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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-05-17T17:09:21Z</updated>
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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=84120</id>
		<title>西山事件</title>
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				<updated>2010-04-09T09:18:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.100.57.25: /* 事件のその後 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{現在進行}}&lt;br /&gt;
'''西山事件'''（'''にしやまじけん'''）とは[[沖縄返還]]協定を巡って、[[1972年]]に[[毎日新聞]]政治部記者・[[西山太吉]]と[[外務省]]の安川壮外務[[審議官]]付[[事務官]]・蓮見喜久子が[[逮捕]]された事件。'''沖縄密約事件'''、'''外務省機密漏洩事件'''とも言う。[[報道の自由]]について、いかなる取材方法であっても無制限に認められるかが裁判上の争点となったが、西山に[[懲役]]4月[[執行猶予]]1年、蓮見に懲役6月執行猶予1年の有罪が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30年後、[[米国]]外交文書の公開で、当時の外務省・[[大蔵省]]高官の[[偽証]]と、[[検察官]]の証拠隠しが明らかになったとして、[[国家賠償]]請求[[民事訴訟|訴訟]]が提起されたが、[[民法]]の[[除斥期間]]を適用され、請求は[[棄却]]された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の経過 ==&lt;br /&gt;
*1972年3月27日　[[衆議院]][[予算委員会]]で[[日本社会党|社会党]]の[[横路孝弘]]議員・[[楢崎弥之助]]議員が外務省極秘[[電信]]を暴露。&lt;br /&gt;
**暴露されたのは1971年5月28日付けで[[愛知揆一]][[外務大臣|外相]]が[[牛場信彦]]駐米[[特命全権大使|大使]]に宛てた、アーミン・H・マイヤー駐日大使と自分の会談の内容及び、同年6月9日付けで[[福田赳夫]]外相臨時代理と中山駐仏大使の間で交わされた井川外務省条約局長とリチャード・スナイダー駐日米公使との交渉内容の合計3通。&lt;br /&gt;
**上記電信では、返還に伴う軍用地の復元補償で、[[米国]]が自発的に払う事となっている400万ドルを実際には日本が肩代わりする旨の密約の存在が露呈した。&lt;br /&gt;
**これらは西山が横路に手渡したものだったが、結果として与野党の政争の具となる。誰が・なぜ・いかなる目的を持って機密文書を漏洩したのか、その背後関係に社会の関心が集まった。&lt;br /&gt;
*1972年3月30日　外務省の内部調査で、蓮見は「私は騙された」と泣き崩れ、ホテルで西山に機密電信を手渡したことを自白。&lt;br /&gt;
*1972年4月4日　外務省職員に伴われて蓮見が出頭、[[国家公務員法]]100条（秘密を守る義務）違反で逮捕。同日、同111条（秘密漏洩をそそのかす罪）で西山も逮捕される。&lt;br /&gt;
*1972年4月5日　毎日新聞は朝刊紙上、「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開。&lt;br /&gt;
*1972年4月6日　毎日新聞側は西山が蓮見との[[情交]]関係によって機密を入手したことを知る。しかしこの事実が公になることは無いと考え、「言論の自由」を掲げてキャンペーンを継続。&lt;br /&gt;
*1972年4月15日　起訴状の「'''女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して'''」というくだりで、被告人両名の情交関係を世間が広く知るところとなる。ちなみに、この起訴状を書いたのは当時東京地検検事の[[佐藤道夫]]（現[[民主党 (1996-)|民主党]][[参議院]]議員）であった。&lt;br /&gt;
**毎日新聞は夕刊紙上で「道義的に遺憾な点があった」とし、病身の夫を持ちながらスキャンダルに巻き込まれた蓮見にも謝罪したが、人妻との不倫によって情報を入手しながら「知る権利」による正当性を主張し続けたことに世間の非難を浴び、抗議の電話が殺到。社会的反響の大きさに慌てた毎日新聞は編集局長を解任、西山を休職処分とした。&lt;br /&gt;
*1974年1月30日 一審[[判決]]。事実を認めた蓮見には懲役6月執行猶予1年の、西山には無罪の判決が下される。検察は西山について[[控訴]]。&lt;br /&gt;
**ここまでの過程で、核心の「密約」に関するマスメディアの疑惑追及は完全に失速。草の根的不買運動と[[オイルショック|石油ショック]]で経営不振に見舞われた毎日新聞は翌年に[[会社更生法]]適用を申請することになる。&lt;br /&gt;
*1976年7月20日　二審判決。西山に懲役4月執行猶予1年の有罪判決。西山側が[[上告]]。&lt;br /&gt;
*1978年5月30日　[[最高裁判所]]が上告棄却。西山の有罪が確定。&lt;br /&gt;
**最高裁は、報道機関が取材目的で公務員に対し国家機密を聞き出す行為が、[[正当業務行為]]と言えるかに付き「それが真に報道の目的から出たものであり、その手段や方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、正当な業務行為というべきであるが、その方法が刑罰法令に触れる行為や、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙する等、法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合には、正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びる。」とし、取材の自由が無制限なものではないことを示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の影響 ==&lt;br /&gt;
*毎日新聞社の取材方法について'''国民的不信を買ってしまった'''こと、言うなれば庶民に対していかに報道の正義を理解させ、且つ、庶民の正義感を鼓舞すべき新聞社が、その正義を否定する不倫問題を取材記者が起してしまい、'''密約問題よりも男女関係のスキャンダルが注目されてしまった。'''*密約の追及を尻すぼみに終わらせてしまったこともあり、政府は今も密約の存在を認めていない。&lt;br /&gt;
*事件後30年を経て「[[アメリカ国立公文書記録管理局]]保管文書の秘密指定解除措置」で公開された「[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]政権関連公文書」の中から'''密約の存在を示す文書が見つかった。'''しかし政府の態度は不変。&lt;br /&gt;
*マスメディアが金科玉条の如く唱えてきた「報道の自由」が、決して無制約なものではないということを自ら明らかにしてしまった。&lt;br /&gt;
*マスメディアの間にも思惑の違いがあった。事件に及んで報道の自由を主張するよりも、毎日新聞を批判することに多くのメディアは力を入れた。新聞系メディアへの対抗意識もあり、週刊誌、特に[[週刊新潮]]は[[川端康成]]の「美しい日本の私」に引っ掛けて「機密漏洩事件 ―美しい日本の美しくない日本人」と題した記事を掲載するなど、大々的に西山と毎日新聞叩きのキャンペーンを行った。新潮には毎日新聞社の内情などが次々に（しかも社員により）通報され、大成功を収めた。この事件で新潮は「一つの大新聞社が傾き、崩壊」するほどの成果を上げ、「言論による[[テロリズム]]の効果」を会得したとさえ言われている（[[亀井淳]]「[http://kamei.cside.com/zakki/038.html 週刊新潮「50年」と沖縄密約報道]」）。&lt;br /&gt;
*事件から経営危機に陥った毎日新聞は、[[日本共産党]]と[[創価学会]]との「和解」（[[宮本顕治|宮本]]委員長と[[池田大作|池田]]会長の会見）を仲介することを手土産に創価学会機関紙「[[聖教新聞]]」の印刷代行を受注。以後、創価学会の影響を排除しきれなくなった。&lt;br /&gt;
*毎日新聞は経営難で[[1977年]]に[[東京放送]](TBS)の株式を売却し、TBSは新聞社系の安定株主がいない放送局となってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==事件のその後==&lt;br /&gt;
