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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-05-17T21:18:11Z</updated>
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		<title>利用者:大野恵悟</title>
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				<updated>2017-09-04T08:17:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;大野慶吾様、万歳！！&lt;br /&gt;
[[ファイル:MediaWikiのインストールガイド.txt]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大田慶吾とは、幕末でいう[[清河八郎]]のような人物であり、戦国時代に生まれていれば恐らく天下を取っていたであろうとされている。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>利用者:大野恵悟</title>
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				<updated>2017-09-04T08:15:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;大野慶吾様、万歳！！&lt;br /&gt;
[[ファイル:MediaWikiのインストールガイド.txt]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大田慶吾とは、幕末でいう[[清河八郎]]のような人物であり、戦国時代に生まれていれば恐らく天下を取っていたであろう人物とされる。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>利用者・トーク:Fromm/過去ログ08</title>
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				<updated>2017-09-03T09:30:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: 暴言により削除。まだしつこいようなら警察・司法に。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[利用者:Fromm/過去ログ01|過去ログ01]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ02|過去ログ02]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ03|過去ログ03]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ04|過去ログ04]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ05|過去ログ05]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ06|過去ログ06]]&lt;br /&gt;
[[利用者・トーク:Fromm/過去ログ07|過去ログ07]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== これはどういうこと？ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうも[[利用者:H2]]と申します。私のトークページにあなたが送った棲み分けのご提案ですが、これは私とあなたが作成している記事や画像が似ていて、それに対する提案でしょうか？また最初の冒頭文章“思えば貴殿と最初に対話したのは2009年12月のテンプレート:注目の画像についてでしたね。”という言葉ですが、私は10日ほど前にアカウントを作成しました。なのでは私は新規利用者です。--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 06:40 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ところで・・・&lt;br /&gt;
棲み分けの件について私に送ったのは一体何が起きたのでしょうか？私が何か悪いことでもしましたでしょうか？思いつくとすれば、[[下着モデル|例の記事]]などの編集合戦ですか？--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 07:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:その編集合戦ですね。今後、私が作成したカデゴリである「Category:画像が多い記事」を貴殿の記事に使わないで頂ければ幸いです。--[[利用者:Fromm|Fromm]] 2014年6月22日 (日) 16:57 (UTC)&lt;br /&gt;
::カテゴリーはウィキペディアなどと違い、このペディアの利用者皆が使うことができるものではないということでしょうか？--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 08:28 (UTC)&lt;br /&gt;
::YourpediaはWikipediaと違い先編集権が尊重されます。それは画像やカテゴリにもあてはまります。ですので作成者がその画像、カテゴリを使用されることを好まない場合は、記事同様に(2)のようにフォークされては如何でしょうか?--[[利用者:Fromm|Fromm]] 2014年6月22日 (日) 17:32 (UTC)&lt;br /&gt;
:::わりました。--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 08:38 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三者ですが、気になる点がありましたので質問させていただきます。私も、ここのルールに関して浅学なので、あまりルールに関する事に首を突っ込むべきではないと思いましたが、後学のため、質問させていただきます。カテゴリーなどは同一のものが何個もありますと、煩雑となり、記事を読む方にとっては読みづらい印象を受けるものでは無いでしょうか？また、記事以外には先編集権は適用外ではありませんでしたか？作成者だからといっても、明記がなければ先編集権は適用されないでしょう？--[[利用者:フォウ・ムラサメ大好き|フォウ・ムラサメ大好き]] 2014年6月22日 (日) 11:38 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一言 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''&amp;lt;big&amp;gt;開き直るんじゃない!!&amp;lt;/big&amp;gt;'''--[[利用者:Robby wells|Robby wells]] 2014年6月27日 (金) 05:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 画像荒らしの件 ==&lt;br /&gt;
Frommさんが作成された[[東日本大震災]]の画像が、無断で差し替えられていました。防止措置はsyspo氏に取って頂きましたがファイル削除を行ったため、よろしければお手数ですが再アップお願いします。--[[利用者:防人|防人]] 2014年7月11日 (金) 20:56 (UTC)&lt;br /&gt;
:了解しました。再アップがうまく出来なかったので、以下のファイルをもう一度削除して頂けますでしょうか?&lt;br /&gt;
:東日本大震災 1・東日本大震災 2・東日本大震災 6・東日本大震災 7・東日本大震災 8・セブンイレブン1--Fromm 2014年7月12日 (土) 10:04 (UTC)&lt;br /&gt;
::対応しました。--[[利用者:防人|防人]] 2014年7月12日 (土) 11:44 (UTC)&lt;br /&gt;
::有難うございました。--Fromm 2014年7月12日 (土) 11:48 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あなたが作成する記事について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんだかまどろっこしいタイトルになってしまいましたね......&lt;br /&gt;
[[利用者:New Super Lemon|New Super Lemon]] です。さて、本題でありますが、あなたが作成した記事は第三者が編集すると、貴方もしくは管理者防人氏によって、Fromm 様の版まで差し戻される、つまり、先編集権を主張していることと存じますので、先編集権を主張していることであれば、以下のTemplateを作成する記事に貼り付けていただきたく存じます。このTemplateを貴方の記事に貼り付ける事によって、明確に先編集権を主張しているとことが第三者にも明確に伝わり、誤解なく貴殿の思うままに編集が出来ることと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;nowiki&amp;gt;{{先編集権}}&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
↑上記のtemplateを貴殿の記事に貼り付けていただく様、ご協力お願いします。--[[利用者:New Super Lemon|New Super Lemon]] 2014年8月8日 (金) 14:16 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戻しました ==&lt;br /&gt;
Frommさんが作成された[[野々村竜太郎]]の記事が、無断で編集されていましたので、戻しました。--[[利用者:Hong Kong City|Hong Kong City]] 2014年9月10日 (水) 12:17 (UTC)&lt;br /&gt;
:ご配慮いただき有難うございます。当該記事は他の方により更に補足・追記された内容となっておりますので、そのままで結構です。--[[利用者:Fromm|Fromm]] 2014年9月10日 (水) 23:41 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ようこそ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ようこそリンク集}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Frommさんが多岐にわたる編集をされることを祈って。ｰｰ長津田 2014年9月13日 (土) 06:52 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==警告==&lt;br /&gt;
ここはウィキペディアじゃない。[http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Fromm こういう事]をやりたいならいるべき場に戻れ。--[[特別:投稿記録/133.236.95.231|133.236.95.231]] 2014年11月26日 (水) 02:08 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ご自分の投稿を顧みてはいかがですか ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたのような恥知らずには何を言っても無駄ですか?それなら&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;big&amp;gt;御覧なさい!!&amp;lt;/big&amp;gt;&amp;lt;span style=font-size:26pt;&amp;gt;[http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Fromm ご自分の投稿]&amp;lt;/span&amp;gt;&amp;lt;big&amp;gt;を&amp;lt;/big&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;big&amp;gt;ユーザーでもない、人間でもない今のご自分の投稿を&amp;lt;/big&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=font-size:26pt;&amp;gt;御覧なさい!!&amp;lt;/span&amp;gt;--[[利用者:Robby wells|Robby wells]] 2014年12月7日 (日) 05:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 画像について ==&lt;br /&gt;
前に貴方がアップロードした[[牧原あゆ]]、[[山中知恵]]などの画像に本日、「所有者（株式会社アイマックス）が権利を有する画像が無断でアップロードされている」という連絡がありました。当サイトでは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「'''投稿されるものは、自身によって書かれたものであるか、パブリック・ドメイン、またはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください。著作権保護されている作品を、許諾なしに投稿しないでください！'''」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書かれています。また、[[Yourpedia:画像利用の方針]]を熟読するようお願いします。--[[利用者:PG|PG]] 2015年1月8日 (木) 14:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 少しは人の言うことを聞きなさい ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ、あなたは意見・質問されたり注意・警告されてもほとんど毎回無視するのでしょうか。人の話を聞けるのですか、それとも聞けないのですか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''&amp;lt;span style=font-size:27pt;&amp;gt;あなたが答えなさい!!あなたにはその義務がある!!なぜなら当サイト史上最悪の迷惑ユーザーはあなただからだ!!&amp;lt;/span&amp;gt;'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理由は何だと思いますか。Frommさん。--[[利用者:Robby wells|Robby wells]] 2015年5月2日 (土) 05:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{横槍}}始めまして、{{User|PG}}と申します。人の言うことを無視する行為は許せないという気持ちはわかります。しかし、今までのやりとりを見ると、この方はあなたの警告に対し、無視している傾向が見受けられます。この状態は残念ながら、続くと思われます。私の提案として、「この方は人の言うことを無視する。この状態が続けば、当サイトに支障をきたす恐れがある。なんとかしてくれ」と管理者に報告することをお勧めします。その後は対応は管理者が判断するでしょう。ただし、対応次第では様子見でそのままにしてしまうことがあります。何がともあれ、この方の現状を管理者であるsysopさんや、防人さんに報告することが最善だと思われます。私からの意見からは以上です。--[[利用者:PG|PG]] 2015年5月2日 (土) 13:56 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんにちは。新人管理人のTakumi3でございます。まず、Fromm氏に関しては、画像の大量投稿はやめてください。例え自己責任だとしても、あなたが投稿した画像は膨大なものになります。それによって、このように皆様から注意を受けるのは当然だと思います。また、集中的な投稿によってサーバーに負担がかかりますのでやめてください。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
次にRobby wellsさん。注意、警告ありがとうございます。ですが、あまり過剰になり過ぎないようにお願いします。&lt;br /&gt;
あと、PG氏に関しては本人のページで返答しています。--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年5月2日 (土) 16:33 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お詫びと質問 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんにちは。Takumi3です。&lt;br /&gt;
*「昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ」の削除についてですが、イタズラかと思っていましたがsysopのトークページ見て、検索しまして実在することを知りました。お詫びいたします。再投稿をお願いします。&lt;br /&gt;
*「こいつ」呼ばわりについて。不適切表現でした。失礼しました。以後気をつけます。&lt;br /&gt;
*あと質問なんですが、普通の記事ページに女子高生の画像を載せる必要はありますか？その記事と女子高生の画像は関係ないと感じないと思われるページがたくさんあるのですが・・・。&lt;br /&gt;
*アダルト画像を大量にアップロードする理由は何ですか？他のWIKIではダメなのですか？--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年5月28日 (木) 15:19 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 【お願い】自己責任テンプレートを外すのはやめてください。 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんにちは。Takumi3でございます。&lt;br /&gt;
自己責任テンプレートを外さないでください。最近、このサイトの方針を知らずに編集する者や、個人情報・誹謗中傷だからとむやみに白紙化をするユーザーがあと経たない他、一般市民は「サイトのルールを知らない」という方もおりますので、説明の意味も兼ねております。自己責任覚悟と白紙化防止、スムーズな削除のためにも外さないでください。よろしくお願いします。--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年6月3日 (水) 14:33 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お願い】自己責任テンプレートを外すのはやめてください。（２） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Takumi3です。いいですか？あなたが作成した記事の内の一部は批判的内容が含まれている可能性があります。あなた自身は自己責任を覚悟して編集しているかもしれませんが、このサイトを訪れた初心者や被害者などは当然ながらこのサイトでは自己責任だということを知らない方もたくさんいるかと思います。当サイトの自己責任の重みを知らずに安易な気持ちで書いてしまい、後々問題になってもおかしくありません。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
そうならないためにも「覚悟をして書いてください。」という念を押すために書いているものです。決してあなたの記事が気に入らないとかそういう意味ではありませんから先編集権云々で自己責任テンプレートを外すのはお控えください。--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年6月5日 (金) 04:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投票お願いします ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利用者:True/井戸端]]にて勝手ながら、Yourpedia:井戸端の作成議論を行っています。Yourpediaの今後に関わる事なのでぜひとも投票をお願い致します。--[[利用者:True|True]] ([[利用者・トーク:True|トーク]]) 2016年10月6日 (木) 09:43 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 警告 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フィイヤッハァ！[[利用者:KdysMxkPznha|KdysMxkPznha]] ([[利用者・トーク:KdysMxkPznha|トーク]]) 2017年3月18日 (土) 05:06 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 要望 ==&lt;br /&gt;
[[創価学会]]で意味もなく取り消すのはやめてください！！迷惑しています！&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A&amp;diff=343023</id>
		<title>創価学会</title>
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				<updated>2017-09-03T09:27:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: やめてください！迷惑です！&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:池田大作1.jpg|400px|thumb|[[池田大作]]]]&lt;br /&gt;
[[Image:池田大作2.jpg|400px|thumb|[[池田大作]]]]&lt;br /&gt;
'''宗教法人創価学会'''（かぶしきがいしゃ そうかがっかい）とは、[[日蓮正宗]]系の[[新宗教]]（新興宗教）。オカルト団体。日本で最大級の偽[[仏教]]団体。また、政権に最も近づいたカルト宗教団体でもある。'''騒音おばさんと呼ばれた[[河原美代子]]に入信を断られた学会員の老夫婦が河原に嫌がらせをし、陥れる悪行を働いたとされている[https://blogs.yahoo.co.jp/posutoman21/31274257.html][http://clippinweb.com/souon-obasan-genzai/][https://matome.naver.jp/odai/2133515262312361101][http://www.p-runner.net/data-neta/miyoko/miyoko.html]。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海外で「仏教に興味ありませんか」と声をかけてきたら「[[手相]]に興味ありませんか」と同じくらい警戒が必要である（実際、現地の外国人が仏教と思って創価学会に入信するケースは多い）。フランスではカルト指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:創価タレント.jpg|400px|thumb|創価信者タレント]]&lt;br /&gt;
本部は[[東京都]][[新宿区]][[信濃町]]。 創価学会公称の会員世帯数は、827万世帯（2007年）。 公称の学会員数も約1000万人と言われている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の[[法華宗]]系団体と異なるところは、強烈な布教活動（[[折伏]]）と、初代会長・[[牧口常三郎]]、第2代会長・[[戸田城聖]]、第3代会長・[[池田犬作]]の いわゆる「三代会長」への絶対的な尊敬と、とくに池田と会員との間にみられる師弟観、および創価学会が支持する政党である[[公明党]]との政治活動である。&lt;br /&gt;
副理事長には池田大作の息子の池田博正が就いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ仏教法華宗系の[[日蓮正宗]]、[[顕正会]]と激しく対立。また、過去[[新興宗教]]の[[天理教]]、[[立正佼正会]]を激しく攻撃していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教義 ==&lt;br /&gt;
日々の勤行は、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることを自らの修行とし、新規会員の開拓、財務、聖教新聞啓蒙などを主とするものがある。これらの活動は、元来の教義では人のため、平和のため、ひいては自分自身のためという趣旨により行われていたはずなのだが、池田大作名誉会長のための活動（師匠にお応えする戦い）とする会員が多いというのが昨今の事実である。他の宗教や宗派は全て邪教であるという日蓮正宗系に共通する日蓮原理主義に基づく、排他的で非常に攻撃的な思想をその旨とする。最近では根本修行である勤行の経文ではなく祈念文を改定した。機関紙の聖教新聞では、SGIの世界における活動や会員の体験談などを掲載する一方で、宗門問題、名誉毀損問題をめぐり、山崎正友元創価学会顧問弁護士、竹入義勝元公明党委員長への[[糾弾]]の名を借りた誹謗中傷を大々的に行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三色旗 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yourpedia向け 創価学会文化会館.jpg|thumb|right|280px|三色旗が掲げられている創価学会文化会館]]&lt;br /&gt;
1988年に創価学会の旗として「三色旗」が定められた。ポールから順に青・黄・赤となり色の三原色が使用され、青は「平和」黄は「栄光」赤は「勝利」を意味する、という。中心に学会の紋章や創価学園の校章が入る場合もあるが、これは同一の国旗を持つ[[ルーマニア]]や[[チャド]]に対する明白な当て擦りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実、創価学会と深い繋がりをもつ[[日本テレビ]]は[[2004年]]に「Dragostea Din Tei (菩提樹の下の恋) 」が世界的にヒットしたルーマニアのバンドグループ、[[O-Zone]] (現在は解散) があたかも創価学会員で在るかのような報道を行い、その日の内に抗議の電話が殺到した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 基礎データ ==&lt;br /&gt;
=== 2007年現在の主要役員 ===&lt;br /&gt;
* 名誉会長：[[池田大作]]&lt;br /&gt;
* 会長：原田　稔 (2006年11月就任) &lt;br /&gt;
* 理事長：正木正明 &lt;br /&gt;
* 副理事長: 西口良三、大野和郎、大場好孝、山本武、長谷川重夫、原田光治、池田博正&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 組織 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞1.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
*壮年部　40歳以上男性&lt;br /&gt;
*婦人部　既婚または40歳以上の女性&lt;br /&gt;
**多宝会　65歳以上の男女&lt;br /&gt;
*男子部　40歳未満男性&lt;br /&gt;
**創価班　会合運営、場外警備(男性)&lt;br /&gt;
**牙城会　会館警備&lt;br /&gt;
*女子部　未婚かつ40歳未満の女性&lt;br /&gt;
**白蓮　　会合運営(女性)&lt;br /&gt;
*学生部　大学(院)生・専門学生&lt;br /&gt;
*未来部　高校生・中学生・小学生&lt;br /&gt;
年齢による規定は明確に定めていないので、地域によって差がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会合 ===&lt;br /&gt;
*本部幹部会同時中継(月1回)&lt;br /&gt;
*合同法要(月1回)&lt;br /&gt;
*地区座談会(月1回)&lt;br /&gt;
*唱題会(任意)&lt;br /&gt;
*その他に幹部会や指導会がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現況 ==&lt;br /&gt;
会員数で言えば世界最大の「学会」であり、一部の研究職を除き「学会」と言えばだれもが創価学会を連想するほどに著名である。フランス政府公認の{{偽リンク|団体|カルト}}でもある。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 財務 ===&lt;br /&gt;
創価学会では年1度、会員より「広布基金」（通称：財務）という集金活動を行っている。 「広布基金」は銀行振込で行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メディア戦略 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞2.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
創価学会の機関紙である[[聖教新聞]]は[[毎日新聞社]]や複数の[[地方紙]]に印刷を委託している。このことは新聞社に往々にして創価学会批判を手控えさせると共に半ば宣伝に近い記事を掲載させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラジオ番組や地方のテレビ番組でCMを盛んに流していることでも知られる。特に朝から昼にかけては創価学会や[[聖教新聞]]がスポンサーについている番組が毎時間必ずひとつかふたつは有るため、ラジオでは常に創価グループのCMが流されてしまっている。近年では関東圏の民放においても[[創価大学]]のCMを放映している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
CMは「そ～うか～がっかい～」などと耳に残りやすいメロディのセリフから始まり、イメージ広告を流すというもの。その内容はもっともらしい主張を連発して「創価学会はこんなにいいところですよ」と暗示させるもの。これはグラビアアイドルやチワワなどを用いて視聴者の心を掴んでおいて借金地獄の道へと導いてさしあげる、[[消費者金融]]のCMとよく似ている。創価の悪事はTVでほとんど報道されないので、創価学会はやりたい放題している。この点も消費者金融に酷似している。またNHKに学会員を投入して情報を巧みに操作することで唯一批判しても運営に困らないNHKにも批判をさせない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもgoogleの関連検索から「カルト」などのキーワードを消し去るなど様々な場所で大勝利を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 提供番組 ====&lt;br /&gt;
*[[あなたへモーニングコール]]（[[TBSラジオ]]）&lt;br /&gt;
*[[ミュージックギフト～音楽・地球号]]（[[文化放送]]）&lt;br /&gt;
*[[サウンドトラベル]]（[[ニッポン放送]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===運営上の目標===&lt;br /&gt;
[[オウム真理教]]の武力的日本制圧の大失敗を目の当たりにし、政権与党であった[[自民党]]を{{偽リンク|取り込み|金で買収し}}[[政治]]的な制圧に力を注いでいた。一般国民の家畜化計画を企む日本版[[悪の枢軸]]の一つであり、[[電通]]（世論洗脳部隊）や[[経団連]]（経済統制部隊）と合わせて'''創通連'''（そうつれん）と呼ばれる。共同作戦で、「政治」「メディア」「経済」の三方から日本の社会システムを完全掌握する算段である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、[[アンチ]]創価が噴出する[[ネット]]の言論封鎖に躍起になっており、あらゆる[[差別]]撤廃を名目にする「ユニバーサル法」、[[人権]]問題を名目にする「人権擁護法」、[[青少年]]の安全を名目にする「有害情報規制法」、[[ロリコン]]の[[性犯罪]]防止を名目にする「[[児童ポルノ禁止法|二次元含む児童ポルノ所持規制法]]」など一般国民が反対しにくい部分からの'''言論・表現の自由規制'''を足掛かりにして、強力な{{偽リンク|ネット規制法|自己擁護法}}成立を目指している。そのため、{{偽リンク|マスコミ|TBS}}を{{偽リンク|影から動かして|金を渡して}}[[オタク]]叩きをさせ、「'''ネットはオタクの住処だ'''」「'''犯罪者の巣窟だ'''」という世論を形成し、{{偽リンク|ネット規制|自己擁護法}}への批判の説得力をなくさせている。また、[[特定アジア|アジア]]から[[同胞|援軍]]を呼ぶため、[[反日|お友達]]の[[同和問題|部落解放同盟]]、[[民潭]]、[[朝日新聞]]らと連携し、「[[外国人参政権|外国人の参政権]]」導入も急いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終目標は'''プレヂデントD'''による'''創価帝国'''（旧日本国）建国および、中国主導による大東亜人民連合の成立である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===運営上の課題===&lt;br /&gt;
会員は[[頭がパーン|常人を超越している]]。[[インターネット]]の普及により末端信者のネット参加も増え、その価値観の違いから、一般人との対立、トラブルも増えつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らの語る仏法には統一感がなく、時として食い違う。それでも、「池田大作は偉大！」の一点だけは共通する信念である。多くの人達が創価学会との対話を試みるが、彼らを理解できない人達は一様にして激しく攻撃に遭う。その様はまるで、巨人でいう長嶋信者のような、あるいは国自体が創価カルトな[[北朝鮮]]や創価の親玉である[[中国]]の[[人民|それ]]を見ているようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「親創価派か？アンチ創価派か？」の二極分化する要因となっているのは、「偽善者らに憎まれもせず、敵も競わない論など、言論の名に値しない戯論なのであろう。中立ぶったり良識ぶったりで乙にすます日本の緒論に、どれだけの言論の炎があるか？」（2007年8月27日の聖教新聞「破邪顕正」）にもあるように、創価の味方をしない中立論者まで敵視する創価学会側にある。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
また、あるラジオ番組で[[北野誠]]がこの団体に対して批判的な発言をしたため、放送局並びに松竹芸能に強い圧力をかけ、無期限活動停止に追い込まれたという噂が流れた。が、事実かどうかは局の人間でもわかっていても話せない。その辺はお察しください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞3.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
[[1928年]]（昭和3年）6月、[[三谷素啓]]の折伏により、牧口常三郎が日蓮正宗に入信。 その年の秋には戸田城聖も入信。 [[1930年]]（昭和5年）に、『創価教育学体系』という教育学の著書を発刊。 [[1937年]]（昭和12年）に東京麻布の菊水亭にて'''[[創価教育学会]]'''の発会式が行われ、初代会長に牧口常三郎が就任。当初は文化人が支持するなど、宗教的な色彩は薄かった。第二次大戦後、出版業・金融業を営んでいた第2代会長の戸田城聖が'''創価学会'''と改名した。 [[1972年]]、第3代会長の池田大作が、創価学会の世界規模の団体として''[[創価学会インタナショナル]]''（SGI）を発足させた。 現在190ヶ国に広がっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 折伏大行進と小樽問答 ===&lt;br /&gt;
[[1951年]]に戸田城聖が「青年訓」を発表し、青年部を中心に[[折伏大行進]]と呼ばれる大々的な勧誘キャンペーンが[[1969年]]まで行われた。この時の強烈な勧誘活動は社会問題にもなり、他宗派やマスコミの批判を招いた。[[1955年]]に[[日蓮宗]]妙龍寺と創価学会小樽班とで論争が起こり、日蓮宗側は宗門幹部を派遣し公開[[法論]]に臨んだものの、法論に出席した多数の学会員に半ば力尽くでねじ伏せられてしまった。日蓮宗宗務院はこの事件後に法論を禁止、創価学会側も他の宗教団体からの公式な法論申し入れを断っている。なおこの問題における日蓮正宗の行動については、日蓮宗と創価学会の双方が逃げたと宣伝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 昭和52年路線 ===&lt;br /&gt;
[[1977年]]（昭和52年）6月～7月に創価学会の大規模な改革路線が初めて表面化し、保守的な宗門はこれに反対した。&lt;br /&gt;
創価学会幹部が[[大石寺]]に登山を行う事で一応は収まったものの、その後も創価学会に対する日蓮正宗（宗門）僧侶や檀徒の誹謗が残る。[[1979年]][[7月22日]]に管長・[[日達|細井日達]]が死去（遷化）し、[[日顕|阿部日顕]]が登座すると、学会に批判的な僧侶・檀徒と宗門首脳との対立が先鋭化、終には批判派僧侶の殆どが日蓮正宗から追放され[[正信会]]が結成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 電話盗聴事件 ===&lt;br /&gt;
1970年と80年、当時の[[日本共産党]]委員長・[[宮本顕治]]宅の電話線に盗聴器が仕掛けられる事件が発覚。元顧問弁護士・山崎正友の指図による工作グループの関与が指摘される。[[最高裁判所|最高裁]]への上告取り下げと言う形でこの事実が認定され損害賠償を課される事になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 言論・出版妨害事件 ===&lt;br /&gt;
1969年から[[1970年]]にかけて、[[藤原弘達]]の『創価学会を斬る』の出版をめぐり、創価学会と公明党は「事実無根」だとして出版社・取次会社・書店などに圧力をかけた言論抑制事件、言論出版問題。この事件を機に池田大作の証人喚問にまで発展する可能性があったため、池田大作は謝罪、公明党は宗教色を弱め創価学会と表向きは関係のないことになっている（後述の「政教分離問題」も参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、藤原弘達の葬式に学会員からの[[電報|祝電]]が絶えなかったと言う話はあまりにも有名である。また、近年の池田大作はこの事件について自書などで「学会や自分も被害者である」と開き直っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日蓮正宗から破門される ===&lt;br /&gt;
宗門との長年の確執と内紛・対立が表面化したのは[[1990年]][[12月27日]]のことであった。この時点における双方の主張は、&lt;br /&gt;
:宗門側： 以前からの懸案であった法華講本部役員の任期に関する「[[日蓮正宗]]宗規」を一部改正して総講頭の任期を変えたため、池田名誉会長は「自動的に総講頭の資格」を喪った&lt;br /&gt;
:学会側： 池田名誉会長に対するさまざまな圧力の結果、宗門（日顕法主）は一方的に池田名誉会長に対し「総講頭から罷免する処分」をおこなった&lt;br /&gt;
というものであった。そして双方の対立がエスカレートした結果、翌年11月28日に日蓮正宗は、海外組織「SGI」とともに創価学会を「破門」するに至った。この件をめぐり、創価学会と宗門は現在でも対立状態が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ニコニコ動画に投稿された「久本雅美・頭がパーン」動画、東京地裁が創価学会の情報開示請求を認める ===&lt;br /&gt;
[[タレント]]の[[久本雅美]]さんが出演するビデオを無断で「[[ニコニコ動画]]」にアップロードされ[[著作権]]を侵害されたとして、ビデオの著作権を持つ[[創価学会]]が[[プロバイダ責任制限法]]に基づいて発信者情報の開示を請求し、東京地裁がISPに対し情報開示を命じていたことが分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
判決は2013年10月22日付け。アップロードユーザーが利用したISPを運営するGMOインターネットに対し、動画をアップロードしたユーザーの氏名・住所、[[電子メール]]アドレスの開示を命じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
判決によると、動画は[[2012年]][[11月29日]]に投稿されたもので、長さは2分6秒。判決文の「対応一覧表」によると、創価学会が著作権を持つ「すばらしきわが人生 part2」のうち、「久本が創価学会の池田名誉会長から漫才を褒められて、頭がパーンとなったと話している」部分などが含まれている。いわゆるMADと呼ばれる動画の1つで、現在は視聴できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創価学会側は、この動画が著作権(複製権、公衆送信権)を侵害しており、損害賠償などを請求するために発信者情報の開示を受けるべき理由があると主張。[[東京地裁]]([[長谷川浩二]]裁判長)は主張を認め、GMOインターネットに対し情報開示を命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月24日の時点で、この動画を再アップロードしたものと思われるMAD動画がニコ動で確認できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政教分離問題 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞4.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
[[政教分離]]の原則から、創価学会と公明党との関係は議論の対象となった。内閣法制局は「宗教団体が特定の政党を支援することについて、なんら憲法に抵触するものではない」と見解を出している。そのため創価学会は、この問題を解決したものであるとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし実態としては、現在でも創価学会と公明党とで定期的に連絡会議が持たれるなど両者の関係は密接であり、報道などにおいても「公明党の支持母体である創価学会」という形で公然と扱われていることも事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、創価学会が批判されるときは「創価学会と公明党との表裏一体の関係が問題である」点を指摘されることが多い。実際、創価学会は数多くの利益誘導を公明党を通じて行ってきた。 近年では2003年4月に「創価学会の要請で公明党が制定した」名誉毀損の賠償金額を上げる法案などがその一つとして挙げられる。 この法案の目的は『[[週刊新潮]]』などの反創価メディアへの牽制である事は言うまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 海外から見た創価学会 ==&lt;br /&gt;
=== フランスでの「カルト報告」 ===&lt;br /&gt;
「新しい型の宗教組織による法の侵害に関するEC議会決議」（[[1984年]]）に基づいて、以後、[[フランス]]では、国民会議にセクト（カルト）に関する報告書が提出され、創価学会はセクト（カルト）とされている。 「フランスにおけるセクト――信教の自由の表現か、もしくは悪質な担ぎ屋か」（[[1985年]]）では、根拠とされた日本の週刊誌の記事の信憑性が否定された（創価学会が勝訴した）。 しかし「フランスにおけるセクト（カルト）教団」（[[1995年]]）・「セクトと金」（[[1999年]]）・「セクト（カルト）運動防止・抑制強化法（[[2001年]]）」では、未だ根拠の信憑性は否定されていない（創価学会が敗訴した）。&lt;br /&gt;
*「フランスにおけるセクト（カルト）教団」（[[1995年]]）には、創価学会が[[1990年]]に日蓮正宗と分裂したこと、女性信者が多いこと、信者に秘密の仕事や様々な不正行為や詐欺行為をさせていること、などが記載されている。&lt;br /&gt;
*「セクトと金」（[[1999年]]）では、パリ行政裁判所判決（[[1996年]][[12月10日]]）を引用して、創価学会が、雑誌、パンフレット、本、アクセサリー、セミナーなどの営利活動によって収入の大半を得ており、マージンは42.2％&amp;amp;#xff5e;49.64％（この種の分野では最高の率）であることを紹介している。 また資産は2億4000万フラン（約38億円）相当であり、年間予算は調査によれば約2億4000万フラン（約38億4000万円）に達する。&lt;br /&gt;
*「セクト(カルト)運動防止・抑制強化法（[[2001年]]）」は、フランス国民議会（下院）で全会派一致により可決・成立した法律で、創価学会の活動をフランス国内で行われている宗教に名を借りた反社会的活動とし、議会内に設置されたカルト調査委員会が入念に調査することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では創価学会側から表立ったフランス政府やEC議会批判は無いが、一信者による'''フランス政府は創価学会のすばらしさを理解できない（感情的な表現）の集団で、弾圧目的でセクト（カルト）運動防止・抑制強化法を成立させた。'''（要約）と言う内容の恣意的な解説が創価学会員の間で支持されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
アメリカの「[[タイム (雑誌)|TIME]]」誌が[[1995年]][[11月20日]]号で『創価学会と言う権力』(THE POWER OF SOKA GAKKAI)と言う題で特集を組んでいる。また、最近では「[[フォーブス]]」誌[[2004年]][[9月6日]]号で『&amp;quot;先生&amp;quot;の世界』(Sensei's World)と題した[[ベンジャミン・フルフォード]]、[[デビッド・ウェラン]]両記者による報告が掲載されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スティーブ・ハッサン「マインドコントロールの恐怖」では破壊的カルトの一つとして「日蓮正宗USA」の事例が紹介されている。この「日蓮正宗USA」は元来創価学会会員の団体である。 この例をはじめ、NSIC（日蓮正宗国際センター）などのように、創価学会系の団体も日蓮正宗からの破門以前は「日蓮正宗」の名を冠していた事例が数多くあるため、現在において論じる際にはその区別を明確にしておくことが必要である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==学会と芸能人==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞5.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
関連の社団法人に[[民主音楽協会]]があり、その公演をを通して芸能人の多くが創価学会との接点を持っている。現在、芸能人の多くが信者であることが知られている。&lt;br /&gt;
ただ、他の宗教と同様、芸能人信者の多くは自身の内面の問題である信仰について、あくまで個人的な内容であるとして、公表しているかどうかは芸能人によってことなる。その一方、「創価学会の信仰で幸福になった」と創価学会系のメディアやビデオなどで公言している芸能人も多くみられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、創価学会批判派も多く、[[平畠啓史]]（[[DonDokoDon]]）や、[[内村光良]]（[[ウッチャンナンチャン]]）、[[爆笑問題]]、[[さまぁ～ず]]、[[大友康平]]、[[ふかわりょう]]、[[草野マサムネ]]（[[スピッツ]]）、[[赤江珠緒]]などが、文化人では、[[宮崎哲弥]]、[[勝谷誠彦]]、[[橋下徹]]が代表的である。そういった事で、創価がスポンサーになっている番組に対しては避ける傾向が強くなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『潮』で対談記事が組まれた場合、出席者は信者の可能性がある（無関係、若しくはアンチであれば理由をつけて断るはずである）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[吉本興業]]などとも提携しており、[[創価学会信者の有名人]]は多数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ネットの反応 ==&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では創価学会や池田大作に対しての批判が多数書かれている。&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では池田大作は勲章荒らしなどと書かれてしまうこともある。&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では池田大作は自分の学歴にコンプレックスがあるから世界各国の大学の名誉博士を集めているのではという意見も書かれている。&lt;br /&gt;
池田大作はニコニコ動画でも「池田犬作」という愛称で呼ばれ大人気だそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 創価関連トピックス ==&lt;br /&gt;
創価に関する騒動では出版言論弾圧事件や盗聴事件、日蓮破門などは有名だが、ここではその他の事柄について取り上げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国との関係 ===&lt;br /&gt;
日中関係は近年悪化の一途を辿るが、中国は信仰の自由がない宗教弾圧国家でありながら中創関係は非常に良好である。中国の国家主席が来日した際、優先的に会談する3人うちのひとりが池田大作である。[[胡錦濤]]の来日時にも真っ先に会談している。中国にしてみれば創価学会の日本における影響力と大衆洗脳術に関心があり、創価学会では池田大作の自身の野望に大きく利することからお互いに旨みがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、仏教系でありながら中国の[[チベット]]弾圧問題の時には中国を全力で擁護している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 何でも南京大虐殺って叫べばいいと思うよ ===&lt;br /&gt;
「[[南京大虐殺]]と叫べば日本は動揺する」と中国政府に対してアドバイスしたのも池田大作である。当初は日本政府に対する小規模な抗議であったが、放火常習犯の[[朝日新聞]]がまんまと火をつけたこと（他の放火事件として[[韓国]]・[[従軍慰安婦問題]]などがある）により日本の教科書にも採用され、これらを根拠に中国が反日政策を推し進めたことで日中関係は非常に悪化した。また、結果的に中創関係の親密度も増している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 庶民の王者 ===&lt;br /&gt;
池田大作は自らを「庶民の王者」と自認している。それは[[温家宝]]と会談した際の以下の発言からも伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 池田大作「閣下、光栄です。うれしいです。政治家ではなくて、庶民の王者と会ってくださって」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北朝鮮のマスゲームの起源は創価 ===&lt;br /&gt;
[[北朝鮮]]の[[マスゲーム]]は創価学会のマスゲームを真似たものである。なお、マスゲーム自体は創価学会や北朝鮮以外でも行われており、日本はかねてより得意としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 在日朝鮮人による宗教説 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞6.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
韓国の宗教で数々の問題を起こしている宗教には[[統一教会]]があるが、一方で創価学会は[[在日朝鮮人]]による宗教だと一部で言われている。さらに、池田大作が成太作（ソン・テチャク）という在日朝鮮人だという説もネットではみられる。真偽は不明だが、創価学会に在日が多いのは事実である。また、在日や[[部落]]が多い[[大阪]]で勢力が強いのも事実である。これは在日宗教というより、マイノリティである在日や部落の受け皿になることで繁栄させてきたと見る向きもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総体革命 ===&lt;br /&gt;
