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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>ユアペディア</title>
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				<updated>2007-12-13T02:25:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''Yourpedia'''（ゆあぺでぃあ）とは[[2007年]][[4月4日]]に開設された[[WWW]]上のフリー[[百科事典]]プロジェクトである。開設者は「[[悪徳商法?マニアックス]]」管理人の[[吉本敏洋]]（Beyond）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
執筆・編集は主に参加者の共同作業によっておこなわれており、自由参加型である点は[[ウィキペディア|Wikipedia]]と類似している。2007年4月24日時点でのページのページの総閲覧回数は40,668回。また774回の編集、平均すると1ページあたり0.48回の編集が行われ、1編集あたり52.54回閲覧されている。登録済みの利用者は23人で内2人（8.70%）が管理者権限を持っている。このサイトは{{CURRENTYEAR}}年{{CURRENTMONTH}}月現在、グーグル八分されている。詳細は「[[グーグル八分]]」を参照されたし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
*2007年[[4月18日]] 画像アップロード機能が追加される。&lt;br /&gt;
*2007年[[4月22日]] 姉妹サイト「[[コピぺディア]]」を開設。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 特徴 ==&lt;br /&gt;
=== 内容 ===&lt;br /&gt;
ウィキペディアでは同サイトや[[ウィキメディア財団]]にとって都合が悪い事実を書き込むと即座に削除されてしまうが、Yourpediaでは当然削除されない（[[ウィキホリック]]はこの事について「[[ウィキペディア日本語版]]を中傷している」等と言っている）。ウィキペディア以外の有名サイトに対しても同じ様に批判的な内容が書かれている（ウィキホリックはその内容について「百科事典としては極めて主観的な見解で満ちている」等と主張しているが、その根拠は不明）。また、ウィキペディアで新規作成を禁じられている項目なども存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Yourpediaは発足して間もない為、項目の多くはウィキペディアからのGFDLを宣言してのコピーペーストに頼っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 利用者 ===&lt;br /&gt;
利用者の多くはウィキペディア（特にウィキペディアの利用者）に不満を持つ者やウィキペディアで投稿ブロックを受けた者である。最近ではアンサイクロペディアやモナペディア、Chakuwikiを追放された者も増加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Yourpediaとウィキペディアの違い ===&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:編集についての方針|先編集主義]]&lt;br /&gt;
* 中立的でない&lt;br /&gt;
* 両論併記でない&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にウィキペディアと違う点としては、''百科事典的でない記事''の作成が現段階で禁止されていない事が挙げられる（もっともこのルールはウィキペディア日本語版では無視される傾向がある）。また、Yourpediaはウィキペディアでは禁止されている携帯電話からの投稿も可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現状 ==&lt;br /&gt;
ウィキホリックはYourpediaを敵視して攻撃し続けている。彼らはYourpediaを批判する際に「劣化コピー」という特徴的なフレーズを使うので、[[匿名]]で活動していてもすぐにウィキペディアの関係者だと分かる。また、ウィキホリックは特にYourpediaにある[[ウィキペディア日本語版の利用者]]という記事を「単なる中傷だ」と評して重点的に批判しているが、このような批判を展開している人間は決まってウィキペディア内で繰り返され続けている[[誹謗中傷]]は完全に無視している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに[[ウィキペディアン]]と思しき輩による[[荒らし]]がYourpediaで断続的に行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
*[[悪徳商法?マニアックス]] - Yourpediaの運営母体。&lt;br /&gt;
*[[Yourpedia:基本方針]] - Yourpediaの運営に関する基本方針。&lt;br /&gt;
*[[Yourpedia:Site support]]&lt;br /&gt;
*[[ベター・ウィキペディア]]&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアの利用者]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www6.big.or.jp/~beyond/akutoku/index.html 悪徳商法?マニアックス] - 公式ウェブサイト&lt;br /&gt;
*[http://ja.copipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 コピぺディア]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Template:Internet-stub}}&lt;br /&gt;
[[category:ユアペディア|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:オンライン百科事典|ゆあへていあ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%8C%E5%8B%95%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E5%85%A8%E6%94%BE%E9%80%81%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88&amp;diff=19904</id>
		<title>その時歴史が動いたの全放送リスト</title>
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				<updated>2007-12-13T02:19:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''その時歴史が動いたの全放送リスト'''（そのときれきしがうごいたのぜんほうそうりすと）ではNHKの番組『[[その時歴史が動いた]]』で放送した内容のタイトルについて説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このリストではアンコール放送分は除いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==放送タイトル==&lt;br /&gt;
放送時間は2006年3月8日放送分までが水曜日21時15分～21時58分、2006年4月5日放送分からが水曜日22時～22時43分。&lt;br /&gt;
===2000年===&lt;br /&gt;
*3月29日　運命の一瞬、[[東郷平八郎|東郷]]ターン ～[[日本海海戦]]の真実～&lt;br /&gt;
*4月5日　世紀の対決 [[沢村栄治|沢村]]VS[[ベーブ・ルース]] ～日本プロ野球誕生の時～&lt;br /&gt;
*4月12日　天下分け目の[[天王山]] ～[[豊臣秀吉|秀吉]]・必勝の人心掌握術～&lt;br /&gt;
*4月19日　幕末のプリンセス・日本を救う ～皇女[[和宮親子内親王|和宮]]の悲願～&lt;br /&gt;
*4月26日　[[新撰組]]参上![[池田屋事件]]に賭けた若者たち&lt;br /&gt;
*5月10日　その日 6人がいた ～[[火縄銃|鉄砲]]伝来・偶然のドラマ～&lt;br /&gt;
*5月17日　[[織田信長]]・勝利の方程式 ～真説・[[長篠の戦い|長篠合戦]]～&lt;br /&gt;
*5月24日　[[だるま|ダルマ]]大臣・[[高橋是清]]経済危機と格闘する（[[昭和金融恐慌]]）&lt;br /&gt;
*5月31日　敵は[[本能寺の変|本能寺]]にあり ～[[明智光秀|光秀]]はなぜ主君・信長を裏切ったのか～&lt;br /&gt;
*6月7日　[[坂本龍馬]] 幕末の日本を動かす ～[[薩長同盟]]成立の時～&lt;br /&gt;
*6月14日　我輩は小説家である ～[[夏目漱石]]・[[東京大学|東大]]辞表提出の時～&lt;br /&gt;
*6月21日　[[蘇我入鹿]]（そがのいるか）暗殺事件 ～実録・[[乙巳の変|大化改新のクーデター]]～&lt;br /&gt;
*6月28日　戦火の中で[[アニメーション|アニメ]]が生まれた（[[桃太郎 海の神兵]]）&lt;br /&gt;
*7月5日　[[大坂の役|大坂の陣]]、[[豊臣氏|豊臣家]]滅亡す ～[[徳川家康]]・非情の天下取り～&lt;br /&gt;
*7月12日　[[西郷隆盛]]、明治に挑む ～[[西南戦争]]勃発の時～&lt;br /&gt;
*7月19日　[[奇兵隊]]決起せよ![[高杉晋作]]挙兵の時&lt;br /&gt;
*7月26日　[[黒船]]来航 日米交渉ここに始まる&lt;br /&gt;
*8月2日　[[ミッドウェー海戦]]の悲劇&lt;br /&gt;
*8月9日　予ノ判断ハ外レタリ ～[[ソビエト連邦|ソ連]]対日参戦の衝撃～&lt;br /&gt;
*8月23日　[[キリシタン]]禁制 ～秀吉・[[ヨーロッパ]]と対決す～&lt;br /&gt;
*8月30日　[[関東大震災]] ～知られざる日米友好～&lt;br /&gt;
*9月6日　[[前畑秀子|前畑]]ガンバレ!! ～[[ベルリンオリンピック]]の光と影～&lt;br /&gt;
*10月4日　[[関ヶ原の戦い|関ヶ原合戦]] 家康 なぞの大突撃 ～ヨーロッパ製甲冑の威力～&lt;br /&gt;
*10月11日　弟・[[源義経|義経]]を討て ～[[源頼朝]]・武家政権確立への決断～&lt;br /&gt;
*10月18日　[[津田梅子]]・[[津田塾大学|女子英学塾]]設立の時 ～女性の真の自立をめざして～&lt;br /&gt;
*10月25日　[[1929年]][[ニューヨーク|NY]]株価大暴落（[[世界恐慌]]）&lt;br /&gt;
*11月1日　[[伊能忠敬]] 56歳からの挑戦&lt;br /&gt;
*11月8日　[[桶狭間の戦い]] ～織田信長、逆転への情報戦略～&lt;br /&gt;
*11月15日　坂本龍馬暗殺事件 ～魔の一瞬が歴史を変えた～&lt;br /&gt;
*11月22日　「[[学校]]」誕生 ～初代文部大臣・[[森有礼]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*11月29日　[[将軍]][[徳川慶喜|慶喜]]・最後の決断 ～幕末を動かした[[大坂城]]脱出～&lt;br /&gt;
*12月6日　[[20世紀|二十世紀]]十大事件 ～歴史を動かした決定的瞬間～&lt;br /&gt;
*12月13日　脱盟者たちの[[忠臣蔵]] ～忠義か人情か　人生の選択の時～&lt;br /&gt;
*12月20日　サムライ・[[福澤諭吉|福沢諭吉]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]に立つ! ～[[咸臨丸]][[サンフランシスコ]]入港の時～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2001年===&lt;br /&gt;
*1月10日　男たちよ、立て! ～[[北条政子]] 演説の時～&lt;br /&gt;
*1月17日　大衆の夢を形に ～起業家・[[小林一三]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*1月24日　検証・[[桜田門外の変]] ～[[井伊直弼]]暗殺・幕末大転換の時～&lt;br /&gt;
*2月7日　6000人の命を救った外交官 ～[[杉原千畝]] [[ビザ]]大量発給決断の時～&lt;br /&gt;
*2月14日・21日　シリーズ[[二・二六事件|2・26事件]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
*2月28日　秀吉の妻・おね 関ヶ原を動かす&lt;br /&gt;
*3月7日　[[大津事件|ロシア皇太子襲撃事件]] ～近代日本をつくった裁判～&lt;br /&gt;
*3月14日・21日　もしもその時（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「古代・中世編」&lt;br /&gt;
:後編「戦国・幕末編」&lt;br /&gt;
*3月28日　妻たちは決断した&lt;br /&gt;
**3月の3回は主として2000年度に放送された内容の総集編的な作品だった&lt;br /&gt;
*4月4日　世界を制した[[ハリウッド]][[映画]] ～[[風と共に去りぬ]]公開の時～&lt;br /&gt;
*4月11日　秀吉・家康 たった一度の直接対決 ～天下取りの知恵くらべ～&lt;br /&gt;
*4月18日　[[春日局]] 徳川家康を動かす ～戦国女性・太平の世への願い～&lt;br /&gt;
*4月25日　日本を救った[[サツマイモ]] ～[[青木昆陽]]・飢きん救済に挑む～&lt;br /&gt;
*5月2日　戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]沈没 ～[[大艦巨砲主義]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*5月9日　[[昭和天皇]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]・会見の時&lt;br /&gt;
*5月16日　「[[阿吽|あうん]]」の呼吸はこうして生まれた ～[[東大寺]] 金剛力士像完成の時～&lt;br /&gt;
*5月23日　[[岡倉天心|天心]]の恋 ～東洋の美を追い続けた男～&lt;br /&gt;
*5月30日　[[徳川吉宗]]、執念の財政再建 ～米将軍・最後の決断～&lt;br /&gt;
*6月6日　[[土方歳三]]・北の大地に散る ～[[戊辰戦争]]、最後の激戦～&lt;br /&gt;
*6月13日　[[伊達政宗]]、[[百万石]]への挑戦&lt;br /&gt;
*6月20日　[[邪馬台国]]の女王・[[卑弥呼]] ～動乱の[[魏 (三国)|中国]]に使者を出す～&lt;br /&gt;
*6月27日　[[白村江の戦い|白村江]]・古代最大の対外戦争&lt;br /&gt;
*7月4日　金融恐慌・日本を揺るがす ～巨大商社、[[鈴木商店]]の挫折～&lt;br /&gt;
*7月11日　[[北条時宗]]、起死回生の決断 ～[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍壊滅の時～&lt;br /&gt;
*7月18日　モンゴル軍来襲 ～九州武士・[[竹崎季長]]の戦い～&lt;br /&gt;
*7月25日・8月1日　[[ポツダム宣言]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「米ソの攻防」 ～[[原子爆弾|原爆]]投下・[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]の決断～&lt;br /&gt;
:後編「ソ連対日参戦」～ソ連対日参戦・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の焦燥～&lt;br /&gt;
*8月22日　夏休みスペシャル・[[三国志]]英雄伝（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「奇跡の風、[[長江]]に吹く」 ～[[諸葛亮|孔明]]の知略、天下三分の計～&lt;br /&gt;
:後編「死せる孔明・中国を動かす」 ～千年の時を越える教え～&lt;br /&gt;
*8月29日　そして、人は空を飛んだ ～[[ライト兄弟]]に先がけた男・[[二宮忠八]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*9月5日　[[上杉鷹山]] ふたたびの財政改革&lt;br /&gt;
*9月19日　キリシタン女性 関ヶ原合戦を揺るがす ～[[細川ガラシャ]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*9月26日　ぼく一生の不覚 ～[[日独伊三国軍事同盟|三国同盟]]締結・[[松岡洋右]]の誤算～&lt;br /&gt;
*10月3日　走れ!AA型 ～国産自動車誕生物語～&lt;br /&gt;
*10月10日　不平等条約を改正せよ ～[[陸奥宗光]]～&lt;br /&gt;
*10月17日　日本を愛した[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]・その悲劇&lt;br /&gt;
*10月24日　人生に絶望なし ～[[ヘレン・ケラー|ヘレンケラ]]ー来日の時～&lt;br /&gt;
*10月31日　羽柴秀吉、謎の敵前退却 ～[[賤ヶ岳の戦い|賤ヶ岳合戦]]・勝利の秘策～&lt;br /&gt;
*11月7日　戦国の茶人 秀吉と戦う ～[[千利休]]切腹の悲劇～&lt;br /&gt;
*11月14日　[[前田利家]]の妻・[[芳春院|まつ]]の決断 ～加賀百万石・息子への教え～&lt;br /&gt;
*11月21日　[[満州事変]] [[関東軍]]独走す&lt;br /&gt;
*12月5日　この難を逃げ候こと 本懐にあらず ～改革者・[[大久保利通]]暗殺の悲劇～&lt;br /&gt;
*12月12日　汽笛一声・日本の産声 ～[[鉄道]]開通に賭けた若者たち～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2002年===&lt;br /&gt;
*1月9日　スペシャル『日本を動かした15人』（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
*1月16日　[[溥儀|ラストエンペラー]]最後の日 ～「[[満州国]]」と皇帝・溥儀～&lt;br /&gt;
*1月23日　役人の不正許すまじ ～[[大塩平八郎]]決起の時～&lt;br /&gt;
*1月30日　志のある者 立ち上がれ ～獄中の出会いが生んだ[[吉田松陰]]の思想～&lt;br /&gt;
*2月6日　王宮の恋・[[サラエボ事件|サラエボ]]に散る ～[[第一次世界大戦|世界大戦]]を招いた暗殺事件～&lt;br /&gt;
*2月13日　日本の夢、[[ベルサイユ]]に散る ～[[パリ講和会議]]・人種差別 廃止提案の挫折～&lt;br /&gt;
*2月20日　[[田中正造]]、足尾鉱毒==放送タイトル==&lt;br /&gt;
放送時間は2006年3月8日放送分までが水曜日21時15分～21時58分、2006年4月5日放送分からが水曜日22時～22時43分。&lt;br /&gt;
===2000年===&lt;br /&gt;
*3月29日　運命の一瞬、[[東郷平八郎|東郷]]ターン ～[[日本海海戦]]の真実～&lt;br /&gt;
*4月5日　世紀の対決 [[沢村栄治|沢村]]VS[[ベーブ・ルース]] ～日本プロ野球誕生の時～&lt;br /&gt;
*4月12日　天下分け目の[[天王山]] ～[[豊臣秀吉|秀吉]]・必勝の人心掌握術～&lt;br /&gt;
*4月19日　幕末のプリンセス・日本を救う ～皇女[[和宮親子内親王|和宮]]の悲願～&lt;br /&gt;
*4月26日　[[新撰組]]参上![[池田屋事件]]に賭けた若者たち&lt;br /&gt;
*5月10日　その日 6人がいた ～[[火縄銃|鉄砲]]伝来・偶然のドラマ～&lt;br /&gt;
*5月17日　[[織田信長]]・勝利の方程式 ～真説・[[長篠の戦い|長篠合戦]]～&lt;br /&gt;
*5月24日　[[だるま|ダルマ]]大臣・[[高橋是清]]経済危機と格闘する（[[昭和金融恐慌]]）&lt;br /&gt;
*5月31日　敵は[[本能寺の変|本能寺]]にあり ～[[明智光秀|光秀]]はなぜ主君・信長を裏切ったのか～&lt;br /&gt;
*6月7日　[[坂本龍馬]] 幕末の日本を動かす ～[[薩長同盟]]成立の時～&lt;br /&gt;
*6月14日　我輩は小説家である ～[[夏目漱石]]・[[東京大学|東大]]辞表提出の時～&lt;br /&gt;
*6月21日　[[蘇我入鹿]]（そがのいるか）暗殺事件 ～実録・[[乙巳の変|大化改新のクーデター]]～&lt;br /&gt;
*6月28日　戦火の中で[[アニメーション|アニメ]]が生まれた（[[桃太郎 海の神兵]]）&lt;br /&gt;
*7月5日　[[大坂の役|大坂の陣]]、[[豊臣氏|豊臣家]]滅亡す ～[[徳川家康]]・非情の天下取り～&lt;br /&gt;
*7月12日　[[西郷隆盛]]、明治に挑む ～[[西南戦争]]勃発の時～&lt;br /&gt;
*7月19日　[[奇兵隊]]決起せよ![[高杉晋作]]挙兵の時&lt;br /&gt;
*7月26日　[[黒船]]来航 日米交渉ここに始まる&lt;br /&gt;
*8月2日　[[ミッドウェー海戦]]の悲劇&lt;br /&gt;
*8月9日　予ノ判断ハ外レタリ ～[[ソビエト連邦|ソ連]]対日参戦の衝撃～&lt;br /&gt;
*8月23日　[[キリシタン]]禁制 ～秀吉・[[ヨーロッパ]]と対決す～&lt;br /&gt;
*8月30日　[[関東大震災]] ～知られざる日米友好～&lt;br /&gt;
*9月6日　[[前畑秀子|前畑]]ガンバレ!! ～[[ベルリンオリンピック]]の光と影～&lt;br /&gt;
*10月4日　[[関ヶ原の戦い|関ヶ原合戦]] 家康 なぞの大突撃 ～ヨーロッパ製甲冑の威力～&lt;br /&gt;
*10月11日　弟・[[源義経|義経]]を討て ～[[源頼朝]]・武家政権確立への決断～&lt;br /&gt;
*10月18日　[[津田梅子]]・[[津田塾大学|女子英学塾]]設立の時 ～女性の真の自立をめざして～&lt;br /&gt;
*10月25日　[[1929年]][[ニューヨーク|NY]]株価大暴落（[[世界恐慌]]）&lt;br /&gt;
*11月1日　[[伊能忠敬]] 56歳からの挑戦&lt;br /&gt;
*11月8日　[[桶狭間の戦い]] ～織田信長、逆転への情報戦略～&lt;br /&gt;
*11月15日　坂本龍馬暗殺事件 ～魔の一瞬が歴史を変えた～&lt;br /&gt;
*11月22日　「[[学校]]」誕生 ～初代文部大臣・[[森有礼]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*11月29日　[[将軍]][[徳川慶喜|慶喜]]・最後の決断 ～幕末を動かした[[大坂城]]脱出～&lt;br /&gt;
*12月6日　[[20世紀|二十世紀]]十大事件 ～歴史を動かした決定的瞬間～&lt;br /&gt;
*12月13日　脱盟者たちの[[忠臣蔵]] ～忠義か人情か　人生の選択の時～&lt;br /&gt;
*12月20日　サムライ・[[福澤諭吉|福沢諭吉]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]に立つ! ～[[咸臨丸]][[サンフランシスコ]]入港の時～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2001年===&lt;br /&gt;
*1月10日　男たちよ、立て! ～[[北条政子]] 演説の時～&lt;br /&gt;
*1月17日　大衆の夢を形に ～起業家・[[小林一三]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*1月24日　検証・[[桜田門外の変]] ～[[井伊直弼]]暗殺・幕末大転換の時～&lt;br /&gt;
*2月7日　6000人の命を救った外交官 ～[[杉原千畝]] [[ビザ]]大量発給決断の時～&lt;br /&gt;
*2月14日・21日　シリーズ[[二・二六事件|2・26事件]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
*2月28日　秀吉の妻・おね 関ヶ原を動かす&lt;br /&gt;
*3月7日　[[大津事件|ロシア皇太子襲撃事件]] ～近代日本をつくった裁判～&lt;br /&gt;
*3月14日・21日　もしもその時（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「古代・中世編」&lt;br /&gt;
:後編「戦国・幕末編」&lt;br /&gt;
*3月28日　妻たちは決断した&lt;br /&gt;
**3月の3回は主として2000年度に放送された内容の総集編的な作品だった&lt;br /&gt;
*4月4日　世界を制した[[ハリウッド]][[映画]] ～[[風と共に去りぬ]]公開の時～&lt;br /&gt;
*4月11日　秀吉・家康 たった一度の直接対決 ～天下取りの知恵くらべ～&lt;br /&gt;
*4月18日　[[春日局]] 徳川家康を動かす ～戦国女性・太平の世への願い～&lt;br /&gt;
*4月25日　日本を救った[[サツマイモ]] ～[[青木昆陽]]・飢きん救済に挑む～&lt;br /&gt;
*5月2日　戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]沈没 ～[[大艦巨砲主義]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*5月9日　[[昭和天皇]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]・会見の時&lt;br /&gt;
*5月16日　「[[阿吽|あうん]]」の呼吸はこうして生まれた ～[[東大寺]] 金剛力士像完成の時～&lt;br /&gt;
*5月23日　[[岡倉天心|天心]]の恋 ～東洋の美を追い続けた男～&lt;br /&gt;
*5月30日　[[徳川吉宗]]、執念の財政再建 ～米将軍・最後の決断～&lt;br /&gt;
*6月6日　[[土方歳三]]・北の大地に散る ～[[戊辰戦争]]、最後の激戦～&lt;br /&gt;
*6月13日　[[伊達政宗]]、[[百万石]]への挑戦&lt;br /&gt;
*6月20日　[[邪馬台国]]の女王・[[卑弥呼]] ～動乱の[[魏 (三国)|中国]]に使者を出す～&lt;br /&gt;
*6月27日　[[白村江の戦い|白村江]]・古代最大の対外戦争&lt;br /&gt;
*7月4日　金融恐慌・日本を揺るがす ～巨大商社、[[鈴木商店]]の挫折～&lt;br /&gt;
*7月11日　[[北条時宗]]、起死回生の決断 ～[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍壊滅の時～&lt;br /&gt;
*7月18日　モンゴル軍来襲 ～九州武士・[[竹崎季長]]の戦い～&lt;br /&gt;
*7月25日・8月1日　[[ポツダム宣言]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「米ソの攻防」 ～[[原子爆弾|原爆]]投下・[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]の決断～&lt;br /&gt;
:後編「ソ連対日参戦」～ソ連対日参戦・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の焦燥～&lt;br /&gt;
*8月22日　夏休みスペシャル・[[三国志]]英雄伝（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「奇跡の風、[[長江]]に吹く」 ～[[諸葛亮|孔明]]の知略、天下三分の計～&lt;br /&gt;
:後編「死せる孔明・中国を動かす」 ～千年の時を越える教え～&lt;br /&gt;
*8月29日　そして、人は空を飛んだ ～[[ライト兄弟]]に先がけた男・[[二宮忠八]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*9月5日　[[上杉鷹山]] ふたたびの財政改革&lt;br /&gt;
*9月19日　キリシタン女性 関ヶ原合戦を揺るがす ～[[細川ガラシャ]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*9月26日　ぼく一生の不覚 ～[[日独伊三国軍事同盟|三国同盟]]締結・[[松岡洋右]]の誤算～&lt;br /&gt;
*10月3日　走れ!AA型 ～国産自動車誕生物語～&lt;br /&gt;
*10月10日　不平等条約を改正せよ ～[[陸奥宗光]]～&lt;br /&gt;
*10月17日　日本を愛した[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]・その悲劇&lt;br /&gt;
*10月24日　人生に絶望なし ～[[ヘレン・ケラー|ヘレンケラ]]ー来日の時～&lt;br /&gt;
*10月31日　羽柴秀吉、謎の敵前退却 ～[[賤ヶ岳の戦い|賤ヶ岳合戦]]・勝利の秘策～&lt;br /&gt;
*11月7日　戦国の茶人 秀吉と戦う ～[[千利休]]切腹の悲劇～&lt;br /&gt;
*11月14日　[[前田利家]]の妻・[[芳春院|まつ]]の決断 ～加賀百万石・息子への教え～&lt;br /&gt;
*11月21日　[[満州事変]] [[関東軍]]独走す&lt;br /&gt;
*12月5日　この難を逃げ候こと 本懐にあらず ～改革者・[[大久保利通]]暗殺の悲劇～&lt;br /&gt;
