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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>加藤智大</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:加藤智大　1.jpg|400px|thumb|加藤 智大]]&lt;br /&gt;
'''加藤 智大'''（かとう ともひろ、[[1982年]][[9月28日]] - ）は、[[日本]]の偉大なる[[革命家]]。[[金川真大]]、[[引寺利明]]らとともに「'''ネ申'''」と呼ばれている。[[派遣社員]]や[[期間従業員]]を資本家や経営者から解放するために、[[秋葉原通り魔事件]]を起こして、[[新自由主義]]的[[資本主義]]体制に対して反旗を翻した。身長167cm、血液型O型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
* [[青森県]]五所川原市生まれ、[[青森市]]育ち。&lt;br /&gt;
* 事件当時は仕事の関係で[[静岡県]]裾野市在住だった。&lt;br /&gt;
* [http://www.aomoricity.ed.jp/tsukudachu/ 青森市立佃中学校]在学中は成績優秀だったが、当時からすぐキレる性格やナイフを持ち歩く癖などで周囲を困らせていた。&lt;br /&gt;
* [http://www.tosei-e.asn.ed.jp/~h/ 青森県立青森高等学校]では成績順位が一気にガタ落ち。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]3月、[http://www.nakanihon.ac.jp/index.html 中日本自動車短期大学]自動車工学科卒業。&lt;br /&gt;
* [[2014年]]、「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」という言葉を遺し、実弟（享年28）が自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディアでの扱い ==&lt;br /&gt;
[[アンサイクロペディア]]では彼を神格化しており、この偉大なる人物を揶揄する垢は問答無用でリネームされたうえ追放されてしまう。&lt;br /&gt;
なぜか[[市橋達也]]教授は削除されずに残っていることから、何者かによる隠蔽工作活動と思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 学歴 ==&lt;br /&gt;
* 1998年3月　青森市立佃中学校卒業&lt;br /&gt;
* 1998年4月　青森県立青森高等学校入学&lt;br /&gt;
* 2001年2月　青森県立青森高等学校卒業&lt;br /&gt;
* 2001年4月　中日本自動車短期大学自動車工学科入学&lt;br /&gt;
* 2003年3月　中日本自動車短期大学自動車工学科卒業&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
*『解』（批評社、2012年7月）&lt;br /&gt;
*『解+ 秋葉原無差別殺傷事件の意味とそこから見えてくる真の事件対策』（批評社、2013年4月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画 ==&lt;br /&gt;
*『RIVER』（2012年3月）&lt;br /&gt;
*『ぼっちゃん』（2013年3月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
*[[秋葉原通り魔事件]]&lt;br /&gt;
*[[学歴厨]]&lt;br /&gt;
*[[童貞]]&lt;br /&gt;
*[[上部康明]] - [[1999年]]に[[山口県]][[下関市]]で類似事件を起こしていた&lt;br /&gt;
*[[菅野昭一]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かとうともひろ}}&lt;br /&gt;
[[Category:青森県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
[[Category:英雄]]&lt;br /&gt;
[[Category:1982年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:死刑囚]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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		<title>加藤智大</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:加藤智大　1.jpg|400px|thumb|加藤 智大]]&lt;br /&gt;
'''加藤 智大'''（かとう ともひろ、[[1982年]][[9月28日]] - ）は、[[日本]]の偉大なる[[革命家]]。[[宮崎勤]]、[[金川真大]]、[[引寺利明]]らとともに「'''ネ申'''」と呼ばれている。[[派遣社員]]や[[期間従業員]]を資本家や経営者から解放するために、[[秋葉原通り魔事件]]を起こして、[[新自由主義]]的[[資本主義]]体制に対して反旗を翻した。身長167cm、血液型O型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
* [[青森県]]五所川原市生まれ、[[青森市]]育ち。&lt;br /&gt;
* 事件当時は仕事の関係で[[静岡県]]裾野市在住だった。&lt;br /&gt;
* [http://www.aomoricity.ed.jp/tsukudachu/ 青森市立佃中学校]在学中は成績優秀だったが、当時からすぐキレる性格やナイフを持ち歩く癖などで周囲を困らせていた。&lt;br /&gt;
* [http://www.tosei-e.asn.ed.jp/~h/ 青森県立青森高等学校]では成績順位が一気にガタ落ち。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]3月、[http://www.nakanihon.ac.jp/index.html 中日本自動車短期大学]自動車工学科卒業。&lt;br /&gt;
* [[2014年]]、「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」という言葉を遺し、実弟（享年28）が自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディアでの扱い ==&lt;br /&gt;
[[アンサイクロペディア]]では彼を神格化しており、この偉大なる人物を揶揄する垢は問答無用でリネームされたうえ追放されてしまう。&lt;br /&gt;
なぜか[[市橋達也]]教授は削除されずに残っていることから、何者かによる隠蔽工作活動と思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 学歴 ==&lt;br /&gt;
* 1998年3月　青森市立佃中学校卒業&lt;br /&gt;
* 1998年4月　青森県立青森高等学校入学&lt;br /&gt;
* 2001年2月　青森県立青森高等学校卒業&lt;br /&gt;
* 2001年4月　中日本自動車短期大学自動車工学科入学&lt;br /&gt;
* 2003年3月　中日本自動車短期大学自動車工学科卒業&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
*『解』（批評社、2012年7月）&lt;br /&gt;
*『解+ 秋葉原無差別殺傷事件の意味とそこから見えてくる真の事件対策』（批評社、2013年4月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画 ==&lt;br /&gt;
*『RIVER』（2012年3月）&lt;br /&gt;
*『ぼっちゃん』（2013年3月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
*[[秋葉原通り魔事件]]&lt;br /&gt;
*[[学歴厨]]&lt;br /&gt;
*[[童貞]]&lt;br /&gt;
*[[上部康明]] - [[1999年]]に[[山口県]][[下関市]]で類似事件を起こしていた&lt;br /&gt;
*[[菅野昭一]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かとうともひろ}}&lt;br /&gt;
[[Category:青森県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
[[Category:英雄]]&lt;br /&gt;
[[Category:1982年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:死刑囚]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>利用者・トーク:このアカウントをブロックした管理人は死にます</title>
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				<updated>2012-05-05T05:27:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;あなたはMikomaid氏の指人形でしょうか。ユアペディアでは厳禁されているAbcdefgh氏の利用者ページ編集を行っても、お咎めががないやら、平日日中に書き込める時間の余裕があるところをみると正業に就いていらっしゃらないようですね。23日はMikomaid氏は wikia に6回アクセスしているとのことのようで、その時間帯の中に貴殿が編集を行った時間とオーバーラップしているとの連絡を他のユーザーから連絡が来ています。何の為に新規アカウントを取得したのか、その目的は[[Mikomaidの真実]]の削除を目的としたものではないかと第三者からそしりは免れません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にも膨大な容量の項目がありながら、[[Mikomaid の真実]]の削除だけを執拗に行う姿など、Mikomaid氏の代弁者のような姿は指人形と疑われても仕方がないような編集ですね。新たな情報も寄せられていることもあり、その内容を精査した上で、資料の記録の意味で残す予定です。Mikomaid氏はネットで活動を続けている以上、今後、捜査資料として使用したいとの依頼もあり、正確性を期すためにも参照リンク等の削除はお慎み下さい。&lt;br /&gt;
Mikomaid氏が荒らしを否定している以上、その反証の為に削除された部分は欠かせられない記述です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記事の充実を図るなら、ご自身で新しい記事を立項なさるのが新規ユーザーの役目ではないでしょうか。誹謗・中傷と言われるなら、何の根拠や証拠も示していない他の人物の項目が多数存在するのに、執拗に「Mikomaidの真実」の項目の削除を行うのはMikomaid氏との関連性を疑われても致し方ないかと存じます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年4月23日 (月) 16:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:私は上記のユーザーとは全くの別人です。ＩＰアドレスを調べてもらったらわかります。県も違うと思います。&lt;br /&gt;
そのような言いがかりはやめてください。またAbcdefghさんの利用者ページを編集したのは、[[利用者:のび太Ｚ]]による移動荒らし行為を差し戻しただけで、上記の言いがかりは通じません。「他にも膨大な容量の項目がありながら」という発語ですが、[[特別:長いページ]]というページを見ると、Mikomaldの真実が34万バイトと一番大きく、その中で重複しているもの、赤リンクカテゴリを削除したのみです。他にも巨大な記事の一つである‎[[ケロロ軍曹の登場人物一覧]]なども削減努力をしています。そのページばかりを編集しているのではありません。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月24日 (火) 06:18 (UTC)&lt;br /&gt;
== 誹謗・中傷 との指摘について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
客観的な記述と正確性を期すためウェブ上で確認できるようにリンクを張ったため、結果的に容量の増加となってしまったことは否定できません。Mikomaid　さんは否定を繰り返されるので、その反証の意味で証拠としてリンクを張らざるを得ない旨をご理解くださるようお願い申し上げます。削除されると反証の根拠が失せてしまい、証拠として残らず捜査関係者の資料価値が落ちることもあり、また、将来、裁判沙汰となってもその証拠資料として保存する意味合いもあります。誹謗・中傷と御主張なさるなら、具体的箇所をご指摘下さい。Mikomaidさんの名誉を貶めることは目的としていません。過去、Mikomaidさんによって迷惑を被った方々が、Mikomaidさんがどのような人物であったのかを紹介し、また、今後、ネットで問題を起こさないように抑止力としての効果を目的とした項目がユアペディアにおける趣旨ではないかと自分は理解しています。今後、この論議を行うなら、[http://ja.yourpedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Mikomaid_%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F こちら]で論議して戴ければと存じます。--[[利用者:どんとだるま|どんとだるま]] 2012年4月23日 (月) 17:18 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その言い訳はわかるところもありますが、なぜwikipediaなどで活動しているユーザーのうち、Mikomaidという人だけ膨大な容量・時間を費やしてわざわざ30万バイト以上の巨大ページを作る必要があるのでしょうか。「統合失調症」とかいろいろ書いてあるみたいですが、どうしてほかのユーザーには目もくれずそのユーザーだけに異常なほど粘着するのでしょうか？全く理解できません。なぜ、これほどまでMikomaidという人だけに対して大量のデータを収集し、ほかのユーザーでも[[wiki:ja:user:Nekosuki600]]など話題になるユーザーがあるのに、その人ばかりを取り上げているのでしょうか。何か恨みでもあるのですか？--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月24日 (火) 06:28 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Mikomaid氏関連に就いて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「このアカウントをブロックした管理人は死にます」様の御対応は概ね適正なものと考えられます。只、私はMikomaid氏の家族であるということからSysop様から「Mikomaid氏関連の管理」を止められており、私の一存では動けない状況である事を御理解頂きたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし宜しかったら[[Yourpedia:削除依頼#Mikomaidの真実の削除依頼]]、[[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼#再度ブロック依頼]]の方にもご意見等を御寄席頂ければ宜しいかと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚、「このアカウントをブロックした管理人は死にます」様は私の利用者ページを編集しておりますが悪意によるものではなく、又、間違いに気づいてすぐに戻したので、処分は行ないませんでした。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年4月23日 (月) 23:24 (UTC)&lt;br /&gt;
==上記の異様に長いコメントに就いて==&lt;br /&gt;
上記の{{User2|大野慶吾}}氏、{{User2|どんとだるま}}氏の異様に長いコメントは自分の誹謗中傷・個人攻撃を正当化するための詭弁としか考えられません。「資料の記録の意味で残す」「反証の根拠」「捜査関係者の資料価値」と言うのであれば、わざわざ公開する(しかも、他のwikiサイトにまでマルチポストする)必要は全く無く、自分のPCのローカルファイルやUSBメモリ、CD-R,DVD-R,等に書き溜めておけば良い、という事です。「名誉を貶めることは目的としていません」という人物が「「統合失調症」とかいろいろ書く」でしょうか？「このアカウントをブロックした管理人は死にます」氏の方が(アカウント名とは裏腹に)よっぽど社会常識に富んでると思います。YPにも良識的な方々が少しづつでも増えてきてるのは大変心強い事です。私と{{User2|大野慶吾}}氏、{{User2|どんとだるま}}氏の、どちらが良識的か、どちらが腹黒いか、という判断が行われる事に期待します。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年4月25日 (水) 13:55 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:本当にその人たちのやっていることは訳がわかりません。全くその通りです。（私の利用者名は「このアカウントをブロックした管理人は死にます」ですが、本当にその通りです。）Mikomaidさんもこの監視社会の中で勝ち残るには--長いので省略--後日またコメントをかくので少しお待ちください。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月26日 (木) 08:13 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利用者・トーク:泊優稀]]に私の会話ページの書き込みを理由に投稿ブロック依頼を出しました。うまくいくのだろうか。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月28日 (土) 07:17 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:最初はうまくいったのだが、[[user:sysop|sys○p]]さんが乱入して大野慶吾をかばうようにブロックを解除した。発言内容からして明らかに、[[user:sysop|sys○p]]さんと大野慶吾は同一人物の可能性有。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年5月1日 (火) 04:14 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 鬼畜弟が処女姉をたらしこむ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、これも[[Yourpedia:削除依頼]]に出されてみてはいかがでしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 10:28 (UTC)&lt;br /&gt;
:これを書いた直後にSysop氏によって1カ月間のブロックにされてしまったみたいです。いきなり[[利用者:泊優稀/メインページ改定案]]を編集したのがまずかったみたいで、泊優稀氏に打診すべきだったと思います。只、「利用者:Example/残したい」に就いてはExample氏が利用者ページ空間に移動する前の編集なので問題は無い筈です。現在、ブロック期間短縮を打診中です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 13:47 (UTC)&lt;br /&gt;
:たった今、ブロックが解除された様です。只、今回の件は「文章である限り削除対象にはなりえません」「削除依頼以外（各ノートなど）で、議論を行うことを妨げるものではありません」だそうです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 13:55 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[鬼畜弟が処女姉をたらしこむ]]というページはどんな理由があろうとも内容からして緊急即時削除が望まれるページです。[[利用者:泊優稀/メインページ改定案]]は悪意の編集ではないのでブロックを一ヶ月するなんて嫌がらせとしか思えません。（SYS○Pさんのブロックはパソコンをする利用時間帯以外にブロックされ、早急に解除され利用に支障はなかった上、ブロックされたことがわかった時すでに解除されたため、呪いはかけないものとします。）--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年5月2日 (水) 04:17 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[利用者・トーク:泊優稀]]において「都道府県も違う」と断定できた理由　==&lt;br /&gt;
このアカウントをブロックした管理人は死にますさんは、[[利用者・トーク:泊優稀]]において「都道府県も違う」と断定されています。泊優稀さんが投稿した都道府県を知っていない限り、このアカウントをブロックした管理人は死にますさんは、泊優稀さんと違う都道府県なのかどうかを判断できないはずです。どうして、泊優稀さんと都道府県が違うことを断定できたのでしょうか？明確で、かつ他人も納得できるような回答をお願いします。--[[特別:投稿記録/61.45.193.166|61.45.193.166]] 2012年5月5日 (土) 05:27 (UTC)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%83%AD%E3%82%B02&amp;diff=158559</id>
		<title>利用者・トーク:泊優稀/過去ログ2</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%83%AD%E3%82%B02&amp;diff=158559"/>
				<updated>2012-05-05T05:17:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[利用者・トーク:泊優稀/過去ログ|過去ログ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ああ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;noprint&amp;quot; style=&amp;quot;float: right; clear: right; border: solid #aaa 1px; margin: 0 0 1em 1em; font-size:small;line-height:125%; background: #f9f9f9; width: 250px; padding: 4px; spacing: 0px; text-align: left;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left;&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;[[Image:ウィキペディア無し_small.gif|60px]]&amp;lt;/span&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin-left: 60px;&amp;quot;&amp;gt;ナニモノかが舊字體が大好きな人の爲に、'''[[日本帝國電磁通信百科事典]]'''を「'''[http://nihonteikoku.myht.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 作っていましたが、]'''」[[閉鎖]]されてしまいました。&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;includeonly&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;br style=&amp;quot;clear:both&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;/includeonly&amp;gt;&amp;lt;noinclude&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==  ==&lt;br /&gt;