池田大作が[[1960年代]]から推し進めた政界、メディア、法曹界、医療界、警察などの国家に関する重要な職に学会員を潜り込ますことで権力を支配下に置く戦略である。現在では大きな成果を上げ各界で重要な役割を担っている。革命の達成目標時期は[[2010年]]を目処にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===  朝木明代元市会議員の転落死 ===&lt;br /&gt;
創価学会・公明党に対する批判を強めていた東京都[[東村山市]]の元市会議員[[朝木明代]]が[[1995年]]9月、「自身の起こした[[万引き]]事件を苦にしてビルから飛び降り自殺した」（検察・警察の見解）とされているが、この転落死には創価学会の関与が疑われている。万引き事件や転落死事件の捜査に当たった[[検察]]（二人）が学会員だった（裁判でも認定）ことからも批判の的になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 破防法の阻止 ===&lt;br /&gt;
一連の[[オウム真理教]]事件で[[破防法]]が適用されそうになった時に全力で阻止したのは公明党である。将来の創価学会への適用を恐れてのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これと同様に、[[ストーカー規制法]]や[[盗聴法]]、[[個人情報保護法]]の成立時などにも宗教団体が範囲から除外されるように働きかけている。将来的には[[共謀罪]]に対しても同様の働きかけをすると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 法案関系 ===&lt;br /&gt;
==== 過去に成立させた法案など ====&lt;br /&gt;
* [[青少年有害情報規制法]]（青少年ネット規制法）&lt;br /&gt;
* [[勤労婦人福祉法]]&lt;br /&gt;
* [[男女雇用機会均等法]]　&lt;br /&gt;
* [[男女共同参画社会基本法]]（[[ジェンダーフリー]]を推進）&lt;br /&gt;
* [[母子手当て]]拡大（「父子手当て」はない） &lt;br /&gt;
* [[生活保護]]拡充 &lt;br /&gt;
* [[慰謝料]]に関する制度の強化&lt;br /&gt;
* [[定額給付金]]（公明党の働きかけによる）&lt;br /&gt;
* [[地域振興券]]（定額給付金と共にばら撒きと批判されている）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 推進する法案 ====&lt;br /&gt;
* [[人権擁護法案]]&lt;br /&gt;
*:公明党が度々法案を提出している。法案の内容は[[部落解放同盟]]などの法案成立に向けて働きかけをする特定の団体、層にとって都合がいいものとなっている。このことについて法案に賛同する朝日新聞では、「だが、心配のしすぎではないか」と切り捨て特定の団体の人が[[人権擁護委員]]になるのは当然としている。&lt;br /&gt;
* [[外国人地方参政権]]の確立に関した法案&lt;br /&gt;
*:[[民潭]]（在日本大韓民国民団）がかねてから働きかけをしているが、公明党も同調して度々法案を提出している。日本での成立に先駆けて[[2005年]]、[[韓国]]では一部の永住外国人に地方参政権を認めているが、適用基準が厳しく資格があるのはほんの僅かとなっている。この韓国での成立は「日本で認めさせるための戦略」と考えられている。&lt;br /&gt;
*ユニバーサル法案&lt;br /&gt;
*:改正[[同和特別措置法]]とも揶揄される。成立に向けて公明党が主導している。&lt;br /&gt;
* [[ポルノ所持禁止法]]の適用範囲拡大（単純所持・[[二次元]]規制など）&lt;br /&gt;
*:当初から推進していたのは公明党である。他には[[日本ユニセフ協会]]なども推進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
[[Image: 久本雅美3.jpg|350px|thumb|[[赤羽駅]]前で行われた街頭演説の模様。拳を突き上げて、気炎を吐く[[久本雅美]]と、あたかも自身の演説に酔ってとろけたような[[柴田理恵]]。浮かない顔を見せている[[太田昭宏]]]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党]]&lt;br /&gt;
* [[第三文明社]]&lt;br /&gt;
* [[聖教新聞]]&lt;br /&gt;
* [[創価大学]]、[[創価女子短期大学]]&lt;br /&gt;
* [[創価学園]]（東京創価学園、関西創価学園、札幌創価幼稚園）&lt;br /&gt;
* [[創価学会との関係が疑われる企業]]&lt;br /&gt;
* [[平成のヒトラー]] &lt;br /&gt;
* [[日本会議]]&lt;br /&gt;
* [[勝共推進議員]]&lt;br /&gt;
* [[戸塚宏]]&lt;br /&gt;
* [[関東連合]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 聖教新聞の4こま漫画 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞7.jpg|350px]][[Image:聖教新聞8.jpg|350px]][[Image:聖教新聞9.jpg|350px]][[Image:聖教新聞10.jpg|350px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 創価学会ストーリー ==&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー1.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー2.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー3.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー4.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー5.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー6.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー7.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー8.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:そうかかつかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:カルト]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipediaで保護された記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:アクセス数の高い記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:画像が多い記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=343021</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=343021"/>
				<updated>2017-09-03T09:26:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{良質}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本三大合理主義者の1人（他2人は土方歳三・源頼朝）。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''スーパー合理主義者。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
===身体的特徴===&lt;br /&gt;
*「中くらいの背丈、華奢な体躯、ヒゲは少なく」「彼は少しく憂鬱な面影を有し」「はなはだ声は快調」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ」「戦術に極めて老練」&lt;br /&gt;
*「名誉心に富み、正義において厳格」「自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。一方で「いくつかの事では人情味と慈愛を示した」&lt;br /&gt;
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し」&lt;br /&gt;
「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」&lt;br /&gt;
「なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった」&lt;br /&gt;
*「貪欲でなく」&lt;br /&gt;
** 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　34章（本来の第1部85章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*「はなはだ決断を秘め」&lt;br /&gt;
*「非常に性急であり」「対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い」&lt;br /&gt;
*「激昂はするが、平素はそうでもなかった」彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった」「自らの見解に尊大であった」「困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵」&lt;br /&gt;
*「人の扱いにはきわめて率直で」「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず」「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」「信長はほとんど全ての人を『[[貴様]]』と呼んだ&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　36章（本来の第1部87章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。&lt;br /&gt;
*彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;[[相撲]]&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;ルタール&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;をとらせることをはなはだ好んだ。&lt;br /&gt;
*「一同からきわめて畏敬されていた」「人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した」「万事において人々は彼の言葉に服従した」&lt;br /&gt;
*「彼は善き理性と明晰な判断力を有し」「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;司令官&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;カピタン&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;として、大いなる賢明さをもって&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;天下&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;テンカ&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;を統治した者であったことは否定し得ない&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史3　58章（本来の第2部43章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　32章（本来の第1部83章）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 尾張の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。（信長公記・首巻）&lt;br /&gt;
* 天正元年（[[1573年]]）11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。&lt;br /&gt;
* [[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の[[頭蓋骨]]を薄濃（はくだみ。[[漆]]でかためて[[金箔]]などを張る事とされる）にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した（[[信長公記]]）。これは後世、髑髏を[[杯]]にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない（「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという）。[[髑髏]]を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。&lt;br /&gt;
* 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児（[[津田信澄]]）の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する（[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]殲滅）、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない（武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である）など、身内に手厚いともされる。&lt;br /&gt;
* 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。&lt;br /&gt;
* 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都[[公家]]の日記などから）。&lt;br /&gt;
* 長女の[[徳姫]]を除くと生前に縁組させた[[冬姫]]らの娘達は個人的にも親交のある家臣である[[前田家]]、[[丹羽家]]、若しくは少年時代から面倒を見てきた[[蒲生氏郷]]に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。&lt;br /&gt;
* 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。&lt;br /&gt;
* 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所（現在の[[関ヶ原町]]山中）に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで[[乞食]]をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年（[[1575年]]）6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。こうした行為から、信長は自分の家臣たちには厳しいが、自分に反抗する恐れのない者、特に立場の弱い庶民たちには寛大な所があったと見ることもできる。&lt;br /&gt;
* [[長篠の戦い]]の時には、身分の低い[[足軽]]でありながらも自分の命を犠牲にして[[長篠城]]を落城の危機から救った[[鳥居強右衛門]]の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も[[愛知県]][[新城市]]作手の甘泉寺に残っている。&lt;br /&gt;
* [[荒木村重]]の説得に向かった[[黒田孝高]]（官兵衛）が帰還せず同時期に孝高の主君・[[小寺政職]]が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸（後の[[黒田長政]]）の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には｢官兵衛に合せる顔が無い｣と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が[[竹中重治]]（半兵衛）に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。&lt;br /&gt;
* 信長公記などのエピソードによると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。天正9年7月15日のお盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動をとっており「言語道断面白き有様」と記述され、相撲のエピソードなどからも祭り好きだと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 苛烈と云われる所業 ===&lt;br /&gt;
* 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの[[乳母]]の[[乳房]]を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。[[新井白石]]は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比（ごろ）ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。&lt;br /&gt;
* [[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「[[圧し切り長谷部]]（へしきりはせべ）」と名づけられたという。&lt;br /&gt;
* [[元亀]]元年（[[1570年]]）5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年（1573年）に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける[[拷問]]を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス日本史より&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[徳川家康]]も家臣の[[大賀弥四郎]]に対して行っており、[[江戸時代]]の[[公事方御定書]]には極刑の一つとして紹介されている（[[鋸挽き]]）。&lt;br /&gt;
* 天正2年（[[1574年]]）の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。&amp;lt;ref&amp;gt;「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない（他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある）。またそれ以前に、降伏する場合は「（信長に対して）忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 天正6年（[[1578年]]）、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。&lt;br /&gt;
* 天正6年（1578年）12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした[[荒木村重]]の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。&lt;br /&gt;
* 天正10年（[[1582年]]）4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは&amp;lt;ref&amp;gt;安土城と竹生島の間は往復で約30里（約120km）の距離がある&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が[[本能寺の変]]以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『[[信長公記]]』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗（処罰）の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。&amp;lt;ref&amp;gt;「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」（『完訳フロイス日本史2　信長とフロイス』第32章より）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである（例えば当の比叡山延暦寺も、[[本願寺]]を焼き討ちするなどの行動をしている）。&lt;br /&gt;
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。[[豊臣秀吉]]が天正5年（[[1577年]]）に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑（子供は[[串刺し]]、女は[[磔]]）した行為&amp;lt;ref&amp;gt;同年12月5日の羽柴秀吉書状&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること（[[ルイス・ソテロ]]等の日記）や敵方の女性を[[競売]]にかけたり（[[小田井原の戦い]]）といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交友関係 ===&lt;br /&gt;
* 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。&lt;br /&gt;
* 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い｡主に[[森成利]]（蘭丸）の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』では、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話（信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話）」として残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南蛮への関心 ===&lt;br /&gt;
* 南蛮品を好み、[[正親町天皇]]を招き開催した「[[京都御馬揃え]]」に[[ベルベット|ビロード]]のマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、[[南蛮胴]]を身に付けていた。[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、[[弥助]]と名付け側近にした。&lt;br /&gt;
* [[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]・[[地図]]などをよく理解したと言われる（当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した）。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から[[火縄銃]]を用いていた。奇抜な性格で知られるが、[[ルイス・フロイス]]には日常生活は普通に見えたようである。[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の[[1585年]]（天正13年）であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。&lt;br /&gt;
* ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化への関心 ===&lt;br /&gt;
* [[囲碁]]の「[[名人]]」という言葉は信長発祥と言われている。（[[本因坊算砂]]の項を参照）&lt;br /&gt;
* 幸若舞『[[敦盛]]』の「''人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。''」という一節をよく舞った&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。一方で、[[猿楽]]（[[能]]）を嫌った{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 大の[[相撲]]好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は[[土俵]]の原型を作ったともいう{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 上京した際に連歌師の[[里村紹巴]]から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させた（『信長記』）。&lt;br /&gt;
* [[茶の湯]]にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記より。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、純粋に好んでいたようである。&lt;br /&gt;
* [[三好義継]]が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた&amp;lt;ref&amp;gt;『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。また医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=343020</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=343020"/>
				<updated>2017-09-03T09:26:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{良質}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本三大合理主義者の1人（他2人は土方歳三・源頼朝）。'''&lt;br /&gt;
'''スーパー合理主義者。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
===身体的特徴===&lt;br /&gt;
*「中くらいの背丈、華奢な体躯、ヒゲは少なく」「彼は少しく憂鬱な面影を有し」「はなはだ声は快調」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ」「戦術に極めて老練」&lt;br /&gt;
*「名誉心に富み、正義において厳格」「自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。一方で「いくつかの事では人情味と慈愛を示した」&lt;br /&gt;
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し」&lt;br /&gt;
「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」&lt;br /&gt;
「なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった」&lt;br /&gt;
*「貪欲でなく」&lt;br /&gt;
** 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　34章（本来の第1部85章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*「はなはだ決断を秘め」&lt;br /&gt;
*「非常に性急であり」「対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い」&lt;br /&gt;
*「激昂はするが、平素はそうでもなかった」彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった」「自らの見解に尊大であった」「困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵」&lt;br /&gt;
*「人の扱いにはきわめて率直で」「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず」「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」「信長はほとんど全ての人を『[[貴様]]』と呼んだ&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　36章（本来の第1部87章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。&lt;br /&gt;
*彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;[[相撲]]&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;ルタール&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;をとらせることをはなはだ好んだ。&lt;br /&gt;
*「一同からきわめて畏敬されていた」「人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した」「万事において人々は彼の言葉に服従した」&lt;br /&gt;
*「彼は善き理性と明晰な判断力を有し」「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;司令官&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;カピタン&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;として、大いなる賢明さをもって&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;天下&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;テンカ&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;を統治した者であったことは否定し得ない&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史3　58章（本来の第2部43章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　32章（本来の第1部83章）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 尾張の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。（信長公記・首巻）&lt;br /&gt;
* 天正元年（[[1573年]]）11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。&lt;br /&gt;
* [[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の[[頭蓋骨]]を薄濃（はくだみ。[[漆]]でかためて[[金箔]]などを張る事とされる）にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した（[[信長公記]]）。これは後世、髑髏を[[杯]]にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない（「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという）。[[髑髏]]を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。&lt;br /&gt;
* 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児（[[津田信澄]]）の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する（[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]殲滅）、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない（武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である）など、身内に手厚いともされる。&lt;br /&gt;
* 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。&lt;br /&gt;
* 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都[[公家]]の日記などから）。&lt;br /&gt;
* 長女の[[徳姫]]を除くと生前に縁組させた[[冬姫]]らの娘達は個人的にも親交のある家臣である[[前田家]]、[[丹羽家]]、若しくは少年時代から面倒を見てきた[[蒲生氏郷]]に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。&lt;br /&gt;
* 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。&lt;br /&gt;
* 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所（現在の[[関ヶ原町]]山中）に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで[[乞食]]をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年（[[1575年]]）6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。こうした行為から、信長は自分の家臣たちには厳しいが、自分に反抗する恐れのない者、特に立場の弱い庶民たちには寛大な所があったと見ることもできる。&lt;br /&gt;
* [[長篠の戦い]]の時には、身分の低い[[足軽]]でありながらも自分の命を犠牲にして[[長篠城]]を落城の危機から救った[[鳥居強右衛門]]の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も[[愛知県]][[新城市]]作手の甘泉寺に残っている。&lt;br /&gt;
* [[荒木村重]]の説得に向かった[[黒田孝高]]（官兵衛）が帰還せず同時期に孝高の主君・[[小寺政職]]が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸（後の[[黒田長政]]）の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には｢官兵衛に合せる顔が無い｣と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が[[竹中重治]]（半兵衛）に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。&lt;br /&gt;
* 信長公記などのエピソードによると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。天正9年7月15日のお盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動をとっており「言語道断面白き有様」と記述され、相撲のエピソードなどからも祭り好きだと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 苛烈と云われる所業 ===&lt;br /&gt;
* 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの[[乳母]]の[[乳房]]を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。[[新井白石]]は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比（ごろ）ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。&lt;br /&gt;
* [[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「[[圧し切り長谷部]]（へしきりはせべ）」と名づけられたという。&lt;br /&gt;
* [[元亀]]元年（[[1570年]]）5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年（1573年）に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける[[拷問]]を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス日本史より&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[徳川家康]]も家臣の[[大賀弥四郎]]に対して行っており、[[江戸時代]]の[[公事方御定書]]には極刑の一つとして紹介されている（[[鋸挽き]]）。&lt;br /&gt;
* 天正2年（[[1574年]]）の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。&amp;lt;ref&amp;gt;「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない（他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある）。またそれ以前に、降伏する場合は「（信長に対して）忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 天正6年（[[1578年]]）、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。&lt;br /&gt;
* 天正6年（1578年）12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした[[荒木村重]]の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。&lt;br /&gt;
* 天正10年（[[1582年]]）4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは&amp;lt;ref&amp;gt;安土城と竹生島の間は往復で約30里（約120km）の距離がある&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が[[本能寺の変]]以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『[[信長公記]]』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗（処罰）の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。&amp;lt;ref&amp;gt;「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」（『完訳フロイス日本史2　信長とフロイス』第32章より）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである（例えば当の比叡山延暦寺も、[[本願寺]]を焼き討ちするなどの行動をしている）。&lt;br /&gt;
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。[[豊臣秀吉]]が天正5年（[[1577年]]）に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑（子供は[[串刺し]]、女は[[磔]]）した行為&amp;lt;ref&amp;gt;同年12月5日の羽柴秀吉書状&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること（[[ルイス・ソテロ]]等の日記）や敵方の女性を[[競売]]にかけたり（[[小田井原の戦い]]）といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交友関係 ===&lt;br /&gt;
* 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。&lt;br /&gt;
* 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い｡主に[[森成利]]（蘭丸）の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』では、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話（信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話）」として残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南蛮への関心 ===&lt;br /&gt;
* 南蛮品を好み、[[正親町天皇]]を招き開催した「[[京都御馬揃え]]」に[[ベルベット|ビロード]]のマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、[[南蛮胴]]を身に付けていた。[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、[[弥助]]と名付け側近にした。&lt;br /&gt;
* [[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]・[[地図]]などをよく理解したと言われる（当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した）。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から[[火縄銃]]を用いていた。奇抜な性格で知られるが、[[ルイス・フロイス]]には日常生活は普通に見えたようである。[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の[[1585年]]（天正13年）であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。&lt;br /&gt;
* ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化への関心 ===&lt;br /&gt;
* [[囲碁]]の「[[名人]]」という言葉は信長発祥と言われている。（[[本因坊算砂]]の項を参照）&lt;br /&gt;
* 幸若舞『[[敦盛]]』の「''人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。''」という一節をよく舞った&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。一方で、[[猿楽]]（[[能]]）を嫌った{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 大の[[相撲]]好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は[[土俵]]の原型を作ったともいう{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 上京した際に連歌師の[[里村紹巴]]から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させた（『信長記』）。&lt;br /&gt;
* [[茶の湯]]にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記より。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、純粋に好んでいたようである。&lt;br /&gt;
* [[三好義継]]が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた&amp;lt;ref&amp;gt;『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。また医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=343018</id>
		<title>織田信長</title>
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				<updated>2017-09-03T09:25:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{良質}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スーパー合理主義者。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
===身体的特徴===&lt;br /&gt;
*「中くらいの背丈、華奢な体躯、ヒゲは少なく」「彼は少しく憂鬱な面影を有し」「はなはだ声は快調」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ」「戦術に極めて老練」&lt;br /&gt;
*「名誉心に富み、正義において厳格」「自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。一方で「いくつかの事では人情味と慈愛を示した」&lt;br /&gt;
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し」&lt;br /&gt;
「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」&lt;br /&gt;
「なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった」&lt;br /&gt;
*「貪欲でなく」&lt;br /&gt;
** 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　34章（本来の第1部85章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*「はなはだ決断を秘め」&lt;br /&gt;
*「非常に性急であり」「対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い」&lt;br /&gt;
*「激昂はするが、平素はそうでもなかった」彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった」「自らの見解に尊大であった」「困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵」&lt;br /&gt;
*「人の扱いにはきわめて率直で」「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず」「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」「信長はほとんど全ての人を『[[貴様]]』と呼んだ&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　36章（本来の第1部87章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。&lt;br /&gt;
*彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;[[相撲]]&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;ルタール&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;をとらせることをはなはだ好んだ。&lt;br /&gt;
*「一同からきわめて畏敬されていた」「人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した」「万事において人々は彼の言葉に服従した」&lt;br /&gt;
*「彼は善き理性と明晰な判断力を有し」「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;司令官&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;カピタン&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;として、大いなる賢明さをもって&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;天下&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;テンカ&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;を統治した者であったことは否定し得ない&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史3　58章（本来の第2部43章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　32章（本来の第1部83章）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 尾張の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。（信長公記・首巻）&lt;br /&gt;
* 天正元年（[[1573年]]）11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。&lt;br /&gt;
* [[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の[[頭蓋骨]]を薄濃（はくだみ。[[漆]]でかためて[[金箔]]などを張る事とされる）にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した（[[信長公記]]）。これは後世、髑髏を[[杯]]にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない（「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという）。[[髑髏]]を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。&lt;br /&gt;
* 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児（[[津田信澄]]）の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する（[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]殲滅）、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない（武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である）など、身内に手厚いともされる。&lt;br /&gt;
* 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。&lt;br /&gt;
* 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都[[公家]]の日記などから）。&lt;br /&gt;
* 長女の[[徳姫]]を除くと生前に縁組させた[[冬姫]]らの娘達は個人的にも親交のある家臣である[[前田家]]、[[丹羽家]]、若しくは少年時代から面倒を見てきた[[蒲生氏郷]]に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。&lt;br /&gt;
* 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。&lt;br /&gt;
* 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所（現在の[[関ヶ原町]]山中）に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで[[乞食]]をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年（[[1575年]]）6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。こうした行為から、信長は自分の家臣たちには厳しいが、自分に反抗する恐れのない者、特に立場の弱い庶民たちには寛大な所があったと見ることもできる。&lt;br /&gt;
