援センター&lt;br /&gt;
*** 生涯学習センター内・みなみ野・元八王子・南大沢・館・石川&lt;br /&gt;
** 包括介護支援センター&lt;br /&gt;
*** ゆうゆう（大和田町）・高尾・左入・中野・南大沢・めじろ（めじろ台）・長沼・川口・元八王子・片倉・堀之内・長房&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中核病院 ===&lt;br /&gt;
* [[東京医科大学]]八王子医療センター&lt;br /&gt;
* [[東海大学]]医学部付属八王子病院&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 清掃・衛生施設 ===&lt;br /&gt;
* 戸吹清掃事業所&lt;br /&gt;
** 戸吹清掃工場&lt;br /&gt;
** 戸吹不燃物処理センター&lt;br /&gt;
* 館清掃事業所&lt;br /&gt;
** 館清掃工場&lt;br /&gt;
* 北野衛生事業所&lt;br /&gt;
** 北野清掃工場&lt;br /&gt;
** 北野衛生処理センター（下水）&lt;br /&gt;
* 南大沢清掃事業所&lt;br /&gt;
** 多摩ニュータウン環境組合多摩清掃工場（多摩市）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教育 ==&lt;br /&gt;
[[1960年代]]後半以降、大学の移転が相次ぎ、学園都市として整備されている。[[1980年代]]以降、図書館・文化ホールなどの社会教育施設の整備が進んだが、市の行財政改革により、施設の仕様や、運営の見直しが進んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校教育 ===&lt;br /&gt;
市の郊外にあたる丘陵地帯には[[大学]]が点在し、市内および隣接境界地域を含めると23の大学・短期大学・高等専門学校がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[小泉純一郎|小泉]]内閣が進めた[[構造改革特別区域]]構想にともない、[[2003年]][[4月21日]]、「[[不登校]]児童・生徒のための体験型学校特区」に認定され、[[2004年]][[4月]]、[[小中一貫校]]である[[東京都八王子市立高尾山学園]]が開校した。加えて[[2005年]][[11月22日]]、「情報産業人材育成特区」にも認定され、[[2006年]][[7月]]、株式会社立[[デジタルハリウッド大学]]八王子制作スタジオが開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2004年4月から、市立の小学校・中学校に学校選択制度が導入された。小学校では指定校と隣接校から、中学校は市内全域のすべての学校から、通学する学校を選択することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 小学校 =====&lt;br /&gt;
八王子市内には2007年4月現在、70の小学校があり、そのすべては市立である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 第六小学校には、市立小学校に在籍する帰国児童・外国人児童を対象に、日本語学級が開設されている。&lt;br /&gt;
各小学校名については[[八王子市立の小学校一覧]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
* 2007年4月には八王子市立みなみ野君田小学校が開校した。 （児童数増加の為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 中学校 =====&lt;br /&gt;
市立第五中学校には、都内在住・在勤の、[[学齢]]を越えた[[義務教育]]未修了者を対象に[[中学校#夜間学級（夜間中学校）|夜間学級]]が開設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 市立（37校）&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;margin-left:30px;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 第一中学校&lt;br /&gt;
* 第二中学校&lt;br /&gt;
* 第三中学校&lt;br /&gt;
* 第四中学校&lt;br /&gt;
* 第五中学校&lt;br /&gt;
* 第六中学校&lt;br /&gt;
* 第七中学校&lt;br /&gt;
* ひよどり山中学校&lt;br /&gt;
* 甲ノ原中学校&lt;br /&gt;
* 石川中学校&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 横山中学校&lt;br /&gt;
* 長房中学校&lt;br /&gt;
* 館中学校&lt;br /&gt;
* 椚田中学校&lt;br /&gt;
* 元八王子中学校&lt;br /&gt;
* 四谷中学校&lt;br /&gt;
* 横川中学校&lt;br /&gt;
* 城山中学校&lt;br /&gt;
* 恩方中学校&lt;br /&gt;
* 川口中学校&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 楢原中学校&lt;br /&gt;
* 加住中学校&lt;br /&gt;
* 由井中学校&lt;br /&gt;
* 打越中学校&lt;br /&gt;
* みなみ野中学校&lt;br /&gt;
* 七国中学校&lt;br /&gt;
* 浅川中学校&lt;br /&gt;
* 陵南中学校&lt;br /&gt;
* 由木中学校&lt;br /&gt;
* 松が谷中学校&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 中山中学校&lt;br /&gt;
* 南大沢中学校&lt;br /&gt;
* 宮上中学校&lt;br /&gt;
* 別所中学校&lt;br /&gt;
* 上柚木中学校&lt;br /&gt;
* 松木中学校&lt;br /&gt;
* 鑓水中学校&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** 高校と併設のものは高校の項にまとめて記す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 高校 =====&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子工業高等学校|八王子工業高等学校]]（1887年3月-2010年3月閉校予定≪八王子織物染色講習所≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立南多摩高等学校|南多摩高等学校]]（1908年5月-≪東京府立第四高等女学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立第二商業高等学校|第二商業高等学校]]（1920年4月-2010年3月閉校予定≪東京府立第二商業学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立富士森高等学校|富士森高等学校]]（1941年4月-≪東京府八王子市立高等女学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子東高等学校|八王子東高等学校]]（1976年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子北高等学校|八王子北高等学校]]（1978年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立松が谷高等学校|松が谷高等学校]]（1981年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立翔陽高等学校|翔陽高等学校]]（2005年4月-） - 館高跡地に開校&lt;br /&gt;
* ''開校予定の都立''&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子桑志高等学校|八王子桑志高等学校]]（2007年4月開校予定- 八王子工業高敷地内に開設）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子拓真高等学校|八王子拓真高等学校]]（2007年4月開校予定-第二商業高敷地内に開設）&lt;br /&gt;
* ''閉校した都立''&lt;br /&gt;
** [[東京都立館高等学校|館高等学校]]（1979年4月-2004年3月）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子高陵高等学校|八王子高陵高等学校]]（1989年4月-2004年3月）&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[八王子実践中学校・高等学校]]（1926年4月-≪八王子和洋裁縫女学院≫）&lt;br /&gt;
** [[八王子高等学校]]（1928年4月-≪多摩勤労中学≫）&lt;br /&gt;
** [[帝京大学中学校・高等学校]]（1959年4月-≪帝京商工高等学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京純心女子中学校・高等学校]]（1964年4月-）&lt;br /&gt;
** [[工学院大学附属中学校]][[工学院大学附属高等学校|高等学校]]（1967年4月-）&lt;br /&gt;
** [[共立女子第二中学校・高等学校]]（1970年4月-）&lt;br /&gt;
** [[聖パウロ学園高等学校]]（1972年4月-）&lt;br /&gt;
** [[帝京八王子中学校・高等学校]]（1979年4月-）&lt;br /&gt;
** [[明治大学付属中野八王子中学校・高等学校]]（1984年4月-）&lt;br /&gt;
** [[穎明館高等学校|穎明館中学校・高等学校]]（1985年4月-）&lt;br /&gt;
** 早稲田大学系属[[早稲田実業学校]][[王貞治]]記念グラウンド&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 高等専門学校 =====&lt;br /&gt;
* 国立&lt;br /&gt;
** [[東京工業高等専門学校]]（1965年4月）&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[サレジオ工業高等専門学校]]（2005年4月） - 主な部分は[[町田市]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 短期大学 =====&lt;br /&gt;
* [[帝京大学短期大学]]（1965年4月-）&lt;br /&gt;
* [[共立女子短期大学]]（1979年4月-）&lt;br /&gt;
* [[創価女子短期大学]]（1985年4月-）&lt;br /&gt;
* [[山野美容芸術短期大学]]（1992年4月-）&lt;br /&gt;
* [[ヤマザキ動物看護短期大学]]（2004年4月-）&lt;br /&gt;
* ''撤退した短期大学''&lt;br /&gt;
** [[戸板女子短期大学]]八王子キャンパス（1966年4月-2004年3月） - 現在は[[工学院大学]]へ一部を残して売却。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 大学 =====&lt;br /&gt;
* [[工学院大学]]八王子キャンパス（1963年4月-）&lt;br /&gt;
* [[明星大学]]日野キャンパス（1964年4月-） - 主な部分は[[日野市]]&lt;br /&gt;
* [[帝京大学]]八王子キャンパス（1965年4月-）- 主な部分は[[多摩市]]和田&lt;br /&gt;
* [[東京造形大学]]（1966年4月-・1993年4月-現在地へ移転）&lt;br /&gt;
* [[東京純心女子大学]]（1967年4月-）&lt;br /&gt;
* [[杏林大学]]八王子キャンパス（1970年4月-）&lt;br /&gt;
* [[多摩美術大学]]八王子キャンパス（1971年4月-）&lt;br /&gt;
* [[創価大学]]（1971年4月-）&lt;br /&gt;
* [[東京薬科大学]]（1976年4月-）&lt;br /&gt;
* [[拓殖大学]]八王子キャンパス（1977年4月-）&lt;br /&gt;
* [[中央大学]]多摩キャンパス（1978年4月-）&lt;br /&gt;
* [[日本文化大学]]（1978年4月-）&lt;br /&gt;
* [[共立女子大学]]八王子キャンパス（1979年4月-2007年4月） - 2007年4月から東京都[[千代田区]]の神田校舎に一本化される予定。&lt;br /&gt;
* [[法政大学]]多摩キャンパス（1984年4月-） - 主な部分は[[町田市]]&lt;br /&gt;
* [[東京家政学院大学]]町田キャンパス（1984年4月-） - 町田市内だが、市境界に近く最寄り駅も市内である。&lt;br /&gt;
* [[東京工科大学]]八王子キャンパス（1986年4月-）&lt;br /&gt;
* [[首都大学東京]][[南大沢キャンパス]]（2004年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立大学]]（1991年4月-2011年3月） - 現在募集を停止し、新入生は首都大学東京で受け入れている。在学生は原則として卒業まで都立大に在籍するため、2011年まで存続予定。&lt;br /&gt;
* [[東京農工大学]]農学部附属広域都市圏・フィールドサイエンス教育研究センター・フィールド・ミュージアム多摩丘陵（旧・波丘地利用実験実習施設）&lt;br /&gt;
* [[デジタルハリウッド大学]]八王子制作スタジオ - 旧市立三本松小学校跡地。本市が「情報産業人材育成特区」に指定されたことから開校。&lt;br /&gt;
* ''撤退した大学''&lt;br /&gt;
** [[国学院大学]]八王子キャンパス（1967年4月-1991年3月）&lt;br /&gt;
** [[テンプル大学]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== その他の学校 =====&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** [[東京都八王子市立高尾山学園|高尾山学園]] - 不登校児童・生徒のための小中一貫校。&lt;br /&gt;
** 看護専門学校&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** 八王子[[養護学校]]&lt;br /&gt;
** 八王子東養護学校&lt;br /&gt;
** 南大沢学園養護学校&lt;br /&gt;
** 八王子[[盲学校]]&lt;br /&gt;
** 八王子技術専門校&lt;br /&gt;
* その他&lt;br /&gt;
** 大竹高等家政学校&lt;br /&gt;
** 東京高尾看護専門学校&lt;br /&gt;
** トヨタ東京整備専門学校&lt;br /&gt;
** 日本工学院八王子専門学校&lt;br /&gt;
** 萠愛調理師専門学校&lt;br /&gt;
** 多摩藤倉学園&lt;br /&gt;
** パラッツオ・スピネッリ芸術修復学院東京校・ランビエンテ修復芸術学院（[[フィレンツェ]]にある美術作品修復技術専門学校の日本校）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 社会教育 ===&lt;br /&gt;
行財政改革により、市立の社会教育施設の一部は財団法人八王子市学園都市文化ふれあい財団が運営している。また、2004年9月に「だれもがいつでも多様に学び豊かな文化を育むまち」をスローガンに、八王子市域23の大学・短期大学・高等専門学校・企業と連携し、単位・学位の取得ができる「八王子学園都市大学（いちょう塾）」が開学した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年代]]以後に設立された施設は、その大半が複合施設となっており、一部は商業施設と共用している。&lt;br /&gt;
[[1962年]]開館の市民会館は、施設の老朽化により、八王子駅南口再開発ビルへの移転・新築が決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2003年]]10月、隣接する神奈川県津久井郡相模湖町(当時)・藤野町との間に、公の施設の相互利用協定を結び、両町の図書室や文化施設について、八王子市民の利用が可能になった。[[2006年]]3月、相模湖町の相模原市編入に伴い、相模原市内の図書館についても八王子市民の利用が可能になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京都高尾自然科学博物館は、都立唯一の自然史博物館であったが、[[2004年]][[3月31日]]、施設の老朽化などの理由により閉館した。博物館事業は八王子市に移管され、新施設の建設が検討されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 市民大学 ====&lt;br /&gt;
* [[八王子学園都市大学]] - 八王子市域23大学・短大・高専・企業と協定を結び、単位・学位の認定を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ホール・集会場 ====&lt;br /&gt;
* 学園都市センター&lt;br /&gt;
* 市民会館&lt;br /&gt;
* [[八王子市芸術文化会館 いちょうホール|芸術文化会館（いちょうホール）]]&lt;br /&gt;
* 南大沢文化会館&lt;br /&gt;
* 生涯学習センター（クリエイトホール）&lt;br /&gt;
* 陵南会館&lt;br /&gt;
* 長房ふれあい館&lt;br /&gt;
* 公民館&lt;br /&gt;
** 中央公民館&lt;br /&gt;
** 南大沢公民館&lt;br /&gt;
** 川口公民館&lt;br /&gt;
* 市民活動支援センター&lt;br /&gt;
** 中心市街地活性化交流スペース&lt;br /&gt;
* 市民センター&lt;br /&gt;
** 大和田・長房・浅川・子安・由木中央・由井・北野・元八王子・由木東&amp;lt;br/&amp;gt;・中野・石川・恩方・台町・南大沢・川口・加住・横山南&lt;br /&gt;
再編が検討されている&lt;br /&gt;
* 市民集会所&lt;br /&gt;
** 横山・恩方・川口・館・加住・由井・元八王子・北野・石川&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 図書館 ====&lt;br /&gt;
* 市立図書館&lt;br /&gt;
** 中央図書館&lt;br /&gt;
** 生涯学習センター図書館&lt;br /&gt;
** 南大沢図書館&lt;br /&gt;
** 川口図書館&lt;br /&gt;
** 中央図書館北野分室&lt;br /&gt;
** 移動図書館「青い鳥号」&lt;br /&gt;
** 地区図書館：各地区センターに併設。市立図書館の本を予約し受け取ることができる。&lt;br /&gt;
* その他図書館（一般貸出利用可能）&lt;br /&gt;
** 首都大学東京図書情報センター本館（東京都内在住・在勤18歳以上）&lt;br /&gt;
** 法政大学多摩図書館（八王子・町田・相模原各市内、在住・在勤・在学18歳以上）&lt;br /&gt;
** 帝京大学図書館（八王子・日野・多摩・立川・町田各市内在住・在勤18歳以上）&lt;br /&gt;
** 創価大学中央図書館（八王子市内在住、創友会会員、創価学園関係者）&lt;br /&gt;
** 相模原市内の図書館&lt;br /&gt;
** 藤野町図書館&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 博物館・資料館・文化施設 ====&lt;br /&gt;
[[画像:Himekidaira-shizennoie1.jpg|thumb|200px|姫木平自然の家・西館]]&lt;br /&gt;
[[画像:Himekidaira-shizennoie2.jpg|thumb|200px|姫木平自然の家・本館・東館]]&lt;br /&gt;
* 独立行政法人森林総合研究所[[多摩森林科学園]]・森の科学館&lt;br /&gt;
* 独立行政法人都市再生機構都市住宅技術研究所・集合住宅歴史館&lt;br /&gt;
* 財団法人[[大学セミナーハウス]]&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** 都立高尾ビジターセンター&lt;br /&gt;
** 多摩地域ユース・プラザ「高尾の森わくわくビレッジ」（2005年4月-） - 都立八王子高陵高等学校跡地&lt;br /&gt;
** （都立高尾自然科学博物館） - 2004年3月閉館 八王子市により再開設が検討中&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** 八王子市郷土資料館&lt;br /&gt;
** 八王子市絹の道資料館&lt;br /&gt;
** 八王子市こども科学館「サイエンスドーム八王子」&lt;br /&gt;
** 八王子市北野余熱利用センター「あったかホール」&lt;br /&gt;
** 八王子市長池自然館「長池ネイチャーセンター」&lt;br /&gt;
** 八王子市夕やけ小やけふれあいの里&lt;br /&gt;
** 八王子市農村環境改善センター&lt;br /&gt;
** 八王子市姫木平自然の家（[[長野県]][[小県郡]][[長和町]]）&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[日野オートプラザ]]（[[日野自動車]]21世紀センター・シャノン21内の自動車博物館）&lt;br /&gt;
** 八王子城跡資料館&lt;br /&gt;
** 高尾自然動植物園&lt;br /&gt;
** [[京王資料館]]（通常一般非公開）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 美術館 ====&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** [[八王子市夢美術館]]&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[東京富士美術館]]&lt;br /&gt;
** [[村内美術館]] - [[バルビゾン派]]の[[絵画]]を中心とした西洋絵画のコレクションを展示&lt;br /&gt;
** 東京造形大学附属横山記念マンズー美術館 - [[ジャコモ・マンズー]]の作品を保存・展示&lt;br /&gt;
** 一刻芸術会館 - [[田中一刻]]の作品を保存・展示&lt;br /&gt;
** トリックアート美術館&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 体育施設（市立） ====&lt;br /&gt;
* 屋内スポーツ施設&lt;br /&gt;
** 富士森公園（市民体育館・市民体育館分館競技場）&lt;br /&gt;
** 甲の原体育館（体育室・屋内プール）&lt;br /&gt;
** 東浅川保健福祉センター（体育室・屋内プール）&lt;br /&gt;
** 北野余熱利用センター「あったかホール」（屋内プール）&lt;br /&gt;
** 各市民センター体育室&lt;br /&gt;
* 屋外スポーツ施設&lt;br /&gt;
** 富士森公園（市民球場・陸上競技場・テニスコート）&lt;br /&gt;
** 椚田運動場（少年野球場・少年サッカー場・テニスコート・ゲートボール場・ジョギングコース）&lt;br /&gt;
** 上柚木公園（陸上競技場・[[上柚木公園野球場|野球場]]・ソフトボール場・テニスコート）&lt;br /&gt;
** 滝が原運動場（野球場（軟式）・ソフトボール場・テニスコート・サッカー場兼自転車練習場）&lt;br /&gt;
** 川町運動場（少年野球場・少年サッカー場）&lt;br /&gt;
** 大塚公園（野球場・テニスコート・屋外プール）&lt;br /&gt;
** 北野公園・高倉公園（軟式野球場）&lt;br /&gt;
** 大平公園・久保山公園・内裏谷戸公園・別所公園・殿入中央公園・松木公園（テニスコート）&lt;br /&gt;
** 陵南公園（屋外プール）&lt;br /&gt;
* その他&lt;br /&gt;
** 浅川サイクリング道路&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 隣接している自治体 ==&lt;br /&gt;
* '''東京都''' [[町田市]]、[[多摩市]]、[[日野市]]、[[昭島市]]、[[福生市]]、[[あきる野市]]、[[西多摩郡]][[檜原村]]&lt;br /&gt;
* '''神奈川県''' [[相模原市]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（※隣接していた[[相模湖町|旧相模湖町]]、[[津久井町|旧津久井町]]が2006年3月20日に相模原市に飛び地合併で編入されたため、隣接しているのは相模原市「相模湖町自治区」、「津久井町自治区」である。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自治体交流 ==&lt;br /&gt;
姉妹都市は以下の2市である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[苫小牧市]]（[[北海道]]）&lt;br /&gt;
** [[1973年]][[8月10日]]姉妹都市盟約&lt;br /&gt;
* [[日光市]]（[[栃木県]]）&lt;br /&gt;
** [[1974年]][[4月1日]]姉妹都市盟約&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも千人同心のゆかりの地である。苫小牧は、[[江戸時代]]末期、北辺警備と[[勇払]]原野の開拓に千人同心が参加したこと、日光は、千人同心が[[日光東照宮|東照宮]]の火の番を勤めていた縁で、姉妹都市となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]、市制90周年を記念して、海外の都市と友好都市交流を開始した。&lt;br /&gt;
* {{flagicon|China}} [[泰安市]]（[[中華人民共和国]][[山東省]]）&lt;br /&gt;
** 2006年[[9月23日]]友好交流協定締結&lt;br /&gt;
* {{flagicon|South Korea}} [[始興市]]（[[大韓民国]][[京畿道]]）&lt;br /&gt;
** 2006年[[11月7日]]友好交流協定締結&lt;br /&gt;
* {{flagicon|Taiwan}} [[高雄市]]（[[中華民国]][[直轄市]]）&lt;br /&gt;
** 2006年11月1日友好交流協定締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
隣接・近隣の自治体には鉄道および路線バスが通じている。ただし、[[檜原村]]に向けては直接の鉄道やバスの便はなく、境界の尾根に登山道があるのみで直接の道路や登山道すら通じていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中央自動車道]]には[[元八王子バスストップ|元八王子バス停]]があり、定期[[高速バス]]を利用できる。ただし、市の中心部から離れており、市内各所からのアクセス性は、決してよいとはいえない。利用するには、京王八王子駅・八王子駅または西八王子駅から[[西東京バス]]利用、「三村橋」バス停下車後徒歩5分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鉄道路線 ===&lt;br /&gt;
[[画像:JR_Hachioji_01.jpg|thumb|right|200px|八王子駅（2004年7月1日）]]&lt;br /&gt;
[[画像:keio_Keio-Hachioji.jpg|thumb|right|200px|京王八王子駅（2004年6月24日撮影）]]&lt;br /&gt;
[[画像:高尾登山清滝駅構内001.jpg|thumb|right|200px|高尾登山電鉄・清滝駅のケーブルカー「あおば」号]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[東日本旅客鉄道]]（JR東日本）&lt;br /&gt;
** [[中央本線]]&lt;br /&gt;
*** [[八王子駅]] - [[西八王子駅]] - [[高尾駅_(東京都)|高尾駅]]&lt;br /&gt;
** [[横浜線]]&lt;br /&gt;
*** 八王子駅 - [[片倉駅]] - [[八王子みなみ野駅]]&lt;br /&gt;
** [[八高線]]&lt;br /&gt;
*** 八王子駅 - [[北八王子駅]] - [[小宮駅]]&lt;br /&gt;
* [[京王電鉄]]&lt;br /&gt;
** [[京王線]]&lt;br /&gt;
*** [[京王八王子駅]] - [[北野駅_(東京都)|北野駅]] - [[長沼駅_(東京都)|長沼駅]]&lt;br /&gt;
** [[高尾線]]&lt;br /&gt;
*** 北野駅 - [[京王片倉駅]] - [[山田駅_(東京都)|山田駅]] - [[めじろ台駅]] - [[狭間駅]] - 高尾駅 - [[高尾山口駅]]&lt;br /&gt;
** [[相模原線]]&lt;br /&gt;
*** [[京王堀之内駅]] - [[南大沢駅]]&lt;br /&gt;
* [[多摩都市モノレール]]&lt;br /&gt;
** [[多摩都市モノレール線]]&lt;br /&gt;
*** [[中央大学・明星大学駅]] - [[大塚・帝京大学駅]] - [[松が谷駅]]&lt;br /&gt;
* [[高尾登山電鉄]]&lt;br /&gt;
** [[ケーブルカー]]&lt;br /&gt;
*** [[清滝駅]] - [[高尾山駅]]&lt;br /&gt;
** エコーリフト&lt;br /&gt;
*** [[山麓駅_(東京都)|山麓駅]] - [[山上駅_(東京都)|山上駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 中心となる駅 ====&lt;br /&gt;
* 八王子駅・京王八王子駅・南大沢駅&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 隣接市町村への連絡 ====&lt;br /&gt;
* '''町田市'''：&lt;br /&gt;
** JR横浜線（[[相原駅]]・[[町田駅]]・[[成瀬駅]]）&lt;br /&gt;
** 京王相模原線（[[多摩境駅]]）&lt;br /&gt;
* '''多摩市'''：&lt;br /&gt;
** 京王線（[[聖蹟桜ヶ丘駅]]）京王相模原線（[[京王多摩センター駅]]）&lt;br /&gt;
** 多摩都市モノレール（[[多摩センター駅]]）&lt;br /&gt;
* '''日野市'''：&lt;br /&gt;
** JR中央本線（[[豊田駅]]・[[日野駅_(東京都)|日野駅]]）&lt;br /&gt;
** 京王線（[[平山城址公園駅]]・[[南平駅]]・[[高幡不動駅]]・[[百草園駅]]）&lt;br /&gt;
** 多摩都市モノレール（[[多摩動物公園駅]]・[[程久保駅]]・高幡不動駅・[[万願寺駅]]・[[甲州街道駅]]）&lt;br /&gt;
* '''昭島市'''：&lt;br /&gt;
** JR八高線（[[拝島駅]]）、もしくはJR中央本線を利用し[[立川駅]]から[[青梅線]]（[[東中神駅]]・[[中神駅]]・[[昭島駅]]・拝島駅）&lt;br /&gt;
* '''福生市'''：&lt;br /&gt;
** JR八高線（拝島駅・[[東福生駅]]）、もしくは拝島駅よりJR青梅線（[[牛浜駅]]・[[福生駅]]）またはJR[[五日市線]]（[[熊川駅]]）&lt;br /&gt;
* '''あきる野市'''：&lt;br /&gt;
** 拝島駅よりJR五日市線（[[東秋留駅]]・[[秋川駅]]・[[武蔵引田駅]]・[[武蔵増戸駅]]・[[武蔵五日市駅]]）&lt;br /&gt;
* '''神奈川県 相模原市'''&lt;br /&gt;
** JR中央本線（[[相模湖駅]]・[[藤野駅]]）&lt;br /&gt;
** JR横浜線（[[橋本駅_(神奈川県)|橋本駅]]・[[相模原駅]]・[[矢部駅]]・[[淵野辺駅]]・[[古淵駅]]）&lt;br /&gt;
** JR相模線（橋本駅・[[南橋本駅]]・[[上溝駅]]・[[番田駅_(神奈川県)|番田駅]]・[[原当麻駅]]・[[下溝駅]]・[[相武台下駅]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 廃線となった路線 ===&lt;br /&gt;
* [[京王御陵線]]（多摩御陵への参拝客を運ぶ為の路線。昭和6年3月開通、昭和20年1月営業休止）&lt;br /&gt;
* [[武蔵中央電気鉄道]]（八王子市内を走った路面電車。昭和4年11月～昭和14年12月※昭和13年6月から京王電気軌道へ譲渡）&lt;br /&gt;
* [[ヨータイ|大阪窯業]]株式会社八王子工場専用線（横浜線の子安1丁目付近から長沼までの貨物専用線。工場は明治45年操業、昭和7年焼失）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バス路線 ===&lt;br /&gt;
[[画像:NishiTokyoBus1.jpg|200px|right|thumb|西東京バス JR八王子駅にて]]&lt;br /&gt;
[[画像:Hachibus1.jpg|200px|right|thumb|はちバス JR西八王子駅にて]]&lt;br /&gt;
八王子はバス路線の発達した街であり、主要駅発着のバス路線の数は多い。また、市域も広いため、直接[[鉄道]]で結ばれていない隣接地域へのアクセスは、主に[[路線バス]]が活用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市を東西に貫く[[甲州街道]]を境にして、主に北側の路線を[[西東京バス]]が、南側は[[京王電鉄バス]]が営業運行している。また、南大沢など市東南部[[多摩ニュータウン]]地区では、[[京王バス南]]、[[神奈川中央交通]]が営業運行している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]]、西東京バスから[[多摩バス]]が分社化され、[[2000年]]から[[陣馬街道]]方面などの路線を共同運行している。&lt;br /&gt;
なお、陣馬方面の大久保バス停より先は自由乗降区間となっている。&lt;br /&gt;
また、2006年のバスダイヤ改正に伴い、陣馬高原下・美山町方面は高尾駅北口発着に、小津町方面は恩方車庫発着（京王・JR八王子駅方面から繊維団地にて乗継可能）に代わっている。&lt;br /&gt;
2006年秋までの登山シーズン中はボンネットバス「[[夕やけ小やけ号]]」が京王八王子より陣馬高原下行きが運行していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]]、[[市街地]]の渋滞緩和と、駅周辺地域での乗降客増加を企図して、各社線とも[[八王子駅]]付近の[[バス停留所|停留所]]間の[[運賃]]が100円均一となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長きにわたり、市の北西部─北東部を直接に結ぶバス路線がなかったが、2003年には、運賃100円均一の[[コミュニティバス]]である八王子市地域循環バス（通称[[はちバス]]）の北西部コースが運行を開始した（運行は[[西東京バス]]に委託されている）。2004年には新たに南東部の既存路線外を補完する路線（東部コース）も営業を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八王子市内に営業路線・営業所・車庫を持つバス会社は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
* [[西東京バス]]（[[西東京バス楢原営業所|楢原営業所]]）&lt;br /&gt;
** [[多摩バス]]（[[多摩バス恩方営業所|恩方営業所]]）&lt;br /&gt;
* [[京王電鉄バス]]（[[京王電鉄バス八王子営業所|八王子営業所]]）&lt;br /&gt;
** [[京王バス南]]（[[京王バス南・南大沢営業所|南大沢営業所]]）&lt;br /&gt;
* [[神奈川中央交通]]（[[神奈川中央交通多摩営業所|多摩営業所]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 都道府県庁への連絡 ===&lt;br /&gt;
JR[[中央本線|中央線]]、あるいは[[京王電鉄]][[京王線]]で[[新宿]]へ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平日日中の主要駅からのルートおよび平均的な所要時間は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 八王子 - 新宿（[[特別快速|中央特快]]で36分、[[スーパーあずさ]]で最速28分）&lt;br /&gt;
* 京王八王子 - 新宿（[[京王線#特急|特急]]で34分）&lt;br /&gt;
* 高尾 - 新宿（[[特別快速|中央特快]]で43分、[[京王高尾線#準特急|京王高尾線準特急]]で45分）&lt;br /&gt;
* 南大沢 - 新宿（[[京王相模原線]][[京王相模原線#列車種別|急行]]・[[調布駅|調布]]乗換の特急利用で32分）&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[中央自動車道]][[元八王子バスストップ|元八王子バス停]]から高速バスが[[新宿]]へ結ぶが、[[元八王子バスストップ|元八王子バス停]]から[[新宿]]方向への乗降はできない（道路状況により40-80分）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 広範囲な連絡 ===&lt;br /&gt;
JR・京王八王子駅より、以下の行先の[[高速バス]]がある（カッコ内は経由地）。&lt;br /&gt;
* [[新宿高速バスターミナル]] - 京王八王子駅-八王子駅北口 - （[[茨木駅]] - [[茨木市駅]] - [[大阪駅]] - [[近鉄難波駅|近鉄なんば]][[大阪シティエアターミナル|OCAT]]） - [[天王寺駅|あべの橋]]&lt;br /&gt;
* （[[大聖寺駅|大聖寺東町]] - [[小松駅]] - [[片町]] - [[香林坊]] - [[武蔵ヶ辻]]）- [[金沢駅]]&lt;br /&gt;
また、空港行きバスとして、以下の3路線がある（カッコ内は経由地）。&lt;br /&gt;
* 高尾駅南口 -（京王八王子駅-八王子駅北口） - [[東京国際空港|羽田空港]]&lt;br /&gt;
* 京王八王子駅-八王子駅北口 - [[成田国際空港|成田空港]]&lt;br /&gt;
* 南大沢駅-（多摩センター駅-聖蹟桜ヶ丘駅） - [[成田国際空港|成田空港]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
==== [[高速道路]]・[[有料道路]] ====&lt;br /&gt;
* [[中央自動車道]]（[[石川パーキングエリア|石川PA]]・[[八王子インターチェンジ|八王子IC]]・[[元八王子バスストップ|元八王子バス停留所]]・[[八王子ジャンクション|八王子JCT]]）&lt;br /&gt;
* [[首都圏中央連絡自動車道]]（圏央道）建設中（[[八王子西インターチェンジ|八王子西IC]]・八王子JCT・[[八王子南インターチェンジ|八王子南IC]]）&lt;br /&gt;
* [[国道16号]][[八王子バイパス]]（[[鑓水インターチェンジ|鑓水IC]]・[[片倉インターチェンジ_(東京都)|片倉IC]]・[[中谷戸インターチェンジ|中谷戸IC]]・[[打越インターチェンジ|打越IC]]）&lt;br /&gt;
* [[ひよどり山有料道路]]（2007年6月1日付で無料化される予定。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[一般国道]] ====&lt;br /&gt;
* [[国道20号]]（[[甲州街道]]）&lt;br /&gt;
** [[日野バイパス]]&lt;br /&gt;
** [[八王子南バイパス]]（建設中）&lt;br /&gt;
* [[国道16号]]（東京環状）&lt;br /&gt;
* [[国道411号]]（[[滝山街道]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[都道府県道|都道]] ====&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;text-align:right;float:right;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Tokyo_road_161_01.jpg|thumb|200px|none|東京都道161号八王子停車場線。2004年7月1日撮影]]&lt;br /&gt;
[[画像:Hachioji_yokoyama_po_01.jpg|thumb|200px|none|横山町郵便局前交差点（八王子市）。手前が国道20号、下柚木八王子線（野猿街道）は街路灯がある左手の道で、50mほどは手前からの一方通行となっている。]]&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[主要地方道]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道20号府中相模原線]]（野猿街道・柚木街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道32号八王子五日市線]]（秋川街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道46号八王子あきる野線]]（高尾街道・滝山街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道47号八王子町田線]]（町田街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道59号八王子武蔵村山線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道61号山田宮の前線]]&lt;br /&gt;
* 一般都道&lt;br /&gt;
** [[東京都道155号町田平山八王子線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道156号町田日野線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道158号小山乞田線]]（多摩ニュータウン通り）&lt;br /&gt;
** [[東京都道160号下柚木八王子線]]（野猿街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道161号八王子停車場線]]（桑並木通り）&lt;br /&gt;
** [[東京都道162号三ツ木八王子線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道166号瑞穂あきる野八王子線]]（桑並木通り、ひよどり山有料道路、谷野街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道169号淵上日野線]]（新滝山街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道173号上館日野線]]（北野街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道174号長沼北野線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道176号楢原あきる野線]]（高尾街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道186号高月楢原線]]（滝山街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道187号多摩御陵線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道189号高尾山線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道235号豊田停車場線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道256号八王子国立線]]（甲州街道）&lt;br /&gt;
** [[神奈川県道・東京都道503号相模原立川線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道・神奈川県道506号八王子城山線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線]]（[[旧甲州街道]]）&lt;br /&gt;
** [[山梨県道・神奈川県道・東京都道521号上野原八王子線]]（[[陣馬街道]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地域 ==&lt;br /&gt;
=== 言語 ===&lt;br /&gt;
古くから居住する住民は、[[西関東方言]]の一種である八王子方言を話すが、他地域からの人口流入などにより、特徴はあいまいになりつつある。西関東方言の中でも、横浜方言・あるいは[[甲州弁]]との交流が認められる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八王子方言の特徴として「──じゃんかよ（ぉ）」など、語尾に「じゃん」「よぉ」をつけることが多い（''例：太郎さんよぉ、まったくもうよぉ、困っちまうじゃんかよぉ''）。また「うざい」という若者言葉は、江戸期まで使用された「うざうざ」を源とする八王子方言の「うざったい」（まとわりつくような不快感を表す）が源であるとする説がある。&lt;br /&gt;
さらには「めぐらったらしい」という言葉も八王子の一部では使われている。&lt;br /&gt;
また、語尾に「～だべ」をつけることが多い。（例、「遊びに行くべ」など・・・）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地域放送 ===&lt;br /&gt;
* ケーブルテレビ&lt;br /&gt;
** [[八王子テレメディア]]&lt;br /&gt;
** [[八王子ケーブルテレビ]] - 大和田町&lt;br /&gt;
** [[日野ケーブルテレビ]] - 北野町、長沼町&lt;br /&gt;
** [[多摩テレビ]] - ニュータウン地区&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地域区分 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;table width=&amp;quot;100%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;中央&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;東南部(北野・由井)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;西南部(横山・館・浅川)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;西部(元八王子・川口・恩方)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;北部(加住・石川)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;東部(南大沢・由木・由木東)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr valign=top&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 旭町&lt;br /&gt;
* 東町&lt;br /&gt;
* 三崎町&lt;br /&gt;
* 中町&lt;br /&gt;
* 明神町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 横山町&lt;br /&gt;
* 新町&lt;br /&gt;
* 南町&lt;br /&gt;
* 寺町&lt;br /&gt;
* 八日町&lt;br /&gt;
* 八幡町&lt;br /&gt;
* 南新町&lt;br /&gt;
* 天神町&lt;br /&gt;
* 万町&lt;br /&gt;
* 子安町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 元横山町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 田町&lt;br /&gt;
* 本町&lt;br /&gt;
* 大横町&lt;br /&gt;
* 緑町&lt;br /&gt;
* 台町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 上野町&lt;br /&gt;
* 小門町&lt;br /&gt;
* 本郷町&lt;br /&gt;
* 平岡町&lt;br /&gt;
* 元本郷町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 八木町&lt;br /&gt;
* 追分町&lt;br /&gt;
* 日吉町&lt;br /&gt;
* 千人町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 清川町&lt;br /&gt;
* 中野上町一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 中野山王一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 中野町&lt;br /&gt;
* 暁町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 富士見町&lt;br /&gt;
* 大和田町一丁目～七丁目&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 北野町&lt;br /&gt;
* 長沼町&lt;br /&gt;
* 打越町&lt;br /&gt;
* 片倉町&lt;br /&gt;
* 北野台一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 絹ヶ丘一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 小比企町&lt;br /&gt;
* 西片倉一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 兵衛一丁目～&lt;br /&gt;
* みなみ野一丁目～六丁目&lt;br /&gt;
* 七国一丁目～六丁目&lt;br /&gt;
* 大船町&lt;br /&gt;
* 宇津貫町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* めじろ台一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 散田町一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 並木町&lt;br /&gt;
* 長房町&lt;br /&gt;
* 東浅川町&lt;br /&gt;
* 山田町&lt;br /&gt;
* 椚田町&lt;br /&gt;
* 寺田町&lt;br /&gt;
* 館町&lt;br /&gt;
* 狭間町&lt;br /&gt;
* 城山手一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 廿里町&lt;br /&gt;
* 西浅川町&lt;br /&gt;
* 裏高尾町&lt;br /&gt;
* 初沢町&lt;br /&gt;
* 高尾町&lt;br /&gt;
* 南浅川町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 横川町&lt;br /&gt;
* 叶谷町&lt;br /&gt;
* 大楽寺町&lt;br /&gt;
* 泉町&lt;br /&gt;
* 四谷町&lt;br /&gt;
* 諏訪町&lt;br /&gt;
* 楢原町&lt;br /&gt;
* 犬目町&lt;br /&gt;
* 川口町&lt;br /&gt;
* 上壱分方町&lt;br /&gt;
* 弐分方町&lt;br /&gt;
* 元八王子町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 川町&lt;br /&gt;
* 西寺方町&lt;br /&gt;
* 上川町&lt;br /&gt;
* 美山町&lt;br /&gt;
* 小津町&lt;br /&gt;
* 下恩方町&lt;br /&gt;
* 上恩方町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 戸吹町&lt;br /&gt;
* 宮下町&lt;br /&gt;
* 高月町&lt;br /&gt;
* 加住町一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 丹木町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 谷野町&lt;br /&gt;
* みつい台一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 滝山町一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 梅坪町&lt;br /&gt;
* 左入町&lt;br /&gt;
* 尾崎町&lt;br /&gt;
* 平町&lt;br /&gt;
* 丸山町&lt;br /&gt;
* 宇津木町&lt;br /&gt;
* 久保山町一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 小宮町&lt;br /&gt;
* 石川町&lt;br /&gt;
* 大谷町&lt;br /&gt;
* 高倉町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 鑓水一丁目～&lt;br /&gt;
* 中山&lt;br /&gt;
* 上柚木一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 下柚木一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 南陽台一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 越野&lt;br /&gt;
* 松木&lt;br /&gt;
* 南大沢一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 別所一丁目～二丁目&lt;br /&gt;
* 堀之内一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 東中野&lt;br /&gt;
* 大塚&lt;br /&gt;
* 松が谷&lt;br /&gt;
* 鹿島&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/table&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 観光 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Takao-and-kagenobu.jpg|thumb|200px|高尾山(手前)と景信山(右奥)]]&lt;br /&gt;
[[画像:Komiya-park.JPG|thumb|200px|都立小宮公園]]&lt;br /&gt;
[[画像:Minami-asakawa-bashi.jpg|thumb|200px|武蔵陵墓地入口に架かる南浅川橋]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kuruma-ningyo.jpg|thumb|200px|八王子車人形がデザインされた市内マンホール蓋]]&lt;br /&gt;
* 観光産業振興政策の一環として、[[2003年]]11月29日、市内在住の[[演歌歌手]]・[[北島三郎]]に、加えて[[2004年]]11月25日には市内在住の[[映画監督]]・[[斎藤耕一]]、[[八王子車人形]]五代目家元[[西川古柳]]に、さらに加えて[[2006年]]11月には市内で育った[[羽生善治]]に八王子観光大使を委嘱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自然 ===&lt;br /&gt;
==== 高尾山・陣馬山 ====&lt;br /&gt;
[[高尾山]]・[[陣馬山]]はハイキングコースとして知られ、[[明治の森高尾国定公園]]や[[東京都立高尾陣場自然公園]]に指定されている。高尾山は[[東海自然歩道]]・[[関東ふれあいの道]]・[[奥高尾縦走路]]の起点でもある。高尾山は行楽地であるとともに、[[高尾山薬王院有喜寺]]の寺域である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 東京都立小宮公園 ====&lt;br /&gt;
東京都立[[小宮公園]]の所在地は大谷町・暁町。加住丘陵にある[[東京都立公園]]。[[萌芽更新]]の管理をきちんと行っているため、美しい[[里山]]が保存されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 東京都立陵南公園 ====&lt;br /&gt;
高尾と西八王子の中間の浅川沿いの長房町、東浅川町に位置している。高尾駅から徒歩20分。&lt;br /&gt;
野球場、こどもの遊び場などがある。この公園とその近隣は桜の名所である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史・文化 ===&lt;br /&gt;
* [[高尾山薬王院有喜寺]]&lt;br /&gt;
所在地は高尾町。[[真言宗]][[智山派]]の大本山の一つ。年末年始の除夜参り・初詣客でにぎわう。&lt;br /&gt;
* [[信松院]] - 台町。[[武田信玄]]の娘で、[[織田信長]]の長男、[[織田信忠|信忠]]と婚約した[[松姫]]が、[[武田氏]]滅亡後尼となり開いた寺。&lt;br /&gt;
* [[広園寺]]（こうおんじ）&lt;br /&gt;
所在地は山田町。[[臨済宗]]の古刹。正式には「臨済宗[[南禅寺派]]兜卒山伝法院」。[[室町時代]]初期の創建。境内全域が[[東京都指定文化財一覧#史跡|東京都の史跡]]。加えて、総門、山門、仏殿、鐘楼は[[東京都指定文化財一覧|東京都の重要有形文化財]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[史跡]]・[[城跡]] ====&lt;br /&gt;
* [[片倉城]]跡 - 片倉町。空堀・[[土塁]]等が残り、[[15世紀]]後半の中世城郭の形態を今に伝える。[[東京都指定文化財一覧#史跡|東京都指定史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[滝山城]]跡 - 高月町。[[大石氏|大石定重]]築城。その後[[北条氏照]]の居城。規模の大きさや保存状態の良さでは日本でも有数の城跡。東京都立滝山自然公園の一画。国指定[[史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[高月城]]跡 - 高月町。&lt;br /&gt;
* [[八王子城]]跡 - 元八王子町。[[北条氏照]]居城であり、範囲の広さでは日本で最大級の[[山城]]である。国指定[[史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[初沢城]]跡 - 初沢町。[[東京都指定文化財一覧#史跡|東京都指定史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[浄福寺城]]跡 - 下恩方町。&lt;br /&gt;
* [[小田野城]]跡 - 西寺方町。国指定[[史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[大久保長安]]陣屋跡 - 小門町。[[八王子代官]]陣屋・関東十八代官陣屋・八王子十八代官陣屋ともいう。産千代稲荷神社境内。&lt;br /&gt;
* [[小仏関所]]跡 - 裏高尾町。旧[[甲州街道]]の関所。&lt;br /&gt;
* 絹の道（[[文化庁]]選定「歴史の道百選」） - 鑓水。[[明治]]時代[[横浜市|横浜]]に輸出用生糸を運ぶために利用された。「八王子市絹の道資料館」がある。&lt;br /&gt;
* [[武蔵陵墓地]] - 長房町。[[大正天皇]]・[[貞明皇后]]の陵墓である[[多摩陵]]・[[多摩東陵]]、隣接して[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]の[[武蔵野陵]]・[[武蔵野東陵]]がある。&lt;br /&gt;
* 浅川地下壕（[[大日本帝国陸軍|陸軍]]浅川倉庫） - 初沢町・高尾町。[[第二次世界大戦]]中に掘削された地下壕。[[中島飛行機]]製作所の航空機エンジンの生産などが行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== その他 ====&lt;br /&gt;
* 童謡『[[夕焼小焼]]』 - 恩方地区出身の[[中村雨紅]]の作詞。歌碑が建てられており、「夕焼小焼」というバス停もある。上恩方町には「八王子市夕やけ小やけ文化農園」がある。行き方は、高尾駅よりバスで陣馬高原行きに乗る。&lt;br /&gt;
なお「八王子市夕やけ小やけ文化農園」には宿泊施設をはじめとする、体験施設などが設備されており、都会にいながら田舎の体験が出来る。&lt;br /&gt;
* [[八王子車人形]] - [[文久]]年間に初代西川古柳により考案。現在は五代目西川古柳座が国内外で公演。東京都指定無形文化財（芸能）および[[文化庁]]の記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イベント ===&lt;br /&gt;
* 「高尾山迎光祭」 - 元旦。高尾山薬王院有喜寺にて。&lt;br /&gt;
* 「八王子八福神めぐり」 - 元旦～1月10日。[[毘沙門堂]]（[[毘沙門天]]）・[[成田山伝法院]]（[[恵比寿天]]）・[[金剛寺]]（[[寿老尊]]・[[福禄寿]]）・[[信松院]]（[[布袋尊]]）・[[善龍寺]]（[[走大黒天]]）・[[了法寺]]（[[新護弁財天]]）・[[吉祥院]]（[[吉祥天]]）&lt;br /&gt;
* 「高尾山節分会」 - 2月3日。[[高尾山]]薬王院有喜寺本堂にて。有名力士などが参加。&lt;br /&gt;
* 「全関東八王子夢街道駅伝」 - 2月。JR八王子駅→甲州街道→JR西八王子駅→京王線狭間駅→京王線めじろ台駅→散田架道橋（折り返し）&lt;br /&gt;
* 「高尾山大火渡り祭」 - 3月第2日曜日。高尾山薬王院有喜寺祈祷殿前広場にて。&lt;br /&gt;
* 「高尾梅郷梅まつり」 - 3月中旬の土日。&lt;br /&gt;
* 「高尾山若葉まつり」 - 4月上旬～5月下旬。（「春のスタンプハイク」（京王電鉄主催））&lt;br /&gt;
* 「高尾山春季大祭」 - 4月第3日曜日。不動院～高尾山薬王院有喜寺。稚児パレードなど。&lt;br /&gt;
* 「高尾山ビアマウント」 - 6月1日～。高尾山からの八王子～東京都心の夜景。&lt;br /&gt;
* 「[[八王子まつり]]」 - 8月上旬。3日間にわたって実施される。関東有数の山車まつりであり、精巧な彫刻が見所の18台の山車による勇壮な巡行は灯火に映える。八幡・八雲神社、多賀神社の両宮の神輿渡卸もあり、まつりを盛り上げている。平成18年で46回を迎え、観客数は延べ55万人あった。&lt;br /&gt;
* 「八王子花火大会」 - 7月下旬または8月上旬。会場は八王子市民球場。&lt;br /&gt;
* 「[[しょうがまつり]]」 - 9月第一金・土曜日。永福稲荷神社。&lt;br /&gt;
* 「高尾山もみじまつり」 - 10月上旬～11月下旬。（「秋のスタンプハイク」（京王電鉄主催））&lt;br /&gt;
* 「とうがらし地蔵大祭」 - 10月24日。禅東院。&lt;br /&gt;
* 「[[酉の市]]（大鳥祭）」 - 11月酉の日。大鳥神社および市守神社。&lt;br /&gt;
* 「[[八王子いちょうまつり]]」 - 11月下旬。市民手作りの祭。会場は甲州街道・追分町～JR高尾駅入り口～小仏関所跡にかけて。小仏関所跡にちなみ通行手形を発行した「関所オリエンテーリング」や、[[クラシックカー]]パレードなど。&lt;br /&gt;
* 「ガスパール・カサド国際チェロ・コンクール in 八王子」 - 11月～12月。[[ガスパール・カサド]]の妻である[[原智恵子]]主催で、[[フィレンツェ]]で行われていたコンクールだったが[[1990年]]の開催を最後に中止された。原智恵子が晩年を多摩地域で過ごしたことが縁でこのコンクールが八王子で復活することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 名物・名所 ===&lt;br /&gt;
* 八王子ラーメン（八王子系ラーメン） - 醤油タレに「きざみ玉ねぎ」を具として使ったラーメン。時代の変化とともに各店の味は進化し、「尾張屋のめん」を使用した昔ながらの「八王子ラーメン」が人気を博す一方、「きざみ玉ねぎ」は使っているものの、スープの素材、とり方などが全く違う「八王子ラーメン」の店も行列ができる人気店も多い。また、最近では全国的にも有名なラーメン店の支店などもオープンしたり、都内有名店で修行を積んだ若い人が新たな味で挑戦をするなど、八王子は大変な「ラーメン激戦区」となっている。西八王子にある100円ラーメンを始めとして500円前後でラーメン一杯を食べることができるのも特筆すべき点である。&lt;br /&gt;
* とろろそば（高尾山参道）&lt;br /&gt;
* 菓子：高尾せんべい・陣馬せんべい・松姫もなか・葵千人・都まんじゅう など&lt;br /&gt;
* 清酒：桑乃都・日出山 など&lt;br /&gt;
* 八王子温泉&lt;br /&gt;
** 八王子温泉福福の湯 - 炭酸水素塩泉・塩化物泉 施設：『八王子温泉福福の湯』（八王子市下柚木）&lt;br /&gt;
** 八王子温泉多摩の湯 - ナトリウム・塩化物強塩泉 施設：『八王子温泉やすらぎの湯』（八王子市中町）&lt;br /&gt;
** 八王子塩釜温泉観音の湯 - ナトリウム・塩化物泉（湧出地：八王子市大塚） 施設：『八王子健康ランドふろッぴィ高尾の湯』（八王子市狭間町）&lt;br /&gt;
* [[ラ・フェット多摩 南大沢]] - [[アウトレットモール]]&lt;br /&gt;
* [[道の駅八王子滝山]] - 東京都内初の道の駅&lt;br /&gt;
* [[長池公園]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フィルム・コミッション制度 ===&lt;br /&gt;
市では、都市景観・自然景観そのものを観光資源ととらえ、市内における[[テレビ]]・[[映画]]・[[コマーシャル|CM]]などのロケ利用促進を目的とするフィルムコミッション制度を設けている。これは、市の観光課が窓口となり、観光協会や大学などの各団体と連携して、市内における撮影の誘致や円滑な進行を補助するものであり[[2004年]]1月にスタートした。市の観光課によると、前年[[2003年]]に放映されたテレビドラマ『[[ハコイリムスメ!]]』では高尾山が舞台となり全国に紹介されたため観光客が3割増加したという。[[2004年]]放映のテレビドラマ『[[白い巨塔_(テレビドラマ 2003年)|白い巨塔]]』では、市役所本庁舎が劇中の裁判所として登場したが、このドラマ撮影はフィルム・コミッション制度活用の一例である。市では、今後撮影候補地の[[データベース]]化など、情報提供体制の充実をはかり、撮影の積極的誘致につとめる、としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
== 八王子市を舞台にした作品 ==&lt;br /&gt;
=== 歌（[[歌謡曲]]・[[民謡]]・[[音頭]]等） ===&lt;br /&gt;
* 『八王子音頭』：作詞[[西條八十]]、作曲[[古賀政男]]。[[1952年]]に作られた。「八王子まつり」をはじめとした八王子市全域の盆踊り大会・夏祭りで必ずと言っていいほど流される。&lt;br /&gt;
* 『新八王子音頭』（別名：『太陽踊り』）：「八王子まつり」をはじめとした八王子市全域の[[盆踊り]]大会・夏祭りで必ずと言っていいほど、流される音頭である。「歌詞・曲調のインパクトがとても強い」といわれている。作詞[[井田誠一]]、 作曲・編曲[[いずみたく]]、唄[[佐良直美]]。&lt;br /&gt;
* 『新八王子音頭』：作詞[[阿部昭三]]、作曲[[清水晃夫]]、編曲[[星野進]]&lt;br /&gt;
** '''注意：『新八王子音頭』について''' - なぜ『新八王子音頭』は2つ存在するのか。これは、元々、八王子を歌った音頭は、1952年、西條八十作詞の『八王子音頭』のみであったが、その後、井田誠一作詞の『新八王子音頭（太陽踊り）』と阿部昭三作詞の『新八王子音頭』が同名で、相次いで作られてしまったためだ。尚、現在は井田誠一作詞の『新八王子音頭』は『太陽踊り』という愛称で市民から親しまれている。しかし、一部の人・文章等では『太陽踊り』を『新八王子音頭』と紹介・記載していることもあるので、未だに井田誠一作詞の『新八王子音頭（太陽踊り）』と阿部昭三作詞の『新八王子音頭』が混同されていることが多い。&lt;br /&gt;
* 『八王子平成音頭』&lt;br /&gt;
* 『八王子市歌』：[[1936年]]（昭和11）市政20周年を記念して制定。[[北原白秋]]作詞、[[山田耕筰]]作曲。&lt;br /&gt;
* 『夕焼小焼』：中村雨紅が八王子駅から故郷の恩方まで歩いた時に作詞した。2005年12月より[[八王子駅]]の発車メロディーに使用されている。&lt;br /&gt;
* 『高尾山音頭』&lt;br /&gt;
* 『八王子ルンバ』：[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[中井正広のブラックバラエティ]]という番組で流された。[[嶺鶯]]が歌っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* [[きだみのる]]『気違ひ部落周游紀行』1957年 - 作者が[[第二次世界大戦]]中に疎開していた恩方地区が舞台。なお、ここでいう「部落」とは、「[[集落]]」または行政単位の村よりも小さな地域共同体のことを指すもので、[[部落問題|被差別部落]]の意ではない。&lt;br /&gt;
** [[1957年]]映画化 [[松竹]]『気違い部落』&lt;br /&gt;
* [[古世古和子]] 著 [[北島新平]] 作画『ランドセルをしょったおじぞうさん』1980年 - 泉町・相即寺が舞台。&lt;br /&gt;
* [[篠田節子]]『絹の変容』1991年、『夏の災厄』1995年&lt;br /&gt;
** [[2006年]]テレビドラマ化 6月27日 [[日本テレビ]]『ウィルスパニック2006夏 街は感染した』&lt;br /&gt;
* [[三田誠広]]『白い丘』1991年 - 作者が居住していた[[めじろ台駅|めじろ台]]が舞台。&lt;br /&gt;
* [[木根尚登]]『八王子のレッド・ツェッペリン』1996年&lt;br /&gt;
* [[重松清]]『定年ゴジラ』1998年 - 作者が居住していためじろ台が舞台。&lt;br /&gt;
** [[2000年]]テレビドラマ化 2月 - 3月 [[日本放送協会|NHK]]-[[衛星放送|BS]]『定年ゴジラ』（全6回）&lt;br /&gt;
* [[二階堂黎人]]『吸血の家』1999年 - 横山町の旧家が舞台。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[東京放送|TBS]]『[[ひとり暮らし_(テレビドラマ)|ひとり暮らし]]』（1996）&lt;br /&gt;
** 主人公の花淵美歩の実家がめじろ台である。（特に第1話に同駅の駅舎の外景が映る。） 出演：[[常盤貴子]]&lt;br /&gt;
* TBS『[[メロディ_(テレビドラマ)|メロディ]]』（1997）&lt;br /&gt;
** 八王子にある[[ケーブルテレビ]]局が舞台。出演：[[小泉今日子]]、[[小林薫]]、[[玉置浩二]]など。&lt;br /&gt;
* [[日本テレビ]]『[[向井荒太の動物日記～愛犬ロシナンテの災難～]]』（2001）&lt;br /&gt;
** 八王子大学（架空の大学）が舞台。名前は出ているが八王子市内のロケは行われていない。出演：[[堂本剛]]、[[安倍なつみ]]、[[水野真紀]]など。&lt;br /&gt;
* TBS『[[月曜ミステリー劇場]]・[[万引きGメン・二階堂雪]]10ねたみ』（2003）&lt;br /&gt;
** 八王子と[[甲府市|甲府]]のスーパーが舞台。出演：[[木の実ナナ]]、[[酒井和歌子]]、[[あおい輝彦]]など。&lt;br /&gt;
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[ハコイリムスメ!]]』（2003）&lt;br /&gt;
** [[高尾山]]の中腹にある「十一丁目茶屋」で育った姉妹が主人公。出演：[[飯島直子]]、[[深田恭子]]、[[吉沢悠]]、[[玉山鉄二]]、[[勝村政信]]、[[地井武男]]など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[少爺占]]、[[王貽興]]『[[八王子_(ラジオドラマ)|八王子]]』(2005)- 香港のラジオドラマ。八王子そのものが舞台という訳ではないのだが、タイトルの由来は作者の知人の留学先が[[創価大学]]であったことから、その所在地である八王子市よりとられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* 『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著名な出身者 ==&lt;br /&gt;
=== 文化 ===&lt;br /&gt;
* [[篠田節子]] - [[作家]]&lt;br /&gt;
* [[井上一馬]] - 作家・翻訳家&lt;br /&gt;
* [[中村雨紅]] - [[詩人]]&lt;br /&gt;
* [[滝井孝作|瀧井孝作]] - [[作家]]&lt;br /&gt;
* [[鈴木信太郎]] - [[画家]]&lt;br /&gt;
* [[小島善太郎]] - [[画家]]&lt;br /&gt;
* [[前田真三]] - 写真家&lt;br /&gt;
* [[斎藤耕一]] - [[映画監督]]&lt;br /&gt;
* [[島村達雄]] - [[アニメーション]]作家&lt;br /&gt;
* [[東海林さだお]] - [[漫画家]]&lt;br /&gt;
* [[高橋春男]] - [[漫画家]]&lt;br /&gt;
* [[松任谷由実]] - シンガーソングライター&lt;br /&gt;
* [[三田村鳶魚]] - 江戸風俗考証家&lt;br /&gt;
* [[梯剛之]] - ピアニスト&lt;br /&gt;
* [[たむらしげる]] - [[絵本作家]]・映像作家&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 芸能 ===&lt;br /&gt;
* [[柳家はん治]] - [[落語家]]&lt;br /&gt;
* [[夏木陽介]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[佳那晃子]] - [[俳優|女優]]&lt;br /&gt;
* [[星正人]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[ヒロミ]] - [[タレント]]&lt;br /&gt;
* [[前田耕陽]]（元[[男闘呼組]]） - 俳優&lt;br /&gt;