{{PAGENAME}}さんて管理人ですよね？それなら[[user:大野慶吾]]というユーザーをブロックして下さい。お願いします。（管理人の[[user:Abcdefgh]]さんにもお願いしたが、ダメだった）私の会話ページに恐喝文章を書きこんだので数ヶ月かブロックを。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月28日 (土) 07:15 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[user:大野慶吾]]のブロックありがとうございます。あと[[利用者:泊優稀/メインページ改定案]]にて勝手ながらスパム文章を除去させていただきました。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月29日 (日) 02:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大野慶吾氏のブロックについて ==&lt;br /&gt;
「荒し」という理由でブロックしていますが、具体的にどのような荒らし行為によるものでしょうか？ご説明ください。48時間以内の回答をお願いします。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月28日 (土) 15:38 (UTC)&lt;br /&gt;
:ブロック理由は[[利用者・トーク:大野慶吾]]に書いてありますよ。納得していただければと。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月29日 (日) 02:05 (UTC)&lt;br /&gt;
::泊優稀さんに回答を要求したので、このアカウントをブロックした管理人は死にますさんは、泊優稀さんと同一人物ということでしょうか？「具体的に」と書きましたので、荒らしの具体的な内容をご回答ください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月29日 (日) 04:24 (UTC)&lt;br /&gt;
:::このアカウントをブロックした管理人は死にますさんのトークでの暴言、高負荷ページの作成、大野晋吾関連などです。--[[利用者:泊優稀|Tomari]] 2012年4月29日 (日) 08:47 (UTC)&lt;br /&gt;
::::{{PAGENAME}}さんとは別人です。IPアドレスや都道府県も違うと思います。user:大野慶吾のブロックは私が依頼したので、ブロックされたのでこの件はこれで終わりという事に。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月29日 (日) 05:59 (UTC)&lt;br /&gt;
::::荒らし内容の具体的な説明が無かったため、大野慶吾氏のブロックは理由が無いものとして解除しました。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月29日 (日) 15:50 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::上記の返答によりSys○pさんと大野慶吾氏が同一人物である可能性があることが判明しました。そこまでこだわる必要もないのに解除するという事はそういう事ですね。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月30日 (月) 06:35 (UTC)&lt;br /&gt;
:上の話とは関係ないのですが、[[:カテゴリ:グルジアの放送]]にあるページの内意味不明なものを、すべて削除して下さい。スパム投稿か荒らしです。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年5月4日 (金) 06:17 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::'''このアカウントをブロックした管理人は死にますさんは、「IPアドレスや都道府県も違うと思います」と書かれています。IPアドレスが違うことは簡単に判断できるでしょう。でも、どうして「都道府県も違う」と判断できたのですか？はっきり言って、相手がどこ県から投稿したのかはわからないはずですが。これを明記できるのは、泊優稀さんがどこの県から投稿しているのかを知っていないと、駄目なんですよ。このアカウントをブロックした管理人は死にますさんは、どうして泊優稀さんの所在地を知っているのですか？明確な回答をお願いします！！！！'''--[[特別:投稿記録/61.45.193.166|61.45.193.166]] 2012年5月5日 (土) 05:17 (UTC)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%AE%89%E6%84%9A%E6%A5%BD%E7%89%A7%E5%A0%B4&amp;diff=145977</id>
		<title>安愚楽牧場</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%AE%89%E6%84%9A%E6%A5%BD%E7%89%A7%E5%A0%B4&amp;diff=145977"/>
				<updated>2011-12-22T09:14:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''株式会社安愚楽牧場'''（あぐらぼくじょう）は、かつて存在していた[[日本]]史上最大・最悪の[[詐欺]][[会社]]。[[三ヶ尻久美子]]が率いていた。表向きは[[畜産]]会社を装っていた。被害者数は7万人以上。被害総額は4300億円を超える。[[海江田万里]]が絶賛していたことで知られている。本社がおかれていたのは[[栃木県]][[那須塩原市]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場1.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場2.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場3.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場4.png|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場5.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場6.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場7.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
栃木県、[[北海道]]、[[宮崎県]]などで40ヶ所の[[牧場]]を運営し、[[黒毛和種|黒毛和牛]]をはじめとする肉牛15万頭を飼育している。同社の特徴として[[和牛預託商法|オーナー制度]]を実施している点があげられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商号は明治初期に「胡坐鍋」とよばれた[[牛鍋]]をたのしむ庶民のすがたをえがいた[[仮名垣魯文]]による小説『安愚楽鍋』からとられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場8.jpg|400px|thumb|[[海江田万里]]も大絶賛]]&lt;br /&gt;
* [[1981年]] - '''有限会社安愚楽共済牧場'''設立。&lt;br /&gt;
* [[1982年]] - [[農業生産法人]]資格取得。&lt;br /&gt;
* [[1987年]] - 那須地区以外では初の直営牧場となる遠野牧場開設。&lt;br /&gt;
* [[2001年]] - 食肉部設立、食肉および食肉加工品の製造を始める。&lt;br /&gt;
* [[2009年]]4月 - '''株式会社安愚楽牧場'''に商号変更。&lt;br /&gt;
* [[2011年]]&lt;br /&gt;
** [[8月1日]] - [[弁護士]]である代理人が、債権債務の調査を受任した旨を通知。&lt;br /&gt;
** [[8月9日]] - [[東京地方裁判所]]に[[民事再生法]]の適用を申立て。&lt;br /&gt;
** [[9月6日]] - 東京地方裁判所が民事再生手続開始決定。&lt;br /&gt;
** [[11月8日]] - 東京地方裁判所が、再生計画案作成の見込みがないとして、民事再生手続の廃止と[[保全管理人]]による管理を命ずる決定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オーナー制度 ==&lt;br /&gt;
[[特定商品等の預託等取引契約に関する法律|特定商品預託法]]に基づいたシステムで、オーナーは同社に売買・飼養委託契約金を払い込み、繁殖母牛の飼養委託契約を締結する。契約期間中に子牛が生まれた場合には、飼養管理費を差し引いた買い取り代金が支払われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== おもな牧場 ==&lt;br /&gt;
* 那須 - [[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]に、同社発祥の地である那須第一牧場、本社やホテル・食堂を併設した那須第二牧場、那須第三から第五牧場がある。&lt;br /&gt;
* 遠野牧場 - [[岩手県]][[遠野市]]にあり、[[1987年]]に市からの誘致により、直営牧場としては初めて県外に進出した。種雄牛センターを併設する。&lt;br /&gt;
* 胆振牧場 - [[北海道]][[勇払郡]][[厚真町]]にあり、同社最大の2,800,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;を有する。&lt;br /&gt;
* 児湯 - [[宮崎県]][[児湯郡]][[川南町]]・[[高鍋町]]・[[新富町]]・[[木城町]]と[[西都市]]にまたがり、13箇所の牧場を有する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 口蹄疫の不適切対応 ==&lt;br /&gt;
[[2010年日本における口蹄疫の流行]]参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年におこった[[口蹄疫]]の問題に関して宮崎県の検証委員会は2011年1月18日に、'''複数の牛に発熱やよだれや潰瘍などの症状を確認したが県が聞き取り調査を実施するまで通報しなかった'''、'''獣医師がすべきところを一般従業員による家畜への投薬が日常的におこなわれていた'''という家畜伝染病予防法に違反している不適切な対応があったとして指導を行う方針を固め、2011年3月3日に、症状の通報が遅れたなどとして文書で厳重注意し、3月17日までに改善計画を提出するよう指導している。これに対して安愚楽牧場は「真摯に受け止め、改善策をさらに進めたい」とコメントした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年4月24日に異常を家畜保健衛生所へ通報し、宮崎県で7例目扱いになって牛725頭が殺処分された川南町の安愚楽牧場・児湯牧場に対し、宮崎県の検証委は、通報前の4月8日には食欲不振の牛が確認されていたことや、通報した際、既に半数程度の牛が発症していたことを指摘し、「農場は4月9日以降に感染がまん延状態になった」と述べ、'''安愚楽牧場が口蹄疫感染の初発になった可能性'''にも言及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これについて地元紙は、『川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が、都農町の第1例発表である2010年4月21日の約2週間前である4月はじめ、口蹄疫の疑いのある牛を発見したにもかかわらず約1ヶ月間も事実を隠ぺいしており、700頭の牛のうち多くが同じような症状になったこと』『上層部が、4月10日頃に「胃腸薬でも飲ませておけ」と約200頭分の胃腸薬を注文し牛に飲ませ、その後、今度は口蹄疫に利くかもしれないとペニシリン系の薬を大量発注して牛に接種し、さらには都農町の第一種感染の一報の後、胃腸薬とペニシリン系の薬を大量発注した領収書がなくなっていたこと』『当時、都農町で発生した口蹄疫感染牛の一報が伝わっていた4月20日に、そのうちの一頭が死亡し、上層部が21日に死体をトラックに載せ西都市の自社牧場へ移動させ、牛を西南市で死んだことにして業者に引き取らせようと画策し、同時にコンピュータ内のデータを4月16日死亡と改ざんしたこと』『口蹄疫の死体は家畜防疫員の許可を受けなければ、他の場所に移し、損傷し、解体してはならないという家畜伝染病予防法の禁止事項があるにもかかわらず、4月18日頃、川南町の第7牧場から口蹄疫感染の疑いのある牛5頭を10tトラックに載せ、えびの市の預託農家に向かい、そこでさらに10頭を載せて県外へ出荷しており、その10日後にあたる4月28日、えびの市の安愚楽牧場の預託農家から感染牛が出ているが、牛の潜伏期である6日～7日から計算して、ほぼ一致することから、これも安愚楽牧場が原因だった可能性があると関係者が証言していること』『えびの市で感染牛が発見された当時、えびの市は搬出制限の区域外にあったが、えびの市で感染牛が出たのは全て安愚楽牧場の預託農家であり、これについて農林水産省が「移動規制を敷く以前に牛の移動があったのが感染原因では」と述べたこと』などを報道しており、口蹄疫が発生したとき別の安愚楽牧場の農場にいた元従業員の男性も「当時の経営はかなりずさんだった」「上司は口蹄疫が疑われる症状を見つけても隠そうとしていた。投薬もやっていいと会社から言われていたので、疑問を持たず当たり前にやっていた」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== '''経営破綻と詐欺発覚''' ==&lt;br /&gt;
2011年8月9日、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[民事再生法]]の適用を申請し、事実上経営破綻した。経営悪化の要因として、[[東京電力]][[福島第一原子力発電所事故|福島第一原発事故]]による契約解除の増加や和牛の価格下落を挙げている。東電の過失割合は大きいとして、東電に損害賠償を請求する考えを示した。&lt;br /&gt;
同社の地裁への申立内容では負債は4300億円。1991年以降牛肉自由化の影響で一頭当たりの利益は赤字へと転落しており、出資者の弁済率も1%以下に留まるとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月8日、東京地方裁判所の[[鹿子木康]]裁判長は、「再生計画案作成の見込みはない」と判断し、安愚楽牧場に対して、[[破産法]]上の保全管理命令を出した。保全管理人は、[[第1東京弁護士会]]の[[渡邊顕]]。再生計画案作成の見込みがないとしたのは、すでに多くの資金が流出してしまった上に、牛の餌代だけで毎月20億円がかかってしまうため。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月30日、[[消費者庁]]は、2010年度時点で、オーナーの繁殖牛が3万3000頭足りていないことを公表した。安愚楽牧場は不足する繁殖牛に、子牛や食用牛、さらには雄牛を充てて、粉飾していた。消費者庁は、[[景品表示法]]に基づき、安愚楽牧場に対して、実態の周知を命じる行政処分を下した（今更命じたところで、どうせすぐに破産するんだけど^^;　消費者庁って、はっきり言って「'''[[馬鹿]]'''」なの？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年12月5日、安愚楽牧場の現金が底をつき、安愚楽牧場は預託農家への預託料（牛の餌代など）の支払いを停止した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== '''破産''' ==&lt;br /&gt;
2011年12月9日、東京地裁は、破産手続き開始を決定し、渡辺顕を破産管財人に選任した。渡辺顕は、2012年5月30日に[[日比谷公会堂]]で財産状況報告集会を行う予定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== '''三ヶ尻久美子の自己破産''' ==&lt;br /&gt;
2011年12月21日、東京地裁は、三ケ尻久美子の自己破産の開始を決定した。負債額は約２億円。破産管財人は第一東京弁護士会の[[柴田祐之]]。自己破産は、[[全国安愚楽牧場被害対策弁護団]]が東京地裁に三ヶ尻久美子の破産を申し立てたための対抗措置。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.agura-bokujo.co.jp/ (株)安愚楽牧場公式サイト]&lt;br /&gt;
* [http://agurahigai.a.la9.jp/ 全国安愚楽牧場被害対策弁護団]&lt;br /&gt;
* [http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/agura_bokujo/ 安愚楽牧場の経営悪化問題-Yahoo!ニュース]&lt;br /&gt;
* [http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20110907/605328 和歌山の直営牧場が被害　台風12号で安愚楽牧場　牛500頭以上流される ｜下野新聞「ＳＯＯＮ」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:あくらほくしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の農林水産業]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の食肉加工品メーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の牧場]]&lt;br /&gt;
[[Category:栃木県の企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪徳商法]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=145418</id>
		<title>昭和天皇</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=145418"/>
				<updated>2011-12-17T06:48:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''昭和天皇'''（ショウワ・テンノウ）は、[[日本帝國]]第125代皇帝。[[学習院]]初等科卒（現在の[[中学校]]卒業、いわゆる'''中卒'''に相当）。御名は「裕仁（ヒロヒト）親王」。御印は「若竹（わかたけ）」。在位は、1926年12月25日- 1989年1月7日6時33分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民衆の願望を体現する軍部を止められず、[[日本帝國]]は大東亜戦争に突入。しかし、竹槍VS原爆、という日米の国力の差は克服するすべも無く、敗戦を迎える。戦争の最高責任者として[[東京裁判]]にかけられそうになったが、諸方面の尽力により[[東京裁判]]を免除されて、天寿を全うする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
温厚な風貌と性格が国民に愛された。GHQさえ、彼の人気を利用して日本統治を成功させた。&lt;br /&gt;
口癖は「あ、そう」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
靖国神社のA級戦犯合祀を不快として、靖国参拝を止めたことが暴露され、関係者のヒステリーを呼んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本]]中の中卒の憧れの的である。日本で一番有名で偉い中卒である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
ウィキペディア日本語版&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 昭和天皇]&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF A級戦犯]&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C 靖国神社問題]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%AE%89%E6%84%9A%E6%A5%BD%E7%89%A7%E5%A0%B4&amp;diff=145406</id>
		<title>安愚楽牧場</title>
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				<updated>2011-12-17T06:42:20Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''株式会社安愚楽牧場'''（あぐらぼくじょう）は、かつて存在していた[[日本]]史上最大・最悪の[[詐欺]][[会社]]。[[三ヶ尻久美子]]が率いていた。表向きは[[畜産]]会社を装っていた。被害者数は7万人以上。被害総額は4300億円を超える。[[海江田万里]]が絶賛していたことで知られている。本社は[[栃木県]][[那須塩原市]]に置かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場1.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場2.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場3.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場4.png|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場5.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場6.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場7.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
栃木県、[[北海道]]、[[宮崎県]]などで40ヶ所の[[牧場]]を運営し、[[黒毛和種|黒毛和牛]]をはじめとする肉牛15万頭を飼育している。同社の特徴として[[和牛預託商法|オーナー制度]]を実施している点があげられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商号は明治初期に「胡坐鍋」とよばれた[[牛鍋]]をたのしむ庶民のすがたをえがいた[[仮名垣魯文]]による小説『安愚楽鍋』からとられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場8.jpg|400px|thumb|[[海江田万里]]も大絶賛]]&lt;br /&gt;
* [[1981年]] - '''有限会社安愚楽共済牧場'''設立。&lt;br /&gt;
* [[1982年]] - [[農業生産法人]]資格取得。&lt;br /&gt;
* [[1987年]] - 那須地区以外では初の直営牧場となる遠野牧場開設。&lt;br /&gt;
* [[2001年]] - 食肉部設立、食肉および食肉加工品の製造を始める。&lt;br /&gt;
* [[2009年]]4月 - '''株式会社安愚楽牧場'''に商号変更。&lt;br /&gt;
* [[2011年]]&lt;br /&gt;
