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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=18985</id>
		<title>継体天皇</title>
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				<updated>2007-11-22T05:18:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;211.122.126.234: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''継体天皇'''（'''けいたいてんのう'''、[[允恭天皇]]39年（[[450年]]）? - 継体天皇25年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]（[[531年]][[3月12日]]））は第26代の[[天皇]]（在位：継体天皇元年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]（[[507年]][[3月5日]]） - 同25年2月7日（531年3月12日））。オホド王。継体天皇以降、[[大和]]の勢力と[[越前]]や[[近江]]など北方の豪族の勢力が一体化し、[[ヤマト王権]]の力が国内で強くなった。また[[天皇家]]の系譜として伝わるものは彼以降はほぼ正確であるとされる。しかし継体の出自に関しては諸説ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別名として伝わるのは『[[古事記]]』に'''袁本杼命'''（おおどのみこと）、『[[日本書紀]]』に'''男大迹王'''（おおどのおおきみ）、'''彦太尊'''（ひこふとのみこと）、『[[筑後国風土記]]』[[逸文]]に「'''雄大迹天皇'''（おおどのすめらみこと）」、『[[上宮記]]』逸文に'''乎富等大公王'''（おおどのおおきみ）。なお、隅田八幡宮（[[和歌山県]][[橋本市]]）蔵の[[隅田八幡宮人物画像鏡|人物画像鏡銘]]（[[443年]]説と[[503年]]説）に見える「孚弟王（男弟王?）」は継体天皇を指すとする説がある（詳細は異説にて後述）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生没年 ==&lt;br /&gt;
*推定生年：『古事記』には[[485年]]、『日本書紀』には允恭天皇39年（450年）。&lt;br /&gt;
*推定没年：『古事記』には丁未[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]（[[527年]][[5月26日]]）、『日本書紀』には辛亥2月7日（531年3月12日）または甲寅（[[534年]]）とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は[[応神天皇]]5世の孫であり、父は彦主人王。[[近江国]]高嶋郷三尾野（現在の[[滋賀県]][[高島市]]あたり）で誕生したが幼い時に父を亡くし、母の故郷である[[越前国]]高向（たかむく、現在の[[福井県]][[坂井市]]丸岡町高椋）で成長した。『日本書紀』によれば[[506年]]に[[武烈天皇]]が後嗣定めずして崩御したため、[[連|大連]]（おおむらじ）・[[大伴金村]]らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして[[河内国]]'''樟葉宮'''（くすばのみや）で即位。武烈天皇の姉（妹との説もある）にあたる'''手白香皇女'''（たしらかのひめみこ）を[[皇后]]とした。[[526年]]、大倭（後の[[大和国]]）に都をおいた。その直後、継体は百済救援の軍を送ったが新羅と結んだ磐井により[[九州]]北部で[[九州]]で[[磐井の乱]]が勃発し、その平定に苦心している（磐井の乱については諸説ある）。&amp;lt;br&amp;gt;しかしこの記述が事実とすれば、継体は507年に即位してから大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。[[531年]]に後継を皇子の勾大兄に[[譲位]]（記録上最初の譲位例）し、その即位（[[安閑天皇]]）と同日に[[崩御]]したという。また『日本書紀』は『[[百済本記]]』（「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」）を引いて天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある（「[[辛亥の変]]」説）。また、『古事記』では没年を[[527年]]としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Emperor family tree15-26.png|thumb|right|150px|天皇系図 15～26代]]&lt;br /&gt;
*品太（ほむだ）王の五世（いつせ）の孫（みこ）、袁本杼（をほどの）命、伊波禮（いわれ）の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき（この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の三人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明、安閑、宣化の3天皇である）。この御世に竺紫君石井（いはい）、天皇の命（みこと）に従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲（もののべのあらかひ）の大連（おほむらじ）、大伴の金村（かなむら）の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳（よそじまりみとせ）。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり（『古事記』より。〔〕は分注）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出自を巡る議論 ==&lt;br /&gt;
[[記紀]]によると先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前（[[近江国|近江]]とも）から[[応神天皇]]5世の孫である継体天皇が迎えられ群臣の要請に従って即位したとされるが『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては議論がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記紀の記述を尊重して継体天皇を大王家（[[ヤマト大王|「天皇」号成立]]は7世紀）の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説に対し、戦後、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから継体は従来の大王家とは血縁のない「新[[王朝]]の始祖（初代大王）」とする説（[[水野祐]]「[[三王朝交代説]]」）が提唱され、にわかに有力となった。この説によれば、いわゆる[[万世一系]]は否定され出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まったということである。さらに論を進め、近江の皇別氏族（皇族が臣籍降下して誕生した氏族）[[息長氏]]（おきながうじ）の出身と見なし、[[大和王権]]を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが[[1980年代]]に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が[[推古天皇|推古]]朝に遡る可能性が指摘され（[[黛弘道]]「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年）、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。{{fact}}『上宮記』逸文が載せられている『釈日本紀』の記述内容は「上宮記曰一伝」という文章があり、『上宮記』の作者が別の史料を引用していることが判る。ただ単に継体即位から1世紀後の推古朝の伝承を書いたものではなく、さらに古い資料に基づき系譜を載せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年では継体以前には大王の地位は特定の血縁に固定されなかったとする見解も出されている。つまり、継体を含め祖先の異なる複数の豪族があり、祖先が誰かは分からないという意味である。[[武光誠]]は継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとの見方を紹介している（以下の文献参照）。現在は「王族」「王朝」の概念自体を根本的に問い直す時期に来ていると言えよう。武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇でなく創作との見方が現在では有力であり、応神天皇の実在に関しても諸説ある。また、現在伝わる継体の系譜は事実ではなく信用できるのはせいぜい継体の祖父まであり、それ以前については『上宮記』の成立時点で既に伝説上の人物だった応神天皇を継体の祖先として系譜に持ってきたのみとする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫かどうか不明とする慎重な立場をとる学者も多くいるものの、中央豪族の支持を得て平和裏に即位したとする説が有力である。[[記紀]]の記録も継体以降の系譜は、ある程度信用できるとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Keitaitennou.png|thumb|300px|継体天皇出自系図]]&lt;br /&gt;
[[画像:Emperor family tree26-37.png|thumb|right|300px|天皇系図 26～37代]]&lt;br /&gt;
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫（曾孫の孫）で父は[[彦主人王]]（ひこうしのおおきみ）、母は[[垂仁天皇]]7世孫の振媛（ふりひめ）である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『[[記紀]]』では省略されており、辛うじて[[鎌倉時代]]の『[[釈日本紀]]』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王（ほむたわけのおおきみ・応神天皇） ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子（一名[[意富富杼王|意富富等王]]） ─ [[乎非王]] ─ &amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x6c59;斯王&amp;lt;/span&amp;gt;（=彦主人王） ─ 乎富等大公王（=継体天皇）」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述のとおり議論が分かれているものの原帝紀の編纂（[[欽明天皇|欽明]]朝か）と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*皇后：手白香皇女（たしらかのひめみこ。[[仁賢天皇]]の皇女）&lt;br /&gt;
**天国排開広庭尊（あめくにおしはらきひろにわのみこと。[[欽明天皇]]）&lt;br /&gt;
*妃：目子媛（めのこひめ。尾張連草香の女）&lt;br /&gt;