* [[工藤夕貴]] - 女優&lt;br /&gt;
* [[西島秀俊]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[塚本高史]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[山本淳一]]（元[[光GENJI]]） - タレント&lt;br /&gt;
* [[田中有紀美]]（元[[Melody]]）-女優・映画監督&lt;br /&gt;
* [[アンジャッシュ|児嶋一哉（アンジャッシュ）]] - お笑いタレント&lt;br /&gt;
* [[アンジャッシュ|渡部建（アンジャッシュ）]] - お笑いタレント&lt;br /&gt;
* [[黒沢薫]]（[[ゴスペラーズ]]） - [[歌手]]&lt;br /&gt;
* [[滝沢秀明]] - 俳優、歌手&lt;br /&gt;
* [[根食真実]] - [[歌手]]&lt;br /&gt;
* [[LITTLE]] - ミュージシャン&lt;br /&gt;
* [[望月久代]] -[[声優]]&lt;br /&gt;
* [[森久保祥太郎]] -[[声優]]&lt;br /&gt;
* [[土屋滋生]] -[[ラジオパーソナリティ]]&lt;br /&gt;
* [[伊藤健太郎_(声優)|伊藤健太郎]] -[[声優]]&lt;br /&gt;
* [[Mie]] -[[モデル]]&lt;br /&gt;
* [[稲田徹]] -声優&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スポーツ ===&lt;br /&gt;
* [[富沢宏哉]] - [[プロ野球]]審判&lt;br /&gt;
* [[高木大成]] - 元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[生沼スミエ]] - [[バレーボール]]選手・監督&lt;br /&gt;
* [[松永里絵子]] - [[新体操]]選手&lt;br /&gt;
* [[平本一樹]] - [[サッカー]]選手&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 諸分野 ===&lt;br /&gt;
* [[小林ゆり子]] - [[テレビ岩手]]アナウンサー&lt;br /&gt;
* [[松田光弘]] - [[ファッションデザイナー]]、[[ニコル]]創業者&lt;br /&gt;
* [[串田嘉男]] - [[天文学|アマチュア天文家]]&lt;br /&gt;
* [[鈴木松美]] - 声紋研究家&lt;br /&gt;
* [[山田宏]] - [[政治家]]、[[杉並区]]長&lt;br /&gt;
* [[大貫卓也]] - [[広告]]アートディレクター&lt;br /&gt;
* [[秋葉隆史]] - テレビ番組[[ディレクター]][[プロデューサー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著名な在住者 ==&lt;br /&gt;
=== 文化 ===&lt;br /&gt;
* [[斎藤正二]] - 思想史家&lt;br /&gt;
* [[東海林さだお]] - 漫画家、[[エッセイスト]]&lt;br /&gt;
* [[松下耕]] - [[作曲家]]・[[合唱指揮者]]&lt;br /&gt;
* [[山根青鬼]] - 漫画家&lt;br /&gt;
* [[高橋三千綱]] - [[作家]]&lt;br /&gt;
* [[東城和実]] - 漫画家&lt;br /&gt;
* [[平柳和哉]] - [[予備校]][[講師]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 芸能 ===&lt;br /&gt;
* [[北島三郎]] - [[演歌歌手]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スポーツ ===&lt;br /&gt;
* [[並木敏成]] - [[プロフェッショナル・アングラー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[八王子市の歴史]]&lt;br /&gt;
* [[八王子市立の小学校一覧]]&lt;br /&gt;
* [[八王子競馬]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
* 市制記念日:[[10月1日]]&lt;br /&gt;
* 世帯数 : 232,096世帯（2007年4月1日）&lt;br /&gt;
* 外国人登録者数 : 8,120人（男性:3,619人 女性:4,501人（2007年4月1日））&lt;br /&gt;
* [[市外局番]]は市内全域が「042」（八王子MA。2006年3月4日までは「0426」）。なお、神奈川県相模原市相模湖町及び同市藤野町も市内扱い。&lt;br /&gt;
* 最寄の空港は[[東京国際空港|羽田空港]]または[[調布飛行場]]。&lt;br /&gt;
* [[成田国際空港|成田空港]]への[[成田エクスプレス|列車]]、[[バス_(交通機関)|バス]]も運行されている（ただし列車は毎日早朝1本、空港からの下り列車も1日1本のみ）。&lt;br /&gt;
* 八王子市としての広範囲連絡のための[[新幹線]]最寄り駅は[[東京駅]]と[[新横浜駅]]だが、厳密に言えば新横浜駅の方が近い（東京駅へは[[中央快速線|中央線]]、新横浜駅へは[[横浜線]]を利用）。また、[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線|長野新幹線]]を利用する際は[[西国分寺駅]]で[[武蔵野線]]に、[[武蔵浦和駅]]で[[埼京線]]経由（ただし、埼京線は列車の運転間隔が最大で18分と長く空いている場合があるので、[[南浦和駅]]で[[京浜東北線]]に乗り換えた方が早いこともある）で[[大宮駅_(埼玉県)|大宮駅]]を利用した方が便利な場合が多い。また、本数は少ないものの、八王子駅～大宮駅間を走る「[[むさしの_(列車)|快速むさしの号]]」が運転されている。（東京駅へ行く場合とほぼ同じ時間で行くことが可能）。&lt;br /&gt;
* 午後5時（冬期は午後4時）に本市出身の中村雨紅が作詞した『[[夕焼小焼]]』が、また2006年4月10日からは加えて小学校低学年の帰宅時間にあたる午後1時半に本市出身の松任谷由実の『守ってあげたい』が防災無線で放送されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Hachioji,_Tokyo}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地域情報 ===&lt;br /&gt;
* [http://www.hachioji-kankokyokai.or.jp/ 観光 はちおうじ]&lt;br /&gt;
* [http://www.hachioji.or.jp/ 八王子商工会議所]&lt;br /&gt;
* [http://www.htmnet.ne.jp/ 八王子テレメディア]（[[ケーブルテレビ]]局）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地図・航空写真 ===&lt;br /&gt;
* [http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo100/89/ckt-89-1/c18/ckt-89-1_c18_12.jpg 市街地の航空写真] - 国土交通省のサイト。左右に横断しているのが浅川で、主たる市街地はその南側に広がる。浅川のもっとも右の橋が国道20号の大和田橋、もっとも左の橋が国道16号の浅川橋である。画面下がJR八王子駅である。&lt;br /&gt;
* [http://watchizu.gsi.go.jp/ 国土地理院 地図閲覧サービス ウオッちず]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div align=&amp;quot;center&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;border: solid 2px #000000;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394105&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=0 五日市（南西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394155&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=2000 五日市（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394200&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=1200 拝島（南西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394205&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=2000 拝島（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394300&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=1600 立川（南西）]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393150&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=1600 与瀬（北西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393155&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=2000 与瀬（北東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393250&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=0 八王子（北西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393255&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=0 八王子（北東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393350&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=0 武蔵府中（北西）]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393105&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=0 与瀬（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393200&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=0 八王子（南西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393205&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=0 八王子（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393300&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=0 武蔵府中（南西）]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、{{ポータル}}&lt;br /&gt;
* [[八王子市の歴史]]&lt;br /&gt;
* [[八王子市立の小学校一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{wikitravel}}&lt;br /&gt;
{{東京都の自治体}}&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|八王子市}}&lt;br /&gt;
[[Category:東京都の市町村|はちおうしし]]&lt;br /&gt;
[[Category:八王子市|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:多摩ニュータウン|はちおうしし]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured_article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[de:Hachiōji]]&lt;br /&gt;
[[en:Hachiōji,_Tokyo]]&lt;br /&gt;
[[es:Hachiōji_(Tokio)]]&lt;br /&gt;
[[fi:Hachiōji]]&lt;br /&gt;
[[fr:Hachioji]]&lt;br /&gt;
[[it:Hachiōji]]&lt;br /&gt;
[[ko:하치오지_시]]&lt;br /&gt;
[[pt:Hachioji]]&lt;br /&gt;
[[zh:八王子市]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%9F%A5%E7%9A%84%E9%9A%9C%E5%AE%B3&amp;diff=5774</id>
		<title>知的障害</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%9F%A5%E7%9A%84%E9%9A%9C%E5%AE%B3&amp;diff=5774"/>
				<updated>2007-06-03T08:09:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=知的障害&amp;amp;oldid=5332742&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{保護}}&lt;br /&gt;
'''知的障害'''（ちてきしょうがい）とは、一般的には金銭管理、[[識字|読み書き]][[計算]]など、日常生活や[[学校]]生活の上で[[脳|頭脳]]を使う[[知能|知的]]行動に支障があることを指す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''精神遅滞'''（せいしんちたい、英：mental retardation）とほぼ同義語である。[[日本]]では1950年代から学校教育法では、精神薄弱という表現が50年近くそのままに放置されていたため、1994年頃から数年間メディア一般では、精神薄弱を「精神遅滞」という表現に一斉に変更して使用していた時期がある。2000年に法改正があって、「知的障害」に変わったため、精神遅滞は一般には使われなくなった。「精神」の所在が明示できないため、「精神遅滞」ではすべての資質、能力が遅れているのか、という印象を与えるためである。ただし、[[アメリカ合衆国]]などでは、こうした障害は「精神遅滞」と呼ばれているのが常で、この分野の国際学会も、「mental retardation」という表現を用いている。この場合の「mental」は、かならずしも「精神」という意味ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 法律上の定義 ==&lt;br /&gt;
[[法令]]上、一般的な'''知的障害'''の定義は存在しない。[[福祉]]施策の対象者としての知的障害者について定義する法令は存在するが、個々の法令においてその定義はまちまちである。客観的な基準を示さず、支援の必要性の有無・程度をもって知的障害者を定義する法令すら存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
客観的基準を示す法令にあっては、[[発達]]期（おおむね18歳未満）において遅滞が生じること、遅滞が明らかであること、遅滞により適応行動が困難であることの3つを要件とするものが多い。遅滞が明らかか否かの判断に際して「[[標準化]]された[[知能検査]]（田中ビネーやWISCやK-ABCなど）で[[知能指数]]が70ないし75未満（以下）のもの」といった定義がなされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通常、[[事故]]の後遺症や[[痴呆]]といった発達期以後の知能の低下は知的障害としては扱われない。事故の後遺症については通常の医療給付の問題であり、痴呆については[[老人福祉]]の問題と考えられるためである。したがって、法令上の用語としての知的障害は、[[精神医学]]の領域における'''知的発達障害'''に照応することが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== よくある傾向 ==&lt;br /&gt;
* 乳幼児期&lt;br /&gt;
: 同年齢の幼児との交流が上手くいかなかったり、言葉に遅れがあったりする場合が多い。[[染色体異常]]などの病理的原因（後述）の場合は早期に発見されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学齢]]期（6 - 15歳ごろ）&lt;br /&gt;
: 判断力や記憶力などの問題で、普通学級&amp;lt;!-- 通常学級？ --&amp;gt;の授業についていけない場合が多い。複雑なルールの遊びに参加することは困難である。そういったストレスから、各種[[二次障害]]が発生する場合もある。また、後期[[中等教育]]への進学に当たっては、各種の問題がある&amp;lt;sup&amp;gt;※1&amp;lt;/sup&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 成年期（18歳 - ）&lt;br /&gt;
: 一般的な職場への就労はハードルが高いが、本人の能力に合っている環境であれば問題はない。一般的な職場での就労が困難な場合は、障害者の保護者やボランティアなどが開設する通所施設で活動する例が多い。また、日常的でない判断（高額な契約など）が難しく、時に判断を誤ることや、悪意の接触にだまされることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※[[ダウン症]]の青年（女性）が大学（[[国文学]]科）に進学し、卒業した事例もあるので、一概に高等教育に不向きであるとは言えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 呼称の変遷 ==&lt;br /&gt;
以前は、「独:schwachsinn」「英:feeble mindedness」「英:mental deficiency」などの外来語の直訳として「'''精神薄弱'''（せいしんはくじゃく、略称・精薄）」という用語が広く使われており、法律用語にも多用されていたが、「[[精神]]」という言葉は人格も含むうえ、[[精神障害]]と混同されやすいため、関係団体などでは「知的障害」という用語が使われるようになった。平成12年（[[2000年]]）3月からは法律上の表記も、知能面のみに着目した「知的障害」という用語に改められた。なお、この場合の「mental」を「精神」と訳したのは誤訳に近いという人もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、かつては重度知的障害を「白痴（はくち）」、中度知的障害を「痴愚（ちぐ）」、軽度知的障害を「魯鈍・軽愚（ろどん、けいぐ）」と呼称しており、これらの用語は[[法律]]などにも散見されたが、偏見を煽るとして「重度」「中度」「軽度」という用語に改められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
医学的な診断名には「英:mental retardation:MR」の訳として「'''精神遅滞'''（せいしんちたい）」、「'''精神発達遅滞'''（せいしんはったつちたい）」という用語が用いられる。これらは「知的障害」と同じ意味で使われる場合が多い。ただし、厳密な医学的分類では「精神遅滞」・「精神発達遅滞」と「知的障害」を使い分ける場合もある。[[DSM-IV]]や[[アメリカ精神遅滞学会]](AAMR)の定義では、「精神遅滞」は「知的障害」の症状に加えて生活面、すなわち「意思伝達・自己管理・家庭生活・対人技能・地域社会資源の利用・自律性・学習能力・仕事・余暇・健康・安全」のうち、2種類以上の面にも適応問題がある場合をさす。しかし、こういった生活面に適応問題があるかどうかを判断するのは難しく、現実的には知能のみで判断しているので、知的障害と精神遅滞は同義語だと考えても差し支えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、[[教育]]分野や[[行政]]や[[マスコミ]]などでは、「知的障害」や「知的発達障害」や「知的発達遅滞」と呼ばれることが多く、[[医学]]関係では、「精神遅滞」や「精神発達遅滞」と呼ばれることが多い。また、古くからあるくだけた言い方、俗に使われる名称として「知恵遅れ（ちえおくれ）」という言葉もあるが、蔑視的な雰囲気もあるので、これを嫌がる人もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また近年は、困難に直面しているという意味で、[[身体障害者]]なども含めて「'''チャレンジド'''（challenged）」ともいわれる。しかし、この言葉も2ちゃんねる等で蔑称的に使われていることを考えると、また別の言葉に変える必要が出てくるのも時間の問題である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 社会における歴史と現状 ==&lt;br /&gt;
=== 日本国外での歴史 ===&lt;br /&gt;
[[19世紀]]までも、重度の知的障害者がいた事は確実である。しかし、軽度の知的障害者の場合は、あまり支障なく社会生活を送れていたことが多かった。しかし、近代的な[[学校制度]]が普及するにつれて、[[年齢]]基準の[[学年]]編成では、どうしても付いていけない[[児童]]の存在が明らかになってきた。そしてそういった児童生徒には、単純に怠けていたり、学業への興味がなかったりするために成績が悪い生徒と、努力しても成績が悪い生徒の二種類があるということも段々気付かれてきた。[[1905年]]に、フランスの[[アルフレッド・ビネー]]が世界初の[[知能検査]]を公表したが、これ以降、知的障害の児童は、厳密な診断のものさしで区分されることになった。ビネー死後、知能検査はさまざまな心理学者によって改良され、現在では[[知能指数]]を基にして知的障害を判定するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ナチス]]の障害者政策、福祉国家[[スウェーデン]]の[[不妊手術]]発覚など、諸外国でも知的障害者は社会的に抑圧されていたが、[[ピープル・ファースト]]運動などによって自立の機運が高まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本での歴史 ===&lt;br /&gt;
知的障害者福祉は民間から始まった。明治20年代に[[立教女学院]]教頭の職にあった[[石井亮一]]が、孤女学院を開設したことにはじまる。[[濃尾大地震]]の震災孤女を引き取った亮一は、孤女の中に知的障害児がいたことで強い関心を示し、アメリカへの二度にわたる留学を経て、日本初の知的障害者福祉施設[[滝乃川学園]]を開設したのが、日本における知的障害者福祉の先鞭である。亮一は、夫人[[石井筆子|筆子]]とともに知的障害者福祉事業に生涯をささげ、後には[[日本精神薄弱児愛護協会]]を設立し、その活動を広く啓蒙しようと尽力した。戦後、政府による知的障害者福祉への取り組みが実り、現在は国内に3600を数える施設が運営されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重度障害児には[[就学免除]]などが強制的に適用されていたが、[[養護学校]]は[[1979年]]に[[義務教育]]の[[学校]]となり、重度障害児も入学可能となった。また、近年は[[統合教育]]への流れも起きている。21世紀に入り、[[特別支援教育]]の制度の改革が始まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 統計 ====&lt;br /&gt;
[[知的障害者基礎調査]]によると、平成12年の時点で推計459,100人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 公的支援 ===&lt;br /&gt;
知的障害があると認定されると[[療育手帳]]が交付され、各種料金の免除などの特典が与えられる。[[自治体]]によって、「'''愛の手帳'''」や「'''緑の手帳'''」などの名称がある。また、[[障害年金]]や[[特別障害者手当]]などの制度もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知能指数の分布から予測すると、IQ70以下の人は2.27%存在するはずなので、理論的には日本の知的障害者数は284万人になる。しかし、公的に知的障害者とされている人は推計41万人であり、実際に存在するはずの障害者数と比較すると6分の1ないし7分の1であり、著しく少ない。また、上記の41万人のうち84%が療育手帳所持者であるが、軽度・中度の手帳の所持者が55%、重度・最重度の手帳の所持者が45%であり、理論上の出現頻度は障害が軽いほど多いので、それを考慮すると、軽度・中度の手帳所持者は実際の軽度・中度の人数のうちのごく一部であると考えられる。こういった乖離（かいり）の原因としては、特に障害が軽い場合、学校や生活での不便は感じていても、障害認定を受けられる可能性に気付かない場合や、[[世間体]]や[[自尊心]]を保ったり、[[いじめ]]を懸念したりするためにあえて申請しない場合などがあるためであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 知的障害者関連の犯罪 ===&lt;br /&gt;
一部では、知的障害者が加害者や被害者などになる事件がある。また、加害者ではないのに加害者だとみなされたり、被害者・証人であっても[[証言]]に信頼性がないとされたりする場合もある。また行動の犯罪性自体を理解できず教唆されて犯罪に巻き込まれる場合もある。知的障害者にとって、被害者となった場合、告発などの手続は分かりにくく、必要な支援も得難いため実際の被害はかなり多いと思われる。加害者となったり冤罪被害者になった場合も裁判手続が難解で充分な主張がなされない場合が多い。イギリスでは「適切な大人」という名の知的障害者の裁判支援要員が制度化されている。一方、「問題行動」によって被害が発生する場合もあり、「地域社会で十分な受け皿が整っていないにもかかわらず、拙速な[[ノーマライゼーション]]が実践されたため」と見る向きもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元[[議員]][[山本譲司]]は、不正受給問題で[[懲役]]刑を受けた時の体験から[[獄窓記]]という書籍を出版し、[[刑務所]]内の知的障害者の比率が一般社会と比べて異常に高いと指摘している&amp;lt;sup&amp;gt;※1&amp;lt;/sup&amp;gt;。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[野田事件]] :[[千葉県]][[野田市]]で起きた幼女殺害事件に際し近くに住む知的障害を持つ青年（当時）が犯人として逮捕された事件。裁判でも無実を主張したが認められず、「刑期満了」している。供述の変遷や取調べの過程における問題などから[[冤罪]]であると主張されており、この点に関する文献が多数出版されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[甲山事件|甲山&amp;lt;sup&amp;gt;カブトヤマ&amp;lt;/sup&amp;gt;事件]] :[[西宮市]]の知的障害者施設で園生（当時の呼称）の死亡事故が発生。当初は事故として扱われたが[[検察審査会]]の決定により保母（当時の呼称）の女性が「貯水槽に突き落とした」とされ、検察の取り調べ時に園生が「見た」という証言が得られたとして起訴され、裁判で有罪とされた[[冤罪]]事件。第二次再審控訴審で無罪。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[水戸事件]] :[[水戸市]]の段ボール加工業者が、住み込みで働いていた知的障害者を[[虐待]]した事件。同社は障害者雇用の優良企業として評判が高かったが、内部では知的障害者に対して激しい虐待を行なっていたため、大きな社会問題になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※1 しかしながらこれは知的障害者が犯罪へと追い込まれる社会的条件によるものであり、本来知的障害と犯罪は無関係なものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 脱施設化 ===&lt;br /&gt;
[[宮城県]]などを中心として、[[障害者コロニー]]を解体するという脱施設の流れが高まっている（「解体」は[[浅野史郎]]宮城県[[知事]]（当時）の表現）。これには賛否両論があり、「崇高な理念によるものではなく、財政節約が目的である」との声と、「[[ノーマライゼーション]]の実践である」との声がある。&lt;br /&gt;
しかしながらノーマライゼーションとは、いわば「不自由を緩和するよう適度にゲタを履かせる」という概念であり、バリアフリー化と対になる概念である。バリアフリー化を伴わないノーマライゼーションは存在せず、後者の意見は全くの的外れである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 知的障害の分類 ==&lt;br /&gt;
=== 原因による分類 ===&lt;br /&gt;
; 病理的要因 :[[ダウン症候群]]などの[[染色体異常]]・低機能[[自閉症]]などの先天性疾患によるものや、出産時の酸素不足・脳の圧迫などの[[周産期]]の事故や、生後の高熱の後遺症などの、疾患・事故などが原因の知的障害。&amp;lt;br/&amp;gt;[[脳性麻痺]]や[[てんかん]]などの[[脳]]の障害や、[[心臓病]]などの[[内部障害]]を合併している（'''重複障害'''という）場合も多く、身体的にも健康ではないことも多い。[[染色体異常]]が原因の場合は知的障害が中度・重度であることが多く、外見的には特徴的な容貌であることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 生理的要因 :特に知能が低くなる疾患があるわけではないが、たまたま知能指数が低くて障害とみなされる範囲（IQ70または75以下）に入ったというような場合。生理的要因の知的障害がある親からの遺伝や、知的障害がない親から偶然に知能指数が低くなる[[遺伝子]]の組み合わせで生まれたことなどが原因である。合併症はないことが多く、健康状態は良好であることが多い。知的障害者の大部分はこのタイプであり、知的障害は軽度・中度であることが多い。「単純性精神遅滞」などともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 心理的要因 :現代日本ではあまり見られないが、養育者の[[児童虐待|虐待]]や会話の不足など、発育環境が原因で発生する知的障害。[[リハビリ]]によって知能が回復することは可能である。関連用語に「[[情緒障害]]」がある（ただし、自閉症が情緒障害に分類される場合もあるが、現在は自閉症は先天性疾患と考えられているので注意）。また、離島や山岳地帯や船上などの刺激が少ない環境で成育した児童の場合も、IQが低い場合が多い（[[知能指数#生活環境]]参照）。IQテスト自体○や△など抽象的な図柄を見分けるといった文明社会に馴染んだ者にとって有利な問題となっている。従って、都会生活を経験したことのない先住民族などには不利な評価が下されることになる。このことは意図的にアメリカで有色系移民を排除する目的で誤用されたことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 知能による分類 ===&lt;br /&gt;
基本的には、知能指数が100に近い人ほど人数が多い。しかし、知能検査の種類によっては最重度まで正確な存在数比率を出せない場合もあるため、問題となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教育の分野では、軽度の生徒を「教育可能」、中度の生徒を「訓練可能」と分類していた時代もあったが、これは障害が重い人に対して先入観を与え、可能性を奪うものとして今では全く用いられていない。&lt;br /&gt;
; ボーダー（境界域） :[[知能指数]]は70～85程度。知的障害者とは認定されない場合が多いが、認定されないために支援を受けられずに、かえって厳しい状況におかれることもある。&lt;br /&gt;
; 軽度 :知能指数は50～70程度。理論上は知的障害者の約8割がこのカテゴリーに分類されるが、本人・周囲とも障害にはっきりと気付かずに社会生活を営んでいて、障害の自認がない場合も多いため、認定数はこれより少なくなる。生理的要因による障害が多く、健康状態は良好であることが多い。&lt;br /&gt;
; 中度 :知能指数は35～50程度。&lt;br /&gt;
; 重度 :知能指数は20～35程度。大部分に合併症が見られる。&lt;br /&gt;
; 最重度 :知能指数は20以下。大部分に合併症が見られる。寝たきりの場合も多い。しかし運動機能に問題がない場合もあるため、多動などの行為が問題になる場合があり、「動く重心児」という呼び方をされ、施設解体の流れでどうなるかや、ケアの仕方が問題となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大島分類表 ===&lt;br /&gt;
運動能力と知能指数による分類として、大島一良による大島分類が使用されている。下記の表は大島分類の表に障害別の大まかな分布範囲を表記したものであるが、個人差があることに注意されたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:大島分類.PNG]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他の障害との関連 ==&lt;br /&gt;
=== 知的障害と自閉症 ===&lt;br /&gt;
「[[自閉症]]」という障害は、知的障害があるもの（低機能自閉症・カナー症候群）と、知的障害がないもの（高機能自閉症・[[アスペルガー症候群]]）に便宜的に分類されている。&amp;lt;br/&amp;gt;知的障害は、知能面の全体的な障害であり、自閉症の本質であるコミュニケーション障害は、対人関係面のみの障害である。昔から知られている種類の自閉症は低機能自閉症のことであるが、これはコミュニケーション障害などの障害と知的障害が合わさったものである。近年知られてきた種類の自閉症である高機能自閉症は、コミュニケーション障害などの障害のみであり、知的障害はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 知的障害と学習障害 ===&lt;br /&gt;
[[学習障害]]は、読み・書き・計算などの学習面の一部または全部に困難さがあるが、会話能力・判断力などの知能の他の面では障害がない。しかし知的障害は、学習面も含めて、知能面などで全般的に困難さがあるという点が違っている。ただし両者は相容れないものではなく、例えば軽度の知的障害がある人が、学習面で重度の困難があるような場合は、知的障害と学習障害を合併しているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[差別]] - [[ロボトミー]]&lt;br /&gt;
* [[アルジャーノンに花束を]] - [[八日目]]&lt;br /&gt;
* [[ピープル・ファースト]]&lt;br /&gt;
* [[スペシャルオリンピックス]]&lt;br /&gt;
* [[全日本手をつなぐ育成会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n173/n173_034.htm フォーラム'95「精神薄弱」に替わる用語の問題]&lt;br /&gt;
* [http://www.saturn.dti.ne.jp/~teramoto/ ピープルファースト東京]&lt;br /&gt;
* [http://asano.arukikata.li/ 浅野幸恵ネット - 脳と子供の成長について]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:発達障害|ちてきしょうがい]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別支援教育|ちてきしょうがい]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia:ウィキポータル 教育/特別支援教育}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[de:Geistige_Behinderung]]&lt;br /&gt;
[[en:Mental_retardation]]&lt;br /&gt;
[[fr:Retard_mental]]&lt;br /&gt;
[[pl:Obniżenie_poziomu_rozwoju_intelektualnego]]&lt;br /&gt;
[[sv:Utvecklingsstörning]]&lt;br /&gt;
[[tr:Embesil]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured article}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3&amp;diff=5773</id>
		<title>性同一性障害</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3&amp;diff=5773"/>
				<updated>2007-06-03T08:08:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=性同一性障害&amp;amp;oldid=12721225&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Medical}}&lt;br /&gt;
'''性同一性障害''' (せいどういつせいしょうがい; Gender Identity Disorder) とは、[[精神疾患]]の一つであり、精神的には身体的性とは反対の性に属するとした方が自然であるような状態の事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[身体]]的には[[男性]]か[[女性]]のいずれかに正常に属し、身体的・[[精神]]的にも正常であるにも関わらず、自分の身体的な[[性別]]を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の性と社会的に一致すると見做されている（特に服飾を中心とした）性的文化を受容できず、更にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる（'''[[トランスジェンダー]]'''）。彼らの状態を一種の精神疾患ととらえた場合の呼称として、'''性同一性障害'''と呼ぶことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しばしば簡潔に「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」という表現は[[ジェンダーパターン]]や[[性役割]]・[[性的指向|性指向]]の概念を暗黙に含んでしまいがちであるため、[[同性愛]]と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「[[性自認]]と身体の性が食い違った状態」と呼ぶべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 性自認とは ==&lt;br /&gt;
人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの場合は確信している。その確信のことを'''性自認'''と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致しているが、[[半陰陽]] (intersexual) のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詳細は[[性自認]]の記事を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 性同一性障害 ==&lt;br /&gt;
性自認の概念をもって改めて[[人類]]を観察してみると、半陰陽とは異なり生物学的概念としての男女のいずれかの身体形状に（少なくとも脳の構造を除いて&amp;lt;sup&amp;gt;*&amp;lt;/sup&amp;gt;）正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられない症例が発見され、その状態は'''性同一性障害'''と名付けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &amp;lt;nowiki&amp;gt;*&amp;lt;/nowiki&amp;gt; 性同一性障害者の脳の形状や微細な構造等が、非＝性同一性障害者（いわゆる健常者）のそれと異なるか否か、また仮にその差異が存在するとしてその差異が先天的か生得的か、については現在のところ論争中である。 ただし、死者の脳の解剖から、両者間での脳内の特定部位の形状の差異が報告された例は複数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後天的要因が元となり、例えば[[性的虐待]]の結果として自己の性を否認する例は存在する。また、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケースもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばない。一般には、性同一性障害者は何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、（代表的な症例では出生時から）自己の性別に違和感を抱き続けているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に否定的な考え方も出てきている。というのは、「性に関する何かの辛いできごと」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して多くはなく、性同一性障害当事者の多くは「性に関する何かの辛いできごと」がまったくなかったと認識していることが圧倒的に多いからだ。現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場では、この考え方が支持されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうところの[[ニューハーフ]]や[[オナベ]]ではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、[[売春]]以外観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、男性型の身体より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に[[去勢]]をし、十代後半になると[[性転換手術]]を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、それを防ぐための文言だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「職業的・社会的利得」という文言がいわゆる[[ニューハーフ]]や[[オナベ]]という職業に就く人々を性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドラインの第2版では「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明記された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ガイドラインにおいて「反対の性」と明記されているように性同一性障害においても性自認は男性と女性を基本とされている。しかし実際の診療の場では、性自認が中性や無性、それ以外の者も存在する。ただし、現在の社会で中性として生きることは絶えず他者の「男性か？女性か？」という目にさらされることになるため、男性もしくは女性としての性役割を演じることとなる。また、無性としての肉体や性役割は想定が難しく、対応が難しいのが実情である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 用語 ==&lt;br /&gt;
性同一性障害に関連する重要な用語を挙げる&lt;br /&gt;
; MtF&lt;br /&gt;
: Male to Femaleの略。身体的には男性であるが性自認が女性であるケースをMtF-GIDと呼ぶ。&lt;br /&gt;
; FtM&lt;br /&gt;
: Female to Maleの略。身体的には女性であるが性自認が男性であるケースをFtM-GIDと呼ぶ。&lt;br /&gt;
; [[性別適合手術]]（性別再判定手術）&lt;br /&gt;
: Sex Reassignment Surgery(SRS)、または、Gender Reassignment Surgery(GRS)の訳語であり、性別再割当手術とも訳される。性自認に合わせて、外科的手法により外性器などの形態を変更することを意味する。一般的には性転換手術(sex-change operation)と言われているが、下等動物にみられるように、反対性の生殖能力を持つことはできないので、日本精神神経学会の正式訳語としては「性別適合手術」を用いるようになっている。&lt;br /&gt;
; [[性転換症]]&lt;br /&gt;
: Transsexualismの訳語。 性同一性障害のうち、特に身体的性別に対する違和感・嫌悪感が強く性別適合手術までを望む症例を指す。&lt;br /&gt;
; リアルライフ・エクスペリエンス (RLE)&lt;br /&gt;
: 実際に望む性別として社会的に生活してみること。24時間継続的に行う場合をフルタイムRLEと言い、何らかの事情でそれができない場合に生活時間の一部をRLEにあてる場合をパートタイムRLEと言う。過去にはリアルライフ・テストと呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 特徴と類似概念 ==&lt;br /&gt;
性同一性障害者も一般の男女と同じく、「自分の心理的性別に相応しい服装を好み」（非・異性装）、「自分の心理的性別と反対の性を恋愛対象とする」（異性愛）ケースが多い。そのため、身体的性別を基準にして観察すると「異性装を好み」「同性を恋愛対象とする」ように見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、性同一性障害者の中にも一般の男女と同じく[[異性装者]]や[[同性愛|同性愛者]]が存在するので、必ずしも上記の限りではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
混同されがちであるが、性同一性障害と同性愛や異性装とは、それ自体は全く独立した別個の現象である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ジェンダー ===&lt;br /&gt;
性同一性障害者の[[ジェンダー]]のあり方は様々である。&lt;br /&gt;
* 一般に身体的性別に応じて躾られるので、その性に応じたジェンダーを身につける部分もある。&lt;br /&gt;
* 一般の男女と同じく生活の中で見聞きする男女のジェンダーパターンを、意識的・無意識的に学習する部分もあるが、その場合、自分の性自認に応じたものを取り入れる部分もある。&lt;br /&gt;
* 先天的に定まっている性自認はそれだけでは不安定であり、それを維持するには性自認に合った身体的・社会的経験が必要となる。性同一性障害者の場合その機会は限られているので、過剰に社会的・文化的な性差に拘り、性自認に応じた行動様式を取ろうとする場合もある。&lt;br /&gt;
* 逆に、社会適応を容易にするために性自認とそれに伴う性の意識を押さえ込み、過剰に身体の性に適合した行動様式を取ろうとする場合もある。&lt;br /&gt;
これらの間の、無数のパターンがあり得る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 定義 ==&lt;br /&gt;
[[日本]]国内における性同一性障害への医療的アプローチの基準である、日本精神神経学会の「診断と治療のガイドライン」によれば、性同一性障害の診断は次のように行なわれる。&lt;br /&gt;
# 生活歴の聴取&lt;br /&gt;
# 性別違和感の実態を調査する。アメリカ精神医学会「[[精神障害の診断と統計の手引き]]」第4版(DSM IV)や 「[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類]]」第10版(ICD10)を参考としながら、以下のことを聴取する。&lt;br /&gt;
#* 自らの性別に対する継続的な違和感・不快感&lt;br /&gt;
#* 反対の性に対する強く持続的な一体感&lt;br /&gt;
#* 反対の性役割&lt;br /&gt;
# 身体的性別の判定&lt;br /&gt;
#* 外性器の診察・検査&lt;br /&gt;
#* [[内性器]]の診察・検査&lt;br /&gt;
#* 染色体検査&lt;br /&gt;
#* ホルモン・内分泌系検査&lt;br /&gt;
# 除外診断&lt;br /&gt;
#* [[統合失調症]]などの精神障害によって、本来の性自認を否認したり、性別適合手術を求めたりするものではないこと。&lt;br /&gt;
#* 文化的社会的理由による性役割の忌避や、もっぱら職業的利得を得るために反対の性別を求めるものではないこと。&lt;br /&gt;
# 診断の確定&lt;br /&gt;
#* 以上の点を総合して、身体的性別と性自認が一致しないことが明らかであれば、これを性同一性障害と診断する。&lt;br /&gt;
#* 半陰陽、間性、性染色体異常などが認められるケースであっても、身体的性別と性自認が一致していない場合、これらを広く性同一性障害の一部として認める。&lt;br /&gt;
#* 性同一性障害に十分な理解をもつ[[精神科]]医が診断にあたることが望ましい。2人の精神科医が一致して性同一性障害と診断することで診断は確定する。2人の精神科医の意見が一致しない場合は、さらに経験豊富な精神科医の診察結果を受けて改めて検討する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、性別違和感に要求される「継続性」については、ICD10の性同一性障害の項に書かれている「2年間以上」という基準が参考にされることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 原因 ==&lt;br /&gt;
性同一性障害の原因は現在のところは不明である。&lt;br /&gt;
性同一性障害以外の一般の男女に於いて性自認がどのように決定されるのかすら、定説は存在しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乳児期の極めて早い時期（可能性としては出生以前）に由来することや、[[脳]]の分界条床核の大きさが性自認に一致することなどから、&lt;br /&gt;
* 脳の中には性自認の原型を決定する神経核があり、通常はこれが身体的性別に合わせて正しく形成される。&lt;br /&gt;
* [[胎児]]期の[[性ホルモン]]異常などにより形成がうまくいかないと性同一性障害になる&lt;br /&gt;
という説が有力と考えられている。詳細は[[性自認#性自認の決定要因]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 症状 ==&lt;br /&gt;
性同一性障害によって引き起こされがちな症状を挙げる。&lt;br /&gt;
なお、全ての性同一性障害者に全ての症状が現れるとは限らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; ジェンダー・アイデンティティ・クライシス (gender identity crisis)&lt;br /&gt;
: 人間の[[アイデンティティ]]の維持において性自認は重要な役割を果たしている。例えば、「自己を定義するような短文を、被験者に短時間で（焦らせながら）できるだけたくさん書かせる」という実験を行うと、多くの被験者は自己の性別に関する認識を記す。&amp;lt;br/&amp;gt;通常、生まれ持った（と思われる）性自認の原型は、自己の身体的特徴を把握することや、社会に於いて性役割を学習し、承認されることで強化され、安定した性自認を形作る。&amp;lt;br/&amp;gt;しかし、性同一性障害者の場合は逆に、性自認の原型とは矛盾する身体的経験をすることになり、矛盾した性役割を与えられることが多いので、しばしばこれらの経験によって人格の同一性を脅かされるように感じる。&lt;br /&gt;
; 性別違和感&lt;br /&gt;
: 性自認と反する身体的性別を持っていることに違和感を抱き、不快に感じる。極端なケースでは、[[ペニス]]の切断を試みるMtFや、[[乳房]]を引き千切ろうとするFtMも存在する。性別違和感の存在には、前述の通り身体的性別が人格の同一性を脅かすことにも関係しているのかもしれない。(fixme)&lt;br /&gt;
; 反対の性役割・ジェンダーパターン&lt;br /&gt;
: 前述の通り、性同一性障害者は様々なジェンダーを持ち、典型的には多くの点で身体的性別とは反対の性（性自認と一致）の性質を持っている。&lt;br /&gt;
; その他&lt;br /&gt;
: 性別違和感や、偏見から社会で正当に扱われないという経験は多くの当事者にとって耐え難いものであるので、様々な精神症状を伴うことも多い。[[抑うつ]]、[[摂食障害]]、[[アルコール依存症]]、不眠などが見られる。産経新聞（2003年4月12日）によれば、調査対象の29.2%に不登校経験が、74.5%が自殺を考えたことがあり、自殺未遂や自傷行為に及んだ者は31.1%であり、MtFに比べFtMの方が不登校、自殺未遂・自傷行為経験率が高かった。また、軽度の自閉症（[[自閉症スペクトラム]]の症状）などの関連性があることも謳われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一次性および二次性 ===&lt;br /&gt;
性同一性障害を大まかに一次性・二次性の2つの亜群に分類することがある。中核群・周辺群という分類をする医師もいるが、これもほぼ同様のものであると考えられている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし一部の医師は、中核群・周辺群を、自性器嫌悪が激しく性別適合手術を強く望むグループと、自認する性の服装・文化的生活・第二次性徴の除去（MtFでは鬚の除去や声の高音化、FtMでは乳房除去や声の低音化等）・自己の自認する性の第二次性徴の発露程度（MtFでは女性化乳房、MtFでは鬚や筋肉質の身体形状）までで満足するグループとの分別に、この対概念を用いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一次性(プライマリ）の場合、小児期または青年期前期に発症し、青年期後期または成人期に受診する。身体的性別と反対の性自認を確固たるものとして持っていることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二次性（セカンダリ）の場合、発症はやや遅く、壮年期や、老年期に近くなることもある。当初は症状が異性装として現れることが多いとも言われる。性自認が確固としたものでなく揺れていることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
FtMは比較的均質であると言われ、一次性に属するケースが多い。MtFでは症状がより多様であり、二次性も多く見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの分類は症例を検討する際にはある程度有用であるとみなされ、多くの論文で言及されている。一次性と二次性は症状が似ているだけで本質的に異なる疾患なのではないかと考える者もいるが、一方では、症状が表面化した時期が異なるだけで本質的には同じであると考える者もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
性同一性障害当事者の中には、このような分類を適切でないと考える者もいる。過去に、医療者が治療の対象を一次性の中の極めて典型的な症例のみに限定しようとしたことがあるという事情や、それを背景として一次性の当事者の一部が二次性の当事者に対して差別的であったというようなことが影響している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 医療的対処法 ==&lt;br /&gt;
=== 精神科領域の治療 ===&lt;br /&gt;
精神療法としては、当事者の[[QOL]]（生活の質）の向上を目的として次のようなことを行なう。&lt;br /&gt;
* 非寛容によりもたらされがちな自己評価の低さを改善させる。&lt;br /&gt;
* 性自認やそれに基づく自己同一性を再確認させ、「自分は何者であるか」を明確にさせる。&lt;br /&gt;
* 社会生活上に生じうる様々な困難を想定し、その対処法を検討させる。&lt;br /&gt;
* リアルライフ・エクスペリエンスを通じて、それに伴う困難も体験させた上で対処法を検討する。&lt;br /&gt;
* 抑うつなどの精神症状を伴っている場合には、その治療を優先して行なう。&lt;br /&gt;
* 最終的に、今後どのような治療を希望するかを冷静に決定させる。&lt;br /&gt;
これらの作業は性同一性障害かどうかの診断と重なる部分もあるので、平行して行われることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
性自認を身体に一致させる方向の精神療法が正しく、また低コストであると考える人もいる。しかし、幾つかの理由から現在の精神療法は性自認の変更を目的としていない。&lt;br /&gt;
* 過去の治療例から、性自認の変更は成人に対しては極めて困難だと判明している。多くの場合は不可能と考えられている。&lt;br /&gt;
* 性同一性障害者自身は性自認の変更を望まないことが多いので、治療の継続が困難である。&lt;br /&gt;
* 性自認が人格のあり方を基礎づけていることを考慮すれば、変更が可能であったとしてもそれは人格の入れ替えのようなものになる可能性がある。この点で倫理的に許されないという意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 身体的治療 ===&lt;br /&gt;
==== ホルモン療法 ====&lt;br /&gt;
身体的性別とは反対の性ホルモンを投与することで、二次性徴の一部を性自認に一致させようとするものである。MtFに対しては[[エストロゲン]]などを、FtMに対しては[[アンドロゲン]]などを用いる。特に、体型が性自認に一致した性に近づくことが多いため、その性に合わせた社会生活を容易にするとともに心理的な葛藤を改善する効果が認められている。&lt;br /&gt;
ホルモン投薬の効果は血液を採取して性ホルモンの血中濃度を定期的に監視することによって評価される。ホルモン療法における血液検査は治療目的の検査であっても今のところ健康保険が適用されない。肝機能障害などの一般的な血液検査に比較して費用が桁違いに高額であることから健康保険の適用を望む意見が多くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投与形態としては注射剤、添付薬、経口剤があるが、日本においては注射剤が一般的である。注射剤が最も副作用が少ないが、長期にわたる注射のために、注射部位（多くは[[三角筋]]あるいは[[大臀筋]]）の筋肉の萎縮を引き起こすことがある。全ての事例に於いて頻繁にみられる副作用は肝機能障害であり、そのリスクは経口剤が一番高い。詳細は事例ごとに異なるが、注射剤を用いる場合、1週間から3週間毎の通院が必要で、費用は1月あたり2,000円から10,000円程度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
解剖学的男性にエストロゲンを投与した場合、次のような作用がある。&lt;br /&gt;
* 皮膚がきめ細やかになる。&lt;br /&gt;
* [[内臓脂肪]]中心から[[皮下脂肪]]中心に。特に[[骨盤]]周囲への脂肪の集中。&lt;br /&gt;
* [[筋肉]]の減少&lt;br /&gt;
* [[髭]]や[[体毛]]の減少&lt;br /&gt;
* 頭髪の増加、[[禿]]の改善&lt;br /&gt;
* [[乳輪]]への色素沈着、乳房・[[乳腺]]の発育&lt;br /&gt;
* [[精子]]生産停止・[[精巣]]の機能低下、萎縮、これによる[[勃起不全]]&lt;br /&gt;
* [[前立腺肥大症]]の場合には症状が改善&lt;br /&gt;
* [[性欲]]の減退。攻撃性の減少。&lt;br /&gt;
* [[貧血]]気味になる場合あり。&lt;br /&gt;
* 抑うつ的な気分になる割合が高くなるという説もあるが、異論もある。&lt;br /&gt;
* [[血栓症]]の可能性を高める。[[心不全]]・[[心筋梗塞]]・[[脳梗塞]]の危険性増大。&lt;br /&gt;
* 投与が多すぎる場合には[[乳汁]]の分泌、下垂体腺腫を起こすことも。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
解剖学的女性にアンドロゲンを投与した場合、次のような作用がある。&lt;br /&gt;
* 皮膚の乾燥、色素沈着&lt;br /&gt;
* 皮下脂肪中心から内臓脂肪中心に。&lt;br /&gt;
* 筋肉の発達&lt;br /&gt;
* 髭や体毛の増加&lt;br /&gt;
* 頭髪の減少。禿げることもある。&lt;br /&gt;
* [[変声]]し、声が低くなる&lt;br /&gt;
* [[排卵]]停止。[[卵巣]]の機能低下。&lt;br /&gt;
* [[子宮内膜]]の萎縮。これにより[[月経]]停止。&lt;br /&gt;
* [[動脈]]の硬化&lt;br /&gt;
* [[にきび]]の増加&lt;br /&gt;
* [[陰核]]の肥大&lt;br /&gt;
* 性欲の昂進。攻撃性の増大。&lt;br /&gt;
* [[貧血]]の改善&lt;br /&gt;
* [[顎]]の広さの拡大。&lt;br /&gt;
* 目つきが鋭くなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの作用は性同一性障害者に生じた場合には性別違和感を改善し、葛藤を少なくする効果がある。しかし、それ以外の者に対して反対の性の性ホルモンを投与し上記の作用を生じた場合、自己同一性を脅かし性同一性障害に似た深刻な問題を引き起こすこともあるので注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また上記の内、髭・乳房・排卵への影響は復元に困難が伴い、変声・精巣への影響は数ヶ月以上投与を続けるとほぼ不可逆である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、ホルモン療法の選択に当たっては性同一性障害にあたることを十分に確認した上で、本人に慎重に判断させる必要がある。「診断と治療のガイドライン」では、ホルモン療法を第2段階の治療としている。第1段階（精神療法）を一定期間受けた後に希望する者に対してのみホルモン療法を行なう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
医学的対処を求めて受診する性同一性障害者の中には、早急なホルモン療法の適用を望む者も多い。しかし、このような事情から現在、ガイドラインに沿った治療においてはこれは認められていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 乳房切除 ====&lt;br /&gt;
FtMの場合、アンドロゲンを投与しても乳房の縮小はほとんど起こらないので乳房切除術が必要となる場合がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乳房が小さい場合には乳輪の周囲を切開して[[乳腺]]など内部組織を掻き出し、余剰皮膚を切り取る方式をとる。これは瘢痕が目立たない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乳房が大きい場合や（乳房を不快に思って圧迫するなどにより）下垂している場合には、乳房の下溝に沿って皮膚を切開する方式を用いる。乳頭は一度遊離させて適切な位置に移植する必要がある。瘢痕が目立つことも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2003年3月の[[埼玉医科大学]]総合医療センターのデータでは、入院期間は平均3.8日、費用は個室代を含めて平均55万4千円であった。[[岡山大学]]ジェンダークリニックのデータでは、費用は局部麻酔を使用した場合22万ないし23万円、全身麻酔の場合で40万円弱であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 性別適合手術 ====&lt;br /&gt;
MtFの場合、精巣の摘出、外陰部形成、膣形成、陰核形成を行なう。&lt;br /&gt;
FtMの場合、卵巣・子宮の摘出、膣粘膜切除・膣閉鎖、尿道延長・陰茎形成を行なう。&lt;br /&gt;
詳細は[[性別適合手術]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 医療以外の対処法 ==&lt;br /&gt;
性同一性障害者は何もしなければその身体的性別に応じて、自己の性自認とは異なる性として扱われることになる。これは多くの場合強く恒常的なストレスをもたらすが、性別違和感などの症状が軽い場合、あるいは性別変更を行う肉体的条件が整わない場合には、何らかの方法でストレスを解消することによりそのまま生活できることもある。&lt;br /&gt;
* 性自認に適合した性へと移行することが、社会的・経済的問題によって困難だと考え、この方法を選択しようとする者も多い。&lt;br /&gt;
* ジェンダー・アイデンティティ・クライシスによる人格への深刻な被害を避けるための手段が必要である。このため、適当な場で性自認に適合した服装や行動をとることにより、自己の性自認を確認しようとする者もいる。趣味的な異性装者とされる人々の中には、この方法を選択した性同一性障害者が少数含まれていると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 発現率 ==&lt;br /&gt;
MtF-GIDは3万人に1人、FtM-GIDは5万人に1人と言われているが、もっと多いという説も存在する。日本国内には2200人～7000人程度が存在すると見積もられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
MtFがFtMよりも多いことやFtMに一次性のケースが目立つことの理由に関して、様々な説がある。&lt;br /&gt;
* ジェンダー規範由来説&lt;br /&gt;
** 一般に現在の欧米や日本の文化では、男性が女性的であることに比べて女性が男性的であることには寛容である。&lt;br /&gt;
** そのため、性同一性障害が比較的軽症であって性別違和感がそれほど強くない場合、FtMでは問題が顕在化しないのではないか。軽症のFtMではそれは「個性である」と認識されて本人も周囲も意識せず、問題が表面化しないため、FtMは少数のより症状の極端な例だけが観察されているのではないか。&lt;br /&gt;
** これに対してMtFでは軽度で幾らか女性的な面が表出するだけでも周囲との軋轢を生じるためにより多くの例で問題が表面化するのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚、他にも以下のような俗説があるが、医学上の見地から誤りであるとされている。&lt;br /&gt;
* イヴ原則由来説&lt;br /&gt;
** 人間の男性は、胎児期に女性を作り替えることで発生する。男性への作り替えの引き金が引かれなければ、人間は自然に女性として生まれる。&lt;br /&gt;
** そのため、「男性への作り替えに障害が起きて不完全になってしまうケース」は多いが、「男性化の引き金となるべき遺伝子が存在しないのに、誤って一部分だけ作り替えが行われてしまうケース」は少ないのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: →人間の場合、受精卵にSRY遺伝子（[[Y染色体]]に含まれる）の働きかけがあれば男性として、なければ女性として生まれる。女性が男性に作り変えられるということはない。詳細は「[[性染色体]]」および「[[Y染色体#性決定|Y染色体#性決定]]」を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
* [[1969年]]、[[ブルーボーイ事件]]。十分な診断をせずに安易に性別再判定手術を行なった医師が[[優生保護法]]違反により逮捕された。&lt;br /&gt;
* [[1998年]]、[[埼玉医科大学]]がFtMの患者に対して、日本国内初の正式な性別再判定手術を行った。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]、日本で[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]（通称・特例法）が成立&lt;br /&gt;
* [[2004年]]、7月16日、同法[[施行]]&lt;br /&gt;
* [[2007年]]、4月、拠点医療機関の埼玉医科大学で執刀していた形成外科の教授が定年退職。外科的治療の体制において事実上の空白期間となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 判例 ==&lt;br /&gt;
性同一性障害に伴うトラブルなどを理由にして行われた懲戒[[解雇]]が解雇権の濫用にあたるとされた裁判例がある。それが [[2002年]]の[[性同一性障害者解雇無効事件]]（懲戒処分禁止等仮処分申立事件、東京地方裁判所平成14年（ヨ）第21038号、東京地裁平成14年6月20日決定 労働判例830号13頁掲載）である。この事件は、男性として[[雇用]]された被用者（原告）が女性装での就労を禁止する服務命令に違反したことを理由の一つ（ほかにも4つの理由が挙げられている）として懲戒解雇されたことに対し、従業員としての地位保全および賃金・賞与の仮払請求の[[仮処分]]を申し立てたものである。東京地裁は、性同一性障害である被用者が女性の服装・化粧をすることや女性として扱って欲しいなどの申し出をすることは理由があることだとした。そして、使用者側（被告）は被用者（原告）からのこうした申し出を受けた後も善後策を講じなかったことや、女性の格好をしていては就労に著しい支障を来すということの証明がないことを指摘して懲戒解雇を権利の濫用であるとして無効とし、賃金の支払いを命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、性同一性障害者が[[窃盗罪]]で[[実刑]]判決を受けて[[受刑者]]となるにあたって、[[拘置所]]長による調髪処分（[[丸刈り]]の強制）をしないように求めた[[行政訴訟]]で、これを認めなかった裁判例がある。それが、[[2006年]]の行政処分差止請求事件（[[名古屋]][[地方裁判所]]平成18年8月10日）である。この事件は、[[戸籍]]上は男性であるが女性として社会生活を営んでいた性同一性障害者が、受刑者となるにあたって、[[刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律]]（平成17年法改正により[[監獄法]]から改称）37条に基づく男子受刑者としての調髪処分（平成17年法改正前の[[監獄法]]36条に基づく強制翦剃処分。現行法令上「原型刈り」、「前五分刈り」の2種（及び「中髪刈り」）から規定に沿って受刑者が選択する）が拘置所長によって行われないように求めて、仮差止め請求（[[行政事件訴訟法]]37条の5第2項）を行った。これに対して[[裁判所]]は、まず訴訟要件に関する[[被告]]（[[国]]）の本案前の抗弁を排斥した。しかし、実体判断によって原告の仮差止め請求を棄却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理由として、髪型の自由について、一般論としては「[[日本国憲法第13条]]の保障する個人の尊厳に係る権利の内容をなすものとして尊重されるべきもので、何人も合理的な理由なく一定の髪型を強制されることはない。」とした。しかし、「[[懲役刑]]等は受刑者に贖罪と更生を図ることを目的とし、身柄の刑事施設（[[刑務所]]）への収容と強制を図るものであり、拘禁目的達成に必要な限度で、[[自己決定権]]が制約を受けることは当然である」とした。そして、「[[丸刈り]]に調髪することは、犯罪性向を有する多数の者を集団生活させる際に、規律や衛生を厳格に維持するために有効かつ必要で、逃走防止、画一的処遇の必要性、調髪を許容することによる財政上の負担増加を理由に、合理的な制限にあたる」ことなどを上げ、原告の請求を退けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 池田稔 「私の体は神様がイタズラで造ったの？」2001 ISBN 9784946448966&lt;br /&gt;
* 山内俊雄 「性同一性障害の基礎と臨床」 2001 ISBN 4-88002-431-7&lt;br /&gt;
* [[大島俊之 (法学博士)|大島俊之]] 「性同一性障害と法」 2002 ISBN 4-535-05812-1&lt;br /&gt;
* 野宮亜紀、ほか著 「性同一性障害って何?」2003 ISBN 4-8461-0310-2&lt;br /&gt;
* 山内俊雄 「性同一性障害の基礎と臨床 改定版」 2004 ISBN 4-88002-473-2&lt;br /&gt;
* 中村美亜 「心に性別はあるのか？」―性同一性障害のよりよい理解とケアのために― 2005 ISBN 9784902122169&lt;br /&gt;
* [http://www.jspn.or.jp/ 日本精神神経学会] [http://www.jspn.or.jp/04opinion/opinion14_07_20_02.html 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン（第2版）] 2002&lt;br /&gt;
* [http://www.jspn.or.jp/ 日本精神神経学会] [http://www.jspn.or.jp/04opinion/2006_02_20pdf/guideline-no3.pdf 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン（第三版）] 2006&lt;br /&gt;
* [[針間克己]]・[[相馬佐江子]]（編集）「性同一性障害30人のカミングアウト」2004 ISBN 4-575-29722-4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://tnjapan.com/ Trans-Net Japan（TSとTGを支える人々の会 ）]&lt;br /&gt;
* [http://gid.jp/ 性同一性障害をかかえる人々が普通にくらせる社会をめざす会]&lt;br /&gt;
* [http://tfn.cc/ GIDと共に生きる家族の会 (Trans Family Net)]&lt;br /&gt;
* [http://gidmedia.org/ NPO法人GIDmedia]&lt;br /&gt;
* [http://www.hbigda.org/ The Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association, Inc. (HBIGDA)]&lt;br /&gt;