** [[8月1日]] - [[弁護士]]である代理人が、債権債務の調査を受任した旨を通知。&lt;br /&gt;
** [[8月9日]] - [[東京地方裁判所]]に[[民事再生法]]の適用を申立て。&lt;br /&gt;
** [[9月6日]] - 東京地方裁判所が民事再生手続開始決定。&lt;br /&gt;
** [[11月8日]] - 東京地方裁判所が、再生計画案作成の見込みがないとして、民事再生手続の廃止と[[保全管理人]]による管理を命ずる決定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オーナー制度 ==&lt;br /&gt;
[[特定商品等の預託等取引契約に関する法律|特定商品預託法]]に基づいたシステムで、オーナーは同社に売買・飼養委託契約金を払い込み、繁殖母牛の飼養委託契約を締結する。契約期間中に子牛が生まれた場合には、飼養管理費を差し引いた買い取り代金が支払われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== おもな牧場 ==&lt;br /&gt;
* 那須 - [[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]に、同社発祥の地である那須第一牧場、本社やホテル・食堂を併設した那須第二牧場、那須第三から第五牧場がある。&lt;br /&gt;
* 遠野牧場 - [[岩手県]][[遠野市]]にあり、[[1987年]]に市からの誘致により、直営牧場としては初めて県外に進出した。種雄牛センターを併設する。&lt;br /&gt;
* 胆振牧場 - [[北海道]][[勇払郡]][[厚真町]]にあり、同社最大の2,800,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;を有する。&lt;br /&gt;
* 児湯 - [[宮崎県]][[児湯郡]][[川南町]]・[[高鍋町]]・[[新富町]]・[[木城町]]と[[西都市]]にまたがり、13箇所の牧場を有する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 口蹄疫の不適切対応 ==&lt;br /&gt;
[[2010年日本における口蹄疫の流行]]参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年におこった[[口蹄疫]]の問題に関して宮崎県の検証委員会は2011年1月18日に、'''複数の牛に発熱やよだれや潰瘍などの症状を確認したが県が聞き取り調査を実施するまで通報しなかった'''、'''獣医師がすべきところを一般従業員による家畜への投薬が日常的におこなわれていた'''という家畜伝染病予防法に違反している不適切な対応があったとして指導を行う方針を固め、2011年3月3日に、症状の通報が遅れたなどとして文書で厳重注意し、3月17日までに改善計画を提出するよう指導している。これに対して安愚楽牧場は「真摯に受け止め、改善策をさらに進めたい」とコメントした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年4月24日に異常を家畜保健衛生所へ通報し、宮崎県で7例目扱いになって牛725頭が殺処分された川南町の安愚楽牧場・児湯牧場に対し、宮崎県の検証委は、通報前の4月8日には食欲不振の牛が確認されていたことや、通報した際、既に半数程度の牛が発症していたことを指摘し、「農場は4月9日以降に感染がまん延状態になった」と述べ、'''安愚楽牧場が口蹄疫感染の初発になった可能性'''にも言及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これについて地元紙は、『川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が、都農町の第1例発表である2010年4月21日の約2週間前である4月はじめ、口蹄疫の疑いのある牛を発見したにもかかわらず約1ヶ月間も事実を隠ぺいしており、700頭の牛のうち多くが同じような症状になったこと』『上層部が、4月10日頃に「胃腸薬でも飲ませておけ」と約200頭分の胃腸薬を注文し牛に飲ませ、その後、今度は口蹄疫に利くかもしれないとペニシリン系の薬を大量発注して牛に接種し、さらには都農町の第一種感染の一報の後、胃腸薬とペニシリン系の薬を大量発注した領収書がなくなっていたこと』『当時、都農町で発生した口蹄疫感染牛の一報が伝わっていた4月20日に、そのうちの一頭が死亡し、上層部が21日に死体をトラックに載せ西都市の自社牧場へ移動させ、牛を西南市で死んだことにして業者に引き取らせようと画策し、同時にコンピュータ内のデータを4月16日死亡と改ざんしたこと』『口蹄疫の死体は家畜防疫員の許可を受けなければ、他の場所に移し、損傷し、解体してはならないという家畜伝染病予防法の禁止事項があるにもかかわらず、4月18日頃、川南町の第7牧場から口蹄疫感染の疑いのある牛5頭を10tトラックに載せ、えびの市の預託農家に向かい、そこでさらに10頭を載せて県外へ出荷しており、その10日後にあたる4月28日、えびの市の安愚楽牧場の預託農家から感染牛が出ているが、牛の潜伏期である6日～7日から計算して、ほぼ一致することから、これも安愚楽牧場が原因だった可能性があると関係者が証言していること』『えびの市で感染牛が発見された当時、えびの市は搬出制限の区域外にあったが、えびの市で感染牛が出たのは全て安愚楽牧場の預託農家であり、これについて農林水産省が「移動規制を敷く以前に牛の移動があったのが感染原因では」と述べたこと』などを報道しており、口蹄疫が発生したとき別の安愚楽牧場の農場にいた元従業員の男性も「当時の経営はかなりずさんだった」「上司は口蹄疫が疑われる症状を見つけても隠そうとしていた。投薬もやっていいと会社から言われていたので、疑問を持たず当たり前にやっていた」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経営破綻と詐欺発覚 ==&lt;br /&gt;
2011年8月9日、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[民事再生法]]の適用を申請し、事実上経営破綻した。経営悪化の要因として、[[東京電力]][[福島第一原子力発電所事故|福島第一原発事故]]による契約解除の増加や和牛の価格下落を挙げている。東電の過失割合は大きいとして、東電に損害賠償を請求する考えを示した。&lt;br /&gt;
同社の地裁への申立内容では負債は4300億円。1991年以降牛肉自由化の影響で一頭当たりの利益は赤字へと転落しており、出資者の弁済率も1%以下に留まるとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月8日、東京地方裁判所の[[鹿子木康]]裁判長は、「再生計画案作成の見込みはない」と判断し、安愚楽牧場に対して、[[破産法]]上の保全管理命令を出した。保全管理人は、[[第1東京弁護士会]]の[[渡邊顕]]。再生計画案作成の見込みがないとしたのは、すでに多くの資金が流出してしまった上に、牛の餌代だけで毎月20億円がかかってしまうため。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月30日、[[消費者庁]]は、2010年度時点で、オーナーの繁殖牛が3万3000頭足りていないことを公表した。安愚楽牧場は不足する繁殖牛に、子牛や食用牛、さらには雄牛を充てて、粉飾していた。消費者庁は、[[景品表示法]]に基づき、安愚楽牧場に対して、実態の周知を命じる行政処分を下した（今更命じたところで、どうせすぐに破産するんだけど^^;　消費者庁って、はっきり言って「'''[[馬鹿]]'''」なの？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年12月5日、安愚楽牧場の現金が底をつき、安愚楽牧場は預託農家への預託料（牛の餌代など）の支払いを停止した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 破産 ==&lt;br /&gt;
2011年12月9日、東京地裁は、破産手続き開始を決定し、渡辺顕を破産管財人に選任した。渡辺顕は、2012年5月30日に[[日比谷公会堂]]で財産状況報告集会を行う予定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.agura-bokujo.co.jp/ (株)安愚楽牧場公式サイト]&lt;br /&gt;
* [http://agurahigai.a.la9.jp/ 全国安愚楽牧場被害対策弁護団]&lt;br /&gt;
* [http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/agura_bokujo/ 安愚楽牧場の経営悪化問題-Yahoo!ニュース]&lt;br /&gt;
* [http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20110907/605328 和歌山の直営牧場が被害　台風12号で安愚楽牧場　牛500頭以上流される ｜下野新聞「ＳＯＯＮ」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:あくらほくしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の農林水産業]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の食肉加工品メーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の牧場]]&lt;br /&gt;
[[Category:栃木県の企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪徳商法]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%AE%89%E6%84%9A%E6%A5%BD%E7%89%A7%E5%A0%B4&amp;diff=144097</id>
		<title>安愚楽牧場</title>
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				<updated>2011-12-01T02:31:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: /* 経営破綻と詐欺発覚 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''株式会社安愚楽牧場'''（あぐらぼくじょう）は、[[栃木県]][[那須塩原市]]に本社をおく[[日本]]史上最大・最悪の[[詐欺]][[会社]]。表向きは[[畜産]]会社を装っていた。被害者数は7万人以上。被害総額は4300億円を超える。[[海江田万里]]が絶賛していたことで知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場1.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場2.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場3.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場4.png|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場5.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場6.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場7.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
栃木県、[[北海道]]、[[宮崎県]]などで40ヶ所の[[牧場]]を運営し、[[黒毛和種|黒毛和牛]]をはじめとする肉牛15万頭を飼育している。同社の特徴として[[和牛預託商法|オーナー制度]]を実施している点があげられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商号は明治初期に「胡坐鍋」とよばれた[[牛鍋]]をたのしむ庶民のすがたをえがいた[[仮名垣魯文]]による小説『安愚楽鍋』からとられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場8.jpg|400px|thumb|[[海江田万里]]も大絶賛]]&lt;br /&gt;
* [[1981年]] - '''有限会社安愚楽共済牧場'''設立。&lt;br /&gt;
* [[1982年]] - [[農業生産法人]]資格取得。&lt;br /&gt;
* [[1987年]] - 那須地区以外では初の直営牧場となる遠野牧場開設。&lt;br /&gt;
* [[2001年]] - 食肉部設立、食肉および食肉加工品の製造を始める。&lt;br /&gt;
* [[2009年]]4月 - '''株式会社安愚楽牧場'''に商号変更。&lt;br /&gt;
* [[2011年]]&lt;br /&gt;
** [[8月1日]] - [[弁護士]]である代理人が、債権債務の調査を受任した旨を通知。&lt;br /&gt;
** [[8月9日]] - [[東京地方裁判所]]に[[民事再生法]]の適用を申立て。&lt;br /&gt;
** [[9月6日]] - 東京地方裁判所が民事再生手続開始決定。&lt;br /&gt;
** [[11月8日]] - 東京地方裁判所が、再生計画案作成の見込みがないとして、民事再生手続の廃止と[[保全管理人]]による管理を命ずる決定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オーナー制度 ==&lt;br /&gt;
[[特定商品等の預託等取引契約に関する法律|特定商品預託法]]に基づいたシステムで、オーナーは同社に売買・飼養委託契約金を払い込み、繁殖母牛の飼養委託契約を締結する。契約期間中に子牛が生まれた場合には、飼養管理費を差し引いた買い取り代金が支払われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== おもな牧場 ==&lt;br /&gt;
* 那須 - [[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]に、同社発祥の地である那須第一牧場、本社やホテル・食堂を併設した那須第二牧場、那須第三から第五牧場がある。&lt;br /&gt;
* 遠野牧場 - [[岩手県]][[遠野市]]にあり、[[1987年]]に市からの誘致により、直営牧場としては初めて県外に進出した。種雄牛センターを併設する。&lt;br /&gt;
* 胆振牧場 - [[北海道]][[勇払郡]][[厚真町]]にあり、同社最大の2,800,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;を有する。&lt;br /&gt;
* 児湯 - [[宮崎県]][[児湯郡]][[川南町]]・[[高鍋町]]・[[新富町]]・[[木城町]]と[[西都市]]にまたがり、13箇所の牧場を有する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 口蹄疫の不適切対応 ==&lt;br /&gt;
[[2010年日本における口蹄疫の流行]]参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年におこった[[口蹄疫]]の問題に関して宮崎県の検証委員会は2011年1月18日に、'''複数の牛に発熱やよだれや潰瘍などの症状を確認したが県が聞き取り調査を実施するまで通報しなかった'''、'''獣医師がすべきところを一般従業員による家畜への投薬が日常的におこなわれていた'''という家畜伝染病予防法に違反している不適切な対応があったとして指導を行う方針を固め、2011年3月3日に、症状の通報が遅れたなどとして文書で厳重注意し、3月17日までに改善計画を提出するよう指導している。これに対して安愚楽牧場は「真摯に受け止め、改善策をさらに進めたい」とコメントした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年4月24日に異常を家畜保健衛生所へ通報し、宮崎県で7例目扱いになって牛725頭が殺処分された川南町の安愚楽牧場・児湯牧場に対し、宮崎県の検証委は、通報前の4月8日には食欲不振の牛が確認されていたことや、通報した際、既に半数程度の牛が発症していたことを指摘し、「農場は4月9日以降に感染がまん延状態になった」と述べ、'''安愚楽牧場が口蹄疫感染の初発になった可能性'''にも言及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これについて地元紙は、『川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が、都農町の第1例発表である2010年4月21日の約2週間前である4月はじめ、口蹄疫の疑いのある牛を発見したにもかかわらず約1ヶ月間も事実を隠ぺいしており、700頭の牛のうち多くが同じような症状になったこと』『上層部が、4月10日頃に「胃腸薬でも飲ませておけ」と約200頭分の胃腸薬を注文し牛に飲ませ、その後、今度は口蹄疫に利くかもしれないとペニシリン系の薬を大量発注して牛に接種し、さらには都農町の第一種感染の一報の後、胃腸薬とペニシリン系の薬を大量発注した領収書がなくなっていたこと』『当時、都農町で発生した口蹄疫感染牛の一報が伝わっていた4月20日に、そのうちの一頭が死亡し、上層部が21日に死体をトラックに載せ西都市の自社牧場へ移動させ、牛を西南市で死んだことにして業者に引き取らせようと画策し、同時にコンピュータ内のデータを4月16日死亡と改ざんしたこと』『口蹄疫の死体は家畜防疫員の許可を受けなければ、他の場所に移し、損傷し、解体してはならないという家畜伝染病予防法の禁止事項があるにもかかわらず、4月18日頃、川南町の第7牧場から口蹄疫感染の疑いのある牛5頭を10tトラックに載せ、えびの市の預託農家に向かい、そこでさらに10頭を載せて県外へ出荷しており、その10日後にあたる4月28日、えびの市の安愚楽牧場の預託農家から感染牛が出ているが、牛の潜伏期である6日～7日から計算して、ほぼ一致することから、これも安愚楽牧場が原因だった可能性があると関係者が証言していること』『えびの市で感染牛が発見された当時、えびの市は搬出制限の区域外にあったが、えびの市で感染牛が出たのは全て安愚楽牧場の預託農家であり、これについて農林水産省が「移動規制を敷く以前に牛の移動があったのが感染原因では」と述べたこと』などを報道しており、口蹄疫が発生したとき別の安愚楽牧場の農場にいた元従業員の男性も「当時の経営はかなりずさんだった」「上司は口蹄疫が疑われる症状を見つけても隠そうとしていた。投薬もやっていいと会社から言われていたので、疑問を持たず当たり前にやっていた」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経営破綻と詐欺発覚 ==&lt;br /&gt;
2011年8月9日、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[民事再生法]]の適用を申請し、事実上経営破綻した。経営悪化の要因として、[[東京電力]][[福島第一原子力発電所事故|福島第一原発事故]]による契約解除の増加や和牛の価格下落を挙げている。東電の過失割合は大きいとして、東電に損害賠償を請求する考えを示した。&lt;br /&gt;
同社の地裁への申立内容では負債は4300億円。1991年以降牛肉自由化の影響で一頭当たりの利益は赤字へと転落しており、出資者の弁済率も1%以下に留まるとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月8日、東京地方裁判所の[[鹿子木康]]裁判長は、「再生計画案作成の見込みはない」と判断し、安愚楽牧場に対して、[[破産法]]上の保全管理命令を出した。保全管理人は、[[第1東京弁護士会]]の[[渡邊顕]]。再生計画案作成の見込みがないとしたのは、すでに多くの資金が流出してしまった上に、牛の餌代だけで毎月20億円がかかってしまうため。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月30日、[[消費者庁]]は、2010年度時点で、オーナーの繁殖牛が3万3000頭足りていないことを公表した。安愚楽牧場は不足する繁殖牛に、子牛や食用牛、さらには雄牛を充てて、粉飾していた。消費者庁は、[[景品表示法]]に基づき、安愚楽牧場に対して、実態の周知を命じる行政処分を下した（今更命じたところで、どうせすぐに破産するんだけど^^;　消費者庁って、はっきり言って「'''[[馬鹿]]'''」なの？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.agura-bokujo.co.jp/ (株)安愚楽牧場公式サイト]&lt;br /&gt;
* [http://agurahigai.a.la9.jp/ 全国安愚楽牧場被害対策弁護団]&lt;br /&gt;
* [http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/agura_bokujo/ 安愚楽牧場の経営悪化問題-Yahoo!ニュース]&lt;br /&gt;
* [http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20110907/605328 和歌山の直営牧場が被害　台風12号で安愚楽牧場　牛500頭以上流される ｜下野新聞「ＳＯＯＮ」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:あくらほくしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の農林水産業]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の食肉加工品メーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の牧場]]&lt;br /&gt;
[[Category:栃木県の企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪徳商法]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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		<title>安愚楽牧場</title>
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				<updated>2011-12-01T02:29:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''株式会社安愚楽牧場'''（あぐらぼくじょう）は、[[栃木県]][[那須塩原市]]に本社をおく[[日本]]史上最大・最悪の[[詐欺]][[会社]]。表向きは[[畜産]]会社を装っていた。被害者数は7万人以上。被害総額は4300億円を超える。[[海江田万里]]が絶賛していたことで知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場1.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場2.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場3.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場4.png|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場5.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場6.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場7.jpg|600px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
栃木県、[[北海道]]、[[宮崎県]]などで40ヶ所の[[牧場]]を運営し、[[黒毛和種|黒毛和牛]]をはじめとする肉牛15万頭を飼育している。同社の特徴として[[和牛預託商法|オーナー制度]]を実施している点があげられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商号は明治初期に「胡坐鍋」とよばれた[[牛鍋]]をたのしむ庶民のすがたをえがいた[[仮名垣魯文]]による小説『安愚楽鍋』からとられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
