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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>江原啓之</title>
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				<updated>2011-05-05T06:01:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;60.43.37.17: 221.245.165.18 (トーク) による第70362版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''江原 啓之'''（えはら ひろゆき、[[1964年]]（昭和39年）[[12月22日]] - ）は、自称[[霊能者]]。本名、'''江原 勝行'''（えはら かつゆき）。[[東京都]]出身。既婚者で子供が2人いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
幼少の頃から数々の超常現象を経験し、[[オーラ]]や[[霊]]が見え霊現象に悩まされたという。&lt;br /&gt;
4歳で父親、14歳で母親が他界。[[和光大学]][[人文学部]]芸術学科中退後、国内で2年間滝行、[[修験道]]などの霊的修行をしたと主張。[[國學院大學]]別科[[神道]]専修II類修了。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後北沢八幡神社でアルバイト。[[1989年]]に[[スピリチュアリズム研究所]]を設立。同年、心霊研究において先進国の[[イギリス]]に渡英。ロンドンのミーディアム([[霊能者]])を育成する場として著名な[[英国スピリチュアリスト協会]](SAGB)で学ぶ。イギリスで学んだ[[スピリチュアリズム]]も取り入れ、[[カウンセラー]]としての活動を開始。以降、[[作家]]活動を中心に[[雑誌]]、[[テレビ番組]]、[[ラジオ番組]]で人生相談を行い、また講演会も定期的に開催するなど、多岐にわたって活動を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 超能力一覧 ==&lt;br /&gt;
*守護霊と意志疎通ができ、人の前世を解き明かせる &lt;br /&gt;
*オーラが見える &lt;br /&gt;
*女性の部屋さえ覗き見ることが出来る &lt;br /&gt;
*気がむけば地球を宇宙から眺めて楽しむ &lt;br /&gt;
*今は亡き人の思いを感じ取り、そのメッセージを伝えることができる &lt;br /&gt;
*この世を訪れた両親の霊と共に幽体離脱して何度もあの世に行き来している &lt;br /&gt;
*病気、体の調子が悪い箇所が見え、ヒーリング能力もある &lt;br /&gt;
*前世に限らず、数日前・数年前といった過去も見える &lt;br /&gt;
*自分の体に霊を降霊・憑依させて会話できる &lt;br /&gt;
*携帯電話に触れただけで、持ち主の日頃の会話内容を言い当てることができる &lt;br /&gt;
*動物と会話（意思疎通）ができる &lt;br /&gt;
*人の寿命、死期が分かる&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物|えはらひろゆき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>60.43.37.17</name></author>	</entry>

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		<title>細木数子</title>
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				<updated>2011-05-05T05:59:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;60.43.37.17: 221.245.165.18 (トーク) による第70361版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''細木数子'''（ほそき かずこ、別名：太木クズ子・カス子・数の子[[1938年]][[4月4日]] - ）は[[日本]]の[[作家]]・[[タレント]]・占術家・暴力団の元娼婦。テレビ出演の際の肩書きは心照学研究家・人間学研究家などと称する場合もある。下記のようにかつては実業家でもあった。[[東京都]][[渋谷区]]出身。[[東京成徳大学高等学校|東京成徳高等学校]]中退。寅年、八白土星、牡羊座、B型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
戦災で父を亡くす。宝塚歌劇団に合格。17歳で[[喫茶店|コーヒー店]]で働き、20歳で[[銀座]]に[[クラブ (曖昧さ回避)|クラブ]]を開くなど、若い頃から[[飲食店]]の仕事を行ってきた。21歳の時に[[結婚]]し、主婦業の傍ら子ども洋服店を開店した。その後間もなく[[離婚]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1971年]]には[[不動産]][[詐欺]]の被害に遭い、10億近くの借金を抱えたが《10億近くの借金というのは『女の履歴書』における細木自身の記述だが、溝口敦は当時の関係者の発言として「10億円近くの負債なんて、細木数子のでたらめ。1971年当時、どこの世界に10億っていうカネが転がってたんです? 彼女の借金なんか1億円だって怪しい」という言葉を紹介している出典：『魔女の履歴書』p.56》、赤坂のクラブの経営が成功し、[[1975年]]には借金返済に目途をつけ、[[ディスコ]]「マンハッタン」を経営し大きな収入を得た。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1977年]]には、借金の[[連帯保証人]]になったために数億もの借金を抱えてしまった人気[[歌手]][[島倉千代子]]の[[後見人]]となり、島倉の個人[[芸能事務所|事務所]]も設立した。《当時島倉が抱えていた借金の額について細木は12億円と主張していたが、溝口敦は「細木が島倉の借金が12億円なんて吹聴してますが、とんでもない話」「最初の話は4000万円、それが8000万円、1億になり、3億円になった。たかが眼科医の守屋が12億円なんて借金できるわけがない。全部細木が島倉をタダ働きさせるためのウソですよ」というコロムビア・レコード関係者の言葉を紹介している（『魔女の履歴書』p.106）。このことを、&amp;quot;3年間で借金完済させた&amp;quot;、&amp;quot;島倉の命の恩人&amp;quot;と、自らマスコミに語り話題となる。この件に関し、一部の雑誌等では金銭に関する疑惑を呈する記事が掲載された。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1982年]]に、独自の研究で編み出したとされる“[[六星占術]]”という占いに関する本を出版。[[1985年]]に出した『運命を読む六星占術入門』が[[ベストセラー]]となり、以降、「六星占術」に関する著作を次々に発表《細木の著書は今日まで100冊以上に上り、その売り上げは総計6500万部以上（[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]発表による）と言われ、「占いの本を世界一売った人」として[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]にも掲載されている。》、「六星占術」[[ブーム]]を巻き起こし、人気占い師となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
銀座のクラブのママであった[[1983年]]に、政財界にも力を持つ事で知られる[[陽明学]]者の[[安岡正篤]]と知り合い、結婚の約束を取り交わす。安岡の親族が反対する中で、安岡と交わした結婚誓約書をもとに単独で[[婚姻届]]を提出し、受理されたが、当時、安岡は85歳と高齢であり、入院先の病院での検査では[[老人性痴呆症|認知症]]の症状があったとも言われ《出典：『週刊文春』1983年12月22日・29日合併号》（細木は「痴呆症のふりをしている」と反論した《出典：『週刊文春』1999年9月16日号》）、安岡の親族が「[[婚姻の無効]]」の[[調停]]申し立てを行った翌月、安岡は[[他界]]した。調停により、婚姻は無効であるとした[[和解]]が成立し、[[中陰|初七日]]には籍を抜くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また細木が相談者に先祖[[供養]]として勧めていたお墓の購入に関して、[[1993年]]には「人の不幸、不安につけこんで不当に高額な墓を買わされた」と[[損害賠償]]を求める訴訟が起こった《この原告は3年後の1996年12月26日に提訴を取り下げた（理由は不明）。》[[1990年代]]は細木はテレビに出るなどの表立った活動を自粛あるいは避けていたが、それは細木本人が大[[殺界]]の時期だったからとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[2003年]]頃から、細木が人生相談を行う[[特別番組]]が20%前後の高[[視聴率]]を挙げるようになったことから、各局で多くのレギュラー番組を持つようになり、「視聴率の女王」と呼ばれるようになった。そして[[野村沙知代]]・[[デヴィ・スカルノ]]らに代わって、[[熟女]]タレントの代表的存在とされるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビ出演 ===&lt;br /&gt;
[[京都府]]内に豪邸があり、所有する多数の高価な[[骨董品]]等が『[[ウンナンの気分は上々。]]』等の[[テレビ番組]]で紹介されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[K-1]]ファイターの[[魔裟斗]]と仲がよく、魔裟斗からは「'''カズー'''」と呼ばれている、魔裟斗はネット上で太木の[[バター犬]]と揶揄されている。他にも[[横綱]]の[[朝青龍]]関、元[[プロ野球]]選手の[[佐々木主浩]]とも親しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]]後半にはブームのピークを迎え、8月には『[[ズバリ言うわよ!]]』（[[東京放送|TBS]]系）、10月には『[[幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜]]』（[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系）と2本のレギュラー番組が始まった。出演[[タレント]]は[[くりぃむしちゅー]]、[[ネプチューン (コントグループ)|ネプチューン]]等。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タレントなどに対して[[改名]]を促したことでも度々話題となった。改名については、[[丁半コロコロ]]や[[緑友利恵]]のように成功例もある一方で、テレビ番組やインタビューなどで「すぐにでも名前を元に戻したい」と発言していた[[モンキッキー]]や[[ハッピハッピー。]]、映画「ゴーストシャウト」など、改名しても目立った成果が得られなかったケース、[[次長課長]]のように改名を拒否した後に大ブレイクしているケースもあることから賛否両論の声がある。また、他人に対する厳しい叱責や、歯に衣を着せない自由奔放な発言は[[毒舌]]と非難されることも多い。例「地獄に堕ちる（地獄に行く）」「私を誰だと思ってる」など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組ではしばしば、男女の性差についての発言をしている。男性については、「女子供を養うことは当然の義務」と論じ、女性については、「女は男に尽くすべき」「女は料理ができなければいけない」など昭和期までによく見られた、いわゆる古い家庭像を論じる[[亭主関白]]支持者である。また、男女同権ではあるが男女同質ではないと説き、独身女性に結婚を促す発言もしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[仏教]]思想も重視しており、仏教の教えや先祖供養の方法なども同時に説いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 共演者の傾向 ===&lt;br /&gt;
全体的に男性芸能人の方が共演数が多く、特に、中堅からベテランクラスの男性俳優との共演が多い。一方で、第一線で活躍するアイドル・女優・モデル系の女性芸能人とは共演しない傾向が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組に共通する特徴として、[[ウッチャンナンチャン]]・[[くりぃむしちゅー]]・[[ネプチューン (コントグループ)|ネプチューン]]・[[雨上がり決死隊]]といった[[お笑いタレント]]が司会進行を担当していることが挙げられる。また、[[滝沢秀明]]・[[要潤]]といった「美形若手タレント」を共演させ、細木が進行を主導する番組構成もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
演歌歌手をゲストに呼ぶことが非常に多く、細木がゲストに対してアカペラで歌わせたことも多い。お笑い芸人も共演することがあるが、若手芸人に対しては「面白くない」などと厳しくダメ出しし、ベテラン芸人（[[加藤茶]]、[[月亭八方]]、[[島田洋七]]など）に対しては賞賛する傾向がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ホリプロ]]の所属タレントと共演することが多く、特に『ズバリ言うわよ!』では[[井森美幸]]が準レギュラーで出演しており、運命のカルテなどのコーナーでもホリプロのタレントが多く出演している。[[吉本興業]]の所属タレントも共演が多いものの、若手芸人か関西を拠点に置くベテラン芸人がほとんどで、逆に[[明石家さんま]]、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]、などは一度も共演したことがない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治家をゲストに迎えることがあるが、基本的に[[自民党]]議員しか共演しない。これは、細木が自民党を強く支持していることが大きく影響している。特に、[[舛添要一]]と共演することが多い。（ただし、例外として「ズバリ言うわよ!」で[[鈴木宗男]]をゲストに迎えたことがある。また、[[横峯良郎]]は当選前に細木と何度か共演している。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主なエピソード ==&lt;br /&gt;
* 2004年1月2日に放送された[[クイズ$ミリオネア]]スペシャルに初挑戦し1000万円がかかった15問目で失敗するも、2度目の挑戦となる2004年12月30日放送の回で1000万円を獲得し、[[新潟県中越地震]]の義援金として全額[[寄付]]した。&lt;br /&gt;
* TBS系Mr.マリック対芸能人大スター軍団で、[[Mr.マリック]]の超魔術の[[トリック]]を見破り、その賞金200万円を全額寄付した。&lt;br /&gt;
* 2005年[[4月9日]]に放送された[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[めちゃ2イケてるッ!]]』の「め茶の水女学園」の抜き打ち期末テストでは、[[モアイ]]をへモア、[[走れメロス|メロス]]をメディスなどの珍解答を出した。この時の細木の成績は6位であった。&lt;br /&gt;
* 2005年[[9月5日]]に[[第44回衆議院議員総選挙]][[自由民主党 (日本)|自民党]]公認の比例近畿ブロック候補[[柳本卓治]]へ自ら志願して行った応援演説の際には「私と握手した人が自民党に入れないと交通事故を起こす」と発言した。&lt;br /&gt;
* 2005年[[9月27日]]（火）18時55分 - 22時54分の『いつもよりズバリ言うわよ!細木数子vs教育問題女子高生&amp;amp;男子高生&amp;amp;現役教師総勢300人!メッタ斬りスペシャル!!』では、細木は[[泉谷しげる]]の[[アウトロー]]な言動に激怒し途中退出した。その後、その他のゲスト[[小川直也]]、[[蛭子能収]]、[[パク・ソルミ]]は予定通りオンエアーされたが、泉谷しげるだけはオンエアーが無かった。&lt;br /&gt;
* 2006年[[5月1日]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列にて放送されたドラマ『[[トップキャスター]]』の第3話に高圧的なインチキ占い師が登場する場面があり、これに対して自分を[[モデル]]にしているとして抗議を行った。フジテレビ側はこの話を[[DVD]]ボックスから削除した。&lt;br /&gt;
* [[レイザーラモンHG|レイザーラモンHG（住谷正樹）]]のハードゲイの芸（細木の前で自らの下腹部を前後運動させるもの）に激怒し、自ら鑑定拒否した。&lt;br /&gt;
* [[小島よしお]]に対しても「人をおちょくった態度が気に入らない」と目を合わせようとしなかった。なお小島はHGの前例があるせいか、はじめはきちんと服を着て登場した。&lt;br /&gt;
* [[ヒロシ]]のネタに対して「みっともないからポケットから手を出してネタをやりなさい」と促した。&lt;br /&gt;
* 弟の久慶はかつて[[新自由クラブ]]推薦や[[スポーツ平和党]]公認で衆議院選挙に数回立候補し、数子も支援したが落選した。&lt;br /&gt;
* 料理番組[[愛のエプロン]]では、その腕前をジャッジマンから「最高だ」と評価された。&lt;br /&gt;
* [[2006年]][[9月12日]]放送の『[[ズバリ言うわよ!]]』で「[[占い|占い師]]ではない」と発言した。&lt;br /&gt;
* [[2006年]]12月のズバリ言うわよ!で、「[[大殺界]]だから、レギュラーは2本しか持っていない」と大殺界中であることを告白した。&lt;br /&gt;
* 嫌いな食べ物は[[リゾット]]と[[スッポン]]と[[とんこつラーメン]]。『[[SMAP×SMAP]]』でよりにもよって香取&amp;amp;稲垣ペアと木村&amp;amp;草彅ペアがリゾット、スッポンの料理をそれぞれ出してきたため、「よくも私が食べられないものを当ててきたわね。」と呆れていた。この放送には、負けた香取が（いつもの扮装で）細木に化けた状態で細木をキス攻めにし、「額は残っているね。」と中居が突っ込んだ所、「ここは吾郎ちゃんに残しているの。」と答えた瞬間、香取に額を思いっきりキスされる、というオチが付いた。とんこつラーメンに関しては、『ズバリ言うわよ!』で[[デビット伊東]]がラーメンを作ろうとした際に、「私は1億円を積まれても、絶対にとんこつラーメンは食べない」と醤油ラーメンに変更させた経緯がある。&lt;br /&gt;
* 2007年から近いうちに引退することを仄めかしていたが2008年1月17日、[[幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜]]内で「自由人として生きていきたい」との理由で3月に引退することを表明した。&lt;br /&gt;
* 以前、番組内で「一歩間違えば命を落すぐらいの厳しい修行のお陰で自分に凄い能力が備わった」と自身に霊能力があるかのような事を匂わせる発言をしていた。番組内で[[堀江貴文]]元社長に「あんたの背中には龍が憑いている」と発言し、[[千野志麻]]元フジテレビアナウンサーには「あんたの背中には蛇がとり憑いているから幸せになれない」と警告した上で、「1日3回ずつ、風呂場で行水をしなさい」と開運アドバイスを送った。しかしその後、千野が細木の言った事を千野が行ってない事が分かると「あんたは一生幸せになれない」と千野に激怒した。ただ、最近の番組内においては一転して霊感的な発言はしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 占い ==&lt;br /&gt;
=== 的中した例 ===&lt;br /&gt;
的中したといっても、全て偶然かこじ付けである。&lt;br /&gt;
* 1985年の[[阪神タイガース]]の21年ぶりのリーグ優勝、そして日本一を的中させた。&lt;br /&gt;
* 2004年1月に放送した『史上最強占いバトル』で「プロ野球の優勝チームは西武」と占い、的中させた。&lt;br /&gt;
* また、[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]水泳日本代表の[[北島康介]]を「金メダルの可能性大」と占い、的中させた。&lt;br /&gt;
* 2005年10月放送の「[[幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜]]」において、元日本テレビアナウンサーの[[福澤朗]]のフリー宣言については「最悪の時期に独立してしまったため、その後の苦労は目に見えている」と占う。その後「[[ぴーかんバディ]]」をはじめ、福澤がメインキャスターを務めた多くの番組が不祥事を起こし、打ち切りに追い込まれた。&lt;br /&gt;
* 2006年の[[サッカー]]・[[FIFAワールドカップ]]において、日本代表は監督[[ジーコ]]の運気が悪いため、勝てないと占った。結果、1勝も出来ぬままグループリーグで敗退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 的中しなかった例 ===&lt;br /&gt;
* 昭和64年に株が大暴落すると占ったが、昭和64年はわずか7日しかなく、その期間に大きな値動きは起きていない。また同年（1989年）の[[大発会・大納会|大納会]]で[[日経平均株価|日経平均]]は史上最高値をつけている（現在もこの高値は破られていない）。&lt;br /&gt;
*2004年にジーコ監督解任、新庄剛志引退。&lt;br /&gt;
* [[2005年]]7月に行われた[[川嶋勝重]]対[[徳山昌守]]のタイトルマッチの勝者を川嶋と占ったが、徳山が勝利した。&lt;br /&gt;
* [[2006年]][[1月1日]]に[[テレビ朝日]]で放送された『細木数子が緊急大予言・アナタの将来を幸せにするSP』で[[堀江貴文]][[ライブドア]]社長（当時）と競演した際、ライブドアの[[株価]]について「これから5倍に上がる」と予言し、「あんたの背中には龍が憑いている」と堀江のパイオニア精神を賞賛した（人間性については批判している）。また、『女性関係に気を付けないとスッテンテンになる』と助言した。放送から1ヶ月足らず後に堀江は逮捕され、ライブドア株の[[株価]]は10分の1になった末に[[上場廃止]]となった。また、[[ライブドア・ショック]]の際に細木数子の予測でライブドア株を購入したと発言した人もおり、「[[風説の流布]]」に当たるのではないか?との指摘があった。{{要出典}}&lt;br /&gt;
* [[内閣]]が第89代[[小泉純一郎]]内閣から次期内閣へと移る際、[[武部勤]]が次期内閣総理大臣になると2度に渡って占ったが、実際には武部は立候補せず、[[安倍晋三]]が第90代内閣総理大臣となった。安倍の総理就任後に収録された『[[幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜]]』では「安倍さんは種子だから運気がいい」と発言したが、安倍内閣は支持率を落とし、わずか1年で退陣することとなった。&lt;br /&gt;
* [[2006年]]1月にその年の[[ペナントレース]]を予想。[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]について「[[中日ドラゴンズ|中日]]（の優勝）はないね」と占ったが、中日がリーグ優勝した。&lt;br /&gt;
* 2006年2月、[[ドン小西]]に「へその上に手遅れに近い癌がある」と占ったが、本人が番組収録後に病院で血液検査を受けたところ、癌の疑いは見られなかった。同月、[[細川茂樹]]に「腹に命に関わるデキモノができている。収録が終わったらすぐに病院へ行きなさい」と発言したが、3つの病院で検査しても何も見つからなかった。&lt;br /&gt;
* [[細川直美]]・[[セイン・カミュ]]・[[出川哲朗]]・[[渡辺満里奈]]・[[だいたひかる]]・[[神田うの]]など、結婚出来ないと占われたが実際には結婚出来た芸能人が数多く存在する。&lt;br /&gt;
* [[黒川紀章]]・[[若尾文子]]夫婦の結婚当初、「すぐ離婚する」と占ったが、黒川が亡くなるまで離婚することはなかった。&lt;br /&gt;
* [[モンキッキー]]を旧芸名の「おさる」から現芸名へ改名することで「人気が出て1、2年で[[冠番組]]が持てる」と占ったが、改名を行った2004年から2007年にかけた現在でも冠番組は持てていない。&lt;br /&gt;
* “家庭をよくしたい”と相談して来た「コアラ」を「[[ハッピハッピー。]]」に改名させるも、妻である[[三原じゅん子]]と2007年に離婚した。三原は、離婚前に細木の番組にゲスト出演し、ハッピハッピー。との離婚の件を相談、「離婚すべき」との助言を細木から受ける。なお三原は離婚を決断した要因に細木の後押しがあったと発言している。&lt;br /&gt;
* 2007年の[[千代大海龍二|千代大海]]を、「正月場所（初場所）はだめだ。でも3月場所で活躍するよ。」と占ったが、初場所は10勝5敗・3月場所は7勝8敗という結果となり、しかもその後再び共演した際には千代大海に、「3月場所は『予言通り』だめだったね。」と発言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 批判 ==&lt;br /&gt;
太木に対しては過去の経歴やメディアでの言動に関して、多くの賛否がある。以下はその主な批判の例。&lt;br /&gt;
* [[安岡正篤]]と結婚しようとした時期は、細木自身が新しいことを始めるのはよくないと説明している六星占術における「大殺界」の真っ最中であったことから、細木自身が六星占術の[[タブー]]を守っていないとの批判がある。&lt;br /&gt;
* 安岡正篤と結婚しようとしたことについても批判がある。当時、認知症になっており、禁酒を命じられていた安岡に対し酒を提供して篭絡したと言われる。また、認知症が進行し、死期の迫った安岡と「結婚誓約書」を交わし、それを根拠に婚姻届を提出した。これの無効を主張する安岡家と法廷闘争に至り、敗訴した細木は安岡の死後にこの婚姻を無効にすることで合意した。&lt;br /&gt;
* かねてから細木の勧める先祖[[供養]]に対し、[[墓石]]業者や[[仏壇]]業者と組んだ“[[霊感商法]]”的な商売ではないかという批判があるが、細木は自著で、業者と組んでいるわけではないと否定し、「そうした疑問を抱く方もときおりおられますが、心が曲がっていることを残念に思います」と述べている。出典：細木数子（著）『幸せになるための先祖の祀り方』（KKベストセラーズ）&lt;br /&gt;
* 月刊誌 『[[サイゾー]]』 は[[島倉千代子]]との過去や、占い師業界の中での評価を理由に批判を行っている。&lt;br /&gt;
* 2005年の11月に番組内で[[養鶏]]産業について触れ、「現在の養鶏場は24時間明かりをつけて夜をなくし、[[ニワトリ|鶏]]1羽につき1日に2-3個もの卵を産ませている」「[[鶏卵]]を含め、ほとんどの食品が薬でつくられている」などの誤った内容の発言をし、養鶏協会から抗議を受けた。フジテレビは「事実誤認や、誤解を招く可能性のある表現があった」として陳謝し、翌年1月の放送で訂正放送をおこなうと共に、細木自身が養鶏業者を訪れて実際の現状を確認した。&lt;br /&gt;
* 2006年5月から、[[暴力団]]を初め、[[タブー]]視されるものに関する著作で知られる[[フリーランス|フリー]][[ジャーナリスト]]の[[溝口敦]]が『[[週刊現代]]』で「魔女の履歴書」と題した細木の半生を批判的に綴った[[ルポルタージュ|ルポ]]の連載を始め、暴力団との深い関係や過去の[[売春]]斡旋疑惑や占い盗作疑惑などを指摘した。細木は『[[週刊文春]]』誌上で反論したが、溝口はこれに対する再反論を行った。細木は、溝口がこの連載を止めさせるために細木が暴力団を介して圧力をかけたと書いた記事を「事実無根」として、名誉毀損で6億円余の損害賠償を起こしたが、相手は講談社で、筆者の溝口は被告には含めなかった。&lt;br /&gt;
* 2006年[[11月10日]]、自身の番組内で、「世界を取った後に『もういいや』と辞めたのが悪い。」と、ゲストの[[竹原慎二]]を批判したが、竹原が引退した理由は世界チャンピオンになったからではなく[[網膜剥離]]であったため、ボクシングファンから批判された。&lt;br /&gt;
* 『細木数子の参拝作法』などで放送した、神社の参拝の方法が間違っている（音を立てないように[[拍手 (神道)|拍手]]を打つなど）として、全国の神社・氏子などから苦情が寄せられ、東京練馬・石神井の「氷川神社」のホームページのトップには、2007年2月現在、「ある占い師が、間違った方法を教えたために、葬儀用方法で柏手を打つ人が増えている」という内容の文章を記載している。また神社本庁は[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]][http://news.www.infoseek.co.jp/topics/entertainment/hosoki/story/20070301jcast200725851/]の取材に対し、「間違った参拝作法をテレビで公言している。（細木サイドに）指導してほしい、という苦情がかなりきています」 と明かしている。&lt;br /&gt;