* [http://www.kawagoe-circle.jp/ 川越サークル(埼玉医科大患者会)]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--WHOのサイトですが、デッドリンクになっていたので取り除きました--&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:ジェンダー|せいとういつせいしようかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:LGBT|*せいとういつせいしようかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神疾患|せいとういつせいしようかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:心理学|せいとういつせいしようかい]]&lt;br /&gt;
{{Featured article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[de:Geschlechtsidentitätsstörung]]&lt;br /&gt;
[[en:Gender identity disorder]]&lt;br /&gt;
[[it:Disturbo dell'identità di genere]]&lt;br /&gt;
[[nl:Geslachtsidentiteitsstoornis]]&lt;br /&gt;
[[ru:Гендерная дисфория]]&lt;br /&gt;
[[zh:性別認同障礙]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%BA%E5%90%8D&amp;diff=5772</id>
		<title>人名</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%BA%E5%90%8D&amp;diff=5772"/>
				<updated>2007-06-03T08:08:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=人名&amp;amp;oldid=12874839&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''人名'''（じんめい）とは、[[ヒト]]個人の[[名前]]一般を指す概念である。現代日本での人の名前は[[姓]]と[[名]]からなるため'''姓名'''とも呼ばれるが、こうした構成を持たない社会も多い。他に、'''名前'''、'''氏名'''などともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
漢字文化圏において姓と[[氏]]、さらには日本における[[名字|苗字]]は本来は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、明治維新以前は氏（[[ウヂ]]：本姓）と苗字に代表される家名は区別されていた。名は名前とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いを認識し、指示し、[[コミュニケーション]]をとる際に使われる。人は多くの場合、戸籍などに登録されるなどした、公式の名前（'''本名'''（ほんみょう））を持つが、それがそのまま用いられる場面は限られており、名前を元にした呼び名、[[あだ名]]、[[敬称]]との組み合わせなどが用いられることも多い。非近代社会ではしばしば真の人名は霊的な人格と不可分のものとされ、本名を実際に他者が口にして用いることに強いタブーを持つ社会が多く見られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前にはその主要な属性として、音と表記がある。例えば日本人の個人名が外国の文字で表記されることがあるが、これは一つの名前の別表記と考えることができる。逆に、漢字名の場合、場合によって読み方が変わることがある。こういった表記、発音の変化に対する呼ばれる側としての許容範囲は様々である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされ、姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに[[古代ギリシア]]などにその形跡があるとされ、東方では[[周]]代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。また、非近代社会においてはさまざまな理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域が多かったが、[[1989年]]に[[国際連合|国連]]総会で採択された[[児童の権利に関する条約]]7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「児童は、出生の時から氏名を有する権利……を有する(shall have the right from birth to a name)」と定めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人名の構造、使用とその多様性==&lt;br /&gt;
人の名前は多くの文化で、2つかそれ以上の種類の部分からなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの場合、「所属を示す名前」と「個人を指す名前」の組合わせが用いられる(ここでは便宜上仮にそれを&amp;quot;個人名&amp;quot;と呼ぶことで説明する)。あるいはそのどちらか一種類だけの場合もある。その数や扱いについては様々な習慣・制度が見られる。(詳細は後述)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分かりやすい例としては、その[[個人]]が属する「[[家]]([[家族]])の名前」と「個人の名前」の組み合わせである。&lt;br /&gt;
英語圏では、個人名+家族名 (''given name'' + ''family name'') の順に表記されることが多い(配置に着目しファーストネーム+ラストネームとも呼ばれるが、文脈に応じ逆順で表記されることや文化混合による混乱を避けるために、given nameなる呼称が選ばれる流れがある)。現代の日本の一例を挙げれば「鈴木 + 一郎」である。それぞれ、[[姓|姓(せい)]]、[[名|名(めい)]]などと呼ばれる。家族名はまた[[苗字]]、[[名字]]とも呼ばれる。&amp;quot;個人名&amp;quot;の部分は「[[名]](な)」と呼んだり、なんら明確には呼ばずに済ませたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:(注) 日本語の人名では、英語の ''given name'' にあたる概念を、他の概念と明確に区別し、かつ肯定的に指し示す名称が成立していない。明治以前の今日より複合的で複雑な人名要素における「いみな(諱)(=忌み名)」などという名称には既に否定的な概念が含まれており（ただしそれ自体を忌避して否定的にとらえているのではなく、霊的人格との一体性という概念ゆえの神聖視により、みだりに用いるのを忌避しているのであるが）、その裏返しとして成立している「[[字]](あざな)」では正式の本名ではないという含意からのズレがあり、どちらも現代的な使用には向かない。また「[[名]](な、めい)」では、フルネームを指す可能性があり、明確な指示が困難になる。明治期に、法令によって人名の近代化を迅速に行った影響が今日も後を引いているとも、今日の日本人の人名構成様式が、まだ非常に浅い歴史しか持たないものだとも言える。そのため苦肉の策で日本人同士でも英語の表現を借用し「あなたのファーストネームは？」などと聞いたり、「下の名前は？」などと表現する事態が見受けられる。以下の説明では「名」(な)という言葉で&amp;quot;個人名&amp;quot;を指している箇所があるので注意されたい。)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===構成要素の数===&lt;br /&gt;
姓名の構成要素の数、すなわち、ある個人のフルネームがいくつの部分から構成されているかは、文化によって異なっている。[[アメリカ大陸の先住民族]]など、個人を指す名前のみを用いる文化もある。[[サウジアラビア]]のように、3代前にまで遡って4つの部分からなるフルネームを用いることが当たり前の文化などもある。[[ブラジル]]のように一貫していない場合もある（これは、姓を持つ習慣が普及しつつあるが、完全に普及しきっていないためであると考えられる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、親子の間での姓をめぐる取扱いも文化によって異なる。子供が両親のいずれか、あるいは両方の名前を受け継ぐ習慣や制度があるかどうかは文化によって異なっている。受け継がれていくのは姓に代表される血縁集団名、家系名であるとは限らず、姓を持たない文化においては、「[[小泉純一郎|純一郎]]、[[小泉純也|純也]]の息子、[[小泉又次郎|又次郎]]の孫」などといった形で名前が受け継がれていくこともある。インドでは逆に「純一郎、[[小泉孝太郎|孝太郎]]の父」などといった形で、ある子供が生まれた時に与えられる名前に、さらにその子供の名前として使われるべき名が含まれているものもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===構成要素の順序===&lt;br /&gt;
姓名の構成要素の順序についても、民族・文化圏により異なることが知られている。[[日本]]、[[中国]]、[[朝鮮]]、[[ハンガリー]]などでは名前は姓→名の順をとり、フルネームで呼ぶ場合にはその順で呼び、フルネームを記す場合にはその順に記す。基本的には、その文化の言語においての修飾句と被修飾句の順による。これは、名こそが個人を表すものであり、姓はそれを修飾するものだと考えられるからであろう（[[名前空間]]も参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前を記す際などに、その一部を省略することも多く行われる。[[英語]]圏ではミドルネームはイニシャルだけが記されることが多くある。[[スペイン語]]圏では、複数部分からなる姓の一部が省略されることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===名前の変更===&lt;br /&gt;
基本的には、人名は通常、慣習や法などによって決まっている部分（姓）や生まれた時に両親などによって与えられ、それ以後変わることのない部分（名）のいずれか、またはその組合わせからなることが多く、生涯を通じて変わらない文化も多い。だが、ここにも例外がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[婚姻]]や婚姻の解消に際して、夫婦間の姓の変更が行われる文化がある。婚姻やその解消は親子関係の変更を含むこともあるため、子の名前の変更を伴うこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
婚姻以外にも、人生の節目において名前を与えられたり改めたりする場合がある。一部のドイツ人の間では[[洗礼]]に伴ってミドルネームが与えられ、以後はファーストネームではなくその洗礼名が頻繁に用いられることになる。日本でも、[[豊臣秀吉]]のように武士が元服や出世とともに姓名を変えるケースがあった（日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===名前の由来===&lt;br /&gt;
名前の由来についても、文化的多様性や共通性があることが知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大雑把に分けると、その文化圏で用いられている言語で何らかの意味を考えて付ける文化と、その文化圏で伝統的に用いられている名前から選んで付ける文化に人名選択の傾向が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、今日のヨーロッパなどのユダヤ教・キリスト教社会では親の名前の一部を子の名前に付けるとか、尊敬する誰か他の人の、既にある名前を取って付けられることが多い。[[ユダヤ人]]の間には、生まれた子に死んだ親戚の名前を付ける風習があった。ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒は、聖書などの[[聖典]]に登場する古代の人物の名前（ポピュラーネーム）を子に付ける者も多い（アブラハム、イブラーヒームなど）。キリスト教社会の[[洗礼名]]が特にこの性質を強く持ち、宗派によっても異なるが、聖人あるいは聖書やキリスト教の歴史の中で重要な働きをなした人物の名が選ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これらの社会で受け継がれてきた名前も、古代においてそうした人名を考案した社会においては、そこで用いられた言語で何らかの意味を考えて付けられたものだったのである。例えば、旧約聖書に由来する人名はヘブライ語の（例：[[ヨハネ]]＝[[ヤハウェ|ヤハヴェ]]は「恵み深い」）、古代ギリシア人に由来する人名はギリシア語の（例：ピリッポス＝「馬を愛する」）、中世初期のゲルマン人指導者に由来する人名はその時代のゲルマン語派の諸言語の（ウィルヘルム＝「意思と兜」）意味を持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漢字文化圏の日本では、漢字の意味と訓読した時の意味の両方を考慮して命名することが多い（例：[[水野勝成]]（かつなり→勝つ成り・[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]始祖、日向守）が、尊敬する誰かの名前にちなんでその名前を付けることもある。同じ漢字文化圏でも逆に、[[大韓民国|韓国]]人の名のように、他人が持っている名を避けるケースもあり、むしろ漢字文化圏全体の伝統はこちらが主流である。特に昔の中国では、皇帝の姓や名前に用いられた字を使った命名をすることは重大なタブーであった（[[避諱]]・ひき）。その為、代字が多数作られ（例：[[清]]の[[乾隆帝]]の名“弘暦”を避けて、弘→宏、暦→歴）[[字体#異体字|異体字]]が増える原因の一つにもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、姓に代表される血縁集団名、家系名の由来にも様々なものがあることが知られている。生まれた土地の名、職業、性格や容姿などの特徴などと結び付いている例が多くの文化に見られる。日本では元来は姓と苗字は別のものであり、苗字の多くは地名と結び付いている。例えば田中、山本、小林、中村などであり、これはその家系が所領や名田などとして権利義務を有した土地の名を家名にしたことが多かったためである。英語圏ではMcDonald（ドナルドの息子）やJohnson（ジョンの息子）のように始祖に当たる人物の息子という形の家名や、Smith（鍛冶屋）のようにその職業にちなんだ家名、Longfellow（のっぽ）のように祖先のあだ名にちなんだ家名が目立つ。同じく「子孫」を表すMc（マクドナルド、マッカーサーなど）は[[スコットランド]]系、O'（オブライエン、オコーナーなど）は[[アイルランド]]系に多数見られる姓の接頭語である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の多様性===&lt;br /&gt;
また、家系名や個人名の多様性も文化によって大きく異なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本人の苗字の種類は10万とも20万ともいわれ、世界で最も苗字の種類が多い民族とされる。&lt;br /&gt;
一方、中国人の姓は500以下であるとされる。最近の中国科学院の調査では、李・王・張・劉・陳がトップ5とのことで、特に李（7.4%），王（7.2%），張（6.8%）の3つで20%強（約3億人）を占める。ベトナム人は、最も多い3つの姓で90%を占める。（[[百家姓]]参照のこと）&lt;br /&gt;
韓国人の姓は、金（{{lang|ko|&amp;amp;#44608;}}）・李（{{lang|ko|&amp;amp;#51060;}}）・朴（{{lang|ko|&amp;amp;#48149;}}）・崔（{{lang|ko|&amp;amp;#52572;}}）・鄭（{{lang|ko|&amp;amp;#51221;}}）の5種類で55%にのぼり、「石を投げれば金さんに当たる」「ソウルで金さんを探す（無駄な努力のたとえ）」などという成句もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、韓国人は子の名を付ける際に、基本的に他の誰も持っていないオリジナルな名を与える（ただし、ある程度の流行はある）。&lt;br /&gt;
これに対して、ドイツでは「すでに存在する名前」しか受理されない。&lt;br /&gt;
フランスにおいても、ナポレオン法典の時代には、新生児の名は誕生日ごとに決められた聖人の名前から選ぶこととされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、多くの文化においては、正式な名前とは別に[[愛称]]・[[敬称]]などがあり、そのパターンは文化ごとに異なっている。そうした呼称は名前を省略したり変形して用いる場合もあり、名前ではなく帰属や当事者間の関係（父と子など）を用いる場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人名と文化、社会==&lt;br /&gt;
人名をめぐる習慣や制度は一般的に、次のような文化的・社会的事象と結び付いている傾向にある。&lt;br /&gt;
*個人・家族・帰属についての考え方（とりわけ姓をめぐる習慣や制度）&lt;br /&gt;
*価値観。人にとって何がよい性質であるか（とりわけ名をめぐる習慣や制度）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、こうした姓名についての知識は次のような場面で活用される。&lt;br /&gt;
*歴史研究や家系図の作成などに際しての資料の解釈、記録された名前と個人の対応付け&lt;br /&gt;
*犯罪捜査&lt;br /&gt;
*[[戸籍]]・名簿などの管理・作成。それに関連したコンピュータ・データベースの構築&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==日本における人名をめぐる文化、制度、歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===言葉としての特徴===&lt;br /&gt;
今日の日本人の名前は、典型的には、苗字が漢字2文字、名が漢字2文字からなる。ただし法的制限などがあるわけではなく、苗字・名とも漢字1文字や3文字のものも多い。研究者の間で確認されている限りでは、苗字は漢字5文字のものが最長である。漢字5文字からなる苗字は、その種類もごく限られている。名においては、女性には平仮名も比較的多く見られる。片仮名は、男性には時代を通じて稀であるが、女性においては戦前には比較的よく使われた。戦後になって使用される例は減ったが、近年では個性的な名前を望む風潮から使われる例が増えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的な例）&lt;br /&gt;
*1文字苗字：東、西、南、北、乾、巽、辻、森、林、谷、原、岡、星、耀(あかる)、桂…など&lt;br /&gt;
*2文字苗字：佐藤、鈴木、田中、山本、高橋、中村、渡辺、小林…など&lt;br /&gt;
*3文字苗字：長谷川、佐々木、五十嵐、久保田、佐久間、小笠原、大久保、小野寺…など&lt;br /&gt;
*4文字苗字：勅使河原（勅使川原・てしがわら）、小比類巻（こひるいまき）、長宗（曽）我部（ちょうそかべ）…など&lt;br /&gt;
*5文字苗字：勘解由小路（かでのこうじ）、左衛門三郎（さえもんさぶろう）、正親町三条（おおぎまちさんじょう）…など　　&lt;br /&gt;
:※読み方は代表的なものを記載。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
苗字・名どちらも比較的独自の語彙があるため、ある人の姓名を聞いて、それが人の姓名だとわかるのが普通である。また、苗字か名かいずれかを聞いた場合、「わかな」「はるな」「みなみ」などのごく稀な例外を除いて、それがどちらであるかを区別することも比較的易しい（これは、例えば英語でRyan Douglas Scottのように姓にも名にも用いられる語がかなり多くの人の人名に使われていることと対照的である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、姓名を聞いた時にそれがどのような文字で書かれるかについては必ずしも分からない場合が多い。これは同じ読みのものがたくさん存在するという漢字の特徴にちなむ。&lt;br /&gt;
また、漢字で書かれた名前から正しい読み方が特定できない場合もある。これは、馴染みの薄い読み方（難読人名）であるために起こることもあるが、単に2つ以上のよく知られた読み方があるために起こる場合もある。日本の漢字は読み方が多いためこのようなことが起こりやすい（例えば、「裕史」という名はひろし、ひろふみ、ゆうし、ゆうじ、などと最低4通りの読みがある/字面通りの読みである必要はないので、実際にそれ以上存在する）。そのため、各種の申込書・入会書・願書・申請書などに名を記す時に[[振り仮名]]の記載を求められる場合が多いが、法的にそれを証明する手段が乏しい（名前の読みまで記したものが殆どない）。これは、戸籍が読みではなく字を基準にした制度であるためで、同じ戸籍内の者に「異音同字」の名前をつけることは出来ない（稀に夫婦で同名というケースもあるが、これは問題ない）。ちなみに「異字同音」の名前は可。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
苗字の大半は地名に基づいているため、地名に多い田・山・川・村・谷・森・木・林・瀬・沢・岡・崎などの漢字を含むものが名字の多数を占める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[僧侶]]の名前などは音読みとなる場合が圧倒的に多い。文筆家の号も音読みのことが多く、[[藤原俊成]]（としなり・しゅんぜい）や[[藤原定家]]（さだいえ・ていか）、[[藤原家隆]]（いえたか・かりゅう）のように、本来訓読みでも音読みで読み慣わしている例もある。（→[[有職読み]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前を聞いたり見たりした場合に、その名前の主が男性であるか女性であるかを見分けることは比較的易しい場合が多いが、『ユウキ』『ヒロミ』『ツカサ』『カオル』など、旧来から男女両方に使われる名もある。但し、女性的に見える名前が男性に付けられる事はある（例：[[蘇我馬子]]・[[小野妹子]]・[[平国香]]・[[正親町三条実愛]]・[[一条忠香]]([[明治天皇]]の岳父)などの歴史上の人物や、[[吉田照美]]の様に「～美」を付ける男性もいる。「～美」は男女が非常に判り辛い）。&lt;br /&gt;
男性の名には一般的に「健」「武」「大」「俊」など力強さや雄大さを連想させる文字がよく使われ、「～介」「～之」「～太」と続く名前が多い。生まれた順番に郎・朗を付けて「一郎（太郎）」「二郎（次郎）」「三郎」などとすることは昔に比べ少なくなったが、前に漢字を付し「健一」「浩二」「慎太郎」とすることは現在でも散見される。&lt;br /&gt;
女性の名には「～奈」「～香」「～美」という名が多く、「優」「舞」「愛」「香」などの可愛らしさ・優しさを連想させる文字や、花の名前（「桜」「桃」等）がよく使われる。「～子」で終わる名前は少なくなってきている。また、男性に比べ名前が平仮名である割合が多い。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--ただし、最近では『ナギサ』『チヒロ』など、旧来は女性名とされてきたものが男性に使用される場合や『アキラ』のように男性名とされてきたものが女性に使われる場合もあり、ボーダーレス化はやや進んでいるといえよう。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に男性・女性にそれぞれ力強さ・優しさを求めるといった大仰な意味で名付けが行われることは少なく、どちらかといえば響きの良さ・慣例が重視されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また近年では『レオ』『サラ』など本来外国語・外国人名であるものも用いられだし、この割合も年々高まってきている。中でも『ジョウジ（ジョージ）』『ナオミ』『エリカ』『リサ』などは、今や日本人名として広く定着している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===姓の継承と変更===&lt;br /&gt;
婚姻により夫と妻が新たな戸籍を作る際には、その姓（苗字のこと。法制度上は、「[[氏]]」と称していることに注意）として夫・妻いずれかの結婚前の姓を付けるものとされており、結果として結婚後の両者の姓は統一される。どちらの姓を採るかはその夫妻の決定に委ねられるため、単純に考えれば双方5割前後となるはずだが、[[民法|旧民法]]の[[家制度]]の下で妻は嫁として夫の「家」に入ってその姓を名乗るもの、という意識が広まった結果、[[民法|新民法]]の下でも95％以上の戸籍で夫の姓を採用している。この制度については1990年代半ば頃から見直しの気運が高まっており、「[[夫婦別姓]]」問題として議論されている。結婚後も夫婦別姓を採用することの利点として、姓を変える側（通常女性）が一方的に蒙る社会生活における煩雑さや不便が避けられること、結果の平等の視点にたち男女平等の精神に即したものであること、などが指摘されている。反対意見として夫婦の絆を弱めるものだとの意見や、夫婦の間に生まれた子供の苗字をどちらにするかの問題などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[養子縁組]]の場合は養親の姓を名乗ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近世以降、現代の日本における姓の動向については、特に記事 「[[姓]]」 に挙げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===名付け===&lt;br /&gt;
現代の日本では、上述したように、正式な名前は姓と名からなる。これは戸籍に登録されており、新生児は出生後14日以内（国外で出生があった時は3ヶ月以内）に登録する（戸籍法第49条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前は親や祖父母などが考えて決める場合が多い。子供の名前を集めた本や[[姓名鑑定]]など[[占い]]の類を参考にする場合もあるが、出生当時の社会情勢が子供の名付けに反映されることも多い&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.meijiyasuda.co.jp/ 明治安田生命保険]の調査結果サイトも参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、昭和10年代では戦時体制下を反映して男性の名前に「勝」「勇」などの名が上位に見られるが、戦後昭和21年以降になると「勝」は上位10位から姿を消す。昭和50年代以降は有名スポーツ選手やテレビドラマなどの主人公名が上位に見られるようになる（例えば、[[荒木大輔]]が高校野球で大活躍した時期には「大輔」が流行した。[[松坂大輔]]もその一人とされる）。女性の名前から「○子」が少なくなるなどの変化が見られる。また、[[皇室]]の影響を受ける場合も多く、[[今上天皇]]（[[明仁]]）が[[皇太子]]時代に成婚した際は「美智子」という命名が流行し、続いて皇太子[[徳仁親王]]生誕の際には浩宮にちなんで「浩」という漢字を付けることも流行した(浩之・浩子など)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===姓名の使用===&lt;br /&gt;
死亡すると、仏式の[[葬儀]]を行い、[[戒名]]（[[浄土真宗]]では[[法名]]）（例：○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○）を付けられる者も多い。[[日蓮正宗]]では男子が出家得度して僧侶となった場合、師匠から道号が付けられ、これまでの名を改め道号が名前となる。[[能化]]に昇級すれば日号（[[朝山日乗]]など）が名前となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以前から[[芸能人]]や[[作家]]は、[[芸名]]や[[ペンネーム]]を用いる者が多かったが、近年では[[インターネット]]の普及によってそれ以外の人々が[[ハンドルネーム | ハンドル]]を使用することも普通に行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正式な姓名は、人が互いを呼び合う際にはほとんど用いられることはない。あだ名、名、姓や名に「さん」「ちゃん」などを付けたもの、肩書きや続柄に関係したもの、二人称代名詞などが代わりに用いられることが多い。上記のハンドルを実社会で使う例もしばしば見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。また、歴史的には、日本語の一人称の一部は時代の経過とともに二人称として用いられるようになる傾向がある。「手前」（てまえ）はかつて一人称であったが、現在ではそこから転じた「てめえ」が二人称である。「自分」はかつて[[大日本帝国陸軍|陸軍]]における一人称であったが（[[陸上自衛隊]]でも使用されている）、関西地方では近代以降に二人称として用いられている。このことから、日本語を学ぶ外国人が最も苦しむのが二人称であり、日本の商習慣も相まって非常に難解とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===日本人の姓名の歴史的変遷===&lt;br /&gt;
この項では、いわゆる[[日本民族]]としての日本人の姓名の変遷について記述する。沖縄あるいはアイヌは異なる歴史を持っており、これについては後述する。&lt;br /&gt;
歴史的には、古代の[[律令]]国家の時代には庶民も姓（[[本姓|セイ]]）を持っていたことが現存する当時の[[戸籍]]から明らかである。しかし、この姓（セイ）は、古代社会である一つの氏（[[氏|ウヂ]]）集団（[[氏族]]組織）の一員であることを意味するものであり、今日の[[苗字]]と同義の姓（セイ）とはその性質を大きく異にする。支配者層の姓（セイ）である氏（ウヂ）には、[[氏姓の制]]により、朝廷とその氏（ウヂ）との関わりを示す姓（[[カバネ]]）が付された。例えば、今日[[藤原鎌足]]として知られる藤原朝臣鎌足（ふじわらのあそんかまたり）では、藤原が氏（ウヂ）＝姓（セイ）、朝臣が姓（カバネ）、鎌足が[[名]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、平安時代になると古代から中世への社会変動の中で古代的な氏族組織は衰退して行き、新たに社会の上層から次第に「[[家]]」を単位とする組織化が進行した。そして古代的な姓（カバネ）は[[朝廷]]との関わりにおいてのみ温存されていくことになった。例えば、摂関家の近衛家などは朝廷との関わりにおいては藤原氏という姓（セイ、[[本姓]]）を名乗り、摂政関白を家業として継承する家としては近衛という[[家]]名（のちの苗字に相当）を名乗ったのである。こうした家名の中で、[[領主]]身分を獲得した[[武士]]によって用いられ始めたのが今日の苗字である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在地社会ではいったん古代豪族に率いられた伝統社会が崩壊した後、貴族や大寺社の寄人（よりうど）となることなどを通じて、それに応じた姓（セイ）が各々賦与されるようになり、百姓身分であっても藤原・紀・秦・清原といった古代豪族や朝廷貴族と同じ姓を名乗るようになった。その上で、律令戸籍に見られた姓（セイ）とは異なる形で、すなわちより実利を重視する形で新たに氏（ウヂ）集団が形成されようになった。しかし、[[鎌倉時代]]末期あたりを境に百姓身分も安定した婚姻関係を基礎に継続的な家組織を持つようになり、氏（ウヂ）集団への依存度が減少した。この頃から庶民が姓（セイ）を名乗る習慣は消滅していき、代わって、独立的な家名としての苗字を名乗ることが一般的になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
庶民が[[氏]]を名乗っていた中世前期までは、例えば清原氏を名乗る百姓の女性ならば名前は清原氏女（きよはらうじのむすめ）などと記され、婚姻後であっても出自する氏の構成員としての地位を保っていた。しかし庶民が苗字を名乗る中世後期になると、庶民の女性も童名のままながら「ねね」「やや」「とら」などより独立した存在としてその存在を記録に残されるようになった。その一方、女性は婚姻後は出自の家ではなく婚家の家組織に従属するという習慣も明瞭となってきた。[[枕草子]]を書いた[[清少納言]]は、父[[清原元輔]]が少納言であったことから清原の「清」を取って名付けられている。しかし、時代が移り変わるに連れて、[[関白]]の母を[[大政所]]、正妻を[[北政所]]、江戸時代の[[征夷大将軍]]の正妻を[[御台所]]と呼ぶように、女性は婚家の夫・子供の視座から呼称されるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[東アジア]]では[[アニミズム]]的な背景により実名（[[諱]]：いみな）を他人が呼ぶことの禁忌があったため、同等者や目下の者が呼ぶために通称が発達した。例えば太郎、二郎、三郎といった誕生順（[[源義光]]を新羅三郎と呼ぶ等）や、武蔵守、上総介といった[[律令制|律令]]官名がよく用いられた。&lt;br /&gt;
なお、およそ公家武家を問わず諱については先祖代々の通字を用いることが多い（鎌倉[[北条氏]]の「時」、[[足利氏]]の「義」、[[織田氏]]の「信」、[[徳川氏]]の「家」など）。偏諱（へんき）といって主君の諱の一字拝領をすることが栄誉とされた他（[[北条高時]]→[[足利尊氏|足利高氏・足利尊氏]]←[[後醍醐天皇]]“尊治”）、烏帽子親の一字を受けることが多かった（北条高時は高氏・尊氏の烏帽子親である）。また、家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、祖先と同じ諱を称する先祖返りという習慣もあった（[[伊達政宗]]など）。また偏諱にも2通りあり、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があり、前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者はその人物と個人的な主従関係を現す場合が多い。例えば、[[豊臣秀吉]]の場合、前者として[[小早川秀秋]]、[[宇喜多秀家]]、後者には[[田中吉政]]、[[堀尾吉晴]]、[[大谷吉継]]などがある。さらに、何度も[[改名]]することもあり、[[上杉謙信]]は、'''長尾景虎'''→'''上杉景虎'''（[[関東管領]][[山内上杉氏]]から姓を授かる）→'''上杉政虎'''（[[上杉憲政]]の偏諱）→'''上杉輝虎'''（[[足利義輝]]の偏諱）→'''上杉謙信'''と目まぐるしい。江戸時代には、将軍からの偏諱を受ける家が決まっていたこともある（[[島津氏]]、[[伊達氏]]など）。更に、[[隠居]]や人生の転機、自尊心・虚栄心に、名を音読みや僧侶風・文化人風名に改める風習も未だ残っている（例：[[島津忠良]]→島津日新斎、[[柳生宗厳]]→柳生石舟斎、[[細川藤孝]]→細川幽斎、[[森田必勝]]（まさかつ・ひっしょう）[[佐藤孝行]]（たかゆき・こうこう）、芸能人でも見られ、二代目・市川猿之助→[[市川猿翁|猿翁]]、八代目・松本幸四郎→[[松本白鸚 (初代)|白鸚]]、など枚挙に暇が無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、明治維新以前の日本では、特に社会の上層に位置する場合はなおさら、一人の成人男性は氏（本姓）・家名の2つの一族名、諱と通称の2つの個人名を持っていたことになる。ここで気をつけなければならないのは、これらを組にして呼ぶ時の組合わせが決まっていたことである。例えば、忠臣蔵で知られる[[大石内蔵助]]はフルネームを記すと「大石内蔵助藤原良雄（おおいしくらのすけふじわらのよしたか）」であり、家名（名字）が大石、通称が律令官名で[[内蔵寮]]の次官を意味する内蔵助、氏が藤原、諱が良雄となる。この例に示されるように、家名には通称が、氏には諱が組み合わされ、家名に直接諱を組にすることは正しくなかった。例えば今日、織田弾正忠平朝臣信長（おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが）は「[[織田信長]]」と通称されるが、同時代的には「織田弾正忠」あるいは「織田弾正忠信長」と呼ばれても、「織田信長」という呼び方は呪詛の時など特殊な場面を除くとほとんど用いられなかった。もちろん、朝廷の公文書に記される時は「平朝臣信長」が正しい書式となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また賜姓という姓を授ける習慣もあった。例えば豊臣秀吉の賜姓による羽柴○○（[[徳川家康]]の羽柴武藏守大納言、[[前田利長]]の羽柴肥前守など）・豊臣○○（[[真田信繁]]など）、江戸幕府の外様大名の宗家への、松平賜姓による松平○○守（[[前田利常]]の松平筑前守、後の前田家の松平加賀守、島津家の松平薩摩守、毛利家の松平長門守など）と名乗らされていたなどである。（幕末[[戊辰戦争]]後に元の姓に復帰。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで明治維新以前の日本人男子名の構成要素を[[漢文]]表現と比較すると次の箇条書きのようになる。前者が日本における固有表現、後者が漢文表現である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*家名・苗字　→氏（シ）&lt;br /&gt;
*通称・あざな→[[字]]&lt;br /&gt;
*氏（ウヂ）　→姓（セイ）・本姓&lt;br /&gt;
*姓（カバネ）→対応なし&lt;br /&gt;
*諱（イミナ）→諱&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本姓・氏（ウヂ）は父系の血統を示すので、養子に入っても変えることはできないのが本来の原則であった。しかし、後世になるほどこの原則はそれほど厳密には適用されなくなり、他家の名跡を継いだ場合などの、他家の本姓に変わる例外も少なくなくなった。例えば、長尾景虎は、長尾氏は平氏なので平景虎だが、上杉氏の名跡を継ぎ上杉輝虎（上杉謙信）となった後は、上杉氏の姓の藤原から藤原輝虎となった。女性の場合、本姓はもちろん婚姻後も変わらず、家名は女性が自らの名前に冠することは通例ではなかったようである。中国でも同姓族集団の解体と氏の発生が起きたが、これは日本の同姓族集団の解体と家名の発生とは並行現象ではなく、中国での氏の扱いは父系血統を示す姓の扱いに近い。ただし、日本でも中国でも姓概念と氏概念の混同、日本における固有概念と中国の漢文概念の混同がしばしば見られ、実際の用例に当たるに際して注意を要する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、朝廷と関わりが生じるような階層でなければ実生活で諱を使うことは滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。西郷吉之助平隆永（さいごうきちのすけたいらのたかなが）の名前が明治維新に際し、周囲の者が父の諱「隆盛」を彼のものと誤解して朝廷に奏上してしまったために、以後新政府の公文書ではそのまま「平朝臣隆盛」、[[戸籍令]]以降は「[[西郷隆盛]]」と呼ばれるようになってしまったのが良い例である。&amp;lt;!--父の諱だったかどうかはともかく、それもかなり疑問なのだが、西郷の墨字を官吏が読み間違えたためじゃなかったかな--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には苗字は厳密に武士や武士から苗字を許された者の特権的[[身分表徴]]となり、公式な場で家名を名乗るのも武士や[[公家]]などの支配階級に限られていた。しかし[[百姓]]身分や[[町人]]身分であっても、村や町の自治的領域内では個々の家に属した上でそれらの構成員となっており、当然のことながら家名を有した。こうした百姓や町人の家名は私称の苗字とも呼ばれる。ただし、村や町を支配した武家政権はその内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、彼等が個々の百姓や町人を呼ぶ場合は家名を冠せずに百姓何某、町人何某と呼んだのである。また町人の場合は[[大黒屋光太夫]]など[[屋号]]を苗字の代わりに使うこともしばしばある。東日本では百姓も屋号を名乗ることが多かったが、八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の名字と組にして用いた。しかし、武士や公家は姓と苗字を持っていたが、苗字を私称した百姓や町人は私称した苗字を持つだけで姓は持たなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]によって新政府が近代国家として[[国民]]を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏（姓）と家名（苗字）の別、および諱と通称の別を廃して全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名において、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば[[夏目漱石]]の戸籍名である夏目金之助の金之助は通称系、[[野口英世]]の英世は諱系の名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===沖縄における姓名の歴史的変遷===&lt;br /&gt;
史料から見る限り、[[1392年]]に帰化したといわれる閩人三十六姓及びその子孫である久米村士族を例外として、[[第一尚氏|第一尚氏王統]]が成立するまでの王名を初めとする人名のほとんどは「[[琉球語|琉球語／琉球方言]]」によると推測される名のみであり、姓ないし氏があったことは確認できない。[[尚巴志王]]が[[三山時代|三山]]を統一し[[明]]に[[朝貢]]すると、国姓として「尚」を賜り、以後の王は中国風の姓名をもつようになった。中国風の姓名は「唐名（からなー）」と呼ばれ、以後士族一般に広がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、[[第二尚氏|第二尚氏王統]]成立後、士族はその采地（国王より与えられた領地）の地名を位階称号に冠して呼ばれる慣習が一般化し、さらに日本風の「名乗り」（前節の「諱」に相当、ただし全て[[音読み]]で読まれる）を持つことが普通になると、「采地名」＋「位階称号」＋「名乗り」が別の呼称システムとして確立した。これを「大和名（やまとぅなー）」と呼ぶことがある。「采地名」の人名化は日本における「氏」（苗字）の起源と並行するが、日本のように「采地名」が固定化した「氏」になることはなく、采地の変更にともなって変わりうる一時的な呼称にとどまった（王の[[世子]]は[[中城村|中城]]を所領とし、常に「中城王子」と称した。つまり「中城」という「采地名」は王世子のみに与えられる称号であり、継承されない）。また、それまでつけられていた「琉球語／琉球方言」による名は「童名（わらびなー）」とカテゴライズされ、公共領域からは排除されていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにして、同一人物が「大和名」と「唐名」の双方を持つようになったため、後世、特に近代以降にそれ以前の歴史上の人物を呼ぶ場合、人物によって通用する名前が異なる現象が生じている（主に久米村士族が「唐名」で呼ばれる）。例えば[[羽地朝秀]]（唐名：向象賢）は「大和名」が、[[蔡温]]（大和名：具志頭文若）は「唐名」の方が通用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[薩摩藩]]の琉球侵攻以後、「大和めきたる」風俗の禁止に伴い、多くの地名（したがって「采地名」）の漢字が日本本土に見られないものに置き換えられたため、本土と語源が共通する「采地名」も異なる漢字で書かれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
琉球処分後、日本の戸籍制度が沖縄にも適用されると、国民皆姓制度の導入と姓名の単一化が迫られた。士族、及び分家として「采地名」をもっていた王族はすべて「大和名」（「采地名」＋「名乗り」）を戸籍名としたが、[[尚泰王]]のみは「采地名」をもたなかったため、王とその直系の子孫のみは（「采地名」をもっていても）「尚」を姓とし、「唐名」を戸籍名とした。このため、王族出身者でも「大和名」を名乗った分家（伊江家、今帰仁家など）では姓名の形式がより「本土風」であるのに対し、「尚」家の多くの男子は今も原則として漢字一字をもって命名されている。また、全体として王族、士族出身者の名の読みには音読みが根強く残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、独特の漢字遣いをする姓を「本土風」の漢字に置き換える改姓を行ったり、逆に同じ漢字を使いながら読みを[[標準語]]に近づけるなど、日本本土への同化傾向が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[先島諸島]]においても、[[尚真王]]による征服以前に分立していた領主の名前には、領地名を名に冠したと考えられるもの（[[石垣島]]の平久保加那按司）、名だけが伝えられているもの（石垣島の[[オヤケアカハチ]]、[[与那国島]]のサンアイイソバなど）など、独特のものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお詳細は[[沖縄の歴史]]、[[琉球の位階]]、[[第二尚氏#尚氏と向氏|尚氏と向氏]]、[[沖縄の名字]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==諸文化の人名をめぐる習慣==&lt;br /&gt;
世界中、歴史上の諸文化における名前の扱いについて体系的に整理した包括的な研究資料などは現在のところ存在しないと思われる。だが、個別の事例については少なからぬ量の情報が入手可能である。以下ではそのようなさまざまな文化における姓名をめぐる習慣について、特徴的と思われる事例を紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===イスラム圏の名前===&lt;br /&gt;
[[アラブ人]]の伝統的な名前は'''クンヤ'''（「某の親」）、'''イスム'''（本人の名）、'''ナサブ'''（「某の子」）、'''ニスバ'''（出自由来名）、'''ラカブ'''（尊称・あだな）の要素から成り立っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; クンヤ&lt;br /&gt;
: クンヤは「アブー＝某」（某の父）、「ウンム＝某」（某の母）という形を取る。ただし、初代[[正統カリフ]]の[[アブー＝バクル]]はクンヤで名が知られるために、アブー＝バクルの名をイスムに用いる場合もある。歌手の[[ウンム＝クルスーム]]も、クンヤによる名前が知られている例である。&lt;br /&gt;
; イスム&lt;br /&gt;
: イスムは本人の名である。男性には[[ムハンマド・イブン＝アブドゥッラーフ|ムハンマド]]、[[ウマル・イブン＝ハッターブ|ウマル]]、[[ウスマーン・イブン＝アッファーン|ウスマーン]]、[[アリー・イブン＝アビー＝ターリブ|アリー]]など[[イスラム教|イスラム]]初期の指導者の名や、イブラヒーム（[[アブラハム]]）、ムーサ（[[モーゼ]]）、イーサ（[[イエス・キリスト|イエス]]）など[[預言者]]たちの名のほか、神のもつ99種の別名に奴隷を意味する「アブド」をつけたアブドゥッラー（神の僕）、アブドゥッラフマーン（慈悲深き方の僕）などの名も好まれる。女性には[[ハディージャ]]、[[ファーティマ]]などムハンマドの家族に由来する名前や、ヤスミーン（ジャスミン）、ズフラ（美）、ヌール（光）など女性らしさ・美しさを表す名前がよくつけられる。&lt;br /&gt;
; ナサブ&lt;br /&gt;
: ナサブは「イブン＝某」（某の息子）、「ビント＝某」（某の娘）という形を取る。また、某（本人の名）・イブン＝某・イブン＝某・…と本人の名の後にナサブを連結して先祖をたどる表現もできる。イブンはビン、ブンと言うこともあり、[[イラク]]などでは、元イラク大統領サッダーム・フセインのように「ビン」が省略されて、ナサブ（この場合はフセイン）をイスム（この場合はサッダーム）の後ろに直接連結する（イラクの例の詳細は後述）。&lt;br /&gt;
; ニスバ&lt;br /&gt;
: ニスバは出身地・所属部族・所属宗派に形容詞形語尾「イー」を付けた形を取る。[[マグリブ]]出身ならばマグリビー、[[アフガニスタン]]出身なら[[アフガーニー]]となる。&lt;br /&gt;
; ラカブ&lt;br /&gt;
: ラカブは本人のもつ尊称である。例えば[[アイユーブ朝]]の建設者ユースフ・ブン＝アイユーブは[[サラーフッディーン]]のラカブを持ち、このラカブが転訛した「サラディン」の名がよく知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上からわかるように、本来アラブ人には親子代々が継承する姓は厳密には存在しないが、部族民や上流階級などの成員で、祖先がはっきりしている者は、ナサブやニスバやラカブが『家名』のように用いられることもある。日本や欧米の人々には一般に姓と見なされている[[オサマ・ビンラディン|オサマ・ビン＝ラディン]]のビン＝ラディンは、何代前もの先祖某の名を使った「ビン＝某」がいわば『家名』のようなものとして用いられた例にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は[[スンナ派]]と[[シーア派]]、[[北アフリカ]]地域と[[アラビア半島]]地域とで異なるというように、集団・地域による傾向に大きな差が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば[[サウジアラビア]]ではパスポートに記載される名前は、「本人の名(イスム)、父の名によるミドルネーム（ナサブ）、祖父の名によるミドルネーム（ナサブ）、『家名』（先祖のナサブ、ニスバ、ラカブなど）」という順に表記される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[イラク]]の場合は、元大統領[[サッダーム・フセイン|サッダーム・フセイン・アッ＝ティクリーティー]]（Sadd&amp;amp;#257;m Husayn al-Tikr&amp;amp;#299;t&amp;amp;#299;）は[[ティクリート]]出身のフセインの子サッダームと読み解ける。サッダームの長男[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ＝ティクリーティー]]（Uday Sadd&amp;amp;#257;m Husayn al-Tikr&amp;amp;#299;t&amp;amp;#299;）はティクリート出身のフセインの息子サッダームの子ウダイ、サッダームの次男[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ・サッダーム・フセイン・アッ＝ティクリーティー]]（Qusay Sadd&amp;amp;#257;m Husayn al-Tikr&amp;amp;#299;t&amp;amp;#299;）はティクリート出身のフセインの息子サッダームの子クサイとなる。ウダイとクサイの例からわかるように、地名によるニスバは必ずしも当人の出身地を表すのではなく、父や祖先の出身地を表す場合もあるので注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非アラブのイスラム教徒の間では、[[ペルシア語]]で「息子」を意味する「ザーデ」、[[トルコ語]]で「息子」を意味する「オウル（オグル、オール）」の語を、ナサブに該当する部分に用いる他は、概ねアラブ人の名と似通った名が伝統的に使われていた。しかし、[[トルコ]]と[[イラン]]ではそれぞれ[[1930年代]]に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級はアラブと同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけた。この結果、両国では姓名は「本人の名」・「家の姓」の二要素に統合された。例えば、トルコ人[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]](Recep Tayyip Erdo&amp;amp;#287;an)はレジェップ・タイイップが名、エルドアンが姓であり、イラン人[[マフムード・アフマディーネジャード]]（Mahm&amp;amp;#363;d Ahmad&amp;amp;#299;nej&amp;amp;#257;d）はマフムードが名、アフマディーネジャードが姓である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、旧ソ連の[[アゼルバイジャン]]・[[トルクメニスタン]]・[[ウズベキスタン]]・[[タジキスタン]]・[[キルギスタン]]・[[カザフスタン]]や[[ロシア]]に住む[[チェチェン人]]などのイスラム教徒は、長くロシア人の強い影響下にあったために、[[スラブ諸語|スラブ語]]の父称を用いたスラブ式の姓が一般的である。例えば、アリーから創られた姓は[[ヘイダル・アリエフ|アリエフ]]、ラフマーンから創られた姓は[[エモマリ・ラフモノフ|ラフモノフ]]と言い、[[ソビエト連邦]]解体後もそのまま使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国人の名前===&lt;br /&gt;
中国人の名前は典型的には漢字1文字の姓（氏）と漢字1文字または2文字の名からなり、「父方の姓」「その父系血族の同世代に共通の漢字（'''輩行字'''）」「子に特有の漢字」という順に表記される（現在では輩行字に従わない命名もある）。例えば[[毛沢東]]には二人の弟がおり、それぞれ毛沢民、毛沢覃という名であったが、この三人に共有されている「沢」が輩行字である。漢字1文字名には輩行字がないことになるが、その場合でも同世代で共通の部首をもつ字のみを名付けることがある。元来姓は父系の血統を示すので原則としては[[夫婦別姓]]であるが、女性は結婚に伴って、夫の姓を名乗るようになることがある。夫の姓に続けて自分の姓を書く（従って漢字4文字になる）場合もある。二文字の姓（'''複姓'''）もあり、諸葛・上官・欧陽・公孫・司馬などが有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、歴史を遡れば姓と氏は別のものであった。[[周]]代には周王の一族は「[[姫 (姓)|姫]]」、太公望[[呂尚]]の子孫である[[斉]]公の一族は「姜」、後に[[始皇帝]]を出した[[秦]]公の一族は「嬴」といった姓を持ったが、これは[[漢族]]形成以前の部族集団の呼称とでもみるべきもので、族長層だけがこれを名乗った。こうした族集団の内部の父系血族集団が「氏」であった。例えば周代の姫姓諸侯である晋公の重臣であり、後に独立諸侯にのし上がった[[韓]]氏は姫姓であって周の族長層に出自するが、氏は韓であった。しかし[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]になると社会の流動性が高くなり、それによって姓はその根拠となる族集団が形骸化していった。また姓を持たず氏のみを持つ非族長層も社会の表舞台に立つようになっていった。そして[[漢]]代になると古代の姓の多くが忘れられ、氏が姓とも呼ばれて両者が混同される形で父系の血縁集団を示す語として用いられるようになったのである。前漢の[[皇帝]]を出した劉氏も姓を持たない階層に出自した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに伝統的に下層階級以外の男性は目上の者だけが呼んでよい名（「[[諱]]」とも言う）と別に同等者や目下の者が呼ぶ「[[字]]（あざな）」という呼び名を持った。現在は字の風習は廃れつつあるようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===韓国人・朝鮮人の名前===&lt;br /&gt;
韓国人・朝鮮人の名前は中国の影響を受けて、典型的には漢字2文字または3文字（まれに4文字）からなる。統一[[新羅]]の時代以前は今とまったく違う名前を用いていた。日本書紀や古事記に見られる朝鮮半島系の渡来人の名は中国式の名ではなかったことからもわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[高句麗]]王朝末期の貴族、[[淵蓋蘇文|泉蓋蘇文]]は今日の韓国では漢語発音で「チョン・ケ=ソ=ムン」と呼ばれているが、日本書紀の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「イリ・カスミ」と発音したことが知られている。「イリ」は高句麗語で泉を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「カスミ」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の[[万葉仮名]]に類似した表記方法と考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の姓名体系は統一新羅の時代に中国式を真似たものである。姓は基本的には漢字一文字であるが、皇甫などの二字姓（複姓）も少数だが存在する。これとは別に、祖先の出身地（本貫）を持ち、同じ姓・同じ本貫（同姓同本）を持つものを同族と見なす。この同族意識はかなり強固なものであり、かつては同姓同本同士の結婚は禁じられていた。ただし、同姓でも本貫が違う場合は問題ない。現在、朝鮮半島内で最も多いのは金海金氏（[[釜山広域市]]付近の[[金海市]]を本貫とする金氏）である。族譜（{{lang|ko|족보}}）という先祖からの系図を書いたものがあるが、女性の名は族譜に記載されない。族譜は[[李氏朝鮮]]ごろに党争の激しくなったころから作られ始めた。族譜の中で始祖のころの系図は伝説に依拠していたり、古代の偉人に結びつけただけのものが多く、信憑性はあまりない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名が漢字2文字の場合、同族で同世代の男子が世代間の序列を表すために名に同じ文字を共有する'''行列字'''という習慣がある。行列字は[[陰陽五行説]]に基づいて決められる。つまり「木・火・土・金・水」の入った字を順番に付けていく。たとえば、ある世代で木の入った字（根、桓）、次の世代は火の入った字（煥、榮）、次の世代は土の入った字（圭、在）……と続く。[[十干]]（甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸）、[[十二支]]（子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥）を使うこともある。ある世代で名前の漢字二文字のうち前の字を行列字にしたら、次の世代は後の字を行列字にする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では姓名はハングル表記であり、名の部分に関しては漢字では表記できない[[固有語]]を用いる例もある（日本語のように固有語に漢字を当てる訓読みの慣習を有さない故）。[[在日コリアン|在日韓国・朝鮮人]]は韓国・朝鮮式の本名のほかに日本式の通名を持っている場合が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===モンゴル人の名前===&lt;br /&gt;
モンゴル人は縁起の良い言葉や仏教的な言葉を選んで子供を名付ける。姓にあたるものはないが、[[氏族]]（オボク）の名称が姓に近い役割を持ち、中国の[[内モンゴル自治区]]では氏族名を姓として中国式に姓名で表記することがある。例えば、[[チンギス・ハーン]]家のオボクはボルジギン氏族（孛儿只斤氏）であるため、内モンゴル出身のチンギス・ハーンの子孫はボルジギン・某（孛儿只斤某）と称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、[[モンゴル国]]ではロシアの影響で父の名を姓の代わりに使い、本人の名の前に置く。例えば、[[朝青龍明徳]]の本名ドルゴルスレン・ダグワドルジは、ダグワドルジが本人の名、ドルゴルスレンが父の名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ベトナム人の名前===&lt;br /&gt;
[[ベトナム]]は[[漢字文化圏]]に属しており、人名も漢字1ないし2文字の姓と漢字1文字から2文字（まれに3文字）の名からなる構造面では中国と共通しているが、各字の機能面からみるとかなり異なっている。名のうち1字目の字は「間の名（tên đệm、ミドルネーム）」と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字、朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上に対しても呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、「間の名」は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはめったにない（姓を呼称に使うのはきわめて例外的な高い敬意を表すときに限る。典型例が[[ホー・チ・ミン]]を「ホーおじさん」と呼ぶ場合である）。たとえば「[[ゴ・ディン・ジエム]]（Ngô Đình Diệm、呉廷琰）」は、姓が「ゴ」、「間の名」が「ディン」、「呼びかけの名」は「ジエム」である（「ジエム政権」とはいうが「ゴ政権」とはいわない）。「間の名」に使われる字は男性で「Văn（文）」女性で「Thị（氏）」などある程度決まっているが、由緒ある家系では支派の名の区別に使われることがある。この場合支派の名は「姓」＋「間の名」で弁別され、世代を超えて継承されるため、時として両者があわせて2字姓（複姓）であるかのように扱われることもある。なお名付けに使われる語は必ずしも漢字名に限らず、庶民の間では[[固有語]]による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には上記の説明にあてはまらない固有のシステムをもつものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===インドシナ半島の名前===&lt;br /&gt;
[[ベトナム]]を除いて、伝統的にこの地域では姓はない。しかし、[[カンボジア]]・[[ラオス]]でも旧宗主国フランスの影響で父の名などを姓として名のうしろに付加するようになった。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[ミャンマー]]には今も家系に共通の姓はなく、必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。また、名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''[[タイ王国|タイ]]に関しては、[[タイの名前]]を参照のこと''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===インドネシア・マレーシアの名前===&lt;br /&gt;
この両国でも姓は義務づける法はないが、[[スマトラ島]]のバタック人や、[[マルク諸島]]（モルッカ諸島）、[[フロレス島]]などでは氏族名を姓のように用いる。[[ジャワ島]]のジャワ人とスンダ人の多くは名しか持たないが、貴族の家系は姓を持っていて名のうしろにつける。イスラム教徒のマレー人、アチェ人、ジャワ人、スンダ人はアラブ式に父の名による呼び名を持ち、名のうしろにつけて姓のように使う場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===フィリピンの名前===&lt;br /&gt;
フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある(例：グロリア・マカパガル・アロヨ）。姓は植民地時代にスペイン人の姓から選んで名乗ったため、スペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== キリスト教圏の名前 ===&lt;br /&gt;
[[キリスト教]]圏では、姓についての慣習は各国語圏で異なるが、名については[[聖人]]・[[天使]]に由来する名前が好んで付けられる。例えば、「[[マイケル]]」（英語）・「[[ミシェル]]」（フランス語）・「[[ミヒャエル]]」（ドイツ語）・「[[ミケーレ]]」（イタリア語）・「[[ミゲル]]」（スペイン語）・「[[ミハイル]]」（ロシア語）・「[[ミカ]]」（フィンランド語）は、すべて大天使[[ミカエル]]に由来する名である。その他、[[聖書]]に登場する人物の名が多い。ポール・パウル・パオロ・パブロ・パヴェル（聖[[パウロ]]）、ルイス・ルートヴィヒ・ロドヴィコ・ルイージ・ルドヴィクス（[[ルイ9世 (フランス王)|聖ルイ]]）、ジョン・ハンス・ヨハン・ヨハネス・ジャン・ジョヴァンニ・フアン・ジョアン・イヴァン・ヨアニス・ヤン・ショーン（使徒[[ヨハネ]]）などなど。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、古代ローマ人の名を由来とすることも多い（例：ジュリアス←[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の「ユリウス」の英語読み）。女性については、花などの名前を付けることも多い（例：ローズ←[[バラ]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[:en:Counterparts of given names|Counterparts of given names]]の項(英語)も参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スラブ系の名前 ===&lt;br /&gt;
[[スラヴ人|スラブ]]系の諸民族では個々の民族によって異なるが「名・ミドルネーム・姓」の3つの部分から成りミドルネームは父親の名前を基にして作るという人名の付け方を持つ民族が多く見られる。ここでは一例として[[ロシア語]]名を取り上げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア人の名前をフルネームで表記する時は原語での順序は「名・ミドルネーム・姓」となる。但し公式文書等では「姓,名・ミドルネーム」と書かれる。ミドルネームは'''父称'''（ふしょう）といい父親の名前を基にして作るので性別を同じくする同父兄弟のミドルネームと姓は必ず同一となる。性別を同じくすると特にことわるのは、[[ロシア語]]には[[文法]]上の[[性 (文法)|性]]として男性、中性、女性の三性がありロシア人のミドルネーム・姓は殆ど全ての場合個人の生物学上の性に依って男性形・女性形の異なる語尾を採る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;4&amp;quot; style=&amp;quot;float: right; margin: 0 0 1em 1em; border-collapse: collapse;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ '''ロシア人の父称の付け方'''&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
| align=center rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | '''父の名の語尾'''&lt;br /&gt;
| align=center colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | '''父称'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=center | 男性形&lt;br /&gt;
| align=center | 女性形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| -a/-ja&lt;br /&gt;
| -ich&lt;br /&gt;
| -ichna/-inichna&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| -i/-ji&lt;br /&gt;
| -jevich&lt;br /&gt;
| -jevna&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| （子音）&lt;br /&gt;
| -ovich&lt;br /&gt;
| -ovna&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父称は父親の名前にその語尾の音に応じた適切な語尾を付加して作られる（右表参照）。父称の男性形は男性のミドルネーム・女性形は女性のミドルネームに用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば父の名が1)Ilija（イリヤ）、2)Nikolaji（ニコライ）、3)Ivan（イワン）の三つの場合で父称男性形はそれぞれ1)Iliich（イリイチ）、2)Nikolajevich（ニコラエヴィチ）、3)Ivanovich（イワノヴィチ）となり父称女性形は1)Iliinichna（イリイニシナ）､2)Nikolajevna（ニコラエヴナ）、3)Ivanovna（イワノヴナ）となる。現代では｢-イチ｣の形が多くなっているが、中世までは「-シ｣（「～の息子」という意味合い）という語尾を採る父称が多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
姓の部分は[[形容詞]]の変化に準じて男性形・女性形となる。-skij、-in、-jev、-ov等は地名などについてその場所に帰属する、又は出身である等を示してスラブ人の姓を造る接尾辞であるが、これらは形容詞男性形で対応する形容詞女性形語尾は、-skaja、-ina、-jeva、-ova等となる（-in, -jev, -ovは姓に限らず一般に名詞に付けて物主形容詞を造る接尾辞である）。こうして自分の名がニコライ、姓がカレーニンで父の名がイワンという男性の場合はニコライ・イワノヴィチ・カレーニンが正式なフルネームとなる。この人の姉妹で、アンナという女性の場合は、アンナ・イワノヴナ・カレーニナがフルネームとなる。またストラヴィンスキーなどの姓は女性の場合ストラヴィンスカヤとなる。ロストフ（Rostov）というような姓は女性だとロストワ（Rostova）となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア語以外での人名の規則や傾向についてはロシア語名と異なる部分も少なくないが、基本概念は同じである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===スペイン語圏の名前===&lt;br /&gt;
スペイン語圏では、姓は他の多くの国と同じ様に、基本的に父方から子へと父系相続で伝えられるのが基本となるが、個人の姓名を構成する部分の数は人によって異なる。名が最初に来る点では共通で、それに続く部分は父方の姓と母方の姓の一部または全部からなる。例えば「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」と3つの部分からなる名前がある。あるいは「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓、母方の祖母の姓」と4つまたは5つの部分からなる姓名を持つ場合もある。また、女性は結婚すると「名、父方の祖父の姓、 de+夫の父方の祖父の姓」で名乗るのが一般的となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ポルトガル語圏の名前===&lt;br /&gt;
ポルトガル語圏では、姓名の構成はスペイン語圏によく似ているが、姓名に父方の姓と母方の姓を並称する場合は「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」の語順となり、スペイン語圏と反対である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ドイツの名前===&lt;br /&gt;
18世紀ドイツにおいては、洗礼の際にミドルネームが与えられることがあった。（必ず与えられたわけではない）もしミドルネームが与えられた場合には、その人はそのミドルネームで知られることになり、ファーストネームは余り用いられなかった。しばしば教会の記録などでもファーストネームが省略され、ミドルネームとラストネームだけが用いられた。また、ある一家の男の子達が全員ヨハネスというファーストネームを持つ、というようなこともあった。この場合でも、洗礼と共に各人に別々の名前が与えられ、その名前が用いられるようになるため、問題がなかったとされる。また、女性のファミリーネームを記録する際には元の名前の最後にinを付す習慣があった。（例えば「Hahn」が「Hahnin」と書かれる。）また、一家で最初に生まれた男の子には父方の祖父の名を、一家で最初に生まれた女の子には母方の祖母の名をつけることがしばしば見られた。「花の咲く土地」を意味すると思われる姓Floryに、他にもFlori、Florea、Florey、Flurry、Flury、Florie、など似た姓が数多くある。これはその姓を持っていた人々が文字を書くことができず、名前を発音することはできても綴ることができなかったため、筆記を行った人によって異なる綴りになったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===英語圏の名前===&lt;br /&gt;
英語圏の姓名は多くの場合、3つの構成要素からなる。ファーストネーム、ミドルネーム、ラストネームである。ファーストネームはギブンネーム(given name)とも呼ばれ、ラストネームはサーネーム(surname)、ファミリーネーム (family name)などとも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラストネームは、日本における姓とほぼ同じもので、父系の家系を通じて受け継がれる。稀に、母のラストネームが父のラストネームとハイフンでつながれて子に受け継がれることなどもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミドルネームはファーストネームと同時に親が名付けるもので、多くの場面でイニシャルだけの省略系が用いられる。（ミドルイニシャルと呼ばれる。）稀に、ミドルイニシャルだけを持ち、ミドルネームがない場合もある。[[ハリー・S・トルーマン]]大統領はその一例であり、このようにイニシャルだけを与えることはアメリカ南部に見られた風習だとされる。なお、ミドルネームが無い場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西欧社会では女性は結婚と共にそれまでの姓を夫の姓に換えることが普通であったが、アメリカでは、20世紀中ごろから女性が結婚後も姓を変えない風習がひろまりつつある。また、両者の姓を併記するカップルもいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古代ローマ人の名前 ===&lt;br /&gt;
[[古代ローマ]]の自由人男性の氏名は多くの場合3～4の部分からなっていた。個人の名前、氏族の名前、家族の名前、および添え名である。例えば[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、「ユリウス氏族のカエサル家のガイウス」という名であった。このうち個人名のバリエーションは少なく、20種類ほどに限られていた。また個人名はバリエーションが少ないこともあって略して記されることも少なくない。以下はその対応。&lt;br /&gt;
*[[ガイウス (個人名)|ガイウス]] - C　&lt;br /&gt;
*[[マルクス]] - M &lt;br /&gt;
*ルキウス - L &lt;br /&gt;
*ティトゥス - T&lt;br /&gt;
*[[ティベリウス (個人名)|ティベリウス]] - Ti &lt;br /&gt;
*プブリウス - P&lt;br /&gt;
*クィントゥス - Q&lt;br /&gt;
*デキムス - D&lt;br /&gt;
*グナエウス - Cn&lt;br /&gt;
*アウルス - A&lt;br /&gt;