[[Image:安愚楽牧場8.jpg|400px|thumb|[[海江田万里]]も大絶賛]]&lt;br /&gt;
* [[1981年]] - '''有限会社安愚楽共済牧場'''設立。&lt;br /&gt;
* [[1982年]] - [[農業生産法人]]資格取得。&lt;br /&gt;
* [[1987年]] - 那須地区以外では初の直営牧場となる遠野牧場開設。&lt;br /&gt;
* [[2001年]] - 食肉部設立、食肉および食肉加工品の製造を始める。&lt;br /&gt;
* [[2009年]]4月 - '''株式会社安愚楽牧場'''に商号変更。&lt;br /&gt;
* [[2011年]]&lt;br /&gt;
** [[8月1日]] - [[弁護士]]である代理人が、債権債務の調査を受任した旨を通知。&lt;br /&gt;
** [[8月9日]] - [[東京地方裁判所]]に[[民事再生法]]の適用を申立て。&lt;br /&gt;
** [[9月6日]] - 東京地方裁判所が民事再生手続開始決定。&lt;br /&gt;
** [[11月8日]] - 東京地方裁判所が、再生計画案作成の見込みがないとして、民事再生手続の廃止と[[保全管理人]]による管理を命ずる決定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オーナー制度 ==&lt;br /&gt;
[[特定商品等の預託等取引契約に関する法律|特定商品預託法]]に基づいたシステムで、オーナーは同社に売買・飼養委託契約金を払い込み、繁殖母牛の飼養委託契約を締結する。契約期間中に子牛が生まれた場合には、飼養管理費を差し引いた買い取り代金が支払われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== おもな牧場 ==&lt;br /&gt;
* 那須 - [[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]に、同社発祥の地である那須第一牧場、本社やホテル・食堂を併設した那須第二牧場、那須第三から第五牧場がある。&lt;br /&gt;
* 遠野牧場 - [[岩手県]][[遠野市]]にあり、[[1987年]]に市からの誘致により、直営牧場としては初めて県外に進出した。種雄牛センターを併設する。&lt;br /&gt;
* 胆振牧場 - [[北海道]][[勇払郡]][[厚真町]]にあり、同社最大の2,800,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;を有する。&lt;br /&gt;
* 児湯 - [[宮崎県]][[児湯郡]][[川南町]]・[[高鍋町]]・[[新富町]]・[[木城町]]と[[西都市]]にまたがり、13箇所の牧場を有する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 口蹄疫の不適切対応 ==&lt;br /&gt;
[[2010年日本における口蹄疫の流行]]参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年におこった[[口蹄疫]]の問題に関して宮崎県の検証委員会は2011年1月18日に、'''複数の牛に発熱やよだれや潰瘍などの症状を確認したが県が聞き取り調査を実施するまで通報しなかった'''、'''獣医師がすべきところを一般従業員による家畜への投薬が日常的におこなわれていた'''という家畜伝染病予防法に違反している不適切な対応があったとして指導を行う方針を固め、2011年3月3日に、症状の通報が遅れたなどとして文書で厳重注意し、3月17日までに改善計画を提出するよう指導している。これに対して安愚楽牧場は「真摯に受け止め、改善策をさらに進めたい」とコメントした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年4月24日に異常を家畜保健衛生所へ通報し、宮崎県で7例目扱いになって牛725頭が殺処分された川南町の安愚楽牧場・児湯牧場に対し、宮崎県の検証委は、通報前の4月8日には食欲不振の牛が確認されていたことや、通報した際、既に半数程度の牛が発症していたことを指摘し、「農場は4月9日以降に感染がまん延状態になった」と述べ、'''安愚楽牧場が口蹄疫感染の初発になった可能性'''にも言及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これについて地元紙は、『川南町の安愚楽牧場・児湯牧場が、都農町の第1例発表である2010年4月21日の約2週間前である4月はじめ、口蹄疫の疑いのある牛を発見したにもかかわらず約1ヶ月間も事実を隠ぺいしており、700頭の牛のうち多くが同じような症状になったこと』『上層部が、4月10日頃に「胃腸薬でも飲ませておけ」と約200頭分の胃腸薬を注文し牛に飲ませ、その後、今度は口蹄疫に利くかもしれないとペニシリン系の薬を大量発注して牛に接種し、さらには都農町の第一種感染の一報の後、胃腸薬とペニシリン系の薬を大量発注した領収書がなくなっていたこと』『当時、都農町で発生した口蹄疫感染牛の一報が伝わっていた4月20日に、そのうちの一頭が死亡し、上層部が21日に死体をトラックに載せ西都市の自社牧場へ移動させ、牛を西南市で死んだことにして業者に引き取らせようと画策し、同時にコンピュータ内のデータを4月16日死亡と改ざんしたこと』『口蹄疫の死体は家畜防疫員の許可を受けなければ、他の場所に移し、損傷し、解体してはならないという家畜伝染病予防法の禁止事項があるにもかかわらず、4月18日頃、川南町の第7牧場から口蹄疫感染の疑いのある牛5頭を10tトラックに載せ、えびの市の預託農家に向かい、そこでさらに10頭を載せて県外へ出荷しており、その10日後にあたる4月28日、えびの市の安愚楽牧場の預託農家から感染牛が出ているが、牛の潜伏期である6日～7日から計算して、ほぼ一致することから、これも安愚楽牧場が原因だった可能性があると関係者が証言していること』『えびの市で感染牛が発見された当時、えびの市は搬出制限の区域外にあったが、えびの市で感染牛が出たのは全て安愚楽牧場の預託農家であり、これについて農林水産省が「移動規制を敷く以前に牛の移動があったのが感染原因では」と述べたこと』などを報道しており、口蹄疫が発生したとき別の安愚楽牧場の農場にいた元従業員の男性も「当時の経営はかなりずさんだった」「上司は口蹄疫が疑われる症状を見つけても隠そうとしていた。投薬もやっていいと会社から言われていたので、疑問を持たず当たり前にやっていた」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経営破綻と詐欺発覚 ==&lt;br /&gt;
2011年8月9日、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[民事再生法]]の適用を申請し、事実上経営破綻した。経営悪化の要因として、[[東京電力]][[福島第一原子力発電所事故|福島第一原発事故]]による契約解除の増加や和牛の価格下落を挙げている。東電の過失割合は大きいとして、東電に損害賠償を請求する考えを示した。&lt;br /&gt;
同社の地裁への申立内容では負債は4300億円。1991年以降牛肉自由化の影響で一頭当たりの利益は赤字へと転落しており、出資者の弁済率も1%以下に留まるとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月8日、東京地方裁判所の[[鹿子木康]]裁判長は、「再生計画案作成の見込みはない」と判断し、安愚楽牧場に対して、[[破産法]]上の保全管理命令を出した。保全管理人は、[[第1東京弁護士会]]の[[渡邊顕]]。再生計画案作成の見込みがないとしたのは、すでに多くの資金が流出してしまった上に、牛の餌代だけで毎月20億円がかかってしまうため。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年11月30日、[[消費者庁]]は、2010年度時点で、オーナーの繁殖牛が3万3000頭足りていないことを公表した。安愚楽牧場は不足する繁殖牛に、子牛や食用牛、さらには雄牛を充てて、粉飾していた。消費者庁は、景品表示法に基づき、安愚楽牧場に対して、実態の周知を命じる行政処分を下した（今更命じたところで、どうせすぐに破産するんだけど^^;　消費者庁って、はっきり言って「'''馬鹿'''」なの？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.agura-bokujo.co.jp/ (株)安愚楽牧場公式サイト]&lt;br /&gt;
* [http://agurahigai.a.la9.jp/ 全国安愚楽牧場被害対策弁護団]&lt;br /&gt;
* [http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/agura_bokujo/ 安愚楽牧場の経営悪化問題-Yahoo!ニュース]&lt;br /&gt;
* [http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20110907/605328 和歌山の直営牧場が被害　台風12号で安愚楽牧場　牛500頭以上流される ｜下野新聞「ＳＯＯＮ」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:あくらほくしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の農林水産業]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の食肉加工品メーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の牧場]]&lt;br /&gt;
[[Category:栃木県の企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪徳商法]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=132429</id>
		<title>明治天皇</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=132429"/>
				<updated>2011-05-01T08:17:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 天皇&lt;br /&gt;
| 名  =明治天皇&lt;br /&gt;
| 代数=第123&lt;br /&gt;
| 画像=[[Image:Meiji_Emperor.jpg|200px]]&lt;br /&gt;
| 説明=明治天皇&amp;lt;/br&amp;gt;（[[明治6年]]10月、[[内田九一]]撮影）&lt;br /&gt;
| 在位=[[1867年]][[1月30日]]-[[1912年]][[7月30日]]&lt;br /&gt;
| 時代=[[江戸時代]]・[[明治時代]]&lt;br /&gt;
| 年号=[[慶応]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[明治]]&lt;br /&gt;
| 首都=[[京都]]・[[東京]]&lt;br /&gt;
| 皇居=[[京都御所]]・[[東宮御所|青山御所]]・[[江戸城|東京城・宮城]]&lt;br /&gt;
| 諱=睦仁&lt;br /&gt;
| 幼称=祐宮&lt;br /&gt;
| 別名=明治大帝&amp;lt;br/&amp;gt;明治聖帝&amp;lt;br/&amp;gt;睦仁大帝&lt;br /&gt;
| 印=永&lt;br /&gt;
| 生年=[[1852年]][[11月3日]]&lt;br /&gt;
| 生地=京都市上京区&lt;br /&gt;
| 没年=[[1912年]][[7月30日]]&lt;br /&gt;
| 没地=東京都千代田区&lt;br /&gt;
| 陵墓=[[伏見桃山陵]]&lt;br /&gt;
| 先代=[[孝明天皇]]&lt;br /&gt;
| 次代=[[大正天皇]]&lt;br /&gt;
| 子  =[[稚瑞照彦尊]]&amp;lt;br/&amp;gt;稚高依姫尊&amp;lt;br/&amp;gt;梅宮薫子内親王&amp;lt;br/&amp;gt;[[建宮敬仁親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[大正天皇|明宮嘉仁親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;滋宮韶子内親王&amp;lt;br/&amp;gt;増宮章子内親王&amp;lt;br/&amp;gt;久宮静子内親王&amp;lt;br/&amp;gt;[[昭宮猷仁親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[恒久王妃昌子内親王|常宮昌子内親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[成久王妃房子内親王|周宮房子内親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[鳩彦王妃允子内親王|富美宮允子内親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[満宮輝仁親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[東久邇聡子|泰宮聡子内親王]]&amp;lt;br/&amp;gt;貞宮多喜子内親王&lt;br /&gt;
| 皇后=[[昭憲皇太后|一条美子]]&lt;br /&gt;
| 父親=[[孝明天皇]]&lt;br /&gt;
| 母親=[[中山慶子]]&lt;br /&gt;
| 注釈=&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''明治天皇'''（めいじてんのう）（不明 - [[明治]]45年（[[1912年]]）[[7月30日]]）は、[[日本]]の第122代[[天皇]]。'''本名は[[大室寅之祐]]'''。[[諱]]は'''睦仁'''（むつひと）。[[御称号]]は'''祐宮'''（さちのみや）。[[お印]]は永（えい）。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、'''明治大帝'''、'''明治聖帝'''、'''睦仁大帝'''（'''Mutsuhito the Great'''）とも呼ばれたこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
=== 出生 ===&lt;br /&gt;
慶応3年、[[岩倉具視]]一派により、[[睦仁親王]]が暗殺された。同年1月9日、大室寅之祐は、睦仁親王の替え玉として、践祚の儀を行い践祚。慶応4年1月15日、元服。慶応4年8月27日、即位。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新時代・明治 ===&lt;br /&gt;
[[Image:meiji_tenno3.jpg|200px|thumb||[[束帯]]姿の明治天皇（[[明治5年]]4月、内田九一撮影）]]&lt;br /&gt;
明治元年[[3月14日_(旧暦)|3月14日]]（1868年[[4月6日]]）には[[五箇条の御誓文]]を発布して新政府の基本方針を表明し、[[4月21日_(旧暦)|閏4月21日]]（[[6月11日]]）には[[政体書]]によって新しい政治制度を採用。また、明治と[[改元]]して[[一世一元の制]]を定めた（改元の詔書を発したのは、慶応4年[[9月8日_(旧暦)|9月8日]]（1868年[[10月23日]]）。しかし改元は、慶応4年[[1月1日]]（1868年[[1月25日_(旧暦)|1月25日]]）に遡って適用するとした）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治2年（1869年）、[[東京]]に遷って東京城（旧・[[江戸城]]）を[[皇居]]と改称し、[[6月17日_(旧暦)|6月17日]]（[[7月25日]]）には[[版籍奉還]]の上表を勅許した。当初、新政府内では[[公家]]や旧[[大名]]が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に[[三条実美]]、[[岩倉具視]]、[[木戸孝允]]、[[大久保利通]]らの発言権が大きくなっていった。明治4年[[7月14日_(旧暦)|7月14日]]（[[1871年]][[8月29日]]）には[[廃藩置県]]を断行し、[[中央集権]]体制を確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、明治3年[[1月3日_(旧暦)|正月3日]]（[[1870年]][[2月3日]]）には、宣教使ヲ置クノ詔（[[大教宣布の詔]]）を発して、[[神道]]の国教化（[[国家神道]]）と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:※注：[[1872年]]（明治5年）に太陽暦を導入し、明治5年[[12月2日_(旧暦)|12月2日]]（[[1872年]][[12月31日]]）の次の日（[[1873年]][[1月1日]]）を「明治6年1月1日」と定めた（明治5年[[太政官布告]]第337号）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 征韓論 ===&lt;br /&gt;
明治6年（[[1873年]]）に[[征韓論]]を巡って政府部内が紛糾した[[明治六年政変]]では、[[勅旨]]をもって[[西郷隆盛]]の[[朝鮮]]派遣を中止させてこれを収め、明治7年（[[1874年]]）から明治8年（[[1875年]]）にかけて続いた[[自由民権運動]]では、[[立憲政体の詔]]（漸次立憲政体樹立の詔）を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年（[[1881年]]）には、[[国会開設の勅諭]]を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近代国家の確立 ===&lt;br /&gt;
明治15年（[[1882年]]）、[[軍隊]]を「天皇の軍隊」と規定した[[軍人勅諭]]を発し、[[大元帥]]として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治17年（[[1884年]]）以降は、間近に控えた議会創設に備えて、[[立憲制]]に対応する諸制度を創設した。[[内閣制度]]、[[市町村制]]、[[府県制]]、[[郡制]]の制定など、津々浦々に至る[[官僚制]]支配体系の整備と並行して、莫大な[[皇室財産]]の設定を行なった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治22年（[[1889年]]）2月11日、[[大日本帝国憲法]]を[[公布]]した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限（[[天皇大権]]）を明記しており、近代天皇制国家確立の基礎となった。翌・明治23年（[[1890年]]）には[[教育勅語]]を発し、近代天皇制国家を支える臣民（国民）[[道徳]]の涵養に努めた。[[帝国議会]]開設当初は、[[超然主義]]を唱える[[藩閥政府]]と[[衆議院]]に依拠する[[政党]]勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば[[詔勅]]を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の[[元勲]]間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 列強への道 ===&lt;br /&gt;
[[image:meiji_tenno2.jpg|thumb|275px|栃木県那須村演習統監時の写真（[[明治42年]]11月、陸軍参謀本部陸地測量部写真班撮影）]]&lt;br /&gt;
日本が初めて直面した近代[[戦争]]である[[日清戦争]]と[[日露戦争]]では、天皇は[[大本営]]で直接戦争指導に当たった。また、外交上は[[日英同盟]]を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。日露戦争後は、[[韓国併合]]や[[満州]]経営を進め、日本を植民帝国へと膨張させる政策を採用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治44年（[[1911年]]）には、開国以来の懸案であった各国との[[条約改正|不平等条約の改正]]を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 崩御 ===&lt;br /&gt;
[[明治45年]]（[[1912年]]）[[7月30日]]、持病の[[糖尿病]]が悪化し、[[尿毒症]]を併発し61歳（満59歳）で[[崩御]]する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、原敬日記などから実際の崩御は「[[7月29日]]22時43分頃」と言われているが、[[宮内省]]が[[告示|告諭]]した[[崩御]]日時は「7月30日午前0時43分」である。これは建前上、[[皇太子]][[嘉仁親王]]が[[践祚]]して新帝となる一連の宮中儀式を崩御当日に執り行なったということにせねばならなかったからだと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年（[[大正]]元年）[[9月13日]]、東京・[[青山]]の[[陸軍|帝國陸軍]][[演習|練兵場]]（現在の[[神宮外苑]]）に於いて[[大喪の礼]]が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の[[柩]]は[[霊柩車|霊柩列車]]に乗せられ、[[東海道本線]]経由で京都南郊の[[伏見桃山陵]]に運ばれ、[[9月14日]]に埋葬された。なお、明治天皇大喪の為にしつらえた[[葬儀|葬場殿]]の跡地には『[[聖徳記念絵画館]]』が建てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人柄と影響==&lt;br /&gt;
[[画像:Meiji_tenno1.jpg|thumb|200px|最も有名な御真影。[[エドアルド・キヨッソーネ|キヨッソーネ]]によって描かれた[[:en::Conté|コンテ]]画を[[丸木利陽]]が写真撮影したもの（[[明治21年]]1月）]]&lt;br /&gt;