2002年、[[アメリカ国立公文書記録管理局]]の機密指定解除に伴う公開で日本政府が否定し続ける密約の存在を示す文書が見つかり、西山は「違法な起訴で記者人生を閉ざされた」などとして、2005年4月、政府に対し3300万円の損害賠償と謝罪を求めて提訴したが、2007年3月27日、東京地裁（加藤謙一裁判長）は「起訴から20年以上が経過した後の提訴で、原告の損害賠償請求権は消滅している」と、民法の[[除斥期間]]を適用し、密約の有無については判断を示さず請求を棄却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年2月8日、対米交渉を担当した当時の[[外務省]]アメリカ局（現・北米局）長[[吉野文六]]が、「復元費用400万ドル（当時の換算で約10億円）は、日本が肩代わりしたものだ」と発言したと[[北海道新聞]]が報じ、同日の[[共同通信]]の取材に対し「返還時に米国に支払った総額3億2000万ドルの中に、原状回復費用400万ドルが含まれていた」と述べ、関係者として初めて密約の存在を認めた。また24日、[[朝日新聞]]の取材に対し、当時の外務大臣である[[河野洋平]]から沖縄密約の存在を否定するよう要請されたと証言。これに対し河野は「記憶にない」とコメントした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府が密約の存在自体を否定し続ける背景ならびに根拠については、全く不明となっている。すなわち、密約を否定する理由についても日本政府は一切明らかにしていないのである。この事をマスメディアから追及された際にも、日本政府及び外務省は｢とにかく無いから無いのだ｣と[[同語反復]]によって否定し、回答拒否を貫いている。このような政府の全面否定に対して、マスメディア側も最近は｢なぜ否定し続けるのか、理由がわからない｣と簡潔に批判するに留まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事件はマスメディアが金科玉条の如く唱えてきた「報道の自由」が、決して無制約なものではないということを自ら明らかにしたばかりか、報道被害に対しての責任追及もまた不可避の存在であることをも明白にした。実際、[[名誉毀損]]その他の報道被害に対しての訴訟がこの事件以降相次ぐようになっている。西山事件はマスメディアが政府機関のみならず、一般大衆に対しても脇を見せてしまった最悪の事例という側面も持ち合わせているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年9月2日、[[筑紫哲也]]、[[原寿雄]]、[[澤地久枝]]、[[我部政明]]など支援者63人と、西山から成る『沖縄密約文書開示請求の会』が、沖縄密約に密接に関連する3件の秘密書簡について外務財務両省に対し開示請求を行なった。なおこれらはアメリカ国立公文書記録管理局において既に実在が確認されている。10月3日、外務省が「不存在」の回答をし、西山サイドは行政処分取り消しを求めて提訴した（沖縄密約情報公開訴訟）。2010年4月9日、東京地裁は外務省に対し取り消しと損害賠償を命令。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年6月、元外務事務次官4人が密約の存在を肯定。このうち村田良平は共同通信の取材に実名で証言した。更にこの4人は密約の存在を“伝えるべき首相・外相”と“伝えてはならない大臣”を選別していた事も明らかになった（伝えられていたのは自民党出身の大臣のみで、社会民主党の[[村山富市]]には伝えていなかった）。7月、2001年4月の[[情報公開法]]施行を前に、各省庁で文書廃棄が行なわれたが、外務省の処分量が頭抜けて多く、しかも処分・再生紙化された中には密約関連の文書も含まれていた疑いがある事を朝日新聞がスクープ。8月25日、沖縄密約訴訟の第2回口頭弁論で、吉野に対する証人尋問が申請され、民事訴訟法に基づき外務大臣許可を取り付けた上で12月に行なう旨決定。吉野は、原告側陳述書中で、米軍撤収後の跡地復旧とVOAの移転に関し日本が費用を負担することを承諾した文書に署名した旨認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2009年9月16日、[[鳩山由紀夫内閣]]成立'''。[[岡田克也]]外務大臣は17日、[[沖縄返還]]協定と[[非核三原則]]を巡る計4つの密約について、藪中三十二外務事務次官に100日以内の調査を命じた事を明らかにする（後に、11月末を目処とする公表命令が下った）。吉野への尋問も10月、許可された。12月1日、吉野が東京地裁にて証言。この中で密約覚書に「BY」（Bunroku Yoshinoの略）と署名した事を明言する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件を題材とした作品 ==&lt;br /&gt;
*『密約 外務省機密漏洩事件』[[澤地久枝]]/岩波現代文庫（中公文庫版は絶版　テレビドラマ化までされ更に劇場公開）[http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17976/ goo映画]&lt;br /&gt;
*『運命の人』[[山崎豊子]]/文藝春秋&lt;br /&gt;
*『加治隆介の議 12巻』[[弘兼憲史]]/講談社ミスターマガジンKC&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[外務省]] - [[佐藤栄作]]&lt;br /&gt;
*[[知る権利]] - [[ジャーナリズム]] - [[情報公開]]&lt;br /&gt;
*[[日米地位協定]] - [[非核三原則]]&amp;lt;!--協定違反がありながら政府が“知らぬ・存ぜぬ”を繰り返している例。--&amp;gt; - [[思いやり予算]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
* [http://plaza.across.or.jp/~fujimori/nt01.html 西山太吉国賠訴訟]（藤森克美法律事務所　原告敗訴で終結）&lt;br /&gt;
*[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/068/0380/06803270380019a.html 国会議事録]&lt;br /&gt;
*[http://www.kinyobi.co.jp/MiscPages/rupo17th_4 ルポ　西山太吉国賠訴訟]（週刊金曜日）&lt;br /&gt;
*ビデオニュース・ドットコム&lt;br /&gt;
**[http://www.videonews.com/on-demand/251260/000381.php （第256回）日米偽装同盟はここから始まった]&lt;br /&gt;
**[http://www.videonews.com/press-club/0704/001057.php 未だに密約の存在を認めない政府を厳しく批判]&lt;br /&gt;
**[http://www.videonews.com/press-club/0701/001029.php 「まともな裁判官に出会うまで闘う」]&lt;br /&gt;
* [[天木直人]]のホームページ『メディアを創る』: 「[http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/547.html 元毎日新聞記者西山太吉氏の言葉]」（2006年5月20日）&lt;br /&gt;
* [[東京新聞]]：「憲法は、今　沖縄「密約」の果てに　在日米軍再編の原点」上・[http://www.tokyo-np.co.jp/kenpou/txt/20060501.html “国家犯罪”再び問う]（2006年5月1日）、中・[http://www.tokyo-np.co.jp/kenpou/txt/20060502.html 『きれいごとすぎた』]（2006年5月2日）、下・[http://www.tokyo-np.co.jp/kenpou/txt/20060503.html 『米の言いなり』今も]（2006年5月3日）&lt;br /&gt;
* 日刊ベリタ：「[http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200604010932026 沖縄返還密約『吉野文六証言』の衝撃と米軍再編]」（2006年4月1日）&lt;br /&gt;
* [[朝日新聞]]:別刷　be　連載　逆風満帆「元毎日新聞記者　西山太吉」[http://www.be.asahi.com/20060715/W14/20060705TTOH0004A.html (1)][http://www.be.asahi.com/20060722/W14/20060713TTOH0001A.html (2)][http://www.be.asahi.com/20060729/W14/20060720TTOH0001A.html (3)][http://www.be.asahi.com/20060805/W14/20060725TTOH0004A.html (4)]&lt;br /&gt;
