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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>MADLAX</title>
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				<updated>2007-06-10T07:32:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: '{{Infobox animanga/Header |タイトル = MADLAX |ジャンル=美少女ガンアクション }} {{Infobox animanga/TVAnime |原作 = ビィートレイン |監...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox animanga/Header&lt;br /&gt;
|タイトル = MADLAX&lt;br /&gt;
|ジャンル=[[美少女]][[銃|ガン]]アクション&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/TVAnime&lt;br /&gt;
|原作 = [[ビィートレイン]]&lt;br /&gt;
|監督 = [[真下耕一]]&lt;br /&gt;
|企画 = &lt;br /&gt;
|シリーズ構成 = [[黒田洋介]]&lt;br /&gt;
|脚本 = 黒田洋介&lt;br /&gt;
|キャラクターデザイン = [[大澤聡]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[芝美奈子]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[宮地聡子]]&lt;br /&gt;
|メカニックデザイン = [[寺岡賢司]]&lt;br /&gt;
|アニメーション制作 = ビィートレイン&lt;br /&gt;
|製作 = [[ビクターエンタテインメント]]&lt;br /&gt;
|放送局 = [[テレビ東京]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[テレビ大阪]]&lt;br /&gt;
|放送開始 = [[2004年]][[4月5日]]&lt;br /&gt;
|放送終了 = 2004年[[9月27日]]&lt;br /&gt;
|話数 = 全26話&lt;br /&gt;
|その他 = &lt;br /&gt;
|コピーライト = ビィートレイン&amp;lt;br /&amp;gt;ビクターエンタテインメント&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Footer}}&lt;br /&gt;
『'''MADLAX'''』（マドラックス）は、[[2004年]][[4月5日]]から同年[[9月27日]]まで[[テレビ東京]]と[[テレビ大阪]]で放送されたテレビアニメ。全26話。&lt;br /&gt;
{{ネタバレ}}&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
監督の真下耕一によると、「MADLAX」は[[英語]]の &amp;quot;MAD&amp;quot; と &amp;quot;reLAXed&amp;quot; からの造語であるとのこと。作品のテーマの一つである人間の二面性を、タイトルでも暗示したことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『[[NOIR]]』（[[2001年]]）、『[[エル・カザド]]』（[[2007年]]）は、本作と併せて「三部作」と位置付けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ストーリー ==&lt;br /&gt;
近代化を推し進める政府の国王派と、それに反発する反政府組織'''ガルザ'''との間で12年の長きに渡り[[内戦]]を続ける、'''ガザッソニカ王国'''。そこでは、'''マドラックス'''と名乗る一人の[[エージェント]]の存在が、政府軍兵士と反政府[[ゲリラ]]双方の間で知れ渡っていた。少女のあどけなさを残す顔立ちと大人の色気をほのかに漂わせる肢体を併せ持ち、驚異的な戦闘能力を誇る美少女・マドラックス。そのマドラックスに、秘密組織'''アンファン'''のエージェントである'''カロッスア・ドーン'''が興味を持つ。カロッスアは、マドラックスに遭遇しながら唯一生き残った政府軍の女性士官'''リメルダ・ユルグ'''を配下に加え、執拗に彼女の行方を追う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[先進国]]'''ナフレス'''では'''マーガレット・バートン'''という一人の美少女が、[[メイド]]の'''エレノア・ベイカー'''、元[[家庭教師]]で隣人の'''ヴァネッサ・レネ'''に見守られながら、何不自由ない生活を送っていた。しかし、エレノアとヴァネッサには唯一気がかりなことがあった。12年前、マーガレットは両親と飛行機事故に遭いながら単身自宅まで帰還したばかりか、それ以前の記憶を失っていたのだ。「12年前、マーガレットの身に何があったのか」、二人にはそのことが気がかりだったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全く別々の場所で対照的な生活を送る、マドラックスとマーガレット。しかし、マーガレットが自宅で見つけた'''赤い本'''の秘密を探り始め、ヴァネッサが内戦の原因を探るためにガザッソニカに飛んだことで、隠されていた二人の接点が明らかになっていく…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャラクター ==&lt;br /&gt;
=== ガザッソニカ王国 ===&lt;br /&gt;
;マドラックス （[[声優|声]]：[[小林沙苗]]）&lt;br /&gt;
:雇われの凄腕エージェント。幼い時に戦火の中をさ迷っている所をSSSに拾われ、エージェントとなる。幼い時の記憶はなく、戦火の中をさ迷っていた理由も覚えていない。ただ、父親については後姿のみ微かに覚えている。銃の腕前は百発百中で、任務遂行の邪魔者は容赦なく射殺する。ただし、任務の依頼者には興味を持って接し、情を掛けてしまう傾向がある。特にヴァネッサとは意気投合し、親密な関係となった。愛用の拳銃は[[SIG P210]]。&lt;br /&gt;
;リメルダ・ユルグ （声：[[久川綾]]）&lt;br /&gt;
:ガザッソニカ軍中尉でエリート部隊である親衛隊の女性士官。有能なスナイパーで陸軍司令官暗殺事件でマドラックスと対峙して以来、彼女を追い求める。マドラックスと対決するために親衛隊を離れてカロッスアの指揮下に入るが、彼女との対決を重ねるうちにマドラックスという人間そのものに魅入られ、カロッスアの思惑を離れた動きを見せるようになる。&lt;br /&gt;
;SSS （声：[[浦山迅]]）&lt;br /&gt;
:'''スリースピード'''と呼称される謎のエージェントで、マドラックスに仕事を与える。劇中ではマドラックスと直接会うことはなく、[[電話]]でしか話さない。第3話で目から下の横顔は出たが、全体像は登場しなかった。後の『MADLAX the Bible』には、全体像の設定資料が載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナフレス ===&lt;br /&gt;
;マーガレット・バートン （声：[[桑島法子]]）&lt;br /&gt;
:メイドのエリノアと二人暮らし中の女学生。12年前、両親と共に飛行機事故に遭遇するが、行方不明の両親とは対称的に単身で帰宅。事故以前の記憶はその際、既に失われていた。実家は名門貴族の流れを汲むことから莫大な財産に恵まれているので、生活には全く困っていない。そのため、多少浮世離れした感があり、他人を疑わず簡単に付いて行ってはエリノアに心配されている。しかし人間を見る目はしっかりしていて、時折、対峙している相手の本性を看破する。また、自宅で見つけた赤い本には異常に執着しており、赤い本の謎を探るために尽力している。&lt;br /&gt;
;エリノア・ベイカー （声：[[内川藍維]]）&lt;br /&gt;
:マーガレット付きのメイド兼護衛。外見はマーガレットとほぼ同じ年齢のように見られるが、高校は[[飛び級]]で卒業済み。また、武術の心得があるのか、いざという時には華麗な技を披露する。マーガレットが12年前に事故現場から単身帰宅して以来、彼女に対して「自分が守らなくては」という思いを強く抱くようになり、現在ではその世話を生き甲斐のように感じている。また、マーガレットと同じ学校の男子生徒を全てチェックし、マーガレットに素行の悪い男子が近づかないようにしている・旅行中に出会った男性にマーガレットが興味を持っていることをヴァネッサに指摘されるとムキになって否定する（このときはヴァネッサから「妬いているの？」とからかわれていた）…などの描写から、彼女に対しては主従の関係を超えた好意を持っている模様。&lt;br /&gt;
;ヴァネッサ・レネ （声：[[雪野五月]]）&lt;br /&gt;
:マーガレットの隣人にして幼い頃の家庭教師であり、現在は良き相談相手。最高[[学府]]を優秀な成績で卒業し、コンピューターに対する造詣が深い。過去に[[外交官]]であった両親が、ガザッソニカの内戦を起こしたとされて捕まった。自分の勤めている会社がガザッソニカの内戦に荷担しているのを知り、両親の無実を証明すべく、自分の会社の情報を掴もうとするが、その際に謎の組織アンファンがガザッソニカの内戦に関係していることを知り、彼らから命を狙われるようになる。成り行き上、自分の掴もうとした情報がガザッソニカのあるコンピューターに転送されてしまったため、それを回収すべく自らガザッソニカに飛び、マドラックスをボディーガードとして雇った。しかし、マーガレットと大して歳が違わないにもかかわらず危険な仕事に従事するマドラックスに興味を覚え、次第に親しくなっていく。&lt;br /&gt;
;チャーリー・ウィストン （声：[[川島得愛]]）&lt;br /&gt;
:ヴァネッサの同僚で、彼女の下で働いている社員。軽薄そうな外見からか、マーガレットには劇中で2回ほど本能的に避けられた。ヴァネッサがガザッソニカで事件に巻き込まれているのを知ると、自らもガザッソニカに渡り、安否を確かめようとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アンファン ===&lt;br /&gt;
;フライデー・マンデー （声：[[江原正士]]）&lt;br /&gt;
:アンファンの総帥。数年前に'''真実の扉'''を開き、内乱を引き起こした張本人。マーガレット一家が遭った12年前の飛行機事故も、彼が引き起こしたものである。カロッスアが彼に逆らっていると判断された場合の恐怖を度々口にしていることから、相当な力を持つ者と思われる。&lt;br /&gt;
;カロッスア・ドーン （声：[[森川智之]]）&lt;br /&gt;
:アンファンのエージェント。表向きはヴァネッサが勤める会社の幹部。何故かマドラックスの存在に興味を覚え、執拗に行方を追う。一方、フライデーの命令でマーガレットの持っている赤い本についても調査を進めるが、時折嘘の報告をするなど、必ずしもフライデーの思惑通りには動いていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 聖地 ===&lt;br /&gt;
;クアンジッタ・マリスン （声：[[兵藤まこ]]）&lt;br /&gt;
:聖地の美しき[[神官]]、もしくは[[巫女]]。'''真実の扉'''の手がかりを知っている。&lt;br /&gt;
;ナハル （声：[[中野千佳代]]）&lt;br /&gt;
:クアンジッタに仕える謎のボーイッシュな女性。ナイフの達人で、個々の戦闘力ではマドラックスと同等かそれ以上。&lt;br /&gt;
;レティシア （声：[[金田朋子]]）&lt;br /&gt;
:「聖地」に存在する謎の幼女。意味深な言葉を語る。&lt;br /&gt;
;プゥペ&lt;br /&gt;
:レティシアの傍らにいる謎の幼児。レティシアのように何かを語ることは無く、殆ど黙っている。実は劇中で2回ほど台詞があるが、エンディングクレジットには出ていない。&lt;br /&gt;
{{ネタバレ終了}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スタッフ ==&lt;br /&gt;
*[[企画]]：佐々木史朗&lt;br /&gt;
*[[プロデューサー]]：北山茂・浜元達哉&lt;br /&gt;
*アシスタントプロデューサー：吉田博&lt;br /&gt;
*[[監督]]：[[真下耕一]]&lt;br /&gt;
*[[シリーズ構成]]・[[脚本]]：[[黒田洋介]]&lt;br /&gt;
*[[キャラクターデザイン]]：[[大澤聡]]・[[芝美奈子]]・[[宮地聡子]]&lt;br /&gt;
*キャラクター監修：大澤聡&lt;br /&gt;
*[[メカニカルデザイン|メカニックデザイン]]：[[寺岡賢司]]&lt;br /&gt;
*メカニック[[作画監督]]：才木康寛&lt;br /&gt;
*[[色彩設定|色彩設計]]：小島真喜子&lt;br /&gt;
*[[美術監督]]：海野よしみ&lt;br /&gt;
*[[音楽]]：[[梶浦由記]]&lt;br /&gt;
*音楽プロデューサー：野崎圭一&lt;br /&gt;
*[[音響監督]]：[[なかのとおる]]&lt;br /&gt;
*音響プロデューサー：中野徹&lt;br /&gt;
*[[撮影監督]]：鎌田克明・斎藤仁&lt;br /&gt;
*[[特殊効果]]：村上正博&lt;br /&gt;
*アニメーション[[制作]]：[[ビィートレイン]]&lt;br /&gt;
*[[製作]]：[[ビクターエンタテインメント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 各話タイトル ==&lt;br /&gt;
#「銃舞 -dance-」4/5放送&lt;br /&gt;
#「紅月 -crimson-」4/12放送&lt;br /&gt;
#「蒼月 -moon-」4/19放送&lt;br /&gt;
#「誘惑 -ask-」4/26放送&lt;br /&gt;
#「無在 -none-」5/3放送&lt;br /&gt;
#「遺言 -leave-」5/10放送&lt;br /&gt;
#「繪本 -nature-」5/17放送&lt;br /&gt;
#「魂言 -soul-」5/24放送&lt;br /&gt;
#「残香 -scent-」5/31放送&lt;br /&gt;
#「侵触 -dive-」6/7放送&lt;br /&gt;
#「異国 -object-」6/14放送&lt;br /&gt;
#「消意 -close-」6/21放送&lt;br /&gt;
#「覚鳴 -awake-」6/28放送&lt;br /&gt;
#「忘想 -memory-」7/5放送&lt;br /&gt;
#「偽争 -camouflage-」7/12放送&lt;br /&gt;
#「銃韻 -moment-」7/19放送&lt;br /&gt;
#「刹那 -reunion-」7/26放送&lt;br /&gt;
#「双離 -duo-」8/2放送&lt;br /&gt;
#「獲本 -holy-」8/9放送&lt;br /&gt;
#「真争 -wish-」8/16放送&lt;br /&gt;
#「告薄 -guilty-」8/30放送&lt;br /&gt;
#「撃情 -rage-」8/30放送&lt;br /&gt;
#「迷心 -doubt-」9/6放送&lt;br /&gt;
#「献心 -hearts-」9/13放送&lt;br /&gt;
#「聖血 -saints-」9/20放送&lt;br /&gt;
#「欠片 -pupile-」9/27放送&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主題歌 ==&lt;br /&gt;
* オープニングテーマ&lt;br /&gt;
** 「瞳の欠片」([[FictionJunction|FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
* エンディングテーマ&lt;br /&gt;
** 「inside your heart」（[[FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
* 挿入歌&lt;br /&gt;