* [[陰陽道]]の始祖は[[安倍晴明]]と発言したことがあったが、これは誤りである。安倍晴明は[[賀茂忠行]]・[[賀茂保憲]]の弟子である。&lt;br /&gt;
* 以上のように、個人・団体・業界に関しての無知・認識不足が多々あるにも関わらず、本人から謝罪のコメントが出る事は殆ど無い。&lt;br /&gt;
* また、細木に限った事ではないが、数多くのテレビ番組に出演して占いをしていることについても疑問の声がある。なお、[[日本民間放送連盟]]の定める放送基準 第8章には「占い、運勢判断およびこれに類するものは、断定したり、無理に信じさせたりするような取り扱いはしない」とある。[http://www.menkoi-tv.co.jp/company/kijun.html]&lt;br /&gt;
* そもそも、大殺界など運勢の悪い日が年・月・日それぞれにあり、それを考えると年半分以上は運勢が悪いので悪いことが起こってもおかしくない。その上運勢の悪い日に何かを始めるのも悪い結果となるというので、世の中の悪い事態はほぼすべて説明が付けられる。&lt;br /&gt;
* そもそも、一般的にみて。人の運命を断定ずける言い方。もの言いはペテン師や霊感商法である&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な著作 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;BIG&amp;gt;こんな糞本読む価値は全くない&amp;lt;/BIG&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 女の履歴書-愛・富・美への飛翔（自伝、[[広済堂出版]] 1988年5月 ISBN 433150249X）&lt;br /&gt;
* 六星占術による 相性運入門 二人の仲を裂く“相性殺界”はいつ訪れるか! （[[ごま書房]]、1982年10月 ISBN 4-341-03020-5）&lt;br /&gt;
* 六星占術による運命の読み方 あなたの運命は12年周期で揺れ動く（ごま書房、1983年 ISBN 4-341-03017-5）&lt;br /&gt;
* 大殺界-六星占術 「家康」に学ぶ運命操縦法([[講談社]] 1983年4月 ISBN 4062005794)&lt;br /&gt;
* 幸せになるための先祖の祀り方([[ベストセラー]] 2003年3月ISBN 4584187266)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 批判意見についての参考文献 ==&lt;br /&gt;
どれも秀逸な本である。立ち読みでもいいので読んでみよう!!!&lt;br /&gt;
* [[竹中労]]『タレント残酷物語』―スターを食いものにする悪い奴は誰だ（[[エ-ル出版社]] 1979年） - [[島倉千代子]]とのかかわり等&lt;br /&gt;
* [[遠藤周作]]『新 ぐうたら怠談』 （[[光文社]] 1987年3月ISBN 4334970486）&lt;br /&gt;
* [[湯浅俊彦]]、[[一ノ宮美成]]、[[グループK21]]『京都に蠢く懲りない面々』淫靡な実力者たち（お墓商法 – 講談社2004年1月ISBN 4062568179）&lt;br /&gt;
* [[柿田睦夫]]『霊・因縁・たたり―これでもあなたは信じるか（講座・超常現象を科学する 4）』 -（お墓と“たたり”―細木数子氏の場合 –[[かもがわ出版]] 1995年11月 ISBN 4876992118）&lt;br /&gt;
* [[志水一夫_(作家)|志水一夫]]『大予言の嘘』占いからノストラダムスまでーその手口と内幕（六星占術と[[天中殺]]のルーツ等 –[[データハウス]] 1997年1月 ISBN 4887181124 ISBN 4887184670）&lt;br /&gt;
* [[佐野真一]]『あぶく銭師たちよ!』昭和虚人伝（評伝「大殺界の怪女・細木数子の乱調」を収録 [[ちくま文庫]]1999年1月ISBN 4480034455&lt;br /&gt;
* 細木数子被害者の会 『細木数子 地獄への道』 （[[鹿砦社]] 、2006年7月 ISBN 4846305872）&lt;br /&gt;
* [[溝口敦]]『細木数子―魔女の履歴書』（講談社 2006年11月ISBN 4-06-213727-5）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演していた番組 ==&lt;br /&gt;
* [[ズバリ言うわよ!]]（TBS系）&lt;br /&gt;
* [[幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜]]（フジテレビ系）&lt;br /&gt;
* [[料理の鉄人]]（フジテレビ系、番組終了）&lt;br /&gt;
* 細木数子VS[[ウッチャンナンチャン|ウンナン]]!（TBS系、半年に1回放送、2004年度春・秋のみ）&lt;br /&gt;
* [[ネプリーグ]]（フジテレビ系、出演終了）&lt;br /&gt;
* [[細木数子の人生ダメだし道場]]（フジテレビ系、2004年度春・夏・秋のみ）&lt;br /&gt;
* [[ワイドYOU]]（[[毎日放送]]他、週1回出演、番組終了）&lt;br /&gt;
* [[快傑えみちゃんねる]]（[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、出演終了）&lt;br /&gt;
* [[クイズ$ミリオネア]]スペシャル&lt;br /&gt;
* [[Mr.マリック対芸能人大スター軍団]]&lt;br /&gt;
* [[めちゃ2イケてるッ!]]（フジテレビ系、2005年4月9日放送）&lt;br /&gt;
* [[FNSの日|FNS ALLSTRS25時間テレビ]]内「細木が斬る!」（フジテレビ系、2005年7月23日放送）&lt;br /&gt;
* [[細木数子の緊急大予言]]シリーズ（テレビ朝日系、2006年1月1日、4月9日、6月17日、8月?日放送）&lt;br /&gt;
* [[細木数子の新春だから教えるわよ!子供にもわかる六星占術!究極の奥義大公開スペシャル!!]]（TBS系、2006年1月8日放送）&lt;br /&gt;
* [[スポーツ大陸]]「激突 朝青龍と白鵬」『NHK総合,4月11日放送』（三月場所の11日目。朝青龍関の激励に訪れ、食事をしながら歓談している部分が紹介される）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[悪徳商法]]&lt;br /&gt;
* [[霊感商法]]&lt;br /&gt;
* [[改名]]&lt;br /&gt;
* [[霊]]&lt;br /&gt;
* [[霊能力]]&lt;br /&gt;
* [[霊視]]&lt;br /&gt;
* [[疑似科学]]&lt;br /&gt;
* [[墓石]]&lt;br /&gt;
* [[島倉千代子]]&lt;br /&gt;
* [[反フェミニズム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.6sei.net/pc/ 細木数子 六星占術]（太木クズ子の公式サイト）&lt;br /&gt;
* [http://www.kk-bestsellers.com/tokusetsu/index.htm 細木数子の本]（KKベストセラーズのサイト）&lt;br /&gt;
* [http://web.archive.org/web/20060225063044/http://www.guinnessworldrecords.com/content_pages/record.asp?recordid=55598 ギネスブック公式サイト ]（英語）&lt;br /&gt;
* 批判的なもの。参考になるのでぜひ見るべし!!&lt;br /&gt;
** [http://www.nazotoki.com/obatyan.html 細木数子]（細木数子の検証サイト）&lt;br /&gt;
** [http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html しんぶん赤旗 「現代こころ模様・葬儀考」 第4部「『墓』と人生」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほそきかすこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:悪徳商法]]&lt;br /&gt;
[[Category:1938年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:暴力団]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipediaで保護された記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:犯罪予備軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:長谷川穂積に一遍どつき回された方がいい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪魔]]&lt;br /&gt;
[[Category:低能]]&lt;br /&gt;
[[Category:鬼畜]]&lt;br /&gt;
[[Category:大藪順子と接する資格の無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:小林美佳と接する資格の無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:身の程知らず]]&lt;br /&gt;
[[Category:シロアリ]]&lt;br /&gt;
[[Category:死ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:毒婦]]&lt;br /&gt;
[[Category:野田憲太郎にレイプされるべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:詐欺師]]&lt;br /&gt;
[[Category:三崎和雄に半殺しにされるべき人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>60.43.37.17</name></author>	</entry>

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				<updated>2011-05-05T05:57:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;60.43.37.17: 221.245.165.18 (トーク) による第87578版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{anotheruse|河内源氏の武将|近江源氏の武将|山本義経}}&lt;br /&gt;
'''源 義経'''（みなもと の よしつね、'''源 義經'''、[[平治]]元年（[[1159年]]）- [[文治]]5年[[閏月|閏]]4月30日([[1189年]]6月15日）は、[[平安時代]]末期の[[河内源氏]]の[[武将]]。[[氏]]は[[源氏|源]]、[[仮名 (通称)|仮名（けみょう）]]が九郎、[[諱|実名（じつみょう）]]が義經（義経）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[河内源氏]]の棟梁である[[源義朝]]の九男として生まれ、[[幼名]]'''牛若丸'''（うしわかまる）と呼ばれた。[[平治の乱]]で[[平清盛]]と戦った父の敗北により[[鞍馬寺]]へと預けられるが、後に[[陸奥国|奥州]][[平泉]]へと下り[[奥州藤原氏]]の当主[[藤原秀衡]]の庇護を受ける。兄[[源頼朝|頼朝]]が[[平家]]打倒の兵を挙げる（[[治承寿永の乱]]）とそれに馳せ参じ、[[一ノ谷の戦い|一ノ谷]]、[[屋島の戦い|屋島]]、[[壇ノ浦の戦い|壇ノ浦]]の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せた為、頼朝と対立し[[朝敵]]とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主[[藤原泰衡]]に攻められ[[衣川館]]で自刃し果てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その最期は世上多くの人の同情を引き、'''判官贔屓'''（ほうがんびいき）という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武士/開始|源 義經}}&lt;br /&gt;
{{武士/時代|[[平安時代]]末期-[[鎌倉時代]]初期}}&lt;br /&gt;
{{武士/生誕|[[平治]]元年（[[1159年]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/死没|[[文治]]5年閏[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]（[[1189年]][[6月15日]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/改名|牛若、遮那王、義經、義行、義顕}}&lt;br /&gt;
{{武士/別名|九郎、判官、廷尉}}&lt;br /&gt;
{{武士/官位|[[左衛門尉]]、[[検非違使]]、従五位下、[[伊予国|伊予]]守}}&lt;br /&gt;
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[源義朝|義朝]]流（[[河内源氏]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/父母|[[源義朝|義朝]]、[[常盤御前]]}}&lt;br /&gt;
{{武士/兄弟|[[源義平|義平]]、[[源朝長|朝長]]、[[源頼朝|頼朝]]、[[源義門|義門]]、[[源希義|希義]]、[[源範頼|範頼]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[阿野全成|全成]]、[[義円]]、'''義経'''、一条能保の妻、&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;!--以下異父弟妹--&amp;gt;[[廊御方 (平家)|廊御方]]、[[一条能成|能成]]}}&lt;br /&gt;
{{武士/妻|正妻[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘（[[郷御前]]）、[[静御前]]、他}}&lt;br /&gt;
{{武士/子|正妻の娘&amp;lt;!-- 「亀鶴御前」は室町時代の伝承を編集して創作されたとされる「義経記」に登場する義経の子息の名前で義経の正妻は久我大臣の娘ですが、史実に近いとされる「吾妻鏡」には正妻は河越太郎重頼の娘であり、その息女と年齢、性別が一致せず「亀鶴御前」の名も記載されていない。 --&amp;gt;、[[源有綱]]の妻、静御前の息子}}&lt;br /&gt;
{{武士/終了}}&lt;br /&gt;
[[画像:Minamoto_Yoshitsune.jpg|thumb|200px|源義経（[[菊池容斎]]・画、明治時代）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
* 文中の（ ）の年は[[ユリウス暦]]、月日は全て[[和暦]]、[[宣明暦]]の長暦による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出生 ===&lt;br /&gt;
[[清和源氏]]の流れを汲む[[河内源氏]]の[[棟梁]]である[[源義朝]]の九男として生まれ、'''牛若丸'''（うしわかまる）と名付けられる。母[[常盤御前]]は九条院の[[雑仕]]であった。父が[[平治]]元年（[[1159年]]）の平治の乱で[[平清盛]]に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄[[阿野全成|今若]]、[[義円|乙若]]とともに[[大和国|大和]]（[[奈良県]]）の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知り清盛の元に出頭し、清盛の妾となることを条件に、牛若と二人の兄と母の助命の許しを得た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に常盤は[[公家]]で院近臣の[[一条長成]]に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時[[鞍馬寺]]（[[京都市]][[左京区]]）に預けられ、稚児名を'''遮那王'''と名乗った。そして、11歳（15歳説も）の時、自分の出生を知った。[[鞍馬山]]の牛若丸伝説（鞍馬山で、天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受ける。実際は平治の乱で敗れた時、治外法権の地でもあった寺院に逃げ、僧や僧兵として生き延びた源義朝の郎党たちであろう）は、この時の逸話がもとになって形成されたものである。牛若は16歳の時[[陸奥国|奥州]][[平泉]]の[[奥州藤原氏]]宗主、[[鎮守府将軍]][[藤原秀衡]]を頼って下った。秀衡の舅で政治顧問であった[[藤原基成]]は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高いと考えられている。その途で父義朝の最期の地でもある[[尾張国]]にて元服する（義経記による。平治物語では滋賀県竜王町で元服したとある）。儀式は[[熱田神宮]]にて行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代[[源経基|経基王]]の「経」の字を以って[[諱|実名（じつみょう）]]を'''義経'''とした。藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば牛若16才の時に、[[金売吉次]]という金商人の手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 治承寿永の乱 ===&lt;br /&gt;
[[画像:taimenseki.jpg|thumb|280px|黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が感激の対面をし平家追討を誓ったとされる対面石]]&lt;br /&gt;
[[治承]]4年（[[1180年]]）[[8月17日_(旧暦)|8月17日]]に兄[[源頼朝|頼朝]]が[[伊豆国|伊豆]]で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた[[佐藤継信]]、[[佐藤忠信]]兄弟等およそ80騎が同行した。義経は[[富士川の戦い]]で勝利した頼朝と[[黄瀬川]]の陣（[[静岡県]][[駿東郡]][[清水町_(静岡県)|清水町]]）で対面した。頼朝は、義経ともう一人の弟の[[源範頼|範頼]]に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の[[鎌倉]]に腰を据え東国の経営に専念することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平家]]（[[伊勢平氏]])を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。[[寿永]]元年（[[1182年]]）に範頼と義経は大軍を率いて[[近江国]]へ進出した。翌寿永2年（[[1183年]]）正月、範頼と義経は[[宇治川の戦い]]で義仲を破り、頼朝の代官として入京した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間に平家は西国で勢力を回復し、[[福原京|福原]]（[[兵庫県]][[神戸市]]）まで迫っていた。義経は、範頼とともに平家追討を命ぜられ、[[2月4日_(旧暦)|2月4日]]、義経は搦手軍を率いて[[播磨国]]へ迂回し、[[三草山の戦い]]で[[平資盛]]らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。[[2月7日_(旧暦)|2月7日]]、鎌倉軍は[[一ノ谷の戦い]]で平家軍に大勝する。『[[平家物語]]』などではこの戦いで義経は鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一ノ谷の平家の陣営を奇襲して源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『[[吾妻鏡]]』でも義経が精兵70騎で鵯越から一の谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一ノ谷の戦いの後の[[元暦]]元年（[[1184年]]）[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]によって[[左衛門尉|左衛門少尉]]と[[検非違使|検非違使少尉]]（[[判官]]）に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。これに激怒した頼朝は義経を平家追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて[[山陽道]]を進軍して[[九州]]へ渡り、平家を包囲する遠征に向かう。[[9月_(旧暦)|9月]]、義経は[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘（[[郷御前]]&amp;lt;!-- 出自不明 --&amp;gt;）を正室に迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年（[[1185年]]）2月、新たな軍を編成した義経は[[四国]][[讃岐国|讃岐]]の[[瀬戸内海]]沿いにある平家の拠点[[屋島]]を速攻で攻略（[[屋島の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である[[長門国]][[彦島]]に拠る平家の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、[[3月24日_(旧暦)|3月24日]]（西暦4月）の[[壇ノ浦の戦い]]で勝利して平家を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『平家物語』や『[[源平盛衰記]]』などの[[軍記物語]]では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後は頼朝の代官として[[平安京|京]]にある時は河内源氏重代の館であった'''堀川御所'''に住まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 頼朝との対立 ===&lt;br /&gt;
平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元暦2年（1185年）4月15日に頼朝は、内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、[[平安京|京]]での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を勤めた[[梶原景時]]から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた[[平宗盛]]父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越（現[[鎌倉市]]）[[満幅寺]]に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近[[大江広元]]に託した書状が有名な[[腰越状]]であり、その中で義経は次のように記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まる事は無かった。諸国を流浪し所々に身を隠し身分の低い者に仕えた。しかし機は熟し、平家一族の追討の為、上洛し[[木曽義仲]]を誅し、平氏を傾ける為、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも痛まなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるが為に他ならない。五位[[検非違使]]に補任された事に他意は無く、許されれば必ず一門と子孫を栄えさせる」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝が義経と対立した原因は、許可なく官位を受けたことのほか、[[軍監]]として義経の平氏追討に従っていた[[梶原景時]]と義経の間に合戦のやり方を巡って対立があり、景時が頼朝に義経の行動は軍規を乱すと主張したこと、そして平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されている。特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また腰越状に源義経と自署したことも、源氏姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りを募らせたという指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源氏姓を自身や一部の親族重臣にのみ公的に名乗ることを許す命令を出していた（御門葉）。しかし、これに義経はもちろん範頼も入っていなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は許可なく官位を受けた事を咎められ、東国への帰還禁止と領地を没収を命じられ、京に戻った。6月9日に頼朝が、義経に対し宗盛父子と[[平重衡]]を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と述べた。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく[[梶原景季]]を遣わし、かつて義仲に従った叔父[[源行家]]追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 謀叛 ===&lt;br /&gt;
10月、頼朝は義経討伐を決め、家人[[土佐坊昌俊]]を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った（堀川夜討）が、応戦する義経に行家が加わり、合戦は敗北に終わった。捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、同じく頼朝と対立していた叔父の[[源行家]]らとともに京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の[[院宣]]を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が[[駿河国]]黄瀬川に達すると、義経らは西国九州の[[菊池氏]]を頼って京を落ちた。義経一行の船団は[[摂津国]][[大物浦]]（[[尼崎市]]）から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕の為として、諸国への[[守護]]と[[地頭]]の設置を求め、入洛させた[[北条時政]]の交渉の末、設置を認めさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで義経は[[郎党]]や愛妾の[[白拍子]]の[[静御前]]を連れて[[吉野]]に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は[[藤原秀衡]]を頼り、義経追捕の網をかいくぐって奥州へ到り、[[平泉]]に身を寄せた。伝承は、[[北陸道]]を通り、[[東大寺]]再建のための勧進の一行に身をやつしての旅であったと伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
平泉の藤原秀衡は、義経の追討によって関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、[[文治]]3年（[[1187年]]）[[10月29日_(旧暦)|10月29日]]に没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ[[藤原泰衡]]に圧力をかけた。泰衡はこれに屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の[[藤原頼衡|頼衡]]（[[藤原忠衡|忠衡]]という説もある）を殺害した。そして文治5年（1189年）閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を[[藤原基成]]の[[衣川館]]（[[奥州市]][[衣川村|衣川区]]）に襲った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。[[享年]]で31であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の首は43日かけて、泰衡の弟・[[藤原高衡|高衡]]に護衛されて鎌倉に送られ、文治5年（1189年）[[6月13日_(旧暦)|6月13日]]、[[首実検]]が[[和田義盛]]と[[梶原景時]]らによって、腰越の浦で行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝承ではその後、首は[[藤沢]]に葬られ[[白旗神社]]に祀られたとされ、その際に使われたという首洗い井戸が残されている。また、[[栗原市]]栗駒沼倉の[[判官森]]に胴体が埋葬されたと伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Yoshitune_kubiarai_ido_1.jpg|伝義経首洗井戸&lt;br /&gt;