*ヌメリウス - N（またはNum）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自由人女性には個人名はなく、氏族名の女性形やあだ名で呼ばれていた。例えばクラウディウス氏族の娘はクラウディアと呼ばれ、ユリウス氏族の娘は[[ユリア]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
養子の場合にはもとの姓を家族名の後ろにつけた。例えば、[[オクタウィアヌス]]の場合「ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス」がカエサル家に養子となった後は「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス」となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
沿え名は国家に功績のある場合などに元老院の決議などにより与えられた。多くアフリカヌス、ゲルマニクスなど勲功を上げた土地の名にちなんで与えられた。また出身地の名称からとられることもあった。こうした添え名は一代限りのものも多かったが世襲を許され、家族名として用いられるものもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===オランダの名前===&lt;br /&gt;
[[オランダ]]では前置詞 van を含んだ姓 (surname) が多く見られる。van は英語 of あるいは from の意味を持ち、出身地を示すが、現代ではもともとの意味はほとんど失われている。英語圏で見られるようなミドルネームは持たない。複数の個人名 (given name) を持つこともあるが、日常的に用いるのはそのうちの1つだけであり、ほとんどの場合はファーストネームを使う。そのため大部分の人はファーストネーム・サーネームの組み合わせで広く知られることになるが、フルネームで最も良く認識されている場合もある。貴族の家系では Huyssen van Kattendijke などの[[複合姓]] (double surname) を持つこともあり、この場合 Huyssen はファーストネームではないことに留意する必要がある。[[ナイト]]に対応する称号として ridder が知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ファーストネームが複雑な場合には省略した通称で呼ばれることもあり、例えば Hieronymusch が通称 Jeroen などとなる。大きな契約や結婚、IDカードなど以外には通称を用いるのが普通である。複数の個人名を持っている場合、通称も複数個からなるものを用いることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の国や地域===&lt;br /&gt;
*[[インド]]については、[[インド人の名前]]を参照。&lt;br /&gt;
*[[アイスランド]]では、家系に共通の姓はない。姓名は通常、子供の名と、父の名の語尾に接尾語を加えた名の2つの部分からなる。接尾語は、男の子には息子を意味するソン（son）、女の子には娘を意味するドッティル（dottir）を父の名の後に付すという形をとる。[[電話帳]]では、ファーストネームにより検索することになる。&lt;br /&gt;
*[[トルコ]]では、1934年に導入された創姓法によって、国民全員が姓を持つことが義務付けられた。&lt;br /&gt;
*[[フランス]]ではナポレオン法典によって子供につけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-PaulやJean-Lucのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような状況の中で名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子供に付けられる名前が少なく（アラン、フィリップなど）、同じ名前の人物が多数いるという状況で、苦情が絶えない。&lt;br /&gt;
*[[ギリシャ人]]は長男に父方の祖父の名をつける、などの習慣がある。また「～の息子」を意味する「～プーロス」という姓が用いられることも多い。（例：「ステファノプーロス」=「ステファノスの息子」→ギリシャ系アメリカ人で米TVコメンテーターの[[ジョージ・ステファノポロス]]等が有名）。また古代ギリシャ人では姓は一般化せず、姓が普及したのは有力貴族が成長してきた9世紀の[[東ローマ帝国]]時代以降のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人間以外の名前 ==&lt;br /&gt;
犬や猫などの[[ペット]]には通常、人名と同様の個体固有の名前が与えられる。日本では犬の「ポチ」猫の「タマ」などが比較的典型的な名前として知られている。アメリカでは犬には「Dude」が多い。これらの名前からわかる通り、ペットの名前は人間の名前とは明らかに異なるものである場合も多い。&lt;br /&gt;
だが、最近「ペットは家族の一員」という考えが広まるにつれ、人間と同様の名前をつけるケースも多くなっている、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日本には茶道具、刀剣や船などに人名に類似した固有名をつけてきた伝統があり、今日でも産業用[[ロボット]]にも個体固有の名前を与えることがあるが、これは欧米などに見られないものであるとされる。これは日本人の工場労働者がロボットを敵対視しないため、と説明されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[愛称]]、[[ハンドルネーム|ハンドル]]、[[ラジオネーム]]、[[ペンネーム]]、[[ビジネスネーム]]、[[洗礼名]]、[[通名]]、[[源氏名]]、[[芸名]]、[[二つ名]]、[[戒名]]&lt;br /&gt;
*[[ユダヤ人の姓名]]&lt;br /&gt;
*[[名前]]、[[改名]]、[[呼称]]、[[夫婦別姓]]、[[固有名]]、[[寿限無]]、[[戸籍法]]&lt;br /&gt;
*[[人名一覧]]&lt;br /&gt;
*[[漢風の姓名]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
=== 参考文献 ===&lt;br /&gt;
* 松本脩作・大岩川嫩　『第三世界の姓名 人の名前と文化』、明石書店、1994年　ISBN 4750305790&lt;br /&gt;
* 朝日ジャーナル編　『世界のことば』、朝日新聞社、1991年、125頁（アイスランド人の名前について） ISBN 4022595361&lt;br /&gt;
* 東京外国語大学語学研究所　『世界の言語ガイドブック』(2)「アジア・アフリカ地域」、三省堂、1998年、269頁（ミャンマー人の名前について）　ISBN 438535815X&lt;br /&gt;
*&amp;quot;Names&amp;quot; The New Encyclopaedia Britannica (15th ed.) 2002. Chicago, IL: Encyclopaedia Britannica.&lt;br /&gt;
*&amp;quot;Naming&amp;quot; Encyclopedia of Marriage and the Family. David Levinson (editor in chief, 1995. New York, NY: Simon &amp;amp; Schuster Macmillan&lt;br /&gt;
*&amp;quot;Name&amp;quot; The World Book Encyclopedia. Chicago,IL:World Book Inc.&lt;br /&gt;
* 21世紀研究会 編『人名の世界地図』 文春新書　[[文藝春秋 (出版社)|文藝春秋]] 2001年　ISBN 4166601547&lt;br /&gt;
* 梅田修 『世界人名ものがたり―名前でみるヨーロッパ文化』講談社現代新書　[[講談社]]　1999年 ISBN 4061494376&lt;br /&gt;
* 梅田修 『ヨーロッパ人名語源事典』大修館書店 2000年　ISBN 4469012645&lt;br /&gt;
* 梅田修 『世界人名ものがたり―名前でみるヨーロッパ文化 』講談社現代新書　講談社 1999年　ISBN 4061494376&lt;br /&gt;
* 辻原康夫『人名の世界史』[[平凡社]] 2005年 ISBN 4582852955&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他言語版ウィキペディアの関連項目 ===&lt;br /&gt;
*[[:en:Family Name]]（en）&lt;br /&gt;
*[[:en:Harry S Truman]]（en）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html 全国の苗字（名字）１０万種掲載]&lt;br /&gt;
*[http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/shiro.html 静岡大学人文学部 城岡研究室] - 日本、静岡、沖縄、ドイツの姓についての資料がある&lt;br /&gt;
*[http://www.myshop.co.jp/japancal/fname/name.htm 名字見聞録]&lt;br /&gt;
*[http://park14.wakwak.com/~myj/ 苗字館]&lt;br /&gt;
*[http://www.jetro.go.jp/turkey/middleeast/special/riyadh_arabjinmei.html アラブ人名の由来と正しい呼び方] - [[日本貿易振興会]]（[[ジェトロ]]）リヤド事務所&lt;br /&gt;
*[http://www.awave.or.jp/home/town/cherry/story/06.htm ミャンマー人の名前]&lt;br /&gt;
*[http://www.nhk.or.jp/dig/essay/morimoto/0002.html 流れにのってアニッサ・ミャンマー 0002.もう一度思いを確かめに] 森本綾 &lt;br /&gt;
*[http://www.meijiyasuda.co.jp/ 明治安田生命保険] - 旧明治生命による[[1912年]]以降の名前上位10位の内容がある。&lt;br /&gt;
*[http://homepage2.nifty.com/zatsugaku/zatugaku/000625.html アメリカ人の姓] - 吉祥寺村立雑学大学通信&lt;br /&gt;
*[http://www.laeff.esa.es/~jmaiz/longnames.html Why are some Spanish names so long?]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.com/SiliconValley/Heights/5445/sname.html South Indian Naming Fundas]&lt;br /&gt;
*[http://mlprevention.homestead.com/files/Alert_-_KYC_Naming_Conventions.doc Untitled Document] , James R. Richards in Money Laundering Prevention &amp;amp; Deterrence &lt;br /&gt;
*[http://csssrvr.entnem.ufl.edu/~jhf/kiss15.htm 15. First name, middle initial, last name]&lt;br /&gt;
*[http://freepages.genealogy.rootsweb.com/~florey/names.html German naming practices and Flory/ Flora names]&lt;br /&gt;
*[http://www.encyclopedia.com/html/n1/name.asp Name] - Encyclopedia.com&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書 ==&lt;br /&gt;
*紀田順一郎  『名前の日本史』 文藝春秋　ISBN 4166602675 &lt;br /&gt;
*阿辻哲次 『「名前」の漢字学』日本人の“名付けの由来”をひも解く 青春出版社 ISBN 4413041283&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出典==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:人名|*]]&lt;br /&gt;
[[category:民族|しんめい]]&lt;br /&gt;
[[category:戸籍|しめい]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[br:Anv japanek]]&lt;br /&gt;
[[en:Personal name]]&lt;br /&gt;
[[eo:Persona nomo]]&lt;br /&gt;
[[it:Nome proprio]]&lt;br /&gt;
[[ru:Полное имя]]&lt;br /&gt;
[[sl:Osebno ime]]&lt;br /&gt;
[[sv:Japanska namn]]&lt;br /&gt;
[[zh:人名]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured article}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%B8%82&amp;diff=5771</id>
		<title>八王子市</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%B8%82&amp;diff=5771"/>
				<updated>2007-06-03T08:07:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=八王子市&amp;amp;oldid=12879390&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の市|&lt;br /&gt;
自治体名=八王子市|&lt;br /&gt;
都道府県=東京都|&lt;br /&gt;
支庁=|&lt;br /&gt;
コード=13201-2|&lt;br /&gt;
面積=[[1 E8 m²|186.31]]|&lt;br /&gt;
境界未定=なし|&lt;br /&gt;
人口=542,196|&lt;br /&gt;
人口の時点=2007年5月1日|&lt;br /&gt;
隣接自治体=東京都 [[町田市]]、[[多摩市]]、&amp;lt;br/&amp;gt;[[日野市]]、[[昭島市]]、[[福生市]]、&amp;lt;br/&amp;gt;[[あきる野市]]、[[檜原村]]&lt;br /&gt;
[[神奈川県]][[相模原市]]|&lt;br /&gt;
木=[[イチョウ]]|&lt;br /&gt;
花=[[ヤマユリ]]|&lt;br /&gt;
シンボル名=市の鳥|&lt;br /&gt;
鳥など=[[オオルリ]]|&lt;br /&gt;
郵便番号=192-8501|&lt;br /&gt;
所在地=八王子市元本郷町三丁目24番1号&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;center&amp;gt;[[画像:Hachioji_cityhall_02.JPG|220px|八王子市役所（事務棟10F・議会棟6F）]]&amp;lt;/center&amp;gt;||&lt;br /&gt;
電話番号=042-626-3111|&lt;br /&gt;
外部リンク=[http://www.city.hachioji.tokyo.jp/ 八王子市]|&lt;br /&gt;
経度=東端：東経139度25分48秒&amp;lt;br/&amp;gt;西端：東経139度09分42秒|&lt;br /&gt;
緯度=南端：北緯 35度35分52秒&amp;lt;br/&amp;gt;北端：北緯 35度43分07秒&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
※日本測地系|&lt;br /&gt;
位置画像=[[画像:Map_tokyo_hachioji_city_p01-01.png|thumb|center|200px|八王子市の位置]]|&lt;br /&gt;
特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''八王子市'''（はちおうじし）は、[[東京都]]の島嶼部を除く地域の南西部に位置する[[市]]で、[[中核市]]の要件を満たす、[[多摩地域]]の中心的な市の一つである。国からは[[業務核都市]]、東京都からは[[東京都#多摩の「心(しん)」|多摩の「心（しん）」]]として位置づけられている。人口全国第24位、東京都内では[[特別区]]に次いで第2位、全国の政令指定都市及び候補市（市町村合併の結果人口が70万人を越えた市）を除くと全国第5位の市。[[2007年]][[4月]]に[[保健所政令市]]に移行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]には[[城下町]]、[[江戸時代]]には[[宿場|宿場町]]として栄えたことに加え、多摩地域内で最も早く市制施行したことや[[南多摩郡]]の郡役所所在地であったことから、多摩地域や南多摩地域の中心的都市とみることもできる。また、かつて[[絹織物]]産業・[[養蚕業]]が盛んであったために「'''桑の都'''」および「'''桑都'''（そうと）」という美称があり、[[西行]]の歌にも「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」と詠まれている。国産ネクタイ地の製造シェアは日本一である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
[[画像:八王子市の衛星写真001.jpg|thumb|right|220px|八王子市の{{ランドサット}}]]&lt;br /&gt;
[[画像:Asakawa_tokyo_01.jpg|thumb|right|220px|浅川に架かる萩原橋の上から下流を望む（2003年6月28日）]]&lt;br /&gt;
[[画像:高尾山金比羅台風景001.jpg|thumb|220px|right|高尾山金比羅台から眼下に市街を望む]]&lt;br /&gt;
八王子市は東京都の[[島嶼]]部を除く地域の南西部、都心から約40kmに位置している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市域全体を概観すると、山地・丘陵を三方の周縁とし、東へ流れる[[浅川_(多摩川水系)|浅川]]を中心に、八王子盆地と呼ばれる東にひらけた半[[盆地]]状の複合[[扇状地]]をなしている。かつてその扇状地は[[クワ|桑]]畑として利用されたが、現在では住宅地や工業用地として転用されほとんど見ることができない。西部の山地に源を発する浅川は市の中央部付近で南浅川と合流し市の中心域を流れ、川口川と合流、日野台地のせり出しを受けて東南に下り、山田川、湯殿川と合流して[[日野市]]へと向かう。その他の主要河川である北部の谷地川、南東部の大栗川はそれぞれ市の外で[[多摩川]]に合流する。中心部の標高は海抜100m前後である。（市内最高所は[[醍醐丸]]＝上恩方町、標高862.7m、最低所は大栗川＝大塚、標高63.0m）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世から近世・近代に至るまで東西を走る[[甲州街道]]と、[[川越市|川越]]・[[桐生市|桐生]]・[[日光市|日光]]（[[日光脇往還]]）など関東北西部、[[小田原市|小田原]]・[[鎌倉市|鎌倉]]・[[横浜市|横浜]]（[[浜街道]]）など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であった。とくに[[江戸時代]]には、甲州街道の宿場町として栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在でも、[[国道20号]]（甲州街道）と横浜から川越方面へと向かう[[国道16号]]（東京環状）、そして[[青梅市|青梅]]を経て[[甲府市|甲府]]へ向かう[[国道411号]]（[[滝山街道]]、[[青梅街道]]）の交点である。また、[[中央自動車道]]と[[首都圏中央連絡自動車道]]との交点である[[八王子ジャンクション]]も建設中である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄道輸送においても[[JR]][[中央本線]]と[[横浜線]]・[[八高線]]の交点として、また[[日本貨物鉄道|JR貨物]]八王子総合鉄道部や[[京王電鉄]]の始発駅2駅を抱え、主要拠点となっている。&lt;br /&gt;
{{Wide image|八王子市街地.jpg|1500px|高尾山から見た八王子市街}}&lt;br /&gt;
{{Wide image|Hachioji-nw2.jpg|1500px|八王子市北西部風景}}&lt;br /&gt;
{{Wide image|Hachioji-sw.jpg|1000px|八王子市南西部風景}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地形 ===&lt;br /&gt;
[[関東山地]]の一部である[[高尾山]]や[[陣馬山]]など標高500mから900m弱の山々を西端として、小河川を挟んで[[第四紀]]層の[[上総層群]]で形成されている各丘陵が舌出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、標高200mほどの西部の[[恩方丘陵]]および南部から東南部の[[多摩丘陵]]の西端が関東山地の東縁に連なり、そして北部では多摩川およびその支流の[[秋川_(多摩川水系)|秋川]]と川口川の間に[[加住丘陵]]（標高200m前後）が、北西部には川口川と[[浅川_(多摩川水系)|浅川]]の支流である北浅川との間に[[川口丘陵]]が突き出ている。加住丘陵の東端は標高を下げながら北東部の[[日野台地]]へと続く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市域は[[関東山地]]と[[関東平野]]とを隔てる[[八王子構造線]]に跨っており、その名称の由来ともなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森林面積は8,582haで、市域全体の約46%を占める。[http://www.toukei.maff.go.jp/shityoson/map2/13-01/201/forestry.html 農水省統計]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 気候 ===&lt;br /&gt;
内陸部の小盆地であるため、市の中心部における冬の最低気温は東京都心部に比して5℃ほど低く（最高気温はほぼ同じ）、夏の最高気温は同じく2-3℃ほど高いこともある。1月の平均最低気温は北関東の[[前橋市]]よりも低く、冷え込みが厳しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市内最高気温は39.9℃（[[1997年]]7月5日）。最低気温は-12.0℃（[[1960年]]1月25日）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
''近代以降の行政区域の変遷については[[八王子市#行政区域の変遷（市町村制施行以後）|別項]]を、各時代の詳細については[[八王子市の歴史]]を参照のこと。''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[北条氏照]]が城を築いた[[深沢山]]には、[[牛頭天王]]の八人の[[王子神]]である「八王子権現」が祀られていたため[[八王子城]]と名づけられた。この城名が市名の由来である。八王子城が[[豊臣秀吉]]の[[小田原攻め]]により落城すると、この地方は[[後北条氏]]の旧領全域とともに[[徳川家康]]に与えられた。交通の要衝であるため、江戸を甲州口から守るための軍事拠点としての役割も担った。徳川家康が武田家の遺臣を召抱えて組織した[[八王子千人同心]]の根拠地となったのはそのためである。そして、[[江戸時代]]には関東各地の直轄領（御料）を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の[[大久保長安]]が代官頭をつとめてこの地方の開発および[[甲州街道]]の整備にあたった。その結果八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の[[宿場町]]として、また多摩地区の物資の集散地として栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開国ののち、[[明治維新]]期以降は織物産業が繁栄した。特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは[[群馬県|群馬]]・[[秩父市|秩父]]や[[山梨県|山梨]]・[[長野県|長野]]からも荷が集まり、輸出港である[[横浜港|横浜]]への物流中継地としても機能していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1960年代]]以降は、織物など繊維産業の衰退もあり、かわって[[東京]]の[[衛星都市]]としての機能が求められるようになった。そのため、市の郊外には[[多摩ニュータウン]]などの大規模な住宅団地や、[[北八王子工業団地]]などの工業団地が建設された。また、都心のキャンパスが手狭になった[[大学]]の移転が相次ぎ、学園都市とよばれるようになった。そのため、産学共同研究が近年は盛んである。&lt;br /&gt;
市の西部の[[高尾山]]、[[陣馬山]]などの山々はハイキングコースとして人気があり、また[[中村雨紅]]の生誕地にある『夕焼け小焼け文化農園』なども行楽客を集めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人口 ==&lt;br /&gt;
{{人口統計|code=13201|name=八王子市}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 行政 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Hachioji cityhall 01.jpg|thumb|right|200px|八王子市役所本庁舎&amp;lt;br/&amp;gt;側面には八王子市域の地図がデザインされている。]]&lt;br /&gt;
行財政改革、ごみ有料化の実施などの環境対策、中心市街地の活性化など各種産業の振興が主な行政課題となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行政区域の変遷（市町村制施行以後） ===&lt;br /&gt;
* [[1889年]][[4月1日]] [[神奈川県]][[南多摩郡]]八王子町の成立（[[町村制]]の施行）。&lt;br /&gt;
** 横山村・浅川村・元八王子村・恩方村・川口村・加住村・小宮村・由井村・由木村が成立。&lt;br /&gt;
* [[1893年]]4月1日 [[東京府]]南多摩郡八王子町（[[三多摩]]の東京府移管）。&lt;br /&gt;
* [[1917年]][[9月1日]] 東京府'''八王子市'''（八王子町に[[市制]]施行。全国66番目、多摩地区では初）。&lt;br /&gt;
** [[1927年]][[11月3日]] 浅川村が浅川町に。&lt;br /&gt;
** [[1934年]][[10月1日]] 小宮村が小宮町に。&lt;br /&gt;
* [[1941年]]10月1日 [[小宮町]]を[[市町村合併|編入]]。&lt;br /&gt;
* [[1943年]][[7月1日]] [[東京都]]八王子市（東京都の発足）。&lt;br /&gt;
* [[1955年]]4月1日 [[横山村_(東京都)|横山村]]・[[元八王子村]]・[[恩方村]]・[[川口村_(東京都)|川口村]]・[[加住村]]・[[由井村]]を編入。&lt;br /&gt;
* [[1959年]]4月1日 [[浅川町_(東京都)|浅川町]]を編入。&lt;br /&gt;
* [[1964年]][[8月1日]] [[由木村]]を編入。&lt;br /&gt;
* [[1971年]]4月1日 高月町切欠を[[西多摩郡]][[秋川市|秋多町]]（現[[あきる野市]]）へ編入。同時に秋多町雨間の一部を編入。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴代市長 ===&lt;br /&gt;
（+印は在職中死去）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|初代||柴田榮吉||1917年12月14日||[[1921年]]12月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2||平林定兵衛+||1922年2月16日||[[1925年]]2月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3||武藤文吾||1925年5月26日||[[1929年]]5月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4||秋山文太郎||1929年7月8日||1929年11月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5||城所國太郎||1929年12月11日||[[1933年]]12月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6||杢代龍喜||[[1934年]]1月16日||[[1938年]]1月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7-9||関谷源兵衛||1938年1月22日||[[1942年]]9月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10||深沢友彦||1942年9月1日||[[1945年]]9月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11-14||小林吉之助||1945年10月29日||[[1957年]]2月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|15||野口義造||1957年2月25日||[[1961年]]2月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|16-18||植竹圓次||1961年2月24日||[[1973年]]2月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|19-21||後藤聰一||1973年2月24日||[[1983年]]12月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|22-25||波多野重雄||[[1984年]]1月30日||[[2000年]]1月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|26-27||[[黒須隆一]]||2000年1月29日||現職&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行政機構 ===&lt;br /&gt;
2005年4月1日現在の市職員数（短期契約職員を除く）は3,217人である。職員数は2010年度までに2,897人とすることを目標として削減を進めており、同規模の都市や東京26市の平均と比べると市民1人当たりの職員数は少なくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 市長&lt;br /&gt;
** 収入役&lt;br /&gt;
*** 出納課&lt;br /&gt;
** 助役（2名）&lt;br /&gt;
*** 総合政策部&lt;br /&gt;
*** 行政経営部&lt;br /&gt;
*** 市民活動推進部&lt;br /&gt;
*** 総務部&lt;br /&gt;
*** 財務部&lt;br /&gt;
*** 税務部&lt;br /&gt;
*** 生活安全部&lt;br /&gt;
*** 市民部&lt;br /&gt;
*** 健康福祉部&lt;br /&gt;
*** こども家庭部&lt;br /&gt;
*** 産業振興部&lt;br /&gt;
*** 環境部&lt;br /&gt;
*** まちづくり計画部&lt;br /&gt;
*** まちなみ整備部&lt;br /&gt;
*** 道路事業部&lt;br /&gt;
*** 下水道部&lt;br /&gt;
*** 水道部&lt;br /&gt;
** 固定資産評価員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 市役所事務所 ===&lt;br /&gt;
* 中央部：八王子駅前事務所&lt;br /&gt;
* 東南部：北野事務所・由井事務所&lt;br /&gt;
* 西南部：横山事務所・館事務所・浅川事務所&lt;br /&gt;
* 西部：元八王子事務所・川口事務所・恩方事務所&lt;br /&gt;
* 北部：加住事務所・石川事務所&lt;br /&gt;
* 東部：南大沢事務所・由木事務所・由木東事務所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 財政 ===&lt;br /&gt;
2005年度の当初予算規模は約3,160億円である。1995年度をピークに不況による税収の減少が続いているが、人員削減・経費の抑制・債務返済などの効果もあり、2005年度決算では約24億円程度の黒字であった。市債残高は2005年度末時点で2,735億円となりピークであった2000年度の3,184億円から449 億円減少している。単年度の歳入における地方債依存度は年々低下し、2005年度では4.0%であった。市債の発行目的は主に小中学校の校舎建設や[[都市計画]]事業、住民税の減税補填の費用であった。施設整備などの投資的経費の減少により地方債の発行が抑制されたため、2002年度の歳入に占める自主財源の比率は63.0%である。また、一般財源の比率は68.4%であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年度の[[ラスパイレス指数]]は105.0で指定都市を除く全市区町村の中では8番目に高く、東京26市の中では7番目に高かったが、給与の引き下げなどの対策によって2005年度は101.8で全国でも20位となった。2005年度決算における歳出に対する人件費比率は20.3%で、年々縮減される傾向にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、2006年度の当初予算規模は次のようになっている。&lt;br /&gt;
* 一般会計:1,596億円&lt;br /&gt;
* 特別会計:1,649億円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 広域行政 ===&lt;br /&gt;
* 東京都十一市競輪事業組合 - 武蔵野、青梅、昭島、調布、町田、小金井、小平、日野、東村山、国分寺および本市の11市で[[京王閣競輪場|京王閣競輪]]を開催している。&lt;br /&gt;
* [[東京都六市競艇事業組合]] - 昭島、武蔵野、町田、小金井、調布、および本市の6市で[[江戸川競艇場|江戸川競艇]]を開催している。&lt;br /&gt;
* 東京たま広域資源循環組合 - 日の出町にある「二ツ塚廃棄物広域処分場」を運営している。多摩地域のあきる野市、奥多摩町、日の出町、檜原村を除く25市1町で構成される。&lt;br /&gt;
* 多摩ニュータウン環境組合 - 町田、多摩、および本市の3市で「''多摩清掃工場''」を運営している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行政機関 ===&lt;br /&gt;
==== 警察 ====&lt;br /&gt;
* [[警視庁]][[交通機動隊|第九交通機動隊]]&lt;br /&gt;
* [[八王子警察署]]&lt;br /&gt;
* [[高尾警察署]] - 警視庁100番目の警察署として1995年3月1日に開署。市西部の元八王子、恩方、浅川、横山、館地区を管轄とする。&lt;br /&gt;
* 八王子市南大沢1丁目に新署建設計画が進行中。この警察署は八王子市の由木・由木東地区（いわゆる多摩ニュータウン地域）と町田市北西部を管轄する予定となっている。仮称は「[[多摩西警察署]]」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 消防 ====&lt;br /&gt;
消防は市町村の責任業務であるが、本市は多摩地区の多くの自治体と同様に[[東京消防庁]]へ業務を委託している。以前は多摩地区は全域が第8方面に等しかったが、1990年に第9方面が新設、方面本部は本市の小宮出張所に置かれた。&lt;br /&gt;
* 第九消防方面本部（石川町2099-4）&lt;br /&gt;
** 八王子消防署（大横町1-4）特別・山岳兼務救助隊・救急隊2&lt;br /&gt;
*** 由木分署（下柚木542-8）救急隊1※[[2006年]][[4月1日]]付で出張所から昇格&lt;br /&gt;
**** 富士森出張所（台町1-25-5）救急隊1&lt;br /&gt;
**** 元八王子出張所（大楽寺町366-1）救急隊1&lt;br /&gt;
**** 小宮出張所（石川町2099-4）救急隊1&lt;br /&gt;
**** 浅川出張所（東浅川町882-2）消防活動二輪部隊・救急隊1&lt;br /&gt;
**** 北野出張所（北野町575-1）[[東京消防庁#特別消火中隊_(A-one)|特別消火中隊]]・救急隊2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 八王子市南大沢3丁目に新署建設計画がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 郵便（日本郵政公社） ====&lt;br /&gt;
* 集配局&lt;br /&gt;
** 八王子郵便局&lt;br /&gt;
** 八王子西郵便局&lt;br /&gt;
** 八王子南郵便局&lt;br /&gt;
** 恩方郵便局（集配特定局）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国・都の行政機関 ===&lt;br /&gt;
前出のものを除く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 国の機関 ====&lt;br /&gt;
* [[財務省_(日本)|財務省]][[国税庁]]東京国税局八王子税務署&lt;br /&gt;
* [[国土交通省]]相武国道事務所&lt;br /&gt;
* 国土交通省八王子国道出張所&lt;br /&gt;
* [[厚生労働省]]東京労働局八王子労働基準監督署&lt;br /&gt;
* 厚生労働省東京労働局八王子公共職業安定所（ハローワーク）&lt;br /&gt;
* 厚生労働省[[社会保険庁]]東京社会保険事務局八王子社会保険事務所&lt;br /&gt;
* [[農林水産省]]関東森林管理局高尾森林センター&lt;br /&gt;
* 農林水産省[[林野庁]]森林技術総合研修所&lt;br /&gt;
* [[内閣府]][[宮内庁]]多摩陵墓監区事務所&lt;br /&gt;
* [[自動車検査独立行政法人]]関東検査部八王子事務所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[都市再生機構]]東日本支社南八王子開発事務所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人都市再生機構都市住宅技術研究所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[国際協力機構]]八王子国際センター&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[産業技術総合研究所]]バイオニクス研究センター八王子サイト 東京工科大学内&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[森林総合研究所]]多摩森林科学園&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[労働者健康福祉機構]]高尾みころも霊堂管理事務所&lt;br /&gt;
* 独立行政法人[[国立高等専門学校機構]]本部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 都の機関 ====&lt;br /&gt;
* 主税局八王子都税事務所&lt;br /&gt;
* 主税局八王子自動車税事務所&lt;br /&gt;
* 建設局南多摩西部建設事務所&lt;br /&gt;
* 産業労働局八王子労政事務所&lt;br /&gt;
* 産業労働局労働相談情報センター八王子事務所（八王子労政会館）&lt;br /&gt;
* 産業労働局森林事務所浅川林務出張所&lt;br /&gt;
* 水道局多摩水道改革推進本部南多摩西部事務所（建設中）&lt;br /&gt;
* 下水道局八王子水再生センター&lt;br /&gt;
* 都立産業技術研究所八王子庁舎（旧・都立繊維工業試験場）&lt;br /&gt;
* 都立小宮公園管理事務所&lt;br /&gt;
* 都立八王子霊園管理事務所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 立法 ==&lt;br /&gt;
=== 市議会 ===&lt;br /&gt;
八王子市議会は定数40人。2007年の[[統一地方選挙]]では、保守系候補が15人当選し、議会内会派・新政会を組織している。&lt;br /&gt;
新政会は[[公明党]]とともに、市長に対し与党的立場を取っている。与党25議席対野党15議席となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市議会議長は飯沢俊一（いいざわしゅんいち 選出日:2005年6月9日）で、市議会議員（任期満了日:2007年4月30日）の数は40となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
定例会の初日には、議場で20分間のミニコンサートが開かれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 会派の構成 ====&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!会派名!!議席数!!代表者&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[自民党]]新政会||align=&amp;quot;right&amp;quot;|15||水野淳&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|八王子市議会公明党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|10||市川潔史&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[民主党_(1996-)|民主党]]・無所属クラブ||align=&amp;quot;right&amp;quot;|6||上原洋&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本共産党]]八王子市議会議員団||align=&amp;quot;right&amp;quot;|5||山口和男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[生活者ネットワーク]]・[[社会民主党_(日本)#社会民主党(1996年)|社会民主党]]||align=&amp;quot;right&amp;quot;|3||井上睦子&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|諸派||align=&amp;quot;right&amp;quot;|1||(陣内泰子)&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
公明党の議席占有率が25%と高く、同党(つまり、[[創価学会]])の地盤が強いといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 市議会の組織 ====&lt;br /&gt;
議会運営委員会の他、常任委員会と特別委員会がそれぞれ4つ設置されている。また、3月定例会では予算等審査特別委員会が、9月定例会では決算審査特別委員会が開かれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[議会運営委員会]]&lt;br /&gt;
* 常任委員会&lt;br /&gt;
** 総務企画&lt;br /&gt;
** 厚生水道&lt;br /&gt;
** 文教経済&lt;br /&gt;
** 都市建設&lt;br /&gt;
* 特別委員会&lt;br /&gt;
** ニュータウン対策&lt;br /&gt;
** 交通対策&lt;br /&gt;
** 中心市街地対策&lt;br /&gt;
** 少子・高齢化対策&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京都議会議員 ===&lt;br /&gt;
本市でひとつの選挙区（八王子市選挙区）をなす。その定数は'''5'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2001年]][[6月]]の選挙では、自民党新人の候補が全選挙区中第3位の得票で当選、自民2議席と[[公明党|公明]]・[[日本共産党|共産]]・[[民主党_(1996-)|民主]]の各党で1議席ずつを分け合った。&lt;br /&gt;
* 2005年7月 最終投票率：'''43.99%'''&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東村くにひろ||当選||公明||53,626&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|相川ひろし||当選||民主||34,302&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清水ひで子||当選||共産||31,316&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|石森たかゆき||当選||自民||28,456&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|串田克巳||当選||自民||25,447&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|佐久間ひろ子||落選||[[東京・生活者ネットワーク]]||19,095&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|坂口ゆきたか||落選||無所属||2,744&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 2001年6月 最終投票率：'''53.71%'''&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|萩生田光一||当選||自民||53,822&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東村邦浩||当選||公明||49,379&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清水ひで子||当選||共産||29,307&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|串田克巳||当選||自民||23,759&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|相川博||当選||民主||23,716&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|五十嵐ゆきこ||落選||[[社会民主党_(日本)#社会民主党(1996年)|社民]]||14,242&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[佐野美和]]||落選||無所属||13,604&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|上島よしとも||落選||[[自由党_(日本)#自由党 (日本 1998-2003)|自由]]||10,280&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国会議員 ===&lt;br /&gt;
[[衆議院]]小選挙区では本市で[[東京都第24区|東京24区]]をなす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1996年]][[10月]]の新制度による選挙以来、現職候補が当選しないというジンクスがあったが、[[2005年]][[9月]]の総選挙では、現職の[[自由民主党_(日本)|自民党]]候補が現職（前回は比例復活当選）の[[民主党_(1996-)|民主党]]候補を破って再選した。敗れた民主党候補は[[比例代表]]の復活当選を果たせなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 2003年11月（[[第43回衆議院議員総選挙]]）最終投票率：60.09%&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[萩生田光一]]||当||自民||108,843&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[阿久津幸彦]]||比||民主||106,733&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|藤本実||||共産||21,407&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|石橋薫||||無所属||8,762&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 2005年9月（[[衆議院議員総選挙]]）最終投票率：66.78%&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!候補者名!!当落!!政党!!得票&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[萩生田光一]]||当||自民||150,552&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|阿久津幸彦||||民主||106,459&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|長谷川あきら||||共産||26,233&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 司法 ==&lt;br /&gt;
明神町に、多摩地域全域を管轄している東京地方裁判所八王子支部、東京地方検察庁八王子支部、東京家庭裁判所八王子支部、および府中刑務所八王子拘置支所が隣接して所在する。[[2008年]]を目処に、これらを立川市に移転するとの方針が国から提示されている。なお、跡地には東京法務局八王子支局をはじめとした合同庁舎が設置される予定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 司法機関 ===&lt;br /&gt;
* 東京[[地方裁判所]]八王子支部（明神町）&lt;br /&gt;
* 東京[[地方検察庁]]八王子支部（明神町）&lt;br /&gt;
* 東京[[家庭裁判所]]八王子支部（明神町）&lt;br /&gt;
* [[法務省]]東京[[法務局]]八王子支局（南大沢）&lt;br /&gt;
* [[府中刑務所]]八王子拘置支所（明神町）&lt;br /&gt;
* [[八王子医療刑務所]]（子安町）&lt;br /&gt;
* 多摩[[少年院]]（緑町）&lt;br /&gt;
* 八王子[[少年鑑別所]]（中野町）&lt;br /&gt;
* 東京婦人補導院（中野町）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
=== 産業 ===&lt;br /&gt;
[[産業#分類|第3次産業]]が、事業所数・従業者数ともに全体の約8割を占める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[北八王子工業団地]]には、各種計測機器などの精密機器製造業の他、交通の利便性により、各社の物流拠点がある。北八王子工業団地のほかには、浅川工業団地、狭間工業団地、八王子繊維工業団地、下恩方工業団地、美山工業団地、北野工業団地がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
機業地であった歴史を受け継ぎ、絹織・ニット製品・染色業などの工場も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中心市街地では、大型小売店舗の撤退・中小小売店舗の閉店により、活性化が求められている。&lt;br /&gt;
現在では、鉄道沿線の市区（新宿区・立川市・町田市など）や市郊外の大型小売店舗に買い物客が流れている傾向がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主な産業 ====&lt;br /&gt;
（産業別事業所数上位5位まで。カッコ内は構成比。2001年10月1日現在）&lt;br /&gt;
# 卸売・小売業、飲食店 7,681 (40.3%)&lt;br /&gt;
# サービス業 5,648 (29.7%)&lt;br /&gt;
# 製造業 1,947 (10.2%)&lt;br /&gt;
# 建設業 1,905 (10.0%)&lt;br /&gt;
# 不動産業 984 (5.2%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 産業人口 ====&lt;br /&gt;
（産業別就業者数上位5位まで、単位・人。カッコ内は構成比。2001年10月1日現在）&lt;br /&gt;
# サービス業 73,987 (34.9%)&lt;br /&gt;
# 卸売・小売業、飲食店 66,041 (31.2%)&lt;br /&gt;
# 製造業 34,032 (16.1%)&lt;br /&gt;
# 建設業 13,520 (6.4%)&lt;br /&gt;
# 運輸・通信業 10,680 (5.0%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 農林漁業 ====&lt;br /&gt;
農家の戸数は 1,529 戸で、販売農家と自給農家の比率はほぼ同じである。[[八王子市農業協同組合]]（JA八王子）が、八王子市全域の[[農協]]業務を執り行っている。&lt;br /&gt;
東京都にある[[養蚕]]農家 23 戸のうち 10 戸が八王子市にある。&lt;br /&gt;
西部の山地・丘陵の農地では、サル・イノシシなどの獣害対策が課題となっており、ボランティアによる駆除活動が行なわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農業粗生産額は 27 億円である。内訳は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
# 生乳 (15.2%)&lt;br /&gt;
# ほうれんそう (9.0%)&lt;br /&gt;
# 小松菜 (7.8%)&lt;br /&gt;
# 鉢物類（花卉） (6.9%)&lt;br /&gt;
# 大根 (6.1%)&lt;br /&gt;
# その他 (55.0%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農地面積は 957ha（市域全体の約 5.1%）で、内訳は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
# 畑 629ha(65.7%)&lt;br /&gt;
# 樹園 245ha(25.6%)&lt;br /&gt;
# 田 83ha(8.67%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浅川上流（上恩方・西寺方町）にはマス釣場があり、[[ニジマス]]・[[ヤマメ]]の遊漁が可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 工業 ====&lt;br /&gt;
[[明治時代|明治期]]以降、繊維工業が隆盛したが、第二次世界大戦後、[[1960年代]]ごろから次第にその数を減らした。しかし現在でも絹織・ニット製品・染色業などの工場が市内に 140（2000年現在）あり、海外の高級ブランド製品の委託生産や、地域ブランド化など、製品の差別化によってその付加価値を高めようしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1970年代]]以後、工業団地の造成にともない、電気機械・精密機器製造業の比重が高まり、関連する中小の企業も市内各地に点在している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]の工業事業所数は 1,714 、従業員数は 26,391 人、製品出荷額は約 7,892 億円である。&lt;br /&gt;
それぞれの上位5位までの業種と比率は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 工業事業所数 =====&lt;br /&gt;
# 電気機械器具 339(19.8%)&lt;br /&gt;
# 一般機械器具 278(16.2%)&lt;br /&gt;
# 金属製品 176(10.3%)&lt;br /&gt;
# 繊維工業 140(8.2%)&lt;br /&gt;
# プラスチック製品 127(7.4%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 工業従業員数 =====&lt;br /&gt;
（単位：人）&lt;br /&gt;
# 電気機械器具 9,310(35.3%)&lt;br /&gt;
# 一般機械器具 4,646(17.6%)&lt;br /&gt;
# 食料品 1,760(6.7%)&lt;br /&gt;
# 出版印刷関連 1,497(5.7%)&lt;br /&gt;
# プラスチック製品 1,490(5.7%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 工業製品等出荷額 =====&lt;br /&gt;
（単位：万円）&lt;br /&gt;
# 電気機械器具 31,459,795(39.9%)&lt;br /&gt;
# 一般機械器具 19,468,689(24.7%)&lt;br /&gt;
# 化学工業 7,831,992(9.9%)&lt;br /&gt;
# 出版印刷関連 3,561,241(4.5%)&lt;br /&gt;
# プラスチック製品 2,436,606(3.0%)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主な企業 ====&lt;br /&gt;
===== 製造業 =====&lt;br /&gt;
* [[アジレントテクノロジー]]（日本本社。[[半導体]]部品・生化学分析機器）&lt;br /&gt;
* [[沖電気工業]]（八王子事業所。研究技術開発）&lt;br /&gt;
** [[多摩沖電気]]（本社・工場。[[集積回路|IC]]性能計測など）&lt;br /&gt;
* [[オリンパス]]（八王子事業所。研究技術開発）&lt;br /&gt;
* [[カシオ計算機]]（八王子研究所）&lt;br /&gt;
* [[ケンウッド]]（本社・八王子事業所）&lt;br /&gt;
* [[コニカミノルタ]]（東京サイト八王子。コピー機、光学レンズ、医療用・印刷機器用フィルム製造）&lt;br /&gt;
* [[東京精密]]（八王子工場。計測機器・半導体製造機械）&lt;br /&gt;
* [[トヨタ自動車]]（東京デザイン研究所。デザイン研究開発、トヨタ東京整備専門学校）&lt;br /&gt;
* [[日本ヒューレット・パッカード]]（八王子事業所）&lt;br /&gt;
* [[蛇の目ミシン工業]]（八王子事業所）&lt;br /&gt;
* [[三省堂]]印刷（本社・工場）&lt;br /&gt;
* [[日本ビクター]]（八王子工場）&lt;br /&gt;
* [[HOYA]]（八王子工場）&lt;br /&gt;
* [[佐藤製薬]]（八王子工場）&lt;br /&gt;
* [[フジタ製薬]]（東京工場）&lt;br /&gt;
* [[日本水産]]（八王子総合工場）&lt;br /&gt;
* [[日本分光]]（本社。計測機器）&lt;br /&gt;
* [[中央電子]]（本社。電子機器）&lt;br /&gt;
* [[スリーボンド]]（本社。化学・自動車関連）&lt;br /&gt;
* [[東京特殊車体]]&lt;br /&gt;
* [[アラジン]]ジャパン（日本本社。ソフトウェア開発）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 物流拠点 =====&lt;br /&gt;
* [[東日本旅客鉄道]]（JR東日本）（八王子支社）&lt;br /&gt;
* [[日本貨物鉄道]]（JR貨物）（八王子総合鉄道部）&lt;br /&gt;
* [[中日本高速道路]]（八王子支社・八王子管理事務所）&lt;br /&gt;
* [[花王]]ロジスティクス東京&lt;br /&gt;
* [[日本アムウェイ]]（八王子流通センター）&lt;br /&gt;
* [[日本通運]]&lt;br /&gt;
* [[西濃運輸]]&lt;br /&gt;
* [[福山通運]]&lt;br /&gt;
* [[日本図書輸送]]（八王子営業所）&lt;br /&gt;
* 中央[[ヤクルト]]物流（東京営業所）&lt;br /&gt;
* [[日本オイルターミナル]]&lt;br /&gt;
* [[八王子総合卸売センター]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 量販店 =====&lt;br /&gt;
* [[村内ファニチャーアクセス]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[セキド]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[ムラウチ]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[くまざわ]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[九州屋]]（本社）&lt;br /&gt;
* [[スーパーアルプス]]（本社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 健康・福祉・子育て・衛生 ==&lt;br /&gt;
2004年1月1日現在、市民の平均年齢は41.03歳である。[[2003年]]度の高齢者人口は81,879人で、総人口比は15.56%である。うち[[独居老人]]は5,440人、寝たきり人口は732人である。独居老人は漸増傾向にあるが、寝たきり人口は減少している。2004年1月1日現在、市内最高齢者は男103歳、女107歳である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 健康・福祉・子育て施設 ===&lt;br /&gt;
* 財団法人&lt;br /&gt;
** 社会保険八王子健康管理センター&lt;br /&gt;
** とうきょう社会保険センター八王子&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** 八王子小児病院（2007年度に廃止予定）&lt;br /&gt;
** 八王子授産場&lt;br /&gt;
** 八王子児童相談所&lt;br /&gt;
** 八王子少年センター&lt;br /&gt;
** 甲ノ原少年心理相談センター&lt;br /&gt;
** 八王子生活実習所&lt;br /&gt;
** 八王子福祉作業所&lt;br /&gt;
** 八王子福祉園&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** 八王子市保健所&lt;br /&gt;
** 保健センター&lt;br /&gt;
** 大横福祉センター&lt;br /&gt;
** 東浅川保健福祉センター&lt;br /&gt;
** 南大沢保健福祉センター&lt;br /&gt;
** 地域子ども家庭支援センター&lt;br /&gt;
*** 生涯学習センター内・みなみ野・元八王子・南大沢・館・石川&lt;br /&gt;
** 包括介護支援センター&lt;br /&gt;
*** ゆうゆう（大和田町）・高尾・左入・中野・南大沢・めじろ（めじろ台）・長沼・川口・元八王子・片倉・堀之内・長房&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中核病院 ===&lt;br /&gt;
* [[東京医科大学]]八王子医療センター&lt;br /&gt;
* [[東海大学]]医学部付属八王子病院&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 清掃・衛生施設 ===&lt;br /&gt;
* 戸吹清掃事業所&lt;br /&gt;
** 戸吹清掃工場&lt;br /&gt;
** 戸吹不燃物処理センター&lt;br /&gt;
* 館清掃事業所&lt;br /&gt;
** 館清掃工場&lt;br /&gt;
* 北野衛生事業所&lt;br /&gt;
** 北野清掃工場&lt;br /&gt;
** 北野衛生処理センター（下水）&lt;br /&gt;
* 南大沢清掃事業所&lt;br /&gt;
** 多摩ニュータウン環境組合多摩清掃工場（多摩市）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教育 ==&lt;br /&gt;
[[1960年代]]後半以降、大学の移転が相次ぎ、学園都市として整備されている。[[1980年代]]以降、図書館・文化ホールなどの社会教育施設の整備が進んだが、市の行財政改革により、施設の仕様や、運営の見直しが進んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校教育 ===&lt;br /&gt;
市の郊外にあたる丘陵地帯には[[大学]]が点在し、市内および隣接境界地域を含めると23の大学・短期大学・高等専門学校がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[小泉純一郎|小泉]]内閣が進めた[[構造改革特別区域]]構想にともない、[[2003年]][[4月21日]]、「[[不登校]]児童・生徒のための体験型学校特区」に認定され、[[2004年]][[4月]]、[[小中一貫校]]である[[東京都八王子市立高尾山学園]]が開校した。加えて[[2005年]][[11月22日]]、「情報産業人材育成特区」にも認定され、[[2006年]][[7月]]、株式会社立[[デジタルハリウッド大学]]八王子制作スタジオが開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2004年4月から、市立の小学校・中学校に学校選択制度が導入された。小学校では指定校と隣接校から、中学校は市内全域のすべての学校から、通学する学校を選択することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 小学校 =====&lt;br /&gt;
八王子市内には2007年4月現在、70の小学校があり、そのすべては市立である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 第六小学校には、市立小学校に在籍する帰国児童・外国人児童を対象に、日本語学級が開設されている。&lt;br /&gt;
各小学校名については[[八王子市立の小学校一覧]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
* 2007年4月には八王子市立みなみ野君田小学校が開校した。 （児童数増加の為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 中学校 =====&lt;br /&gt;
市立第五中学校には、都内在住・在勤の、[[学齢]]を越えた[[義務教育]]未修了者を対象に[[中学校#夜間学級（夜間中学校）|夜間学級]]が開設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 市立（37校）&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;margin-left:30px;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 第一中学校&lt;br /&gt;
* 第二中学校&lt;br /&gt;
* 第三中学校&lt;br /&gt;
* 第四中学校&lt;br /&gt;
* 第五中学校&lt;br /&gt;
* 第六中学校&lt;br /&gt;
* 第七中学校&lt;br /&gt;
* ひよどり山中学校&lt;br /&gt;
* 甲ノ原中学校&lt;br /&gt;
* 石川中学校&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 横山中学校&lt;br /&gt;
* 長房中学校&lt;br /&gt;
* 館中学校&lt;br /&gt;
* 椚田中学校&lt;br /&gt;
* 元八王子中学校&lt;br /&gt;
* 四谷中学校&lt;br /&gt;
* 横川中学校&lt;br /&gt;
* 城山中学校&lt;br /&gt;
* 恩方中学校&lt;br /&gt;
* 川口中学校&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 楢原中学校&lt;br /&gt;
* 加住中学校&lt;br /&gt;
* 由井中学校&lt;br /&gt;
* 打越中学校&lt;br /&gt;
* みなみ野中学校&lt;br /&gt;
* 七国中学校&lt;br /&gt;
* 浅川中学校&lt;br /&gt;
* 陵南中学校&lt;br /&gt;
* 由木中学校&lt;br /&gt;
* 松が谷中学校&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
* 中山中学校&lt;br /&gt;
* 南大沢中学校&lt;br /&gt;
* 宮上中学校&lt;br /&gt;
* 別所中学校&lt;br /&gt;
* 上柚木中学校&lt;br /&gt;
* 松木中学校&lt;br /&gt;
* 鑓水中学校&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** 高校と併設のものは高校の項にまとめて記す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 高校 =====&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子工業高等学校|八王子工業高等学校]]（1887年3月-2010年3月閉校予定≪八王子織物染色講習所≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立南多摩高等学校|南多摩高等学校]]（1908年5月-≪東京府立第四高等女学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立第二商業高等学校|第二商業高等学校]]（1920年4月-2010年3月閉校予定≪東京府立第二商業学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立富士森高等学校|富士森高等学校]]（1941年4月-≪東京府八王子市立高等女学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子東高等学校|八王子東高等学校]]（1976年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子北高等学校|八王子北高等学校]]（1978年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立松が谷高等学校|松が谷高等学校]]（1981年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立翔陽高等学校|翔陽高等学校]]（2005年4月-） - 館高跡地に開校&lt;br /&gt;
* ''開校予定の都立''&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子桑志高等学校|八王子桑志高等学校]]（2007年4月開校予定- 八王子工業高敷地内に開設）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子拓真高等学校|八王子拓真高等学校]]（2007年4月開校予定-第二商業高敷地内に開設）&lt;br /&gt;
* ''閉校した都立''&lt;br /&gt;
** [[東京都立館高等学校|館高等学校]]（1979年4月-2004年3月）&lt;br /&gt;
** [[東京都立八王子高陵高等学校|八王子高陵高等学校]]（1989年4月-2004年3月）&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[八王子実践中学校・高等学校]]（1926年4月-≪八王子和洋裁縫女学院≫）&lt;br /&gt;
** [[八王子高等学校]]（1928年4月-≪多摩勤労中学≫）&lt;br /&gt;
** [[帝京大学中学校・高等学校]]（1959年4月-≪帝京商工高等学校≫）&lt;br /&gt;
** [[東京純心女子中学校・高等学校]]（1964年4月-）&lt;br /&gt;
** [[工学院大学附属中学校]][[工学院大学附属高等学校|高等学校]]（1967年4月-）&lt;br /&gt;
** [[共立女子第二中学校・高等学校]]（1970年4月-）&lt;br /&gt;
** [[聖パウロ学園高等学校]]（1972年4月-）&lt;br /&gt;
** [[帝京八王子中学校・高等学校]]（1979年4月-）&lt;br /&gt;
** [[明治大学付属中野八王子中学校・高等学校]]（1984年4月-）&lt;br /&gt;
** [[穎明館高等学校|穎明館中学校・高等学校]]（1985年4月-）&lt;br /&gt;
** 早稲田大学系属[[早稲田実業学校]][[王貞治]]記念グラウンド&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 高等専門学校 =====&lt;br /&gt;
* 国立&lt;br /&gt;
** [[東京工業高等専門学校]]（1965年4月）&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[サレジオ工業高等専門学校]]（2005年4月） - 主な部分は[[町田市]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 短期大学 =====&lt;br /&gt;
* [[帝京大学短期大学]]（1965年4月-）&lt;br /&gt;
* [[共立女子短期大学]]（1979年4月-）&lt;br /&gt;
* [[創価女子短期大学]]（1985年4月-）&lt;br /&gt;
* [[山野美容芸術短期大学]]（1992年4月-）&lt;br /&gt;
* [[ヤマザキ動物看護短期大学]]（2004年4月-）&lt;br /&gt;
* ''撤退した短期大学''&lt;br /&gt;
** [[戸板女子短期大学]]八王子キャンパス（1966年4月-2004年3月） - 現在は[[工学院大学]]へ一部を残して売却。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 大学 =====&lt;br /&gt;
* [[工学院大学]]八王子キャンパス（1963年4月-）&lt;br /&gt;