** 「nowhere」（[[FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
** 「I'm here」（[[FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
=== ヤンマーニなアニメ ===&lt;br /&gt;
主人公のマドラックスの戦闘シーンに使われている挿入歌『nowhere』（[[FictionJunction|FictionJunction YUUKA]]）のコーラス部分では、'''ヤンマーニ'''という謎のフレーズを連呼するため、ファンの間では'''ヤンマーニなアニメ'''として認知されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このフレーズについて、[[梶浦由記]]は[[ホビージャパン]]発売の『MADLAX the Bible』で、「造語ですので、聞こえたままの響きが正解だと思っていただければ」と語っているが、この部分の歌詞は公表されていないために、実際に何と言っているのかは不明。ただ、梶浦本人はヤンマーニと言っているつもりは全くなかったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方では、ファンの反響を受ける形で、制作者サイドでも'''ヤンマーニ'''というフレーズを使用しており、結果的には公式にも認められた言葉になっている（DVD Vol.3 の解説の挿絵、DVD Vol.8 の解説、『MADLAX the Bible』のサブタイトルなどで使用されている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、黒田洋介は[[角川書店]]発売の[[月刊ニュータイプ]]2006年1月号で、「初めに断っておきますが、文章の出だしに『ヤンマーニ』と書きましたが、本当は『ヤンマーイ』と歌っているそうです。ビクターエンタテインメントさんから聞いた情報ですので間違いないと思われます」と発言しているが、これに関しては後日梶浦が自身のブログで、「とりあえず何と言っているかはご想像にお任せ致したく思っているのですが、『ヤンマーイ』で無い事だけは保証します」と言っているため、「ヤンマーイ」は誤りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
補足を付けると、このコーラスが流れている間は意図的にマドラックスの戦闘能力を強調した描写が施されるために、[[2ちゃんねる]]などでは彼女自身を無敵モードにする、もしくはそういう[[トランス]]状態に入ったことを視聴者に知らせる何らかの[[呪文]]であると解釈されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他作品とのリンク ===&lt;br /&gt;
本作中で使用されている[[通貨]]単位は『[[ガングレイヴ]]』（[[2003年]]）と同じ「ユール」（[[ユーロ]]のもじり）であり、また、『[[極上生徒会]]』（[[2005年]]）には「ナフレス[[諜報機関]]」の[[工作員]]が登場するなど、他の[[黒田洋介]]脚本作品とのリンクが見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.jvcmusic.co.jp/m-serve/madlax/ MADLAX公式サイト]（ビクターエンタテインメント内）&lt;br /&gt;
* [http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/madlax/ TV東京・Anime X-press MADLAX]&lt;br /&gt;
* [http://www.hobbyjapan.co.jp/madlax/ MADLAX the Bible]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{前後番組|&lt;br /&gt;
放送局=[[テレビ東京]]|&lt;br /&gt;
放送枠=月曜25:30枠|&lt;br /&gt;
番組名=MADLAX|&lt;br /&gt;
前番組=[[ガングレイヴ]]|&lt;br /&gt;
次番組=[[月詠 -MOON PHASE-]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:アニメ作品 ま|とらつくす]]&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まとらつくす}}&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ東京系アニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:深夜アニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:2004年のテレビアニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ビィートレイン]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E8%8C%B6%E4%BA%BA%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=5369</id>
		<title>茶人人物一覧</title>
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				<updated>2007-05-29T09:12:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: ''''茶人人物一覧'''（'''ちゃじんじんぶついちらん'''）とは、茶人の一覧   ==鎌倉時代== *栄西 *道元  ==室町時代== *一休宗純 ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''茶人人物一覧'''（'''ちゃじんじんぶついちらん'''）とは、茶人の一覧&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==鎌倉時代==&lt;br /&gt;
*[[栄西]]&lt;br /&gt;
*[[道元]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==室町時代==&lt;br /&gt;
*[[一休宗純]]&lt;br /&gt;
*[[足利義政]]&lt;br /&gt;
*[[村田珠光]]-奈良流 [[珠光流]]&lt;br /&gt;
*[[武野紹鴎]]-堺流 &lt;br /&gt;
*[[能阿弥]]-東山流&lt;br /&gt;
*[[志野宗信]]-[[志野流]]&lt;br /&gt;
*[[玉置一咄]]-瑞穂流&lt;br /&gt;
*[[北向道陳]]&lt;br /&gt;
*[[能阿弥]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==戦国時代・安土桃山時代==&lt;br /&gt;
===武家茶道・大名茶===&lt;br /&gt;
*[[荒木村重]]　　-1535～1586　利休十哲&lt;br /&gt;
*[[板部岡江雪斎]]-1537～1609&lt;br /&gt;
*[[今井宗久]]　　-1520～1593　天下三宗匠&lt;br /&gt;
*[[大野治長]]　　-1573～1615&lt;br /&gt;
*[[織田有楽]]　　-1547～1621　[[有楽流]] 利休十哲　武家茶道　大名茶&lt;br /&gt;
*[[金森長近]]　　-1524～1608　利休七哲になる場合もある&lt;br /&gt;
*[[神屋宗湛]]　　-1553～1635&lt;br /&gt;
*[[蒲生氏郷]]　　-1556～1595　利休門三人衆　[[利休七哲]]&lt;br /&gt;
*[[小堀政一]]　　-1579～1647　(小堀遠州)　[[遠州流]] [[小堀遠州流]] 古田織部の門人&lt;br /&gt;
*[[島井宗室]]　　-1539～1615&lt;br /&gt;
*[[千利休]]　　　-1522～1591　天下三宗匠　武野紹鴎の弟子&lt;br /&gt;
*[[高山重友]]　　-1552～1615　(高山右近)　[[利休七哲]]&lt;br /&gt;
*[[津田宗及]]　　-????～1591　天下三宗匠&lt;br /&gt;
*[[津田宗達]]　　-????～1566　宗及の父&lt;br /&gt;
*[[古田織部]]　　-????～1615　[[織部流]] 　(古田重然)　[[利休七哲]]&lt;br /&gt;
*[[細川忠興]]　　-1563～1645　(細川三斎)　利休門三人衆　[[利休七哲]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===茶道を非常に好んだ人物===&lt;br /&gt;
*[[明智光秀]]　　-1528～1582&lt;br /&gt;
*[[足利義昭]]　　-1537～1597&lt;br /&gt;
*[[足利義輝]]　　-1536～1565&lt;br /&gt;
*[[安宅冬康]]　　-????～1564&lt;br /&gt;
*[[安東実季]]　　-1576～1659　([[秋田実季]])&lt;br /&gt;
*[[一条兼定]]　　-1543～1585&lt;br /&gt;
*[[一万田鑑実]]　-????～1588&lt;br /&gt;
*[[今井宗薫]]　　-1552～1627&lt;br /&gt;
*[[今川氏真]]　　-1538～1614&lt;br /&gt;
*[[今川義元]]　　-1519～1560&lt;br /&gt;
*[[大内義隆]]　　-1507～1551&lt;br /&gt;
*[[大友宗麟]]　　-1530～1587&lt;br /&gt;
*[[織田信長]]　　-1534～1582&lt;br /&gt;
*[[織田秀信]]　　-1580～1605&lt;br /&gt;
*[[神屋紹策]]　　-????～????&lt;br /&gt;
*[[喜入季久]]　　-1532～1588　([[島津季久]])&lt;br /&gt;
*[[黒田長政]]　　-1568～1623&lt;br /&gt;
*[[小西行長]]　　-????～1600&lt;br /&gt;
*[[佐久間信盛]]　-????～1581&lt;br /&gt;
*[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]　　-1570～1633&lt;br /&gt;
*[[島津忠恒]]　　-1578～1638&lt;br /&gt;
*[[末吉孫左衛門]]-1570～1617&lt;br /&gt;
*[[角倉素庵]]　　-1571～1632&lt;br /&gt;
*[[高山友照]]　　-1530～1596&lt;br /&gt;
*[[茶屋又四郎]]　-1584～1622&lt;br /&gt;
*[[豊臣秀次]]　　-1568～1595&lt;br /&gt;
*[[豊臣秀頼]]　　-1593～1615&lt;br /&gt;
*[[直江兼続]]　　-1560～1619&lt;br /&gt;
*[[北条幻庵]]　　-1493～1589&lt;br /&gt;
*[[細川藤孝]]　　-1534～1610&lt;br /&gt;
*[[前田慶次]]　　-????～????&lt;br /&gt;
*[[前田玄以]]　　-1539～1602&lt;br /&gt;
*[[松井康之]]　　-1550～1612&lt;br /&gt;
*[[松永久秀]]　　-1510～1577&lt;br /&gt;
*[[松浦鎮信]]　　-1549～1614　[[鎮信流]] 千道安の系統&lt;br /&gt;
*[[曲直瀬道三]]　-1507～1595&lt;br /&gt;
*[[三好実休]]　　-1527～1562　(三好義賢)&lt;br /&gt;
*[[森蘭丸]]　　　-1565～1582&lt;br /&gt;
*[[山名豊国]]　　-1548～1626&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[豊臣秀吉]]　　-1536～1598&lt;br /&gt;
*[[内藤如安]]&lt;br /&gt;
*[[本阿弥光悦]]&lt;br /&gt;
*[[三好政長]]&lt;br /&gt;
*[[牧村兵部]]([[牧村利貞]])　利休七哲&lt;br /&gt;
*[[瀬田掃部]]　利休七哲&lt;br /&gt;
*[[芝山監物]]([[芝山宗綱]])-利休門三人衆　利休七哲&lt;br /&gt;
*[[小堀長斎]]小堀流 &lt;br /&gt;
*[[片桐石州]]-[[石州流]] ([[片桐貞昌]])　桑山宗仙に師事 千道安の系統&lt;br /&gt;
*[[前田利長]]-利休十哲&lt;br /&gt;
*[[有馬豊氏]]-利休十哲&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===茶人===&lt;br /&gt;
*[[長谷川宗仁]]&lt;br /&gt;
*[[円乗坊宗円]]　(円乗坊宗圓)-利休流 &lt;br /&gt;
*[[藪内剣仲]]-[[薮内流]] &lt;br /&gt;
*[[今井宣法]]-東藪内流　華道宣法未生流&lt;br /&gt;
*[[南坊宗啓]]-南坊流&lt;br /&gt;
*[[上田宗箇]]-[[上田宗箇流]] ([[上田重安]])　古田織部の門人&lt;br /&gt;
*[[安楽庵策伝]]-安楽庵流 &lt;br /&gt;
*[[大森漸斎]]-[[玉川遠州流]]　小堀遠州の門人&lt;br /&gt;
*[[織田貞置]]-貞置流　織田有楽の甥信貞の子&lt;br /&gt;
*[[一尾伊織]]-[[三斎流]]　[[細川忠興|細川三斎]]の門人&lt;br /&gt;
*[[米津田賢]]-一尾伊織の門人&lt;br /&gt;
*[[安藤信友]]-[[御家流 (茶道)|御家流]]　米津田賢に師事&lt;br /&gt;
*[[古市宗庵]]-古市流 　円乗坊宗圓の女婿&lt;br /&gt;
*[[萱野甚斎]]-萱野流 　古田織部の甥&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==江戸時代==&lt;br /&gt;
===[[千道安]]の系統===&lt;br /&gt;
*[[千道安]]-[[堺千家]]　利休十哲&lt;br /&gt;
*[[金森重近]]-[[宗和流]] (金森宗和)　織部・遠州の影響を受けた&lt;br /&gt;
*[[桑山宗仙]]&lt;br /&gt;
*[[下條信隆]]-[[石州流宗猿系]]　片桐石州の庶子&lt;br /&gt;
*[[藤林宗源]]-古石州流 片桐石州の家老&lt;br /&gt;
*[[大口樵翁]]-大口派 　&lt;br /&gt;
*[[清水動閑]]-清水派  　&lt;br /&gt;
*[[野村休盛]]-野村派 &lt;br /&gt;
*[[怡渓宗悦]]-怡渓派　&lt;br /&gt;
*[[松平治郷]]-[[不昧流]] (松平不昧)&lt;br /&gt;
*[[井伊直弼]]-宗観流 (井伊宗観)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[千宗旦]]の系統===&lt;br /&gt;
*[[千少庵]]-[[三千家]]　[[千利休]]の後妻の連れ子&lt;br /&gt;
*[[千宗旦]]-宗旦流&lt;br /&gt;
*[[山田宗徧]]-[[宗徧流]]　[[宗旦四天王]]&lt;br /&gt;
*[[藤村庸軒]]-[[庸軒流]]　[[宗旦四天王]]&lt;br /&gt;
*[[杉木普斎]]-普斎流　　　[[宗旦四天王]]&lt;br /&gt;
*[[山田亀斎]]-2代目有麦庵&lt;br /&gt;
*[[円猷]]上人-宗旦古流（一身田流とも）真宗高田派本山専修寺にて伝わる&lt;br /&gt;
====表千家の系統====&lt;br /&gt;
*不審庵-[[表千家]]&lt;br /&gt;
*[[江岑宗左]]（逢源斎）「江岑夏書」利休の曾孫にあたる&lt;br /&gt;
*覚々斎-表千家六代&lt;br /&gt;
*[[如心斎]]-表千家七代&lt;br /&gt;
*[[久田宗栄]]-[[久田流]] 表千家の縁戚および分派&lt;br /&gt;