**勾大兄皇子（まがりのおおえのみこ。[[安閑天皇]]）&lt;br /&gt;
**檜隈高田皇子（ひのくまのたかたのみこ。[[宣化天皇]]）&lt;br /&gt;
*妃：稚子媛（わかこひめ。三尾角折君の妹）&lt;br /&gt;
**大郎皇子（おおいらつこのみこ）&lt;br /&gt;
**出雲皇女（いずものひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：広媛（ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女）&lt;br /&gt;
**神前皇女（かむさきのひめみこ）&lt;br /&gt;
**茨田皇女（まんたのひめみこ）&lt;br /&gt;
**馬来田皇女（うまぐたのひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：麻績娘子（おみのいらつめ、麻組郎女。[[息長真手王]]の女）&lt;br /&gt;
**荳角皇女（ささげのひめみこ）　[[斎宮]]&lt;br /&gt;
*妃：関媛（せきひめ。茨田連小望の女）&lt;br /&gt;
**茨田大娘皇女（まんたのおおいらつめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**白坂活日姫皇女（しらさかのいくひひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**小野稚娘皇女（おののわかいらつめのひめみこ、長石姫）&lt;br /&gt;
*妃：倭媛（やまとひめ。三尾君堅&amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x6972;&amp;lt;/span&amp;gt;の女）&lt;br /&gt;
**大郎子皇女（おおいらつめのひめみこ、大郎女）&lt;br /&gt;
**椀子皇子（まろこのみこ、丸高王）　三国公・三国真人の祖&lt;br /&gt;
**耳皇子（みみのみこ）&lt;br /&gt;
**赤姫皇女（あかひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：&amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x8351;媛&amp;lt;/span&amp;gt;（はえひめ。和珥臣河内の女）&lt;br /&gt;
**稚綾姫皇女（わかやひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**円娘皇女（つぶらのいらつめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**厚皇子（あつのみこ、阿豆王）&lt;br /&gt;
*妃：広媛（ひろひめ。根王の女）&lt;br /&gt;
**菟皇子（うさぎのみこ。記になし）　酒人公の祖（[[能楽]]の[[金剛流]]はこの子孫という）&lt;br /&gt;
**中皇子（なかつみこ。記になし）　坂田公の祖&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 皇居 ==&lt;br /&gt;
:※『日本書紀』に拠る。&lt;br /&gt;
*[[507年]]2月、樟葉宮（くすばのみや、[[大阪府]][[枚方市]]楠葉丘の交野天神社付近が伝承地）で即位。&lt;br /&gt;
*[[511年]]10月、筒城宮（つつきのみや、現在の[[京都府]][[京田辺市]]多々羅都谷か）に遷す。&lt;br /&gt;
*[[518年]]3月、弟国宮（おとくにのみや、現在の京都府[[長岡京市]]今里付近か）に遷す。&lt;br /&gt;
*[[526年]]9月、磐余玉穂宮（いわれのたまほのみや、現在の[[奈良県]][[桜井市]]池之内か）に遷す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったからではないかとする説もあるが、憶説の域を出ない。ただし、この記録が事実ならば継体が大和にいたのは最後の5年のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 異説 ==&lt;br /&gt;
隅田八幡神社旧蔵の[[国宝]]「人物画像鏡」の銘文に''『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』''「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」（判読・解釈には諸説あり）とあり、このように読むと「癸未」を[[503年]]、「男弟王」を（おおと）=男大迹王と解釈出来、継体天皇は癸未=武烈天皇5年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]（503年[[9月18日]]）の時点では大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ継体天皇が畿内勢力の抵抗にあい、長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説も崩れる。また、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は[[百済]]の[[武寧王]]（別名斯麻）のことと思われ、鏡は百済王より継体天皇に贈られた品という見方も出来る。ただ、「古事記」に見える王名「袁本杼（ヲホド）」と鏡の銘文に記された「男弟（ヲオト）」とは6世紀初頭における発音は異なっていたので{{要出典}}、この説は根本部分に無理があるのは否めない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝承 ==&lt;br /&gt;
ゆかりの地である越前はかつて[[湿原]]が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王（おおとのみこ、のちの継体天皇）はこの地を治めると、まず[[足羽山]]に社殿を建て'''大宮地之霊'''（おおみやどころのみたま）を祀りこの地の守護神とした。これが現在の[[足羽神社]]である。次に地形を調査のうえ、大規模な[[治水]]を行い[[九頭竜川]]・[[足羽川]]・[[日野川 (福井県)|日野川]]の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため[[越前平野]]は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ[[稲作]]、[[養蚕]]、[[採石]]、[[製紙]]など様々な産業を発達させた。天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の'''馬来田皇女'''（うまくだのひめみこ）を[[斎主]]としてあとを託したという。このような伝承から'''越前開闢の御祖神'''とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 陵墓 ==&lt;br /&gt;
'''三島藍野陵'''（みしまのあいののみささぎ）に葬られた。&amp;lt;br /&amp;gt;[[宮内庁]]は同陵を大阪府[[茨木市]]太田三丁目の[[太田茶臼山古墳]]（前方後円墳・全長226m）に比定しているが、近年、同府[[高槻市]]郡家新町の'''[[今城塚古墳]]'''（前方後円墳・全長190m）から[[兵馬俑]]の如き[[埴輪]]群が発見され、こちらを継体天皇陵とするのが定説になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 石碑 ==&lt;br /&gt;
[[1847年]]、[[飛騨高山]]の[[国学者]]・[[田中大秀]]の起案を受けて門弟・[[橘曙覧]]、[[池田武万侶]]、[[山口春村]]、足羽神社神主・[[馬来田善包]]らにより'''継体天皇御世系碑'''が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命（御諡 応人天皇） ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子（亦名 意本杼王） ─ 宇斐王 ─ 汙斯王（書記云 彦主人王）─ 袁本杼命（書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇）」と彫り込まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が[[坂井市|三国]]を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在位年と西暦との対照表 ==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;clear:both; border:1px solid #999; margin:0.5em auto; text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|colspan=&amp;quot;11&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#CCCCFF; font-size:90%; border-left:3em soli; font-weight:bold&amp;quot;|'''在位年と西暦との対照表'''&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[507年]]||[[508年]]||[[509年]]||[[510年]]||[[511年]]||[[512年]]||[[513年]]||[[514年]]||[[515年]]||[[516年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]]||[[丙申]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!11年!!12年!!13年!!14年!!15年!!16年!!17年!!18年!!19年!!20年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[517年]]||[[518年]]||[[519年]]||[[520年]]||[[521年]]||[[522年]]||[[523年]]||[[524年]]||[[525年]]||[[526年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁酉]]||[[戊戌]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]]||[[丙午]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!21年!!22年!!23年!!24年!!25年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[527年]]||[[528年]]||[[529年]]||[[530年]]||[[531年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁未]]||[[戊申]]||[[己酉]]||[[庚戌]]||[[辛亥]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*宇治市教育委員会 編『継体王朝の謎 &amp;lt;small&amp;gt;うばわれた王権&amp;lt;/small&amp;gt;』（河出書房新社、1995年） ISBN 978-4-309-22285-1&lt;br /&gt;
*水谷千秋『謎の大王 継体天皇』（文春新書、2001年） ISBN 978-4-16-660192-9&lt;br /&gt;