* [[長篠の戦い]]の時には、身分の低い[[足軽]]でありながらも自分の命を犠牲にして[[長篠城]]を落城の危機から救った[[鳥居強右衛門]]の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も[[愛知県]][[新城市]]作手の甘泉寺に残っている。&lt;br /&gt;
* [[荒木村重]]の説得に向かった[[黒田孝高]]（官兵衛）が帰還せず同時期に孝高の主君・[[小寺政職]]が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸（後の[[黒田長政]]）の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には｢官兵衛に合せる顔が無い｣と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が[[竹中重治]]（半兵衛）に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。&lt;br /&gt;
* 信長公記などのエピソードによると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。天正9年7月15日のお盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動をとっており「言語道断面白き有様」と記述され、相撲のエピソードなどからも祭り好きだと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 苛烈と云われる所業 ===&lt;br /&gt;
* 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの[[乳母]]の[[乳房]]を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。[[新井白石]]は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比（ごろ）ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。&lt;br /&gt;
* [[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「[[圧し切り長谷部]]（へしきりはせべ）」と名づけられたという。&lt;br /&gt;
* [[元亀]]元年（[[1570年]]）5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年（1573年）に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける[[拷問]]を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス日本史より&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[徳川家康]]も家臣の[[大賀弥四郎]]に対して行っており、[[江戸時代]]の[[公事方御定書]]には極刑の一つとして紹介されている（[[鋸挽き]]）。&lt;br /&gt;
* 天正2年（[[1574年]]）の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。&amp;lt;ref&amp;gt;「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない（他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある）。またそれ以前に、降伏する場合は「（信長に対して）忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 天正6年（[[1578年]]）、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。&lt;br /&gt;
* 天正6年（1578年）12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした[[荒木村重]]の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。&lt;br /&gt;
* 天正10年（[[1582年]]）4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは&amp;lt;ref&amp;gt;安土城と竹生島の間は往復で約30里（約120km）の距離がある&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が[[本能寺の変]]以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『[[信長公記]]』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗（処罰）の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。&amp;lt;ref&amp;gt;「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」（『完訳フロイス日本史2　信長とフロイス』第32章より）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである（例えば当の比叡山延暦寺も、[[本願寺]]を焼き討ちするなどの行動をしている）。&lt;br /&gt;
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。[[豊臣秀吉]]が天正5年（[[1577年]]）に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑（子供は[[串刺し]]、女は[[磔]]）した行為&amp;lt;ref&amp;gt;同年12月5日の羽柴秀吉書状&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること（[[ルイス・ソテロ]]等の日記）や敵方の女性を[[競売]]にかけたり（[[小田井原の戦い]]）といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交友関係 ===&lt;br /&gt;
* 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。&lt;br /&gt;
* 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い｡主に[[森成利]]（蘭丸）の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』では、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話（信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話）」として残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南蛮への関心 ===&lt;br /&gt;
* 南蛮品を好み、[[正親町天皇]]を招き開催した「[[京都御馬揃え]]」に[[ベルベット|ビロード]]のマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、[[南蛮胴]]を身に付けていた。[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、[[弥助]]と名付け側近にした。&lt;br /&gt;
* [[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]・[[地図]]などをよく理解したと言われる（当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した）。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から[[火縄銃]]を用いていた。奇抜な性格で知られるが、[[ルイス・フロイス]]には日常生活は普通に見えたようである。[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の[[1585年]]（天正13年）であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。&lt;br /&gt;
* ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化への関心 ===&lt;br /&gt;
* [[囲碁]]の「[[名人]]」という言葉は信長発祥と言われている。（[[本因坊算砂]]の項を参照）&lt;br /&gt;
* 幸若舞『[[敦盛]]』の「''人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。''」という一節をよく舞った&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。一方で、[[猿楽]]（[[能]]）を嫌った{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 大の[[相撲]]好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は[[土俵]]の原型を作ったともいう{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 上京した際に連歌師の[[里村紹巴]]から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させた（『信長記』）。&lt;br /&gt;
* [[茶の湯]]にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記より。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、純粋に好んでいたようである。&lt;br /&gt;
* [[三好義継]]が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた&amp;lt;ref&amp;gt;『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。また医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=343017</id>
		<title>織田信長</title>
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				<updated>2017-09-03T09:24:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{良質}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曲がったことは絶対に許さない、悪はどんな手を使ってでも倒す男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''正義のヒーロー。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
===身体的特徴===&lt;br /&gt;
*「中くらいの背丈、華奢な体躯、ヒゲは少なく」「彼は少しく憂鬱な面影を有し」「はなはだ声は快調」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ」「戦術に極めて老練」&lt;br /&gt;
*「名誉心に富み、正義において厳格」「自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。一方で「いくつかの事では人情味と慈愛を示した」&lt;br /&gt;
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し」&lt;br /&gt;
「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」&lt;br /&gt;
「なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった」&lt;br /&gt;
*「貪欲でなく」&lt;br /&gt;
** 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　34章（本来の第1部85章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*「はなはだ決断を秘め」&lt;br /&gt;
*「非常に性急であり」「対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い」&lt;br /&gt;
*「激昂はするが、平素はそうでもなかった」彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった」「自らの見解に尊大であった」「困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵」&lt;br /&gt;
*「人の扱いにはきわめて率直で」「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず」「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」「信長はほとんど全ての人を『[[貴様]]』と呼んだ&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　36章（本来の第1部87章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。&lt;br /&gt;
*彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;[[相撲]]&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;ルタール&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;をとらせることをはなはだ好んだ。&lt;br /&gt;
*「一同からきわめて畏敬されていた」「人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した」「万事において人々は彼の言葉に服従した」&lt;br /&gt;
*「彼は善き理性と明晰な判断力を有し」「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;司令官&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;カピタン&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;として、大いなる賢明さをもって&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;天下&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;テンカ&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;を統治した者であったことは否定し得ない&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史3　58章（本来の第2部43章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　32章（本来の第1部83章）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 尾張の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。（信長公記・首巻）&lt;br /&gt;
* 天正元年（[[1573年]]）11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。&lt;br /&gt;
* [[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の[[頭蓋骨]]を薄濃（はくだみ。[[漆]]でかためて[[金箔]]などを張る事とされる）にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した（[[信長公記]]）。これは後世、髑髏を[[杯]]にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない（「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという）。[[髑髏]]を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。&lt;br /&gt;
* 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児（[[津田信澄]]）の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する（[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]殲滅）、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない（武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である）など、身内に手厚いともされる。&lt;br /&gt;
* 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。&lt;br /&gt;
* 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都[[公家]]の日記などから）。&lt;br /&gt;
* 長女の[[徳姫]]を除くと生前に縁組させた[[冬姫]]らの娘達は個人的にも親交のある家臣である[[前田家]]、[[丹羽家]]、若しくは少年時代から面倒を見てきた[[蒲生氏郷]]に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。&lt;br /&gt;
* 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。&lt;br /&gt;
* 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所（現在の[[関ヶ原町]]山中）に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで[[乞食]]をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年（[[1575年]]）6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。こうした行為から、信長は自分の家臣たちには厳しいが、自分に反抗する恐れのない者、特に立場の弱い庶民たちには寛大な所があったと見ることもできる。&lt;br /&gt;
* [[長篠の戦い]]の時には、身分の低い[[足軽]]でありながらも自分の命を犠牲にして[[長篠城]]を落城の危機から救った[[鳥居強右衛門]]の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も[[愛知県]][[新城市]]作手の甘泉寺に残っている。&lt;br /&gt;
* [[荒木村重]]の説得に向かった[[黒田孝高]]（官兵衛）が帰還せず同時期に孝高の主君・[[小寺政職]]が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸（後の[[黒田長政]]）の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には｢官兵衛に合せる顔が無い｣と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が[[竹中重治]]（半兵衛）に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。&lt;br /&gt;
* 信長公記などのエピソードによると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。天正9年7月15日のお盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動をとっており「言語道断面白き有様」と記述され、相撲のエピソードなどからも祭り好きだと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 苛烈と云われる所業 ===&lt;br /&gt;
* 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの[[乳母]]の[[乳房]]を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。[[新井白石]]は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比（ごろ）ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。&lt;br /&gt;
* [[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「[[圧し切り長谷部]]（へしきりはせべ）」と名づけられたという。&lt;br /&gt;
* [[元亀]]元年（[[1570年]]）5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年（1573年）に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける[[拷問]]を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス日本史より&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[徳川家康]]も家臣の[[大賀弥四郎]]に対して行っており、[[江戸時代]]の[[公事方御定書]]には極刑の一つとして紹介されている（[[鋸挽き]]）。&lt;br /&gt;
* 天正2年（[[1574年]]）の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。&amp;lt;ref&amp;gt;「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない（他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある）。またそれ以前に、降伏する場合は「（信長に対して）忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 天正6年（[[1578年]]）、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。&lt;br /&gt;
* 天正6年（1578年）12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした[[荒木村重]]の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。&lt;br /&gt;
* 天正10年（[[1582年]]）4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは&amp;lt;ref&amp;gt;安土城と竹生島の間は往復で約30里（約120km）の距離がある&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が[[本能寺の変]]以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『[[信長公記]]』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗（処罰）の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。&amp;lt;ref&amp;gt;「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」（『完訳フロイス日本史2　信長とフロイス』第32章より）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである（例えば当の比叡山延暦寺も、[[本願寺]]を焼き討ちするなどの行動をしている）。&lt;br /&gt;
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。[[豊臣秀吉]]が天正5年（[[1577年]]）に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑（子供は[[串刺し]]、女は[[磔]]）した行為&amp;lt;ref&amp;gt;同年12月5日の羽柴秀吉書状&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること（[[ルイス・ソテロ]]等の日記）や敵方の女性を[[競売]]にかけたり（[[小田井原の戦い]]）といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交友関係 ===&lt;br /&gt;
* 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。&lt;br /&gt;
* 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い｡主に[[森成利]]（蘭丸）の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』では、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話（信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話）」として残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南蛮への関心 ===&lt;br /&gt;
* 南蛮品を好み、[[正親町天皇]]を招き開催した「[[京都御馬揃え]]」に[[ベルベット|ビロード]]のマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、[[南蛮胴]]を身に付けていた。[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、[[弥助]]と名付け側近にした。&lt;br /&gt;
* [[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]・[[地図]]などをよく理解したと言われる（当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した）。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から[[火縄銃]]を用いていた。奇抜な性格で知られるが、[[ルイス・フロイス]]には日常生活は普通に見えたようである。[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の[[1585年]]（天正13年）であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。&lt;br /&gt;
* ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化への関心 ===&lt;br /&gt;
* [[囲碁]]の「[[名人]]」という言葉は信長発祥と言われている。（[[本因坊算砂]]の項を参照）&lt;br /&gt;
* 幸若舞『[[敦盛]]』の「''人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。''」という一節をよく舞った&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。一方で、[[猿楽]]（[[能]]）を嫌った{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 大の[[相撲]]好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は[[土俵]]の原型を作ったともいう{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 上京した際に連歌師の[[里村紹巴]]から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させた（『信長記』）。&lt;br /&gt;
* [[茶の湯]]にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記より。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、純粋に好んでいたようである。&lt;br /&gt;
* [[三好義継]]が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた&amp;lt;ref&amp;gt;『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。また医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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				<updated>2017-09-03T09:17:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{投稿禁止|勇者プクリン・エルジア王国・ストッピング薬缶・ユアペディア浄化連合・*eyond・七星・Robby wells・むらまさ・ジバニャンの神}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 質問 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水戸健二さんの住所はどこで知ったんですか？--[[利用者:ふぇありん|ふぇありん]] ([[利用者・トーク:ふぇありん|トーク]]) 2017年7月11日 (火) 22:19 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この前、[[フェイクペディア]]という悪質サイトの監視に行った時に勇者プクリンの記事が更新されていて、何を書いてあるか見て見たところそこに詳しい住所が乗っけられてました。それ以前までも福富中までは知ってましたよ。--[[利用者:ピカゴロウ|ピカゴロウ]] ([[利用者・トーク:ピカゴロウ|トーク]]) 2017年7月12日 (水) 03:52 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 正義 ==&lt;br /&gt;
ヒカゴローさん！共に正義のために戦いましょう！Yourpediaは正義なのだ。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>工藤千江梨</title>
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				<updated>2017-09-03T09:13:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんをいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の怠慢が露わになった事件でもある。警察がもっとしっかりしていれば事件を防ぐことができたのである。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B7%A5%E8%97%A4%E5%8D%83%E6%B1%9F%E6%A2%A8&amp;diff=342999</id>
		<title>工藤千江梨</title>
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				<updated>2017-09-03T09:12:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを壮絶ないじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の怠慢が露わになった事件でもある。警察がもっとしっかりしていれば事件を防ぐことができたのである。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>工藤千江梨</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんをいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の怠慢が露わになった事件でもある。警察がもっとしっかりしていれば事件を防ぐことができたのである。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=LINE_(%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3)&amp;diff=342987</id>
		<title>LINE (アプリケーション)</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:LINE韓国.png|300px|thumb|LINE]][[Image:LINE1.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
'''LINE'''（ライン）とは、[[韓国]]のIT企業[[ネイバー (企業)|ネイバー株式会社]]の[[日本法人]]、[[LINE (企業)|LINE株式会社]]（旧：NHN Japan株式会社）が提供する[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]である。[[スマートフォン]]や[[フィーチャーフォン]]など[[携帯電話]]や[[パソコン]]に対応した[[インターネット電話]]や[[テキスト]][[チャット]]などの機能を有する。また、[[2012年]]7月3日にはプラットフォーム化が発表された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20120703_544449.html|title=「LINE」がプラットフォーム化、ゲームなど外部コンテンツ提供へ|accessdate=2014-08-10}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''LINEいじめ自殺事件が多発している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''' LINEは韓国製・・・・やはりな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
LINEは[[スマートフォン]]・[[フィーチャーフォン]]・[[パソコン]]で利用できるアプリケーションで、スマートフォンでは[[Android]], [[iOS]], [[Windows Phone]] を搭載した端末に提供されている。2012年6月6日付けのニュースリリースで、登録ユーザー数が世界で4000万人を突破したと発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通話やチャットを行いたい相手同士でこのアプリケーションをインストールしておけば、[[電気通信事業者|通信キャリア]]や端末を問わず、相手とインターネット電話やチャットを行うことができる。複数人でのグループ通話にも対応している。フィーチャーフォンではテキストチャットの機能が利用でき、ボイスチャットは利用不可。通常の電話と異なりパケット通信を利用するインターネット電話であり、パケット通信料の定額サービスなどに加入していれば、電話代を課金されることなく無制限に電話をかけることができる。このアプリケーション自体が無料で提供されていることもあり、「無料通話」などと宣伝されている。しかしながらこれは前述のとおりパケット通信料が定額の場合の話であり、従量課金であれば莫大な通信料が請求される可能性もあるため注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テキストチャットはスタンプや絵文字が多種揃っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2012年]][[5月23日]]、LINEを利用した所謂[[出会い系サイト|出会い系]]の非公認サービス（スマートフォンアプリ等）が増えているとして運営元が注意を呼びかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「ウソ、私の処女膜無くなってる！」LINEナンパ男とデート楽しんだJKが異変に気づき卒倒 ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE2.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
LINE悪用男、女子高生にも睡眠薬飲ませ乱暴&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]]の無料通話アプリを通して知り合った少女(17)に睡眠薬を飲ませて乱暴したとして、被害届を受けた[[京都府警]][[山科署]]に準強姦容疑で逮捕された[[滋賀県]][[湖南市]]、無職井代昌人(32)が、[[大阪府]][[箕面市]]に住む別の女子高生(16)にも同様の手口で乱暴したとして、同署は[[2012年]][[7月3日]]、準強姦と昏睡強盗の両容疑で再逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
井代は[[2012年]][[5月15日]]夜、箕面市内に止めた乗用車内で、女子高生に睡眠薬入りのジュースを飲ませて眠らせた後、車内で暴行し、携帯電話を奪った。井代は容疑を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2人は同アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」を通して知り合った。女子高生は、同16日午前0時40分頃に自宅近くで車から降ろされた後に被害がわかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 美人局？「俺の女とＬＩＮＥチャットしたな！慰謝料払え！」LINEで恐喝、17歳少年を逮捕 ==&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]](多機能携帯電話)で通話やメッセージをやりとりするアプリの「ＬＩＮＥ(ライン)」を通じ、加東市の男性会社員(27)から現金を脅し取ったとして、兵庫県警少年捜査課と社署は2013年2月24日、恐喝の疑いで小野市の無職少年(17)を逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕容疑は、ラインなどを通じて「おれの女とチャット（インターネット上の会話）したやろ。慰謝料を払え」と会社員に因縁をつけ、1月中旬に2回にわたって計15万円を脅し取った疑い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社署によると「脅したが金は受け取っていない」と容疑を一部否認しているという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社署によると、会社員は出会い系アプリで女性と会う約束をし、1月上旬に小野市の待ち合わせ場所に出掛けたところ、少年が現れ、その後ラインで脅されるようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで知り合った中学生と淫行…男を逮捕(2013年2月) ==&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」を使って知り合った[[女子中学生]]に淫らな行為をしたとして、[[山形県警]]山形署は13日、同県[[米沢市]]吾妻町、派遣社員・飯沢彰雄(21)を県青少年健全育成条例違反の疑いで逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飯沢は1月中旬、[[上山市]]のホテルで村山地方の中学3年の女子生徒(15)と淫らな行為をした。飯沢と女子生徒は昨年11月頃、ＬＩＮＥを通じて知り合い、連絡を取るようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 胸触られた女子学生、LINEで助け求める(2013年6月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE3.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
[[京都府警]]東山署は5日、京都市消防局消防救助課主任・徳田雅俊(35)（[[大阪府]][[交野市]]）を[[強制わいせつ]]で逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳田は4日午後11時50分～5日午前1時10分頃、[[京都市]][[東山区]]の[[鴨川]]河川敷で、写真撮影をしていた同市内の女子学生(18)に「何をしているの」と声を掛けて近づき、胸を触るなどした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調べに対し、「やったことは間違いないが、抵抗されたとは思っていない」と犯意を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女子学生は事件当時、徳田に気づかれないよう[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」で、知人に「たすけて」「かもがわ」などと送信。知人が110番し、署員とともに現場に駆けつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで知り合った女子中学生にわいせつ行為…35歳派遣社員の男を逮捕。名古屋 ==&lt;br /&gt;
スマートフォン（多機能携帯電話）向けの無料通信アプリ「LINE(ライン)」で知り合った[[女子中学生]]にわいせつな行為をしたとして、名古屋・東署は2013年[[6月20日]]、県青少年保護育成条例違反(いん行、わいせつ行為)の疑いで、[[名古屋市]]東区東大曽根町、[[派遣社員]]・田中満(35)を逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月11日昼ごろ、自宅マンションに名古屋市守山区の中学2年の[[女子中学生|少女]](14)を連れ込み、未成年であることを知りながら、体を触るなどのわいせつな行為をした。「性欲を満たすために触った」などと容疑をおおむね認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中は少女の同級生とLINE上の知り合いだった。同級生の紹介で少女とLINEでやりとりをするようになり、実際に会う約束をしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大阪のバッグデザイナー、中学生買春の疑いで逮捕　LINEで知り合う(2013年9月) ==&lt;br /&gt;
無料通信アプリ「LINE(ライン)」を通じて知り合った女子中学生にみだらな行為をしたとして、兵庫県警東灘署は2日、児童買春・ポルノ禁止法違反の疑いで、大阪市天王寺区、バッグブランド「ＫＥＮＪＩＩＫＥＤＡ」代表兼デザイナー、池田憲治(39)を逮捕した。容疑を認めているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕容疑は1月26日、大阪市北区のホテルで、当時中学2年で14歳だった女子生徒に現金を支払うと約束し、わいせつ行為をしたとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同署によると、池田は昨年冬、LINEで女子生徒と知り合った。女子生徒は「会うごとに数万～10万円ほど受け取っていた」などと話しているという。女子生徒の保護者が今春、「娘が多額に現金を持っている」と同署に相談したことから発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで女子中学生呼び出しわいせつ行為。22歳無職男を逮捕(2013年10月) ==&lt;br /&gt;
インターネットの出会い系サイトを通じて知りあった[[女子中学生]]にわいせつな行為をしたとして、[[兵庫県警]]三田署は30日、兵庫県青少年愛護条例違反で、[[三田市]]大川瀬、無職、岩堀隼(22)を逮捕した。岩堀は「間違いありません」と容疑を認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩堀は8月17日午後7時ごろ、[[兵庫県]][[篠山市]]今田町の路上に停車中の乗用車内で、[[岡山市]]南区の中学2年の女子生徒(14)が18歳未満と知りながら、わいせつ行為をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩堀は[[出会い系サイト]]で知りあった女子生徒を[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「LINE」を通じて三田市内の駅に呼び出した。女子生徒と母親が翌日、岡山県警岡山南署に相談し、犯行が発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 静岡県警、パワハラで5人を懲戒　顔に熱い豆腐…LINE招待断られ(2014年1月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE4.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
静岡県警は23日、鍋の中で熱くなった[[豆腐]]を部下の顔につけるなどの[[パワーハラスメント]]を繰り返したとして、40代の警部補を停職1カ月、30代の巡査部長を減給10分の1(6カ月)とするなど計5人を懲戒処分とした。2人は同日付で依願退職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、パワハラに関わった4人を所属長注意などとした。県警は9人の所属を明らかにしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県警監察課によると、9人は昨年4月から8月までの間、懇親会の席で、部下の20代男性巡査の顔に鍋の中で熱くなった豆腐をつけて軽いやけどを負わせたほか、職場でこの巡査に腕立て伏せ120回を強要するなど、日常的にパワハラをしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9人は「無料通信アプリLINE(ライン)の招待を断ったのでやった」「(豆腐を顔につけた時の)反応が面白かったのでやった」などと話しているという。昨年8月に他の職員が監察課に相談して発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 女子高生の裸画像公開。LINEで知り合った男逮捕(2014年4月) ==&lt;br /&gt;
[[宮城県警]]若柳署は23日、児童買春・ポルノ禁止法違反(公然陳列)で、[[滋賀県]][[長浜市]][[湖北町]]、会社員・内藤聡史(28)を逮捕したと発表した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内藤は1月18日ごろ、当時17歳だった[[岐阜県]]に住む女子高校生の上半身裸の画像をインターネットの掲示板に投稿、公開した。2人は昨年、無料通信アプリLINE(ライン)を通じて知り合った。画像は内藤に要求され、生徒が自分で撮影したものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 続発する古典的手口「美人局」の今は「LINE」 ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE5.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
[[Image:LINE6.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
「美人局」といえば、古くからある詐欺的行為で、手口は古典的ながらも大阪で今も続発している。少女と待ち合わせをしたはずが、現れるのは男たちで、現金などを奪われているという。ただ、現代事情に合わせ、その手段にはスマートフォンの無料アプリ「LINE」が使われており、古典的な犯罪に最新の文明がミックスされているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美人局－。男女が謀り、関係を持とうとした別の男性を陥れて現金を奪ったりする事件だ。古くは700年近く前の中国・元の時代にルーツがあるとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代では、[[テレホンクラブ]]や[[出会い系サイト]]が被害者を探し出す舞台に使われていたが、ここに新たなツールが加わった。スマートフォンの無料通話アプリ「LINE」だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大阪]]では2014年7月、ラインで女性と待ち合わせていた男性が襲われて現金を奪われる美人局事件が10件近く相次ぎ、[[大阪府警]]はうち1件の事件に関与したとして、男女3人を逮捕するなどした。話題に上り、便利になったモノには犯罪者も寄ってくる。ただ、いくら技術が進歩しても、犯罪の根幹は古典的。時代が変わっても、注意すべきは「甘い誘い」なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「一緒に遊ぼう」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大阪市内の男性(28)が、府内の高校3年の少女(17)と知り合ったのは7月初旬ごろ。きっかけはスマホの出会い系アプリだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少女はこのアプリ内の掲示板に自身のラインのIDを掲載しており、男性はラインで少女にメッセージを送信。何度か連絡を取り合ううちに、親しくなり、2人きりで食事にも行ったという。一度会ったのは男性を信用させるための手口だったのか。それとも、出会った後に何かあったのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性は7月12日、少女から「一緒に遊ぼう」というメッセージを受け取り、車を走らせて約束の場所へ向かった。これが罠だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あらかじめ指定されていた待ち合わせ場所の[[大阪市]][[天王寺区]]の路上に到着すると、複数の男が控えており、男性はたちまち取り囲まれた。男たちは、別の車の後部座席に男性を無理やり押し込め、まもなく車を走らせ始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「殺されたいんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「しばかれたことあるんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男らは車内で男性を脅し続けた。そして、男性の財布から現金約4万円を奪ったが、それでは足りなかったのか、最初の現場から北東約16キロ離れた[[守口市]]金田町の[[コンビニ]]まで移動し、[[ATM]]で約18万円を引き出させた。ここでようやく、男性は解放されたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