*12月12日　汽笛一声・日本の産声 ～[[鉄道]]開通に賭けた若者たち～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2002年===&lt;br /&gt;
*1月9日　スペシャル『日本を動かした15人』（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
*1月16日　[[溥儀|ラストエンペラー]]最後の日 ～「[[満州国]]」と皇帝・溥儀～&lt;br /&gt;
*1月23日　役人の不正許すまじ ～[[大塩平八郎]]決起の時～&lt;br /&gt;
*1月30日　志のある者 立ち上がれ ～獄中の出会いが生んだ[[吉田松陰]]の思想～&lt;br /&gt;
*2月6日　王宮の恋・[[サラエボ事件|サラエボ]]に散る ～[[第一次世界大戦|世界大戦]]を招いた暗殺事件～&lt;br /&gt;
*2月13日　日本の夢、[[ベルサイユ]]に散る ～[[パリ講和会議]]・人種差別 廃止提案の挫折～&lt;br /&gt;
*2月20日　[[田中正造]]、足尾鉱毒事件に挑む ～環境保護運動　ここに始まる～&lt;br /&gt;
*2月27日　信長 執念の天下統一 ～大坂[[本願寺]]との十年戦争～&lt;br /&gt;
*3月6日　関ヶ原を揺るがした女性たち ～決戦の裏に秘められたドラマ～&lt;br /&gt;
*3月13日　外交の要は誠実にあり ～国際社会と闘った男たち～&lt;br /&gt;
*4月3日　賽は投げられた ～英雄[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]・ローマを変えた運命の決断～&lt;br /&gt;
*4月10日　徳川家康 [[三方ヶ原の戦い|三方原]]の大ばくち ～敗れて学ぶ 覇者の哲学～&lt;br /&gt;
*4月17日　鎧をまとった母・[[淀殿]]の悲劇 ～裏切られた平和への願い～&lt;br /&gt;
*4月24日　[[新撰組]]・[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽伏見]]に散る ～旧幕府軍大敗北の真相～&lt;br /&gt;
*5月8日・15日　[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]とその時代（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「[[独裁者]]への道」&lt;br /&gt;
:後編「幻の反ヒトラー・クーデター」&lt;br /&gt;
*5月22日　天神・[[菅原道真]] 政治改革にたおれる&lt;br /&gt;
*5月29日　肉を切らせて骨を断つ ～織田信長・捨て身の復讐戦～&lt;br /&gt;
*7月3日　平民宰相 [[原敬]]暗殺 ～くじかれた改革の夢～&lt;br /&gt;
*7月10日　[[フランス革命]] 自由よ汝の名のもとに ～[[マリー・アントワネット事件に挑む ～環境保護運動　ここに始まる～&lt;br /&gt;
*2月27日　信長 執念の天下統一 ～大坂[[本願寺]]との十年戦争～&lt;br /&gt;
*3月6日　関ヶ原を揺るがした女性たち ～決戦の裏に秘められたドラマ～&lt;br /&gt;
*3月13日　外交の要は誠実にあり ～国際社会と闘った男たち～&lt;br /&gt;
*4月3日　賽は投げられた ～英雄[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]・ローマを変えた運命の決断～&lt;br /&gt;
*4月10日　徳川家康 [[三方ヶ原の戦い|三方原]]の大ばくち ～敗れて学ぶ 覇者の哲学～&lt;br /&gt;
*4月17日　鎧をまとった母・[[淀殿]]の悲劇 ～裏切られた平和への願い～&lt;br /&gt;
*4月24日　[[新撰組]]・[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽伏見]]に散る ～旧幕府軍大敗北の真相～&lt;br /&gt;
*5月8日・15日　[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]とその時代（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「[[独裁者]]への道」&lt;br /&gt;
:後編「幻の反ヒトラー・クーデター」&lt;br /&gt;
*5月22日　天神・[[菅原道真]] 政治改革にたおれる&lt;br /&gt;
*5月29日　肉を切らせて骨を断つ ～織田信長・捨て身の復讐戦～&lt;br /&gt;
*7月3日　平民宰相 [[原敬]]暗殺 ～くじかれた改革の夢～&lt;br /&gt;
*7月10日　[[フランス革命]] 自由よ汝の名のもとに ～[[マリー・アントワネット|マリ・アントワネット]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*7月17日　[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]、皇帝への野望 ～戴冠式の一瞬に秘められた謎～&lt;br /&gt;
*7月24日　本能寺の変 ～信長暗殺!闇に消えた真犯人～&lt;br /&gt;
*7月31日　[[ガダルカナル島]]撤退 ～苦渋の決断～&lt;br /&gt;
*8月21日　特別編「戦い・その決定的瞬間」（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「勝利の時・男たちは決断した」&lt;br /&gt;
:後編「戦乱・その時 妻は、母は」&lt;br /&gt;
*8月28日　さらば淀殿 お初の決断 ～運命に立ち向かった戦国三姉妹～&lt;br /&gt;
*9月4日　日本人、[[南極]]の大地に立つ（[[白瀬矗]]）&lt;br /&gt;
*9月11日　昭和を揺るがした銃弾 ～ライオン宰相・[[浜口雄幸]]狙撃の時～&lt;br /&gt;
*9月18日　ヒトラー情報 日本を揺るがす ～「真珠湾」へのもう一つの道～&lt;br /&gt;
*9月25日　ヒトラー最後の日 ～新資料が明かす独裁者の末路～&lt;br /&gt;
*10月2日　[[与謝野晶子]]『今ぞ目覚めて』 ～情熱の歌人、女性の自立を宣言～&lt;br /&gt;
*10月9日　幕末、[[京都市|京都]]炎上 ～長州・[[久坂玄瑞]]、志に散る～&lt;br /&gt;
*10月16日　必勝の方程式、江戸を制す ～[[大村益次郎]]、彰義隊撃破の時～&lt;br /&gt;
*10月23日　関ヶ原の戦い、決死の的中突破 ～戦国の猛将 [[島津義弘]]、決断の時～&lt;br /&gt;
*10月30日　人類のために生き、人類のために死す ～未公開書簡が明かす[[野口英世]]の真実～&lt;br /&gt;
*11月6日　豊臣秀吉天下統一の必勝戦略 ～[[小田原の役|小田原攻め]]に秘策あり～&lt;br /&gt;
*11月13日　激突 [[武田信玄]]と[[上杉謙信]] ～[[川中島の戦い]]、両雄決戦の時～ &lt;br /&gt;
*11月20日　改革に散った最後の幕臣 [[小栗上野介]] ～一本のねじから日本の近代は始まった～&lt;br /&gt;
*12月4日　[[銀行]]は人々のために ～金融危機を救った[[渋沢栄一]]の決断～&lt;br /&gt;
*12月11日　忠臣蔵、父と子の決断 ～赤穂浪士討ち入りの時～&lt;br /&gt;
*12月18日　[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]] [[交響曲第9番|第九]]誕生! ～民衆に自由を呼びかけた交響曲～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2003年===&lt;br /&gt;
*1月8日　新春スペシャル「ニッポン開国」（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「なぜアメリカだったのか?」 ～[[マシュー・ペリー|ペリー]]の知られざる外交戦略～&lt;br /&gt;
:後編「通商か?亡国か?」 ～日本全権、決死の通商条約締結～&lt;br /&gt;
*1月15日　[[佐々木小次郎|小次郎]] 敗れたり ～決闘巌流島・[[宮本武蔵]]の執念～&lt;br /&gt;
*1月22日　兵法の道は人の道 宮本武蔵 ～『五輪書』完成への苦闘～&lt;br /&gt;
*1月29日　外交立国の志、いまだ死なず ～[[榎本武揚]]、箱館戦争終結の決断～&lt;br /&gt;
*2月12日　乱世を制するリーダーの条件 ～[[湊川の戦い]] [[足利尊氏]]、苦悩の決断～&lt;br /&gt;
*2月19日　夢は征夷大将軍 ～徳川家康・逆転の戦略～&lt;br /&gt;
*2月26日　緊迫の二十四時間 ～新資料が明かす二・二六事件の内幕～&lt;br /&gt;
*3月5日　独裁者ヒトラー ～破滅への軌跡～&lt;br /&gt;
*3月12日　幕末立志伝 今こそ変革の時 ～[[吉田松陰]]・久坂玄瑞・[[高杉晋作]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*4月2日　家康・天下を制した184通の書状 ～関ヶ原の合戦・知られざる情報工作～&lt;br /&gt;
*4月9日　[[真田幸村]] どん底からの挑戦 ～家康を追いつめた伝説の名将～  &lt;br /&gt;
*4月16日　ロシア女帝が涙した帰国願い ～日露交渉の扉を開いた[[大黒屋光太夫]]～&lt;br /&gt;
*4月23日　改革者か、悪徳老中か? ～[[田沼意次]]、江戸の経済改革に挑む～&lt;br /&gt;
*5月7日　幕末ニッポン・幻の遷都計画 ～江戸か大坂か?[[大久保利通]]の大改革～&lt;br /&gt;
*5月14日　[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]を襲撃せよ ～五・一五事件　首相暗殺の裏に秘められたドラマ～&lt;br /&gt;
*5月21日　我が言は、万人の声 ～太平洋戦争前夜、日本を揺るがした国会演説～（[[斉藤隆夫]]）&lt;br /&gt;
*5月29日　日出づる処の天子より ～[[聖徳太子]]、理想国家建設の夢～&lt;br /&gt;
*6月4日　信長と家康、そして同盟は幻と消えた? ～[[長篠の戦い]]、戦国を変えた両雄の決断～&lt;br /&gt;
*6月11日　[[源義経]]、大水軍を奪いとれ! ～[[壇ノ浦の戦い|壇の浦の戦い]]、奇跡の逆転劇～&lt;br /&gt;
*6月18日　新撰組誕生 ～幕末に青春をかけた男たち～&lt;br /&gt;
*6月25日　新撰組の夢、関東に散る ～江戸城明け渡しの裏で何がおきていたのか～&lt;br /&gt;
*7月2日　[[盧溝橋事件]] 運命の4日間 ～中国派兵への重大決意～&lt;br /&gt;
*7月9日　[[高杉晋作]]、50倍の敵を制する必勝戦略 ～幕末長州・奇跡の逆転劇～&lt;br /&gt;
*7月16日　海を越えた愛、日本を守る ～新史料、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]開国秘話～&lt;br /&gt;
*7月23日　占領日本・運命を決した直談判 ～[[吉田茂]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]～&lt;br /&gt;
*7月30日　スパイ・[[リヒャルト・ゾルゲ|ゾルゲ]] 最後の暗号電報 ～新資料が明かす国際スパイ事件～&lt;br /&gt;
*8月20日　夏休みスペシャル・そして日本はよみがえった ～混迷を打ち破ったヒーローたち～（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「混沌の時代を切り開いた男たち」&lt;br /&gt;
:後編「近代の日本を作った男たち」&lt;br /&gt;
*8月27日　[[板垣退助|板垣]]死すとも、自由は死せず ～日本に国会を誕生させた不朽の名言～&lt;br /&gt;
*9月3日　[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]] 世界帝国の夢 ～知られざる愛と誇りの決断～&lt;br /&gt;
*9月10日　[[ジャンヌ・ダルク]] 戦いはわが愛の証 ～裁判記録が明かす聖女の真実～&lt;br /&gt;
*9月17日　[[日野富子]] 愛と憎しみの和平工作 ～[[応仁の乱]]を終結させた将軍の妻～&lt;br /&gt;
*10月1日　秀吉に天下を取らせた男 ～[[黒田孝高|黒田官兵衛]] 戦国最強のナンバー2～&lt;br /&gt;
*10月8日・15日「[[始皇帝]]」（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「希代のカリスマ・中国に立つ」 ～[[秦]]王朝 天下統一のとき～&lt;br /&gt;
:後編「崩壊は絶頂の中から始まった」 ～秦王朝 滅亡のとき～&lt;br /&gt;
*10月22日　[[正岡子規]] 余命十年で[[日本語]]を革新した男&lt;br /&gt;
*10月29日　[[白虎隊]] 自刃への三十六時間 ～生存隊士の手記が語る悲劇の真相～&lt;br /&gt;
*11月5日・12日　古代中国・[[項籍|項羽]]と[[劉邦]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「天下を分けた運命の宴 [[鴻門の会]]」&lt;br /&gt;
:後編「勝利への60万人の大合唱 [[垓下の戦い|四面楚歌]]」&lt;br /&gt;
*11月19日　[[勝海舟]] 江戸城無血開城はなぜ実現したか&lt;br /&gt;
*11月19日　[[マハトマ・ガンジー|ガンジー]] 暴力の連鎖を断ち切れ!&lt;br /&gt;
*12月4日　日米開戦を回避せよ ～新史料が明かす最後の和平交渉～&lt;br /&gt;
*12月11日　忠臣蔵 お裁き始末記 ～忠義か、犯罪か?幕府がゆらいだ50日～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2004年===&lt;br /&gt;
*1月7日　新春スペシャル・「新撰組」 ～最後のサムライたち～（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「立志編 剣に生きる」&lt;br /&gt;
:後編「死闘編 武士道に死す」&lt;br /&gt;
*1月14日　秘められた革命工作 ～[[孫文]]を支えた日本人～&lt;br /&gt;
*1月21日　[[平清盛]] 早すぎた革新 ～平氏政権誕生のとき～&lt;br /&gt;
*1月28日　[[明治天皇]] [[あんパン]]を食す ～リストラ武士 [[木村安兵衛]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*2月4日　そして近代ニッポン人が誕生した ～明治の文豪たちの生き方革命～&lt;br /&gt;
*2月11日　日露開戦 男たちの決断 ～明治日本 存亡をかけた戦略～&lt;br /&gt;
*2月25日　[[外様大名]]はこうして生き残った! ～家康に勝利した逆転の戦略～&lt;br /&gt;
*3月3日　大久保利通・新生日本を救う ～回避された「幻の日清戦争」～&lt;br /&gt;
*3月31日　[[さとうきび]]畑の村の戦争 ～新史料が明かす[[沖縄県|沖縄]]戦の悲劇～&lt;br /&gt;
*4月7日　新発見![[大坂城]]は超ハイテク要塞だった ～秀吉VS家康「堀」をめぐる攻防の真相～&lt;br /&gt;
*4月14日　日本の運命を背負った少年たち ～[[天正遣欧少年使節|天正遣欧使節]]・ローマ教皇謁見の時～&lt;br /&gt;
*4月21日　信長暗殺を命じた男 ～新説・本能寺の変 浮上した黒幕～&lt;br /&gt;
*4月28日　[[女優]]誕生 ～[[川上貞奴|マダム貞奴]]、「[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]」初演の時～&lt;br /&gt;
*5月5日　子供の心に歌を ～大正・[[童謡]]誕生物語～&lt;br /&gt;
*5月12日　日本[[サッカー]]・[[ベルリンオリンピック]]の奇跡 ～世界を驚かせた逆転勝利～&lt;br /&gt;
*5月19日・26日　モンゴル帝国（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「草原の覇者[[チンギス・ハーン|チンギス・カン]]」～ユーラシア統一への道～&lt;br /&gt;
:後編「[[マルコ・ポーロ]]は見た巨大国家の盛衰」 ～「[[東方見聞録]]」誕生のとき～&lt;br /&gt;
*6月2日　家康、人生最大の危機の3日間 ～大脱出!伊賀越えの先に天下が見えた～&lt;br /&gt;
*6月9日・16日　日露戦争100年（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「二〇三高地の悲劇はなぜ起きたのか」 ～新史料が明かす激戦の真相～&lt;br /&gt;
:後編「逆転の極秘電報154号」 ～知られざるポーツマス講和会議の真相～&lt;br /&gt;
*6月23日　大江戸発至急便 黒船あらわる ～幕末日本の情報ネットワーク～&lt;br /&gt;
*6月30日　もう一つの日本を創った男 ～[[平将門]] 東国独立政権の謎～&lt;br /&gt;
*7月7日　「関白」対「源氏長者」 ～家康・秀吉 「姓」をめぐる知られざる攻防～&lt;br /&gt;
*7月14日　ドキュメント[[池田屋事件]] ～[[近藤勇|近藤 勇]]・突入決断の真相～&lt;br /&gt;
*7月21日　[[世界遺産]] [[熊野]]の森を守れ ～[[南方熊楠]]・日本初の自然保護運動～&lt;br /&gt;
*7月28日　日米開戦を回避せよ ～新史料が明かす 最後の和平交渉～&lt;br /&gt;
*8月16日　奇跡の銀メダル [[人見絹江]] ～日本女子初メダル獲得の時～&lt;br /&gt;
*9月1日　武田信玄 地を拓き水を治める ～戦国時代制覇への夢～&lt;br /&gt;
*9月8日　信長と[[斎藤道三|道三]] ～改革者を生んだ非情の絆～&lt;br /&gt;
*9月15日　悲劇の英雄 ～“[[トーマス・エドワード・ロレンス|アラビアのロレンス]]”の真実～&lt;br /&gt;
*9月22日　焼け跡に[[ゾウ]]がやってきた ～海を越えた日本の子どもたちの夢～&lt;br /&gt;
*10月6日　グッドバイ ちょんまげ ～明治日本 文明開化騒動記～&lt;br /&gt;
*10月13日　列国の野望 [[シベリア]]を走る ～[[ロシア革命]]・[[ソビエト連邦|ソビエト]]成立までの混迷の5年～&lt;br /&gt;
*10月27日　実録・[[ええじゃないか]] ～幕末ニッポンを動かした民衆パワー～&lt;br /&gt;
*11月3日　義経はなぜ死んだのか ～源頼朝と奥州藤原氏の攻防～&lt;br /&gt;
*11月10日　秘録・幻の明治新政府 ～維新を変えた激動の27日間～&lt;br /&gt;
*11月17日　サムライ魂でデパートを創れ! ～近代百貨店誕生物語～&lt;br /&gt;
*11月24日　ニッポンに学べ![[タイ王国|タイ]]の”明治維新” ～「[[王様と私]]」・[[ラーマ5世|ラーマ五世]]の苦闘～ &lt;br /&gt;
*12月8日　ミステリー大化改新 ～蘇我入鹿暗殺の実像～&lt;br /&gt;
*12月15日　それからの新選組 ～土方歳三、箱館に死す～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2005年===&lt;br /&gt;
*1月5日　[[歌舞伎]]スタア誕生 [[市川團十郎 (2代目)|二代目 市川團十郎]]の挑戦&lt;br /&gt;
*1月12日　百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇&lt;br /&gt;
*1月26日　日露戦争100年 日本海海戦 ～参謀 [[秋山真之]]・知られざる苦闘～&lt;br /&gt;
*2月2日　龍馬が愛した女 ～幕末、愛と別れの物語～&lt;br /&gt;
*2月9日　[[プロ野球]]を変えた[[ホームラン]] [[天覧試合]] オーナーたちの戦い&lt;br /&gt;
*2月16日　日米攻防90日 国際軍縮を実現せよ! [[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]・全権 [[加藤友三郎]]の挑戦&lt;br /&gt;
*2月23日　我が運命は民と共に 悲劇の英雄 [[楠木正成]]の実像&lt;br /&gt;
*3月2日　[[源実朝|実朝]]暗殺 ～歌人将軍は、なぜ殺されたか?～&lt;br /&gt;
*3月9日・16日　シリーズ三国志英雄伝（前・後編2週連続　2001年の夏休みスペシャルの再構成をベースに）&lt;br /&gt;
:前編「奇跡の風・長江に吹く」 ～孔明の知略・天下三分の計～&lt;br /&gt;
:後編「死せる孔明・中国を動かす」 ～千年の時を越える教え～&lt;br /&gt;
*3月30日　恋・人生・そして小説 ～[[樋口一葉]] 女性作家誕生の時～&lt;br /&gt;
*4月6日　大帝国の野望、博多に散る ～大陸から見た蒙古襲来～&lt;br /&gt;
*4月13日　武田家滅亡の謎 ～戦国最強軍団はなぜ滅びたのか～&lt;br /&gt;
*4月20日・27日　源義経 栄光と悲劇の旅路（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「第1回 西へ 戦いの彼方に」&lt;br /&gt;
:後編「第2回 北へ 流浪の果てに」&lt;br /&gt;
*5月11日　にっぽん[[郵便]]創業物語 ～[[前島密]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*5月18日　戦国をひらいた男 ～[[北条早雲]] 56才からの挑戦～&lt;br /&gt;
*5月25日　傷ついた戦場の兵士を救え ～[[佐野常民]] 日本初の国際人道支援～&lt;br /&gt;
*6月1日　民を救った義士たちの物語 ～宝暦の治水・[[薩摩藩]]士の苦闘～&lt;br /&gt;
*6月8日　[[横山エンタツ|エンタツ]]・[[花菱アチャコ|アチャコ]]の[[漫才]]革命 ～あんじょうわろうてや!～&lt;br /&gt;
*6月15日　幕末・運命の愛 ～時代を創った男と女の物語～&lt;br /&gt;
*6月22日　さらばサムライ ～[[西郷隆盛]] 徴兵制の決断～&lt;br /&gt;
*6月29日　さらばサムライ ～[[西南戦争]]・田原坂の真実～&lt;br /&gt;
*7月6日　プロ野球を作った男たち ～昭和10年 アメリカ遠征記～&lt;br /&gt;
*7月13日　実録・[[大岡忠相|大岡越前]] ～火事と闘った知られざる素顔～&lt;br /&gt;
*7月20日　信長の巨大鉄船、戦国の海を制す ～織田水軍 VS 村上水軍、決戦大坂湾～&lt;br /&gt;
*7月27日・8月3日　シリーズ終戦60年（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「戦艦大和の悲劇」 ～大艦巨砲主義、時代に敗れる～&lt;br /&gt;
:後編「ソ連参戦の衝撃」 ～満蒙開拓民はなぜ取り残された～&lt;br /&gt;
*8月24日　日露衝突を回避せよ ～[[高田屋嘉兵衛]] 決死の交渉劇～&lt;br /&gt;
*8月31日　家康が最も恐れた男 ～敗者 [[石田三成]]の関ヶ原～&lt;br /&gt;
*9月14日　[[二宮尊徳|二宮金次郎]] 天保の大飢饉を救う&lt;br /&gt;
*9月21日　戦国 出世の方程式 [[藤堂高虎]] 大阪夏の陣の大勝負&lt;br /&gt;
*10月12日　幕末・土佐勤皇党 不滅の志 ～若者たちは変革に命を賭けた～&lt;br /&gt;
*10月19日　誰がための仏教か ～[[鑑真]]和上の宗教改革～&lt;br /&gt;
*11月9日　鎖国の扉を開け ～[[ジョン万次郎]] 漂流民の挑戦～&lt;br /&gt;
*11月16日　秘められたメディア戦略 ～[[児玉源太郎]] 日露戦争のシナリオ～&lt;br /&gt;
*11月30日・12月7日　シリーズ[[真珠湾攻撃|真珠湾]]への道（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「[[山本五十六]] 苦渋の作戦立案」&lt;br /&gt;
:後編「山本五十六 運命の作戦決行」&lt;br /&gt;
*12月14日　歴史の選択　赤穂浪士 ～討ち入り組VS討ち入り不参加組～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2006年===&lt;br /&gt;
*1月11日　人間ドラマ誕生 ～[[近松門左衛門]] [[曽根崎心中]]～&lt;br /&gt;
*1月18日　古代の文明開化 ～1号寺院・[[飛鳥寺]]建立の戦略～&lt;br /&gt;
*2月1日　[[新聞]]誕生 ～幕末・[[浜田彦蔵|ジョセフ彦]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*2月8日　[[壬申の乱]] ～[[天武天皇]]誕生の秘密～&lt;br /&gt;
*2月15日　戦国の花嫁 ～[[山内一豊]]の妻・[[見性院|千代]]～&lt;br /&gt;
*2月22日　[[伝染病]]から日本を守れ ～細菌学者 [[北里柴三郎]]の闘い～&lt;br /&gt;
*3月1日　さらば殿様 ～[[廃藩置県]] 激動の内幕～&lt;br /&gt;
*3月8日　[[零式艦上戦闘機|ゼロ戦]]・設計者が見た悲劇 ～[[マリアナ沖海戦]]への道～ （ここまでが水曜日21:15放送）&lt;br /&gt;
*4月5日　マッカーサーを叱った男 ～[[白洲次郎]]・戦後復興への挑戦～ （ここからが水曜日22:00放送）&lt;br /&gt;
*4月12日　[[大奥]] 悲しみの果てに ～[[徳川家宣]]正室 [[天英院]] 煕子の生涯～&lt;br /&gt;
*4月19日　それでも地球は動いた ～[[ガリレオ・ガリレイ]]の栄光と挫折～&lt;br /&gt;
*4月26日　歴史の選択　本能寺の変 織田信長 VS 明智光秀 ～激突!改革か安定か～&lt;br /&gt;
*5月17日　響け 希望の歌声 ～戦後初の流行歌「リンゴの唄」～&lt;br /&gt;
*5月24日　帝と民の巨大プロジェクト ～東大寺大仏 [[聖武天皇]]の挑戦～   &lt;br /&gt;
*5月31日　これは正義の戦いか ～ジャーナリストたちの[[ベトナム戦争]]～&lt;br /&gt;
*6月21日　幻の大艦隊 ～[[イギリス]]から見た[[薩英戦争]]～&lt;br /&gt;
*7月5日　勝負師は志高く ～碁聖・[[本因坊秀策]]の無敗伝説～&lt;br /&gt;
*7月12日　生まれ来る命 そして母のために ～[[荻野久作]]の受胎期の発見～&lt;br /&gt;
*7月26日　歴史の選択　川中島の戦い 引き分けの謎&lt;br /&gt;
*8月2日　焼け跡から生まれたチャンピオン ～ボクシング [[白井義男]]と[[アルビン・R・カーン|カーン]]～&lt;br /&gt;
*8月23日　幻のハワイ・日本同盟計画&lt;br /&gt;
*8月30日・9月6日　シリーズ 日本独立 その光と影（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「吉田茂と[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]] 前編」&lt;br /&gt;
:後編「吉田茂とサンフランシスコ講和条約 後編」&lt;br /&gt;
*9月13日・20日　「シリーズ・秀吉の[[家族]]」（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「もう一人の秀吉 ～[[豊臣秀長]] [[太閤記]]を演出した弟～」&lt;br /&gt;
:後編「戦国の母 関ヶ原を決す ～[[高台院|おね]]・豊臣政権生き残りへの道～」&lt;br /&gt;
*10月4日　戦火をこえた青春の白球 ～[[学徒出陣]]前 最後の[[早慶戦]]～&lt;br /&gt;
*10月11日　神は我を救い給（たま）うか ～キリシタン 細川ガラシャの生涯～&lt;br /&gt;
*10月18日　格差の怒り 政府を倒す ～[[大正デモクラシー]]を生んだ[[米騒動]]～&lt;br /&gt;
*11月1日　歴史の選択　坂本龍馬暗殺 黒幕は誰か?&lt;br /&gt;
*11月8日　日本を発見した日本人 ～[[柳田國男|柳田国男]]・「[[遠野物語]]」誕生～&lt;br /&gt;
*11月22日　我が手に郷土を ～[[真田昌幸]]・[[信濃国|信州]][[上田市|上田]]の市民戦争～&lt;br /&gt;
*11月29日　ひらがな革命 ～[[国風文化]]を生んだ[[古今和歌集]]～&lt;br /&gt;
*12月20日　母の灯火（ともしび） 小さき者を照らして ～[[石井筆子]]・[[知的障害]]児教育の道～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2007年===&lt;br /&gt;
*1月10日　戦国の剣豪、太平を築く ～[[柳生宗矩]]・「活人剣（かつにんけん）」の真実～&lt;br /&gt;
*1月24日　それでも民は祈り続けた ～[[島原の乱]]・[[キリシタン]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*1月31日　[[東京オリンピック]]への道 ～平和の[[聖火]] アジア横断リレー～&lt;br /&gt;
*2月7日　完成・戦国最強軍団 ～武田信玄・苦悩の生涯～&lt;br /&gt;
*2月14日　中国と国交を回復せよ ～[[足利義満]]の日明外交～&lt;br /&gt;
*2月21日　鉄は国家なり ～技術立国 日本のあけぼの～&lt;br /&gt;
*2月28日　天下は我が掌中にあり ～[[黒田孝高|黒田如水]]・もうひとつの関ヶ原～&lt;br /&gt;
*3月7日　苦しむ患者を救いたい ～[[イタイイタイ病]]裁判・弁護士たちの闘い～&lt;br /&gt;
*3月14日　歴史の選択　[[邪馬台国]]はどこか ～[[近畿地方|近畿]]説VS[[九州地方|九州]]説～&lt;br /&gt;
*3月28日　その時歴史が動いたスペシャル もう一度聞きたい あの人の言葉（22:59まで拡大）&lt;br /&gt;