*武光誠『大和朝廷と天皇家』（平凡社新書、2003年） ISBN 978-4-582-85180-9　&lt;br /&gt;
*NHK大阪今城塚古墳プロジェクト『大王陵発掘! 巨大はにわと継体天皇の謎』（NHK出版、2004年） ISBN 978-4-14-080872-6&lt;br /&gt;
*山中鹿次「継体天皇の即位への背景と大和進出」愛知学院大学文学研究科　文研会紀要4.5号、1994年 ISSN 0917-3633&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[ヤマト王権]]&lt;br /&gt;
*[[磐井の乱]]&lt;br /&gt;
*[[百済]]&lt;br /&gt;
*[[大和]]&lt;br /&gt;
*[[古事記]]&lt;br /&gt;
*[[日本書紀]]&lt;br /&gt;
*[[上宮記]]&lt;br /&gt;
*[[足羽神社]]&lt;br /&gt;
*[[淡墨桜]]&lt;br /&gt;
*[[韓国起源説]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.asuwajinja.jp/index.html 足羽神社公式ホームページ]&lt;br /&gt;
*[http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/index.html 継体大王と越の国・福井県公式ホームページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[天皇の一覧|天皇]]|第26代：507年-531年|[[武烈天皇]]|[[安閑天皇]]}}&lt;br /&gt;
{{歴代天皇一覧}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の天皇|けいたい]]&lt;br /&gt;
[[Category:古墳時代以前の皇族|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:450年生|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:531年没|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:福井県の歴史|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:金石文|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
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	<entry>
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		<title>ヤマト王権</title>
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				<updated>2007-11-22T05:15:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;211.122.126.234: 新しいページ: '7世紀のヤマト王権の勢力図 '''ヤマト王権'''（やまとおうけん）とは古墳時代に[[ヤマト大王|倭...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:yamato_ja.png|200px|thumb|right|7世紀のヤマト王権の勢力図]]&lt;br /&gt;
'''ヤマト王権'''（やまとおうけん）とは[[古墳時代]]に[[ヤマト大王|倭国王]]といくつかの有力[[氏族]]が中心となって成立した王権・政権である。主に[[奈良盆地]]を本拠とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1970年代]]より以前は'''大和朝廷'''と呼ばれることが多かったが、「大和」という表記は[[奈良時代]]以降のものであるとともにこの政治勢力を説明するには「[[朝廷]]」という用語は適当でないとされ、[[1980年代]]以降はヤマト王権の呼称が一般的となっている。しかし、必ずしもこの呼称が定着したわけではなく'''大和政権'''、'''ヤマト政権'''、'''倭国政権'''、'''倭王権'''などの呼称を用いる研究者も少なくない。日本の学習指導要領は大和朝廷を採用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 成立期 ==&lt;br /&gt;
[[弥生時代]]においても[[帥升]]や[[卑弥呼]]などが倭国王として中国の史料に記されているように、[[倭国]]と呼ばれる政治的な結合が存在していた。その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢力による同盟関係だったと推測されている。しかし、奈良盆地に日本列島における最大規模の政治拠点が構築されていたことが[[纏向遺跡]]の発掘により次第に解明されつつある。倭国王・卑弥呼が居住した[[邪馬台国]]の所在地をめぐっては九州説と畿内説とが並立しており結論は出ていないが纏向遺跡は邪馬台国の有力な候補地となっており、仮に纏向遺跡が邪馬台国だったとするとおそくとも弥生時代末期の時点でヤマト王権の原型が形成されていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対して、[[古墳時代]]に入ると規格化された[[前方後円墳]]が奈良盆地に発生し、急速に九州から東北まで普及していることから各地の政治勢力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考えられている。前方後円墳には[[畿内]]から[[吉備国|吉備]]（[[山陽地方|山陽]]）、[[筑紫]]（[[北部九州|北九州]]）など各地の墓制（→[[弥生時代の墓制]]）が採り入れられているため、これらの地域勢力が連合し統一的な政治勢力となったことの反映だとされている。最初の前方後円墳は[[3世紀]]前葉～中葉に出現しているのでヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階（プレ・ヤマト王権）だったとする見解もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各地域の勢力が連合してヤマト王権となっていく過程はまだ解明されていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治勢力（邪馬台国）が各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と連合してヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。遅くとも3世紀中ばまでにヤマト・吉備・筑紫などの諸勢力が糾合し、初期ヤマト王権が形成されたと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤマト王権の王統についても複数説が提出されている。卑弥呼－[[壱与]]の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期ごろにミマキイリヒコ（[[崇神天皇]]）が新たな王統を開始したとする説などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 展開期 ==&lt;br /&gt;
前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内～瀬戸内海沿岸（[[吉備国|吉備]]など）～北九州（[[筑紫]]など）に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北（仙台平野・会津地方など）から南九州（日向・大隅など）まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期と前後して4世紀中葉（[[350年]]頃）からヤマト王権（倭国）は朝鮮半島との交易を開始した。当時の倭国には製鉄技術がなく、[[朝鮮半島]]から鉄原料を輸入した。朝鮮半島の[[任那]]（[[伽耶|加羅]]）は[[鉄]]の産地だった。輸入した鉄資源をもとに鍬・鋤などの農業用鉄製品が製造され、農業技術の革新・開墾の活発化などが起こり4世紀後葉から[[5世紀]]にかけて倭国の農業生産力は大きく向上した。これにより、経済力をつけたヤマト王権は鉄資源を求めて朝鮮半島へ経済的・軍事的に進出し始めた。ヤマト王権（倭国）は[[百済]]と連携して朝鮮半島南部への出兵を頻繁に展開し、このことは[[高句麗]]が遺した[[広開土王碑]]にも記述されている。ヤマト王権と朝鮮半島諸国との交易が活発化した背景には、北方の[[高句麗]]から圧迫を受けつつあった百済が対抗のために近隣諸国（[[新羅]]・加羅諸国）と連携を強めていたことが挙げられる。この結果、ヤマト王権（倭国）と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化したのである。ヤマト王権が東北から南九州まで全国的に展開したことは、この朝鮮半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト（[[奈良盆地]]）に営まれていたが、それ以降は[[河内平野]]に築かれることが多くなった。このことから王権の基盤がヤマトから[[河内国|河内]]へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説（[[王朝交替説|河内王朝説]]）、などが提出されている。[[日本書紀]]の記述などから少なくともオオササギ王（[[仁徳天皇]]）は[[大阪|難波]]に本拠を置き河内平野を開発したことが判っており、当時の河川改修痕跡（[[難波の堀江]]）や堤防痕跡（[[茨田堤]]）も残存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5世紀に入ると、マト王権の王は中国王朝へ[[朝貢]]を始めた。修貢して倭国王に[[冊封]]された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は[[倭の五王]]と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国（[[任那]]・[[伽耶|加羅]]）に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられている。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト（倭国）へ貢献した。[[渡来人]]（[[帰化人]]）は[[養蚕]]、[[機織り]]、[[陶磁器|製陶]]、建築などの先進技術や『[[論語]]』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマト（倭国）へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地の豪族たちを徐々に組織化していくとともに（[[部民制]]の形成）中央の豪族層を[[大臣]]・[[連|大連]]を頂点として系列化していった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とする政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この期間のヤマト王権（ヤマト政権）を代表するのがワカタケル王（[[雄略天皇]]）である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤマト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転換期 ==&lt;br /&gt;