* [[福島瑞穂|福島みずほ]]公式ホームページ「参議院予算委員会質問」: 「[http://www.mizuhoto.org/01/04back_n/060313.html#02 沖縄返還に関する密約問題について]」（参・予算委員会、2006年3月13日）&lt;br /&gt;
* [[北海道新聞]]：「[http://www5.hokkaido-np.co.jp/syakai/okinawa/ 1971年　沖縄返還協定　『米との密約あった』]」（2006年2月8日）&lt;br /&gt;
* 衆議院第68国会：[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/068/0380/06803270380019a.html 予算委員会議事録第19号]（1972年3月27日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の政治史|にしやましけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦後の事件|にしやましけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:報道|にしやましけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:判例|にしやましけん]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.100.57.25</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BF%8A%E8%BC%94&amp;diff=84119</id>
		<title>中村俊輔</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.100.57.25: 新しいページ: ''''中村 俊輔'''（なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - ）は、神奈川県横浜市出身の[[プロフェッショナル (サッカー)|プ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''中村 俊輔'''（なかむら しゅんすけ、[[1978年]][[6月24日]] - ）は、[[神奈川県]][[横浜市]]出身の[[プロフェッショナル (サッカー)|プロサッカー選手]]。[[J1]]、[[横浜F・マリノス]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。「俊輔」「俊さん」などの愛称で親しまれている。海外では「シュンスケ」や「シュン」と呼ばれる事は少なく、「ナカムラ」もしくは愛称として「ナカ」「ナック」と呼ばれる事が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]][[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]][[JリーグMVP一覧|MVP]]（日本人選手最年少の22歳）、[[アジアカップ2004]]MVP、2006-07[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]MVPなどを受賞している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元タレントの[[今井まなみ]]との間に3児。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
=== 学生時代 ===&lt;br /&gt;
深園SCに入団、サッカーを始める。市立深谷中学時代には[[日産自動車サッカー部|日産]]（現・[[横浜F・マリノス]]）のジュニアユースのエースとして全国優勝を果たすも&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、同チームが2年連続全国優勝を果たした3年生時は10番を背負いながら控え選手だった（『中村俊輔物語』より）。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[ユース]]へ昇格が出来ず&amp;lt;ref&amp;gt;中村本人は、当時のプレーが悪かったから昇格できなかったのだと語っているが（著書 察知力）、当時の担当者は160cmに満たない身長が原因だったと述懐している。『中村俊輔物語』では体格差を個人技で補おうとしたが、そのプレイスタイルがチームの方針に合わなかったことから出場機会を失っていったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;、ジュニアユース時代の先輩に誘われて[[桐光学園高等学校]]へ進学しサッカー部に所属&amp;lt;ref&amp;gt;1学年上には[[須藤大輔]]、同級生に[[佐原秀樹]]、1学年下に[[宇留野純]]や[[井手口純]]がいる。&amp;lt;/ref&amp;gt;、高校2年の[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]で頭角を現し、高校3年の全国高校サッカー選手権で準優勝を収めた&amp;lt;ref&amp;gt;この時、横浜マリノス（現・横浜F・マリノス）のサポーターが応援に来た。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[AFCユース選手権|アジアユース]]にも高校サッカー部からの唯一の選出選手として出場した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Jリーグでの活躍 ===&lt;br /&gt;
[[1997年]]、[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]に入団。同年の[[FIFA U-20ワールドカップ#1997年マレーシア大会|ワールドユース]]に出場。1997年のJリーグ優秀新人賞を受賞する。[[1998年]]初頭には[[サッカー日本代表|A代表]]合宿に初参加する。[[1999年]]、[[2000年のJリーグ#ベストイレブン|Jリーグベストイレブン]]を初受賞する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]、[[オリンピックサッカー日本代表選手|U-23]]代表の主力として[[シドニーオリンピック]]に出場。同年、日本人選手最年少で[[2000年のJリーグ#表彰|Jリーグ最優秀選手賞]]、[[日本年間最優秀選手賞]]を受賞。A代表にも初招集され、[[AFCアジアカップ|アジアカップ]]では優勝とベストイレブンを受賞、日本代表として定着していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== セリエA・レッジーナ移籍 ===&lt;br /&gt;
[[2002年]]5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いていたものの、直前に治って親善試合で活躍し、[[2002 FIFAワールドカップ|日韓W杯]]本大会メンバーへの招集が有力視されていたが、当時の日本代表監督であった[[フィリップ・トルシエ|トルシエ]]の選考基準に合致しなかったことなどで落選した（トルシエはW杯後に「負けているときに誰を投入しようかとベンチをみた。その時中村だけが試合をみず髪の毛ばかりをいじっていた。」と発言、未選出の一因をあげている）。スペインの名門、[[レアル・マドリード]]からもオファーがあった（このオファーはレアル・マドリードのカンテラ（下部組織）からプレーさせるというものだった）が、W杯に出場することが条件にあったため、立ち消えになった。しかし同年7月、イタリアの[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[レッジーナ]]に移籍。レギュラーを確保し、キッカーを任されセリエA残留に貢献した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2003年]]6月、[[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|コンフェデレーションズカップ]]フランス大会で、3得点を挙げて『ブロンズシュー賞』を受賞。中でも[[サッカーフランス代表|フランス]]戦では、[[バルテズ]]から得点を奪った[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]や、片足でのマルセイユ・ルーレットを繰り出すなどの活躍からフランスの新聞・レキップ紙には「宝石のように輝いていた」などと評された。