* [[明星大学]]日野キャンパス（1964年4月-） - 主な部分は[[日野市]]&lt;br /&gt;
* [[帝京大学]]八王子キャンパス（1965年4月-）- 主な部分は[[多摩市]]和田&lt;br /&gt;
* [[東京造形大学]]（1966年4月-・1993年4月-現在地へ移転）&lt;br /&gt;
* [[東京純心女子大学]]（1967年4月-）&lt;br /&gt;
* [[杏林大学]]八王子キャンパス（1970年4月-）&lt;br /&gt;
* [[多摩美術大学]]八王子キャンパス（1971年4月-）&lt;br /&gt;
* [[創価大学]]（1971年4月-）&lt;br /&gt;
* [[東京薬科大学]]（1976年4月-）&lt;br /&gt;
* [[拓殖大学]]八王子キャンパス（1977年4月-）&lt;br /&gt;
* [[中央大学]]多摩キャンパス（1978年4月-）&lt;br /&gt;
* [[日本文化大学]]（1978年4月-）&lt;br /&gt;
* [[共立女子大学]]八王子キャンパス（1979年4月-2007年4月） - 2007年4月から東京都[[千代田区]]の神田校舎に一本化される予定。&lt;br /&gt;
* [[法政大学]]多摩キャンパス（1984年4月-） - 主な部分は[[町田市]]&lt;br /&gt;
* [[東京家政学院大学]]町田キャンパス（1984年4月-） - 町田市内だが、市境界に近く最寄り駅も市内である。&lt;br /&gt;
* [[東京工科大学]]八王子キャンパス（1986年4月-）&lt;br /&gt;
* [[首都大学東京]][[南大沢キャンパス]]（2004年4月-）&lt;br /&gt;
** [[東京都立大学]]（1991年4月-2011年3月） - 現在募集を停止し、新入生は首都大学東京で受け入れている。在学生は原則として卒業まで都立大に在籍するため、2011年まで存続予定。&lt;br /&gt;
* [[東京農工大学]]農学部附属広域都市圏・フィールドサイエンス教育研究センター・フィールド・ミュージアム多摩丘陵（旧・波丘地利用実験実習施設）&lt;br /&gt;
* [[デジタルハリウッド大学]]八王子制作スタジオ - 旧市立三本松小学校跡地。本市が「情報産業人材育成特区」に指定されたことから開校。&lt;br /&gt;
* ''撤退した大学''&lt;br /&gt;
** [[国学院大学]]八王子キャンパス（1967年4月-1991年3月）&lt;br /&gt;
** [[テンプル大学]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== その他の学校 =====&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** [[東京都八王子市立高尾山学園|高尾山学園]] - 不登校児童・生徒のための小中一貫校。&lt;br /&gt;
** 看護専門学校&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** 八王子[[養護学校]]&lt;br /&gt;
** 八王子東養護学校&lt;br /&gt;
** 南大沢学園養護学校&lt;br /&gt;
** 八王子[[盲学校]]&lt;br /&gt;
** 八王子技術専門校&lt;br /&gt;
* その他&lt;br /&gt;
** 大竹高等家政学校&lt;br /&gt;
** 東京高尾看護専門学校&lt;br /&gt;
** トヨタ東京整備専門学校&lt;br /&gt;
** 日本工学院八王子専門学校&lt;br /&gt;
** 萠愛調理師専門学校&lt;br /&gt;
** 多摩藤倉学園&lt;br /&gt;
** パラッツオ・スピネッリ芸術修復学院東京校・ランビエンテ修復芸術学院（[[フィレンツェ]]にある美術作品修復技術専門学校の日本校）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 社会教育 ===&lt;br /&gt;
行財政改革により、市立の社会教育施設の一部は財団法人八王子市学園都市文化ふれあい財団が運営している。また、2004年9月に「だれもがいつでも多様に学び豊かな文化を育むまち」をスローガンに、八王子市域23の大学・短期大学・高等専門学校・企業と連携し、単位・学位の取得ができる「八王子学園都市大学（いちょう塾）」が開学した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年代]]以後に設立された施設は、その大半が複合施設となっており、一部は商業施設と共用している。&lt;br /&gt;
[[1962年]]開館の市民会館は、施設の老朽化により、八王子駅南口再開発ビルへの移転・新築が決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2003年]]10月、隣接する神奈川県津久井郡相模湖町(当時)・藤野町との間に、公の施設の相互利用協定を結び、両町の図書室や文化施設について、八王子市民の利用が可能になった。[[2006年]]3月、相模湖町の相模原市編入に伴い、相模原市内の図書館についても八王子市民の利用が可能になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京都高尾自然科学博物館は、都立唯一の自然史博物館であったが、[[2004年]][[3月31日]]、施設の老朽化などの理由により閉館した。博物館事業は八王子市に移管され、新施設の建設が検討されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 市民大学 ====&lt;br /&gt;
* [[八王子学園都市大学]] - 八王子市域23大学・短大・高専・企業と協定を結び、単位・学位の認定を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ホール・集会場 ====&lt;br /&gt;
* 学園都市センター&lt;br /&gt;
* 市民会館&lt;br /&gt;
* [[八王子市芸術文化会館 いちょうホール|芸術文化会館（いちょうホール）]]&lt;br /&gt;
* 南大沢文化会館&lt;br /&gt;
* 生涯学習センター（クリエイトホール）&lt;br /&gt;
* 陵南会館&lt;br /&gt;
* 長房ふれあい館&lt;br /&gt;
* 公民館&lt;br /&gt;
** 中央公民館&lt;br /&gt;
** 南大沢公民館&lt;br /&gt;
** 川口公民館&lt;br /&gt;
* 市民活動支援センター&lt;br /&gt;
** 中心市街地活性化交流スペース&lt;br /&gt;
* 市民センター&lt;br /&gt;
** 大和田・長房・浅川・子安・由木中央・由井・北野・元八王子・由木東&amp;lt;br/&amp;gt;・中野・石川・恩方・台町・南大沢・川口・加住・横山南&lt;br /&gt;
再編が検討されている&lt;br /&gt;
* 市民集会所&lt;br /&gt;
** 横山・恩方・川口・館・加住・由井・元八王子・北野・石川&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 図書館 ====&lt;br /&gt;
* 市立図書館&lt;br /&gt;
** 中央図書館&lt;br /&gt;
** 生涯学習センター図書館&lt;br /&gt;
** 南大沢図書館&lt;br /&gt;
** 川口図書館&lt;br /&gt;
** 中央図書館北野分室&lt;br /&gt;
** 移動図書館「青い鳥号」&lt;br /&gt;
** 地区図書館：各地区センターに併設。市立図書館の本を予約し受け取ることができる。&lt;br /&gt;
* その他図書館（一般貸出利用可能）&lt;br /&gt;
** 首都大学東京図書情報センター本館（東京都内在住・在勤18歳以上）&lt;br /&gt;
** 法政大学多摩図書館（八王子・町田・相模原各市内、在住・在勤・在学18歳以上）&lt;br /&gt;
** 帝京大学図書館（八王子・日野・多摩・立川・町田各市内在住・在勤18歳以上）&lt;br /&gt;
** 創価大学中央図書館（八王子市内在住、創友会会員、創価学園関係者）&lt;br /&gt;
** 相模原市内の図書館&lt;br /&gt;
** 藤野町図書館&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 博物館・資料館・文化施設 ====&lt;br /&gt;
[[画像:Himekidaira-shizennoie1.jpg|thumb|200px|姫木平自然の家・西館]]&lt;br /&gt;
[[画像:Himekidaira-shizennoie2.jpg|thumb|200px|姫木平自然の家・本館・東館]]&lt;br /&gt;
* 独立行政法人森林総合研究所[[多摩森林科学園]]・森の科学館&lt;br /&gt;
* 独立行政法人都市再生機構都市住宅技術研究所・集合住宅歴史館&lt;br /&gt;
* 財団法人[[大学セミナーハウス]]&lt;br /&gt;
* 都立&lt;br /&gt;
** 都立高尾ビジターセンター&lt;br /&gt;
** 多摩地域ユース・プラザ「高尾の森わくわくビレッジ」（2005年4月-） - 都立八王子高陵高等学校跡地&lt;br /&gt;
** （都立高尾自然科学博物館） - 2004年3月閉館 八王子市により再開設が検討中&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** 八王子市郷土資料館&lt;br /&gt;
** 八王子市絹の道資料館&lt;br /&gt;
** 八王子市こども科学館「サイエンスドーム八王子」&lt;br /&gt;
** 八王子市北野余熱利用センター「あったかホール」&lt;br /&gt;
** 八王子市長池自然館「長池ネイチャーセンター」&lt;br /&gt;
** 八王子市夕やけ小やけふれあいの里&lt;br /&gt;
** 八王子市農村環境改善センター&lt;br /&gt;
** 八王子市姫木平自然の家（[[長野県]][[小県郡]][[長和町]]）&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[日野オートプラザ]]（[[日野自動車]]21世紀センター・シャノン21内の自動車博物館）&lt;br /&gt;
** 八王子城跡資料館&lt;br /&gt;
** 高尾自然動植物園&lt;br /&gt;
** [[京王資料館]]（通常一般非公開）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 美術館 ====&lt;br /&gt;
* 市立&lt;br /&gt;
** [[八王子市夢美術館]]&lt;br /&gt;
* 私立&lt;br /&gt;
** [[東京富士美術館]]&lt;br /&gt;
** [[村内美術館]] - [[バルビゾン派]]の[[絵画]]を中心とした西洋絵画のコレクションを展示&lt;br /&gt;
** 東京造形大学附属横山記念マンズー美術館 - [[ジャコモ・マンズー]]の作品を保存・展示&lt;br /&gt;
** 一刻芸術会館 - [[田中一刻]]の作品を保存・展示&lt;br /&gt;
** トリックアート美術館&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 体育施設（市立） ====&lt;br /&gt;
* 屋内スポーツ施設&lt;br /&gt;
** 富士森公園（市民体育館・市民体育館分館競技場）&lt;br /&gt;
** 甲の原体育館（体育室・屋内プール）&lt;br /&gt;
** 東浅川保健福祉センター（体育室・屋内プール）&lt;br /&gt;
** 北野余熱利用センター「あったかホール」（屋内プール）&lt;br /&gt;
** 各市民センター体育室&lt;br /&gt;
* 屋外スポーツ施設&lt;br /&gt;
** 富士森公園（市民球場・陸上競技場・テニスコート）&lt;br /&gt;
** 椚田運動場（少年野球場・少年サッカー場・テニスコート・ゲートボール場・ジョギングコース）&lt;br /&gt;
** 上柚木公園（陸上競技場・[[上柚木公園野球場|野球場]]・ソフトボール場・テニスコート）&lt;br /&gt;
** 滝が原運動場（野球場（軟式）・ソフトボール場・テニスコート・サッカー場兼自転車練習場）&lt;br /&gt;
** 川町運動場（少年野球場・少年サッカー場）&lt;br /&gt;
** 大塚公園（野球場・テニスコート・屋外プール）&lt;br /&gt;
** 北野公園・高倉公園（軟式野球場）&lt;br /&gt;
** 大平公園・久保山公園・内裏谷戸公園・別所公園・殿入中央公園・松木公園（テニスコート）&lt;br /&gt;
** 陵南公園（屋外プール）&lt;br /&gt;
* その他&lt;br /&gt;
** 浅川サイクリング道路&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 隣接している自治体 ==&lt;br /&gt;
* '''東京都''' [[町田市]]、[[多摩市]]、[[日野市]]、[[昭島市]]、[[福生市]]、[[あきる野市]]、[[西多摩郡]][[檜原村]]&lt;br /&gt;
* '''神奈川県''' [[相模原市]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（※隣接していた[[相模湖町|旧相模湖町]]、[[津久井町|旧津久井町]]が2006年3月20日に相模原市に飛び地合併で編入されたため、隣接しているのは相模原市「相模湖町自治区」、「津久井町自治区」である。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自治体交流 ==&lt;br /&gt;
姉妹都市は以下の2市である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[苫小牧市]]（[[北海道]]）&lt;br /&gt;
** [[1973年]][[8月10日]]姉妹都市盟約&lt;br /&gt;
* [[日光市]]（[[栃木県]]）&lt;br /&gt;
** [[1974年]][[4月1日]]姉妹都市盟約&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも千人同心のゆかりの地である。苫小牧は、[[江戸時代]]末期、北辺警備と[[勇払]]原野の開拓に千人同心が参加したこと、日光は、千人同心が[[日光東照宮|東照宮]]の火の番を勤めていた縁で、姉妹都市となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]、市制90周年を記念して、海外の都市と友好都市交流を開始した。&lt;br /&gt;
* {{flagicon|China}} [[泰安市]]（[[中華人民共和国]][[山東省]]）&lt;br /&gt;
** 2006年[[9月23日]]友好交流協定締結&lt;br /&gt;
* {{flagicon|South Korea}} [[始興市]]（[[大韓民国]][[京畿道]]）&lt;br /&gt;
** 2006年[[11月7日]]友好交流協定締結&lt;br /&gt;
* {{flagicon|Taiwan}} [[高雄市]]（[[中華民国]][[直轄市]]）&lt;br /&gt;
** 2006年11月1日友好交流協定締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
隣接・近隣の自治体には鉄道および路線バスが通じている。ただし、[[檜原村]]に向けては直接の鉄道やバスの便はなく、境界の尾根に登山道があるのみで直接の道路や登山道すら通じていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中央自動車道]]には[[元八王子バスストップ|元八王子バス停]]があり、定期[[高速バス]]を利用できる。ただし、市の中心部から離れており、市内各所からのアクセス性は、決してよいとはいえない。利用するには、京王八王子駅・八王子駅または西八王子駅から[[西東京バス]]利用、「三村橋」バス停下車後徒歩5分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鉄道路線 ===&lt;br /&gt;
[[画像:JR_Hachioji_01.jpg|thumb|right|200px|八王子駅（2004年7月1日）]]&lt;br /&gt;
[[画像:keio_Keio-Hachioji.jpg|thumb|right|200px|京王八王子駅（2004年6月24日撮影）]]&lt;br /&gt;
[[画像:高尾登山清滝駅構内001.jpg|thumb|right|200px|高尾登山電鉄・清滝駅のケーブルカー「あおば」号]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[東日本旅客鉄道]]（JR東日本）&lt;br /&gt;
** [[中央本線]]&lt;br /&gt;
*** [[八王子駅]] - [[西八王子駅]] - [[高尾駅_(東京都)|高尾駅]]&lt;br /&gt;
** [[横浜線]]&lt;br /&gt;
*** 八王子駅 - [[片倉駅]] - [[八王子みなみ野駅]]&lt;br /&gt;
** [[八高線]]&lt;br /&gt;
*** 八王子駅 - [[北八王子駅]] - [[小宮駅]]&lt;br /&gt;
* [[京王電鉄]]&lt;br /&gt;
** [[京王線]]&lt;br /&gt;
*** [[京王八王子駅]] - [[北野駅_(東京都)|北野駅]] - [[長沼駅_(東京都)|長沼駅]]&lt;br /&gt;
** [[高尾線]]&lt;br /&gt;
*** 北野駅 - [[京王片倉駅]] - [[山田駅_(東京都)|山田駅]] - [[めじろ台駅]] - [[狭間駅]] - 高尾駅 - [[高尾山口駅]]&lt;br /&gt;
** [[相模原線]]&lt;br /&gt;
*** [[京王堀之内駅]] - [[南大沢駅]]&lt;br /&gt;
* [[多摩都市モノレール]]&lt;br /&gt;
** [[多摩都市モノレール線]]&lt;br /&gt;
*** [[中央大学・明星大学駅]] - [[大塚・帝京大学駅]] - [[松が谷駅]]&lt;br /&gt;
* [[高尾登山電鉄]]&lt;br /&gt;
** [[ケーブルカー]]&lt;br /&gt;
*** [[清滝駅]] - [[高尾山駅]]&lt;br /&gt;
** エコーリフト&lt;br /&gt;
*** [[山麓駅_(東京都)|山麓駅]] - [[山上駅_(東京都)|山上駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 中心となる駅 ====&lt;br /&gt;
* 八王子駅・京王八王子駅・南大沢駅&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 隣接市町村への連絡 ====&lt;br /&gt;
* '''町田市'''：&lt;br /&gt;
** JR横浜線（[[相原駅]]・[[町田駅]]・[[成瀬駅]]）&lt;br /&gt;
** 京王相模原線（[[多摩境駅]]）&lt;br /&gt;
* '''多摩市'''：&lt;br /&gt;
** 京王線（[[聖蹟桜ヶ丘駅]]）京王相模原線（[[京王多摩センター駅]]）&lt;br /&gt;
** 多摩都市モノレール（[[多摩センター駅]]）&lt;br /&gt;
* '''日野市'''：&lt;br /&gt;
** JR中央本線（[[豊田駅]]・[[日野駅_(東京都)|日野駅]]）&lt;br /&gt;
** 京王線（[[平山城址公園駅]]・[[南平駅]]・[[高幡不動駅]]・[[百草園駅]]）&lt;br /&gt;
** 多摩都市モノレール（[[多摩動物公園駅]]・[[程久保駅]]・高幡不動駅・[[万願寺駅]]・[[甲州街道駅]]）&lt;br /&gt;
* '''昭島市'''：&lt;br /&gt;
** JR八高線（[[拝島駅]]）、もしくはJR中央本線を利用し[[立川駅]]から[[青梅線]]（[[東中神駅]]・[[中神駅]]・[[昭島駅]]・拝島駅）&lt;br /&gt;
* '''福生市'''：&lt;br /&gt;
** JR八高線（拝島駅・[[東福生駅]]）、もしくは拝島駅よりJR青梅線（[[牛浜駅]]・[[福生駅]]）またはJR[[五日市線]]（[[熊川駅]]）&lt;br /&gt;
* '''あきる野市'''：&lt;br /&gt;
** 拝島駅よりJR五日市線（[[東秋留駅]]・[[秋川駅]]・[[武蔵引田駅]]・[[武蔵増戸駅]]・[[武蔵五日市駅]]）&lt;br /&gt;
* '''神奈川県 相模原市'''&lt;br /&gt;
** JR中央本線（[[相模湖駅]]・[[藤野駅]]）&lt;br /&gt;
** JR横浜線（[[橋本駅_(神奈川県)|橋本駅]]・[[相模原駅]]・[[矢部駅]]・[[淵野辺駅]]・[[古淵駅]]）&lt;br /&gt;
** JR相模線（橋本駅・[[南橋本駅]]・[[上溝駅]]・[[番田駅_(神奈川県)|番田駅]]・[[原当麻駅]]・[[下溝駅]]・[[相武台下駅]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 廃線となった路線 ===&lt;br /&gt;
* [[京王御陵線]]（多摩御陵への参拝客を運ぶ為の路線。昭和6年3月開通、昭和20年1月営業休止）&lt;br /&gt;
* [[武蔵中央電気鉄道]]（八王子市内を走った路面電車。昭和4年11月～昭和14年12月※昭和13年6月から京王電気軌道へ譲渡）&lt;br /&gt;
* [[ヨータイ|大阪窯業]]株式会社八王子工場専用線（横浜線の子安1丁目付近から長沼までの貨物専用線。工場は明治45年操業、昭和7年焼失）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バス路線 ===&lt;br /&gt;
[[画像:NishiTokyoBus1.jpg|200px|right|thumb|西東京バス JR八王子駅にて]]&lt;br /&gt;
[[画像:Hachibus1.jpg|200px|right|thumb|はちバス JR西八王子駅にて]]&lt;br /&gt;
八王子はバス路線の発達した街であり、主要駅発着のバス路線の数は多い。また、市域も広いため、直接[[鉄道]]で結ばれていない隣接地域へのアクセスは、主に[[路線バス]]が活用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市を東西に貫く[[甲州街道]]を境にして、主に北側の路線を[[西東京バス]]が、南側は[[京王電鉄バス]]が営業運行している。また、南大沢など市東南部[[多摩ニュータウン]]地区では、[[京王バス南]]、[[神奈川中央交通]]が営業運行している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]]、西東京バスから[[多摩バス]]が分社化され、[[2000年]]から[[陣馬街道]]方面などの路線を共同運行している。&lt;br /&gt;
なお、陣馬方面の大久保バス停より先は自由乗降区間となっている。&lt;br /&gt;
また、2006年のバスダイヤ改正に伴い、陣馬高原下・美山町方面は高尾駅北口発着に、小津町方面は恩方車庫発着（京王・JR八王子駅方面から繊維団地にて乗継可能）に代わっている。&lt;br /&gt;
2006年秋までの登山シーズン中はボンネットバス「[[夕やけ小やけ号]]」が京王八王子より陣馬高原下行きが運行していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]]、[[市街地]]の渋滞緩和と、駅周辺地域での乗降客増加を企図して、各社線とも[[八王子駅]]付近の[[バス停留所|停留所]]間の[[運賃]]が100円均一となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長きにわたり、市の北西部─北東部を直接に結ぶバス路線がなかったが、2003年には、運賃100円均一の[[コミュニティバス]]である八王子市地域循環バス（通称[[はちバス]]）の北西部コースが運行を開始した（運行は[[西東京バス]]に委託されている）。2004年には新たに南東部の既存路線外を補完する路線（東部コース）も営業を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八王子市内に営業路線・営業所・車庫を持つバス会社は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
* [[西東京バス]]（[[西東京バス楢原営業所|楢原営業所]]）&lt;br /&gt;
** [[多摩バス]]（[[多摩バス恩方営業所|恩方営業所]]）&lt;br /&gt;
* [[京王電鉄バス]]（[[京王電鉄バス八王子営業所|八王子営業所]]）&lt;br /&gt;
** [[京王バス南]]（[[京王バス南・南大沢営業所|南大沢営業所]]）&lt;br /&gt;
* [[神奈川中央交通]]（[[神奈川中央交通多摩営業所|多摩営業所]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 都道府県庁への連絡 ===&lt;br /&gt;
JR[[中央本線|中央線]]、あるいは[[京王電鉄]][[京王線]]で[[新宿]]へ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平日日中の主要駅からのルートおよび平均的な所要時間は以下のとおりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 八王子 - 新宿（[[特別快速|中央特快]]で36分、[[スーパーあずさ]]で最速28分）&lt;br /&gt;
* 京王八王子 - 新宿（[[京王線#特急|特急]]で34分）&lt;br /&gt;
* 高尾 - 新宿（[[特別快速|中央特快]]で43分、[[京王高尾線#準特急|京王高尾線準特急]]で45分）&lt;br /&gt;
* 南大沢 - 新宿（[[京王相模原線]][[京王相模原線#列車種別|急行]]・[[調布駅|調布]]乗換の特急利用で32分）&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[中央自動車道]][[元八王子バスストップ|元八王子バス停]]から高速バスが[[新宿]]へ結ぶが、[[元八王子バスストップ|元八王子バス停]]から[[新宿]]方向への乗降はできない（道路状況により40-80分）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 広範囲な連絡 ===&lt;br /&gt;
JR・京王八王子駅より、以下の行先の[[高速バス]]がある（カッコ内は経由地）。&lt;br /&gt;
* [[新宿高速バスターミナル]] - 京王八王子駅-八王子駅北口 - （[[茨木駅]] - [[茨木市駅]] - [[大阪駅]] - [[近鉄難波駅|近鉄なんば]][[大阪シティエアターミナル|OCAT]]） - [[天王寺駅|あべの橋]]&lt;br /&gt;
* （[[大聖寺駅|大聖寺東町]] - [[小松駅]] - [[片町]] - [[香林坊]] - [[武蔵ヶ辻]]）- [[金沢駅]]&lt;br /&gt;
また、空港行きバスとして、以下の3路線がある（カッコ内は経由地）。&lt;br /&gt;
* 高尾駅南口 -（京王八王子駅-八王子駅北口） - [[東京国際空港|羽田空港]]&lt;br /&gt;
* 京王八王子駅-八王子駅北口 - [[成田国際空港|成田空港]]&lt;br /&gt;
* 南大沢駅-（多摩センター駅-聖蹟桜ヶ丘駅） - [[成田国際空港|成田空港]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
==== [[高速道路]]・[[有料道路]] ====&lt;br /&gt;
* [[中央自動車道]]（[[石川パーキングエリア|石川PA]]・[[八王子インターチェンジ|八王子IC]]・[[元八王子バスストップ|元八王子バス停留所]]・[[八王子ジャンクション|八王子JCT]]）&lt;br /&gt;
* [[首都圏中央連絡自動車道]]（圏央道）建設中（[[八王子西インターチェンジ|八王子西IC]]・八王子JCT・[[八王子南インターチェンジ|八王子南IC]]）&lt;br /&gt;
* [[国道16号]][[八王子バイパス]]（[[鑓水インターチェンジ|鑓水IC]]・[[片倉インターチェンジ_(東京都)|片倉IC]]・[[中谷戸インターチェンジ|中谷戸IC]]・[[打越インターチェンジ|打越IC]]）&lt;br /&gt;
* [[ひよどり山有料道路]]（2007年6月1日付で無料化される予定。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[一般国道]] ====&lt;br /&gt;
* [[国道20号]]（[[甲州街道]]）&lt;br /&gt;
** [[日野バイパス]]&lt;br /&gt;
** [[八王子南バイパス]]（建設中）&lt;br /&gt;
* [[国道16号]]（東京環状）&lt;br /&gt;
* [[国道411号]]（[[滝山街道]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[都道府県道|都道]] ====&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;text-align:right;float:right;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Tokyo_road_161_01.jpg|thumb|200px|none|東京都道161号八王子停車場線。2004年7月1日撮影]]&lt;br /&gt;
[[画像:Hachioji_yokoyama_po_01.jpg|thumb|200px|none|横山町郵便局前交差点（八王子市）。手前が国道20号、下柚木八王子線（野猿街道）は街路灯がある左手の道で、50mほどは手前からの一方通行となっている。]]&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[主要地方道]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道20号府中相模原線]]（野猿街道・柚木街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道32号八王子五日市線]]（秋川街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道46号八王子あきる野線]]（高尾街道・滝山街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道47号八王子町田線]]（町田街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道59号八王子武蔵村山線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道61号山田宮の前線]]&lt;br /&gt;
* 一般都道&lt;br /&gt;
** [[東京都道155号町田平山八王子線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道156号町田日野線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道158号小山乞田線]]（多摩ニュータウン通り）&lt;br /&gt;
** [[東京都道160号下柚木八王子線]]（野猿街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道161号八王子停車場線]]（桑並木通り）&lt;br /&gt;
** [[東京都道162号三ツ木八王子線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道166号瑞穂あきる野八王子線]]（桑並木通り、ひよどり山有料道路、谷野街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道169号淵上日野線]]（新滝山街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道173号上館日野線]]（北野街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道174号長沼北野線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道176号楢原あきる野線]]（高尾街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道186号高月楢原線]]（滝山街道）&lt;br /&gt;
** [[東京都道187号多摩御陵線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道189号高尾山線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道235号豊田停車場線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道256号八王子国立線]]（甲州街道）&lt;br /&gt;
** [[神奈川県道・東京都道503号相模原立川線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道・神奈川県道506号八王子城山線]]&lt;br /&gt;
** [[東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線]]（[[旧甲州街道]]）&lt;br /&gt;
** [[山梨県道・神奈川県道・東京都道521号上野原八王子線]]（[[陣馬街道]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地域 ==&lt;br /&gt;
=== 言語 ===&lt;br /&gt;
古くから居住する住民は、[[西関東方言]]の一種である八王子方言を話すが、他地域からの人口流入などにより、特徴はあいまいになりつつある。西関東方言の中でも、横浜方言・あるいは[[甲州弁]]との交流が認められる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八王子方言の特徴として「──じゃんかよ（ぉ）」など、語尾に「じゃん」「よぉ」をつけることが多い（''例：太郎さんよぉ、まったくもうよぉ、困っちまうじゃんかよぉ''）。また「うざい」という若者言葉は、江戸期まで使用された「うざうざ」を源とする八王子方言の「うざったい」（まとわりつくような不快感を表す）が源であるとする説がある。&lt;br /&gt;
さらには「めぐらったらしい」という言葉も八王子の一部では使われている。&lt;br /&gt;
また、語尾に「～だべ」をつけることが多い。（例、「遊びに行くべ」など・・・）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地域放送 ===&lt;br /&gt;
* ケーブルテレビ&lt;br /&gt;
** [[八王子テレメディア]]&lt;br /&gt;
** [[八王子ケーブルテレビ]] - 大和田町&lt;br /&gt;
** [[日野ケーブルテレビ]] - 北野町、長沼町&lt;br /&gt;
** [[多摩テレビ]] - ニュータウン地区&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地域区分 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;table width=&amp;quot;100%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;中央&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;東南部(北野・由井)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;西南部(横山・館・浅川)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;西部(元八王子・川口・恩方)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;北部(加住・石川)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;th&amp;gt;東部(南大沢・由木・由木東)&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr valign=top&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 旭町&lt;br /&gt;
* 東町&lt;br /&gt;
* 三崎町&lt;br /&gt;
* 中町&lt;br /&gt;
* 明神町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 横山町&lt;br /&gt;
* 新町&lt;br /&gt;
* 南町&lt;br /&gt;
* 寺町&lt;br /&gt;
* 八日町&lt;br /&gt;
* 八幡町&lt;br /&gt;
* 南新町&lt;br /&gt;
* 天神町&lt;br /&gt;
* 万町&lt;br /&gt;
* 子安町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 元横山町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 田町&lt;br /&gt;
* 本町&lt;br /&gt;
* 大横町&lt;br /&gt;
* 緑町&lt;br /&gt;
* 台町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 上野町&lt;br /&gt;
* 小門町&lt;br /&gt;
* 本郷町&lt;br /&gt;
* 平岡町&lt;br /&gt;
* 元本郷町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 八木町&lt;br /&gt;
* 追分町&lt;br /&gt;
* 日吉町&lt;br /&gt;
* 千人町一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 清川町&lt;br /&gt;
* 中野上町一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 中野山王一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 中野町&lt;br /&gt;
* 暁町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 富士見町&lt;br /&gt;
* 大和田町一丁目～七丁目&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 北野町&lt;br /&gt;
* 長沼町&lt;br /&gt;
* 打越町&lt;br /&gt;
* 片倉町&lt;br /&gt;
* 北野台一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 絹ヶ丘一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 小比企町&lt;br /&gt;
* 西片倉一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 兵衛一丁目～&lt;br /&gt;
* みなみ野一丁目～六丁目&lt;br /&gt;
* 七国一丁目～六丁目&lt;br /&gt;
* 大船町&lt;br /&gt;
* 宇津貫町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* めじろ台一丁目～四丁目&lt;br /&gt;
* 散田町一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 並木町&lt;br /&gt;
* 長房町&lt;br /&gt;
* 東浅川町&lt;br /&gt;
* 山田町&lt;br /&gt;
* 椚田町&lt;br /&gt;
* 寺田町&lt;br /&gt;
* 館町&lt;br /&gt;
* 狭間町&lt;br /&gt;
* 城山手一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 廿里町&lt;br /&gt;
* 西浅川町&lt;br /&gt;
* 裏高尾町&lt;br /&gt;
* 初沢町&lt;br /&gt;
* 高尾町&lt;br /&gt;
* 南浅川町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 横川町&lt;br /&gt;
* 叶谷町&lt;br /&gt;
* 大楽寺町&lt;br /&gt;
* 泉町&lt;br /&gt;
* 四谷町&lt;br /&gt;
* 諏訪町&lt;br /&gt;
* 楢原町&lt;br /&gt;
* 犬目町&lt;br /&gt;
* 川口町&lt;br /&gt;
* 上壱分方町&lt;br /&gt;
* 弐分方町&lt;br /&gt;
* 元八王子町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 川町&lt;br /&gt;
* 西寺方町&lt;br /&gt;
* 上川町&lt;br /&gt;
* 美山町&lt;br /&gt;
* 小津町&lt;br /&gt;
* 下恩方町&lt;br /&gt;
* 上恩方町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 戸吹町&lt;br /&gt;
* 宮下町&lt;br /&gt;
* 高月町&lt;br /&gt;
* 加住町一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 丹木町一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 谷野町&lt;br /&gt;
* みつい台一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 滝山町一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 梅坪町&lt;br /&gt;
* 左入町&lt;br /&gt;
* 尾崎町&lt;br /&gt;
* 平町&lt;br /&gt;
* 丸山町&lt;br /&gt;
* 宇津木町&lt;br /&gt;
* 久保山町一丁目・二丁目&lt;br /&gt;
* 小宮町&lt;br /&gt;
* 石川町&lt;br /&gt;
* 大谷町&lt;br /&gt;
* 高倉町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 鑓水一丁目～&lt;br /&gt;
* 中山&lt;br /&gt;
* 上柚木一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 下柚木一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 南陽台一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 越野&lt;br /&gt;
* 松木&lt;br /&gt;
* 南大沢一丁目～五丁目&lt;br /&gt;
* 別所一丁目～二丁目&lt;br /&gt;
* 堀之内一丁目～三丁目&lt;br /&gt;
* 東中野&lt;br /&gt;
* 大塚&lt;br /&gt;
* 松が谷&lt;br /&gt;
* 鹿島&lt;br /&gt;
&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/table&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 観光 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Takao-and-kagenobu.jpg|thumb|200px|高尾山(手前)と景信山(右奥)]]&lt;br /&gt;
[[画像:Komiya-park.JPG|thumb|200px|都立小宮公園]]&lt;br /&gt;
[[画像:Minami-asakawa-bashi.jpg|thumb|200px|武蔵陵墓地入口に架かる南浅川橋]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kuruma-ningyo.jpg|thumb|200px|八王子車人形がデザインされた市内マンホール蓋]]&lt;br /&gt;
* 観光産業振興政策の一環として、[[2003年]]11月29日、市内在住の[[演歌歌手]]・[[北島三郎]]に、加えて[[2004年]]11月25日には市内在住の[[映画監督]]・[[斎藤耕一]]、[[八王子車人形]]五代目家元[[西川古柳]]に、さらに加えて[[2006年]]11月には市内で育った[[羽生善治]]に八王子観光大使を委嘱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自然 ===&lt;br /&gt;
==== 高尾山・陣馬山 ====&lt;br /&gt;
[[高尾山]]・[[陣馬山]]はハイキングコースとして知られ、[[明治の森高尾国定公園]]や[[東京都立高尾陣場自然公園]]に指定されている。高尾山は[[東海自然歩道]]・[[関東ふれあいの道]]・[[奥高尾縦走路]]の起点でもある。高尾山は行楽地であるとともに、[[高尾山薬王院有喜寺]]の寺域である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 東京都立小宮公園 ====&lt;br /&gt;
東京都立[[小宮公園]]の所在地は大谷町・暁町。加住丘陵にある[[東京都立公園]]。[[萌芽更新]]の管理をきちんと行っているため、美しい[[里山]]が保存されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 東京都立陵南公園 ====&lt;br /&gt;
高尾と西八王子の中間の浅川沿いの長房町、東浅川町に位置している。高尾駅から徒歩20分。&lt;br /&gt;
野球場、こどもの遊び場などがある。この公園とその近隣は桜の名所である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史・文化 ===&lt;br /&gt;
* [[高尾山薬王院有喜寺]]&lt;br /&gt;
所在地は高尾町。[[真言宗]][[智山派]]の大本山の一つ。年末年始の除夜参り・初詣客でにぎわう。&lt;br /&gt;
* [[信松院]] - 台町。[[武田信玄]]の娘で、[[織田信長]]の長男、[[織田信忠|信忠]]と婚約した[[松姫]]が、[[武田氏]]滅亡後尼となり開いた寺。&lt;br /&gt;
* [[広園寺]]（こうおんじ）&lt;br /&gt;
所在地は山田町。[[臨済宗]]の古刹。正式には「臨済宗[[南禅寺派]]兜卒山伝法院」。[[室町時代]]初期の創建。境内全域が[[東京都指定文化財一覧#史跡|東京都の史跡]]。加えて、総門、山門、仏殿、鐘楼は[[東京都指定文化財一覧|東京都の重要有形文化財]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[史跡]]・[[城跡]] ====&lt;br /&gt;
* [[片倉城]]跡 - 片倉町。空堀・[[土塁]]等が残り、[[15世紀]]後半の中世城郭の形態を今に伝える。[[東京都指定文化財一覧#史跡|東京都指定史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[滝山城]]跡 - 高月町。[[大石氏|大石定重]]築城。その後[[北条氏照]]の居城。規模の大きさや保存状態の良さでは日本でも有数の城跡。東京都立滝山自然公園の一画。国指定[[史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[高月城]]跡 - 高月町。&lt;br /&gt;
* [[八王子城]]跡 - 元八王子町。[[北条氏照]]居城であり、範囲の広さでは日本で最大級の[[山城]]である。国指定[[史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[初沢城]]跡 - 初沢町。[[東京都指定文化財一覧#史跡|東京都指定史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[浄福寺城]]跡 - 下恩方町。&lt;br /&gt;
* [[小田野城]]跡 - 西寺方町。国指定[[史跡]]。&lt;br /&gt;
* [[大久保長安]]陣屋跡 - 小門町。[[八王子代官]]陣屋・関東十八代官陣屋・八王子十八代官陣屋ともいう。産千代稲荷神社境内。&lt;br /&gt;
* [[小仏関所]]跡 - 裏高尾町。旧[[甲州街道]]の関所。&lt;br /&gt;
* 絹の道（[[文化庁]]選定「歴史の道百選」） - 鑓水。[[明治]]時代[[横浜市|横浜]]に輸出用生糸を運ぶために利用された。「八王子市絹の道資料館」がある。&lt;br /&gt;
* [[武蔵陵墓地]] - 長房町。[[大正天皇]]・[[貞明皇后]]の陵墓である[[多摩陵]]・[[多摩東陵]]、隣接して[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]の[[武蔵野陵]]・[[武蔵野東陵]]がある。&lt;br /&gt;
* 浅川地下壕（[[大日本帝国陸軍|陸軍]]浅川倉庫） - 初沢町・高尾町。[[第二次世界大戦]]中に掘削された地下壕。[[中島飛行機]]製作所の航空機エンジンの生産などが行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== その他 ====&lt;br /&gt;
* 童謡『[[夕焼小焼]]』 - 恩方地区出身の[[中村雨紅]]の作詞。歌碑が建てられており、「夕焼小焼」というバス停もある。上恩方町には「八王子市夕やけ小やけ文化農園」がある。行き方は、高尾駅よりバスで陣馬高原行きに乗る。&lt;br /&gt;
なお「八王子市夕やけ小やけ文化農園」には宿泊施設をはじめとする、体験施設などが設備されており、都会にいながら田舎の体験が出来る。&lt;br /&gt;
* [[八王子車人形]] - [[文久]]年間に初代西川古柳により考案。現在は五代目西川古柳座が国内外で公演。東京都指定無形文化財（芸能）および[[文化庁]]の記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イベント ===&lt;br /&gt;
* 「高尾山迎光祭」 - 元旦。高尾山薬王院有喜寺にて。&lt;br /&gt;
* 「八王子八福神めぐり」 - 元旦～1月10日。[[毘沙門堂]]（[[毘沙門天]]）・[[成田山伝法院]]（[[恵比寿天]]）・[[金剛寺]]（[[寿老尊]]・[[福禄寿]]）・[[信松院]]（[[布袋尊]]）・[[善龍寺]]（[[走大黒天]]）・[[了法寺]]（[[新護弁財天]]）・[[吉祥院]]（[[吉祥天]]）&lt;br /&gt;
* 「高尾山節分会」 - 2月3日。[[高尾山]]薬王院有喜寺本堂にて。有名力士などが参加。&lt;br /&gt;
* 「全関東八王子夢街道駅伝」 - 2月。JR八王子駅→甲州街道→JR西八王子駅→京王線狭間駅→京王線めじろ台駅→散田架道橋（折り返し）&lt;br /&gt;
* 「高尾山大火渡り祭」 - 3月第2日曜日。高尾山薬王院有喜寺祈祷殿前広場にて。&lt;br /&gt;
* 「高尾梅郷梅まつり」 - 3月中旬の土日。&lt;br /&gt;
* 「高尾山若葉まつり」 - 4月上旬～5月下旬。（「春のスタンプハイク」（京王電鉄主催））&lt;br /&gt;
* 「高尾山春季大祭」 - 4月第3日曜日。不動院～高尾山薬王院有喜寺。稚児パレードなど。&lt;br /&gt;
* 「高尾山ビアマウント」 - 6月1日～。高尾山からの八王子～東京都心の夜景。&lt;br /&gt;
* 「[[八王子まつり]]」 - 8月上旬。3日間にわたって実施される。関東有数の山車まつりであり、精巧な彫刻が見所の18台の山車による勇壮な巡行は灯火に映える。八幡・八雲神社、多賀神社の両宮の神輿渡卸もあり、まつりを盛り上げている。平成18年で46回を迎え、観客数は延べ55万人あった。&lt;br /&gt;
* 「八王子花火大会」 - 7月下旬または8月上旬。会場は八王子市民球場。&lt;br /&gt;
* 「[[しょうがまつり]]」 - 9月第一金・土曜日。永福稲荷神社。&lt;br /&gt;
* 「高尾山もみじまつり」 - 10月上旬～11月下旬。（「秋のスタンプハイク」（京王電鉄主催））&lt;br /&gt;
* 「とうがらし地蔵大祭」 - 10月24日。禅東院。&lt;br /&gt;
* 「[[酉の市]]（大鳥祭）」 - 11月酉の日。大鳥神社および市守神社。&lt;br /&gt;
* 「[[八王子いちょうまつり]]」 - 11月下旬。市民手作りの祭。会場は甲州街道・追分町～JR高尾駅入り口～小仏関所跡にかけて。小仏関所跡にちなみ通行手形を発行した「関所オリエンテーリング」や、[[クラシックカー]]パレードなど。&lt;br /&gt;
* 「ガスパール・カサド国際チェロ・コンクール in 八王子」 - 11月～12月。[[ガスパール・カサド]]の妻である[[原智恵子]]主催で、[[フィレンツェ]]で行われていたコンクールだったが[[1990年]]の開催を最後に中止された。原智恵子が晩年を多摩地域で過ごしたことが縁でこのコンクールが八王子で復活することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 名物・名所 ===&lt;br /&gt;
* 八王子ラーメン（八王子系ラーメン） - 醤油タレに「きざみ玉ねぎ」を具として使ったラーメン。時代の変化とともに各店の味は進化し、「尾張屋のめん」を使用した昔ながらの「八王子ラーメン」が人気を博す一方、「きざみ玉ねぎ」は使っているものの、スープの素材、とり方などが全く違う「八王子ラーメン」の店も行列ができる人気店も多い。また、最近では全国的にも有名なラーメン店の支店などもオープンしたり、都内有名店で修行を積んだ若い人が新たな味で挑戦をするなど、八王子は大変な「ラーメン激戦区」となっている。西八王子にある100円ラーメンを始めとして500円前後でラーメン一杯を食べることができるのも特筆すべき点である。&lt;br /&gt;
* とろろそば（高尾山参道）&lt;br /&gt;
* 菓子：高尾せんべい・陣馬せんべい・松姫もなか・葵千人・都まんじゅう など&lt;br /&gt;
* 清酒：桑乃都・日出山 など&lt;br /&gt;
* 八王子温泉&lt;br /&gt;
** 八王子温泉福福の湯 - 炭酸水素塩泉・塩化物泉 施設：『八王子温泉福福の湯』（八王子市下柚木）&lt;br /&gt;
** 八王子温泉多摩の湯 - ナトリウム・塩化物強塩泉 施設：『八王子温泉やすらぎの湯』（八王子市中町）&lt;br /&gt;
** 八王子塩釜温泉観音の湯 - ナトリウム・塩化物泉（湧出地：八王子市大塚） 施設：『八王子健康ランドふろッぴィ高尾の湯』（八王子市狭間町）&lt;br /&gt;
* [[ラ・フェット多摩 南大沢]] - [[アウトレットモール]]&lt;br /&gt;
* [[道の駅八王子滝山]] - 東京都内初の道の駅&lt;br /&gt;
* [[長池公園]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フィルム・コミッション制度 ===&lt;br /&gt;
市では、都市景観・自然景観そのものを観光資源ととらえ、市内における[[テレビ]]・[[映画]]・[[コマーシャル|CM]]などのロケ利用促進を目的とするフィルムコミッション制度を設けている。これは、市の観光課が窓口となり、観光協会や大学などの各団体と連携して、市内における撮影の誘致や円滑な進行を補助するものであり[[2004年]]1月にスタートした。市の観光課によると、前年[[2003年]]に放映されたテレビドラマ『[[ハコイリムスメ!]]』では高尾山が舞台となり全国に紹介されたため観光客が3割増加したという。[[2004年]]放映のテレビドラマ『[[白い巨塔_(テレビドラマ 2003年)|白い巨塔]]』では、市役所本庁舎が劇中の裁判所として登場したが、このドラマ撮影はフィルム・コミッション制度活用の一例である。市では、今後撮影候補地の[[データベース]]化など、情報提供体制の充実をはかり、撮影の積極的誘致につとめる、としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
== 八王子市を舞台にした作品 ==&lt;br /&gt;
=== 歌（[[歌謡曲]]・[[民謡]]・[[音頭]]等） ===&lt;br /&gt;
* 『八王子音頭』：作詞[[西條八十]]、作曲[[古賀政男]]。[[1952年]]に作られた。「八王子まつり」をはじめとした八王子市全域の盆踊り大会・夏祭りで必ずと言っていいほど流される。&lt;br /&gt;
* 『新八王子音頭』（別名：『太陽踊り』）：「八王子まつり」をはじめとした八王子市全域の[[盆踊り]]大会・夏祭りで必ずと言っていいほど、流される音頭である。「歌詞・曲調のインパクトがとても強い」といわれている。作詞[[井田誠一]]、 作曲・編曲[[いずみたく]]、唄[[佐良直美]]。&lt;br /&gt;
* 『新八王子音頭』：作詞[[阿部昭三]]、作曲[[清水晃夫]]、編曲[[星野進]]&lt;br /&gt;
** '''注意：『新八王子音頭』について''' - なぜ『新八王子音頭』は2つ存在するのか。これは、元々、八王子を歌った音頭は、1952年、西條八十作詞の『八王子音頭』のみであったが、その後、井田誠一作詞の『新八王子音頭（太陽踊り）』と阿部昭三作詞の『新八王子音頭』が同名で、相次いで作られてしまったためだ。尚、現在は井田誠一作詞の『新八王子音頭』は『太陽踊り』という愛称で市民から親しまれている。しかし、一部の人・文章等では『太陽踊り』を『新八王子音頭』と紹介・記載していることもあるので、未だに井田誠一作詞の『新八王子音頭（太陽踊り）』と阿部昭三作詞の『新八王子音頭』が混同されていることが多い。&lt;br /&gt;
* 『八王子平成音頭』&lt;br /&gt;
* 『八王子市歌』：[[1936年]]（昭和11）市政20周年を記念して制定。[[北原白秋]]作詞、[[山田耕筰]]作曲。&lt;br /&gt;
* 『夕焼小焼』：中村雨紅が八王子駅から故郷の恩方まで歩いた時に作詞した。2005年12月より[[八王子駅]]の発車メロディーに使用されている。&lt;br /&gt;
* 『高尾山音頭』&lt;br /&gt;
* 『八王子ルンバ』：[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[中井正広のブラックバラエティ]]という番組で流された。[[嶺鶯]]が歌っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* [[きだみのる]]『気違ひ部落周游紀行』1957年 - 作者が[[第二次世界大戦]]中に疎開していた恩方地区が舞台。なお、ここでいう「部落」とは、「[[集落]]」または行政単位の村よりも小さな地域共同体のことを指すもので、[[部落問題|被差別部落]]の意ではない。&lt;br /&gt;
** [[1957年]]映画化 [[松竹]]『気違い部落』&lt;br /&gt;
* [[古世古和子]] 著 [[北島新平]] 作画『ランドセルをしょったおじぞうさん』1980年 - 泉町・相即寺が舞台。&lt;br /&gt;
* [[篠田節子]]『絹の変容』1991年、『夏の災厄』1995年&lt;br /&gt;
** [[2006年]]テレビドラマ化 6月27日 [[日本テレビ]]『ウィルスパニック2006夏 街は感染した』&lt;br /&gt;
* [[三田誠広]]『白い丘』1991年 - 作者が居住していた[[めじろ台駅|めじろ台]]が舞台。&lt;br /&gt;
* [[木根尚登]]『八王子のレッド・ツェッペリン』1996年&lt;br /&gt;
* [[重松清]]『定年ゴジラ』1998年 - 作者が居住していためじろ台が舞台。&lt;br /&gt;
** [[2000年]]テレビドラマ化 2月 - 3月 [[日本放送協会|NHK]]-[[衛星放送|BS]]『定年ゴジラ』（全6回）&lt;br /&gt;
* [[二階堂黎人]]『吸血の家』1999年 - 横山町の旧家が舞台。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[東京放送|TBS]]『[[ひとり暮らし_(テレビドラマ)|ひとり暮らし]]』（1996）&lt;br /&gt;
** 主人公の花淵美歩の実家がめじろ台である。（特に第1話に同駅の駅舎の外景が映る。） 出演：[[常盤貴子]]&lt;br /&gt;
* TBS『[[メロディ_(テレビドラマ)|メロディ]]』（1997）&lt;br /&gt;
** 八王子にある[[ケーブルテレビ]]局が舞台。出演：[[小泉今日子]]、[[小林薫]]、[[玉置浩二]]など。&lt;br /&gt;
* [[日本テレビ]]『[[向井荒太の動物日記～愛犬ロシナンテの災難～]]』（2001）&lt;br /&gt;
** 八王子大学（架空の大学）が舞台。名前は出ているが八王子市内のロケは行われていない。出演：[[堂本剛]]、[[安倍なつみ]]、[[水野真紀]]など。&lt;br /&gt;
* TBS『[[月曜ミステリー劇場]]・[[万引きGメン・二階堂雪]]10ねたみ』（2003）&lt;br /&gt;
** 八王子と[[甲府市|甲府]]のスーパーが舞台。出演：[[木の実ナナ]]、[[酒井和歌子]]、[[あおい輝彦]]など。&lt;br /&gt;
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[ハコイリムスメ!]]』（2003）&lt;br /&gt;
** [[高尾山]]の中腹にある「十一丁目茶屋」で育った姉妹が主人公。出演：[[飯島直子]]、[[深田恭子]]、[[吉沢悠]]、[[玉山鉄二]]、[[勝村政信]]、[[地井武男]]など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[少爺占]]、[[王貽興]]『[[八王子_(ラジオドラマ)|八王子]]』(2005)- 香港のラジオドラマ。八王子そのものが舞台という訳ではないのだが、タイトルの由来は作者の知人の留学先が[[創価大学]]であったことから、その所在地である八王子市よりとられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* 『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著名な出身者 ==&lt;br /&gt;
=== 文化 ===&lt;br /&gt;
* [[篠田節子]] - [[作家]]&lt;br /&gt;
* [[井上一馬]] - 作家・翻訳家&lt;br /&gt;
* [[中村雨紅]] - [[詩人]]&lt;br /&gt;
* [[滝井孝作|瀧井孝作]] - [[作家]]&lt;br /&gt;
* [[鈴木信太郎]] - [[画家]]&lt;br /&gt;
* [[小島善太郎]] - [[画家]]&lt;br /&gt;
* [[前田真三]] - 写真家&lt;br /&gt;
* [[斎藤耕一]] - [[映画監督]]&lt;br /&gt;
* [[島村達雄]] - [[アニメーション]]作家&lt;br /&gt;
* [[東海林さだお]] - [[漫画家]]&lt;br /&gt;
* [[高橋春男]] - [[漫画家]]&lt;br /&gt;
* [[松任谷由実]] - シンガーソングライター&lt;br /&gt;
* [[三田村鳶魚]] - 江戸風俗考証家&lt;br /&gt;
* [[梯剛之]] - ピアニスト&lt;br /&gt;
* [[たむらしげる]] - [[絵本作家]]・映像作家&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 芸能 ===&lt;br /&gt;
* [[柳家はん治]] - [[落語家]]&lt;br /&gt;
* [[夏木陽介]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[佳那晃子]] - [[俳優|女優]]&lt;br /&gt;
* [[星正人]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[ヒロミ]] - [[タレント]]&lt;br /&gt;
* [[前田耕陽]]（元[[男闘呼組]]） - 俳優&lt;br /&gt;
* [[工藤夕貴]] - 女優&lt;br /&gt;
* [[西島秀俊]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[塚本高史]] - 俳優&lt;br /&gt;
* [[山本淳一]]（元[[光GENJI]]） - タレント&lt;br /&gt;
* [[田中有紀美]]（元[[Melody]]）-女優・映画監督&lt;br /&gt;
* [[アンジャッシュ|児嶋一哉（アンジャッシュ）]] - お笑いタレント&lt;br /&gt;
* [[アンジャッシュ|渡部建（アンジャッシュ）]] - お笑いタレント&lt;br /&gt;
* [[黒沢薫]]（[[ゴスペラーズ]]） - [[歌手]]&lt;br /&gt;
* [[滝沢秀明]] - 俳優、歌手&lt;br /&gt;
* [[根食真実]] - [[歌手]]&lt;br /&gt;
* [[LITTLE]] - ミュージシャン&lt;br /&gt;
* [[望月久代]] -[[声優]]&lt;br /&gt;
* [[森久保祥太郎]] -[[声優]]&lt;br /&gt;
* [[土屋滋生]] -[[ラジオパーソナリティ]]&lt;br /&gt;
* [[伊藤健太郎_(声優)|伊藤健太郎]] -[[声優]]&lt;br /&gt;
* [[Mie]] -[[モデル]]&lt;br /&gt;
* [[稲田徹]] -声優&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スポーツ ===&lt;br /&gt;
* [[富沢宏哉]] - [[プロ野球]]審判&lt;br /&gt;
* [[高木大成]] - 元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[生沼スミエ]] - [[バレーボール]]選手・監督&lt;br /&gt;
* [[松永里絵子]] - [[新体操]]選手&lt;br /&gt;
* [[平本一樹]] - [[サッカー]]選手&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 諸分野 ===&lt;br /&gt;
* [[小林ゆり子]] - [[テレビ岩手]]アナウンサー&lt;br /&gt;
* [[松田光弘]] - [[ファッションデザイナー]]、[[ニコル]]創業者&lt;br /&gt;
* [[串田嘉男]] - [[天文学|アマチュア天文家]]&lt;br /&gt;
* [[鈴木松美]] - 声紋研究家&lt;br /&gt;
* [[山田宏]] - [[政治家]]、[[杉並区]]長&lt;br /&gt;
* [[大貫卓也]] - [[広告]]アートディレクター&lt;br /&gt;
* [[秋葉隆史]] - テレビ番組[[ディレクター]][[プロデューサー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著名な在住者 ==&lt;br /&gt;
=== 文化 ===&lt;br /&gt;
* [[斎藤正二]] - 思想史家&lt;br /&gt;
* [[東海林さだお]] - 漫画家、[[エッセイスト]]&lt;br /&gt;
* [[松下耕]] - [[作曲家]]・[[合唱指揮者]]&lt;br /&gt;
* [[山根青鬼]] - 漫画家&lt;br /&gt;
* [[高橋三千綱]] - [[作家]]&lt;br /&gt;
* [[東城和実]] - 漫画家&lt;br /&gt;
* [[平柳和哉]] - [[予備校]][[講師]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 芸能 ===&lt;br /&gt;
* [[北島三郎]] - [[演歌歌手]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スポーツ ===&lt;br /&gt;
* [[並木敏成]] - [[プロフェッショナル・アングラー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[八王子市の歴史]]&lt;br /&gt;
* [[八王子市立の小学校一覧]]&lt;br /&gt;
* [[八王子競馬]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
* 市制記念日:[[10月1日]]&lt;br /&gt;
* 世帯数 : 232,096世帯（2007年4月1日）&lt;br /&gt;
* 外国人登録者数 : 8,120人（男性:3,619人 女性:4,501人（2007年4月1日））&lt;br /&gt;
* [[市外局番]]は市内全域が「042」（八王子MA。2006年3月4日までは「0426」）。なお、神奈川県相模原市相模湖町及び同市藤野町も市内扱い。&lt;br /&gt;
* 最寄の空港は[[東京国際空港|羽田空港]]または[[調布飛行場]]。&lt;br /&gt;
* [[成田国際空港|成田空港]]への[[成田エクスプレス|列車]]、[[バス_(交通機関)|バス]]も運行されている（ただし列車は毎日早朝1本、空港からの下り列車も1日1本のみ）。&lt;br /&gt;
* 八王子市としての広範囲連絡のための[[新幹線]]最寄り駅は[[東京駅]]と[[新横浜駅]]だが、厳密に言えば新横浜駅の方が近い（東京駅へは[[中央快速線|中央線]]、新横浜駅へは[[横浜線]]を利用）。また、[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線|長野新幹線]]を利用する際は[[西国分寺駅]]で[[武蔵野線]]に、[[武蔵浦和駅]]で[[埼京線]]経由（ただし、埼京線は列車の運転間隔が最大で18分と長く空いている場合があるので、[[南浦和駅]]で[[京浜東北線]]に乗り換えた方が早いこともある）で[[大宮駅_(埼玉県)|大宮駅]]を利用した方が便利な場合が多い。また、本数は少ないものの、八王子駅～大宮駅間を走る「[[むさしの_(列車)|快速むさしの号]]」が運転されている。（東京駅へ行く場合とほぼ同じ時間で行くことが可能）。&lt;br /&gt;
* 午後5時（冬期は午後4時）に本市出身の中村雨紅が作詞した『[[夕焼小焼]]』が、また2006年4月10日からは加えて小学校低学年の帰宅時間にあたる午後1時半に本市出身の松任谷由実の『守ってあげたい』が防災無線で放送されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Hachioji,_Tokyo}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地域情報 ===&lt;br /&gt;
* [http://www.hachioji-kankokyokai.or.jp/ 観光 はちおうじ]&lt;br /&gt;
* [http://www.hachioji.or.jp/ 八王子商工会議所]&lt;br /&gt;
* [http://www.htmnet.ne.jp/ 八王子テレメディア]（[[ケーブルテレビ]]局）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地図・航空写真 ===&lt;br /&gt;
* [http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo100/89/ckt-89-1/c18/ckt-89-1_c18_12.jpg 市街地の航空写真] - 国土交通省のサイト。左右に横断しているのが浅川で、主たる市街地はその南側に広がる。浅川のもっとも右の橋が国道20号の大和田橋、もっとも左の橋が国道16号の浅川橋である。画面下がJR八王子駅である。&lt;br /&gt;
* [http://watchizu.gsi.go.jp/ 国土地理院 地図閲覧サービス ウオッちず]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div align=&amp;quot;center&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;border: solid 2px #000000;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394105&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=0 五日市（南西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394155&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=2000 五日市（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394200&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=1200 拝島（南西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394205&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=2000 拝島（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53394300&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=1600 立川（南西）]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393150&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=1600 与瀬（北西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393155&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=2000 与瀬（北東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393250&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=0 八王子（北西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393255&amp;amp;slidex=2000&amp;amp;slidey=0 八王子（北東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393350&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=0 武蔵府中（北西）]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393105&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=0 与瀬（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393200&amp;amp;slidex=1200&amp;amp;slidey=0 八王子（南西）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393205&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=0 八王子（南東）]&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;border: solid 1px #000000;&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|[http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=53393300&amp;amp;slidex=0&amp;amp;slidey=0 武蔵府中（南西）]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