そうしたワカタケル王の努力に関わらず5世紀後半から[[6世紀]]前半にかけて王統が数回断絶し、中国王朝との通交も途絶した。5世紀後半の[[475年]]、高句麗の南下によって百済は南方へ移動したが、この事件は百済と友好関係にあったヤマト王権（倭国）にも経済的・政治的な影響を与えた。ヤマト王権は百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済基盤・政治基盤を築いていたが、半島における百済勢力の後退によりヤマト王権が保持していた半島南部の基盤が弱体化し、このことが鉄資源の輸入減少をもたらした。そのためヤマト（倭国）内の農業開発が停滞し、ヤマト王権とその傘下の豪族達の経済力・政治力が後退したと考えられており、6世紀前半までのヤマト王統の混乱はこの経済力・政治力の後退に起因するとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした中で6世紀前期に[[近江]]から[[北陸]]にかけての首長層を背景としたオホド王（[[継体天皇]]）が現れヤマト王統を統一した。オホド王の治世には北九州の有力豪族である[[筑紫君磐井]]が[[新羅]]と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした（[[磐井の乱]]）がすぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなった。またオホド王の登場以降、東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がなされたとする見解がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後ヤマト王権は対外指向が弱まり、内向性が強くなった。朝鮮半島から[[暦法]]など様々な文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。又、王族や有力豪族の間で紛争が多数発生するようにもなった。こうした中で6世紀末、幾つかの紛争に勝利した[[推古天皇]]、[[聖徳太子]]、[[蘇我馬子]]らは強固な政治基盤を築きあげ、[[冠位十二階]]や[[十七条憲法]]の制定など官僚制を柱とする王権の革新を積極的に進めた。これによりヤマト王権という政治形態は解消され、古代ヤマト国家が形成されていくこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 王号 ==&lt;br /&gt;
ヤマト王権の王は中国王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中国王朝と異なる別の[[天下]]であるという[[小中華主義]]意識が生まれていたことの表れだと評価されている。&lt;br /&gt;
*（詳細は→[[ヤマト大王]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ヤマトの範囲 ==&lt;br /&gt;
元々ヤマトの範囲は奈良盆地東南部つまり[[天理市]]南部から[[桜井市]]北部の東辺の地であったと推測されている。そこには[[三輪山]]山麓部の[[纏向遺跡|纏向古墳群]]には最古級の[[前方後円墳]]である[[箸墓古墳]]があり、また[[天理市]]の南部に所在する初期ヤマト政権の大王の墓を含むと推測されている[[大和古墳群|大和・柳本古墳群]]がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平安時代]]初期に編集された『[[和名抄]]』に、[[大和国]][[城下郡]]に大和郷（於保夜末止）が記されている。その地は[[大和神社]]の付近と推測でき、もとはその周辺をヤマトといったのに始まるのではないかと考える人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その地域を根拠地として政権が成立したことから、その政治勢力（王権）をヤマト政権と呼ぶようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、ヤマトは奈良盆地全体を指すこともあった。その後、ヤマト王権の支配権が及ぶ範囲をヤマトと呼ぶようになった。&lt;br /&gt;
*（詳細は→[[大和]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 異説・俗説 ==&lt;br /&gt;
[[7世紀]]末まで日本列島を代表する政権は九州にありヤマト王権は一地方政権に過ぎなかったとする説もあるが、考古学的な根拠が皆無であり学術研究の立場からは無視されている。（→[[九州王朝説]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ヤマト王権をめぐって主として愛好家により日本神話や記紀編年の自由な解釈に基づく「謎解き」に類する説が多く主張されているが、そのほぼ全ては[[史料批判]]を満たしていないものであり学問的価値に乏しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*網野善彦、『日本社会の歴史（上）』、岩波新書、1997年、ISBN 4004305004&lt;br /&gt;
*吉村武彦編、『古代史の基礎知識』角川選書、2005年、ISBN 4047033731&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[古墳時代]]&lt;br /&gt;
*[[飛鳥時代]]&lt;br /&gt;
*[[ヤマト大王]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:古墳時代|やまとおうけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良県の歴史|やまとおうけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の皇室|やまとおうけん]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>211.122.126.234</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=18983</id>
		<title>継体天皇</title>
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				<updated>2007-11-22T05:14:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;211.122.126.234: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''継体天皇'''（'''けいたいてんのう'''、[[允恭天皇]]39年（[[450年]]）? - 継体天皇25年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]（[[531年]][[3月10日]]））は第26代の[[天皇]]（在位：継体天皇元年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]（[[507年]][[3月5日]]） - 同25年2月7日（531年3月12日））。オホド王。継体天皇以降、[[大和]]の勢力と[[越前]]や[[近江]]など北方の豪族の勢力が一体化し、[[ヤマト王権]]の力が国内で強くなった。また[[天皇家]]の系譜として伝わるものは彼以降はほぼ正確であるとされる。しかし継体の出自に関しては諸説ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別名として伝わるのは『[[古事記]]』に'''袁本杼命'''（おおどのみこと）、『[[日本書紀]]』に'''男大迹王'''（おおどのおおきみ）、'''彦太尊'''（ひこふとのみこと）、『[[筑後国風土記]]』[[逸文]]に「'''雄大迹天皇'''（おおどのすめらみこと）」、『[[上宮記]]』逸文に'''乎富等大公王'''（おおどのおおきみ）。なお、隅田八幡宮（[[和歌山県]][[橋本市]]）蔵の[[隅田八幡宮人物画像鏡|人物画像鏡銘]]（[[443年]]説と[[503年]]説）に見える「孚弟王（男弟王?）」は継体天皇を指すとする説がある（詳細は異説にて後述）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生没年 ==&lt;br /&gt;
*推定生年：『古事記』には[[485年]]、『日本書紀』には允恭天皇39年（450年）。&lt;br /&gt;
*推定没年：『古事記』には丁未[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]（[[527年]][[5月26日]]）、『日本書紀』には辛亥2月7日（531年3月12日）または甲寅（[[534年]]）とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は[[応神天皇]]5世の孫であり、父は彦主人王。[[近江国]]高嶋郷三尾野（現在の[[滋賀県]][[高島市]]あたり）で誕生したが幼い時に父を亡くし、母の故郷である[[越前国]]高向（たかむく、現在の[[福井県]][[坂井市]]丸岡町高椋）で成長した。『日本書紀』によれば[[506年]]に[[武烈天皇]]が後嗣定めずして崩御したため、[[連|大連]]（おおむらじ）・[[大伴金村]]らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして[[河内国]]'''樟葉宮'''（くすばのみや）で即位。武烈天皇の姉（妹との説もある）にあたる'''手白香皇女'''（たしらかのひめみこ）を[[皇后]]とした。[[526年]]、大倭（後の[[大和国]]）に都をおいた。その直後、継体は百済救援の軍を送ったが新羅と結んだ磐井により[[九州]]北部で[[九州]]で[[磐井の乱]]が勃発し、その平定に苦心している（磐井の乱については諸説ある）。&amp;lt;br&amp;gt;しかしこの記述が事実とすれば、継体は507年に即位してから大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。[[531年]]に後継を皇子の勾大兄に[[譲位]]（記録上最初の譲位例）し、その即位（[[安閑天皇]]）と同日に[[崩御]]したという。また『日本書紀』は『[[百済本記]]』（「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」）を引いて天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある（「[[辛亥の変]]」説）。また、『古事記』では没年を[[527年]]としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Emperor family tree15-26.png|thumb|right|150px|天皇系図 15～26代]]&lt;br /&gt;
*品太（ほむだ）王の五世（いつせ）の孫（みこ）、袁本杼（をほどの）命、伊波禮（いわれ）の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき（この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の三人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明、安閑、宣化の3天皇である）。この御世に竺紫君石井（いはい）、天皇の命（みこと）に従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲（もののべのあらかひ）の大連（おほむらじ）、大伴の金村（かなむら）の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳（よそじまりみとせ）。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり（『古事記』より。〔〕は分注）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出自を巡る議論 ==&lt;br /&gt;