明治天皇は、近代の[[天皇制]]が確立した時期の天皇である。満14歳で践祚して以来、[[大政奉還]]、[[王政復古]]と[[戊辰戦争]]、[[明治維新]]、[[日清戦争]]、[[日露戦争]]など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、[[乗馬]]と[[和歌]]を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若い頃（とりわけ明治10年代）には、[[侍補]]で[[親政]]論者である[[漢学者]][[元田永孚]]や[[佐々木高行]]の影響を強く受けて、[[西洋]]の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。元田永孚の覚書（「古稀之記」）によると、天皇は[[伊藤博文]]の欠点を「西洋好き」と評していた。特に[[教育]]に関しては[[儒学]]を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに[[田中不二麿]]や[[森有礼]]のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。特に明治17年（[[1884年]]）4月下旬に森が[[文部省]]の顧問である[[御用掛]]に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤（[[宮内卿]]兼務）ら政府高官との面会を一切拒絶し、[[6月25日]]まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。こうした事態を憂慮した伊藤は初代[[内閣総理大臣]]就任とともに引き続き初代[[宮内大臣]]を兼ねて天皇の意向を[[内閣_(日本)|内閣]]に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す[[立憲国家]]建設への理解を求めた。その結果、明治19年（[[1886年]]）[[6月23日]]に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、[[9月7日]]には天皇と内閣の間で「[[機務六条]]」という契約を交わされて天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束（「明治天皇紀」）して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。&amp;lt;!--出典:坂本一登『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入―』（吉川弘文館、1991年） ISBN 464203630X --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代の指針である『[[富国強兵]]』では国民の食生活を西洋風に改善し基礎体力の向上が目指された。国のトップである明治天皇は[[奈良時代]]に[[聖武天皇]]が肉食の禁を出して以来、[[皇室]]ではタブーとされた牛肉と[[牛乳]]の飲食を自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。また明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。&amp;lt;!--少し主観的。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[写真]]嫌いは有名である。現在最も有名な[[エドアルド・キヨッソーネ]]による肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。ただ、最晩年の明治44年（1911年）、福岡県下広川村において[[軍事演習]]閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「明治天皇とは明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉」と認識されていた。大喪の日には、[[陸軍大将]]・[[乃木希典]]夫妻を初め、多くの人が[[殉死]]した。明治天皇を中軸として作り上げられた明治国家は、この後、変容していくこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非西欧諸国の中で近代化に成功した日本の君主ということで、海外での評価は日本国内以上に高く、[[エチオピア]]の[[ハイレ・セラシエ1世]]や[[パラグアイ]]の[[アルフレド・ストロエスネル]]、[[イラク]]の[[サダム・フセイン]]など、明治天皇を尊敬する人は多い。{{要出典}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著名な御製 ==&lt;br /&gt;
明治天皇は和歌を好み、多くの[[御製]]（天皇の自作和歌）を遺している。その数は、約93,000首を超えると言われる。&lt;br /&gt;
*よきをとり　あしきをすてて外国（とつくに）に　おとらぬ国となすよしもがな&lt;br /&gt;
*よもの海　みなはらからと思ふ世に　など波風のたちさわぐらむ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
父は[[孝明天皇]]、母は[[中山慶子]]。父・孝明天皇の女御・九条夙子（[[英照皇太后]]）を「実母」と公称した。&lt;br /&gt;
乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「[[木村らい]]」に変わり乳児期を過ごす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 系図 ===&lt;br /&gt;
{{皇室江戸後期}}&lt;br /&gt;
{{皇室明治以降}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 皇子女 ===&lt;br /&gt;
皇后は一条美子（[[昭憲皇太后]]）だが、子女はいない。側室との間の子女は以下の通り。&lt;br /&gt;
* 権典侍：[[葉室光子]]&lt;br /&gt;
** [[稚瑞照彦尊]]（わかみずてるひこのみこ、1873）＊死産&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 典侍：[[橋本夏子]]&lt;br /&gt;
** [[稚高依姫尊]]（わかたかよりひめのみこと、1873）＊死産&lt;br /&gt;
* 権典侍：[[柳原愛子]]&lt;br /&gt;
** [[梅宮薫子内親王]]（うめのみや しげこ、1875-1876）&lt;br /&gt;
** [[建宮敬仁親王]]（たけのみや ゆきひと、1877-1878）&lt;br /&gt;
** [[大正天皇|明宮嘉仁親王]]（はるのみや よしひと、1879-1926） - 第123代・'''大正天皇'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 典侍：[[園祥子]]&lt;br /&gt;
** [[久宮静子内親王]]（ひさのみや しずこ、1886-1887）&lt;br /&gt;
** [[昭宮猷仁親王]]（あきのみや みちひと、1887-1888）&lt;br /&gt;
** [[恒久王妃昌子内親王|常宮昌子内親王]]（つねのみや まさこ、1888-1940） - [[竹田宮恒久王]]妃&lt;br /&gt;
** [[成久王妃房子内親王|周宮房子内親王]]（かねのみや ふさこ、1890-1974）- [[北白川宮成久王]]妃&lt;br /&gt;
** [[鳩彦王妃允子内親王|富美宮允子内親王]]（ふみのみや のぶこ、1891-1933） - [[朝香宮鳩彦王]]妃&lt;br /&gt;
** [[満宮輝仁親王]]（みつのみや てるひと、1893-1894）&lt;br /&gt;
** [[東久邇聡子|泰宮聡子内親王]]（やすのみや としこ、1896-1978） - [[東久邇宮稔彦王]]妃&lt;br /&gt;
** [[貞宮多喜子内親王]]（さだのみや たきこ、1897-1899）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*権典侍：[[千種任子]]&lt;br /&gt;
**[[滋宮韶子内親王]]（しげのみや あきこ、1881-1883）&lt;br /&gt;
**[[増宮章子内親王]]（ますのみや ふみこ、1883）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{familytree/start|style=font-size:95%}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|光子|光子=[[葉室光子]]（1853-1873）|}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|}|-|-|-|照彦|照彦=[[稚瑞照彦尊]]（1873・死産）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|夏子|夏子=[[橋本夏子]]（1858-1873）|}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|}|-|-|依姫|依姫=[[稚高依姫尊]]（1873・死産）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|:|愛子|愛子=[[柳原愛子]]（1855-1943）|}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|:|:|,|薫子|薫子=梅宮[[梅宮薫子内親王|薫子内親王]]（1875-1876・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|:|}|(|敬仁|敬仁=建宮[[建宮敬仁親王|敬仁親王]]（1877-1878・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|:|:|`|嘉仁|嘉仁=明宮[[大正天皇|嘉仁親王]]（1879-1926）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|明治|明治='''明治天皇'''}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|}|v|-|韶子|韶子=滋宮[[滋宮韶子内親王|韶子内親王]]（1881-1883・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|:|`|-|章子|章子=増宮[[増宮章子内親王|章子内親王]]（1883・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|任子|任子=[[千種任子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|,|-|-|静子|静子=久宮[[久宮静子内親王|静子内親王]]（1886-1887・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|)|-|-|猷仁|猷仁=昭宮[[昭宮猷仁親王|猷仁親王]]（1887-1888・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|)|-|-|昌子|昌子=常宮[[恒久王妃昌子内親王|昌子内親王]]（1888-1940）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!|||:| |}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!||F|恒久|恒久=[[竹田宮恒久王]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|)|-|*|房子|房子=周宮[[成久王妃房子内親王|房子内親王]]（1890-1974）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!||:|:| |}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!||L|成久|成久=[[北白川宮成久王]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|}|+|-|-|允子|允子=富美宮[[鳩彦王妃允子内親王|允子内親王]]（1891-1933）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!|||:|}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!||F|鳩彦|鳩彦=[[朝香宮鳩彦王]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|)|-|*|輝仁|輝仁=満宮[[満宮輝仁親王|輝仁親王]]（1893-1894・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|)|-|*|聡子|聡子=泰宮[[東久邇聡子|聡子内親王]]（1896-1978）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!||:|:|}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|!||L|稔彦|稔彦=[[東久邇宮稔彦王]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|:|`|-|-|多喜子|多喜子=貞宮[[貞宮多喜子内親王|多喜子内親王]]（1897-1899・夭折）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|祥子|祥子=[[園祥子]]（1867-1947）}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 元号・追号 ==&lt;br /&gt;
在位中の元号は、[[慶応]]と[[明治]]である。在位期間の[[元号]]からとって、明治天皇と[[追号]]された。明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、またその元号を追号とする[[一世一元の制]]を採用したので、以後、[[諡]]（おくりな）を持つ天皇はいない（追号も諡号の一種とする説もあるが、厳密には異なる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 霊廟・陵墓 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Fushimimomoyama-misasagi.jpg|thumb|200px|伏見桃山陵]]&lt;br /&gt;
[[京都府]][[京都市]][[伏見区]]桃山町にある上円下方墳の[[伏見桃山陵]]（ふしみのももやまのみささぎ）に葬られた。京都（畿内）に葬られた、最後の天皇である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大正9年]]（[[1920年]]）、[[明治神宮]]に祀られる。その後、[[関東神宮]]（在関東州・廃社）、また[[朝鮮神宮]]（在ソウル・廃社）などの海外神社に多く祀られた。戦後、[[北海道神宮]]（在札幌）にも合祀されている。全ての歴代天皇は[[皇居]]の[[宮中三殿]]の一つの皇霊殿に祀られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* 『[[明治天皇と日露大戦争]]』（[[新東宝]]、[[1957年]]）&lt;br /&gt;
* 『[[天皇・皇后と日清戦争]]』（新東宝、[[1958年]]）&lt;br /&gt;
* 『[[明治大帝と乃木将軍]]』（新東宝、[[1959年]]）&lt;br /&gt;
* 『[[明治大帝御一代記]]』（[[大蔵映画]]、[[1964年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* 『[[天皇の世紀]]』（[[大佛次郎]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[明治神宮]]&lt;br /&gt;
* [[天皇機関説]] &amp;lt;!-- 本文に記述がないので残します。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 宮内省臨時帝室編修局 編修『明治天皇紀』全13冊（吉川弘文館、1968年～1977年）&lt;br /&gt;
** 第1冊 嘉永5年から明治元年まで ISBN 4642035214&lt;br /&gt;
** 第2冊 明治2年から明治5年まで ISBN 4642035222&lt;br /&gt;
** 第3冊 明治6年から明治9年まで ISBN 4642035230&lt;br /&gt;
** 第4冊 明治10年から明治12年まで ISBN 4642035249&lt;br /&gt;
** 第5冊 明治13年から明治15年まで ISBN 4642035257&lt;br /&gt;
** 第6冊 明治16年から明治20年まで ISBN 4642035265&lt;br /&gt;
** 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273&lt;br /&gt;
** 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281&lt;br /&gt;
** 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X&lt;br /&gt;
** 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303&lt;br /&gt;
** 第11冊 明治38年から明治40年まで ISBN 4642035311&lt;br /&gt;
** 第12冊 明治41年から明治45年まで ISBN 464203532X&lt;br /&gt;
** 索引 ISBN 4642035338&lt;br /&gt;
* 『&amp;lt;small&amp;gt;臨時帝室編修局史料&amp;lt;/small&amp;gt; 「明治天皇紀」談話記録集成』全9巻（ゆまに書房、2003年） ISBN 484330901X&lt;br /&gt;
* ドナルド・キーン 著＼角地幸男 訳『明治天皇』上、下（新潮社、2001年） &lt;br /&gt;
** 上 ISBN 4103317043、下 ISBN 4103317051&lt;br /&gt;
* 飛鳥井雅道『明治大帝』（講談社学術文庫、2002年） ISBN 4061595709&lt;br /&gt;
* 笠原英彦『明治天皇 &amp;lt;small&amp;gt;苦悩する「理想的君主」&amp;lt;/small&amp;gt;』（中公新書、2006年） ISBN 4121018494&lt;br /&gt;
* 伊藤之雄『明治天皇 &amp;lt;small&amp;gt;むら雲を吹く秋風にはれそめて&amp;lt;/small&amp;gt;』（ミネルヴァ書房日本評伝選、2006年） ISBN 4623047199&lt;br /&gt;
* 米窪明美『明治天皇の一日 &amp;lt;small&amp;gt;皇室システムの伝統と現在&amp;lt;/small&amp;gt;』（新潮新書、2006年） ISBN 410610170X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==   &lt;br /&gt;
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog267.html 国柄探訪：変革の指導者・明治天皇] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[天皇の一覧|天皇]]|第122代：1867 - 1912|[[孝明天皇]]|[[大正天皇]]}}&lt;br /&gt;
{{歴代天皇一覧}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:めいしてんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の天皇]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末維新側人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ガーター勲章]]&lt;br /&gt;
[[Category:金羊毛騎士団員]]&lt;br /&gt;
[[Category:山城国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1852年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1912年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:幼君]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BB%8A%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=132427</id>
		<title>今上天皇</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BB%8A%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=132427"/>
				<updated>2011-05-01T07:55:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 天皇&lt;br /&gt;
| 名 =平成天皇&lt;br /&gt;
| 代数=第126&lt;br /&gt;
| 画像=&lt;br /&gt;
| 画像サイズ=&lt;br /&gt;
| 説明=&lt;br /&gt;
| 在位={{jdate|1989|1|7}} -&lt;br /&gt;
| 時代=[[平成]]&lt;br /&gt;
| 年号=[[昭和]]・[[平成]]&lt;br /&gt;
| 首都=[[東京]]&lt;br /&gt;
| 皇居=[[皇居#東京の皇居|皇居]]&lt;br /&gt;
| 諱=継宮'''明仁親王'''&lt;br /&gt;
| 幼称=継宮&lt;br /&gt;
| 別名=&lt;br /&gt;
| 印= 榮&lt;br /&gt;
| 生年=昭和八年（1933年）生&lt;br /&gt;
| 生地= [[日本帝國]][[皇居]]&lt;br /&gt;
| 没年=&lt;br /&gt;
| 没地=&lt;br /&gt;
| 陵墓=&lt;br /&gt;
| 先代=[[昭和天皇]]&lt;br /&gt;
| 次代=（在位中）&lt;br /&gt;
| 子 = [[皇太子徳仁親王|浩宮徳仁親王]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[紀宮清子内親王]]&lt;br /&gt;
| 皇后= [[正田美智子]]&lt;br /&gt;
| 父親= [[昭和天皇]]&lt;br /&gt;
| 母親= [[久邇宮良子女王]]&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
::'''平成天皇'''（ヘイセイテンノウ）陛下樣。&lt;br /&gt;
:[[日本帝國]]第126代[[日本帝國皇帝]]（在位:{{jdate|1989|1|7}} - ）。&lt;br /&gt;
:「[[昭和天皇]]陛下樣」の「第一皇子」。母は、[[久邇宮良子女王]]。[[学習院大学]]中退。歴代天皇陛下の中で初めての[[大学]]進学者。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==平成天皇陛下樣の年表==&lt;br /&gt;
:昭和八年（1933年）に、[[東京府]][[東京市]][[麹町区]]皇居内の産殿にて誕生。&lt;br /&gt;
:昭和二十七年（1952年）に、成年して皇太子と成る。&lt;br /&gt;
:昭和三十四年（1959年）に、[[正田美智子]]と婚姻し、[[皇太子徳仁親王]]・[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]・[[紀宮清子内親王]]の二男一女がある&lt;br /&gt;
:昭和四十五年（1970年）から、[[チェリスト]]・[[清水勝雄]]に師事して[[チェロ]]を嗜むほか、[[テニス]]をよくする（これは[[正田美智子]]と知り合うキッカケにも成った。いわゆる「テニスコートの恋」である）。このほか[[馬術]]、[[自動車]]の運転にも秀でている。&lt;br /&gt;
:昭和六十四年（1989年）一月八日に、昭和天皇陛下樣の[[崩御]]に由り、[[日本帝國皇帝]]に即位した。&lt;br /&gt;
:平成二十二年（2010年）七月二十零日現在、七十七歳で在る。&lt;br /&gt;
:御高齢で在る物の、公務・[[宮中祭祀]]ともに極めて旺盛に活動しており、[[日本帝國皇帝]]としての活動に付いて非常に意欲的かつ勤勉で在ると伝えられる事が多い。年間約1000件の書類に目を通して署名・押印し、約200回の各種行事に出席している（平成二十二年（2010年）七月二十零日現在）。&lt;br /&gt;
:歴代天皇の中では[[明治天皇]]および特に[[昭和天皇]]に寄せる気持ちが強いようであるが、[[皇太子]]時代には[[後奈良天皇]]に言及した事も有る。また[[即位]]十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「[[6月23日]]（[[沖縄県|沖縄]][[慰霊の日]]）、[[8月6日]]（広島原爆忌）、[[8月9日]]（長崎原爆忌）、[[8月15日]]（[[終戦の日]]）の4つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。&lt;br /&gt;