*4月4日　謙信恐るべし&lt;br /&gt;
*4月11日　[[所得倍増計画]]の夢を追え ～[[高度経済成長]]の軌跡～&lt;br /&gt;
*4月18日　海の関ヶ原 ～[[村上武吉]]・水軍に賭けた夢～&lt;br /&gt;
*4月25日　[[大奥]] 華（はな）にも意地あり ～江戸城無血開城・[[天璋院]]篤姫～&lt;br /&gt;
**[[岩崎ひろみ]]が天璋院役、[[吉井怜]]が和宮役で出演&lt;br /&gt;
*5月2日　[[憲法]]施行60年 特集　[[日本国憲法第9条|憲法九条]] 平和への闘争 ～1950年代 [[改憲]]・[[護憲]]論～（22:30～23:29）&lt;br /&gt;
*5月9日　源頼朝 魔法の大逆転 ～[[富士川の戦い]]～&lt;br /&gt;
*5月16日　日本ミステリー誕生 ～[[江戸川乱歩]]・大衆文化との格闘～&lt;br /&gt;
*5月23日　悲しき女帝 許されざる恋 ～[[宇佐八幡宮神託事件|道鏡事件]]の真相～&lt;br /&gt;
*6月6日　[[メキシコシティオリンピック|メキシコ五輪]] 奇跡の銅メダル ～日本サッカー・勝つための組織作り～&lt;br /&gt;
*6月13日　ニッポン外交力誕生 ～[[伊藤博文]]・[[神戸事件]]解決～&lt;br /&gt;
*6月20日　乱世に祈りを ～[[蓮如]]（れんにょ）・理想郷の建設～&lt;br /&gt;
*7月4日　[[冷戦]]の壁を破ろうとした男 ～[[石橋湛山]]・世界平和への願い～&lt;br /&gt;
*7月11日　天才信長をつくった男 ～[[今川義元]] 真説・[[桶狭間の戦い]]～&lt;br /&gt;
*8月1日　忘れられた島の闘い ～[[沖縄返還]]への軌跡～&lt;br /&gt;
*9月5日　引き裂かれた村 ～日米戦の舞台・[[フィリピン]]～&lt;br /&gt;
*9月12日　外交の信念 時流に散る ～宰相・[[広田弘毅|廣田弘毅]]の闘い～&lt;br /&gt;
*9月19日　赤ちゃんを死なせない ～[[乳幼児死亡率|乳児死亡率]]ゼロ・ある村の記録～&lt;br /&gt;
*9月26日　[[日中国交正常化]]&lt;br /&gt;
*10月3日　特別企画 歴史ドキュメント01（ゼロワン）　[[食通|グルメ]]誕生 ～[[北大路魯山人]]と器～&lt;br /&gt;
*10月10日　賤（しず）ヶ岳に散った夢 ～猛将・[[柴田勝家]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*10月17日　義に死すとも不義に生きず ～[[会津戦争]] [[松平容保]] 悲運の決断～&lt;br /&gt;
*10月24日　[[銀]]を制する者は天下を制す ～[[毛利氏|毛利一族]]の戦い～&lt;br /&gt;
*10月31日　[[奇兵隊]] ～幕末に命を賭けた若き庶民たち～&lt;br /&gt;
*11月14日　[[国際連合]]加盟 ～[[重光葵]] 日本から世界へのメッセージ～&lt;br /&gt;
*11月21日　[[継体天皇]] [[ヤマト王権|ヤマト]]を救う&lt;br /&gt;
*11月28日　[[緒方洪庵]]・[[天然痘]]との闘い&lt;br /&gt;
*12月5日　[[戦後]][[引揚者|引き揚げ]] 660万人故郷への道&lt;br /&gt;
*12月12日　天下に旗をあげよ ～伊達政宗・ヨーロッパに賭けた夢～&lt;br /&gt;
*12月19日　[[対馬府中藩|対馬藩]]・決死の国書すり替え ～[[朝鮮通信使]]秘話～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:日本放送協会テレビ番組|そのときれきしかうこいたのせんほうそうりすと]]&lt;br /&gt;
[[category:教養番組|そのときれきしかうこいたのせんほうそうりすと]]&lt;br /&gt;
[[category:ドキュメンタリー番組|そのときれきしかうこいたのせんほうそうりすと]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=19814</id>
		<title>香港スプリント</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''香港スプリント'''（'''香港短途錦標'''、'''Hong Kong Sprint'''）とは毎年12月中旬に[[中華人民共和国]]の[[香港]]にある[[沙田競馬場]]の芝1200メートルで行われる3歳以上の[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港国際賽事（[[香港国際競走]]）として[[香港カップ]]（芝2000メートル）、[[香港マイル]]（芝1600メートル）、[[香港ヴァーズ]]（芝2400メートル）といった国際G1（グループワン）と同日に開催されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港競馬年度シーズンの最初の短距離路線のG1競走で[[ヨーロッパ]]や[[日本]]、[[オセアニア]]から第一線級の[[スプリンター]]が多数出走する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年の日本競馬においては[[スプリンターズステークス]]が[[2000年]]に10月第1週に移動した事により、スプリント路線のその年の締めくくりとして当競走に出走するローテーションが定着しつつある（ただし[[2007年]]現在、日本調教馬による当競走の勝利は無い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
*[[1999年]] 国際リステッド競走として創設。&lt;br /&gt;
*[[2000年]] 国際G3に昇格。&lt;br /&gt;
*[[2001年]] &lt;br /&gt;
**国際G2に昇格。&lt;br /&gt;
**[[オーストラリア]]調教馬のFalvelon（[[ファルヴェロン]]）が史上初の連覇。&lt;br /&gt;
*[[2002年]] 国際G1に昇格。&lt;br /&gt;
*[[2004年]] 地元香港の英雄Silent Witness（[[サイレントウィットネス]]）が当時13戦無敗のまま、2頭目の連覇。&lt;br /&gt;
*[[2006年]] [[グローバル・スプリント・チャレンジ]]シリーズに参加し、その最終戦として開催。それに伴い施行距離を芝1200メートルに変更。スタート地点も従来の直線コースからバックストレッチへ移動。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==主なプレップレース==&lt;br /&gt;
*[[香港]]地区内&lt;br /&gt;
**インターナショナルスプリントトライアル （國際短途錦標預賽） 香港国内G2 3歳以上 芝直線1000メートル&lt;br /&gt;
**インターナショナルマイルトライアル （國際一哩錦標預賽） 香港国内G2 3歳以上 芝1600メートル&lt;br /&gt;
*[[日本]]&lt;br /&gt;
**[[スプリンターズステークス]] 国際GI 3歳以上 芝1200メートル&lt;br /&gt;
**[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBCスプリント]] 日本地方交流JpnI 3歳以上 ダート1200メートル&lt;br /&gt;
**[[スワンステークス]] 国際GII 3歳以上 芝1400メートル&lt;br /&gt;
*[[フランス]]&lt;br /&gt;
**[[アベイ・ド・ロンシャン賞]] （Prix de l'Abbaye de Longchamp） 国際G1 2歳以上 芝直線1000メートル&lt;br /&gt;
*[[アメリカ合衆国|アメリカ]]&lt;br /&gt;
**[[ブリーダーズカップ・スプリント|ブリーダーズカップスプリント]] （Deere Breeders' Cup Sprint） 国際G1 3歳以上 ダート6ハロン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴代優勝馬==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;background:#f9f9f9&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!施行日!!優勝馬!!性齢!!勝時計!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第1回||[[1999年]][[12月12日]]||[[フェアリーキングプローン|Fairy King Prawn]]||騸4||0:56.5||[[スティーヴン・キング|S.King]]||[[リッキー・イウ|R.Yiu]]||Mr &amp;amp; Mrs L.Sak Hong&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第2回||[[2000年]][[12月17日]]||[[ファルヴェロン|Falvelon]]||牡5||0:56.7||[[ダミアン・オリヴァー|D.Oliver]]||[[ダニー・ボーゴーア|D.Bougoure]]||Mrs D.Falvey Et Al&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第3回||[[2001年]][[12月16日]]||Falvelon||牡5||0:57.0||D.Oliver||D.Bougoure||Mrs D.Falvey Et Al&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第4回||[[2002年]][[12月15日]]||All Thrills Too||騸5||0:56.4||[[ジェラール・モッセ|G.Mosse]]||[[デイヴィッド・ヘイズ|D.Hayes]]||A.L.Man Bun&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第5回||[[2003年]][[12月14日]]||[[サイレントウィットネス|Silent Witness]]||騸4||0:56.5||[[フェリックス・コーツィー|F.Coetzee]]||[[アンソニー・クルーズ|A.Cruz]]||A.A. &amp;amp; B.da Silva&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第6回||[[2004年]]12月12日||Silent Witness||騸5||0:56.8||F.Coetzee||A.Cruz||A.A. &amp;amp; B.da Silva&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第7回||[[2005年]][[12月11日]]||[[ナチュラルブリッツ|Natural Blitz]]||騸5||0:57.6||[[グリン・スコフィールド|G.Schofield]]||[[デレク・クルーズ|D.Cruz]]||L.Yin Kee&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第8回||[[2006年]][[12月10日]]||[[アブソリュートチャンピオン|Absolute Champion]]||騸5||1:07.8||[[ブレット・プレブル|B.Prebble]]||[[デイヴィッド・ホール|D.Hall]]||Mr &amp;amp; Mrs E.W.Ming Chak&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第9回||[[2007年]][[12月9日]]||[[セイクリッドキングダム|Sacred Kingdom]]||騸4||1:08.4||G.Mosse||R.Yiu||S.Kang Yuk&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
===日本調教馬の成績===&lt;br /&gt;
{{Main|日本調教馬の日本国外への遠征}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.hkjockeyclub.com/english/index.asp The Hong Kong Jockey Club] - 主催者である香港賽馬會の英語ページ&lt;br /&gt;
*[http://www.globalsprintchallenge.com/ グローバル・スプリント・チャレンジ大会公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{香港国際競走}}&lt;br /&gt;
{{グローバル・スプリント・チャレンジ}}&lt;br /&gt;
[[Category:香港の競馬の競走|ほんこんすふりんと]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=19813</id>
		<title>香港スプリント</title>
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				<updated>2007-12-11T02:40:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''香港スプリント'''（'''香港短途錦標'''、'''Hong Kong Sprint'''）とは毎年12月中旬に[[中華人民共和国]]の[[香港]]にある[[沙田競馬場]]の芝1200メートルで行われる3歳以上の[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港国際賽事（[[香港国際競走]]）として[[香港カップ]]（芝2000メートル）、[[香港マイル]]（芝1600メートル）、[[香港ヴァーズ]]（芝2400メートル）といった国際G1（グループワン）と同日に開催されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港競馬年度シーズンの最初の短距離路線のG1競走で[[ヨーロッパ]]や[[日本]]、[[オセアニア]]から第一線級の[[スプリンター]]が多数出走する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年の日本競馬においては[[スプリンターズステークス]]が[[2000年]]に10月第1週に移動した事により、スプリント路線のその年の締めくくりとして当競走に出走するローテーションが定着しつつある（ただし[[2007年]]現在、日本調教馬による当競走の勝利は無い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
*[[1999年]] 国際リステッド競走として創設。&lt;br /&gt;
*[[2000年]] 国際G3に昇格。&lt;br /&gt;
*[[2001年]] &lt;br /&gt;
**国際G2に昇格。&lt;br /&gt;
**[[オーストラリア]]調教馬のFalvelon（[[ファルヴェロン]]）が史上初の連覇。&lt;br /&gt;
*[[2002年]] 国際G1に昇格。&lt;br /&gt;
*[[2004年]] 地元香港の英雄Silent Witness（[[サイレントウィットネス]]）が当時13戦無敗のまま、2頭目の連覇。&lt;br /&gt;
*[[2006年]] [[グローバル・スプリント・チャレンジ]]シリーズに参加し、その最終戦として開催。それに伴い施行距離を芝1200メートルに変更。スタート地点も従来の直線コースからバックストレッチへ移動。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==主なプレップレース==&lt;br /&gt;
*[[香港]]地区内&lt;br /&gt;
**インターナショナルスプリントトライアル （國際短途錦標預賽） 香港国内G2 3歳以上 芝直線1000メートル&lt;br /&gt;
**インターナショナルマイルトライアル （國際一哩錦標預賽） 香港国内G2 3歳以上 芝1600メートル&lt;br /&gt;
*[[日本]]&lt;br /&gt;
**[[スプリンターズステークス]] 国際GI 3歳以上 芝1200メートル&lt;br /&gt;
**[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBCスプリント]] 日本地方交流JpnI 3歳以上 ダート1200メートル&lt;br /&gt;
**[[スワンステークス]] 国際GII 3歳以上 芝1400メートル&lt;br /&gt;
*[[フランス]]&lt;br /&gt;
**[[アベイ・ド・ロンシャン賞]] （Prix de l'Abbaye de Longchamp） 国際G1 2歳以上 芝直線1000メートル&lt;br /&gt;
*[[アメリカ合衆国|アメリカ]]&lt;br /&gt;
**[[ブリーダーズカップ・スプリント|ブリーダーズカップスプリント]] （Deere Breeders' Cup Sprint） 国際G1 3歳以上 ダート6ハロン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴代優勝馬==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;background:#f9f9f9&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!施行日!!優勝馬!!性齢!!勝時計!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第1回||[[1999年]][[12月12日]]||[[フェアリーキングプローン|Fairy King Prawn]]||騸4||0:56.5||[[スティーヴン・キング|S.King]]||[[リッキー・イウ|R.Yiu]]||Mr &amp;amp; Mrs L.Sak Hong&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第2回||[[2000年]][[12月17日]]||[[ファルヴェロン|Falvelon]]||牡5||0:56.7||[[ダミアン・オリヴァー|D.Oliver]]||[[ダニー・ボーゴーア|D.Bougoure]]||Mrs D.Falvey Et Al&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第3回||[[2001年]][[12月16日]]||Falvelon||牡5||0:57.0||D.Oliver||D.Bougoure||Mrs D.Falvey Et Al&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第4回||[[2002年]][[12月15日]]||All Thrills Too||騸5||0:56.4||[[ジェラール・モッセ|G.Mosse]]||[[デイヴィッド・ヘイズ|D.Hayes]]||A.L.Man Bun&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第5回||[[2003年]][[12月14日]]||[[サイレントウィットネス|Silent Witness]]||騸4||0:56.5||[[フェリックス・コーツィー|F.Coetzee]]||[[アンソニー・クルーズ|A.Cruz]]||A.A. &amp;amp; B.da Silva&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第6回||[[2004年]]12月12日||Silent Witness||騸5||0:56.8||F.Coetzee||A.Cruz||A.A. &amp;amp; B.da Silva&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第7回||[[2005年]][[12月11日]]||[[ナチュラルブリッツ|Natural Blitz]]||騸5||0:57.6||[[グリン・スコフィールド|G.Schofield]]||[[デレク・クルーズ|D.Cruz]]||L.Yin Kee&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第8回||[[2006年]][[12月10日]]||[[アブソリュートチャンピオン|Absolute Champion]]||騸5||1:07.8||[[ブレット・プレブル|B.Prebble]]||[[デイヴィッド・ホール|D.Hall]]||Mr &amp;amp; Mrs E.W.Ming Chak&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第9回||[[2006年]][[12月9日]]||[[セイクリッドキングダム|Sacred Kingdom]]||騸4||1:08.4||G.Mosse||R.Yiu||S.Kang Yuk&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
===日本調教馬の成績===&lt;br /&gt;
{{Main|日本調教馬の日本国外への遠征}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.hkjockeyclub.com/english/index.asp The Hong Kong Jockey Club] - 主催者である香港賽馬會の英語ページ&lt;br /&gt;
*[http://www.globalsprintchallenge.com/ グローバル・スプリント・チャレンジ大会公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{香港国際競走}}&lt;br /&gt;
{{グローバル・スプリント・チャレンジ}}&lt;br /&gt;
[[Category:香港の競馬の競走|ほんこんすふりんと]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
このページは[http://ja.wikipedia.org/wiki/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/香港スプリント '''香港スプリント''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=香港スプリント&amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。[[Yourpedia]]と同じく[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=19812</id>
		<title>香港スプリント</title>
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				<updated>2007-12-11T02:39:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''香港スプリント'''（'''香港短途錦標'''、'''Hong Kong Sprint'''）とは毎年12月中旬に[[中華人民共和国]]の[[香港]]にある[[沙田競馬場]]の芝1200メートルで行われる3歳以上の[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港国際賽事（[[香港国際競走]]）として[[香港カップ]]（芝2000メートル）、[[香港マイル]]（芝1600メートル）、[[香港ヴァーズ]]（芝2400メートル）といった国際G1（グループワン）と同日に開催されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港競馬年度シーズンの最初の短距離路線のG1競走で[[ヨーロッパ]]や[[日本]]、[[オセアニア]]から第一線級の[[スプリンター]]が多数出走する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年の日本競馬においては[[スプリンターズステークス]]が[[2000年]]に10月第1週に移動した事により、スプリント路線のその年の締めくくりとして当競走に出走するローテーションが定着しつつある（ただし[[2007年]]現在、日本調教馬による当競走の勝利は無い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
*[[1999年]] 国際リステッド競走として創設。&lt;br /&gt;
*[[2000年]] 国際G3に昇格。&lt;br /&gt;
*[[2001年]] &lt;br /&gt;
**国際G2に昇格。&lt;br /&gt;
**[[オーストラリア]]調教馬のFalvelon（[[ファルヴェロン]]）が史上初の連覇。&lt;br /&gt;
*[[2002年]] 国際G1に昇格。&lt;br /&gt;
*[[2004年]] 地元香港の英雄Silent Witness（[[サイレントウィットネス]]）が当時13戦無敗のまま、2頭目の連覇。&lt;br /&gt;
*[[2006年]] [[グローバル・スプリント・チャレンジ]]シリーズに参加し、その最終戦として開催。それに伴い施行距離を芝1200メートルに変更。スタート地点も従来の直線コースからバックストレッチへ移動。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==主なプレップレース==&lt;br /&gt;
*[[香港]]地区内&lt;br /&gt;
**インターナショナルスプリントトライアル （國際短途錦標預賽） 香港国内G2 3歳以上 芝直線1000メートル&lt;br /&gt;
**インターナショナルマイルトライアル （國際一哩錦標預賽） 香港国内G2 3歳以上 芝1600メートル&lt;br /&gt;
*[[日本]]&lt;br /&gt;
**[[スプリンターズステークス]] 国際GI 3歳以上 芝1200メートル&lt;br /&gt;
**[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBCスプリント]] 日本地方交流JpnI 3歳以上 ダート1200メートル&lt;br /&gt;
**[[スワンステークス]] 国際GII 3歳以上 芝1400メートル&lt;br /&gt;
*[[フランス]]&lt;br /&gt;
**[[アベイ・ド・ロンシャン賞]] （Prix de l'Abbaye de Longchamp） 国際G1 2歳以上 芝直線1000メートル&lt;br /&gt;
*[[アメリカ合衆国|アメリカ]]&lt;br /&gt;
**[[ブリーダーズカップ・スプリント|ブリーダーズカップスプリント]] （Deere Breeders' Cup Sprint） 国際G1 3歳以上 ダート6ハロン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴代優勝馬==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;background:#f9f9f9&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!施行日!!優勝馬!!性齢!!勝時計!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第1回||[[1999年]][[12月12日]]||[[フェアリーキングプローン|Fairy King Prawn]]||騸4||0:56.5||[[スティーヴン・キング|S.King]]||[[リッキー・イウ|R.Yiu]]||Mr &amp;amp; Mrs L.Sak Hong&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第2回||[[2000年]][[12月17日]]||[[ファルヴェロン|Falvelon]]||牡5||0:56.7||[[ダミアン・オリヴァー|D.Oliver]]||[[ダニー・ボーゴーア|D.Bougoure]]||Mrs D.Falvey Et Al&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第3回||[[2001年]][[12月16日]]||Falvelon||牡5||0:57.0||D.Oliver||D.Bougoure||Mrs D.Falvey Et Al&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第4回||[[2002年]][[12月15日]]||All Thrills Too||騸5||0:56.4||[[ジェラール・モッセ|G.Mosse]]||[[デイヴィッド・ヘイズ|D.Hayes]]||A.L.Man Bun&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第5回||[[2003年]][[12月14日]]||[[サイレントウィットネス|Silent Witness]]||騸4||0:56.5||[[フェリックス・コーツィー|F.Coetzee]]||[[アンソニー・クルーズ|A.Cruz]]||A.A. &amp;amp; B.da Silva&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第6回||[[2004年]]12月12日||Silent Witness||騸5||0:56.8||F.Coetzee||A.Cruz||A.A. &amp;amp; B.da Silva&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第7回||[[2005年]][[12月11日]]||[[ナチュラルブリッツ|Natural Blitz]]||騸5||0:57.6||[[グリン・スコフィールド|G.Schofield]]||[[デレク・クルーズ|D.Cruz]]||L.Yin Kee&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第8回||[[2006年]][[12月10日]]||[[アブソリュートチャンピオン|Absolute Champion]]||騸5||1:07.8||[[ブレット・プレブル|B.Prebble]]||[[デイヴィッド・ホール|D.Hall]]||Mr &amp;amp; Mrs E.W.Ming Chak&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第8回||[[2006年]][[12月9日]]||[[セイクリッドキングダム|Sacred Kingdom]]||騸4||1:08.4||G.Mosse||R.Yiu||S.Kang Yuk&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
===日本調教馬の成績===&lt;br /&gt;