*[[堀内仙鶴]]-[[堀内家]] 　覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*[[松尾宗二]]-[[松尾流]] (松尾楽只斎)　覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*[[三谷宗鎮]]-三谷流　　覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*[[河村曲全]]-曲全流　　覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*[[川上不白]]-[[江戸千家]]初代　　如心斎の門人&lt;br /&gt;
*[[川上宗什]]-表千家不白流　　川上不白の門人&lt;br /&gt;
*[[石塚宗通]]-不白流石塚派　　川上不白の門人&lt;br /&gt;
*[[森山宗江]]-都千家　　　　　江戸千家の分派&lt;br /&gt;
*[[水谷宗雅]]-雅流　　　　　　不白流の分派&lt;br /&gt;
====裏千家の系統====&lt;br /&gt;
*今日庵-[[裏千家]]&lt;br /&gt;
*[[又玄斎]]-裏千家八代&lt;br /&gt;
*圓能斎-裏千家十三代&lt;br /&gt;
*[[速水宗達]]-[[速水流]] 　玄斎の門人&lt;br /&gt;
*[[田中仙樵]]-[[大日本茶道学会]]　　圓能斎の門人　&lt;br /&gt;
====武者小路千家の系統====&lt;br /&gt;
*官休庵-[[武者小路千家]]　　表千家より別派&lt;br /&gt;
====有楽流====&lt;br /&gt;
*[[織田長好]]　　&lt;br /&gt;
*[[織田頼長]]&lt;br /&gt;
*[[織田長迢]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===煎茶道===&lt;br /&gt;
*[[売茶翁]]　　(高遊外)&lt;br /&gt;
*[[石川丈山]]&lt;br /&gt;
*[[上田秋成]]&lt;br /&gt;
*[[頼山陽]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===系譜不詳===&lt;br /&gt;
*[[巓崢宗光]]-[[覚花一心流]]　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===諸流派の継承者===&lt;br /&gt;
====有楽流====&lt;br /&gt;
*[[織田長好]]　　&lt;br /&gt;
*[[織田頼長]]&lt;br /&gt;
*[[織田長迢]]&lt;br /&gt;
====石州流====&lt;br /&gt;
*[[片桐宗猿]]&lt;br /&gt;
*[[片桐宗幽]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==明治時代==&lt;br /&gt;
*[[円能斎鉄中]]&lt;br /&gt;
*[[益田孝]]-[[小田原三茶人]]　(益田鈍翁)&lt;br /&gt;
*[[野崎廣太]]-[[小田原三茶人]]　(野崎幻庵)&lt;br /&gt;
*[[松永安左エ門]]-[[小田原三茶人]]　(松永耳庵)　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==茶人に縁の深い人物==&lt;br /&gt;
*[[松浦検校]]-『宇治巡り』([[地歌]]・[[箏曲]])&lt;br /&gt;
*[[菊岡検校]]-『茶音頭』 (地歌・箏曲)&lt;br /&gt;
*[[岡倉天心]]&lt;br /&gt;
*[[田中仙樵]]（[[1875年]]-[[1960年]]）-大日本茶道学会　『茶道講義』&lt;br /&gt;
*[[玉置一成]]-『茶道要鑑』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==中国==&lt;br /&gt;
*[[陸羽]]（？ - [[804年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:人名一覧|ちやしんしんふついちらん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>茶道</title>
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				<updated>2007-05-29T08:57:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: ''''茶道'''（さどう、ちゃどう）とは、様式にのっとって客人に茶をふるまう行為のこと。元来は「'''茶湯'''（ちゃとう）」「'''...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''茶道'''（さどう、ちゃどう）とは、様式にのっとって客人に[[茶]]をふるまう行為のこと。元来は「'''茶湯'''（ちゃとう）」「'''茶の湯'''」といった。千利休は「数寄道」、小堀遠州は「茶の道」という語も使っていたが、やがて江戸時代初期には茶道と呼ばれるようになった（「茶話指月集」「南方録」など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、茶をいれて飲むだけでなく、生きていく目的や考え方、[[宗教]]、茶道具や[[茶室]]に置く[[美術品]]など、広い分野にまたがる総合[[芸術]]とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、茶道は先発の抹茶道と後発の[[煎茶道]]があり、単に茶道というと前者を指すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、茶道のという名称は[[明治時代]]に改名されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本の茶道 ==&lt;br /&gt;
===茶道の歴史===&lt;br /&gt;
茶の大元に成っているものは[[唐]]の[[陸羽]]（？ - [[804年]]）の書いた『[[茶経]]』と言われている。この本には、茶の製法、飲み方、歴史などが詳しく書かれており、まさに茶のバイブルと言える書物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
茶を飲む習慣と茶の製法は[[平安時代]]に[[遣唐使]]によってもたらされた。当時の茶は現代の[[烏龍茶]]に似た半発酵茶で、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。&lt;br /&gt;
鎌倉時代に、日本に[[禅宗]]を伝えた[[栄西]]や[[道元]]によって薬として持ち込まれた[[抹茶]]が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。&lt;br /&gt;
[[室町時代]]においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、[[闘茶]]という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場[[中国]]の[[茶器]]「[[唐物]]」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した（これを「唐物数寄」と呼ぶ）。これに対し、[[村田珠光]]が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これが[[わび茶]]の源流と成っていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[わび茶]]はその後、[[堺]]の[[町衆]]である[[武野紹鴎]]、その弟子の[[千利休]]によって[[安土桃山時代]]に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、[[蒲生氏郷]]、[[細川忠興|細川三斎]]、[[牧村兵部]]、[[瀬田掃部]]、[[古田織部]]、[[芝山監物]]、[[高山右近]]ら[[利休七哲]]と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらには[[わび茶]]から発展し、[[小堀政一|小堀遠州]]、[[片桐石州]]、[[織田有楽]]ら流派をなす[[大名]]も現われた。現代では特に[[武家茶道]]、或いは[[大名茶]]などと呼んで区別する場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]初期までの茶の湯人口は、主に[[大名]]・豪商などが中心のごく限られたものであったが、江戸中期に町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加した。これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である[[三千家]]を中心とする[[千家]]系の流派である。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態：[[家元制度]]が確立した。また、[[表千家]]七代[[如心斎]]、[[裏千家]]八代[[又玄斎]]、如心斎の高弟、[[江戸千家]]初代[[川上不白]]などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、[[七事式]]が考案された。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのである。ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もある。「侘び・寂び」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方でこのような遊芸化の傾向に対して、精神論が強調されるようになる。この際に[[大徳寺]]派の[[臨済宗]]寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「[[和敬清寂]]」という標語もこの過程で生み出された。また幕末には、[[井伊直弼]]が「[[一期一会]]」の概念を完成させた。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化に加えて、こうした精神論の整備によって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている[[抹茶]]の茶の湯を嫌い、気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた。同時期に、単なる嗜好品と化してしまった[[煎茶]]の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁（[[売茶翁|高遊外]]）が行っていた煎茶の法に従い、改めて煎茶の作法を定めたのが煎茶道である。煎茶道は文人を中心に広まり、確立されていった。煎茶を好んだ著名人として江戸初期の[[石川丈山]]、中期に[[上田秋成]]、後期には[[頼山陽]]の名が挙げられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治時代]]になると、封建制度が崩壊し、諸藩に庇護されていた各流派が財政的に困難に陥るようになった。そうした中、裏千家十三代円能斎鉄中は一時東京に居を移して茶道再興に努めた。努力の甲斐あって有力財界人の関心を呼び、茶道を女子教育の必須科目として組み込むことに成功した。このため茶道は、本来のわび茶とは別の「女子の教養」としての要素も獲得し、今では美しい着物姿での華やかな茶会が当たり前になっている。戦後は海外にも茶道は広まり、茶道の大衆化は世界的レベルとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ボストン美術館中国日本部に勤務していた[[岡倉天心]]がアメリカで『THE BOOK OF TEA』（邦題:『茶の本』）を[[1906年]]（明治39年）に出版紹介した。この出版は欧米文化人の関心を呼び、「茶道」を英語で「tea ceremony」というのも一般的になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
茶の湯が茶道という名前に変わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
80年代初め頃には、日本の茶道の[[所作]]は[[中国茶]]（茶芸）に用いられるようになった。&lt;br /&gt;
現在の[[中国茶]]（茶芸）の「茶巾をたたむ」という所作は、日本の茶道の影響の表れであるといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===茶道の流派===&lt;br /&gt;
====[[千利休]]以前の緒流派====&lt;br /&gt;
流派と言うべきか定かではないが以下のような呼び習わしがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*奈良流 (ならりゅう)　[[村田珠光]]&lt;br /&gt;
*東山流（ひがしやまりゅう）　[[能阿弥]]&lt;br /&gt;
*堺流 (さかいりゅう)　[[武野紹鴎]]&lt;br /&gt;
*瑞穂流（みずほりゅう）　[[玉置一咄]]　[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]][[手取城]]城主&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期の創始と伝えられ現存するものには以下がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[珠光流]]（じゅこうりゅう）　[[村田珠光]]&lt;br /&gt;
*[[志野流]]（しのりゅう）　[[志野宗信]]　志野流香道の家元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====[[千利休]]と同時期の創始による流派====&lt;br /&gt;
多くは[[武野紹鴎]]の門人か[[千利休]]の直弟子を創始者とするものであり、利休の影響はうけつつも「宗旦流」とは異なる独自の茶風を形成している。今日、武家茶道と呼ばれる流派の多くはここに見ることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*利休流 (りきゅうりゅう)　利休の門人、円乗坊宗円の流れ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[薮内流]] (やぶのうちりゅう)　[[藪内剣仲]]　利休の弟弟子&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/hanatocha/ 東藪内流]（あづまやぶのうちりゅう）　華道宣法未生流と共に伝えられ神奈川・青森などに見られる&amp;lt;!-- 未生流を鎌倉に伝えた今井宣法によるものか --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[http://homepage3.nifty.com/s-inoue/ 南坊流]（なんぼうりゅう）　[[南坊宗啓]]始祖&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[織部流]] (おりべりゅう)　[[古田織部]]　利休七哲の一人&lt;br /&gt;
*[[上田宗箇流]] (うえだそうこりゅう)　[[上田宗箇]]　古田織部の門人&lt;br /&gt;
*[[遠州流]] (えんしゅうりゅう)　[[小堀遠州]]　古田織部の門人&lt;br /&gt;
*[[小堀遠州流]] (こぼりえんしゅうりゅう)　[[小堀遠州]]　古田織部の門人&lt;br /&gt;
*安楽庵流 (あんらくあんりゅう)　[[安楽庵策伝]]（現存するか不明）&lt;br /&gt;
*[[玉川遠州流]]（たまがわえんしゅうりゅう）　大森漸斎　小堀遠州の門人&lt;br /&gt;
*[[壺月遠州流]]（こげつえんしゅうりゅう）&lt;br /&gt;
*[[有楽流]] (うらくりゅう）　[[織田有楽]]&lt;br /&gt;
*貞置流（さだおきりゅう）　[[織田貞置]]　織田有楽の甥信貞の子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[三斎流]] (さんさいりゅう)　[[一尾伊織]]　利休七哲の一人[[細川忠興|細川三斎]]の門人&lt;br /&gt;
*[[御家流 (茶道)|御家流]]（おいえりゅう）　[[安藤信友]]　一尾伊織の門人米津田賢に師事&lt;br /&gt;