画像:hanganmori_0041.JPG|判官森源義経公墓所&lt;br /&gt;
画像:Shirahata_jinjya_1.jpg|白旗神社（藤沢）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父[[源為朝|為朝]]が鎮西八郎という[[仮名_(通称)|仮名（けみょう）]]であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[源義平]]、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として[[阿野全成]]（今若）、[[義円]]（乙若）がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として[[一条能成]]があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の正妻は[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘であるが、愛妾の[[白拍子]]、[[静御前]]が義経の夫人として非常に有名である。子は女児二人と男児一人があった。頼朝の挙兵前、奥州で数年を送っていた間に娶った妻から生まれた女子は、後に[[伊豆国|伊豆]]の[[源有綱]]（[[摂津源氏]]の[[源頼政]]の孫）に嫁いだ。静御前を母として生まれた男児は出産後間もなく鎌倉の由比が浦に遺棄された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 容貌 ==&lt;br /&gt;
義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した[[史料]]や、生前の義経自身を描いた確かな[[絵画]]は存在しない。ただ、身長に関しては[[大山祇神社]]に甲冑が奉納されているのでこれを元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の死後まもない時代にまとまったとされる『[[平家物語]]』では、義経の風貌に関して「色白で反っ歯の小男」と記されている。これは武士の容姿の表現としてはかなり悪意のあるものであり、平家物語の作者、あるいは当時一般の義経に対する評価は低かったと思われる。義経の印象を形成するのに大きな影響のあった『義経記』では風貌に関する記述は無かった。しかし、『[[平治物語]]』では、母親の常盤は絶世の美女とされており、容姿が重視されて源義朝の側室となった。一方、父親の義朝は苦みばしった美男子と伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には[[猿楽]]（現[[能]]）や[[歌舞伎]]の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 郎党その他 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yositsune.jpg|thumb|280px|right|[[三条駅_(京都府)|京阪三条駅]]に展示された源義経と[[武蔵坊弁慶]]の人形]]&lt;br /&gt;
* [[源有綱]]&lt;br /&gt;
* [[武蔵坊弁慶]]&lt;br /&gt;
* [[常陸坊海尊]]&lt;br /&gt;
* [[鎌田盛政]]&lt;br /&gt;
* [[鎌田光政]]&lt;br /&gt;
* [[佐藤継信]]&lt;br /&gt;
* [[佐藤忠信]]&lt;br /&gt;
* [[伊勢義盛]]&lt;br /&gt;
* [[鷲尾義久]]&lt;br /&gt;
* [[堀景光]]&lt;br /&gt;
* [[駿河次郎|駿河清重]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;all&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝説 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yoshitsune_with_benkei.jpg|thumb|230px|義経と弁慶、明治時代の浮世絵師・[[月岡芳年]]による版画]]&lt;br /&gt;
優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して'''判官贔屓'''（ほうがんびいき、判官（ほうがん）とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い）というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経伝説の中でも特に有名な[[武蔵坊弁慶]]との[[五条大橋|五条の大橋]]での出会い、[[陰陽師]][[鬼一法眼]]の娘と通じて伝家の兵書『[[六韜]]』『[[三略]]』を盗み出して学んだ話、[[衣川合戦]]での[[武蔵坊弁慶#弁慶の立ち往生|弁慶の立ち往生]]伝説などは、死後200年後の[[室町時代]]初期の頃に成立したといわれる『[[義経記]]』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「[[虎の巻]]」と呼ぶようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 不死伝説 ===&lt;br /&gt;
後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の[[御伽草子]]に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた[[北海道]]に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの[[蝦夷地]]（北海道）の[[アイヌ]]に対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義経＝ジンギス・カン説 ====&lt;br /&gt;
===== 概要 =====&lt;br /&gt;
北行伝説の中でも荒唐無稽にして最大のものが「義経＝ジンギス・カン説」である。この説は、義経が衣川で自刃したのが1189年であり、ジンギス・カン（[[チンギス・ハーン|チンギス・ハーン、チンギス・カン]]）の名が[[中国]]の[[歴史書]]に初めて登場するのが[[1200年]]頃であるという時間の関係に着目して、義経は北海道を経て大陸に渡り、[[モンゴル]]の諸部族を統一してチンギス・カンになったのだという。この主張の根拠は、モンゴルで使われていた紋章が源氏の旗印である笹竜胆に似ている、「源義経」の音読みであるゲンギケイがジンギスになまったのだ、などといったものである。紋章の話に対しては、笹竜胆は[[村上源氏]]のものであり、義経は[[清和源氏]]なので、笹竜胆は用いないという反論があり、信憑性はないとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、チンギス・カンに生年に関しては、現存資料での記述がおのおの異なっているため諸説あって厳密に確定しがたいだけで、家系は判明している。昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、[[中央ユーラシア]]の[[遊牧民]]は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、祖先からの遊牧貴族に属することを保障する家系伝承と、子飼いの牧民集団を持たない者が、徒手空拳で政治的指導者に納まることはきわめて困難であることが知られている。祖先の系譜については、『[[元朝秘史]]』に取材した[[井上靖]]の小説などの影響で、日本などではモンゴル部族の先祖として「ボルテ・チノ」との関係が強調される傾向にあるが、実際にモンゴル帝国やその後継政権おいて[[中央アジア]]・[[イラン]]や[[モンゴル]]本土でチンギス・カン家の先祖として重要視されていたのは、むしろその子孫で日月の精霊と交わってモンゴルの支配階層の諸部族の祖となったとされる'''アラン・コア'''とその息子'''ボドンチャル'''であった。また、チンギスの属すキヤト氏族は『元朝秘史』、モンゴル帝国の正史的な位置づけで編纂された『[[集史]]』などによるとチンギスの曾祖父カブル・カンに始まるが、『集史』の記述に従えばチンギスの出自はカブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男イェスゲイ・バアトルの長男とされている。アラン・コアからカブル・カンまでの系譜については資料によって異同が多いものの、上記以外でも『蒙古源流』、『五族譜』や『ムイッズ・アル＝アンサーブ』などの歴史書や系譜資料が13、14世紀以降に多く編纂されたが、どの資料も'''カブル・カン'''→'''バルタン・バアトル'''→'''[[イェスゲイ|イェスゲイ・バアトル]]'''→'''テムジン'''（[[チンギス・ハーン|チンギス・カン]]）という流れは共通して記録している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チンギス・カンに関する現存資料からは、源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため実証史学的に証明できない。またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、この説は中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、チンギス・カンのユーラシア大陸の攻め方、統一の仕方が日本の武士的戦略であることも注目されている{{要出典}}。また、源義経像がシベリア各地に存在していたことも注目された{{要出典}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 経緯 =====&lt;br /&gt;
この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、[[清]]の [[乾隆帝]]の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は[[清和天皇|清和]]から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布したり、[[12世紀]]に栄えた[[金_(王朝)|金]]の将軍に源義経というものがいたと記した偽書『金史別本』（偽作者は日本人）が珍本として喜ばれたりした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し[[女真|女真人]]（[[満州|満州人]]）になったという風説は、明治時代になると日本人が世界に名だたる征服者であって欲しいという願望から、義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]に入り、これを記した[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]] の著書『日本』を留学先の[[ロンドン]]で読んだ[[末松謙澄]]は卒業論文にまとめて発表、『義経再興記』として和訳出版される。[[大正]]に入り、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に学び[[牧師]]となっていた[[小谷部全一郎]]は、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って[[満州]]・[[モンゴル高原|モンゴル]]を旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、[[大正]]13年（[[1924年]]）に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小谷部の著書は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーになり、日本人の間に義経＝ジンギス・カン説を爆発的に広めることになった。同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版されたりしたが、この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が大陸へ進出していた当時の時代的な風潮に適合したことが指摘されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 近年の研究 ==&lt;br /&gt;
=== 菱沼一憲 ===&lt;br /&gt;
[[菱沼一憲]]（[[国立歴史民俗博物館]]科研協力員）は著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像―」（角川選書、2005年）で、源義経について以下の説を述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年（1184年）八月十七日条には、同年[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、[[8月3日_(旧暦)|8月3日]]、頼朝は義経に[[伊勢国|伊勢]]の[[平信兼]]追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉政権内部には、発足当初から「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。東国御家人は親京都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。このことが、親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者であった義経の失脚を招いたのである。&lt;br /&gt;
=== 佐藤進一 ===&lt;br /&gt;
また、[[佐藤進一]]は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。&lt;br /&gt;
===元木泰雄 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--==評価 ==&lt;br /&gt;
古来より「義経は戦術の天才児」という評価が流布してきた。平家が滅亡したのは大黒柱である棟梁[[平清盛]]の死去によるところも大きいが、清盛の死後にわずか4年で滅びたのは、義経の常に敵の裏を掻く戦術があってこそだった、とされることが多かった。そのため、戦功の華々しさやその節度ある行動からの多くの賞賛を受け、その悲劇的末路に対する人々の同情は義経を英雄視する多くの伝説と歴史的文学を現在に残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、平家軍に最大のダメージを与えたのは[[源義仲]]であった。義仲が、[[倶利伽羅峠の戦い]]で平家の主力部隊である10万の大軍の大半を壊滅させ、このために平家は京を放棄して少ない兵力で右往左往しなければならなかった（ただしその後の義仲と頼朝の争いの間に平家は戦力を回復し、一ノ谷の合戦時には6万から7万の戦力を保持していた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の平家追討戦において源氏軍の主力を率いたのも異母兄の範頼であり、義経はあくまで搦手の大将に過ぎなかったことには注意すべきである。義経が一ノ谷・屋島・壇ノ浦で行ったのは、比較的少ない兵力による[[奇襲]]戦である。よって、義経に大軍を指揮する能力があったかどうかを疑問視する意見もある。後に頼朝に対抗して挙兵を試みた時に、軍勢をよく統率しえなかった点をこの傍証とすることも出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、大軍を糾合するには戦場での指揮能力とは別に強力な政治権力・経済力が必要であることを考え合わせると、政治的に既に失敗を重ねていた段階の義経が大軍を動かせなかったことをもって、戦場での指揮能力を論じることは、戦略と戦術という複数の議論の審級を混同しているとも反論できるだろう。また、彼が戦場で少数の兵を率いて決定的な働きをしていた可能性は高く、「万能の軍事的天才」とまでは評価出来ないにせよ、遊撃戦の指揮官としては戦史上屈指の存在と考え得る。加えて、義経参戦後に平家追討戦で源氏軍の勢いが格段に増したことを考慮するならば、やはり軍人としての義経は相当に有能な存在であったと見るのが妥当である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、戦闘指揮官としてではなく政治家としての義経に対する評価は、一般にさほど高くない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（※2005年9月頃に主にとある投稿者によって書かれたもので、適当な文献や研究者の名もなく個人的な考察の可能性が高い。多少ならともかく、一節を設ける程の長さはいかがなものか。削除ないしコメントアウトしておくのが適当と考えます。なお、投降者は1年以上前に活動を停止しています。）--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
=== 史料 ===&lt;br /&gt;
* 『[[吾妻鏡]]』&lt;br /&gt;
* 『[[玉葉 (九条兼実の日記)|玉葉]]』 [[九条兼実]]日記&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古典 ===&lt;br /&gt;
* [[平治物語]]（[[軍記物語]]）作者不詳 成立 - 未詳&lt;br /&gt;
* [[平家物語]]（軍記物語）作者不詳 成立 - 未詳&lt;br /&gt;
* [[義経記]]（芸能軍記）作者不詳 成立 - 室町初期&lt;br /&gt;
* [[天狗の内裏]] 作者不詳（[[御伽草子]]）成立 - 室町初期&lt;br /&gt;
* [[壇ノ浦夜合戦記]]作者不詳 成立 - 江戸中期〜後期&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 能・歌舞伎・人形浄瑠璃 ===&lt;br /&gt;
* [[八島_(能)|八島]]（[[能]]）作者「[[世阿弥]]」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[船弁慶]]（能）作者「観世信光」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[安宅]]（能）作者「観世信光か?」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[義経千本桜]]（[[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]）作者「二代目[[竹田出雲]]・三好松洛・[[並木宗輔|並木千柳]]」成立 - 延享4年(1747)&lt;br /&gt;
* [[一谷嫩軍記]]（人形浄瑠璃・歌舞伎）作者「[[並木宗輔]]他」成立 - 宝暦元年(1751)&lt;br /&gt;
* [[勧進帳]]（歌舞伎）作者「並木五瓶（ごへい）」成立 - 天保11年(1840)&lt;br /&gt;
* [[常陸坊海尊]]（演劇脚本 作者 [[秋元松代]]）成立 - 昭和32年(1957)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ミュージカル ===&lt;br /&gt;
* [[わらび座]]『[http://www.warabi.jp/yoshitune/ 義経]』(作:齋藤雅文、演出:井上思、音楽:甲斐正人、作詞:竜真知子・齋藤雅文)&lt;br /&gt;
* [[宝塚歌劇団]]『[[この恋は雲の涯まで]]』（作：[[植田紳爾]]）、『花のもとにて春-ある日の牛若丸-』(作:[[大関弘政]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* 『源義経』 [[村上元三]]&lt;br /&gt;
* 『[[義経_(小説)|義経]]』 [[司馬遼太郎]]&lt;br /&gt;
* 『成吉思汗の秘密』 [[高木彬光]]&lt;br /&gt;
* 『義経幻殺録』 [[井沢元彦]]&lt;br /&gt;
* 『[[君の名残を]]』 [[浅倉卓弥]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画 ===&lt;br /&gt;
* 『秘本義経記 [[ますらお]]』 [[北崎拓]]&lt;br /&gt;
* 『[[火の鳥_(漫画)|火の鳥]] 乱世編』 1978年、[[手塚治虫]]&lt;br /&gt;
* 『安東 ANTON』 [[安彦良和]]&lt;br /&gt;
* 『[[遮那王 義経]]』 [[沢田ひろふみ]]&lt;br /&gt;
* 『[[修羅の刻]]』 7巻～10巻 [[川原正敏]]&lt;br /&gt;
* 『妖狐伝 義経千本桜』 [[堤抄子]]&lt;br /&gt;
* 『リョウ』 [[上田倫子]]&lt;br /&gt;
* 『[[源平伝NEO]]』 [[あかほりさとる]] 別天荒人&lt;br /&gt;
* 『義経ちゃん剣風帖』 [[小野寺浩二]]&lt;br /&gt;
* 『源氏』 [[高河ゆん]]&lt;br /&gt;
* 『遮那王』 [[沢田ひろふみ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== TVドラマ ===&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(NHK大河ドラマ)|源義経]]』（1966年NHK[[大河ドラマ]] 源義経：[[尾上菊五郎_(7代目)|尾上菊五郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[新・平家物語_(NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』（1972年NHK大河ドラマ 源義経：[[志垣太郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[草燃える]]』（1979年NHK大河ドラマ 源義経：[[国広富之]]）&lt;br /&gt;
* 『[[武蔵坊弁慶_(テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]]』（1986年NHK新大型時代劇 源義経：[[川野太郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(テレビドラマ_1990年)|源義経]]』（1990年TBS 源義経：[[東山紀之]]）&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(テレビドラマ_1991年)|源義経]]』（1991年日本テレビ 源義経：[[野村宏伸]]）&lt;br /&gt;
* 『[[炎立つ_(NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』（1993年7月～1994年3月NHK大河ドラマ 源義経：野村宏伸）&lt;br /&gt;
* 『[[義経_(NHK大河ドラマ)|義経]]』（2005年NHK大河ドラマ 源義経：[[滝沢秀明]] 幼少期、牛若役：[[神木隆之介]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* 『[[虎の尾を踏む男達]]』（1952年 監督：[[黒澤明]]、源義経：仁科周芳（十代目[[岩井半四郎]]））&lt;br /&gt;
* 『源義経』（1955年 監督： [[萩原遼]]）&lt;br /&gt;
* 『源九郎義経』（1962年 監督： [[松田定次]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GOJOE・五条霊戦記]]』（2000年 監督：[[石井聡互]] 遮那王：[[浅野忠信]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゲーム ===&lt;br /&gt;
* 『[[源平討魔伝]]』（[[ナムコ]] [[アーケードゲーム|アーケード版]]からいろいろ 1986年 義経：声:音声合成）&lt;br /&gt;
* 『[[義経紀]]』（[[バンプレスト]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源九郎義経（源義経）：声: [[田中敦子_(声優)|田中敦子]]）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝]]』（[[フロム・ソフトウェア]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源義経：声：）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝修羅]]』（[[フロム・ソフトウェア]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 牛若丸：声：[[阪口大助]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GENJI]]』（[[SCEI]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源九郎義経（源義経）：声: [[浪川大輔]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GENJI-神威奏乱-]]』（[[SCEI]] [[プレイステーション3|PS3]] 2006年）&lt;br /&gt;
* 『[[NAMCO x CAPCOM]]』（[[ナムコ]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源義経：声:[[千葉一伸]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3]]』（[[コーエー]] [[プレイステーション2|PS2]] 2004年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3十六夜記]]』（2005年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3運命の迷宮（ラビリンス）]]』（2006年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝]]』（[[ウェルメイド]] [[プレイステーション2|PS2]] 2003年 源九羅香（義経）：[[声優|声]]: [[山本麻里安]]）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝・弐～刻を越える契り～]]』（[[ウェルメイド]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年）&lt;br /&gt;
* 『[[星の王女～宇宙意識に目覚めた義経～]]』（[[美蕾]] [[Windows XP]] 2007年 源九朗義経：[[声優|声]]: [[柿野聖]]（本名不明）　遮那王：[[声優|声]]: プログレス（[[千葉進歩]]））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史ゲーム ===&lt;br /&gt;
* [[ゲームジャーナル]]第21号 『日本の戦い』、[[シミュレーションジャーナル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 ===&lt;br /&gt;
* 『[[牛若丸 (童謡)|牛若丸]]』（[[文部省唱歌]]）&lt;br /&gt;
* 『組曲「義経」』（2004年 [[陰陽座]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 銅像 ===&lt;br /&gt;
* [[静岡県]][[伊豆市]]（旧[[田方郡]][[修善寺町]]）[[鹿山公園]]の源義経像&lt;br /&gt;
* [[山口県]][[下関市]]、[[みもすそ川公園]]の源義経像&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[判官]]&lt;br /&gt;
* [[判官贔屓]]&lt;br /&gt;
* [[源頼朝]]&lt;br /&gt;
* [[清和源氏]]&lt;br /&gt;
* [[河内源氏]]&lt;br /&gt;
* [[治承・寿永の乱]]&lt;br /&gt;
* [[磨墨塚]]&lt;br /&gt;
* [[幸主名馬尊]]&lt;br /&gt;
* [[白旗神社#白旗神社（神奈川県藤沢市）|白旗神社 (藤沢市)]]&lt;br /&gt;
* [[源氏まつり]]&lt;br /&gt;
* [[平安時代の人物一覧]] - [[鎌倉時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄7100形蒸気機関車]] - 名前が愛称として付された&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』角川選書、2005、ISBN 404703374X&lt;br /&gt;
* [[角川源義]]氏 高田実氏『源義経』角川新書 1966&lt;br /&gt;
* 高橋富雄氏 『義経伝説 歴史の虚実』 中公新書 1966&lt;br /&gt;
* 五味文彦氏『源義経』岩波新書 2004&lt;br /&gt;
