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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-05-17T21:30:46Z</updated>
		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>マザー・テレサ</title>
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				<updated>2008-12-11T03:26:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: 新しいページ: ''''マザー・テレサ'''（'''Mother Teresa'''、本名'''アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ'''（Agnesë Gonxhe Bojaxhiu）、1910年8月27日 - 1997年...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''マザー・テレサ'''（'''Mother Teresa'''、本名'''アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ'''（Agnesë Gonxhe Bojaxhiu）、[[1910年]][[8月27日]] - [[1997年]][[9月5日]]）は[[カトリック教会]]の[[修道女]]にして[[修道会]]「[[神の愛の宣教者会]]」の創立者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は[[修道名]]である。カトリック教会の[[福者]]。[[コルカタ]]（カルカッタ）で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生前からその活動は高く評価され[[1973年]]の[[テンプルトン賞]]、[[1979年]]の[[ノーベル平和賞]]、[[1980年]]の[[バーラ・ラトナ賞]]（インドで国民に与えられる最高の賞）など多くの賞を受けた。[[1996年]]には[[アメリカ合衆国名誉市民|アメリカ名誉市民]]に選ばれている（アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない）。[[2003年]][[10月19日]]、当時の教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]によって[[列福]]された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== カルカッタの修道女 ===&lt;br /&gt;
マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは[[オスマン帝国]]領の[[コソボ]]・ウシュクブ（現代の[[マケドニア共和国|マケドニア]]の[[スコピエ]]）で[[アルバニア]]人の家庭に生まれた。父は実業家で、彼女は3人の子供たちの末っ子であった。両親はマケドニア地方に住むアルバニア人のカトリックであったがアルバニア人には[[イスラム教]]徒が多く、マケドニア地方にはマケドニア正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが小さいころから聡明な子で12歳の時には将来、インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れアイルランド系の修道会であるロレト修道女会に入ってカルカッタ（現・コルカタ）へと赴くことになった。ロレト修道女会は女子教育を行う修道会であった。アグネスは[[ダブリン]]で基礎教育を受けると修練女として[[1931年]]にインドの[[ダージリン]]に赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前は[[リジューのテレーズ]]からとっている。[[1937年]]に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1929年]]から[[1947年]]までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教え、[[1944年]]には校長に任命されていた。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると[[1946年]]、汽車に乗っていた際に「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたがバチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1948年]]、ようやく教皇・[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素な[[サリー (民族衣装)|サリー]]を身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神の愛の宣教者会の創立 ===&lt;br /&gt;
[[1950年]]から修道会設立の許可を得た。これが「[[神の愛の宣教者会]]」である。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死にゆく人の家」という[[ホスピス]]施設を開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していくがケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。[[1960年代]]までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになった。さらに[[1965年]]以降、教皇・パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米・[[ベネズエラ]]であった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界のマザー・テレサ ===&lt;br /&gt;
テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」（[[1963年]]）や「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。[[1969年]]、アメリカ人の[[マルコム・マゲッリッジ]]（[[:en:Malcolm Muggeridge]]）が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』（Something Beautiful for God）および同名の書籍によってテレサの活動はアメリカのみならず、全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマゲッリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、後にカトリック教徒になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1971年]]、教皇・パウロ6世は自らが制定した勲章「教皇ヨハネ23世平和章」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞（[[1971年]]）、シュバイツァー国際賞（[[1975年]]）、アメリカ合衆国[[大統領自由勲章]]（[[1985年]]）、アメリカ上院議会金賞（[[:en:Congressional Gold Medal]]、[[1994年]]）、アメリカ合衆国名誉市民権（[[1996年]]）、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういった賞の中でもっとも有名なものはもちろん[[1979年]]に受けたノーベル平和賞であろう。テレサは受賞者のための晩餐会の出席は断ったが、賞金192,000ドルはカルカッタの貧しい人々のためにうけとった。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」といったと言う。そのときのインタビューの中で「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を大切にしてあげてください」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1982年]]にはテレサは[[イスラエル]]と[[パレスティナ]]の高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていた[[ベイルート]]の病院の患者たちを救出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年と死 ===&lt;br /&gt;
[[1983年]]、高齢のテレサは[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。[[1991年]]には[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]をつけた。この年、優れない健康状態を押して故郷・アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。また同年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を願い出たため全会員による無記名投票が行われた。結局賛成票を投じたのはテレサ本人だけであとはすべて反対であったため、彼女は総長に留任することを同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1997年]]4月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り8月には[[マラリア]]に罹患した。すでに心臓の状態が悪化していたため、総長職は1997年3月に退いていた。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサは87年の生涯を終えた。最後の言葉は「もう息ができないわ」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テレサが亡くなったとき「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]患者のための家、[[ハンセン病]]者のための施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって[[国葬]]として盛大に行われた。インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女だけである。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1997年、テレサの死後すみやかに[[列福]]・[[列聖]]調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定なのだがテレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったため、例外的にすぐに始められたのである。[[2003年]][[10月19日]]、教皇ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言した。通常は死後、福者にされるまで50年の審査が必要とされていることを考えれば死後6年での列福というのは異例の早さである（さらに列聖には、場合によっては100年ほど時間をかけて審査される。福者は[[聖人]]の前段階）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 語録 ==&lt;br /&gt;
*私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか理解できません。&lt;br /&gt;
*女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物―それが母性なのです。 &lt;br /&gt;
*子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。&lt;br /&gt;
（以上、北京[[世界女性会議]]へ宛てたメッセージ）&lt;br /&gt;
*愛の反対は憎しみではなく、無関心。&lt;br /&gt;
*この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。&lt;br /&gt;
*銃や砲弾が世界を支配してはならない。大切なのは愛である。&lt;br /&gt;
*愛は、それぞれの季節が実らせる果実といえます。&lt;br /&gt;
*日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります（[[1981年]]4月、初来日の際）。&lt;br /&gt;
*私は受賞に値するような人間ではないけれど、世界の最も貧しい人々に代わってこの賞を受けます（ノーベル平和賞授賞式でのスピーチ）。&lt;br /&gt;
*帰って家族を大切にしてあげて下さい（ノーベル平和賞受賞の際、インタビューで「世界平和のために私達はどんな事をしたらいいですか」と問われて）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年、神の沈黙と不在に絶望し孤独に苛まれていた事が死後公開された書籍内容によって明らかになった。このことは彼女は自身の活動に対しては非常に厳しく、またラジカルな姿勢でもって臨んだとも言えるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--*2008年12月10日（水）のNHK「その時歴史が動いた」では、マザーテレサの特集が組まれた。&lt;br /&gt;
　そのときのマザーテレサの言葉が、大変感動的だった。&lt;br /&gt;
　＜マザーが生前、人々に語り続けた言葉＞&lt;br /&gt;
「私は決して助けた人を数えたりしません。ただ一人、一人、そしてまた一人」&lt;br /&gt;
「Biography: Mother Teresa〜A Life of Devotion」BBC　1997より引用・要約。&lt;br /&gt;
&amp;lt;原文&amp;gt; “I have never counted the numbers. I have just taken one, one, one.”--&amp;gt;&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
=== 書籍 ===&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ　-神さまへのおくりもの-』マザー・テレサ著、半田基子訳、女子パウロ会、1976年&lt;br /&gt;
*『生命あるすべてのものに』マザー・テレサ、[[講談社現代新書]]、1982年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ　愛を語る』ジョルジュ・ゴルレ、ジャン・バルビエ編著、支倉寿子訳、[[日本教文社]] 、1982年&lt;br /&gt;
*『ほほえみ　-マザー・テレサのことば-』女子パウロ会編、江口まひろ絵、女子パウロ会、1989年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ　愛のことば』女子パウロ会編、いもとようこ絵、女子パウロ会、1998年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ　日々のことば』マザー・テレサ著、いなますみかこ訳、女子パウロ会、2000年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』ホセ ルイス・ゴンザレス‐バラド編、渡辺和子訳、PHP文庫、2000年&lt;br /&gt;
*『愛する子どもたちへ　マザー・テレサの遺言』マザー・テレサ、片柳弘史（写真）、ドン・ボスコ社、2001年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ書簡集』、片柳弘史編・訳、ドン・ボスコ社、2003年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ　-すばらしいことを神さまのために-』マルコム・マゲッリッジ、沢田和夫訳、女子パウロ会、1976年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサとその世界』千葉茂樹、[[女子パウロ会]]、1980年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサこんにちは』千葉茂樹、女子パウロ会、1980年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘、[[講談社文庫]]、1984年&lt;br /&gt;
*『ノーベル平和賞に輝く聖女 マザーテレサ』望月正子、[[講談社]]、1988年&lt;br /&gt;
*『こんにちわ地球家族　-マザー・テレサと国際養子-』千葉茂樹、女子パウロ会、1991年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ　愛の軌跡』ナヴィン・チャウラ、三代川律子訳、[[日本教文社]] 、1995年、2001年増補改訂版&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサへの旅 ボランティアってだれのため?』[[寮美千子]]、[[学習研究社|学研]]、1997年&lt;br /&gt;
*『わたしはマザーに出会った　-20人が語るマザー・テレサのすがた-』女子パウロ会編、女子パウロ会、2001年&lt;br /&gt;
*『愛 -マザー・テレサ日本人へのメッセージ-』女子パウロ会編、三保元訳、女子パウロ会、2003年&lt;br /&gt;
*『カルカッタ日記　マザー・テレサと出会って』片柳弘史、ドン・ボスコ社、2003年&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサの真実』五十嵐薫著 《NPO法人レインボー国際協会理事長》、PHP出版、2007年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*『大ヴァチカン展パンフレット』大ヴァチカン展実行委員会、1987年&lt;br /&gt;
*[[AERA]]臨時増刊『人を助けたい　震災ボランティア／善意ネットワーク』 [[朝日新聞社]] 1995年3月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画 ===&lt;br /&gt;
*[[小学館]]&lt;br /&gt;
:[[学習まんが人物館]]『マザー・テレサ 貧しい人びとに限りなき愛をそそいだ現代の聖女』滝田よしひろ、[[あべさより]]、1997年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映像作品 ===&lt;br /&gt;
*ドキュメンタリー映画　“Something Beautiful for God”、1969年、アメリカ&lt;br /&gt;
*ドキュメンタリー映画『マザー・テレサとその世界』（55分）、1979年、女子パウロ会&lt;br /&gt;
*ドキュメンタリー映画『生命、それは愛』（マザー・テレサ来日の記録 30分）、1982年、女子パウロ会&lt;br /&gt;
*アニメ『みんなのおかあさん　マザー・テレサ』（20分）、1993年、女子パウロ会&lt;br /&gt;
*アニメ『マザー・テレサ』、2000年、学研、寮美千子脚本、金井肇監修&lt;br /&gt;
*『マザー・テレサ』、2005年、ファブリツィオ・コスタ監督、[[オリヴィア・ハッセー]]主演&lt;br /&gt;
*ドキュメンタリー映画『マザーテレサ - 母なることの由来』（1986年/アメリカ映画/83分）製作・監督 アン・ペトリ、ジャネット・ペトリ　1988年日本公開。2007年デジタル復刻版製作、日本再公開。&lt;br /&gt;
*ドキュメンタリー映画『マザーテレサ - 母なるひとの言葉』（2004年/アメリカ映画/55分））製作・監督 アン・ペトリ、ジャネット・ペトリ　2007年「母なることの由来-デジタル復刻版-」と同時に日本初公開。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[修道会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ここに個人サイトなどのリンクを貼らないでください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- また、「Wikipedia:外部リンクの選び方」をよく読まれるようにお願いいたします。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[http://www.cbcj.catholic.jp/mother/index.htm カトリック中央協議会 マザー・テレサ関連インデックス]&lt;br /&gt;
*[http://www.motherteresa.co.jp/index.html マザー・テレサ・メモリアル]（ドキュメンタリー「母なることの由来」「母なるひとの言葉」劇場公開公式サイト）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:カトリック]]&lt;br /&gt;
[[Category:ノーベル平和賞受賞者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福者]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国名誉市民]]&lt;br /&gt;
[[Category:貧困]]&lt;br /&gt;
[[Category:アルバニアの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ホームレス]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリスト教に関連する人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユーゴスラビアの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1910年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1997年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:メリット勲章]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE&amp;diff=42889</id>
		<title>大友義鎮</title>
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				<updated>2008-12-04T06:08:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{武士&lt;br /&gt;
|開始=大友義鎮／大友宗麟&lt;br /&gt;
|肖像=[[画像:OtomoSorin.jpg|center|210px|大友宗麟像（大分県大分市）]]&lt;br /&gt;
|時代=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]&lt;br /&gt;
|生誕=[[享禄]]3年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]（[[1530年]][[1月31日]]）&lt;br /&gt;
|死没=[[天正]]15年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]（[[1587年]][[6月11日]]）&lt;br /&gt;
|改名=塩法師丸（幼名）、義鎮、休庵宗麟&lt;br /&gt;
|別名=五郎、新太郎（通称）&lt;br /&gt;
|諡号=宗麟、宗滴、休庵、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎&lt;br /&gt;
|戒名=瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士&lt;br /&gt;
|霊名=ドン・フランシスコ（普蘭師司怙）&lt;br /&gt;
|墓所=[[大分県]][[津久見市]]津久見。[[京都市]]北区[[瑞峯院]]&amp;lt;br /&amp;gt;位牌は[[津久見市]]上宮本町の響流山長泉寺&lt;br /&gt;
|官位=[[正四位下]]、[[左衛門督]]&lt;br /&gt;
|幕府=[[室町幕府]][[豊後]]・[[豊前]]・[[肥前]]・[[肥後]]・[[筑前]]・[[筑後国|筑後]][[守護]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[九州探題]]}&lt;br /&gt;
|主君=[[豊臣秀吉]]&lt;br /&gt;
|氏族=[[大友氏]]（[[藤原氏]]）&lt;br /&gt;
|父母=父：[[大友義鑑]]、母：[[大内義興]]の娘&lt;br /&gt;
|兄弟='''義鎮（宗麟）'''、[[大内義長]]（晴英）、塩市丸、[[大友親貞|親貞]]&lt;br /&gt;
|妻=正室：'''[[一色義孝]]の娘'''&amp;lt;br /&amp;gt;継室：'''[[奈多鑑基]]の娘（[[奈多夫人]]）'''&amp;lt;br /&amp;gt; 側室：&amp;lt;!--[[吉弘鑑理]]の娘・[[大友ジュスタ]]&amp;lt;br /&amp;gt; --&amp;gt;[[一萬田親実]]の娘（一萬田夫人）&lt;br /&gt;
|子='''[[大友義統|義統]]'''、[[大友親家|親家]]、[[大友親盛|親盛]]&amp;lt;br /&amp;gt;娘（[[一条兼定]]室のち[[清田鎮忠]]室）、娘（[[久我三休]]室）&amp;lt;br /&amp;gt;娘（[[臼杵統尚]]室）、娘（[[毛利秀包|小早川秀包]]室）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[画像:Otomo-Sorin_statue_Tsukumi.jpg|thumb|right|210px|大友宗麟公像（大分県津久見市）]]&lt;br /&gt;
'''大友 義鎮'''／'''大友 宗麟'''（おおとも よししげ／おおとも そうりん）は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]である。[[豊後国|豊後]]の[[戦国大名]]、[[キリシタン大名]]。[[大友氏]]第21代当主。'''宗麟'''の[[法号]]で知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
大友氏は[[鎌倉時代]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて[[少弐氏]]・[[島津氏]]とともに幕府[[御家人]]衆の束ね役として権勢を振るい、[[室町時代]]に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土豪・守護大名に加え大内氏や[[毛利氏]]の勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定したのが、大友宗麟である。父は大友家第20代当主・[[大友義鑑]]。母は[[大内義興]]の娘といわれているが[[周防国|周防]][[大内氏]]の[[家督]]を継いだ[[大内義長]]とは異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母ではないかとする説がある。一説に生母は[[阿蘇惟憲]]の娘。弟に大内義長、[[大友塩市丸]]、[[大友親貞]]など（親貞に関しては甥ともいわれる）。子に[[大友義統]]（吉統）、[[大友親家]]、[[大友親盛]]など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初は[[禅宗]]に帰依していたが後に[[キリスト教]]への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。キリシタン大名としても有名だが一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名であった。しかし「キリシタン王国」建設間近で[[島津義久]]に敗れ、晩年には[[豊臣秀吉]]の傘下の一大名に甘んじて豊後1国を維持するのがやっとというほどまでに衰退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 家督相続 ===&lt;br /&gt;
享禄3年1月3日（1530年1月31日）、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として[[豊後国|豊後]]府内に生まれる。守役は重臣[[入田親誠]]が務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、守役の親実と共に義鎮の廃嫡を企んだ。[[天文 (元号)|天文]]19年（[[1550年]]）2月に義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派を粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]（[[2月26日]]）に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]（[[2月28日]]）に死去するという政変（[[二階崩れの変]]）が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第21代当主となった。同時に入田親誠ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 勢力拡大 ===&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）に周防の[[大内義隆]]が家臣の[[陶晴賢|陶隆房]]（[[陶晴賢]]）の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英（大内義長）を大内家の新当主として送り込んだ。これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を討つと共に北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・[[長門国|長門]]方面にも影響力を確保した。特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また復権を目論む叔父の[[菊池義武]]の反乱をしりぞけ、天文23年（[[1554年]]）には[[菊池氏]]を滅亡させて肥後の勢力も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮が[[キリスト教]]に関心を示して[[フランシスコ・ザビエル]]ら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したためこれが大友家臣団の宗教対立に結びついて天文22年（[[1553年]]）に[[一萬田鑑相]]、弘治2年（[[1556年]]）には[[小原鑑元]]が謀反を起こすなど（[[姓氏対立事件]]）義鎮の治世は当初から苦慮したものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに[[弘治 (日本)|弘治]]3年（[[1557年]]）、義長が[[毛利元就]]に攻め込まれて自害し[[大内氏]]が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。毛利元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、元就と内通した筑前の[[秋月文種]]を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。[[永禄]]2年（[[1559年]]）には室町幕府第13代将軍・[[足利義輝]]に多大な献金運動をして、同年6月には[[豊前国]]・[[筑前国]]の[[守護]]に任ぜられ同年11月には[[九州探題]]に補任された。永禄3年（[[1560年]]）には、左衛門督に任官する（これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では[[畠山氏]]以外には任官されていなかった高官である。この事から足利将軍家に多大な献金を行っていた事と、その信頼を受けていた事が察する事ができる）。このように義鎮は名実共に九州に置ける最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出したのである。永禄5年（[[1562年]]）、出家し'''休庵宗麟'''と号す。その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年（[[1563年]]）には足利義輝の[[相伴衆]]に任ぜられ後に毛利氏との和睦交渉などにも将軍家の調停を依頼するなど関係は密であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 敗戦 ===&lt;br /&gt;
毛利氏は山陰の[[尼子氏]]を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになる。永禄10年（[[1567年]]）、豊前や筑前方面で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の[[高橋鑑種]]も加わるという事態になったが、義鎮は[[立花道雪]]らに命じてこれを平定させた。また、この毛利氏との戦闘の中で義鎮は[[宣教師]]に鉄砲に用いる火薬の原料である[[硝石]]の輸入を要請し、その理由として自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないようにとの手紙を出している。永禄12年（[[1569年]]）、肥前で勢力を拡大する[[龍造寺隆信]]を討伐するため自ら軍勢を率いて肥前に侵攻するが元就が筑前に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして重臣の[[吉岡長増]]の進言を受けて大内氏の残党である[[大内輝弘]]に水軍衆の[[若林鎮興]]を付け周防に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、毛利元就を[[安芸国|安芸]]に撤退へと追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）、再度肥前に侵攻するが[[今山の戦い]]で龍造寺隆信に弟の親貞を討たれるという大敗を喫し、隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなった。その後も筑後や肥前の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）、[[家督]]を長男の[[大友義統]]に譲って[[丹生島城]]へ[[隠居]]する。このときから義統と二元政治を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）、[[薩摩国|薩摩]]の[[島津義久]]が[[日向国|日向]]侵攻を開始すると、義鎮も大軍を率いて出陣した（これに関しては以下後述）。しかし天正6年（[[1578年]]）に[[耳川の戦い]]で島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。さらに天正7年（[[1579年]]）頃からは、[[蒲池氏]]・[[草野氏]]・[[黒木氏]]などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師の[[フランシスコ・カブラル]]から[[洗礼]]を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 衰退から最期へ ===&lt;br /&gt;
耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、[[秋月種実]]らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。天正12年（[[1584年]]）に[[沖田畷の戦い]]で隆信が島津軍に敗死すると立花道雪に命じて[[筑後国]]侵攻を行い、筑後国の大半を奪回したものの天正13年（[[1585年]]）に道雪が病死してしまい、これを好機と見た義久の北上が始まることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため天正14年（[[1586年]]）、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に[[大坂城]]で謁見して支援を要請する。しかし義久はその後も大友領へ侵攻し、天正14年（1586年）12月には[[島津家久]]軍が[[戸次川の戦い]]で大友方を破って本拠地である豊後国府内を占領してしまった。このとき、丹生島城に籠城していた宗麟は大砲・[[国崩し]]を使って丹生島城を死守し戦国大名としての意地を見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正15年（1587年）、秀吉は自ら兵を率いて[[九州征伐]]に出陣し各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、義久の降伏直前に[[豊後国]]津久見で病死した。58歳。死因は[[チフス]]が有力とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
九州征伐後、秀吉の命令で大友義統には豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向の地を与えようとしていたが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓は[[大分県]][[津久見市]]内と[[京都市]]北区の龍寶山[[大徳寺]]の塔頭寺院である[[瑞峯院]]にある。さらに[[津久見市]]上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。その後、墓は荒廃したが[[寛政]]年間（[[1789年|1789]]～[[1801年]]）に宗麟の家臣の末裔である[[臼杵城豊]]が自費で改葬した。津久見市内の現在の墓所は[[昭和]]52年（[[1977年]]）に当時の大分市長・[[上田保]]によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*[[キリシタン大名]]としても知られる義鎮だが、天文20年（[[1551年]]）に豊後へ布教のためにやってきた[[イエズス会]][[宣教師]]・[[フランシスコ・ザビエル]]の知己を得たことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年（[[1578年]]）7月に[[キリスト教]]の[[洗礼]]を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、[[南蛮貿易]]を行う。また[[博多]]商人の[[島井宗室]]や[[神谷宗湛]]らと交友し、[[日明貿易]]や[[日朝貿易]]も行った（しかし実際に明国や朝鮮などとの貿易で利益をもたらしていたのは[[15世紀]]後半辺りまでで、[[三浦の乱]]を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上大友氏の看板を利用した[[対馬]]の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。また輸入品の多くは食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく、多くは所謂「奢侈品」であったとされ、それ程実質的な利益は上げていなかったと[[外山幹夫]]氏の著作などで指摘されている。むしろ義鎮時代は有力家臣へ恩賞として与える領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに杏葉紋（大友氏の使用した家紋）の使用権を与えるなどの形で代用するなど経済状況は決して良くはなかった）。当初は貿易目的のためにキリシタンを保護していたが次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、遂には入信しムシカ（理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近）の建国を夢見て耳川の合戦を引き起こすことになる。&lt;br /&gt;