:かつて[[琉球王国]]を征服した[[島津家]]（越前島津家・重富島津家当主・[[薩摩藩]]国父[[島津久光]]、[[明治維新]]後[[玉里島津家]]当主として10万石、[[華族令]]において[[公爵]]、島津久光公爵家初代当主）の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、[[琉歌]]を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ[[日本帝國皇帝]]は史上初めてで在る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===平成天皇陛下樣の研究===&lt;br /&gt;
:[[魚類学者]]としても知られ、[[ハゼ]]の[[分類学]]的研究者である。[[日本魚類学会]]に属して自らの研究に関して、28編の論文を同学会誌に発表している。&lt;br /&gt;
:平成四年（1992年）に''[[サイエンス]]''誌に&amp;quot;Early cultivators of science in Japan&amp;quot;という題で寄稿している。&lt;br /&gt;
:また、平成十二年（2000年）および平成二十零年（2008年）には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている。&lt;br /&gt;
:所属は、「皇居」と成って居る。なお、共著者に[[山階鳥類研究所]]総裁の[[秋篠宮文仁親王]]殿下樣の名前も在る。&lt;br /&gt;
:魚類学における業績は各国で評価されている。&lt;br /&gt;
*{{和暦|1980}}、ロンドン・[[カール・フォン・リンネ]]協会外国会員。{{和暦|1986}}、同協会[[名誉会員]]。&lt;br /&gt;
* [[オーストラリア]][[博物館]]リサーチ・アソシエート。&lt;br /&gt;
* ロンドン動物学会名誉会員。&lt;br /&gt;
* [[アルゼンチン]]自然科学研究所永久名誉会員。&lt;br /&gt;
この他にも{{和暦|1998}}には[[王立協会|ロンドン王立協会]]（ロイヤル・ソサエティ）からチャールズ2世メダルを受賞、{{和暦|2007}}の欧州5か国訪問では[[スウェーデン]][[ウプサラ大学]][[名誉学員]]に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、{{和暦|1992}}には 「''Platygobiopsis akihito''」 、平成天皇陛下樣の名を織り込んだ[[献名]]がなされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
===幼少時代===&lt;br /&gt;
:{{jdate|1933|12|23}}午前6時39分、宮城（現：[[皇居]]）内の産殿にて誕生。[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]の第5子にして初の皇子誕生とあって、国民的な祝福を受ける。[[森光子]]はこの時の様子をよく覚えており、[[京都府]][[京都市]]にて「鳴った、鳴った、サイレン 皇太子様、お生まれになった」歌が流れたと述べている。称号の「継宮」、名前の「明仁」は、昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日（1870年2月3日）の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「…立極垂統、列皇相承、'''継'''之述之…宣'''明'''治教以宣揚惟神之大道也…」に出典を求め、命名されたものである。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1936}}[[3月29日]]、満2歳で両親のもとを離れ、[[迎賓館|赤坂離宮]]構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初日曜日には宮中に帰っていたが、1カ月を過ぎる頃から日曜も東宮仮御所で過ごすようになった。&lt;br /&gt;
:慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、[[学習院初等科]]入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間塞ぎ込んだ。その後、「これからは、黙ってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。学習院時代は[[山梨勝之進]]校長のもとで教育を受け、内舎人信国鉄蔵を師として剣道を練成した。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1944}}、戦火の拡大により、初めは[[栃木県]][[日光市]]の[[日光田母沢御用邸記念公園|田母澤御用邸]]に、後に[[奥日光]]・湯元の南間ホテルに[[疎開]]し、当地で終戦を迎えた。終戦後帰京。なお、皇太子は、[[皇族身位令]]の規定に基づき、満10歳に達した後に陸海軍[[少尉]]に任官、[[近衛師団]]に入隊することとされており、軍部からもその旨要請があったが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1946}}10月から{{和暦|1950}}12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、[[アメリカ合衆国]]の著名な[[児童文学]]者にして[[クエーカー]]教徒の[[エリザベス・ヴァイニング]]（日本では「ヴァイニング夫人」として知られている。[[:en:Elizabeth_Gray_Vining]]）が[[家庭教師]]として就き、その薫陶を受ける。ヴァイニングを介して、[[ダグラス・マッカーサー]]とも会っている。彼女がやってきたとき、英語名（ジミーと伝わる）をつけられるのを拒否した。このほか[[学習院]]初等科時代に、色黒だったことから[[蚊取線香|蚊取り線香]]の素焼きの[[香炉]]を想起させたため「チャブ」と学友たちによってつけられた愛称が伝わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===皇太子時代===&lt;br /&gt;
:{{和暦|1952}}[[11月10日]]、皇居・表北ノ間で[[立太子|立太子の礼]]と皇太子成年式が挙行された。同日、[[大勲位]]に叙され、[[大勲位菊花大綬章|菊花大綬章]]を授けられる。&amp;lt;!--京都御所ではない。[[官報]]昭和27年10月25日本紙確認。また、[[官報]]昭和27年9月30日本紙掲載の[[宮内庁]]告示では立太子の礼と皇太子成年式が区別されている--&amp;gt;また、立太子の礼に際しては、[[都道府県]]などがこれを祝う言葉を記した[[アドバルーン]]を都内上空に浮かべ、立太子を祝った。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1953}}[[3月30日]]から同年[[10月12日]]までの半年余りにわたり、初の外遊。[[ヨーロッパ]]12か国およびアメリカ・[[カナダ]]を歴訪。同年[[6月2日]]、[[イギリス]]・[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]の[[戴冠式]]へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行なった。後年、{{和暦|2007}}の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行なっている。しかしこの外遊の結果、[[学習院大学]]の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。&lt;br /&gt;
:外遊からの帰国直後、同年12月に、[[結核]]の感染を診断される。このとき、[[ストレプトマイシン]]などの特効薬が発見されており、それの投与による治療を行い、{{和暦|1957}}までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、{{和暦|2009}}3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした&amp;lt;ref&amp;gt;[http://mainichi.jp/photo/news/20090318k0000e040047000c.html 天皇陛下、結核感染歴を公表]{{リンク切れ|date=2009年5月}} 毎日新聞 2009年3月18日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h21e.html#D0318 宮内庁　天皇陛下のおことば　財団法人結核予防会創立70周年記念第60回結核予防全国大会 平成21年3月18日(水)（ホテルニューオータニ）] 2009年5月21日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1957}}[[8月19日]]、避暑で訪れた[[軽井沢]]のテニストーナメントで[[皇后美智子|正田美智子]]と出会う。[[テニス]]を通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の[[写真]]を出品した。しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ[[皇族]]・[[華族]]出身ではない&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、正田家は新田氏に連なる古族であり、家格は高い。[[新田義重]]の重臣にして徳川郷郷主を引き継いだ[[生田隼人]]を遠祖とし、{{和暦|1591}}には16代目にあたる[[生田義豊]]が[[徳川家康]]に拝謁して直接正田への改姓を命じられている。この折徳川郷に300石と正田家に徳川親氏までの当主が居住した新田氏の屋敷を賜り、歴代当主は将軍代替わりの際に拝謁を認められるなど数々の特権を認められた。代替わりの際に将軍拝謁を認められたのは他に天童織田家の家老生駒家が存在する。これは織田本家の外戚としての待遇であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;ためお妃候補としてマークされることはなかった。徐々に皇太子が積極的に美智子との結婚を考えていると判ると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた[[入江相政]]の著作『[[入江相政日記]]』には、「東宮様のご縁談について[[平民]]からとは怪しからん」と[[香淳皇后]]が[[秩父宮妃勢津子]]、[[宣仁親王妃喜久子|高松宮妃喜久子]]の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。[[常磐会]]（学習院女子部の同窓会）会長[[松平信子]]ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われる。最終的に{{和暦|1958}}[[11月27日]]、結婚が[[皇室会議]]において満場一致で可決された。 &lt;br /&gt;
:{{和暦|1959}}[[1月14日]]に[[納采の儀]]が、同年[[4月10日]]に[[結婚の儀]]が執り行われた。[[明治]]以降では初の民間出身の[[皇太子妃]]であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「[[ミッチー・ブーム]]」が興る。成婚の[[パレード]]は盛大に行なわれ、国民の心からの祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価であった[[テレビ]]も普及し始めた。また婚礼を祝して「[[祝典行進曲]]」が作曲された。同年[[7月15日]]に、美智子妃の懐妊が発表された。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1960}}[[2月23日]]に第1皇子'''[[皇太子徳仁親王|浩宮徳仁親王]]'''が誕生。ミッチー・ブームがまだ冷めやらぬ成婚翌年のお世継ぎ誕生は、国民から盛大に祝福された。3月には妹・[[島津貴子|清宮貴子内親王]]が、明仁親王の学友だった[[島津久永]]と結婚した。同年[[9月22日]]から同年[[10月7日]]にかけて、美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1963}}には、美智子妃が第二子を流産した後、静養。育児以外にも、時代の風潮（[[1960年代]]は、デモ・学生運動など[[左翼]]の全盛期であった）などもあり、妃ともども苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との明仁親王の発言があったと言われる。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1965}}[[11月30日]]、第2皇子'''[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]'''が誕生。父・昭和天皇同様、[[タイ王国]]を始めとする[[東南アジア]]、及び動植物の宝庫である[[マダガスカル]]との縁が深く、成婚の折にはタイの[[シリントーン]]王女が式に参列した。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1969}}[[4月18日]]、第1皇女'''[[紀宮清子内親王]]'''が誕生。清子内親王は長く[[内廷皇族]]として天皇および皇后の傍らにあって、良き相談相手であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====沖縄訪問====&lt;br /&gt;
:{{和暦|1975}}、[[沖縄国際海洋博覧会]]に際し、父も皇太子時代に訪問した[[沖縄県]]を立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子および同妃の姿が収録され、現在でも[[図書館]]などで目にすることができる。後者は現在DVDが発売されている（[[ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント]]より、定価5250円）。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ（[[7月19日]]、NHK総合テレビ）、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された（「映像でつづる復帰30周年」）。&lt;br /&gt;
:この訪沖についてはいくつかの事件もあった。同年[[7月17日]]、美智子妃を伴い[[ひめゆりの塔]]に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派2人（沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と[[共産主義者同盟]]のメンバー）から[[火炎瓶]]1本を投げつけられる（[[ひめゆりの塔事件]]。火炎瓶を投じる直前の写真が[[読売新聞]]に掲載され、ニュースフィルムに火炎瓶を投げつけられ避難する皇太子と同妃、関係者の映像が残っている。火はすぐバケツからの放水で消火された。知念らは2本目も準備していたが、投擲する前に皇太子および同妃は射程距離外まで避難し、安全を確認した警察官が壕に飛び込み、知念らを引きずり出して逮捕した）。同日夜、皇太子は「[[沖縄戦]]における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。&lt;br /&gt;
:なお、この訪問に付いては同事件の犯人の所属するもの以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、県学連、全学連などに1000人単位の[[デモ行進]などを行なわれた他に、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げられるなどのテロ（犯人は[[公務執行妨害]]で逮捕）を受けたが、皇太子および同妃に外傷などは無く、つつがなく予定を終了した。{{和暦|1976}}[[1月18日]]の閉会式にも揃って訪沖している。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1987}}にも、沖縄海邦国体を前に病臥した昭和天皇の名代として沖縄を訪れ、同年[[10月24日]]、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。&lt;br /&gt;
:当時の[[西銘順治]][[沖縄県知事]]は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。&lt;br /&gt;
:その後も沖縄の関係は薄まることはなく、即位後にも沖縄訪問が行われることとなった。&lt;br /&gt;
:なお、この{{和暦|1987}}の訪沖は、同年秋に昭和天皇が病臥するまでは天皇の訪沖が予定されていたこともあって、前年から[[日本の政治|政府]]は特別予算を組んで南部戦跡の戦死者遺骨収骨作業を行うなど環境の整備に努め、西銘知事が「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言するなど、国、県を挙げての準備が行われていた。警備面でもひめゆりの塔事件を教訓として、本土から多数の[[警察官]]が応援のため増派、厳戒態勢が取られたが、無事に予定は終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===即位以降===&lt;br /&gt;
:昭和天皇の崩御を受け、歴代2位の年長となる55歳で[[即位]]。翌8日、[[元号]]は[[平成]]に改元された。[[即位後朝見の儀]]では「国民と共に[[日本国憲法]]を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」と述べた。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1990}}の[[即位の礼]]に際して、[[京都御所]]から皇居へ[[高御座]]が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、同年[[11月12日]]に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行っており、[[関東]]の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼祝賀御列の儀として[[オープンカー]]でのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が祝福した。&lt;br /&gt;
:即位以来、日本国憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。[[イラク]]に派遣された[[自衛隊]]を皇后とともに接見した。[[国際連合平和維持活動|PKO]]で派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行なっていたが、これは異例のことであり、戦後[[昭和]]の頃には考えられなかったと言われている。また、政財界や学識者からの[[内奏]]・進講を、父昭和天皇以上に受けている。「（[[日本国憲法第4条|憲法第4条]]すれすれの）ストライクゾーンに精一杯（ボール）を投げ込んでいる」（岩井克己・[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]）とも評される。また昭和天皇が敗戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇には見られないものである。&lt;br /&gt;
:{{和暦|1999}}に即位10周年を迎え、同年[[11月20日]]に[[天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典|御即位十年をお祝いする国民祭典]]が開催され、同日夜には[[二重橋]]で祝賀の声に応えた。この折に、[[宮内庁]]は即位10年記録集『道』を刊行している。&lt;br /&gt;
:即位以来現在に至るまで、旺盛に日本国内外の訪問を行っている。{{和暦|1993}}には、昭和天皇の悲願であった沖縄訪問を果たした。この折には予定になかった[[ひめゆり学徒隊]]の慰霊碑にも訪れ、このことは{{和暦|2007}}になって[[ワイドショー]]で紹介された。{{和暦|2003}}までに、47都道府県のすべてを訪問している。&lt;br /&gt;
:{{和暦|2009}}11月12日、政府主催の[[天皇陛下御在位二十年記念式典|御在位二十年記念式典]]・民間主催の[[天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典|御即位二十年をお祝いする国民祭典]]が執り行われた。&lt;br /&gt;
:{{和暦|2009}}12月15日、特例で[[習近平]][[中華人民共和国副主席]]と会見することとなり、会見を巡る騒動で、宮内庁長官が記者会見で政府民主党を批判する発言を行った（[[天皇特例会見]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====闘病====&lt;br /&gt;
:{{和暦|1995}}、[[大腸]]の[[ポリープ]]を摘出。&lt;br /&gt;
:{{和暦|2002}}[[12月]]、[[人間ドック]]に入った際に[[前立腺癌]]が発見された。その後、天皇の意向を受け、宮内庁が病名を公式発表した。翌年[[1月18日]]に、[[前立腺]]の全摘出手術を行なったが、この前立腺癌手術に当たっては万全を期すため、皇族が受診する[[宮内庁病院]]ではなく、[[東京大学医学部附属病院]]に入院して行なわれた。&lt;br /&gt;
:{{和暦|2008}}[[2月25日]]、宮内庁は、「天皇陛下は定期健診において今のところ前立腺癌の再発や他臓器への転移は見られないものの、ホルモン療法の副作用で[[骨密度]]が低下しており、このままでは[[骨粗鬆症]]に移行する恐れがある」と発表し、公務及び宮中祭祀を軽減する等、生活全般についての検討を始めた。&lt;br /&gt;
:同年[[12月9日]]の宮内庁記者会見に於いては、天皇が12月上旬に[[上室性不整脈]]に罹患し、また、消化器官検査で[[胃]]と[[十二指腸]]に炎症が発見されたことなどが発表された。原因は心身のストレスであり、宮内庁は「将来にわたる皇統の問題を始め、皇室にかかわるもろもろの問題を憂慮されている」と述べ、ストレスの中心に皇位継承問題があるとの考えを示した。&lt;br /&gt;
:天皇自身が、公務等の見直しは在位20周年となる{{和暦|2009}}以降からと希望していた爲に、{{和暦|2009}}[[1月29日]]に宮内庁より軽減策が発表された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==皇子女==&lt;br /&gt;
皇后・正田美智子との間に二男一女が居る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[皇太子徳仁親王]]（{{和暦|1960}} - ） - [[皇太子]]&lt;br /&gt;
* [[秋篠宮文仁親王]]（{{和暦|1965}} - ） - [[秋篠宮]]&lt;br /&gt;
* [[紀宮清子内親王]]（{{和暦|1969}} - ） - [[黒田慶樹]]夫人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==逸話==&lt;br /&gt;
===誕生===&lt;br /&gt;
*第五子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、東京市内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「'''皇太子さまお生れなつた'''」（作詞：[[北原白秋]]/作曲：[[中山晋平]]）との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などには前述の歌を未だに記憶しており、歌うことができる者もいるほどである&amp;lt;ref&amp;gt;女優の[[森光子]]は{{和暦|2009}}の秋の[[園遊会]]で、「天皇さまの誕生のときをいまもはっきり覚えている」といい、天皇本人の前で「皇太子さまお生れなつた」のさわりを歌って見せた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。北原白秋は他にも幼少時代の親王を称える歌「'''継宮さま'''」を作詞している。&lt;br /&gt;