府警は「美人局事件」とみて捜査を開始。やがて、コンビニの防犯カメラに犯行で使用されたレンタカーが写っていたことなどから、少女らが浮上し、強盗容疑で少女と、20代の男らを逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大阪では7月、同様の美人局事件が相次いでいた。例えば、以下のような被害が判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《17日未明、守口市の路上で、男性会社員(24)が3人組の男に警棒のようなもので暴行された》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《17日午後11時20分ごろ、大阪市住吉区で、男性(39)が3人組の男に襲われ、現金約6万5千円を奪われた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれの男性も出会い系アプリで知り合った女と会う約束をしており、ラインで呼び出されていた。府警は逮捕した少女らが関与した可能性もあると見て捜査を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[広辞苑]](第六版)によると、「美人局」という漢字は、中国・元の時代(1271～1368年)に記された「[[武林旧事]]」という書物に登場する。[[梅花女子大]]の[[米川明彦]]教授(日本語学)によると、[[娼妓]]が少年を誘い、後から出てきた男が娼妓を妻などと偽って少年を脅した－とのエピソードがあるという。もともとの意味も、現代の犯罪に通じていたようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが日本では、[[室町時代]]ごろから「つつもたせ」という言葉が出てくるというが、当時は、現在のような意味はなかったようだ。「つつ」は博徒が丁半ばくちで使う際にサイコロを入れる「筒」を指したとされる。博徒が客を相手にイカサマをすることから、人をだますという意味になり、妻を使って男性をだます犯罪を「つつもたせ」と呼ぶようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米川教授は「元の故事と日本の『つつもたせ』の意味が良く似ていたことから、『つつもたせ』に美人局の漢字を当てるようになった」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には[[落語]]にもなった美人局。演目「駒長(こまちょう)」では、長兵衛という男が女房のお駒とともに借金取りを相手に美人局を企て、逆にお駒を借金取りに口説かれて、一緒に出て行ってしまうというエピソードが描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古典落語に詳しい[[情報科学芸術大学院大]]の[[小林昌広]]教授(日本芸能史)は「江戸の町民は美人局をある種、滑稽な犯罪としてみていたのだろう」とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「『自分はひっかからないだろう』などと考え、安易によく知らない女性と会うのは禁物」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こう警告するのは、[[第一東京弁護士会]]の[[服部梢]]弁護士。これまで美人局の絡んだ複数の事件を担当したことがあるといい、以下のような例を紹介してくれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ケース1《居酒屋で女性に声をかけられた男性。女性とすっかり意気投合し、毎日のように酒を酌み交わすように。やがて、ホテルで関係を持ったが、その後、男の声で「大人のけじめを見せてほしい」と電話がかかってきた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ケース2《男性は突然、交際していた女性から「あなたとのことが夫にばれてしまい、慰謝料がいる」と言われ、その後、夫を名乗る男からも金銭を要求された。本当に夫婦だが「ばれた」と嘘をついたのか、もともと夫婦を装って金を脅し取ろうとしたのか、分からない》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
服部弁護士は「美人局は男女間のトラブル。被害を受けた側は言い出しにくい。後ろめたい気持ちをたくみについた悪質な犯罪だ」と非難する。「表に出てこない被害も多く、弁護士に相談に来る人は氷山の一角に過ぎないのではないか」とした上で、「自分の危機管理力を見直してほしい」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
服部弁護士の担当したケースの中には、数百万円を奪われた男性もいたという。笑えないオチである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ID ==&lt;br /&gt;
インスタントメッセンジャーとしてのIDは携帯電話の電話番号を利用しており、登録時に電話認証で電話番号の確認が行われる。携帯電話の電話帳を読み込むアプリケーションとなっていて、電話番号自体がIDとなっているため、携帯電話の電話帳に登録されている人とチャットすることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つのIDでは任意な文字列を設定可能である。また、様々な事件が起きたため[[AU]]の[[Android]]では18歳未満では規制がかかっている。だが、データを書き換えたところ18歳未満でもID検索可能になったり、ID検索を使わずにURLをつかうという抜け道画存在するため実質無意味である。パソコン版、一度、携帯電話で登録してから利用可能。パソコンだけで単独で利用することはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ID掲示板「危険高い」交換1週間で犯行52％―無料通信通じ子ども被害 ===&lt;br /&gt;
「LINE(ライン)」など無料通信アプリのIDをインターネット掲示板で交換した相手から、18歳未満の子どもがわいせつなどの被害を受けた事件を警察庁が分析したところ、52％は交換から1週間以内に起きていたことが分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[オンラインゲーム]]や自己紹介サイトなども含めた交流サイト全体より13ポイント高かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ID交換掲示板を通じた出会いが、被害に遭う危険性の高いことを示している。わいせつ目的で近づく者が潜んでいる可能性を認識すべきだ」と指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無料通信アプリは[[スマートフォン]](多機能携帯電話)利用者に人気で、電話番号やメールアドレスを知らない相手ともIDを使って通話やメールができる。ネット上には、IDとともに「友達募集」「遊んで」と書き込む非公認の掲示板が多数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
警察庁によると、掲示板でIDを教えた後にアプリで連絡を取り、犯罪被害に遭った子どもは1～6月に117人いた。交換から犯行までの日数が判明した113事件を調べたところ、「1週間以内」が52．2％を占めた。交流サイト全体（808事件）では39．6％だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ボット ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE7.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
放射能情報・テキスト翻訳・天気予報などの[[インターネットボット|ボット]]サービスを搭載している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEにおける荒らし ==&lt;br /&gt;
主にスタンプ連打や全員を強制退会させるなどの用法を使用する。主に[[荒らしグループ]]が有名。&lt;br /&gt;
== タイムライン機能 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[twitter]]のようにつぶやくことが可能である。&lt;br /&gt;
中にはトークをせず、タイムラインしか使わない[[TL民]](通称テルミン)も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[My People (アプリケーション)]]&lt;br /&gt;
* [[KakaoTalk (アプリケーション)]]&lt;br /&gt;
* [[インスタントメッセンジャー]]&lt;br /&gt;
* [[インターネット電話]]&lt;br /&gt;
* [[チャット]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[LINE]]&lt;br /&gt;
*[[タイムライン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://line.naver.jp/ LINE(ライン)－無料通話・無料メールアプリ]&lt;br /&gt;
* [http://itunes.apple.com/jp/app/line/id443904275 LINE] - [[App Store]]&lt;br /&gt;
* [https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.naver.line.android&amp;amp;hl=ja LINE] - Google Play の [[Android]] アプリ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:LINE8.jpg|300px]] [[Image:LINE9.jpg|300px]] [[Image:LINE10.jpg|300px]] [[Image:LINE11.jpg|300px]] [[Image:LINE12.jpg|300px]] [[Image:LINE13.jpg|300px]] [[Image:LINE14.jpg|300px]] [[Image:LINE15.jpg|300px]] [[Image:LINE16.jpg|500px]]　[[Image:LINE17.jpg|300px]] [[Image:LINE18.jpg|300px]]　　[[Image:LINE19.jpg|300px]] [[Image:LINE20.jpg|300px]]　[[Image:LINE21.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:らいん}}&lt;br /&gt;
[[Category:韓国]]&lt;br /&gt;
[[Category:IP電話]]&lt;br /&gt;
[[Category:iOSのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Androidのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Windowsのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Mac OS Xのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:NHN]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=LINE_(%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3)&amp;diff=342985</id>
		<title>LINE (アプリケーション)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=LINE_(%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3)&amp;diff=342985"/>
				<updated>2017-09-03T09:05:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:LINE韓国.png|300px|thumb|LINE]][[Image:LINE1.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
'''LINE'''（ライン）とは、[[韓国]]のIT企業[[ネイバー (企業)|ネイバー株式会社]]の[[日本法人]]、[[LINE (企業)|LINE株式会社]]（旧：NHN Japan株式会社）が提供する[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]である。[[スマートフォン]]や[[フィーチャーフォン]]など[[携帯電話]]や[[パソコン]]に対応した[[インターネット電話]]や[[テキスト]][[チャット]]などの機能を有する。また、[[2012年]]7月3日にはプラットフォーム化が発表された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20120703_544449.html|title=「LINE」がプラットフォーム化、ゲームなど外部コンテンツ提供へ|accessdate=2014-08-10}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''LINEいじめ自殺事件が多発している。&lt;br /&gt;
''' LINEは韓国製・・・・やはりな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
LINEは[[スマートフォン]]・[[フィーチャーフォン]]・[[パソコン]]で利用できるアプリケーションで、スマートフォンでは[[Android]], [[iOS]], [[Windows Phone]] を搭載した端末に提供されている。2012年6月6日付けのニュースリリースで、登録ユーザー数が世界で4000万人を突破したと発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通話やチャットを行いたい相手同士でこのアプリケーションをインストールしておけば、[[電気通信事業者|通信キャリア]]や端末を問わず、相手とインターネット電話やチャットを行うことができる。複数人でのグループ通話にも対応している。フィーチャーフォンではテキストチャットの機能が利用でき、ボイスチャットは利用不可。通常の電話と異なりパケット通信を利用するインターネット電話であり、パケット通信料の定額サービスなどに加入していれば、電話代を課金されることなく無制限に電話をかけることができる。このアプリケーション自体が無料で提供されていることもあり、「無料通話」などと宣伝されている。しかしながらこれは前述のとおりパケット通信料が定額の場合の話であり、従量課金であれば莫大な通信料が請求される可能性もあるため注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テキストチャットはスタンプや絵文字が多種揃っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2012年]][[5月23日]]、LINEを利用した所謂[[出会い系サイト|出会い系]]の非公認サービス（スマートフォンアプリ等）が増えているとして運営元が注意を呼びかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「ウソ、私の処女膜無くなってる！」LINEナンパ男とデート楽しんだJKが異変に気づき卒倒 ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE2.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
LINE悪用男、女子高生にも睡眠薬飲ませ乱暴&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]]の無料通話アプリを通して知り合った少女(17)に睡眠薬を飲ませて乱暴したとして、被害届を受けた[[京都府警]][[山科署]]に準強姦容疑で逮捕された[[滋賀県]][[湖南市]]、無職井代昌人(32)が、[[大阪府]][[箕面市]]に住む別の女子高生(16)にも同様の手口で乱暴したとして、同署は[[2012年]][[7月3日]]、準強姦と昏睡強盗の両容疑で再逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
井代は[[2012年]][[5月15日]]夜、箕面市内に止めた乗用車内で、女子高生に睡眠薬入りのジュースを飲ませて眠らせた後、車内で暴行し、携帯電話を奪った。井代は容疑を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2人は同アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」を通して知り合った。女子高生は、同16日午前0時40分頃に自宅近くで車から降ろされた後に被害がわかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 美人局？「俺の女とＬＩＮＥチャットしたな！慰謝料払え！」LINEで恐喝、17歳少年を逮捕 ==&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]](多機能携帯電話)で通話やメッセージをやりとりするアプリの「ＬＩＮＥ(ライン)」を通じ、加東市の男性会社員(27)から現金を脅し取ったとして、兵庫県警少年捜査課と社署は2013年2月24日、恐喝の疑いで小野市の無職少年(17)を逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕容疑は、ラインなどを通じて「おれの女とチャット（インターネット上の会話）したやろ。慰謝料を払え」と会社員に因縁をつけ、1月中旬に2回にわたって計15万円を脅し取った疑い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社署によると「脅したが金は受け取っていない」と容疑を一部否認しているという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社署によると、会社員は出会い系アプリで女性と会う約束をし、1月上旬に小野市の待ち合わせ場所に出掛けたところ、少年が現れ、その後ラインで脅されるようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで知り合った中学生と淫行…男を逮捕(2013年2月) ==&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」を使って知り合った[[女子中学生]]に淫らな行為をしたとして、[[山形県警]]山形署は13日、同県[[米沢市]]吾妻町、派遣社員・飯沢彰雄(21)を県青少年健全育成条例違反の疑いで逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飯沢は1月中旬、[[上山市]]のホテルで村山地方の中学3年の女子生徒(15)と淫らな行為をした。飯沢と女子生徒は昨年11月頃、ＬＩＮＥを通じて知り合い、連絡を取るようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 胸触られた女子学生、LINEで助け求める(2013年6月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE3.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
[[京都府警]]東山署は5日、京都市消防局消防救助課主任・徳田雅俊(35)（[[大阪府]][[交野市]]）を[[強制わいせつ]]で逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳田は4日午後11時50分～5日午前1時10分頃、[[京都市]][[東山区]]の[[鴨川]]河川敷で、写真撮影をしていた同市内の女子学生(18)に「何をしているの」と声を掛けて近づき、胸を触るなどした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調べに対し、「やったことは間違いないが、抵抗されたとは思っていない」と犯意を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女子学生は事件当時、徳田に気づかれないよう[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」で、知人に「たすけて」「かもがわ」などと送信。知人が110番し、署員とともに現場に駆けつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで知り合った女子中学生にわいせつ行為…35歳派遣社員の男を逮捕。名古屋 ==&lt;br /&gt;
スマートフォン（多機能携帯電話）向けの無料通信アプリ「LINE(ライン)」で知り合った[[女子中学生]]にわいせつな行為をしたとして、名古屋・東署は2013年[[6月20日]]、県青少年保護育成条例違反(いん行、わいせつ行為)の疑いで、[[名古屋市]]東区東大曽根町、[[派遣社員]]・田中満(35)を逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月11日昼ごろ、自宅マンションに名古屋市守山区の中学2年の[[女子中学生|少女]](14)を連れ込み、未成年であることを知りながら、体を触るなどのわいせつな行為をした。「性欲を満たすために触った」などと容疑をおおむね認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中は少女の同級生とLINE上の知り合いだった。同級生の紹介で少女とLINEでやりとりをするようになり、実際に会う約束をしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大阪のバッグデザイナー、中学生買春の疑いで逮捕　LINEで知り合う(2013年9月) ==&lt;br /&gt;
無料通信アプリ「LINE(ライン)」を通じて知り合った女子中学生にみだらな行為をしたとして、兵庫県警東灘署は2日、児童買春・ポルノ禁止法違反の疑いで、大阪市天王寺区、バッグブランド「ＫＥＮＪＩＩＫＥＤＡ」代表兼デザイナー、池田憲治(39)を逮捕した。容疑を認めているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕容疑は1月26日、大阪市北区のホテルで、当時中学2年で14歳だった女子生徒に現金を支払うと約束し、わいせつ行為をしたとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同署によると、池田は昨年冬、LINEで女子生徒と知り合った。女子生徒は「会うごとに数万～10万円ほど受け取っていた」などと話しているという。女子生徒の保護者が今春、「娘が多額に現金を持っている」と同署に相談したことから発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで女子中学生呼び出しわいせつ行為。22歳無職男を逮捕(2013年10月) ==&lt;br /&gt;
インターネットの出会い系サイトを通じて知りあった[[女子中学生]]にわいせつな行為をしたとして、[[兵庫県警]]三田署は30日、兵庫県青少年愛護条例違反で、[[三田市]]大川瀬、無職、岩堀隼(22)を逮捕した。岩堀は「間違いありません」と容疑を認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩堀は8月17日午後7時ごろ、[[兵庫県]][[篠山市]]今田町の路上に停車中の乗用車内で、[[岡山市]]南区の中学2年の女子生徒(14)が18歳未満と知りながら、わいせつ行為をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩堀は[[出会い系サイト]]で知りあった女子生徒を[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「LINE」を通じて三田市内の駅に呼び出した。女子生徒と母親が翌日、岡山県警岡山南署に相談し、犯行が発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 静岡県警、パワハラで5人を懲戒　顔に熱い豆腐…LINE招待断られ(2014年1月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE4.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
静岡県警は23日、鍋の中で熱くなった[[豆腐]]を部下の顔につけるなどの[[パワーハラスメント]]を繰り返したとして、40代の警部補を停職1カ月、30代の巡査部長を減給10分の1(6カ月)とするなど計5人を懲戒処分とした。2人は同日付で依願退職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、パワハラに関わった4人を所属長注意などとした。県警は9人の所属を明らかにしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県警監察課によると、9人は昨年4月から8月までの間、懇親会の席で、部下の20代男性巡査の顔に鍋の中で熱くなった豆腐をつけて軽いやけどを負わせたほか、職場でこの巡査に腕立て伏せ120回を強要するなど、日常的にパワハラをしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9人は「無料通信アプリLINE(ライン)の招待を断ったのでやった」「(豆腐を顔につけた時の)反応が面白かったのでやった」などと話しているという。昨年8月に他の職員が監察課に相談して発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 女子高生の裸画像公開。LINEで知り合った男逮捕(2014年4月) ==&lt;br /&gt;
[[宮城県警]]若柳署は23日、児童買春・ポルノ禁止法違反(公然陳列)で、[[滋賀県]][[長浜市]][[湖北町]]、会社員・内藤聡史(28)を逮捕したと発表した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内藤は1月18日ごろ、当時17歳だった[[岐阜県]]に住む女子高校生の上半身裸の画像をインターネットの掲示板に投稿、公開した。2人は昨年、無料通信アプリLINE(ライン)を通じて知り合った。画像は内藤に要求され、生徒が自分で撮影したものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 続発する古典的手口「美人局」の今は「LINE」 ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE5.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
[[Image:LINE6.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
「美人局」といえば、古くからある詐欺的行為で、手口は古典的ながらも大阪で今も続発している。少女と待ち合わせをしたはずが、現れるのは男たちで、現金などを奪われているという。ただ、現代事情に合わせ、その手段にはスマートフォンの無料アプリ「LINE」が使われており、古典的な犯罪に最新の文明がミックスされているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美人局－。男女が謀り、関係を持とうとした別の男性を陥れて現金を奪ったりする事件だ。古くは700年近く前の中国・元の時代にルーツがあるとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代では、[[テレホンクラブ]]や[[出会い系サイト]]が被害者を探し出す舞台に使われていたが、ここに新たなツールが加わった。スマートフォンの無料通話アプリ「LINE」だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大阪]]では2014年7月、ラインで女性と待ち合わせていた男性が襲われて現金を奪われる美人局事件が10件近く相次ぎ、[[大阪府警]]はうち1件の事件に関与したとして、男女3人を逮捕するなどした。話題に上り、便利になったモノには犯罪者も寄ってくる。ただ、いくら技術が進歩しても、犯罪の根幹は古典的。時代が変わっても、注意すべきは「甘い誘い」なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「一緒に遊ぼう」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大阪市内の男性(28)が、府内の高校3年の少女(17)と知り合ったのは7月初旬ごろ。きっかけはスマホの出会い系アプリだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少女はこのアプリ内の掲示板に自身のラインのIDを掲載しており、男性はラインで少女にメッセージを送信。何度か連絡を取り合ううちに、親しくなり、2人きりで食事にも行ったという。一度会ったのは男性を信用させるための手口だったのか。それとも、出会った後に何かあったのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性は7月12日、少女から「一緒に遊ぼう」というメッセージを受け取り、車を走らせて約束の場所へ向かった。これが罠だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あらかじめ指定されていた待ち合わせ場所の[[大阪市]][[天王寺区]]の路上に到着すると、複数の男が控えており、男性はたちまち取り囲まれた。男たちは、別の車の後部座席に男性を無理やり押し込め、まもなく車を走らせ始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「殺されたいんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「しばかれたことあるんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男らは車内で男性を脅し続けた。そして、男性の財布から現金約4万円を奪ったが、それでは足りなかったのか、最初の現場から北東約16キロ離れた[[守口市]]金田町の[[コンビニ]]まで移動し、[[ATM]]で約18万円を引き出させた。ここでようやく、男性は解放されたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
府警は「美人局事件」とみて捜査を開始。やがて、コンビニの防犯カメラに犯行で使用されたレンタカーが写っていたことなどから、少女らが浮上し、強盗容疑で少女と、20代の男らを逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大阪では7月、同様の美人局事件が相次いでいた。例えば、以下のような被害が判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《17日未明、守口市の路上で、男性会社員(24)が3人組の男に警棒のようなもので暴行された》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《17日午後11時20分ごろ、大阪市住吉区で、男性(39)が3人組の男に襲われ、現金約6万5千円を奪われた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれの男性も出会い系アプリで知り合った女と会う約束をしており、ラインで呼び出されていた。府警は逮捕した少女らが関与した可能性もあると見て捜査を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[広辞苑]](第六版)によると、「美人局」という漢字は、中国・元の時代(1271～1368年)に記された「[[武林旧事]]」という書物に登場する。[[梅花女子大]]の[[米川明彦]]教授(日本語学)によると、[[娼妓]]が少年を誘い、後から出てきた男が娼妓を妻などと偽って少年を脅した－とのエピソードがあるという。もともとの意味も、現代の犯罪に通じていたようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが日本では、[[室町時代]]ごろから「つつもたせ」という言葉が出てくるというが、当時は、現在のような意味はなかったようだ。「つつ」は博徒が丁半ばくちで使う際にサイコロを入れる「筒」を指したとされる。博徒が客を相手にイカサマをすることから、人をだますという意味になり、妻を使って男性をだます犯罪を「つつもたせ」と呼ぶようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米川教授は「元の故事と日本の『つつもたせ』の意味が良く似ていたことから、『つつもたせ』に美人局の漢字を当てるようになった」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には[[落語]]にもなった美人局。演目「駒長(こまちょう)」では、長兵衛という男が女房のお駒とともに借金取りを相手に美人局を企て、逆にお駒を借金取りに口説かれて、一緒に出て行ってしまうというエピソードが描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古典落語に詳しい[[情報科学芸術大学院大]]の[[小林昌広]]教授(日本芸能史)は「江戸の町民は美人局をある種、滑稽な犯罪としてみていたのだろう」とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「『自分はひっかからないだろう』などと考え、安易によく知らない女性と会うのは禁物」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こう警告するのは、[[第一東京弁護士会]]の[[服部梢]]弁護士。これまで美人局の絡んだ複数の事件を担当したことがあるといい、以下のような例を紹介してくれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ケース1《居酒屋で女性に声をかけられた男性。女性とすっかり意気投合し、毎日のように酒を酌み交わすように。やがて、ホテルで関係を持ったが、その後、男の声で「大人のけじめを見せてほしい」と電話がかかってきた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ケース2《男性は突然、交際していた女性から「あなたとのことが夫にばれてしまい、慰謝料がいる」と言われ、その後、夫を名乗る男からも金銭を要求された。本当に夫婦だが「ばれた」と嘘をついたのか、もともと夫婦を装って金を脅し取ろうとしたのか、分からない》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
服部弁護士は「美人局は男女間のトラブル。被害を受けた側は言い出しにくい。後ろめたい気持ちをたくみについた悪質な犯罪だ」と非難する。「表に出てこない被害も多く、弁護士に相談に来る人は氷山の一角に過ぎないのではないか」とした上で、「自分の危機管理力を見直してほしい」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
服部弁護士の担当したケースの中には、数百万円を奪われた男性もいたという。笑えないオチである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ID ==&lt;br /&gt;
インスタントメッセンジャーとしてのIDは携帯電話の電話番号を利用しており、登録時に電話認証で電話番号の確認が行われる。携帯電話の電話帳を読み込むアプリケーションとなっていて、電話番号自体がIDとなっているため、携帯電話の電話帳に登録されている人とチャットすることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つのIDでは任意な文字列を設定可能である。また、様々な事件が起きたため[[AU]]の[[Android]]では18歳未満では規制がかかっている。だが、データを書き換えたところ18歳未満でもID検索可能になったり、ID検索を使わずにURLをつかうという抜け道画存在するため実質無意味である。パソコン版、一度、携帯電話で登録してから利用可能。パソコンだけで単独で利用することはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ID掲示板「危険高い」交換1週間で犯行52％―無料通信通じ子ども被害 ===&lt;br /&gt;
「LINE(ライン)」など無料通信アプリのIDをインターネット掲示板で交換した相手から、18歳未満の子どもがわいせつなどの被害を受けた事件を警察庁が分析したところ、52％は交換から1週間以内に起きていたことが分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[オンラインゲーム]]や自己紹介サイトなども含めた交流サイト全体より13ポイント高かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ID交換掲示板を通じた出会いが、被害に遭う危険性の高いことを示している。わいせつ目的で近づく者が潜んでいる可能性を認識すべきだ」と指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無料通信アプリは[[スマートフォン]](多機能携帯電話)利用者に人気で、電話番号やメールアドレスを知らない相手ともIDを使って通話やメールができる。ネット上には、IDとともに「友達募集」「遊んで」と書き込む非公認の掲示板が多数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
警察庁によると、掲示板でIDを教えた後にアプリで連絡を取り、犯罪被害に遭った子どもは1～6月に117人いた。交換から犯行までの日数が判明した113事件を調べたところ、「1週間以内」が52．2％を占めた。交流サイト全体（808事件）では39．6％だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ボット ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE7.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
放射能情報・テキスト翻訳・天気予報などの[[インターネットボット|ボット]]サービスを搭載している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEにおける荒らし ==&lt;br /&gt;
主にスタンプ連打や全員を強制退会させるなどの用法を使用する。主に[[荒らしグループ]]が有名。&lt;br /&gt;
== タイムライン機能 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[twitter]]のようにつぶやくことが可能である。&lt;br /&gt;
中にはトークをせず、タイムラインしか使わない[[TL民]](通称テルミン)も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[My People (アプリケーション)]]&lt;br /&gt;
* [[KakaoTalk (アプリケーション)]]&lt;br /&gt;
* [[インスタントメッセンジャー]]&lt;br /&gt;
* [[インターネット電話]]&lt;br /&gt;
* [[チャット]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[LINE]]&lt;br /&gt;
*[[タイムライン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://line.naver.jp/ LINE(ライン)－無料通話・無料メールアプリ]&lt;br /&gt;
* [http://itunes.apple.com/jp/app/line/id443904275 LINE] - [[App Store]]&lt;br /&gt;
* [https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.naver.line.android&amp;amp;hl=ja LINE] - Google Play の [[Android]] アプリ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:LINE8.jpg|300px]] [[Image:LINE9.jpg|300px]] [[Image:LINE10.jpg|300px]] [[Image:LINE11.jpg|300px]] [[Image:LINE12.jpg|300px]] [[Image:LINE13.jpg|300px]] [[Image:LINE14.jpg|300px]] [[Image:LINE15.jpg|300px]] [[Image:LINE16.jpg|500px]]　[[Image:LINE17.jpg|300px]] [[Image:LINE18.jpg|300px]]　　[[Image:LINE19.jpg|300px]] [[Image:LINE20.jpg|300px]]　[[Image:LINE21.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:らいん}}&lt;br /&gt;
[[Category:韓国]]&lt;br /&gt;
[[Category:IP電話]]&lt;br /&gt;
[[Category:iOSのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Androidのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Windowsのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Mac OS Xのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:NHN]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=LINE_(%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3)&amp;diff=342984</id>
		<title>LINE (アプリケーション)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=LINE_(%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3)&amp;diff=342984"/>
				<updated>2017-09-03T09:05:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:LINE韓国.png|300px|thumb|LINE]][[Image:LINE1.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
'''LINE'''（ライン）とは、[[韓国]]のIT企業[[ネイバー (企業)|ネイバー株式会社]]の[[日本法人]]、[[LINE (企業)|LINE株式会社]]（旧：NHN Japan株式会社）が提供する[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]である。[[スマートフォン]]や[[フィーチャーフォン]]など[[携帯電話]]や[[パソコン]]に対応した[[インターネット電話]]や[[テキスト]][[チャット]]などの機能を有する。また、[[2012年]]7月3日にはプラットフォーム化が発表された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20120703_544449.html|title=「LINE」がプラットフォーム化、ゲームなど外部コンテンツ提供へ|accessdate=2014-08-10}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''LINEいじめ自殺事件が多発している。''' LINEは韓国製・・・・やはりな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
LINEは[[スマートフォン]]・[[フィーチャーフォン]]・[[パソコン]]で利用できるアプリケーションで、スマートフォンでは[[Android]], [[iOS]], [[Windows Phone]] を搭載した端末に提供されている。2012年6月6日付けのニュースリリースで、登録ユーザー数が世界で4000万人を突破したと発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通話やチャットを行いたい相手同士でこのアプリケーションをインストールしておけば、[[電気通信事業者|通信キャリア]]や端末を問わず、相手とインターネット電話やチャットを行うことができる。複数人でのグループ通話にも対応している。フィーチャーフォンではテキストチャットの機能が利用でき、ボイスチャットは利用不可。通常の電話と異なりパケット通信を利用するインターネット電話であり、パケット通信料の定額サービスなどに加入していれば、電話代を課金されることなく無制限に電話をかけることができる。このアプリケーション自体が無料で提供されていることもあり、「無料通話」などと宣伝されている。しかしながらこれは前述のとおりパケット通信料が定額の場合の話であり、従量課金であれば莫大な通信料が請求される可能性もあるため注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テキストチャットはスタンプや絵文字が多種揃っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2012年]][[5月23日]]、LINEを利用した所謂[[出会い系サイト|出会い系]]の非公認サービス（スマートフォンアプリ等）が増えているとして運営元が注意を呼びかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「ウソ、私の処女膜無くなってる！」LINEナンパ男とデート楽しんだJKが異変に気づき卒倒 ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE2.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
LINE悪用男、女子高生にも睡眠薬飲ませ乱暴&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]]の無料通話アプリを通して知り合った少女(17)に睡眠薬を飲ませて乱暴したとして、被害届を受けた[[京都府警]][[山科署]]に準強姦容疑で逮捕された[[滋賀県]][[湖南市]]、無職井代昌人(32)が、[[大阪府]][[箕面市]]に住む別の女子高生(16)にも同様の手口で乱暴したとして、同署は[[2012年]][[7月3日]]、準強姦と昏睡強盗の両容疑で再逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
井代は[[2012年]][[5月15日]]夜、箕面市内に止めた乗用車内で、女子高生に睡眠薬入りのジュースを飲ませて眠らせた後、車内で暴行し、携帯電話を奪った。井代は容疑を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2人は同アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」を通して知り合った。女子高生は、同16日午前0時40分頃に自宅近くで車から降ろされた後に被害がわかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 美人局？「俺の女とＬＩＮＥチャットしたな！慰謝料払え！」LINEで恐喝、17歳少年を逮捕 ==&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]](多機能携帯電話)で通話やメッセージをやりとりするアプリの「ＬＩＮＥ(ライン)」を通じ、加東市の男性会社員(27)から現金を脅し取ったとして、兵庫県警少年捜査課と社署は2013年2月24日、恐喝の疑いで小野市の無職少年(17)を逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕容疑は、ラインなどを通じて「おれの女とチャット（インターネット上の会話）したやろ。慰謝料を払え」と会社員に因縁をつけ、1月中旬に2回にわたって計15万円を脅し取った疑い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社署によると「脅したが金は受け取っていない」と容疑を一部否認しているという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社署によると、会社員は出会い系アプリで女性と会う約束をし、1月上旬に小野市の待ち合わせ場所に出掛けたところ、少年が現れ、その後ラインで脅されるようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで知り合った中学生と淫行…男を逮捕(2013年2月) ==&lt;br /&gt;
[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」を使って知り合った[[女子中学生]]に淫らな行為をしたとして、[[山形県警]]山形署は13日、同県[[米沢市]]吾妻町、派遣社員・飯沢彰雄(21)を県青少年健全育成条例違反の疑いで逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飯沢は1月中旬、[[上山市]]のホテルで村山地方の中学3年の女子生徒(15)と淫らな行為をした。飯沢と女子生徒は昨年11月頃、ＬＩＮＥを通じて知り合い、連絡を取るようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 胸触られた女子学生、LINEで助け求める(2013年6月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE3.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
[[京都府警]]東山署は5日、京都市消防局消防救助課主任・徳田雅俊(35)（[[大阪府]][[交野市]]）を[[強制わいせつ]]で逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳田は4日午後11時50分～5日午前1時10分頃、[[京都市]][[東山区]]の[[鴨川]]河川敷で、写真撮影をしていた同市内の女子学生(18)に「何をしているの」と声を掛けて近づき、胸を触るなどした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調べに対し、「やったことは間違いないが、抵抗されたとは思っていない」と犯意を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女子学生は事件当時、徳田に気づかれないよう[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「ＬＩＮＥ（ライン）」で、知人に「たすけて」「かもがわ」などと送信。知人が110番し、署員とともに現場に駆けつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで知り合った女子中学生にわいせつ行為…35歳派遣社員の男を逮捕。名古屋 ==&lt;br /&gt;
スマートフォン（多機能携帯電話）向けの無料通信アプリ「LINE(ライン)」で知り合った[[女子中学生]]にわいせつな行為をしたとして、名古屋・東署は2013年[[6月20日]]、県青少年保護育成条例違反(いん行、わいせつ行為)の疑いで、[[名古屋市]]東区東大曽根町、[[派遣社員]]・田中満(35)を逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月11日昼ごろ、自宅マンションに名古屋市守山区の中学2年の[[女子中学生|少女]](14)を連れ込み、未成年であることを知りながら、体を触るなどのわいせつな行為をした。「性欲を満たすために触った」などと容疑をおおむね認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中は少女の同級生とLINE上の知り合いだった。同級生の紹介で少女とLINEでやりとりをするようになり、実際に会う約束をしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大阪のバッグデザイナー、中学生買春の疑いで逮捕　LINEで知り合う(2013年9月) ==&lt;br /&gt;
無料通信アプリ「LINE(ライン)」を通じて知り合った女子中学生にみだらな行為をしたとして、兵庫県警東灘署は2日、児童買春・ポルノ禁止法違反の疑いで、大阪市天王寺区、バッグブランド「ＫＥＮＪＩＩＫＥＤＡ」代表兼デザイナー、池田憲治(39)を逮捕した。容疑を認めているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕容疑は1月26日、大阪市北区のホテルで、当時中学2年で14歳だった女子生徒に現金を支払うと約束し、わいせつ行為をしたとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同署によると、池田は昨年冬、LINEで女子生徒と知り合った。女子生徒は「会うごとに数万～10万円ほど受け取っていた」などと話しているという。女子生徒の保護者が今春、「娘が多額に現金を持っている」と同署に相談したことから発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEで女子中学生呼び出しわいせつ行為。22歳無職男を逮捕(2013年10月) ==&lt;br /&gt;
インターネットの出会い系サイトを通じて知りあった[[女子中学生]]にわいせつな行為をしたとして、[[兵庫県警]]三田署は30日、兵庫県青少年愛護条例違反で、[[三田市]]大川瀬、無職、岩堀隼(22)を逮捕した。岩堀は「間違いありません」と容疑を認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩堀は8月17日午後7時ごろ、[[兵庫県]][[篠山市]]今田町の路上に停車中の乗用車内で、[[岡山市]]南区の中学2年の女子生徒(14)が18歳未満と知りながら、わいせつ行為をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩堀は[[出会い系サイト]]で知りあった女子生徒を[[スマートフォン]]の無料通話アプリ「LINE」を通じて三田市内の駅に呼び出した。女子生徒と母親が翌日、岡山県警岡山南署に相談し、犯行が発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 静岡県警、パワハラで5人を懲戒　顔に熱い豆腐…LINE招待断られ(2014年1月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE4.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