[[記紀]]によると先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前（[[近江国|近江]]とも）から[[応神天皇]]5世の孫である継体天皇が迎えられ群臣の要請に従って即位したとされるが『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては議論がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記紀の記述を尊重して継体天皇を大王家（[[ヤマト大王|「天皇」号成立]]は7世紀）の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説に対し、戦後、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから継体は従来の大王家とは血縁のない「新[[王朝]]の始祖（初代大王）」とする説（[[水野祐]]「[[三王朝交代説]]」）が提唱され、にわかに有力となった。この説によれば、いわゆる[[万世一系]]は否定され出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まったということである。さらに論を進め、近江の皇別氏族（皇族が臣籍降下して誕生した氏族）[[息長氏]]（おきながうじ）の出身と見なし、[[大和王権]]を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが[[1980年代]]に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が[[推古天皇|推古]]朝に遡る可能性が指摘され（[[黛弘道]]「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年）、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。{{fact}}『上宮記』逸文が載せられている『釈日本紀』の記述内容は「上宮記曰一伝」という文章があり、『上宮記』の作者が別の史料を引用していることが判る。ただ単に継体即位から1世紀後の推古朝の伝承を書いたものではなく、さらに古い資料に基づき系譜を載せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年では継体以前には大王の地位は特定の血縁に固定されなかったとする見解も出されている。つまり、継体を含め祖先の異なる複数の豪族があり、祖先が誰かは分からないという意味である。[[武光誠]]は継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとの見方を紹介している（以下の文献参照）。現在は「王族」「王朝」の概念自体を根本的に問い直す時期に来ていると言えよう。武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇でなく創作との見方が現在では有力であり、応神天皇の実在に関しても諸説ある。また、現在伝わる継体の系譜は事実ではなく信用できるのはせいぜい継体の祖父まであり、それ以前については『上宮記』の成立時点で既に伝説上の人物だった応神天皇を継体の祖先として系譜に持ってきたのみとする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫かどうか不明とする慎重な立場をとる学者も多くいるものの、中央豪族の支持を得て平和裏に即位したとする説が有力である。[[記紀]]の記録も継体以降の系譜は、ある程度信用できるとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Keitaitennou.png|thumb|300px|継体天皇出自系図]]&lt;br /&gt;
[[画像:Emperor family tree26-37.png|thumb|right|300px|天皇系図 26～37代]]&lt;br /&gt;
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫（曾孫の孫）で父は[[彦主人王]]（ひこうしのおおきみ）、母は[[垂仁天皇]]7世孫の振媛（ふりひめ）である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『[[記紀]]』では省略されており、辛うじて[[鎌倉時代]]の『[[釈日本紀]]』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王（ほむたわけのおおきみ・応神天皇） ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子（一名[[意富富杼王|意富富等王]]） ─ [[乎非王]] ─ &amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x6c59;斯王&amp;lt;/span&amp;gt;（=彦主人王） ─ 乎富等大公王（=継体天皇）」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述のとおり議論が分かれているものの原帝紀の編纂（[[欽明天皇|欽明]]朝か）と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*皇后：手白香皇女（たしらかのひめみこ。[[仁賢天皇]]の皇女）&lt;br /&gt;
**天国排開広庭尊（あめくにおしはらきひろにわのみこと。[[欽明天皇]]）&lt;br /&gt;
*妃：目子媛（めのこひめ。尾張連草香の女）&lt;br /&gt;
**勾大兄皇子（まがりのおおえのみこ。[[安閑天皇]]）&lt;br /&gt;
**檜隈高田皇子（ひのくまのたかたのみこ。[[宣化天皇]]）&lt;br /&gt;
*妃：稚子媛（わかこひめ。三尾角折君の妹）&lt;br /&gt;
**大郎皇子（おおいらつこのみこ）&lt;br /&gt;
**出雲皇女（いずものひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：広媛（ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女）&lt;br /&gt;
**神前皇女（かむさきのひめみこ）&lt;br /&gt;
**茨田皇女（まんたのひめみこ）&lt;br /&gt;
**馬来田皇女（うまぐたのひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：麻績娘子（おみのいらつめ、麻組郎女。[[息長真手王]]の女）&lt;br /&gt;
**荳角皇女（ささげのひめみこ）　[[斎宮]]&lt;br /&gt;
*妃：関媛（せきひめ。茨田連小望の女）&lt;br /&gt;
**茨田大娘皇女（まんたのおおいらつめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**白坂活日姫皇女（しらさかのいくひひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**小野稚娘皇女（おののわかいらつめのひめみこ、長石姫）&lt;br /&gt;
*妃：倭媛（やまとひめ。三尾君堅&amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x6972;&amp;lt;/span&amp;gt;の女）&lt;br /&gt;
**大郎子皇女（おおいらつめのひめみこ、大郎女）&lt;br /&gt;
**椀子皇子（まろこのみこ、丸高王）　三国公・三国真人の祖&lt;br /&gt;
**耳皇子（みみのみこ）&lt;br /&gt;
**赤姫皇女（あかひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：&amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x8351;媛&amp;lt;/span&amp;gt;（はえひめ。和珥臣河内の女）&lt;br /&gt;
**稚綾姫皇女（わかやひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**円娘皇女（つぶらのいらつめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**厚皇子（あつのみこ、阿豆王）&lt;br /&gt;
*妃：広媛（ひろひめ。根王の女）&lt;br /&gt;
**菟皇子（うさぎのみこ。記になし）　酒人公の祖（[[能楽]]の[[金剛流]]はこの子孫という）&lt;br /&gt;
**中皇子（なかつみこ。記になし）　坂田公の祖&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 皇居 ==&lt;br /&gt;
:※『日本書紀』に拠る。&lt;br /&gt;
*[[507年]]2月、樟葉宮（くすばのみや、[[大阪府]][[枚方市]]楠葉丘の交野天神社付近が伝承地）で即位。&lt;br /&gt;
*[[511年]]10月、筒城宮（つつきのみや、現在の[[京都府]][[京田辺市]]多々羅都谷か）に遷す。&lt;br /&gt;
*[[518年]]3月、弟国宮（おとくにのみや、現在の京都府[[長岡京市]]今里付近か）に遷す。&lt;br /&gt;
*[[526年]]9月、磐余玉穂宮（いわれのたまほのみや、現在の[[奈良県]][[桜井市]]池之内か）に遷す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったからではないかとする説もあるが、憶説の域を出ない。ただし、この記録が事実ならば継体が大和にいたのは最後の5年のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 異説 ==&lt;br /&gt;
隅田八幡神社旧蔵の[[国宝]]「人物画像鏡」の銘文に''『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』''「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」（判読・解釈には諸説あり）とあり、このように読むと「癸未」を[[503年]]、「男弟王」を（おおと）=男大迹王と解釈出来、継体天皇は癸未=武烈天皇5年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]（503年[[9月18日]]）の時点では大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ継体天皇が畿内勢力の抵抗にあい、長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説も崩れる。また、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は[[百済]]の[[武寧王]]（別名斯麻）のことと思われ、鏡は百済王より継体天皇に贈られた品という見方も出来る。ただ、「古事記」に見える王名「袁本杼（ヲホド）」と鏡の銘文に記された「男弟（ヲオト）」とは6世紀初頭における発音は異なっていたので{{要出典}}、この説は根本部分に無理があるのは否めない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝承 ==&lt;br /&gt;