*他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており家臣の妻（[[一萬田親実]]の妻）を略奪したり、キリスト教をめぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。政務を拒否し遊び惚けた宗麟を[[立花道雪]]が戒めたという逸話も残っている。&lt;br /&gt;
*天正10年（[[1582年]]）に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した[[天正遣欧少年使節]]では、[[伊東マンショ]]を名代として派遣している（ただし、この件を義鎮本人が関知していなかった可能性が高いという説もある。詳しくは伊東マンショの項を参照）。&lt;br /&gt;
*「欲の無い武将」と称されるが、これは晩年の宗麟が求めていたものが領土よりも自身の生命のゆとりや安らぎであったことからである（前述のとおり、前半生の宗麟は領土拡大に積極的だった）。&lt;br /&gt;
*宗麟は今山・耳川の戦いで敗北していることから戦略家としては二流と見られている。しかし政略においては、元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せている。すでに有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出すことで守護職・九州探題職を得て九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年（[[1581年]]）には当時の天下人・[[織田信長]]と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕は特に秀でていた。&lt;br /&gt;
*耳川の戦いは、宗麟主導のもとでキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争とされることが多い。しかし天正5年（[[1577年]]）から天正6年（1578年）にかけて宗麟は領国経営の文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が家臣団の要請を受けて出馬していることから、耳川の戦いは宗麟ではなく義統主導によるものだったのではないかとされている。また、宗麟の姻戚であった総大将・[[田原親賢]]が[[臼杵鑑速]]などの重臣達の反発を招いたという説もある。親賢はキリスト教を嫌悪しており、信徒や宣教師の支援が得られなかったことが原因という説もある。&lt;br /&gt;
*キリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。しかしキリシタンになったことが大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人の蜂起という形で表れることとなったのは皮肉である。また宗麟はかなりキリスト教を厚く信仰していたため、神社仏閣を徹底的に破壊したり金曜日・土曜日は[[断食]]をする、それまで家に伝わっていた[[だるま]]をも破壊するなどという行為も行なっている。&lt;br /&gt;
*後半生はキリスト教に傾倒し寺社仏閣を破壊したという逸話が知られているがこれは[[日向国]]侵攻においてキリスト教国建設を夢見たとされる義鎮が日向国内限定で行った行為であり、本拠である豊後国内で義鎮が寺社仏閣を破壊したという資料は見当たらない。しかし、次期当主であった義統は筑後国や豊後国内などで積極的に寺社の破壊を行っている。これは宗教的な問題からというよりも、大友家の勢力が衰退する中で寺社勢力が非協力的になった為と家臣に所領として与える土地がなくなった為、寺社領を取り上げて家臣に与えるという政治的理由の方が大きかったとされる。いずれにせよ、義鎮が積極的に寺社破壊を命じたのは一時的に日向北部を支配した時期だけである。&lt;br /&gt;
*かなりの好色家であったようでわざわざ[[京都]]に赴いて美女を探し、目星をつけると見境無く略奪婚のようなことを繰り返したとされる。最初の正室・一色夫人とは家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。継室の[[奈多夫人]]は[[八幡奈多宮]]大宮司の家系であり、宗麟がキリスト教を信仰するようになったため離婚している。&lt;br /&gt;
*日本で初めて大砲（当時は国崩し）を使ったのは、宗麟であったとされる。&lt;br /&gt;
*文化人としても活動が活発で[[書画]]・[[茶道]]・[[能]]・[[蹴鞠]]などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。特に蹴鞠には通じていたようで幼児より[[飛鳥井雅綱]]を師範とし伝授を受けており、息子の義統にも習わせている。時の将軍・義輝も義鎮の蹴鞠好きを知り、蹴鞠の際に着用する専用の衣服などを送っている。また、このような多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を多数購入、収集している。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残る程であった。&lt;br /&gt;
*発給文書が非常に多い人物としても知られる。現存する書状だけでも1000通を越えており、家臣団の統率や中央政権との繋がり、果ては諸外国との通信など義鎮が非常に外交に長けた人物であった裏づけでもある。&lt;br /&gt;
*[[楢柴肩衝]]、[[初花肩衝]]と一緒に天下三肩衝といわれる[[新田肩衝]]を所有する文化人でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家系 ==&lt;br /&gt;
*父：大友義鑑&lt;br /&gt;
*母：大内義興の娘（異説として公家の娘、家臣の娘）&lt;br /&gt;
*兄弟&lt;br /&gt;
**女（[[一条房冬]]室）&lt;br /&gt;
**女（[[河野通宣]]室）&lt;br /&gt;
**義鎮&lt;br /&gt;
**晴英（[[大内義長]]）&lt;br /&gt;
**親貞&lt;br /&gt;
**塩市丸&lt;br /&gt;
*子&lt;br /&gt;
**義統（吉統）&lt;br /&gt;
**娘（[[一条兼定]]室のち[[清田鎮忠]]室）&lt;br /&gt;
**娘（久我三休室）&lt;br /&gt;
**親家&lt;br /&gt;
**娘（[[臼杵統尚]]室）&lt;br /&gt;
**娘（[[毛利秀包|小早川秀包]]室）&lt;br /&gt;
**親盛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大友宗麟関連の作品 ==&lt;br /&gt;
*小説&lt;br /&gt;
**[[外山幹夫]]『大友宗麟』（昭和50年（[[1975年]]）、吉川弘文館、ISBN 978-4642051392）&lt;br /&gt;
**[[白石一郎]]『火炎城』（昭和53年（[[1978年]]）、講談社、ISBN 978-4061314443）&lt;br /&gt;
**[[遠藤周作]]『王の挽歌』（[[平成]]4年（[[1992年]]）、新潮社、上・ISBN 978-4101123332、下・ISBN 978-4101123349）&lt;br /&gt;
**[[赤瀬川隼]]『王国燃ゆ 小説大友宗麟』（平成11年（[[1999年]]）、学陽書房、ISBN 978-4313750890）&lt;br /&gt;
*映画&lt;br /&gt;
**国東物語（昭和59年（[[1984年]]）、監督：[[村野鐵太郎]]）&lt;br /&gt;
*テレビドラマ&lt;br /&gt;
**[[大友宗麟-心の王国を求めて|大友宗麟～心の王国を求めて～戦国の世において平和な国づくりを目指した武将宗麟の波乱の人生]]（[[NHK正月時代劇]]、平成16年（[[2004年]]）[[1月4日]]放送）&lt;br /&gt;
***原作：遠藤周作（『王の挽歌』）、脚本：[[古田求]]、演出：[[望月良雄]]、主演：[[松平健]]ほか&lt;br /&gt;
*菓子&lt;br /&gt;
**キリシタン大名大友宗麟 ドン・フランシスコ（株式会社菊家）- [[モンドセレクション]]で最高金賞を連続受賞中の大分銘菓。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[大友氏|豊後大友氏歴代当主]]|第21代：1550 - 1576|[[大友義鑑]]|[[大友義統]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:大友氏|よししけ]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:大分県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:豊後国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリシタン]]&lt;br /&gt;
[[Category:1530年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1587年没]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E&amp;diff=42888</id>
		<title>白洲次郎</title>
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				<updated>2008-12-04T06:06:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: 新しいページ: '[[サンフランシスコ講和会議へ向かう機上の白洲次郎　右は吉田茂首相]] '''白...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Yoshida en route to San Francisco 1951.jpg|thumb|250px|[[サンフランシスコ講和会議]]へ向かう機上の白洲次郎　右は[[吉田茂]]首相]]&lt;br /&gt;
'''白洲 次郎'''（しらす じろう、[[明治]]35年（[[1902年]]）[[2月17日]] - [[昭和]]60年（[[1985年]]）[[11月28日]]）は[[兵庫県]][[芦屋市]]出身の日本の[[実業家]]である。終戦直後の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]支配下の日本で[[吉田茂]]の側近として活躍し、[[貿易庁]]（[[通産省]]）長官等をつとめる。独立復興後は、[[東北電力]]会長等を歴任した。夫人は、作家・随筆家の[[白洲正子]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== プロフィール ==&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
明治35年（1902年）2月17日、兵庫県[[武庫郡]][[精道村]]（現・芦屋市）に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。後に兵庫県[[川辺郡 (兵庫県)|川邉郡]][[伊丹町]]&amp;lt;ref&amp;gt;牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』より&amp;lt;/ref&amp;gt;（現・[[伊丹市]]）に建築道楽の父が建てた邸へ転居。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大正]]8年（[[1919年]]）、旧制第一神戸中学校（現・[[兵庫県立神戸高等学校]]）を卒業。神戸一中時代はサッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。同級生には後に作家で[[文化庁]]長官となった[[今日出海]]、中国文学者で文化功労者となった[[吉川幸次郎]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス留学 ===&lt;br /&gt;
神戸一中を卒業後、[[ケンブリッジ大学]]クレア・カレッジに留学し西洋中世史、[[人類学]]などを学ぶ。自動車に耽溺し、[[ブガッティ]]や[[ベントレー]]を乗り回す。7代目ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング（愛称：ロビン）と終生の友となる。ロビンとは、ベントレーを駆って[[ジブラルタル]]までの[[ヨーロッパ]]大陸旅行を実行している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正14年（[[1925年]]）、ケンブリッジ大学を卒業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 帰国 ===&lt;br /&gt;
昭和3年（[[1928年]]）、[[神戸市]][[神戸区]]（現・[[中央区 (神戸市)|中央区]]）で父の経営していた白洲商店が[[昭和金融恐慌]]の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和4年（[[1929年]]）、英語新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。[[伯爵]]・[[樺山愛輔]]の長男・[[樺山丑二|丑二]]の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、[[京都ホテル]]で華燭の典を挙げた&amp;lt;ref&amp;gt;樺山正子との婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業（後の[[日本水産]]）取締役（昭和12年（[[1937年]]）を歴任する。この間、海外に赴くことが多く駐イギリス[[特命全権大使]]であった[[吉田茂]]の面識を得、イギリス[[大使館]]をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、[[牛場友彦]]や[[尾崎秀実]]とともに[[近衛文麿]]のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子文隆のしつけがかりを押しつけられていたこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「ヨハンセン・グループ」 ===&lt;br /&gt;
昭和15年（[[1940年]]）、来るべき日英・米戦争、それに伴う食料不足を予期し&amp;lt;ref&amp;gt;夫人の正子によれば、臆病なので空襲をおそれてとのこと。&amp;lt;/ref&amp;gt;事業から手を引き、東京都[[南多摩郡]][[鶴川村]]能ヶ谷（現・[[町田市]]能ヶ谷町）の古い農家を購入し、'''武相荘（ぶあいそう）'''と名付けて隠棲。カントリー・ジェントルマンを自称する。農業に励む日々を送る一方で吉田を中心とする「ヨハンセン・グループ」（宮中反戦グループ）に加わり、終戦工作に奔走しここから次郎の「昭和の[[鞍馬天狗]]」としての活動が始まる。同年に、長女・桂子がうまれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 終戦連絡中央事務局 ===&lt;br /&gt;
昭和20年（[[1945年]]）、[[東久邇宮内閣]]の[[外務大臣]]に就任した吉田の懇請で[[終戦連絡中央事務局]]（終連）の参与に就任する。ここから、次郎の[[連合国軍最高司令官総司令部]]（GHQ/SCAP）を向こうに回した戦いの火蓋が切られる。次郎は、GHQ/SCAPに対して当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、イギリス仕込みの流暢な[[英語]]（次郎は[[日本語]]を話す方が訥弁になった）とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則（プリンシプル）を重視する性格から主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP某要人をして「'''従順ならざる唯一の日本人'''」と言わしめた&amp;lt;ref&amp;gt;もちろん事実としては蔵相時代に激しく日本側の立場を主張して[[公職追放]]になった[[石橋湛山]]などもおり、次郎しか従順でない日本人がいなかったわけではない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[昭和天皇]]から[[ダグラス・マッカーサー]]に対する[[クリスマス]]プレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが次郎に申し訳ないと謝り、ちゃんとテーブルを用意させた。GHQ/SCAP[[民政局|民政局長]]の[[コートニー・ホイットニー]]准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した（米語に対する最大限の皮肉、後述）などGHQ / SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 憲法改正 ===&lt;br /&gt;
同年には[[憲法]]改正問題で、[[佐々木惣一]][[京都帝国大学]]教授に憲法改正の進捗を督促する。昭和21年（[[1946年]]）[[2月13日]]、[[松本烝治]]国務大臣が中心として起草した憲法改正案（松本案）がGHQ/SCAPの拒否にあった際に、GHQ/SCAP草案（マッカーサー案）を提示されている。次郎は[[2月15日]]にGHQ/SCAP草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡&amp;lt;ref&amp;gt;いわゆる「ジープウェイ・レター」。ホイットニーからの返事が[[国立国会図書館]]に保存されている（[http://www.ndl.go.jp/constitution/e/shiryo/03/081/081tx.html 紹介ページ]）。&amp;lt;/ref&amp;gt;を出し時間を得ようとするが、これはGHQ/SCAPから不必要な遅滞は許されないと言明される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。昭和22年（[[1947年]]）[[6月18日]]、終連次長を退任する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貿易庁初代長官 ===&lt;br /&gt;
昭和23年（[[1948年]]）[[12月1日]]、[[商工省]]に設立された[[貿易庁]]の初代長官に就任する。なお就任にあたり優越を目的とした企業や関係者から贈り物が届いたのを知ると、知らせた者を一喝し受け取りを拒否したといわれる。少資源国日本が生き残る道として経済復興には産業政策を輸出主導型へ転換させる必要があるとし、商工省を改組し[[通商産業省]]設立の中心的役割を果たした。それをなし遂げる政治力は「白洲三百人力」と言われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和25年（[[1950年]]）、講和問題で[[池田勇人]]蔵相・[[宮澤喜一]]蔵相秘書官と共に渡米し[[ジョン・フォスター・ダレス]]と会談、平和条約の準備を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和26年（[[1951年]]）9月、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和会議]]に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による[[日本語]]に書き直し、[[奄美諸島]]、[[琉球諸島]]（[[沖縄諸島|沖縄]]）並びに[[小笠原諸島]]等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年（[[1952年]]）[[11月19日]]から昭和29年（[[1954年]]）[[12月9日]]まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 実業界へ復帰 ===&lt;br /&gt;
既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた次郎は、昭和26年（1951年）5月に[[東北電力]]会長に就任する。就任の同年[[福島県]]の[[只見川]]流域が[[只見特定地域総合開発計画]]に指定されたことから昭和34年（[[1959年]]）に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き[[奥只見ダム]]などの建設を推進した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」[[松永安左エ門]]の私的[[シンクタンク]]・[[産業計画会議]]の委員に就任した。東北電力退任後は[[荒川水力電気]]会長、[[大沢商会]]会長、大洋漁業（現・[[マルハ]]）、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。次郎はケンブリッジ大学時代に築いた人脈を利用して様々な英国企業の個人エージェントを勤めており、ロンドンに設けた個人口座に成功報酬ベースでコミッションを振り込ませていた。そして時々英国に出張してはそのカネを引き下ろしては日本に密かに持ち帰っていた（次郎の「出張」の大半は外交官扱いなので、英国での稼ぎは外交官特権により合法的に持ち帰る事が可能であった。そして当時の為替レートからすると、英国で稼いだ金額を日本円に換算すると非常な価値があった）。戦後も彼は浮世離れした生活を営んでいたが、それを可能にしたのはこうしたカネの流れがあったからこそなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゴルフ ===&lt;br /&gt;
次郎は、日本[[ゴルフ]]界を語るには欠かせない人物でもある。白洲がゴルフを始めたのは、本人によると14、5歳の時からでイギリス留学中はゴルフはしなかったが帰国してから熱中した。昭和51年（[[1976年]]）、[[軽井沢]]ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。メンバーは皆平等にビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく「プレイ・ファスト」を徹底させた。[[1982年]]（昭和57年）、同倶楽部理事長に就任する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 親友との再会 ===&lt;br /&gt;
親友ロビンとは互いに祖国が戦争状態に入るという不幸な時期を経て昭和27年（[[1952年]]）、[[ロンドン]]で再会を果たした。最後にロビンと会ったのは昭和55年（[[1980年]]）のことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 死去 ===&lt;br /&gt;
80歳まで[[1968年]]型[[ポルシェ]][[ポルシェ・911#911型（通称ナロー911、1963年～1974年）|911S]]を乗り回しゴルフに興じていたが、昭和60年（1985年）11月に正子夫人と[[伊賀]]・[[京都]]を旅行後、体調を崩し[[胃潰瘍]]と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。{{没年齢|1902|2|17|1985|11|28}}。墓所は兵庫県[[三田市]]の[[心月院]]である。夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。そして次郎の墓碑には正子が発案した[[不動明王]]を表す[[梵字]]が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オイリー・ボーイ ==&lt;br /&gt;
白洲の車好きは有名である。イギリス留学中にベントレーやブガッティを乗り回し、「オイリー・ボーイ」（[[オイル]]にまみれるほどの車好き）と呼ばれていた。ロンドンから1時間ほどのレーシングコース「ブルックランド」においてベントレーで快走していた。また、2代目[[トヨタ・ソアラ]]の開発に際しては事実上のアドバイザー役を務めた。&lt;br /&gt;
=== 主な車歴 ===&lt;br /&gt;
* [[1919年]]型ペイジ・グレンブルック - 中学生時代に使用。&lt;br /&gt;
* [[1924年]]型[[ベントレー]]3リッター - イギリス留学中に所有。後にエンジンを4.1/2リッターに載せかえるなどされたが、その後日本に持ち込まれ、現在は[[株式会社]][[ワク井商会]]が所有している（[http://www.bbvideo.jp/kurumadoraku/1924Bentley_4_5_Ex_Shirasu.html 紹介ページ]）。&lt;br /&gt;
* [[ブガッティ]]・[[:en:Bugatti Type 35|タイプ35]] - イギリス留学中に所有。イギリスに現存。&lt;br /&gt;
* [[ランチア]]・[[:en:Lancia Lambda|ラムダ]]&lt;br /&gt;
* ハンバー・ホーク&lt;br /&gt;
* [[ランドローバー]]&lt;br /&gt;
* [[三菱・ジープ]]&lt;br /&gt;
* [[1960年]]型[[メルセデス・ベンツ]]450&lt;br /&gt;
* [[三菱・ミラージュ]] - 晩年、ショーファードリブンとして使用していた。&lt;br /&gt;
* [[トヨタ・ソアラ]]&lt;br /&gt;
* [[スバル・サンバー]]&lt;br /&gt;
* [[1968年]]型[[ポルシェ・911#911型（通称ナロー911、1963年～1974年）|ポルシェ911S]] - 晩年の愛車。1968年式のエンジンは本来2リッターだが、2.4リッターのものに換装した。ちなみに1968年式ポルシェ911はナロー初期のショートホイールベースであり、操縦性が非常に過敏であった。そこにパワーに勝るナロー後期型の2.4リッターエンジンを組み合わせたと言うことは、乗り手を選ぶカミソリのような車を作り上げた事を意味する。[[トヨタ]][[トヨタ・ソアラ#2代目（1986-1991年） Z20系|ソアラ（2代目）]]開発の為に寄贈&amp;lt;!--（無理矢理預けたようであるが）/典拠不詳--&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Winter Vacation 1925-1926（ヨーロッパ大陸12日間の旅） ===&lt;br /&gt;
残っているノートには&amp;quot;where we stayed&amp;quot;とあるため、親友ロビンと旅したようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[サウサンプトン|Southanpton]]&lt;br /&gt;
* [[ルアーブル|Le Havre]]&lt;br /&gt;
* [[ル・マン|Le Mans]]&lt;br /&gt;
* [[トゥール|Tours]]&lt;br /&gt;
* Poitier&lt;br /&gt;
* [[ボルドー|Bordeaux]]&lt;br /&gt;
* Biarritz&lt;br /&gt;
* St. Sabastien&lt;br /&gt;
* Victoria&lt;br /&gt;
* Burgos&lt;br /&gt;
* Valladolid&lt;br /&gt;
* [[マドリッド|Madrid]]&lt;br /&gt;
* [[トレド|Toledo]]&lt;br /&gt;
* Valdepenas - この近くでガソリン・タンクが壊れた。&lt;br /&gt;
* Jaen&lt;br /&gt;
* [[グラナダ|Granada]] - [[グラナダ]]で[[アルハンブラ]]見物をした。&lt;br /&gt;
* [[セビリア|Seville]] - [[セビリア]]の[[アルカサル (セビリア)|アルカサル]]王城の庭園への入場券が記録として残っている。&lt;br /&gt;
* [[ジブラルタル|Gibraltar]]&lt;br /&gt;
* [[マルセイユ|Marseille]]&lt;br /&gt;
* Aix&lt;br /&gt;
* Grenoble&lt;br /&gt;
* Aix-les-Bains&lt;br /&gt;
* Grenve&lt;br /&gt;
* Dision&lt;br /&gt;
* Chatillon&lt;br /&gt;
* Fontainebleau&lt;br /&gt;
* [[パリ|Paris]]&lt;br /&gt;
* [[アミアン|Amien]]&lt;br /&gt;
* Abbeville&lt;br /&gt;
* Boulogne&lt;br /&gt;
* Folkstone&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
* 身長185センチ、スポーツ万能で晩年には[[三宅一生]]のモデルを務めたこともある&amp;lt;ref&amp;gt;[[平成]]18年（[[2006年]]）4月に[[日本放送協会|NHK]]番組『[[その時歴史が動いた]]』でも取り上げられた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 非常にせっかちな性格の持ち主。その為ゴルフは「プレイ・ファスト」、食事は早食い。酒も手早く済ませたと伝えられている。軽井沢ゴルフ倶楽部では「素振り禁止」と張り紙をしたり、次郎の方から食事に誘った友人よりも早く食べ終えて「早くしろよ」と急かす事もしょっちゅうだった。&lt;br /&gt;
* 日本人で初めて[[ジーンズ]]を穿いた人と伝えられている（サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用した）。また、[[パンタロン|ラッパズボン]]も愛用していた。&lt;br /&gt;
* 晩年、彼が政治家として最も評価していたのは英語使いとして知られた元官僚の[[宮澤喜一]]であったが、正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。&lt;br /&gt;
* 結婚当初、正子を「[[薩摩]]の奴らは[[江戸]]に入城した時は、・・・」とからかったら正子から横っ面に一発[[ビンタ]]を御見舞いされ、それ以降「薩摩」を揶揄する事はなかったそうである。&amp;lt;!--いま、白洲正子のエッセーが手元にないので、正確な表現が分かりません。どなたか訂正ねがいます。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 映画『[[夜の蝶]]』（昭和32年（[[1957年]]）、[[大映]]）の主人公、白沢一郎（コロンビア大卒の前国務大臣。[[イラン]]石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪）のモデルは彼である。&lt;br /&gt;
* 手先が器用で[[日曜大工]]が趣味の1つ。[[しゃもじ]]や小物入れ、キャスターテーブルなど日用品を良く作っていた。&lt;br /&gt;
* [[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の肉料理屋「誠」が行きつけであった。&lt;br /&gt;
* 食べ物は基本的には肉類を好み、高齢になってからも大食漢。80歳を過ぎても250gのステーキを平らげていた。また[[明太子]]も好物だった。次郎は戦後に西鉄がプロ野球球団を設立する際の後ろ盾になったがその時、西鉄側に土産として明太子を持ってこさせた。最初に西鉄側が土産に持ってきたところ気に入ったためのようで、パンに塗って食べるのが好みだったようである。&lt;br /&gt;
* 神戸一中時代に、[[宝塚歌劇団]]に10歳位年上のガールフレンドがいた。&lt;br /&gt;
* GHQ/SCAP[[民政局|民政局長]]のホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と白洲が返答した有名なエピソードであるがこれは単に次郎の英語が日本人ばなれして上手だったので、ホイットニーにやり返したと言う事では無い。このエピソードには以下の背景がある。&lt;br /&gt;
: [[イギリス英語]]にはオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学生・教員・出身者のみが喋る独特の訛があり、[[オックスブリッジアクセント]]と呼ばれる（そして階級社会のイギリスでは、オックスブリッジアクセントを喋る者は[[上流階級]]としてあらゆる場所で然るべき待遇を受ける）。ケンブリッジ出身の白洲の喋る英語は当然、オックスブリッジアクセントであった。一方、アメリカの大学とオックスブリッジとの関係であるがアメリカで名門とされる大学群である[[アイビーリーグ]]ですらオックスブリッジを手本に創立された。そしてホイットニーは、一般市民に広く門戸を開放した事で有名な[[ジョージワシントン大学]]出身である。つまりこれは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:# 米国人の出自&lt;br /&gt;
:# ホイットニーの学歴&lt;br /&gt;
:# オックスブリッジアクセントを知らず、あろうことか「英語が上手い」と褒めたホイットニーの無教養ぶり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: の3つを揶揄する痛烈な皮肉である。次郎の「もう少し勉強」と言う言葉は2に掛かると「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学出来てオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる」、3に掛かると「あなたももう少し勉強すればオックスブリッジアクセントの事が解って、そのような失礼な事を発言しなくなる」と解釈できる。&lt;br /&gt;
* 次郎は相手の地位・身分などに臆することなく自らの「プリンシプル」や矜恃に反するものには容赦ない態度で臨んだが一方で合理的でユーモアを解する側面もあり、また下位の者には寛大で心遣いを欠かさなかった。&lt;br /&gt;
* 東北電力会長時代、ゴム長を履き自ら車を運転して各地のダム建設現場を回り飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。普段の厳しい姿を知っている東北電力社員が畏まっているのとは対照的に作業員の子供は次郎に良く懐き、膝の上に抱かれる事も多かったという。次郎以外の社員には全く寄り付かない子供たちを見て次郎は「子供には、誰が本当にいい人か分かるんだよ」と言って笑い、周囲を悔しがらせた。&lt;br /&gt;
* また軽井沢ゴルフ倶楽部時代、早朝の散歩を兼ねて場内を見回っていた時、工事のため徹夜で見張りをしていた[[鹿島建設]]の社員に「おい爺さん、立ち入り禁止だ」と咎められた事がある。後に理事長室に呼び出され咎めた相手が理事長の次郎と知った社員はクビを覚悟したが次郎は彼を親しく自分の隣に座らせた上、同席していた鹿島建設役員に「一所懸命やってくれるのは有難いが、下の者に無理をさせてはいかん」と諭した。キャディー等のゴルフ場の裏方にも気さくに接し、慶弔時には小マメに祝いの品や[[香典]]等を贈っていた。死去して20年以上経った今でも、次郎から貰った品を大切に保管している人も多い。ある時フロント係の女性が結婚した事を知ると、倶楽部会員や知人に回状を廻して祝い金を集めて贈った。回状の署名には[[佐藤栄作]]、[[井深大]]、[[水上勉]]、[[川口松太郎]]など錚々たる人物名が記してあった。&lt;br /&gt;
* 次郎はジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいが「うるさがたの爺様」だったようである。[[中曽根康弘]]が軽井沢ゴルフ倶楽部に立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ「なんだ?バードウオッチングか?」と強烈に皮肉ったといわれている（当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた）。一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないのか!」と一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。&lt;br /&gt;
* 吉田の総理退陣（昭和29年（1954年））後、長男である[[吉田健一]]に後継としての政界入りを打診する。しかし、政界への興味のなさと小りんとの再婚以後の茂との折り合いの悪さなどから、「その器ではない」と健一に断られる。これは次郎にとって痛恨事であったようで、後年に至るまでこの健一の態度についてかなりの悪口を言っていたらしい。その悪口を聞く機会があった辻井喬（[[堤清二]]）は後に著作の中で、およそ次郎に当てはまらぬ「可憐な人」との表現を用いて強烈に皮肉った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 田中角栄に関連するエピソード ===&lt;br /&gt;
[[田中角栄]]とのエピソードも幾つか存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一にした。次郎が理事を務めるゴルフクラブに、ある日秘書らしき若者から「これから田中がプレイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した次郎が「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答があった。「それは、（ゴルフクラブの）会員なのか?」と次郎が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理です」と返答があった。次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」と言い、そっぽを向いたとのことである。&lt;br /&gt;
* クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったにもかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言った。&lt;br /&gt;
* 田中に対してはクラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。次郎は田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金に苦労しすぎた」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。&lt;br /&gt;