* 『書物の王国20　義経』[[国書刊行会]]ISBN 4336040206&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html 吾妻鏡]&lt;br /&gt;
* [http://www.j-texts.com/sheet/seisuik.html 源平盛衰記]&lt;br /&gt;
* [http://www.j-texts.com/sheet/kgikei.html 義経記]&lt;br /&gt;
* [http://www.bashouan.com/jtYoshitune.htm 源義経物語]&lt;br /&gt;
* [http://www.inarijinja.org/ 斗瑩稲荷神社]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|源義経}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の武士|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:源氏|よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:1159年生|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:1189年没|みなもとの よしつね]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>60.43.37.17</name></author>	</entry>

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		<title>イチロー</title>
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				<updated>2011-05-05T05:56:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;60.43.37.17: 221.245.165.18 (トーク) による第87579版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:イチロー.jpg|thumb||300px|]]&lt;br /&gt;
'''イチロー'''（本名：'''鈴木 一朗'''〈すずき いちろう〉、[[1973年]][[10月22日]] - ）は、[[シアトル・マリナーズ]]に所属する[[プロ野球選手]]。ポジションは[[外野手]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本プロ野球]]と[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]両方のシーズン最多安打記録を保持している。ハイペースで[[安打]]を量産することから「'''安打製造機'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
=== アマチュア時代 ===&lt;br /&gt;
[[1990年]]、全国高等学校野球選手権大会に左翼手として出場。1回戦敗退（対[[天理高等学校|天理]]戦）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1991年]]、選抜高等学校野球大会に投手として出場。1回戦敗退（対[[松商学園高等学校|松商学園]]戦）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[愛知工業大学名電高等学校]]（愛工大名電）から[[ドラフト会議|ドラフト]]4位で[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ（現：オリックス・バファローズ）]]に入団。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本プロ野球 ===&lt;br /&gt;
; {{by|1992年}} - {{by|1993年}}&lt;br /&gt;
: [[1992年]]7月12日の[[福岡ダイエーホークス]]戦で[[木村恵二]]投手からライト前へプロ初安打を記録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 1992年は.366の高打率で[[ウエスタン・リーグ]]の首位打者を獲得しながらも、[[土井正三|土井監督]]や[[小川亨]]コーチなどの1軍首脳陣から[[振り子打法]]を否定され、足の速さを活かすようにと[[内野安打]]狙いのバッティングや[[山内一弘]]コーチ式の内角打ちを指示されるが、意見や指導が合わず、1軍に定着することはなかった。同年の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスター]]では同点の8回に代打決勝ホームランを放ち、MVPを獲得。賞金100万円を手にするが、全額を神戸市の養護施設に寄付した（2軍選手でこのことをしたのはイチローが初めてである）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 1992年と1993年でプレーしたウエスタン・リーグでは、2シーズンにまたがり46試合連続安打を記録（1シーズンでは30試合）&amp;lt;ref name=&amp;quot;brcle&amp;quot;/&amp;gt;。1993年のウエスタン・リーグでは打率.371を残したが、1軍半であったため[[規定打席]]に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった（1993年のウエスタン・リーグ首位打者の打率は.346）。同年オフには[[ハワイ・ウィンターリーグ]]でヒロ・スターズというチームで優勝し、リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドで推定飛距離500フィート（152メートル）の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 1993年、当時豪腕の名をほしいままにしていた[[野茂英雄]]からプロ初本塁打（[[1993年]][[6月12日]]、[[長岡市悠久山野球場]]）を放ったものの、その日に2軍降格を言い渡されるなど2軍生活を余儀なくされていたイチローは、同年の秋に、[[河村健一郎]]2軍打撃コーチと二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる[[振り子打法]]を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{by|1994年}}&lt;br /&gt;
: 監督に招聘された[[仰木彬]]はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、[[登録名]]を当初の「鈴木」から「イチロー」に変更させ、1軍の2番打者に抜擢する。1軍打撃コーチの[[新井宏昌]]にも理解され、レギュラーとして活躍。4月末ごろには1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打（日本記録）まで延ばし、この年から打撃の正式タイトルとなった[[最多安打]]の初代獲得者となった。[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]新記録となる打率.385（後の[[2000年]]に自らパ・リーグ記録を更新）で[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得。打者としてはプロ野球史上最年少で[[最優秀選手 (野球)#日本プロ野球|MVP]]を手にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{by|1995年}}&lt;br /&gt;
: 主に1番打者を打ちながら、首位打者・[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]・[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]・最多安打・[[最高出塁率|最高出塁率]]を獲得し、「五冠王」に。打点王と盗塁王の同時獲得は[[日本プロ野球]]史上初（現在も唯一）、全イニング出場での首位打者は[[1969年]]の[[王貞治]]に次ぐ史上2人目の快挙。リーグ3位タイの25本塁打で、[[本塁打#最多本塁打|本塁打王]]の[[小久保裕紀]]とは3本差であり、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占（[[三冠 (野球)|六冠王]]）にあと一歩であった。そのほか、リーグ2位の[[長打率]]や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18[[死球]]に加え、当時の日本タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残し、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となる[[正力松太郎賞]]も受賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{by|1996年}}&lt;br /&gt;
: 開幕から前半戦まで1番打者として出場し、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第1戦では初回先頭打者初球本塁打（オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初）を放った。第2戦では投手として登板し、[[高津臣吾]]を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いたが、3番になってからは調子を上げ、固め打ちが目立つようになった。最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、[[猛打賞]]を26回（日本記録）、1試合4安打を8回記録（達成当時、日本新記録。現在はパ・リーグ記録）した。[[9月23日]]の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・[[神戸市|神戸]]での胴上げ」を実現させた。[[読売ジャイアンツ]]との日本シリーズ第1戦では、延長10回に[[河野博文]]投手から決勝本塁打を放つ。チームは[[オリックスバファローズ|阪急]]時代の[[1977年]]以来19年ぶりの日本一に輝き、優秀選手賞を受賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{by|1997年}}&lt;br /&gt;
: この年以降は主に3番打者として出場。6月に209打席連続無三振の日本記録を樹立、その後の日本ハム戦で[[下柳剛]]投手から三振するまで216打席連続無三振をマークした。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずかに3つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{by|1998年}}&lt;br /&gt;
: [[張本勲]]の4年連続を抜いて、日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。同時に、5年連続・通算5回目となる最多安打を記録した（連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は[[長嶋茂雄]]の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、[[川上哲治]]の6回に次いで歴代3位）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{by|1999年}}&lt;br /&gt;
: [[4月20日]]、日本ハム戦で[[金村曉]]投手から本塁打を放ち、プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。[[7月6日]]の[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦では[[松坂大輔]]投手から通算100号本塁打を打った。前半戦だけで19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、[[8月24日]]の対日本ハム戦において下柳から右手に死球を受け、負傷。残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位の763でストップした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{by|2000年}}&lt;br /&gt;
: プロ野球歴代2位のシーズン打率.387を記録。開幕戦から4番に指名され、同打順で毎試合スタメン出場していたが、[[8月27日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦で3回に三塁線へ[[ファウルボール|ファウル]]を打った際に右わき腹を痛め、途中交代。その後出場を果たしたのは、神戸でのオリックス本拠地最終戦である[[10月13日]]の1試合だけで、9回に守備固めとしての出場であり、打席には立たなかった。イチローが[[メジャーリーグ]]に挑戦するため日本球界を去ると記者会見をしたのが前日の[[10月12日]]であったため、この試合終了後、イチローはファンの大声援に手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1994年から2000年まで7年連続で首位打者、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]、[[ゴールデングラブ賞]]を獲得。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録、7年連続首位打者は史上初。さらに、1994年から1996年までは連続[[最優秀選手 (野球)#日本プロ野球|MVP]]であり、3年連続MVPは他に[[山田久志]]しか達成していない快挙である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メジャーリーグ ===&lt;br /&gt;
; [[2001年]]&lt;br /&gt;
: [[ポスティング制度]]を利用して[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の球団、[[シアトル・マリナーズ]]に移籍する。メジャーリーグ移籍に関して本人は[[2000年]]に移籍と決めていたが、恩師である[[仰木彬]]監督に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずにチームに残ったという裏話がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かった。あるマリナーズの[[番記者]]は、日本でのイチローのビデオを見て、「ピッチャーが投げるすべての球に反応して動き、バッターボックスでふらついているようにも見えた。球をたたくように打ち、すぐさま走り出すスタイルは、メジャーリーグの投手と野手が相手では歯が立たないだろうと思われた。そのうえ、パワーもなさそうだった」と述べ、当時のマリナーズの監督だった[[ルー・ピネラ]]も、「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30、まあ得点は稼いでくれるだろう」とそこまで大きな期待はしていなかった。「51」という背番号をつけることになったときにも、当時のマリナーズには「背番号51」は[[ランディ・ジョンソン]]（1998年まで在籍）の番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」という理由であまり好意的には見られてはいなかった。その後の活躍で、このことを取り沙汰するファンは誰もいなくなった。前述の番記者も、シーズン開幕から1か月半後の『[[シアトル・タイムズ]]』紙に、「お詫び」のコラムを掲載している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 開幕戦でいきなりマルチヒットを放ち、その後も順調にヒットを積み重ねた。[[MLBオールスターゲーム]]でのファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となるなど、アメリカにおいても評価されるようになる。この年、[[1930年]]の[[ビル・テリー]]（ジャイアンツ）以来となるシーズン242安打（当時歴代9位）を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新（この年の両リーグ最多安打でもある）するとともに、[[アメリカンリーグ]]の[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|新人王]]・[[最優秀選手 (野球)#アメリカメジャーリーグベースボール|MVP]]・[[首位打者 (MLB)|首位打者]]・[[盗塁#アメリカメジャーリーグ|盗塁王]]となった。首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは[[1949年]]の[[ジャッキー・ロビンソン]]以来2人目、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは[[1964年]][[ミネソタ・ツインズ]]の[[トニー・オリバ]]以来2人目。安打試合数の135試合は[[ロジャース・ホーンスビー]]、[[チャック・クライン]]、[[ウェイド・ボッグス]]、[[デレク・ジーター]]ら4人と並ぶメジャータイ記録で、[[単打]]192と打数692はアメリカンリーグ新人記録。新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには[[1975年]]の[[フレッド・リン]]のみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ（首位打者）、ジャッキー・ロビンソン、[[ビンス・コールマン]]（盗塁王）、ウォルト・ドロポ（打点王）、[[マーク・マグワイア]]（本塁打王）以来6人目である。当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が[[1947年]]に制定したルーキー資格を基に、過去の打撃記録を調べ直した結果、当初[[1927年]]の[[ロイド・ウェイナー]]の「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年に[[ジョー・ジャクソン (野球)|ジョー・ジャクソン]]が記録した「233安打」に訂正される事態も起きている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: そのほかにも、リーグ2位の得点（127）を残し、得点圏打率（.445）、2死得点圏打率（.460）、2死得点圏出塁率（.558）、走者ありでの打率（.420）では両リーグを通じて1位を記録した。新人王・MVP・首位打者・盗塁王・[[シルバースラッガー賞]]・[[ゴールドグラブ賞]]を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみである。記録的な活躍でチームのプレーオフ進出に貢献し、日本の一流打者がメジャーリーグでも通用することを証明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2002年]]&lt;br /&gt;
: 投手から警戒されるようになり、リーグ最多の27敬遠を記録する。[[四球]]も前年の30から68に倍増した。リーグ4位の打率を残し、208安打を打つも、最多安打にはあと1本及ばなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2003年]]&lt;br /&gt;
: 5月にはメジャー通算500本安打を達成。7月には、新人から3年連続でオールスターファン投票両リーグ最多得票を獲得。これは、新人からという注釈を外しても[[ケン・グリフィー・ジュニア]]以来史上2人目の快挙であり、メジャーリーグのスター選手の地位を確固たるものにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2004年]]&lt;br /&gt;
: 84年間破られることのなかった[[ジョージ・シスラー]]の257安打を5本上回る262安打を記録した。同時に打率.372を残し、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いた。ジョージ・シスラーの記録は年間154試合の時代の記録で、イチローは160試合目での到達であったため、米国内では少なからず疑問視する見方もあったものの、この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、『[[USAトゥデイ]]』紙にも[[バリー・ボンズ]]が700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグが祝福の意を表した。史上8人目となる[[コミッショナー特別表彰]]を受け、[[アメリカ野球殿堂]]には特別ブースが用意された。日本からは[[正力松太郎賞]]特別賞が授与された。その際「打撃の神様」の愛称で知られる川上哲治に、「精神的にも技術的にも、『野球の神様』と言えば彼じゃないかと思う」と賛辞を送られている。2度目の[[国民栄誉賞]]の授与も打診され（2度とも辞退）、アジアの国々や野球に関心の薄い[[イギリス]]でも異例の取り扱いで新聞等のメディアがその記録達成を伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 得点圏打率（.372）、得点圏出塁率（.484）、2死得点圏打率（.472）、2死得点圏出塁率（.600）、走者あり打率（.364）、走者あり出塁率（.439）、対左投手打率（.404）、敬遠数（19）、出塁数（315）でもリーグ1位を記録。7月にシーズン2度の月間50本安打を達成、[[ジョー・メドウィック]]以来68年ぶりの快挙を成し遂げる。8月に球団記録の[[アレックス・ロドリゲス]]の月間54本安打を更新し、68年ぶりにロイ・ウェザリーの月間56本安打のタイ記録に並んだが、月間67本安打の[[タイ・カッブ]]には届かなかった。正式な記録ではないが、[[7月18日]]から[[8月17日]]の間にヒットを67本打っている（この間の打率は.508）。通算4度の月間50本安打は[[ピート・ローズ]]に並び（メジャー記録はジョージ・シスラーの10度）、他に、2か月連続50本安打とシーズン3度の月間50本安打の記録を更新。9月、ビル・テリーの連続4シーズン918本安打も更新した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2005年]]&lt;br /&gt;
: メジャーでは自己最多となるシーズン15本塁打を記録した。通算記録では日本人選手として初めてメジャーリーグ1000本安打に達した。これは出場696試合目での達成であり、[[1933年]]の[[チャック・クライン]]（683試合）、[[1932年]]のロイド・ウェイナー（686試合）に次いで1900年以降3番目のスピード記録となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 5年連続100[[得点]]30[[盗塁]]は6年連続の[[ジョー・モーガン]]、タイ記録の[[リッキー・ヘンダーソン]]に次いで3人目（19世紀の記録を入れると[[ビリー・ハミルトン]]の10年連続が最高）。史上初のデビューから5年連続200本安打という記録も達成した。5度の200安打100得点30盗塁はタイ・カッブ以来89年ぶり、連続記録としては史上初。チャック・クラインの連続5シーズン通算1118安打を抜いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2006年]]&lt;br /&gt;
: 5月、メジャー通算200盗塁を達成、その翌日には日米通算400盗塁を達成した。6月、日米通算2500本安打を達成。[[7月26日]]に戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274本安打を抜いた。[[8月16日]]に[[ロジャース・ホーンスビー]]が持つ連続6シーズン最多安打1296本を超え、8月29日にはメジャー通算400[[マルチヒット]]を928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。9月には19世紀以降最多となる[[ウィリー・キーラー]]の連続6シーズン通算1313本安打を抜いた。[[9月7日]]に日米通算800マルチヒットも達成。[[9月9日]]にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317本安打を超え、一週間後の[[9月16日]]、[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]戦でメジャーリーグ史上3人目となる6年連続200安打を達成した。この試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、アメリカンリーグ新記録も達成。満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を残し、盗塁成功率.957を記録した。1シーズンの連続盗塁成功は39まで伸ばしたが、ビンス・コールマンの1シーズンのメジャー記録である44連続盗塁成功には及ばなかった。メジャー通算100[[故意四球|敬遠]]と日米通算200敬遠も達成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2007年]]&lt;br /&gt;
: [[5月3日]]、41連続盗塁成功を達成して、シーズンを跨いでのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録を更新（従来の記録は、[[ティム・レインズ]]の40）。5月16日にアメリカンリーグ記録を45まで伸ばす。5月18日の対エンゼルス戦、7回裏に先頭打者のイチローがヒットで出塁。この場面でベンチからヒットエンドランのサインが出て、イチローはヒットエンドランのタイミングでスタートを切るが、2番打者の[[ホセ・ビドロ]]がサインを見落として投球を見送り、ヒットエンドランに失敗。これが盗塁死扱いになってイチローのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録は「45」でストップし、ビンス・コールマンの連続盗塁成功50のメジャー記録更新は目前で逸した。[[7月5日]]、56試合中53試合に安打を放ってジョージ・シスラーやタイ・カッブに並ぶも、56試合中56試合に安打を放ったジョー・ディマジオや56試合中54試合に安打を放ったデレク・ジーターには及ばなかった。[[7月8日]]、戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続7シーズン通算1479本安打を抜いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[7月11日]]、7年連続で出場した[[MLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]において[[サンディエゴ・パドレス]]所属の[[クリス・ヤング]]投手からオールスター史上初のランニングホームランを放った。同試合ではこのランニングホームランを含む3打数3安打2打点を記録し、[[MLBオールスターゲーム|オールスター]]MVPを受賞した。[[7月17日]]には、1901年以降最多となるビル・テリーが持つ連続7シーズン最多安打1487本安打を超え、[[8月17日]]に19世紀以降最多となる[[ジェシー・バーケット]]が持つ連続7シーズン最多安打1526本安打を超えた。[[9月3日]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦では[[ロジャー・クレメンス]]投手から本塁打を放ち、7年連続200安打（史上3人目）を達成。センターとしてシーズンを過ごしゴールドグラブ賞を受賞したが、シーズン途中でコンバートなくライトとセンター両方でゴールドグラブ賞を獲ったのは、[[アンドレ・ドーソン]]以来であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[マグリオ・オルドニェス]]（[[デトロイト・タイガース]]）との激しい首位打者争いに敗れはしたものの、リーグ2位の打率.351を記録。リーグ9位の出塁率.396に加え、リーグ2位（125打席以上）の得点圏打率.397、リーグ1位の二死得点圏打率.431、満塁では13打数8安打、打率.615という驚異的な勝負強さを発揮し、2001年以来2度目となるシルバースラッガー賞を受賞した。この年、ゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を同時に受賞した選手は、アメリカンリーグではイチローと[[プラシド・ポランコ]]（デトロイト・タイガース）のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2008年]]&lt;br /&gt;