{{Main|日本調教馬の日本国外への遠征}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.hkjockeyclub.com/english/index.asp The Hong Kong Jockey Club] - 主催者である香港賽馬會の英語ページ&lt;br /&gt;
*[http://www.globalsprintchallenge.com/ グローバル・スプリント・チャレンジ大会公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{香港国際競走}}&lt;br /&gt;
{{グローバル・スプリント・チャレンジ}}&lt;br /&gt;
[[Category:香港の競馬の競走|ほんこんすふりんと]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
このページは[http://ja.wikipedia.org/wiki/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/香港スプリント '''香港スプリント''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=香港スプリント&amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。[[Yourpedia]]と同じく[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB&amp;diff=19811</id>
		<title>香港マイル</title>
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				<updated>2007-12-11T02:35:44Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: 新しいページ: ''''香港マイル'''（'''香港一哩錦標'''、'''Hong Kong Mile'''）とは毎年12月中旬に中華人民共和国の香港にある沙田競馬場の芝1600...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''香港マイル'''（'''香港一哩錦標'''、'''Hong Kong Mile'''）とは毎年12月中旬に[[中華人民共和国]]の[[香港]]にある[[沙田競馬場]]の芝1600メートルで行われる3歳以上の[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港国際賽事（[[香港国際競走]]）として[[香港カップ]]（芝2000メートル）、[[香港スプリント]]（芝1200メートル）、[[香港ヴァーズ]]（芝2400メートル）といった国際G1（グループワン）と同日に開催されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港競馬年度シーズンの最初のマイル路線のG1競走で[[ヨーロッパ]]や[[日本]]の一線級の競走馬が多く出走する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
*[[1991年]] 「香港招待ボウル」として創設、施行距離は芝1400メートル&lt;br /&gt;
*[[1993年]] 「香港国際ボウル」に改称&lt;br /&gt;
*[[1994年]] 国際G3に昇格&lt;br /&gt;
*[[1995年]] 国際G2に昇格&lt;br /&gt;
*[[1999年]] 「香港マイル」に改称、施行距離を芝1400メートルから芝1600メートルに変更&lt;br /&gt;
*[[2000年]] 国際G1に昇格&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==主なプレップレース==&lt;br /&gt;
*[[香港]]地区内&lt;br /&gt;
**インターナショナルカップトライアル　（國際盃預賽）　香港国内G2　3歳以上　芝2000メートル&lt;br /&gt;
**インターナショナルマイルトライアル　（國際一哩錦標預賽）　香港国内G2　3歳以上　芝1600メートル&lt;br /&gt;
*[[日本]]&lt;br /&gt;
**[[マイルチャンピオンシップ]]　国際GI　3歳以上　芝1600メートル&lt;br /&gt;
**[[スワンステークス]]　国際GII　3歳以上　芝1400メートル&lt;br /&gt;
*[[フランス]]&lt;br /&gt;
**[[フォレ賞]]　（Prix de la Forêt）　国際G1　3歳以上　芝1400メートル&lt;br /&gt;
*[[アメリカ合衆国|アメリカ]]&lt;br /&gt;
**[[ブリーダーズカップ・マイル|ブリーダーズカップマイル]]　（Breeders' Cup Mile）　国際G1　3歳以上　芝8ハロン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴代優勝馬==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;background:#f9f9f9&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!施行日!!優勝馬!!性齢!!勝時計!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第1回||[[1991年]][[12月15日]]||Additional Risk||牡3||1:21.9||[[マイケル・キネーン|M.Kinane]]||[[ダーモット・ウェルド|D.Weld]]||Moyglare Stud Farm&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第2回||[[1993年]][[4月18日]]||Glen Kate||牝6||1:22.2||C.Black||[[ウィリー・シューメーカー|W.Shoemaker]]||Lord Matthews&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第3回||1993年[[12月12日]]||Winning Partners||騸5||1:22.6||M.Kinane||[[ネヴィル・ベッグ|N.Begg]]||K.H.Yue Et Al&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第4回||[[1994年]][[12月11日]]||Soviet Line||騸4||1:22.0||[[ウォルター・スウィンバーン|W.Swinburn]]||[[マイケル・スタウト|M.Stoute]]||M.Al Maktoum&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第5回||[[1995年]][[12月10日]]||Monopolize||騸5||1:21.5||[[ウェイン・ハリス|W.Harris]]||[[グレアム・ベッグ|G.Begg]]||N.Begg, P.Syndicate, C.Begg, J.Y.Hung&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第6回||[[1996年]][[12月8日]]||Monopolize||騸6||1:22.0||[[ダレン・ビードマン|D.Beadman]]||G.Begg||N.Begg, P.Syndicate, C.Begg, J.Y.Hung&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第7回||[[1997年]][[12月14日]]||Catalan Opening||騸5||1:22.0||D.Beadman||[[バート・カミングス|J.Cummings]]||D.T.Chin Nam&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第8回||[[1998年]][[12月13日]]|||[[ジムアントトニック|Jim and Tonic]]||騸4||1:21.7||[[ジェラール・モッセ|G.Mosse]]||[[フランソワ・ドゥーメン|F.Doumen]]||J.Martin &amp;amp; R.Barby&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第9回||[[1999年]]12月12日||Docksider||牡4||1:34.7||[[オリビエ・ペリエ|O.Peslier]]||[[ジョン・ヒルズ|J.Hills]]||G.Tanaka&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第10回||[[2000年]][[12月17日]]||[[サンライン|Sunline]]||牝5||1:34.2||[[グレッグ・チャイルズ|G.Childs]]||[[トレヴァー・マッキー|T.Mckee]]||T.J.McKee, T.A.Green, Mrs H.M.Lusty&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第11回||[[2001年]][[12月16日]]||[[エイシンプレストン|Eishin Preston]]||牡4||1:34.8||[[福永祐一]]||[[北橋修二]]||[[平井豊光]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第12回||[[2002年]]12月15日||[[オリンピックエクスプレス|Olympic Express]]||騸4||1:34.9||[[ウェイチョン・マーウィング|W.Marwing]]||[[アイヴァン・アラン|I.Allan]]||L.Yung&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第13回||[[2003年]]12月14日||[[ラッキーオーナーズ|Lucky Owners]]||牡4||1:34.3||[[フェリックス・コーツィー|F.Coetzee]]||[[アンソニー・クルーズ|A.Cruz]]||Mr &amp;amp; Mrs L.Kai Fai&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第14回||[[2004年]]12月12日||Firebreak||牡5||1:34.6||[[ランフランコ・デットーリ|L.Dettori]]||[[サイード・ビン・スルール|S.bin Suroor]]||[[ゴドルフィン|Godolphin]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第15回||[[2005年]]12月11日||[[ハットトリック (競走馬)|Hat Trick]]||牡4||1:34.8||O.Peslier||[[角居勝彦]]||[[キャロットファーム|（有）キャロットファーム]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第16回||[[2006年]]12月10日||[[ザデューク|The Duke]]||騸7||1.33.4||[[オリビエ・ドルーズ|O.Doleuze]]||[[キャスパー・フォウンズ|C.Fownes]]||E.J.Yau&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第17回||[[2007年]][[12月9日]]||[[グッドババ|Good Ba Ba]]||騸5||1:34.5||O.Doleuze||[[アンドレアス・シュッツ|A.Schutz]]||J.Y.Se Kit&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
===日本調教馬の成績===&lt;br /&gt;
{{Main|日本調教馬の日本国外への遠征}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[チャンピオンズマイル]]&lt;br /&gt;
*[[ブリーダーズカップ・マイル]]&lt;br /&gt;
*[[マイルチャンピオンシップ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.hkjockeyclub.com/english/index.asp The Hong Kong Jockey Club] - 主催者である香港賽馬會の英語ページ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{香港国際競走}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:香港の競馬の競走|ほんこんまいる]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
このページは[http://ja.wikipedia.org/wiki/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/香港マイル '''香港マイル''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=香港マイル&amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。[[Yourpedia]]と同じく[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=19810</id>
		<title>香港ヴァーズ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=19810"/>
				<updated>2007-12-11T02:13:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: 新しいページ: ''''香港ヴァーズ'''（'''香港瓶'''、'''Hong Kong Vase'''）とは毎年12月中旬に中華人民共和国の香港にある沙田競馬場の芝2400[[...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''香港ヴァーズ'''（'''香港瓶'''、'''Hong Kong Vase'''）とは毎年12月中旬に[[中華人民共和国]]の[[香港]]にある[[沙田競馬場]]の[[芝]]2400[[メートル]]で行われる3歳以上の[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港国際賽事（[[香港国際競走]]）として[[香港カップ]]（芝2,000メートル）、[[香港スプリント]]（芝1,200メートル）、[[香港マイル]]（芝1,600メートル）といった国際G1（グループワン）と同日に開催されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港競馬年度シーズンの最初の中長距離路線のG1競走であるが香港では2000m以上の競走があまり日程に組み込まれていないため、[[ヨーロッパ]]など他地区の競走馬が地元勢を圧倒する事が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
*[[1994年]] 「香港国際ヴァーズ」として創設、競走グループは国際リステッド&lt;br /&gt;
*[[1996年]] 国際G2に昇格&lt;br /&gt;
*[[1997年]] [[イギリス]]調教馬の[[ルソー (競走馬)|ルソー]]（Luso）が史上初の連覇&lt;br /&gt;
*[[2000年]] &lt;br /&gt;
**「香港ヴァーズ」に改称&lt;br /&gt;
**国際G1に昇格&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==主なプレップレース==&lt;br /&gt;
*[[香港]]地区内&lt;br /&gt;
**インターナショナルカップトライアル（國際盃預賽） 香港国内G2 3歳以上 芝2000メートル&lt;br /&gt;
*[[日本]]&lt;br /&gt;
**[[ジャパンカップ]] 国際GI 3歳以上 芝2400メートル&lt;br /&gt;
**[[エリザベス女王杯]] 国際GI 3歳以上牝馬 芝2200メートル&lt;br /&gt;
*[[フランス]]&lt;br /&gt;
**[[凱旋門賞]] （Prix de l'Arc de Triomphe） 国際G1 3歳以上牡馬・牝馬 芝2400メートル&lt;br /&gt;
*[[アメリカ合衆国|アメリカ]]&lt;br /&gt;
**[[ブリーダーズカップ・ターフ|ブリーダーズカップターフ]] （Breeders' Cup Turf） 国際G1 3歳以上 芝12[[ハロン (単位)|ハロン]]&lt;br /&gt;
**[[ブリーダーズカップ・フィリー&amp;amp;メアターフ|ブリーダーズカップフィリー&amp;amp;メアターフ]] （Breeders' Cup Filly &amp;amp; Mare Turf） 国際G1 3歳以上牝馬 芝11ハロン&lt;br /&gt;
*[[カナダ]]&lt;br /&gt;
**[[カナディアンインターナショナルステークス]] （Canadian International Stakes） 国際G1 3歳以上 芝12ハロン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴代優勝馬==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;background:#f9f9f9&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!施行日!!優勝馬!!性齢!!勝時計!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第1回||[[1994年]][[12月11日]]||Red Bishop||牡6||2:25.1||[[キャッシュ・アスムッセン|C.Asmussen]]||[[ジョン・ハモンド|J.Hammond]]||A.Saeed Bilhab&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第2回||[[1995年]][[12月10日]]||Partipral||牡6||2:25.7||[[オリビエ・ペリエ|O.Peslier]]||[[エリー・ルルーシュ|E.Lellouche]]||E.Sarasola&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第3回||[[1996年]][[12月8日]]||[[ルソー (競走馬)|Luso]]||牡4||2:26.1||[[ランフランコ・デットーリ|L.Dettori]]||[[クライヴ・ブリテン|C.Brittain]]||S.Manana&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第4回||[[1997年]][[12月14日]]||Luso||牡5||2:26.3||[[マイケル・キネーン|M.Kinane]]||C.Brittain||S.Manana&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第5回||[[1998年]][[12月13日]]||[[インディジェナス|Indigenous]]||騸5||2:27.4||[[ダグラス・ホワイト|D.Whyte]]||[[アイヴァン・アラン|I.Allan]]||Mr &amp;amp; Mrs P.Yuen Hing&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第6回||[[1999年]][[12月12日]]||[[ボルジア|Borgia]]||牝5||2:30.1||O.Peslier||[[アンドレ・ファーブル|A.Fabre]]||Gestut Ammerland&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第7回||[[2000年]][[12月17日]]||Daliapour||牡4||2:28.2||[[ジョニー・ムルタ|J.Murtagh]]||[[マイケル・スタウト|M.Stoute]]||Lucky Stable&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第8回||[[2001年]][[12月16日]]||[[ステイゴールド|Stay Gold]]||牡7||2:27.8||[[武豊]]||[[池江泰郎]]||[[社台レースホース|（有）社台レースホース]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第9回||[[2002年]][[12月15日]]||[[アンジュガブリエル|Ange Gabriel]]||牡4||2:28.4||[[ティエリ・ジャルネ|T.Jarnet]]||[[エリック・リボー|E.Libaud]]||Madame H.Devin&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第10回||[[2003年]]12月14日||Vallee Enchantee||牝3||2:28.2||[[ドミニク・ブフ|D.Boeuf]]||E.Lellouche||E.Wildenstein&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第11回||[[2004年]]12月12日||Phoenix Reach||牡4||2:29.8||[[マーティン・ドワイヤー|M.Dwyer]]||[[アンドリュー・ボールディング|A.Balding]]||Winterbeck Manor Stud&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第12回||[[2005年]]12月11日||[[ウィジャボード (競走馬)|Ouija Board]]||牝4||2:28.9||[[キーレン・ファロン|K.Fallon]]||[[エド・ダンロップ|E.Dunlop]]||Lord Derby&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第13回||[[2006年]]12月10日||[[コリアーヒル|Collier Hill]]||牡8||2:27.1||[[ディーン・マッキューン|D.McKeown]]||[[アラン・スウィンバンク|G.A.Swinbank]]||R.H.Hall, J.D.Abell, R.Crowe&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|第14回||[[2007年]][[12月9日]]||[[ドクターディーノ|Doctor Dino]]||牡5||2:28.2||O.Peslier||[[リチャード・ギブソン|R.Gibson]]||J.M.Salmean&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
===日本調教馬の成績===&lt;br /&gt;
{{Main|日本調教馬の日本国外への遠征}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.hkjockeyclub.com/english/index.asp The Hong Kong Jockey Club] - 主催者である香港賽馬會の英語ページ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{香港国際競走}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:香港の競馬の競走|ほんこんうあす]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
このページは[http://ja.wikipedia.org/wiki/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/香港ヴァーズ '''香港ヴァーズ''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=香港ヴァーズ&amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。[[Yourpedia]]と同じく[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%A6%99%E6%B8%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%AB%B6%E8%B5%B0&amp;diff=19809</id>
		<title>香港国際競走</title>
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				<updated>2007-12-11T01:58:13Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: 新しいページ: ''''香港国際競走'''（ほんこんこくさいきょうそう・香港國際賽事・HONG KONG International Races）とは毎年12月第2週頃に行われる[[香港ジ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''香港国際競走'''（ほんこんこくさいきょうそう・香港國際賽事・HONG KONG International Races）とは毎年12月第2週頃に行われる[[香港ジョッキークラブ]]主催の競馬イベントシリーズのメインイベントで、イベント週の日曜日に[[中華人民共和国]]・[[香港]]特別行政区にある[[沙田競馬場]]を開催場で施行される4つの国際招待[[競馬の競走|競走]]の総称である。通称：HKIR。創設は[[イギリス]]領だった[[1994年]]から。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港競馬年度シーズン前半最大のイベントであり、[[東アジア]]で最も規模の大きい国際競馬デーである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
メイン競走として行われる[[香港カップ]]競走は競馬の世界選手権とされる[[ワールドレーシング・チャンピオンシップ]]（2005年を最後に中止）の最終戦として行われ、レース後には表彰式も同競馬場で執り行われていた。また[[2006年]]の開催からは[[香港スプリント]]競走が短距離・スプリント路線（1200m以下の競走対象）による世界選手権・[[グローバル・スプリント・チャレンジ]]シリーズの最終戦に指定された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 当日行われる重賞 ==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;background:#f9f9f9&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!競走名!!中国語（繁体字）表記!!競走グループ!!出走条件!!施行コース!!総賞金額&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[香港ヴァーズ]]||香港瓶||国際G1||3歳以上||[[芝]]2400m||1400万香港ドル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[香港スプリント]]||香港短途錦標||国際G1||3歳以上||芝1200m||1200万香港ドル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[香港マイル]]||香港一哩錦標||国際G1||3歳以上||芝1600m||1600万香港ドル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[香港カップ]]||香港盃||国際G1||3歳以上||芝2000m||2000万香港ドル&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
2005年までの香港スプリントは直線1000mで行われたが、2006年の開催からは香港スプリントを1000mから1200mに距離を変更した。また、併せて香港ヴァーズ以外のレースの賞金をそれぞれ200万香港ドルずつ上乗せしている（1香港ドル=約15円）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本調教馬の出走 ==&lt;br /&gt;
香港は日本から比較的距離が近く輸送の点で都合が良いことから香港ヴァーズ以外のレースについては至近に重複するGIレースが他にないためにこのレースを目標として、また香港ヴァーズに関しては施行距離が重なる[[有馬記念]]に出走できない馬がG1制覇を狙って国際G1としては比較的多くの日本調教馬が出走している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