* 田中を批判するばかりではなかった。[[ロッキード事件]]が起こると、各新聞は「'''容疑者の田中'''は…」と書きたてた。次郎は新聞社の社長に向かって「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は4年前彼を今様[[太閤]]として「戦後日本が生んだ[[英雄]]」とおだてていました。今、容疑者田中と書くならなぜその前に「'''本誌はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした'''」とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」と主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名言集 ==&lt;br /&gt;
* 「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」&lt;br /&gt;
* 「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」（交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。Jonは次郎のことである）&lt;br /&gt;
* 「お嬢さんを頂きます」（正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父・樺山愛輔に言った台詞）&lt;br /&gt;
* 「ネクタイもせずに失礼」（新婚当初、正子との夕食の席で）&lt;br /&gt;
* 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」（[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[憲法改正案]]を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、[[鶴川]]の自宅に帰ったときに[[河上徹太郎]]にはき捨てた台詞）&lt;br /&gt;
* 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」（[[ケンブリッジ大学]]に留学した理由を問われて）&lt;br /&gt;
* 「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」（『頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ』より）&lt;br /&gt;
* 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」（『プリンシプルのない日本』より）&lt;br /&gt;
* 「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」（「諸君」昭和44年（1969年）9月号）&lt;br /&gt;
* 「“No Substitute”（かけがえのない）車を目指せ」（2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の[[岡田稔弘]]に）&lt;br /&gt;
* 「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」（[[犬丸一郎]]が[[帝国ホテル]]の社長に就任するに当たって贈った言葉。地位に固執しなかった次郎の考え方が良く表れている）&lt;br /&gt;
* 「[[ツイード]]なんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ」三宅にアドバイスとして。&lt;br /&gt;
* 「わからん!」（正子の『西行』を読んで）&lt;br /&gt;
* 「一緒にいないことだよ」（晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて）&lt;br /&gt;
* 「Hope She will be MORE TIDY! 1979」（武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん）&lt;br /&gt;
* 「今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている」&lt;br /&gt;
* 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」（晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女の（現・牧山）桂子に向かって）&lt;br /&gt;
* 「右利きです。でも夜は左」（入院した病院で看護師さんに「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 白洲次郎を取り上げた作品 ==&lt;br /&gt;
=== 宝塚歌劇 ===&lt;br /&gt;
[[宝塚歌劇団]]・[[宙組]]（そらぐみ）は、[[平成]]20年（[[2008年]]）に「'''[[黎明の風]]'''」という題名で次郎の波乱の生涯を扱った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年2月、[[宝塚大劇場]]で初演。同劇場は歌劇団本拠であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣街でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2～3月は同所で、4～5月は[[東京宝塚劇場]]で上演。5月にDVDやCDも発売される。次郎を演ずるのは同歌劇団理事で専科の[[轟悠]]。マッカーサー（[[大和悠河]]）や吉田（専科の[[汝鳥伶]]）をタカラジェンヌが演じ話題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次郎は東宝に大きな影響を持ち（本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男は東宝東和社長）、また前述のとおり次郎が神戸一中時代に歌劇団員と知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の作品 ===&lt;br /&gt;
*[[憲法はまだか]] 平成8年（[[1996年]]）[[11月30日]]放送 [[日本放送協会|NHK]]&lt;br /&gt;
**[[象徴天皇制]]や日本国憲法成立の過程での活躍が描かれている。&lt;br /&gt;
*[[その時歴史が動いた]] 平成18年（[[2006年]]）[[4月5日]]放送 NHK&lt;br /&gt;
**「マッカーサーを叱った男」として主にGHQとの交渉から通産省設立までを描く。&lt;br /&gt;
*[[世界超偉人伝説|たけし・さんまの世界超偉人100万人伝説]] 平成6年（[[1994年]]）[[4月1日]]放送 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]&lt;br /&gt;
**「風の男・白洲次郎伝説」として生い立ちから晩年までを紹介。スタイリッシュながらも気骨ある生き方に[[明石家さんま]]が興味を持った。&lt;br /&gt;
*[[明石家さんま特番〜白洲次郎に会いに行く]] 平成18年（2006年）[[7月19日]]放送 [[東京放送|TBS]]&lt;br /&gt;
**世界超偉人伝説で白洲に興味を持ち心酔するようになった明石家さんまが、約10年越しで実現させた番組。ゆかりの人物を武相荘に招いてのトークや、白洲の人となり等を紹介。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家系 ==&lt;br /&gt;
=== 白洲家 ===&lt;br /&gt;
白洲家は、[[摂津国]][[三田藩]]（現・兵庫県三田市を中心とした地域）の儒学者の家柄で祖父・[[白洲退蔵]]（[[文政]]12年[[7月15日]]（[[1828年]][[8月15日]]）、現・兵庫県三田市屋敷町にて出生。父は白洲文五郎（曽祖父）、母（曽祖母）は[[播磨国]][[小野藩]]（現・兵庫県[[小野市]]）一柳家の家老黒石氏の娘・里子）&amp;lt;ref&amp;gt;高田義久 著：『三田藩の進路をリードした 大参事白洲退蔵』より[http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sirasu_taizo/sirasu_taizo.html]。&amp;lt;/ref&amp;gt;は三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時[[横浜正金銀行]]の頭取も務めた。また現在の[[元町 (神戸市)|元町]]、[[三宮]]といった[[神戸港]]周辺の[[神戸市]]の都市開発や[[神戸ホーム]]（[[神戸女学院]]の前身）の創立にも尽力した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父・[[白洲文平]]は[[ハーバード大学]]卒業後、[[三井銀行]]、鐘淵紡績（カネボウ、現・[[クラシエホールディングス|クラシエ]]）を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 子孫 ===&lt;br /&gt;
* 長男（第一子）：[[白洲春正]]は元[[東宝東和]]社長&lt;br /&gt;
* 次男（第二子）：[[白洲兼正]]&lt;br /&gt;
* 長女（第三子）：[[牧山桂子|白洲（現・牧山）桂子]]は旧白洲邸・[[武相荘]]館長&lt;br /&gt;
* 孫：[[白洲信哉]]（兼正の長男、母は[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]の長女・明子）は元[[内閣総理大臣]]・[[細川護熙]]の元[[公設秘書]]でアートディレクター、エッセイスト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 次郎に愛されたブランド ==&lt;br /&gt;
* [[ポルシェ]] 自動車&lt;br /&gt;
* [[ロレックス]]・オイスター 時計&lt;br /&gt;
* [[ダンヒル]] ライター&lt;br /&gt;
* [[ベンソン]] 懐中時計&lt;br /&gt;
* [[ヘンリー・プール]] スーツ（今も次郎の型紙が保存されている）&lt;br /&gt;
* [[ターンブル・アンド・アッサー]] シャツ（オーダーメイド）&lt;br /&gt;
* [[谷シャツ商会]] シャツ&lt;br /&gt;
* [[Lock &amp;amp; Co. Hatters S.]] ロック帽子&lt;br /&gt;
* [[ブリッグ]] 傘&lt;br /&gt;
* [[ルイ・ヴィトン]] 旅行カバン（「いいものを使えば[[ホテル]]での扱いが違うよ」と娘の桂子にも、パリに留学する際に持たせている）&lt;br /&gt;
* [[オリベッティ]] タイプライター&lt;br /&gt;
* [[ヘンリー・ヒース]] シルクハット&lt;br /&gt;
* [[ヒルハウス]] 帽子&lt;br /&gt;
* [[オシュコシュ]] 旅行トランク&lt;br /&gt;
* [[イッセイ・ミヤケ]]&lt;br /&gt;
* [[エルメス]] クロコダイルのアタッシェケース&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 次郎が愛した食事処 ==&lt;br /&gt;
* [[中現長]]（特に父の文平）&lt;br /&gt;
* [[きよ田]] 鮨屋&lt;br /&gt;
* [[吉兆]] 嵐山本店&lt;br /&gt;
* 京都 祇園 板前割烹 [[千花]]&lt;br /&gt;
* 京都 祇園 茶屋 [[松八重]]&lt;br /&gt;
* [[エスポワール]] クラブ&lt;br /&gt;
* [[おそめ]] クラブ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references/&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[武相荘]]&lt;br /&gt;
* [[牧山桂子]]&lt;br /&gt;
* [[吉田茂]]&lt;br /&gt;
* [[河上徹太郎]] - 昭和20年（1945年）3月の[[東京大空襲]]（ないし5月の山手空襲）で焼け出され、5月より約2年間[[鶴川]]の白洲邸に寄宿する。&lt;br /&gt;
* [[吉田満]]（次郎は小林・河上徹太郎の依頼で、吉田の『[[戦艦大和ノ最期]]』の出版をGHQに働きかける）&lt;br /&gt;
* [[白洲正子]]&lt;br /&gt;
* [[三宅一生]]&lt;br /&gt;
* [[軽井沢ゴルフクラブ]]&lt;br /&gt;
* [[東北電力]]&lt;br /&gt;
* [[芦屋市]]&lt;br /&gt;
* [[伊丹市]]&lt;br /&gt;
* [[町田市]]&lt;br /&gt;
* [[三田市]]&lt;br /&gt;
* [[UBS]] - 旧S.G.ウォーバーグ証券。今でも受付には次郎の肖像画がウォーバーグと共に飾られている。&lt;br /&gt;
* [[神戸女学院中学部・高等学部]]&lt;br /&gt;
* [[神戸女学院大学]]&lt;br /&gt;
* [[兵庫県]]&lt;br /&gt;
* [[三田藩]]&lt;br /&gt;
* [[九鬼隆義]]&lt;br /&gt;
* [[相楽園]]&lt;br /&gt;
* [[宝塚歌劇団]]&lt;br /&gt;
* [[只見特定地域総合開発計画]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ（のち[[新潮文庫]]）、平成18年（2006年）6月      &lt;br /&gt;
* 白洲正子 『遊鬼』、『白洲正子自伝』 [[新潮社]]（のち新潮文庫） 『全集』 新潮社&lt;br /&gt;
* 青柳恵介 『風の男　白洲次郎』 新潮社、平成9年（1997年）11月 新潮文庫、平成12年（2000年）8月 &lt;br /&gt;
* KAWADE夢ムック 『文藝別冊 白洲次郎』 [[河出書房新社]]、平成14年（2002年）4月&lt;br /&gt;
* [[北康利]] 『白洲次郎　占領を背負った男』 [[講談社]]、平成15年（2005年） [[講談社文庫]]、平成20年（2008年）12月&lt;br /&gt;
* 鶴見紘 『白洲次郎の日本国憲法』 [[光文社]]知恵の森文庫、平成19年（2007年）&lt;br /&gt;
* 牧山桂子ほか 『白洲次郎の流儀』＜とんぼの本＞ 新潮社、平成16年（2004年）9月、ISBN 4106021188&lt;br /&gt;
* 白洲正子ほか 『白洲次郎』＜コロナ・ブックス67＞ [[平凡社]]、平成11年（1999年）&lt;br /&gt;
* 徳本栄一郎 『英国機密ファイルの[[昭和天皇]]』 新潮社、平成19年（2007年）5月、ISBN 410304831X &lt;br /&gt;
** 実際には本書の主人公は次郎である。&lt;br /&gt;
* 白洲信哉  『白洲次郎の青春』 [[幻冬舎]]、平成19年（2007年）、写真集&lt;br /&gt;
* 牧山桂子 『次郎と正子－娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、平成19年（2007年）4月 &lt;br /&gt;
* 牧山桂子・[[青柳恵介]]・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 新潮社、平成20年（2008年）9月    &lt;br /&gt;
* 牧山桂子・[[野中昭夫]]写真 『白洲次郎・正子の食卓』 新潮社、平成19年（2007年）1月  &lt;br /&gt;
* 石井妙子 『おそめ』 新潮社、平成18年（2006年）1月、ISBN 489691984X&lt;br /&gt;
* 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社（のち[[講談社文庫]]）、平成14年（2002年）&lt;br /&gt;
** 『白洲次郎のダンディズム　なぜ男らしくありえたのか』 [[ぶんか社]]文庫、平成20年（2008年）&lt;br /&gt;
* 清水将大編著 『白洲次郎名言集 男の品格2』 コスミック新書（コスミック出版）、平成19年（2007年）&lt;br /&gt;
* 勢古浩爾 『白洲次郎的』 [[洋泉社]]新書y124、平成16年（2004年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.buaiso.com/index.html 旧白洲邸・武相荘]&lt;br /&gt;
* [http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/saihakken33.htm 伊丹人物再発見シリーズ（4）-白洲次郎と伊丹-]&lt;br /&gt;
* [http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/saihakken34.htm 伊丹人物再発見シリーズ（5）-白洲家と伊丹-]&lt;br /&gt;
* [http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm 関連家系図]&lt;br /&gt;
* [http://kageki.hankyu.co.jp/special/reimei/index.html タカラヅカ公演『黎明の風』]&lt;br /&gt;
* [http://www.tca-pictures.net/shop/press/080303.html 『黎明の風』DVD・CD]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の外交官]]&lt;br /&gt;
[[Category:阪神間モダニズム]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:兵庫県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東北電力]]&lt;br /&gt;
[[Category:1902年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1985年没]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%8C%E5%8B%95%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E5%85%A8%E6%94%BE%E9%80%81%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88&amp;diff=42872</id>
		<title>その時歴史が動いたの全放送リスト</title>
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				<updated>2008-12-04T02:51:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''その時歴史が動いたの全放送リスト'''（そのときれきしがうごいたのぜんほうそうりすと）ではNHKの番組『[[その時歴史が動いた]]』で放送した内容のタイトルについて説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このリストではアンコール放送分は除いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==放送タイトル==&lt;br /&gt;
放送時間は2006年3月8日放送分までが水曜日21時15分～21時58分、2006年4月5日放送分からが水曜日22時～22時43分。&lt;br /&gt;
===2000年===&lt;br /&gt;
*3月29日　運命の一瞬、[[東郷平八郎|東郷]]ターン ～[[日本海海戦]]の真実～&lt;br /&gt;
*4月5日　世紀の対決 [[沢村栄治|沢村]]VS[[ベーブ・ルース]] ～日本プロ野球誕生の時～&lt;br /&gt;
*4月12日　天下分け目の[[天王山]] ～[[豊臣秀吉|秀吉]]・必勝の人心掌握術～&lt;br /&gt;
*4月19日　幕末のプリンセス・日本を救う ～皇女[[和宮親子内親王|和宮]]の悲願～&lt;br /&gt;
*4月26日　[[新撰組]]参上![[池田屋事件]]に賭けた若者たち&lt;br /&gt;
*5月10日　その日 6人がいた ～[[火縄銃|鉄砲]]伝来・偶然のドラマ～&lt;br /&gt;
*5月17日　[[織田信長]]・勝利の方程式 ～真説・[[長篠の戦い|長篠合戦]]～&lt;br /&gt;
*5月24日　[[だるま|ダルマ]]大臣・[[高橋是清]]経済危機と格闘する（[[昭和金融恐慌]]）&lt;br /&gt;
*5月31日　敵は[[本能寺の変|本能寺]]にあり ～[[明智光秀|光秀]]はなぜ主君・信長を裏切ったのか～&lt;br /&gt;
*6月7日　[[坂本龍馬]] 幕末の日本を動かす ～[[薩長同盟]]成立の時～&lt;br /&gt;
*6月14日　我輩は小説家である ～[[夏目漱石]]・[[東京大学|東大]]辞表提出の時～&lt;br /&gt;
*6月21日　[[蘇我入鹿]]（そがのいるか）暗殺事件 ～実録・[[乙巳の変|大化改新のクーデター]]～&lt;br /&gt;
*6月28日　戦火の中で[[アニメーション|アニメ]]が生まれた（[[桃太郎 海の神兵]]）&lt;br /&gt;
*7月5日　[[大坂の役|大坂の陣]]、[[豊臣氏|豊臣家]]滅亡す ～[[徳川家康]]・非情の天下取り～&lt;br /&gt;
*7月12日　[[西郷隆盛]]、明治に挑む ～[[西南戦争]]勃発の時～&lt;br /&gt;
*7月19日　[[奇兵隊]]決起せよ![[高杉晋作]]挙兵の時&lt;br /&gt;
*7月26日　[[黒船]]来航 日米交渉ここに始まる&lt;br /&gt;
*8月2日　[[ミッドウェー海戦]]の悲劇&lt;br /&gt;
*8月9日　予ノ判断ハ外レタリ ～[[ソビエト連邦|ソ連]]対日参戦の衝撃～&lt;br /&gt;
*8月23日　[[キリシタン]]禁制 ～秀吉・[[ヨーロッパ]]と対決す～&lt;br /&gt;
*8月30日　[[関東大震災]] ～知られざる日米友好～&lt;br /&gt;
*9月6日　[[前畑秀子|前畑]]ガンバレ!! ～[[ベルリンオリンピック]]の光と影～&lt;br /&gt;
*10月4日　[[関ヶ原の戦い|関ヶ原合戦]] 家康 なぞの大突撃 ～ヨーロッパ製甲冑の威力～&lt;br /&gt;
*10月11日　弟・[[源義経|義経]]を討て ～[[源頼朝]]・武家政権確立への決断～&lt;br /&gt;
*10月18日　[[津田梅子]]・[[津田塾大学|女子英学塾]]設立の時 ～女性の真の自立をめざして～&lt;br /&gt;
*10月25日　[[1929年]][[ニューヨーク|NY]]株価大暴落（[[世界恐慌]]）&lt;br /&gt;
*11月1日　[[伊能忠敬]] 56歳からの挑戦&lt;br /&gt;
*11月8日　[[桶狭間の戦い]] ～織田信長、逆転への情報戦略～&lt;br /&gt;
*11月15日　坂本龍馬暗殺事件 ～魔の一瞬が歴史を変えた～&lt;br /&gt;
*11月22日　「[[学校]]」誕生 ～初代文部大臣・[[森有礼]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*11月29日　[[将軍]][[徳川慶喜|慶喜]]・最後の決断 ～幕末を動かした[[大坂城]]脱出～&lt;br /&gt;
*12月6日　[[20世紀|二十世紀]]十大事件 ～歴史を動かした決定的瞬間～&lt;br /&gt;
*12月13日　脱盟者たちの[[忠臣蔵]] ～忠義か人情か　人生の選択の時～&lt;br /&gt;
*12月20日　サムライ・[[福澤諭吉|福沢諭吉]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]に立つ! ～[[咸臨丸]][[サンフランシスコ]]入港の時～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2001年===&lt;br /&gt;
*1月10日　男たちよ、立て! ～[[北条政子]] 演説の時～&lt;br /&gt;
*1月17日　大衆の夢を形に ～起業家・[[小林一三]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*1月24日　検証・[[桜田門外の変]] ～[[井伊直弼]]暗殺・幕末大転換の時～&lt;br /&gt;
*2月7日　6000人の命を救った外交官 ～[[杉原千畝]] [[ビザ]]大量発給決断の時～&lt;br /&gt;
*2月14日・21日　シリーズ[[二・二六事件|2・26事件]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
*2月28日　秀吉の妻・おね 関ヶ原を動かす&lt;br /&gt;
*3月7日　[[大津事件|ロシア皇太子襲撃事件]] ～近代日本をつくった裁判～&lt;br /&gt;
*3月14日・21日　もしもその時（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「古代・中世編」&lt;br /&gt;
:後編「戦国・幕末編」&lt;br /&gt;
*3月28日　妻たちは決断した&lt;br /&gt;
**3月の3回は主として2000年度に放送された内容の総集編的な作品だった&lt;br /&gt;
*4月4日　世界を制した[[ハリウッド]][[映画]] ～[[風と共に去りぬ]]公開の時～&lt;br /&gt;
*4月11日　秀吉・家康 たった一度の直接対決 ～天下取りの知恵くらべ～&lt;br /&gt;
*4月18日　[[春日局]] 徳川家康を動かす ～戦国女性・太平の世への願い～&lt;br /&gt;
*4月25日　日本を救った[[サツマイモ]] ～[[青木昆陽]]・飢きん救済に挑む～&lt;br /&gt;
*5月2日　戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]沈没 ～[[大艦巨砲主義]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*5月9日　[[昭和天皇]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]・会見の時&lt;br /&gt;
*5月16日　「[[阿吽|あうん]]」の呼吸はこうして生まれた ～[[東大寺]] 金剛力士像完成の時～&lt;br /&gt;
*5月23日　[[岡倉天心|天心]]の恋 ～東洋の美を追い続けた男～&lt;br /&gt;
*5月30日　[[徳川吉宗]]、執念の財政再建 ～米将軍・最後の決断～&lt;br /&gt;
*6月6日　[[土方歳三]]・北の大地に散る ～[[戊辰戦争]]、最後の激戦～&lt;br /&gt;
*6月13日　[[伊達政宗]]、[[百万石]]への挑戦&lt;br /&gt;
*6月20日　[[邪馬台国]]の女王・[[卑弥呼]] ～動乱の[[魏 (三国)|中国]]に使者を出す～&lt;br /&gt;
*6月27日　[[白村江の戦い|白村江]]・古代最大の対外戦争&lt;br /&gt;
*7月4日　金融恐慌・日本を揺るがす ～巨大商社、[[鈴木商店]]の挫折～&lt;br /&gt;
*7月11日　[[北条時宗]]、起死回生の決断 ～[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍壊滅の時～&lt;br /&gt;
*7月18日　モンゴル軍来襲 ～九州武士・[[竹崎季長]]の戦い～&lt;br /&gt;
*7月25日・8月1日　[[ポツダム宣言]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「米ソの攻防」 ～[[原子爆弾|原爆]]投下・[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]の決断～&lt;br /&gt;
:後編「ソ連対日参戦」～ソ連対日参戦・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の焦燥～&lt;br /&gt;
*8月22日　夏休みスペシャル・[[三国志]]英雄伝（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「奇跡の風、[[長江]]に吹く」 ～[[諸葛亮|孔明]]の知略、天下三分の計～&lt;br /&gt;
:後編「死せる孔明・中国を動かす」 ～千年の時を越える教え～&lt;br /&gt;
*8月29日　そして、人は空を飛んだ ～[[ライト兄弟]]に先がけた男・[[二宮忠八]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*9月5日　[[上杉鷹山]] ふたたびの財政改革&lt;br /&gt;
*9月19日　キリシタン女性 関ヶ原合戦を揺るがす ～[[細川ガラシャ]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*9月26日　ぼく一生の不覚 ～[[日独伊三国軍事同盟|三国同盟]]締結・[[松岡洋右]]の誤算～&lt;br /&gt;
*10月3日　走れ!AA型 ～国産自動車誕生物語～&lt;br /&gt;
*10月10日　不平等条約を改正せよ ～[[陸奥宗光]]～&lt;br /&gt;
*10月17日　日本を愛した[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]・その悲劇&lt;br /&gt;
*10月24日　人生に絶望なし ～[[ヘレン・ケラー|ヘレンケラ]]ー来日の時～&lt;br /&gt;
*10月31日　羽柴秀吉、謎の敵前退却 ～[[賤ヶ岳の戦い|賤ヶ岳合戦]]・勝利の秘策～&lt;br /&gt;
*11月7日　戦国の茶人 秀吉と戦う ～[[千利休]]切腹の悲劇～&lt;br /&gt;
*11月14日　[[前田利家]]の妻・[[芳春院|まつ]]の決断 ～加賀百万石・息子への教え～&lt;br /&gt;
*11月21日　[[満州事変]] [[関東軍]]独走す&lt;br /&gt;
*12月5日　この難を逃げ候こと 本懐にあらず ～改革者・[[大久保利通]]暗殺の悲劇～&lt;br /&gt;
*12月12日　汽笛一声・日本の産声 ～[[鉄道]]開通に賭けた若者たち～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2002年===&lt;br /&gt;
*1月9日　スペシャル『日本を動かした15人』（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
*1月16日　[[溥儀|ラストエンペラー]]最後の日 ～「[[満州国]]」と皇帝・溥儀～&lt;br /&gt;
*1月23日　役人の不正許すまじ ～[[大塩平八郎]]決起の時～&lt;br /&gt;
*1月30日　志のある者 立ち上がれ ～獄中の出会いが生んだ[[吉田松陰]]の思想～&lt;br /&gt;
*2月6日　王宮の恋・[[サラエボ事件|サラエボ]]に散る ～[[第一次世界大戦|世界大戦]]を招いた暗殺事件～&lt;br /&gt;
*2月13日　日本の夢、[[ベルサイユ]]に散る ～[[パリ講和会議]]・人種差別 廃止提案の挫折～&lt;br /&gt;
*2月20日　[[田中正造]]、足尾鉱毒事件に挑む ～環境保護運動　ここに始まる～&lt;br /&gt;
*2月27日　信長 執念の天下統一 ～大坂[[本願寺]]との十年戦争～&lt;br /&gt;
*3月6日　関ヶ原を揺るがした女性たち ～決戦の裏に秘められたドラマ～&lt;br /&gt;
*3月13日　外交の要は誠実にあり ～国際社会と闘った男たち～&lt;br /&gt;
*4月3日　賽は投げられた ～英雄[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]・ローマを変えた運命の決断～&lt;br /&gt;
*4月10日　徳川家康 [[三方ヶ原の戦い|三方原]]の大ばくち ～敗れて学ぶ 覇者の哲学～&lt;br /&gt;
*4月17日　鎧をまとった母・[[淀殿]]の悲劇 ～裏切られた平和への願い～&lt;br /&gt;
*4月24日　[[新撰組]]・[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽伏見]]に散る ～旧幕府軍大敗北の真相～&lt;br /&gt;
*5月8日・15日　[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]とその時代（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「[[独裁者]]への道」&lt;br /&gt;
:後編「幻の反ヒトラー・クーデター」&lt;br /&gt;
*5月22日　天神・[[菅原道真]] 政治改革にたおれる&lt;br /&gt;
*5月29日　肉を切らせて骨を断つ ～織田信長・捨て身の復讐戦～&lt;br /&gt;
*7月3日　平民宰相 [[原敬]]暗殺 ～くじかれた改革の夢～&lt;br /&gt;
*7月10日　[[フランス革命]] 自由よ汝の名のもとに ～[[マリー・アントワネット|マリ・アントワネット]]事件に挑む ～環境保護運動　ここに始まる～&lt;br /&gt;
*2月27日　信長 執念の天下統一 ～大坂[[本願寺]]との十年戦争～&lt;br /&gt;
*3月6日　関ヶ原を揺るがした女性たち ～決戦の裏に秘められたドラマ～&lt;br /&gt;
*3月13日　外交の要は誠実にあり ～国際社会と闘った男たち～&lt;br /&gt;
*4月3日　賽は投げられた ～英雄[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]・ローマを変えた運命の決断～&lt;br /&gt;
*4月10日　徳川家康 [[三方ヶ原の戦い|三方原]]の大ばくち ～敗れて学ぶ 覇者の哲学～&lt;br /&gt;
*4月17日　鎧をまとった母・[[淀殿]]の悲劇 ～裏切られた平和への願い～&lt;br /&gt;
*4月24日　[[新撰組]]・[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽伏見]]に散る ～旧幕府軍大敗北の真相～&lt;br /&gt;
*5月8日・15日　[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]とその時代（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「[[独裁者]]への道」&lt;br /&gt;
:後編「幻の反ヒトラー・クーデター」&lt;br /&gt;
*5月22日　天神・[[菅原道真]] 政治改革にたおれる&lt;br /&gt;
*5月29日　肉を切らせて骨を断つ ～織田信長・捨て身の復讐戦～&lt;br /&gt;
*7月3日　平民宰相 [[原敬]]暗殺 ～くじかれた改革の夢～&lt;br /&gt;
*7月10日　[[フランス革命]] 自由よ汝の名のもとに ～[[マリー・アントワネット|マリ・アントワネット]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*7月17日　[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]、皇帝への野望 ～戴冠式の一瞬に秘められた謎～&lt;br /&gt;
*7月24日　本能寺の変 ～信長暗殺!闇に消えた真犯人～&lt;br /&gt;
*7月31日　[[ガダルカナル島]]撤退 ～苦渋の決断～&lt;br /&gt;
*8月21日　特別編「戦い・その決定的瞬間」（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「勝利の時・男たちは決断した」&lt;br /&gt;
:後編「戦乱・その時 妻は、母は」&lt;br /&gt;
*8月28日　さらば淀殿 お初の決断 ～運命に立ち向かった戦国三姉妹～&lt;br /&gt;
*9月4日　日本人、[[南極]]の大地に立つ（[[白瀬矗]]）&lt;br /&gt;
*9月11日　昭和を揺るがした銃弾 ～ライオン宰相・[[浜口雄幸]]狙撃の時～&lt;br /&gt;
*9月18日　ヒトラー情報 日本を揺るがす ～「真珠湾」へのもう一つの道～&lt;br /&gt;
*9月25日　ヒトラー最後の日 ～新資料が明かす独裁者の末路～&lt;br /&gt;
*10月2日　[[与謝野晶子]]『今ぞ目覚めて』 ～情熱の歌人、女性の自立を宣言～&lt;br /&gt;
*10月9日　幕末、[[京都市|京都]]炎上 ～長州・[[久坂玄瑞]]、志に散る～&lt;br /&gt;
*10月16日　必勝の方程式、江戸を制す ～[[大村益次郎]]、彰義隊撃破の時～&lt;br /&gt;
*10月23日　関ヶ原の戦い、決死の的中突破 ～戦国の猛将 [[島津義弘]]、決断の時～&lt;br /&gt;
*10月30日　人類のために生き、人類のために死す ～未公開書簡が明かす[[野口英世]]の真実～&lt;br /&gt;
*11月6日　豊臣秀吉天下統一の必勝戦略 ～[[小田原の役|小田原攻め]]に秘策あり～&lt;br /&gt;
*11月13日　激突 [[武田信玄]]と[[上杉謙信]] ～[[川中島の戦い]]、両雄決戦の時～ &lt;br /&gt;
*11月20日　改革に散った最後の幕臣 [[小栗上野介]] ～一本のねじから日本の近代は始まった～&lt;br /&gt;
*12月4日　[[銀行]]は人々のために ～金融危機を救った[[渋沢栄一]]の決断～&lt;br /&gt;
*12月11日　忠臣蔵、父と子の決断 ～赤穂浪士討ち入りの時～&lt;br /&gt;
*12月18日　[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]] [[交響曲第9番|第九]]誕生! ～民衆に自由を呼びかけた交響曲～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2003年===&lt;br /&gt;
*1月8日　新春スペシャル「ニッポン開国」（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「なぜアメリカだったのか?」 ～[[マシュー・ペリー|ペリー]]の知られざる外交戦略～&lt;br /&gt;
:後編「通商か?亡国か?」 ～日本全権、決死の通商条約締結～&lt;br /&gt;
*1月15日　[[佐々木小次郎|小次郎]] 敗れたり ～決闘巌流島・[[宮本武蔵]]の執念～&lt;br /&gt;
*1月22日　兵法の道は人の道 宮本武蔵 ～『五輪書』完成への苦闘～&lt;br /&gt;
*1月29日　外交立国の志、いまだ死なず ～[[榎本武揚]]、箱館戦争終結の決断～&lt;br /&gt;
*2月12日　乱世を制するリーダーの条件 ～[[湊川の戦い]] [[足利尊氏]]、苦悩の決断～&lt;br /&gt;
*2月19日　夢は征夷大将軍 ～徳川家康・逆転の戦略～&lt;br /&gt;
*2月26日　緊迫の二十四時間 ～新資料が明かす二・二六事件の内幕～&lt;br /&gt;
*3月5日　独裁者ヒトラー ～破滅への軌跡～&lt;br /&gt;
*3月12日　幕末立志伝 今こそ変革の時 ～[[吉田松陰]]・久坂玄瑞・[[高杉晋作]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*4月2日　家康・天下を制した184通の書状 ～関ヶ原の合戦・知られざる情報工作～&lt;br /&gt;
*4月9日　[[真田幸村]] どん底からの挑戦 ～家康を追いつめた伝説の名将～  &lt;br /&gt;
*4月16日　ロシア女帝が涙した帰国願い ～日露交渉の扉を開いた[[大黒屋光太夫]]～&lt;br /&gt;