: [[6月7日]]、戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続8シーズン通算1666本安打を抜いた。[[6月11日]]にメジャー通算300盗塁を達成し、5日後に日米通算500盗塁を達成。[[6月21日]]には1901年以降最多となるポール・ウェイナーが持つ連続8シーズン最多安打1680本安打を超え、[[7月27日]]には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーが持つ連続8シーズン最多安打1719本安打を超えた。[[7月30日]]、[[テキサス・レンジャーズ]]の[[ルイス・メンドーサ]]投手からレフト前に安打を放ち、日米通算3000本安打を達成。日本選手での3000本安打は[[張本勲]]以来2人目の快挙である。2175試合目に達成したため、2135試合で達成したタイ・カッブには及ばなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[9月17日]]、[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]戦でショートへの内野安打を放ち、8年連続200安打を達成。ウィリー・キーラーが[[1894年]]から[[1901年]]にかけて記録して以来、107年ぶりの記録を達成した。[[9月26日]]の[[オークランド・アスレチックス]]戦では8年連続100得点を達成。同一シーズンでの200本安打100得点を8回記録したのは[[ルー・ゲーリック]]以来2人目、連続記録としては史上初（19世紀の記録を入れるとウィリー・キーラーも達成している）。シーズンを両リーグトップタイの213安打で終了し、メジャータイ記録となる3年連続最多安打（史上7人目）、史上初となる3年連続両リーグ最多安打を記録した。シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「100得点」「30盗塁」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について8年連続と伸ばした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[2009年]]&lt;br /&gt;
: [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック]]に出場し、打撃不振に苦しむも、決勝戦で値千金の決勝打を放ち、日本代表の連覇に大きく貢献した。大会終了後はマリナーズに合流してオープン戦数試合に出場したが、極度の疲労により体調を崩し、[[4月3日]]に精密検査を受けた結果、胃に出血性の[[潰瘍]]が認められ、自身初の[[故障者リスト]]（DL）入りとなった。&lt;br /&gt;
[[Image:Ichiro Suzuki and Barack Obama.jpg|thumb|200px|left|[[2009年]][[7月14日]]、[[セントルイス]]の[[ブッシュ・スタジアム]]内でのイチローと[[バラク・オバマ]]米大統領（右）。]]&lt;br /&gt;
: [[4月15日]]のエンゼルス戦で、[[張本勲]]と並ぶ生涯通算安打の日本記録となる3085安打目を満塁本塁打で記録。同時に日米通算1000[[打点]]も達成した。当日は「ジャッキー・ロビンソン・デー（詳細は[[ジャッキー・ロビンソン]]を参照）」だったこともあり、普段は背番号51のイチローも、この日だけは背番号を42に変更して出場した（なお、当日はイチローに限らず、選手や監督、コーチも背番号を42に変更して出場している）。翌日[[4月16日]]には3086安打目をライト前に放ち、記録を更新した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[7月28日]]、[[トロント・ブルージェイズ]]戦にて3対3の同点で迎えた9回、2アウト満塁の場面で[[スコット・ダウンズ]]から自身メジャー初となるサヨナラ打を記録した。[[9月8日]]、メジャー通算2000本安打を[[アル・シモンズ]]の持つ最速記録1390試合に次いで史上2番目の速さとなる1402試合目で達成。[[9月15日]]にはメジャー史上初となる9年連続200本安打を達成した。[[9月17日]]、[[シカゴ・ホワイトソックス]]戦にて延長14回の場面で自身メジャー2度目のサヨナラ打を記録した。さらに翌日の[[9月18日]]、[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦にて1−2で迎えた9回裏、2アウト2塁の場面で[[マリアノ・リベラ]]から自身メジャー初となる逆転サヨナラ本塁打を記録した。[[9月26日]]、トロント・ブルージェイズ戦での5回、1死三塁のチャンスで回った第3打席、[[デビッド・パーシー]]が投じた2ストライクからの外角球を見逃すと判定はストライク。この判定にバットでボールの通過地点を示すなどして抗議したイチローは、日米通じて自身初の退場処分を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[ジョー・マウアー]]と首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.352を記録。メジャー史上初の4年連続最多安打、自身3度目の最多敬遠を記録し、2007年以来3度目となるシルバー・スラッガー賞を受賞した。シーズンを通じての「100得点」「30盗塁」の連続記録は途絶えたが、「打率3割」「200安打」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」については9年連続と伸ばした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界大会 ===&lt;br /&gt;
[[Image:IchiroWBC.jpg|thumb|200px|WBC日本代表でのイチロー]]&lt;br /&gt;
* [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回WBC]]&lt;br /&gt;
「[[オリンピック]]はあくまでもアマチュアのための大会。自分はプロ」という考えで、[[オリンピック]]などへの参加を断り続けていたが、2006年に初開催された[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック]]にはメジャーリーグ主導によるプロの初の世界大会とあって進んで参加した。1次リーグこそ本調子でなかったものの、2次リーグ、準決勝、決勝と試合が進むごとに調子を上げ、アメリカ戦では先頭打者本塁打を記録。決勝の対キューバ戦では、中押しのきっかけとなる2塁打と、1点差に詰め寄られた後に突き放すタイムリーヒットを放った。マリナーズでは考えられない感情・闘志むき出しのプレイを見せつつ日本チームを牽引し、優勝に貢献した。最終的に一次予選から決勝まで全ての試合で安打を記録し、打率.364（33打数12安打）、1本塁打、5打点、5盗塁、7得点、4四球を残して外野手部門の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック#優秀選手・MVP|ベストナイン]]に選ばれている。&lt;br /&gt;
* [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]&lt;br /&gt;
2009年に開催された[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回大会]]でも、引き続き日本代表に選出。この大会では、開幕前の練習試合から全く安打が出ず、開幕後も打率.200前後という絶不調の状態に陥り、マスコミなどからはバッシングも受け、&amp;quot;国民の心配事&amp;quot;とまでささやかれた。それでも[[原辰徳]]監督は全試合でイチローを1番に起用し続け、最終的にイチローもそれに応える。決勝の韓国戦で、6打数4安打、延長10回に[[林昌勇]]から決勝の2点タイムリーを放つ大活躍。大会全体では打率.273（44打数12安打）ながらも最後の最後で日本の連覇に大きく貢献した。その後のトロフィー授与式や祝勝会では、普段クールなイチローも笑顔を絶やすことはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 選手としての特徴 ==&lt;br /&gt;
=== 打撃 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Ichiro homerun.jpg|thumb|left|220px|イチローの5号本塁打&amp;lt;br/&amp;gt;2005年6月17日の[[ニューヨーク・メッツ]]との試合にて。投手は[[石井一久]]。]]&lt;br /&gt;
現役プロ野球選手としては小柄なほうで、本塁打数も歴代[[シルバースラッガー賞]]受賞者の中でも最も少ない部類に入る。ただし、本塁打に関しては、前マリナーズ監督の[[ボブ・メルビン]]がケーブルテレビ局・[[ESPN]]に「（試合前の）彼の打撃練習を見てみなよ。いつも山ほど（ホームランを）打っているよ」と語っているように、[[ウェイド・ボッグス]]と同じくあえて試合では単打狙いに徹していると言われる。コラムニスト・[[木本大志]]は、イチローが内野安打を打った時と本塁打を打った時では軸の位置に違いがあることを言及している。イチロー自身も『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙に「僕にとって、フライを打ってから『あぁ、多分ホームランになるな』と思うシチュエーションになった事は一度もない」と語っていることから、本塁打は意図的に打っている事が汲み取れる。実際それは記録上にも現れており、日本時代の1000本安打目を始め、節目の安打は本塁打が多く、メジャーでの通算本塁打のうち3分の1以上が初回先頭打者本塁打である。2007年のオールスター後のインタビューでは「（打率が）2割2分でいいなら、40本（打てる）と言っておきましょう」と冗談混じりながら語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イチローのバッティングスタイルは、変化球を打ちにいき、直球を“詰まりながら”内野と外野に落とす。または、あえて相手投手の決め球を狙って打ちにいく。アメリカのメディアに「走りながら打っている」、「走りながら打つ忙しい選手」などと言われるように、左打者でスイングから走り始めるまでの一連の動作が速い分、一塁への到達時間が短い。バッティングフォームが「打った直後、すでに右足が一塁を向いている」ためである。そのため、俊足と相まって他の選手ならばアウトになるような内野ゴロが安打になることが多い。日本時代は全安打の約16%、メジャーでは全安打の約23%を内野安打が占めており（2009年シーズン終了時点）、内野安打の多さは突出している。さらにこのような[[内野安打]]は「狙って打っている」と語っており、イチローの高打率は、内野安打を打つ技術に裏打ちされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「打率は変動するが、安打は積み重ねることができる」との理由から、打率よりも安打数を重視し、[[四球]]を望まず積極的に打ちにいくタイプで、[[三振]]・四球ともに少ない。ただ敬遠の数は多く、年10回以上されることが多々あり、通算でも200個を超えている。書籍『イチローイズム』では、著者の「シーズンを終えて『199安打で4割』と『ジョージ・シスラーのメジャー記録を上回る258安打で、3割9分9厘』、イチローはどちらを望むのか」という質問に対し、「僕が210本のヒットを打った94年に、よく訊かれたことがあるんです。それは、『199本で4割ピッタリだったとして、次の打席はどうするか』ということだったのですが、いつも決まってこう答えていました。『決まり切ったこと、訊かないでください』と。もちろんそれは今も変わりません」と答えている。2005年は年間最多安打記録を更新した翌年だけに打率4割を期待する声も強かったが、『ニューヨーク・タイムズ』紙はイチローのバッティングスタイルを考慮し、4割の大台達成よりもむしろ[[ジョー・ディマジオ]]の持つ56試合連続安打記録を塗り替えるほうが現実的との見解を示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
打席に入ると背筋を伸ばし、やや後傾気味に重心を取り、右手でバットを垂直に揃え、左手を右上腕部に添える動作を、1996年シーズンから必ず行うようになった。これは眼の焦点をスコアボードに合わせた後、バットへ焦点を変えることによって、ボールに対する[[視力#静止視力・動体視力|動体視力]]を一時的に上げる効果があるとも言われている。この特徴的な動作と、バットコントロールの巧みさからイチローのバットはメジャーで「[[wikt:en:magic wand|magic wand]]（『魔法の杖』の意）」と称される。メジャーリーグ移籍直後は日本より数段速いと言われるメジャーの直球に対応するため、ハイキックをやめて[[オープンスタンス]]を採用するなど、止めどなく変化を続けるバッティングフォームであるが、2004年シーズン中である6月24日の夜に行ったフォーム改造で、「小さい頃に野球をやっていた時に感じたのと、近い感覚が戻ってきた」と語っている（この時、なにかが降りてきたかのようにフォーム改造を思いついたことから、一部で「シスラーが憑依した」とも言われた）。このシーズン、メジャー記録となる262安打を放っている。2005年からは、四球の数こそ増えないものの、待球により、球数は増えている。2007年からは内角対策のために猫背になることがある。2008年は自分のストライクゾーンを狭めて悪球打ちをせず、ストライクゾーンに来た球だけを振るようにしたことにより、四球が若干増えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年のメジャーデビュー当初、元マリナーズのチームメイトであった[[ジョン・オルルド]]はイチローの打撃について5通りの打ち方をすると評した。1つ目はランニング・ワン・ハンダー（半分走りながら片手で打つ）、2つ目はザ・リーナー（ボールに寄りかかりながら打つ）、3つ目はフィストカフ・スイング（なぐりつけるように流し打つ）、4つ目はチップ・スイング（ゴルフのチップショットのように打つ）、5つ目はパワースイング（力で引っ張るバッティング）であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 守備 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Ichiro at defence.JPG|thumb|left|180px|守備につくイチロー&amp;lt;br/&amp;gt;2001年7月8日の[[ロサンゼルス・ドジャース]]との試合にて。]]&lt;br /&gt;
2006年に行われたメジャーリーガー415人による投票「最も肩が強い外野手」で48%の得票率を占め1位となった&amp;lt;ref&amp;gt; 米スポーツ専門誌『スポーツ・イラストレイテッド』webサイト2006年9月13日付。参考までに、2位が[[ブラディミール・ゲレーロ]]の32%、3位が[[ホセ・ギーエン]]の8%である。&amp;lt;/ref&amp;gt;強肩に加え、「'''レーザービーム'''」と称されるコントロールのいいスローイングのため、他球団からは最もタッチアップしにくい外野手に挙げられている。コントロールの良さは、マリナーズのCMのメイキング映像で、外野からキャッチャーミット目がけて指定したコースにカーブを投げ、ストライクになっている事からも窺える。記録には出ないファインプレーも魅力の一つになっている。この守備はメジャーでも高い評価を受け、[[ゴールドグラブ賞]]を2001年〜2009年の9年連続で受賞している。広範囲な守備と強肩のため、イチローの守備範囲に納まる打球は三塁打が二塁打になったり、犠牲フライが併殺外野フライになったりする。この事からイチローの守備する右翼は、その背番号と超常現象がよく確認されるというネバダ州の米軍秘密地区に掛けて、「[[エリア51]]」と呼ばれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前述の「レーザービーム」は、2001年4月13日の[[オークランド・アスレチックス]]戦で、ライトヒットで三進を試みた一塁走者の[[テレンス・ロング]]を正確かつ力強い送球で三塁に補殺した際、実況アナウンサーであった[[リック・リズ]]が「イチローからのレーザービーム攻撃だ!」と叫んだことに所以する。日本では「レーザービーム」という表現が定着しているが、アメリカにおいては特段そのように呼ばれる事はない。インパクトのある送球を全般的に''&amp;quot;the Throw&amp;quot;'' と表現することが多く、この時の送球もそう表現されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年5月2日の[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|ロサンゼルス・エンゼルス]]戦の7回表で、[[ギャレット・アンダーソン]]が打ったホームラン性の球を、フェンスをよじ登ってキャッチした。[[スパイダーマン]]のように壁を駆け上がって捕ったとアメリカメディアが報道したため、「スパイダーマンキャッチ」と称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校時代は投手をしていたが、登板のない時などは[[外野手]]もやっていた。夏の甲子園に出場した際には[[左翼手|左翼]]を守っている。プロ入り後、210安打を放った1994年からは[[本西厚博]]（のちに[[谷佳知]]）、[[田口壮]]とともに当時日本一と言われたオリックス外野陣の一翼を担った。日本時代は主に[[右翼手]]を務めたものの、[[中堅手]]を任されることも多々あり、一つのポジションに定着することはなかった（1998年は左翼手で20試合以上スタメン出場している。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]や[[日米野球]]戦でも左翼を守ることがあった）が、1999年シーズン以降は右翼手に固定された。メジャー移籍後もほとんどの試合で右翼を守っており、休養時などは[[指名打者|DH]]として出場することもある。2006年シーズン途中から中堅手にコンバートされ、2007年は中堅手でもゴールドグラブ賞を受賞している。2008年のシーズン途中から右翼に戻り、同年、2009年と続けてゴールドグラブ賞を受賞している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 走塁 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Suzuki Ichiro runs to homeplate.jpg|thumb|230px|三塁を駆け抜けるイチロー&amp;lt;br/&amp;gt;2007年9月22日の[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|ロサンゼルス・エンゼルス]]との試合にて。]]&lt;br /&gt;
1995年と2001年に最多盗塁のタイトルを獲得し、メジャーでは毎年30盗塁以上を記録している。盗塁は成功率を重視し、盗塁数を増やすことはそれほど重視していないとコメントしており、特に2006年頃からはクイックモーションや警戒の不充分な相手投手を選んで盗塁するスタイルをとっている。盗塁数に関しては、年間30から40の間が理想だともコメントしており一時は年間70盗塁を超えるペースであったが、中盤から極端に企図数が減り、最終的に40台に終わっている。マリナーズ首脳陣からは、自分の判断で自由に盗塁できる権利（いわゆる「グリーンライト」）を与えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「走塁は打撃や守備よりも難しい」と口にしており、その理由として、「打撃は成功率が良くて3割強だが、走塁は成功率が10割に近くないといけない」こと、「走塁は、野手の肩や芝生の状態などといったことをすべて考え、それらを踏まえた上で瞬間的な判断をしなければならないから難しい」ことなどを挙げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
怪我のリスクを最小限に抑える目的から、ヘッドスライディングはほとんどしない。一塁へのヘッドスライディングは最も嫌うところであり、これを行った[[ソフトバンクホークス]]の[[川崎宗則]]に対して苦言を呈し、話題になった。盗塁や進塁の際アウトになる危険性が高いと判断したときには、トップスピードでのスライディングから急停止して野手のタッチのタイミングを外す高度な[[フェイント]]を見せることがある。2005年5月15日の[[ボストン・レッドソックス]]との試合では、本塁突入の際ホームベース前で急停止した後、外野からの返球を受けてブロックの体勢に入っていた捕手[[ダグ・ミラベリ]]の背中を飛び越そうとするプレーを見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホームベースから走って1塁までの到達する時間は約3.7秒であり、メジャートップクラスである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 評価 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Ichiro Suzuki.jpg|thumb|170px|試合に臨むイチロー&amp;lt;br/&amp;gt;2008年、[[アトランタ・ブレーブス]]との試合前にて。]]&lt;br /&gt;
[[Image:Ichiro on base.JPG|thumb|170px|リードをとるイチロー]]&lt;br /&gt;
アメリカの野球専門誌『ベースボール・アメリカ』に掲載された大リーグ30球団の監督による「Best Tools」投票で、イチローは2003年に「ベスト・ヒッター」「ベスト・バンター」「ベスト・ベースランナー」「最速ベースランナー」「守備部門ベスト外野手」「ベスト強肩外野手」「最もエキサイティングな選手」の7部門でトップに輝いた。2006年の投票では、「最もエキサイティングな選手」「最もバントが上手い選手」で1位、「最高の打者」「最高の走者」で2位、「最も俊足のベースランナー」で3位に選出された。2007年の投票でも、「ベスト・ヒッター」「ベスト・バンター」「ベスト・ベースランナー」「最もエキサイティングな選手」「守備部門ベスト外野手」「ベスト強肩外野手」で1位に、「最速ベースランナー」で2位に選ばれるなど、メジャーリーグの監督から高い評価を受けている。2008年のメジャーリーグスカウトによる投票でも、「ベスト・ヒッター」「ベスト・バットコントロール」「守備部門ベスト外野手」「ベスト強肩外野手」「ベスト・ベースランナー」の5部門で1位に、「ベスト・バンター」「最速ランナー」「ベスト・スティーラー」でも2位に選ばれるなど高評価を受けている。『[[スポーツ・イラストレイテッド]]』誌では、「イチローを首位打者候補に予想しないのは、[[タイガー・ウッズ]]を優勝候補から外すのと同じ」と評した。また、同誌は[[2005年]]のMLB特集記事において、イチローを「理想の1番打者」と評している。アジア系アメリカ人向けのニュースサイト「goldsea.com」は、2002年に「アメリカで最も感動を与えてくれるアジアのスポーツスター」のランキングを発表し、[[姚明]]（[[NBA]][[ヒューストン・ロケッツ]]）や[[野茂英雄]]らを抑えてイチローを1位に選出した。[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回WBC]]終了時には、米スポーツ専門ケーブル局『[[ESPN]]』のコラムニストがイチローを絶賛し、「イチローを見られるのは、私たちに与えられた特権」と評し、将来の殿堂入りについても言及した。[[MLB]]公式サイトは、2009年7月21日にイチローの特集記事を掲載し、、「日本人初の殿堂入りは決まったも同然」と位置付けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米国の野球ファンの間でもイチローの評価は高く、「メジャーで最高の選手」と評価する声もある。地元[[シアトル]]では非常に人気が高く、熱心なマリナーズファンのみならず、現地の子供達の間でも、スーパースター的な位置づけを受けている。[[2007年]]には、シアトルの地元紙が企画したファン投票で、地元選手の人気第1位に輝いた。 2005年に[[スーパーボウル]]進出を果たした[[NFL]]チーム、[[シアトル・シーホークス]]でリーグMVPに輝いた[[ランニングバック|RB]][[ショーン・アレキサンダー]]をも凌ぐ快挙に、マルティネス球団マーケティング担当重役もあらためてイチローの存在感に驚かされたという。同年には、[[ESPN]]がウェブサイト上で実施した「あなたが理想とする打順は？」というファン投票では、「理想の1、2番打者」の項目でおよそ39%の支持を集め、[[デレク・ジーター]]（[[ニューヨーク・ヤンキース]]）を抑えてトップに立った。更に、米国のスポーツ専門誌「Sporting News」が発表した、米大リーグ488選手らの投票によるオールスターにも、アリーグ外野手部門で選出された。発表した。翌[[2008年]]には、米4大ネットワークのひとつ、[[FOX]]が各ポジション別に現時点で最高のプレーヤーを選出し、三塁手の[[アレックス・ロドリゲス]]（ニューヨーク・ヤンキース）、右翼手の[[ブラディミール・ゲレーロ]]（[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム]]）らそうそうたる顔ぶれの中で、イチローがメジャー最高の中堅手に選出された。打者に不利な[[セーフコフィールド]]を本拠地としながらも高打率をマークしたことに加え、広い守備範囲と強肩でディフェンス面でも最高の中堅手であり、通算272盗塁（2007年終了時）を決めていることと合わせ、走攻守すべてを絶賛した。2007年の[[2007年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]でMVPを獲得した際には、[[ニューヨーク・タイムズ]]などの米主要メディアが、こぞってトップニュースで報じ、「だれもイチローを倒せない」、「歴史をつくった」と賛辞を送った。2008年3月には、スポーツ総合誌「ESPN」の10周年記念特集号で、「この10年で最もスポーツ界にインパクトを与えた10人のアスリート」に選出され、女子[[テニス]]のウィリアムズ姉妹や、アレックス・ロドリゲスらと共に名を連ねた。 通算3,141安打の[[トニー・グウィン]]は、「彼のおかげで、みんながコンタクトヒッターの価値を再認識するようになった。」と高く評価し、7年連続200安打の記録を持つ[[ウェイド・ボッグス]]も、イチローの殿堂入りを期待してエールを送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ニューヨーク・ヤンキース]]の[[捕手]][[ホルヘ・ポサダ]]はイチローをメジャーリーグでもトップ5に入る選手だと語り、同チームの[[王建民]]は試合開始前のイチローにサインを3つ頼んでいる。同じくヤンキースの[[アレックス・ロドリゲス]]は、2006年の[[2006年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]の際に、イチローに対して「試合前の調整法を教えて欲しい」として、合同練習を申し込んだ。同僚の[[ジャロッド・ウォッシュバーン]]は「（イチローは）何でもできるから、もう何をやっても驚かない」「だが、（手の内を）全部見たと思っても、また違う何かをやってみせる」と寸評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[小泉純一郎]]元首相は、[[2004年]]のシーズン最多安打記録樹立の際、「もうすごいの一語に尽きるね。これだけの偉大な選手はもう当分出ないんじゃないかな。天賦の才能に加えて、人一倍の努力。偉大だね。どんな称賛の言葉を言っても、言い過ぎることはない」と褒め称えた&amp;lt;ref&amp;gt;2004年10月2日付け 朝日新聞&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[明仁|今上天皇]]は、[[2001年]]の記者会見で、「イチロー選手を始めとする日本人選手の米国大リーグでの活躍はうれしいことでした」と述べ、[[2004年]]の記者会見では、「イチロー選手の大リーグで成し遂げた大きな成果も心に残ることでした。」と述べている。[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック]]後は野球界のみならず政界などの各方面からもイチローを賞賛するコメントが発せられた。[[キューバ]]の[[フィデル・カストロ]]元議長は、決勝戦後に「イチローは世界最高の打者。」と絶賛した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各種メディアでの調査等でも、イチローの高い人気が証明されている。マークスJPによる「最も好きなスポーツ選手」ランキングではあらゆる世代で2位以下を圧倒し1位となった。東京商工会議所が実施した新入社員の意識調査によると、「理想の社長」の項目で[[北野武]]と並んで1位、中央調査社による2007年の「最も好きなスポーツ選手」でも1位であった。また、2007年に[[オリコン]]が実施した「好きなスポーツ選手」の調査でも男性選手部門で1位、「世界に誇れる日本人」のランキングでも、男性部門で1位となった。「[[2008年]]に同じくオリコンが実施した「世界で活躍する日本人アスリート」のランキングでは2位以下に圧倒的な差をつけて1位になった。[[goo]]による「憧れの理想体型を持つ男性有名人ランキングでも1位であった。[[博報堂]]が行った「「アスリートイメージ評価調査」では、「好感が持てるアスリート」で1位となり、総合ランキングでも1位となった。[[2009年]]には、[[学校法人産業能率大学]]が新入社員を対象に実施した『理想の上司』のアンケートでは、「男性上司」の部門で1位の座に輝いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マリナーズの低迷も重なり、独自の野球観と孤高な態度がチームワークを乱すとの不満が度々表面化している。2008年6月には、[[カルロス・シルバ]]の「『ヒットが2本出れば、まずまずなんじゃないですかね。今日はこんなもんでしょ。自分の役目は果たせました』なんて言ってる奴がいる」（If I get my two hits, it's OK. That's my day. I made my day.）という発言が、「イチローを批判している」と解釈され、日米のメディアで物議を醸すことになった。[[2007年]]5月のタンパベイ・デビルレイズ（現[[タンパベイ・レイズ]]）戦前には、イチローは“自分勝手な（selfish）”選手だとの声がチーム内で聞かれ始めたことを受けて、当時の監督[[マイク・ハーグローブ]]が急遽ミーティングをして沈静化しており、[[2008年]]には『[[シアトル・タイムズ]]』紙が、「“信じ難い人数のチームメートがイチローを嫌って”おり、彼らが『イチローを”殴り倒してやりたい（wanting to knock him out）”』と話していたのを耳にした」と言う内部者の話を掲載している。。それを知った当時の監督[[ジョン・マクラーレン]]によってミーティングが開かれ、未遂に終わったというが、記事掲載当時の監督代行[[ジム・リグルマン]]と[[J.J.プッツ]]がこれを否定し、イチローを擁護した。しかし、翌年になって、リグルマンは同紙の取材に対し、チーム内でイチローに対する敵意が存在することに驚いたことを明かし、この件に関してメディアが騒ぎすぎだと主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チームメイトの[[ライアン・ローランドスミス]]は、「イチローはクラブハウスでとても尊敬されている（Ichiro is very very respected in the clubhouse）」と述べ、「真のプロフェッショナル」、「特別な選手」として絶賛すると共に、イチロー批判を行った選手を非難している。2009年に新加入した[[ケン・グリフィー・ジュニア|ケン・グリフィー・Jr]]、[[マイク・スウィーニー]]のベテラン2選手からも人望が厚く、イチローが体調不良でダウンした際には、グリフィーとスウィーニーがストッキングを上げる「イチロースタイル」の着こなしを見せ、イチローの早期回復を願った。スウィーニーは「彼がいないのはとても寂しいこと。」と語っていた。元監督[[ジョン・マクラーレン]]は、グリフィーとイチローの関係がマリナーズのクラブハウスに平和と一体感を呼び戻すのに重要な役割を果たすだろうと述べた。[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]終了後には、ESPNが「WBCで新たなイチローが姿を現した」と題した記事を掲載し、「チームの雲の上の存在にならずに、歯車として働いた。」として、チームリーダーとしての新境地を見せたイチローを評価した。 2009年シーズンは、グリフィーの存在によりチームメイトとも打ち解け、[[ドン・ワカマツ]]監督は前年に存在したイチローに対する敵意は消滅したと語った。2009年7月、イチローはシアトル・タイムズ紙の独占インタビューに応じ、「昨年のクラブハウスの、イチローへの反感」については、「正直言って、僕はよくわからない。去年から今年にかけて、僕自身は何も変わっていない。言えることは、新しい選手が入ってきたということ。そして、監督も新しくなった。去年あったことは、もう存在しない」と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人物、プライベート ===&lt;br /&gt;