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[[fi:Hachiōji]]&lt;br /&gt;
[[fr:Hachioji]]&lt;br /&gt;
[[it:Hachiōji]]&lt;br /&gt;
[[ko:하치오지_시]]&lt;br /&gt;
[[pt:Hachioji]]&lt;br /&gt;
[[zh:八王子市]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%94%90&amp;diff=5312</id>
		<title>唐</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%94%90&amp;diff=5312"/>
				<updated>2007-05-28T08:43:32Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''唐'''（とう／から、[[英語|英]]:Tang Dynasty、[[618年]] - [[907年]]）は、[[中国]]の王朝。[[李淵]]が[[隋]]を滅ぼして建国した。[[7世紀]]の最盛期には、[[中央アジア]]の砂漠地帯も支配する大[[帝国]]で、[[朝鮮半島]]や[[渤海 (国)|渤海]]、[[日本]]などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えた。[[日本]]の場合は、遣唐使などを送り[[894年]]に[[菅原道真]]の意見で廃止されるまで、影響を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{中国の歴史}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国号 ==&lt;br /&gt;
国号の「唐」はもともとは[[晋]]の古名であり、もとは[[山西省]]を中心とする地域を指した。古代には[[堯]]が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があり、[[周]]の時代には[[武王 (周)|武王]]の子・唐叔虞が立てた'''[[晋 (春秋)|晋]]の別称'''としての唐とは別に、今の[[湖北省]]の一部に唐を国号とする小国があったことが知られる。唐の滅亡後、[[五代十国時代]]には[[李存勗]]の[[後唐]]、十国のひとつ[[南唐]]などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの[[皇帝]]も唐室の血は引いていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 李氏 ==&lt;br /&gt;
唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ[[武川鎮軍閥]]の出身で、[[北魏]]・[[北周]]以来の八柱国・十二将軍と称される[[鮮卑]]系[[貴族]]の内、八柱国の一家として隋によって唐国公の[[爵位]]を与えられていた。のちに、隋から[[禅譲]]を受けて新朝を立てるという[[易姓革命]]の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[旧唐書]]』・『[[新唐書]]』によれば、李氏は李耳（[[老子]]）の子孫と称し、[[西涼]]の初代王・[[李コウ|李暠]]をその遠祖としている。北周に於いて鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野（だいや）と言う姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗る事になる。しかし唐李氏の系譜はこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見方が支配的であり、建前はどうであれ、現実的には、大野が本来の姓（部族名）であり、李が北魏の漢化政策の時に付けた姓であると見られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史を更に'''初唐'''、'''盛唐'''、'''中唐'''、'''晩唐'''の四代に細分して通観する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 初唐（7世紀初頭～） ===&lt;br /&gt;
[[Image:Tang_gao_zu.jpg|right|thumb|200px|李淵]]&lt;br /&gt;
[[Image:WuZetian.jpg|right|thumb|200px|武則天]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第二代[[煬帝]]の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき[[太原市|太原]]留守（総督）であった[[李淵]]は[[617年]]（[[義寧]]元年）に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城（[[長安]]）を陥落させると、煬帝を太上皇帝（前皇帝）にまつりあげてその孫[[恭帝侑 (隋)|恭帝侑]]を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌[[618年]]（隋義寧2年、唐[[武徳]]元年）に[[江南]]にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から[[禅譲]]を受けて即位（高祖）、唐を建国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子[[太宗 (唐)|李世民]]が討ち滅ぼして行った。建国に勲功を立てた李世民は、[[626年]]に高祖の長男で[[皇太子]]の[[李建成]]を殺し（玄武門の変）、第二代の皇帝（太宗）となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太宗は外征においては当時の北方の強国[[突厥]]をくだして[[モンゴル高原]]を支配下に置き、北族から天可汗（テングリ・カガン）、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては中国においてその後も長く政治の理想形とみなされた[[三省六部]]、[[中国の宰相|宰相]]の制度が確立され、その政治は[[貞観の治]]として名高い。その治世について書かれたものが『[[貞観政要]]』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、三代（[[高宗 (唐)|高宗]]）の時代に隋以来の懸案であった[[高句麗]]征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて天后&amp;lt;ref&amp;gt;武則天により、それまでの「皇帝・皇后」が「天皇・天后」と改名された。&amp;lt;/ref&amp;gt;であった武后（[[武則天]]）とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって実権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後に自ら帝位に就き、[[690年]]（[[載初]]元年）国号を周と改めた（武周）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床にある事が多くなると権威は衰え、[[705年]]（[[神龍 (唐)|神龍]]元年）、[[中国の宰相|宰相]][[張柬之]]に退位を迫られた。こうして武則天に退位させられた息子の[[中宗 (唐)|中宗]]が再び帝位につき唐を復活、周は一代15年で滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今度は、中宗の皇后[[韋后]]が第二の武則天になろうと中宗を毒殺した。韋后はその後即位した[[殤帝 (唐)|殤帝]]を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、これに反対して中宗の甥[[玄宗 (唐)|李隆基]]と武則天の娘[[太平公主]]がクーデターを起こした。敗れた韋后は族殺され、武則天により退位させられ皇位を離れていた李隆基の父・[[睿宗 (唐)|睿宗]]が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7世紀後半から8世紀前半に後宮を中心に頻発した政乱は、これを主導したふたりの皇后の姓をとって「武韋の禍」と呼ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 盛唐（8世紀初頭～） ===&lt;br /&gt;
[[画像:China_map.jpg|right|thumb|400px|8世紀前半の唐]]&lt;br /&gt;
[[Image:Tang_XianZong.jpg|right|thumb|200px|玄宗]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[712年]]（[[先天 (唐)|先天]]元年）、李隆基は睿宗から譲位され、即位して[[玄宗 (唐)|玄宗]]皇帝となった。翌年、太平公主を殺し、完全に権力を掌握した。玄宗の治世の前半は[[開元の治]]と賞され、唐の絶頂期となった。この時期、唐の勢威は[[中央アジア]]の[[オアシス]]都市群にまで及んだが、[[751年]]に[[トランスオクシアナ]]の支配権をめぐって[[アッバース朝]]との間に起こった[[タラス河畔の戦い]]には敗れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
玄宗は、長い治世の後半には[[楊貴妃]]を溺愛して政治への意欲を失い、宰相[[李林甫]]、ついで貴妃の一族[[楊国忠]]の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の[[安禄山]]と対立し、危険を感じた安禄山は[[755年]]に反乱を起こした。[[節度使]]は、玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方三州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて[[燕]]皇帝と称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都の長安も占領され、玄宗は[[蜀]]に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将[[郭子儀]]らの活躍や回鶻（[[ウイグル]]）の援軍（皇太子[[葉護]]ら）によって、[[763年]]に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後乱を主導した配下の[[史思明]]の名をとって'''[[安史の乱]]'''と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻（ウイグル）には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた（「[[河朔三鎮]]」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各地に小軍事政権（[[藩鎮]]）が割拠する状態は、後の[[五代十国時代]]まで続き、戦乱の原因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降、唐は次第に傾いていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中唐（8世紀半ば～） ===&lt;br /&gt;
安史の乱により疲弊した唐は中央アジアのみならず[[西域]]までも保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たるの力を失っていった。また、この頃になると中央では[[宦官]]の力が非常に強くなって皇帝に対し強い影響力を行使し、地方では節度使が中央政府から自立して半独立的な地方支配を行っていくようになる。節度使の増加にともない、皇帝が全国に及ぼす支配力は非常に限られたものとなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、中興の祖と言われる[[憲宗 (唐)|憲宗]]は[[禁軍]]（皇帝直轄軍）を強化する事で中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後、不老長寿の薬と称された危険な薬を常用するようになり、精神不安定になって宦官を虐殺するようになり、恐れた宦官により逆に殺された。孫の[[文宗 (唐)|文宗]]は宦官を誅殺しようと策略を練ったが失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動く傀儡となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩唐（9世紀半ば～10世紀初頭） ===&lt;br /&gt;
文宗の弟の[[武宗 (唐)|武宗]]は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。この時期、[[牛僧孺]]と[[李徳裕]]の政争が激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。これは牛李の党争と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政乱による国力の低下は地方の圧政につながり、[[859年]]の[[裘甫の乱]]、[[868年]]の[[ホウ勛の乱|龐勛の乱]]に代表される反乱が各地で起きた。[[874年]]ごろから[[黄巣の乱]]が起きる。この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を[[斉]]として皇帝となった。しかし黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務が出来ず、自滅に近い形で長安を去った。この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後[[朱全忠]]と名乗る。この頃になると既に唐朝の支配地域は首都[[長安]]の周辺のみとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経済の先進地である[[河南省|河南]]地方の節度使となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の[[開封]]に移して唐の権威を借りて勢力を拡大した。[[907年]]（天祐 (唐)|4年）、朱全忠は[[哀帝 (唐)|哀帝]]より禅譲を受けて[[後梁]]を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に[[華北]]の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力をもたず、中国は[[五代十国時代|五代十国]]の分裂時代に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
※兵制については下の[[唐#税制・兵制]]の項で述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 律令体制とその崩壊 ===&lt;br /&gt;
[[西晋]]で作られた[[泰始律令]]以来、何度か改変が重ねられ、[[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして'''格式'''がある。律令に当てはまらないようなことを解決するために出された詔勅のうち、それが法として新たに加えられるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後述する[[三省六部]]、九品制、[[均田制]]、[[府兵制]]などは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を[[律令制]]と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐律令は何度か変更がなされ、[[玄宗 (唐)|玄宗]]の[[737年]]（[[開元]]25年）にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、この時既に律令が現実の政治状況と乖離していたとの指摘がなされており、それに代わって詔勅と格が現実に適応するためのものとして重要な役割を果たしたとされる。律令は体制の中心としては権威を持っていたが、実際に運用するに当たっては律令がそのまま適用されると言うわけではなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に[[安史の乱]]以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、格式が重要視され、律令は形骸化する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 科挙と貴族政治 ===&lt;br /&gt;
初唐は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]からの風潮を引き継いで完全な[[貴族政治]]である。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団の事を[[武川鎮軍閥|関隴貴族集団]]と呼ぶ。関は[[関中]]（[[陝西省]]）、隴は現在の[[甘粛省]]東部のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この関隴系の貴族は[[鮮卑]]系の北朝貴族であり、この他には漢族と[[北斉]]の流れを組む山東系貴族、そして[[南朝]]の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系のもの達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格のものに対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようなことが行われる事は、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたと言う事を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る[[門下省]]と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その一方で隋より受け継いだ[[科挙]]も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。更に前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この体制を崩そうとしたのが[[武則天]]である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武則天の政治自体は[[705年]]の時点で終わったものの、次に権力を握った[[玄宗]]は武則天が登用した[[閣僚]]を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行った。しかし玄宗が後期に堕落したことでこの方針は一時期遠のく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中期以降の唐では[[科挙]]出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職につけない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめる事は出来ず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験するものも増える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[牛僧孺]]と[[李宗閔]]を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、[[政策]]争いから次第に[[党派]]争いへと堕し、この時期には既に唐の国力は傾いていた事もあって反って国力を弱める結果となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 官制 ===&lt;br /&gt;
律令制下の[[官制]]は'''[[三省六部]]'''を頂点とする。[[中書省]]が詔勅（皇帝の命令）の起草、[[門下省]]がその審議を行い、[[尚書省]]が配下の六部（[[礼部]]・[[吏部]]・[[戸部 (六部)|戸部]]・[[兵部]]・[[刑部]]・[[工部 (六部)|工部]]）を通して詔勅を実行する。門下省の長官は'''[[侍中]]'''（2名）、中書省の長官は'''[[中書令]]'''（2名）、尚書省の長官は[[尚書令]]と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の[[太宗 (唐)|太宗]]が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の'''[[僕射]]'''（ぼくや、左右一名づつ）が実質上の長官であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら6人の省の長官たちが[[中国の宰相|宰相]]職とされ、重要政策の決定は宰相の合議によって行われた。しかし次第に中書令の権力が強くなり、皇帝の代理人としての力を振るうことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚書六部の下には[[漢]]代以来の実務機関である'''[[九寺]]'''、'''[[五監]]'''があり、庶務を担当した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また三省とは別に宮中の文書を扱う[[秘書省]]・皇帝の衣食などを取り扱う[[殿中省]]・[[後宮]]の管理を行う[[内侍省]]があり、合わせて[[六省]]と呼ばれる。他に監察機関として[[御史台]]があり、[[官僚]]たちの[[監察]]を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし律令制の崩壊に伴い、新たな状態に対応するために新たな官職が設けられるようになった。主なものに[[州]]の監察を行う[[観察使]]、国家財政を司る[[度支使]]、運送を司る[[転運使]]、後述の塩鉄専売を司る[[塩鉄使]]などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る権限を示す。これら'''[[令外官]]'''を'''使職'''（ししょく）と言い、令制官はそのまま形骸だけを残される。この状態は[[北宋]]にまで引き継がれ、[[神宗 (宋)|神宗]]の改革まで残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部の一つ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、'''三司'''と称して中央財政を司る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またそれまで[[中書省]]の中書舎人が行っていた詔勅の起草が、玄宗によって作られた[[翰林学士]]により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つ事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地方制度 ===&lt;br /&gt;
唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を行うのは刺史を長官とする[[州]]（[[郡]]）と、その下にあって県令を長官とする[[県]]の二本立ての行政区画である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県の下に100[[戸]]をまとめて1[[里]]とし、5里を1[[郷]]とする行政単位がある。この制度を'''[[郷里制]]'''と呼び、これは[[隋]]より受け継いだものである。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ[[里正]]と言う役が里の中から選ばれ、[[徴税]]・犯罪の取り締まりなどに当たった。これと並列して'''[[隣保制]]'''と言うものがある。これは郷里の中間組織として運用されていたと考えられているが、実際にどのように運営されていたかは資料の間で食い違いがあり、現在の所はっきりとは分かっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安史の乱]]後は節度使・観察使の[[藩鎮]]勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また国内には領土の統治のために連絡用の[[駅伝]]が30[[里]]ごとに置かれており、有事に備えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宦官 ===&lt;br /&gt;
唐代は歴代王朝の中でも[[後漢]]・[[明]]と並んで[[宦官]]悪の顕著な時代とされている。唐に於いて最初に権勢を持った宦官は玄宗の側近であった[[高力士]]である。高力士は玄宗から絶大な信頼を受け、[[李林甫]]などは高力士と結んで高位にまで上ったといわれる。高力士自身は玄宗への忠誠心で全てが出来ているような人物であり、あまり表には出ずに終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安史の乱]]後、[[粛宗 (唐)|粛宗]]擁立に功績を挙げて宦官として始めて宰相となった[[李輔国]]、[[代宗 (唐)|代宗]]の元で[[驃騎将軍]]となった[[程元振]]などを経て、[[神策軍]]を擁した[[魚朝恩]]の台頭の以後はほぼ宦官の存在が唐朝廷の大きな位置を占めることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神策軍は元は唐の地方軍の一つに過ぎなかったのだが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命されるようになり、宦官の権力の拠り所となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら宦官の専横に対して皇帝側でも宦官を排除しようとする動きが出てくる。[[憲宗 (唐)|憲宗]]は前述したように危険な薬物の副作用で宦官を虐殺したとされるが、これを副作用に事付けて宦官を殺そうとしていたのではないかと見る向きもある。憲宗の孫の[[文宗 (唐)|文宗]]は宦官に対して不快感を抱いており、それを察した官僚[[李訓]]・[[鄭注]]は宦官殺害の策を練り、[[835年]]に「甘露が降ると言う瑞兆があった」と言う偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致によりこの計画は失敗し、李訓たちは殺される。これを[[甘露の変]]と呼び、これ以降は宦官を抑えようとする動きは無くなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのことを皇帝と宦官の対立と見るのは正しくない。宦官の権力の源泉は何といっても皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。その逆もまたある意味で真であり、宦官がこれほどに権勢を振るったのも皇帝側がそれを必要としていたからであると考えなければ説明が付かない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十九代[[昭宗 (唐)|昭宗]]は[[朱全忠]]の力を借りて宦官勢力を全滅させるが、そのすぐ後に朱全忠により暗殺され、唐自体もまもなくして滅ぶ。これは皇帝と宦官とが運命共同体であったと言う傍証となりえないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
※唐代の単位については以下の通り。1畝=約580平方メートル。100斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=37.3g。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税制・兵制 ===&lt;br /&gt;
唐の税制は[[北周]]以来の'''[[均田制]]'''・'''[[租庸調制]]'''であり、兵制は'''[[府兵制]]'''である。この両制度は互いが互いに不可欠な制度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
均田制はまず全国の丁男（労働に耐えうる青年男性）一人につき[[永業田]]（その後、永久にその土地を所有する事が認められ、子孫に受け継がれる）を20[[畝]]、[[口分田]]（当人が死亡するか、60歳になるかすると国家に返却する）が80畝支給される。また官職にある者は[[職分田]]が与えられる（これは辞職した時に返却する）。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・[[道士]]などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこれらの支給に対して、[[租庸調]]と呼ばれる税を納める義務を負う。[[租]]は粟（穀物）2[[石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]]を収める。年間20日の[[労役]]の義務があり、それを免れるために収める税を[[庸]]と言い、労役一日に対し絹3[[尺]]あるいは布3.75尺を収める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
府兵制はこれらの[[戸籍]]に基づいて3年に1度、丁男に対して[[徴兵]]の義務を負わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
均田制・府兵制の両制度の実施には[[戸籍]]が必要不可欠であるが、[[玄宗 (唐)|玄宗]]期になると窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する（[[逃戸]]と呼ばれる）事が多くなり、また窮迫した農民から買い取る事により、土地の兼併が進んだために戸籍を正確に把握することが難しくなった。均田・租庸調制と府兵制は崩壊し、それに代わる新しい税制・兵制が必要となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新しい兵制は[[節度使]]・[[募兵制]]である。それまでは労働税として[[兵役]]に就かせていたが、節度使制ではその土地の租税を節度使が徴収し、それを基に兵士を雇い入れて国境防備に使うというものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[710年]]に[[安西節度使]]（[[天山南路|天山山脈南路]]の防衛）を置いたのを初めとして[[719年]]までに10の節度使を設置している。当初はあくまで国境警備のためのものであり、[[辺境]]地域にしか置かれていない。しかしこの制度は節度使に過度の権力を持たせる事になり、[[安史の乱]]の原因となった事は前述した。安史の乱後は内地にも節度使が置かれるようになる。このことで唐は半割拠状態となり、地方の節度使は唐に対する税の貢納は行っていたものの、徐々に自立色を深めていき、最終的には節度使により唐は滅ぼされることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[780年]]に施行された新しい税制は、それまで貧乏・富裕関らずに均等な額の税を徴収していたのを財産に応じた額に改めたものである。[[夏]]（6月）と[[秋]]（11月）の年二回徴収するので[[両税法]]と呼ばれる。ただし夏に収めるものは[[麦]]であり、秋に収めるものは[[粟]]と[[稲]]である。税額は一定しておらず、まずその年に使われる年間[[予算]]を計算し、それに併せて税額を各地に割り当てるというものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつて[[安禄山]]軍から投降した三人の武将に授けた節度使職を元とする成徳軍・盧竜軍・天雄軍の三つの節度使は特に独立傾向が強く、節度使の地位を世襲化し、中央に納めるべき税を納めなかった。この三つを河朔三鎮と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[憲宗 (唐)|憲宗]]は節度使勢力を抑えるために自立傾向の強い節度使に対して討伐を加え、その結果、反抗の度合いが薄くなった節度使の権限を縮小し、その任期を短くする事で再び反抗することを抑えようとした。この思惑は成功はするが、思わぬ副作用を生んだ。任期を短くされた節度使のポストは官僚が中央へ帰るときに使う賄賂を溜め込むための物となり、短い任期の中で厳しい収奪と兵士の食料・給料などの着服が行われるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この影響は初めのうちは不満を持った兵士が兵乱（兵士中心の反乱）を起こす事により、上司たる節度使を追放し、自分達に都合の良い節度使を地位に据えるという形で現れる。このようになると新たに強い権限を得た上級兵士の間では不正が横行するようになり、その不正を是正するために強硬な姿勢を取った節度使もいたが、これも追放された。このような兵乱の代表が[[裘甫の乱]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兵乱はあくまで自分達の利益のために背いただけであって、何れは矛を収めるのが、いわば予定調和としてあった。しかし収奪された民衆は節度使にも不満を抱くが、それを抑制できない唐政府にも不満を抱き、唐にとってより危険な存在であった。[[ホウ勛の乱|龐勛の乱]]は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱（民衆が中心の反乱）と化した。この乱は[[黄巣の乱]]の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 専売制 ===&lt;br /&gt;
安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために[[758年]]に[[塩]]と[[鉄]]の[[専売制]]を実施した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
専売の統括をする役職が[[塩鉄使]]である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、出来た塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貴族の没落と市民経済の勃興 ===&lt;br /&gt;
科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格のためには長期間にわたって勉強にのみ集中できる環境が必要であり、また書物を購入するための金額もかなりの高額になることから合格するにはそれなりの財産を持つ事が必要であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴族によって科挙が軽視されていた時代に科挙を受けていた層は新興地主層で、唐全体の流通が活性化したことで財産を積み上げてきた。これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を元に更に財産を積み上げて行き、豪商・富農と呼べる存在が現れてくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商業が活発化したことは都市の市（いち）の変化によっても知れる。唐前半までの市は場所と時間が限られており、商売するためには役所に登録しなくてはならず、また都市の区画ごとに壁を作って、自由な流通を妨げていた。しかし唐後半より、商取引を望むものの増加に伴い、そこかしこで市が開かれるようになり、時間制限や登録制は有名無実化した。また、都市以外の場所でも[[草市]]（[[墟市]]）の形成が見られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[煬帝]]によって作られた[[大運河]]も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・[[長安]]より、大運河沿いの商業都市・[[開封]]が中国の中心都市の地位を奪うことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら社会の変化に貴族層は付いていけず、貴族の影響力の牙城であった[[門下省]]はその実質を失い、[[中書省]]に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。前述のように退勢を自覚した貴族層は科挙を受けるようになるが、流れを止めることは出来ず、[[五代十国時代]]の戦乱の中で中国史に於ける貴族と言う存在は消滅する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら新興地主層は五代十国の中でも更に勢力を積み上げて、[[北宋]]代の[[形勢戸]]に繋がり、この層が科挙官僚を生み出す事で[[士大夫]]層の形成へと繋がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 荘園の形成 ===&lt;br /&gt;
初唐の[[荘園]]は皇族と貴族層によって経営されていた。荘園と[[均田制]]とは相容れない存在のはずであるが、間違いなく荘園は存在していた。貴族達の持つ均田制はその範疇外にあったと見る説もあり、そもそも均田制が全国的に施行されていたのかを疑問視する説もあるが、研究途上であり、容易に結論は出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
均田制が崩壊して、両税法に変わった。このことは別の面から見れば大土地所有を公認した事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
荘園の大きさは大体10頃から100頃（58～580[[アール]]）の大きさで、雇い入れた客戸（本籍地を離れた民）あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。またその土地を[[小作農]]に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借り賃で破産してそのまま荘園に囲い込まれる例も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後期以降は新興地主層が荘園の主な経営者となるが、他にも新たに台頭した[[節度使]]勢力も積極的に荘園経営に取り組み、財力を蓄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
首都の[[長安]]は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。[[日本]]や[[新羅]]、[[吐蕃]]など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 思想・宗教 ===&lt;br /&gt;
科挙制度において[[儒教]]の経典が必須科目となり、太宗は[[孔穎達]]に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった[[四書五経|五経]]を一つの解釈にまとめる『[[五経正義]]』を編纂させた。このことによりそれまでの不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。しかしこれによって逆に思想の発展が阻害されることにもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[後漢]]代に伝来した[[仏教]]は[[魏晋南北朝時代]]の混乱の中で飛躍的にその勢力を伸ばし、在来宗教である[[道教]]を圧するほどになった。[[玄奘]]・[[義浄]]などは[[インド]]へ赴いて大量の経典を持ち帰った。貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に[[武則天]]は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には[[禅宗]]・[[浄土教]]・[[密教]]・[[華厳宗]]などがあり、それぞれ栄えたが、[[三階教]]は徹底的に弾圧された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皇室の李氏は李耳（[[老子]]）を祖とすると称していたので、[[道教]]は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後と言う原則が定められていた。特に玄宗はその[[廟号]]も道教風であり、道教に傾倒している。しかしこの保護はあくまで皇族の間に留まり、民間では圧倒的に仏教の勢力が強かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他にも長安には[[イスラム教]]・[[マニ教]]・景教（[[ネストリウス派]][[キリスト教]]）・{{lang|zh|祆教}}（祆は示偏に天。[[ゾロアスター教]]）などの寺院が立ち並び国際都市としての景観を持っていた。これらが領土の広さと並んで唐の世界国家としての象徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし安史の乱以後は領土が縮小し、西方を[[吐蕃]]に奪われたことで次第に国粋主義的になった。第15代武宗は道教を信奉し、仏教を初めとした外来宗教を弾圧した（[[会昌の廃仏]]・[[三武一宗の法難]]の第三）。ただしこの弾圧は宗教的な色は薄く、出家することで税逃れをする私度僧と呼ばれる者を[[還俗]]させる事で財政の改善を狙う目的が主だった。しかしながらこの弾圧を契機として、[[仏教]]はもとより上記の各宗教も大打撃を被り、往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教も、[[禅宗]]や再興した[[天台宗]]が中心となるが、それらは、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなっていた。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である[[百丈]][[清規]]中の「'''一日作さざれば一日食らわず'''」という有名な言葉に表されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、[[韓愈]]の著した『[[原道]]』『[[原性]]』などの中に見られる思想で、[[堯]][[舜]]や[[孔子]]以来脈々と続く「[[道統]]」論を提唱し、[[宋学]]の先駆となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
唐は歴代でも[[漢詩]]の最高峰とされる時代である。[[日本]]にも『[[唐詩選]]』などを通じて多く紹介されており、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初唐の代表的詩人として、[[王勃]]・[[楊炯]]・[[盧照鄰]]・[[駱賓王]]の四人を初唐の四傑と呼んでいる。盛唐の詩人としては[[王維]]・[[孟浩然]]・[[岑参]]・[[高適]]・[[王昌齢]]などがあり、更に'''[[李白]]'''・'''[[杜甫]]'''の中国歴代でも最高とされる両人がいる。中唐では[[白居易]]・[[元シン|元&amp;lt;font lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#31289;&amp;lt;/font&amp;gt;]]（&amp;lt;font lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#31289;&amp;lt;/font&amp;gt;は禾編に真）が代表とされ、晩唐の代表が[[李商隠]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中唐において[[韓愈]]・[[柳宗元]]らにより、それまでの[[六朝時代|六朝]]から引き継いだ[[四六駢儷体]]と呼ばれる華美であるが、空疎になってしまう事もある文体を[[漢]]代の質実剛健な物に戻そうと言う運動が行われ、それが漢詩においても反映されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[歴史]]の分野においては、太宗によりそれまでに作られていなかった時代についての[[歴史書]]を作るようにとの命が出され、『[[晋書]]』・『[[梁書]]』・『[[陳書]]』・『[[周書]]』・『[[隋書]]』が[[房玄齢]]らにより編纂された。『[[史記]]』や『[[漢書]]』などは私選の書物が後から国定に昇格したものであるが、この事業の後は[[正史]]は国選のものとされ、滅びた王朝の正史を作る事が時代の王朝にとってある種の義務となった。しかし「このことにより、正史が国家の正当を主張するための道具とされるようになった」と批判する人もいる。また[[劉知幾]]による『[[史通]]』は中国に於ける史学を開いた存在とされ、後世の史学者にとって必携の書となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
六朝時代に誕生した志怪小説が伝奇小説へと内容的に変貌を遂げて流布するようになり、『[[古鏡記]]』や『[[遊仙窟]]』、『[[杜子春伝]]』といった数々の作品が生み出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美術 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Westerner_on_a_camel.jpg|right|thumb|200px|唐三彩]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐代の美術品については安史の乱や黄巣の乱により、多くが破壊され、現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは[[莫高窟]]や[[龍門洞窟|龍門石窟]]などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、更に仏教美術が圧倒的に多いことが特徴であり、これらは西方の影響が強いと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絵画に於いては[[閻立本]]・[[呉道玄]]・[[李思訓]]・王維と言った名前が挙がる。閻立本は[[太宗 (唐)|太宗]]に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。[[ボストン美術館]]にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、[[北宋]]代の模写であると推察されている。呉道玄は[[玄宗]]に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたと言う。[[蘇軾]]曰く「画は呉道士（道玄の元の名）に至りて終われり。」と。しかし作品は全て現存していない。李思訓は[[武則天]]期の人で、色鮮やかな[[山水画]]を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ[[北宗画]]・[[南宗画]]の祖として扱われるようになる。これが安史の乱以降になると、西方の影響が薄れて水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られるようになる。この代表として同時代の絵画評論文集『[[唐朝名画録]]』は[[王墨]]・[[李霊省]]・[[張志和]]の三人を挙げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[王羲之]]によって芸術の域にまで高められた書はその王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が[[虞世南]]・[[チョ遂良|褚遂良]]・[[欧陽詢]]である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して[[張旭]]は狂草と呼ばれる奔放な書体をつくり、更に張旭に師事した[[顔真卿]]は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[陶磁器]]の分野では唐[[三彩]]と呼ばれる逸品が作られた。これらには[[サーサーン朝]]の影響があると言われており、その名のとおり色鮮やかなことが特徴である。人物像や動物像（[[涌]]）などが多く、器になっているものも実用性の低いものが多い。一方、高温度で焼成する[[磁器]]も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際関係 ==&lt;br /&gt;
唐の最大領域は高宗期の7世紀半ばであり、東西は朝鮮北部から[[天山山脈]]のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域では異民族を緩やかに支配する間接支配を取っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐の異民族支配は'''[[羈縻政策|羈縻支配]]'''（きびしはい）と呼ばれる。この政策は[[冊封]]と似ているが、少し違い、その異民族の支配地に唐の地方制度の一単位である都督府・羈縻州を設置し、その長官に異民族の長を任命して自治権を認めるものである。完全な直接支配と冊封との間を取ったものと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。&lt;br /&gt;
*安西 - [[640年]]設置。[[シルクロード]]の天山南路の守備。&lt;br /&gt;
*安北 - [[647年]]設置。外[[モンゴル]]支配。&lt;br /&gt;
*単于 - [[650年]]設置。内モンゴル支配。&lt;br /&gt;
*安東 - [[668年]]設置。[[朝鮮]]・[[満州]]支配。&lt;br /&gt;
*安南 - [[679年]]設置。[[ベトナム]]・その他の南海諸国支配。&lt;br /&gt;
*北庭 - [[701年]]設置。天山北路の守備。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、[[高句麗]]の[[高仙芝]]、[[百済]]の[[黒歯常之]]、[[日本人]]の[[阿倍仲麻呂]]や雑胡（異民族の混血）の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。まったく外国人に対する差別が無かった訳ではないが、唐代は歴代でも極めてその傾向が低いと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境地方への節度使の配置を進め、羈縻支配を改めていった。しかしこのことは周辺諸国の動きを活発化させ、ウイグルや吐蕃により唐の周辺は非常に不安定になる。9世紀にはそのウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北方 ===&lt;br /&gt;
[[6世紀]]に巨大帝国を築いた[[突厥]]は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の[[626年]]には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後の貞観の治により唐は急速に国力を拡大し、[[630年]]には突厥から独立した[[鉄勒]]と挟撃して東突厥を滅ぼして羈縻支配に組み込み、安北都護府（設置当初の名称は燕然都護府）・単于都護府を設置した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗（カガン）は[[ハーン]]、すなわち[[遊牧民]]世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは当時の唐帝国が帯びていた遊牧民的世界性を如実に示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、[[682年]]に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は[[745年]]に[[ウイグル]]を中心とした部族連合（「九姓鉄勒」「九姓回鶻」）に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる[[遊牧国家]]を建設する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし[[8世紀]]に[[キルギス人|キルギス]]の攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 西方 ===&lt;br /&gt;
唐は[[640年]]に[[高昌国]]（現[[トルファン]]）を滅ぼしたのを初めとして、[[シルクロード]]沿いの[[オアシス]]国家を服属させて安西都護府（[[クチャ]]）を設置し、[[西域]]経営を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[635年]]に[[青海省|青海]]の[[吐谷渾]]を支配下に置き、[[チベット高原]]の[[吐蕃]]も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を和蕃[[公主]]として嫁がせるなどして懐柔に努めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・[[パミール高原]]以西の[[トランスオクシアナ]]にまで及ぶが、[[751年]]の[[タラス河畔の戦い|タラス河畔の敗戦]]によって頓挫、中央アジアの支配権は[[イスラム帝国]]に譲ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の[[787年]]には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、[[822年]]に唐と和睦した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、[[天山ウイグル王国]]や[[甘州ウイグル]]、[[タングート]]（後の[[西夏]]）などの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降は[[インド洋]]・[[南シナ海]]を通じて[[西アジア]]の商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くの[[アラブ人]]や[[ペルシア人]]のムスリム商人が[[広州]]に来航した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東方 ===&lt;br /&gt;
隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の[[高句麗]]に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし[[新羅]]と連合して[[660年]]にまず南の[[百済]]を滅ぼし、[[668年]]には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、[[平壌]]に安東都護府を設置する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後は新羅が勢力を拡大し、半島の支配をめぐって唐と対立するようになると安東都護府は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐の[[冊封]]を受けて和解した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方同じ頃、東北地方（[[満州]]）ではこの地方に移住させらされた高句麗の遺民たちが中心となって震国（のち[[渤海 (国)|渤海]]）を立て、唐から独立した。当初はこの国に対して遠征軍を送ったが、この国が朝貢を行うようになると渤海郡王に冊封した。やがて渤海王・[[大武芸]]は[[黒水靺鞨]]の支配をめぐって唐と対立し、[[733年]]には[[水軍]]を送って[[山東半島]]の登州を一時占領したが、間もなく講和した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南方 ===&lt;br /&gt;
[[南越]]の滅亡以来、長い間中国の支配下に置かれていた[[ベトナム]]は、漢代から何度と無く独立運動を起こしており、この地に安南都護府を置いていたが、反抗は激しく実質的に統治は出来ていなかったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた[[雲南省|雲南]]の[[南詔]]が勢力を拡大、[[四川省|四川]]の[[成都]]付近まで進出した。また南詔は、唐の安南都護府を何度か滅ぼし、その都度奪回はしてはいたものの、もはやこの地方に唐の支配力は及ばなくなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本との関係 ===&lt;br /&gt;
[[日本]]からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が[[660年]]に日本の同盟国である朝鮮半島の[[百済]]を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに[[663年]]、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を[[白村江の戦い]]で打ち破る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて[[遣唐使]]による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9世紀]]になると唐の衰えと日本独自の文化の発展から日本側が危険を冒して遣唐使を送る意欲を失っていった。[[894年]]、[[菅原道真]]の建議により遣唐使は廃止され、その後[[明]]の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 唐の皇帝と元号 ==&lt;br /&gt;
[[画像:唐系図.PNG|180px|thumb|right|唐の系図]] &lt;br /&gt;
&amp;lt;!--この表はウィキ英語版[[EN:Tang Dynasty|Tang Dynasty]]から持ってきたものです。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;table border=&amp;quot;1&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;2&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[皇帝]]&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;名&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;統治年数&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[元号]]&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[李淵|高祖]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李淵&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[618年]]-[[626年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[武徳]] [[618年]]-[[626年]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[太宗 (唐)|太宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李世民&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[626年]]-[[649年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[貞観 (唐)|貞観]] [[627年]]-[[649年]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[高宗 (唐)|高宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李治&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[650年]]-[[683年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[永徽]] [[650年]]-[[655年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[顕慶]] [[656年]]-[[661年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[龍朔]] [[661年]]-[[663年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[麟徳]] [[664年]]-[[665年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾封]] [[666年]]-[[668年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[総章]] [[668年]]-[[670年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[咸亨]] [[670年]]-[[674年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[上元 (唐高宗)|上元]] [[674年]]-[[676年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[儀鳳]] [[676年]]-[[679年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[調露]] [[679年]]-[[680年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永隆 (唐)|永隆]] [[680年]]-[[681年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[開耀]] [[681年]]-[[682年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永淳]] [[682年]]-[[683年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[弘道 (唐)|弘道]] [[683年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[中宗 (唐)|中宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李顯&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[684年]]（[[705年]]-[[710年]]に[[重祚]]）&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[嗣聖]] [[684年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[睿宗 (唐)|睿宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李旦&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[684年]]（[[710年]]-[[712年]]に重祚）&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[文明 (唐)|文明]] [[684年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[武則天]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;武照&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[684年]]-[[705年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[光宅]] [[684年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[垂拱]] [[685年]]-[[688年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永昌 (唐)|永昌]] [[689年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[載初]] [[690年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天授 (周)|天授]] 690年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[如意]] [[692年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[長寿 (周)|長寿]] 692年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[延載]] [[694年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[証聖]] [[695年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天冊万歳]] 695年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[万歳登封]] [[696年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[万歳通天]] 696年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[神功]] [[697年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[聖暦]] [[698年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[久視]] [[700年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大足]] [[701年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[長安 (周)|長安]] 701年&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td colspan=&amp;quot;4&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;'''武周（[[690年]] - [[705年]]）'''&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td colspan=&amp;quot;4&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;'''唐の復興'''&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;中宗&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李顯&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[705年]]-[[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[神龍 (唐)|神龍]] [[705年]]-[[707年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[景龍 (唐)|景龍]] [[707年]]-[[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[殤帝 (唐)|殤帝]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李重茂&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[唐隆]] [[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;睿宗&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李旦&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[710年]]-[[712年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[景雲 (唐)|景雲]] [[710年]]-[[711年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[太極 (唐)|太極]] [[712年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[延和 (唐)|延和]] [[712年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[玄宗 (唐)|玄宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李隆基&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[712年]]-[[756年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[先天 (唐)|先天]] [[712年]]-[[713年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[開元]] [[713年]]-[[741年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天宝 (唐)|天宝]] [[742年]]-[[756年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[粛宗 (唐)|粛宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李亨&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[756年]]-[[762年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[至徳 (唐)|至徳]] [[756年]]-[[758年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾元 (唐)|乾元]] [[758年]]-[[760年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[上元 (唐粛宗)|上元]] [[760年]]-[[761年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[代宗 (唐)|代宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李豫&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[762年]]-[[779年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[宝応]] [[762年]]-[[763年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[広徳 (唐)|広徳]] [[763年]]-[[764年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永泰 (唐)|永泰]] [[765年]]-[[766年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大暦 (唐)|大暦]] [[766年]]-[[779年]]&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[徳宗 (唐)|徳宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李适&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[780年]]-[[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[建中 (唐)|建中]] [[780年]]-[[783年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[興元]]　[[784年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[貞元 (唐)|貞元]] [[785年]]-[[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[皇帝]]&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;名&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;統治年数&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[元号]]&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[順宗 (唐)|順宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李誦&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[永貞 (唐)|永貞]] [[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[憲宗 (唐)|憲宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李純&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[806年]]-[[820年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[元和 (唐)|元和]] [[806年]]-[[820年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[穆宗 (唐)|穆宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李恆&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[821年]]-[[824年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[長慶]] [[821年]]-[[824年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[敬宗 (唐)|敬宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李湛&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[825年]]-[[826年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[宝暦 (唐)|宝暦]] [[824年]]-[[826年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[文宗 (唐)|文宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李昴&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[826年]]-[[840年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;宝暦 [[826年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大和 (唐)|大和]][[元号一覧 (中国)#唐|&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;]] [[827年]]-[[835年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[開成 (唐)|開成]] [[836年]]-[[840年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[武宗 (唐)|武宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李炎&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[840年]]-[[846年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[会昌]] [[841年]]-[[846年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[宣宗 (唐)|宣宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李忱&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[846年]]-[[859年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[大中]] [[847年]]-[[859年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[懿宗 (唐)|懿宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李&amp;amp;#28476;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[859年]]-[[873年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;大中 [[859年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[咸通]] [[860年]]-[[873年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[僖宗 (唐)|僖宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李儼&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[873年]]-[[888年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;咸通 [[873年]]-[[874年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾符]] [[874年]]-[[879年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[広明 (唐)|広明]] [[880年]]-[[881年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[中和 (唐)|中和]] [[881年]]-[[885年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[光啓]] [[885年]]-[[888年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[文徳 (唐)|文徳]] [[888年]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[昭宗 (唐)|昭宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李曄&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[888年]]-[[904年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[龍紀 (唐)|龍紀]] [[889年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大順 (唐)|大順]] [[890年]]-[[891年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[景福 (唐)|景福]] [[892年]]-[[893年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾寧]] [[894年]]-[[898年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[光化]] [[898年]]-[[901年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天復 (唐)|天復]] [[901年]]-[[904年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天祐 (唐)|天祐]] [[904年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[哀帝 (唐)|哀帝]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李祝&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[904年]]-[[907年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;天祐 [[904年]]-[[907年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;/table&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*『世界帝国の形成』（[[谷川道雄]] [[講談社現代新書]]452 新書東洋史2 中国の歴史2 [[1977年]]）&lt;br /&gt;