*4月23日　改革者か、悪徳老中か? ～[[田沼意次]]、江戸の経済改革に挑む～&lt;br /&gt;
*5月7日　幕末ニッポン・幻の遷都計画 ～江戸か大坂か?[[大久保利通]]の大改革～&lt;br /&gt;
*5月14日　[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]を襲撃せよ ～五・一五事件　首相暗殺の裏に秘められたドラマ～&lt;br /&gt;
*5月21日　我が言は、万人の声 ～太平洋戦争前夜、日本を揺るがした国会演説～（[[斉藤隆夫]]）&lt;br /&gt;
*5月29日　日出づる処の天子より ～[[聖徳太子]]、理想国家建設の夢～&lt;br /&gt;
*6月4日　信長と家康、そして同盟は幻と消えた? ～[[長篠の戦い]]、戦国を変えた両雄の決断～&lt;br /&gt;
*6月11日　[[源義経]]、大水軍を奪いとれ! ～[[壇ノ浦の戦い|壇の浦の戦い]]、奇跡の逆転劇～&lt;br /&gt;
*6月18日　新撰組誕生 ～幕末に青春をかけた男たち～&lt;br /&gt;
*6月25日　新撰組の夢、関東に散る ～江戸城明け渡しの裏で何がおきていたのか～&lt;br /&gt;
*7月2日　[[盧溝橋事件]] 運命の4日間 ～中国派兵への重大決意～&lt;br /&gt;
*7月9日　[[高杉晋作]]、50倍の敵を制する必勝戦略 ～幕末長州・奇跡の逆転劇～&lt;br /&gt;
*7月16日　海を越えた愛、日本を守る ～新史料、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]開国秘話～&lt;br /&gt;
*7月23日　占領日本・運命を決した直談判 ～[[吉田茂]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]～&lt;br /&gt;
*7月30日　スパイ・[[リヒャルト・ゾルゲ|ゾルゲ]] 最後の暗号電報 ～新資料が明かす国際スパイ事件～&lt;br /&gt;
*8月20日　夏休みスペシャル・そして日本はよみがえった ～混迷を打ち破ったヒーローたち～（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「混沌の時代を切り開いた男たち」&lt;br /&gt;
:後編「近代の日本を作った男たち」&lt;br /&gt;
*8月27日　[[板垣退助|板垣]]死すとも、自由は死せず ～日本に国会を誕生させた不朽の名言～&lt;br /&gt;
*9月3日　[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]] 世界帝国の夢 ～知られざる愛と誇りの決断～&lt;br /&gt;
*9月10日　[[ジャンヌ・ダルク]] 戦いはわが愛の証 ～裁判記録が明かす聖女の真実～&lt;br /&gt;
*9月17日　[[日野富子]] 愛と憎しみの和平工作 ～[[応仁の乱]]を終結させた将軍の妻～&lt;br /&gt;
*10月1日　秀吉に天下を取らせた男 ～[[黒田孝高|黒田官兵衛]] 戦国最強のナンバー2～&lt;br /&gt;
*10月8日・15日「[[始皇帝]]」（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「希代のカリスマ・中国に立つ」 ～[[秦]]王朝 天下統一のとき～&lt;br /&gt;
:後編「崩壊は絶頂の中から始まった」 ～秦王朝 滅亡のとき～&lt;br /&gt;
*10月22日　[[正岡子規]] 余命十年で[[日本語]]を革新した男&lt;br /&gt;
*10月29日　[[白虎隊]] 自刃への三十六時間 ～生存隊士の手記が語る悲劇の真相～&lt;br /&gt;
*11月5日・12日　古代中国・[[項籍|項羽]]と[[劉邦]]（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「天下を分けた運命の宴 [[鴻門の会]]」&lt;br /&gt;
:後編「勝利への60万人の大合唱 [[垓下の戦い|四面楚歌]]」&lt;br /&gt;
*11月19日　[[勝海舟]] 江戸城無血開城はなぜ実現したか&lt;br /&gt;
*11月19日　[[マハトマ・ガンジー|ガンジー]] 暴力の連鎖を断ち切れ!&lt;br /&gt;
*12月4日　日米開戦を回避せよ ～新史料が明かす最後の和平交渉～&lt;br /&gt;
*12月11日　忠臣蔵 お裁き始末記 ～忠義か、犯罪か?幕府がゆらいだ50日～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2004年===&lt;br /&gt;
*1月7日　新春スペシャル・「新撰組」 ～最後のサムライたち～（前・後編一挙放送）&lt;br /&gt;
:前編「立志編 剣に生きる」&lt;br /&gt;
:後編「死闘編 武士道に死す」&lt;br /&gt;
*1月14日　秘められた革命工作 ～[[孫文]]を支えた日本人～&lt;br /&gt;
*1月21日　[[平清盛]] 早すぎた革新 ～平氏政権誕生のとき～&lt;br /&gt;
*1月28日　[[明治天皇]] [[あんパン]]を食す ～リストラ武士 [[木村安兵衛]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*2月4日　そして近代ニッポン人が誕生した ～明治の文豪たちの生き方革命～&lt;br /&gt;
*2月11日　日露開戦 男たちの決断 ～明治日本 存亡をかけた戦略～&lt;br /&gt;
*2月25日　[[外様大名]]はこうして生き残った! ～家康に勝利した逆転の戦略～&lt;br /&gt;
*3月3日　大久保利通・新生日本を救う ～回避された「幻の日清戦争」～&lt;br /&gt;
*3月31日　[[さとうきび]]畑の村の戦争 ～新史料が明かす[[沖縄県|沖縄]]戦の悲劇～&lt;br /&gt;
*4月7日　新発見![[大坂城]]は超ハイテク要塞だった ～秀吉VS家康「堀」をめぐる攻防の真相～&lt;br /&gt;
*4月14日　日本の運命を背負った少年たち ～[[天正遣欧少年使節|天正遣欧使節]]・ローマ教皇謁見の時～&lt;br /&gt;
*4月21日　信長暗殺を命じた男 ～新説・本能寺の変 浮上した黒幕～&lt;br /&gt;
*4月28日　[[女優]]誕生 ～[[川上貞奴|マダム貞奴]]、「[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]」初演の時～&lt;br /&gt;
*5月5日　子供の心に歌を ～大正・[[童謡]]誕生物語～&lt;br /&gt;
*5月12日　日本[[サッカー]]・[[ベルリンオリンピック]]の奇跡 ～世界を驚かせた逆転勝利～&lt;br /&gt;
*5月19日・26日　モンゴル帝国（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「草原の覇者[[チンギス・ハーン|チンギス・カン]]」～ユーラシア統一への道～&lt;br /&gt;
:後編「[[マルコ・ポーロ]]は見た巨大国家の盛衰」 ～「[[東方見聞録]]」誕生のとき～&lt;br /&gt;
*6月2日　家康、人生最大の危機の3日間 ～大脱出!伊賀越えの先に天下が見えた～&lt;br /&gt;
*6月9日・16日　日露戦争100年（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「二〇三高地の悲劇はなぜ起きたのか」 ～新史料が明かす激戦の真相～&lt;br /&gt;
:後編「逆転の極秘電報154号」 ～知られざるポーツマス講和会議の真相～&lt;br /&gt;
*6月23日　大江戸発至急便 黒船あらわる ～幕末日本の情報ネットワーク～&lt;br /&gt;
*6月30日　もう一つの日本を創った男 ～[[平将門]] 東国独立政権の謎～&lt;br /&gt;
*7月7日　「関白」対「源氏長者」 ～家康・秀吉 「姓」をめぐる知られざる攻防～&lt;br /&gt;
*7月14日　ドキュメント[[池田屋事件]] ～[[近藤勇|近藤 勇]]・突入決断の真相～&lt;br /&gt;
*7月21日　[[世界遺産]] [[熊野]]の森を守れ ～[[南方熊楠]]・日本初の自然保護運動～&lt;br /&gt;
*7月28日　日米開戦を回避せよ ～新史料が明かす 最後の和平交渉～&lt;br /&gt;
*8月16日　奇跡の銀メダル [[人見絹江]] ～日本女子初メダル獲得の時～&lt;br /&gt;
*9月1日　武田信玄 地を拓き水を治める ～戦国時代制覇への夢～&lt;br /&gt;
*9月8日　信長と[[斎藤道三|道三]] ～改革者を生んだ非情の絆～&lt;br /&gt;
*9月15日　悲劇の英雄 ～“[[トーマス・エドワード・ロレンス|アラビアのロレンス]]”の真実～&lt;br /&gt;
*9月22日　焼け跡に[[ゾウ]]がやってきた ～海を越えた日本の子どもたちの夢～&lt;br /&gt;
*10月6日　グッドバイ ちょんまげ ～明治日本 文明開化騒動記～&lt;br /&gt;
*10月13日　列国の野望 [[シベリア]]を走る ～[[ロシア革命]]・[[ソビエト連邦|ソビエト]]成立までの混迷の5年～&lt;br /&gt;
*10月27日　実録・[[ええじゃないか]] ～幕末ニッポンを動かした民衆パワー～&lt;br /&gt;
*11月3日　義経はなぜ死んだのか ～源頼朝と奥州藤原氏の攻防～&lt;br /&gt;
*11月10日　秘録・幻の明治新政府 ～維新を変えた激動の27日間～&lt;br /&gt;
*11月17日　サムライ魂でデパートを創れ! ～近代百貨店誕生物語～&lt;br /&gt;
*11月24日　ニッポンに学べ![[タイ王国|タイ]]の”明治維新” ～「[[王様と私]]」・[[ラーマ5世|ラーマ五世]]の苦闘～ &lt;br /&gt;
*12月8日　ミステリー大化改新 ～蘇我入鹿暗殺の実像～&lt;br /&gt;
*12月15日　それからの新選組 ～土方歳三、箱館に死す～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2005年===&lt;br /&gt;
*1月5日　[[歌舞伎]]スタア誕生 [[市川團十郎 (2代目)|二代目 市川團十郎]]の挑戦&lt;br /&gt;
*1月12日　百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇&lt;br /&gt;
*1月26日　日露戦争100年 日本海海戦 ～参謀 [[秋山真之]]・知られざる苦闘～&lt;br /&gt;
*2月2日　龍馬が愛した女 ～幕末、愛と別れの物語～&lt;br /&gt;
*2月9日　[[プロ野球]]を変えた[[ホームラン]] [[天覧試合]] オーナーたちの戦い&lt;br /&gt;
*2月16日　日米攻防90日 国際軍縮を実現せよ! [[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]・全権 [[加藤友三郎]]の挑戦&lt;br /&gt;
*2月23日　我が運命は民と共に 悲劇の英雄 [[楠木正成]]の実像&lt;br /&gt;
*3月2日　[[源実朝|実朝]]暗殺 ～歌人将軍は、なぜ殺されたか?～&lt;br /&gt;
*3月9日・16日　シリーズ三国志英雄伝（前・後編2週連続　2001年の夏休みスペシャルの再構成をベースに）&lt;br /&gt;
:前編「奇跡の風・長江に吹く」 ～孔明の知略・天下三分の計～&lt;br /&gt;
:後編「死せる孔明・中国を動かす」 ～千年の時を越える教え～&lt;br /&gt;
*3月30日　恋・人生・そして小説 ～[[樋口一葉]] 女性作家誕生の時～&lt;br /&gt;
*4月6日　大帝国の野望、博多に散る ～大陸から見た蒙古襲来～&lt;br /&gt;
*4月13日　武田家滅亡の謎 ～戦国最強軍団はなぜ滅びたのか～&lt;br /&gt;
*4月20日・27日　源義経 栄光と悲劇の旅路（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「第1回 西へ 戦いの彼方に」&lt;br /&gt;
:後編「第2回 北へ 流浪の果てに」&lt;br /&gt;
*5月11日　にっぽん[[郵便]]創業物語 ～[[前島密]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*5月18日　戦国をひらいた男 ～[[北条早雲]] 56才からの挑戦～&lt;br /&gt;
*5月25日　傷ついた戦場の兵士を救え ～[[佐野常民]] 日本初の国際人道支援～&lt;br /&gt;
*6月1日　民を救った義士たちの物語 ～宝暦の治水・[[薩摩藩]]士の苦闘～&lt;br /&gt;
*6月8日　[[横山エンタツ|エンタツ]]・[[花菱アチャコ|アチャコ]]の[[漫才]]革命 ～あんじょうわろうてや!～&lt;br /&gt;
*6月15日　幕末・運命の愛 ～時代を創った男と女の物語～&lt;br /&gt;
*6月22日　さらばサムライ ～[[西郷隆盛]] 徴兵制の決断～&lt;br /&gt;
*6月29日　さらばサムライ ～[[西南戦争]]・田原坂の真実～&lt;br /&gt;
*7月6日　プロ野球を作った男たち ～昭和10年 アメリカ遠征記～&lt;br /&gt;
*7月13日　実録・[[大岡忠相|大岡越前]] ～火事と闘った知られざる素顔～&lt;br /&gt;
*7月20日　信長の巨大鉄船、戦国の海を制す ～織田水軍 VS 村上水軍、決戦大坂湾～&lt;br /&gt;
*7月27日・8月3日　シリーズ終戦60年（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「戦艦大和の悲劇」 ～大艦巨砲主義、時代に敗れる～&lt;br /&gt;
:後編「ソ連参戦の衝撃」 ～満蒙開拓民はなぜ取り残された～&lt;br /&gt;
*8月24日　日露衝突を回避せよ ～[[高田屋嘉兵衛]] 決死の交渉劇～&lt;br /&gt;
*8月31日　家康が最も恐れた男 ～敗者 [[石田三成]]の関ヶ原～&lt;br /&gt;
*9月14日　[[二宮尊徳|二宮金次郎]] 天保の大飢饉を救う&lt;br /&gt;
*9月21日　戦国 出世の方程式 [[藤堂高虎]] 大阪夏の陣の大勝負&lt;br /&gt;
*10月12日　幕末・土佐勤皇党 不滅の志 ～若者たちは変革に命を賭けた～&lt;br /&gt;
*10月19日　誰がための仏教か ～[[鑑真]]和上の宗教改革～&lt;br /&gt;
*11月9日　鎖国の扉を開け ～[[ジョン万次郎]] 漂流民の挑戦～&lt;br /&gt;
*11月16日　秘められたメディア戦略 ～[[児玉源太郎]] 日露戦争のシナリオ～&lt;br /&gt;
*11月30日・12月7日　シリーズ[[真珠湾攻撃|真珠湾]]への道（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「[[山本五十六]] 苦渋の作戦立案」&lt;br /&gt;
:後編「山本五十六 運命の作戦決行」&lt;br /&gt;
*12月14日　歴史の選択　赤穂浪士 ～討ち入り組VS討ち入り不参加組～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2006年===&lt;br /&gt;
*1月11日　人間ドラマ誕生 ～[[近松門左衛門]] [[曽根崎心中]]～&lt;br /&gt;
*1月18日　古代の文明開化 ～1号寺院・[[飛鳥寺]]建立の戦略～&lt;br /&gt;
*2月1日　[[新聞]]誕生 ～幕末・[[浜田彦蔵|ジョセフ彦]]の挑戦～&lt;br /&gt;
*2月8日　[[壬申の乱]] ～[[天武天皇]]誕生の秘密～&lt;br /&gt;
*2月15日　戦国の花嫁 ～[[山内一豊]]の妻・[[見性院|千代]]～&lt;br /&gt;
*2月22日　[[伝染病]]から日本を守れ ～細菌学者 [[北里柴三郎]]の闘い～&lt;br /&gt;
*3月1日　さらば殿様 ～[[廃藩置県]] 激動の内幕～&lt;br /&gt;
*3月8日　[[零式艦上戦闘機|ゼロ戦]]・設計者が見た悲劇 ～[[マリアナ沖海戦]]への道～ （ここまでが水曜日21:15放送）&lt;br /&gt;
*4月5日　マッカーサーを叱った男 ～[[白洲次郎]]・戦後復興への挑戦～ （ここからが水曜日22:00放送）&lt;br /&gt;
*4月12日　[[大奥]] 悲しみの果てに ～[[徳川家宣]]正室 天英院 [[近衛熙子|煕子]]の生涯～&lt;br /&gt;
*4月19日　それでも地球は動いた ～[[ガリレオ・ガリレイ]]の栄光と挫折～&lt;br /&gt;
*4月26日　歴史の選択　本能寺の変 織田信長 VS 明智光秀 ～激突!改革か安定か～&lt;br /&gt;
*5月17日　響け 希望の歌声 ～戦後初の流行歌「リンゴの唄」～&lt;br /&gt;
*5月24日　帝と民の巨大プロジェクト ～東大寺大仏 [[聖武天皇]]の挑戦～   &lt;br /&gt;
*5月31日　これは正義の戦いか ～ジャーナリストたちの[[ベトナム戦争]]～&lt;br /&gt;
*6月21日　幻の大艦隊 ～[[イギリス]]から見た[[薩英戦争]]～&lt;br /&gt;
*7月5日　勝負師は志高く ～碁聖・[[本因坊秀策]]の無敗伝説～&lt;br /&gt;
*7月12日　生まれ来る命 そして母のために ～[[荻野久作]]の受胎期の発見～&lt;br /&gt;
*7月26日　歴史の選択　川中島の戦い 引き分けの謎&lt;br /&gt;
*8月2日　焼け跡から生まれたチャンピオン ～ボクシング [[白井義男]]と[[アルビン・R・カーン|カーン]]～&lt;br /&gt;
*8月23日　幻のハワイ・日本同盟計画&lt;br /&gt;
*8月30日・9月6日　シリーズ 日本独立 その光と影（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「吉田茂と[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]] 前編」&lt;br /&gt;
:後編「吉田茂とサンフランシスコ講和条約 後編」&lt;br /&gt;
*9月13日・20日　「シリーズ・秀吉の[[家族]]」（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「もう一人の秀吉 ～[[豊臣秀長]] [[太閤記]]を演出した弟～」&lt;br /&gt;
:後編「戦国の母 関ヶ原を決す ～[[高台院|おね]]・豊臣政権生き残りへの道～」&lt;br /&gt;
*10月4日　戦火をこえた青春の白球 ～[[学徒出陣]]前 最後の[[早慶戦]]～&lt;br /&gt;
*10月11日　神は我を救い給（たま）うか ～キリシタン 細川ガラシャの生涯～&lt;br /&gt;
*10月18日　格差の怒り 政府を倒す ～[[大正デモクラシー]]を生んだ[[米騒動]]～&lt;br /&gt;
*11月1日　歴史の選択　坂本龍馬暗殺 黒幕は誰か?&lt;br /&gt;
*11月8日　日本を発見した日本人 ～[[柳田國男|柳田国男]]・「[[遠野物語]]」誕生～&lt;br /&gt;
*11月22日　我が手に郷土を ～[[真田昌幸]]・[[信濃国|信州]][[上田市|上田]]の市民戦争～&lt;br /&gt;
*11月29日　ひらがな革命 ～[[国風文化]]を生んだ[[古今和歌集]]～&lt;br /&gt;
*12月20日　母の灯火（ともしび） 小さき者を照らして ～[[石井筆子]]・[[知的障害]]児教育の道～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2007年===&lt;br /&gt;
*1月10日　戦国の剣豪、太平を築く ～[[柳生宗矩]]・「活人剣（かつにんけん）」の真実～&lt;br /&gt;
*1月24日　それでも民は祈り続けた ～[[島原の乱]]・[[キリシタン]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*1月31日　[[東京オリンピック]]への道 ～平和の[[聖火]] アジア横断リレー～&lt;br /&gt;
*2月7日　完成・戦国最強軍団 ～武田信玄・苦悩の生涯～&lt;br /&gt;
*2月14日　中国と国交を回復せよ ～[[足利義満]]の日明外交～&lt;br /&gt;
*2月21日　鉄は国家なり ～技術立国 日本のあけぼの～&lt;br /&gt;
*2月28日　天下は我が掌中にあり ～黒田如水・もうひとつの関ヶ原～&lt;br /&gt;
*3月7日　苦しむ患者を救いたい ～[[イタイイタイ病]]裁判・弁護士たちの闘い～&lt;br /&gt;
*3月14日　歴史の選択　[[邪馬台国]]はどこか ～[[近畿地方|近畿]]説VS[[九州地方|九州]]説～&lt;br /&gt;
*3月28日　その時歴史が動いたスペシャル もう一度聞きたい あの人の言葉（22:59まで拡大）&lt;br /&gt;
*4月4日　謙信恐るべし&lt;br /&gt;
*4月11日　[[所得倍増計画]]の夢を追え ～[[高度経済成長]]の軌跡～&lt;br /&gt;
*4月18日　海の関ヶ原 ～[[村上武吉]]・水軍に賭けた夢～&lt;br /&gt;
*4月25日　[[大奥]] 華（はな）にも意地あり ～江戸城無血開城・[[天璋院]]篤姫～&lt;br /&gt;
**[[岩崎ひろみ]]が天璋院役、[[吉井怜]]が和宮役で出演&lt;br /&gt;
*5月2日　[[憲法]]施行60年 特集　[[日本国憲法第9条|憲法九条]] 平和への闘争 ～1950年代 [[改憲]]・[[護憲]]論～（22:30～23:29）&lt;br /&gt;
*5月9日　源頼朝 魔法の大逆転 ～[[富士川の戦い]]～&lt;br /&gt;
*5月16日　日本ミステリー誕生 ～[[江戸川乱歩]]・大衆文化との格闘～&lt;br /&gt;
*5月23日　悲しき女帝 許されざる恋 ～[[宇佐八幡宮神託事件|道鏡事件]]の真相～&lt;br /&gt;
*6月6日　[[メキシコシティオリンピック|メキシコ五輪]] 奇跡の銅メダル ～日本サッカー・勝つための組織作り～&lt;br /&gt;
*6月13日　ニッポン外交力誕生 ～[[伊藤博文]]・[[神戸事件]]解決～&lt;br /&gt;
*6月20日　乱世に祈りを ～[[蓮如]]（れんにょ）・理想郷の建設～&lt;br /&gt;
*7月4日　[[冷戦]]の壁を破ろうとした男 ～[[石橋湛山]]・世界平和への願い～&lt;br /&gt;
*7月11日　天才信長をつくった男 ～[[今川義元]] 真説・桶狭間の戦い～&lt;br /&gt;
*8月1日　忘れられた島の闘い ～[[沖縄返還]]への軌跡～&lt;br /&gt;
*9月5日　引き裂かれた村 ～日米戦の舞台・[[フィリピン]]～&lt;br /&gt;
*9月12日　外交の信念 時流に散る ～宰相・[[広田弘毅|廣田弘毅]]の闘い～&lt;br /&gt;
*9月19日　赤ちゃんを死なせない ～[[乳幼児死亡率|乳児死亡率]]ゼロ・ある村の記録～&lt;br /&gt;
*9月26日　[[日中国交正常化]]&lt;br /&gt;
*10月3日　特別企画 歴史ドキュメント01（ゼロワン）　[[食通|グルメ]]誕生 ～[[北大路魯山人]]と器～&lt;br /&gt;
*10月10日　賤（しず）ヶ岳に散った夢 ～猛将・[[柴田勝家]]の悲劇～&lt;br /&gt;
*10月17日　義に死すとも不義に生きず ～[[会津戦争]] [[松平容保]] 悲運の決断～&lt;br /&gt;
*10月24日　[[銀]]を制する者は天下を制す ～[[毛利氏|毛利一族]]の戦い～&lt;br /&gt;
*10月31日　[[奇兵隊]] ～幕末に命を賭けた若き庶民たち～&lt;br /&gt;
*11月14日　[[国際連合]]加盟 ～[[重光葵]] 日本から世界へのメッセージ～&lt;br /&gt;
*11月21日　[[継体天皇]] [[ヤマト王権|ヤマト]]を救う&lt;br /&gt;
*11月28日　[[緒方洪庵]]・[[天然痘]]との闘い&lt;br /&gt;
*12月5日　[[戦後]][[引揚者|引き揚げ]] 660万人故郷への道&lt;br /&gt;
*12月12日　天下に旗をあげよ ～伊達政宗・ヨーロッパに賭けた夢～&lt;br /&gt;
*12月19日　[[対馬府中藩|対馬藩]]・決死の国書すり替え ～[[朝鮮通信使]]秘話～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2008年===&lt;br /&gt;
*1月23日　都会の地下に夢をもとめて ～[[地下鉄]]の父・[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]～&lt;br /&gt;
*1月30日・2月6日　シリーズ[[江戸時代]]の危機（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「[[富士山]][[宝永大噴火|大噴火]] ～幕府・復興への闘い～」&lt;br /&gt;
:後編「[[天明の大飢饉|天明の飢饉]]（ききん）江戸を脅（おびや）かす ～鬼平・[[長谷川宣以|長谷川平蔵]]の無宿人対策～」&lt;br /&gt;
*2月13日・20日　シリーズ秀吉の猛将（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「戦国の風雲児 法の世に散る ～[[福島正則]] 広島改易事件～」&lt;br /&gt;
:後編「豊臣家存続の秘策 ～[[加藤清正]] [[二条城]]会見～」&lt;br /&gt;
*2月27日　軍服を脱いだジャーナリスト ～[[水野廣徳|水野広徳]]が残したメッセージ～&lt;br /&gt;
*3月5日　「自立」を賭けた戦い ～[[河井継之助]]・もう一つの戊辰戦争～&lt;br /&gt;
*3月12日　戦国[[後北条氏|北条]] 百年王国の夢&lt;br /&gt;
*3月19日　平安王朝 華麗なる一族 ～[[藤原道長]]の実像～&lt;br /&gt;
*4月2日　[[徳川四天王]]に学べ! ～組織のためにいかに生きるか～&lt;br /&gt;
*4月9日　音楽の[[市民革命]] ～[[神童]][[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の苦悩～&lt;br /&gt;
*4月16日　人間は尊敬すべきものだ ～[[全国水平社]]・[[差別]]との闘い～&lt;br /&gt;
*4月23日　「[[古事記]]」誕生 ～日本最古の[[歴史書|史書]]の謎～&lt;br /&gt;
*4月30日　特別企画 歴史ドキュメント01（ゼロワン）　徳川家康 「江戸」建設に挑む&lt;br /&gt;
*5月14日　日本人の心を守れ ～[[岡倉天心]]・[[廃仏毀釈]]からの復興～&lt;br /&gt;
*5月21日　興亡 北の黄金王国 ～[[奥州藤原氏]] vs [[源氏]]～&lt;br /&gt;
*5月28日　養殖[[真珠]] 宝石界に革命を起こす ～女性を輝かせた男・[[御木本幸吉]]～&lt;br /&gt;
*6月4日　人を衛（まも）る都市をめざして ～[[後藤新平]]・帝都復興の時～&lt;br /&gt;
*6月11日　[[北方探検]] 異境の大地を踏破せよ ～[[間宮林蔵]]・執念の旅路～&lt;br /&gt;
*6月18日　[[移民]]は共存共栄の事業なり ～[[ブラジル]]移民100年～&lt;br /&gt;
*6月25日　戦国の「[[ゲルニカ]]」 ～[[大坂の役|大坂夏の陣]]、惨劇はなぜ起きたのか～&lt;br /&gt;
*7月9日　古池や蛙飛こむ水のおと ～[[松尾芭蕉]] 人生を映した[[俳句|17文字]]～&lt;br /&gt;
*7月16日　[[応仁の乱]]、天下を滅ぼす ～終わりなき“戦いの連鎖”～&lt;br /&gt;
*7月23日　枠内特集 歴史秘話ヒストリア　幕末 殿様たちの恋・夢・涙&lt;br /&gt;
*8月27日　模擬原爆[[パンプキン爆弾|パンプキン]] ～秘められた原爆投下訓練～&lt;br /&gt;
*9月3日・10日　シリーズ日本降伏（前・後編2週連続）&lt;br /&gt;
:前編「焦土に[[玉音放送|玉音]]が響いた ～8月15日・終戦決定までの道程～」&lt;br /&gt;
:後編「帝国最大屈辱ノ日ナリ ～9月2日・[[降伏文書]]調印～」&lt;br /&gt;
*9月17日　名君の改革に異議あり! ～[[徳川宗春]] 華麗なる反乱～&lt;br /&gt;
*9月24日　奇跡の大逆転!神様、仏様、稲尾様 ～[[稲尾和久]] 奮闘の日々～&lt;br /&gt;
*10月1日　怒れる民よ、信長を討て! ～[[浅井長政]] 逆襲の京都包囲作戦～&lt;br /&gt;
*10月8日　三国志クライマックス! ～激動の英雄たち 3つの「その時」～&lt;br /&gt;
*10月15日　神々のうた 大地にふたたび ～[[アイヌ]]少女・[[知里幸恵]]の闘い～&lt;br /&gt;
*10月29日　「[[源氏物語]]」誕生 ～なぜ[[紫式部]]は屈指の傑作を書けたのか～&lt;br /&gt;
*11月12日　[[I Have a Dream]] ～[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]のアメリカ市民革命～&lt;br /&gt;
*11月19日　幕末最後の60日!新政府誕生への道 ～[[小松清廉|小松]]・大久保・西郷、奔走す～&lt;br /&gt;
*12月3日　戦国の十字軍 ～キリシタン大名・[[大友義鎮|大友宗麟]]の「聖戦」～&lt;br /&gt;
*12月10日　一人、そしてまた一人 ～[[マザー・テレサ]] 平和に捧げた生涯～&lt;br /&gt;
*12月17日　[[平安京]]誕生 ～千年の都に秘められた苦闘～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本放送協会テレビ番組|そのときれきしかうこいたのせんほうそうりすと]]&lt;br /&gt;
[[Category:教養番組|そのときれきしかうこいたのせんほうそうりすと]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドキュメンタリー番組|そのときれきしかうこいたのせんほうそうりすと]]&lt;br /&gt;
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		<title>大友義鎮</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{武士&lt;br /&gt;
|開始=大友義鎮／大友宗麟&lt;br /&gt;
|肖像=[[画像:OtomoSorin.jpg|center|210px|大友宗麟像（大分県大分市）]]&lt;br /&gt;
|時代=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]&lt;br /&gt;
|生誕=[[享禄]]3年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]（[[1530年]][[1月31日]]）&lt;br /&gt;
|死没=[[天正]]15年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]（[[1587年]][[6月11日]]）&lt;br /&gt;
|改名=塩法師丸（幼名）、義鎮、休庵宗麟&lt;br /&gt;
|別名=五郎、新太郎（通称）&lt;br /&gt;
|諡号=宗麟、宗滴、休庵、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎&lt;br /&gt;
|戒名=瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士&lt;br /&gt;
|霊名=ドン・フランシスコ（普蘭師司怙）&lt;br /&gt;
|墓所=[[大分県]][[津久見市]]津久見。[[京都市]]北区[[瑞峯院]]&amp;lt;br /&amp;gt;位牌は[[津久見市]]上宮本町の響流山長泉寺&lt;br /&gt;
|官位=[[正四位下]]、[[左衛門督]]&lt;br /&gt;
|幕府=[[室町幕府]][[豊後]]・[[豊前]]・[[肥前]]・[[肥後]]・[[筑前]]・[[筑後国|筑後]][[守護]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[九州探題]]}&lt;br /&gt;
|主君=[[豊臣秀吉]]&lt;br /&gt;
|氏族=[[大友氏]]（[[藤原氏]]）&lt;br /&gt;
|父母=父：[[大友義鑑]]、母：[[大内義興]]の娘&lt;br /&gt;
|兄弟='''義鎮（宗麟）'''、[[大内義長]]（晴英）、塩市丸、[[大友親貞|親貞]]&lt;br /&gt;
|妻=正室：'''[[一色義孝]]の娘'''&amp;lt;br /&amp;gt;継室：'''[[奈多鑑基]]の娘（[[奈多夫人]]）'''&amp;lt;br /&amp;gt; 側室：&amp;lt;!--[[吉弘鑑理]]の娘・[[大友ジュスタ]]&amp;lt;br /&amp;gt; --&amp;gt;[[一萬田親実]]の娘（一萬田夫人）&lt;br /&gt;
|子='''[[大友義統|義統]]'''、[[大友親家|親家]]、[[大友親盛|親盛]]&amp;lt;br /&amp;gt;娘（[[一条兼定]]室のち[[清田鎮忠]]室）、娘（[[久我三休]]室）&amp;lt;br /&amp;gt;娘（[[臼杵統尚]]室）、娘（[[毛利秀包|小早川秀包]]室）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[画像:Otomo-Sorin_statue_Tsukumi.jpg|thumb|right|210px|大友宗麟公像（大分県津久見市）]]&lt;br /&gt;
'''大友 義鎮'''／'''大友 宗麟'''（おおとも よししげ／おおとも そうりん）は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]である。[[豊後国|豊後]]の[[戦国大名]]、[[キリシタン大名]]。[[大友氏]]第21代当主。'''宗麟'''の[[法号]]で知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
大友氏は[[鎌倉時代]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて[[少弐氏]]・[[島津氏]]とともに幕府[[御家人]]衆の束ね役として権勢を振るい、[[室町時代]]に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土豪・守護大名に加え大内氏や[[毛利氏]]の勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定したのが、大友宗麟である。父は大友家第20代当主・[[大友義鑑]]。母は[[大内義興]]の娘といわれているが[[周防国|周防]][[大内氏]]の[[家督]]を継いだ[[大内義長]]とは異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母ではないかとする説がある。一説に生母は[[阿蘇惟憲]]の娘。弟に大内義長、[[大友塩市丸]]、[[大友親貞]]など（親貞に関しては甥ともいわれる）。子に[[大友義統]]（吉統）、[[大友親家]]、[[大友親盛]]など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初は[[禅宗]]に帰依していたが後に[[キリスト教]]への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。キリシタン大名としても有名だが一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名であった。しかし「キリシタン王国」建設間近で[[島津義久]]に敗れ、晩年には[[豊臣秀吉]]の傘下の一大名に甘んじて豊後1国を維持するのがやっとというほどまでに衰退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 家督相続 ===&lt;br /&gt;
享禄3年1月3日（1530年1月31日）、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として[[豊後国|豊後]]府内に生まれる。守役は重臣[[入田親誠]]が務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、守役の親実と共に義鎮の廃嫡を企んだ。[[天文 (元号)|天文]]19年（[[1550年]]）2月に義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派を粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]（[[2月26日]]）に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]（[[2月28日]]）に死去するという政変（[[二階崩れの変]]）が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第21代当主となった。同時に入田親誠ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 勢力拡大 ===&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）に周防の[[大内義隆]]が家臣の[[陶晴賢|陶隆房]]（[[陶晴賢]]）の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英（大内義長）を大内家の新当主として送り込んだ。これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を討つと共に北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・[[長門国|長門]]方面にも影響力を確保した。特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また復権を目論む叔父の[[菊池義武]]の反乱をしりぞけ、天文23年（[[1554年]]）には[[菊池氏]]を滅亡させて肥後の勢力も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮が[[キリスト教]]に関心を示して[[フランシスコ・ザビエル]]ら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したためこれが大友家臣団の宗教対立に結びついて天文22年（[[1553年]]）に[[一萬田鑑相]]、弘治2年（[[1556年]]）には[[小原鑑元]]が謀反を起こすなど（[[姓氏対立事件]]）義鎮の治世は当初から苦慮したものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに[[弘治 (日本)|弘治]]3年（[[1557年]]）、義長が[[毛利元就]]に攻め込まれて自害し[[大内氏]]が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。毛利元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、元就と内通した筑前の[[秋月文種]]を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。[[永禄]]2年（[[1559年]]）には室町幕府第13代将軍・[[足利義輝]]に多大な献金運動をして、同年6月には[[豊前国]]・[[筑前国]]の[[守護]]に任ぜられ同年11月には[[九州探題]]に補任された。永禄3年（[[1560年]]）には、左衛門督に任官する（これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では[[畠山氏]]以外には任官されていなかった高官である。この事から足利将軍家に多大な献金を行っていた事と、その信頼を受けていた事が察する事ができる）。このように義鎮は名実共に九州に置ける最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出したのである。永禄5年（[[1562年]]）、出家し'''休庵宗麟'''と号す。その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年（[[1563年]]）には足利義輝の[[相伴衆]]に任ぜられ後に毛利氏との和睦交渉などにも将軍家の調停を依頼するなど関係は密であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 敗戦 ===&lt;br /&gt;