静岡県警は23日、鍋の中で熱くなった[[豆腐]]を部下の顔につけるなどの[[パワーハラスメント]]を繰り返したとして、40代の警部補を停職1カ月、30代の巡査部長を減給10分の1(6カ月)とするなど計5人を懲戒処分とした。2人は同日付で依願退職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、パワハラに関わった4人を所属長注意などとした。県警は9人の所属を明らかにしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県警監察課によると、9人は昨年4月から8月までの間、懇親会の席で、部下の20代男性巡査の顔に鍋の中で熱くなった豆腐をつけて軽いやけどを負わせたほか、職場でこの巡査に腕立て伏せ120回を強要するなど、日常的にパワハラをしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9人は「無料通信アプリLINE(ライン)の招待を断ったのでやった」「(豆腐を顔につけた時の)反応が面白かったのでやった」などと話しているという。昨年8月に他の職員が監察課に相談して発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 女子高生の裸画像公開。LINEで知り合った男逮捕(2014年4月) ==&lt;br /&gt;
[[宮城県警]]若柳署は23日、児童買春・ポルノ禁止法違反(公然陳列)で、[[滋賀県]][[長浜市]][[湖北町]]、会社員・内藤聡史(28)を逮捕したと発表した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内藤は1月18日ごろ、当時17歳だった[[岐阜県]]に住む女子高校生の上半身裸の画像をインターネットの掲示板に投稿、公開した。2人は昨年、無料通信アプリLINE(ライン)を通じて知り合った。画像は内藤に要求され、生徒が自分で撮影したものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 続発する古典的手口「美人局」の今は「LINE」 ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE5.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
[[Image:LINE6.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
「美人局」といえば、古くからある詐欺的行為で、手口は古典的ながらも大阪で今も続発している。少女と待ち合わせをしたはずが、現れるのは男たちで、現金などを奪われているという。ただ、現代事情に合わせ、その手段にはスマートフォンの無料アプリ「LINE」が使われており、古典的な犯罪に最新の文明がミックスされているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美人局－。男女が謀り、関係を持とうとした別の男性を陥れて現金を奪ったりする事件だ。古くは700年近く前の中国・元の時代にルーツがあるとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代では、[[テレホンクラブ]]や[[出会い系サイト]]が被害者を探し出す舞台に使われていたが、ここに新たなツールが加わった。スマートフォンの無料通話アプリ「LINE」だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大阪]]では2014年7月、ラインで女性と待ち合わせていた男性が襲われて現金を奪われる美人局事件が10件近く相次ぎ、[[大阪府警]]はうち1件の事件に関与したとして、男女3人を逮捕するなどした。話題に上り、便利になったモノには犯罪者も寄ってくる。ただ、いくら技術が進歩しても、犯罪の根幹は古典的。時代が変わっても、注意すべきは「甘い誘い」なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「一緒に遊ぼう」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大阪市内の男性(28)が、府内の高校3年の少女(17)と知り合ったのは7月初旬ごろ。きっかけはスマホの出会い系アプリだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少女はこのアプリ内の掲示板に自身のラインのIDを掲載しており、男性はラインで少女にメッセージを送信。何度か連絡を取り合ううちに、親しくなり、2人きりで食事にも行ったという。一度会ったのは男性を信用させるための手口だったのか。それとも、出会った後に何かあったのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性は7月12日、少女から「一緒に遊ぼう」というメッセージを受け取り、車を走らせて約束の場所へ向かった。これが罠だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あらかじめ指定されていた待ち合わせ場所の[[大阪市]][[天王寺区]]の路上に到着すると、複数の男が控えており、男性はたちまち取り囲まれた。男たちは、別の車の後部座席に男性を無理やり押し込め、まもなく車を走らせ始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「殺されたいんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「しばかれたことあるんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男らは車内で男性を脅し続けた。そして、男性の財布から現金約4万円を奪ったが、それでは足りなかったのか、最初の現場から北東約16キロ離れた[[守口市]]金田町の[[コンビニ]]まで移動し、[[ATM]]で約18万円を引き出させた。ここでようやく、男性は解放されたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
府警は「美人局事件」とみて捜査を開始。やがて、コンビニの防犯カメラに犯行で使用されたレンタカーが写っていたことなどから、少女らが浮上し、強盗容疑で少女と、20代の男らを逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大阪では7月、同様の美人局事件が相次いでいた。例えば、以下のような被害が判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《17日未明、守口市の路上で、男性会社員(24)が3人組の男に警棒のようなもので暴行された》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《17日午後11時20分ごろ、大阪市住吉区で、男性(39)が3人組の男に襲われ、現金約6万5千円を奪われた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれの男性も出会い系アプリで知り合った女と会う約束をしており、ラインで呼び出されていた。府警は逮捕した少女らが関与した可能性もあると見て捜査を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[広辞苑]](第六版)によると、「美人局」という漢字は、中国・元の時代(1271～1368年)に記された「[[武林旧事]]」という書物に登場する。[[梅花女子大]]の[[米川明彦]]教授(日本語学)によると、[[娼妓]]が少年を誘い、後から出てきた男が娼妓を妻などと偽って少年を脅した－とのエピソードがあるという。もともとの意味も、現代の犯罪に通じていたようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが日本では、[[室町時代]]ごろから「つつもたせ」という言葉が出てくるというが、当時は、現在のような意味はなかったようだ。「つつ」は博徒が丁半ばくちで使う際にサイコロを入れる「筒」を指したとされる。博徒が客を相手にイカサマをすることから、人をだますという意味になり、妻を使って男性をだます犯罪を「つつもたせ」と呼ぶようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米川教授は「元の故事と日本の『つつもたせ』の意味が良く似ていたことから、『つつもたせ』に美人局の漢字を当てるようになった」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には[[落語]]にもなった美人局。演目「駒長(こまちょう)」では、長兵衛という男が女房のお駒とともに借金取りを相手に美人局を企て、逆にお駒を借金取りに口説かれて、一緒に出て行ってしまうというエピソードが描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古典落語に詳しい[[情報科学芸術大学院大]]の[[小林昌広]]教授(日本芸能史)は「江戸の町民は美人局をある種、滑稽な犯罪としてみていたのだろう」とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「『自分はひっかからないだろう』などと考え、安易によく知らない女性と会うのは禁物」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こう警告するのは、[[第一東京弁護士会]]の[[服部梢]]弁護士。これまで美人局の絡んだ複数の事件を担当したことがあるといい、以下のような例を紹介してくれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ケース1《居酒屋で女性に声をかけられた男性。女性とすっかり意気投合し、毎日のように酒を酌み交わすように。やがて、ホテルで関係を持ったが、その後、男の声で「大人のけじめを見せてほしい」と電話がかかってきた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ケース2《男性は突然、交際していた女性から「あなたとのことが夫にばれてしまい、慰謝料がいる」と言われ、その後、夫を名乗る男からも金銭を要求された。本当に夫婦だが「ばれた」と嘘をついたのか、もともと夫婦を装って金を脅し取ろうとしたのか、分からない》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
服部弁護士は「美人局は男女間のトラブル。被害を受けた側は言い出しにくい。後ろめたい気持ちをたくみについた悪質な犯罪だ」と非難する。「表に出てこない被害も多く、弁護士に相談に来る人は氷山の一角に過ぎないのではないか」とした上で、「自分の危機管理力を見直してほしい」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
服部弁護士の担当したケースの中には、数百万円を奪われた男性もいたという。笑えないオチである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ID ==&lt;br /&gt;
インスタントメッセンジャーとしてのIDは携帯電話の電話番号を利用しており、登録時に電話認証で電話番号の確認が行われる。携帯電話の電話帳を読み込むアプリケーションとなっていて、電話番号自体がIDとなっているため、携帯電話の電話帳に登録されている人とチャットすることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つのIDでは任意な文字列を設定可能である。また、様々な事件が起きたため[[AU]]の[[Android]]では18歳未満では規制がかかっている。だが、データを書き換えたところ18歳未満でもID検索可能になったり、ID検索を使わずにURLをつかうという抜け道画存在するため実質無意味である。パソコン版、一度、携帯電話で登録してから利用可能。パソコンだけで単独で利用することはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ID掲示板「危険高い」交換1週間で犯行52％―無料通信通じ子ども被害 ===&lt;br /&gt;
「LINE(ライン)」など無料通信アプリのIDをインターネット掲示板で交換した相手から、18歳未満の子どもがわいせつなどの被害を受けた事件を警察庁が分析したところ、52％は交換から1週間以内に起きていたことが分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[オンラインゲーム]]や自己紹介サイトなども含めた交流サイト全体より13ポイント高かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ID交換掲示板を通じた出会いが、被害に遭う危険性の高いことを示している。わいせつ目的で近づく者が潜んでいる可能性を認識すべきだ」と指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無料通信アプリは[[スマートフォン]](多機能携帯電話)利用者に人気で、電話番号やメールアドレスを知らない相手ともIDを使って通話やメールができる。ネット上には、IDとともに「友達募集」「遊んで」と書き込む非公認の掲示板が多数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
警察庁によると、掲示板でIDを教えた後にアプリで連絡を取り、犯罪被害に遭った子どもは1～6月に117人いた。交換から犯行までの日数が判明した113事件を調べたところ、「1週間以内」が52．2％を占めた。交流サイト全体（808事件）では39．6％だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ボット ==&lt;br /&gt;
[[Image:LINE7.jpg|300px|thumb|LINE]]&lt;br /&gt;
放射能情報・テキスト翻訳・天気予報などの[[インターネットボット|ボット]]サービスを搭載している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LINEにおける荒らし ==&lt;br /&gt;
主にスタンプ連打や全員を強制退会させるなどの用法を使用する。主に[[荒らしグループ]]が有名。&lt;br /&gt;
== タイムライン機能 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[twitter]]のようにつぶやくことが可能である。&lt;br /&gt;
中にはトークをせず、タイムラインしか使わない[[TL民]](通称テルミン)も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[My People (アプリケーション)]]&lt;br /&gt;
* [[KakaoTalk (アプリケーション)]]&lt;br /&gt;
* [[インスタントメッセンジャー]]&lt;br /&gt;
* [[インターネット電話]]&lt;br /&gt;
* [[チャット]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[LINE]]&lt;br /&gt;
*[[タイムライン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://line.naver.jp/ LINE(ライン)－無料通話・無料メールアプリ]&lt;br /&gt;
* [http://itunes.apple.com/jp/app/line/id443904275 LINE] - [[App Store]]&lt;br /&gt;
* [https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.naver.line.android&amp;amp;hl=ja LINE] - Google Play の [[Android]] アプリ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:LINE8.jpg|300px]] [[Image:LINE9.jpg|300px]] [[Image:LINE10.jpg|300px]] [[Image:LINE11.jpg|300px]] [[Image:LINE12.jpg|300px]] [[Image:LINE13.jpg|300px]] [[Image:LINE14.jpg|300px]] [[Image:LINE15.jpg|300px]] [[Image:LINE16.jpg|500px]]　[[Image:LINE17.jpg|300px]] [[Image:LINE18.jpg|300px]]　　[[Image:LINE19.jpg|300px]] [[Image:LINE20.jpg|300px]]　[[Image:LINE21.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:らいん}}&lt;br /&gt;
[[Category:韓国]]&lt;br /&gt;
[[Category:IP電話]]&lt;br /&gt;
[[Category:iOSのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Androidのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Windowsのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:Mac OS Xのソフトウェア]]&lt;br /&gt;
[[Category:NHN]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Fromm/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%83%AD%E3%82%B008&amp;diff=342979</id>
		<title>利用者・トーク:Fromm/過去ログ08</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Fromm/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%83%AD%E3%82%B008&amp;diff=342979"/>
				<updated>2017-09-03T09:00:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[利用者:Fromm/過去ログ01|過去ログ01]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ02|過去ログ02]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ03|過去ログ03]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ04|過去ログ04]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ05|過去ログ05]]&lt;br /&gt;
[[利用者:Fromm/過去ログ06|過去ログ06]]&lt;br /&gt;
[[利用者・トーク:Fromm/過去ログ07|過去ログ07]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== これはどういうこと？ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうも[[利用者:H2]]と申します。私のトークページにあなたが送った棲み分けのご提案ですが、これは私とあなたが作成している記事や画像が似ていて、それに対する提案でしょうか？また最初の冒頭文章“思えば貴殿と最初に対話したのは2009年12月のテンプレート:注目の画像についてでしたね。”という言葉ですが、私は10日ほど前にアカウントを作成しました。なのでは私は新規利用者です。--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 06:40 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ところで・・・&lt;br /&gt;
棲み分けの件について私に送ったのは一体何が起きたのでしょうか？私が何か悪いことでもしましたでしょうか？思いつくとすれば、[[下着モデル|例の記事]]などの編集合戦ですか？--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 07:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:その編集合戦ですね。今後、私が作成したカデゴリである「Category:画像が多い記事」を貴殿の記事に使わないで頂ければ幸いです。--[[利用者:Fromm|Fromm]] 2014年6月22日 (日) 16:57 (UTC)&lt;br /&gt;
::カテゴリーはウィキペディアなどと違い、このペディアの利用者皆が使うことができるものではないということでしょうか？--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 08:28 (UTC)&lt;br /&gt;
::YourpediaはWikipediaと違い先編集権が尊重されます。それは画像やカテゴリにもあてはまります。ですので作成者がその画像、カテゴリを使用されることを好まない場合は、記事同様に(2)のようにフォークされては如何でしょうか?--[[利用者:Fromm|Fromm]] 2014年6月22日 (日) 17:32 (UTC)&lt;br /&gt;
:::わりました。--[[利用者:H2|H2]] 2014年6月22日 (日) 08:38 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三者ですが、気になる点がありましたので質問させていただきます。私も、ここのルールに関して浅学なので、あまりルールに関する事に首を突っ込むべきではないと思いましたが、後学のため、質問させていただきます。カテゴリーなどは同一のものが何個もありますと、煩雑となり、記事を読む方にとっては読みづらい印象を受けるものでは無いでしょうか？また、記事以外には先編集権は適用外ではありませんでしたか？作成者だからといっても、明記がなければ先編集権は適用されないでしょう？--[[利用者:フォウ・ムラサメ大好き|フォウ・ムラサメ大好き]] 2014年6月22日 (日) 11:38 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一言 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''&amp;lt;big&amp;gt;開き直るんじゃない!!&amp;lt;/big&amp;gt;'''--[[利用者:Robby wells|Robby wells]] 2014年6月27日 (金) 05:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 画像荒らしの件 ==&lt;br /&gt;
Frommさんが作成された[[東日本大震災]]の画像が、無断で差し替えられていました。防止措置はsyspo氏に取って頂きましたがファイル削除を行ったため、よろしければお手数ですが再アップお願いします。--[[利用者:防人|防人]] 2014年7月11日 (金) 20:56 (UTC)&lt;br /&gt;
:了解しました。再アップがうまく出来なかったので、以下のファイルをもう一度削除して頂けますでしょうか?&lt;br /&gt;
:東日本大震災 1・東日本大震災 2・東日本大震災 6・東日本大震災 7・東日本大震災 8・セブンイレブン1--Fromm 2014年7月12日 (土) 10:04 (UTC)&lt;br /&gt;
::対応しました。--[[利用者:防人|防人]] 2014年7月12日 (土) 11:44 (UTC)&lt;br /&gt;
::有難うございました。--Fromm 2014年7月12日 (土) 11:48 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あなたが作成する記事について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんだかまどろっこしいタイトルになってしまいましたね......&lt;br /&gt;
[[利用者:New Super Lemon|New Super Lemon]] です。さて、本題でありますが、あなたが作成した記事は第三者が編集すると、貴方もしくは管理者防人氏によって、Fromm 様の版まで差し戻される、つまり、先編集権を主張していることと存じますので、先編集権を主張していることであれば、以下のTemplateを作成する記事に貼り付けていただきたく存じます。このTemplateを貴方の記事に貼り付ける事によって、明確に先編集権を主張しているとことが第三者にも明確に伝わり、誤解なく貴殿の思うままに編集が出来ることと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;nowiki&amp;gt;{{先編集権}}&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
↑上記のtemplateを貴殿の記事に貼り付けていただく様、ご協力お願いします。--[[利用者:New Super Lemon|New Super Lemon]] 2014年8月8日 (金) 14:16 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戻しました ==&lt;br /&gt;
Frommさんが作成された[[野々村竜太郎]]の記事が、無断で編集されていましたので、戻しました。--[[利用者:Hong Kong City|Hong Kong City]] 2014年9月10日 (水) 12:17 (UTC)&lt;br /&gt;
:ご配慮いただき有難うございます。当該記事は他の方により更に補足・追記された内容となっておりますので、そのままで結構です。--[[利用者:Fromm|Fromm]] 2014年9月10日 (水) 23:41 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ようこそ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ようこそリンク集}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Frommさんが多岐にわたる編集をされることを祈って。ｰｰ長津田 2014年9月13日 (土) 06:52 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==警告==&lt;br /&gt;
ここはウィキペディアじゃない。[http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Fromm こういう事]をやりたいならいるべき場に戻れ。--[[特別:投稿記録/133.236.95.231|133.236.95.231]] 2014年11月26日 (水) 02:08 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ご自分の投稿を顧みてはいかがですか ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたのような恥知らずには何を言っても無駄ですか?それなら&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;big&amp;gt;御覧なさい!!&amp;lt;/big&amp;gt;&amp;lt;span style=font-size:26pt;&amp;gt;[http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Fromm ご自分の投稿]&amp;lt;/span&amp;gt;&amp;lt;big&amp;gt;を&amp;lt;/big&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;big&amp;gt;ユーザーでもない、人間でもない今のご自分の投稿を&amp;lt;/big&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=font-size:26pt;&amp;gt;御覧なさい!!&amp;lt;/span&amp;gt;--[[利用者:Robby wells|Robby wells]] 2014年12月7日 (日) 05:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 画像について ==&lt;br /&gt;
前に貴方がアップロードした[[牧原あゆ]]、[[山中知恵]]などの画像に本日、「所有者（株式会社アイマックス）が権利を有する画像が無断でアップロードされている」という連絡がありました。当サイトでは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「'''投稿されるものは、自身によって書かれたものであるか、パブリック・ドメイン、またはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください。著作権保護されている作品を、許諾なしに投稿しないでください！'''」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書かれています。また、[[Yourpedia:画像利用の方針]]を熟読するようお願いします。--[[利用者:PG|PG]] 2015年1月8日 (木) 14:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 少しは人の言うことを聞きなさい ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ、あなたは意見・質問されたり注意・警告されてもほとんど毎回無視するのでしょうか。人の話を聞けるのですか、それとも聞けないのですか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''&amp;lt;span style=font-size:27pt;&amp;gt;あなたが答えなさい!!あなたにはその義務がある!!なぜなら当サイト史上最悪の迷惑ユーザーはあなただからだ!!&amp;lt;/span&amp;gt;'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理由は何だと思いますか。Frommさん。--[[利用者:Robby wells|Robby wells]] 2015年5月2日 (土) 05:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{横槍}}始めまして、{{User|PG}}と申します。人の言うことを無視する行為は許せないという気持ちはわかります。しかし、今までのやりとりを見ると、この方はあなたの警告に対し、無視している傾向が見受けられます。この状態は残念ながら、続くと思われます。私の提案として、「この方は人の言うことを無視する。この状態が続けば、当サイトに支障をきたす恐れがある。なんとかしてくれ」と管理者に報告することをお勧めします。その後は対応は管理者が判断するでしょう。ただし、対応次第では様子見でそのままにしてしまうことがあります。何がともあれ、この方の現状を管理者であるsysopさんや、防人さんに報告することが最善だと思われます。私からの意見からは以上です。--[[利用者:PG|PG]] 2015年5月2日 (土) 13:56 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんにちは。新人管理人のTakumi3でございます。まず、Fromm氏に関しては、画像の大量投稿はやめてください。例え自己責任だとしても、あなたが投稿した画像は膨大なものになります。それによって、このように皆様から注意を受けるのは当然だと思います。また、集中的な投稿によってサーバーに負担がかかりますのでやめてください。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
次にRobby wellsさん。注意、警告ありがとうございます。ですが、あまり過剰になり過ぎないようにお願いします。&lt;br /&gt;
あと、PG氏に関しては本人のページで返答しています。--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年5月2日 (土) 16:33 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お詫びと質問 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんにちは。Takumi3です。&lt;br /&gt;
*「昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ」の削除についてですが、イタズラかと思っていましたがsysopのトークページ見て、検索しまして実在することを知りました。お詫びいたします。再投稿をお願いします。&lt;br /&gt;
*「こいつ」呼ばわりについて。不適切表現でした。失礼しました。以後気をつけます。&lt;br /&gt;
*あと質問なんですが、普通の記事ページに女子高生の画像を載せる必要はありますか？その記事と女子高生の画像は関係ないと感じないと思われるページがたくさんあるのですが・・・。&lt;br /&gt;
*アダルト画像を大量にアップロードする理由は何ですか？他のWIKIではダメなのですか？--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年5月28日 (木) 15:19 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 【お願い】自己責任テンプレートを外すのはやめてください。 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんにちは。Takumi3でございます。&lt;br /&gt;
自己責任テンプレートを外さないでください。最近、このサイトの方針を知らずに編集する者や、個人情報・誹謗中傷だからとむやみに白紙化をするユーザーがあと経たない他、一般市民は「サイトのルールを知らない」という方もおりますので、説明の意味も兼ねております。自己責任覚悟と白紙化防止、スムーズな削除のためにも外さないでください。よろしくお願いします。--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年6月3日 (水) 14:33 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お願い】自己責任テンプレートを外すのはやめてください。（２） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Takumi3です。いいですか？あなたが作成した記事の内の一部は批判的内容が含まれている可能性があります。あなた自身は自己責任を覚悟して編集しているかもしれませんが、このサイトを訪れた初心者や被害者などは当然ながらこのサイトでは自己責任だということを知らない方もたくさんいるかと思います。当サイトの自己責任の重みを知らずに安易な気持ちで書いてしまい、後々問題になってもおかしくありません。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
そうならないためにも「覚悟をして書いてください。」という念を押すために書いているものです。決してあなたの記事が気に入らないとかそういう意味ではありませんから先編集権云々で自己責任テンプレートを外すのはお控えください。--[[利用者:Takumi3|Takumi3]] 2015年6月5日 (金) 04:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投票お願いします ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利用者:True/井戸端]]にて勝手ながら、Yourpedia:井戸端の作成議論を行っています。Yourpediaの今後に関わる事なのでぜひとも投票をお願い致します。--[[利用者:True|True]] ([[利用者・トーク:True|トーク]]) 2016年10月6日 (木) 09:43 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「キチガイ無罪」の項目について ==&lt;br /&gt;
議論もなく膨大な量の記述を削除した理由はなに？俺はきちんと事実と勘違いされている部分を両論併記するべきだと思って編集したんだけど、何が気に入らなかったのかな？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あー他の編集記事みたら貴殿が何に主張を置いているのかお察しだわ…--[[利用者:エビオス|エビオス]] ([[利用者・トーク:エビオス|トーク]]) 2017年3月14日 (火) 12:42 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対話する気がないなら何度でも差し戻しますね。--[[利用者:エビオス|エビオス]] ([[利用者・トーク:エビオス|トーク]]) 2017年3月19日 (日) 20:39 (CDT)&lt;br /&gt;
つーか、おまえみたいなまとめサイトのコピペしかできねえやつを見るとセンスねえなあ、日がな叩く連中を探してないと自分が哀れに思えてきちゃうんだなあと悲しくなるわ。--[[利用者:エビオス|エビオス]] ([[利用者・トーク:エビオス|トーク]]) 2017年3月19日 (日) 20:43 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死ねカス--[[利用者:エビオス|エビオス]] ([[利用者・トーク:エビオス|トーク]]) 2017年4月2日 (日) 22:03 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 警告 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フィイヤッハァ！[[利用者:KdysMxkPznha|KdysMxkPznha]] ([[利用者・トーク:KdysMxkPznha|トーク]]) 2017年3月18日 (土) 05:06 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 要望 ==&lt;br /&gt;
[[創価学会]]で意味もなく取り消すのはやめてください！！迷惑しています！&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A&amp;diff=342978</id>
		<title>創価学会</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A&amp;diff=342978"/>
				<updated>2017-09-03T08:59:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: 真実は明確にせねばならない。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:池田大作1.jpg|400px|thumb|[[池田大作]]]]&lt;br /&gt;
[[Image:池田大作2.jpg|400px|thumb|[[池田大作]]]]&lt;br /&gt;
'''宗教法人創価学会'''（かぶしきがいしゃ そうかがっかい）とは、[[日蓮正宗]]系の[[新宗教]]（新興宗教）。オカルト団体。日本で最大級の偽[[仏教]]団体。また、政権に最も近づいたカルト宗教団体でもある。'''騒音おばさんと呼ばれた[[河原美代子]]に入信を断られた学会員の老夫婦が河原に嫌がらせをし、陥れる悪行を働いたとされている[https://blogs.yahoo.co.jp/posutoman21/31274257.html][http://clippinweb.com/souon-obasan-genzai/][https://matome.naver.jp/odai/2133515262312361101][http://www.p-runner.net/data-neta/miyoko/miyoko.html]。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海外で「仏教に興味ありませんか」と声をかけてきたら「[[手相]]に興味ありませんか」と同じくらい警戒が必要である（実際、現地の外国人が仏教と思って創価学会に入信するケースは多い）。フランスではカルト指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:創価タレント.jpg|400px|thumb|創価信者タレント]]&lt;br /&gt;
本部は[[東京都]][[新宿区]][[信濃町]]。 創価学会公称の会員世帯数は、827万世帯（2007年）。 公称の学会員数も約1000万人と言われている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の[[法華宗]]系団体と異なるところは、強烈な布教活動（[[折伏]]）と、初代会長・[[牧口常三郎]]、第2代会長・[[戸田城聖]]、第3代会長・[[池田犬作]]の いわゆる「三代会長」への絶対的な尊敬と、とくに池田と会員との間にみられる師弟観、および創価学会が支持する政党である[[公明党]]との政治活動である。&lt;br /&gt;
副理事長には池田大作の息子の池田博正が就いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ仏教法華宗系の[[日蓮正宗]]、[[顕正会]]と激しく対立。また、過去[[新興宗教]]の[[天理教]]、[[立正佼正会]]を激しく攻撃していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教義 ==&lt;br /&gt;
日々の勤行は、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることを自らの修行とし、新規会員の開拓、財務、聖教新聞啓蒙などを主とするものがある。これらの活動は、元来の教義では人のため、平和のため、ひいては自分自身のためという趣旨により行われていたはずなのだが、池田大作名誉会長のための活動（師匠にお応えする戦い）とする会員が多いというのが昨今の事実である。他の宗教や宗派は全て邪教であるという日蓮正宗系に共通する日蓮原理主義に基づく、排他的で非常に攻撃的な思想をその旨とする。最近では根本修行である勤行の経文ではなく祈念文を改定した。機関紙の聖教新聞では、SGIの世界における活動や会員の体験談などを掲載する一方で、宗門問題、名誉毀損問題をめぐり、山崎正友元創価学会顧問弁護士、竹入義勝元公明党委員長への[[糾弾]]の名を借りた誹謗中傷を大々的に行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三色旗 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yourpedia向け 創価学会文化会館.jpg|thumb|right|280px|三色旗が掲げられている創価学会文化会館]]&lt;br /&gt;
1988年に創価学会の旗として「三色旗」が定められた。ポールから順に青・黄・赤となり色の三原色が使用され、青は「平和」黄は「栄光」赤は「勝利」を意味する、という。中心に学会の紋章や創価学園の校章が入る場合もあるが、これは同一の国旗を持つ[[ルーマニア]]や[[チャド]]に対する明白な当て擦りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実、創価学会と深い繋がりをもつ[[日本テレビ]]は[[2004年]]に「Dragostea Din Tei (菩提樹の下の恋) 」が世界的にヒットしたルーマニアのバンドグループ、[[O-Zone]] (現在は解散) があたかも創価学会員で在るかのような報道を行い、その日の内に抗議の電話が殺到した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 基礎データ ==&lt;br /&gt;
=== 2007年現在の主要役員 ===&lt;br /&gt;
* 名誉会長：[[池田大作]]&lt;br /&gt;
* 会長：原田　稔 (2006年11月就任) &lt;br /&gt;
* 理事長：正木正明 &lt;br /&gt;
* 副理事長: 西口良三、大野和郎、大場好孝、山本武、長谷川重夫、原田光治、池田博正&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 組織 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞1.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
*壮年部　40歳以上男性&lt;br /&gt;
*婦人部　既婚または40歳以上の女性&lt;br /&gt;
**多宝会　65歳以上の男女&lt;br /&gt;
*男子部　40歳未満男性&lt;br /&gt;
**創価班　会合運営、場外警備(男性)&lt;br /&gt;
**牙城会　会館警備&lt;br /&gt;
*女子部　未婚かつ40歳未満の女性&lt;br /&gt;
**白蓮　　会合運営(女性)&lt;br /&gt;
*学生部　大学(院)生・専門学生&lt;br /&gt;
*未来部　高校生・中学生・小学生&lt;br /&gt;
年齢による規定は明確に定めていないので、地域によって差がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会合 ===&lt;br /&gt;
*本部幹部会同時中継(月1回)&lt;br /&gt;
*合同法要(月1回)&lt;br /&gt;
*地区座談会(月1回)&lt;br /&gt;
*唱題会(任意)&lt;br /&gt;
*その他に幹部会や指導会がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現況 ==&lt;br /&gt;
会員数で言えば世界最大の「学会」であり、一部の研究職を除き「学会」と言えばだれもが創価学会を連想するほどに著名である。フランス政府公認の{{偽リンク|団体|カルト}}でもある。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 財務 ===&lt;br /&gt;
創価学会では年1度、会員より「広布基金」（通称：財務）という集金活動を行っている。 「広布基金」は銀行振込で行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メディア戦略 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞2.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
創価学会の機関紙である[[聖教新聞]]は[[毎日新聞社]]や複数の[[地方紙]]に印刷を委託している。このことは新聞社に往々にして創価学会批判を手控えさせると共に半ば宣伝に近い記事を掲載させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラジオ番組や地方のテレビ番組でCMを盛んに流していることでも知られる。特に朝から昼にかけては創価学会や[[聖教新聞]]がスポンサーについている番組が毎時間必ずひとつかふたつは有るため、ラジオでは常に創価グループのCMが流されてしまっている。近年では関東圏の民放においても[[創価大学]]のCMを放映している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
CMは「そ～うか～がっかい～」などと耳に残りやすいメロディのセリフから始まり、イメージ広告を流すというもの。その内容はもっともらしい主張を連発して「創価学会はこんなにいいところですよ」と暗示させるもの。これはグラビアアイドルやチワワなどを用いて視聴者の心を掴んでおいて借金地獄の道へと導いてさしあげる、[[消費者金融]]のCMとよく似ている。創価の悪事はTVでほとんど報道されないので、創価学会はやりたい放題している。この点も消費者金融に酷似している。またNHKに学会員を投入して情報を巧みに操作することで唯一批判しても運営に困らないNHKにも批判をさせない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもgoogleの関連検索から「カルト」などのキーワードを消し去るなど様々な場所で大勝利を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 提供番組 ====&lt;br /&gt;
*[[あなたへモーニングコール]]（[[TBSラジオ]]）&lt;br /&gt;
*[[ミュージックギフト～音楽・地球号]]（[[文化放送]]）&lt;br /&gt;
*[[サウンドトラベル]]（[[ニッポン放送]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===運営上の目標===&lt;br /&gt;
[[オウム真理教]]の武力的日本制圧の大失敗を目の当たりにし、政権与党であった[[自民党]]を{{偽リンク|取り込み|金で買収し}}[[政治]]的な制圧に力を注いでいた。一般国民の家畜化計画を企む日本版[[悪の枢軸]]の一つであり、[[電通]]（世論洗脳部隊）や[[経団連]]（経済統制部隊）と合わせて'''創通連'''（そうつれん）と呼ばれる。共同作戦で、「政治」「メディア」「経済」の三方から日本の社会システムを完全掌握する算段である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、[[アンチ]]創価が噴出する[[ネット]]の言論封鎖に躍起になっており、あらゆる[[差別]]撤廃を名目にする「ユニバーサル法」、[[人権]]問題を名目にする「人権擁護法」、[[青少年]]の安全を名目にする「有害情報規制法」、[[ロリコン]]の[[性犯罪]]防止を名目にする「[[児童ポルノ禁止法|二次元含む児童ポルノ所持規制法]]」など一般国民が反対しにくい部分からの'''言論・表現の自由規制'''を足掛かりにして、強力な{{偽リンク|ネット規制法|自己擁護法}}成立を目指している。そのため、{{偽リンク|マスコミ|TBS}}を{{偽リンク|影から動かして|金を渡して}}[[オタク]]叩きをさせ、「'''ネットはオタクの住処だ'''」「'''犯罪者の巣窟だ'''」という世論を形成し、{{偽リンク|ネット規制|自己擁護法}}への批判の説得力をなくさせている。また、[[特定アジア|アジア]]から[[同胞|援軍]]を呼ぶため、[[反日|お友達]]の[[同和問題|部落解放同盟]]、[[民潭]]、[[朝日新聞]]らと連携し、「[[外国人参政権|外国人の参政権]]」導入も急いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終目標は'''プレヂデントD'''による'''創価帝国'''（旧日本国）建国および、中国主導による大東亜人民連合の成立である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===運営上の課題===&lt;br /&gt;
会員は[[頭がパーン|常人を超越している]]。[[インターネット]]の普及により末端信者のネット参加も増え、その価値観の違いから、一般人との対立、トラブルも増えつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らの語る仏法には統一感がなく、時として食い違う。それでも、「池田大作は偉大！」の一点だけは共通する信念である。多くの人達が創価学会との対話を試みるが、彼らを理解できない人達は一様にして激しく攻撃に遭う。その様はまるで、巨人でいう長嶋信者のような、あるいは国自体が創価カルトな[[北朝鮮]]や創価の親玉である[[中国]]の[[人民|それ]]を見ているようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「親創価派か？アンチ創価派か？」の二極分化する要因となっているのは、「偽善者らに憎まれもせず、敵も競わない論など、言論の名に値しない戯論なのであろう。中立ぶったり良識ぶったりで乙にすます日本の緒論に、どれだけの言論の炎があるか？」（2007年8月27日の聖教新聞「破邪顕正」）にもあるように、創価の味方をしない中立論者まで敵視する創価学会側にある。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
また、あるラジオ番組で[[北野誠]]がこの団体に対して批判的な発言をしたため、放送局並びに松竹芸能に強い圧力をかけ、無期限活動停止に追い込まれたという噂が流れた。が、事実かどうかは局の人間でもわかっていても話せない。その辺はお察しください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞3.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
[[1928年]]（昭和3年）6月、[[三谷素啓]]の折伏により、牧口常三郎が日蓮正宗に入信。 その年の秋には戸田城聖も入信。 [[1930年]]（昭和5年）に、『創価教育学体系』という教育学の著書を発刊。 [[1937年]]（昭和12年）に東京麻布の菊水亭にて'''[[創価教育学会]]'''の発会式が行われ、初代会長に牧口常三郎が就任。当初は文化人が支持するなど、宗教的な色彩は薄かった。第二次大戦後、出版業・金融業を営んでいた第2代会長の戸田城聖が'''創価学会'''と改名した。 [[1972年]]、第3代会長の池田大作が、創価学会の世界規模の団体として''[[創価学会インタナショナル]]''（SGI）を発足させた。 現在190ヶ国に広がっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 折伏大行進と小樽問答 ===&lt;br /&gt;