* '''ファンおよびマスコミへの対応（その1）''' ：普段はメディアの取材に積極的に応えることはないが、[[糸井重里]]との対談で、「僕はゲームの後にその日の試合のことについて語ることを、あまりしていません。それは真剣に見てくれている人々のことを考えると、いい加減なことを言えないからです。適当にあしらうことはできないんです」と語っている。「オフになってからは『イチローは何を考えているのだろう』という質問に答えることにしています」との言葉どおり、オフの特別番組やロングインタビュー等には積極的に応じている。同対談では「一時的な注目ではなく、何年も僕に興味を持ってくれる人達とは、もう一生の付き合いだと思っているんです」とも語っている。&lt;br /&gt;
* '''ファンおよびマスコミへの対応（その2）''' ：メディアへの接し方については、「メディアと選手というのは戦っています。お互いが緊張しなくてはいけないし、お互いが育て合う関係だと思います。ですから妥協はしたくないのです」とインタビューで発言している。そのため、メディアと選手とが馴れ合っているような関係を快く思っていない。&lt;br /&gt;
* '''ファンおよびマスコミへの対応（その3）''' ：若手時代は今と違ってむしろ[[マスコミュニケーション|マスコミ]]に対して好意的で、[[バラエティ番組]]にもよく出演し、明るく喋っていた。急変したのは評論家・[[永谷脩]]が事実無根の文章を書いて発表して以降である。&lt;br /&gt;
* '''インタビューでの発言（その1）''' ：打席に入る前にバットを正面に立てる動作について、2003年のインタビューで「集中するための儀式。[[ゴルフ|ゴルファー]]が行う一連の動作と同じ。自分の形を作って、まず自分を落ち着かせる。自分のペースに持っていくということです」と答えたことがある。インタビュアーの「バットを立てたとき何を見ているのか」という質問に対しては、「最初にバットを見て、それからピッチャーの後ろのほうをぼんやり見ている。それからピッチャーを見る。今の形になったのは、1998、1999年ごろ。いろいろ試してみて、これがしっくりきたんです」と答えている。 同インタビューで「もし、野球というスポーツがなかったら、どんな人生を歩んでいたか」という問いに対し、「組織の中で自分を殺して生きていく事はできないタイプなので、自分で何かをやっていたと思う。何かは分かりませんが。[[サラリーマン]]は勤まらないでしょう」と語っている。&lt;br /&gt;
* '''インタビューでの発言（その2）''' ：テレビ番組『[[ICHIRO-VERSUS]]』（2008年3月19日放送）の“憧れ”という問いに「ドラゴンズのユニフォームを着た全ての選手」と答えていることから、中日ドラゴンズに対しての幼いころからの憧憬を、今もなお持ち続けていると思われる（子供のころの好きな野球選手に[[田尾安志]]を挙げている）。&lt;br /&gt;
* '''栄誉について''' ：[[国民栄誉賞]]を2度打診された初の人物であり、同じく2度断った初の人物でもある。&lt;br /&gt;
* '''ゴルフについて''' ： 集合時間の1時間前には現地に到着していることが常で、待ち時間の間に入念にウォーミングアップを行う。イチロー本人の弁では、何事も常にベストの状態で臨みたいからだという。このことについて彼と交流がある[[佐々木主浩]]は、「イチローはゴルフも全力で挑むから嫌い」とからかい混じりに語っている。なおゴルフの腕前は人並み程度らしく、メジャー移籍1年目にテレビで行われた対談の席で佐々木から「少しは上手くなったのか」と質問されたイチローは「佐々木さんはアメリカで頑張ってたら知らないんでしょう。何だったら今度一緒にコース回りましょうよ。上手くなっててびっくりしますから」と苦笑交じりに反論する一幕があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オリックス時代 ===&lt;br /&gt;
* '''会いたい前田さん''' ：プロ入り以来「一番会いたいのは“前田さん”」と話していた。[[広島東洋カープ]]の[[前田智徳]]のことである。1994年にオールスターゲームに出場した際、前田との初対面を果たし握手を交わしたイチローは、満面の笑みを浮かべていた。その前田から掛けられた言葉は「お前、内野安打ばっかりじゃ面白うなかろう」だった。また背番号「51」は、奇しくも前田がカープ入団時に付けていた番号である。&lt;br /&gt;
* '''投手イチロー''' ：[[1996年]]の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]]の9回2アウト、打者[[松井秀喜]]（当時[[読売ジャイアンツ|巨人]]）のところで、パ・リーグの仰木彬監督は、スピードガンコンテストで146kmをマークしたことのあるイチローを投手に起用。イチロー対松井の夢の対決を期待したファンが大歓声を送った。セ・リーグの[[野村克也]]監督が[[代打]]に[[高津臣吾]]（当時[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]）を送り、結果はショートゴロであった。これはオールスターをファンにとっての最大のエンターテイメントと考える仰木監督と、選手にとっての栄誉ある舞台と見る野村監督との考え方の食い違いによるもので、野村監督は野手を投手として送り込むのは、対戦する打者にとって最大の侮辱と捉えていた。後日これに関して野村監督は「ふざけている」とコメントした。&lt;br /&gt;
** '''投手イチローのいるゲームソフト''' ：このエピソードを反映してか、1997年に[[バンダイナムコゲームス|ナムコ（現・バンダイナムコゲームス）]]から発売された『[[プロ野球ファミリースタジアム|ファミスタ64]]』において、オールスターモードでイチローを投手として登板させるという[[裏技]]が搭載された（同時期に投手・打者の二刀流として話題になった[[嘉勢敏弘]]も同様の裏技が搭載された）。『[[超空間ナイター プロ野球キング]]』では野手で唯一、変化球(カーブ)が使える。&lt;br /&gt;
** '''白けた''' ：上記の事例に関してイチロー本人は長年沈黙を守っていたが、比較的近年になって「松井とマウンド上で対戦できるしびれる場面に水を差されて、一気に白けた」と当時の胸の内を明かしている。&lt;br /&gt;
* '''イチローシート''' ：1996年から2004年まで、[[神戸総合運動公園野球場]]にイチロー・シートを毎年20席（約140万円分）設置し、神戸の野球少年を招待していたが、2004年の球界再編騒動でオリックスブルーウェーブが大阪近鉄バファローズを吸収合併。オリックス側は05年以降のイチローシートの購入を求めていたが、自分の育った球団はブルーウェーブでありバファローズではないという理由で購入を拒否した。&lt;br /&gt;
* '''慈善活動''' ：1998年には出身地の[[愛知県]]に社会福祉のために1000万円、兵庫県には震災復興のため1000万円を寄付。2000年には豪雨によって被害を受けた愛知県にトレーナー、パーカーを合計1000枚、Tシャツ500枚（計1300万円相当）を贈るなど慈善活動にも熱心である。&lt;br /&gt;
* '''スペアリブ''' ：1999年のシーズン前に[[星野伸之]]、[[戎信行]]と一緒に[[シアトル・マリナーズ]]の春季キャンプに参加した。そのときに食べた[[スペアリブ]]に[[食中毒|あたって]]しまい、体調を崩して結果が思うように出せなかった。以来、口に入れるものは疑うようにしている&amp;lt;ref&amp;gt;『イチローの流儀』の112頁を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時の腹痛は熱い[[ほうじ茶]]を飲んで治したという。このシーズンに通算1000本安打を達成した際、当時マリナーズに所属していた[[ケン・グリフィー・ジュニア]]は「メジャーでも通用する。唯一君の前に立ちはだかるものはほかならぬスペアリブだよ」とコメントを寄せている。&lt;br /&gt;
* '''三塁手イチロー''' ：1999年の試合では、選手が足りなくなり、三塁の守備位置についたことがある。守備機会はなかった。&lt;br /&gt;
* '''悪球打ち''' ：2000年[[5月13日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦（グリーンスタジアム神戸）、1回裏の打席で[[後藤利幸]]の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにした。&lt;br /&gt;
* '''バースに迫る打率（その1）''' ：2000年シーズン、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持し、[[規定打席]]に到達して以後も.390台をキープ、最も高いときで.398を記録していた日もあった。しかし、その後徐々に下がっていき、打率.3873のときに故障して戦線離脱した。そのままシーズンを終えたが、あと1打席に立って1本安打を放った後で故障していた場合、打率.3888でシーズンを終了していたことになり、[[1986年]]の[[ランディ・バース]]が持つシーズン歴代最高打率（.3885）を超えていた。&lt;br /&gt;
** '''バースに迫る打率（その2）''' ：210安打を放った1994年は、主に1番打者として全試合打席に立ち続けながら、50試合目以降からシーズンを終えるまで常に打率.380以上を維持した。特に63試合目には打率を4割台に乗せ、69試合目まで7試合4割を継続している。70試合目以降は.380台後半から.390台後半のあいだをうろつき、規定打席に到達した後も.390台を推移し、126試合目を終えた時点でもバースの打率を超えていた。しかし、127試合目、128試合目で共に5打数無安打に倒れ、打率を.380台前半まで下げた。これが響き、最後の2試合でそれぞれマルチヒットを放ったものの、結局バースの打率には届かなかった。&lt;br /&gt;
* '''オリックスの51番''' ：イチローの退団後、オリックスでは背番号51は誰もつけていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== マリナーズ時代 ===&lt;br /&gt;
* '''道徳教材''' ：2004年、小学5年生の道徳副読本の題材に登場、連続試合出場の「継続」の大切さを伝えた。&lt;br /&gt;
* '''30年発言''' : 2006年の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]1次リーグを前にした公式会見の場で発言した「対戦した相手が、向こう30年は日本には手は出せないな、という感じで勝ちたいと思う」が、韓国ではなぜか「（韓国は）30年間日本に勝てないようにしてやる」といったような発言をしたように歪曲され報道された結果「挑発的な発言」と捉えられ、イチロー本人や日本チームに対する激しいバッシングが起きた。第2回大会の日韓戦では打席に入るたびに激しいブーイングを浴びせられた。&lt;br /&gt;
* '''2006WBC決起集会''' ：また2006年の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]では、[[ボブ・デービッドソン#2006 ワールド・ベースボール・クラシックにおける判定問題|疑惑の判定]]で敗れたアメリカ戦の後に決起集会を開いてチームを鼓舞した。その際、出席者全員分の食事代を一人で全額負担した&amp;lt;ref&amp;gt;TBS系のスポーツ番組で[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]が語った内容より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* '''ファッション誌のモデル''' ：2006年4月28日に日本で発売された、フランスの最高級ファッション誌『ロフィシェル』日本版6月号に、モデルとして出演した。&lt;br /&gt;
* '''マリナーズの顔''' ：2007年に[[ESPN]]が行った「マリナーズの顔は誰?」というアンケートで投票総数3万4166票中、96%の票を集めて1位に選ばれた。&lt;br /&gt;
* '''レストランの予約とMVP''' ：2007年のオールスターゲームにおいてランニングホームランを決めた後、イタリアンレストランの予約を入れていたために球場から出て帰ろうとしたところ、スタッフから「MVPに選ばれるかも知れないから帰るな」と引き留められて球場にとどまり、MVPを受賞した。&lt;br /&gt;
* '''無断広告''' ：2007年11月27日、写真入りの広告を無断で使用されたとして、[[台湾]]の広告代理店に[[損害賠償]]を求めていた[[訴訟]]の[[控訴審]]判決が、[[中華民国司法院|台湾高等法院]]で下された。同院は「台湾ではニューヨーク・ヤンキースの[[王建民]]投手（台湾出身）の[[知名度]]に及ばない」などとして、500万[[台湾ドル]]（約1700万円）の支払いを命じた1審判決を大幅に減額し、100万台湾ドル（約340万円）の支払いを言い渡した。&lt;br /&gt;
* '''マリナーズのベストナイン''' ：2008年1月、マリナーズの公式サイトが発表したチームの歴代ベストナインで、「右翼手」で選出された。&lt;br /&gt;
* '''内野守備''' ：2008年8月17日、同点の9回裏1死2,3塁という場面でメジャー移籍後初めて内野（二遊間）の守備位置についたが（[[5人内野シフト]]）、四球で満塁になったところで外野に戻り、守備機会はなかった。&lt;br /&gt;
* '''ユンケル専用''' ：[[佐藤製薬]]の[[ユンケル黄帝液]]を長く愛飲しており、テレビ番組では[[利き酒]]のようなことをユンケルでやっていた。また、|※表書きする為の出典探してます。Cyclops特注で作った専用ケースに詰めて遠征時には必ず持っていくという。ユンケルを飲むのは試合開始1時間前に飲んでいる。このことは、WBCの優勝会見で川崎選手が明かしている。&lt;br /&gt;
* '''長者番付''' ：米国のスポーツ専門誌『スポーツ・イラストレーテッド』が発表した「スポーツ選手長者番付」によると、2006年度の年収は2250万ドル、2007年度の年収は2400万ドルである。&lt;br /&gt;
* '''体脂肪率''' ：徹底した自己管理で、34歳になった現在でも20歳代の頃と変わらぬ[[体脂肪率]]6〜7%を維持している。&lt;br /&gt;
* '''通訳の件''' ：インタビューなどで全く英語を話さず通訳を通しているため、日本のみならずアメリカのファンから「英語を習得できていないのか」とよく批判されている。しかし、英語でファンやチームメイトとコミュニケーションをとる姿が多く映されており、アメリカ代表として来日した2002年の[[日米野球]]戦の記者会見でも、[[ニューヨーク・ヤンキース]]の[[ジェイソン・ジアンビ]]に「アメリカ代表なんだから英語で答えろよ」とからかわれ、「shut up!（うるさいよ!）」と笑って即答している。通訳を通すのは、ファンや記者によりわかりやすく正確な英語で伝えるためであるとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* '''幽霊の正体''' ：イチローが高校生であったころ、母校・[[愛知工業大学名電高等学校|愛工大名電]]に近在の神社では夜ごと幽霊が出るとの噂が立っていたらしいが、その正体は、素振りをするイチローであったという話が残されている。&lt;br /&gt;
* '''マイペース''' ：『[[ジャンクSPORTS]]』で[[パンチ佐藤]]が語ったところによれば、夜中にどこからか物音がするため目を覚ましたところ、寮内にあるトレーニングルームでイチローが黙々と[[ウェイトトレーニング]]をしていたという。また佐藤は新人時代のイチローをたびたび外食に同行させていたが、イチローは焼肉を食べた後に[[アイスクリーム]]を時間をかけて味わう習慣があった。そのあまりのマイペースさに呆れた佐藤は「お前待ちなんだ！」と公衆の面前にも関わらず怒鳴りつけてしまったと語っている。&lt;br /&gt;
* '''ルーキー時代の計画''' ：1992年当時、オリックスの2軍打撃コーチであった[[河村健一郎]]は、イチローら新人選手たちにレポートを提出させた。イチローは「12年間で2000本安打を達成する」と書いていたという。そのレポートから12年後の2004年、イチローは日米通算2000本安打を達成している。&lt;br /&gt;
* '''投手に憧れ''' ：高校時代に交通事故（自転車での通学中に車と接触している）による怪我が原因で投手から野手に転向した。この事からか投手というポジションへの強い憧れを公言しており、『[[週刊ベースボール]]』誌で組まれた[[松井秀喜]]との対談の席で松井から「今でもピッチャーに未練はあるんですか」と尋ねられた際には「それはもう、むちゃくちゃある」と答えている。&lt;br /&gt;
* '''松井秀喜との接点''' ：上記の対談で明らかになった事であるが、高校時代から松井秀喜とは接点があり、両者ともに1軍メンバーとして対戦している（イチローが一学年上にあたる）。愛工大名電高校と[[星稜高校]]両校の野球部には長年交流があり、年に数回合宿も兼ねた練習試合を行っていたためであった。イチローは当時1年生にして4番を任されていた松井に「すごく飛ばすらしいじゃない。もう（ホームランを）何本打ってるの?」と尋ねたところ、松井に「10本くらいですかね」とさらりと返答され、「すごい奴もいるもんだな」と内心驚いたという。一方、松井は上記のエピソードを憶えていなかったようであるが、星稜高校の部長（一般のクラブでいう顧問の先生）が「あいつ（イチロー）すごいな。絶対プロになるよ」と驚嘆していた事は鮮明に憶えていると語っている。&lt;br /&gt;
* '''[[清原和博]]との交友''' ：清原が晩年の仰木彬に師事したという共通点から知り合う。イチローいわく「一時期好ましくない印象もあったけど、会って食事をしたらとても好感の持てる人だった」とのこと。合同練習で和やかに練習したり、清原が軟骨移植手術のリハビリ中に'''清原の名前が入った背番号3'''のマリナーズのユニフォームを送るなど、親交は深い。全日程が終わった直後にも関らず引退試合にも駆けつけ、清原もセレモニーで謝意を述べた。&lt;br /&gt;
* '''[[マナカナ]]（三倉茉奈、三倉佳奈）との交友''' ：マナカナとは、マナカナが11歳当時のハウス食品のCMで共演して以来の付き合いであり、毎年数回食事を共にしたり国際電話をする仲である。マナカナは「ハワイでの撮影で仲良くしてもらい『日本へ帰ったらご飯食べに行こうよ』と言われていたが、社交辞令ではなく本当に連絡があって驚き喜んだ」との旨を語っている。&lt;br /&gt;
* '''林檎のイチロー''' ：[[シンガーソングライター]]の[[椎名林檎]]は、自らが作詞した『スーパースター』という楽曲について、イチローをイメージして制作したと発言している&amp;lt;ref&amp;gt;『[[ICHIRO MONDOW]]』や『[[僕らの音楽-OUR MUSIC-]]』の番組内にて。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* '''少年そのもの''' ：元チームメイトの[[エドガー・マルティネス]]は、イチローのことを「少年そのもの」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 記録など ===&lt;br /&gt;
* 1994年[[6月12日]]の対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦で、10回裏二死満塁の場面からサヨナラ[[振り逃げ]]を達成した。日本プロ野球史上唯一の記録である（2008年シーズン終了時点）。&lt;br /&gt;
* 日本時代のオールスターでは、初出場の1994年第1戦から2000年第3戦まで連続フルイニング出場しており、1996年の第2戦以外、すべての試合で安打を記録している。1995年は前半戦を十冠王（安打、本塁打、打点、盗塁、塁打、得点、死球、得点圏打率、出塁率、長打率）で折り返した。このことを同年のオールスター第1戦で実況が話題に出し、聞いた解説の[[江川卓 (野球)|江川卓]]は笑っていた。&lt;br /&gt;
* 日本での通算打率は.353であるが、4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには381打数足りない。日本に復帰した場合、381打数で3安打すれば通算打率は.3203（4000打数1281安打）となり、通算打率1位の[[レロン・リー]]（.3200）を上回る。&lt;br /&gt;
* 得点圏に強く、日本時代の通算得点圏打率が.365、通算満塁打率は.363を誇っている。日本では通算118本の本塁打を記録している。満塁本塁打は8本あり、14.7本に1本の割合は通算満塁本塁打が7本以上の選手の中では歴代1位。[[駒田徳広]]と並ぶ6年連続満塁本塁打のプロ野球記録も持っている。メジャーでは通算得点圏打率.351、通算2死得点圏打率.366、通算満塁打率.473、通算満塁長打率.703と、それぞれ現役1位の記録を残している。また、左打者ながら左投手を得意にしており、日本時代の対左投手通算打率が.371、メジャーでの対左投手通算打率は.354を記録している（いずれも2007年シーズン終了時点）。&lt;br /&gt;
* 早打ちの傾向が顕著であり、カウント別最多安打は日米ともに初球で、0-1のカウントでの安打が2番目に多い&amp;lt;ref name=&amp;quot;brcle&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* スロースターターであり、メジャーでの4月通算打率は.294で、4月から9月までの月間別通算打率の中では自己最低を記録している。メジャーのシーズン歴代最多安打記録を樹立した2004年も、4月の打率は.255であった。5月になると途端に打撃の調子が上がる傾向にあり、メジャーでの5月通算打率は.364で、4月から9月までの月間別通算打率の中では自己最高を記録している（2008年シーズン終了時点）。&lt;br /&gt;
* 20試合以上連続安打を、メジャーで通算7回記録している（現役1位。メジャー記録は8回。日本時代にも4回マークしている（日本記録）ため、日米通算では11回記録している。&lt;br /&gt;
* 日本時代とメジャーでそれぞれ5回記録している最多安打は、すべて両リーグ最多安打である。メジャー移籍後は、安打数でリーグ3位以下になったことが1度もない（最多安打を逃した年の安打数はいずれもリーグ2位）。&lt;br /&gt;
* メジャー移籍後は長期欠場が1度もなく、21世紀以降では、メジャーの現役選手中もっとも多く試合に出場している選手である（2008年シーズン終了時点。&lt;br /&gt;
* 日米通算のため参考記録ながら、2004年5月21日（現地時間）に30歳6か月で2000本安打を達成している。[[榎本喜八]]の31歳7か月を抜いて日本人最年少記録であり、1465試合での到達は[[川上哲治]]の1646試合を抜いて日本人最速記録である。2008年7月29日（現地時間）に日米通算3000本安打を達成したが、2175試合、34歳9か月での達成はいずれも[[張本勲]]の2618試合、39歳11か月を大幅に上回る早さである。&lt;br /&gt;
== 特筆 ==&lt;br /&gt;
=== 家族 ===&lt;br /&gt;
妻は元・[[東京放送|TBS]][[アナウンサー]]の[[福島弓子]]。[[柴犬]]を飼っており、非常に可愛がっている。名を「一弓（いっきゅう）」と言い、命名は、自身と妻の名「一朗」「弓子」から一文字ずつを採って「[[wikt:ja:一|一]]（いつ）」+「[[wikt:ja:弓|弓]]（きゅう）」としたもの。子供はいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4歳年上の兄・[[鈴木一泰]]は[[グラフィックデザイナー]]。イチローが現在使用する野球用品には彼がデザインした専用ロゴが刻まれている。主な作品は[[日本BS放送]]のマスコット「BEAMO」、[[ボビー・オロゴン]]の「もす!」Tシャツのロゴなど。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 用具について ===&lt;br /&gt;
バットは[[ミズノ]]の[[篠塚和典]]モデルがベースであるという。ヘッドを軽量化させており、直径60.5ミリという極細。芯の部分も細く、使うには相当な技術が要求される。バット製作にあたってミズノの工場内にある歴代選手シグネーチャーモデル展示室に並ぶバットの中で、本人いわく「遠くから見ても、それだけがもうチカチカ輝いていた」と言い、手に取ると何から何まで自分にピッタリであったとのことである。自分の調子に合わせてバットを変えるということはせず、バットを変えることなく自分を調整していくため、オリックス入団時から一貫して同じ形のバットを使い続けている。イチローを含め様々なプロ野球選手たちのバットを作ってきた、バット職人である[[久保田五十一]]は、「私の記憶の中では、これほど（バットを）変えない方はいらっしゃらないですね」とイチローについて語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[スパイクシューズ]]は山陰アシックス工業が製作している。年々改良が続けられている専用シューズは軽量化に重点が置かれており、2009年モデルは片足約250gという超軽量化を実現している。反面、スパイク部分に使用されている特殊素材は軽量化の代わりに耐久性を犠牲にしており、3試合程度の使用で新品と交換している。同社がイチローのために製造しているシューズは試合用と練習用を合わせて年間150足を超える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バットやグローブを「道具ではない。自分の一部。自分の体の一部」だと語るほど、使う野球用品を非常に大切に扱っている。そのため、打った直後も必ずバットを静かに置く。オリックス時代に1度だけバットを放り投げたことがあり、そのときのことについて、「後ですごく後悔して、それから特に道具に対する気持ちが強くなってますね」とインタビューで答えている。他の選手の野球用具は絶対に触らない。チームメイトの[[城島健司]]いわく、「質感や重さが、手に残ることが嫌」ということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドラマ出演 ===&lt;br /&gt;