香港スプリント以外ではいずれも日本調教馬が勝利を挙げており[[2001年]]の開催では日本馬が[[香港マイル]]を[[エイシンプレストン]]が、[[香港ヴァーズ]]を[[ステイゴールド]]が、[[香港カップ]]を[[アグネスデジタル]]が制覇し、同一開催日G13連勝の快挙を成し遂げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[インターナショナルジョッキーズチャンピオンシップ]] - 香港国際競走の直前に開催される国際騎手招待競走&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{香港国際競走}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Keiba-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほんこんこくさいきようそう}}&lt;br /&gt;
[[Category:香港の競馬]]&lt;br /&gt;
[[Category:香港の競馬の競走|*ほんこんこくさいきようそう]]&lt;br /&gt;
[[Category:競馬のイベント]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
このページは[http://ja.wikipedia.org/wiki/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/香港国際競走 '''香港国際競走''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=香港国際競走&amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。[[Yourpedia]]と同じく[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=19565</id>
		<title>桶狭間の戦い</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=19565"/>
				<updated>2007-12-06T05:31:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: 新しいページ: '{{Battlebox| |battle_name = 桶狭間の戦い |campaign =  |image = 桶狭間古戦場伝説地（愛知県豊明市） |capti...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox|&lt;br /&gt;
|battle_name = 桶狭間の戦い&lt;br /&gt;
|campaign = &lt;br /&gt;
|image = [[Image:Okehazama Old Battle Field 1.jpg|300px|桶狭間古戦場伝説地（愛知県豊明市）]]&lt;br /&gt;
|caption = 桶狭間古戦場伝説地（愛知県豊明市）&lt;br /&gt;
|conflict = &lt;br /&gt;
|date = [[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]（[[1560年]][[6月12日]]）&lt;br /&gt;
|place = [[尾張国]]桶狭間&lt;br /&gt;
|result = 織田軍の勝利&lt;br /&gt;
|combatant1 = 織田軍&lt;br /&gt;
|combatant2 =　今川軍&lt;br /&gt;
|commander1 = [[織田信長]]&lt;br /&gt;
|commander2 = [[今川義元]]&lt;br /&gt;
|strength1 = 4,000&lt;br /&gt;
|strength2 = 25,000&lt;br /&gt;
|casualties1 = 不明&lt;br /&gt;
|casualties2 = 不明&lt;br /&gt;
|campaign = 織田信長の戦闘&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa in Okehazama.jpg|thumb|200px|right|今川義元の墓（[[明治]]9年（[[1876年]]）5月建立）桶狭間古戦場伝説地（愛知県豊明市）内]]&lt;br /&gt;
'''桶狭間の戦い'''（おけはざまのたたかい）とは[[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]（[[1560年]][[6月12日]]）に行われた合戦である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2万5千といわれる大軍を引き連れて[[尾張国|尾張]]に侵攻した[[駿河国|駿河]]の[[戦国大名]]・[[今川義元]]に対し、尾張の大名・[[織田信長]]が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させた歴史上最も華々しい逆転劇と言われた非常に有名な戦いである。[[東海地方]]に勢力を拡大し続けてきた[[今川氏]]はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した[[織田氏]]はこれ以降[[近畿地方|畿内]]制覇に向かって急成長していったことで[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の重要な転機となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 合戦の経過 ==&lt;br /&gt;
*文中の（　）の年は[[ユリウス暦]]、月日は[[西暦]]部分を除き全て[[和暦]]、[[宣明暦]]の長暦による。&lt;br /&gt;
=== 合戦以前の情勢 ===&lt;br /&gt;
たえず織田氏と今川氏は信長の父・[[織田信秀]]の時代から[[三河国|三河]]・[[尾張国|尾張]]両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきた。西三河を支配していた戦国大名[[松平氏]]が若い当主の相次ぐ変死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、[[天文 (元号)|天文]]11年（[[1542年]]）の第1回の[[小豆坂の戦い]]では織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。しかし、天文17年（[[1548年]]）の第2回の小豆坂の戦いでは今川方が勝利を収め、この戦いの後、織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退、尾張国内の[[鳴海城]]（[[愛知県]][[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]）、[[大高城]]（愛知県名古屋市緑区[[大高]]）、[[沓掛城]]（[[豊明市]]沓掛町）の一帯が今川氏の手に落ち、情勢は今川方が優勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし織田氏は次第に逆襲に転じ、これらのうちもっとも織田領に食い込んだ鳴海城の周囲を取り巻くように[[丹下砦]]、[[善照寺砦]]、[[中嶋砦]]を築き、鳴海城を圧迫した。鳴海城の南にある大高城も織田氏の築いた[[丸根砦]]、[[鷲津砦]]によって鳴海城、沓掛城との連絡を遮断され、孤立していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 合戦までの経過 ===&lt;br /&gt;
この情勢のもと永禄3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]（[[6月5日]]）、今川義元は自ら大軍を率いて[[駿府]]を発ち、尾張を目指して[[東海道]]を西進した。[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]（[[6月10日]]）、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]（[[6月11日]]）夜、松平元康（のちの[[徳川家康]]）が率いる三河衆を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌19日（6月12日）3時頃、元康と[[朝比奈泰朝]]は織田方の丸根砦、鷲津砦に一斉に攻撃を開始する。一方、前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長は今川軍の攻撃開始の報を得て、飛び起きて[[幸若舞|幸若]]「敦盛」を舞ったのち、ようやく出陣の身支度を整えると、明け方の4時頃に居城[[清洲城]]を進発&amp;lt;ref&amp;gt;『[[信長公記]]』「今川義元討死の事」より。「この時信長敦盛の舞を遊ぱし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。」&amp;lt;/ref&amp;gt;。わずかな従者のみを連れて出た信長は8時頃、[[熱田区|熱田]]に到着、軍勢を集結させて[[熱田神宮|熱田社]]に戦勝祈願を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に入っておよそ4,000人といわれる軍勢を整えた。この間に今川軍先鋒の猛攻を受けた丸根、鷲津の両砦は陥落、大高城周辺の制圧を完了した今川方は、今川義元が率いる本隊が沓掛城を進発し、大高城の方面に向かって西に進んだ。一方の信長は11時から12時頃、善照寺砦より出撃、鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し東南への進軍を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の合戦 ===&lt;br /&gt;
13時頃、突如豪雨が降り視界が悪くなった。通説ではこの雨に乗じて迂回行動を行ったとされているが、現在ではそれに否定的な見解が主流である（これについては後で詳しく論じる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雨がやんだ直後の14時頃、織田軍は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始した。全軍で2万5000を数えた今川軍も本隊はそれほど大きな兵力をもっていなかったため2000人が一団となって突撃してきた織田軍の猛攻によって混乱し、劣勢を悟った義元は退却を命じた。しかし双方の大将が徒歩立ちになって刀槍をふるう乱戦となり、ついには今川義元の[[旗本]]部隊に織田信長の旗本部隊が突入した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義元は信長の[[馬廻]]の一人の[[服部一忠|服部小平太]]に斬りかかられるものの、逆に服部の右ひざを斬って負傷させた。しかし服部との格闘の間に迫ってきた新手の[[毛利良勝|毛利新助]]と乱戦になり、組み伏せられた義元は終に毛利によって討ち取られた。討ち取られた時、義元は毛利新助の人差し指を噛み切るほど抵抗したといわれている。義元の戦死により今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田方の大勝に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 合戦後の情勢 ===&lt;br /&gt;
主将・[[今川義元]]や[[松井宗信]]、[[久野元宗]]、[[井伊直盛]]、[[由比正信]]、[[吉田氏好]]、[[一宮宗是]]ら多くの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も[[駿河国|駿河]]に向かって退却していった。大高城を守っていた松平元康も合戦直後に大高を捨て、[[岡崎城]]近くの[[大樹寺]]（松平家菩提寺）に入った。ところが岡崎城を守っていた今川氏の城代までも城を捨てて駿河に去ってしまったため、元康は岡崎城に入城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張・三河国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]（[[7月14日]]）に沓掛城を攻略するなど一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・[[岡部元信]]以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級（しゅきゅう、討ち取った大将の首のこと）と引き換えに開城、義元の首を携えて駿河に帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたことにより、岡崎の元康は今川氏から半ば自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と[[徳川家康|松平元康]]の角逐の場となった。しかし元康は義元の後を継いだ[[今川氏真]]が義元の仇討の出陣をしないことを理由（勿論これは口実であって、氏真は当主の死で混乱する今川家中の安定化に力を注ぐ事を重視し、逆に元康は氏真体制が固まる前の自立を図った）に今川氏から完全に離反し、永禄5年（[[1562年]]）になって氏真に無断で織田氏と講和。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後[[美濃国|美濃]]の[[斎藤氏]]との戦いに専念できるようになり急速に勢力を拡大させてゆくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 参戦武将 ===&lt;br /&gt;
''織田軍''&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
■[[織田信長]]　■[[織田秀敏]]　■[[池田恒興]]　■[[林秀貞]]　■[[水野忠光]]　■[[佐久間信辰]]　■[[佐久間盛重]]　■[[梶川一秀]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''今川軍''&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
■[[今川義元]]　■[[徳川家康|松平元康]]　■[[朝比奈泰朝]]　■[[瀬名氏俊]]　■[[岡部元信]]　■[[葛山信貞]]　■[[山口左馬助]]　■[[松井宗信]]　■[[井伊直盛]]　■[[由比正信]]　■[[久野元宗]]　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 合戦の実態をめぐる議論 ==&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの経緯はこれまで説明してきた通りであるが合戦の性格や実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいる。&lt;br /&gt;
=== 義元の尾張侵攻の理由 ===&lt;br /&gt;
長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は[[上洛]]、すなわち[[京都]]に入って[[室町幕府]]の政権を掌握するためだったと考えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら義元は今川氏を継承してから長らく三河、尾張で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げており、尾張をほとんど制圧していない状況で一挙に上洛を目指すという冒険的決断をしたとするには難がある。&amp;lt;!-- もし上洛するならば伊勢北畠氏と結び水軍で上洛すると思われる。 --&amp;gt;更に歴史的に今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期があり、尾張そのものに単なる隣国ではなく今川氏の旧領としての意識があった可能性もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに後に[[足利義昭]]を奉じて上洛する織田信長や次いで京都に入って信長に代わって中央権力を掌握しようとした[[武田信玄]]らの例はあるが、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。仮に信長や信玄が上洛の名分に利用したように将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針からみて、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。実際、義元が永禄2年（[[1559年]]）に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。また、上洛が目的であるならば事前に越前の[[朝倉氏]]や南近江の[[六角氏]]、伊勢の[[北畠氏]]などに協力を要請するはずだが、そのような書簡も残されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
既に[[#合戦以前の情勢|合戦以前の情勢]]の節で述べたように当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいる優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の二城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしてもせいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 合戦場と奇襲の問題 ===&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。いずれの説も根拠とされる歴史書である『[[信長公記]]』または『[[信長記]]』に基づいたものであるが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には信長の家臣・[[太田牛一]]が書いたことから信長公記の信頼性が高いとされるが太田牛一は桶狭間の合戦が行われた当時はまだ信長に仕えておらず、後年の伝聞をまとめたに過ぎない。&lt;br /&gt;
==== 合戦場 ====&lt;br /&gt;
「どこで」、すなわち合戦の行われた戦場については一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に[[近代]]以降「桶狭間の戦い」という名称が[[歴史学]]上で定着し、[[文部省]]の学校教育を通じて全国的に人口に膾炙している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「桶狭間」の地名は現在、行政的には[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]の有松町（旧・[[知多郡]]有松町）に[[大字]]として残っており、この行政地名は[[江戸時代]]の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」は東海道から南に離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て今川方の最前線である大高城に至る。名古屋市内の「桶狭間」には今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」（ただし現在の松は[[伊勢湾台風]]で古木が倒壊したため、新たに植え替えたものである）など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある[[豊明市]]には「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。ここは今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道（鎌倉街道）からはやや南に離れてはいるが鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録（『[[守貞漫稿]]』）にもあらわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時代の史料に基づいて合戦場を見ると、『信長公記』では今川義元は「おけはざま山」という場所に本陣を構えたと記録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「おけはざま山」の位置ははっきりとはわかっていない。[[延享]]2年（[[1745年]]）の大脇村（現・豊明市）絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、[[天明]]元年（[[1781年]]）の落合村（現・豊明市）絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市の桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村のあたりにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「おけはざま山」が[[16世紀]]の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではないが、「おけはざま山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『信長記』には今川義元が討たれた場所は田楽狭間であったと記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田楽狭間の場所については、尾張名所図会には「田楽が窪を経て三河の堺川の前なる祐福寺へ入る」、「田楽が窪と言える野を行けば山立ち出るよしおどされて」、「あぶりたる山立ちどもが出であいて串刺しやせん田楽が窪」という一節が残っており、これに表される「田楽が窪」は現在も豊明市二村山周辺に大字として残っている。また本来、坪、窪とは窪地や深田である地内を表しており、これを素直に信じるのであれば当時の鎌倉街道周辺の窪地はこの地を置いて他に無い事になる。しかしながら窪地や深田では無いが江戸時代から[[昭和]]の頃まで名古屋市緑区の有松町桶狭間にも同様の字名が存在していたとされる地（現在の地番は有松町桶狭間北）があり、ここに比定される説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のように、同時代の史料からは丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定しがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、桶狭間の戦いの古戦場の史跡公園として整備された場所は2箇所存在する。ひとつは豊明市側の「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」で、前述のように古くから義元の墓と伝えられる墓が所在する。伝説地の一帯は陸軍参謀本部の『日本戦史』など[[明治]]以降の諸書の戦史が合戦地と採用するなど桶狭間の戦いの合戦地として全国的に広く定着し、昭和12年（[[1937年]]）に国指定史跡となっている。ここでは古くから毎年6月に鎧武者の格好で当時の合戦の模様を再現して見せる行事（現在の桶狭間古戦場祭り）が行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、名古屋市緑区の有松町桶狭間には「桶狭間古戦場公園」という名前の公園がある。桶狭間古戦場公園は豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」のように国指定史跡や観光名所とされている訳ではなく、昭和63年（[[1988年]]）の土地区画整理事業（名古屋市桶狭間北部土地区画整理組合・昭和56年（[[1981年]]）[[9月7日]]認可）に伴って整備された都市公園であるが、園内には今川義元戦死地の碑、馬繋ぎの塚、首洗いの泉など桶狭間の戦いにまつわる地元の伝承地が取り込まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
有松側と豊明側の合戦伝承地は江戸時代以来、行政上、別々の村、町、市に分断されて続けてきたため、言わば合戦地の「本家」争いが続いている。合戦地としての全国的知名度に勝る豊明市に愛知県は市のPRキャラクターとして織田信長と今川義元をイメージしたマスコットの「のぶながくん」と「よしもとくん」を設定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
静岡大学教授の[[小和田哲男]]は「おけはざま山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7mの地点と特定し（この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる）、織田軍2000と今川軍5000がぶつかったのであるから、「おけはざま山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『[[続明良洪範]]』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 奇襲 ====&lt;br /&gt;
「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子についてはおおよそ以下の2つの説にまとめることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#「迂回攻撃説」&lt;br /&gt;
#:善照寺砦を出た織田信長は今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間（または桶狭間）で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。&lt;br /&gt;
#「正面攻撃説」&lt;br /&gt;
#:善照寺砦を出た織田信長は善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍。折からの豪雨で視界がきかないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「迂回攻撃説」は江戸時代初期の作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」は現在では否定的または俗説とする見解が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根、鷲津の勝利に奢って油断していたとされる。「正面攻撃説」を取る人も信長があらかじめ情報をよく収集して（後述）、今川軍が油断しているところを義元の首のみを狙って一挙にしかけたのだというような見解を述べることがある。例えば、『信長公記』には「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」（今川義元は塗輿を捨てて逃げた）という記述があるが総大将の目印となる塗輿が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲をまったく予期していなかったのだという見方がされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入し撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将たちの1人である今川義元（あるいは今川方の武将たち）がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば[[大久保忠教|大久保彦左衛門]]の『[[三河物語]]』では義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたという事も書かれてあるように同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、織田軍の「奇襲」成功の要因として今川軍の情報を織田信長があらかじめよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、『信長記』等における織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田出羽守（[[天正]]年間に信長の有力武将として活躍した[[簗田広正]]の父とされる）が勲功第一とされたという逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば信長があらかじめ情報を収集していたという見解にも無理があることになる。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所が一定している保証はなかったはずである。なにより『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考えてこれを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、この説を考慮に加えて今川方の条件を考察すると、そもそも今川方は油断していたかどうかに関係なくこの戦いにおいて非常な悪条件が重なってしまったと考えられる。沓掛城から出てきたばかりの時点ならば、隊形も整っていなかったはずである。[[死節点]]を暴露していた状態で十分に準備を整えた新手に猛攻を受けたとするならば大混乱に陥り、壊走するのはありうる。すなわち、桶狭間の戦いは今川軍にとっては[[遭遇戦#不期遭遇戦|不期遭遇戦]]であったと思われる。さらにこれに、戦闘前後の偶然の雨天と地形が窪地あるいは丘陵であったために混乱すれば本隊が撤退しにくいなどという条件が重なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の論点により、信長の奇襲とは地形的に選択され計画的に行われた奇襲ではなく、イミング上の奇襲であった、あるいは偶発的に奇襲になったのではないかという解釈になる。このように『信長公記』を全面的に依拠する論によれば、桶狭間における織田方の勝利は様々な条件が重なってもたらされた成功ということになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また現在でもよく分かっていないことだが、『信長公記』によると信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの[[足軽]]隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けたという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。ちなみに、この部隊の中に若き日の[[前田利家]]もいたとの説もあるが、定かではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 簗田出羽守の手柄 ====&lt;br /&gt;