ゆかりの地である越前はかつて[[湿原]]が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王（おおとのみこ、のちの継体天皇）はこの地を治めると、まず[[足羽山]]に社殿を建て'''大宮地之霊'''（おおみやどころのみたま）を祀りこの地の守護神とした。これが現在の[[足羽神社]]である。次に地形を調査のうえ、大規模な[[治水]]を行い[[九頭竜川]]・[[足羽川]]・[[日野川 (福井県)|日野川]]の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため[[越前平野]]は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ[[稲作]]、[[養蚕]]、[[採石]]、[[製紙]]など様々な産業を発達させた。天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の'''馬来田皇女'''（うまくだのひめみこ）を[[斎主]]としてあとを託したという。このような伝承から'''越前開闢の御祖神'''とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 陵墓 ==&lt;br /&gt;
'''三島藍野陵'''（みしまのあいののみささぎ）に葬られた。&amp;lt;br /&amp;gt;[[宮内庁]]は同陵を大阪府[[茨木市]]太田三丁目の[[太田茶臼山古墳]]（前方後円墳・全長226m）に比定しているが、近年、同府[[高槻市]]郡家新町の'''[[今城塚古墳]]'''（前方後円墳・全長190m）から[[兵馬俑]]の如き[[埴輪]]群が発見され、こちらを継体天皇陵とするのが定説になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 石碑 ==&lt;br /&gt;
[[1847年]]、[[飛騨高山]]の[[国学者]]・[[田中大秀]]の起案を受けて門弟・[[橘曙覧]]、[[池田武万侶]]、[[山口春村]]、足羽神社神主・[[馬来田善包]]らにより'''継体天皇御世系碑'''が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命（御諡 応人天皇） ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子（亦名 意本杼王） ─ 宇斐王 ─ 汙斯王（書記云 彦主人王）─ 袁本杼命（書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇）」と彫り込まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が[[坂井市|三国]]を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在位年と西暦との対照表 ==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;clear:both; border:1px solid #999; margin:0.5em auto; text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|colspan=&amp;quot;11&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#CCCCFF; font-size:90%; border-left:3em soli; font-weight:bold&amp;quot;|'''在位年と西暦との対照表'''&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[507年]]||[[508年]]||[[509年]]||[[510年]]||[[511年]]||[[512年]]||[[513年]]||[[514年]]||[[515年]]||[[516年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]]||[[丙申]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!11年!!12年!!13年!!14年!!15年!!16年!!17年!!18年!!19年!!20年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[517年]]||[[518年]]||[[519年]]||[[520年]]||[[521年]]||[[522年]]||[[523年]]||[[524年]]||[[525年]]||[[526年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁酉]]||[[戊戌]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]]||[[丙午]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!21年!!22年!!23年!!24年!!25年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[527年]]||[[528年]]||[[529年]]||[[530年]]||[[531年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁未]]||[[戊申]]||[[己酉]]||[[庚戌]]||[[辛亥]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*宇治市教育委員会 編『継体王朝の謎 &amp;lt;small&amp;gt;うばわれた王権&amp;lt;/small&amp;gt;』（河出書房新社、1995年） ISBN 978-4-309-22285-1&lt;br /&gt;
*水谷千秋『謎の大王 継体天皇』（文春新書、2001年） ISBN 978-4-16-660192-9&lt;br /&gt;
*武光誠『大和朝廷と天皇家』（平凡社新書、2003年） ISBN 978-4-582-85180-9　&lt;br /&gt;
*NHK大阪今城塚古墳プロジェクト『大王陵発掘! 巨大はにわと継体天皇の謎』（NHK出版、2004年） ISBN 978-4-14-080872-6&lt;br /&gt;
*山中鹿次「継体天皇の即位への背景と大和進出」愛知学院大学文学研究科　文研会紀要4.5号、1994年 ISSN 0917-3633&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[ヤマト王権]]&lt;br /&gt;
*[[磐井の乱]]&lt;br /&gt;
*[[百済]]&lt;br /&gt;
*[[大和]]&lt;br /&gt;
*[[古事記]]&lt;br /&gt;
*[[日本書紀]]&lt;br /&gt;
*[[上宮記]]&lt;br /&gt;
*[[足羽神社]]&lt;br /&gt;
*[[淡墨桜]]&lt;br /&gt;
*[[韓国起源説]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.asuwajinja.jp/index.html 足羽神社公式ホームページ]&lt;br /&gt;
*[http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/index.html 継体大王と越の国・福井県公式ホームページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[天皇の一覧|天皇]]|第26代：507年-531年|[[武烈天皇]]|[[安閑天皇]]}}&lt;br /&gt;
{{歴代天皇一覧}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の天皇|けいたい]]&lt;br /&gt;
[[Category:古墳時代以前の皇族|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:450年生|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:531年没|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:福井県の歴史|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:金石文|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>211.122.126.234</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=18982</id>
		<title>継体天皇</title>
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				<updated>2007-11-22T02:25:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;211.122.126.234: 新しいページ: ''''継体天皇'''（'''けいたいてんのう'''、允恭天皇39年（450年）? - 継体天皇25年2月7日（531年3月10日））...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''継体天皇'''（'''けいたいてんのう'''、[[允恭天皇]]39年（[[450年]]）? - 継体天皇25年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]（[[531年]][[3月10日]]））は第26代の[[天皇]]（在位：継体天皇元年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]（[[507年]][[3月5日]]） - 同25年2月7日（531年3月12日））。オホド王。継体天皇以降、[[大和]]の勢力と[[越前]]や[[近江]]など北方の豪族の勢力が一体化し、[[ヤマト王権]]の力が国内で強くなった。また[[天皇家]]の系譜として伝わるものは彼以降はほぼ正確であるとされる。しかし継体の出自に関しては諸説ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別名として伝わるのは『[[古事記]]』に'''袁本杼命'''（おおどのみこと）、『[[日本書紀]]』に'''男大迹王'''（おおどのおおきみ）、'''彦太尊'''（ひこふとのみこと）、『[[筑後国風土記]]』[[逸文]]に「'''雄大迹天皇'''（おおどのすめらみこと）」、『[[上宮記]]』逸文に'''乎富等大公王'''（おおどのおおきみ）。なお、隅田八幡宮（[[和歌山県]][[橋本市]]）蔵の[[隅田八幡宮人物画像鏡|人物画像鏡銘]]（[[443年]]説と[[503年]]説）に見える「孚弟王（男弟王?）」は継体天皇を指すとする説がある（詳細は異説にて後述）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生没年 ==&lt;br /&gt;
*推定生年：『古事記』には[[485年]]、『日本書紀』には允恭天皇39年（450年）。&lt;br /&gt;