2003シーズンは出来得る限り代表戦に出場したが、コンディションを崩してしまったこと、故障を繰り返したことが響いて、リーグ戦出場は激減した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]]7月から8月に行われた[[アジアカップ2004|アジアカップ]]中国大会で、最優秀選手に選ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3年目となったセリエAの2004-05シーズンは、終盤こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼ先発出場し、クラブ創設以来の最高順位に貢献。レッジーナ歴代ベストイレブンに選出される。[[2005年]]6月、[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|コンフェデレーションズカップ]]ドイツ大会で、1得点2アシストをあげ、グループリーグで敗退したチームの選手で構成されるベストイレブンに選出された&amp;lt;ref&amp;gt;[[ドイツ]][[キッカー (新聞)|キッカー]]誌の選定による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、今大会[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では強烈なミドルシュートを決め、さらに同点のきっかけとなるフリーキックも放つなど、得点を挙げた[[ロナウジーニョ]]や[[ロビーニョ]]らを抑えて、[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]戦に続き2試合連続でのMOMに選出されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== セルティック移籍 ===&lt;br /&gt;
セリエAで3年間プレーした後、[[2005年]]7月に[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]の2強の一角である[[セルティックFC|セルティック]]へ移籍。リーグ優勝と国内[[カップ戦]]優勝の2冠を獲得した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]4月、フットボールスクール「Shunsuke Park Soccer School」を出身地・横浜に開校。6月、[[2006 FIFAワールドカップ|ドイツW杯]]に選出された。W杯直前に風邪をひいたが、ジーコは中村を中心選手として重要視していたため、結局グループリーグ全3試合にフル出場。オーストラリア戦では足の爪が割れ、クロアチア戦直前には39度の発熱に見舞われるなどのコンディションもあり納得のいくパフォーマンスが発揮出来ず、2敗1分で敗退した。また第1戦の[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]戦ではクロスボールが直接得点となり、自身のW杯での初得点となった。9月、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07|2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ]]に初出場。グループリーグ第1戦、[[オールドトラフォード]]で開催された[[マンチェスター・ユナイテッド]]戦でフリーキックによる得点をあげ、[[UEFAチャンピオンズカップ]]から[[UEFAチャンピオンズリーグ]]（以下CL）に改編されてからの日本人初得点者となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[1992年]]からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978－79年大会の[[奥寺康彦]]。&amp;lt;/ref&amp;gt;。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でも得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初&amp;lt;ref&amp;gt;UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。&amp;lt;/ref&amp;gt;、日本人選手としても初めての快挙である&amp;lt;ref&amp;gt;1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に[[奥寺康彦]]が進出している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。2006年10月14日、[[ダンディー・ユナイテッドFC|ダンディー・ユナイテッド]]戦で海外リーグ戦における自身初の[[ハットトリック]]を決めた&amp;lt;ref name=hochi&amp;gt;{{Cite web|author=スポーツ報知|date=2006-10-15|url=http://s04.megalodon.jp/2009-0301-1647-03/hochi.yomiuri.co.jp/contents/feature/sports/shunsuke/2006/news/20061015-OHT1T00081.htm|title=俊輔ハット！オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ|accessdate=2009-03-01}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]]3月24日、[[キリンチャレンジカップ]]・[[サッカーペルー代表|ペルー戦]]において、[[オシムジャパン]]発足以来の初選出。2アシストで勝利に貢献した。4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった&amp;lt;ref&amp;gt;近年の欧州リーグでの優勝に関しては[[中田英寿]]がセリエA・[[ASローマ]]で優勝。&amp;lt;/ref&amp;gt;。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]を受賞、年間ベストゴール賞&amp;lt;ref&amp;gt;ダンディーユナイテッド戦のループシュート。&amp;lt;/ref&amp;gt;も獲得した。また、2007年の[[バロンドール]]候補にもノミネートされた&amp;lt;ref&amp;gt;日本人としては中田英寿、[[稲本潤一]]に次ぎ3人目。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エスパニョール移籍 ===&lt;br /&gt;
2009年6月22日、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[横浜F・マリノス]]などからオファーを受けていたが、[[スペイン]]の[[RCDエスパニョール|エスパニョール]]への移籍が決定した&amp;lt;ref name=nikkansports&amp;gt;{{Cite web|author=日刊スポーツ|date=2009-06-24|url=http://s01.megalodon.jp/2009-0624-1145-49/www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20090624-510010.html|title=俊輔、14クラブからオファー来ていた|accessdate=同日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。当初、背番号は25を希望していたが、[[リーガ・エスパニョーラ]]の規定で25はGK専用の番号であるため、プロデビューしてから初の1桁の背番号である背番号7を着用することになった。ちなみに背番号を7に決めた理由については「（空き番号に）7とか14とかあったんだけれど、着けたことがない番号で新鮮な気持ちで」選んだと語っている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sanspo.com/soccer/news/090713/scb0907132219005-n1.htm 【俊輔トーク】新鮮な気持ちで背番号「7」に] - SANSPO.COM、2009年7月13日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新たなチームの顔として非常に大きな期待を寄せられたエスパニョール加入だったが開幕直後から低調なプレーが続き、[[マウリシオ・ポチェッティーノ|ポチェッティーノ]]監督は調子の上がらない中村に対して、彼の意向を汲んだ上で様々な中盤ポジションで中村を起用する。