*[[肥後古流 (茶道)|肥後古流]]（ひごこりゅう） [[熊本藩]]で伝承され利休の流儀をそのまま伝えていると称される&lt;br /&gt;
**古市流 (ふるいちりゅう)　古市宗庵　円乗坊宗圓の女婿&lt;br /&gt;
**小堀流 (こぼりりゅう)　小堀長斎&lt;br /&gt;
**萱野流 (かやのりゅう)　萱野甚斎　古田織部の甥（現存するか不明）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*小笠原家茶道古流 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====[[千道安]]の流れを汲む流派====&lt;br /&gt;
千家の本家である[[堺千家]]（さかいせんけ）は千利休の実子である[[千道安]]が継いだが、早期に断絶した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[宗和流]] (そうわりゅう)　[[金森重近|金森宗和]]　織部・遠州の影響を受けた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[石州流]] (せきしゅうりゅう)　[[片桐石州]]　道安門下の桑山宗仙に師事&lt;br /&gt;
**[[石州流宗猿系|宗猿系]]（そうえんけい）　[[下條信隆]]　石州庶子&lt;br /&gt;
**古石州流 (こせきしゅうりゅう)　[[藤林宗源]]　石州家老&lt;br /&gt;
**大口派 (おおぐちは)　大口樵翁&lt;br /&gt;
**清水派 (しみずは) 　清水動閑&lt;br /&gt;
**野村派 (のむらは)　野村休盛&lt;br /&gt;
**怡渓派 (いけいは)　怡渓宗悦&lt;br /&gt;
*[[鎮信流]] (ちんしんりゅう)　[[松浦鎮信]]&lt;br /&gt;
*[[不昧流]] (ふまいりゅう)　[[松平治郷|松平不昧]]&lt;br /&gt;
*宗観流 (そうかんりゅう)　[[井伊直弼|井伊宗観]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====[[千宗旦]]の流れを汲む流派====&lt;br /&gt;
いわゆる「宗旦流（そうたんりゅう）」であり、三千家の他に、[[宗旦四天王]]の系譜である松尾流、庸軒流、宗徧流、普斎流や久田流なども含む。宗旦流は、江戸時代初期に、少庵の子である[[千宗旦]]とその弟子達に対して用いられた呼称。侘びに徹することを旨とする傾向が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[三千家]]（さんせんけ） [[千利休]]の後妻の連れ子である[[千少庵]]系統の家。[[堺千家]]に対して傍系に当たる。&lt;br /&gt;
**[[表千家]]（おもてせんけ）　不審庵&lt;br /&gt;
**[[裏千家]]（うらせんけ）　今日庵　表千家より分派&lt;br /&gt;
**[[武者小路千家]]（むしゃのこうじせんけ）　官休庵　表千家より別派&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[宗徧流]] (そうへんりゅう)　[[山田宗徧]]　宗旦四天王&lt;br /&gt;
*[[庸軒流]]（ようけんりゅう）　[[藤村庸軒]]　宗旦四天王&lt;br /&gt;
**庸軒流宗積諦観派&lt;br /&gt;
*普斎流 (ふさいりゅう)　杉木普斎　宗旦四天王&lt;br /&gt;
*[[久田流]] (ひさだりゅう)　[[久田宗栄]]　表千家の縁戚および分派&lt;br /&gt;
*[[堀内家|堀内流]] (ほりのうちりゅう)　[[堀内仙鶴]]　表千家六代覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*[[松尾流]] (まつおりゅう)　[[松尾宗二]]（楽只斎）　表千家六代覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*三谷流 (みたにりゅう)　[[三谷宗鎮]]　表千家六代覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*曲全流（きょくぜんりゅう）　[[河村曲全]]　表千家六代覚々斎の門人&lt;br /&gt;
*[[江戸千家]] (えどせんけ)　[[川上不白]]　表千家七代如心斎の門人&lt;br /&gt;
**表千家不白流 (ふはくりゅう)　[[川上宗什]]　川上不白の門人&lt;br /&gt;
**不白流石塚派　[[石塚宗通]]　川上不白の門人&lt;br /&gt;
**都千家（みやこせんけ）　森山宗江　江戸千家の分派&lt;br /&gt;
**雅流（みやびりゅう）　[[水谷宗雅]]　不白流の分派&lt;br /&gt;
**江戸千家新柳流&lt;br /&gt;
*表千家都流&lt;br /&gt;
*表千家看月庵&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[速水流]] (はやみりゅう)　[[速水宗達]]　裏千家八代又玄斎の門人&lt;br /&gt;
*[[大日本茶道学会]]（だいにっぽんちゃどうがっかい）　[[田中仙樵]]　裏千家十三代圓能斎の門人・後に石州流の秘伝も得て流儀返上　&lt;br /&gt;
*宗旦古流（一身田流とも）　円猷上人　真宗高田派本山専修寺にて伝わる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====系譜不詳の流派====&lt;br /&gt;
*中宮寺御流（ちゅうぐうじごりゅう）　奈良[[中宮寺]]に伝わる&lt;br /&gt;
*[[紫野千家]]（むらさきのせんけ）　尾張徳川の家老家に伝わった今沢流の系譜らしい　現在自衛隊などで習流　また別に同名の流派もあるがどこの流れかは不明&lt;br /&gt;
*[[覚花一心流]]　(こうかいっしんりゅう)　[[巓崢宗光]]　千家流と絶縁・別派する&lt;br /&gt;
*茶道富士庵流 &lt;br /&gt;
*燁々流&lt;br /&gt;
*PL茶道&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===著名な茶人===&lt;br /&gt;
著名な茶人については[[茶人人物一覧]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 茶道関連文献 ===&lt;br /&gt;
*『茶道講義』：明治31年([[1898年]])に田中仙樵（[[1875年]]-[[1960年]]）によって大日本茶道学会が創設され、各流派の秘伝開放を主張して発行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==中国の茶芸（工夫茶）==&lt;br /&gt;
中国では、茶の作法を「茶芸」という。今日、日本で行われている[[中国茶]]の淹れ方は、福建・広東で発祥した形式である「工夫茶（[[功夫]]茶）」である。工夫茶は、もともと烏龍茶の淹れ方であるので他の種類の茶葉には適さないが、現在では中国茶芸の主流となっており、他の茶葉も工夫茶で淹れられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国茶はその種類が非常に多く、茶葉によって淹れ方が異なるため、「最も美味しく茶を淹れる方法」や一種のパフォーマンスとして、中国茶芸は発展した。[[中国]]においては、[[漢]]の時代には飲茶の習慣が根付いていたと考えられているが、嗜好品として広まったために、「道」としての茶道はおこらなかった。そのため、中国で単に「茶道」と言う場合は「日本の茶道」をさす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝鮮の茶礼 ==&lt;br /&gt;
朝鮮では芸道的な茶道ではなく、儀式としての「'''茶禮'''」（タレ）に重点が置かれていた。&lt;br /&gt;
:記事「茶」の項目、[[茶#朝鮮半島|歴史→朝鮮半島]]参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==茶道に関係する音楽作品==&lt;br /&gt;
* 『宇治巡り』([[地歌]]・[[箏曲]])&lt;br /&gt;
*:[[文化]][[文政]]の頃、京都で活躍した盲人音楽家、[[松浦検校]]が作曲した手事 (てごと) もの地歌曲。箏の手付は八重崎[[検校]]。「喜撰」「雁が音」など、多数の茶の銘を詠み込み四季の順に配列しつつ、春夏秋冬の茶の名産地宇治を巡り歩くという風流な趣向の曲。大曲で二箇所の手事 (楽器だけで奏される器楽間奏部) も音楽的に凝ったもので、転調も頻繁に現れ、技術的にもなかなか難しい曲。「松浦の四つ物 (四大名曲)  」のひとつとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 『茶音頭』 (地歌・箏曲)&lt;br /&gt;
*:文化文政時代、京都で活躍した盲人音楽家、[[菊岡検校]]が作曲、[[八重崎検校]]が箏の手付をした手事もの地歌曲。「茶の湯音頭」と呼ぶ流派もある。「音頭」は本来[[雅楽]]用語であり、のち[[近世邦楽]]全般において広く使われ、この曲も[[民謡]]とは関係ないので注意が必要。俳人横井也有の「女手前」から抜粋した歌詞で、多数の茶道具を詠み込みつつ男女の仲がいつまでも続くよう願った内容。[[三味線]]の[[調弦]]が「六下がり」という非常に特殊なもので、独特な響きがこの曲独自の雰囲気を作り出しており、歌の節も凝っている一方で手事が長く、八重崎検校の箏手付も巧みで合奏音楽としてもよくできているので、現代でも演奏会でよく取り上げられる曲である。お手前の伴奏として演奏されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[茶道具]]&lt;br /&gt;
*[[茶碗]]&lt;br /&gt;
*[[釜]]&lt;br /&gt;
*[[茶筅]]（ちゃせん）&lt;br /&gt;
*[[茶巾]]&lt;br /&gt;
*[[棗]]（なつめ）&lt;br /&gt;
*[[茶杓]]（ちゃしゃく）&lt;br /&gt;
*[[香合]]（こうごう）&lt;br /&gt;
*[[掛け軸]]&lt;br /&gt;
*[[茶室]]&lt;br /&gt;
*[[露地]]&lt;br /&gt;
*[[家元]]&lt;br /&gt;
*[[宗匠]]&lt;br /&gt;
*[[禅]]&lt;br /&gt;
*[[わび・さび]]&lt;br /&gt;
*[[日本庭園]]&lt;br /&gt;
*[[懐石料理]]&lt;br /&gt;
*[[華道]]&lt;br /&gt;
*[[香道]]&lt;br /&gt;
*[[煎茶道]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.omotesenke.jp/ 茶の湯 こころと美]（表千家公式ホームページ）&lt;br /&gt;
*[http://www.urasenke.or.jp/ 裏千家ホームページ] (要Flash)&lt;br /&gt;
*[http://www.mushakouji-senke.or.jp/ 武者小路千家　官休庵]&lt;br /&gt;
*[http://ikaisan.pupu.jp/folk/tyakyoall/tyakyou1/PAGE001.HTM 茶経全文]&lt;br /&gt;
*[http://www.santokuan.or.jp/index2.html 大日本茶道学会]&lt;br /&gt;
*[http://www.sado-miyabi.com/ 茶道雅流　松月庵　東京新宿茶室]&lt;br /&gt;
*[http://www.konest.com/data/korean_life_detail.html?no=437 知りたい！韓国の名節｜茶礼（チャレ）｜韓国の文化と生活｜「コネスト」]&lt;br /&gt;
* [http://www.k3.dion.ne.jp/~kogetu/ 壺月遠州流禅茶道宗家公式サイト ]&lt;br /&gt;
*[http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/chanoyu/ 加賀“茶の湯”物語～いまに受け継ぐ工芸、もてなしの美学] - 石川新情報書府&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:茶道|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD&amp;diff=5324</id>
		<title>足利義昭</title>
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				<updated>2007-05-28T09:39:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: ''''足利 義昭'''（'''あしかが よしあき'''）は、室町幕府の第15代将軍で、室町幕府最後の将軍である（在位：[[永...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''足利 義昭'''（'''あしかが よしあき'''）は、[[室町幕府]]の第15代[[征夷大将軍|将軍]]で、室町幕府最後の将軍である（在位：[[永禄]]11年（[[1568年]]）－[[元亀]]4年（[[1573年]]））。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
父は室町幕府第12代将軍・[[足利義晴]]。母は近衛尚通の娘・慶寿院。同母兄に第13代将軍である足利義輝がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ興福寺で仏門に入っていたが、義輝が[[松永久秀]]らに[[暗殺]]されると、[[細川藤孝]]ら幕臣の援助を受けて[[京都]]から脱出し、[[美濃国|美濃]]の[[織田信長]]に擁されて上洛し、久秀らを倒して第15代将軍に就任する。しかしやがて信長と対立し、[[武田信玄]]や[[朝倉義景]]らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、信玄が死ぬと信長の反撃が始まり、信長によって京都から追放され、事実上、室町幕府は滅んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は[[毛利輝元]]、そして[[豊臣秀吉]]らの援助を受けて余生を送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 流浪 ===&lt;br /&gt;
天文6年（1537年）11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。兄に嗣子である義輝がいたため、幼くして外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門（[[興福寺]][[一乗院]]）に入り、覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永禄]]8年（[[1565年]]）の[[永禄の変]]で、第13代将軍であった兄・義輝が松永久秀や[[三好三人衆]]らによって暗殺され、弟で[[鹿苑院]]院主であった[[周嵩]]も誘殺された。このとき、義昭も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉された（久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし幕臣である[[細川藤孝]]や[[和田惟政]]らに助けられて脱出する。永禄9年（[[1566年]]）2月17日、還俗して義秋と名乗った。義昭のことを記した書物には、別称として'''武家御所'''などと呼ばれていたことが記されている。京を追われた折は夜盗に襲われ、貧乏公方とも呼ばれたとされる。4月21日には密かに[[従五位下]]、[[左馬頭]]に叙位・任官された。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、[[山科言継]]の『[[言継卿記]]』によれば永禄11年（[[1568年]]）2月に行われた義昭の対抗馬である[[足利義栄]]への将軍宣下当日に宣下の使者であった言継の屋敷に義昭の使者が現れて[[従四位下]]への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、京都から脱出した義秋は、はじめ[[近江国|近江]]の[[六角義賢]]・[[六角義治]]親子を頼って落ち延びていたが、義治が三好三人衆と密かに内通したため、8月に六角氏の領内から脱出し、妹の婿である縁を頼って[[若狭国|若狭]]の[[武田義統]]を頼った。しかし[[若狭武田氏]]では家督抗争や重臣の権力争いなどから、上洛できるだけの実力は無く、9月には[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]]のもとを頼って落ち延び、将軍家再興を目指して助力を要請した。しかし朝倉義景は実力を持ちながら覇気の乏しい男であったため、遂に上洛は実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、朝倉家に滞在している間の永禄11年（1568年）4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとして、正式に[[元服]]して義昭と名を改めた。このときの加冠役は朝倉義景が務めている（なお、義昭はこの時点まで正式な元服を行ったという文献史料は一切無く、当時としてはあまりに遅すぎる元服だったといえる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、朝倉家の重臣であった[[明智光秀]]の助力により、[[美濃国|美濃]]を平定して勢いに乗る織田信長の援助を得て、永禄11年（[[1568年]]）9月に上洛し、10月18日に晴れて室町幕府の第15代として将軍宣下を受け、将軍に就任したのである。このとき、従四位下、参議・左近衛権中将に昇叙・任官されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信長との対立 ===&lt;br /&gt;