*推定没年：『古事記』には丁未[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]（[[527年]][[5月26日]]）、『日本書紀』には辛亥2月7日（531年3月12日）または甲寅（[[534年]]）とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は[[応神天皇]]5世の孫であり、父は彦主人王。[[近江国]]高嶋郷三尾野（現在の[[滋賀県]][[高島市]]あたり）で誕生したが幼い時に父を亡くし、母の故郷である[[越前国]]高向（たかむく、現在の[[福井県]][[坂井市]]丸岡町高椋）で成長した。『日本書紀』によれば[[506年]]に[[武烈天皇]]が後嗣定めずして崩御したため、[[連|大連]]（おおむらじ）・[[大伴金村]]らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして[[河内国]]'''樟葉宮'''（くすばのみや）で即位。武烈天皇の姉（妹との説もある）にあたる'''手白香皇女'''（たしらかのひめみこ）を[[皇后]]とした。[[526年]]、大倭（後の[[大和国]]）に都をおいた。その直後、継体は百済救援の軍を送ったが新羅と結んだ磐井により[[九州]]北部で[[九州]]で[[磐井の乱]]が勃発し、その平定に苦心している（磐井の乱については諸説ある）。&amp;lt;br&amp;gt;しかしこの記述が事実とすれば、継体は507年に即位してから大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。[[531年]]に後継を皇子の勾大兄に[[譲位]]（記録上最初の譲位例）し、その即位（[[安閑天皇]]）と同日に[[崩御]]したという。また『日本書紀』は『[[百済本記]]』（「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」）を引いて天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある（「[[辛亥の変]]」説）。また、『古事記』では没年を[[527年]]としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Emperor family tree15-26.png|thumb|right|150px|天皇系図 15～26代]]&lt;br /&gt;
*品太（ほむだ）王の五世（いつせ）の孫（みこ）、袁本杼（をほどの）命、伊波禮（いわれ）の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき（この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の三人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明、安閑、宣化の3天皇である）。この御世に竺紫君石井（いはい）、天皇の命（みこと）に従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲（もののべのあらかひ）の大連（おほむらじ）、大伴の金村（かなむら）の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳（よそじまりみとせ）。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり（『古事記』より。〔〕は分注）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出自を巡る議論 ==&lt;br /&gt;
[[記紀]]によると先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前（[[近江国|近江]]とも）から[[応神天皇]]5世の孫である継体天皇が迎えられ群臣の要請に従って即位したとされるが『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては議論がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記紀の記述を尊重して継体天皇を大王家（[[ヤマト大王|「天皇」号成立]]は7世紀）の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説に対し、戦後、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから継体は従来の大王家とは血縁のない「新[[王朝]]の始祖（初代大王）」とする説（[[水野祐]]「[[三王朝交代説]]」）が提唱され、にわかに有力となった。この説によれば、いわゆる[[万世一系]]は否定され出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まったということである。さらに論を進め、近江の皇別氏族（皇族が臣籍降下して誕生した氏族）[[息長氏]]（おきながうじ）の出身と見なし、[[大和王権]]を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが[[1980年代]]に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が[[推古天皇|推古]]朝に遡る可能性が指摘され（[[黛弘道]]「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年）、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。{{fact}}『上宮記』逸文が載せられている『釈日本紀』の記述内容は「上宮記曰一伝」という文章があり、『上宮記』の作者が別の史料を引用していることが判る。ただ単に継体即位から1世紀後の推古朝の伝承を書いたものではなく、さらに古い資料に基づき系譜を載せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年では継体以前には大王の地位は特定の血縁に固定されなかったとする見解も出されている。つまり、継体を含め祖先の異なる複数の豪族があり、祖先が誰かは分からないという意味である。[[武光誠]]は継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとの見方を紹介している（以下の文献参照）。現在は「王族」「王朝」の概念自体を根本的に問い直す時期に来ていると言えよう。武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇でなく創作との見方が現在では有力であり、応神天皇の実在に関しても諸説ある。また、現在伝わる継体の系譜は事実ではなく信用できるのはせいぜい継体の祖父まであり、それ以前については『上宮記』の成立時点で既に伝説上の人物だった応神天皇を継体の祖先として系譜に持ってきたのみとする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫かどうか不明とする慎重な立場をとる学者も多くいるものの、中央豪族の支持を得て平和裏に即位したとする説が有力である。[[記紀]]の記録も継体以降の系譜は、ある程度信用できるとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Keitaitennou.png|thumb|300px|継体天皇出自系図]]&lt;br /&gt;
[[画像:Emperor family tree26-37.png|thumb|right|300px|天皇系図 26～37代]]&lt;br /&gt;
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫（曾孫の孫）で父は[[彦主人王]]（ひこうしのおおきみ）、母は[[垂仁天皇]]7世孫の振媛（ふりひめ）である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『[[記紀]]』では省略されており、辛うじて[[鎌倉時代]]の『[[釈日本紀]]』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王（ほむたわけのおおきみ・応神天皇） ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子（一名[[意富富杼王|意富富等王]]） ─ [[乎非王]] ─ &amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x6c59;斯王&amp;lt;/span&amp;gt;（=彦主人王） ─ 乎富等大公王（=継体天皇）」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述のとおり議論が分かれているものの原帝紀の編纂（[[欽明天皇|欽明]]朝か）と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*皇后：手白香皇女（たしらかのひめみこ。[[仁賢天皇]]の皇女）&lt;br /&gt;
**天国排開広庭尊（あめくにおしはらきひろにわのみこと。[[欽明天皇]]）&lt;br /&gt;
*妃：目子媛（めのこひめ。尾張連草香の女）&lt;br /&gt;
**勾大兄皇子（まがりのおおえのみこ。[[安閑天皇]]）&lt;br /&gt;
**檜隈高田皇子（ひのくまのたかたのみこ。[[宣化天皇]]）&lt;br /&gt;
*妃：稚子媛（わかこひめ。三尾角折君の妹）&lt;br /&gt;
**大郎皇子（おおいらつこのみこ）&lt;br /&gt;
**出雲皇女（いずものひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：広媛（ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女）&lt;br /&gt;
**神前皇女（かむさきのひめみこ）&lt;br /&gt;
**茨田皇女（まんたのひめみこ）&lt;br /&gt;
**馬来田皇女（うまぐたのひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：麻績娘子（おみのいらつめ、麻組郎女。[[息長真手王]]の女）&lt;br /&gt;
**荳角皇女（ささげのひめみこ）　[[斎宮]]&lt;br /&gt;
*妃：関媛（せきひめ。茨田連小望の女）&lt;br /&gt;
**茨田大娘皇女（まんたのおおいらつめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**白坂活日姫皇女（しらさかのいくひひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**小野稚娘皇女（おののわかいらつめのひめみこ、長石姫）&lt;br /&gt;
*妃：倭媛（やまとひめ。三尾君堅&amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x6972;&amp;lt;/span&amp;gt;の女）&lt;br /&gt;
**大郎子皇女（おおいらつめのひめみこ、大郎女）&lt;br /&gt;
**椀子皇子（まろこのみこ、丸高王）　三国公・三国真人の祖&lt;br /&gt;
**耳皇子（みみのみこ）&lt;br /&gt;
**赤姫皇女（あかひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
*妃：&amp;lt;span lang=&amp;quot;zh&amp;quot;&amp;gt;&amp;amp;#x8351;媛&amp;lt;/span&amp;gt;（はえひめ。和珥臣河内の女）&lt;br /&gt;
**稚綾姫皇女（わかやひめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**円娘皇女（つぶらのいらつめのひめみこ）&lt;br /&gt;
**厚皇子（あつのみこ、阿豆王）&lt;br /&gt;
*妃：広媛（ひろひめ。根王の女）&lt;br /&gt;