シーズン前半に出場した試合の11試合（リーグ戦先発出場6試合、ベンチスタート4試合、カップ戦先発出場1試合）にて、ゴール0アシスト0&amp;lt;ref&amp;gt;第4節マラガ戦にて日本ではアシストを記録したように言われているが、実際はアシストでは無く、中村俊輔オフィシャルウェブサイトでもアシストとはなっていない。[http://shunsuke.com/data/record/2009esp.shtml 出場記録 RCDエスパニョール] - 中村俊輔オフィシャルウェブサイト&amp;lt;/ref&amp;gt;、と、ほとんどチームに貢献できず、Goal.com選出のリーガ前半戦のワーストイレブンに選出されてしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.goal.com/en/news/1717/editorial/2009/12/29/1714646/spanish-inquisition-la-liga-worst-team-of-the-season Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The Season] - Goal.com、2009年12月29日&amp;lt;/ref&amp;gt;。また当初は中村に対して協力的であったポチェッティーノ監督もシーズンが進むにつれ期待に応えられない中村に、「チームのみなが、彼が気持ちよくプレーできるように力になる」とコメント。即戦力とみなして獲得した司令塔が「期待外れ」だったことを、公の場で暗に示してしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20091106-563266.html エスパ監督、会見で“俊輔は期待外れ] - nikkansports.com、2009年11月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
年が明けて移籍1年目シーズンの中間移籍期間には早くもチームの移籍リストに載るまでになり、セルティック時代の恩師[[ゴードン・ストラカン]]が監督を務める[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|イングランド2部]]所属の[[ミドルスブラFC]]より[[レンタル移籍]]のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否&amp;lt;ref&amp;gt;[http://wwww.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2010/02/02/1771311/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BB%A3%E7%90%86%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%83%9C%E3%83%AD%E7%A7%BB%E7%B1%8D%E3%81%AE%E8%A9%B1%E3%81%97%E5%90%88%E3%81%84%E3%81%B8 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ] - Goal.com、2010年2月2日&amp;lt;/ref&amp;gt;、引き続きエスパニョールに残留する事となった。しかし、2010年1月からのシーズン中盤以降はエスパニョールの新戦力獲得や若手の台頭などにより、これまで以上に出場機会が激減。2月26日に古巣の[[横浜F・マリノス]]復帰が決まった。結局スペインでは結果が残せず、約8年ぶりの国内復帰となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== プレースタイル ==&lt;br /&gt;
[[プレースキック (サッカー)|プレースキック]]の名手として報道されており、特に直接[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]を得意としている&amp;lt;ref&amp;gt;FIFA 公式サイトで行われた意見公募企画、[http://www.fifa.com/worldfootball/news /newsid=625416.html FKの名手は誰?]にて、名手の一人として写真入りで紹介されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォームである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フィールドプレーにおいては、中盤で溜めをつくりながら正確な中・長距離のパスでボールを散らし、隙を見て前線へスルーパスを送る。また、スピードは無いもののフェイントを織り交ぜた柔らかいタッチのドリブルが特徴。発想力やテクニックに優れ、足裏を使って相手をかわす等のプレーも得意としている。繊細なテクニシャンであるが、コンフェデレーションズカップでの[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦にも代表されるように、強烈なミドルシュートも持ち合わせている。レッジーナ時代には、その創造性とテクニックを駆使するプレースタイルから「東洋の[[ロベルト・バッジョ|バッジョ]]」と称された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://seriea.jp/pageShw.php?pageid=55 指揮官絶賛「俊輔はバッジオ」] – SerieA.jp、2004年9月14日&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらにセルティック時代には、恩師ゴードン・ストラカンはフィジカル面を問題視しながらも中村について「タックルができない。ヘディングもできない。それがどうした、彼は天才だ」という言葉を残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方では対人での守備や積極性、フィジカル面に課題を残している。近年では運動量の増加や守備に対する意識が向上しているという評価もあるが、それに反比例するかのように攻撃面で決定的な違いを生む場面が少なくなった。特にエスパニョールでは、20代前半のような個人での突破や得点に絡むプレーがほとんど見られず、カウンターのチャンスでも大きな溜めを作ることやバックパスをすることから味方の攻撃の流れを止めることも少なくなく、消極的なプレーが非難されていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20091207/soc0912071224001-n2.htm 俊輔2試合連続惨敗 消極的なプレーに客からブーイング] - [[夕刊フジ|ZAKZAK]]、2009年12月7日&amp;lt;/ref&amp;gt;。またスペイン語などのコミュニケーションが取れないこと、自己主張の弱さなどが不振の要因だったのではないかと分析されることもある。中盤の右サイドであるにも関わらず、ポジションや戦術を無視してボールを持つ味方に近寄って足元でボールをもらう動きが多く、右サイドにスペースができるため、そこを攻め込まれることが多々あることで、戦術眼の低下やプレーの質が劣化したとの見解もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日本代表において得意の直接フリーキックからの得点を毎年記録しているものの、[[コーナーキック]]からの[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]は、2006年2月28日に行われた[[サッカーボスニア・ヘルツェゴビナ代表|ボスニア・ヘルツェゴビナ]]戦以来&amp;lt;ref&amp;gt;[http://live.sports.yahoo.co.jp/sportsnavi/jpn_20060228.html サッカー日本代表 国際親善試合 ボスニア・ヘルツェゴビナ戦] - スポーツナビ、2006年2月28日&amp;lt;/ref&amp;gt;。フリーキックからのアシストは、2007年9月11日に行われた[[サッカースイス代表|スイス]]戦以来&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/live/jpn_20070911_01.htm サッカー日本代表 国際親善試合 スイス戦] - スポーツナビ、2007年9月11日&amp;lt;/ref&amp;gt;、記録されていない。但し、クラブチームにおいてはJリーグ復帰後、2試合続けてコーナーキックからのアシストを記録している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*代表のチームメイトである[[中澤佑二]]や[[遠藤保仁]]と仲が良く、特に代表での遠藤との相性の良さは有名である。解説者では[[中西哲生]]と親交がある。&lt;br /&gt;