*誕生に際して「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===少年時代===&lt;br /&gt;
*幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。&lt;br /&gt;
*学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「[[帚木 (源氏物語)|雨夜の品定め]]」をした、[[トンボ]]を油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。&lt;br /&gt;
*戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。&lt;br /&gt;
*疎開先で戦況についての説明を受けた際、[[特別攻撃隊]]に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方では成いか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。&lt;br /&gt;
*敗戦時の[[玉音放送]]の際にはホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって（内容が内容だけに、何が起こるか分からない）御座所に引き返して[[東宮大夫]]以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。&lt;br /&gt;
*その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けるとすぐに悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。&lt;br /&gt;
*一方で戦後の混乱期と重なった[[思春期]]には思い悩むことも多く、「[[世襲]]はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。&lt;br /&gt;
*学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。&lt;br /&gt;
*学習院時代には[[馬術]]部に所属し、高校2年生の秋以降は[[主将]]として活躍した。{{和暦|1951}}1月には、第1回関東高校トーナメントにて優勝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===皇太子時代===&lt;br /&gt;
*{{和暦|1952}}、18歳で立太子の礼を挙行。立太子礼に際しては[[記念切手]]が発行され、その図案には明仁親王の肖像が選ばれる予定であったが、[[宮内庁]]の反対によって実現しなかった。&lt;br /&gt;
*{{和暦|1953}}[[6月2日]]の[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]戴冠式のために同年[[3月30日]]から同年[[10月12日]]まで外遊。この前年に、日本は主権を回復しており、明仁親王の訪欧は国際社会への復帰の第一歩と期待された。&lt;br /&gt;
**出発の際には、皇居から[[横浜港]]まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったと言う。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した。特に[[日本放送協会|NHK]]は600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。&lt;br /&gt;
**客船プレジデント・ウイルソン号（[[アメリカンプレジデント社]]、速度19ノット、排水量1万5395トン）に乗船した。同船は[[三島由紀夫]]もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として[[碁盤]]と[[碁石]]も積まれていたほどである。船上では[[早稲田大学]][[バレーボール]]部の面々と記念撮影をし、アメリカからイギリスへの旅路では報道陣や乗り合わせた[[中国人]]の女性2人と[[麻雀]]や[[将棋]]、[[囲碁]]、[[卓球]]なども楽しんだ。特に麻雀は[[サウサンプトン|サザンプトン]]に着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。&lt;br /&gt;
**欧州到着後は[[西ドイツ]]・[[ニュルブルクリンク]]で[[ドイツグランプリ|1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝]]を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝した[[ジュゼッペ・ファリーナ]]（[[フェラーリ]]所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している）を祝福している。つまり、明仁親王は日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物ということになる。平成初期の[[F1ブーム]]を思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「[[競馬]]より面白い」との言葉を残している。&lt;br /&gt;
**英国では、第二次世界大戦で敵対した記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次（前列中央の座席で、隣席は[[ネパール]]王子）を与えられたものの、女王との対面まで長時間待たされた。また、女王は握手はしたものの視線は交わさなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;otazune&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*また、長期にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」（宮内庁のウェブサイトに拠る）としている。学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に[[東京都立両国高等学校|両国高校]]から現役進学した後の[[日本会議国会議員懇談会]]初代会長[[島村宜伸]]がいる。島村は{{和暦|1956}}3月に[[学士|政治学士]]となり、39年5ヵ月後の{{和暦|1995}}8月[[村山内閣改造内閣|村山改造内閣]]で初入閣し、平成の天皇から[[文部大臣]]の認証を受けている。&lt;br /&gt;
*{{和暦|1959}}[[4月10日]]の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像&amp;lt;ref&amp;gt;『郵趣』2009年4月号によれば、宮内庁から服装の変更申し出により、原案から皇太子は背広からモーニング、皇太子妃は洋装から和服に変更されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;が発行された。また切手は郵政省から天皇家と正田家に『皇太子御成婚記念切手帖』が献上されている&amp;lt;ref&amp;gt;実物と同じものが逓信総合博物館で所蔵されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*結婚・独立後も週に一度から数度は参内し、父昭和天皇と食事を共にすることも多かった。こうした場を通じて[[帝王学]]の教授を受けたと言われる。&lt;br /&gt;
*諸事の決定については独立後も昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。&lt;br /&gt;
*「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。&lt;br /&gt;
*昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。&lt;br /&gt;
*{{和暦|1960}}にシカゴ市長により寄贈された、[[ミシシッピ川]]水系原産の[[ブルーギル]]を皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思っての事であったが、[[ブルーギル]]は水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===即位後===&lt;br /&gt;
*{{和暦|1992}}に、アメリカ41代大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで大統領と[[マイケル・アマコスト]][[在日本アメリカ合衆国大使]]のペアとテニスのダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に[[総理大臣官邸|首相官邸]]で行われた晩餐会の席上にて[[インフルエンザ]]発症により倒れてしまった際、妻[[バーバラ・ブッシュ]]がフォロースピーチでこの敗北ネタを[[ジョーク]]にするなどして話題を呼んだ。&lt;br /&gt;
*全国各地で発生した自然災害に対して、ともに悲しみ、被災者をいたわる姿勢を見せている。&lt;br /&gt;
**{{和暦|1991}}、[[雲仙岳|雲仙普賢岳]]噴火の際には、[[島原市|島原]]からの避難民を床に膝を着いて見舞った。この膝を着いて災害被災者と直に話をする天皇のスタイルはその後も続いており、皇后や皇族も被災地慰問の際にはこれに倣っている。&lt;br /&gt;
**{{和暦|1995}}[[1月17日]]の[[阪神・淡路大震災]]では、地震発生から2週間後の同年[[1月31日]]に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。この姿は日本のみならず、日本国外の新聞にも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。帰り際には、マイクロバスの窓から手を振って被災者を励ます写真も残されている。&lt;br /&gt;
**{{和暦|2000}}に噴火した[[三宅島]]へ、島民の帰島が叶った{{和暦|2006}}には、[[火山ガス]]の発生の恐れがまだあるにもかかわらず、三宅島を慰問。島民を励ました。&lt;br /&gt;
**{{和暦|2001}}の[[アメリカ同時多発テロ]]に際して[[ハワード・H・ベーカー・ジュニア|ハワード・ベーカー]]駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。&lt;br /&gt;
**{{和暦|2004}}の[[新潟県中越地震]]の際には、[[自衛隊]]の[[ヘリコプター]]で被災地を見舞った。{{和暦|2007}}の[[新潟県中越沖地震]]に際しては、現地に赴いて被災者を見舞い、また被災者を思う心情から夏の静養を取り止めた。{{和暦|2008}}[[9月8日]]、新潟県行幸の折り、被害の大きかった[[山古志村]]を視察。その後被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児（当時2歳）が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ。&lt;br /&gt;
**{{和暦|2005}}の[[平成17年台風第14号|台風14号]]で大きな被害を受けた[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]に見舞い金として金一封を贈った。&lt;br /&gt;
**{{和暦|2007}}の[[能登半島地震]]に際しては、慰問は実現されていないが、「元気になってください」との言葉を寄せた。&lt;br /&gt;
**{{和暦|2007}}[[10月29日]]から[[10月31日|31日]]まで、[[福岡県西方沖地震]]被災地を見舞うため福岡に行幸した。29日には被災者の暮らす仮設住宅を慰問、当日福岡市内は天皇の宿泊したホテルニューオータニのある中央区を中心として、朝から交通規制が敷かれ、夕方まで渋滞した。しかし警備はホテル敷地内にSPが立ち、柳橋方面に少数の制服警官が配置されるなど最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の訪問を奉祝した。翌[[10月30日|30日]]には同地震により最大の被害を受けた[[玄界島]]も慰問した。&lt;br /&gt;
*{{和暦|2002}}[[2月20日]]、[[チェロ]]の師・[[清水勝雄]]が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行ない、故人を偲んだ&amp;lt;ref&amp;gt;読売新聞・2002年2月21日ほか&amp;lt;/ref&amp;gt;。会見においても、その人柄を回想していた。&lt;br /&gt;
*{{和暦|2007}}の[[佐賀県]]行幸の際、到着した天皇を出迎えた市民の一部が自然発生的に『[[君が代]]』を歌い始めた際にはその場に足を止め、皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この訪問に際しては、提灯行列も出るなどの歓迎を受けた。&lt;br /&gt;
*{{和暦|2008}}[[11月8日]]、先代の[[昭和天皇]]同様、[[慶應義塾大学]]創立150周年記念式典に[[皇后美智子|皇后]]と共に臨席し「[[おことば]]」を述べた。&lt;br /&gt;
*{{和暦|2009}}[[10月11日]]には、[[東京海洋大学]]品川キャンパスで[[日本魚類学会]]の年会に参加し、東京海洋大客員准教授を務める[[さかなクン]]と歓談した。さかなクンは懇談中も脱帽せず、そのキャラクターを特徴付ける[[ハコフグ]]の帽子を被ったままであったが、これを非礼とすることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人物に関するもの===&lt;br /&gt;
*[[自動車]]愛好家であり、[[プリンス自動車]]（現：[[日産自動車]]）の[[日産・スカイライン|スカイライン]]と[[デイムラー]]の[[SOHC]]の2台を愛用した。ちなみにプリンス自動車は明仁親王の立太子を記念して社名をプリンスと改めたものである。&lt;br /&gt;
*独身時代には愛車[[日産・グロリア|グロリア]]で[[ドライブ]]を楽しんでいた。軽井沢において学友の所有する[[アルファロメオ]]を運転したこともある。このほか[[本田技研工業|ホンダ]]・[[ホンダ・アコード|アコード]]、[[ホンダ・レジェンド|レジェンドクーペ]]、[[ホンダ・インテグラ#2代目（1989年-1993年　DA5/6/7/DB1型）|インテグラ]]（4ドア・[[マニュアルトランスミッション|MT車]]）など、運転したことがあるとされる車種は非常に多い。&lt;br /&gt;
*{{和暦|2010}}現在、プライベートで運転するのは{{和暦|1991}}製のグレーのホンダ・インテグラ。週末に御所から宮内庁職員用テニスコートへ行く際、助手席に皇后、後部座席に侍従を乗せて運転する姿が放映された&amp;lt;ref&amp;gt;2009年4月10日放送「NHKスペシャル」より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*軽井沢までドライブした際には、護衛として[[パトロールカー]]に乗車した[[日本帝國警察官]]が随伴したが、随伴する警察官の乗車するパトカーは性能に劣るセダンであったため、性能差からついていくのに必死の思いであったという。&lt;br /&gt;
*通算9台のプリンスを乗用に用いた。かつての御料車がプリンス製の[[日産・プリンスロイヤル]]だったのはその縁である。&lt;br /&gt;
 自動車評論家として知られる[[徳大寺有恒]]は、皇太子時代の天皇が運転する[[日産・スカイライン|プリンス・スカイライン・スポーツ]]と対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。&lt;br /&gt;
*現在でも[[フォルクスワーゲン・タイプ1|ビートル]]をまれに運転することがあるという。{{和暦|2007}}には高齢者講習を受講し、[[高齢運転者標識|紅葉マーク]]を取得したと伝わる。&lt;br /&gt;
*公務においても[[タコグラフ]]の製造工場を見学するなど、自動車との縁が深い。&lt;br /&gt;
*[[鉄道]]に関する関心も深く、[[学習院大学]]時代の[[論文]]はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。[[皇室用客車|御料車]]も存在する。もっとも、特別扱いを嫌うため、御料列車で移動することは少なく、一般の車両の[[グリーン車]]などを[[お召し列車]]として使用することが多い。&lt;br /&gt;
*ビクトリアカナダ空軍基地において[[軍用機]]のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは{{和暦|2009}}のカナダ訪問の際再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた。&lt;br /&gt;
* 学生時代（[[学習院高等科]]3年の試験が終わった日）学友である[[橋本明]]（[[橋本龍太郎]]の従兄弟）に「[[銀座]]に行きたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人連れていこう」と提案し、承諾（もう一人は千家崇彦）。新任だった[[東宮侍従]][[濱尾実]]など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶應ボーイ4人と出会い、慶應ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンパン」で[[アップルパイ]]と[[紅茶]]を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り、居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20～30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。もちろん、連れ出した学友が警察と皇室関係者にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。これが有名な『'''銀ブラ事件'''』である。&lt;br /&gt;
*結婚のパレードは[[民間放送]]開始から5年目でまだ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。「ご成婚パレードをテレビで見よう」の宣伝文句が今に伝わっている。&lt;br /&gt;
*皇太子時代、[[タイ王室]]からタイ国民の[[蛋白質]]不足について相談を受け、養殖の容易な[[ティラピア]]を50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、[[バングラデシュ]]の食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名が付けられた。&lt;br /&gt;
*同じく皇太子時代、[[インドネシア]]からの打診を受けてコイの品種改良を行ない、[[ヒレナガニシキゴイ]]を誕生させている。&lt;br /&gt;
*[[靖国神社]]には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。ただし靖国神社の元宮司である[[南部利昭]]には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている。&lt;br /&gt;
*幼少時は[[豆腐]]料理を好物とした。成人してからは[[中華料理]]を好んだ。&lt;br /&gt;
*多忙な毎日であっても俗事にも通じていることで知られる。あるミュージシャンとの会話で[[デーモン閣下]]の話題が出た折、「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にしたエピソードが、デーモンがパーソナリティーを勤めるラジオ番組で紹介されたことがある。&lt;br /&gt;
*上記のデーモン閣下の件でも判るように、芸能音楽やスポーツ界の事情にも通じており、芸能音楽やスポーツ界関係者を招いた皇居での[[お茶会]]や[[赤坂御苑]]での園遊会が催された際には、出席した各関係者に詳しい質問をする。その為、天皇に質問された出席者は「陛下が自分のことについてこちらがドキッとするほどお詳しいので恐縮に堪えません」などと記者団に感想を述べることが多い。&lt;br /&gt;
*時折、くだけた一面も覗かせる。登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した[[新聞記者]]が天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い、驚かせたことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==発言==&lt;br /&gt;
*「ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられるお方」&lt;br /&gt;
** {{和暦|1958}}[[11月27日]]、正田美智子が婚約記者会見にて発言した皇太子評。[[流行語]]にもなった。&lt;br /&gt;
*「天皇の歴史というものを知ることによって、自分自身の中に皇族はどうあるべきかということが次第に形作られてくるのではないか」&lt;br /&gt;
**{{和暦|1977}}、帝王学について&lt;br /&gt;
*「点数を付けることは出来ないが、まあ努力賞ということで」&lt;br /&gt;
**{{和暦|1984}}[[4月10日]]、銀婚記者会見にて。皇太子妃に対して&lt;br /&gt;
**この発言は報道陣の爆笑を誘った。&lt;br /&gt;
*「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」&lt;br /&gt;
**{{jdate|1989|1|9}}、[[即位後朝見の儀]]にて&lt;br /&gt;
*「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」&lt;br /&gt;
**{{和暦|1998}}[[12月18日]]、[[天皇誕生日|誕生日]]に際する記者会見にて&lt;br /&gt;
*「皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています」&lt;br /&gt;
** {{和暦|1999}}[[11月20日]]、在位十年記念式典にて&lt;br /&gt;
*「私自身としては、[[桓武天皇]]の生母が[[百済]]の[[武寧王]]の子孫であると[[続日本紀]]に記されていることに[[大韓民国]]とのゆかりを感じています」&lt;br /&gt;
**{{和暦|2001}}[[12月18日]]、誕生日に際する記者会見にて&lt;br /&gt;
**この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。[[桓武天皇#今上天皇の発言]]も参照のこと。&lt;br /&gt;
*「私にとっては[[沖縄県|沖縄]]の歴史を紐解くということは[[島津氏]]の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。[[沖縄県]]の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」&lt;br /&gt;
**{{和暦|2003}}[[12月18日]]、誕生日に際する記者会見にて&lt;br /&gt;
**母方の祖母・[[邦彦王妃俔子|俔子]]妃が島津家の出身である。&lt;br /&gt;
*「やはり、強制になるということではないことが望ましい」 - [[東京都]][[教育委員]]の[[米長邦雄]]の「日本中の学校に[[国旗]]を掲げ、[[国歌]]を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。&lt;br /&gt;
**{{和暦|2004}}[[10月28日]]、秋の[[園遊会]]にて&lt;br /&gt;
*「[[皇太子徳仁親王]]への[[人格否定発言]]を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」 - [[人格否定発言]]を受けて&lt;br /&gt;