*『中国史2』（[[山川出版社]] [[1996年]]）&lt;br /&gt;
*『隋唐帝国と古代朝鮮』（[[砺波護]] [[中央公論社]] [[1997年]]）ISBN 4124034067&lt;br /&gt;
*『隋唐の国際秩序と東アジア』（[[金子修一]] 名著刊行会 [[2001年]]）&lt;br /&gt;
*『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』（[[気賀沢保規]] [[講談社]] [[2005年]] 『中国の歴史』06）ISBN 4062740567&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[唐物語]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.hoolulu.com/zh/ 二十五史（簡体中国語/繁体中国語）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-align=&amp;quot;center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;30%&amp;quot;|前の時代：[[隋]]&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;40%&amp;quot;|[[中国の歴史]]&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;30%&amp;quot;|次の時代：[[五代十国時代]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/唐 '''唐''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=唐&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
[[Category:隋唐|*とう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%94%90&amp;diff=5311</id>
		<title>唐</title>
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				<updated>2007-05-28T08:41:57Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%94%90&amp;amp;oldid=12693418&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''唐'''（とう／から、[[英語|英]]:Tang Dynasty、[[618年]] - [[907年]]）は、[[中国]]の王朝。[[李淵]]が[[隋]]を滅ぼして建国した。[[7世紀]]の最盛期には、[[中央アジア]]の砂漠地帯も支配する大[[帝国]]で、[[朝鮮半島]]や[[渤海 (国)|渤海]]、[[日本]]などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えた。[[日本]]の場合は、遣唐使などを送り[[894年]]に[[菅原道真]]の意見で廃止されるまで、影響を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{中国の歴史}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国号 ==&lt;br /&gt;
国号の「唐」はもともとは[[晋]]の古名であり、もとは[[山西省]]を中心とする地域を指した。古代には[[堯]]が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があり、[[周]]の時代には[[武王 (周)|武王]]の子・唐叔虞が立てた'''[[晋 (春秋)|晋]]の別称'''としての唐とは別に、今の[[湖北省]]の一部に唐を国号とする小国があったことが知られる。唐の滅亡後、[[五代十国時代]]には[[李存勗]]の[[後唐]]、十国のひとつ[[南唐]]などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの[[皇帝]]も唐室の血は引いていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 李氏 ==&lt;br /&gt;
唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ[[武川鎮軍閥]]の出身で、[[北魏]]・[[北周]]以来の八柱国・十二将軍と称される[[鮮卑]]系[[貴族]]の内、八柱国の一家として隋によって唐国公の[[爵位]]を与えられていた。のちに、隋から[[禅譲]]を受けて新朝を立てるという[[易姓革命]]の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[旧唐書]]』・『[[新唐書]]』によれば、李氏は李耳（[[老子]]）の子孫と称し、[[西涼]]の初代王・[[李コウ|李暠]]をその遠祖としている。北周に於いて鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野（だいや）と言う姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗る事になる。しかし唐李氏の系譜はこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見方が支配的であり、建前はどうであれ、現実的には、大野が本来の姓（部族名）であり、李が北魏の漢化政策の時に付けた姓であると見られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史を更に'''初唐'''、'''盛唐'''、'''中唐'''、'''晩唐'''の四代に細分して通観する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 初唐（7世紀初頭～） ===&lt;br /&gt;
[[Image:Tang_gao_zu.jpg|right|thumb|200px|李淵]]&lt;br /&gt;
[[Image:WuZetian.jpg|right|thumb|200px|武則天]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第二代[[煬帝]]の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき[[太原市|太原]]留守（総督）であった[[李淵]]は[[617年]]（[[義寧]]元年）に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城（[[長安]]）を陥落させると、煬帝を太上皇帝（前皇帝）にまつりあげてその孫[[恭帝侑 (隋)|恭帝侑]]を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌[[618年]]（隋義寧2年、唐[[武徳]]元年）に[[江南]]にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から[[禅譲]]を受けて即位（高祖）、唐を建国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子[[太宗 (唐)|李世民]]が討ち滅ぼして行った。建国に勲功を立てた李世民は、[[626年]]に高祖の長男で[[皇太子]]の[[李建成]]を殺し（玄武門の変）、第二代の皇帝（太宗）となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太宗は外征においては当時の北方の強国[[突厥]]をくだして[[モンゴル高原]]を支配下に置き、北族から天可汗（テングリ・カガン）、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては中国においてその後も長く政治の理想形とみなされた[[三省六部]]、[[中国の宰相|宰相]]の制度が確立され、その政治は[[貞観の治]]として名高い。その治世について書かれたものが『[[貞観政要]]』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、三代（[[高宗 (唐)|高宗]]）の時代に隋以来の懸案であった[[高句麗]]征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて天后&amp;lt;ref&amp;gt;武則天により、それまでの「皇帝・皇后」が「天皇・天后」と改名された。&amp;lt;/ref&amp;gt;であった武后（[[武則天]]）とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって実権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後に自ら帝位に就き、[[690年]]（[[載初]]元年）国号を周と改めた（武周）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床にある事が多くなると権威は衰え、[[705年]]（[[神龍 (唐)|神龍]]元年）、[[中国の宰相|宰相]][[張柬之]]に退位を迫られた。こうして武則天に退位させられた息子の[[中宗 (唐)|中宗]]が再び帝位につき唐を復活、周は一代15年で滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今度は、中宗の皇后[[韋后]]が第二の武則天になろうと中宗を毒殺した。韋后はその後即位した[[殤帝 (唐)|殤帝]]を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、これに反対して中宗の甥[[玄宗 (唐)|李隆基]]と武則天の娘[[太平公主]]がクーデターを起こした。敗れた韋后は族殺され、武則天により退位させられ皇位を離れていた李隆基の父・[[睿宗 (唐)|睿宗]]が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7世紀後半から8世紀前半に後宮を中心に頻発した政乱は、これを主導したふたりの皇后の姓をとって「武韋の禍」と呼ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 盛唐（8世紀初頭～） ===&lt;br /&gt;
[[画像:China_map.jpg|right|thumb|400px|8世紀前半の唐]]&lt;br /&gt;
[[Image:Tang_XianZong.jpg|right|thumb|200px|玄宗]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[712年]]（[[先天 (唐)|先天]]元年）、李隆基は睿宗から譲位され、即位して[[玄宗 (唐)|玄宗]]皇帝となった。翌年、太平公主を殺し、完全に権力を掌握した。玄宗の治世の前半は[[開元の治]]と賞され、唐の絶頂期となった。この時期、唐の勢威は[[中央アジア]]の[[オアシス]]都市群にまで及んだが、[[751年]]に[[トランスオクシアナ]]の支配権をめぐって[[アッバース朝]]との間に起こった[[タラス河畔の戦い]]には敗れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
玄宗は、長い治世の後半には[[楊貴妃]]を溺愛して政治への意欲を失い、宰相[[李林甫]]、ついで貴妃の一族[[楊国忠]]の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の[[安禄山]]と対立し、危険を感じた安禄山は[[755年]]に反乱を起こした。[[節度使]]は、玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方三州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて[[燕]]皇帝と称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都の長安も占領され、玄宗は[[蜀]]に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将[[郭子儀]]らの活躍や回鶻（[[ウイグル]]）の援軍（皇太子[[葉護]]ら）によって、[[763年]]に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後乱を主導した配下の[[史思明]]の名をとって'''[[安史の乱]]'''と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻（ウイグル）には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた（「[[河朔三鎮]]」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各地に小軍事政権（[[藩鎮]]）が割拠する状態は、後の[[五代十国時代]]まで続き、戦乱の原因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降、唐は次第に傾いていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中唐（8世紀半ば～） ===&lt;br /&gt;
安史の乱により疲弊した唐は中央アジアのみならず[[西域]]までも保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たるの力を失っていった。また、この頃になると中央では[[宦官]]の力が非常に強くなって皇帝に対し強い影響力を行使し、地方では節度使が中央政府から自立して半独立的な地方支配を行っていくようになる。節度使の増加にともない、皇帝が全国に及ぼす支配力は非常に限られたものとなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、中興の祖と言われる[[憲宗 (唐)|憲宗]]は[[禁軍]]（皇帝直轄軍）を強化する事で中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後、不老長寿の薬と称された危険な薬を常用するようになり、精神不安定になって宦官を虐殺するようになり、恐れた宦官により逆に殺された。孫の[[文宗 (唐)|文宗]]は宦官を誅殺しようと策略を練ったが失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動く傀儡となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩唐（9世紀半ば～10世紀初頭） ===&lt;br /&gt;
文宗の弟の[[武宗 (唐)|武宗]]は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。この時期、[[牛僧孺]]と[[李徳裕]]の政争が激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。これは牛李の党争と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政乱による国力の低下は地方の圧政につながり、[[859年]]の[[裘甫の乱]]、[[868年]]の[[ホウ勛の乱|龐勛の乱]]に代表される反乱が各地で起きた。[[874年]]ごろから[[黄巣の乱]]が起きる。この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を[[斉]]として皇帝となった。しかし黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務が出来ず、自滅に近い形で長安を去った。この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後[[朱全忠]]と名乗る。この頃になると既に唐朝の支配地域は首都[[長安]]の周辺のみとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経済の先進地である[[河南省|河南]]地方の節度使となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の[[開封]]に移して唐の権威を借りて勢力を拡大した。[[907年]]（天祐 (唐)|4年）、朱全忠は[[哀帝 (唐)|哀帝]]より禅譲を受けて[[後梁]]を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に[[華北]]の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力をもたず、中国は[[五代十国時代|五代十国]]の分裂時代に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
※兵制については下の[[唐#税制・兵制]]の項で述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 律令体制とその崩壊 ===&lt;br /&gt;
[[西晋]]で作られた[[泰始律令]]以来、何度か改変が重ねられ、[[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして'''格式'''がある。律令に当てはまらないようなことを解決するために出された詔勅のうち、それが法として新たに加えられるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後述する[[三省六部]]、九品制、[[均田制]]、[[府兵制]]などは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を[[律令制]]と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐律令は何度か変更がなされ、[[玄宗 (唐)|玄宗]]の[[737年]]（[[開元]]25年）にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、この時既に律令が現実の政治状況と乖離していたとの指摘がなされており、それに代わって詔勅と格が現実に適応するためのものとして重要な役割を果たしたとされる。律令は体制の中心としては権威を持っていたが、実際に運用するに当たっては律令がそのまま適用されると言うわけではなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に[[安史の乱]]以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、格式が重要視され、律令は形骸化する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 科挙と貴族政治 ===&lt;br /&gt;
初唐は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]からの風潮を引き継いで完全な[[貴族政治]]である。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団の事を[[武川鎮軍閥|関隴貴族集団]]と呼ぶ。関は[[関中]]（[[陝西省]]）、隴は現在の[[甘粛省]]東部のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この関隴系の貴族は[[鮮卑]]系の北朝貴族であり、この他には漢族と[[北斉]]の流れを組む山東系貴族、そして[[南朝]]の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系のもの達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格のものに対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようなことが行われる事は、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたと言う事を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る[[門下省]]と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その一方で隋より受け継いだ[[科挙]]も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。更に前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この体制を崩そうとしたのが[[武則天]]である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武則天の政治自体は[[705年]]の時点で終わったものの、次に権力を握った[[玄宗]]は武則天が登用した[[閣僚]]を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行った。しかし玄宗が後期に堕落したことでこの方針は一時期遠のく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中期以降の唐では[[科挙]]出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職につけない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめる事は出来ず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験するものも増える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[牛僧孺]]と[[李宗閔]]を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、[[政策]]争いから次第に[[党派]]争いへと堕し、この時期には既に唐の国力は傾いていた事もあって反って国力を弱める結果となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 官制 ===&lt;br /&gt;
律令制下の[[官制]]は'''[[三省六部]]'''を頂点とする。[[中書省]]が詔勅（皇帝の命令）の起草、[[門下省]]がその審議を行い、[[尚書省]]が配下の六部（[[礼部]]・[[吏部]]・[[戸部 (六部)|戸部]]・[[兵部]]・[[刑部]]・[[工部 (六部)|工部]]）を通して詔勅を実行する。門下省の長官は'''[[侍中]]'''（2名）、中書省の長官は'''[[中書令]]'''（2名）、尚書省の長官は[[尚書令]]と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の[[太宗 (唐)|太宗]]が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の'''[[僕射]]'''（ぼくや、左右一名づつ）が実質上の長官であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら6人の省の長官たちが[[中国の宰相|宰相]]職とされ、重要政策の決定は宰相の合議によって行われた。しかし次第に中書令の権力が強くなり、皇帝の代理人としての力を振るうことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚書六部の下には[[漢]]代以来の実務機関である'''[[九寺]]'''、'''[[五監]]'''があり、庶務を担当した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また三省とは別に宮中の文書を扱う[[秘書省]]・皇帝の衣食などを取り扱う[[殿中省]]・[[後宮]]の管理を行う[[内侍省]]があり、合わせて[[六省]]と呼ばれる。他に監察機関として[[御史台]]があり、[[官僚]]たちの[[監察]]を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし律令制の崩壊に伴い、新たな状態に対応するために新たな官職が設けられるようになった。主なものに[[州]]の監察を行う[[観察使]]、国家財政を司る[[度支使]]、運送を司る[[転運使]]、後述の塩鉄専売を司る[[塩鉄使]]などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る権限を示す。これら'''[[令外官]]'''を'''使職'''（ししょく）と言い、令制官はそのまま形骸だけを残される。この状態は[[北宋]]にまで引き継がれ、[[神宗 (宋)|神宗]]の改革まで残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部の一つ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、'''三司'''と称して中央財政を司る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またそれまで[[中書省]]の中書舎人が行っていた詔勅の起草が、玄宗によって作られた[[翰林学士]]により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つ事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地方制度 ===&lt;br /&gt;
唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を行うのは刺史を長官とする[[州]]（[[郡]]）と、その下にあって県令を長官とする[[県]]の二本立ての行政区画である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県の下に100[[戸]]をまとめて1[[里]]とし、5里を1[[郷]]とする行政単位がある。この制度を'''[[郷里制]]'''と呼び、これは[[隋]]より受け継いだものである。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ[[里正]]と言う役が里の中から選ばれ、[[徴税]]・犯罪の取り締まりなどに当たった。これと並列して'''[[隣保制]]'''と言うものがある。これは郷里の中間組織として運用されていたと考えられているが、実際にどのように運営されていたかは資料の間で食い違いがあり、現在の所はっきりとは分かっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安史の乱]]後は節度使・観察使の[[藩鎮]]勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また国内には領土の統治のために連絡用の[[駅伝]]が30[[里]]ごとに置かれており、有事に備えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宦官 ===&lt;br /&gt;
唐代は歴代王朝の中でも[[後漢]]・[[明]]と並んで[[宦官]]悪の顕著な時代とされている。唐に於いて最初に権勢を持った宦官は玄宗の側近であった[[高力士]]である。高力士は玄宗から絶大な信頼を受け、[[李林甫]]などは高力士と結んで高位にまで上ったといわれる。高力士自身は玄宗への忠誠心で全てが出来ているような人物であり、あまり表には出ずに終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安史の乱]]後、[[粛宗 (唐)|粛宗]]擁立に功績を挙げて宦官として始めて宰相となった[[李輔国]]、[[代宗 (唐)|代宗]]の元で[[驃騎将軍]]となった[[程元振]]などを経て、[[神策軍]]を擁した[[魚朝恩]]の台頭の以後はほぼ宦官の存在が唐朝廷の大きな位置を占めることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神策軍は元は唐の地方軍の一つに過ぎなかったのだが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命されるようになり、宦官の権力の拠り所となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら宦官の専横に対して皇帝側でも宦官を排除しようとする動きが出てくる。[[憲宗 (唐)|憲宗]]は前述したように危険な薬物の副作用で宦官を虐殺したとされるが、これを副作用に事付けて宦官を殺そうとしていたのではないかと見る向きもある。憲宗の孫の[[文宗 (唐)|文宗]]は宦官に対して不快感を抱いており、それを察した官僚[[李訓]]・[[鄭注]]は宦官殺害の策を練り、[[835年]]に「甘露が降ると言う瑞兆があった」と言う偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致によりこの計画は失敗し、李訓たちは殺される。これを[[甘露の変]]と呼び、これ以降は宦官を抑えようとする動きは無くなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのことを皇帝と宦官の対立と見るのは正しくない。宦官の権力の源泉は何といっても皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。その逆もまたある意味で真であり、宦官がこれほどに権勢を振るったのも皇帝側がそれを必要としていたからであると考えなければ説明が付かない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十九代[[昭宗 (唐)|昭宗]]は[[朱全忠]]の力を借りて宦官勢力を全滅させるが、そのすぐ後に朱全忠により暗殺され、唐自体もまもなくして滅ぶ。これは皇帝と宦官とが運命共同体であったと言う傍証となりえないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
※唐代の単位については以下の通り。1畝=約580平方メートル。100斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=37.3g。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税制・兵制 ===&lt;br /&gt;
唐の税制は[[北周]]以来の'''[[均田制]]'''・'''[[租庸調制]]'''であり、兵制は'''[[府兵制]]'''である。この両制度は互いが互いに不可欠な制度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
均田制はまず全国の丁男（労働に耐えうる青年男性）一人につき[[永業田]]（その後、永久にその土地を所有する事が認められ、子孫に受け継がれる）を20[[畝]]、[[口分田]]（当人が死亡するか、60歳になるかすると国家に返却する）が80畝支給される。また官職にある者は[[職分田]]が与えられる（これは辞職した時に返却する）。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・[[道士]]などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこれらの支給に対して、[[租庸調]]と呼ばれる税を納める義務を負う。[[租]]は粟（穀物）2[[石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]]を収める。年間20日の[[労役]]の義務があり、それを免れるために収める税を[[庸]]と言い、労役一日に対し絹3[[尺]]あるいは布3.75尺を収める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
府兵制はこれらの[[戸籍]]に基づいて3年に1度、丁男に対して[[徴兵]]の義務を負わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
均田制・府兵制の両制度の実施には[[戸籍]]が必要不可欠であるが、[[玄宗 (唐)|玄宗]]期になると窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する（[[逃戸]]と呼ばれる）事が多くなり、また窮迫した農民から買い取る事により、土地の兼併が進んだために戸籍を正確に把握することが難しくなった。均田・租庸調制と府兵制は崩壊し、それに代わる新しい税制・兵制が必要となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新しい兵制は[[節度使]]・[[募兵制]]である。それまでは労働税として[[兵役]]に就かせていたが、節度使制ではその土地の租税を節度使が徴収し、それを基に兵士を雇い入れて国境防備に使うというものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[710年]]に[[安西節度使]]（[[天山南路|天山山脈南路]]の防衛）を置いたのを初めとして[[719年]]までに10の節度使を設置している。当初はあくまで国境警備のためのものであり、[[辺境]]地域にしか置かれていない。しかしこの制度は節度使に過度の権力を持たせる事になり、[[安史の乱]]の原因となった事は前述した。安史の乱後は内地にも節度使が置かれるようになる。このことで唐は半割拠状態となり、地方の節度使は唐に対する税の貢納は行っていたものの、徐々に自立色を深めていき、最終的には節度使により唐は滅ぼされることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[780年]]に施行された新しい税制は、それまで貧乏・富裕関らずに均等な額の税を徴収していたのを財産に応じた額に改めたものである。[[夏]]（6月）と[[秋]]（11月）の年二回徴収するので[[両税法]]と呼ばれる。ただし夏に収めるものは[[麦]]であり、秋に収めるものは[[粟]]と[[稲]]である。税額は一定しておらず、まずその年に使われる年間[[予算]]を計算し、それに併せて税額を各地に割り当てるというものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつて[[安禄山]]軍から投降した三人の武将に授けた節度使職を元とする成徳軍・盧竜軍・天雄軍の三つの節度使は特に独立傾向が強く、節度使の地位を世襲化し、中央に納めるべき税を納めなかった。この三つを河朔三鎮と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[憲宗 (唐)|憲宗]]は節度使勢力を抑えるために自立傾向の強い節度使に対して討伐を加え、その結果、反抗の度合いが薄くなった節度使の権限を縮小し、その任期を短くする事で再び反抗することを抑えようとした。この思惑は成功はするが、思わぬ副作用を生んだ。任期を短くされた節度使のポストは官僚が中央へ帰るときに使う賄賂を溜め込むための物となり、短い任期の中で厳しい収奪と兵士の食料・給料などの着服が行われるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この影響は初めのうちは不満を持った兵士が兵乱（兵士中心の反乱）を起こす事により、上司たる節度使を追放し、自分達に都合の良い節度使を地位に据えるという形で現れる。このようになると新たに強い権限を得た上級兵士の間では不正が横行するようになり、その不正を是正するために強硬な姿勢を取った節度使もいたが、これも追放された。このような兵乱の代表が[[裘甫の乱]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兵乱はあくまで自分達の利益のために背いただけであって、何れは矛を収めるのが、いわば予定調和としてあった。しかし収奪された民衆は節度使にも不満を抱くが、それを抑制できない唐政府にも不満を抱き、唐にとってより危険な存在であった。[[ホウ勛の乱|龐勛の乱]]は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱（民衆が中心の反乱）と化した。この乱は[[黄巣の乱]]の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 専売制 ===&lt;br /&gt;
安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために[[758年]]に[[塩]]と[[鉄]]の[[専売制]]を実施した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
専売の統括をする役職が[[塩鉄使]]である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、出来た塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貴族の没落と市民経済の勃興 ===&lt;br /&gt;
科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格のためには長期間にわたって勉強にのみ集中できる環境が必要であり、また書物を購入するための金額もかなりの高額になることから合格するにはそれなりの財産を持つ事が必要であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴族によって科挙が軽視されていた時代に科挙を受けていた層は新興地主層で、唐全体の流通が活性化したことで財産を積み上げてきた。これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を元に更に財産を積み上げて行き、豪商・富農と呼べる存在が現れてくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商業が活発化したことは都市の市（いち）の変化によっても知れる。唐前半までの市は場所と時間が限られており、商売するためには役所に登録しなくてはならず、また都市の区画ごとに壁を作って、自由な流通を妨げていた。しかし唐後半より、商取引を望むものの増加に伴い、そこかしこで市が開かれるようになり、時間制限や登録制は有名無実化した。また、都市以外の場所でも[[草市]]（[[墟市]]）の形成が見られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[煬帝]]によって作られた[[大運河]]も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・[[長安]]より、大運河沿いの商業都市・[[開封]]が中国の中心都市の地位を奪うことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら社会の変化に貴族層は付いていけず、貴族の影響力の牙城であった[[門下省]]はその実質を失い、[[中書省]]に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。前述のように退勢を自覚した貴族層は科挙を受けるようになるが、流れを止めることは出来ず、[[五代十国時代]]の戦乱の中で中国史に於ける貴族と言う存在は消滅する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら新興地主層は五代十国の中でも更に勢力を積み上げて、[[北宋]]代の[[形勢戸]]に繋がり、この層が科挙官僚を生み出す事で[[士大夫]]層の形成へと繋がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 荘園の形成 ===&lt;br /&gt;
初唐の[[荘園]]は皇族と貴族層によって経営されていた。荘園と[[均田制]]とは相容れない存在のはずであるが、間違いなく荘園は存在していた。貴族達の持つ均田制はその範疇外にあったと見る説もあり、そもそも均田制が全国的に施行されていたのかを疑問視する説もあるが、研究途上であり、容易に結論は出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
均田制が崩壊して、両税法に変わった。このことは別の面から見れば大土地所有を公認した事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
荘園の大きさは大体10頃から100頃（58～580[[アール]]）の大きさで、雇い入れた客戸（本籍地を離れた民）あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。またその土地を[[小作農]]に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借り賃で破産してそのまま荘園に囲い込まれる例も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後期以降は新興地主層が荘園の主な経営者となるが、他にも新たに台頭した[[節度使]]勢力も積極的に荘園経営に取り組み、財力を蓄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
首都の[[長安]]は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。[[日本]]や[[新羅]]、[[吐蕃]]など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 思想・宗教 ===&lt;br /&gt;
科挙制度において[[儒教]]の経典が必須科目となり、太宗は[[孔穎達]]に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった[[四書五経|五経]]を一つの解釈にまとめる『[[五経正義]]』を編纂させた。このことによりそれまでの不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。しかしこれによって逆に思想の発展が阻害されることにもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[後漢]]代に伝来した[[仏教]]は[[魏晋南北朝時代]]の混乱の中で飛躍的にその勢力を伸ばし、在来宗教である[[道教]]を圧するほどになった。[[玄奘]]・[[義浄]]などは[[インド]]へ赴いて大量の経典を持ち帰った。貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に[[武則天]]は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には[[禅宗]]・[[浄土教]]・[[密教]]・[[華厳宗]]などがあり、それぞれ栄えたが、[[三階教]]は徹底的に弾圧された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皇室の李氏は李耳（[[老子]]）を祖とすると称していたので、[[道教]]は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後と言う原則が定められていた。特に玄宗はその[[廟号]]も道教風であり、道教に傾倒している。しかしこの保護はあくまで皇族の間に留まり、民間では圧倒的に仏教の勢力が強かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他にも長安には[[イスラム教]]・[[マニ教]]・景教（[[ネストリウス派]][[キリスト教]]）・{{lang|zh|祆教}}（祆は示偏に天。[[ゾロアスター教]]）などの寺院が立ち並び国際都市としての景観を持っていた。これらが領土の広さと並んで唐の世界国家としての象徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし安史の乱以後は領土が縮小し、西方を[[吐蕃]]に奪われたことで次第に国粋主義的になった。第15代武宗は道教を信奉し、仏教を初めとした外来宗教を弾圧した（[[会昌の廃仏]]・[[三武一宗の法難]]の第三）。ただしこの弾圧は宗教的な色は薄く、出家することで税逃れをする私度僧と呼ばれる者を[[還俗]]させる事で財政の改善を狙う目的が主だった。しかしながらこの弾圧を契機として、[[仏教]]はもとより上記の各宗教も大打撃を被り、往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教も、[[禅宗]]や再興した[[天台宗]]が中心となるが、それらは、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなっていた。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である[[百丈]][[清規]]中の「'''一日作さざれば一日食らわず'''」という有名な言葉に表されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、[[韓愈]]の著した『[[原道]]』『[[原性]]』などの中に見られる思想で、[[堯]][[舜]]や[[孔子]]以来脈々と続く「[[道統]]」論を提唱し、[[宋学]]の先駆となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
唐は歴代でも[[漢詩]]の最高峰とされる時代である。[[日本]]にも『[[唐詩選]]』などを通じて多く紹介されており、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初唐の代表的詩人として、[[王勃]]・[[楊炯]]・[[盧照鄰]]・[[駱賓王]]の四人を初唐の四傑と呼んでいる。盛唐の詩人としては[[王維]]・[[孟浩然]]・[[岑参]]・[[高適]]・[[王昌齢]]などがあり、更に'''[[李白]]'''・'''[[杜甫]]'''の中国歴代でも最高とされる両人がいる。中唐では[[白居易]]・[[元シン|元&amp;lt;font lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#31289;&amp;lt;/font&amp;gt;]]（&amp;lt;font lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#31289;&amp;lt;/font&amp;gt;は禾編に真）が代表とされ、晩唐の代表が[[李商隠]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中唐において[[韓愈]]・[[柳宗元]]らにより、それまでの[[六朝時代|六朝]]から引き継いだ[[四六駢儷体]]と呼ばれる華美であるが、空疎になってしまう事もある文体を[[漢]]代の質実剛健な物に戻そうと言う運動が行われ、それが漢詩においても反映されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[歴史]]の分野においては、太宗によりそれまでに作られていなかった時代についての[[歴史書]]を作るようにとの命が出され、『[[晋書]]』・『[[梁書]]』・『[[陳書]]』・『[[周書]]』・『[[隋書]]』が[[房玄齢]]らにより編纂された。『[[史記]]』や『[[漢書]]』などは私選の書物が後から国定に昇格したものであるが、この事業の後は[[正史]]は国選のものとされ、滅びた王朝の正史を作る事が時代の王朝にとってある種の義務となった。しかし「このことにより、正史が国家の正当を主張するための道具とされるようになった」と批判する人もいる。また[[劉知幾]]による『[[史通]]』は中国に於ける史学を開いた存在とされ、後世の史学者にとって必携の書となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
六朝時代に誕生した志怪小説が伝奇小説へと内容的に変貌を遂げて流布するようになり、『[[古鏡記]]』や『[[遊仙窟]]』、『[[杜子春伝]]』といった数々の作品が生み出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美術 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Westerner_on_a_camel.jpg|right|thumb|200px|唐三彩]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐代の美術品については安史の乱や黄巣の乱により、多くが破壊され、現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは[[莫高窟]]や[[龍門洞窟|龍門石窟]]などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、更に仏教美術が圧倒的に多いことが特徴であり、これらは西方の影響が強いと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絵画に於いては[[閻立本]]・[[呉道玄]]・[[李思訓]]・王維と言った名前が挙がる。閻立本は[[太宗 (唐)|太宗]]に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。[[ボストン美術館]]にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、[[北宋]]代の模写であると推察されている。呉道玄は[[玄宗]]に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたと言う。[[蘇軾]]曰く「画は呉道士（道玄の元の名）に至りて終われり。」と。しかし作品は全て現存していない。李思訓は[[武則天]]期の人で、色鮮やかな[[山水画]]を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ[[北宗画]]・[[南宗画]]の祖として扱われるようになる。これが安史の乱以降になると、西方の影響が薄れて水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られるようになる。この代表として同時代の絵画評論文集『[[唐朝名画録]]』は[[王墨]]・[[李霊省]]・[[張志和]]の三人を挙げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[王羲之]]によって芸術の域にまで高められた書はその王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が[[虞世南]]・[[チョ遂良|褚遂良]]・[[欧陽詢]]である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して[[張旭]]は狂草と呼ばれる奔放な書体をつくり、更に張旭に師事した[[顔真卿]]は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[陶磁器]]の分野では唐[[三彩]]と呼ばれる逸品が作られた。これらには[[サーサーン朝]]の影響があると言われており、その名のとおり色鮮やかなことが特徴である。人物像や動物像（[[涌]]）などが多く、器になっているものも実用性の低いものが多い。一方、高温度で焼成する[[磁器]]も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際関係 ==&lt;br /&gt;
唐の最大領域は高宗期の7世紀半ばであり、東西は朝鮮北部から[[天山山脈]]のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域では異民族を緩やかに支配する間接支配を取っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐の異民族支配は'''[[羈縻政策|羈縻支配]]'''（きびしはい）と呼ばれる。この政策は[[冊封]]と似ているが、少し違い、その異民族の支配地に唐の地方制度の一単位である都督府・羈縻州を設置し、その長官に異民族の長を任命して自治権を認めるものである。完全な直接支配と冊封との間を取ったものと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。&lt;br /&gt;
*安西 - [[640年]]設置。[[シルクロード]]の天山南路の守備。&lt;br /&gt;
*安北 - [[647年]]設置。外[[モンゴル]]支配。&lt;br /&gt;
*単于 - [[650年]]設置。内モンゴル支配。&lt;br /&gt;
*安東 - [[668年]]設置。[[朝鮮]]・[[満州]]支配。&lt;br /&gt;
*安南 - [[679年]]設置。[[ベトナム]]・その他の南海諸国支配。&lt;br /&gt;
*北庭 - [[701年]]設置。天山北路の守備。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、[[高句麗]]の[[高仙芝]]、[[百済]]の[[黒歯常之]]、[[日本人]]の[[阿倍仲麻呂]]や雑胡（異民族の混血）の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。まったく外国人に対する差別が無かった訳ではないが、唐代は歴代でも極めてその傾向が低いと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境地方への節度使の配置を進め、羈縻支配を改めていった。しかしこのことは周辺諸国の動きを活発化させ、ウイグルや吐蕃により唐の周辺は非常に不安定になる。9世紀にはそのウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北方 ===&lt;br /&gt;
[[6世紀]]に巨大帝国を築いた[[突厥]]は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の[[626年]]には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後の貞観の治により唐は急速に国力を拡大し、[[630年]]には突厥から独立した[[鉄勒]]と挟撃して東突厥を滅ぼして羈縻支配に組み込み、安北都護府（設置当初の名称は燕然都護府）・単于都護府を設置した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗（カガン）は[[ハーン]]、すなわち[[遊牧民]]世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは当時の唐帝国が帯びていた遊牧民的世界性を如実に示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、[[682年]]に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は[[745年]]に[[ウイグル]]を中心とした部族連合（「九姓鉄勒」「九姓回鶻」）に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる[[遊牧国家]]を建設する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし[[8世紀]]に[[キルギス人|キルギス]]の攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 西方 ===&lt;br /&gt;
唐は[[640年]]に[[高昌国]]（現[[トルファン]]）を滅ぼしたのを初めとして、[[シルクロード]]沿いの[[オアシス]]国家を服属させて安西都護府（[[クチャ]]）を設置し、[[西域]]経営を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[635年]]に[[青海省|青海]]の[[吐谷渾]]を支配下に置き、[[チベット高原]]の[[吐蕃]]も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を和蕃[[公主]]として嫁がせるなどして懐柔に努めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・[[パミール高原]]以西の[[トランスオクシアナ]]にまで及ぶが、[[751年]]の[[タラス河畔の戦い|タラス河畔の敗戦]]によって頓挫、中央アジアの支配権は[[イスラム帝国]]に譲ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の[[787年]]には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、[[822年]]に唐と和睦した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、[[天山ウイグル王国]]や[[甘州ウイグル]]、[[タングート]]（後の[[西夏]]）などの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降は[[インド洋]]・[[南シナ海]]を通じて[[西アジア]]の商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くの[[アラブ人]]や[[ペルシア人]]のムスリム商人が[[広州]]に来航した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東方 ===&lt;br /&gt;
隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の[[高句麗]]に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし[[新羅]]と連合して[[660年]]にまず南の[[百済]]を滅ぼし、[[668年]]には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、[[平壌]]に安東都護府を設置する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後は新羅が勢力を拡大し、半島の支配をめぐって唐と対立するようになると安東都護府は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐の[[冊封]]を受けて和解した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方同じ頃、東北地方（[[満州]]）ではこの地方に移住させらされた高句麗の遺民たちが中心となって震国（のち[[渤海 (国)|渤海]]）を立て、唐から独立した。当初はこの国に対して遠征軍を送ったが、この国が朝貢を行うようになると渤海郡王に冊封した。やがて渤海王・[[大武芸]]は[[黒水靺鞨]]の支配をめぐって唐と対立し、[[733年]]には[[水軍]]を送って[[山東半島]]の登州を一時占領したが、間もなく講和した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南方 ===&lt;br /&gt;
[[南越]]の滅亡以来、長い間中国の支配下に置かれていた[[ベトナム]]は、漢代から何度と無く独立運動を起こしており、この地に安南都護府を置いていたが、反抗は激しく実質的に統治は出来ていなかったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた[[雲南省|雲南]]の[[南詔]]が勢力を拡大、[[四川省|四川]]の[[成都]]付近まで進出した。また南詔は、唐の安南都護府を何度か滅ぼし、その都度奪回はしてはいたものの、もはやこの地方に唐の支配力は及ばなくなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本との関係 ===&lt;br /&gt;
[[日本]]からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が[[660年]]に日本の同盟国である朝鮮半島の[[百済]]を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに[[663年]]、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を[[白村江の戦い]]で打ち破る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて[[遣唐使]]による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9世紀]]になると唐の衰えと日本独自の文化の発展から日本側が危険を冒して遣唐使を送る意欲を失っていった。[[894年]]、[[菅原道真]]の建議により遣唐使は廃止され、その後[[明]]の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 唐の皇帝と元号 ==&lt;br /&gt;
[[画像:唐系図.PNG|180px|thumb|right|唐の系図]] &lt;br /&gt;