*プライベートでは[[2004年]]2月、横浜マリノス時代のチームメート[[奥大介]]の夫人・[[佐伯日菜子]]の紹介で知り合った、「全国女子高生制服コレクション」第6回準グランプリ（1996年）の今井まなみと結婚、2010年現在3児の父。結婚に女性ファンは大ショックだったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 代表歴 ==&lt;br /&gt;
=== 出場大会など ===&lt;br /&gt;
* 1996年 [[AFCユース選手権]]韓国大会 ベスト4&lt;br /&gt;
* 1997年 [[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース]]マレーシア大会 ベスト8&lt;br /&gt;
* 2000年 [[シドニーオリンピック]] ベスト8&lt;br /&gt;
* 2000年 [[AFCアジアカップ2000|アジアカップ]]レバノン大会 優勝&lt;br /&gt;
* 2003年 [[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|コンフェデレーションズカップ]]フランス大会 グループリーグ敗退&lt;br /&gt;
* 2004年 [[AFCアジアカップ2004|アジアカップ]]中国大会 優勝&lt;br /&gt;
* 2005年 [[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|コンフェデレーションズカップ]]ドイツ大会 グループリーグ敗退&lt;br /&gt;
* 2006年 [[2006 FIFAワールドカップ|ワールドカップドイツ大会]] グループリーグ敗退&lt;br /&gt;
* 2007年 [[アジアカップ2007]] ベスト4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 試合数 ===&lt;br /&gt;
* 国際Aマッチ 94試合 24得点（2000年 - ）&lt;br /&gt;
{|-&lt;br /&gt;
|2000||16||3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2001||1||0&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2002||6||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2003||8||4&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2004||15||3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005||11||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2006||6||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2007||10||4&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2008||9||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2009||7||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010||1||0&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!通算&lt;br /&gt;
|94||24&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゴール ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! # !! 開催年月日 !! 開催地 !! 対戦国 !! 勝敗 !! 試合概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1. || 2000年2月16日 || [[中国]] || {{BRUf}} || ○ 9-0 || [[AFCアジアカップ2000 (予選)|AFCアジアカップ2000予選]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2. || 2000年6月11日 || [[日本]] || {{SVKf}} || △ 1-1 || [[キリンカップ・サッカー|キリンカップ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 3. || 2000年8月16日 || 日本 || {{UAEf}} || ○ 3-1 || [[キリンチャレンジカップ|キリンチャレンジ2000]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 4. || 2002年5月2日 || 日本 || {{HNDf}} || △ 3-3 || キリンカップ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 5. || 2002年5月2日 || 日本 || {{HNDf}} || △ 3-3 || キリンカップ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 6. || 2003年3月28日 || 日本 || {{URYf}} || △ 2-2 || 親善試合&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 7. || 2003年6月18日 || [[フランス]] || {{NZLf}} || ○ 3-0 || [[FIFAコンフェデレーションズカップ2003]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 8. || 2003年6月18日 || [[フランス]] || {{NZLf}} || ○ 3-0 || [[FIFAコンフェデレーションズカップ2003]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 9. || 2003年6月20日 || フランス || {{FRAf}} || ● 1-2 || FIFAコンフェデレーションズカップ2003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 10. || 2004年6月9日 || 日本 || {{INDf}} || ○ 7-0 || [[2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11. || 2004年7月20日 || 中国 || {{OMNf}} || ○ 1-0 || [[AFCアジアカップ2004]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 12. || 2004年7月24日 || 中国 || {{THAf}} || ○ 4-1 || AFCアジアカップ2004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13. || 2005年6月22日 || [[ドイツ]] || {{BRAf}} || △ 2-2 || [[FIFAコンフェデレーションズカップ2005]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 14. || 2005年9月7日 || 日本 || {{HNDf}} || ○ 5-4 || [[キリンチャレンジカップ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 15. || 2005年10月8日 || [[ラトビア]] || {{LVAf}} || △ 2-2 || 親善試合&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 16. || 2006年6月12日 || ドイツ || {{AUSf}} || ● 1-3 || [[2006 FIFAワールドカップ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 17. || 2007年7月13日 || [[ベトナム]] || {{UAEf}} || ○ 3-1 || [[AFCアジアカップ2007]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 18. || 2007年7月16日 || ベトナム || {{VNMf}} || ○ 4-1 || AFCアジアカップ2007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 19. || 2007年9月11日 || [[オーストリア]] || {{SUIf}} || ○ 4-3 || 親善試合&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 20. || 2007年9月11日 || [[オーストリア]] || {{SUIf}} || ○ 4-3 || 親善試合&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 21. || 2008年6月2日 || 日本 || {{OMNf}} || ○ 3-0 || [[2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 22. || 2008年9月6日 || [[バーレーン]] || {{BHRf}} || ○ 3-2 || 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