義昭は将軍職に就けてくれた信長に恩義を感じていたようで、将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠（信長）殿」と宛て名している。これは、信長を父とすると義昭が承認したことと同義であった。また、信長に対して副将軍・管領職の地位を与えようともしているなど、はじめ信長との関係は良好だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、後ろ盾である信長には[[天下布武]]という野望があった。そのため、将軍権力を抑えるために永禄12年（[[1569年]]）1月、『[[殿中御掟]]』という9箇条の掟書を突きつけ、これをほとんど強制的に認めさせた。永禄13年（[[1570年]]）1月にも殿中御掟追加7箇条を発して義昭に承認させている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これに不満を持った義昭は信長を排除しようと企む。そして[[顕如|本願寺顕如]]や武田信玄、朝倉義景らに信長討伐令を下し、信長包囲網を形成したのである。この包囲網には後に信長の妹婿である[[浅井長政]]や義昭にとっては仇敵である松永久秀、三好三人衆、[[三好義継]]らも加わった。これにより信長は一時的に窮地に陥った。しかし元亀4年（[[1573年]]）4月に信長にとって最大の強敵・武田信玄が病死してしまったため、信長包囲網は瓦解し、織田軍の反撃が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にも関わらず、義昭は4月に三好義継、松永久秀らと同盟を結んで信長に対して挙兵する。1度目は[[正親町天皇]]の勅命もあったためにさすがの信長も許した。しかし7月における2度目の挙兵は許さず、[[京都|京の町]]を焼き払って義昭を捕らえ、[[河内国|河内]]に追放した。一般にはこれにより室町幕府は滅亡したとされる（ただし将軍職を解任されたわけではなかったので、反信長派諸大名の間では、その後しばらく権威を保っていた。また、[[京都五山]]の[[住持]]任命権は五山を定めた[[足利将軍家]]にあると考えられていたため、その任命のための献金収入もあったと言われている。『[[公卿補任]]』では、[[関白]][[豊臣秀吉]]に従って参内し、秀吉への忠誠を誓った[[天正]]16年[[1月13日_(旧暦)|1月13日]]（[[1588年]][[2月9日]]）まで将軍として扱っている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 再びの流浪 ===&lt;br /&gt;
信長によって京を追放されたときは、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、河内若江の妹婿である三好義継を頼って落ち延びた。しかし信長によって義継が滅ぼされると、剃髪して恭順の意を示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし[[天正]]4年（[[1576年]]）、毛利領であった[[備後国|備後]]にある[[鞆の浦]]（足利尊氏再起の地で縁起が良い）に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。しかし天正6年（[[1578年]]）に関東管領の[[上杉謙信]]が死去し、天正8年（[[1580年]]）に[[石山本願寺]]も信長に降伏したため、信長討伐は潰えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）に信長が[[本能寺の変]]で横死すると、[[毛利輝元]]の力を借りて再び上洛を目論む一方、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]や[[柴田勝家]]にも同じような働きかけを盛んに行った。しかし、親豊臣派であった[[小早川隆景]]らが反対したため、[[毛利輝元]]は動くことはなく、また義昭はいかなる成り行きで勝家を支持したため秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、毛利氏が正式に秀吉の配下となった後の天正15年（[[1587年]]）、出家して秀吉の側近として仕え、京都填島において秀吉より1万石を与えられた。晩年には[[文禄・慶長の役]]に際し[[肥前国|肥前]][[名護屋]]まで参陣している。[[慶長]]2年（[[1597年]]）、大坂で死去。享年61。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭を大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、名族・足利氏としての意地があったのかこれを拒絶した、という逸話が伝わるがこれは後世の作り話とされている。&lt;br /&gt;
*織田信長やその家臣を主人公とした作品では、[[暗君]]の公家として描かれる場合が多い。しかし、前代までの将軍たちと異なり、生き残ること自体が困難であった戦国時代を生き抜いて天寿を全うしたこと、また壮大な信長包囲網を作り上げたことなどから、非凡な才能を持った将軍であったとも思われる。政権の最後の責任者は古今東西問わず評価が低くなりがちであるし、さらに信長、秀吉という天才たちの引き立て役とならざるを得ない気の毒な面もあると言えよう。&lt;br /&gt;
*また、信長に京を追われ流浪の生活を送った義昭のあだ名は「貧乏公方」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となったあと出家して[[大乗院]]門跡を継ぎ、足利義在は[[薩摩国|薩摩]]の[[島津氏]]を頼り永山姓を名乗った。また、足利義喬は[[会津藩]]を頼って坂本姓を名乗った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
*[[永禄]]9年（[[1566年]]）&lt;br /&gt;
*:従五位下に叙し、[[左馬頭]]に任官。叙位任官時期については疑問視もある&lt;br /&gt;
*永禄11年（[[1568年]]）&lt;br /&gt;
*:[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]：従四位下に昇叙し、[[参議]]に補任。[[左近衛中将]]を兼任。征夷大将軍宣下&lt;br /&gt;
*永禄12年（[[1569年]]）&lt;br /&gt;
*:[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]：[[従三位]]に昇叙し、[[大納言|権大納言]]に転任&lt;br /&gt;
*[[天正]]2年（[[1574年]]）&lt;br /&gt;
*:京都より追放される&lt;br /&gt;
*天正16年（[[1588年]]）&lt;br /&gt;
*:[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]：出家により征夷大将軍を辞め、[[准三宮]]宣下&lt;br /&gt;
*[[慶長]]2年（[[1597年]]）&lt;br /&gt;
*:[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]：卒去。法号は霊陽院昌山道休&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝記 ==&lt;br /&gt;
* 奥野高広『足利義昭』（[[吉川弘文館]]人物叢書、1996年新装版） ISBN 4642051821&lt;br /&gt;
* 桑田忠親『流浪将軍 足利義昭』（[[講談社]]、1985年） ISBN 4062018500&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 足利義昭を題材とした作品 ==&lt;br /&gt;
* [[岡本好古]]『御所車 &amp;lt;small&amp;gt;最後の将軍・足利義昭&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[文藝春秋 (出版社)|文藝春秋]]、1993年） ISBN 4163140700&lt;br /&gt;
* [[水上勉]]『足利義昭 &amp;lt;small&amp;gt;流れ公方記&amp;lt;/small&amp;gt;』（学陽書房人物文庫、1998年） ISBN 4313750339&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:足利氏|よしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:征夷大将軍|あしかか よしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物|あしかかよしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:1537年生|あしかか よしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:1597年没|あしかか よしあき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%81%8A%E4%BD%90%E9%AB%98%E6%B8%85&amp;diff=5223</id>
		<title>遊佐高清</title>
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				<updated>2007-05-27T02:12:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遊佐高清'''（ゆさ たかきよ、生没年不詳）は、[[戦国武将]]。[[1569年]]までの存命は確認されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
左衛門大夫、越中守と称した。[[永禄]]年間後期から[[河内国]]・[[紀伊国]]の[[守護]][[畠山氏]]の奉行人として活躍。河内[[守護代]][[遊佐長教]]の一族であると考えられている。[[紀伊国]]の守護代であったとする[[史料]]もある。また、名前の「高」は[[畠山高政]]の偏諱である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
畠山高政の側近の奉行で、寺社の監督を主に担当した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、家中の統制においても大きな役割を果たしていたとする史料もあり、遊佐長教の暗殺後、その子の[[遊佐信教]]が成長するまでの繋ぎとしての存在ではなく、遊佐長教の執政期に勢力を失った主家の畠山高政のもとで、遊佐長教系と対立する形で畠山氏を支えていたとする研究もある。現実に、教興寺の戦いの時点で遊佐信教は三十路の半ばを越えている。また、近年の研究で高清と信教はほぼ同年代の人物であり、[[遊佐氏]]の中継ぎの人物という過去の評価は誤りであったことが判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[三好氏]]と戦った[[久米田の戦い]]や[[教興寺の戦い]]では旗本衆・譜代衆を指揮するなど武将としても活動しており、能力的にも畠山氏を支えた遊佐氏一族として見劣りしない力量者であったと評価されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、畠山高政の死去を見守った家臣の一人「遊佐越中殿」もこの遊佐高清であるとされるが、異説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:戦国武将|ゆさ たかきよ]]&lt;br /&gt;
[[Category:畠山氏|ゆさ たかきよ]] &lt;br /&gt;
[[Category:遊佐氏|ゆさ たかきよ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

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		<title>遊佐高清</title>
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				<updated>2007-05-27T02:11:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: ''''遊佐高清'''（ゆさ たかきよ、生没年不詳）は、戦国武将。1569年までの存命は確認されている。  左衛門大夫、越中守と称...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遊佐高清'''（ゆさ たかきよ、生没年不詳）は、[[戦国武将]]。[[1569年]]までの存命は確認されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
左衛門大夫、越中守と称した。[[永禄]]年間後期から[[河内国]]・[[紀伊国]]の[[守護]][[畠山氏]]の奉行人として活躍。河内[[守護代]][[遊佐長教]]の一族であると考えられている。[[紀伊国]]の守護代であったとする[[史料]]もある。また、名前の「高」は[[畠山高政]]の偏諱である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
畠山高政の側近の奉行で、寺社の監督を主に担当した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、家中の統制においても大きな役割を果たしていたとする史料もあり、遊佐長教の暗殺後、その子の[[遊佐信教]]が成長するまでの繋ぎとしての存在ではなく、遊佐長教の執政期に勢力を失った主家の畠山高政のもとで、遊佐長教系と対立する形で畠山氏を支えていたとする研究もある。現実に、教興寺の戦いの時点で遊佐信教は三十路の半ばを越えている。また、近年の研究で高清と信教はほぼ同年代の人物であり、[[遊佐氏]]の中継ぎの人物という過去の評価は誤りであったことが判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[三好氏]]と戦った[[久米田の戦い]]や[[教興寺の戦い]]では旗本衆・譜代衆を指揮するなど武将としても活動しており、能力的にも畠山氏を支えた遊佐氏一族として見劣りしない力量者であったと評価されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、畠山高政の死去を見守った家臣の一人「遊佐越中殿」もこの遊佐高清であるとされるが、異説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:畠山氏|ゆさ たかきよ]] &lt;br /&gt;