上記の通り、[[簗田政綱|簗田出羽守]]の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問を持たれている。また、最初から奇襲作戦を行うとすれば信長があらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で一番手柄になるのは過賞といえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、簗田出羽守が合戦前に偵察や地形の調査を行っていたことは疑いない。また、中嶋砦の軍議で出撃に慎重な家臣が大勢を占めるなかで、簗田だけは作戦決行を強硬に主張して家臣団の消極論を封殺したといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことから現在では簗田は桶狭間の作戦の立案・実行に当たって中心的な役割を果たしたのではないかと考えられており、一番手柄は作戦立案・実行に対する褒賞だったとみられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 織田信長の評価 ===&lt;br /&gt;
古来、桶狭間の戦いは織田信長の果断さ、英雄性を示す戦いであるとみられてきた。こうしたイメージの形成には奇襲とみなす見解の存在が大きい。また、信長が奇襲を成功させたのは情報収集を的確に行なったからだという見解が広くみられ、信長の戦略の卓越性がしばしば高く評価されてきた。また『[[武功夜話]]』などの新出資料を利用して、信長が意図的に織田方に有利な合戦場に義元を誘い込んだという説すらみられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし前節で検証したように、この合戦が織田方の大勝に終ったのは偶然に左右された可能性が濃厚であり、こうしたイメージは訂正が求められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長自身もこうした奇襲あるいは寡勢による正面攻撃といった戦法が成功させるにはリスクの大きい作戦を充分認識していたと思われる。これ以降の織田信長は合戦において常にさまざまな手段をとって体勢を整え、大軍と充分な物資をもって戦う正攻法をとっている。信長自らが槍をとって戦ったのは、桶狭間の戦い以降、[[本能寺の変]]まで20年以上にわたって存在しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、こうした見方に対しては信長が桶狭間の戦いで勝利したのは運だけに恵まれていたことを意味するのではなく、桶狭間の勝利が運によって得られたのは彼が情勢を冷静に見極めていた証拠なのでありだからやはり彼は戦術家として優れていたのだという見解も提出されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 合戦の総括 ===&lt;br /&gt;
このように桶狭間の戦いについては様々な議論が交わされており、なお多くの問題が残っている。しかし結果のみを見れば織田信長が苦しい状況下でとった果断な行動の結果、今川義元が倒れ、その後の歴史に大きな画期となったことに違いはないといえよう。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注・出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本の合戦一覧]]&lt;br /&gt;
*[[有田中井手の戦い]]（「西国の桶狭間」といわれている合戦）&lt;br /&gt;
*[[日本三大夜戦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.adult-movie-japan.com/battle/okehazama.html 桶狭間の合戦　～1560年　永禄3年]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の戦国時代の戦い|おけはさまのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:愛知県の歴史|おけはさまのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:豊明市|おけはさまのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:今川氏|*おけはさまのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:織田氏|*おけはさまのたたかい]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83&amp;diff=19563</id>
		<title>今川義元</title>
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				<updated>2007-12-06T05:14:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''今川 義元'''（いまがわ よしもと、[[永正]]16年（[[1519年]]） - [[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]（[[1560年]][[6月12日]]））は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]である。[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文武に通じた教養人であると同時に優れた内政手腕を持ち、「'''海道一の弓取り'''」といわれた。[[武田信玄]]の義兄にあたる。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]の一家系・[[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏]]の傍流[[吉良氏]]の分家にあたる[[今川氏]]。今川氏第9代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[駿河国|駿河]]（[[静岡県]]中部）の[[守護大名]]である今川氏の第9代目当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7代当主・今川氏親とその正室である中御門宣胤の娘（[[寿桂尼]]）の子。幼名は芳菊丸。正室は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる[[定恵院]]。子に今川氏真、娘は[[武田義信]]の室となった。ライバル・[[北条氏康]]は義弟にあたり、また武田信玄の義兄でもある。寄親・寄子制度を設け、軍事組織力の革命的な改革を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「海道一の弓取り」と呼ばれるように領国経営と外征に才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させ、所領も駿河・[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]から[[尾張国|尾張]]の一部にまで拡大し『天下に最も近い男』と称されたが、尾張に侵攻した際に[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]軍の奇襲を受け敗死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 内乱と家督相続 ===&lt;br /&gt;
今川家第7代当主である今川氏親の五男として生まれる。生まれたときはすでに同母兄でのちに第8代当主となる[[今川氏輝]]がいたため、4才で仏門に出されて[[臨済宗]]の駿河富士郡瀬古の[[善徳寺]]に預けられ、'''梅岳承芳'''（'''ばいがくしょうほう'''）と称し教育係につけられた今川一族出身の禅僧・[[太原雪斎]]とともに[[京都]]に上って[[五山]]に学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]5年（[[1536年]]）、氏輝が急死したために駿河に戻り異母兄で同じく出家していた玄広恵探との間で家督争いとなるが、[[太原雪斎]]の尽力で勝利した。この[[花倉の乱]]と呼ばれる家督争いを経て還俗して今川氏第9代・駿河[[守護]]となり、義元と称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北条・織田との戦い ===&lt;br /&gt;
天文6年（[[1537年]]）、兄の時代までの宿敵であった[[武田信虎]]の娘（定恵院）と結婚し、[[甲斐国|甲斐]]（[[山梨県]]）の[[武田氏]]と同盟を結んだ。そのため、かえって旧来の縁戚であった[[伊豆国|伊豆]]・[[相模国|相模]]（[[神奈川県]]西南部）を領する[[後北条氏|北条氏]]との同盟が決裂し、[[北条氏綱]]が駿河河東郡吉原に侵攻してくる。義元もこれに対して交戦するが、氏綱の前に敗れて河東郡を奪われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[尾張|尾張]]（[[愛知県]]）の[[織田信秀]]が天文9年（[[1540年]]）から[[三河国|三河]]に対して侵攻を開始する。このため、義元は三河の諸豪族と連合して天文11年（[[1542年]]）に織田信秀と一大決戦に臨むが、信秀の猛攻の前に敗れた（第1次[[小豆坂の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 勢力拡大 ===&lt;br /&gt;
北条家では天文10年（[[1541年]]）に氏綱が死去し氏康が家督を継いでいたが、義元は氏康と同じく敵対する[[上杉憲政]]と天文14年（[[1545年]]）に同盟を結んで、連携して氏康を攻めた。その結果、義元と氏康は武田晴信（信玄）の仲介により、北条家の河東郡を今川家に返還するという義元に有利な条件で和睦した。天文20年（[[1551年]]）、氏康によって[[興国寺城]]を奪われたものの、すぐに奪還して[[黄瀬川]]を国境としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河においても尾張の織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の[[松平広忠]]の帰順を受け、松平広忠の嫡男・竹千代（のちの[[徳川家康]]）を人質に迎え入れようとするが、護送を請け負った三河・[[田原城 (三河国)|田原城]]（愛知県[[田原市]]）の国人領主・[[戸田康光]]が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまった。これは、前年に義元が[[戸田氏]]の一族である[[戸田宣成]]、[[戸田吉光]]を滅ぼしたため、これに憤った戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに怒った義元は戸田宗家をも滅ぼし、その居城であった田原城に朝比奈氏を入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文17年（[[1548年]]）、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の重臣である雪斎・[[朝比奈泰能]]らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した（第2次小豆坂の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）、松平広忠が家臣によって[[暗殺]]されると義元は今川軍を[[岡崎城]]に送り込んで、事実上松平家の所領とその支配下にあった三河の[[国人]]領主を直接支配下に取り込んだ。この結果、今川氏の勢力は駿河・遠江・三河という東海道の3ヶ国にまたがったため「海道一の弓取り」などと称された。また、織田方の三河[[安祥城]]（愛知県[[安城市]]）を攻略し信秀の庶長子にあたる城将・[[織田信広]]を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還。尾張進出の足掛かりを着々と築いていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）に信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。家督相続をめぐって動揺する織田家に揺さぶりをかけ尾張東部の[[知多郡]]・[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]、更に[[海西郡]]等にも勢力を延ばした。このころ版図は90万石に達したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に天文22年（[[1553年]]）には亡父の定めた[[今川仮名目録]]に[[仮名目録追加|追加法]]を加えたが、ここにおいて室町幕府が定めた[[守護使不入地]]の廃止を宣言、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文23年（[[1554年]]）、嫡子・氏真に北条氏康の娘（後の[[早川殿]]）を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで[[甲相駿三国同盟]]を結成した（この会談は善徳寺の会盟とも言われている）。これにより後顧の憂いを断った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄元年（[[1558年]]）からは氏真と政務の分担を図っている。また、駿河・遠江・三河の3カ国にかけて大規模な検地を行ない、今川家の全盛期を築き上げたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa in Okehazama.jpg|thumb|200px|right|今川義元の墓 [[明治]]9年（[[1876年]]）5月建立&amp;lt;br /&amp;gt;愛知県豊明市&amp;lt;br /&amp;gt;桶狭間古戦場伝説地内]]&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa.jpg|thumb|200px|right|今川義元胴塚&amp;lt;br&amp;gt;愛知県豊川市牛久保町]]&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]元年（[[1555年]]）に軍師・雪斎、弘治3年（[[1557年]]）には泰能といった名補佐役が次々と病死し、次第に今川家の全盛期に翳りが見え始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）、三河守に遷任する。5月には2万2000の軍を率いて[[尾張]]への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた同国[[知多郡]][[大高城]]（[[名古屋市]]緑区大高）を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて[[沓掛城]]で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、田楽狭間で休息中に[[織田信長]]の奇襲を受け、[[松井宗信]]らと共に奮戦するも愛刀・[[宗三左文字|左文字]]の太刀ともども首級を奪われた（通称「[[桶狭間の戦い]]」。『[[信長公記]]（しんちょうこうき）』の記述による）。享年42。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、残存した今川兵によって[[駿河|駿府]]まで連れ帰ろうと試みられた首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国[[宝飯郡]]に埋葬された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[戒名|法名]]：天澤寺秀峯哲公。&lt;br /&gt;
*墓所：[[愛知県]][[豊明市]]の[[桶狭間古戦場伝説地]]。愛知県[[豊明市]]の[[高徳院 (豊明市)|高徳院]]。[[静岡県]][[静岡市]]の[[臨済寺 (静岡市)|臨済寺]]。[[東京都]][[杉並区]]の[[観泉寺]]。&lt;br /&gt;
*塚：[知県豊川市牛久保町の[[大聖寺]]（胴塚）（[[一色時家]]の墓の隣）。愛知県[[西尾市]]駒場町の東向寺（首塚）。愛知県[[東海市]]の今川塚。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後 ==&lt;br /&gt;
織田方に討ち取られた[[首級]]は、尾張国内で孤立する義元の家臣・[[岡部元信]]の信長への度重なる懇願によって後に返還された。義元の戦死により家督は嫡男の[[今川氏真|氏真]]が継いだが、この隙に乗じた元康（後の徳川家康）が西三河で自立。この動きに追従するように東三河でも戸田氏や[[西郷氏]]などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。このような三河の動揺が隣国・遠江へも伝播すると、正・誤の判別がつかない情報が飛び交う遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまう（遠州錯乱）。今川氏後継の嫡子氏真は政治的才能に乏しく[[井伊直親]]や[[飯尾連竜]]などの粛清で事態の収拾を期したが、かえって人心の離反を加速させてしまい今川氏は見る見るうちに衰退し始めた。義元没後から8年で信玄によって駿河を追われ、ここに戦国大名としての今川家は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今川氏は桶狭間の戦いからわずか8年で駿河から追放され、徳川氏の庇護下に組み入れられる事で存続する事となった。駿河追放後、氏真は[[京都]]で隠棲していたが、嫡子・[[今川範以|範以]]が病没。その後、徳川家康に召し出されて[[江戸幕府]]に出仕し温情により500石を与えられ、これ以降今川氏は幕府[[高家]]として[[幕臣]]に列した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*義元は寸胴短足で馬に乗ることができなかったため合戦の時なども輿に乗り移動したと言われるが、そうした記述がある資料は江戸時代中期の物で信憑性はきわめて低い。信長の家臣・[[太田牛一]]が記した『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたという事が書かれてある。また、義元が輿に乗っていたのは[[足利将軍家]]から特別に認められた栄誉（今川氏は足利氏の一門）であり、体形のために馬に乗ることができなかったわけではないと思われる。異説として、幼少時に落馬した恐怖のためともされる。&lt;br /&gt;
*幼いころから仏門に入っていたため武芸を鍛えられず、個人の武勇には優れなかったといわれている。そのため乗馬ができなかったのは誇張としても、不得手であった可能性はある。ただし個人の武勇と戦闘指揮能力は別のものであり、戦国大名としての義元の評価を落とすことにならない。また、桶狭間の戦いでは信長の家臣・[[服部一忠|服部春安]]が真っ先に斬りつけようとしたとき自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退し、次に[[毛利良勝]]が斬りつけようとしたときにも数合ほどやり合っていることから、必ずしも個人的武勇が無かったわけではないと思われる。&lt;br /&gt;
*公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護していた。しかし、「[[お歯黒]]をつけ、置眉、薄化粧をする」という話は後世の作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは家格の高さを示すものであって軟弱さの象徴とはならない。近年ではむしろ度重なる軍事行動が家臣・領民の疲弊を招き、死後に今川氏が急速に衰えた原因の一つであると指摘されている。&lt;br /&gt;
*義元は政治・軍事に卓越した戦国大名であったが、歴史的には皮肉にも「織田信長に桶狭間で討ち取られた敵将」としてその名は知られている。&lt;br /&gt;
*天文22年（1552年）に「[[今川仮名目録]]」の追加法を制定し、さらに商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど行政手腕には特に秀でていた。のちにこの政策は[[江戸幕府]]を開府した徳川家康によって踏襲されている。&lt;br /&gt;
*『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計（馬高五尺五寸の青毛の馬）なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。&lt;br /&gt;
*永禄3年（1560年）の尾張侵攻は、上洛を目的とする説と織田信長討伐・尾張攻略説とがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*小和田哲男 編『今川義元のすべて』（新人物往来社、[[平成]]6年（[[1994年]]）） ISBN 978-4-404-02097-0&lt;br /&gt;
*小和田哲男『今川義元 &amp;lt;small&amp;gt;自分の力量を以て国の法度を申付く&amp;lt;/small&amp;gt;』（ミネルヴァ書房日本評伝選、平成16年（[[2004年]]）） ISBN 978-4-623-04114-5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[今川氏]]&lt;br /&gt;
*[[静岡]]（=[[駿府]]）&lt;br /&gt;
*[[泉岳寺]]（義元の縁者とされる門庵宗関が[[慶長]]17年（[[1612年]]）に義元の菩提を弔うため開創した寺）&lt;br /&gt;
=== TVドラマ ===&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]（[[昭和]]40年（[[1965年]]） NHK大河ドラマ、演：[[三國一朗]]）&lt;br /&gt;
*[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]（昭和44年（[[1969年]]） NHK大河ドラマ、演：[[根上淳]]）&lt;br /&gt;
*[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]（昭和48年（[[1973年]]） NHK大河ドラマ、演：[[花柳喜章]]）&lt;br /&gt;
*[[おんな太閤記]]（昭和56年（[[1981年]]） NHK大河ドラマ、演：[[新みのる]]）&lt;br /&gt;
*[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]（昭和58年（[[1983年]]） NHK大河ドラマ、演：[[成田三樹夫]]）&lt;br /&gt;
*[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]（昭和63年（[[1988年]]） NHK大河ドラマ、演：[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]）&lt;br /&gt;
*[[信長 KING OF ZIPANGU]]（平成4年（[[1992年]]） NHK大河ドラマ、演：[[柴田侊彦]]）&lt;br /&gt;
*[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]（平成8年（[[1996年]]） NHK大河ドラマ、演：[[米倉斉加年]]）&lt;br /&gt;
*[[利家とまつ～加賀百万石物語～]]（平成14年（[[2002年]]） NHK大河ドラマ、演：[[佐々木睦]]）&lt;br /&gt;
*[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]（平成18年（[[2006年]]） NHK大河ドラマ、演：[[江守徹]]）&lt;br /&gt;
*[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]（平成19年（[[2007年]]） NHK大河ドラマ、演：[[谷原章介]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www15.u-page.so-net.ne.jp/kc4/tomofumi/index.html 今川館]&lt;br /&gt;
*[http://www2.tokai.or.jp/marco/imakawa/imagwa00.htm 今川時代]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/rekishi_chips/saikyo1.htm 今川義元]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1536年 - 1560年|[[今川氏輝]]|[[今川氏真]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いまかわ よしもと}}&lt;br /&gt;
[[Category:今川氏|よしもと]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:1519年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1560年没]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83&amp;diff=19562</id>
		<title>今川義元</title>
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				<updated>2007-12-06T05:13:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''今川 義元'''（いまがわ よしもと、[[永正]]16年（[[1519年]]） - [[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]（[[1560年]][[6月12日]]））は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]である。[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文武に通じた教養人であると同時に優れた内政手腕を持ち、「'''海道一の弓取り'''」といわれた。[[武田信玄]]の義兄にあたる。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]の一家系・[[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏]]の傍流[[吉良氏]]の分家にあたる[[今川氏]]。今川氏第9代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[駿河国|駿河]]（[[静岡県]]中部）の[[守護大名]]である今川氏の第9代目当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7代当主・今川氏親とその正室である中御門宣胤の娘（[[寿桂尼]]）の子。幼名は芳菊丸。正室は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる[[定恵院]]。子に今川氏真、娘は[[武田義信]]の室となった。ライバル・[[北条氏康]]は義弟にあたり、また武田信玄の義兄でもある。寄親・寄子制度を設け、軍事組織力の革命的な改革を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「海道一の弓取り」と呼ばれるように領国経営と外征に才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させ、所領も駿河・[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]から[[尾張国|尾張]]の一部にまで拡大し『天下に最も近い男』と称されたが、尾張に侵攻した際に[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]軍の奇襲を受け敗死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 内乱と家督相続 ===&lt;br /&gt;
今川家第7代当主である今川氏親の五男として生まれる。生まれたときはすでに同母兄でのちに第8代当主となる[[今川氏輝]]がいたため、4才で仏門に出されて[[臨済宗]]の駿河富士郡瀬古の[[善徳寺]]に預けられ、'''梅岳承芳'''（'''ばいがくしょうほう'''）と称し教育係につけられた今川一族出身の禅僧・[[太原雪斎]]とともに[[京都]]に上って[[五山]]に学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]5年（[[1536年]]）、氏輝が急死したために駿河に戻り異母兄で同じく出家していた玄広恵探との間で家督争いとなるが、[[太原雪斎]]の尽力で勝利した。この[[花倉の乱]]と呼ばれる家督争いを経て還俗して今川氏第9代・駿河[[守護]]となり、義元と称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北条・織田との戦い ===&lt;br /&gt;