| 23. || 2009年3月28日 || 日本 || {{BHRf}} || ○ 1-0 || 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
| 24. || 2009年11月18日 || 香港 || {{HKGf}} || ○ 4-0 || [[AFCアジアカップ2011 (予選)]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タイトル ==&lt;br /&gt;
=== クラブタイトル ===&lt;br /&gt;
;横浜Fマリノス&lt;br /&gt;
* [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]1stステージ：1回（2000年）&lt;br /&gt;
* [[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]：1回（2001年）&lt;br /&gt;
;セルティックFC&lt;br /&gt;
* [[スコティッシュ・プレミアリーグ]]：3回（2005-06、2006-07、2007-08）&lt;br /&gt;
* [[スコティッシュカップ]]：1回（2006-07）&lt;br /&gt;
* [[スコティッシュリーグカップ]]：2回（2005-06、2008-09）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 個人タイトル ===&lt;br /&gt;
* Jリーグ優秀新人賞（1997年）&lt;br /&gt;
* Jリーグ優秀選手賞：3回（1999年 - 2001年）&lt;br /&gt;
* [[Jリーグアウォーズ#ベストイレブン|Jリーグベストイレブン]]：2回（1999年 - 2000年）&lt;br /&gt;
* [[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞（MVP）|Jリーグ最優秀選手賞]]1回（2000年）&lt;br /&gt;
* [[日本年間最優秀選手賞]]：1回（2000年）&lt;br /&gt;
* [[AFCアジアカップ]]ベストイレブン：2回（2000年、2004年）&lt;br /&gt;
* [[AFCアジアカップ#大会MVP|AFCアジアカップ]] MVP：1回（2004年） &lt;br /&gt;
* [[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]：1回（2006-07） &lt;br /&gt;
* [[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]：1回（2006-07） &lt;br /&gt;
* [[スコティッシュ・プレミアリーグ]]ベストイレブン：1回（2006-07）&lt;br /&gt;
* スコットランドリーグスポンサー年間最優秀選手賞:1回（2006-07）&lt;br /&gt;
* スコットランドリーグ月間MVP：1回（2006-07 2月）  &lt;br /&gt;
* スコティッシュプレミアリーグ年間ベストゴール：1回（2006-07 ダンディユナイテッド戦） &lt;br /&gt;
* セルティック・ゴール・オブ・ザ・シーズン：1回（2007-08 レンジャーズ戦）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[日本プロスポーツ大賞]] 殊勲賞：1回（2000年）&lt;br /&gt;
* [[報知プロスポーツ大賞]] Jリーグ部門：1回（2000年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
* 1997年3月8日 公式戦初出場 - [[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]予選 vs[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]戦（[[国立霞ヶ丘競技場|国立競技場]]）&lt;br /&gt;
* 1997年4月16日 Jリーグ初出場 - J 1st第2節 vs[[ガンバ大阪]]戦（[[横浜国際総合競技場]]）&lt;br /&gt;
* 1997年5月3日 Jリーグ初得点 - J 1st第6節 vs[[湘南ベルマーレ|ベルマーレ平塚]]戦（[[三ツ沢公園球技場|三ツ沢競技場]]）&lt;br /&gt;
* 1998年11月14日  [[ハットトリック]]達成 - J 2nd第17節 vsベルマーレ平塚戦（横浜国際総合競技場）&lt;br /&gt;
* 2000年2月13日 A代表初出場 - アジアカップ予選 vs[[サッカーシンガポール代表|シンガポール]]戦（[[マカオ]]）&lt;br /&gt;
* 2000年2月16日 A代表初得点 - アジアカップ予選 vs[[サッカーブルネイ代表|ブルネイ]]戦（マカオ）&lt;br /&gt;
* 2002年8月18日 セリエA初出場・初得点 - [[コッパ・イタリア]]予選 vs[[ターラント・スポーツ|ターラント]]戦（[[ターラント]]）&lt;br /&gt;
* 2005年8月6日 スコティッシュ・プレミアリーグ初出場 - スコティッシュ・プレミアリーグ第2節 vs[[ダンディー・ユナイテッド]]（[[セルティック・パーク]]）&lt;br /&gt;
* 2005年8月28日 スコティッシュ・プレミアリーグ初得点 - スコティッシュ・プレミアリーグ第5節） vs[[ダンファームリン・アスレティックFC|ダンファームリン]]（イースト・エンド・パーク）&lt;br /&gt;
* 2006年9月13日 UEFAチャンピオンズリーグ初得点&amp;lt;ref&amp;gt;1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。&amp;lt;/ref&amp;gt; - グループリーグ第1戦 vs[[マンチェスター・ユナイテッド]]戦（[[オールド・トラフォード]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 所属クラブ ==&lt;br /&gt;
'''ユース経歴'''&lt;br /&gt;
* 1985年 - 1991年 深園SC&lt;br /&gt;
* 1991年 - 1994年 [[日産自動車サッカー部|日産FC]]ジュニアユース&lt;br /&gt;
* 1994年 - 1997年 [[桐光学園高等学校]]&lt;br /&gt;
'''プロ経歴'''&lt;br /&gt;
* 1997年 - 2002年7月  {{Flagicon|JPN}} [[横浜F・マリノス|横浜マリノス（現・横浜F・マリノス）]]&lt;br /&gt;
* 2002年8月 - 2005年7月 {{Flagicon|ITA}} [[レッジーナ]]&lt;br /&gt;
* 2005年8月 - 2009年6月 {{Flagicon|SCO}} [[セルティックFC]]&lt;br /&gt;
* 2009年6月 - 2010年2月 {{Flagicon|ESP}} [[RCDエスパニョール]]&lt;br /&gt;
* 2010年2月 - 現在  {{Flagicon|JPN}} 横浜F・マリノス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== CM出演 ==&lt;br /&gt;
* [[日本コカ・コーラ]]&lt;br /&gt;