[[category:戦国武将|ゆさ たかきよ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%81%8A%E4%BD%90%E9%95%B7%E6%95%99&amp;diff=5221</id>
		<title>遊佐長教</title>
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				<updated>2007-05-27T02:08:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遊佐 長教'''（ゆさ ながのり、[[延徳]]3年（[[1491年]]） - [[天文 (元号)|天文]]20年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]（[[1551年]][[6月8日]]））は[[河内国]]の[[戦国大名]]。[[畠山氏]]の重臣。河内守護代。[[若江城]]（[[東大阪市]][[若江南町]]）城主。父は[[遊佐順盛|遊佐河内守順盛]]。室は[[十河一存]]の息女など。子に、[[三好長慶]]正室と、[[遊佐信教]]などがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評伝 ==&lt;br /&gt;
=== 家督相続まで ===&lt;br /&gt;
遊佐長教に関して幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。その根拠は父の遊佐河内守順盛が遊佐長教誕生の[[1491年]]時点で、若江城主であったことの確認が取れるからであるが、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。誕生後、遊佐長教は父と共に転々とすることになる。その理由は、父が仕えていた畠山政長が、長教の誕生の翌々年に[[明応の政変]]の結果、[[河内国]][[渋川郡]][[正覚寺]]で自決し、子の[[畠山尚順]]が密かに紀州に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で[[畠山義豊|畠山基家]]（畠山義就の子）を[[誉田城]]に包囲していた遊佐順盛も慌しく退却することとなる。その後も、父、順盛は紀州の地にあった。この間、遊佐長教がどこにいたのかは定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀州の父の元にたどり着いたとする史料があるので、それに従う。[[1497年]]になって畠山尚順や遊佐順盛は河内を奪還し、遊佐順盛は若江城に復帰し、長教も若江城にいたものと思われる。しかし、それもつかの間、[[1499年]]の年末には、[[細川政元]]に追われ、元服した場所も定かではない。[[1504年]]に再度、若江城に復帰したが、[[1506年]]には再度、追われた。その後すぐに細川政元が[[永正の政変]]で暗殺されると畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、遊佐順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く[[1511年]]まで続くが、この年に[[船岡山の戦い]]で長教は父を失い、悲しみの中で家督を継いだ。この時、二十歳過ぎだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 畠山氏の復権を目指す ===&lt;br /&gt;
若い遊佐長教は、主君畠山尚順を助けて転戦する。また、その後、尚順の子、[[畠山稙長]]を補佐した。しかし、畠山稙長は勇敢ではあったが、父、畠山尚順に比べるとその資質は見劣りした。また、近臣を取り立てて、遊佐長教と対立するなど、畠山家の統一と畠山家の勢威回復を図る遊佐長教にとって盛り立てていくには困難が伴った。そのため、畠山稙長と対立し、追放したこともあったが、後に和解し、再度、畠山稙長を守護として迎え入れた。それに反対した有力者の[[木沢長政]]と対立し、三好長慶らと連合して木沢長政を河内国[[高安郡]][[太平寺]]で撃破（[[太平寺の戦い]]）し、木沢長政を討ち取った。しかし、その後、畠山稙長が病死し、その弟の[[畠山政国]]を擁立した。この時、畠山稙長は能登国守護の[[畠山義総]]の子、[[畠山義続]]に家督を譲ろうとするなど混乱もあったが、遊佐長教は畠山義続では、非才であり、国人や家臣団および近親の一族等の支持も取り付けることが困難であることを説いて断念させたという。その後は、畠山政国を盛り立て、畠山氏の復権を図り、細川晴元政権の弱体化のために、[[細川高国]]の遺児である[[細川氏綱]]を唆して、故細川高国の旧臣などを煽動して反[[細川晴元]]の気運を高めた。しかし、天は遊佐長教に味方しなかった。英雄、[[三好長慶]]の台頭である。宿敵、細川晴元を駆逐するために、遊佐長教は娘を三好長慶に嫁がせ、同盟を結ぶが、婿が、遊佐長教の宿願を打ち砕くこととなった。その後は、遊佐長教は、三好政権の一翼として活動することとなったが、それもつかの間、若江城内で暗殺されてしまうのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1491年]]（[[延徳]]3年）、遊佐長教、若江城にて誕生。父は河内守護代遊佐河内守順盛。&lt;br /&gt;
*[[1493年]]（[[明応]]2年）閏４月、畠山政長が[[明応の政変]]の結果、自決し、畠山尚順は紀州に逃亡。父、遊佐順盛もこれに従う。遊佐長教も従ったとされる。&lt;br /&gt;
*1493年（明応2年）10月、畠山基家（畠山義就の子）が紀州に侵入。畠山尚順に味方する[[根来寺]]衆と畠山尚順、遊佐順盛らが撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1496年]]（明応5年）10月、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家と和泉国で戦う。&lt;br /&gt;
*[[1497年]]（明応6年）10月１日、畠山尚順方の[[筒井順盛]]が畠山基家方の[[古市澄胤]]と撃破。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）10月7日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を高屋城で撃破。基家は京へ逃亡。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）11月１4日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山基家方の古市澄胤と撃破。&lt;br /&gt;
*[[1498年]]（明応７年）8月3日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家の子の畠山義英を[[木津]]に撃破。&lt;br /&gt;
*[[1499年]]（明応8年）１月30日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を[[河内十七箇所]]に撃破し、基家を自害させる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）9月5日、畠山尚順・遊佐順盛が[[足利義稙]]の求めに応じて、[[細川政元]]の勢力圏である摂津国東成郡に侵攻。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）10月、細川政元の策略により河内国で[[土一揆]]が起こる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）11月22日、越中から越前を越えて、近江に入った足利義稙が[[六角高頼]]に攻められ敗走し、河内の畠山尚順の下に向う。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月18日、細川政元の部将、[[赤沢朝経]]が大和に侵入し、筒井順盛を撃破。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月20日、[[摂津国]][[天王寺]]において細川政元と畠山尚順・遊佐順盛が激突。細川政元が勝利。畠山尚順・遊佐順盛は敗走。若江城および[[高屋城]]へ。その後、紀州へ。&lt;br /&gt;
*[[1500年]]（明応９年）9月2日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[和泉国|和泉]]半国守護の[[細川元有]]の[[岸和田城]]を攻略。&lt;br /&gt;
*1500年（明応９年）9月16日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[畠山義英]]（畠山基家の子）の高屋城を包囲するも、細川政元が派遣した赤沢朝経・[[薬師寺国経]]らに敗れる。&lt;br /&gt;
*[[1501年]]（明応10年）2月28日、遊佐順盛・筒井順盛らの策謀で、大和国で反細川・反赤沢の[[興福寺]]の抗議活動が起こる。&lt;br /&gt;
*1501年（[[文亀]]元年）6月5日、幕命にて細川政元方の赤沢朝経が大和より撤退する。&lt;br /&gt;
*[[1502年]]（文亀2年）ころ、元服。主君畠山尚順がこのころ改名し畠山尚長と名乗っていたため、[[偏諱]]を受けて「長教」と名乗った。&lt;br /&gt;
*[[1504年]]（[[永正]]元年）12月18日、畠山尚順と畠山義英が和睦。畠山尚順が高屋城に入城し、畠山義英が[[誉田城]]に入城。遊佐順盛は若江城に入城し、細川政元に備えた。&lt;br /&gt;
*[[1505年]]（永正2年）2月4日、前年の畠山尚順と畠山義英の和睦があって、遊佐順盛の働きかけにより[[大和国|大和]][[国人]]衆が[[春日大社]]で盟約を交わし、反細川政元の血盟をする。&lt;br /&gt;
*1505年（永正2年）11月、細川政元が畠山義英討伐を企図し、[[本願寺実如]]に河内門徒の動員を要請し、誉田城を攻撃。若江城の遊佐順盛、高屋城の畠山尚順が誉田城の畠山義英を救援し、細川政元方は敗退。&lt;br /&gt;
*[[1506年]]（永正3年）1月26日、細川政元の部将赤沢朝経が高屋・誉田の両城を陥落させる。&lt;br /&gt;
*[[1507年]]（永正4年）6月23日、細川政元が暗殺される（[[永正の政変]]）。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）8月、足利義稙・[[細川高国]]方の畠山尚順が大和で国人を集結させ、反[[細川澄之]]の挙兵。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）10月下旬、[[赤沢長経]]が大和に侵入。[[筒井順賢]]らが河内に逃亡。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）11月中旬、筒井順賢が[[大和国]][[高田城]]（[[奈良県]][[大和高田市]]）に入城。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月4日、畠山尚順と畠山義英の和睦が破棄される。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月10日、畠山尚順と細川澄元が和睦。&lt;br /&gt;
*[[1508年]]（永正5年）4月27日、足利義稙が上洛すべく、[[周防国]]・[[長門国]]などの守護[[大内義興]]らに擁されて[[堺]]に到着、畠山尚順が堺に出迎える。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）6月14日、畠山尚順が兵１万を率いて上洛し、細川高国とともに将軍足利義稙を警護。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）7月28日、畠山尚順が赤沢長経を捕らえ、斬殺。&lt;br /&gt;
*[[1511年]]（永正8年）8月24日、[[船岡山の戦い]]で、父、遊佐河内守順盛が捕らえられ自決させられる。遊佐長教が家督相続し、守護代となる。&lt;br /&gt;
*[[1513年]]（永正10年）8月24日、畠山尚順が畠山義英を河内に撃破、義英、堺に逃亡。&lt;br /&gt;
*[[1520年]]（永正17年）3月17日、細川高国方の畠山稙長の高屋城（[[羽曳野市]][[古市]]）が細川澄元方の畠山義英によって攻略される。&lt;br /&gt;
*1520年（永正17年）5月10日、畠山稙長が畠山義英の高屋城を奪還する。&lt;br /&gt;
*[[1521年]]（永正18年）3月7日、畠山尚順が細川高国と対立した将軍足利義稙を迎える。&lt;br /&gt;
*1521年（[[大永]]元年）10月23日、畠山尚順が足利義稙を擁することで畠山義英との和睦に成功する。&lt;br /&gt;
*[[1522年]]（大永2年）7月17日、畠山尚順が薨去。畠山稙長が家督相続。&lt;br /&gt;
*[[1524年]]（大永4年）12月6日、遊佐長教、守護畠山稙長を奉じて、畠山義英を[[仁王山]]（[[河内長野市]][[日野町]]）で打ち破る。&lt;br /&gt;
*[[1528年]]（[[享禄]]元年）11月11日、守護畠山稙長が[[柳本賢治]]・[[畠山義宣]]（畠山義英の子）の連合軍に高屋城を攻められ、遊佐長教救援の軍勢は派す。和睦が成り、高屋城に畠山義宣が入城。畠山稙長は[[金胎寺城]]に退却。&lt;br /&gt;
*[[1534年]]（[[天文]]3年）、遊佐長教、[[木沢長政]]らが[[畠山長経]]を守護に擁立し、畠山稙長を追放。&lt;br /&gt;
*[[1542年]]（天文11年）初頭、遊佐長教が畠山稙長を擁立し、畠山稙長が河内守護に復帰。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）３月9日、遊佐長教、木沢長政派の斎藤山城守親子を暗殺。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）3月17日、木沢長政が高屋城を攻撃し、畠山稙長は撤退、[[三好長慶]]、遊佐長教が救援し、太平寺で木沢長政の軍勢と激突。畠山・三好・遊佐の連合軍が木沢の軍勢を撃破。木沢長政は討ち死に。&lt;br /&gt;
*[[1545年]]（天文14年）5月15日、主君、畠山稙長が薨去。&lt;br /&gt;
*[[1546年]]（天文15年）8月16日、[[足利義晴]]と遊佐長教が連絡をとり、[[細川晴元]]にかえて[[細川氏綱]]を細川家の家督につける画策を行っていることを察知した細川晴元は細川氏綱を攻撃すべく三好長慶に命じて細川氏綱らを討つために三好長慶の軍勢が堺に入る。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）8月20日、遊佐長教、細川氏綱の軍勢が堺を攻囲し、堺の[[会合衆]]が三好長慶を[[阿波国]]に帰国させることで和睦が成立する。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）10月22日、遊佐長教、三好長慶の援軍として堺に到着した[[三好義賢]]の軍勢を撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1548年]]（天文17年）3月末、三好長慶の軍勢が細川晴元の命を受け、細川氏綱に加担する[[畠山政国]]を討伐すべく、河内高屋城に畠山政国を攻める。救援派遣の要請が遊佐長教の下に届く。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月初旬、高屋城に篭城する河内守護畠山政国を救援すべく遊佐長教が若江城から救援軍5,000余を率いて出陣する。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月24日、高屋城を攻撃中の三好長慶と畠山政国、遊佐長教が講和し、同盟関係となる。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）10月28日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波勢3,000余は細川高国の遺児である細川氏綱を擁立して細川晴元方の[[三好政長]]の子の[[三好政勝]]の軍勢2,000余が籠もる[[榎並城]]（[[大阪市]][[城東区]][[野江]]附近）に攻め、陥落させる。（[[榎並城攻防戦]]）&lt;br /&gt;