[[1951年]]に戸田城聖が「青年訓」を発表し、青年部を中心に[[折伏大行進]]と呼ばれる大々的な勧誘キャンペーンが[[1969年]]まで行われた。この時の強烈な勧誘活動は社会問題にもなり、他宗派やマスコミの批判を招いた。[[1955年]]に[[日蓮宗]]妙龍寺と創価学会小樽班とで論争が起こり、日蓮宗側は宗門幹部を派遣し公開[[法論]]に臨んだものの、法論に出席した多数の学会員に半ば力尽くでねじ伏せられてしまった。日蓮宗宗務院はこの事件後に法論を禁止、創価学会側も他の宗教団体からの公式な法論申し入れを断っている。なおこの問題における日蓮正宗の行動については、日蓮宗と創価学会の双方が逃げたと宣伝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 昭和52年路線 ===&lt;br /&gt;
[[1977年]]（昭和52年）6月～7月に創価学会の大規模な改革路線が初めて表面化し、保守的な宗門はこれに反対した。&lt;br /&gt;
創価学会幹部が[[大石寺]]に登山を行う事で一応は収まったものの、その後も創価学会に対する日蓮正宗（宗門）僧侶や檀徒の誹謗が残る。[[1979年]][[7月22日]]に管長・[[日達|細井日達]]が死去（遷化）し、[[日顕|阿部日顕]]が登座すると、学会に批判的な僧侶・檀徒と宗門首脳との対立が先鋭化、終には批判派僧侶の殆どが日蓮正宗から追放され[[正信会]]が結成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 電話盗聴事件 ===&lt;br /&gt;
1970年と80年、当時の[[日本共産党]]委員長・[[宮本顕治]]宅の電話線に盗聴器が仕掛けられる事件が発覚。元顧問弁護士・山崎正友の指図による工作グループの関与が指摘される。[[最高裁判所|最高裁]]への上告取り下げと言う形でこの事実が認定され損害賠償を課される事になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 言論・出版妨害事件 ===&lt;br /&gt;
1969年から[[1970年]]にかけて、[[藤原弘達]]の『創価学会を斬る』の出版をめぐり、創価学会と公明党は「事実無根」だとして出版社・取次会社・書店などに圧力をかけた言論抑制事件、言論出版問題。この事件を機に池田大作の証人喚問にまで発展する可能性があったため、池田大作は謝罪、公明党は宗教色を弱め創価学会と表向きは関係のないことになっている（後述の「政教分離問題」も参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、藤原弘達の葬式に学会員からの[[電報|祝電]]が絶えなかったと言う話はあまりにも有名である。また、近年の池田大作はこの事件について自書などで「学会や自分も被害者である」と開き直っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日蓮正宗から破門される ===&lt;br /&gt;
宗門との長年の確執と内紛・対立が表面化したのは[[1990年]][[12月27日]]のことであった。この時点における双方の主張は、&lt;br /&gt;
:宗門側： 以前からの懸案であった法華講本部役員の任期に関する「[[日蓮正宗]]宗規」を一部改正して総講頭の任期を変えたため、池田名誉会長は「自動的に総講頭の資格」を喪った&lt;br /&gt;
:学会側： 池田名誉会長に対するさまざまな圧力の結果、宗門（日顕法主）は一方的に池田名誉会長に対し「総講頭から罷免する処分」をおこなった&lt;br /&gt;
というものであった。そして双方の対立がエスカレートした結果、翌年11月28日に日蓮正宗は、海外組織「SGI」とともに創価学会を「破門」するに至った。この件をめぐり、創価学会と宗門は現在でも対立状態が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ニコニコ動画に投稿された「久本雅美・頭がパーン」動画、東京地裁が創価学会の情報開示請求を認める ===&lt;br /&gt;
[[タレント]]の[[久本雅美]]さんが出演するビデオを無断で「[[ニコニコ動画]]」にアップロードされ[[著作権]]を侵害されたとして、ビデオの著作権を持つ[[創価学会]]が[[プロバイダ責任制限法]]に基づいて発信者情報の開示を請求し、東京地裁がISPに対し情報開示を命じていたことが分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
判決は2013年10月22日付け。アップロードユーザーが利用したISPを運営するGMOインターネットに対し、動画をアップロードしたユーザーの氏名・住所、[[電子メール]]アドレスの開示を命じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
判決によると、動画は[[2012年]][[11月29日]]に投稿されたもので、長さは2分6秒。判決文の「対応一覧表」によると、創価学会が著作権を持つ「すばらしきわが人生 part2」のうち、「久本が創価学会の池田名誉会長から漫才を褒められて、頭がパーンとなったと話している」部分などが含まれている。いわゆるMADと呼ばれる動画の1つで、現在は視聴できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創価学会側は、この動画が著作権(複製権、公衆送信権)を侵害しており、損害賠償などを請求するために発信者情報の開示を受けるべき理由があると主張。[[東京地裁]]([[長谷川浩二]]裁判長)は主張を認め、GMOインターネットに対し情報開示を命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月24日の時点で、この動画を再アップロードしたものと思われるMAD動画がニコ動で確認できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政教分離問題 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞4.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
[[政教分離]]の原則から、創価学会と公明党との関係は議論の対象となった。内閣法制局は「宗教団体が特定の政党を支援することについて、なんら憲法に抵触するものではない」と見解を出している。そのため創価学会は、この問題を解決したものであるとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし実態としては、現在でも創価学会と公明党とで定期的に連絡会議が持たれるなど両者の関係は密接であり、報道などにおいても「公明党の支持母体である創価学会」という形で公然と扱われていることも事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、創価学会が批判されるときは「創価学会と公明党との表裏一体の関係が問題である」点を指摘されることが多い。実際、創価学会は数多くの利益誘導を公明党を通じて行ってきた。 近年では2003年4月に「創価学会の要請で公明党が制定した」名誉毀損の賠償金額を上げる法案などがその一つとして挙げられる。 この法案の目的は『[[週刊新潮]]』などの反創価メディアへの牽制である事は言うまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 海外から見た創価学会 ==&lt;br /&gt;
=== フランスでの「カルト報告」 ===&lt;br /&gt;
「新しい型の宗教組織による法の侵害に関するEC議会決議」（[[1984年]]）に基づいて、以後、[[フランス]]では、国民会議にセクト（カルト）に関する報告書が提出され、創価学会はセクト（カルト）とされている。 「フランスにおけるセクト――信教の自由の表現か、もしくは悪質な担ぎ屋か」（[[1985年]]）では、根拠とされた日本の週刊誌の記事の信憑性が否定された（創価学会が勝訴した）。 しかし「フランスにおけるセクト（カルト）教団」（[[1995年]]）・「セクトと金」（[[1999年]]）・「セクト（カルト）運動防止・抑制強化法（[[2001年]]）」では、未だ根拠の信憑性は否定されていない（創価学会が敗訴した）。&lt;br /&gt;
*「フランスにおけるセクト（カルト）教団」（[[1995年]]）には、創価学会が[[1990年]]に日蓮正宗と分裂したこと、女性信者が多いこと、信者に秘密の仕事や様々な不正行為や詐欺行為をさせていること、などが記載されている。&lt;br /&gt;
*「セクトと金」（[[1999年]]）では、パリ行政裁判所判決（[[1996年]][[12月10日]]）を引用して、創価学会が、雑誌、パンフレット、本、アクセサリー、セミナーなどの営利活動によって収入の大半を得ており、マージンは42.2％&amp;amp;#xff5e;49.64％（この種の分野では最高の率）であることを紹介している。 また資産は2億4000万フラン（約38億円）相当であり、年間予算は調査によれば約2億4000万フラン（約38億4000万円）に達する。&lt;br /&gt;
*「セクト(カルト)運動防止・抑制強化法（[[2001年]]）」は、フランス国民議会（下院）で全会派一致により可決・成立した法律で、創価学会の活動をフランス国内で行われている宗教に名を借りた反社会的活動とし、議会内に設置されたカルト調査委員会が入念に調査することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では創価学会側から表立ったフランス政府やEC議会批判は無いが、一信者による'''フランス政府は創価学会のすばらしさを理解できない（感情的な表現）の集団で、弾圧目的でセクト（カルト）運動防止・抑制強化法を成立させた。'''（要約）と言う内容の恣意的な解説が創価学会員の間で支持されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
アメリカの「[[タイム (雑誌)|TIME]]」誌が[[1995年]][[11月20日]]号で『創価学会と言う権力』(THE POWER OF SOKA GAKKAI)と言う題で特集を組んでいる。また、最近では「[[フォーブス]]」誌[[2004年]][[9月6日]]号で『&amp;quot;先生&amp;quot;の世界』(Sensei's World)と題した[[ベンジャミン・フルフォード]]、[[デビッド・ウェラン]]両記者による報告が掲載されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スティーブ・ハッサン「マインドコントロールの恐怖」では破壊的カルトの一つとして「日蓮正宗USA」の事例が紹介されている。この「日蓮正宗USA」は元来創価学会会員の団体である。 この例をはじめ、NSIC（日蓮正宗国際センター）などのように、創価学会系の団体も日蓮正宗からの破門以前は「日蓮正宗」の名を冠していた事例が数多くあるため、現在において論じる際にはその区別を明確にしておくことが必要である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==学会と芸能人==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞5.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
関連の社団法人に[[民主音楽協会]]があり、その公演をを通して芸能人の多くが創価学会との接点を持っている。現在、芸能人の多くが信者であることが知られている。&lt;br /&gt;
ただ、他の宗教と同様、芸能人信者の多くは自身の内面の問題である信仰について、あくまで個人的な内容であるとして、公表しているかどうかは芸能人によってことなる。その一方、「創価学会の信仰で幸福になった」と創価学会系のメディアやビデオなどで公言している芸能人も多くみられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、創価学会批判派も多く、[[平畠啓史]]（[[DonDokoDon]]）や、[[内村光良]]（[[ウッチャンナンチャン]]）、[[爆笑問題]]、[[さまぁ～ず]]、[[大友康平]]、[[ふかわりょう]]、[[草野マサムネ]]（[[スピッツ]]）、[[赤江珠緒]]などが、文化人では、[[宮崎哲弥]]、[[勝谷誠彦]]、[[橋下徹]]が代表的である。そういった事で、創価がスポンサーになっている番組に対しては避ける傾向が強くなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『潮』で対談記事が組まれた場合、出席者は信者の可能性がある（無関係、若しくはアンチであれば理由をつけて断るはずである）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[吉本興業]]などとも提携しており、[[創価学会信者の有名人]]は多数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ネットの反応 ==&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では創価学会や池田大作に対しての批判が多数書かれている。&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では池田大作は勲章荒らしなどと書かれてしまうこともある。&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では池田大作は自分の学歴にコンプレックスがあるから世界各国の大学の名誉博士を集めているのではという意見も書かれている。&lt;br /&gt;
池田大作はニコニコ動画でも「池田犬作」という愛称で呼ばれ大人気だそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 創価関連トピックス ==&lt;br /&gt;
創価に関する騒動では出版言論弾圧事件や盗聴事件、日蓮破門などは有名だが、ここではその他の事柄について取り上げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国との関係 ===&lt;br /&gt;
日中関係は近年悪化の一途を辿るが、中国は信仰の自由がない宗教弾圧国家でありながら中創関係は非常に良好である。中国の国家主席が来日した際、優先的に会談する3人うちのひとりが池田大作である。[[胡錦濤]]の来日時にも真っ先に会談している。中国にしてみれば創価学会の日本における影響力と大衆洗脳術に関心があり、創価学会では池田大作の自身の野望に大きく利することからお互いに旨みがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、仏教系でありながら中国の[[チベット]]弾圧問題の時には中国を全力で擁護している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 何でも南京大虐殺って叫べばいいと思うよ ===&lt;br /&gt;
「[[南京大虐殺]]と叫べば日本は動揺する」と中国政府に対してアドバイスしたのも池田大作である。当初は日本政府に対する小規模な抗議であったが、放火常習犯の[[朝日新聞]]がまんまと火をつけたこと（他の放火事件として[[韓国]]・[[従軍慰安婦問題]]などがある）により日本の教科書にも採用され、これらを根拠に中国が反日政策を推し進めたことで日中関係は非常に悪化した。また、結果的に中創関係の親密度も増している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 庶民の王者 ===&lt;br /&gt;
池田大作は自らを「庶民の王者」と自認している。それは[[温家宝]]と会談した際の以下の発言からも伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 池田大作「閣下、光栄です。うれしいです。政治家ではなくて、庶民の王者と会ってくださって」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北朝鮮のマスゲームの起源は創価 ===&lt;br /&gt;
[[北朝鮮]]の[[マスゲーム]]は創価学会のマスゲームを真似たものである。なお、マスゲーム自体は創価学会や北朝鮮以外でも行われており、日本はかねてより得意としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 在日朝鮮人による宗教説 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞6.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
韓国の宗教で数々の問題を起こしている宗教には[[統一教会]]があるが、一方で創価学会は[[在日朝鮮人]]による宗教だと一部で言われている。さらに、池田大作が成太作（ソン・テチャク）という在日朝鮮人だという説もネットではみられる。真偽は不明だが、創価学会に在日が多いのは事実である。また、在日や[[部落]]が多い[[大阪]]で勢力が強いのも事実である。これは在日宗教というより、マイノリティである在日や部落の受け皿になることで繁栄させてきたと見る向きもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総体革命 ===&lt;br /&gt;
池田大作が[[1960年代]]から推し進めた政界、メディア、法曹界、医療界、警察などの国家に関する重要な職に学会員を潜り込ますことで権力を支配下に置く戦略である。現在では大きな成果を上げ各界で重要な役割を担っている。革命の達成目標時期は[[2010年]]を目処にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===  朝木明代元市会議員の転落死 ===&lt;br /&gt;
創価学会・公明党に対する批判を強めていた東京都[[東村山市]]の元市会議員[[朝木明代]]が[[1995年]]9月、「自身の起こした[[万引き]]事件を苦にしてビルから飛び降り自殺した」（検察・警察の見解）とされているが、この転落死には創価学会の関与が疑われている。万引き事件や転落死事件の捜査に当たった[[検察]]（二人）が学会員だった（裁判でも認定）ことからも批判の的になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 破防法の阻止 ===&lt;br /&gt;
一連の[[オウム真理教]]事件で[[破防法]]が適用されそうになった時に全力で阻止したのは公明党である。将来の創価学会への適用を恐れてのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これと同様に、[[ストーカー規制法]]や[[盗聴法]]、[[個人情報保護法]]の成立時などにも宗教団体が範囲から除外されるように働きかけている。将来的には[[共謀罪]]に対しても同様の働きかけをすると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 法案関系 ===&lt;br /&gt;
==== 過去に成立させた法案など ====&lt;br /&gt;
* [[青少年有害情報規制法]]（青少年ネット規制法）&lt;br /&gt;
* [[勤労婦人福祉法]]&lt;br /&gt;
* [[男女雇用機会均等法]]　&lt;br /&gt;
* [[男女共同参画社会基本法]]（[[ジェンダーフリー]]を推進）&lt;br /&gt;
* [[母子手当て]]拡大（「父子手当て」はない） &lt;br /&gt;
* [[生活保護]]拡充 &lt;br /&gt;
* [[慰謝料]]に関する制度の強化&lt;br /&gt;
* [[定額給付金]]（公明党の働きかけによる）&lt;br /&gt;
* [[地域振興券]]（定額給付金と共にばら撒きと批判されている）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 推進する法案 ====&lt;br /&gt;
* [[人権擁護法案]]&lt;br /&gt;
*:公明党が度々法案を提出している。法案の内容は[[部落解放同盟]]などの法案成立に向けて働きかけをする特定の団体、層にとって都合がいいものとなっている。このことについて法案に賛同する朝日新聞では、「だが、心配のしすぎではないか」と切り捨て特定の団体の人が[[人権擁護委員]]になるのは当然としている。&lt;br /&gt;
* [[外国人地方参政権]]の確立に関した法案&lt;br /&gt;
*:[[民潭]]（在日本大韓民国民団）がかねてから働きかけをしているが、公明党も同調して度々法案を提出している。日本での成立に先駆けて[[2005年]]、[[韓国]]では一部の永住外国人に地方参政権を認めているが、適用基準が厳しく資格があるのはほんの僅かとなっている。この韓国での成立は「日本で認めさせるための戦略」と考えられている。&lt;br /&gt;
*ユニバーサル法案&lt;br /&gt;
*:改正[[同和特別措置法]]とも揶揄される。成立に向けて公明党が主導している。&lt;br /&gt;
* [[ポルノ所持禁止法]]の適用範囲拡大（単純所持・[[二次元]]規制など）&lt;br /&gt;
*:当初から推進していたのは公明党である。他には[[日本ユニセフ協会]]なども推進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
[[Image: 久本雅美3.jpg|350px|thumb|[[赤羽駅]]前で行われた街頭演説の模様。拳を突き上げて、気炎を吐く[[久本雅美]]と、あたかも自身の演説に酔ってとろけたような[[柴田理恵]]。浮かない顔を見せている[[太田昭宏]]]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党]]&lt;br /&gt;
* [[第三文明社]]&lt;br /&gt;
* [[聖教新聞]]&lt;br /&gt;
* [[創価大学]]、[[創価女子短期大学]]&lt;br /&gt;
* [[創価学園]]（東京創価学園、関西創価学園、札幌創価幼稚園）&lt;br /&gt;
* [[創価学会との関係が疑われる企業]]&lt;br /&gt;
* [[平成のヒトラー]] &lt;br /&gt;
* [[日本会議]]&lt;br /&gt;
* [[勝共推進議員]]&lt;br /&gt;
* [[戸塚宏]]&lt;br /&gt;
* [[関東連合]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 聖教新聞の4こま漫画 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞7.jpg|350px]][[Image:聖教新聞8.jpg|350px]][[Image:聖教新聞9.jpg|350px]][[Image:聖教新聞10.jpg|350px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 創価学会ストーリー ==&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー1.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー2.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー3.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー4.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー5.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー6.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー7.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー8.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:そうかかつかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:カルト]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipediaで保護された記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:アクセス数の高い記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:画像が多い記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>利用者:ストッピング薬缶</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ストッキング薬缶とは正義の戦士である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
薬缶を喰うと:(；ﾞﾟ'ωﾟ'):はっはっ&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:ポッポ撲滅同盟]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>利用者・トーク:ストッピング薬缶</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;あなたはゴールドペディアで荒らしを働いた元管理者の小笠原諸島氏ですか--[[利用者:ポッポ信者|ポッポ信者]] ([[利用者・トーク:ポッポ信者|トーク]]) 2017年5月22日 (月) 02:30 (CDT)？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちげぇよ。--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月22日 (月) 02:34 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ポッポ様をばかにするな ==&lt;br /&gt;
あなたなんかより、ポッポ様は尊い。できればもう名前を書かないでください。--[[利用者:ポッポ信者|ポッポ信者]] ([[利用者・トーク:ポッポ信者|トーク]]) 2017年5月23日 (火) 03:16 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あぁん？ポッポの野郎がなんだって？あいつははとサブレかよ。--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月23日 (火) 03:18 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたに話しても無駄ですね。ポッポ万歳！ポッポ万歳！ポッポ万歳！ポッポ万歳！--[[利用者:ポッポ信者|ポッポ信者]] ([[利用者・トーク:ポッポ信者|トーク]]) 2017年5月23日 (火) 07:09 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 回答 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
違います。ポッポって誰ですか？--[[利用者:ふぇありん|ふぇありん]] ([[利用者・トーク:ふぇありん|トーク]]) 2017年5月23日 (火) 22:23 (CDT)&lt;br /&gt;
:[http://Vikipedia.myht.org/ ヴィキペディア]と[http://goldpedia.shoutwiki.com/ ゴールドペディア]で管理者やってる人。ユアペディアでも[[利用者:ブドウ|ブドウ]]という名前で活動してるらしい。--[[利用者:ピカゴロウ|ピカゴロウ]] ([[利用者・トーク:ピカゴロウ|トーク]]) 2017年5月25日 (木) 07:11 (CDT)&lt;br /&gt;
ズィキペディア、雑学ペディアでも管理者やってるらしい。すげーな。--[[利用者:Kitigai|Kitigai]] ([[利用者・トーク:Kitigai|トーク]]) 2017年5月25日 (木) 07:42 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 質問 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたはよくイオン岡山店に行かれますか？--[[利用者:ふぇありん|ふぇありん]] ([[利用者・トーク:ふぇありん|トーク]]) 2017年5月30日 (火) 10:21 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お願い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたが勇者プクリンではないのは、投稿傾向から考えて火を見るより明らかです。これ以上勇者プクリンのふりをしないでください。--[[利用者:ふぇありん|ふぇありん]] ([[利用者・トーク:ふぇありん|トーク]]) 2017年6月3日 (土) 01:14 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
俺は一度も勇者プクリンの真似なんぞしたことはない。勝手に決めつけるなよ。--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年6月3日 (土) 01:27 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 質問 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは勇者プクリンか？w--[[利用者:分福seven|分福seven]] ([[利用者・トーク:分福seven|トーク]]) 2017年6月6日 (火) 02:36 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そーやってなんでもかんでも気に入らない利用者は勇者プクリンにしようとする。お前こそ勇者プクリンみたいだぜ。--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年6月6日 (火) 05:54 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ストッキングよ！共に正義のために戦いましょう！他の百貨辞典サイトと違ってYourpediaは最高の場所です！&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>利用者・トーク:ポッポ信者</title>
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				<updated>2017-09-03T08:54:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;ポッポポッポうるせえよ。お前は鳩か！--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 07:38 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みなさん！共に正義のために戦いましょう！他の百貨辞典サイトと違ってYourpediaは最高の場所です！&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>利用者・トーク:あいう</title>
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				<updated>2017-09-03T08:54:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;お前、ポッポ野郎のソックパペットか？--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:02 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は？ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調子乗んなよ。なんであんな奴と同じにされなきゃなんねえんだよ。--[[利用者:あいう|あいう]] ([[利用者・トーク:あいう|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:03 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神聖なるポッポ様に何を言う！あなたたちはポッポ様にひれ伏しなさい。--[[利用者:ポッポ信者|ポッポ信者]] ([[利用者・トーク:ポッポ信者|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:06 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あぁん？ポッポの阿保がなんだって？--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:07 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
てか誰だよポッポって!--[[利用者:あいう|あいう]] ([[利用者・トーク:あいう|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:08 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ポッポ(wikiユーザー)]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:10 (CDT)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あそー--[[利用者:あいう|あいう]] ([[利用者・トーク:あいう|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:13 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お前はゴールドペディアで管理者解任された小笠原諸島か？--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:15 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そいつも誰だよ--[[利用者:あいう|あいう]] ([[利用者・トーク:あいう|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 06:16 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いえすあいどぅ--[[利用者:ストッピング薬缶|ストッピング薬缶]] ([[利用者・トーク:ストッピング薬缶|トーク]]) 2017年5月24日 (水) 07:37 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたも神・ブドウ同盟にはいりませんか？--[[利用者:ポッポ信者|ポッポ信者]] ([[利用者・トーク:ポッポ信者|トーク]]) 2017年9月3日 (日) 01:23 (CDT)&lt;br /&gt;
:私はそのような意味不明なものには関わりたくありません。--[[利用者:あいう|あいう]] ([[利用者・トーク:あいう|トーク]]) 2017年9月3日 (日) 01:35 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
意味不明なものとは失礼な!ポッポ様に謝りなさい！ポッポ様万歳！ポッポ様万歳！--[[利用者:ポッポ信者|ポッポ信者]] ([[利用者・トーク:ポッポ信者|トーク]]) 2017年9月3日 (日) 01:43 (CDT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みなさん！共に正義のために戦いましょう！他の百貨辞典サイトと違ってYourpediaは最高の場所です！--[[特別:投稿記録/220.1.22.24|220.1.22.24]] 2017年9月3日 (日) 03:54 (CDT)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%9C%9F%E6%A2%A8%E8%8F%9C&amp;diff=342967</id>
		<title>山本真梨菜</title>
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				<updated>2017-09-03T08:50:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;山本真梨菜(やまもとまりな、2002.9~12-)とは、[[浪岡鬼畜シスターズ]]の一名であり、主犯格の[[工藤千江梨]]に次いで悪質な副主犯格者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の怠慢が露わになった事件でもある。警察がもっとしっかりしていれば事件を防ぐことができたのである。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
事件当時13歳。主犯格工藤千江梨に次いで悪質な行為をした副主犯格の人物であり、工藤千江梨と共に[[葛西りま]]さんを自殺に追いやるのに一翼を担った害悪女である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、13歳にも関わらず、13歳とは思えないほどの老け顔であり、その事から浪岡の殺人ババアとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[工藤千江梨]]&lt;br /&gt;
*[[浪岡鬼畜シスターズ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:ババア]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B7%A5%E8%97%A4%E5%8D%83%E6%B1%9F%E6%A2%A8&amp;diff=342966</id>
		<title>工藤千江梨</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B7%A5%E8%97%A4%E5%8D%83%E6%B1%9F%E6%A2%A8&amp;diff=342966"/>
				<updated>2017-09-03T08:50:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の怠慢が露わになった事件でもある。警察がもっとしっかりしていれば事件を防ぐことができたのである。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;浪岡鬼畜シスターズ(なみおかきちくしすたーず)とは、[[浪岡中学校]]で起きたいじめ自殺事件の加害者の鬼畜生徒共の総称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の怠慢が露わになった事件でもある。警察がもっとしっかりしていれば事件を防ぐことができたのである。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、全員キチガイであり、一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一覧==&lt;br /&gt;
(主要人物は太字)&lt;br /&gt;
*'''[[工藤千江梨]]''' - 主犯格であり、全ての元凶&lt;br /&gt;
*'''[[山本真梨菜]]''' - 副主犯。&lt;br /&gt;
*[[有馬空]]&lt;br /&gt;
*[[上田美羽]]&lt;br /&gt;
*[[山内瑠花]]&lt;br /&gt;
*[[芳賀ひあり]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;浪岡鬼畜ブラザーズ&lt;br /&gt;
*[[有馬栄希]]&lt;br /&gt;
*[[石井凛]]&lt;br /&gt;
*[[木村瑠樹]]&lt;br /&gt;
*[[工藤青馬]]&lt;br /&gt;
*[[千葉倫太朗 (浪岡)|千葉倫太朗]]&lt;br /&gt;
*[[成田吏那]]&lt;br /&gt;
*[[長谷川温大]]&lt;br /&gt;
*[[水木正紀]]&lt;br /&gt;
*[[山口陸人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[キチガイ]]&lt;br /&gt;
*[[いじめ]]&lt;br /&gt;
*[[蛆虫の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[蛆集団の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ|*]][[カテゴリ:日本のいじめ]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:浪岡中学校|癌]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:犯罪組織]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:Twitterの利用者]][[カテゴリ:LINEの利用者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:偽善者]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:発達障害の人物]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:学習障害の人物]][[カテゴリ:アスペルガー障害の人物]][[カテゴリ:ADHDの人物]][[カテゴリ:LGBTの人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:解離性統一障害の人物]][[カテゴリ:回避性パーソナリティ障害の人物]][[カテゴリ:統合失調症の人物]][[カテゴリ:虚言癖を持つ人物]][[カテゴリ:自己顕示欲の強い人物]][[カテゴリ:自己主張の強い人物]][[カテゴリ:卑屈な人物]][[カテゴリ:卑怯者]][[カテゴリ:嫌われ者]][[カテゴリ:非協調的な人物]][[カテゴリ:我儘な人物]][[カテゴリ:傲慢な人物]][[カテゴリ:無責任な人物]][[カテゴリ:信頼の置けない人物]][[カテゴリ:懲りない人物]][[カテゴリ:反省ができない人物]][[カテゴリ:人の反感を買う人物]][[カテゴリ:人から恨まれる人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]][[カテゴリ:ひも]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:カルト]][[カテゴリ:顕正会]][[カテゴリ:真如苑信者]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:日蓮正宗]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]][[カテゴリ:ストーカー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>工藤千江梨</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の怠慢が露わになった事件でもある。警察がもっとしっかりしていれば事件を防ぐことができたのである。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の無能が露わになった事件でもある。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、'''特定'''など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の無能が露わになった事件でもある。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;浪岡鬼畜シスターズ(なみおかきちくしすたーず)とは、[[浪岡中学校]]で起きたいじめ自殺事件の加害者の鬼畜生徒共の総称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名・整形・引っ越しをする可能性がある'''''ので、'''特定'''など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の無能が露わになった事件でもある。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、全員キチガイであり、一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一覧==&lt;br /&gt;
(主要人物は太字)&lt;br /&gt;
*'''[[工藤千江梨]]''' - 主犯格であり、全ての元凶&lt;br /&gt;
*'''[[山本真梨菜]]''' - 副主犯。&lt;br /&gt;
*[[有馬空]]&lt;br /&gt;
*[[上田美羽]]&lt;br /&gt;
*[[山内瑠花]]&lt;br /&gt;
*[[芳賀ひあり]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;浪岡鬼畜ブラザーズ&lt;br /&gt;
*[[有馬栄希]]&lt;br /&gt;
*[[石井凛]]&lt;br /&gt;
*[[木村瑠樹]]&lt;br /&gt;
*[[工藤青馬]]&lt;br /&gt;
*[[千葉倫太朗 (浪岡)|千葉倫太朗]]&lt;br /&gt;
*[[成田吏那]]&lt;br /&gt;
*[[長谷川温大]]&lt;br /&gt;
*[[水木正紀]]&lt;br /&gt;
*[[山口陸人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[キチガイ]]&lt;br /&gt;
*[[いじめ]]&lt;br /&gt;
*[[蛆虫の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[蛆集団の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ|*]][[カテゴリ:日本のいじめ]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:浪岡中学校|癌]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:犯罪組織]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:Twitterの利用者]][[カテゴリ:LINEの利用者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:偽善者]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:発達障害の人物]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:学習障害の人物]][[カテゴリ:アスペルガー障害の人物]][[カテゴリ:ADHDの人物]][[カテゴリ:LGBTの人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:解離性統一障害の人物]][[カテゴリ:回避性パーソナリティ障害の人物]][[カテゴリ:統合失調症の人物]][[カテゴリ:虚言癖を持つ人物]][[カテゴリ:自己顕示欲の強い人物]][[カテゴリ:自己主張の強い人物]][[カテゴリ:卑屈な人物]][[カテゴリ:卑怯者]][[カテゴリ:嫌われ者]][[カテゴリ:非協調的な人物]][[カテゴリ:我儘な人物]][[カテゴリ:傲慢な人物]][[カテゴリ:無責任な人物]][[カテゴリ:信頼の置けない人物]][[カテゴリ:懲りない人物]][[カテゴリ:反省ができない人物]][[カテゴリ:人の反感を買う人物]][[カテゴリ:人から恨まれる人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]][[カテゴリ:ひも]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:カルト]][[カテゴリ:顕正会]][[カテゴリ:真如苑信者]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:日蓮正宗]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]][[カテゴリ:ストーカー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>浪岡鬼畜シスターズ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;浪岡鬼畜シスターズ(なみおかきちくしすたーず)とは、[[浪岡中学校]]で起きたいじめ自殺事件の加害者の鬼畜生徒共の総称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名や整形をする可能性がある'''''ので、'''特定'''など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の無能が露わになった事件でもある。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、全員キチガイであり、一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一覧==&lt;br /&gt;
(主要人物は太字)&lt;br /&gt;
*'''[[工藤千江梨]]''' - 主犯格であり、全ての元凶&lt;br /&gt;
*'''[[山本真梨菜]]''' - 副主犯。&lt;br /&gt;
*[[有馬空]]&lt;br /&gt;
*[[上田美羽]]&lt;br /&gt;
*[[山内瑠花]]&lt;br /&gt;
*[[芳賀ひあり]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;浪岡鬼畜ブラザーズ&lt;br /&gt;
*[[有馬栄希]]&lt;br /&gt;
*[[石井凛]]&lt;br /&gt;
*[[木村瑠樹]]&lt;br /&gt;
*[[工藤青馬]]&lt;br /&gt;
*[[千葉倫太朗 (浪岡)|千葉倫太朗]]&lt;br /&gt;
*[[成田吏那]]&lt;br /&gt;
*[[長谷川温大]]&lt;br /&gt;
*[[水木正紀]]&lt;br /&gt;
*[[山口陸人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[キチガイ]]&lt;br /&gt;
*[[いじめ]]&lt;br /&gt;
*[[蛆虫の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[蛆集団の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ|*]][[カテゴリ:日本のいじめ]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:浪岡中学校|癌]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:犯罪組織]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:Twitterの利用者]][[カテゴリ:LINEの利用者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:偽善者]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:発達障害の人物]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:学習障害の人物]][[カテゴリ:アスペルガー障害の人物]][[カテゴリ:ADHDの人物]][[カテゴリ:LGBTの人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:解離性統一障害の人物]][[カテゴリ:回避性パーソナリティ障害の人物]][[カテゴリ:統合失調症の人物]][[カテゴリ:虚言癖を持つ人物]][[カテゴリ:自己顕示欲の強い人物]][[カテゴリ:自己主張の強い人物]][[カテゴリ:卑屈な人物]][[カテゴリ:卑怯者]][[カテゴリ:嫌われ者]][[カテゴリ:非協調的な人物]][[カテゴリ:我儘な人物]][[カテゴリ:傲慢な人物]][[カテゴリ:無責任な人物]][[カテゴリ:信頼の置けない人物]][[カテゴリ:懲りない人物]][[カテゴリ:反省ができない人物]][[カテゴリ:人の反感を買う人物]][[カテゴリ:人から恨まれる人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]][[カテゴリ:ひも]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:カルト]][[カテゴリ:顕正会]][[カテゴリ:真如苑信者]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:日蓮正宗]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]][[カテゴリ:ストーカー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;浪岡鬼畜シスターズ(なみおかきちくしすたーず)とは、[[浪岡中学校]]で起きたいじめ自殺事件の加害者の鬼畜生徒共の総称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名や整形をする可能性がある'''''ので、'''特定'''など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''また、日本の警察の無能が露わになった事件でもある。'''&lt;br /&gt;