『[[古畑任三郎#.E3.83.95.E3.82.A1.E3.82.A4.E3.83.8A.E3.83.AB|古畑任三郎 ファイナル]]』第2話（[[2006年]]）に、主人公・古畑と対決する犯人役「シアトル・マリナーズのイチロー」として出演した。それまでの古畑作品で、犯人役を本人が演じたのは[[SMAP]]のみであった。イチロー本人も『古畑任三郎』シリーズの大ファンと公言しており、プロデューサーと思惑が一致したため、出演に至ったとされている。出演ギャラはお金の代わりになんと『古畑任三郎』DVD-BOXセットのみであった。全シリーズ合わせても10万円相当であるため、破格のギャラであるといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シリーズの脚本家である[[三谷幸喜]]はエッセイや[[2008年]]の再放送時のコメント映像中で、出演が決定し、イチロー本人と対面した際に、殺人犯役でそのまま「イチロー」の名前を使うのはためらわれるので「ハチロー」のような役名や別の職業にしてはどうかと提案したが、イチローが「これは本人役じゃないと面白くない。自分を演じたい。」と熱望したため、そのまま「シアトル・マリナーズのイチロー」にした、と語っている。あくまでフィクションである事を示すため、レギュラーキャラクターの一人の「義弟」であるとの設定にされている。キャラクターについても「嘘はつかない」「フェアプレーを好む」「残虐な殺し方はしない」などイチロー本人の要望やイメージが反映されており、私利私欲でなく恐喝に苦しむ義兄を救うために殺人を犯す一方で、アリバイ工作や偽証を拒んで古畑に不敵に頭脳戦を挑むという役どころとなっている。撮影に当たっては台詞を完璧に憶えてNGはほとんど無かったと言われており、主演の[[田村正和]]は「役者の鑑」と評した。視聴率は27%で、12年続いたシリーズの中では7番目に高いものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イチローがチームのオフィシャル雑誌『Mariners』に語ったところによると、2004年に最多安打の記録を達成したオフシーズンに初めて野球以外で何かしてもいい気になったという。2005年の春季キャンプを迎える直前の2月に神戸のホテルで初めて脚本に目を通し、本人の話では冗談混じりにみすぼらしい演技で関係者に引き取ってもらい、面白い話が来た程度で終わらせようと考えたそうであるが、いざゴーサインが出た時は番組のレベルを考えてかなり緊張したと語っている。シーズン終了後の10月に東京ドームの駐車場で撮影が開始。今までやったことのない世界で、その世界の一流の出演者と共演し、本当に自分が番組のレベルにあった演技ができるのかどうか考えてとにかく怖かったと語っている。後日インタビューで、守備に就いている時に台詞の練習をしていたことや（グラブで口を隠して練習していた）、2005年シーズンの成績が他の年に比べて下がったことを引き合いに出して、「台詞の練習をしていたせい」だと冗談混じりに語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イチローは以前にも映画『走れ!イチロー』（2001年・監督[[大森一樹]]）で本人役として出演を果たしているが、台詞は無かったため、台詞をしゃべるのは本作が初めてであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 趣味・好物 ===&lt;br /&gt;
少年期から[[ドラゴンクエストシリーズ|ドラゴンクエスト]]のファンである。[[プロ野球選手]]になってからも暇なときや怪我をしてるときになどによくプレーしている。また、イチローの所縁の品が展示されている[[アイ・ファイン]]には、イチローが少年期にプレーした[[ドラゴンクエストシリーズ]]の[[ゲームソフト|ソフト]]が展示されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
車好きであり、日本ではCMに出演していた[[日産自動車]]の[[インフィニティ・Q|インフィニティQ45]]や[[日産・シーマ|シーマ]]、1000万円以上かけてチューンした[[日産・マーチ|マーチ]]などに乗っていた。アメリカでは同じく日産の[[インフィニティ・G|インフィニティ・G35クーペ]]や[[ポルシェ・カレラGT]]、オールスターMVPの副賞として贈呈された[[シボレー・タホ]]・[[ハイブリッドカー|ハイブリッド]]などを所有している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[偏食]]家であり、独身時代は[[牛タン]]を主食とし、神戸市三ノ宮の牛タン専門店「[[牛や たん平]]」の常連となっていた。メジャーリーグに行ってからの7年間、シアトルにいる際の昼食はほとんど弓子夫人手作りの[[カレー]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年度別打撃成績 ==&lt;br /&gt;
{| {{年度別打撃成績}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1992}}&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center; white-space:nowrap;&amp;quot; rowspan=&amp;quot;9&amp;quot; |[[オリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]&lt;br /&gt;
|40||99||95||9||24||5||0||0||29||5||3||2||1||0||3||0||0||11||0||.253||.284||.305||.589&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1993}}&lt;br /&gt;
|43||67||64||4||12||2||0||1||17||3||0||2||1||0||2||0||0||7||2||.188||.212||.266||.478&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1994}}&lt;br /&gt;
|'''130'''||'''616'''||'''546'''||'''111'''||&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;'''210'''&amp;lt;/span&amp;gt;||'''41'''|| 5||13||'''300'''||54||29||7||7||2||51||8||10||53||3||'''.385'''||'''.445'''||.549||.994&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1995}}&lt;br /&gt;
|'''130'''||'''613'''||524||'''104'''||'''179'''||23||4||25||'''285'''||'''80'''||'''49'''||9||0||3||68||'''17'''||'''18'''||52||7||'''.342'''||'''.432'''||.544||'''.976'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1996}}&lt;br /&gt;
|'''130'''||'''611'''||'''542'''||'''104'''||'''193'''||24||4||16||'''273'''||84||35||3||0||4||56||'''13'''||9||57||8||'''.356'''||'''.422'''||.504||.926&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1997}}&lt;br /&gt;
|'''135'''||607||536||'''94'''||'''185'''||31||4||17||275||91||39||4||0||5||62||'''14'''||4||36||10||'''.345'''||.414||.519||.933&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1998}}&lt;br /&gt;
|'''135'''||558||506||79||'''181'''||36||3||13||262||71||11||4||0||2||43||'''15'''||7||35||21||'''.358'''||.414||.518||.932&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|1999}}&lt;br /&gt;
|103||468||411||80||141||27||2||21||235||68||12||1||0||5||45||'''15'''||7||46||5||'''.343'''||'''.412'''||.572||.984&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2000}}&lt;br /&gt;
|105||459||395||73||153||22||1||12||213||73||21||1||0||6||54||'''16'''||4||36||3||'''.387'''||'''.460'''||.539||.999&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2001}}&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; rowspan=&amp;quot;9&amp;quot; |[[シアトル・マリナーズ|SEA]]&lt;br /&gt;
|157||'''738'''||'''692'''||127||'''242'''||34||8||8||316||69||'''56'''||14||4||4||30||10||8||53||3||'''.350'''||.381||.457||.838&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2002}}&lt;br /&gt;
|157||728||647||111||208||27||8||8||275||51||31||'''15'''||3||5||68||'''27'''||5||62||8||.321||.388||.425||.813&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2003}}&lt;br /&gt;
|159||725||679||111||212||29||8||13||296||62||34||8||3||1||36||7||6||69||3||.312||.352||.436||.788&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2004}}&lt;br /&gt;
|161||'''762'''||'''704'''||101||&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;'''262'''&amp;lt;/span&amp;gt;||24||5||8||320||60||36||11||2||3||49||'''19'''||4||63||6||'''.372'''||.414||.455||.869&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2005}}&lt;br /&gt;
|'''162'''||739||'''679'''||111||206||21||12||15||296||68||33||8||2||6||48||23||4||66||5||.303||.350||.436||.786&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2006}}&lt;br /&gt;
|161||'''752'''||'''695'''||110||'''224'''||20||9||9||289||49||45||2||1||2||49||16||5||71||2||.322||.370||.416||.786&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2007}}&lt;br /&gt;
|161||736||'''678'''||111||'''238'''||22||7||6||292||68||37||8||4||2||49||13||3||77||7||.351||.396||.431||.827&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2008}}&lt;br /&gt;
|'''162'''||'''749'''||'''686'''||103||'''213'''||20||7||6||265||42||43||4||3||4||51||12||5||65||8||.310||.361||.386||.747&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|{{by2|2009}}&lt;br /&gt;
|146||678||639||88||'''225'''||31||4||11||297||46||26||9||2||1||32||'''15'''||4||71||1||.352||.386||.465||.851&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[日本プロ野球|NPB]]：9年&lt;br /&gt;
|951||4098||3619||658||1278||211|| 23||118||1889||529||199||33||9||27||384||98||59||333||59||.353||.421||.522||.943&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[メジャーリーグベースボール|MLB]]：9年&lt;br /&gt;
|1426||6607||6099||973||2030||228||68||84||2646||515||341||79||24||28||412||142||44||597||43||.333||.378||.434||.812&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|通算：18年&lt;br /&gt;
|2377||10705||9718||1631||3308||439||91||202||4535||1044||520||112||33||55||796||240||103||930||102||.340||.394||.467||.861&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 2009年度シーズン終了時&lt;br /&gt;
* '''太字'''はその年のリーグ最高&lt;br /&gt;
* &amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;'''赤太字'''&amp;lt;/span&amp;gt;はNPBまたはMLBにおける歴代最高&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年度別守備成績 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:85%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|年度!!colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|[[中堅手|CF]]!!colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|[[右翼手|RF]]!!colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|[[外野手|OF]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!試合!![[刺殺]]!![[補殺]]!![[失策]]!![[併殺]]!![[守備率]]!!試合!!刺殺!!補殺!!失策!!併殺!!守備率!!試合!!刺殺!!補殺!!失策!!併殺!!守備率&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001||colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|-||152||'''335'''||8||1||2||'''.997'''||152||335||8||1||2||.997&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002||3||8||0||0||0||1.000||'''150'''||'''325'''||8||3||0||'''.991'''||153||333||8||3||0||.991&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2003||colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|-||'''159'''||'''337'''||'''12'''||2||'''4'''||'''.994'''||159||337||12||2||'''4'''||.994&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2004||colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|-||'''158'''||'''372'''||12||3||2||.992||158||372||12||3||2||.992&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005||colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|-||'''158'''||'''381'''||'''10'''||2||2||.995||'''158'''||381||10||2||2||.995&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2006||39||114||1||1||0||.991||121||250||8||2||'''3'''||.992||160||364||9||3||3||.992&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2007||155||'''424'''||8||1||3||'''.998'''||colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|-||155||424||8||1||3||'''.998'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2008||69||195||4||1||1||.995||91||175||7||4||1||.978||'''160'''||370||11||5||2||.987&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!通算!!266!!741!!13!!3!!4!!.996!!989!!2175!!65!!17!!14!!.992!!1255!!2916!!78!!20!!18!!.993&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 各年度の'''太字'''はその年のリーグ最高。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タイトル・表彰・記録 ==&lt;br /&gt;
=== タイトル・表彰 ===&lt;br /&gt;
'''NPB'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* シーズンタイトル&lt;br /&gt;
** [[最優秀選手 (野球)#日本プロ野球|MVP]]：3回（1994年 - 1996年）&lt;br /&gt;
** [[正力松太郎賞]]：3回（1994年 - 1995年、2004年）※2004年は特別賞&lt;br /&gt;
** [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]：7回（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]：1回（1995年）&lt;br /&gt;
** [[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]：1回（1995年）※打点王と盗塁王の同時獲得はNPB史上初&lt;br /&gt;
** [[最多安打]]：5回（1994年 - 1998年）&lt;br /&gt;
** [[最高出塁率]]：5回（1994年 - 1996年、1999年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]：7回（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** [[ゴールデングラブ賞]]：7回（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優秀選手賞：1回（1996年）&lt;br /&gt;
** [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]：3回（1995年 - 1997年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 月間タイトル&lt;br /&gt;
** [[パ・リーグ]]月間MVP：10回（1994年6月・8月、1995年6月、1996年8月、1997年6月、1998年6月・7月、1999年5月・7月、2000年7月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''MLB'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* シーズンタイトル&lt;br /&gt;
** [[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|新人王]]（2001年）&lt;br /&gt;
** [[最優秀選手 (野球)#アメリカメジャーリーグベースボール|MVP]]：1回（2001年）&lt;br /&gt;
** [[首位打者 (MLB)|首位打者]]：2回（2001年、2004年）&lt;br /&gt;
** [[最多盗塁 (MLB)|盗塁王]]：1回（2001年）&lt;br /&gt;
** [[シルバースラッガー賞]]：3回（2001年、2007年、2009年）&lt;br /&gt;
** [[ゴールドグラブ賞]]：9回（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 月間・週間タイトル/その他&lt;br /&gt;
** [[アメリカンリーグ]]月間新人MVP：4回（2001年4月・5月・8月・9月）&lt;br /&gt;
** [[アメリカンリーグ]]月間MVP：1回（2004年8月）&lt;br /&gt;
** [[アメリカンリーグ]]週間MVP：2回（2004年8月2日 - 8月8日、2005年5月29日 - 6月4日）&lt;br /&gt;
** [[MLBオールスターゲーム|オールスター]]MVP：1回（2007年）&lt;br /&gt;
** [[コミッショナー特別表彰]]（2004年）&lt;br /&gt;
** [[ハート&amp;amp;ハッスル賞]]（2008年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''その他'''&lt;br /&gt;
* [[菊池寛賞]]（2001年）&lt;br /&gt;
* [[報知プロスポーツ大賞]]&lt;br /&gt;
** 野球部門（パ・リーグ）：4回（1994年 - 1996年、1998年）&lt;br /&gt;
** 特別賞：1回（2004年）&lt;br /&gt;
* [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]&lt;br /&gt;
** [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック#優秀選手・MVP|2006年WBCベストナイン]]（外野手）&lt;br /&gt;
** [[紫綬褒章]]（[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|2006年WBC日本代表]]としてチームで受賞）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 特筆記録 ===&lt;br /&gt;
'''NPB'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* NPB記録&lt;br /&gt;