&amp;lt;!--この表はウィキ英語版[[EN:Tang Dynasty|Tang Dynasty]]から持ってきたものです。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;table border=&amp;quot;1&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;2&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[皇帝]]&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;名&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;統治年数&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[元号]]&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[李淵|高祖]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李淵&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[618年]]-[[626年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[武徳]] [[618年]]-[[626年]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[太宗 (唐)|太宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李世民&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[626年]]-[[649年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[貞観 (唐)|貞観]] [[627年]]-[[649年]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[高宗 (唐)|高宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李治&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[650年]]-[[683年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[永徽]] [[650年]]-[[655年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[顕慶]] [[656年]]-[[661年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[龍朔]] [[661年]]-[[663年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[麟徳]] [[664年]]-[[665年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾封]] [[666年]]-[[668年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[総章]] [[668年]]-[[670年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[咸亨]] [[670年]]-[[674年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[上元 (唐高宗)|上元]] [[674年]]-[[676年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[儀鳳]] [[676年]]-[[679年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[調露]] [[679年]]-[[680年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永隆 (唐)|永隆]] [[680年]]-[[681年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[開耀]] [[681年]]-[[682年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永淳]] [[682年]]-[[683年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[弘道 (唐)|弘道]] [[683年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[中宗 (唐)|中宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李顯&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[684年]]（[[705年]]-[[710年]]に[[重祚]]）&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[睿宗 (唐)|睿宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李旦&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[684年]]（[[710年]]-[[712年]]に重祚）&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[文明 (唐)|文明]] [[684年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[武則天]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;武照&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[684年]]-[[705年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[光宅]] [[684年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[垂拱]] [[685年]]-[[688年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永昌 (唐)|永昌]] [[689年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[載初]] [[690年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天授 (周)|天授]] 690年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[如意]] [[692年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[長寿 (周)|長寿]] 692年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[延載]] [[694年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[証聖]] [[695年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天冊万歳]] 695年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[万歳登封]] [[696年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[万歳通天]] 696年&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[神功]] [[697年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[聖暦]] [[698年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[久視]] [[700年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大足]] [[701年]]&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[長安 (周)|長安]] 701年&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td colspan=&amp;quot;4&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;'''武周（[[690年]] - [[705年]]）'''&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td colspan=&amp;quot;4&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;'''唐の復興'''&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;中宗&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李顯&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[705年]]-[[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[神龍 (唐)|神龍]] [[705年]]-[[707年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[景龍 (唐)|景龍]] [[707年]]-[[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[殤帝 (唐)|殤帝]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李重茂&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[唐隆]] [[710年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;睿宗&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李旦&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[710年]]-[[712年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[景雲 (唐)|景雲]] [[710年]]-[[711年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[太極 (唐)|太極]] [[712年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[延和 (唐)|延和]] [[712年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[玄宗 (唐)|玄宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李隆基&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[712年]]-[[756年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[先天 (唐)|先天]] [[712年]]-[[713年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[開元]] [[713年]]-[[741年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天宝 (唐)|天宝]] [[742年]]-[[756年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[粛宗 (唐)|粛宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李亨&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[756年]]-[[762年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[至徳 (唐)|至徳]] [[756年]]-[[758年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾元 (唐)|乾元]] [[758年]]-[[760年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[上元 (唐粛宗)|上元]] [[760年]]-[[761年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[代宗 (唐)|代宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李豫&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[762年]]-[[779年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[宝応]] [[762年]]-[[763年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[広徳 (唐)|広徳]] [[763年]]-[[764年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[永泰 (唐)|永泰]] [[765年]]-[[766年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大暦 (唐)|大暦]] [[766年]]-[[779年]]&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[徳宗 (唐)|徳宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李适&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[780年]]-[[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[建中 (唐)|建中]] [[780年]]-[[783年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[興元]]　[[784年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[貞元 (唐)|貞元]] [[785年]]-[[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[皇帝]]&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;名&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;統治年数&amp;lt;/th&amp;gt;&amp;lt;th style=&amp;quot;background:#efefef;&amp;quot;&amp;gt;[[元号]]&amp;lt;/th&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[順宗 (唐)|順宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李誦&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[永貞 (唐)|永貞]] [[805年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[憲宗 (唐)|憲宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李純&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[806年]]-[[820年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[元和 (唐)|元和]] [[806年]]-[[820年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[穆宗 (唐)|穆宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李恆&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[821年]]-[[824年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[長慶]] [[821年]]-[[824年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[敬宗 (唐)|敬宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李湛&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[825年]]-[[826年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[宝暦 (唐)|宝暦]] [[824年]]-[[826年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[文宗 (唐)|文宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李昴&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[826年]]-[[840年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;宝暦 [[826年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大和 (唐)|大和]][[元号一覧 (中国)#唐|&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;]] [[827年]]-[[835年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[開成 (唐)|開成]] [[836年]]-[[840年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[武宗 (唐)|武宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李炎&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[840年]]-[[846年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[会昌]] [[841年]]-[[846年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[宣宗 (唐)|宣宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李忱&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[846年]]-[[859年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[大中]] [[847年]]-[[859年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[懿宗 (唐)|懿宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李&amp;amp;#28476;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[859年]]-[[873年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;大中 [[859年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[咸通]] [[860年]]-[[873年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[僖宗 (唐)|僖宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李儼&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[873年]]-[[888年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;咸通 [[873年]]-[[874年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾符]] [[874年]]-[[879年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[広明 (唐)|広明]] [[880年]]-[[881年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[中和 (唐)|中和]] [[881年]]-[[885年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[光啓]] [[885年]]-[[888年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[文徳 (唐)|文徳]] [[888年]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[昭宗 (唐)|昭宗]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李曄&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[888年]]-[[904年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;[[龍紀 (唐)|龍紀]] [[889年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[大順 (唐)|大順]] [[890年]]-[[891年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[景福 (唐)|景福]] [[892年]]-[[893年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[乾寧]] [[894年]]-[[898年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[光化]] [[898年]]-[[901年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天復 (唐)|天復]] [[901年]]-[[904年]]&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[天祐 (唐)|天祐]] [[904年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;tr&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[哀帝 (唐)|哀帝]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;李祝&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;td&amp;gt;[[904年]]-[[907年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;td&amp;gt;天祐 [[904年]]-[[907年]]&amp;lt;/td&amp;gt;&amp;lt;/tr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;/table&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*『世界帝国の形成』（[[谷川道雄]] [[講談社現代新書]]452 新書東洋史2 中国の歴史2 [[1977年]]）&lt;br /&gt;
*『中国史2』（[[山川出版社]] [[1996年]]）&lt;br /&gt;
*『隋唐帝国と古代朝鮮』（[[砺波護]] [[中央公論社]] [[1997年]]）ISBN 4124034067&lt;br /&gt;
*『隋唐の国際秩序と東アジア』（[[金子修一]] 名著刊行会 [[2001年]]）&lt;br /&gt;
*『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』（[[気賀沢保規]] [[講談社]] [[2005年]] 『中国の歴史』06）ISBN 4062740567&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[唐物語]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.hoolulu.com/zh/ 二十五史（簡体中国語/繁体中国語）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-align=&amp;quot;center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;30%&amp;quot;|前の時代：[[隋]]&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;40%&amp;quot;|[[中国の歴史]]&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;30%&amp;quot;|次の時代：[[五代十国時代]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:隋唐|*とう]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|zh}} &lt;br /&gt;
[[zh-classical:唐]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[bg:Тан]]&lt;br /&gt;
[[ca:Dinastia Tang]]&lt;br /&gt;
[[cy:Brenhinllin y Tang]]&lt;br /&gt;
[[da:Tang-dynastiet]]&lt;br /&gt;
[[de:Tang-Dynastie]]&lt;br /&gt;
[[en:Tang Dynasty]]&lt;br /&gt;
[[eo:Dinastio Tang]]&lt;br /&gt;
[[es:Dinastía Tang]]&lt;br /&gt;
[[eu:Tang dinastia]]&lt;br /&gt;
[[fi:Tang-dynastia]]&lt;br /&gt;
[[fr:Dynastie Tang]]&lt;br /&gt;
[[hu:Tang-dinasztia]]&lt;br /&gt;
[[id:Dinasti Tang]]&lt;br /&gt;
[[it:Dinastia Tang]]&lt;br /&gt;
[[ko:당나라]]&lt;br /&gt;
[[lt:Tang dinastija]]&lt;br /&gt;
[[nl:Tang-dynastie]]&lt;br /&gt;
[[no:Tang-dynastiet]]&lt;br /&gt;
[[pl:Dynastia Tang]]&lt;br /&gt;
[[pt:Dinastia Tang]]&lt;br /&gt;
[[ro:Dinastia Tang]]&lt;br /&gt;
[[ru:Династия Тан]]&lt;br /&gt;
[[sh:Dinastija Tang]]&lt;br /&gt;
[[sl:Dinastija Tang]]&lt;br /&gt;
[[sv:Tangdynastin]]&lt;br /&gt;
[[th:ราชวงศ์ถัง]]&lt;br /&gt;
[[tr:Tang Hanedanlığı]]&lt;br /&gt;
[[uk:Тан]]&lt;br /&gt;
[[vi:Nhà Đường]]&lt;br /&gt;
[[zh:唐朝]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>76.79.72.82</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)&amp;diff=5310</id>
		<title>元 (王朝)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)&amp;diff=5310"/>
				<updated>2007-05-28T08:39:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;76.79.72.82: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{中国の歴史}}&lt;br /&gt;
'''元'''（げん）は、'''元朝'''（げんちょう）ともいい、[[1271年]]から[[1368年]]まで[[中国]]と[[モンゴル高原]]を中心とした領域を支配し、その後は北へ逃れ、遊牧政権としては最終的には[[1635年]]まで存続した[[モンゴル]]人[[王朝]]であり、[[モンゴル帝国]]の[[ハーン|大ハーン]]直轄世襲領である。正式の国号は'''大元'''（だいげん）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国王朝としての元は、[[北宋]]崩壊以来の中国統一政権であり、元の北走後は[[明]]が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、モンゴル帝国に受け継がれた[[遊牧国家]]特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指す[[ウルス]]という語を用いて特に'''大元ウルス'''と呼ぶべきであるとする意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元は、[[1260年]]、モンゴル帝国の第五代大ハーンに即位した[[チンギス・ハーン]]の孫[[クビライ]]（フビライ）が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、[[モンゴル語]]では'''ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス'''(Dai-&amp;amp;#246;n Yeke Mong&amp;amp;#947;ol Ulus)すなわち「大元大蒙古国」と称した。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の大ハーン政権のことである。[[中国史]]の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・ハーンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライが大ハーンの位につく過程において、ハーンのモンゴル帝国全体に対する統率力は減退しており、元の国号が採用された前後に[[中央アジア]]で[[オゴデイ・ハン国|オゴデイ家]]（オゴタイ）の[[カイドゥ]]（ハイドゥ）がクビライに対抗して自立するなど、ハーンの権威が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。こうして成立した元は、モンゴル帝国のうちクビライの子孫である大ハーンの直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された国家となり、その実態は緩やかな連合となったモンゴル帝国のうちの、中国とモンゴル高原を主として支配するクビライ家の世襲領（ウルス）にあたる。&lt;br /&gt;
[[画像:元朝系図.png|thumb|300px|元朝系図]]&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
クビライ登位以前については[[モンゴル帝国]]の項を参照してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== モンゴル帝国の再編 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1259年]]、第4代大ハーン[[モンケ]]が[[南宋]]遠征中に病死したとき、モンゴル高原にある当時の首都[[カラコルム]]の留守を預かっていた末弟[[アリクブケ]]（アリクブカ）は、モンケ派の王族を集めて[[クリルタイ]]を開き、西部の[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]ら諸王家の支持を取り付けて大ハーン位に就こうとしていた。これに対し、モンケと共に南宋へ遠征を行っていた次弟クビライは、閏11月に軍を引き上げて内モンゴルに入り、東方三王家（チンギス・ハーンの弟の家系）などの東部諸王の支持を得て、翌年の3月に自身の本拠地である内モンゴルの開平府（のちの[[上都]]）でクリルタイを開き、大ハーン位に就いた。アリクブケは一月遅れて大ハーンとなり、モンゴル帝国には南北にふたりの大ハーンが並存し、モンゴル帝国史上初めて大ハーン位を武力争奪する事態となった。この時点では、モンケの葬儀を取り仕切り、帝都カラコルムで即位したアリクブケが正当な大ハーンであった。カラコルムにも戻らず、帝国全土の王侯貴族の支持も無く、勝手に大ハーンを称したクビライは、この時点ではクーデター政権であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライとアリクブケの両軍は何度と無く激突するが、カラコルムは中国からの物資に依存していたために、中国を抑えたクビライ派に対してアリクブケ派は圧倒的な補給能力の差をつけられ、劣勢を余儀なくされた。緒戦の[[1261年]]のシムトノールの会戦ではクビライが勝利するが、アリクブケは北西モンゴルの[[オイラト]]の支援を受けて抵抗を続けた。しかし、最終的はアリクブケの劣勢と混迷をみてチャガタイ家などの西部諸王がアリクブケから離反し、[[1264年]]、アリクブケはクビライに降伏した。この一連の争乱を、勝利者クビライを正統とする立場から、'''アリクブケの乱'''という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アリクブケの降伏により大ハーンの位は再び統合されたが、西の[[中央アジア]]方面では、アリクブケの乱がもたらした混乱が大ハーンの権威に決定的な打撃を与えていた。[[1269年]]、中央アジアを支配するチャガタイ家の[[バラク]]とオゴデイ家のカイドゥ、そして[[ジョチ・ウルス|ジョチ家]]（ジュチ）（キプチャク・ハン国）の諸王がタラス河畔で会盟して中央アジアの大ハーン領を分割し、大ハーン・クビライに対する自立の態度を明確にした。やがてオゴデイ家のカイドゥが中央アジア諸王の間で盟主としての地位を確立し、カイドゥの反抗はモンゴル帝国を東西に分ける抗争へと発展する（'''カイドゥの乱'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その間、クビライは、政治機関として[[中書省]]を設置し、カラコルムにかわる新都として中国北部に[[大都]]（現在の[[北京]]）を造営、地方ではモンゴル帝国の[[金 (王朝)|金]]攻略の過程で自立してモンゴルに帰附し、華北の各地で在地支配を行ってきた漢人世侯と呼ばれる在地軍閥と中央政府、モンゴル貴族の錯綜した支配関係を整理して各路に総管府を置くなど、中国支配に適合した新国家体制の建設に着々と邁進し、[[1271年]]に国号を'''大元'''とした。モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配の消滅と、中国に軸足を置いた新しい大ハーン政権、大元の成立をもってモンゴル帝国の緩やかな連合への再編がさらに進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国の統一支配 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当時のクビライはいまだ金を滅ぼして領有した[[華北]]を保有するだけで、中国全体の支配は未だ不完全であり、南宋の治下で発展した[[江南]]（[[長江]]下流域南岸）の富は、クビライの新国家建設には欠かせざるものであった。かくて、クビライは即位以来、南宋の攻略を最優先の政策として押し進め、[[1268年]]漢水の要衝[[襄陽]]の攻囲戦を開始する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライは、皇后[[チャブイ]]に仕える用人であった中央アジア出身の商人[[アフマド・ファナーカティー|アフマド]]を財務長官に抜擢して増収をはかり、南宋攻略の準備を進める一方で、既に服属していた[[高麗]]を通じ、南宋と通商していた[[日本]]にもモンゴルへの服属を求めた。しかし、日本の[[鎌倉幕府]]はこれを拒否したため、クビライは[[1274年]]にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送るが、失敗に終わった（[[元寇|文永の役]]）。日本遠征は失敗に終わったが、その準備を通じて遠征準備のために設けた出先機関の征東行省と高麗政府が一体化し、新服の属国であった高麗は元の朝廷と緊密な関係を結ぶことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1273年]]になると襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊する。元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇する等して南宋の降軍を自軍に組み込んでいった。[[1274年]]旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、[[1276年]]に首都臨安（[[杭州]]）が陥落する。その後海上へ逃亡した南宋の遺民を[[1279年]]の涯山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げることのできるよう、後に詳しく述べる経済制度を整備し、元の経済は華北を中心とした政権としては空前の繁栄を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後の軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。[[1281年]]には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり（[[元寇|弘安の役]]）、[[1285年]]と[[1288年]]には[[ベトナム]]に侵攻した軍が[[陳朝]]に相次いで敗れた。さかのぼって[[1276年]]には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子[[シリギ]]が反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは三度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、[[1287年]]には、即位時の支持母体であった東方三王家が[[ナヤン]]を指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。&lt;br /&gt;
また[[1292年]]に[[ジャワ]]遠征を行っているがこれも失敗に終わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クビライの死後、[[1294年]]に孫の[[テムル]]が継ぐが、彼の治世期の[[1301年]]にカイドゥが死に、[[1304年]]に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は大ハーンを頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆる[[シルクロード]]交易の活況ぶりは空前となった。この状況を指して'''パクス・モンゴリカ'''（「モンゴルの平和」）と呼ばれることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、[[マルコ・ポーロ]]など数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄は[[ヨーロッパ]]にまで伝えられた。江南の港湾都市では海上貿易が隆盛し、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本からも、私的な貿易船や留学僧の渡来は続き、ある程度の交流が続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 衰退への道 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1307年]]、テムルが皇子を残さずに死ぬと、モンゴル帝国で繰り返されてきた後継者争いがたちまち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず権力争いの中心となったのは、チンギス・ハーンの皇后[[ボルテ]]、クビライの皇后チャブイ、テムルの母[[ココジン]]らの出身部族で、クビライ、テムルの2代においても[[外戚]]として権勢をふるってきた[[コンギラト]]部を中心に結束した元の宮廷貴族たちであった。テムルの皇后[[ブルガン]]はコンギラト部の出身ではなかったため、貴族の力を抑えるためにテムルの従弟にあたる安西王[[アナンダ]]を皇帝に迎えようとしたが、傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちは[[クーデター]]を起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥[[カイシャン]]を皇帝に迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カイシャンの死後は弟[[アユルバルワダ]]が帝位を継ぐが、その治世期には代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者であるコンギラト部出身のアユルバルワダの母、[[ダギ|ダギ・カトン]]が宮廷内の権力を掌握し、ハーンの命令よりも母后の命令のほうが権威をもつと言われるほどであった。そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が[[1320年]]に終わり、[[1322年]]にダギが死ぬと再び政争が再燃する。翌[[1323年]]にアユルバルワダの後を継いでいた[[シデバラ]]が殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダが死んでから[[1333年]]に[[トゴン・テムル]]が即位するまで、13年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に、[[広西チワン族自治区|広西]]で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていた[[キプチャク]]親衛軍の司令官[[エル・テムル]]に疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後は[[オセット人|アスト]]親衛軍の司令官である[[バヤン (メルキト部)|バヤン]]がエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、[[1340年]]にはバヤンの甥[[トクト]]が伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやまったく軍閥の内部抗争によって動かされていた。そのうえ成人したハーンも権力を巡る対立に加わり、[[1347年]]から[[1349年]]までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この政治混乱の中で、おそらくヨーロッパで流行した[[ペスト]]と同じとみられる[[伝染病]]が中国に流行し、相次ぐ天災が農村を荒廃させた。しかし、中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 元の北走 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1348年]]、[[浙江省|浙江]]の[[方国珍]]が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、[[1351年]]には[[賈魯]]による[[黄河]]の改修工事をきっかけに[[白蓮教|白蓮教徒]]の[[紅巾の乱|紅巾党]]が蜂起した。[[1354年]]には、大規模な討伐軍を率いたトクトが、彼が強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これはハーンの権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた[[朱元璋]]が他の反乱者たちをことごとく倒して[[華南]]を統一し、[[1368年]]に[[南京]]で皇帝に即位して[[明]]を建国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、[[1368年]]にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルの大ハーン政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は'''[[北元]]'''と呼んでこれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子である[[アユルシリダラ]]と[[トグス・テムル]]が相次いで皇帝の地位を継ぐ（明は当然、その即位を認めず[[韃靼]]という別称を用いた）が、[[1388年]]にトグス・テムルが殺害されて、クビライ以来の直系の王統は断絶する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉える事には問題がある。まず華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られた事によって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである（朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある）。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、[[1367年]]に明軍に捕らえられた[[戸部尚書]]の[[張昶]]は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。[[清]]の[[歴史学者]][[趙翼]]は元に殉じた（漢民族の）官吏の数においては激しい抵抗が行われた南宋に次いで多かったと指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その後の北元===&lt;br /&gt;
北元では[[1388年]]にトゴン・テムルの子孫が絶えてクビライ家の大ハーン世襲が終焉し、クビライ家政権としての元は断絶した。しかし、その後もチンギス・ハーンの子孫を称するハーンたちが元の君主としてモンゴルには立ちつづけ、[[15世紀]]末にはクビライ家が復権を果たす。元が最終的に終焉を迎えたのは、クビライの子孫を称する君主、[[リンダン・ハーン]]が死に、[[モンゴル]]諸部族がリンダンの代わりに[[満州民族|満州人]]の皇帝[[ホンタイジ]]をモンゴルのハーンに推戴した[[1636年]]であった。詳細は、[[北元]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の政治制度、および後述する経済・財政制度はモンゴル帝国特有の制度がかなり維持されていたために、中国の諸王朝の歴史上でみれば、きわめて特異なものとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央政府 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の首都は[[大都]]（現在の北京）および[[上都]]（内モンゴル自治区）であるが、少なくとも初期の皇帝は、遊牧国家の伝統にのっとって都城の城壁内で暮らすことはなく、冬の都である大都と夏の都である上都の近郊の草原の間を季節移動する帳幕（[[ゲル (家屋)|ゲル]]）群が宮廷（[[オルド]]）となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モンゴル帝国の大ハーンのもとには、第二代オゴデイの時代から、時代と設置状況により、漢語で「[[中書省]]」、「[[尚書省]]」など様々な名称で呼ばれる書記・財務官僚機構が存在した。即位以前からモンケによって中国の征服事業を委ねられ、手元に漢人を含む様々なブレーンを集めていたクビライは、即位するとまず漢人ブレーンを中書省に組織した。このクビライの中書省は、オゴデイ時代の中央書記官庁のとしての中書省の性格を継承するとともに、唐以来の中書省の伝統を引き継いで下に[[三省六部|六部]]を置き、民政・財政・軍事の一切を統括した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1263年]]には中書省から軍政機能を分離して中央軍政機関として[[枢密院]]が設置され、中書省とあわせてクビライの嫡子[[チンキム]]が総裁し、中央政府管轄地域の庶政を父であるハーンにかわって代行した。しかし、これにより中央政府のすべての機能が中書令チンキムのもとに束ねられたわけではなく、[[1270年]]にはアフマドを長官とする財務官庁が拡大され、中書省と並ぶ地位の尚書省となる。さかのぼって[[1268年]]には中国王朝にならって[[御史台]]が設置されており、民政・軍政・財政・監察のそれぞれに関わる機関がひととおり整備された。ただし、中央官庁は中書省・枢密院・尚書省などの中国風の名前を持ってはいたが、職掌や官吏の定数に関する規定はなく、さらに後述するように省庁の要職は宮廷に仕える皇帝の側近たちから任用され、特に左右丞相などの長官クラスを務める者は家臣、隷属民、軍隊などを自ら保有するモンゴル貴族からなっていた。このため、官庁の行う業務は実際には官庁に定められた官僚機構ではなく、高官たちの個性や宮廷での力関係などに左右された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、元代の中書省では、総裁である中書令を除くと、右丞相が長官、左丞相が次官であった。中国や日本の伝統的な官制では左が上、右が下であるから、右が上とされた元代はこの点でも特異であるが、これは、モンゴル人が右を尊いとする通念をもっていたためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元のモンゴル人は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する[[征服王朝]]である[[遼]]や[[金 (王朝)|金]]と比較しても、特に民族固有の支配体制を維持していた。元では[[律令]]のような体系的な法令を編纂することはなかったので、政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねがそのまま法令となり、中でも皇帝の名をもって出される聖旨（ジャルリグ）や、令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書（ウゲ）が高い権威をもった。モンゴル人は文字として[[モンゴル文字]]と、クビライが新たに作らせた[[パスパ文字]]をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれた[[モンゴル語]]を正文としていた。[[漢文]]の翻訳も付されはしたが、そこでは口語的・直訳的な文体が用いられていた。なお、こうして積み上げられた法令は、『元典章』という[[中国語]]で書かれた書物にまとめられて現存しているが、文章は直訳体に加え、当時の官吏が使っていた特殊な文体、吏読が用いられており、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地方制度 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Yuan provinces.png|thumb|290px|行中書省の配置]]&lt;br /&gt;
元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原（内モンゴル）と、[[河北省|河北]]・[[山東省|山東]]・[[山西省|山西]]の華北一帯においてのみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「[[行中書省]]」（行省）という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で行われている地方区分としての[[省]]は、元代の行省制度を起源とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家の大ハーン政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路、州、県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、[[ダルガチ]]が負った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、元の直轄支配地域の地方では、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じように季節移動を行う直轄所領（「位下」「投下」と呼ばれる）を持ち、それぞれの所領はチンギス・ハーン以来の権利によって貴族が所有する財産とみなされていたため、皇帝の直接支配を受けず、まったくの自治に委ねられていた。しかもひとつひとつの位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状にちりばめられた領民・領地をもっており、皇帝の直接所有する領土・領民は、元の全領域から王族・貴族の位下領・投下領を除いた部分にすぎなかった。定住地帯においては、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任命したので、彼らは領主からの代官として働き、皇帝の直接の支配権が及ばないその支配がその位下領・投下領の含まれる地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元に服属したかつての独立王国である[[天山ウイグル王国]]や[[高麗]]は、所属する行省のモンゴル人たちによる掣肘は受けたものの、個々の従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。特に高麗の場合、[[忠宣王]]以降の国王はモンゴル皇女を母とし、即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようになっていったほどであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように元の地方制度は、一見中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配に服しながらこれらとは異なる制度に置かれる例外として、[[チベット]]（[[吐蕃]]）があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、[[土司]]として掌握され、[[チベット仏教]]の[[サキャ派]]の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人材運用 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府の人材登用では、チンギス・ハーン時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備までハーンの身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関である[[ケシク|ケシクテン]]が重要な意味をもち、政府の要職に任ぜられ政治に携わるものの多くは、ハーンである皇帝との個人的主従関係に基づき取り立てられたケシクテン所属者（ケシク）たちが出向を命ぜられたものであった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定はハーンとケシクに列する有力者の合議により行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宰相など最高位の官職は、ケシクの中でもハーンに近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に[[千戸制|千人隊長]]（千戸長）などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣[[ムカリ]]、[[ボオルチュ]]、[[チラウン]]、[[ボロクル]]の子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿（&amp;lt;font lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#39385;&amp;lt;/font&amp;gt;馬）となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な[[耶律楚材]]のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハーン家との封建的主従関係に基づく世襲を旨とする元においては、[[科挙]]によってハーンからみて新参者の官僚を登用する必要は存在しなかったので、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われることはなく、ハーンの臣民となったのがもっとも遅い南宋の遺民たちが官界で立身する可能性は絶望的であった。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され[[戸籍]]に登録された人々、「儒戸」によってまかなわれていた（その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、ハーン家との姻戚関係などのハーンとの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の[[封建制|封権制度]]が元を支えており、宋以来の皇帝独裁制による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『[[元朝秘史]]』が、チンギス・ハーンの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴族の家門に属さなくとも出世することができた者もいたが、彼らはモンゴル帝国の初期から財政官僚として登用された[[色目人]]（[[ウイグル]]、[[ムスリム]]など）の商人たちだった。[[オルトク]]と呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じてハーンや貴族と金銭を通じた繋がりをもった彼らは財務に明るいことから重用された。しかし、商業税や専売税の請け負いなど、中国の伝統的な財政観に馴染まない政策を取り、彼らの経済搾取を行ったことは中国人の怨嗟のまととなった。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなく、幸運に官界で引きたてられても首領官と呼ばれる吏員の管理職に列することが限界だった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人（金の支配下にいた華北の人々で、[[漢民族]]と漢化した[[渤海 (国)|渤海人]]、[[契丹|契丹人]]、[[女真|女真人]]などからなる）と南人（南宋の支配下にいた江南の人々）の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。元代は[[士大夫]]階層の多くにとって挫折の時代となり、多くの知識人が処士として在野にあることに甘んじた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民政制度 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民間の掌握にあたっても、元では、個々の民とハーンとの個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上で既に触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いに格差が見られるようになった。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南人の四等身分制度である。四等身分制度が実態をもって存在したかは疑問が残るが、おおよそモンゴル人の貴族が元において支配の頂点に立ち、財務に優れた色目人たちは中国で財政を任せられ、漢人の中でモンゴルとの結びつきの深い一部の者は政治・軍事に関わって特権を享受したが、漢人の残る大多数と南人は政治からほぼ完全に排除されていた。ただし、元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のようにもともとモンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右したことからわかるように、ある程度の流動性はあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにモンゴルの慣習に固執し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その多核的、分権的であるがゆえに[[中世]]的とも看做せる支配は、[[唐]]代以来貴族階層の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。しかし、その一方で、流通と貿易を振興し、紙幣を貨幣として流通させるなど、経済・商業政策における先進性はきわめて注目に値する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
（単位は以下の通り ; 10升=1石=約95リットル。1畝=約565平方メートル。10銭=1両=37.3グラム）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興することで達成された。すなわち、塩の国家専売による莫大な収入と、経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からあがる商税が国庫を支えた。元はこれも中国王朝としては異例なことに経済政策を商業に偏重させていたが、先述したようにその経済政策を担当していた者は多くは色目人であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国統一の経済効果 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国の全土を見渡すと、元の国土の内側でもっとも生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の[[隋]][[唐]]時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「蘇湖熟すれば天下足る」「蘇常熟すれば天下足る」と言う南宋で生まれた言葉は、この事実を示している。この言葉は、[[蘇州]]・[[湖州]]・[[常州]]（湖州・常州は[[江蘇省]]太湖の西と南のこと）の作物が実ってくれれば他の地域が不作だったとしても心配は無いという意味である。これは決して大げさには言っていたわけではなく、元が江南を併合する前とした後では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の小作地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する小作料が得られる官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいたが、元はこれを接収すると南宋の皇族や高官、不正を働いた者などから没収した田を加えて官田をさらに拡大し、江南で莫大な穀物を国庫に収めることができた。これに加え、クビライは『[[農桑輯要]]』という官撰の[[農書]]を刊行した。これまでにも同様の書籍はあったが、それらはあくまでも役人や知識人の個人的な関心の元で編纂されたものであり、国家の政策として同書が編纂されたと言う事は、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進された事を物語っている。更に[[虞集]]に代表される農業水利の専門家が登用されて、江南から移民を募って戦乱で荒廃した華北の農地の再建を図るなどして、農業生産の充実に努めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、クビライは海に面した現在の[[天津]]から大都まで80kmほどの[[運河]]を穿ち、大都の中に港をつくって江南の穀物がはるか北の大都へと流入するようにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える[[塩]]、[[茶]]、[[酒]]、[[明礬]]などの専売制の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度だった。専売制による利益は巨大であり、特に、塩は生活に絶対に欠かせないことから厳重に管理されていたし、後述するように元の経済制度の根幹に関わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この江南の経済力を元に繁栄が築かれたわけだが、これは別の一面からいえば、江南からの収入が無ければ元は立ち行かないということであり、南中国で反乱がおこってからの元が急速に衰退し、また反乱者の中で勝ち残ったのが江南を奪った群雄であったのは、必然でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税制 ===&lt;br /&gt;
（政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は[[1260年]]のクビライ即位の年の例に拠っている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の税制は、かつての金の領土（漢地）と、南宋の領土（江南）とで異なっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
税糧は、各戸の壮丁（労働に耐えうる男性）ごとに粟（穀物）1石、あるいは土地1畝ごとに[[畑]]は3升、[[灌漑|灌漑地]]は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、面積に対してかかる一般的な田税とは異なるし、田を持っていなくても成年男子であればすべての者に課せられるという点で、中国の税制の歴史において後にも先にも見られなかったものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で[[絹|絹糸]]を22両4銭（重量）を収め、包銀は[[銀]]6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられたが、結果として中国史上でははじめて、税の銀納を義務付けた税となり、銀と、後に銀と換算される紙幣として流通される交鈔の通貨としての地位を高めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、江南の方では、南宋から引き継いだ[[両税法]]をそのまま用いていた。両税法では、各戸が[[夏]]に[[木綿]]などの物産、[[秋]]に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入にほとんどを依存していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税設定の特異な点は、都市や港湾を商品が通過するときにかけられていた関税を撤廃し、最終売却地で、売却時に商税を支払えばよいようにした点にある。こうして物流にともなう関税の煩雑な手続きが避けられるようになり、しかも実質税額が低く抑えられたので、元では遠隔地交易が活性化し、国庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 金融政策と塩専売制度 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国では[[北宋]]代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた[[紙幣]]を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔（こうしょう、あるいは単に鈔とも）と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した[[1260年]]に中統元宝交鈔（通称・中統鈔）と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
交鈔は[[金]][[銀]]との兌換（交換）が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して[[1287年]]に中統鈔の五倍の価値に当たる至元鈔を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、[[消費財]]である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歳出と国際商業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギス・ハーンの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていたハーンは、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。ハーンの側から見れば、ハーンたる皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、[[14世紀]]に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は[[1356年]]に廃止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--元の経済政策は商業を重視する点で先進的であったが、中国王朝がもっとも統治にあたって意を注ぐべきとされてきた農村社会の安定を軽視し、また発達した商業資本が徴税請負人や高利貸など農村に経済的な搾取者として君臨し、農村がややもすれば荒廃に向かうことをまったく問題としていなかった点が大きな欠点であり、元末の反乱続発の要因ともなった。←元が歴代王朝の中で商業を重視していたのは事実だが、積極的な勧農政策の推進の事実もあり農業軽視というのは事実に反する。また、商業資本の問題は南宋以来のものである。よって一旦コメントアウト --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文化==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宗教 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元来[[シャーマニズム]]を信仰してきたモンゴルは、チンギス・ハーンの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神（テングリ）を祀るものとして保護してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた[[全真教]]を始めとする[[道教]]教団で、教主[[丘長春]]自らがチンギス・ハーンの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにハーンのために祈ることを命ぜられた。しかし、彼らは道教と[[仏教]]のいずれを上位とするかを中国仏教、チベット仏教との間で争い、のちのモンケの代に行われた論争で敗れて勢力を一時的に後退させた。もっとも根本的に道教が弾圧されたわけではなく、また南宋の併合が進むと、[[後漢]]の[[五斗米道]]の系譜をひく[[正一教]]が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仏教は、はじめに保護を獲得したのは[[禅宗]]で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に[[杭州]]の[[中峰明本]]（[[1263年]] - [[1323年]]）がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパ（パスパ）に対し､[[1260年]]に「国師」、[[1269年]]に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認た。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。もっとも、次第にこれに耽溺するモンゴル王侯が増え、[[ラマ]]に過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方から[[イスラム教]]が流入し、[[泉州]]などの沿岸部や[[雲南省]]などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。もうひとつの大宗教は[[キリスト教]]で、モンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていた[[ネストリウス派]]のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、また[[ローマ教皇]]の派遣した宣教師が大都に常設の[[教会]]を開いて布教を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は[[儒教]]を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は[[孔子]]や[[孟子]]の子孫の保護、[[曲阜]]の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである。既に述べた「儒戸」も、儒教の宗教指導者階層として捉えられていた可能性が高い。儒教の排斥とは、現実には、モンゴルの伝統を重んじる元が、従来の中国王朝に比べ、儒学の影響力をあまり受ける必要がなかったということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、復活後の元の科挙では、従来の科挙と比べると詩賦よりも経義に置かれており、しかも経の解釈で[[朱子]]の解釈を正統とすることが定められていたことが画期的な点として注目される。これは、実践を重んじる[[朱子学]]が元の時代的風潮の中で、儒教の主流の座を獲得していたことを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 科学技術 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モンゴル・元代には有名な[[マルコ・ポーロ]]、[[イブン＝バットゥータ]]のように、西方からの旅行者が数多く中国にやってきたことで知られるが、それだけ交易など様々な理由で元の領土に留まった無名の人々も非常に多く、彼らにより数多くの西方の知識・文物が持ち込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[イラン]]出身の[[ジャマールッディーン]]により暦法と天体観測器が持ち込まれ、[[1271年]]にそれを基とした回回司天台と呼ばれる天文台が作られている。クビライの側近であった中国人学者[[郭守敬]]は、この観測結果をもとに新しい暦、[[授時暦]]を作り、この暦は明の滅亡まで使用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
回回（ふいふい）は、「回教」と同じくイスラム教、イスラム教徒のことである。元は南宋の拠点であった[[襄陽]]の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘し、マンジャニークと呼ばれる西洋式の投石機をつくった。このマンジャニークも、中国では回回砲という名で知られていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の時代の文学で特筆すべきは[[雑劇]]と呼ばれる[[戯曲 (中国)|戯曲]]の作品である。[[漢文]]、[[唐詩]]、[[宋詞]]、[[元曲]]など言われるようにこの時代の[[曲]]は歴代でも最高とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[小説]]にも才能のある作者が集まり、[[西遊記]]、[[水滸伝]]や[[三国志演義]]などはこの時代に原型が出来たとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは[[漢詩]]と[[歴史]]であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である[[趙孟フ|趙孟頫]]（子昴）、元の四大家と言われる虞集・楊載・范梈・掲傒斯などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族（色目人）の詩人があらわれ、ムスリムの進士（科挙合格者）である[[薩都剌]]を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美術 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、[[書道|書]]は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、[[絵画]]は[[北宋]]以来の[[院体画]]を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には[[黄公望]]、[[倪サン|倪瓚]]、[[呉鎮]]、[[王蒙]]の「[[元末四大家]]」が趙孟頫の画風を発展させ、[[南宗画]]とも後に区分される[[山水画]]の技法を確立していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陶磁器は、中国史上最高と呼ばれる宋のものを受け継いだが、さらに元代には[[染付]]などの鮮やかな新技法と大盤など大きな器形が新たに登場し、宋代までの[[青磁]]などの静謐と簡潔を重んじる美意識と対象をなす。青花と呼ばれる染付に使われている[[コバルト]][[顔料]]は西方からの輸入品で回回青と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示している。明以降の青花は輸入が途絶えたために色合いが元代とは変ってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠く[[トルコ]]、[[イスタンブル]]の[[オスマン帝国]]の宮廷[[トプカプ宮殿]]や、[[イラン]]、[[アルダビール]]の[[サファヴィー朝]]の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代皇帝 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''クビライ以前のモンゴル帝国大ハーン'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#太祖[[チンギス・ハーン]]（[[1206年]] - [[1227年]]）&lt;br /&gt;
#太宗[[オゴデイ]]（[[1229年]] - [[1241年]]）チンギス・ハーンの次男。&lt;br /&gt;
#定宗[[グユク]]（[[1246年]] - [[1248年]]）オゴデイの長男。&lt;br /&gt;
#憲宗[[モンケ]]（[[1251年]] - [[1259年]]）チンギス・ハーンの子[[トルイ]]（睿宗）の長男。&lt;br /&gt;
#世祖[[クビライ]]（[[1260年]] - [[1271年]]）睿宗トルイの次男。憲宗モンケの弟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''元の皇帝'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#世祖[[クビライ]]（[[1271年]] - [[1294年]]）&lt;br /&gt;
#成宗[[テムル]]（[[1294年]] - [[1307年]]）世祖クビライの次男[[チンキム]]（裕宗）の三男。&lt;br /&gt;
#武宗[[カイシャン]]（[[1307年]] - [[1311年]]）裕宗チンキムの次男[[ダルマバラ]]（順宗）の子。テムルの甥。&lt;br /&gt;
#仁宗[[アユルバルワダ]]（[[1311年]] - [[1320年]]）順宗ダルマバラの次男。武宗カイシャンの弟。&lt;br /&gt;
#英宗[[シデバラ]]（[[1320年]] - [[1323年]]）仁宗アユルバルワダの長男。&lt;br /&gt;
#泰定帝[[イェスン・テムル]]（[[1323年]] - [[1328年]]）裕宗チンキムの子[[カマラ]]（顕宗）の長男。&lt;br /&gt;
#天順帝[[アリギバ]]（[[1328年]]）泰定帝イェスン・テムルの長男。&lt;br /&gt;
#文宗[[トク・テムル]]（[[1328年]] - [[1329年]]）武宗カイシャンの次男。&lt;br /&gt;
#明宗[[コシラ]]（[[1329年]]）武宗カイシャンの長男。文宗トク・テムルの兄。&lt;br /&gt;
#文宗[[トク・テムル]]（[[1329年]] - [[1332年]]）(8)と同一人物。&lt;br /&gt;
#寧宗[[イリンジバル]]（[[1332年]] - [[1333年]]）明宗コシラの次男。&lt;br /&gt;
#順帝(恵宗)[[トゴン・テムル]]（[[1333年]] - [[1368年]]）明宗コシラの長男。寧宗イリンジバルの兄。&lt;br /&gt;
#*「順帝」は[[明]]により贈られた諡号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''クビライ家の北元皇帝'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#恵宗[[トゴン・テムル]]（[[1368年]] - [[1370年]]）元の(12)。&lt;br /&gt;
#昭宗[[アユルシリダラ]]（[[1370年]] - [[1378年]]）恵宗（順帝）トゴン・テムルの子。&lt;br /&gt;
#天元帝[[トグス・テムル]]（[[1378年]] - [[1387年]]）昭宗アユルシリダラの弟？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 元の年号 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#中統（[[1260年]] - [[1264年]]）&lt;br /&gt;
#至元（[[1264年]] - [[1294年]]）&lt;br /&gt;
#元貞（[[1295年]] - [[1297年]]）&lt;br /&gt;
#大徳（[[1297年]] - [[1307年]]）&lt;br /&gt;
#至大（[[1308年]] - [[1311年]]）&lt;br /&gt;
#皇慶（[[1312年]] - [[1313年]]）&lt;br /&gt;
#延祐（[[1314年]] - [[1320年]]）&lt;br /&gt;
#至治（[[1321年]] - [[1323年]]）&lt;br /&gt;
#泰定（[[1321年]] - [[1328年]]）&lt;br /&gt;
#致和（[[1328年]]）&lt;br /&gt;
#天順（[[1328年]]）&lt;br /&gt;
#天暦（[[1328年]] - [[1330年]]）&lt;br /&gt;
#至順（[[1330年]] - [[1333年]]）&lt;br /&gt;
#元統（[[1333年]] - [[1335年]]）&lt;br /&gt;
#至元（[[1335年]] - [[1340年]]）&lt;br /&gt;
#至正（[[1341年]] - [[1368年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[愛宕松男]]『アジアの征服王朝』河出書房、1968年。&lt;br /&gt;
* 愛宕松男・[[寺田隆信]]『元・明』講談社、1974年。&lt;br /&gt;
* [[岡田英弘]]『モンゴル帝国の興亡』筑摩書房（ちくま新書）、2001年。&lt;br /&gt;
* [[小松久男]]（編）『中央ユーラシア史』山川出版社、2000年。&lt;br /&gt;
* [[斯波義信]]ほか（編）『世界歴史体系 中国史3 五代～元』山川出版社、1997年。&lt;br /&gt;
* [[杉山正明]]『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』朝日新聞社（朝日選書）、1995年。&lt;br /&gt;
* 杉山正明『モンゴル帝国の歴史』全2巻、講談社（講談社現代新書）、1996年。&lt;br /&gt;
* 杉山正明『遊牧民からの世界史 民族も国境もこえて』日本経済新聞社、1997年。&lt;br /&gt;
* [[宮脇淳子]]『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房、2002年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.hoolulu.com/zh/ 二十五史 (簡体中国語／繁体中国語)]&lt;br /&gt;
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