毛利氏は山陰の[[尼子氏]]を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになる。永禄10年（[[1567年]]）、豊前や筑前方面で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の[[高橋鑑種]]も加わるという事態になったが、義鎮は[[立花道雪]]らに命じてこれを平定させた。また、この毛利氏との戦闘の中で義鎮は[[宣教師]]に鉄砲に用いる火薬の原料である[[硝石]]の輸入を要請し、その理由として自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないようにとの手紙を出している。永禄12年（[[1569年]]）、肥前で勢力を拡大する[[龍造寺隆信]]を討伐するため自ら軍勢を率いて肥前に侵攻するが元就が筑前に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして重臣の[[吉岡長増]]の進言を受けて大内氏の残党である[[大内輝弘]]に水軍衆の[[若林鎮興]]を付け周防に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、毛利元就を[[安芸国|安芸]]に撤退へと追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）、再度肥前に侵攻するが[[今山の戦い]]で龍造寺隆信に弟の親貞を討たれるという大敗を喫し、隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなった。その後も筑後や肥前の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）、[[家督]]を長男の[[大友義統]]に譲って[[丹生島城]]へ[[隠居]]する。このときから義統と二元政治を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）、[[薩摩国|薩摩]]の[[島津義久]]が[[日向国|日向]]侵攻を開始すると、義鎮も大軍を率いて出陣した（これに関しては以下後述）。しかし天正6年（[[1578年]]）に[[耳川の戦い]]で島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。さらに天正7年（[[1579年]]）頃からは、[[蒲池氏]]・[[草野氏]]・[[黒木氏]]などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師の[[フランシスコ・カブラル]]から[[洗礼]]を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 衰退から最期へ ===&lt;br /&gt;
耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、[[秋月種実]]らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。天正12年（[[1584年]]）に[[沖田畷の戦い]]で隆信が島津軍に敗死すると立花道雪に命じて[[筑後国]]侵攻を行い、筑後国の大半を奪回したものの天正13年（[[1585年]]）に道雪が病死してしまい、これを好機と見た義久の北上が始まることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため天正14年（[[1586年]]）、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に[[大坂城]]で謁見して支援を要請する。しかし義久はその後も大友領へ侵攻し、天正14年（1586年）12月には[[島津家久]]軍が[[戸次川の戦い]]で大友方を破って本拠地である豊後国府内を占領してしまった。このとき、丹生島城に籠城していた宗麟は大砲・[[国崩し]]を使って丹生島城を死守し戦国大名としての意地を見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正15年（1587年）、秀吉は自ら兵を率いて[[九州征伐]]に出陣し各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、義久の降伏直前に[[豊後国]]津久見で病死した。58歳。死因は[[チフス]]が有力とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
九州征伐後、秀吉の命令で大友義統には豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向の地を与えようとしていたが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓は[[大分県]][[津久見市]]内と[[京都市]]北区の龍寶山[[大徳寺]]の塔頭寺院である[[瑞峯院]]にある。さらに[[津久見市]]上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。その後、墓は荒廃したが[[寛政]]年間（[[1789年|1789]]～[[1801年]]）に宗麟の家臣の末裔である[[臼杵城豊]]が自費で改葬した。津久見市内の現在の墓所は[[昭和]]52年（[[1977年]]）に当時の大分市長・[[上田保]]によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*[[キリシタン大名]]としても知られる義鎮だが、天文20年（[[1551年]]）に豊後へ布教のためにやってきた[[イエズス会]][[宣教師]]・[[フランシスコ・ザビエル]]の知己を得たことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年（[[1578年]]）7月に[[キリスト教]]の[[洗礼]]を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、[[南蛮貿易]]を行う。また[[博多]]商人の[[島井宗室]]や[[神谷宗湛]]らと交友し、[[日明貿易]]や[[日朝貿易]]も行った（しかし実際に明国や朝鮮などとの貿易で利益をもたらしていたのは[[15世紀]]後半辺りまでで、[[三浦の乱]]を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上大友氏の看板を利用した[[対馬]]の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。また輸入品の多くは食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく、多くは所謂「奢侈品」であったとされ、それ程実質的な利益は上げていなかったと[[外山幹夫]]氏の著作などで指摘されている。むしろ義鎮時代は有力家臣へ恩賞として与える領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに杏葉紋（大友氏の使用した家紋）の使用権を与えるなどの形で代用するなど経済状況は決して良くはなかった）。当初は貿易目的のためにキリシタンを保護していたが次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、遂には入信しムシカ（理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近）の建国を夢見て耳川の合戦を引き起こすことになる。&lt;br /&gt;
*他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており家臣の妻（[[一萬田親実]]の妻）を略奪したり、キリスト教をめぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。政務を拒否し遊び惚けた宗麟を[[立花道雪]]が戒めたという逸話も残っている。&lt;br /&gt;
*天正10年（[[1582年]]）に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した[[天正遣欧少年使節]]では、[[伊東マンショ]]を名代として派遣している（ただし、この件を義鎮本人が関知していなかった可能性が高いという説もある。詳しくは伊東マンショの項を参照）。&lt;br /&gt;
*「欲の無い武将」と称されるが、これは晩年の宗麟が求めていたものが領土よりも自身の生命のゆとりや安らぎであったことからである（前述のとおり、前半生の宗麟は領土拡大に積極的だった）。&lt;br /&gt;
*宗麟は今山・耳川の戦いで敗北していることから戦略家としては二流と見られている。しかし政略においては、元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せている。すでに有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出すことで守護職・九州探題職を得て九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年（[[1581年]]）には当時の天下人・[[織田信長]]と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕は特に秀でていた。&lt;br /&gt;
*耳川の戦いは、宗麟主導のもとでキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争とされることが多い。しかし天正5年（[[1577年]]）から天正6年（1578年）にかけて宗麟は領国経営の文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が家臣団の要請を受けて出馬していることから、耳川の戦いは宗麟ではなく義統主導によるものだったのではないかとされている。また、宗麟の姻戚であった総大将・[[田原親賢]]が[[臼杵鑑速]]などの重臣達の反発を招いたという説もある。親賢はキリスト教を嫌悪しており、信徒や宣教師の支援が得られなかったことが原因という説もある。&lt;br /&gt;
*キリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。しかしキリシタンになったことが大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人の蜂起という形で表れることとなったのは皮肉である。また宗麟はかなりキリスト教を厚く信仰していたため、神社仏閣を徹底的に破壊したり金曜日・土曜日は[[断食]]をする、それまで家に伝わっていた[[だるま]]をも破壊するなどという行為も行なっている。&lt;br /&gt;
*後半生はキリスト教に傾倒し寺社仏閣を破壊したという逸話が知られているがこれは[[日向国]]侵攻においてキリスト教国建設を夢見たとされる義鎮が日向国内限定で行った行為であり、本拠である豊後国内で義鎮が寺社仏閣を破壊したという資料は見当たらない。しかし、次期当主であった義統は筑後国や豊後国内などで積極的に寺社の破壊を行っている。これは宗教的な問題からというよりも、大友家の勢力が衰退する中で寺社勢力が非協力的になった為と家臣に所領として与える土地がなくなった為、寺社領を取り上げて家臣に与えるという政治的理由の方が大きかったとされる。いずれにせよ、義鎮が積極的に寺社破壊を命じたのは一時的に日向北部を支配した時期だけである。&lt;br /&gt;
*かなりの好色家であったようでわざわざ[[京都]]に赴いて美女を探し、目星をつけると見境無く略奪婚のようなことを繰り返したとされる。最初の正室・一色夫人とは家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。継室の[[奈多夫人]]は[[八幡奈多宮]]大宮司の家系であり、宗麟がキリスト教を信仰するようになったため離婚している。&lt;br /&gt;
*日本で初めて大砲（当時は国崩し）を使ったのは、宗麟であったとされる。&lt;br /&gt;
*文化人としても活動が活発で[[書画]]・[[茶道]]・[[能]]・[[蹴鞠]]などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。特に蹴鞠には通じていたようで幼児より[[飛鳥井雅綱]]を師範とし伝授を受けており、息子の義統にも習わせている。時の将軍・義輝も義鎮の蹴鞠好きを知り、蹴鞠の際に着用する専用の衣服などを送っている。また、このような多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を多数購入、収集している。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残る程であった。&lt;br /&gt;
*発給文書が非常に多い人物としても知られる。現存する書状だけでも1000通を越えており、家臣団の統率や中央政権との繋がり、果ては諸外国との通信など義鎮が非常に外交に長けた人物であった裏づけでもある。&lt;br /&gt;
*[[楢柴肩衝]]、[[初花肩衝]]と一緒に天下三肩衝といわれる[[新田肩衝]]を所有する文化人でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家系 ==&lt;br /&gt;
*父：大友義鑑&lt;br /&gt;
*母：大内義興の娘（異説として公家の娘、家臣の娘）&lt;br /&gt;
*兄弟&lt;br /&gt;
**女（[[一条房冬]]室）&lt;br /&gt;
**女（[[河野通宣]]室）&lt;br /&gt;
**義鎮&lt;br /&gt;
**晴英（[[大内義長]]）&lt;br /&gt;
**親貞&lt;br /&gt;
**塩市丸&lt;br /&gt;
*子&lt;br /&gt;
**義統（吉統）&lt;br /&gt;
**娘（[[一条兼定]]室のち[[清田鎮忠]]室）&lt;br /&gt;
**娘（久我三休室）&lt;br /&gt;
**親家&lt;br /&gt;
**娘（[[臼杵統尚]]室）&lt;br /&gt;
**娘（[[毛利秀包|小早川秀包]]室）&lt;br /&gt;
**親盛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大友宗麟関連の作品 ==&lt;br /&gt;
*小説&lt;br /&gt;
**[[外山幹夫]]『大友宗麟』（昭和50年（[[1975年]]）、吉川弘文館、ISBN 978-4642051392）&lt;br /&gt;
**[[白石一郎]]『火炎城』（昭和53年（[[1978年]]）、講談社、ISBN 978-4061314443）&lt;br /&gt;
**[[遠藤周作]]『王の挽歌』（[[平成]]4年（[[1992年]]）、新潮社、上・ISBN 978-4101123332、下・ISBN 978-4101123349）&lt;br /&gt;
**[[赤瀬川隼]]『王国燃ゆ 小説大友宗麟』（平成11年（[[1999年]]）、学陽書房、ISBN 978-4313750890）&lt;br /&gt;
*映画&lt;br /&gt;
**国東物語（昭和59年（[[1984年]]）、監督：[[村野鐵太郎]]）&lt;br /&gt;
*テレビドラマ&lt;br /&gt;
**[[大友宗麟-心の王国を求めて|大友宗麟～心の王国を求めて～戦国の世において平和な国づくりを目指した武将宗麟の波乱の人生]]（[[NHK正月時代劇]]、平成16年（[[2004年]]）[[1月4日]]放送）&lt;br /&gt;
***原作：遠藤周作（『王の挽歌』）、脚本：[[古田求]]、演出：[[望月良雄]]、主演：[[松平健]]ほか&lt;br /&gt;
*菓子&lt;br /&gt;
**キリシタン大名大友宗麟 ドン・フランシスコ（株式会社菊家）- [[モンドセレクション]]で最高金賞を連続受賞中の大分銘菓。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[大友氏|豊後大友氏歴代当主]]|第21代：1550 - 1576|[[大友義鑑]]|[[大友義統]]}}&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A2%E3%83%91%E3%83%86&amp;diff=42366</id>
		<title>夢パテ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A2%E3%83%91%E3%83%86&amp;diff=42366"/>
				<updated>2008-11-20T05:21:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| style=&amp;quot;background-color:#F9F9F9; border:1px solid #A00; margin:0.5em auto&amp;quot; &lt;br /&gt;
|[[Image:Octagon-warning.svg|40px]] &lt;br /&gt;
|'''この人物はウィキペディアで無期限の投稿ブロックを受けています。'''{{#if: t|&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;[{{fullurl:Special:Ipblocklist|ip={{PAGENAMEE}}}} 投稿ブロックリスト]も参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;|経緯は[[Yourpedia:投稿ブロック依頼/{{{page|{{{1|{{PAGENAME}}}}}}}}]]をご覧ください。&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;[{{fullurl:Special:Log/block|page=User:{{PAGENAMEE}}}} この利用者の投稿ブロック記録]も参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;}}&amp;lt;br style=&amp;quot;clear:both&amp;quot;/&amp;gt; &lt;br /&gt;
|}[[Category:無期限ブロックを受けたユーザー|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
'''魚津プロジェクト'''（うおづプロジェクト）はかつて[[ウィキペディア日本語版]]に貢献したユーザーである。ただし後述の要因により、現在は無期限ブロックとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要（ブロックの原因） ==&lt;br /&gt;
彼は地元の魚津市関連の編集や間違い修正などの編集に積極的であったがそれを一部の[[ウィキホリック]]に迷惑な編集と判断されてしまったため、事態がややこしくなってしまった。そして説得の理解が間に合わないまま管理者・[[海獺 (利用者)|海獺]]による勝手すぎる判断により、1週間ブロックとなった。その影響で心に傷がついてしまった彼は引退してしまった・・・・と思ったら大違いで次々とソックパペットが発覚（詳細は後述）。最終的には無期限ブロックとなった&amp;lt;ref&amp;gt;この魚津プロジェクトの件がきっかけで「'''魚津市の編集に積極的なユーザーはみんな魚津プロジェクトのソックパペット'''」という偏見を生んだ。結果、魚津市関連の編集が停滞し魚津市出身のウィキペディアンから'''魚津市の疫病神'''として警戒されるようになった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在はユアペディアで何とか活動を継続しているが上記の影響により、[[魚津サブジェクト]]や[[ハエたたき]]との編集合戦に繋がっている（尚、ハエたたきは後に無期限ブロックとなった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 編集の特徴 ==&lt;br /&gt;
おもに魚津市や富山県内の放送局、アニメの記事を編集していた。さらに編集ごとに利用者ページでの編集も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ブロックの理由 ==&lt;br /&gt;
最初に彼をブロックしたどぐされ海獺は「彼の編集は利用者ページを意味なくいじることと、お詫びをノートに書いて回るということばかりで、今回の一連の問題に関して根本的な理解をされていず、百科事典を作る方向に向かっていない」と発言しているが、これは'''言い訳'''である可能性がある。本当は「'''こいつはムカつくから編集に参加できないようにしてやる'''」という個人的な理由だけでブロックしたものと思われる。しかしこの時は他のユーザーの反応はあまり良いものではなかったため、全てのウィキペディアンに見捨てられたままブロックされる形となった。但し、これがきっかけで[[大場綜|某YPユーザー]]から'''[[ウィキペディアにおける勇者]]'''と認定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ソックパペット ==&lt;br /&gt;
今までに6本のアカウントが彼のソックパペットと判断されている（外部リンクを参照）。中でも'''ブルーアイランドの住人'''が一番有名だとか。&lt;br /&gt;
=== ブルーアイランドの住人 ===&lt;br /&gt;
自身が魚津プロジェクトである事は隠していたが'''編集方法やプロフィールがほぼ一致していた'''ため、ソックパペットと疑われるようになってしまった。さらに無意味なユーザーボックスの追加、自身の無理解による記事の分割の失敗などの不祥事が重なり、ついに[[海獺 (利用者)|海獺]]によって無期限ブロックになった（それでも約3ヶ月弱は保持していた）。尚、このブロックは海獺の魚津プロジェクト排除行動に基づくものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブロック後にメーリングリストでソックパペットの件や今までの行為などについて謝罪コメントを出すが過去の前歴はもちろん、海獺に「メーリングリストを見たが今の彼の対応では反省しているとは思えない」と解釈されたため解除されず。これにショックを受けたのか自分のブログでウィキペディアについての批判や文句を書き込んだり（現在は若干見直している様子である）、ユアペディアで自分をブロックした某管理者の記事（罵倒寄り）を作成してしている&amp;lt;ref&amp;gt;これらの行動により、大半の[[ウィキホリック]]に「'''謝罪は名ばかりのもので、本当に謝罪するつもりなどなく、反省する気もないことが証明された'''」と判断されてしまった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディア日本語版の利用者]]&lt;br /&gt;
*[[荒らし大王の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[魚津市]]&lt;br /&gt;
*[[海獺 (利用者)]] - 彼を一番いじめているのはこいつ。&lt;br /&gt;
*[[Lonicera (利用者)]] - こいつも彼をいじめてた。&lt;br /&gt;
*[[魚津サブジェクト]] - 紛らわしいんだよ!特定のユーザーを叩いてる暇があったらさっさと就職しろ!&lt;br /&gt;
*[[魚津プロジェクトと魚津サブジェクトの編集合戦]] - 魚津サブジェクトとの醜い争いをまとめた内容。&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディアにおける勇者]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連リンク ==&lt;br /&gt;
*[[wiki:利用者:魚津プロジェクト|魚津プロジェクトのページ]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:利用者‐会話:魚津プロジェクト|魚津プロジェクトのノート]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Category:魚津プロジェクトの操り人形だと疑われるユーザー|魚津プロジェクトと間違えられた可哀想なユーザーたち]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:利用者:海獺|一番彼をいじめまくった悪い管理者、バカ海獺]] - 彼は血も涙も無い悪い管理者ですので、彼の[[wiki:利用者‐会話:海獺|ノート]]に魚津プロジェクト関連の暴言を書き込んでも構いません（100%ブロックされると思いますが）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:うおつふろしえくと}} &lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアにおける勇者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディア]]&lt;br /&gt;
[[Category:魚津市]]&lt;br /&gt;
[[Category:冤罪の被害者]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=Lonicera_(%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85)&amp;diff=42365</id>
		<title>Lonicera (利用者)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=Lonicera_(%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85)&amp;diff=42365"/>
				<updated>2008-11-20T05:18:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Notice|この記事は先編集権が主張された記事です!!不正改竄はブロックされます!!}}&lt;br /&gt;
'''&amp;lt;font color=&amp;quot;#009900&amp;quot;&amp;gt;Lonicera&amp;lt;/font&amp;gt;'''（ロニセラ、[[1973年]][[1月4日]] - ）は[[ウィキペディア日本語版]]の元・[[管理者]]である。黄緑色の署名が特徴。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[石川県]][[寺井町]]出身といわれているが、ウィキペディアの利用者ページ（現在は消去されている）では[[北海道]]出身と自身によってコメントしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ウィキペディア ==&lt;br /&gt;
WPきっての差別派管理者であった。'''別名：ゴミセラ戦艦'''。[[ニート]]で、パソコンに組み込まれたロボットである。子供に対しては情け容赦なく、ケツ毛どころか生えてきたばっかりの陰毛まで根こそぎ抜こうとする。若年者ユーザーとバンド項目に対して異常な嫌悪感を持つキチガイ。口癖は「'''○○についてはっきりとお答え下さい。お答えがいただけないままに編集を続行された場合、極めて悪質な対話拒否と判断し、即座に相応の対処を行います'''」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またありとあらゆる策略を駆使しまだ未熟な利用者を問題行動へと誘導し侮辱とも取れる発言を平気で書き、最終的に投稿ブロックへと追いやるなどウィキを私物化しLoniceraしか編集出来ないWikipediaにして支配しようとしていた。そしてその一切の妥協を許さない厳しい差別基準に[[Wiki:利用者:Bellcricket|Bellcricket]]などの管理者が反発しており、WPは風雲急を告げる展開になりそうである。やがて追放されること間違いなし。解任審議の提出もありこいつの時代は終わりになる筈だったが、「解任にしたら、俺様が無期限ブロックにしますよ。ケッケッケ…」と脅した事により馬鹿な奴らの援護によって留任。その後も改心しようとしない極悪非道のニート。最近では発売前の製品などの記事には嫉妬しながら問答無用で一律白紙保護をかけた挙げ句、ノートで立項者を晒し者にしている。[[wiki:Wikipedia‐ノート:保護の方針/仮運用|このノート]]での発言には、低年齢層に対する彼の嫌悪感が良くあらわれている。読んでると気分が悪くなるので注意が必要。ちなみに[[しゃんばら]]にも訪れており、いじめを連発する（キャラの確立に努める）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、裏で秋田県の犬っころBellcricketと一緒に打倒[[Chakuwiki|基地外の巣窟]]を目指している過激派管理者。口癖は「広域ブロックは趣味です」「保護解除撲滅」「目指すは編集保護完全制覇」など。また、「俺様はWikipediaしか使わない。日本一のウィキホリックを目指してます」と公言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、やがて某ユーザーの冷静なコメント依頼によりこいつの正当な欠点が発表された。その後の解任投票（[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:管理者の解任/Lonicera_20080518 こちら]も参照）は難航したものの、解任賛成派がコメント依頼の支援によって脅しに怯えなかったお陰で僅差の賛成多数でついに解任となった。同時にやつの暴走的な動きも消え、同時に自分の権力を示していた利用者ページも消去され[[2007年]]4月の管理者就任以来、約1年ぶりに元の平和なウィキペディアに戻ることになった。よかったね。'''本当によかったね。'''・・・・と言いたいところだが、残念ながらまだ[[海獺 (利用者)|海獺]]という管理者がいる。まだまだ平和ではなさそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利用者:野田憲太郎|野田憲太郎]]に対して8getter@mail.goo.ne.jpのメールアドレスで何度もメールを送信してきたところを見ると、野田にはばれていないと思っていたようである。自分でももうどうしようもないと思っているらしく、自信のHPを削除している。&lt;br /&gt;
=== 活動時間帯 ===&lt;br /&gt;
活動時間は夜の11時から朝の9時まで。昼間は寝ている可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディア ==&lt;br /&gt;
編集はほとんどしていない。理由はウィキペディアからの記事を転載したり他人の会話ページを荒らしたりなどをして、[[アンサイクロペディア日本語版の管理者|アンサイクロペディアの管理者]]によってブロックがかかったからだ。ウィキペディアの利用者ページを見てみると「'''アンサイクロペディアのLoniceraは私ではありません'''」と言う嘘を発言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ユアペディア ==&lt;br /&gt;
同名の利用者は存在するが、[[ウィキペディアン]]の[[Lonicera]]は[[ユアペディアン]]とは別人。編集傾向から[[Yourpedia]]のLoniceraの正体は[[Wiki:利用者:Yukarin|Yukarin]]（本名・[[荘田悦宏]]）といわれている。[[利用者:れいな|れいな]]=松葉裕子=真理党立候補者=はっきりいってざんぱい！があわてて工作編集しているようだが、もう遅い。さっさと認めたほうがよのためひとのため。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[利用者:Lonicera]]&lt;br /&gt;
:[[利用者:Noda,Kentaro|岡田有希子と同類の人物]]が「[[Wiki:利用者:荘田悦宏|荘田]]、というのは[[福井利器]]（とその命令を守る準サマナ）が考え出した偽名」という虚偽を書き散らしているが荘田悦宏は[[1989年]]当時、[[北海道]][[帯広市]]東5条南14丁目1に住んでいた実在の人物。のちに[[Wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Yukarin|Yukarin]]のアカウントを取得して[[ウィキペディア日本語版の利用者|ウィキペディアン]]としての活動を始めた。[[野田憲太郎]]は「だいたい、荘=ソウではないか」と言っているが、嘘だと思うなら1989年の[[帯広市立帯広第三中学校]]の卒業アルバム（1989年3月に[http://www.octv.ne.jp/~obi3chu/ 帯広第三中学校]を卒業した卒業生が載っている）を見て頂きたい。ちゃんと荘田悦宏の顔写真が載っている。何故ならウィキペディアのYukarin=ユアペディアのLonicera=荘田は1989年3月に帯広第三中学校を卒業しているから。また[[利用者‐会話:74.63.84.69|気違い野田]]は「じゃぁその住所まで行って、本人確認を取って、警察署の前で写真とってきなさい」等とほざいているが、そういうことは[[Wiki:利用者:Noda,Kentaro|馬鹿野田]]本人がすべきことである。ちなみに帯広第三中学校の住所は〒080-0806　北海道帯広市東6条南12丁目2、電話番号が0155-22-1428なので本人にその気があれば[[Wiki:利用者:野田憲太郎|ノダケン]]でも行って確認を取ることが出来る。そういうことも出来ない[[野田憲太郎]]は[[池田大作]]とホモホモしている[[創価学会]]であることは想像にも難くない。全く、[[Wiki:野田憲太郎|野田憲太郎]]こそLoniceraと同類だ。呆れた。しかし[[野田犬]]は、[[松葉裕子]]と毎日セックスをしている[[オウム]]の[[バター犬]]である。&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディア日本語版の管理者]]&lt;br /&gt;
*[[海獺 (利用者)]]&lt;br /&gt;
*http://web.archive.org/web/20070908184930/web.sfc.keio.ac.jp/~n04594to/profile.html.ja&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[[Wiki:利用者:Lonicera|ウィキペディアの利用者ページ]]（'''このページはもう消去されました'''）&lt;br /&gt;
*[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Lonicera アンサイクロペディア利用者ページ]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:管理者への立候補/Lonicera 20070411]] &lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:コメント依頼/Lonicera 20080423]]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:管理者の解任/Lonicera 20080518]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろにせら}} &lt;br /&gt;
[[Category:1978年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:石川県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:岡田有希子]]&lt;br /&gt;
[[Category:野田憲太郎]]&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディアに書くと削除される記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニート]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアの管理者|元]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=Lonicera_(%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85)&amp;diff=42364</id>
		<title>Lonicera (利用者)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=Lonicera_(%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85)&amp;diff=42364"/>
				<updated>2008-11-20T05:17:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Notice|この記事は先編集権が主張された記事です!!不正改竄はブロックされます!!}}&lt;br /&gt;
'''&amp;lt;font color=&amp;quot;#009900&amp;quot;&amp;gt;Lonicera&amp;lt;/font&amp;gt;'''（ロニセラ、[[1973年]][[1月4日]] - ）は[[ウィキペディア日本語版]]の元・[[管理者]]である。黄緑色の署名が特徴。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[石川県]][[寺井町]]出身といわれているが、ウィキペディアの利用者ページ（現在は消去されている）では、[[北海道]]出身と自身によってコメントしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ウィキペディア ==&lt;br /&gt;
WPきっての差別派管理者であった。'''別名：ゴミセラ戦艦'''。[[ニート]]で、パソコンに組み込まれたロボットである。子供に対しては情け容赦なく、ケツ毛どころか生えてきたばっかりの陰毛まで根こそぎ抜こうとする。若年者ユーザーとバンド項目に対して異常な嫌悪感を持つキチガイ。口癖は「'''○○についてはっきりとお答え下さい。お答えがいただけないままに編集を続行された場合、極めて悪質な対話拒否と判断し、即座に相応の対処を行います'''」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またありとあらゆる策略を駆使しまだ未熟な利用者を問題行動へと誘導し侮辱とも取れる発言を平気で書き、最終的に投稿ブロックへと追いやるなどウィキを私物化しLoniceraしか編集出来ないWikipediaにして支配しようとしていた。そしてその一切の妥協を許さない厳しい差別基準に[[Wiki:利用者:Bellcricket|Bellcricket]]などの管理者が反発しており、WPは風雲急を告げる展開になりそうである。やがて追放されること間違いなし。解任審議の提出もありこいつの時代は終わりになる筈だったが、「解任にしたら、俺様が無期限ブロックにしますよ。ケッケッケ…」と脅した事により馬鹿な奴らの援護によって留任。その後も改心しようとしない極悪非道のニート。最近では発売前の製品などの記事には嫉妬しながら問答無用で一律白紙保護をかけた挙げ句、ノートで立項者を晒し者にしている。[[wiki:Wikipedia‐ノート:保護の方針/仮運用|このノート]]での発言には、低年齢層に対する彼の嫌悪感が良くあらわれている。読んでると気分が悪くなるので注意が必要。ちなみに[[しゃんばら]]にも訪れており、いじめを連発する（キャラの確立に努める）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、裏で秋田県の犬っころBellcricketと一緒に打倒[[Chakuwiki|基地外の巣窟]]を目指している過激派管理者。口癖は「広域ブロックは趣味です」「保護解除撲滅」「目指すは編集保護完全制覇」など。また、「俺様はWikipediaしか使わない。日本一のウィキホリックを目指してます」と公言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、やがて某ユーザーの冷静なコメント依頼によりこいつの正当な欠点が発表された。その後の解任投票（[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:管理者の解任/Lonicera_20080518 こちら]も参照）は難航したものの、解任賛成派がコメント依頼の支援によって脅しに怯えなかったお陰で僅差の賛成多数でついに解任となった。同時にやつの暴走的な動きも消え、同時に自分の権力を示していた利用者ページも消去され[[2007年]]4月の管理者就任以来、約1年ぶりに元の平和なウィキペディアに戻ることになった。よかったね。'''本当によかったね。'''・・・・と言いたいところだが、残念ながらまだ[[海獺 (利用者)|海獺]]という管理者がいる。まだまだ平和ではなさそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利用者:野田憲太郎|野田憲太郎]]に対して8getter@mail.goo.ne.jpのメールアドレスで何度もメールを送信してきたところを見ると、野田にはばれていないと思っていたようである。自分でももうどうしようもないと思っているらしく、自信のHPを削除している。&lt;br /&gt;