** シーズン最多安打：210（1994年）&lt;br /&gt;
** シーズン[[猛打賞]]：26回（1996年）&lt;br /&gt;
** シーズン打率.380以上：2回（1994年、2000年）&lt;br /&gt;
** シーズン打率.370以上：2回（1994年、2000年）※.360以上ではタイ記録&lt;br /&gt;
** シーズン打率.350以上：4回（1994年、1996年、1998年、2000年）&lt;br /&gt;
** シーズン打率.340以上：7回（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** シーズン連続試合[[出塁]]：69（1994年5月21日 - 8月26日）&lt;br /&gt;
** シーズン連続打席無三振：216（1997年4月16日 - 6月24日）&lt;br /&gt;
** 20試合以上連続安打：4回（1994年2回、1999年、2000年）&lt;br /&gt;
** 1試合4二塁打（1994年9月11日）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 6年連続満塁本塁打（1995年 - 2000年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 通算1000本安打史上最速達成：757試合目（1999年4月20日）&lt;br /&gt;
** 通算盗塁成功率：.858（199盗塁33盗塁死）※100盗塁以上対象&lt;br /&gt;
** 首位打者：7回（1994年 - 2000年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 月間MVP：10回&lt;br /&gt;
** 全イニング出場首位打者（1995年）※1969年の[[王貞治]]に次ぐ史上2人目&lt;br /&gt;
** 5年連続全試合出場首位打者（1994年 - 1998年）&lt;br /&gt;
** 7年連続打率.340以上首位打者（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** 7年連続首位打者（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** 3年連続[[最優秀選手 (野球)#日本プロ野球|シーズンMVP]]（1994年 - 1996年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 3年連続[[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]（1995年 - 1997年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 2年連続[[正力松太郎賞]]（1994年 - 1995年）&lt;br /&gt;
** [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]通算打率：.394（71打数28安打）※50打数以上対象&lt;br /&gt;
** オールスター連続試合安打：11（1996年第3戦 - 2000年第3戦）&lt;br /&gt;
** オールスター連続試合フルイニング出場：17（1994年第1戦 - 2000年第3戦）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* NPB[[パ・リーグ]]記録&lt;br /&gt;
** シーズン最高打率：.387（2000年）&lt;br /&gt;
** シーズン最多単打：151（1994年）&lt;br /&gt;
** シーズン初回表先頭打者本塁打：5（1995年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** シーズン1試合4安打：8回（1996年）&lt;br /&gt;
** 最多安打：5回（1994年 - 1998年）&lt;br /&gt;
** 最多単打：3回（1994年 - 1996年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 7年連続出塁率4割以上（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** 6年連続最多敬遠（1995年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** 5年連続最多安打（1994年 - 1998年）&lt;br /&gt;
** 3年連続最多単打（1994年 - 1996年）&lt;br /&gt;
** 3年連続100得点以上（1994年 - 1996年）※タイ記録&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* その他&lt;br /&gt;
** [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]出場：7回（1994年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** 6年連続オールスター最多得票（1995年 - 2000年）&lt;br /&gt;
** 4年連続最多得点（1994年 - 1997年）&lt;br /&gt;
** 3年連続最多塁打（1994年 - 1996年）&lt;br /&gt;
** 3年連続得点圏打率リーグ1位（1996年 - 1998年）&lt;br /&gt;
** 連続試合出場：763（1994年4月9日 - 1999年8月24日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''MLB'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* MLB記録&lt;br /&gt;
** シーズン最多安打：262（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン最多単打：225（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン200安打・100得点・30盗塁：8回（2001年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** シーズン200安打・100得点：8回（2001年 - 2008年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** シーズン200安打・30盗塁：8回（2001年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** シーズン230安打以上：3回（2001年、2004年、2007年）&lt;br /&gt;
** シーズン5安打試合：4回（2004年）※20世紀以降タイ記録&lt;br /&gt;
** シーズン月間50安打：3回（2004年5月・7月・8月）&lt;br /&gt;
** シーズン安打試合数最多：135（2001年）※タイ記録&lt;br /&gt;
** ロードゲームシーズン最多安打：145（2004年）&lt;br /&gt;
** 最多単打：9回（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 2か月連続月間50安打（2004年7月 - 8月）&lt;br /&gt;
** デビュー以来9年連続200安打（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 9年連続200安打（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 8年連続200安打・100得点・30盗塁（2001年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** 8年連続200安打・100得点（2001年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** 8年連続200安打・30盗塁（2001年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** 8年連続100得点・30盗塁（2001年 - 2008年）※20世紀以降対象&lt;br /&gt;
** 4年連続最多安打（2006年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 4年連続両リーグ最多安打（2006年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 9年連続最多単打（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 6年連続両リーグ最多単打（2004年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 5年連続最多打数（2004年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** 連続5シーズン安打1100本以上：5回（2001年 - 2005年、2002年 - 2006年、2003年 - 2007年、2004年 - 2008年、2005年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 連続9シーズン最多安打：2030（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 連続8シーズン最多安打：1805（2001年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** 連続7シーズン最多安打：1592（2001年 - 2007年）&lt;br /&gt;
** 連続6シーズン最多安打：1368（2004年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 連続5シーズン最多安打：1143（2004年 - 2008年）&lt;br /&gt;
** 連続4シーズン最多安打：930（2004年 - 2007年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* MLB[[アメリカンリーグ]]記録&lt;br /&gt;
** 外野手通算守備率：.994（2001年 - 2007年）&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web |title=Outfielder Fielding Average Records |url=http://www.baseball-almanac.com/rb_offa.shtml |publisher=Baseball Almanac |language=英語 |accessdate=1月13日 |accessyear=2008年}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
** シーズン打席：762（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン連続盗塁成功：39（2006年）&lt;br /&gt;
** 連続盗塁成功：45（2006年4月29日 - 2007年5月16日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* MLB[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|新人]]記録&lt;br /&gt;
** 新人最多安打および1年目選手最多安打：242（2001年）&lt;br /&gt;
** アメリカンリーグ新人最多単打およびアメリカンリーグ1年目選手最多単打：192（2001年）&lt;br /&gt;
** アメリカンリーグ新人最多打数および1年目選手最多打数：692（2001年）&lt;br /&gt;
** アメリカンリーグ1年目選手最高打率：.350（2001年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 球団記録（[[シアトル・マリナーズ]]）&lt;br /&gt;
** 通算打率：.333（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 通算三塁打：68（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 通算盗塁：341（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** 通算初回先頭打者本塁打：30（2001年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** シーズン打率：.372（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン打数：704（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン打席：762（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン安打：262（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン単打：225（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン三塁打：12（2005年）&lt;br /&gt;
** シーズン出塁：315（2004年）&lt;br /&gt;
** シーズン敬遠四球：27（2002年）&lt;br /&gt;
** シーズン複数安打試合数：80（2004年）&lt;br /&gt;
** 1番打者シーズン打点：68（2005年、2007年）&lt;br /&gt;
** 外野手シーズン守備率：.998（2007年）&lt;br /&gt;
** 外野手1試合[[刺殺]]：11（2007年6月27日）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 月間6月打率：.427（2007年6月）&lt;br /&gt;
** 月間最多安打：56（2004年8月）&lt;br /&gt;
** 連続試合安打：27（2009年5月6日 - 6月3日）&lt;br /&gt;
** 連続2試合安打数：9（2004年9月21日 - 9月22日）※タイ記録&lt;br /&gt;
** 新人最多得点：127（2001年）&lt;br /&gt;
** 新人最多三塁打：8（2001年）&lt;br /&gt;
** 新人最多塁打：316（2001年）&lt;br /&gt;
** 新人最多盗塁：56（2001年）&lt;br /&gt;
** 新人連続試合安打：23（2001年4月22日 - 5月18日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* その他&lt;br /&gt;
** [[安打#最多安打|最多安打]]：6回（2001年、2004年、2006年 - 2009年）&lt;br /&gt;
** [[MLBオールスターゲーム|オールスター]]出場：9回（2001年 - 2009年）※2005年以外は先発出場、通算8度の1番での先発出場はオールスタータイ記録&lt;br /&gt;
** 新人から3年連続オールスター最多得票（2001年 - 2003年）※史上初&lt;br /&gt;
** オールスターでランニング本塁打（2007年）※史上初&lt;br /&gt;
** 通算打率現役2位：.333（2009年シーズン終了時）※アメリカンリーグの現役選手中では1位** 通算盗塁成功率：.812（341盗塁79盗塁死）※300盗塁以上の現役選手中1位&lt;br /&gt;
** 連続守備機会無失策：443（2006年9月8日 - 2007年9月12日）&lt;br /&gt;
** [[アメリカンリーグ]]地区シリーズ5試合最多安打：12（2001年）※タイ記録&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演 ==&lt;br /&gt;
=== CM ===&lt;br /&gt;
* [[ハウス食品]]&lt;br /&gt;
: 『とんがりコーン』&lt;br /&gt;
: 『[[バーモントカレー]]』&lt;br /&gt;
: 『ククレカレー』&lt;br /&gt;
* [[アサヒ飲料]] 『[[三ツ矢サイダー]]』（1996年 - 1999年）&lt;br /&gt;
* [[佐藤製薬]] 『ユンケル』&lt;br /&gt;
* [[日産自動車]]（1996年 - 2007年）&lt;br /&gt;
: 『[[日産・ステージア|ステージア]]』&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「幕開け」篇（イチロー篇）（2006年11月21日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「雨」篇（イチロー篇）（2007年1月1日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 『[[日産・スカイライン|スカイライン]]』&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「001 Skyline talk」篇 - 「003 Skyline talk」篇（2007年4月12日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「004 Skyline talk」篇「SKYLINE「50周年」篇（2007年4月24日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「005 Skyline talk」篇 - 「010 Skyline talk」篇（2007年5月5日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「一本の道」篇（2008年12月3日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 『[[日産・スカイライン|スカイラインクーペ]]』&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「PURE RED イチロー」篇（2007年10月3日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[日興コーディアル証券]]（2001年 - ）&lt;br /&gt;
* [[サントリー]] 『[[ペプシコーラ]]』（2002年）&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「FEVER篇/BOOM篇」（2002年2月15日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「イチローシズル篇」（2002年3月21日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;「イチローDIET篇」（2002年4月1日 - ）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[任天堂]] 『[[ゲームキューブ]]』&lt;br /&gt;
* [[西日本電信電話|NTT西日本]]&lt;br /&gt;
* [[新日本石油]] 『エネオス』&lt;br /&gt;
* [[日本電信電話|NTTグループ]]&lt;br /&gt;
* [[アサヒビール]]&amp;lt;small&amp;gt;（WBC期間限定）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[住友林業]]&lt;br /&gt;
* [[ミズノ]]&lt;br /&gt;
* [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック]] - 2006年2月5日に放送された[[スーパーボウル]]中継の中でWBCのCMが放映された。[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表|アメリカ代表]]の[[ロジャー・クレメンス]]、[[デレク・ジーター]]、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・ドミニカ共和国代表|ドミニカ代表]]の[[アルバート・プホルス]]、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・イタリア代表|イタリア代表]]の[[マイク・ピアッツァ]]らと共に、日本代表からイチローが出演。&lt;br /&gt;
* [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック]] - 前回に引き続き出演。[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表|アメリカ代表]]の[[デレク・ジーター]]、[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック・ドミニカ共和国代表|ドミニカ代表]]の[[アレックス・ロドリゲス]]、[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック・メキシコ代表|メキシコ代表]]の[[ホルヘ・カントゥ]]と共に、日本代表として出演。&lt;br /&gt;
* [[キリンビール]] 『[[キリン一番搾り]]』（2009年-）共演：[[松嶋菜々子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビ番組 ===&lt;br /&gt;
* [[古畑任三郎#ファイナル|古畑任三郎・ファイナル]] 第41回「フェアな殺人者」（フジテレビ。2006年1月4日放送。本人役で出演）&lt;br /&gt;
* [[ICHIRO-MONDOW 〜Two Chairs〜]]（読売テレビ。2006年4月1日 - 2007年3月末）&lt;br /&gt;
* [[ICHIRO-VERSUS]]（読売テレビ。2007年4月7日 - 2008年3月末。上述番組の続編）&lt;br /&gt;
* [[僕らの音楽 -OUR MUSIC-]]（[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系。2007年2月23日放送回。[[椎名林檎]]との対談）&lt;br /&gt;
* イチ流（年末年始恒例番組）&lt;br /&gt;
* 日本人メジャーリーガーの群像（年末年始恒例番組）&lt;br /&gt;
* [[プロフェッショナル 仕事の流儀]]&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/080102/index.html&amp;lt;/ref&amp;gt;（2008年1月2日、1月22日）&lt;br /&gt;
* [[日本における衛星放送#BSデジタル|BSデジタル]]の対談番組（ビートたけし、糸井重里、矢沢永吉との対談は書籍化されている）&lt;br /&gt;
** 2003年：[[ビートたけし]]（北野武）&lt;br /&gt;
** 2004年：[[糸井重里]]&lt;br /&gt;
** 2005年：[[久米宏]]&lt;br /&gt;
** 2006年：[[矢沢永吉]]&lt;br /&gt;
** 2007年：[[黒木瞳]]&lt;br /&gt;
=== ファッション雑誌 ===&lt;br /&gt;
* ロフィシェル・ジャポン 2006年4月28日号&lt;br /&gt;
* GQ（アメリカ版）2007年 &amp;lt;ref&amp;gt;http://usbizdirect.blog64.fc2.com/blog-entry-282.html&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== イチローを論じた出版物 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイ・フィールド・オブ・ドリームス&lt;br /&gt;
―イチローとアメリカの物語― (単行本) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
W.P. キンセラ (著), 井口 優子 (翻訳) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フィールド・オブ・ドリームスを書いたW.P.キンセラによる著作&lt;br /&gt;
* 『イチロー・オン・イチロー ―Interview Special Edition』小松成美著&lt;br /&gt;
* 『イチロー、聖地へ』石田雄太著&lt;br /&gt;
* 『ICHIRO メジャーを震撼させた男』Bob Sherwin著&lt;br /&gt;
* 『キャッチボール ICHIRO meets you』糸井重里著監修&lt;br /&gt;
* 『イチロー思考―孤高を貫き、成功をつかむ77の工夫』児玉光雄著&lt;br /&gt;
* 『イチローイズム―僕が考えたこと、感じたこと、信じること』石田雄太著&lt;br /&gt;
* 『イチロー 「勝利の方程式」 〜常に進化し続ける男の考え方〜』永谷脩著&lt;br /&gt;
* 『イチローの流儀』小西慶三著&lt;br /&gt;
* 『イチロー262のメッセージ』 - [[プロゴルファー]][[宮里藍]]の愛読書として話題になり&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |title=藍、イチロー効果で今季初V…“名言本”がサポート |url=http://web.archive.org/web/20051217030453/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_05/s2005051605.html |publisher=[[夕刊フジ]]（インターネット・アーカイブ）|date=2005年5月16日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、20万部突破の[[ベストセラー]]になった。&lt;br /&gt;
* 『イチロー革命』[[ロバート・ホワイティング]]著、ISBN 978-4152085993&lt;br /&gt;
* 『イチローとわが家 ほんとうの話』[[鈴木宣之]]著、イチローの父親による著作&lt;br /&gt;
* 『溺愛―我が子イチロー』鈴木宣之著、イチローの父親による著作&lt;br /&gt;
* 『父と息子―イチローと私の二十一年』鈴木宣之著、イチローの父親による著作&lt;br /&gt;
* 『イチローに教えたこと、教えられたこと』中村豪著、愛工大名電在籍時の監督による著作、イチローが愛工大名電に進学することになった経緯、イチローの高校時代、プロで芽が出なかった時のエピソードに詳しい&lt;br /&gt;
他多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[愛知県出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[オリックス・ブルーウェーブの選手一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本人メジャーリーグ選手一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本人メジャーリーガーが獲得したタイトル・表彰一覧]]&lt;br /&gt;
* [[トニー・アタナシオ]] ：イチローのメジャー契約に携わる[[代理人|スポーツエージェント]]。&lt;br /&gt;
* [[イチロー杯争奪学童軟式野球大会]]&lt;br /&gt;
* [[アイ・ファイン]] ：イチロー記念館。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://web.51channel.tv/ 51CHANNEL] - イチロー公式サイト&lt;br /&gt;
* [http://www.bluewave.nu/ichiro51/index.html ICHIRO 51] - イチローの年度別打撃成績詳細&lt;br /&gt;
{{MLBstats |mlb=400085 |espn=4570 |br=s/suzukic01 |fangraphs=1101 |cube=S/ichiro-suzuki}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{シアトル・マリナーズ}}&lt;br /&gt;
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録（[[日本プロ野球|NPB]]）&lt;br /&gt;
|list1=&lt;br /&gt;
&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{パシフィック・リーグMVP}}&lt;br /&gt;
{{パシフィック・リーグ首位打者}}&lt;br /&gt;
{{パシフィック・リーグ最高出塁率}}&lt;br /&gt;
{{パシフィック・リーグ最多安打}}&lt;br /&gt;
{{パシフィック・リーグ打点王}}&lt;br /&gt;
{{パシフィック・リーグ盗塁王}}&lt;br /&gt;
{{正力松太郎賞}}&lt;br /&gt;
{{日本プロスポーツ大賞}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録（[[メジャーリーグベースボール|MLB]]）&lt;br /&gt;
|list1=&lt;br /&gt;
&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{アメリカンリーグMVP}}&lt;br /&gt;
{{アメリカンリーグ新人王}}&lt;br /&gt;
{{アメリカンリーグ首位打者}}&lt;br /&gt;
{{アメリカンリーグ盗塁王}}&lt;br /&gt;
{{アメリカンリーグ ゴールドグラブ賞 (外野手)}}&lt;br /&gt;
{{アメリカンリーグ シルバースラッガー賞 (外野手)}}&lt;br /&gt;
{{MLBオールスターMVP}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表}}&lt;br /&gt;
{{2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表}}&lt;br /&gt;
{{オリックス・ブルーウェーブ1991年ドラフト指名選手}}&lt;br /&gt;
{{コミッショナー特別表彰}}&lt;br /&gt;
{{名球会}}&lt;br /&gt;
{{歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以後)}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いちろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の野球選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:MLBの日本人選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:オリックス・ブルーウェーブ及びその前身球団の選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:シアトル・マリナーズの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:首位打者 (NPB)]]&lt;br /&gt;
[[Category:打点王 (NPB)]]&lt;br /&gt;
[[Category:盗塁王 (NPB)]]&lt;br /&gt;
[[Category:最優秀選手 (MLB)]]&lt;br /&gt;
[[Category:ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカンリーグ首位打者]]&lt;br /&gt;
[[Category:MLBオールスターゲーム選出選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:MLBオールスターゲームMVP]]&lt;br /&gt;
[[Category:名球会]]&lt;br /&gt;
[[Category:愛知県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1973年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;60.43.37.17: 221.245.165.18 (トーク) による第132558版を取り消し&lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;{{Template:ソウのソックパペット}}&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>稲村良光</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;60.43.37.17: ページの白紙化&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
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