'''当然ながら、全員キチガイであり、一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一覧==&lt;br /&gt;
(主要人物は太字)&lt;br /&gt;
*'''[[工藤千江梨]]''' - 主犯格であり、全ての元凶&lt;br /&gt;
*'''[[山本真梨菜]]''' - 副主犯。&lt;br /&gt;
*[[有馬空]]&lt;br /&gt;
*[[上田美羽]]&lt;br /&gt;
*[[山内瑠花]]&lt;br /&gt;
*[[芳賀ひあり]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;浪岡鬼畜ブラザーズ&lt;br /&gt;
*[[有馬栄希]]&lt;br /&gt;
*[[石井凛]]&lt;br /&gt;
*[[木村瑠樹]]&lt;br /&gt;
*[[工藤青馬]]&lt;br /&gt;
*[[千葉倫太朗 (浪岡)|千葉倫太朗]]&lt;br /&gt;
*[[成田吏那]]&lt;br /&gt;
*[[長谷川温大]]&lt;br /&gt;
*[[水木正紀]]&lt;br /&gt;
*[[山口陸人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[キチガイ]]&lt;br /&gt;
*[[いじめ]]&lt;br /&gt;
*[[蛆虫の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[蛆集団の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ|*]][[カテゴリ:日本のいじめ]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:浪岡中学校|癌]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:犯罪組織]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:Twitterの利用者]][[カテゴリ:LINEの利用者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:偽善者]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:発達障害の人物]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:学習障害の人物]][[カテゴリ:アスペルガー障害の人物]][[カテゴリ:ADHDの人物]][[カテゴリ:LGBTの人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:解離性統一障害の人物]][[カテゴリ:回避性パーソナリティ障害の人物]][[カテゴリ:統合失調症の人物]][[カテゴリ:虚言癖を持つ人物]][[カテゴリ:自己顕示欲の強い人物]][[カテゴリ:自己主張の強い人物]][[カテゴリ:卑屈な人物]][[カテゴリ:卑怯者]][[カテゴリ:嫌われ者]][[カテゴリ:非協調的な人物]][[カテゴリ:我儘な人物]][[カテゴリ:傲慢な人物]][[カテゴリ:無責任な人物]][[カテゴリ:信頼の置けない人物]][[カテゴリ:懲りない人物]][[カテゴリ:反省ができない人物]][[カテゴリ:人の反感を買う人物]][[カテゴリ:人から恨まれる人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]][[カテゴリ:ひも]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:カルト]][[カテゴリ:顕正会]][[カテゴリ:真如苑信者]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:日蓮正宗]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]][[カテゴリ:ストーカー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>工藤千江梨</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名や整形をする可能性がある'''''ので、'''特定'''など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>浪岡鬼畜シスターズ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;浪岡鬼畜シスターズ(なみおかきちくしすたーず)とは、[[浪岡中学校]]で起きたいじめ自殺事件の加害者の鬼畜生徒共の総称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名や整形をする可能性がある'''''ので、'''特定'''など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、全員キチガイであり、一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一覧==&lt;br /&gt;
(主要人物は太字)&lt;br /&gt;
*'''[[工藤千江梨]]''' - 主犯格であり、全ての元凶&lt;br /&gt;
*'''[[山本真梨菜]]''' - 副主犯。&lt;br /&gt;
*[[有馬空]]&lt;br /&gt;
*[[上田美羽]]&lt;br /&gt;
*[[山内瑠花]]&lt;br /&gt;
*[[芳賀ひあり]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;浪岡鬼畜ブラザーズ&lt;br /&gt;
*[[有馬栄希]]&lt;br /&gt;
*[[石井凛]]&lt;br /&gt;
*[[木村瑠樹]]&lt;br /&gt;
*[[工藤青馬]]&lt;br /&gt;
*[[千葉倫太朗 (浪岡)|千葉倫太朗]]&lt;br /&gt;
*[[成田吏那]]&lt;br /&gt;
*[[長谷川温大]]&lt;br /&gt;
*[[水木正紀]]&lt;br /&gt;
*[[山口陸人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[キチガイ]]&lt;br /&gt;
*[[いじめ]]&lt;br /&gt;
*[[蛆虫の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[蛆集団の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ|*]][[カテゴリ:日本のいじめ]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:浪岡中学校|癌]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:犯罪組織]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:Twitterの利用者]][[カテゴリ:LINEの利用者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:偽善者]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:発達障害の人物]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:学習障害の人物]][[カテゴリ:アスペルガー障害の人物]][[カテゴリ:ADHDの人物]][[カテゴリ:LGBTの人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:解離性統一障害の人物]][[カテゴリ:回避性パーソナリティ障害の人物]][[カテゴリ:統合失調症の人物]][[カテゴリ:虚言癖を持つ人物]][[カテゴリ:自己顕示欲の強い人物]][[カテゴリ:自己主張の強い人物]][[カテゴリ:卑屈な人物]][[カテゴリ:卑怯者]][[カテゴリ:嫌われ者]][[カテゴリ:非協調的な人物]][[カテゴリ:我儘な人物]][[カテゴリ:傲慢な人物]][[カテゴリ:無責任な人物]][[カテゴリ:信頼の置けない人物]][[カテゴリ:懲りない人物]][[カテゴリ:反省ができない人物]][[カテゴリ:人の反感を買う人物]][[カテゴリ:人から恨まれる人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]][[カテゴリ:ひも]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:カルト]][[カテゴリ:顕正会]][[カテゴリ:真如苑信者]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:日蓮正宗]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]][[カテゴリ:ストーカー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;浪岡鬼畜シスターズ(なみおかきちくしすたーず)とは、[[浪岡中学校]]で起きたいじめ自殺事件の加害者の鬼畜生徒共の総称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名や整形をする可能性がある'''''ので、特定など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、全員キチガイであり、一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一覧==&lt;br /&gt;
(主要人物は太字)&lt;br /&gt;
*'''[[工藤千江梨]]''' - 主犯格であり、全ての元凶&lt;br /&gt;
*'''[[山本真梨菜]]''' - 副主犯。&lt;br /&gt;
*[[有馬空]]&lt;br /&gt;
*[[上田美羽]]&lt;br /&gt;
*[[山内瑠花]]&lt;br /&gt;
*[[芳賀ひあり]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;浪岡鬼畜ブラザーズ&lt;br /&gt;
*[[有馬栄希]]&lt;br /&gt;
*[[石井凛]]&lt;br /&gt;
*[[木村瑠樹]]&lt;br /&gt;
*[[工藤青馬]]&lt;br /&gt;
*[[千葉倫太朗 (浪岡)|千葉倫太朗]]&lt;br /&gt;
*[[成田吏那]]&lt;br /&gt;
*[[長谷川温大]]&lt;br /&gt;
*[[水木正紀]]&lt;br /&gt;
*[[山口陸人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[キチガイ]]&lt;br /&gt;
*[[いじめ]]&lt;br /&gt;
*[[蛆虫の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[蛆集団の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ|*]][[カテゴリ:日本のいじめ]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:浪岡中学校|癌]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:犯罪組織]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:Twitterの利用者]][[カテゴリ:LINEの利用者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:偽善者]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:発達障害の人物]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:学習障害の人物]][[カテゴリ:アスペルガー障害の人物]][[カテゴリ:ADHDの人物]][[カテゴリ:LGBTの人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:解離性統一障害の人物]][[カテゴリ:回避性パーソナリティ障害の人物]][[カテゴリ:統合失調症の人物]][[カテゴリ:虚言癖を持つ人物]][[カテゴリ:自己顕示欲の強い人物]][[カテゴリ:自己主張の強い人物]][[カテゴリ:卑屈な人物]][[カテゴリ:卑怯者]][[カテゴリ:嫌われ者]][[カテゴリ:非協調的な人物]][[カテゴリ:我儘な人物]][[カテゴリ:傲慢な人物]][[カテゴリ:無責任な人物]][[カテゴリ:信頼の置けない人物]][[カテゴリ:懲りない人物]][[カテゴリ:反省ができない人物]][[カテゴリ:人の反感を買う人物]][[カテゴリ:人から恨まれる人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]][[カテゴリ:ひも]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:カルト]][[カテゴリ:顕正会]][[カテゴリ:真如苑信者]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:日蓮正宗]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]][[カテゴリ:ストーカー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>工藤千江梨</title>
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				<updated>2017-09-03T08:44:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''とことん汚いクズなゆえ逃げるために改名や整形をする可能性がある'''''ので、特定など今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>工藤千江梨</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''逃げるために改名する可能性があるので、今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>工藤千江梨</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
'''逃げるために改名する可能性があるので、今後の注意が必要である。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A&amp;diff=342951</id>
		<title>創価学会</title>
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				<updated>2017-09-03T08:28:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:池田大作1.jpg|400px|thumb|[[池田大作]]]]&lt;br /&gt;
[[Image:池田大作2.jpg|400px|thumb|[[池田大作]]]]&lt;br /&gt;
'''宗教法人創価学会'''（かぶしきがいしゃ そうかがっかい）とは、[[日蓮正宗]]系の[[新宗教]]（新興宗教）。オカルト団体。日本で最大級の偽[[仏教]]団体。また、政権に最も近づいたカルト宗教団体でもある。'''騒音おばさんと呼ばれた[[河原美代子]]に入信を断られた学会員の老夫婦が河原に嫌がらせをし、陥れる悪行を働いたとされている[https://blogs.yahoo.co.jp/posutoman21/31274257.html][http://clippinweb.com/souon-obasan-genzai/][https://matome.naver.jp/odai/2133515262312361101][http://www.p-runner.net/data-neta/miyoko/miyoko.html]。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海外で「仏教に興味ありませんか」と声をかけてきたら「[[手相]]に興味ありませんか」と同じくらい警戒が必要である（実際、現地の外国人が仏教と思って創価学会に入信するケースは多い）。フランスではカルト指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:創価タレント.jpg|400px|thumb|創価信者タレント]]&lt;br /&gt;
本部は[[東京都]][[新宿区]][[信濃町]]。 創価学会公称の会員世帯数は、827万世帯（2007年）。 公称の学会員数も約1000万人と言われている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の[[法華宗]]系団体と異なるところは、強烈な布教活動（[[折伏]]）と、初代会長・[[牧口常三郎]]、第2代会長・[[戸田城聖]]、第3代会長・[[池田犬作]]の いわゆる「三代会長」への絶対的な尊敬と、とくに池田と会員との間にみられる師弟観、および創価学会が支持する政党である[[公明党]]との政治活動である。&lt;br /&gt;
副理事長には池田大作の息子の池田博正が就いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ仏教法華宗系の[[日蓮正宗]]、[[顕正会]]と激しく対立。また、過去[[新興宗教]]の[[天理教]]、[[立正佼正会]]を激しく攻撃していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教義 ==&lt;br /&gt;
日々の勤行は、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることを自らの修行とし、新規会員の開拓、財務、聖教新聞啓蒙などを主とするものがある。これらの活動は、元来の教義では人のため、平和のため、ひいては自分自身のためという趣旨により行われていたはずなのだが、池田大作名誉会長のための活動（師匠にお応えする戦い）とする会員が多いというのが昨今の事実である。他の宗教や宗派は全て邪教であるという日蓮正宗系に共通する日蓮原理主義に基づく、排他的で非常に攻撃的な思想をその旨とする。最近では根本修行である勤行の経文ではなく祈念文を改定した。機関紙の聖教新聞では、SGIの世界における活動や会員の体験談などを掲載する一方で、宗門問題、名誉毀損問題をめぐり、山崎正友元創価学会顧問弁護士、竹入義勝元公明党委員長への[[糾弾]]の名を借りた誹謗中傷を大々的に行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三色旗 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yourpedia向け 創価学会文化会館.jpg|thumb|right|280px|三色旗が掲げられている創価学会文化会館]]&lt;br /&gt;
1988年に創価学会の旗として「三色旗」が定められた。ポールから順に青・黄・赤となり色の三原色が使用され、青は「平和」黄は「栄光」赤は「勝利」を意味する、という。中心に学会の紋章や創価学園の校章が入る場合もあるが、これは同一の国旗を持つ[[ルーマニア]]や[[チャド]]に対する明白な当て擦りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実、創価学会と深い繋がりをもつ[[日本テレビ]]は[[2004年]]に「Dragostea Din Tei (菩提樹の下の恋) 」が世界的にヒットしたルーマニアのバンドグループ、[[O-Zone]] (現在は解散) があたかも創価学会員で在るかのような報道を行い、その日の内に抗議の電話が殺到した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 基礎データ ==&lt;br /&gt;
=== 2007年現在の主要役員 ===&lt;br /&gt;
* 名誉会長：[[池田大作]]&lt;br /&gt;
* 会長：原田　稔 (2006年11月就任) &lt;br /&gt;
* 理事長：正木正明 &lt;br /&gt;
* 副理事長: 西口良三、大野和郎、大場好孝、山本武、長谷川重夫、原田光治、池田博正&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 組織 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞1.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
*壮年部　40歳以上男性&lt;br /&gt;
*婦人部　既婚または40歳以上の女性&lt;br /&gt;
**多宝会　65歳以上の男女&lt;br /&gt;
*男子部　40歳未満男性&lt;br /&gt;
**創価班　会合運営、場外警備(男性)&lt;br /&gt;
**牙城会　会館警備&lt;br /&gt;
*女子部　未婚かつ40歳未満の女性&lt;br /&gt;
**白蓮　　会合運営(女性)&lt;br /&gt;
*学生部　大学(院)生・専門学生&lt;br /&gt;
*未来部　高校生・中学生・小学生&lt;br /&gt;
年齢による規定は明確に定めていないので、地域によって差がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会合 ===&lt;br /&gt;
*本部幹部会同時中継(月1回)&lt;br /&gt;
*合同法要(月1回)&lt;br /&gt;
*地区座談会(月1回)&lt;br /&gt;
*唱題会(任意)&lt;br /&gt;
*その他に幹部会や指導会がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現況 ==&lt;br /&gt;
会員数で言えば世界最大の「学会」であり、一部の研究職を除き「学会」と言えばだれもが創価学会を連想するほどに著名である。フランス政府公認の{{偽リンク|団体|カルト}}でもある。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 財務 ===&lt;br /&gt;
創価学会では年1度、会員より「広布基金」（通称：財務）という集金活動を行っている。 「広布基金」は銀行振込で行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メディア戦略 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞2.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
創価学会の機関紙である[[聖教新聞]]は[[毎日新聞社]]や複数の[[地方紙]]に印刷を委託している。このことは新聞社に往々にして創価学会批判を手控えさせると共に半ば宣伝に近い記事を掲載させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラジオ番組や地方のテレビ番組でCMを盛んに流していることでも知られる。特に朝から昼にかけては創価学会や[[聖教新聞]]がスポンサーについている番組が毎時間必ずひとつかふたつは有るため、ラジオでは常に創価グループのCMが流されてしまっている。近年では関東圏の民放においても[[創価大学]]のCMを放映している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
CMは「そ～うか～がっかい～」などと耳に残りやすいメロディのセリフから始まり、イメージ広告を流すというもの。その内容はもっともらしい主張を連発して「創価学会はこんなにいいところですよ」と暗示させるもの。これはグラビアアイドルやチワワなどを用いて視聴者の心を掴んでおいて借金地獄の道へと導いてさしあげる、[[消費者金融]]のCMとよく似ている。創価の悪事はTVでほとんど報道されないので、創価学会はやりたい放題している。この点も消費者金融に酷似している。またNHKに学会員を投入して情報を巧みに操作することで唯一批判しても運営に困らないNHKにも批判をさせない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもgoogleの関連検索から「カルト」などのキーワードを消し去るなど様々な場所で大勝利を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 提供番組 ====&lt;br /&gt;
*[[あなたへモーニングコール]]（[[TBSラジオ]]）&lt;br /&gt;
*[[ミュージックギフト～音楽・地球号]]（[[文化放送]]）&lt;br /&gt;
*[[サウンドトラベル]]（[[ニッポン放送]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===運営上の目標===&lt;br /&gt;
[[オウム真理教]]の武力的日本制圧の大失敗を目の当たりにし、政権与党であった[[自民党]]を{{偽リンク|取り込み|金で買収し}}[[政治]]的な制圧に力を注いでいた。一般国民の家畜化計画を企む日本版[[悪の枢軸]]の一つであり、[[電通]]（世論洗脳部隊）や[[経団連]]（経済統制部隊）と合わせて'''創通連'''（そうつれん）と呼ばれる。共同作戦で、「政治」「メディア」「経済」の三方から日本の社会システムを完全掌握する算段である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、[[アンチ]]創価が噴出する[[ネット]]の言論封鎖に躍起になっており、あらゆる[[差別]]撤廃を名目にする「ユニバーサル法」、[[人権]]問題を名目にする「人権擁護法」、[[青少年]]の安全を名目にする「有害情報規制法」、[[ロリコン]]の[[性犯罪]]防止を名目にする「[[児童ポルノ禁止法|二次元含む児童ポルノ所持規制法]]」など一般国民が反対しにくい部分からの'''言論・表現の自由規制'''を足掛かりにして、強力な{{偽リンク|ネット規制法|自己擁護法}}成立を目指している。そのため、{{偽リンク|マスコミ|TBS}}を{{偽リンク|影から動かして|金を渡して}}[[オタク]]叩きをさせ、「'''ネットはオタクの住処だ'''」「'''犯罪者の巣窟だ'''」という世論を形成し、{{偽リンク|ネット規制|自己擁護法}}への批判の説得力をなくさせている。また、[[特定アジア|アジア]]から[[同胞|援軍]]を呼ぶため、[[反日|お友達]]の[[同和問題|部落解放同盟]]、[[民潭]]、[[朝日新聞]]らと連携し、「[[外国人参政権|外国人の参政権]]」導入も急いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終目標は'''プレヂデントD'''による'''創価帝国'''（旧日本国）建国および、中国主導による大東亜人民連合の成立である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===運営上の課題===&lt;br /&gt;
会員は[[頭がパーン|常人を超越している]]。[[インターネット]]の普及により末端信者のネット参加も増え、その価値観の違いから、一般人との対立、トラブルも増えつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らの語る仏法には統一感がなく、時として食い違う。それでも、「池田大作は偉大！」の一点だけは共通する信念である。多くの人達が創価学会との対話を試みるが、彼らを理解できない人達は一様にして激しく攻撃に遭う。その様はまるで、巨人でいう長嶋信者のような、あるいは国自体が創価カルトな[[北朝鮮]]や創価の親玉である[[中国]]の[[人民|それ]]を見ているようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「親創価派か？アンチ創価派か？」の二極分化する要因となっているのは、「偽善者らに憎まれもせず、敵も競わない論など、言論の名に値しない戯論なのであろう。中立ぶったり良識ぶったりで乙にすます日本の緒論に、どれだけの言論の炎があるか？」（2007年8月27日の聖教新聞「破邪顕正」）にもあるように、創価の味方をしない中立論者まで敵視する創価学会側にある。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
また、あるラジオ番組で[[北野誠]]がこの団体に対して批判的な発言をしたため、放送局並びに松竹芸能に強い圧力をかけ、無期限活動停止に追い込まれたという噂が流れた。が、事実かどうかは局の人間でもわかっていても話せない。その辺はお察しください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞3.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
[[1928年]]（昭和3年）6月、[[三谷素啓]]の折伏により、牧口常三郎が日蓮正宗に入信。 その年の秋には戸田城聖も入信。 [[1930年]]（昭和5年）に、『創価教育学体系』という教育学の著書を発刊。 [[1937年]]（昭和12年）に東京麻布の菊水亭にて'''[[創価教育学会]]'''の発会式が行われ、初代会長に牧口常三郎が就任。当初は文化人が支持するなど、宗教的な色彩は薄かった。第二次大戦後、出版業・金融業を営んでいた第2代会長の戸田城聖が'''創価学会'''と改名した。 [[1972年]]、第3代会長の池田大作が、創価学会の世界規模の団体として''[[創価学会インタナショナル]]''（SGI）を発足させた。 現在190ヶ国に広がっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 折伏大行進と小樽問答 ===&lt;br /&gt;
[[1951年]]に戸田城聖が「青年訓」を発表し、青年部を中心に[[折伏大行進]]と呼ばれる大々的な勧誘キャンペーンが[[1969年]]まで行われた。この時の強烈な勧誘活動は社会問題にもなり、他宗派やマスコミの批判を招いた。[[1955年]]に[[日蓮宗]]妙龍寺と創価学会小樽班とで論争が起こり、日蓮宗側は宗門幹部を派遣し公開[[法論]]に臨んだものの、法論に出席した多数の学会員に半ば力尽くでねじ伏せられてしまった。日蓮宗宗務院はこの事件後に法論を禁止、創価学会側も他の宗教団体からの公式な法論申し入れを断っている。なおこの問題における日蓮正宗の行動については、日蓮宗と創価学会の双方が逃げたと宣伝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 昭和52年路線 ===&lt;br /&gt;
[[1977年]]（昭和52年）6月～7月に創価学会の大規模な改革路線が初めて表面化し、保守的な宗門はこれに反対した。&lt;br /&gt;
創価学会幹部が[[大石寺]]に登山を行う事で一応は収まったものの、その後も創価学会に対する日蓮正宗（宗門）僧侶や檀徒の誹謗が残る。[[1979年]][[7月22日]]に管長・[[日達|細井日達]]が死去（遷化）し、[[日顕|阿部日顕]]が登座すると、学会に批判的な僧侶・檀徒と宗門首脳との対立が先鋭化、終には批判派僧侶の殆どが日蓮正宗から追放され[[正信会]]が結成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 電話盗聴事件 ===&lt;br /&gt;
1970年と80年、当時の[[日本共産党]]委員長・[[宮本顕治]]宅の電話線に盗聴器が仕掛けられる事件が発覚。元顧問弁護士・山崎正友の指図による工作グループの関与が指摘される。[[最高裁判所|最高裁]]への上告取り下げと言う形でこの事実が認定され損害賠償を課される事になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 言論・出版妨害事件 ===&lt;br /&gt;
1969年から[[1970年]]にかけて、[[藤原弘達]]の『創価学会を斬る』の出版をめぐり、創価学会と公明党は「事実無根」だとして出版社・取次会社・書店などに圧力をかけた言論抑制事件、言論出版問題。この事件を機に池田大作の証人喚問にまで発展する可能性があったため、池田大作は謝罪、公明党は宗教色を弱め創価学会と表向きは関係のないことになっている（後述の「政教分離問題」も参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、藤原弘達の葬式に学会員からの[[電報|祝電]]が絶えなかったと言う話はあまりにも有名である。また、近年の池田大作はこの事件について自書などで「学会や自分も被害者である」と開き直っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日蓮正宗から破門される ===&lt;br /&gt;
宗門との長年の確執と内紛・対立が表面化したのは[[1990年]][[12月27日]]のことであった。この時点における双方の主張は、&lt;br /&gt;
:宗門側： 以前からの懸案であった法華講本部役員の任期に関する「[[日蓮正宗]]宗規」を一部改正して総講頭の任期を変えたため、池田名誉会長は「自動的に総講頭の資格」を喪った&lt;br /&gt;
:学会側： 池田名誉会長に対するさまざまな圧力の結果、宗門（日顕法主）は一方的に池田名誉会長に対し「総講頭から罷免する処分」をおこなった&lt;br /&gt;
というものであった。そして双方の対立がエスカレートした結果、翌年11月28日に日蓮正宗は、海外組織「SGI」とともに創価学会を「破門」するに至った。この件をめぐり、創価学会と宗門は現在でも対立状態が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ニコニコ動画に投稿された「久本雅美・頭がパーン」動画、東京地裁が創価学会の情報開示請求を認める ===&lt;br /&gt;
[[タレント]]の[[久本雅美]]さんが出演するビデオを無断で「[[ニコニコ動画]]」にアップロードされ[[著作権]]を侵害されたとして、ビデオの著作権を持つ[[創価学会]]が[[プロバイダ責任制限法]]に基づいて発信者情報の開示を請求し、東京地裁がISPに対し情報開示を命じていたことが分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
判決は2013年10月22日付け。アップロードユーザーが利用したISPを運営するGMOインターネットに対し、動画をアップロードしたユーザーの氏名・住所、[[電子メール]]アドレスの開示を命じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
判決によると、動画は[[2012年]][[11月29日]]に投稿されたもので、長さは2分6秒。判決文の「対応一覧表」によると、創価学会が著作権を持つ「すばらしきわが人生 part2」のうち、「久本が創価学会の池田名誉会長から漫才を褒められて、頭がパーンとなったと話している」部分などが含まれている。いわゆるMADと呼ばれる動画の1つで、現在は視聴できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創価学会側は、この動画が著作権(複製権、公衆送信権)を侵害しており、損害賠償などを請求するために発信者情報の開示を受けるべき理由があると主張。[[東京地裁]]([[長谷川浩二]]裁判長)は主張を認め、GMOインターネットに対し情報開示を命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月24日の時点で、この動画を再アップロードしたものと思われるMAD動画がニコ動で確認できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政教分離問題 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞4.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
[[政教分離]]の原則から、創価学会と公明党との関係は議論の対象となった。内閣法制局は「宗教団体が特定の政党を支援することについて、なんら憲法に抵触するものではない」と見解を出している。そのため創価学会は、この問題を解決したものであるとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし実態としては、現在でも創価学会と公明党とで定期的に連絡会議が持たれるなど両者の関係は密接であり、報道などにおいても「公明党の支持母体である創価学会」という形で公然と扱われていることも事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、創価学会が批判されるときは「創価学会と公明党との表裏一体の関係が問題である」点を指摘されることが多い。実際、創価学会は数多くの利益誘導を公明党を通じて行ってきた。 近年では2003年4月に「創価学会の要請で公明党が制定した」名誉毀損の賠償金額を上げる法案などがその一つとして挙げられる。 この法案の目的は『[[週刊新潮]]』などの反創価メディアへの牽制である事は言うまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 海外から見た創価学会 ==&lt;br /&gt;
=== フランスでの「カルト報告」 ===&lt;br /&gt;
「新しい型の宗教組織による法の侵害に関するEC議会決議」（[[1984年]]）に基づいて、以後、[[フランス]]では、国民会議にセクト（カルト）に関する報告書が提出され、創価学会はセクト（カルト）とされている。 「フランスにおけるセクト――信教の自由の表現か、もしくは悪質な担ぎ屋か」（[[1985年]]）では、根拠とされた日本の週刊誌の記事の信憑性が否定された（創価学会が勝訴した）。 しかし「フランスにおけるセクト（カルト）教団」（[[1995年]]）・「セクトと金」（[[1999年]]）・「セクト（カルト）運動防止・抑制強化法（[[2001年]]）」では、未だ根拠の信憑性は否定されていない（創価学会が敗訴した）。&lt;br /&gt;
*「フランスにおけるセクト（カルト）教団」（[[1995年]]）には、創価学会が[[1990年]]に日蓮正宗と分裂したこと、女性信者が多いこと、信者に秘密の仕事や様々な不正行為や詐欺行為をさせていること、などが記載されている。&lt;br /&gt;
*「セクトと金」（[[1999年]]）では、パリ行政裁判所判決（[[1996年]][[12月10日]]）を引用して、創価学会が、雑誌、パンフレット、本、アクセサリー、セミナーなどの営利活動によって収入の大半を得ており、マージンは42.2％&amp;amp;#xff5e;49.64％（この種の分野では最高の率）であることを紹介している。 また資産は2億4000万フラン（約38億円）相当であり、年間予算は調査によれば約2億4000万フラン（約38億4000万円）に達する。&lt;br /&gt;
*「セクト(カルト)運動防止・抑制強化法（[[2001年]]）」は、フランス国民議会（下院）で全会派一致により可決・成立した法律で、創価学会の活動をフランス国内で行われている宗教に名を借りた反社会的活動とし、議会内に設置されたカルト調査委員会が入念に調査することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では創価学会側から表立ったフランス政府やEC議会批判は無いが、一信者による'''フランス政府は創価学会のすばらしさを理解できない（感情的な表現）の集団で、弾圧目的でセクト（カルト）運動防止・抑制強化法を成立させた。'''（要約）と言う内容の恣意的な解説が創価学会員の間で支持されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
アメリカの「[[タイム (雑誌)|TIME]]」誌が[[1995年]][[11月20日]]号で『創価学会と言う権力』(THE POWER OF SOKA GAKKAI)と言う題で特集を組んでいる。また、最近では「[[フォーブス]]」誌[[2004年]][[9月6日]]号で『&amp;quot;先生&amp;quot;の世界』(Sensei's World)と題した[[ベンジャミン・フルフォード]]、[[デビッド・ウェラン]]両記者による報告が掲載されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スティーブ・ハッサン「マインドコントロールの恐怖」では破壊的カルトの一つとして「日蓮正宗USA」の事例が紹介されている。この「日蓮正宗USA」は元来創価学会会員の団体である。 この例をはじめ、NSIC（日蓮正宗国際センター）などのように、創価学会系の団体も日蓮正宗からの破門以前は「日蓮正宗」の名を冠していた事例が数多くあるため、現在において論じる際にはその区別を明確にしておくことが必要である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==学会と芸能人==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞5.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
関連の社団法人に[[民主音楽協会]]があり、その公演をを通して芸能人の多くが創価学会との接点を持っている。現在、芸能人の多くが信者であることが知られている。&lt;br /&gt;
ただ、他の宗教と同様、芸能人信者の多くは自身の内面の問題である信仰について、あくまで個人的な内容であるとして、公表しているかどうかは芸能人によってことなる。その一方、「創価学会の信仰で幸福になった」と創価学会系のメディアやビデオなどで公言している芸能人も多くみられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、創価学会批判派も多く、[[平畠啓史]]（[[DonDokoDon]]）や、[[内村光良]]（[[ウッチャンナンチャン]]）、[[爆笑問題]]、[[さまぁ～ず]]、[[大友康平]]、[[ふかわりょう]]、[[草野マサムネ]]（[[スピッツ]]）、[[赤江珠緒]]などが、文化人では、[[宮崎哲弥]]、[[勝谷誠彦]]、[[橋下徹]]が代表的である。そういった事で、創価がスポンサーになっている番組に対しては避ける傾向が強くなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『潮』で対談記事が組まれた場合、出席者は信者の可能性がある（無関係、若しくはアンチであれば理由をつけて断るはずである）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[吉本興業]]などとも提携しており、[[創価学会信者の有名人]]は多数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ネットの反応 ==&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では創価学会や池田大作に対しての批判が多数書かれている。&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では池田大作は勲章荒らしなどと書かれてしまうこともある。&lt;br /&gt;
某巨大匿名掲示板では池田大作は自分の学歴にコンプレックスがあるから世界各国の大学の名誉博士を集めているのではという意見も書かれている。&lt;br /&gt;
池田大作はニコニコ動画でも「池田犬作」という愛称で呼ばれ大人気だそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 創価関連トピックス ==&lt;br /&gt;
創価に関する騒動では出版言論弾圧事件や盗聴事件、日蓮破門などは有名だが、ここではその他の事柄について取り上げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国との関係 ===&lt;br /&gt;
日中関係は近年悪化の一途を辿るが、中国は信仰の自由がない宗教弾圧国家でありながら中創関係は非常に良好である。中国の国家主席が来日した際、優先的に会談する3人うちのひとりが池田大作である。[[胡錦濤]]の来日時にも真っ先に会談している。中国にしてみれば創価学会の日本における影響力と大衆洗脳術に関心があり、創価学会では池田大作の自身の野望に大きく利することからお互いに旨みがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、仏教系でありながら中国の[[チベット]]弾圧問題の時には中国を全力で擁護している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 何でも南京大虐殺って叫べばいいと思うよ ===&lt;br /&gt;
「[[南京大虐殺]]と叫べば日本は動揺する」と中国政府に対してアドバイスしたのも池田大作である。当初は日本政府に対する小規模な抗議であったが、放火常習犯の[[朝日新聞]]がまんまと火をつけたこと（他の放火事件として[[韓国]]・[[従軍慰安婦問題]]などがある）により日本の教科書にも採用され、これらを根拠に中国が反日政策を推し進めたことで日中関係は非常に悪化した。また、結果的に中創関係の親密度も増している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 庶民の王者 ===&lt;br /&gt;
池田大作は自らを「庶民の王者」と自認している。それは[[温家宝]]と会談した際の以下の発言からも伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 池田大作「閣下、光栄です。うれしいです。政治家ではなくて、庶民の王者と会ってくださって」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北朝鮮のマスゲームの起源は創価 ===&lt;br /&gt;
[[北朝鮮]]の[[マスゲーム]]は創価学会のマスゲームを真似たものである。なお、マスゲーム自体は創価学会や北朝鮮以外でも行われており、日本はかねてより得意としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 在日朝鮮人による宗教説 ===&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞6.jpg|350px|thumb|聖教新聞の4コマ漫画]]&lt;br /&gt;
韓国の宗教で数々の問題を起こしている宗教には[[統一教会]]があるが、一方で創価学会は[[在日朝鮮人]]による宗教だと一部で言われている。さらに、池田大作が成太作（ソン・テチャク）という在日朝鮮人だという説もネットではみられる。真偽は不明だが、創価学会に在日が多いのは事実である。また、在日や[[部落]]が多い[[大阪]]で勢力が強いのも事実である。これは在日宗教というより、マイノリティである在日や部落の受け皿になることで繁栄させてきたと見る向きもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総体革命 ===&lt;br /&gt;
池田大作が[[1960年代]]から推し進めた政界、メディア、法曹界、医療界、警察などの国家に関する重要な職に学会員を潜り込ますことで権力を支配下に置く戦略である。現在では大きな成果を上げ各界で重要な役割を担っている。革命の達成目標時期は[[2010年]]を目処にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===  朝木明代元市会議員の転落死 ===&lt;br /&gt;
創価学会・公明党に対する批判を強めていた東京都[[東村山市]]の元市会議員[[朝木明代]]が[[1995年]]9月、「自身の起こした[[万引き]]事件を苦にしてビルから飛び降り自殺した」（検察・警察の見解）とされているが、この転落死には創価学会の関与が疑われている。万引き事件や転落死事件の捜査に当たった[[検察]]（二人）が学会員だった（裁判でも認定）ことからも批判の的になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 破防法の阻止 ===&lt;br /&gt;
一連の[[オウム真理教]]事件で[[破防法]]が適用されそうになった時に全力で阻止したのは公明党である。将来の創価学会への適用を恐れてのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これと同様に、[[ストーカー規制法]]や[[盗聴法]]、[[個人情報保護法]]の成立時などにも宗教団体が範囲から除外されるように働きかけている。将来的には[[共謀罪]]に対しても同様の働きかけをすると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 法案関系 ===&lt;br /&gt;
==== 過去に成立させた法案など ====&lt;br /&gt;
* [[青少年有害情報規制法]]（青少年ネット規制法）&lt;br /&gt;
* [[勤労婦人福祉法]]&lt;br /&gt;
* [[男女雇用機会均等法]]　&lt;br /&gt;
* [[男女共同参画社会基本法]]（[[ジェンダーフリー]]を推進）&lt;br /&gt;
* [[母子手当て]]拡大（「父子手当て」はない） &lt;br /&gt;
* [[生活保護]]拡充 &lt;br /&gt;
* [[慰謝料]]に関する制度の強化&lt;br /&gt;
* [[定額給付金]]（公明党の働きかけによる）&lt;br /&gt;
* [[地域振興券]]（定額給付金と共にばら撒きと批判されている）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 推進する法案 ====&lt;br /&gt;
* [[人権擁護法案]]&lt;br /&gt;
*:公明党が度々法案を提出している。法案の内容は[[部落解放同盟]]などの法案成立に向けて働きかけをする特定の団体、層にとって都合がいいものとなっている。このことについて法案に賛同する朝日新聞では、「だが、心配のしすぎではないか」と切り捨て特定の団体の人が[[人権擁護委員]]になるのは当然としている。&lt;br /&gt;
* [[外国人地方参政権]]の確立に関した法案&lt;br /&gt;
*:[[民潭]]（在日本大韓民国民団）がかねてから働きかけをしているが、公明党も同調して度々法案を提出している。日本での成立に先駆けて[[2005年]]、[[韓国]]では一部の永住外国人に地方参政権を認めているが、適用基準が厳しく資格があるのはほんの僅かとなっている。この韓国での成立は「日本で認めさせるための戦略」と考えられている。&lt;br /&gt;
*ユニバーサル法案&lt;br /&gt;
*:改正[[同和特別措置法]]とも揶揄される。成立に向けて公明党が主導している。&lt;br /&gt;
* [[ポルノ所持禁止法]]の適用範囲拡大（単純所持・[[二次元]]規制など）&lt;br /&gt;
*:当初から推進していたのは公明党である。他には[[日本ユニセフ協会]]なども推進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
[[Image: 久本雅美3.jpg|350px|thumb|[[赤羽駅]]前で行われた街頭演説の模様。拳を突き上げて、気炎を吐く[[久本雅美]]と、あたかも自身の演説に酔ってとろけたような[[柴田理恵]]。浮かない顔を見せている[[太田昭宏]]]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党]]&lt;br /&gt;
* [[第三文明社]]&lt;br /&gt;
* [[聖教新聞]]&lt;br /&gt;
* [[創価大学]]、[[創価女子短期大学]]&lt;br /&gt;
* [[創価学園]]（東京創価学園、関西創価学園、札幌創価幼稚園）&lt;br /&gt;
* [[創価学会との関係が疑われる企業]]&lt;br /&gt;
* [[平成のヒトラー]] &lt;br /&gt;
* [[日本会議]]&lt;br /&gt;
* [[勝共推進議員]]&lt;br /&gt;
* [[戸塚宏]]&lt;br /&gt;
* [[関東連合]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 聖教新聞の4こま漫画 ==&lt;br /&gt;
[[Image:聖教新聞7.jpg|350px]][[Image:聖教新聞8.jpg|350px]][[Image:聖教新聞9.jpg|350px]][[Image:聖教新聞10.jpg|350px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 創価学会ストーリー ==&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー1.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー2.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー3.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー4.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー5.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー6.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー7.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:創価学会ストーリー8.jpg|700px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:そうかかつかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:カルト]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipediaで保護された記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:アクセス数の高い記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:画像が多い記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90&amp;diff=342950</id>