=== 活動時間帯 ===&lt;br /&gt;
活動時間は夜の11時から朝の9時まで。昼間は寝ている可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディア ==&lt;br /&gt;
編集はほとんどしていない。理由はウィキペディアからの記事を転載したり他人の会話ページを荒らしたりなどをして、[[アンサイクロペディア日本語版の管理者|アンサイクロペディアの管理者]]によってブロックがかかったからだ。ウィキペディアの利用者ページを見てみると「'''アンサイクロペディアのLoniceraは私ではありません'''」と言う嘘を発言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ユアペディア ==&lt;br /&gt;
同名の利用者は存在するが、[[ウィキペディアン]]の[[Lonicera]]は[[ユアペディアン]]とは別人。編集傾向から[[Yourpedia]]のLoniceraの正体は[[Wiki:利用者:Yukarin|Yukarin]]（本名・[[荘田悦宏]]）といわれている。[[利用者:れいな|れいな]]=松葉裕子=真理党立候補者=はっきりいってざんぱい！があわてて工作編集しているようだが、もう遅い。さっさと認めたほうがよのためひとのため。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[利用者:Lonicera]]&lt;br /&gt;
:[[利用者:Noda,Kentaro|岡田有希子と同類の人物]]が「[[Wiki:利用者:荘田悦宏|荘田]]、というのは[[福井利器]]（とその命令を守る準サマナ）が考え出した偽名」という虚偽を書き散らしているが荘田悦宏は[[1989年]]当時、[[北海道]][[帯広市]]東5条南14丁目1に住んでいた実在の人物。のちに[[Wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Yukarin|Yukarin]]のアカウントを取得して[[ウィキペディア日本語版の利用者|ウィキペディアン]]としての活動を始めた。[[野田憲太郎]]は「だいたい、荘=ソウではないか」と言っているが、嘘だと思うなら1989年の[[帯広市立帯広第三中学校]]の卒業アルバム（1989年3月に[http://www.octv.ne.jp/~obi3chu/ 帯広第三中学校]を卒業した卒業生が載っている）を見て頂きたい。ちゃんと荘田悦宏の顔写真が載っている。何故ならウィキペディアのYukarin=ユアペディアのLonicera=荘田は1989年3月に帯広第三中学校を卒業しているから。また[[利用者‐会話:74.63.84.69|気違い野田]]は「じゃぁその住所まで行って、本人確認を取って、警察署の前で写真とってきなさい」等とほざいているが、そういうことは[[Wiki:利用者:Noda,Kentaro|馬鹿野田]]本人がすべきことである。ちなみに帯広第三中学校の住所は〒080-0806　北海道帯広市東6条南12丁目2、電話番号が0155-22-1428なので本人にその気があれば[[Wiki:利用者:野田憲太郎|ノダケン]]でも行って確認を取ることが出来る。そういうことも出来ない[[野田憲太郎]]は[[池田大作]]とホモホモしている[[創価学会]]であることは想像にも難くない。全く、[[Wiki:野田憲太郎|野田憲太郎]]こそLoniceraと同類だ。呆れた。しかし[[野田犬]]は、[[松葉裕子]]と毎日セックスをしている[[オウム]]の[[バター犬]]である。&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディア日本語版の管理者]]&lt;br /&gt;
*[[海獺 (利用者)]]&lt;br /&gt;
*http://web.archive.org/web/20070908184930/web.sfc.keio.ac.jp/~n04594to/profile.html.ja&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[[Wiki:利用者:Lonicera|ウィキペディアの利用者ページ]]（'''このページはもう消去されました'''）&lt;br /&gt;
*[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Lonicera アンサイクロペディア利用者ページ]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:管理者への立候補/Lonicera 20070411]] &lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:コメント依頼/Lonicera 20080423]]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:管理者の解任/Lonicera 20080518]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろにせら}} &lt;br /&gt;
[[Category:1978年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:石川県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:岡田有希子]]&lt;br /&gt;
[[Category:野田憲太郎]]&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディアに書くと削除される記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニート]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアの管理者|元]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%B5%B7%E7%8D%BA_(%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85)&amp;diff=42363</id>
		<title>海獺 (利用者)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%B5%B7%E7%8D%BA_(%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85)&amp;diff=42363"/>
				<updated>2008-11-20T05:15:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|[[ウィキペディア]]の[[天皇]]|その他のラッコ|海獺 (曖昧さ回避)}}&lt;br /&gt;
{{Otheruses|ウィキペディアの[[ケフカ]]|その他のケフカ|ケフカ (曖昧さ回避)}}&lt;br /&gt;
'''海獺'''（ラッコ）は[[ウィキペディア日本語版の管理者]]にして権限濫用[[荒らし]]である。[[神奈川県]]在住。プロバイダーのDION（当時。現・au one）を通じて、以前はIPユーザー[[wiki:利用者:61.117.54.58|61.117.54.58]]として投稿を行っていたことが判明している。[[wiki:利用者:Oksoftware|Oksoftware]]の会話ページでその投稿内容を垣間見ることができる。投稿好きなこともあり、管理者アカウントの[[wiki:利用者:海獺|海獺]]以外にも別アカウントで投稿しているものと噂されている。本人は在宅勤務で耳を酷使する仕事（好意的に見ても電話サポート）を行っていると自称しているらしいがボランティアで行うウィキペディアでの管理人業務が早朝から深夜に及ぶことに加え、[[2ちゃんねる]]での投稿活動を加えると生計を立てられる程の収入を得る時間は作られず実家からの援助か公的扶助を受けて生計を維持しているものと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年までは[[Lonicera (利用者)|Lonicera]]に次いで悪い管理者として有名であったが当のLoniceraが消えたため、今では最大の極悪管理者となりつつある。ウィキペディアの[[天皇]]としてウィキペデアに君臨している。座右の銘は「'''おなかすいたねー'''」。[[統合失調症]]（解離性人格障害）の傾向がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2ちゃんねらー]]にして[[ウィキペディア日本語版]]の派閥・[[2ちゃんねる組]]の筆頭である。トリップは◆RACCOxeST6。[[2ちゃんねる]]では主として「趣味一般」板のウィキペディア日本語版スレ（【百科事典】ウィキペディア第n刷【Wikipedia】）に常駐。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者ページ ==&lt;br /&gt;
なぜか[[ラッコ]]の写真が「おなかいっぱいでねむいね」「みんななかよく」「みんなで話し合ってみる」のキャプションと共に多数掲載されている。彼はこれによって自分の悪いイメージを和らげようとしているのだろう。でも実際悪い事ばかりしているので、意味がない可能性があるし、中年オヤジがPCの前でこんな言葉を使っている姿は想像したくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 基本的には ==&lt;br /&gt;
普段は温厚でおとなしい印象を与えているが、自分を批判されたりブロック権限やチェックユーザ権限を発動する際には凄まじい凶暴性を発揮する。最近は[[Lonicera]]に恨みがある。JAWPで最近[[wiki:利用者:Ish-ka|Ish-ka]]の靴下説が持ち上がっているが、[[wiki:利用者:野田憲太郎|野田憲太郎]]の妄想では「[[松葉裕子]]と[[福井利器]]と[[太田尚志]]ならそのように誘導することも可能」となる。しかし現実的には松葉は野田の[[セックスフレンド]]であり、寧ろ後述の理由により[[Onyx]]の靴下説が濃厚。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理由・通告なしに他ユーザーをソックパペット扱いし広域レベルで投稿ブロックを乱発しウィキペディアを支配している独裁者であり、投稿ブロックまでに踏むべき段階を知らないド腐れである。要するに個人的に気に食わない利用者を抹消するために投稿ブロック権限を乱用し、利用者の個人情報を不正に入手するためにCheckUser権限を乱用しているのである。いわゆる、BOTを使用した「厨房ホイホイ」である。ある程度の厨房なら引っかかると本気で考えている。凡庸なプログラマーなので自画自賛から抜け出せないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平日休日、また昼夜無関係にウィキペディアにへばりついておりニートでしかも重度のネット中毒患者・[[ウィキホリック]]であることが強く疑われる。[[2007年]]9月にアカウントを作成して参加したばかりであるはずなのに2ヶ月後の11月には管理者、[[2008年]]2月にはCheckUser係にまで就任しており胡散臭さ全開である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先に「ブロック権限やCU権限を使用する際には隠された凶暴性を発揮する」と述べたが、もはや凶暴を通り越して気違いじみている。ごく稀に[[長野駅]]での犯行予告に対処するなど良い事をする事もあるが悪い事ばかり目立っているため、評価されていない。2ちゃんねるにも名前を隠して書き込んでおり、ウィキペディアに関連するスレッドを荒らしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相手を調伏出来なくなると「“Wikipedia:児童・生徒の方へ”をよくお読み下さい」と書き捨てて逃げる。端末の向こうの人間の年齢が透視出来るらしい。&lt;br /&gt;
=== いじめ ===&lt;br /&gt;
かつては初心者ユーザー・[[魚津プロジェクト]]を虐めまくった上、「魚津市関連の編集を行うユーザーは誰であろうと魚津プロジェクトのソックパペット」という偏見まで広めた。このため、現在では魚津市関連の編集は滞っている（らしい）。後にブロックまで行い、最終的には引退にまで追いつめている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブロックの理由として「彼の編集は利用者ページを意味なくいじることとお詫びをノートに書いて回るということばかりで、今回の一連の問題に関して根本的な理解をされていず百科事典を作る方向に向かっていない」と発言しているが、これは'''100%言い訳'''である。本当は「'''こいつは何となくムカつくから編集に参加できないようにしてやる'''」という個人的な理由だけでブロックした可能性がある。まさに海獺らしい、気に入らないユーザーをブロックする代表的なケースである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更には[[wiki:利用者:Gordon_S|Gordon_S]]に対するストーキング活動まで始めた。Gordon_SがASAHIネットの千葉県内アクセスポイントを使用していると邪推し、使用しているとする物を含む広域の[[IPアドレス]]を片端からブロックする暴挙に出ている。また[[wiki:利用者:2B|2B]]という靴下を取得し“Gordon_Sのブロック破りによる荒らしを通報”させ、“これを受けて”広域ブロックをしている（2Bは差し戻しと“通報”をするのみで編集加筆を未だ一切行なっていない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Onyxとの関係 ==&lt;br /&gt;
2008年[[8月27日]]、海獺は[[wiki:利用者:Ichiroh Satoh|Ichiroh Satoh]]を無期限ブロックした。Ichiroh Satohは[[wiki:利用者:Onyx|Onyx]]の悪質な荒らし行為を告発する[[wiki:Wikipedia:コメント依頼/Onyx|コメント依頼の項目]]を作成したとたん海獺により「長期のブロックをされているIPユーザーのブロック破り」として[[ウィキペディア日本語版]]から追放された。極悪非道ユーザー・[[利用者:Onyx|Onyx]]を擁護していることから、海獺はOnyxの一味である可能性が強い。さらに言えば、海獺はOnyxの靴下である可能性も否定できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 余談 ==&lt;br /&gt;
[[日本放送協会|NHK]]の『[[みんなのうた]]』で流れていた曲に『いたずラッコ』があるが、もしかすると'''彼のことをテーマとした曲'''かもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海獺は、BOTで動いているCU。このBOTは[[野駄犬]]の妄想によれば福井利器やCai.Kosukeも使っているBOTということになる。最近は福井利器が使っていることがばれたため開き直ってこのアカウントを使っていることが多いというが、これも[[野田犬]]の妄想。福井（もしくは松葉裕子）がつかえるということはJAWPに関わる暇人サマナが福井とその部下だけになったと[[バター犬|松葉のバター犬]]は妄想している。JAWPの信用が落ちているのは事実だがそれは[[オウム真理教]]とは無関係で、海獺 - Onyx連合の悪質な荒らし行為が原因である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Youroedia ==&lt;br /&gt;
[[利用者:海獺（らっこ）|海獺（らっこ）]]と言う利用者がいるが[[野田憲太郎]]関連の編集が多く、ウィキペディアの利用者とは別人の可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利用者:海獺|海獺]]で入って来たが、spam行為の廉でBeyond氏からBannedとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[魚津プロジェクト]] - 彼はこいつをいじめる事が趣味だとか。&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディア日本語版の管理者]]&lt;br /&gt;
*[[2ちゃんねる組]]&lt;br /&gt;
**[[2ちゃんねる組の言行録]]&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディア日本語版]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:海獺]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[[Wiki:利用者:海獺|ウィキペディアの利用者ページ]] - [[ラッコ]]の写真がやたら掲載されている。彼の[[Wiki:利用者‐会話:海獺|ノート]]に日頃の恨みを書いてもいいです（100%ブロックされると思いますが）。&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:管理者への立候補/海獺 20071102|こんな利用者が管理者にのし上がった経緯]] &lt;br /&gt;
*[[Wiki:特別:Contributions/海獺|動静]]（いつ本業に携わっているのだろうか?）&lt;br /&gt;
*[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=特別:Log/block&amp;amp;user=海獺 彼に処刑された可哀想なユーザーたち]&lt;br /&gt;
*[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=特別:Log/protect&amp;amp;user=海獺 彼によって編集できなくなった可哀想な記事たち]&lt;br /&gt;
*[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=特別:Log/delete&amp;amp;user=海獺 彼によって削除された可哀想な記事たち]&lt;br /&gt;
*[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=特別:Log/move&amp;amp;user=海獺 彼による移動記録]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:らつこ}} &lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアの管理者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネット弁慶]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディアで新規作成を禁止された記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニート]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:童貞]]&lt;br /&gt;
[[Category:ケフカ]]&lt;br /&gt;
[[Category:役立たず]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の天皇]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%B8%85%E5%BB%89&amp;diff=42362</id>
		<title>小松清廉</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%B8%85%E5%BB%89&amp;diff=42362"/>
				<updated>2008-11-20T05:12:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Komatu Tatewaki.jpg‎|thumb|250px|小松帯刀清廉]]&lt;br /&gt;
'''小松 清廉'''（こまつ きよかど、[[天保]]6年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]（[[1835年]][[12月3日]]） － [[明治]]3年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]（[[1870年]][[8月16日]]））は[[薩摩藩]]士、[[明治時代]]初期の[[政治家]]である。[[本姓]]は[[平氏]]（平惟盛入婿により[[建部氏]]より改姓）。[[家系]]は[[禰寝氏]]嫡流の小松氏当主。[[仮名 (通称)|通称]]は尚五郎、帯刀。元の[[諱]]は兼才。[[官位]]は従四位玄蕃頭。[[家紋]]は抱き鬼菊の葉。一般には'''小松帯刀'''（こまつ たてわき）の呼び名で知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴・人物 ==&lt;br /&gt;
天保6年（1835年）、[[薩摩国]][[鹿児島城]]下の喜入屋敷にて喜入領主・[[肝付兼善]]の三男として生まれる。[[安政]]3年（[[1856年]]）、吉利領主・[[小松清猷]]の[[養子縁組|跡目養子]]となって[[家督]]を継承し宮之原主計の養女となっていた清猷の妹・[[小松千賀|千賀]]（近）と結婚した。安政5年（[[1858年]]）、帯刀清廉と改名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[長崎]]で西洋水雷などを研究した後の[[文久]]元年（[[1861年]]）、[[島津久光]]に才能を見出されて側近となり[[大久保利通]]と共に藩政改革に取り組んだ。文久2年（[[1862年]]）には久光による上洛に随行し、帰国後は[[家老]]職に就任した。[[薩英戦争]]では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。戦後は[[京都]]に駐在し主に[[朝廷]]や[[幕府]]、諸藩との連絡・交渉役を務めた。他方で御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛など兼務するなど藩政をリードした。[[禁門の変]]では幕府から出兵を命じられるも当初は消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。第一次[[長州征討]]では[[長州藩]]の謝罪降伏に尽力している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在京中は[[土佐藩]]脱藩浪士の[[坂本龍馬]]と昵懇となり、[[亀山社中]]（のちの[[海援隊 (浪士結社)|海援隊]]）設立を援助したりその妻である[[楢崎龍|お龍]]の世話をしている。尚、[[薩長同盟]]における密約や[[桂小五郎]]が滞在したのも京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。長州の[[井上馨]]と[[伊藤博文]]を長崎の薩摩藩邸にかくまって[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]と引き合わせ、その後、井上を伴って鹿児島へ行き薩長同盟の交渉を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶応]]3年（[[1867年]]）の[[薩土盟約]]や[[四侯会議]]など、諸藩との交渉に関与した。[[討幕の密勅]]では請書に、[[西郷隆盛]]・[[大久保利通]]とともに署名している。[[大政奉還]]発表の際は藩代表として[[徳川慶喜]]に将軍辞職を献策し、西郷・大久保とともに薩摩に戻って藩主・[[島津忠義]]の率兵上洛を主張する。上洛の随行が命じられるも、病によりこれを断念している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]後は新政府において参与や総裁局顧問、外国官副知事、玄番頭などの要職を歴任した。[[フランス]]が[[江戸幕府]]の借金を新政府が返済しないなら[[横須賀造船所]]を差し押さえると主張した際、清廉と[[大隈重信]]はイギリスから資金を借りてフランスに返済して窮地を脱している。またグラバーや[[五代友厚]]とともに、日本初の西洋式ドックを備えた[[小菅修船場跡]]を建設した。明治2年（[[1869年]]）、病気により依願退職。[[版籍奉還]]では率先して領地を返上した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治3年（[[1870年]]）に36歳の若さで[[大阪]]にて病死し、最期は妾の[[三木琴|琴]]（琴仙子）が看取った。墓地は[[鹿児島県]][[日置市]]日吉支所（旧日吉町役場）の南1キロの祢寝家・小松両家歴代墓所。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
清廉は生前の慶応2年（[[1866年]]）に千賀の甥の町田申四郎実種を養子とし、清緝と称させていた&amp;lt;ref&amp;gt;『近世禰寝文書』参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。清廉の死後、清緝が明治3年（[[1870年]]）10月に家督を継承したものの明治5年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]（[[1872年]][[10月27日]]）には清廉と琴の長男で千賀が養育していた[[小松清直|清直]]に家督を譲る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、清直は30歳で隠居。嫡子・帯刀は祖父・清廉の功により[[伯爵]]に叙せられて[[貴族院議員]]をつとめるが、明治38年（[[1905年]]）3月に死去。家督は清直の次男の[[小松重春|重春]]が相続し、経國銀行頭取など務めるなど経済界で活躍した。その後、[[侯爵]]・[[西郷従道]]の七男が養嗣子となって従志と名乗った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重春までの墓は鹿児島県の小松家歴代墓所にあるが、従志以後は東京にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 余話 ==&lt;br /&gt;
*愛妻家で、新婚時代の安政3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]～[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]（1856年[[5月26日]]～[[6月8日]]）にかけて当時珍しい新婚旅行で[[霧島市|霧島]]の[[栄之尾温泉]]に滞在した記録がある。千賀の父も同行したが、これは新婚旅行の習慣がなかったので外聞をはばかったためである。ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬は[[寺田屋]]事件直後の慶応2年（1866年）であり、実際には帯刀清廉のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081016-00000037-yom-ent 日本初の新婚旅行は小松帯刀?通説“龍馬”に異論登場]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、新政府においても将来を嘱望された。&lt;br /&gt;
*妾の琴は帯刀清廉の死後、長男・安千代を鹿児島の千賀に預け帯刀と親交の厚かった五代邸で長女の壽美とともに暮らした。&lt;br /&gt;
*帯刀清廉の名をとった[[芋焼酎]]を鹿児島県[[南さつま市]]にある[[吹上焼酎]]が製造している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.fukiage.co.jp/amuse/index.html 吹上焼酎：名宰相 小松帯刀]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[大正]]11年（[[1922年]]）、時の[[鉄道大臣]]が重春に[[品川駅]]立売営業権を許可している。これは、清廉が慶応3年（1867年）に鉄道敷設建白書を呈上した功績を考慮したことに因んでいる。これにより小松家は「[[株式会社]][[常盤軒]]」として[[JR]]品川駅で食品などの販売を開始し、現在に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*瀬野冨吉・原口泉監修『幻の宰相 小松帯刀伝』（[[宮帯出版社]]）&lt;br /&gt;
*原口泉『龍馬を超えた男 小松帯刀』（[[グラフ社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 清廉を演じた俳優 ==&lt;br /&gt;
*[[服部哲治]]（[[昭和]]43年（[[1968年]]） NHK[[大河ドラマ]]『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』）&lt;br /&gt;
*[[堀内正美]]（昭和57年（[[1982年]]） [[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇|12時間超ワイドドラマ]]『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』）&lt;br /&gt;
*[[大橋吾郎]]（[[平成]]2年（[[1990年]]） NHK大河ドラマ『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』）&lt;br /&gt;
*[[安藤一夫]]（平成10年（[[1998年]]） NHK大河ドラマ『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』）&lt;br /&gt;
*[[樋口浩二]]（平成16年（[[2004年]]） テレビ東京新春ワイド時代劇『[[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]』）&lt;br /&gt;
*[[瑛太]]（平成20年（[[2008年]]） NHK大河ドラマ『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references/&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{People-stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:幕末維新側人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:明治時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:薩摩国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1835年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1870年没]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%BB%83%E8%97%A9%E7%BD%AE%E7%9C%8C&amp;diff=42361</id>
		<title>廃藩置県</title>
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				<updated>2008-11-20T05:10:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: 新しいページ: ''''廃藩置県'''（はいはんちけん）とは明治維新期の明治4年7月14日（1871年8月29日）に、明治政府がそれ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''廃藩置県'''（はいはんちけん）とは[[明治維新]]期の[[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]（[[1871年]][[8月29日]]）に、明治政府がそれまでの[[藩]]を廃止して地方統治を中央管下の[[府]]と[[県]]に一元化した行政改革である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==背景==&lt;br /&gt;
[[慶応]]3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]（[[1868年]][[1月3日]]）に勃発した[[王政復古 (日本)|王政復古]]の[[クーデター]]は事実上の中央政府が[[江戸幕府]]から[[朝廷]]へ移っただけに過ぎず、[[中央集権]]を進めるには各地に未だ残る大名領（[[藩]]）の存在をどうするかが問題であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]（[[1869年]][[7月25日]]）、274大名に[[版籍奉還]]が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は[[知藩事]]（藩知事）として引き続き藩（旧大名領）の統治に当たり、これは[[幕藩体制]]の廃止の一歩となったものの現状は[[江戸時代]]と同様であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、旧[[天領]]や[[旗本]]支配地等は政府直轄地として[[府]]と[[県]]が置かれ中央政府から[[都道府県知事|知事]]（知府事・知県事）が派遣された。これを[[府藩県三治制]]という。なお「藩」という制度上の呼称はこのとき初めて定められたものであり、江戸幕府下の制度として「藩」という呼称はない。したがって、公式には「藩」とは明治2年（1869年）の版籍奉還から明治4年（1871年）の廃藩置県までの2年間だけの制度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、藩と府県（政府直轄地）の管轄区域は入り組んでおりこの府藩県三治制は非効率であった。廃藩置県の主目的は年貢を新政府にて取り総める、即ち中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたものであるがこれには欧米列強による[[植民地]]化を免れるという大前提があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、廃藩置県は全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものであった。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いた。そして各藩と[[薩長]]新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出る所も出ていた（[[池田慶徳]]、[[徳川慶勝]]、[[細川護久]]、[[南部藩]]など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治3年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]（1871年[[2月8日]]）、[[大蔵大輔]]・[[大隈重信]]が「''全国一致之政体 ''」の施行を求める建議を[[太政官]]に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」（軍事）・「教令率育ノ道」（教育）・「審理刑罰ノ法」（司法）・「理財会計ノ方」（財政）の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==実行前夜==&lt;br /&gt;