天文6年（[[1537年]]）、兄の時代までの宿敵であった[[武田信虎]]の娘（定恵院）と結婚し、[[甲斐国|甲斐]]（[[山梨県]]）の[[武田氏]]と同盟を結んだ。そのため、かえって旧来の縁戚であった[[伊豆国|伊豆]]・[[相模国|相模]]（[[神奈川県]]西南部）を領する[[後北条氏|北条氏]]との同盟が決裂し、[[北条氏綱]]が駿河河東郡吉原に侵攻してくる。義元もこれに対して交戦するが、氏綱の前に敗れて河東郡を奪われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[尾張|尾張]]（[[愛知県]]）の[[織田信秀]]が天文9年（[[1540年]]）から[[三河国|三河]]に対して侵攻を開始する。このため、義元は三河の諸豪族と連合して天文11年（[[1542年]]）に織田信秀と一大決戦に臨むが、信秀の猛攻の前に敗れた（第1次[[小豆坂の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 勢力拡大 ===&lt;br /&gt;
北条家では天文10年（[[1541年]]）に氏綱が死去し氏康が家督を継いでいたが、義元は氏康と同じく敵対する[[上杉憲政]]と天文14年（[[1545年]]）に同盟を結んで、連携して氏康を攻めた。その結果、義元と氏康は武田晴信（信玄）の仲介により、北条家の河東郡を今川家に返還するという義元に有利な条件で和睦した。天文20年（[[1551年]]）、氏康によって[[興国寺城]]を奪われたものの、すぐに奪還して[[黄瀬川]]を国境としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河においても尾張の織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の[[松平広忠]]の帰順を受け、松平広忠の嫡男・竹千代（のちの[[徳川家康]]）を人質に迎え入れようとするが、護送を請け負った三河・[[田原城 (三河国)|田原城]]（愛知県[[田原市]]）の国人領主・[[戸田康光]]が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまった。これは、前年に義元が[[戸田氏]]の一族である[[戸田宣成]]、[[戸田吉光]]を滅ぼしたため、これに憤った戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに怒った義元は戸田宗家をも滅ぼし、その居城であった田原城に朝比奈氏を入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文17年（[[1548年]]）、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の重臣である雪斎・[[朝比奈泰能]]らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した（第2次小豆坂の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）、松平広忠が家臣によって[[暗殺]]されると義元は今川軍を[[岡崎城]]に送り込んで、事実上松平家の所領とその支配下にあった三河の[[国人]]領主を直接支配下に取り込んだ。この結果、今川氏の勢力は駿河・遠江・三河という東海道の3ヶ国にまたがったため「海道一の弓取り」などと称された。また、織田方の三河[[安祥城]]（愛知県[[安城市]]）を攻略し信秀の庶長子にあたる城将・[[織田信広]]を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還。尾張進出の足掛かりを着々と築いていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）に信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。家督相続をめぐって動揺する織田家に揺さぶりをかけ尾張東部の[[知多郡]]・[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]、更に[[海西郡]]等にも勢力を延ばした。このころ版図は90万石に達したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に天文22年（[[1553年]]）には亡父の定めた[[今川仮名目録]]に[[仮名目録追加|追加法]]を加えたが、ここにおいて室町幕府が定めた[[守護使不入地]]の廃止を宣言、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文23年（[[1554年]]）、嫡子・氏真に北条氏康の娘（後の[[早川殿]]）を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで[[甲相駿三国同盟]]を結成した（この会談は善徳寺の会盟とも言われている）。これにより後顧の憂いを断った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄元年（[[1558年]]）からは氏真と政務の分担を図っている。また、駿河・遠江・三河の3カ国にかけて大規模な検地を行ない、今川家の全盛期を築き上げたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa in Okehazama.jpg|thumb|200px|right|今川義元の墓 [[明治]]9年（[[1876年]]）5月建立&amp;lt;br /&amp;gt;愛知県豊明市&amp;lt;br /&amp;gt;桶狭間古戦場伝説地内]]&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa.jpg|thumb|200px|right|今川義元胴塚&amp;lt;br&amp;gt;愛知県豊川市牛久保町]]&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]元年（[[1555年]]）に軍師・雪斎、弘治3年（[[1557年]]）には泰能といった名補佐役が次々と病死し、次第に今川家の全盛期に翳りが見え始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）、三河守に遷任する。5月には2万2000の軍を率いて[[尾張]]への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた同国[[知多郡]][[大高城]]（[[名古屋市]]緑区大高）を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて[[沓掛城]]で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、田楽狭間で休息中に[[織田信長]]の奇襲を受け、[[松井宗信]]らと共に奮戦するも愛刀・[[宗三左文字|左文字]]の太刀ともども首級を奪われた（通称「[[桶狭間の戦い]]」。『[[信長公記]]（しんちょうこうき）』の記述による）。享年42。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、残存した今川兵によって[[駿河|駿府]]まで連れ帰ろうと試みられた首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国[[宝飯郡]]に埋葬された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[戒名|法名]]：天澤寺秀峯哲公。&lt;br /&gt;
*墓所：[[愛知県]][[豊明市]]の[[桶狭間古戦場伝説地]]。愛知県[[豊明市]]の[[高徳院 (豊明市)|高徳院]]。[[静岡県]][[静岡市]]の[[臨済寺 (静岡市)|臨済寺]]。[[東京都]][[杉並区]]の[[観泉寺]]。&lt;br /&gt;
*塚：[知県豊川市牛久保町の[[大聖寺]]（胴塚）（[[一色時家]]の墓の隣）。愛知県[[西尾市]]駒場町の東向寺（首塚）。愛知県[[東海市]]の今川塚。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後 ==&lt;br /&gt;
織田方に討ち取られた[[首級]]は、尾張国内で孤立する義元の家臣・[[岡部元信]]の信長への度重なる懇願によって後に返還された。義元の戦死により家督は嫡男の[[今川氏真|氏真]]が継いだが、この隙に乗じた元康（後の徳川家康）が西三河で自立。この動きに追従するように東三河でも戸田氏や[[西郷氏]]などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。このような三河の動揺が隣国・遠江へも伝播すると、正・誤の判別がつかない情報が飛び交う遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまう（遠州錯乱）。今川氏後継の嫡子氏真は政治的才能に乏しく[[井伊直親]]や[[飯尾連竜]]などの粛清で事態の収拾を期したが、かえって人心の離反を加速させてしまい今川氏は見る見るうちに衰退し始めた。義元没後から8年で信玄によって駿河を追われ、ここに戦国大名としての今川家は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今川氏は桶狭間の戦いからわずか8年で駿河から追放され、徳川氏の庇護下に組み入れられる事で存続する事となった。駿河追放後、氏真は[[京都]]で隠棲していたが、嫡子・[[今川範以|範以]]が病没。その後、徳川家康に召し出されて[[江戸幕府]]に出仕し温情により500石を与えられ、これ以降今川氏は幕府[[高家]]として[[幕臣]]に列した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*義元は寸胴短足で馬に乗ることができなかったため合戦の時なども輿に乗り移動したと言われるが、そうした記述がある資料は江戸時代中期の物で信憑性はきわめて低い。信長の家臣・[[太田牛一]]が記した『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたという事が書かれてある。また、義元が輿に乗っていたのは[[足利将軍家]]から特別に認められた栄誉（今川氏は足利氏の一門）であり、体形のために馬に乗ることができなかったわけではないと思われる。異説として、幼少時に落馬した恐怖のためともされる。&lt;br /&gt;
*幼いころから仏門に入っていたため武芸を鍛えられず、個人の武勇には優れなかったといわれている。そのため乗馬ができなかったのは誇張としても、不得手であった可能性はある。ただし個人の武勇と戦闘指揮能力は別のものであり、戦国大名としての義元の評価を落とすことにならない。また、桶狭間の戦いでは信長の家臣・[[服部一忠|服部春安]]が真っ先に斬りつけようとしたとき自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退し、次に[[毛利良勝]]が斬りつけようとしたときにも数合ほどやり合っていることから、必ずしも個人的武勇が無かったわけではないと思われる。&lt;br /&gt;
*公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護していた。しかし、「[[お歯黒]]をつけ、置眉、薄化粧をする」という話は後世の作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは家格の高さを示すものであって軟弱さの象徴とはならない。近年ではむしろ度重なる軍事行動が家臣・領民の疲弊を招き、死後に今川氏が急速に衰えた原因の一つであると指摘されている。&lt;br /&gt;
*義元は政治・軍事に卓越した戦国大名であったが、歴史的には皮肉にも「織田信長に桶狭間で討ち取られた敵将」としてその名は知られている。&lt;br /&gt;
*天文22年（1552年）に「[[今川仮名目録]]」の追加法を制定し、さらに商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど行政手腕には特に秀でていた。のちにこの政策は[[江戸幕府]]を開府した徳川家康によって踏襲されている。&lt;br /&gt;
*『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計（馬高五尺五寸の青毛の馬）なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。&lt;br /&gt;
*永禄3年（1560年）の尾張侵攻は、上洛を目的とする説と織田信長討伐・尾張攻略説とがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*小和田哲男 編『今川義元のすべて』（新人物往来社、[[平成]]6年（[[1994年]]）） ISBN 978-4-404-02097-0&lt;br /&gt;
*小和田哲男『今川義元 &amp;lt;small&amp;gt;自分の力量を以て国の法度を申付く&amp;lt;/small&amp;gt;』（ミネルヴァ書房日本評伝選、平成16年（[[2004年]]）） ISBN 978-4-623-04114-5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[今川氏]]&lt;br /&gt;
*[[静岡]]（=[[駿府]]）&lt;br /&gt;
*[[泉岳寺]]（義元の縁者とされる門庵宗関が[[慶長]]17年（[[1612年]]）に義元の菩提を弔うため開創した寺）&lt;br /&gt;
=== TVドラマ ===&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]（[[昭和]]40年（[[1965年]]） NHK大河ドラマ、演：[[三國一朗]]）&lt;br /&gt;
*[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]（（昭和44年[[1969年]]） NHK大河ドラマ、演：[[根上淳]]）&lt;br /&gt;
*[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]（昭和48年（[[1973年]]） NHK大河ドラマ、演：[[花柳喜章]]）&lt;br /&gt;
*[[おんな太閤記]]（昭和56年（[[1981年]]） NHK大河ドラマ、演：[[新みのる]]）&lt;br /&gt;
*[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]（昭和58年（[[1983年]]） NHK大河ドラマ、演：[[成田三樹夫]]）&lt;br /&gt;
*[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]（昭和63年（[[1988年]]） NHK大河ドラマ、演：[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]）&lt;br /&gt;
*[[信長 KING OF ZIPANGU]]（平成4年（[[1992年]]） NHK大河ドラマ、演：[[柴田侊彦]]）&lt;br /&gt;
*[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]（平成8年（[[1996年]]） NHK大河ドラマ、演：[[米倉斉加年]]）&lt;br /&gt;
*[[利家とまつ～加賀百万石物語～]]（平成14年（[[2002年]]） NHK大河ドラマ、演：[[佐々木睦]]）&lt;br /&gt;
*[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]（平成18年（[[2006年]]） NHK大河ドラマ、演：[[江守徹]]）&lt;br /&gt;
*[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]（平成19年（[[2007年]]） NHK大河ドラマ、演：[[谷原章介]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www15.u-page.so-net.ne.jp/kc4/tomofumi/index.html 今川館]&lt;br /&gt;
*[http://www2.tokai.or.jp/marco/imakawa/imagwa00.htm 今川時代]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/rekishi_chips/saikyo1.htm 今川義元]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1536年 - 1560年|[[今川氏輝]]|[[今川氏真]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いまかわ よしもと}}&lt;br /&gt;
[[Category:今川氏|よしもと]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:1519年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1560年没]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>今川義元</title>
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				<updated>2007-12-06T05:12:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: 新しいページ: ''''今川 義元'''（いまがわ よしもと、永正16年（1519年） - 永禄3年5月19日（1560年6月12日））は[[戦国...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''今川 義元'''（いまがわ よしもと、[[永正]]16年（[[1519年]]） - [[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]（[[1560年]][[6月12日]]））は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]である。[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文武に通じた教養人であると同時に優れた内政手腕を持ち、「'''海道一の弓取り'''」といわれた。[[武田信玄]]の義兄にあたる。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]の一家系・[[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏]]の傍流[[吉良氏]]の分家にあたる[[今川氏]]。今川氏第9代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[駿河国|駿河]]（[[静岡県]]中部）の[[守護大名]]である今川氏の第9代目当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7代当主・今川氏親とその正室である中御門宣胤の娘（[[寿桂尼]]）の子。幼名は芳菊丸。正室は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる[[定恵院]]。子に今川氏真、娘は[[武田義信]]の室となった。ライバル・[[北条氏康]]は義弟にあたり、また武田信玄の義兄でもある。寄親・寄子制度を設け、軍事組織力の革命的な改革を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「海道一の弓取り」と呼ばれるように領国経営と外征に才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させ、所領も駿河・[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]から[[尾張国|尾張]]の一部にまで拡大し『天下に最も近い男』と称されたが、尾張に侵攻した際に[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]軍の奇襲を受け敗死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 内乱と家督相続 ===&lt;br /&gt;
今川家第7代当主である今川氏親の五男として生まれる。生まれたときはすでに同母兄でのちに第8代当主となる[[今川氏輝]]がいたため、4才で仏門に出されて[[臨済宗]]の駿河富士郡瀬古の[[善徳寺]]に預けられ、'''梅岳承芳'''（'''ばいがくしょうほう'''）と称し教育係につけられた今川一族出身の禅僧・[[太原雪斎]]とともに[[京都]]に上って[[五山]]に学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]5年（[[1536年]]）、氏輝が急死したために駿河に戻り異母兄で同じく出家していた玄広恵探との間で家督争いとなるが、[[太原雪斎]]の尽力で勝利した。この[[花倉の乱]]と呼ばれる家督争いを経て還俗して今川氏第9代・駿河[[守護]]となり、義元と称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北条・織田との戦い ===&lt;br /&gt;
天文6年（[[1537年]]）、兄の時代までの宿敵であった[[武田信虎]]の娘（定恵院）と結婚し、[[甲斐国|甲斐]]（[[山梨県]]）の[[武田氏]]と同盟を結んだ。そのため、かえって旧来の縁戚であった[[伊豆国|伊豆]]・[[相模国|相模]]（[[神奈川県]]西南部）を領する[[後北条氏|北条氏]]との同盟が決裂し、[[北条氏綱]]が駿河河東郡吉原に侵攻してくる。義元もこれに対して交戦するが、氏綱の前に敗れて河東郡を奪われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[尾張|尾張]]（[[愛知県]]）の[[織田信秀]]が天文9年（[[1540年]]）から[[三河国|三河]]に対して侵攻を開始する。このため、義元は三河の諸豪族と連合して天文11年（[[1542年]]）に織田信秀と一大決戦に臨むが、信秀の猛攻の前に敗れた（第1次[[小豆坂の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 勢力拡大 ===&lt;br /&gt;
北条家では天文10年（[[1541年]]）に氏綱が死去し氏康が家督を継いでいたが、義元は氏康と同じく敵対する[[上杉憲政]]と天文14年（[[1545年]]）に同盟を結んで、連携して氏康を攻めた。その結果、義元と氏康は武田晴信（信玄）の仲介により、北条家の河東郡を今川家に返還するという義元に有利な条件で和睦した。天文20年（[[1551年]]）、氏康によって[[興国寺城]]を奪われたものの、すぐに奪還して[[黄瀬川]]を国境としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河においても尾張の織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の[[松平広忠]]の帰順を受け、松平広忠の嫡男・竹千代（のちの[[徳川家康]]）を人質に迎え入れようとするが、護送を請け負った三河・[[田原城 (三河国)|田原城]]（愛知県[[田原市]]）の国人領主・[[戸田康光]]が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまった。これは、前年に義元が[[戸田氏]]の一族である[[戸田宣成]]、[[戸田吉光]]を滅ぼしたため、これに憤った戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに怒った義元は戸田宗家をも滅ぼし、その居城であった田原城に朝比奈氏を入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文17年（[[1548年]]）、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の重臣である雪斎・[[朝比奈泰能]]らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した（第2次小豆坂の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）、松平広忠が家臣によって[[暗殺]]されると義元は今川軍を[[岡崎城]]に送り込んで、事実上松平家の所領とその支配下にあった三河の[[国人]]領主を直接支配下に取り込んだ。この結果、今川氏の勢力は駿河・遠江・三河という東海道の3ヶ国にまたがったため「海道一の弓取り」などと称された。また、織田方の三河[[安祥城]]（愛知県[[安城市]]）を攻略し信秀の庶長子にあたる城将・[[織田信広]]を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還。尾張進出の足掛かりを着々と築いていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）に信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。家督相続をめぐって動揺する織田家に揺さぶりをかけ尾張東部の[[知多郡]]・[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]、更に[[海西郡]]等にも勢力を延ばした。このころ版図は90万石に達したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に天文22年（[[1553年]]）には亡父の定めた[[今川仮名目録]]に[[仮名目録追加|追加法]]を加えたが、ここにおいて室町幕府が定めた[[守護使不入地]]の廃止を宣言、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文23年（[[1554年]]）、嫡子・氏真に北条氏康の娘（後の[[早川殿]]）を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで[[甲相駿三国同盟]]を結成した（この会談は善徳寺の会盟とも言われている）。これにより後顧の憂いを断った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄元年（[[1558年]]）からは氏真と政務の分担を図っている。また、駿河・遠江・三河の3カ国にかけて大規模な検地を行ない、今川家の全盛期を築き上げたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa in Okehazama.jpg|thumb|200px|right|今川義元の墓 [[明治]]9年（[[1876年]]）5月建立&amp;lt;br /&amp;gt;愛知県豊明市&amp;lt;br /&amp;gt;桶狭間古戦場伝説地内]]&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa.jpg|thumb|200px|right|今川義元胴塚&amp;lt;/br&amp;gt;愛知県豊川市牛久保町]]&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]元年（[[1555年]]）に軍師・雪斎、弘治3年（[[1557年]]）には泰能といった名補佐役が次々と病死し、次第に今川家の全盛期に翳りが見え始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）、三河守に遷任する。5月には2万2000の軍を率いて[[尾張]]への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた同国[[知多郡]][[大高城]]（[[名古屋市]]緑区大高）を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて[[沓掛城]]で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、田楽狭間で休息中に[[織田信長]]の奇襲を受け、[[松井宗信]]らと共に奮戦するも愛刀・[[宗三左文字|左文字]]の太刀ともども首級を奪われた（通称「[[桶狭間の戦い]]」。『[[信長公記]]（しんちょうこうき）』の記述による）。享年42。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、残存した今川兵によって[[駿河|駿府]]まで連れ帰ろうと試みられた首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国[[宝飯郡]]に埋葬された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[戒名|法名]]：天澤寺秀峯哲公。&lt;br /&gt;
*墓所：[[愛知県]][[豊明市]]の[[桶狭間古戦場伝説地]]。愛知県[[豊明市]]の[[高徳院 (豊明市)|高徳院]]。[[静岡県]][[静岡市]]の[[臨済寺 (静岡市)|臨済寺]]。[[東京都]][[杉並区]]の[[観泉寺]]。&lt;br /&gt;
*塚：[知県豊川市牛久保町の[[大聖寺]]（胴塚）（[[一色時家]]の墓の隣）。愛知県[[西尾市]]駒場町の東向寺（首塚）。愛知県[[東海市]]の今川塚。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後 ==&lt;br /&gt;