		<title>河原美代子</title>
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				<updated>2017-09-03T08:25:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ウィキペディア白紙保護}}&lt;br /&gt;
'''河原 美代子'''（かわはら みよこ、'''miyoco'''、[[1947年]] - ）は、[[奈良県]][[生駒郡]][[平群町]]在住、'''近所に引っ越してきた創価学会員の老夫婦による嫌がらせの被害者'''[https://blogs.yahoo.co.jp/posutoman21/31274257.html][http://clippinweb.com/souon-obasan-genzai/][https://matome.naver.jp/odai/2133515262312361101][http://www.p-runner.net/data-neta/miyoko/miyoko.html]であり、創価学会員の嫌がらせに対する反撃（騒音攻撃）を行った人物。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物==&lt;br /&gt;
若きころに[[ヒップホップ共和国]]に留学しヒップホップに関する知識を学び[[2005年]]4月にメジャーデビュー。10年前から自宅で[[ライブ]]を行っていた。布団叩きとラジカセを使用した斬新な[[フロウ]]が特徴。この演奏を自ら「抗議」と称して「引越し～、引越し～！！」とライブを行っていた。そして、ライブだけでなく、観客(被害者)の設置したカメラを使って、尻をカメラに映し、「キレイに録ってYO!YO!YO!!!!!!!」もしくは「キレイに撮ってYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYO」と叫んだりするPVを撮影し、製作、[[大阪]]で売りさばき、「誰に許可取って店やっとんじゃ!!!」と言われ、[[ヤクザ]]にリンチを喰らい重傷を負うなど、活動の幅は広い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自宅ライブが原因で後に[[傷害罪]]で[[逮捕]]された。テレビ番組で「[[気違い]]」呼ばわりした[[塩川正十郎]]とは表面上は敵対関係にあるように見えて、実は裏でしっかり手を結んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年7月に出所したものの、消息不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一部では[[伝説]]とも言える行為を行ったとして、[[半ズボン氏]]、[[麻原彰晃]]、[[福永法源]]、[[堀江貴文]]、[[鈴木宗男]]、[[モノウ・ルッテレ・ベルジャネーゾ|レベル男]]、[[ドナルド･マクドナルド]]、[[ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ]]と並び、[[神]]としてあがめられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[ムネオハウス]]を深く愛し、事実上後継者である。また彼女の半生を描いた映画「'''[[嫌われ美代子の一生]]'''」が公開され大ヒットした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先祖は、[[マウンテンゴリラ]]である。&lt;br /&gt;
無限に出ている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==警告==&lt;br /&gt;
[[モリッシー]]にはこの存在を伝えない方がいい。もし、モリッシーの耳に入ったら、miyocoの首を吊り上げられ、貴重な存在を残虐な形で消されてしまうからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoの目の前であの人を讃美する一切の行為は、死を意味する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノートなどに河原美代子の河原の字を川原と書き間違えた場合はmiyocoが布団を叩きながら（CDラジカセ大音量（音量約60）で）書いた人に、向かってくる。いつでも何処でも神出鬼没である。miyocoが見つけると、書いた人は、ドラムスティックでその人の尻や頭や顔、そして背中を999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,000回叩かれる処罰を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoが流す曲の中には'''[[洗脳ソング]]'''も含まれている。その曲のサウンドトラックの表紙には『この曲には'''洗脳'''という危険な要素が含まれています。この曲を聴き、あなたの身に何らかの事態が起こっても、弊社は一切保証いたしかねませんので予めご了承下さい。』と注意書きが表記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ちなみに愛称表記はmiyokoではなく、miyocoである。もし誤記すると上記のような処罰を受けるので表記する際に注意する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==社会的影響==&lt;br /&gt;
miyocoの特筆すべき偉大性は、怒りを込めたヒップホップを通じ、重病患者や介護難民等の弱者を無視し続ける社会に対して抗議した事である。これは後に多くの貧困を生み出す格差社会が到来すると、miyocoが予見していた事を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoの活躍が[[テレビ]]で報道された以降、miyocoの音楽センスやmiyocoの[[思想]]（Miyocoism）を支持するファンが急増したが、福祉切り捨てを推し進める政府（[[公明党]]、[[創価学会]]）はmiyocoを危険視して彼女に対して弾圧するようになり、ついにはmiyocoを不当逮捕してしまった。&lt;br /&gt;
被害者と思われてた側が、実は加害者だったのではないか？という話がある。miyocoこそが真の被害者であったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyoco本人は逮捕されて以後、軟禁状態に置かれていたが、Miyocoismを継承して社会に抗議しようとする人々は今も増え続けている。miyocoが住む[[関西]]から遠い[[関東]]の[[栃木県]]にも、人様の家に硫酸をばら撒く[[資生堂]]に戦いを挑み、ほぼ全面勝訴を収めた英雄的なおばさんが現れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[エクストリーム・いじめの仕返し]]とエクストリーム・抗議における稀代のプレイヤーであり、過去最高とも言える評価を叩き出した事で世界中から注目を浴びた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年6月には、miyocoに感化される形で、「呪い殺してやる」という独り言で社会に新たな抗議を行うレゲエ系シンガー[[Harue]]が千葉県に出現した。また、同年8月には犬の糞を相手の家の前にばら撒く抗議を行う、[[Atsushi]]という男性も登場した。同月には夜中に爆竹を鳴らして抗議する[[masayuki]]も登場した。更に、同年9月には、punk同様に家の壁を叩くなどのパーカッション的な役割を持つほか、「なめとんのか。殺すぞ」などと凶悪な言い方でのレゲエ系シンガーソンガーである[[machico]]が大阪府に登場した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのほか、2005年には愛知県にはフライパンやゴルフクラブで壁を叩くパーカッション的な役割を持つpunkや、東京都には悪臭おじさんという料理人[[Ho.she.no]]、京都府には全裸おじさん呼ばれてしまうほどの肉体美をもつボディービルダー[[syo.G]]、2006年には茨城県には汚水おばさんと呼ばれてしまうほどの科学者[[shinagawa]]も、miyocoに感化される形で出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、[[イギリス]]にも、miyocoに感化される形というよりも、ほぼ同時期に出現し、[[恐怖の小村]]と呼ばれる所に住み、ギターを弾くなど、猛烈にイギリスの社会に抗議するギタリスト[[While.ding]]も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、miyocoの使用したドラムスティック、pall'oh'davidのJesus7-miyokoモデルは全世界にて累積745923584050本のセールスを記録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== シングル ===&lt;br /&gt;
{{JASRAC認可}}&lt;br /&gt;
#[[Hip Hop Shit]]（オリコン最高1位、実売100万枚を突破）&lt;br /&gt;
#Downwiper&lt;br /&gt;
#布団太鼓with塩自慰&lt;br /&gt;
#しっかり何回もchuしてwith濱邨淳&lt;br /&gt;
#巫女みこ美代子&lt;br /&gt;
#引越し大家族&lt;br /&gt;
#恋のマイヤ引越し([[恋のマイアヒ|マイヤヒー]]のカバー)&lt;br /&gt;
#おばロック - 喧嘩の音やねん&lt;br /&gt;
#夜な夜な見てんのか&lt;br /&gt;
#引っ越し変奏曲&lt;br /&gt;
#over hikkoshi soul（[[Over Soul]]のカバー）&lt;br /&gt;
#君はmiyocoに似ている（[[君は僕に似ている]]のカバー）&lt;br /&gt;
#おはよう!ご主人&lt;br /&gt;
#反則ミヨ&lt;br /&gt;
#ミヨラン&lt;br /&gt;
#心の布団を誰かがたたく&lt;br /&gt;
#ワンダーミヨミヨ&lt;br /&gt;
#引越しよこんにちは&lt;br /&gt;
#MIYONSFORMER&lt;br /&gt;
#美代子の一日&lt;br /&gt;
#Pease Miyo&lt;br /&gt;
#Another Miyo&lt;br /&gt;
#あなたの布団が吹くから&lt;br /&gt;
#ミヨコ→デレ &lt;br /&gt;
#ミヨコは大変なものを盗んでいきました &lt;br /&gt;
#最終鬼畜女ミヨコ・K &lt;br /&gt;
#河原神社町内会騒音音頭 &lt;br /&gt;
#行列のできるミヨコ引越しセンター &lt;br /&gt;
#ハレ晴レミヨコ（お天道様も!） &lt;br /&gt;
#雪、騒音、窓辺にて引っ越し &lt;br /&gt;
#恋のmiyoco伝説 &lt;br /&gt;
#ラジカセに胸キュン?~浮気なソニー~（YMO「君に胸キュン」のカバー） &lt;br /&gt;
#HICK O SAY! ~SOUL TO SOUL~ (オリコン最高２位、実売８５万枚を突破、着歌ダウンロード、１位） &lt;br /&gt;
#しば☆くぞ &lt;br /&gt;
#We Will Hick On Say (feat.Brian May) &lt;br /&gt;
#九時五分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルバム ===&lt;br /&gt;
#Best of Downwiper&lt;br /&gt;
#hikko　C&lt;br /&gt;
#Downwiper&lt;br /&gt;
#Golden Best ～3th Anniversary～&lt;br /&gt;
#抗議の音～執念の渦～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== PV ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;YouTube&amp;gt;&lt;br /&gt;
title=Hip Hop Shit PV&lt;br /&gt;
movie_url=http://www.youtube.com/v/xBybVGPI66w&lt;br /&gt;
embed_source_url=http://www.youtube.com/v/xBybVGPI66w&lt;br /&gt;
wrap = yes&lt;br /&gt;
width=800&lt;br /&gt;
height=700&lt;br /&gt;
&amp;lt;/YouTube&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[キーボードクラッシャー]]…関連項目である理由については[[お察しください]]&lt;br /&gt;
*[[株式会社 Miyoco!]]&lt;br /&gt;
*「[[嫌われ美代子の一生]]」&lt;br /&gt;
*[[VIP先生]]&lt;br /&gt;
*[[友蔵]]&lt;br /&gt;
*[[ムネオハウス]]&lt;br /&gt;
*[[Hip Hop Shit]]&lt;br /&gt;
*[[ヒップホップ王国]]&lt;br /&gt;
*[[下廣夫婦]]&lt;br /&gt;
*[[平群町]]&lt;br /&gt;
*[[塩川正十郎]]&lt;br /&gt;
*[[福澤朗]]&lt;br /&gt;
*[[山田五郎]]&lt;br /&gt;
*[[岡本尚也]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[代々木ゼミナール]] ===&lt;br /&gt;
*[[荻野暢也]]&lt;br /&gt;
*[[亀田和久]]&lt;br /&gt;
*[[吉野敬介]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://mc-miyoco.sakura.ne.jp MIYOCO MUSIC保管所]&lt;br /&gt;
*[http://miyoco.net オフィシャルファンクラブ]&lt;br /&gt;
*[http://miyocoholdings.web.fc2.com/ Miyocoホールディングス株式会社]&lt;br /&gt;
*[http://miyocompany.o-oku.jp/ 株式会社 Miyoco!]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:削除依頼/ある元受刑者|削除依頼/河原美代子]]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:削除依頼/Miyoco|削除依頼/Miyoco]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Wikipedia:削除依頼/ある被告人の実名及び変名の記載された記事群|削除依頼/ある被告人の実名及び変名の記載された記事群]]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=6r7oDekIfZ8 ゲリラライブの様子]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=3scbvMvt37M ムスカ大佐対河原美代子]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=RqMcFARCs9w Miyocoに対して気違いと発言する塩爺] &lt;br /&gt;
{{アンサイクロペディア}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かわはら みよこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで白紙保護された記事|かわはらみよこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:アソパソマソレコード]]&lt;br /&gt;
[[Category:White Records]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90&amp;diff=342948</id>
		<title>河原美代子</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90&amp;diff=342948"/>
				<updated>2017-09-03T08:10:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: 真実は曖昧にしてはならない。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ウィキペディア白紙保護}}&lt;br /&gt;
'''河原 美代子'''（かわはら みよこ、'''miyoco'''、[[1947年]] - ）は、[[奈良県]][[生駒郡]][[平群町]]在住の'''創価学会員による嫌がらせの被害者'''[https://blogs.yahoo.co.jp/posutoman21/31274257.html][http://clippinweb.com/souon-obasan-genzai/][https://matome.naver.jp/odai/2133515262312361101][http://www.p-runner.net/data-neta/miyoko/miyoko.html]であり、創価学会員の嫌がらせに対する反撃（騒音攻撃）を行った人物。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物==&lt;br /&gt;
若きころに[[ヒップホップ共和国]]に留学しヒップホップに関する知識を学び[[2005年]]4月にメジャーデビュー。10年前から自宅で[[ライブ]]を行っていた。布団叩きとラジカセを使用した斬新な[[フロウ]]が特徴。この演奏を自ら「抗議」と称して「引越し～、引越し～！！」とライブを行っていた。そして、ライブだけでなく、観客(被害者)の設置したカメラを使って、尻をカメラに映し、「キレイに録ってYO!YO!YO!!!!!!!」もしくは「キレイに撮ってYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYO」と叫んだりするPVを撮影し、製作、[[大阪]]で売りさばき、「誰に許可取って店やっとんじゃ!!!」と言われ、[[ヤクザ]]にリンチを喰らい重傷を負うなど、活動の幅は広い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自宅ライブが原因で後に[[傷害罪]]で[[逮捕]]された。テレビ番組で「[[気違い]]」呼ばわりした[[塩川正十郎]]とは表面上は敵対関係にあるように見えて、実は裏でしっかり手を結んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年7月に出所したものの、消息不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一部では[[伝説]]とも言える行為を行ったとして、[[半ズボン氏]]、[[麻原彰晃]]、[[福永法源]]、[[堀江貴文]]、[[鈴木宗男]]、[[モノウ・ルッテレ・ベルジャネーゾ|レベル男]]、[[ドナルド･マクドナルド]]、[[ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ]]と並び、[[神]]としてあがめられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[ムネオハウス]]を深く愛し、事実上後継者である。また彼女の半生を描いた映画「'''[[嫌われ美代子の一生]]'''」が公開され大ヒットした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先祖は、[[マウンテンゴリラ]]である。&lt;br /&gt;
無限に出ている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==警告==&lt;br /&gt;
[[モリッシー]]にはこの存在を伝えない方がいい。もし、モリッシーの耳に入ったら、miyocoの首を吊り上げられ、貴重な存在を残虐な形で消されてしまうからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoの目の前であの人を讃美する一切の行為は、死を意味する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノートなどに河原美代子の河原の字を川原と書き間違えた場合はmiyocoが布団を叩きながら（CDラジカセ大音量（音量約60）で）書いた人に、向かってくる。いつでも何処でも神出鬼没である。miyocoが見つけると、書いた人は、ドラムスティックでその人の尻や頭や顔、そして背中を999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,000回叩かれる処罰を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoが流す曲の中には'''[[洗脳ソング]]'''も含まれている。その曲のサウンドトラックの表紙には『この曲には'''洗脳'''という危険な要素が含まれています。この曲を聴き、あなたの身に何らかの事態が起こっても、弊社は一切保証いたしかねませんので予めご了承下さい。』と注意書きが表記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ちなみに愛称表記はmiyokoではなく、miyocoである。もし誤記すると上記のような処罰を受けるので表記する際に注意する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==社会的影響==&lt;br /&gt;
miyocoの特筆すべき偉大性は、怒りを込めたヒップホップを通じ、重病患者や介護難民等の弱者を無視し続ける社会に対して抗議した事である。これは後に多くの貧困を生み出す格差社会が到来すると、miyocoが予見していた事を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoの活躍が[[テレビ]]で報道された以降、miyocoの音楽センスやmiyocoの[[思想]]（Miyocoism）を支持するファンが急増したが、福祉切り捨てを推し進める政府（[[公明党]]、[[創価学会]]）はmiyocoを危険視して彼女に対して弾圧するようになり、ついにはmiyocoを不当逮捕してしまった。&lt;br /&gt;
被害者と思われてた側が、実は加害者だったのではないか？という話がある。miyocoこそが真の被害者であったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyoco本人は逮捕されて以後、軟禁状態に置かれていたが、Miyocoismを継承して社会に抗議しようとする人々は今も増え続けている。miyocoが住む[[関西]]から遠い[[関東]]の[[栃木県]]にも、人様の家に硫酸をばら撒く[[資生堂]]に戦いを挑み、ほぼ全面勝訴を収めた英雄的なおばさんが現れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[エクストリーム・いじめの仕返し]]とエクストリーム・抗議における稀代のプレイヤーであり、過去最高とも言える評価を叩き出した事で世界中から注目を浴びた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年6月には、miyocoに感化される形で、「呪い殺してやる」という独り言で社会に新たな抗議を行うレゲエ系シンガー[[Harue]]が千葉県に出現した。また、同年8月には犬の糞を相手の家の前にばら撒く抗議を行う、[[Atsushi]]という男性も登場した。同月には夜中に爆竹を鳴らして抗議する[[masayuki]]も登場した。更に、同年9月には、punk同様に家の壁を叩くなどのパーカッション的な役割を持つほか、「なめとんのか。殺すぞ」などと凶悪な言い方でのレゲエ系シンガーソンガーである[[machico]]が大阪府に登場した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのほか、2005年には愛知県にはフライパンやゴルフクラブで壁を叩くパーカッション的な役割を持つpunkや、東京都には悪臭おじさんという料理人[[Ho.she.no]]、京都府には全裸おじさん呼ばれてしまうほどの肉体美をもつボディービルダー[[syo.G]]、2006年には茨城県には汚水おばさんと呼ばれてしまうほどの科学者[[shinagawa]]も、miyocoに感化される形で出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、[[イギリス]]にも、miyocoに感化される形というよりも、ほぼ同時期に出現し、[[恐怖の小村]]と呼ばれる所に住み、ギターを弾くなど、猛烈にイギリスの社会に抗議するギタリスト[[While.ding]]も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、miyocoの使用したドラムスティック、pall'oh'davidのJesus7-miyokoモデルは全世界にて累積745923584050本のセールスを記録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== シングル ===&lt;br /&gt;
{{JASRAC認可}}&lt;br /&gt;
#[[Hip Hop Shit]]（オリコン最高1位、実売100万枚を突破）&lt;br /&gt;
#Downwiper&lt;br /&gt;
#布団太鼓with塩自慰&lt;br /&gt;
#しっかり何回もchuしてwith濱邨淳&lt;br /&gt;
#巫女みこ美代子&lt;br /&gt;
#引越し大家族&lt;br /&gt;
#恋のマイヤ引越し([[恋のマイアヒ|マイヤヒー]]のカバー)&lt;br /&gt;
#おばロック - 喧嘩の音やねん&lt;br /&gt;
#夜な夜な見てんのか&lt;br /&gt;
#引っ越し変奏曲&lt;br /&gt;
#over hikkoshi soul（[[Over Soul]]のカバー）&lt;br /&gt;
#君はmiyocoに似ている（[[君は僕に似ている]]のカバー）&lt;br /&gt;
#おはよう!ご主人&lt;br /&gt;
#反則ミヨ&lt;br /&gt;
#ミヨラン&lt;br /&gt;
#心の布団を誰かがたたく&lt;br /&gt;
#ワンダーミヨミヨ&lt;br /&gt;
#引越しよこんにちは&lt;br /&gt;
#MIYONSFORMER&lt;br /&gt;
#美代子の一日&lt;br /&gt;
#Pease Miyo&lt;br /&gt;
#Another Miyo&lt;br /&gt;
#あなたの布団が吹くから&lt;br /&gt;
#ミヨコ→デレ &lt;br /&gt;
#ミヨコは大変なものを盗んでいきました &lt;br /&gt;
#最終鬼畜女ミヨコ・K &lt;br /&gt;
#河原神社町内会騒音音頭 &lt;br /&gt;
#行列のできるミヨコ引越しセンター &lt;br /&gt;
#ハレ晴レミヨコ（お天道様も!） &lt;br /&gt;
#雪、騒音、窓辺にて引っ越し &lt;br /&gt;
#恋のmiyoco伝説 &lt;br /&gt;
#ラジカセに胸キュン?~浮気なソニー~（YMO「君に胸キュン」のカバー） &lt;br /&gt;
#HICK O SAY! ~SOUL TO SOUL~ (オリコン最高２位、実売８５万枚を突破、着歌ダウンロード、１位） &lt;br /&gt;
#しば☆くぞ &lt;br /&gt;
#We Will Hick On Say (feat.Brian May) &lt;br /&gt;
#九時五分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルバム ===&lt;br /&gt;
#Best of Downwiper&lt;br /&gt;
#hikko　C&lt;br /&gt;
#Downwiper&lt;br /&gt;
#Golden Best ～3th Anniversary～&lt;br /&gt;
#抗議の音～執念の渦～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== PV ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;YouTube&amp;gt;&lt;br /&gt;
title=Hip Hop Shit PV&lt;br /&gt;
movie_url=http://www.youtube.com/v/xBybVGPI66w&lt;br /&gt;
embed_source_url=http://www.youtube.com/v/xBybVGPI66w&lt;br /&gt;
wrap = yes&lt;br /&gt;
width=800&lt;br /&gt;
height=700&lt;br /&gt;
&amp;lt;/YouTube&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[キーボードクラッシャー]]…関連項目である理由については[[お察しください]]&lt;br /&gt;
*[[株式会社 Miyoco!]]&lt;br /&gt;
*「[[嫌われ美代子の一生]]」&lt;br /&gt;
*[[VIP先生]]&lt;br /&gt;
*[[友蔵]]&lt;br /&gt;
*[[ムネオハウス]]&lt;br /&gt;
*[[Hip Hop Shit]]&lt;br /&gt;
*[[ヒップホップ王国]]&lt;br /&gt;
*[[下廣夫婦]]&lt;br /&gt;
*[[平群町]]&lt;br /&gt;
*[[塩川正十郎]]&lt;br /&gt;
*[[福澤朗]]&lt;br /&gt;
*[[山田五郎]]&lt;br /&gt;
*[[岡本尚也]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[代々木ゼミナール]] ===&lt;br /&gt;
*[[荻野暢也]]&lt;br /&gt;
*[[亀田和久]]&lt;br /&gt;
*[[吉野敬介]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://mc-miyoco.sakura.ne.jp MIYOCO MUSIC保管所]&lt;br /&gt;
*[http://miyoco.net オフィシャルファンクラブ]&lt;br /&gt;
*[http://miyocoholdings.web.fc2.com/ Miyocoホールディングス株式会社]&lt;br /&gt;
*[http://miyocompany.o-oku.jp/ 株式会社 Miyoco!]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:削除依頼/ある元受刑者|削除依頼/河原美代子]]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:削除依頼/Miyoco|削除依頼/Miyoco]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Wikipedia:削除依頼/ある被告人の実名及び変名の記載された記事群|削除依頼/ある被告人の実名及び変名の記載された記事群]]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=6r7oDekIfZ8 ゲリラライブの様子]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=3scbvMvt37M ムスカ大佐対河原美代子]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=RqMcFARCs9w Miyocoに対して気違いと発言する塩爺] &lt;br /&gt;
{{アンサイクロペディア}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かわはら みよこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで白紙保護された記事|かわはらみよこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:アソパソマソレコード]]&lt;br /&gt;
[[Category:White Records]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90&amp;diff=342947</id>
		<title>河原美代子</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90&amp;diff=342947"/>
				<updated>2017-09-03T08:08:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ウィキペディア白紙保護}}&lt;br /&gt;
'''河原 美代子'''（かわはら みよこ、'''miyoco'''、[[1947年]] - ）は、[[奈良県]][[生駒郡]][[平群町]]在住の[[日本]]の'''創価学会員による嫌がらせの被害者'''であり、創価学会員の嫌がらせに対する反撃（騒音攻撃）を行った人物。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物==&lt;br /&gt;
若きころに[[ヒップホップ共和国]]に留学しヒップホップに関する知識を学び[[2005年]]4月にメジャーデビュー。10年前から自宅で[[ライブ]]を行っていた。布団叩きとラジカセを使用した斬新な[[フロウ]]が特徴。この演奏を自ら「抗議」と称して「引越し～、引越し～！！」とライブを行っていた。そして、ライブだけでなく、観客(被害者)の設置したカメラを使って、尻をカメラに映し、「キレイに録ってYO!YO!YO!!!!!!!」もしくは「キレイに撮ってYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYOYO」と叫んだりするPVを撮影し、製作、[[大阪]]で売りさばき、「誰に許可取って店やっとんじゃ!!!」と言われ、[[ヤクザ]]にリンチを喰らい重傷を負うなど、活動の幅は広い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自宅ライブが原因で後に[[傷害罪]]で[[逮捕]]された。テレビ番組で「[[気違い]]」呼ばわりした[[塩川正十郎]]とは表面上は敵対関係にあるように見えて、実は裏でしっかり手を結んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年7月に出所したものの、消息不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一部では[[伝説]]とも言える行為を行ったとして、[[半ズボン氏]]、[[麻原彰晃]]、[[福永法源]]、[[堀江貴文]]、[[鈴木宗男]]、[[モノウ・ルッテレ・ベルジャネーゾ|レベル男]]、[[ドナルド･マクドナルド]]、[[ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ]]と並び、[[神]]としてあがめられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[ムネオハウス]]を深く愛し、事実上後継者である。また彼女の半生を描いた映画「'''[[嫌われ美代子の一生]]'''」が公開され大ヒットした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先祖は、[[マウンテンゴリラ]]である。&lt;br /&gt;
無限に出ている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==警告==&lt;br /&gt;
[[モリッシー]]にはこの存在を伝えない方がいい。もし、モリッシーの耳に入ったら、miyocoの首を吊り上げられ、貴重な存在を残虐な形で消されてしまうからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoの目の前であの人を讃美する一切の行為は、死を意味する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノートなどに河原美代子の河原の字を川原と書き間違えた場合はmiyocoが布団を叩きながら（CDラジカセ大音量（音量約60）で）書いた人に、向かってくる。いつでも何処でも神出鬼没である。miyocoが見つけると、書いた人は、ドラムスティックでその人の尻や頭や顔、そして背中を999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,000回叩かれる処罰を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoが流す曲の中には'''[[洗脳ソング]]'''も含まれている。その曲のサウンドトラックの表紙には『この曲には'''洗脳'''という危険な要素が含まれています。この曲を聴き、あなたの身に何らかの事態が起こっても、弊社は一切保証いたしかねませんので予めご了承下さい。』と注意書きが表記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ちなみに愛称表記はmiyokoではなく、miyocoである。もし誤記すると上記のような処罰を受けるので表記する際に注意する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==社会的影響==&lt;br /&gt;
miyocoの特筆すべき偉大性は、怒りを込めたヒップホップを通じ、重病患者や介護難民等の弱者を無視し続ける社会に対して抗議した事である。これは後に多くの貧困を生み出す格差社会が到来すると、miyocoが予見していた事を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyocoの活躍が[[テレビ]]で報道された以降、miyocoの音楽センスやmiyocoの[[思想]]（Miyocoism）を支持するファンが急増したが、福祉切り捨てを推し進める政府（[[公明党]]、[[創価学会]]）はmiyocoを危険視して彼女に対して弾圧するようになり、ついにはmiyocoを不当逮捕してしまった。&lt;br /&gt;
被害者と思われてた側が、実は加害者だったのではないか？という話がある。miyocoこそが真の被害者であったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
miyoco本人は逮捕されて以後、軟禁状態に置かれていたが、Miyocoismを継承して社会に抗議しようとする人々は今も増え続けている。miyocoが住む[[関西]]から遠い[[関東]]の[[栃木県]]にも、人様の家に硫酸をばら撒く[[資生堂]]に戦いを挑み、ほぼ全面勝訴を収めた英雄的なおばさんが現れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[エクストリーム・いじめの仕返し]]とエクストリーム・抗議における稀代のプレイヤーであり、過去最高とも言える評価を叩き出した事で世界中から注目を浴びた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年6月には、miyocoに感化される形で、「呪い殺してやる」という独り言で社会に新たな抗議を行うレゲエ系シンガー[[Harue]]が千葉県に出現した。また、同年8月には犬の糞を相手の家の前にばら撒く抗議を行う、[[Atsushi]]という男性も登場した。同月には夜中に爆竹を鳴らして抗議する[[masayuki]]も登場した。更に、同年9月には、punk同様に家の壁を叩くなどのパーカッション的な役割を持つほか、「なめとんのか。殺すぞ」などと凶悪な言い方でのレゲエ系シンガーソンガーである[[machico]]が大阪府に登場した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのほか、2005年には愛知県にはフライパンやゴルフクラブで壁を叩くパーカッション的な役割を持つpunkや、東京都には悪臭おじさんという料理人[[Ho.she.no]]、京都府には全裸おじさん呼ばれてしまうほどの肉体美をもつボディービルダー[[syo.G]]、2006年には茨城県には汚水おばさんと呼ばれてしまうほどの科学者[[shinagawa]]も、miyocoに感化される形で出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、[[イギリス]]にも、miyocoに感化される形というよりも、ほぼ同時期に出現し、[[恐怖の小村]]と呼ばれる所に住み、ギターを弾くなど、猛烈にイギリスの社会に抗議するギタリスト[[While.ding]]も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、miyocoの使用したドラムスティック、pall'oh'davidのJesus7-miyokoモデルは全世界にて累積745923584050本のセールスを記録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== シングル ===&lt;br /&gt;
{{JASRAC認可}}&lt;br /&gt;
#[[Hip Hop Shit]]（オリコン最高1位、実売100万枚を突破）&lt;br /&gt;
#Downwiper&lt;br /&gt;
#布団太鼓with塩自慰&lt;br /&gt;
#しっかり何回もchuしてwith濱邨淳&lt;br /&gt;
#巫女みこ美代子&lt;br /&gt;
#引越し大家族&lt;br /&gt;
#恋のマイヤ引越し([[恋のマイアヒ|マイヤヒー]]のカバー)&lt;br /&gt;
#おばロック - 喧嘩の音やねん&lt;br /&gt;
#夜な夜な見てんのか&lt;br /&gt;
#引っ越し変奏曲&lt;br /&gt;
#over hikkoshi soul（[[Over Soul]]のカバー）&lt;br /&gt;
#君はmiyocoに似ている（[[君は僕に似ている]]のカバー）&lt;br /&gt;
#おはよう!ご主人&lt;br /&gt;
#反則ミヨ&lt;br /&gt;
#ミヨラン&lt;br /&gt;
#心の布団を誰かがたたく&lt;br /&gt;
#ワンダーミヨミヨ&lt;br /&gt;
#引越しよこんにちは&lt;br /&gt;
#MIYONSFORMER&lt;br /&gt;
#美代子の一日&lt;br /&gt;
#Pease Miyo&lt;br /&gt;
#Another Miyo&lt;br /&gt;
#あなたの布団が吹くから&lt;br /&gt;
#ミヨコ→デレ &lt;br /&gt;
#ミヨコは大変なものを盗んでいきました &lt;br /&gt;
#最終鬼畜女ミヨコ・K &lt;br /&gt;
#河原神社町内会騒音音頭 &lt;br /&gt;
#行列のできるミヨコ引越しセンター &lt;br /&gt;
#ハレ晴レミヨコ（お天道様も!） &lt;br /&gt;
#雪、騒音、窓辺にて引っ越し &lt;br /&gt;
#恋のmiyoco伝説 &lt;br /&gt;
#ラジカセに胸キュン?~浮気なソニー~（YMO「君に胸キュン」のカバー） &lt;br /&gt;
#HICK O SAY! ~SOUL TO SOUL~ (オリコン最高２位、実売８５万枚を突破、着歌ダウンロード、１位） &lt;br /&gt;
#しば☆くぞ &lt;br /&gt;
#We Will Hick On Say (feat.Brian May) &lt;br /&gt;
#九時五分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルバム ===&lt;br /&gt;
#Best of Downwiper&lt;br /&gt;
#hikko　C&lt;br /&gt;
#Downwiper&lt;br /&gt;
#Golden Best ～3th Anniversary～&lt;br /&gt;
#抗議の音～執念の渦～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== PV ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;YouTube&amp;gt;&lt;br /&gt;
title=Hip Hop Shit PV&lt;br /&gt;
movie_url=http://www.youtube.com/v/xBybVGPI66w&lt;br /&gt;
embed_source_url=http://www.youtube.com/v/xBybVGPI66w&lt;br /&gt;
wrap = yes&lt;br /&gt;
width=800&lt;br /&gt;
height=700&lt;br /&gt;
&amp;lt;/YouTube&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[キーボードクラッシャー]]…関連項目である理由については[[お察しください]]&lt;br /&gt;
*[[株式会社 Miyoco!]]&lt;br /&gt;
*「[[嫌われ美代子の一生]]」&lt;br /&gt;
*[[VIP先生]]&lt;br /&gt;
*[[友蔵]]&lt;br /&gt;
*[[ムネオハウス]]&lt;br /&gt;
*[[Hip Hop Shit]]&lt;br /&gt;
*[[ヒップホップ王国]]&lt;br /&gt;
*[[下廣夫婦]]&lt;br /&gt;
*[[平群町]]&lt;br /&gt;
*[[塩川正十郎]]&lt;br /&gt;
*[[福澤朗]]&lt;br /&gt;
*[[山田五郎]]&lt;br /&gt;
*[[岡本尚也]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[代々木ゼミナール]] ===&lt;br /&gt;
*[[荻野暢也]]&lt;br /&gt;
*[[亀田和久]]&lt;br /&gt;
*[[吉野敬介]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://mc-miyoco.sakura.ne.jp MIYOCO MUSIC保管所]&lt;br /&gt;
*[http://miyoco.net オフィシャルファンクラブ]&lt;br /&gt;
*[http://miyocoholdings.web.fc2.com/ Miyocoホールディングス株式会社]&lt;br /&gt;
*[http://miyocompany.o-oku.jp/ 株式会社 Miyoco!]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:削除依頼/ある元受刑者|削除依頼/河原美代子]]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:Wikipedia:削除依頼/Miyoco|削除依頼/Miyoco]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Wikipedia:削除依頼/ある被告人の実名及び変名の記載された記事群|削除依頼/ある被告人の実名及び変名の記載された記事群]]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=6r7oDekIfZ8 ゲリラライブの様子]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=3scbvMvt37M ムスカ大佐対河原美代子]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=RqMcFARCs9w Miyocoに対して気違いと発言する塩爺] &lt;br /&gt;
{{アンサイクロペディア}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かわはら みよこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで白紙保護された記事|かわはらみよこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:アソパソマソレコード]]&lt;br /&gt;
[[Category:White Records]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>工藤千江梨</title>
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				<updated>2017-09-03T04:30:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、'''[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜'''であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.1.22.24</name></author>	</entry>

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		<title>工藤千江梨</title>
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				<updated>2017-09-03T04:29:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;220.1.22.24: クズに配慮は必要ない。（先編集権）&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;工藤千江梨(くどうちえり、2002.6.21-)とは、[[青森市立浪岡中学校]]のバスケ部部長であり、[[葛西りま]]さんを嫉妬でいじめや誹謗中傷を行い自殺にまで追い込んだ鬼畜であり、[[浪岡鬼畜シスターズ]]のリーダー、即ち同事件の主犯格者である。元々低成績だった上にこのような前科一犯の人物である為、将来高校・大学への進学は不可能と思われ、就職も困難と見られる為、中学を卒業したらそのままニート生活を送ると見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''当然ながら、キチガイであり一般人との意思疎通は不可能'''である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
2015年3月頃から、当時運動勉強共に得意で成績優秀だった浪岡中の優等生葛西りまさんに対し、嫉妬でいじめを行って以来、他の友人や男子と共謀し、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などで集団で葛西りまさんに対し、個人攻撃・いじめ・リンチを繰り返した挙句、彼女を自殺にまで追い込んだ事件の主犯格であり、人殺しの鬼畜小娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浪岡中史上最悪の人物・青森のSNS弁慶・浪岡中マーダー・21世紀至上最悪のいじめっ子とも言われている。まあ、兎に角問題人物で、浪岡中の一部人物を除いて相当数の人物から恨み嫌われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語録==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[浪岡中学校]]&lt;br /&gt;
*[[クソガキの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{工事中}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:浪岡鬼畜シスターズ]][[カテゴリ:2002年生|屑]][[カテゴリ:青森県在住の人物]][[カテゴリ:青森県出身の人物]][[カテゴリ:浪岡中学校]][[カテゴリ:犯罪者]][[カテゴリ:前科者]][[カテゴリ:犯罪者予備軍]][[カテゴリ:人殺し]][[カテゴリ:蛆虫]][[カテゴリ:キチガイ]][[カテゴリ:DQN]][[カテゴリ:クズ]][[カテゴリ:朝鮮人]][[カテゴリ:在日コリアン]][[カテゴリ:いじめ]][[カテゴリ:いじめの加害者]][[カテゴリ:偏差値の低い人物]][[カテゴリ:ネットビースト]][[カテゴリ:ネット中毒者]][[カテゴリ:ネット恐喝者]][[カテゴリ:ネット犯罪者]][[カテゴリ:インターネット依存症の人物]][[カテゴリ:ネット弁慶]][[カテゴリ:SNS依存症の人物]][[カテゴリ:中二病]][[カテゴリ:羞恥プレイヤー]][[カテゴリ:悪の組織デビルシャドウ]][[カテゴリ:狂人]][[カテゴリ:精神障害の人物]][[カテゴリ:躁病の人物]][[カテゴリ:偏執狂の人物]][[カテゴリ:依存症の人物]][[カテゴリ:被害妄想の人物]][[カテゴリ:精神異常者]][[カテゴリ:人格障害の人物]][[カテゴリ:転落者]][[カテゴリ:社会不適応者]][[カテゴリ:社会復帰途上の人物]][[カテゴリ:対話不能者]][[カテゴリ:決め付け厨]]][[カテゴリ:パラサイト]][[カテゴリ:鬼畜]][[カテゴリ:歪曲マニア]][[カテゴリ:粘着マニア]][[カテゴリ:誹謗中傷マニア]][[カテゴリ:個人攻撃マニア]][[カテゴリ:誣告マニア]][[カテゴリ:烙印マニア]][[カテゴリ:根比べマニア]][[カテゴリ:肥大化マニア]][[カテゴリ:創価学会]][[カテゴリ:幸福の科学]][[カテゴリ:統一教会]][[カテゴリ:ヘイトクライマー]]&lt;/div&gt;</summary>
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