だが、その実現には紆余曲折があった。当時、中央集権体制を進めるために廃藩置県の必要があることは政府内の共通認識となっていたが、その実施に向けた方策について急進的な[[木戸孝允]]と漸進的な[[大久保利通]]との対立が続いていた。また木戸が能力を重視して大隈とともに旧[[幕臣]]の[[郷純造]]や[[渋沢栄一]]らを新政府に登用したことについて、旧幕臣の腐敗こそが江戸幕府の滅亡の原因で維新のために尽力した[[薩長土肥]]の若い人材こそが政府に必要であると考える大久保には理解できなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大久保は[[薩摩藩]]の[[藩政改革]]のために[[鹿児島市|鹿児島]]にいた[[西郷隆盛]]に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとした。折りしも[[山縣有朋]]の[[御親兵]]設置構想が浮上すると大久保は[[岩倉具視]]とともに[[勅使]]として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、出仕の際に西郷が出した意見書（「西郷吉之助意見書」）が大きな波紋を呼んだ。西郷は新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようであると糾弾した。それは大久保が批判対象とする旧幕臣を飛び越して一連の政策立案の中心である大隈をその最大の対象としまたこれを補佐する[[伊藤博文]]・[[井上馨]]ら、更に伊藤・井上を推挙した木戸に対する糾弾であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大久保は、西郷出仕の必要性を重視してこれを受け入れた。明治4年（1871年）1月に西郷は上京し、薩摩などの維新功労者の新政府登用策の受け入れのみで一旦は了承した。しかし、西郷の新政府への不満はその富国政策とその指導にあたる大隈ら大蔵官僚にあったために木戸・大隈との対決は避けられなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、長州藩の[[大楽源太郎]]による反乱やその支持者によると言われる[[広沢真臣]][[暗殺]]、[[公家]]の[[愛宕通旭]]・[[外山光輔]]による新政府転覆計画発覚（[[二卿事件]]）など新政府内部は更に混乱の様相を見せ始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大久保は[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]（[[8月11日]]）に政府人事の大幅改造を断行して参議を西郷と木戸の2人に限定し、自分は大蔵卿として大隈らを掣肘することとした。しかし、西郷によって推挙された[[大蔵大丞]]・[[安場保和]]が大隈弾劾の意見書を提出したために大隈やこれを支持する[[江藤新平]]・[[後藤象二郎]]らが結束してこれに対抗した。弾劾は木戸との全面衝突を望まない西郷や大久保の反対で否決されたものの新政府は西郷派と木戸派に分裂しつつあり、廃藩置県どころか政務は停滞し新政府分裂の危機に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]（[[8月19日]]）、山県の下に居合わせた[[鳥尾小弥太]]と[[野村靖]]（いずれも木戸派に相当する）が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて山県に対して廃藩置県の即時断行を提議した。新政府を諸藩と対峙させることによって政権両派の再統一と求心力を回復させようとしたのである。これは、西郷が廃藩置県推進派の木戸と協力して新政府を支える意図があるのかどうかを確かめる目的もあった。山県は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌日には2人は井上を味方に引き入れ[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]（[[8月21日]]）、井上は木戸を、山県は西郷を説得して更に大久保や大隈にも同意を取り付けた。西郷も現状の政局を打破するために廃藩置県によって政府内の流れを変えることを望んだのである。かくして[[7月9日 (旧暦)|9日]]（[[8月24日]]）、西郷隆盛、大久保、[[西郷従道]]、[[大山厳]]、木戸、井上、山県の7名の[[薩長]]の要人間で木戸邸で密かに練られた廃藩置県案は[[三条実美]]・[[岩倉具視]]・[[板垣退助]]・大隈らの賛成を得たのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==実行==&lt;br /&gt;
明治4年7月14日（1871年8月29日）14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。王政復古に次ぐ第2のクーデターであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10時に[[鹿児島藩]][[知藩事|知事]]・[[島津忠義]]、[[山口藩]]知事・[[毛利元徳]]、[[佐賀藩]]知事・[[鍋島直大]]及び[[高知藩]]知事・[[山内豊範]]の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げた。ついで[[名古屋藩]]知事・[[徳川慶勝]]、[[熊本藩]]知事・[[細川護久]]、[[鳥取藩]]知事・[[池田慶徳]]、[[徳島藩]]知事・[[蜂須賀茂韶]]に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藩は県となって知藩事（旧藩主）は失職し、[[東京]]への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から[[県令]]が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の[[都道府県]]よりも細かく分かれており、3府302県あった。また[[飛地]]が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年（1871年）10～11月には3府72県に統合された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、県の数は69県（明治5年（[[1872年]]））、60県（明治6年（[[1873年]]））、59県（明治8年（[[1875年]]））、35県（明治9年（[[1876年]]））と合併が進み（府の数は3のままである）、明治14年（[[1881年]]）の[[堺県]]の[[大阪府]]への合併をもって完了した。だが、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため次は分割が進められて、明治22年（[[1889年]]）には3府43県（北海道を除く）となって最終的に落ち着いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
統合によってできた府県境は、[[令制国]]のものと重なる部分も多い。また、石高で30～60万石程度（後には90万石まで引き上げられた）にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず（とはいえ、明治6年（1873年）までには大半の同県人県令は廃止されている）、[[鹿児島県|鹿児島]]県令の[[大山綱良]]のように数年に渡って県令を務めて一種の治外法権的な行動をする者もいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、その中で[[山口県]]（旧[[長州藩]]）だけは逆にかつての「宿敵」である旧幕臣出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における[[藩閥|長州閥]]の発言力を確固たるものとした。尚、この制限は[[文官]]任用制度が確立した明治18年（[[1885年]]）頃まで続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;同県人の知事起用&lt;br /&gt;
*明治5年（1872年）まで：[[静岡県]]、[[鳥取県]]、[[岡山県]]、[[徳島県]]、[[佐賀県]]&lt;br /&gt;
*明治6年（1873年）まで：[[熊本県]]&lt;br /&gt;
*明治8年（1875年）まで：[[京都府]]&lt;br /&gt;
*明治9年（1876年）まで：[[高知県]]&lt;br /&gt;
*明治10年（[[1877年]]）まで：[[鹿児島県]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==影響==&lt;br /&gt;
廃藩置県は[[平安時代]]後期以来続いてきた特定の[[領主]]がその[[領地]]・[[所領]]を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「'''明治維新における最大の改革'''」であったと言えるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、[[岩倉使節団]]の外遊中に明治政府を率いた[[留守政府]]に託された。留守政府の元で[[徴兵令]]（海陸警備ノ制）・[[学制]]（教令率育ノ道）・司法改革（審理刑罰ノ法）・[[地租改正]]（理財会計ノ方）といった新しい制度が行われていくことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==琉球藩==&lt;br /&gt;
[[明]]国と冊封関係にあった[[琉球王朝]]は[[慶長]]14年（[[1609年]]、[[万暦]]37年）の[[薩摩藩]]による侵攻以来、日本と中国に両属してきた。明治政府は琉球王国を[[琉球藩]]として日本に組み入れ、更に[[沖縄県]]として実質的国内化を図った。'''[[琉球藩]]'''とは、明治5年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]（1872年[[10月16日]]）より明治12年（[[1879年]]）[[3月11日]]までの琉球の公称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==旧藩債務の問題==&lt;br /&gt;
既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、[[大坂]]などの有力商人からいわゆる「[[大名貸]]」を受けたり領民から[[御用金]]を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。各藩とも[[藩政改革]]を推進してその打開を図ったが[[黒船]]来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る藩主（藩知事）さえ出てくる状況であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに加えて、各藩が出していた[[藩札]]の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった（藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の[[債務]]扱いとなる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
廃藩置県によって旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円（=両）にも達して（しかもこの金額には後述の理由で[[天保]]年間（[[1830年]]～[[1843年]]）以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている）おり債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。即ち、明治元年（1868年）以後の債務については[[公債]]を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する（'''新公債'''）、[[弘化]]年間（[[1844年]]～[[1847年]]）以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する（'''旧公債'''）、そして天保年間以前の債務については一切これを継承せずに無効とする（事実上の[[徳政令]]）というものであった。&amp;lt;br&amp;gt;（なお新政府は[[朝敵]]となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円（うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円）が新政府の名によって返済されることになった（'''藩債処分'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが債務の大半、特に大名貸の大半は天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり有名な薩摩藩の[[調所広郷]]による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。貸し手の商人達から見れば大名貸は一種の[[不良債権]]であり返って来る見込みは薄くても名目上は[[資産]]として認められ、また社会的な地位ともなりえたがこの処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこうした商人が続出した大阪（[[大坂]]から改称）は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧藩主やその家臣はこれらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==府県の一覧==&lt;br /&gt;
===明治4年7月14日===&lt;br /&gt;
明治4年7月14日（1871年8月29日）に廃藩置県が実施された当初、府県名は[[都市]]名（府県庁所在地）を付けたものであるが特に旧幕府・旗本領や旧中小藩を引き継いだ県では府県庁所在地周辺よりも多くの[[飛地]]を遠隔地に持つ所が少なくない。以下の地方区分は、府県庁所在地によるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[北海道]]・[[東北地方]]&lt;br /&gt;
[[館藩|館県]]　[[弘前藩|弘前県]]　[[黒石藩|黒石県]]　[[斗南藩|斗南県]]　[[七戸藩|七戸県]]　[[八戸藩|八戸県]]　[[盛岡藩|盛岡県]]　[[一関藩|一関県]]　[[仙台藩#藩全体の戦略|江刺県]]　[[仙台藩#藩全体の戦略|胆沢県]]　[[仙台藩|仙台県]]　[[仙台藩#藩全体の戦略|登米県]]　[[仙台藩#藩全体の戦略|角田県]]　[[相馬中村藩|中村県]]　[[磐城平藩|磐城平県]]　[[湯長谷藩|湯長谷県]]　[[泉藩|泉県]]　[[三春藩|三春県]]　[[棚倉藩|棚倉県]]　[[二本松藩|二本松県]]　[[福島県]]　[[白河藩|白河県]]　[[会津藩|若松県]]　[[秋田県]]　[[岩崎藩|岩崎県]]　[[本荘藩|本荘県]]　[[亀田藩|亀田県]]　[[矢島藩|矢島県]]　[[庄内藩#出羽松山藩|松峰県]]　[[庄内藩|大泉県]]　[[新庄藩|新庄県]]　[[天童藩|天童県]]　[[山形県]]　[[上山藩|上山県]]　[[米沢藩|米沢県]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[関東地方]]&lt;br /&gt;
[[常陸松岡藩|松岡県]]　[[水戸藩|水戸県]]　[[宍戸藩|宍戸県]]　[[笠間藩|笠間県]]　[[下館藩|下館県]]　[[下妻藩|下妻県]]　[[麻生藩|麻生県]]　[[石岡藩|石岡県]]　[[土浦藩|土浦県]]　[[志筑藩|志筑県]]　[[牛久藩|牛久県]]　[[若森県]]　[[松川藩|松川県]]　[[龍崎藩|龍崎県]]　[[多古藩|多古県]]　[[小見川藩|小見川県]]　[[高岡藩|高岡県]]　[[結城藩|結城県]]　[[古河藩|古河県]]　[[関宿藩|関宿県]]　[[佐倉藩|佐倉県]]　[[生実藩|生実県]]　[[葛飾県]]　[[曾我野藩|曾我野県]]　[[菊間藩|菊間県]]　[[鶴牧藩|鶴牧県]]　[[鶴舞県]]　[[桜井藩|桜井県]]　[[久留里藩|久留里県]]　[[飯野藩|飯野県]]　[[小久保藩|小久保県]]　[[佐貫藩|佐貫県]]　[[松尾藩|松尾県]]　[[一宮藩|一宮県]]　[[大多喜藩|大多喜県]]　[[宮谷県]]　[[長尾藩|長尾県]]　[[花房藩|花房県]]　[[館山藩|館山県]]　[[加知山藩|加知山県]]　[[宇都宮藩|宇都宮県]]　[[大田原藩|大田原県]]　[[黒羽藩|黒羽県]]　[[烏山藩|烏山県]]　[[茂木藩|茂木県]]　[[壬生藩|壬生県]]　[[吹上藩|吹上県]]　[[佐野藩|佐野県]]　[[足利藩|足利県]]　[[日光|日光県]]　[[館林藩|館林県]]　[[七日市藩|七日市県]]　[[小幡藩|小幡県]]　[[安中藩|安中県]]　[[沼田藩|沼田県]]　[[前橋藩|前橋県]]　[[高崎藩|高崎県]]　[[伊勢崎藩|伊勢崎県]]　[[岩鼻県]]　[[川越藩|川越県]]　[[忍藩|忍県]]　[[岩槻藩|岩槻県]]　[[浦和県]]　[[小菅県]]　[[東京府]]　[[品川県]]　[[神奈川県]]　[[六浦藩|六浦県]]　[[小田原藩|小田原県]]　[[荻野山中藩|荻野山中県]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[中部地方]]&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
;[[中国地方]]&lt;br /&gt;
[[鳥取県]]　[[松江藩|松江県]]　[[母里藩|母里県]]　[[広瀬藩|広瀬県]]　[[浜田藩|浜田県]]　[[津山藩|津山県]]　[[鶴田藩|鶴田県]]　[[真島藩|真島県]]　[[岡山県]]　[[鴨方藩|鴨方県]]　[[生坂藩|生坂県]]　[[庭瀬藩|庭瀬県]]　[[足守藩|足守県]]　[[浅尾藩|浅尾県]]　[[岡田藩|岡田県]]　[[高梁藩|高梁県]]　[[成羽藩|成羽県]]　[[新見藩|新見県]]　[[倉敷県]]　[[備後福山藩|福山県]]　[[広島県]]　[[岩国藩|岩国県]]　[[山口県]]　[[清末藩|清末県]]　[[豊浦藩|豊浦県]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[四国地方]]&lt;br /&gt;
[[徳島県]]　[[高松藩|高松県]]　[[丸亀藩|丸亀県]]　[[西条県]]　[[小松県]]　[[今治県]]　[[松山県]]　[[新谷県]]　[[大洲県]]　[[吉田県]]　[[宇和島県]]　[[高知県]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[九州地方]]&lt;br /&gt;
[[福岡県]]　[[福岡藩#秋月藩|秋月県]]　[[久留米県]]　[[柳川県]]　[[三池藩|三池県]]　[[唐津藩|唐津県]]　[[鹿島藩|鹿島県]]　[[小城藩|小城県]]　[[蓮池藩|蓮池県]]　[[佐賀県]]　[[厳原藩|厳原県]]　[[平戸藩|平戸県]]　[[福江藩|福江県]]　[[大村藩|大村県]]　[[島原藩|島原県]]　[[長崎県]]　[[人吉藩|人吉県]]　[[熊本県]]　[[豊津藩|豊津県]]　[[千束藩|千束県]]　[[中津藩|中津県]]　[[日出藩|日出県]]　[[藩|府内県]]　[[佐伯藩|佐伯県]]　[[臼杵藩|臼杵県]]　[[岡藩|岡県]]　[[森藩|森県]]　[[日田|日田県]]　[[延岡藩|延岡県]]　[[高鍋藩|高鍋県]]　[[薩摩藩#支藩|佐土原県]]　[[飫肥藩|飫肥県]]　[[鹿児島県]]　[[杵築県]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===明治4年10～11月===&lt;br /&gt;
明治4年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]（1871年[[12月10日]]）から[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]（1872年[[1月2日]]）に行われた府県合併によって、各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、[[法令全書]]所収の[[太政官布告]]により明治4年末の段階の府県とそのエリアを示す（日付は左から旧暦、新暦）。ただし、太政官布告に記載されたエリアと実際のエリアには若干の異同がある。また合併の期日も、資料によってはこれと異なるものもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[東北地方]]&lt;br /&gt;
*[[青森県]]（[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]（[[12月13日]]））&lt;br /&gt;
:[[陸奥国]]一円、松前（[[渡島国]]のうち 福島郡・津軽郡・檜山郡・爾志郡）&lt;br /&gt;
:*[[松前藩#館藩|松前4郡]]（福島・津軽・檜山・爾志）は明治5年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]（1872年[[10月7日]]）に[[開拓使]]へ移管&lt;br /&gt;
*[[盛岡県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[陸中国]]のうち 閉伊郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡・岩手郡・九戸郡&lt;br /&gt;
*[[一関県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[陸前国]]のうち 本吉郡・登米郡・栗原郡・玉造郡・気仙郡、陸中国のうち 胆沢郡・江刺郡・磐井郡&lt;br /&gt;
*[[仙台県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[磐城国]]のうち 宇多郡（一部）・亘理郡・伊具郡・苅田（刈田）郡、陸前国のうち 牡鹿郡・桃生郡・遠田郡・志田郡・賀美（加美）郡・黒川郡・宮城郡・名取郡・柴田郡&lt;br /&gt;
*[[平県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[磐城国]]のうち 宇多郡（一部）・行方郡・標葉郡・田村郡・磐城郡・石川郡・白川郡・磐前郡&lt;br /&gt;
*[[二本松県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[磐城国]]のうち 白河郡、岩代国のうち 信夫郡・安達郡・安積郡・岩瀬郡・伊達郡&lt;br /&gt;
*[[若松県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[岩代国]]のうち 会津郡・耶麻郡・大沼郡・河沼郡&lt;br /&gt;
:*実際には[[越後国]]蒲原郡のうち旧会津藩領の区域（後の東蒲原郡）も管轄した。&lt;br /&gt;
*[[秋田県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[陸中国]]のうち 鹿角郡、羽後国のうち 平鹿郡・雄勝郡・仙北郡・由利郡・川辺（河辺）郡・秋田郡・山本郡&lt;br /&gt;
*[[酒田県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[羽前国]]のうち 田川郡、羽後国のうち 飽海郡&lt;br /&gt;
*[[山形県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[羽前国]]のうち 村山郡・置賜郡（一部）・最上郡&lt;br /&gt;
*[[置賜県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[羽前国]]のうち 置賜郡（一部）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[関東地方]]&lt;br /&gt;
*[[茨城県]]（[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]（[[12月25日]]））&lt;br /&gt;
:[[常陸国]]のうち 多賀郡・久慈郡・那賀（那珂）郡・茨城郡・真壁郡&lt;br /&gt;
*[[新治県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[常陸国]]のうち 新治郡・筑波郡・河内郡・信太郡・鹿島郡、下総国のうち 香取郡・匝瑳郡・海上郡&lt;br /&gt;
*[[印旛県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[下総国]]のうち 結城郡・猿島郡・葛飾郡・相馬郡・岡田郡・豊田郡・千葉郡・埴生郡・印旛郡&lt;br /&gt;
*[[木更津県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[安房国]]一円、[[上総国]]一円&lt;br /&gt;
*[[宇都宮県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[下野国]]のうち 芳賀郡・塩谷郡・那須郡・河内郡&lt;br /&gt;
*[[栃木県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[下野国]]のうち 足利郡・簗田（梁田）郡・寒川郡・安蘇郡・都賀郡、[[上野国]]のうち 邑楽郡・新田郡・山田郡&lt;br /&gt;
*[[群馬県]]（10月28日（12月10日））&lt;br /&gt;
:[[上野国]]のうち 利根郡・吾妻郡・勢多郡・群馬郡・碓氷郡・那波郡・甘楽郡・佐位郡・片岡郡・多胡郡・緑野郡&lt;br /&gt;
*[[入間県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[武蔵国]]のうち 横見郡・入間郡・秩父郡・男衾郡・大里郡・榛沢郡・賀美郡・幡羅郡・比企郡・新座郡・那賀郡・児玉郡・高麗郡・多摩郡（一部）&lt;br /&gt;
:*太政官布告では多摩郡を[[入間県]]と[[東京府]]に分けて管轄するものとしているが、実際には一部を[[東京府]]の管轄とし（後、東多摩郡を経て豊多摩郡の一部）、残りの区域（後の西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡）は[[神奈川県]]の管轄となった。&lt;br /&gt;
*[[埼玉県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[武蔵国]]のうち 埼玉郡・葛飾郡（一部）・足立郡（一部）&lt;br /&gt;
*[[東京府]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[武蔵国]]のうち 荏原郡・豊島郡・多摩郡（一部）・足立郡（一部）・葛飾郡（一部）&lt;br /&gt;
*[[神奈川県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[相模国]]のうち 三浦郡・鎌倉郡、[[武蔵国]]のうち 橘樹郡・久良岐郡・都筑郡&lt;br /&gt;
*[[足柄県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[相模国]]のうち 足柄上郡・足柄下郡・高座郡・愛甲郡・淘綾郡・津久井郡、[[伊豆国]]一円&lt;br /&gt;
:*太政官布告では高座郡を[[足柄県]]管轄としているが、実際には[[神奈川県]]の管轄とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[中部地方]]&lt;br /&gt;
*[[相川県]]（[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]（[[12月31日]]））&lt;br /&gt;
:[[佐渡国]]一円&lt;br /&gt;
*[[新潟県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[越後国]]のうち 蒲原郡・岩船郡&lt;br /&gt;
*[[柏崎県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[越後国]]のうち 頸城郡・古志郡・魚沼郡・苅羽（刈羽）郡・三島郡&lt;br /&gt;
*[[新川県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[越中国]]のうち 礪波郡・新川郡・婦負郡&lt;br /&gt;
*[[七尾県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[能登国]]一円、越中国のうち 射水郡&lt;br /&gt;
*[[金沢県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[加賀国]]一円&lt;br /&gt;
*[[福井県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[越前国]]のうち 足羽郡・吉田郡・丹生郡・阪井（坂井）郡・大野郡&lt;br /&gt;
*[[敦賀県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[若狭国]]一円、越前国のうち 今立郡・南条郡・敦賀郡&lt;br /&gt;
*[[山梨県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[甲斐国]]一円&lt;br /&gt;
*[[長野県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[信濃国]]のうち 埴科郡・高井郡・水内郡・佐久郡・更科（更級）郡・小県郡&lt;br /&gt;
*[[筑摩県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[飛騨国]]一円、信濃国のうち 筑摩郡・伊那郡・諏訪郡・安曇郡&lt;br /&gt;
*[[岐阜県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[美濃国]]一円&lt;br /&gt;
*[[静岡県]]（[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]（[[12月26日]]））&lt;br /&gt;
:[[駿河国]]一円&lt;br /&gt;
*[[浜松県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[遠江国]]一円&lt;br /&gt;
*[[額田県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[三河国]]一円、尾張国のうち 知多郡&lt;br /&gt;
*[[名古屋県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[尾張国]]のうち 春日井郡・愛知郡・葉栗郡・海東郡・海西郡・丹羽郡・中島郡&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[近畿地方]]&lt;br /&gt;
*[[和歌山県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[紀伊国]]のうち 伊都郡・那賀郡・海部郡・有田郡・日高郡・牟婁郡（一部）&lt;br /&gt;
*[[長浜県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[近江国]]のうち 神崎郡・愛知郡・犬上郡・坂田郡・浅井郡・伊香郡&lt;br /&gt;
*[[大津県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[近江国]]のうち 高島郡・滋賀郡・栗田（栗太）郡・野洲郡・甲賀郡・蒲生郡&lt;br /&gt;
*[[京都府]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[山城国]]一円、[[丹波国]]のうち 船井郡・何鹿郡・桑田郡&lt;br /&gt;
*[[豊岡県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[丹後国]]一円、[[但馬国]]一円、丹波国のうち 多紀郡・氷上郡・天田郡&lt;br /&gt;
*[[姫路県]]（11月2日（12月13日））&lt;br /&gt;
:[[播磨国]]一円&lt;br /&gt;
*[[兵庫県]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[摂津国]]のうち 八部郡・兎原（菟原）郡・武庫郡・川辺郡・有馬郡&lt;br /&gt;
:[[淡路国]]のうち 津名郡&lt;br /&gt;
*[[大阪府]]（11月20日（12月31日））&lt;br /&gt;
:[[摂津国]]のうち 島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡・西成郡・東成郡・住吉郡&lt;br /&gt;
*[[堺県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[河内国]]一円、[[和泉国]]一円&lt;br /&gt;
*[[奈良県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[大和国]]一円&lt;br /&gt;
*[[安濃津県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[伊賀国]]一円、[[伊勢国]]のうち 安濃郡・安芸郡・鈴鹿郡・河曲郡・三重郡・桑名郡・員弁郡・朝明郡&lt;br /&gt;
*[[渡会県]]（11月22日（1872年1月2日））&lt;br /&gt;
:[[志摩国]]一円、[[伊勢国]]のうち 多気郡・度会郡・飯野郡・飯高郡・一志郡、[[紀伊国]]のうち 牟婁郡（一部）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[中国地方]]&lt;br /&gt;
*[[鳥取県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[因幡国]]一円、[[伯耆国]]一円&lt;br /&gt;
*[[島根県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[出雲国]]一円、[[隠岐国]]一円&lt;br /&gt;
*[[浜田県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[石見国]]一円&lt;br /&gt;
*[[北条県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[美作国]]一円&lt;br /&gt;
*[[岡山県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[備前国]]一円&lt;br /&gt;
*[[深津県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[備中国]]一円、[[備後国]]のうち 沼隈郡・深津郡・安那郡・品治郡・蘆田郡・神石郡&lt;br /&gt;
*[[広島県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[安芸国]]一円、[[備後国]]のうち 御調郡・世羅郡・三谿郡・三上郡・奴可郡・甲怒（甲奴）郡・三好郡・恵蘇郡&lt;br /&gt;
*[[山口県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[周防国]]一円、[[長門国]]一円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[四国地方]]&lt;br /&gt;
*[[名東県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[阿波国]]一円、[[淡路国]]一円（ただし、津名郡は5日後に兵庫県に編入された）&lt;br /&gt;
*[[香川県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[讃岐国]]一円&lt;br /&gt;
*[[松山県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[伊予国]]のうち 宇摩郡・野間郡・新居郡・周布郡・桑村郡・越智郡・風早郡・和気郡・温泉郡・伊予郡&lt;br /&gt;
*[[宇和島県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
:[[伊予国]]のうち 宇和郡・喜多郡・浮穴郡・久米郡&lt;br /&gt;
*[[高知県]]（11月15日（12月26日））&lt;br /&gt;
*:[[土佐国]]一円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[九州地方]]&lt;br /&gt;
*[[小倉県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[豊前国]]一円&lt;br /&gt;
*[[大分県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[豊後国]]一円&lt;br /&gt;
*[[福岡県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[筑前国]]一円&lt;br /&gt;
*[[三潴県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[筑後国]]一円&lt;br /&gt;
*[[伊万里県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[肥前国]]のうち 松浦郡（一部）・藤津郡・杵島郡・佐賀郡・神崎（神埼）郡・三根郡・養父郡・基肄郡、[[対馬国]]一円&lt;br /&gt;
*[[長崎県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[肥前国]]のうち 彼杵郡・高来郡・松浦郡（一部）、[[壱岐国]]一円&lt;br /&gt;
*[[熊本県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[肥後国]]のうち 玉名郡・山鹿郡・菊池郡・山本郡・阿蘇郡・託摩（託麻）郡・飽田郡・合志郡・上益城郡&lt;br /&gt;
*[[八代県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[肥後国]]のうち 下益城郡・宇土郡・球磨郡・葦北郡・八代郡・天草郡&lt;br /&gt;
*[[美々津県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[日向国]]のうち 那珂郡（一部）・宮崎郡（一部）・諸県郡（一部）・児湯郡・臼杵郡&lt;br /&gt;
*[[都城県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[日向国]]のうち 那珂郡（一部）・宮崎郡（一部）・諸県郡（一部）、[[大隅国]]のうち 菱刈郡・桑原郡・姶良郡・囎唹郡・肝属郡・大隅郡&lt;br /&gt;
*[[鹿児島県]]（11月14日（12月25日））&lt;br /&gt;
:[[薩摩国]]一円、[[琉球王国|琉球国]]一円、[[大隅国]]のうち 熊毛郡・馭謨郡&lt;br /&gt;
:*明治5年9月14日（1872年10月16日）：琉球国を[[琉球藩]]とする（奄美地方は大島郡となり大隅国に属した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===明治4年12月27日===&lt;br /&gt;
明治4年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]（1872年[[2月14日]]）付の太政官布告による府県の配列は、以下の通りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京府　京都府　大阪府　神奈川県　兵庫県　長崎県　新潟県　埼玉県　入間県　足柄県　木更津県　印旛県　新治県　茨城県　群馬県　橡木（栃木）県　宇都宮県　奈良県　堺県　安濃津県　度会県　名古屋県　額田県　浜松県　静岡県　山梨県　大津県　長浜県　岐阜県　筑摩県　長野県　仙台県　福島県　磐前県　若松県　一関県　盛岡県　青森県　山形県　置賜県　酒田県　秋田県　敦賀県　福井県　金沢県　七尾県　新川県　柏崎県　相川県　豊岡県　鳥取県　島根県　浜田県　飾磨県　北条県　岡山県　深津県　広島県　山口県　和歌山県　名東県　香川県　松山県　宇和島県　高知県　福岡県　三潴県　小倉県　大分県　伊万里県　熊本県　八代県　都城県　美々津県　鹿児島県&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===明治9年の合併===&lt;br /&gt;