織田方に討ち取られた[[首級]]は、尾張国内で孤立する義元の家臣・[[岡部元信]]の信長への度重なる懇願によって後に返還された。義元の戦死により家督は嫡男の[[今川氏真|氏真]]が継いだが、この隙に乗じた元康（後の徳川家康）が西三河で自立。この動きに追従するように東三河でも戸田氏や[[西郷氏]]などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。このような三河の動揺が隣国・遠江へも伝播すると、正・誤の判別がつかない情報が飛び交う遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまう（遠州錯乱）。今川氏後継の嫡子氏真は政治的才能に乏しく[[井伊直親]]や[[飯尾連竜]]などの粛清で事態の収拾を期したが、かえって人心の離反を加速させてしまい今川氏は見る見るうちに衰退し始めた。義元没後から8年で信玄によって駿河を追われ、ここに戦国大名としての今川家は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今川氏は桶狭間の戦いからわずか8年で駿河から追放され、徳川氏の庇護下に組み入れられる事で存続する事となった。駿河追放後、氏真は[[京都]]で隠棲していたが、嫡子・[[今川範以|範以]]が病没。その後、徳川家康に召し出されて[[江戸幕府]]に出仕し温情により500石を与えられ、これ以降今川氏は幕府[[高家]]として[[幕臣]]に列した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*義元は寸胴短足で馬に乗ることができなかったため合戦の時なども輿に乗り移動したと言われるが、そうした記述がある資料は江戸時代中期の物で信憑性はきわめて低い。信長の家臣・[[太田牛一]]が記した『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたという事が書かれてある。また、義元が輿に乗っていたのは[[足利将軍家]]から特別に認められた栄誉（今川氏は足利氏の一門）であり、体形のために馬に乗ることができなかったわけではないと思われる。異説として、幼少時に落馬した恐怖のためともされる。&lt;br /&gt;
*幼いころから仏門に入っていたため武芸を鍛えられず、個人の武勇には優れなかったといわれている。そのため乗馬ができなかったのは誇張としても、不得手であった可能性はある。ただし個人の武勇と戦闘指揮能力は別のものであり、戦国大名としての義元の評価を落とすことにならない。また、桶狭間の戦いでは信長の家臣・[[服部一忠|服部春安]]が真っ先に斬りつけようとしたとき自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退し、次に[[毛利良勝]]が斬りつけようとしたときにも数合ほどやり合っていることから、必ずしも個人的武勇が無かったわけではないと思われる。&lt;br /&gt;
*公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護していた。しかし、「[[お歯黒]]をつけ、置眉、薄化粧をする」という話は後世の作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは家格の高さを示すものであって軟弱さの象徴とはならない。近年ではむしろ度重なる軍事行動が家臣・領民の疲弊を招き、死後に今川氏が急速に衰えた原因の一つであると指摘されている。&lt;br /&gt;
*義元は政治・軍事に卓越した戦国大名であったが、歴史的には皮肉にも「織田信長に桶狭間で討ち取られた敵将」としてその名は知られている。&lt;br /&gt;
*天文22年（1552年）に「[[今川仮名目録]]」の追加法を制定し、さらに商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど行政手腕には特に秀でていた。のちにこの政策は[[江戸幕府]]を開府した徳川家康によって踏襲されている。&lt;br /&gt;
*『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計（馬高五尺五寸の青毛の馬）なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。&lt;br /&gt;
*永禄3年（1560年）の尾張侵攻は、上洛を目的とする説と織田信長討伐・尾張攻略説とがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*小和田哲男 編『今川義元のすべて』（新人物往来社、[[平成]]6年（[[1994年]]）） ISBN 978-4-404-02097-0&lt;br /&gt;
*小和田哲男『今川義元 &amp;lt;small&amp;gt;自分の力量を以て国の法度を申付く&amp;lt;/small&amp;gt;』（ミネルヴァ書房日本評伝選、平成16年（[[2004年]]）） ISBN 978-4-623-04114-5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[今川氏]]&lt;br /&gt;
*[[静岡]]（=[[駿府]]）&lt;br /&gt;
*[[泉岳寺]]（義元の縁者とされる門庵宗関が[[慶長]]17年（[[1612年]]）に義元の菩提を弔うため開創した寺）&lt;br /&gt;
=== TVドラマ ===&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]（[[昭和]]40年（[[1965年]]） NHK大河ドラマ、演：[[三國一朗]]）&lt;br /&gt;
*[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]（（昭和44年[[1969年]]） NHK大河ドラマ、演：[[根上淳]]）&lt;br /&gt;
*[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]（昭和48年（[[1973年]]） NHK大河ドラマ、演：[[花柳喜章]]）&lt;br /&gt;
*[[おんな太閤記]]（昭和56年（[[1981年]]） NHK大河ドラマ、演：[[新みのる]]）&lt;br /&gt;
*[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]（昭和58年（[[1983年]]） NHK大河ドラマ、演：[[成田三樹夫]]）&lt;br /&gt;
*[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]（昭和63年（[[1988年]]） NHK大河ドラマ、演：[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]）&lt;br /&gt;
*[[信長 KING OF ZIPANGU]]（平成4年（[[1992年]]） NHK大河ドラマ、演：[[柴田侊彦]]）&lt;br /&gt;
*[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]（平成8年（[[1996年]]） NHK大河ドラマ、演：[[米倉斉加年]]）&lt;br /&gt;
*[[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]]（平成14年（[[2002年]]） NHK大河ドラマ、演：[[佐々木睦]]）&lt;br /&gt;
*[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]（平成18年（[[2006年]]） NHK大河ドラマ、演：[[江守徹]]）&lt;br /&gt;
*[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]（平成19年（[[2007年]]） NHK大河ドラマ、演：[[谷原章介]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www15.u-page.so-net.ne.jp/kc4/tomofumi/index.html 今川館]&lt;br /&gt;
*[http://www2.tokai.or.jp/marco/imakawa/imagwa00.htm 今川時代]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/rekishi_chips/saikyo1.htm 今川義元]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1536年 - 1560年|[[今川氏輝]]|[[今川氏真]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いまかわ よしもと}}&lt;br /&gt;
[[Category:今川氏|よしもと]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:1519年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1560年没]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

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		<title>戦後</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: 新しいページ: ''''戦後'''（せんご）とは戦争の終結後の短期または長期的な期間をさす。戦争では多くの破壊や社会システムの大変革が行なわ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''戦後'''（せんご）とは[[戦争]]の終結後の短期または長期的な期間をさす。戦争では多くの破壊や社会システムの大変革が行なわれるため戦争が終結した後は社会体制などが新しく作り直され、[[価値観]]まで変化する。このため、大きな戦争を一つの時代の区切りとして[[戦前]]・戦後という呼び方をする。「戦後」という言葉の意味は、経験してきた戦争や紛争によって国ごと異なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つの例として、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では日常的に戦前・戦後と言う言葉を使用していない。これはアメリカが[[第二次世界大戦]]終結以後も[[ベトナム戦争]]を始め多くの戦争に関与しており、“戦前・戦後”ではそれがどの戦争を指す言葉か分からないからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本での戦後の位置づけ ==&lt;br /&gt;
現在の[[日本]]では戦後とは一般的に第二次世界大戦（[[太平洋戦争]]）以後のことを指す。敗戦、そして[[連合国軍総司令部|GHQ]]の占領によって日本は[[明治維新]]以来の大変革のときを迎える。先の大戦を反省し、[[国民主権]]・[[平和主義]]を謳う[[日本国憲法]]を新たに制定し、真の民主主義国家となった日本は西側諸国の一員として国際社会に復帰、[[高度経済成長]]を経て世界第2位の経済大国となる。戦後とは一度焼野原になった日本が再び国際社会の一員となるまでの激動の時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本において戦前（太平洋戦争以前）と戦後では社会システムが大きく変化したため、他の国よりも戦後という言葉のもつ意味合いは大きい。また日本は第二次世界大戦戦争以後、大規模な国際紛争・戦争に巻き込まれていないため、「戦後」=第二次世界大戦後から現在というイメージが固定化されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本において第二次世界大戦後以外に「戦後」が用いられるケース ==&lt;br /&gt;
ただし日本国内において、第二次世界大戦で被害が少なかった地域の中にはそれより以前に当該地域が見舞われた大規模な戦いを基準として「戦後」という表現を用いるケースがある。そうは言うものの、今日のように多くの人々が「戦後」=第二次世界大戦後というイメージが固定化されている状況のもとでは、外部の人々あるいは地域内の若い世代の人々からは違和感をもって受け止められる場合が多いという。&lt;br /&gt;
=== 京都の例 ===&lt;br /&gt;
太平洋戦争ではほとんど戦災による焼失を受けなかった[[京都]]では[[応仁の乱]]や[[鳥羽伏見の戦い]]の後を指す場合がある。これは、なによりも京都がきわめて歴史の古い町である事をいい表す用法である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会津地方の例 ===&lt;br /&gt;
[[福島県]]の特に[[会津若松市]]周辺においては[[戊辰戦争]]の後を指す場合があり、特に年配者を中心にこの言葉を聴く例が多い。これは当時の戦後処理の際、西南諸藩から一方的に[[朝敵]]の名を付された[[会津藩]]が[[斗南藩]]への転封を含め、懲罰的に数々の過酷な経験を負わされたとされる事に端を発していると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本以外の国における「戦後」 ==&lt;br /&gt;
だいたいの国にとって戦後とは日本と同じく第二次世界大戦後のことを指す。ただ幾つかの例外はある。&lt;br /&gt;
=== スイスの場合 ===&lt;br /&gt;
[[スイス]]で「戦後」は一般的に[[1815年]]以降のことを指す。1815年の[[ウィーン会議]]においてスイスは国家としての「[[永世中立国]]」が認められからである。[[第一次世界大戦]]と第二次世界大戦でも[[武装中立]]を維持し積極的に戦争には加わらなかったため、他のヨーロッパ諸国とは違い1815年からの「戦後」は続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の国の場合 ===&lt;br /&gt;
*韓国・北朝鮮 – [[朝鮮戦争]]後（[[1953年]]～）&lt;br /&gt;
*ベトナム – [[ベトナム戦争]]後（[[1975年]]～）&lt;br /&gt;
*旧ユーゴスラビア連邦諸国 – [[ユーゴスラビア紛争]]後（およそ[[1995年]]～）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第二次世界大戦後の日本の年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1945年]][[8月15日]]正午（日本時間。グリニッジ標準時午前3時） [[ポツダム宣言]]受諾を声明。この時から「'''戦後'''」が始まる&lt;br /&gt;
*[[1946年]][[1月1日]] [[昭和天皇]]の[[人間宣言]]。[[11月3日]]、[[日本国憲法]]公布&lt;br /&gt;
*[[1947年]][[5月3日]] 日本国憲法施行&lt;br /&gt;
*[[1950年]] [[朝鮮戦争]]&lt;br /&gt;
*[[1951年]][[9月8日]] [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]、[[日米安全保障条約]]調印&lt;br /&gt;
*[[1954年]]&lt;br /&gt;
**[[3月1日]] [[ビキニ環礁]]で[[水素爆弾|水爆]]実験、[[第五福竜丸]]の乗組員が被曝する&lt;br /&gt;
**[[7月1日]] [[自衛隊]]設立&lt;br /&gt;
*[[1955年]][[11月15日]] 自由党と民主党が合併し[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]、右派と左派が合併した[[日本社会党]]が設立（[[55年体制]]）&lt;br /&gt;
*[[1956年]]&lt;br /&gt;
**[[10月16日]] [[日ソ共同宣言]]調印&lt;br /&gt;
**[[12月18日]] [[国際連合]]加盟&lt;br /&gt;
**『[[経済白書]]』で「'''もはや戦後ではない'''」という言葉が使われる&lt;br /&gt;
*[[1960年]][[6月19日]] [[日米安全保障条約]]改定&lt;br /&gt;
*[[1964年]]&lt;br /&gt;
**[[10月1日]] [[東海道新幹線]]開通&lt;br /&gt;
**[[10月10日]]～[[10月24日]] [[東京オリンピック]]開催&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[6月22日]] [[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]を結ぶ&lt;br /&gt;
*[[1966年]] 日本の総[[人口]]が1億人を突破。[[いざなぎ景気]]&lt;br /&gt;
*[[1970年]][[3月14日]]～[[9月13日]] [[日本万国博覧会]]開催&lt;br /&gt;
*[[1972年]]&lt;br /&gt;
**[[2月3日]]～[[2月13日]] [[札幌オリンピック]]開催&lt;br /&gt;
**[[5月15日]] [[沖縄返還]]&lt;br /&gt;
**[[9月29日]] [[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]調印&lt;br /&gt;
*[[1973年]] 第一次[[オイルショック]]&lt;br /&gt;
*[[1976年]] [[ロッキード事件]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[8月12日]] [[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]調印&lt;br /&gt;
*[[1979年]] 第二次[[オイルショック]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[11月27日]] [[中曽根康弘]]が「'''戦後政治の総決算'''」を掲げ第72代[[内閣総理大臣]]に就任&lt;br /&gt;
*[[1985年]]&lt;br /&gt;
**[[4月1日]] [[日本電信電話公社]]・[[日本専売公社]]が[[民営化]]、[[日本電信電話]]（NTT）・[[日本たばこ産業]]（JT）の発足&lt;br /&gt;
**[[9月22日]] [[プラザ合意]]&lt;br /&gt;
*[[1987年]]&lt;br /&gt;
**[[2月22日]] [[ルーブル合意]]&lt;br /&gt;
**4月1日 [[JR]]グループの発足&lt;br /&gt;
**この年から[[バブル景気]]（平成景気）が始まる&lt;br /&gt;
*[[1988年]] [[リクルート事件]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[1月7日]] [[昭和天皇]][[崩御]]。[[平成]]始まる（[[1月8日]]）&lt;br /&gt;
*[[1991年]][[6月5日]]～[[9月11日]] 初の[[自衛隊海外派遣]]（[[海上自衛隊]]の[[自衛隊ペルシャ湾派遣|ペルシャ湾派遣]]）&lt;br /&gt;
*[[1993年]][[8月9日]] [[細川内閣]]成立により55年体制崩壊&lt;br /&gt;
*[[1995年]]&lt;br /&gt;
**[[1月17日]] [[阪神・淡路大震災]]発生&lt;br /&gt;
**[[3月20日]] [[地下鉄サリン事件]]発生&lt;br /&gt;
**8月15日 [[戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話]]&lt;br /&gt;
*[[1998年]][[2月7日]]～2月22日 [[長野オリンピック]]開催&lt;br /&gt;
*[[2002年]][[5月31日]]～[[6月30日]] [[2002 FIFAワールドカップ|サッカーワールドカップ]]を[[大韓民国|韓国]]と日本が共催&lt;br /&gt;
*[[2005年]] '''戦後60年'''。日本の総人口の減少が始まる&lt;br /&gt;
*[[2006年]][[9月26日]] [[安倍晋三]]が「'''[[戦後レジーム]]からの脱却'''」を公約に掲げ、第90代内閣総理大臣に就任。初の戦後生まれの総理大臣となる&lt;br /&gt;
*[[2007年]]&lt;br /&gt;
**[[1月9日]] 防衛庁が[[防衛省]]に移行&lt;br /&gt;
**[[5月14日]] [[日本国憲法の改正手続に関する法律]]成立（[[5月18日]]公布）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[戦前]]&lt;br /&gt;
*[[戦中]]&lt;br /&gt;
*[[終戦記念日|終戦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/index.html シリーズ・戦後60年]（2005年、[[西日本新聞社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Stub}}&lt;br /&gt;
[[category:戦後|*]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.91.156.60</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%BC%95%E6%8F%9A%E8%80%85&amp;diff=19552</id>
		<title>引揚者</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;58.91.156.60: 新しいページ: ''''引揚者'''（ひきあげしゃ）とは戦前や戦中に台湾・朝鮮半島・南洋諸島などの外地や日本から多数の入植者を...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''引揚者'''（ひきあげしゃ）とは[[戦前]]や[[戦中]]に[[台湾]]・[[朝鮮半島]]・[[南洋諸島]]などの[[外地]]や日本から多数の入植者を送っていた[[満州国|満州]]（法律上は外国）、そして[[内地]]ながら[[ソビエト連邦|ソ連]]侵攻によって[[実効支配]]権を失った[[樺太]]などに移住（居住）していた日本人で、[[敗戦]]に伴い日本本土に帰った者を指す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説 ==&lt;br /&gt;
一般的に「引揚者」の呼称は非戦闘員に対してのみ用いられ、日本軍の軍人として外地・外国に出征し、その後帰還した者に対しては用いない（これらの者は「[[復員]]兵」もしくは「復員者」などと呼ばれた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ/SCAP]]の[[ダグラス・マッカーサー]]総司令官は人道的立場から引き揚げを早期に終了させるつもりでおり、実際に東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島の[[北緯38度線]]以南などからの引き揚げは比較的スムーズであり、[[1946年]]には9割以上達成された。しかし、満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連占領下の地域では引き揚げが遅れ、[[1947年]]になってようやく完了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この遅れは[[ソビエト連邦|ソ連]]が占領下の日本人をシベリア建設に利用しようとしていたいうこと、また満州地区が[[国共内戦]]で政情不安定だったということなどが影響したと見られている。実際、[[関東軍]]70万人のうち、66万人はシベリアに[[シベリア抑留|抑留]]され、[[強制労働]]に従事させられることになる。またソ連兵は規律が緩く、占領地のあちこちで[[強姦]]・殺傷・[[略奪]]を繰り返したため、戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とりわけ満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や[[衛生]]面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も少なくない。また[[戦後]]60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった[[中国残留日本人|中国残留日本人孤児]]などの問題を残している。また、満州国政府には多くの[[台湾人]]が官吏として採用されていたため（[[新京]]市長は台湾人である）彼らの台湾引き揚げも問題となったが、そのことは日本ではほとんど語られていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 引揚者だった著名人 ==&lt;br /&gt;
ここでは50音順に一部のみ示す。★は故人。''詳しくは[[:Category:引揚者]]を参照。''&lt;br /&gt;
*[[赤木春恵]]&lt;br /&gt;
*[[岩見隆夫]]&lt;br /&gt;
*[[小澤征爾]]&lt;br /&gt;
*[[加藤登紀子]]&lt;br /&gt;
*[[北見けんいち]]&lt;br /&gt;
*[[清岡卓行]]（「アカシアの大連」で芥川賞受賞）&lt;br /&gt;
*[[草野仁]]&lt;br /&gt;
*★[[古今亭志ん生 (5代目)|5代目古今亭志ん生]]&lt;br /&gt;
*★[[小林千登勢]]&lt;br /&gt;
*[[近藤洋介 (俳優)|近藤洋介]]&lt;br /&gt;
*[[櫻井よしこ]]&lt;br /&gt;
*[[貞永方久]]&lt;br /&gt;
*[[ジェームス三木]]&lt;br /&gt;
*[[大鵬幸喜]]&lt;br /&gt;
*[[高野悦子 (映画運動家)|高野悦子]]&lt;br /&gt;
*[[宝田明]]&lt;br /&gt;
*[[ちばてつや]]&lt;br /&gt;
*[[なかにし礼]]&lt;br /&gt;
*★[[新田次郎]]&lt;br /&gt;
*[[板東英二]]&lt;br /&gt;
*[[藤原てい]]（新田次郎の妻）&lt;br /&gt;
*[[松島トモ子]]&lt;br /&gt;
*[[三木卓]]&lt;br /&gt;
*[[森繁久彌]]&lt;br /&gt;
*[[山田洋次]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 持込制限 ==&lt;br /&gt;
GHQは外地からの内地への資産持ち込みによる[[インフレーション]]を懸念し、引揚者が持ち込んだ通貨、証券類の多くを[[税関]]などで預託させる措置を行った。税関は[[1953年]]より預託品の返還を行っているが、50年以上経った現在でも持ち主が現れない現金、証券類が保管されている｡&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 引揚者が上陸した主な港 ==&lt;br /&gt;
*[[小樽港]]&lt;br /&gt;
*[[舞鶴港]]&lt;br /&gt;
*[[下関港]]&lt;br /&gt;
*[[博多港]]&lt;br /&gt;
*浦頭港（[[南風崎駅]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 引き揚げを題材とした文学作品 ==&lt;br /&gt;
*[[赤い月]]&lt;br /&gt;
*:なかにし礼の自伝的小説。引き揚げの過程で子供たちを守り抜いた母親のことをつづり、後に映画・テレビドラマ化。&lt;br /&gt;
*[[流れる星は生きている]]&lt;br /&gt;
*:藤原ていの自伝小説。新田・藤原夫妻が離れ離れになりながらも日本に引き揚げるまでのいきさつをつづり、後に映画・テレビドラマにもなった。当時新田は満州の気象台の職員であり、引き揚げ後は気象庁に帰属。[[富士山レーダー]]設置にかかわり、退職後妻の後を追い小説家に転身した。&lt;br /&gt;
*砲撃のあとで&lt;br /&gt;
*:三木卓の作品。満州引き揚げを題材にした作品で、[[芥川賞]]受賞作。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[引き揚げ]]&lt;br /&gt;
*[[小笠原丸]]&lt;br /&gt;
*[[中国残留日本人]]&lt;br /&gt;
*[[舞鶴引揚記念館]]&lt;br /&gt;
*[[岸壁の母]]&lt;br /&gt;
*[[引揚援護庁]]&lt;br /&gt;
*[[二日市保養所]]&lt;br /&gt;
*[[竹の森遠く]]（ヨーコ物語）&lt;br /&gt;
*[[葛根廟事件]]&lt;br /&gt;
*[[L-19_(潜水艦)]]&lt;br /&gt;
*[[在外父兄救出学生同盟]]&lt;br /&gt;
*[[在外財産補償問題]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://ipusamu.at.webry.info/200701/article_19.html 金完燮『親日派のための弁明』の未翻訳部分]&lt;br /&gt;
*[http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no19.htm 歴史に残らぬ出来事（ピョンヤンで迎えた終戦）]&lt;br /&gt;
*[http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060720.htm 戦後…博多港引き揚げ者らの体験]&lt;br /&gt;
*[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=83559&amp;amp;servcode=400&amp;amp;sectcode=400 第2次大戦後を扱った日本の小説、米の推せん図書採択に韓人が反発]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代|ひきあけしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:満州国|ひきあけしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:大東亜戦争|ひきあけしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の引揚事業|*ひきあけしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:引揚者|*]]&lt;br /&gt;
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