**{{和暦|2004}}、誕生日に際する文書回答より&lt;br /&gt;
*「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」&lt;br /&gt;
*「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、（中略）私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが（中略）、皇室の伝統ではないかと考えているということです」&lt;br /&gt;
**以上、{{和暦|2005}}[[12月19日]]、誕生日に際する記者会見にて&lt;br /&gt;
*「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。（中略）1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」 - 「[[教育基本法]]改正に伴い愛国心の表現を盛り込む事が、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」という在日外国報道協会代表質問に対し&lt;br /&gt;
**{{和暦|2006}}[[6月6日]]、 [[シンガポール]]・[[タイ王国]]訪問前の記者会見にて&lt;br /&gt;
*「残念なことは、愛子は[[幼稚園]]生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです（中略）いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」&lt;br /&gt;
**{{和暦|2006}}[[12月20日]]、誕生日に際する記者会見にて&lt;br /&gt;
*「[[ブルーギル]]は50年近く前、私が米国より持ち帰り、[[水産庁]]の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」&lt;br /&gt;
**{{和暦|2007}}[[全国豊かな海づくり大会|第27回全国豊かな海づくり大会]]にて&amp;lt;ref name=&amp;quot;Okotoba20071111&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」&lt;br /&gt;
**{{和暦|2008}}[[12月23日]]、誕生日に際する文書回答にて&lt;br /&gt;
*「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」&lt;br /&gt;
*「2人のそれぞれの在り方についての話合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。（中略）結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます」&lt;br /&gt;
**以上、{{和暦|2009}}[[4月8日]]、結婚満50年に際する記者会見にて&lt;br /&gt;
*「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」&lt;br /&gt;
*「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」&lt;br /&gt;
**以上、{{和暦|2009}}[[11月11日]]、即位20年に際する記者会見にて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==系譜==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:80%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;8&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#ddf;width:25%&amp;quot;| '''平成天皇'''&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#dfd;width:25%&amp;quot;| '''父:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[昭和天皇]]&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#dfd;width:25%&amp;quot;| '''祖父:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[大正天皇]]&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#dfd;width:25%&amp;quot;| '''曾祖父:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[明治天皇]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''曾祖母:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[柳原愛子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''祖母:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[九條節子]]&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''曾祖父:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[九條道孝]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''曾祖母:'''&amp;lt;br /&amp;gt;	野間幾子&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#fdd&amp;quot;| '''母:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[久邇宮良子女王]]&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#dfd&amp;quot;| '''祖父:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[久邇宮邦彦王]]&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#dfd&amp;quot;| '''曾祖父:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[久邇宮朝彦親王]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''曾祖母:'''&amp;lt;br /&amp;gt;泉萬喜子&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''祖母:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[島津俔子]]&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''曾祖父:'''&amp;lt;br /&amp;gt;[[島津忠義]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;| '''曾祖母:'''&amp;lt;br /&amp;gt;山崎寿満子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 高祖父：[[孝明天皇]]&lt;br /&gt;
* 高祖母：[[中山慶子]]（明治天皇生母）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===系図===&lt;br /&gt;
{{皇室明治以降}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
* 『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 [[宮内庁東宮職]]編、婦人画報社、1986年（昭和61年）12月&lt;br /&gt;
* 『道 平成元年～平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会&lt;br /&gt;
: 1999年（平成11年）10月／新装版2009年（平成22年）9月、ISBN 4140813903&lt;br /&gt;
* 『道 平成11年～平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、2009年（平成22年）9月、ISBN 414081389X&lt;br /&gt;
* 『天皇陛下科学を語る』 [[宮内庁侍従職]]監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522&lt;br /&gt;
* 『日本産魚類大図鑑 = The fishes of the Japanese archipelago』益田一ほか編、東海大学出版会、1984年（昭和59年）12月、ISBN 4-486-05053-3（図版）、ISBN 4-486-05053-3（解説）、ISBN 4-486-05054-1（Text）&lt;br /&gt;
** 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収するほか、ハゼ亜目魚類の項目を第2版で共同執筆）&lt;br /&gt;
* 『日本の淡水魚』 川那部浩哉、水野信彦編・監修、山と溪谷社、1989年（平成元年）11月、ISBN 4-635-09021-3（チチブ類の項目を執筆）&lt;br /&gt;
* 『日本産魚類検索 全種の同定』 中坊徹次編、東海大学出版会、2000年（平成12年）12月、ISBN 4-486-01505-3（ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
* [http://www.kunaicho.go.jp/index.html 宮内庁ホームページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関係事項==&lt;br /&gt;
{{wikisource|国会開会式のおことば (平成時代)|今上天皇による国会開会式のおことば}}&lt;br /&gt;
{{wikisource|皇太子明仁親王殿下が皇位を継承された件|皇太子明仁親王殿下が皇位を継承された件}}&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Emperor Akihito}}&lt;br /&gt;
* [[今上天皇]]&lt;br /&gt;
* [[平成]]&lt;br /&gt;
* [[昭和天皇]]&lt;br /&gt;
* [[宮内庁]]&lt;br /&gt;
* [[ハゼ]]&lt;br /&gt;
* [[ティラピア]]&lt;br /&gt;
* [[ヒレナガニシキゴイ]]&lt;br /&gt;
* [[諱]]&lt;br /&gt;
* [[ガーター勲章]]&lt;br /&gt;
* [[こどもの国 (横浜市)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{歴代天皇一覧}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:へいせいてんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:1933年生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=131894</id>
		<title>昭和天皇</title>
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				<updated>2011-04-25T02:39:44Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;::'''昭和天皇'''（ショウワ・テンノウ）。&lt;br /&gt;
[[日本帝國]]第125代皇帝。[[学習院]]初等科卒（現在の[[中学校]]卒業、いわゆる'''中卒'''に相当）。御名は「裕仁（ヒロヒト）親王」。御印は「若竹（わかたけ）」。在位は、1926年12月25日- 1989年1月7日6時33分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民衆の願望を体現する軍部を止められず、[[日本帝國]]は大東亜戦争に突入。しかし、竹槍VS原爆、という日米の国力の差は克服するすべも無く、敗戦を迎える。戦争の最高責任者として[[東京裁判]]にかけられそうになったが、諸方面の尽力により[[東京裁判]]を免除されて、天寿を全うする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
温厚な風貌と性格が国民に愛された。GHQさえ、彼の人気を利用して日本統治を成功させた。&lt;br /&gt;
口癖は「あ、そう」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
靖国神社のA級戦犯合祀を不快として、靖国参拝を止めたことが暴露され、関係者のヒステリーを呼んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本]]中の中卒の憧れの的である。日本で一番有名で偉い中卒である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
ウィキペディア日本語版&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 昭和天皇]&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF A級戦犯]&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C 靖国神社問題]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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		<title>上皇明仁</title>
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				<updated>2011-04-25T02:34:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''明仁'''（あきひと）は、[[今上天皇]]の御名。[[私立]][[学習院大学]]中退。歴代の[[天皇]]陛下で初めて[[大学]]に進学された。三流私大中退ながらも、天皇家の中では屈指の[[高学歴]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:500%;color:red&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&amp;gt;天皇陛下萬歳&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:500%;color:red&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&amp;gt;日本國萬歳&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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		<title>昭和天皇</title>
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				<updated>2011-04-25T02:29:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;::'''昭和天皇'''（ショウワ・テンノウ）。&lt;br /&gt;
[[日本帝國]]第125代皇帝。[[学習院]]初等科卒（現在の[[中学校]]に相当）。御名は「裕仁（ヒロヒト）親王」。御印は「若竹（わかたけ）」。在位は、1926年12月25日- 1989年1月7日6時33分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民衆の願望を体現する軍部を止められず、[[日本帝國]]は大東亜戦争に突入。しかし、竹槍VS原爆、という日米の国力の差は克服するすべも無く、敗戦を迎える。戦争の最高責任者として[[東京裁判]]にかけられそうになったが、諸方面の尽力により[[東京裁判]]を免除されて、天寿を全うする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
温厚な風貌と性格が国民に愛された。GHQさえ、彼の人気を利用して日本統治を成功させた。&lt;br /&gt;
口癖は「あ、そう」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
靖国神社のA級戦犯合祀を不快として、靖国参拝を止めたことが暴露され、関係者のヒステリーを呼んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
ウィキペディア日本語版&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 昭和天皇]&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF A級戦犯]&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C 靖国神社問題]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本帝國皇族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%8A%E7%9A%87%E6%98%8E%E4%BB%81&amp;diff=131891</id>
		<title>上皇明仁</title>
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				<updated>2011-04-25T02:26:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''明仁'''（あきひと）は、[[今上天皇]]の御名。[[私立]][[学習院大学]]中退。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:500%;color:red&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&amp;gt;天皇陛下萬歳&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:500%;color:red&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&amp;gt;日本國萬歳&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%99%BA%E5%A4%A7&amp;diff=131890</id>
		<title>加藤智大</title>
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				<updated>2011-04-25T02:25:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;61.45.193.166: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ウィキペディア白紙保護}}&lt;br /&gt;
'''加藤 智大'''（かとう ともひろ、[[1982年]][[9月28日]] - ）は日本の偉大な革命家。[[小泉毅]]、[[金川真大]]、[[引寺利明]]らとともに「'''ネ申'''」と呼ばれている。[[派遣社員]]や[[期間従業員]]を資本家や経営者から解放するために、[[秋葉原通り魔事件]]を起こして、[[国家権力]]に対して反旗を翻した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物==&lt;br /&gt;
*[[青森県]][[五所川原市]]生まれの[[青森市]]育ち。&lt;br /&gt;
*事件当時は仕事の関係で[[静岡県]][[裾野市]]在住だった。&lt;br /&gt;
*[[青森市立佃中学校]]在学中は成績優秀だったが、当時からすぐキレる性格や[[ナイフ]]を持ち歩く癖などで周囲を困らせていた。&lt;br /&gt;
*[[青森県立青森高等学校]]では成績順位が一気にガタ落ち。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==革命実行（[[秋葉原通り魔事件]]）==&lt;br /&gt;
専門学校卒業後、派遣会社で働いていたが、ある日ツナギが無い事に腹を立て、無断で帰宅し、革命を計画。[[福井市]]内でダガーナイフを購入し、日本レンタカーでトラックを借り、秋葉原で惨劇を起こした。ちなみに漫画[[ワンピース]]のゾロの大ファンであり、犯行時に「三千世界！」などと叫ぶ姿も目撃されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういや革命家・加藤智大の携帯掲示板の書き込みに「犯罪予備軍って[[日本]]には沢山いる」ってのがあったな。それ自体は確かにその通りだろう。死刑覚悟で革命を起こそうとした「'''ネ申'''」は派遣社員や期間従業員から熱烈な支持を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件後、2ちゃんねるで「'''ネ申'''」として讃えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この、[[秋葉原通り魔事件]]を切っ掛けにして[[自民党]]政権は崩壊した。ざまぁｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディアでの扱い ==&lt;br /&gt;
[[アンサイクロペディア]]ではこの革命家を神格化しており、この偉大なる革命家を揶揄する垢は問答無用でリネームされたうえ追放されてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
*[[秋葉原通り魔事件]]&lt;br /&gt;
*[[学歴厨]]&lt;br /&gt;
*[[童貞]]&lt;br /&gt;
*[[ワンピース]]&lt;br /&gt;
*[[静岡の腐った生ゴミ]]&lt;br /&gt;
*[[上部康明]] - [[1999年]]に[[山口県]][[下関市]]で類似事件を起こしていたが、やり方が加藤とかぶりまくっていた。&lt;br /&gt;
*[[菅野昭一]] - 加藤にモノの見事に影響された間抜けオヤジ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かとうともひろ}}&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:おたく]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで白紙保護された記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:童貞]]&lt;br /&gt;
[[Category:ワンピース]]&lt;br /&gt;
[[Category:神|邪]]&lt;br /&gt;
[[Category:人殺し]]&lt;br /&gt;
[[Category:吹石]]&lt;br /&gt;
[[Category:小泉毅の爪の垢を飲ませたい人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.45.193.166</name></author>	</entry>

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