*1548年（天文18年）6月11日、細川晴元方の三好政長が要害の地である淀川下流のデルタ地帯である江口に陣を構える。&lt;br /&gt;
*[[1549年]]（天文18年）6月24日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波・摂津勢など5,000余は、細川晴元方の援軍として細川晴元の舅である[[近江国|近江]]守護[[六角定頼]]が7,000余の軍勢を子息の[[六角義賢]]に与えて出陣させたことを知り、細川晴元方の三好政長の軍勢7,000余が陣をはった[[中島]][[江口]]（大阪市[[東淀川区]][[東中島]]附近・JR[[新大阪駅]]近隣）を強襲し、800余を討ち取る大戦果を収め、六角勢の到着以前に江口を占領した。細川晴元は[[近江国]][[大津市|大津]]に逃亡し、細川晴元政権は崩壊した（[[江口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
*1551年（天文20年）5月5日、若江城内に於いて帰依していた[[時宗]]の[[僧]]珠阿弥に暗殺される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[遊佐高清]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1491年生|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1551年没|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:遊佐氏|ゆさなかのり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E9%81%8A%E4%BD%90%E9%95%B7%E6%95%99&amp;diff=5218</id>
		<title>遊佐長教</title>
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				<updated>2007-05-27T02:05:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遊佐 長教'''（ゆさ ながのり、[[延徳]]3年（[[1491年]]） - [[天文 (元号)|天文]]20年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]（[[1551年]][[6月8日]]））は[[河内国]]の[[戦国大名]]。[[畠山氏]]の重臣。河内守護代。[[若江城]]（[[東大阪市]][[若江南町]]）城主。父は[[遊佐順盛|遊佐河内守順盛]]。室は[[十河一存]]の息女など。子に、[[三好長慶]]正室と、[[遊佐信教]]などがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評伝 ==&lt;br /&gt;
=== 家督相続まで ===&lt;br /&gt;
遊佐長教に関して幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。その根拠は父の遊佐河内守順盛が遊佐長教誕生の[[1491年]]時点で、若江城主であったことの確認が取れるからであるが、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。誕生後、遊佐長教は父と共に転々とすることになる。その理由は、父が仕えていた畠山政長が、長教の誕生の翌々年に[[明応の政変]]の結果、[[河内国]][[渋川郡]][[正覚寺]]で自決し、子の[[畠山尚順]]が密かに紀州に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で[[畠山義豊|畠山基家]]（畠山義就の子）を[[誉田城]]に包囲していた遊佐順盛も慌しく退却することとなる。その後も、父、順盛は紀州の地にあった。この間、遊佐長教がどこにいたのかは定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀州の父の元にたどり着いたとする史料があるので、それに従う。[[1497年]]になって畠山尚順や遊佐順盛は河内を奪還し、遊佐順盛は若江城に復帰し、長教も若江城にいたものと思われる。しかし、それもつかの間、[[1499年]]の年末には、[[細川政元]]に追われ、元服した場所も定かではない。[[1504年]]に再度、若江城に復帰したが、[[1506年]]には再度、追われた。その後すぐに細川政元が[[永正の政変]]で暗殺されると畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、遊佐順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く[[1511年]]まで続くが、この年に[[船岡山の戦い]]で長教は父を失い、悲しみの中で家督を継いだ。この時、二十歳過ぎだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 畠山氏の復権を目指す ===&lt;br /&gt;
若い遊佐長教は、主君畠山尚順を助けて転戦する。また、その後、尚順の子、[[畠山稙長]]を補佐した。しかし、畠山稙長は勇敢ではあったが、父、畠山尚順に比べるとその資質は見劣りした。また、近臣を取り立てて、遊佐長教と対立するなど、畠山家の統一と畠山家の勢威回復を図る遊佐長教にとって盛り立てていくには困難が伴った。そのため、畠山稙長と対立し、追放したこともあったが、後に和解し、再度、畠山稙長を守護として迎え入れた。それに反対した有力者の[[木沢長政]]と対立し、三好長慶らと連合して木沢長政を河内国[[高安郡]][[太平寺]]で撃破（[[太平寺の戦い]]）し、木沢長政を討ち取った。しかし、その後、畠山稙長が病死し、その弟の[[畠山政国]]を擁立した。この時、畠山稙長は能登国守護の[[畠山義総]]の子、[[畠山義続]]に家督を譲ろうとするなど混乱もあったが、遊佐長教は畠山義続では、非才であり、国人や家臣団および近親の一族等の支持も取り付けることが困難であることを説いて断念させたという。その後は、畠山政国を盛り立て、畠山氏の復権を図り、細川晴元政権の弱体化のために、[[細川高国]]の遺児である[[細川氏綱]]を唆して、故細川高国の旧臣などを煽動して反[[細川晴元]]の気運を高めた。しかし、天は遊佐長教に味方しなかった。英雄、[[三好長慶]]の台頭である。宿敵、細川晴元を駆逐するために、遊佐長教は娘を三好長慶に嫁がせ、同盟を結ぶが、婿が、遊佐長教の宿願を打ち砕くこととなった。その後は、遊佐長教は、三好政権の一翼として活動することとなったが、それもつかの間、若江城内で暗殺されてしまうのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1491年]]（[[延徳]]3年）、遊佐長教、若江城にて誕生。父は河内守護代遊佐河内守順盛。&lt;br /&gt;
*[[1493年]]（[[明応]]2年）閏４月、畠山政長が[[明応の政変]]の結果、自決し、畠山尚順は紀州に逃亡。父、遊佐順盛もこれに従う。遊佐長教も従ったとされる。&lt;br /&gt;
*1493年（明応2年）10月、畠山基家（畠山義就の子）が紀州に侵入。畠山尚順に味方する[[根来寺]]衆と畠山尚順、遊佐順盛らが撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1496年]]（明応5年）10月、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家と和泉国で戦う。&lt;br /&gt;
*[[1497年]]（明応6年）10月１日、畠山尚順方の[[筒井順盛]]が畠山基家方の[[古市澄胤]]と撃破。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）10月7日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を高屋城で撃破。基家は京へ逃亡。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）11月１4日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山基家方の古市澄胤と撃破。&lt;br /&gt;
*[[1498年]]（明応７年）8月3日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家の子の畠山義英を[[木津]]に撃破。&lt;br /&gt;
*[[1499年]]（明応8年）１月30日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を[[河内十七箇所]]に撃破し、基家を自害させる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）9月5日、畠山尚順・遊佐順盛が[[足利義稙]]の求めに応じて、[[細川政元]]の勢力圏である摂津国東成郡に侵攻。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）10月、細川政元の策略により河内国で[[土一揆]]が起こる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）11月22日、越中から越前を越えて、近江に入った足利義稙が[[六角高頼]]に攻められ敗走し、河内の畠山尚順の下に向う。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月18日、細川政元の部将、[[赤沢朝経]]が大和に侵入し、筒井順盛を撃破。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月20日、[[摂津国]][[天王寺]]において細川政元と畠山尚順・遊佐順盛が激突。細川政元が勝利。畠山尚順・遊佐順盛は敗走。若江城および[[高屋城]]へ。その後、紀州へ。&lt;br /&gt;
*[[1500年]]（明応９年）9月2日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[和泉国|和泉]]半国守護の[[細川元有]]の[[岸和田城]]を攻略。&lt;br /&gt;
*1500年（明応９年）9月16日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[畠山義英]]（畠山基家の子）の高屋城を包囲するも、細川政元が派遣した赤沢朝経・[[薬師寺国経]]らに敗れる。&lt;br /&gt;
*[[1501年]]（明応10年）2月28日、遊佐順盛・筒井順盛らの策謀で、大和国で反細川・反赤沢の[[興福寺]]の抗議活動が起こる。&lt;br /&gt;
*1501年（[[文亀]]元年）6月5日、幕命にて細川政元方の赤沢朝経が大和より撤退する。&lt;br /&gt;
*[[1502年]]（文亀2年）ころ、元服。主君畠山尚順がこのころ改名し畠山尚長と名乗っていたため、[[偏諱]]を受けて「長教」と名乗った。&lt;br /&gt;
*[[1504年]]（[[永正]]元年）12月18日、畠山尚順と畠山義英が和睦。畠山尚順が高屋城に入城し、畠山義英が[[誉田城]]に入城。遊佐順盛は若江城に入城し、細川政元に備えた。&lt;br /&gt;
*[[1505年]]（永正2年）2月4日、前年の畠山尚順と畠山義英の和睦があって、遊佐順盛の働きかけにより[[大和国|大和]][[国人]]衆が[[春日大社]]で盟約を交わし、反細川政元の血盟をする。&lt;br /&gt;
*1505年（永正2年）11月、細川政元が畠山義英討伐を企図し、[[本願寺実如]]に河内門徒の動員を要請し、誉田城を攻撃。若江城の遊佐順盛、高屋城の畠山尚順が誉田城の畠山義英を救援し、細川政元方は敗退。&lt;br /&gt;
*[[1506年]]（永正3年）1月26日、細川政元の部将赤沢朝経が高屋・誉田の両城を陥落させる。&lt;br /&gt;
*[[1507年]]（永正4年）6月23日、細川政元が暗殺される（[[永正の政変]]）。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）8月、足利義稙・[[細川高国]]方の畠山尚順が大和で国人を集結させ、反[[細川澄之]]の挙兵。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）10月下旬、[[赤沢長経]]が大和に侵入。[[筒井順賢]]らが河内に逃亡。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）11月中旬、筒井順賢が[[大和国]][[高田城]]（[[奈良県]][[大和高田市]]）に入城。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月4日、畠山尚順と畠山義英の和睦が破棄される。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月10日、畠山尚順と細川澄元が和睦。&lt;br /&gt;
*[[1508年]]（永正5年）4月27日、足利義稙が上洛すべく、[[周防国]]・[[長門国]]などの守護[[大内義興]]らに擁されて[[堺]]に到着、畠山尚順が堺に出迎える。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）6月14日、畠山尚順が兵１万を率いて上洛し、細川高国とともに将軍足利義稙を警護。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）7月28日、畠山尚順が赤沢長経を捕らえ、斬殺。&lt;br /&gt;
*[[1511年]]（永正8年）8月24日、[[船岡山の戦い]]で、父、遊佐河内守順盛が捕らえられ自決させられる。遊佐長教が家督相続し、守護代となる。&lt;br /&gt;
*[[1513年]]（永正10年）8月24日、畠山尚順が畠山義英を河内に撃破、義英、堺に逃亡。&lt;br /&gt;
*[[1520年]]（永正17年）3月17日、細川高国方の畠山稙長の高屋城（[[羽曳野市]][[古市]]）が細川澄元方の畠山義英によって攻略される。&lt;br /&gt;
*1520年（永正17年）5月10日、畠山稙長が畠山義英の高屋城を奪還する。&lt;br /&gt;
*[[1521年]]（永正18年）3月7日、畠山尚順が細川高国と対立した将軍足利義稙を迎える。&lt;br /&gt;
*1521年（[[大永]]元年）10月23日、畠山尚順が足利義稙を擁することで畠山義英との和睦に成功する。&lt;br /&gt;
*[[1522年]]（大永2年）7月17日、畠山尚順が薨去。畠山稙長が家督相続。&lt;br /&gt;
*[[1524年]]（大永4年）12月6日、遊佐長教、守護畠山稙長を奉じて、畠山義英を[[仁王山]]（[[河内長野市]][[日野町]]）で打ち破る。&lt;br /&gt;
*[[1528年]]（[[享禄]]元年）11月11日、守護畠山稙長が[[柳本賢治]]・[[畠山義宣]]（畠山義英の子）の連合軍に高屋城を攻められ、遊佐長教救援の軍勢は派す。和睦が成り、高屋城に畠山義宣が入城。畠山稙長は[[金胎寺城]]に退却。&lt;br /&gt;
*[[1534年]]（[[天文]]3年）、遊佐長教、[[木沢長政]]らが[[畠山長経]]を守護に擁立し、畠山稙長を追放。&lt;br /&gt;
*[[1542年]]（天文11年）初頭、遊佐長教が畠山稙長を擁立し、畠山稙長が河内守護に復帰。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）３月9日、遊佐長教、木沢長政派の斎藤山城守親子を暗殺。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）3月17日、木沢長政が高屋城を攻撃し、畠山稙長は撤退、[[三好長慶]]、遊佐長教が救援し、太平寺で木沢長政の軍勢と激突。畠山・三好・遊佐の連合軍が木沢の軍勢を撃破。木沢長政は討ち死に。&lt;br /&gt;
*[[1545年]]（天文14年）5月15日、主君、畠山稙長が薨去。&lt;br /&gt;