** [[アクエリアス]]（2001年）&lt;br /&gt;
*　[[日本ビクター]]&lt;br /&gt;
* [[麒麟麦酒|キリンビール]]&lt;br /&gt;
** [[麒麟淡麗〈生〉]]&lt;br /&gt;
* [[アディダス|adidas]]&lt;br /&gt;
** 『サッカー狂症候群 中村俊輔篇』 （2002年）&lt;br /&gt;
** 『+10 中村俊輔+10 vs デルピエロ+10篇』 （2006年） - [[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]との共演&lt;br /&gt;
** 『JOSE+10』 （2006年）&lt;br /&gt;
* [[ファミリーマート]]&lt;br /&gt;
* [[キャドバリー・シュウェップス|アダムス]]&lt;br /&gt;
** 「リカルデント」 （2003年）&lt;br /&gt;
* [[大塚製薬]]&lt;br /&gt;
** 「[[オロナミンCドリンク|オロナミンC]]」 (2005年) - [[上戸彩]]との共演&lt;br /&gt;
** 「[[ポカリスエット]]」 （2008年） - 熊本限定&lt;br /&gt;
** 「ポカリスエット」 （2008年） - 『機能篇』&lt;br /&gt;
* [[コナミ]]&lt;br /&gt;
** 「[[ウイニングイレブン|ウイニングイレブン9]]」 （2005年） - [[ジーコ]]との共演&lt;br /&gt;
** 「ウイニングイレブン10」 （2006年） - ジーコとの共演&lt;br /&gt;
* [[ヤマダ電機]]（2006年 - ）&lt;br /&gt;
** 『For Your JUST篇』&lt;br /&gt;
** 『ヤマダに新戦力篇』&lt;br /&gt;
* [[シュガーレディー]]（2006年） - [[稲本潤一]]との共演&lt;br /&gt;
* [[トヨタ自動車|TOYOTA]] 「トビラを開けよう」キャンペーン （2006年）&lt;br /&gt;
* [[アイデム|AIDEM]] 「i のある仕事を」キャンペーン （2006年 - 2008年）&lt;br /&gt;
* [[富士重工業|スバル]]「[[スバル・エクシーガ|エクシーガ]]」（2009年 - ）&lt;br /&gt;
* 中村俊輔本人をイメージした[[香水]]、「メシア10」の広告など他多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== PV出演 ==&lt;br /&gt;
* [[Hi-Fi CAMP]] 「だから一歩前に踏み出して」（2009年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出版 ==&lt;br /&gt;
=== 執筆書籍 ===&lt;br /&gt;
* 2005年 Ciao! - 中村俊輔イタリア日記（[[ソニーマガジンズ]]）ISBN 4-7897-2539-1&lt;br /&gt;
* 2008年 察知力（[[幻冬舎]]）ISBN 4-3449-8081-6&lt;br /&gt;
* 2009年 夢をかなえるサッカーノート（[[文藝春秋]]）ISBN 4-1637-1740-4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関連書籍 ===&lt;br /&gt;
* 2000年 中村俊輔 - 世界へはなつシュート（[[旺文社]]、北条正士）ISBN 4-01-072495-1&lt;br /&gt;
* 2001年 シュンスケ! - 中村俊輔ファンタジスタへの予感（[[小学館]]）ISBN 4-09-102343-6&lt;br /&gt;
* 2001年 天才レフティー、中村俊輔（[[ラインブックス]]、中村俊輔担当記者グループ）ISBN 4-86204-010-1&lt;br /&gt;
* 2002年 中村俊輔 飛翔 （ラインブックス、中村俊輔担当記者グループ）ISBN 4-89809-106-7&lt;br /&gt;
* 2002年 中村俊輔 リスタート （文藝春秋、佐藤俊）ISBN 4-16-358840-X&lt;br /&gt;
* 2003年 黄金のカルテット 中村俊輔物語（[[汐文社]]、本郷陽二）ISBN 4-8113-7644-7&lt;br /&gt;
* 2003年 海を渡ったヒーローたち - 中村俊輔・[[稲本潤一]]・[[小野伸二]]・[[中田英寿]]（汐文社、本郷陽二）ISBN 4-8113-7654-4&lt;br /&gt;
* 2003年 『プライド』 中村俊輔 オフィシャルドキュメントブック（ソニー・マガジンズ、藤沼正明）ISBN 4-7897-2162-0&lt;br /&gt;
* 2004年 中村俊輔 栄光への疾走（[[鹿砦社]]、中村俊輔取材班）ISBN 4-8463-0559-7&lt;br /&gt;
* 2005年 SHUNSUKE 中村俊輔 イタリアの軌跡（[[朝日新聞社]]、アルフレード・ペドゥッラ）ISBN 4-02-261474-9&lt;br /&gt;
* 2006年 中村俊輔フォトブック 「NAKAMURA SHUNSUKE」（[[ワニマガジン社]]、横内禎久）ISBN 4-89829-757-9&lt;br /&gt;
* 2007年 LEGEND OF THE ATHLETE　中村俊輔物語（[[集英社]]、工藤晋・大内冬樹）ISBN 4-08-874357-1&lt;br /&gt;
* 2007年 ファンタジスタ中村俊輔（汐文社、本郷陽二）ISBN 4-8113-8425-3&lt;br /&gt;
* 2007年 中村俊輔世界をかける背番号10（ファンタジスタ）（[[学研ホールディングス|学習研究社]]、矢内由美子）ISBN 4-05-202814-7&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== DVD ===&lt;br /&gt;
* SHUNSUKE&lt;br /&gt;
* FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW&lt;br /&gt;
* 中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉&lt;br /&gt;
* 中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002 - 2005&lt;br /&gt;
* セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}  &lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://shunsuke.com/ 中村俊輔オフィシャルウェブサイト]&lt;br /&gt;
* [http://www.shunsukepark.com/ ShunsukePark]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:なかむら しゆんすけ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本のサッカー選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:サッカー日本代表選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:オリンピックサッカー日本代表選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:2006 FIFAワールドカップ出場選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:横浜マリノスの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:横浜F・マリノスの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:レッジーナの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:セルティックの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:エスパニョールの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヤマダ電機]]&lt;br /&gt;
[[Category:神奈川県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1978年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;/div&gt;</summary>
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