明治9年（1876年）[[4月18日]]と[[8月21日]]（特に8月21日）に県の大規模な合併が実施されたが、この中には現在でも地域間対立や地理的要件の不一致などの問題を孕んでおり名目上は一つの県でありながら、実質上は別の県という地域が少なくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''[[山形県]]'''：山形県（[[村山地方|村山郡]]、[[最上郡]]）、[[置賜県]]（[[置賜地方]]）、[[鶴岡県]]（[[庄内地方]]）が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[福島県]]'''：[[磐前県]]（[[浜通り]]）、福島県（[[中通り]]）、[[若松県]]（[[会津]]地方）が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[新潟県]]'''：新潟県（[[下越地方]]）、[[相川県]]（[[佐渡島]]）、[[柏崎県]]（[[中越地方]]と[[上越地方]]）が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[長野県]]'''：長野県（[[北安曇郡]]を除く[[北信地方]]、[[東信地方]]）と、[[筑摩県]]のうち[[中信地方]]、[[南信地方]]、[[北安曇郡]]に当たる部分が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[岐阜県]]'''：岐阜県（[[美濃国]]）、筑摩県のうち[[飛騨国]]部分が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[静岡県]]'''：[[足柄県]]のうち[[伊豆国]]部分、静岡県（[[駿河国]]）、[[浜松県]]（[[遠江国]]）が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[京都府]]'''：京都府、[[豊岡県]]のうち[[丹後国]]全域と[[丹波国]]の一部（[[天田郡]]）が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[兵庫県]]'''：兵庫県（[[摂津国]]部分）、[[名東県]]のうち[[淡路島]]、[[飾磨県]]（[[播磨国]]）、豊岡県のうち[[但馬国]]全域と丹波国の一部（[[多紀郡]]・[[氷上郡]]）が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[福岡県]]'''：福岡県（[[筑前国]]）、[[三潴県]]（[[筑後国]]）、[[小倉県]]（[[豊前国]]）の大半が合併して成立。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;後に分割が実現された県&lt;br /&gt;
*'''[[島根県]]'''：島根県と[[鳥取県]]が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[愛媛県]]'''：愛媛県と[[香川県]]が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[高知県]]'''：高知県、[[名東県]]のうち[[阿波国]]部分が合併。&lt;br /&gt;
*'''[[長崎県]]'''：長崎県と[[佐賀県]]が合併。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===一度は廃止されながら、復活した県===&lt;br /&gt;
*明治13年（[[1880年]]）[[3月2日]]：[[徳島県]]（[[高知県]]から分離）&lt;br /&gt;
*明治14年（[[1881年]]）&lt;br /&gt;
**[[2月7日]]：[[福井県]]（[[石川県]]と[[滋賀県]]に分割されていた旧[[敦賀県]]（明治9年（1876年）8月に分割されて廃止）が復活して改称）&lt;br /&gt;
**[[9月12日]]：[[鳥取県]]（[[島根県]]より分離）&lt;br /&gt;
*明治16年（[[1883年]]）[[5月9日]]&lt;br /&gt;
**[[佐賀県]]（[[長崎県]]より分離）&lt;br /&gt;
**[[宮崎県]]（[[鹿児島県]]より分離）&lt;br /&gt;
**[[富山県]]（[[石川県]]より分離）&lt;br /&gt;
*明治20年（[[1887年]]）[[11月4日]]：[[奈良県]]（大阪府（旧[[堺県]]）より分離）&lt;br /&gt;
*明治21年（[[1888年]]）[[12月3日]]：[[香川県]]（[[愛媛県]]より分離）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚、明治政府は[[長野県]]も2分割（長野県、[[筑摩県]]）する方針であったが筑摩県庁の焼失により分割が中止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこれとは別に、[[北海道]]が[[三県一局時代#函館県|函館県]]・[[三県一局時代#札幌県|札幌県]]・[[三県一局時代#根室県|根室県]]に分割されていた時期がある（明治15～19年（1882～1886年）、[[三県一局時代]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献・関連書籍==&lt;br /&gt;
*松尾正人『廃藩置県』（中央公論社・中公新書　ISBN 978-4121008053）&lt;br /&gt;
*丹羽邦男『地租改正法の起源―開明官僚の形成』（ミネルヴァ書房、[[平成]]7年（[[1995年]]）） ISBN 4623025101&lt;br /&gt;
*福地惇『明治新政権の権力構造』（吉川弘文館、平成8年（[[1996年]]）） ISBN 4642036628&lt;br /&gt;
*石井孝『明治維新と自由民権』（平成5年（[[1993年]]）、有隣堂） ISBN 4896601157&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[明治維新]]&lt;br /&gt;
*[[王政復古 (日本)]]&lt;br /&gt;
*[[版籍奉還]]&lt;br /&gt;
*[[都道府県]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:明治時代|はいはんちけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:明治維新|はいはんちけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:明治時代の政治|はいはんちけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の地方自治の歴史|はいはんちけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:1871年|はいはんちけん]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%B8%85%E5%BB%89&amp;diff=42359</id>
		<title>小松清廉</title>
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				<updated>2008-11-20T00:34:39Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: 新しいページ: '小松帯刀清廉 '''小松 清廉'''（こまつ きよかど、天保6年10月14日（1835年[[...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Komatu Tatewaki.jpg‎|thumb|250px|小松帯刀清廉]]&lt;br /&gt;
'''小松 清廉'''（こまつ きよかど、[[天保]]6年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]（[[1835年]][[12月3日]]） － [[明治]]3年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]（[[1870年]][[8月16日]]））は[[薩摩藩]]士、[[明治時代]]初期の[[政治家]]である。[[本姓]]は[[平氏]]（平惟盛入婿により[[建部氏]]より改姓）。[[家系]]は[[禰寝氏]]嫡流の小松氏当主。[[仮名 (通称)|通称]]は尚五郎、帯刀。元の[[諱]]は兼才。[[官位]]は従四位玄蕃頭。[[家紋]]は抱き鬼菊の葉。一般には'''小松帯刀'''（こまつ たてわき）の呼び名で知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴・人物 ==&lt;br /&gt;
天保6年（1835年）、[[薩摩国]][[鹿児島城]]下の喜入屋敷にて喜入領主・[[肝付兼善]]の三男として生まれる。[[安政]]3年（[[1856年]]）、吉利領主・[[小松清猷]]の[[養子縁組|跡目養子]]となって[[家督]]を継承し宮之原主計の養女となっていた清猷の妹・[[小松千賀|千賀]]（近）と結婚した。安政5年（[[1858年]]）、帯刀清廉と改名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[長崎]]で西洋水雷などを研究した後の[[文久]]元年（[[1861年]]）、[[島津久光]]に才能を見出されて側近となり[[大久保利通]]と共に藩政改革に取り組んだ。文久2年（[[1862年]]）には久光による上洛に随行し、帰国後は[[家老]]職に就任した。[[薩英戦争]]では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。戦後は[[京都]]に駐在し主に[[朝廷]]や[[幕府]]、諸藩との連絡・交渉役を務めた。他方で御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛など兼務するなど藩政をリードした。[[禁門の変]]では幕府から出兵を命じられるも当初は消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。第一次[[長州征討]]では[[長州藩]]の謝罪降伏に尽力している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在京中は[[土佐藩]]脱藩浪士の[[坂本龍馬]]と昵懇となり、[[亀山社中]]（のちの[[海援隊 (浪士結社)|海援隊]]）設立を援助したりその妻である[[楢崎龍|お龍]]の世話をしている。尚、[[薩長同盟]]における密約や[[桂小五郎]]が滞在したのも京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。長州の[[井上馨]]と[[伊藤博文]]を長崎の薩摩藩邸にかくまって[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]と引き合わせ、その後、井上を伴って鹿児島へ行き薩長同盟の交渉を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶応]]3年（[[1867年]]）の[[薩土盟約]]や[[四侯会議]]など、諸藩との交渉に関与した。[[討幕の密勅]]では請書に、[[西郷隆盛]]・[[大久保利通]]とともに署名している。[[大政奉還]]発表の際は藩代表として[[徳川慶喜]]に将軍辞職を献策し、西郷・大久保とともに薩摩に戻って藩主・[[島津忠義]]の率兵上洛を主張する。上洛の随行が命じられるも、病によりこれを断念している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]後は新政府において参与や総裁局顧問、外国官副知事、玄番頭などの要職を歴任した。[[フランス]]が[[江戸幕府]]の借金を新政府が返済しないなら[[横須賀造船所]]を差し押さえると主張した際、清廉と[[大隈重信]]はイギリスから資金を借りてフランスに返済して窮地を脱している。またグラバーや[[五代友厚]]とともに、日本初の西洋式ドックを備えた[[小菅修船場跡]]を建設した。明治2年（[[1869年]]）、病気により依願退職。[[版籍奉還]]では率先して領地を返上した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治3年（[[1870年]]）に36歳の若さで[[大阪]]にて病死し、最期は妾の[[三木琴|琴]]（琴仙子）が看取った。墓地は[[鹿児島県]][[日置市]]日吉支所（旧日吉町役場）の南1キロの祢寝家・小松両家歴代墓所。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
清廉は生前の慶応2年（[[1866年]]）に千賀の甥の町田申四郎実種を養子とし、清緝と称させていた&amp;lt;ref&amp;gt;『近世禰寝文書』参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。清廉の死後、清緝が明治3年（[[1870年]]）10月に家督を継承したものの明治5年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]（[[1872年]][[10月27日]]）には清廉と琴の長男で千賀が養育していた[[小松清直|清直]]に家督を譲る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、清直は30歳で隠居。嫡子・帯刀は祖父・清廉の功により[[伯爵]]に叙せられて[[貴族院議員]]をつとめるが、明治38年（[[1905年]]）3月に死去。家督は清直の次男の[[小松重春|重春]]が相続し、経國銀行頭取など務めるなど経済界で活躍した。その後、[[侯爵]]・[[西郷従道]]の七男が養嗣子となって従志と名乗った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重春までの墓は鹿児島県の小松家歴代墓所にあるが、従志以後は東京にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 余話 ==&lt;br /&gt;
*愛妻家で、新婚時代の安政3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]～[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]（1856年[[5月26日]]～[[6月8日]]）にかけて当時珍しい新婚旅行で[[霧島市|霧島]]の[[栄之尾温泉]]に滞在した記録がある。千賀の父も同行したが、これは新婚旅行の習慣がなかったので外聞をはばかったためである。ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬は[[寺田屋]]事件直後の慶応2年（1866年）であり、実際には帯刀清廉のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081016-00000037-yom-ent 日本初の新婚旅行は小松帯刀?通説“龍馬”に異論登場]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、新政府においても将来を嘱望された。&lt;br /&gt;
*妾の琴は帯刀清廉の死後、長男・安千代を鹿児島の千賀に預け帯刀と親交の厚かった五代邸で長女の壽美とともに暮らした。&lt;br /&gt;
*帯刀清廉の名をとった[[芋焼酎]]を鹿児島県[[南さつま市]]にある[[吹上焼酎]]が製造している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.fukiage.co.jp/amuse/index.html 吹上焼酎：名宰相 小松帯刀]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[大正]]11年（[[1922年]]）、時の[[鉄道大臣]]が重春に[[品川駅]]立売営業権を許可している。これは、清廉が慶応3年（1867年）に鉄道敷設建白書を呈上した功績を考慮したことに因んでいる。これにより小松家は「[[株式会社]][[常盤軒]]」として[[JR]]品川駅で食品などの販売を開始し、現在に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*瀬野冨吉・原口泉監修『幻の宰相 小松帯刀伝』（[[宮帯出版社]]）&lt;br /&gt;
*原口泉『龍馬を超えた男 小松帯刀』（[[グラフ社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 清廉を演じた俳優 ==&lt;br /&gt;
*[[服部哲治]]（[[昭和]]43年（[[1968年]]） NHK[[大河ドラマ]]『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』）&lt;br /&gt;
*[[堀内正美]]（昭和57年（[[1982年]]） [[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇|12時間超ワイドドラマ]]『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』）&lt;br /&gt;
*[[大橋吾郎]]（[[平成]]2年（[[1990年]]） NHK大河ドラマ『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』）&lt;br /&gt;
*[[安藤一夫]]（平成10年（[[1998年]]） NHK大河ドラマ『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』）&lt;br /&gt;
*[[樋口浩二]]（平成16年（[[2004年]]） テレビ東京新春ワイド時代劇『[[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]』）&lt;br /&gt;
*[[瑛太]]（平成20年（[[2008年]]） NHK大河ドラマ『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references/&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{People-stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:幕末維新側人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:明治時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:薩摩国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1835年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1870年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.106.173.247</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8&amp;diff=41787</id>
		<title>紫式部</title>
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				<updated>2008-10-30T02:40:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.106.173.247: 新しいページ: '紫式部 （[[土佐光起筆）]] {{文学}} '''紫式部'''（むらさきしきぶ、生没年不明）は平安時代中...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Tosa_Mitsuoki_001.jpg|thumb|250px|紫式部 （[[土佐光起]]筆）]]&lt;br /&gt;
{{文学}}&lt;br /&gt;
'''紫式部'''（むらさきしきぶ、生没年不明）は[[平安時代]]中期の女性[[作家]]、[[歌人]]である。『[[源氏物語]]』の作者と考えられている。[[中古三十六歌仙]]の1人。『[[小倉百人一首]]』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[藤原氏|藤原北家]]の出で、[[女房名]]は「藤式部」。「紫」の称は『源氏物語』の作中人物「[[紫の上]]」に、「式部」は父が式部大丞だったことに由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== プロフィール ==&lt;br /&gt;
紫式部の本名は不明であるが、『[[御堂関白記]]』の[[寛弘]]4年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]（[[1007年]][[2月19日]]）の条において掌侍になったとされる記事のある「''藤原香子''」（かおりこ/たかこ/こうし）との説もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[角田文衞]]「紫式部の本名」『紫式部とその時代』（[[角川書店]]、[[昭和]]44年（[[1966年]]））収録。なお、発表後にあった批判に対する反論を含めて「紫式部伝　その生涯と源氏物語」（[[法藏館]]、[[平成]]19年（[[2007年]]）[[1月25日]] ISBN 4-8319-7664-5）に収録されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。但し、この説は仮定を重ねている部分も多く推論の過程に誤りが含まれているといった批判もあり&amp;lt;ref&amp;gt;今井源衛「紫式部本名香子説を疑う」『国語国文』昭和40年（[[1965年]]）1月号　のち『王朝文学の研究』（角川書店、昭和50年（[[1975年]]）および『今井源衛著作集 3 紫式部の生涯』（笠間書院、平成15年（[[2003年]]）[[7月30日]]）に収録&amp;lt;/ref&amp;gt;、仮定の域を出るものではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また生没年も伝わっていないが資料・作品等から寛弘5年（[[1008年]]）に30歳位と推測されるので、逆算して[[天元]]2年（[[979年]]）頃生 - [[長和]]5年（[[1016年]]）頃没と推定されている&amp;lt;ref&amp;gt;ただし生年については[[天禄]]元年（[[970年]]）説（今井源衛説）、[[天延]]元年（[[973年]]）説（[[岡一男]]説）、天元元年（[[978年]]）説（[[安藤為章]]・[[与謝野晶子]]説）などが混在し没年についても『小右記』[[長和]]5年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]（[[1016年]][[6月6日]]）条にある父・為時の出家を近しい身内（式部）の死と結びつける説が有力であるが、長和3年（[[1014年]]）説を唱える岡一男説や光源氏が「太上天皇になずらふ」存在となったのは紫式部が[[寛仁]]元年（[[1017年]]）の[[敦明親王]]の皇太子辞退と[[准太上天皇]]の待遇授与の事実を知っていたからだとして同年以後の没とする[[山中裕]]説もある（参照：山中裕「紫式部の生涯と後宮」（書き下ろし）『源氏物語の史的研究』（[[思文閣出版]]、平成9年（[[1997年]]）[[6月1日]]） ISBN 978-4-7842-0941-5）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴族ではめずらしい[[イワシ|いわし]]好きであったという説話があるがもとは『猿源氏草紙』で和泉式部の話であり、後世の作話と思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略伝 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Ishiyamadera - Lady Murasaki 01.jpg|thumb|250px|紫式部石像（[[石山寺]]）]]&lt;br /&gt;
[[越後国|越後]]守[[藤原為時]]の娘で母は[[摂津国|摂津]]守[[藤原為信]]女であるが、紫式部の幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に[[藤原惟規|惟規]]がいるほか、姉の存在も知られる。三条[[右大臣]][[藤原定方|定方]]、堤中納言[[藤原兼輔|兼輔]]はともに父方の曽祖父で一族には文辞を以って聞こえた人が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で[[漢文]]を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『[[源氏物語]]』、宮仕え中の日記『[[紫式部日記|紫日記]]』を著したというのが通説、家集『[[紫式部集]]』が伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父・為時は30代に[[東宮]]の読書役を始めとして東宮が[[花山天皇]]になると[[蔵人]]、[[式部大丞]]と出世したが花山天皇が出家すると失職した。10年後、[[一条天皇]]に詩を奉じた結果、[[越前国]]の[[受領]]となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。[[長徳]]4年（[[998年]]）頃、親子ほども年の差がある[[山城国|山城]]守[[藤原宣孝]]と結婚し[[長保]]元年（[[999年]]）に一女・藤原賢子（かたいこ・けんし）（[[大弐三位|大貳三位]]）を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく宣孝と死別した。[[寛弘]]2年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]（[[1006年]][[1月31日]]）より一条天皇の[[中宮]]・[[藤原彰子|彰子]]（[[藤原道長]]の長女、のち院号宣下して上東門院）に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年頃まで奉仕し続けたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[詞花和歌集|詞花集]]』に収められた[[伊勢大輔]]の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠まれたものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[藤原実資]]の日記『[[小右記]]』長和2年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]（[[1014年]][[6月25日]]）条で「『越後守為時女』として皇太后彰子と実資の取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部で残された最後のものとなる。よって[[三条天皇]]の[[長和]]年間（[[1012年|1012]]-1016年）に没したとするのが通説だが、異見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、伝・紫式部墓が[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野西御所田町（堀川北大路下ル西側）に残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、[[日本銀行]]D[[銀行券]] 2000円札の裏には小さな肖像画と『[[源氏物語絵巻]]』の一部分が使用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]（国際連合教育科学文化機関=UNESCO）偉人暦に日本人として唯一人名を連ねている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 紫式部日記 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Hyakuninisshu 057.jpg|thumb|right|{{PAGENAME}}（小倉百人一首より）]]&lt;br /&gt;
[[画像:RosanjiTeien.jpg|thumb|240px|紫式部邸址（廬山寺「源氏庭」）]]&lt;br /&gt;
=== 人物評 ===&lt;br /&gt;
同時期の有名だった女房たちの人物評が見られる。中でも最も有名なのが[[枕草子]]作者の[[清少納言]]に対する、（以下、意訳）&lt;br /&gt;
*「得意げに真名（漢字）を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」（「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本）、&lt;br /&gt;
*「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか（いや、ない）」（「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本）&lt;br /&gt;
などの殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの表記は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味（紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など）を持って語られている。もっとも本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったものと見られている。同輩であった女流歌人の[[和泉式部]]（「素行は良くないが、歌は素晴らしい」など）や[[赤染衛門]]には好感を見せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本紀の御局 ===&lt;br /&gt;
『[[源氏物語|源氏の物語]]』を女房に読ませて聞いた一条天皇が作者を褒めてきっと日本紀（『日本書紀』のこと）をよく読みこんでいる人に違いないと言ったことから「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話があるが、これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり本人には苦痛だったようであるとする説が通説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに　この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし　とのたまはせけるをふと推しはかりに　いみじうなむさえかある　と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道長妾 ===&lt;br /&gt;
紫日記及び紫日記に一部記述が共通の『[[栄花物語|榮華物語]]』には又、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり[[鎌倉時代]]の公家系譜の集大成である『[[尊卑分脈|尊卑分脉]]』（『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』）になると、「上東門院女房　歌人　紫式部是也　源氏物語作者　或本雅正女云々　為時妹也云々　御堂関白道長妾」と紫式部の項にはっきり道長妾との註記が付くようになるが、彼女と道長の関係は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な作品 ==&lt;br /&gt;
*紫式部日記絵詞 （[[国宝]]） [[藤田美術館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 紫式部を題材とした作品 ==&lt;br /&gt;
*[[杉本苑子]]『散華 &amp;lt;small&amp;gt;紫式部の生涯&amp;lt;/small&amp;gt;』&lt;br /&gt;
:（[[中央公論社|中央公論新社]]、平成3年（[[1991年]]）） 上 ISBN 4-12-001994-2、下 ISBN 4-12-001995-0 &lt;br /&gt;
:（[[中公文庫]]、平成6年（[[1994年]]）） 上 ISBN 4-12-202060-3、下 ISBN 4-12-202075-1&lt;br /&gt;
*[[三枝和子]]『小説 紫式部香子の恋』&lt;br /&gt;
:（[[読売新聞社]]、平成3年（1991年）） ISBN 4-643-91087-9&lt;br /&gt;
:（福武文庫、平成6年（1994年）） ISBN 4-8288-5702-8&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 紫式部学会 ==&lt;br /&gt;
紫式部学会とは昭和7年（[[1932年]]）[[6月4日]]に[[東京帝国大学]][[文学部]][[国文学科]]主任教授であった[[藤村作]]（会長）、東京帝国大学文学部国文学科教授であった[[久松潜一]]（副会長）、東京帝国大学文学部国文学研究室副手であった[[池田亀鑑]]（理事長）らによって源氏物語に代表される古典文学の啓蒙を目的として設立された[[学会]]である。昭和39年（[[1964年]]）1月より事務局が[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]にある[[鶴見大学]]文学部日本文学科研究室に置かれている。現在の会長は[[秋山虔]]がつとめている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講演会を実施したり源氏物語を題材にした演劇の上演を後援したりしているほか以下の出版物を刊行している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*機関誌『むらさき』戦前（昭和9年（[[1934年]]）8月～昭和19年（[[1944年]]）6月）は月刊、戦後版（昭和37年（[[1962年]]）～）は年刊&lt;br /&gt;
*論文集『研究と資料　古代文学論叢』昭和44年（[[1969年]]）6月～年刊　武蔵野書院より刊行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[石山寺]] - 源氏物語執筆の場所とされる&lt;br /&gt;
*[[紫式部公園]] - 越前国府のあった[[福井県]][[越前市]]に建てられた&lt;br /&gt;
*[[紫式部文学賞]] - [[京都府]][[宇治市]]主催の女流作家のための文学賞&lt;br /&gt;
*[[宇治市源氏物語ミュージアム]]&lt;br /&gt;
*[[ムラサキシキブ]] - 紫式部の名に由来する植物&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person52.html 紫式部：作家別作品リスト]（[[青空文庫]]）&lt;br /&gt;
*[http://ccs.tsurumi-u.ac.jp/seminar/nihon-bungaku/murasakishikibu-gakkai.htm 紫式部学会 公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{百人一首}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:小倉百人一首の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:源氏物語]]&lt;br /&gt;
[[Category:良門流]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の小説家]]&lt;br /&gt;
[[Category:紙幣の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;toccolours noprint&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto; text-align:center; width:80%; clear:both&amp;quot;&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;background-color:Thistle; text-align:center&amp;quot; colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[百人一首|小倉百人一首]]&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;vertical-align:top&amp;quot;|[[天智天皇|1]] [[持統天皇|2]] [[柿本人麻呂|3]] [[山部赤人|4]] [[猿丸大夫|5]] [[大伴家持|6]] [[阿倍仲麻呂|7]] [[喜撰|8]] [[小野小町|9]] [[蝉丸|10]] [[小野篁|11]] [[遍昭|12]] [[陽成天皇|13]] [[源融|14]] [[光孝天皇| 15]] [[在原行平|16]] [[在原業平|17]] [[藤原敏行|18]] [[伊勢 (歌人)|19]] [[元良親王|20]] [[素性|21]] [[文屋康秀|22]] [[大江千里 (歌人)|23]] [[菅原道真|24]] [[藤原定方|25]] [[藤原忠平|26]] [[藤原兼輔|27]] [[源宗于|28]] [[凡河内躬恒|29]] [[壬生忠岑|30]] [[坂上是則|31]] [[春道列樹|32]] [[紀友則|33]] [[藤原興風|34]] [[紀貫之|35]] [[清原深養父|36]] [[文屋朝康|37]] [[右近 (歌人)|38]] [[源等|39]] [[平兼盛|40]] [[壬生忠見|41]] [[清原元輔|42]] [[藤原敦忠|43]] [[藤原朝忠|44]] [[藤原伊尹|45]] [[曽禰好忠|46]] [[恵慶|47]] [[源重之|48]] [[大中臣能宣|49]] [[藤原義孝|50]] [[藤原実方|51]] [[藤原道信|52]] [[藤原道綱母|53]] [[高階貴子|54]] [[藤原公任|55]] [[和泉式部|56]] [[紫式部|57]] [[大弐三位|58]] [[赤染衛門|59]] [[小式部内侍|60]] [[伊勢大輔|61]] [[清少納言|62]] [[藤原道雅|63]] [[藤原定頼|64]] [[相模 (歌人)|65]] [[行尊|66]] [[周防内侍|67]] [[三条天皇|68]] [[能因|69]] [[良暹|70]] [[源経信|71]] [[祐子内親王家紀伊|72]] [[大江匡房|73]] [[源俊頼|74]] [[藤原基俊|75]] [[藤原忠通|76]] [[崇徳天皇|77]] [[源兼昌|78]] [[藤原顕輔|79]] [[待賢門院堀河|80]] [[徳大寺実定|81]] [[藤原敦頼|82]] [[藤原俊成|83]] [[藤原清輔|84]] [[俊恵|85]] [[西行|86]] [[寂蓮|87]] [[皇嘉門院別当|88]] [[式子内親王|89]] [[殷富門院大輔|90]] [[九条良経|91]] [[二条院讃岐|92]] [[源実朝|93]] [[飛鳥井雅経|94]] [[慈円|95]] [[西園寺公経|96]] [[藤原定家|97]] [[藤原家隆 (従二位)|98]] [[後鳥羽天皇|99]] [[順徳天皇|100]]&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;border-top: 1px solid Thistle&amp;quot;|[[小倉百人一首の歌人の一覧|歌人]] | [[百人秀歌|秀歌]] - [[藤原定子|（53）]] - [[源国信|（73）]] - [[藤原長方|（90）]] | [[決まり字]] | [[競技かるた]] | [[全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会|高校選手権]] | [[小倉百人一首文化財団|文化財団]] | [[時雨殿]] | [[s:小倉百人一首|小倉百人一首]]（ソース） | [[:Commons:Hyakunin Isshu|読み札]]（コモンズ）&lt;br /&gt;
|}&amp;lt;noinclude&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:ナビゲーションテンプレート|おくらひやくにんしつしゆ]]&amp;lt;/noinclude&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
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