*[[1546年]]（天文15年）8月16日、[[足利義晴]]と遊佐長教が連絡をとり、[[細川晴元]]にかえて[[細川氏綱]]を細川家の家督につける画策を行っていることを察知した細川晴元は細川氏綱を攻撃すべく三好長慶に命じて細川氏綱らを討つために三好長慶の軍勢が堺に入る。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）8月20日、遊佐長教、細川氏綱の軍勢が堺を攻囲し、堺の[[会合衆]]が三好長慶を[[阿波国]]に帰国させることで和睦が成立する。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）10月22日、遊佐長教、三好長慶の援軍として堺に到着した[[三好義賢]]の軍勢を撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1548年]]（天文17年）3月末、三好長慶の軍勢が細川晴元の命を受け、細川氏綱に加担する[[畠山政国]]を討伐すべく、河内高屋城に畠山政国を攻める。救援派遣の要請が遊佐長教の下に届く。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月初旬、高屋城に篭城する河内守護畠山政国を救援すべく遊佐長教が若江城から救援軍5,000余を率いて出陣する。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月24日、高屋城を攻撃中の三好長慶と畠山政国、遊佐長教が講和し、同盟関係となる。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）10月28日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波勢3,000余は細川高国の遺児である細川氏綱を擁立して細川晴元方の[[三好政長]]の子の[[三好政勝]]の軍勢2,000余が籠もる[[榎並城]]（[[大阪市]][[城東区]][[野江]]附近）に攻め、陥落させる。（[[榎並城攻防戦]]）&lt;br /&gt;
*1548年（天文18年）6月11日、細川晴元方の三好政長が要害の地である淀川下流のデルタ地帯である江口に陣を構える。&lt;br /&gt;
*[[1549年]]（天文18年）6月24日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波・摂津勢など5,000余は、細川晴元方の援軍として細川晴元の舅である[[近江国|近江]]守護[[六角定頼]]が7,000余の軍勢を子息の[[六角義賢]]に与えて出陣させたことを知り、細川晴元方の三好政長の軍勢7,000余が陣をはった[[中島]][[江口]]（大阪市[[東淀川区]][[東中島]]附近・JR[[新大阪駅]]近隣）を強襲し、800余を討ち取る大戦果を収め、六角勢の到着以前に江口を占領した。細川晴元は[[近江国]][[大津市|大津]]に逃亡し、細川晴元政権は崩壊した（[[江口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
*1551年（天文20年）5月5日、若江城内に於いて帰依していた[[時宗]]の[[僧]]珠阿弥に暗殺される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1491年生|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1551年没|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:遊佐氏|ゆさなかのり]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>カテゴリ:遊佐氏</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: '遊佐氏に関するカテゴリ'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[遊佐氏]]に関するカテゴリ&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>遊佐信教</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: ''''遊佐 信教'''（ゆさ のぶのり、大永4年（1524年） － 天正元年（1573年））は高屋畠山氏の重臣。河内国の[[守護...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遊佐 信教'''（ゆさ のぶのり、[[大永]]4年（[[1524年]]） － [[天正]]元年（[[1573年]]））は高屋[[畠山氏]]の重臣。[[河内国]]の[[守護代]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父は同じく重臣として主家を傀儡化した[[遊佐長教]]である。父同様の野心家で、[[1568年]]、主君の[[畠山高政]]を追放して弟の[[畠山昭高]]を擁立し、これを傀儡として主家を牛耳った。これに不満を持った昭高が[[織田信長]]と手を結ぶと、身の危険を感じて[[1573年]]に昭高を殺害した。しかし直後、これに対して怒った信長の攻撃を受けて戦死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌道に優れていたとも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:戦国武将|ゆさ のふのり]]&lt;br /&gt;
[[category:遊佐氏|ゆさ のふのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1524年生|ゆさ のふのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1573年没|ゆさ のふのり]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>細川晴元</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: ''''細川 晴元'''（'''ほそかわ はるもと'''）は室町時代末期から戦国時代にかけての武将・[[戦国...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''細川 晴元'''（'''ほそかわ はるもと'''）は[[室町時代]]末期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[戦国武将|武将]]・[[戦国大名]]。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]のひとつ[[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏]]の[[庶流]]　[[細川氏]]。[[官位]]は[[従四位|従四位下]][[右京大夫]]。[[正室]]は[[三条公頼]]の長女であり、その縁から[[武田信玄]]・[[本願寺顕如]]の義兄に当たる人物でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
永正11年（1514年）、細川澄元の子として生まれる。永正17年（[[1520年]]）、澄元が[[阿波国|阿波]]で死去したため、晴元は7歳で家督を継承した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大永6年（[[1526年]]）、[[三好元長]]らと共に挙兵して[[細川高国]]を攻め、大永7年（[[1527年]]）に高国が第12代将軍・[[足利義晴]]らとともに[[近江]]へ落ち延びると、晴元は[[足利義維]]と共に[[和泉国|和泉]]堺を本拠とし、義維を将軍と成した（[[堺公方]]）。[[享禄]]4年（[[1531年]]）、三好元長に命じて、高国を[[摂津国|摂津]]天王寺において討たせた([[天王寺の戦い]])。この戦いにおいて高国は戦死している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしやがて元長と対立し、[[天文 (元号)|天分]]元年（[[1532年]]）に晴元は[[本願寺証如]]や[[木沢長政]]らと手を結び、[[一向一揆]]を扇動して元長を堺で殺害した。さらに足利義維とも不和になったために追放し、将軍・足利義晴と和睦した。その後、一向宗は堺公方を襲撃するなど対立し、対立宗派の[[法華宗]]と協力して[[法華一揆]]を誘発させ、領内で一向宗の活動が活発であった近江の[[六角氏]]とも協力して[[山科本願寺]]を攻めた。天文5年（[[1536年]]）には京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、[[比叡山延暦寺]]・六角氏と連合して壊滅させた（[[天文法華の乱]]）。天文6年（[[1537年]]）、右京大夫に任官し、幕政を支配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文12年（[[1543年]]）、細川高国の養子・[[細川氏綱]]が晴元打倒を掲げて挙兵した。氏綱は[[畠山政国]]や遊佐長教らと手を結び、将軍・足利義晴も天文15年（[[1546年]]）、将軍職を実子の[[足利義輝]]に譲った上で氏綱を支持し、晴元と敵対する。これに対して晴元は義晴らを近江坂本へ追放し、氏綱らと戦い続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし天文17年（[[1548年]]）、元長の嫡男で三好宗家の家督を相続していた[[三好長慶]]が、晴元に一族の[[三好政長]]の討伐を要請し、これを拒否されたため、天文18年（[[1549年]]）に氏綱側に寝返った。このため、晴元は摂津江口において長慶らと戦って敗北する（[[江口の戦い]]）。この戦いで三好政長・[[高畠甚九郎]]ら多くの配下を失った晴元は、将軍・義輝や義晴と共に近江へ逃れ、こうして細川政権は終焉した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、晴元は将軍・足利義輝を擁して三好長慶と争うが、敗北し続け、永禄4年（[[1561年]]）に[[六角義賢]]の仲介を受けて長慶と和睦する。そして剃髪し、摂津富田の普門寺に隠棲した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄6年（1563年）3月1日に死去。享年50。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:守護大名|ほそかわ はるもと]]&lt;br /&gt;
[[category:戦国大名|ほそかわ はるもと]]&lt;br /&gt;
[[Category:細川氏|はるもと]]&lt;br /&gt;
[[Category:1514年生|ほそかわ はるもと]]&lt;br /&gt;
[[Category:1563年没|ほそかわ はるもと]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

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		<title>大和国</title>
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				<updated>2007-05-26T09:57:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;222.228.171.120: 新しいページ: '令制国一覧 &amp;gt; 畿内 &amp;gt; '''大和国'''  '''大和国'''（'''やまとのくに'''）は、かつて日本に設けられた地方行政区分の国...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[令制国一覧]] &amp;gt; [[畿内]] &amp;gt; '''大和国'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''大和国'''（'''やまとのくに'''）は、かつて日本に設けられた地方行政区分の[[令制国|国]]の一つである。[[畿内]]に含まれ、[[延喜式]]での格は[[国司#国等級区分|大国]]。領域は現在の[[奈良県]]にあたる。'''和州'''と呼ばれることもある（初めの頃は''大倭''と書かれ、[[奈良時代]]の[[天平]]9年から10年間''大養徳''と字を改めた事がある。「大和」という表記が正式に決定されるのは[[天平宝字]]2年以後であるとされる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域名としての大和は[[大和]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==国府==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[国府]]は数ヶ所が推定されているが不明。[[守護所]]は設置されず、[[興福寺]]がその役割を果たしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一宮、国分寺など==&lt;br /&gt;
[[国分寺|国分僧寺]]は[[東大寺]]とするのが一般的だが、橿原市の[[満法院|勝満山満法院]]とする説もある。国分尼寺は[[法華寺]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[延喜式神名帳]]には大社128座（うち[[名神大社]]47座26社）・小社158座の計286座が記載されており、全て官幣社である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[一宮]]は[[桜井市]]の[[大神神社]]だが、神社が自ら一宮を称した文書は見つかっていない。二宮以下はなし。[[惣社]]は[[国府神社]]（奈良県高市郡高取町下土佐） 。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==国司==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==守護==&lt;br /&gt;
===鎌倉幕府===&lt;br /&gt;
===室町幕府===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==郡==&lt;br /&gt;
*[[添上郡]]&lt;br /&gt;
*[[添下郡]]&lt;br /&gt;
*[[平群郡]]&lt;br /&gt;
*[[広瀬郡]]&lt;br /&gt;
*[[葛上郡]]&lt;br /&gt;
*[[葛下郡]]&lt;br /&gt;
*[[忍海郡]]&lt;br /&gt;
*[[宇智郡]]&lt;br /&gt;
*[[吉野郡]]&lt;br /&gt;
*[[宇陀郡]]&lt;br /&gt;
*[[城上郡]]&lt;br /&gt;
*[[城下郡]]&lt;br /&gt;
*[[高市郡]]&lt;br /&gt;
*[[十市郡]]&lt;br /&gt;
*[[山辺郡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[藩]]==&lt;br /&gt;
* [[柳生藩]]&lt;br /&gt;
* [[郡山藩]]&lt;br /&gt;
* [[小泉藩]]&lt;br /&gt;
* [[柳本藩]]&lt;br /&gt;
* [[戒重藩]]&lt;br /&gt;
* [[芝村藩]]&lt;br /&gt;
* [[櫛羅藩]]&lt;br /&gt;
* [[宇陀松山藩]]&lt;br /&gt;
* [[高取藩]]&lt;br /&gt;
* [[興留藩]]&lt;br /&gt;
* [[竜田藩]]&lt;br /&gt;
* [[田原本藩]]&lt;br /&gt;
* [[岸田藩]]&lt;br /&gt;
* [[大和新庄藩]]&lt;br /&gt;
* [[御所藩]]&lt;br /&gt;
* [[大和五条藩]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[芳野監]]&lt;br /&gt;
*[[令制国一覧]]&lt;br /&gt;
*[[藩の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[ヤマト王権]]&lt;br /&gt;
*[[大和 (戦艦)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の旧国名|やまと]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良県の歴史|やまとのくに]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.228.171.120</name></author>	</entry>

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