**菟皇子（うさぎのみこ。記になし）　酒人公の祖（[[能楽]]の[[金剛流]]はこの子孫という）&lt;br /&gt;
**中皇子（なかつみこ。記になし）　坂田公の祖&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 皇居 ==&lt;br /&gt;
:※『日本書紀』に拠る。&lt;br /&gt;
*[[507年]]2月、樟葉宮（くすばのみや、[[大阪府]][[枚方市]]楠葉丘の交野天神社付近が伝承地）で即位。&lt;br /&gt;
*[[511年]]10月、筒城宮（つつきのみや、現在の[[京都府]][[京田辺市]]多々羅都谷か）に遷す。&lt;br /&gt;
*[[518年]]3月、弟国宮（おとくにのみや、現在の京都府[[長岡京市]]今里付近か）に遷す。&lt;br /&gt;
*[[526年]]9月、磐余玉穂宮（いわれのたまほのみや、現在の[[奈良県]][[桜井市]]池之内か）に遷す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったからではないかとする説もあるが、憶説の域を出ない。ただし、この記録が事実ならば継体が大和にいたのは最後の5年のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 異説 ==&lt;br /&gt;
隅田八幡神社旧蔵の[[国宝]]「人物画像鏡」の銘文に''『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』''「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」（判読・解釈には諸説あり）とあり、このように読むと「癸未」を[[503年]]、「男弟王」を（おおと）=男大迹王と解釈出来、継体天皇は癸未=武烈天皇5年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]（503年[[9月18日]]）の時点では大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ継体天皇が畿内勢力の抵抗にあい、長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説も崩れる。また、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は[[百済]]の[[武寧王]]（別名斯麻）のことと思われ、鏡は百済王より継体天皇に贈られた品という見方も出来る。ただ、「古事記」に見える王名「袁本杼（ヲホド）」と鏡の銘文に記された「男弟（ヲオト）」とは6世紀初頭における発音は異なっていたので{{要出典}}、この説は根本部分に無理があるのは否めない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝承 ==&lt;br /&gt;
ゆかりの地である越前はかつて[[湿原]]が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王（おおとのみこ、のちの継体天皇）はこの地を治めると、まず[[足羽山]]に社殿を建て'''大宮地之霊'''（おおみやどころのみたま）を祀りこの地の守護神とした。これが現在の[[足羽神社]]である。次に地形を調査のうえ、大規模な[[治水]]を行い[[九頭竜川]]・[[足羽川]]・[[日野川 (福井県)|日野川]]の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため[[越前平野]]は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ[[稲作]]、[[養蚕]]、[[採石]]、[[製紙]]など様々な産業を発達させた。天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の'''馬来田皇女'''（うまくだのひめみこ）を[[斎主]]としてあとを託したという。このような伝承から'''越前開闢の御祖神'''とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 陵墓 ==&lt;br /&gt;
'''三島藍野陵'''（みしまのあいののみささぎ）に葬られた。&amp;lt;br /&amp;gt;[[宮内庁]]は同陵を大阪府[[茨木市]]太田三丁目の[[太田茶臼山古墳]]（前方後円墳・全長226m）に比定しているが、近年、同府[[高槻市]]郡家新町の'''[[今城塚古墳]]'''（前方後円墳・全長190m）から[[兵馬俑]]の如き[[埴輪]]群が発見され、こちらを継体天皇陵とするのが定説になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 石碑 ==&lt;br /&gt;
[[1847年]]、[[飛騨高山]]の[[国学者]]・[[田中大秀]]の起案を受けて門弟・[[橘曙覧]]、[[池田武万侶]]、[[山口春村]]、足羽神社神主・[[馬来田善包]]らにより'''継体天皇御世系碑'''が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命（御諡 応人天皇） ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子（亦名 意本杼王） ─ 宇斐王 ─ 汙斯王（書記云 彦主人王）─ 袁本杼命（書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇）」と彫り込まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が[[坂井市|三国]]を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在位年と西暦との対照表 ==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;clear:both; border:1px solid #999; margin:0.5em auto; text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|colspan=&amp;quot;11&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#CCCCFF; font-size:90%; border-left:3em soli; font-weight:bold&amp;quot;|'''在位年と西暦との対照表'''&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[507年]]||[[508年]]||[[509年]]||[[510年]]||[[511年]]||[[512年]]||[[513年]]||[[514年]]||[[515年]]||[[516年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]]||[[丙申]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!11年!!12年!!13年!!14年!!15年!!16年!!17年!!18年!!19年!!20年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[517年]]||[[518年]]||[[519年]]||[[520年]]||[[521年]]||[[522年]]||[[523年]]||[[524年]]||[[525年]]||[[526年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁酉]]||[[戊戌]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]]||[[丙午]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!継体天皇!!21年!!22年!!23年!!24年!!25年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[527年]]||[[528年]]||[[529年]]||[[530年]]||[[531年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[丁未]]||[[戊申]]||[[己酉]]||[[庚戌]]||[[辛亥]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*宇治市教育委員会 編『継体王朝の謎 &amp;lt;small&amp;gt;うばわれた王権&amp;lt;/small&amp;gt;』（河出書房新社、1995年） ISBN 978-4-309-22285-1&lt;br /&gt;
*水谷千秋『謎の大王 継体天皇』（文春新書、2001年） ISBN 978-4-16-660192-9&lt;br /&gt;
*武光誠『大和朝廷と天皇家』（平凡社新書、2003年） ISBN 978-4-582-85180-9　&lt;br /&gt;
*NHK大阪今城塚古墳プロジェクト『大王陵発掘! 巨大はにわと継体天皇の謎』（NHK出版、2004年） ISBN 978-4-14-080872-6&lt;br /&gt;
*山中鹿次「継体天皇の即位への背景と大和進出」愛知学院大学文学研究科　文研会紀要4.5号、1994年 ISSN 0917-3633&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[ヤマト王権]]&lt;br /&gt;
*[[磐井の乱]]&lt;br /&gt;
*[[百済]]&lt;br /&gt;
*[[大和]]&lt;br /&gt;
*[[古事記]]&lt;br /&gt;
*[[日本書紀]]&lt;br /&gt;
*[[上宮記]]&lt;br /&gt;
*[[足羽神社]]&lt;br /&gt;
*[[淡墨桜]]&lt;br /&gt;
*[[韓国起源説]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.asuwajinja.jp/index.html 足羽神社公式ホームページ]&lt;br /&gt;
*[http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/index.html 継体大王と越の国・福井県公式ホームページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[天皇の一覧|天皇]]|第26代: 507年-531年|[[武烈天皇]]|[[安閑天皇]]}}&lt;br /&gt;
{{歴代天皇一覧}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の天皇|けいたい]]&lt;br /&gt;
[[Category:古墳時代以前の皇族|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:450年生|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:531年没|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:福井県の歴史|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:金石文|けいたいてんのう]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0; background-color:#f6f6f6; border:1px solid #ccc; padding:3px; font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
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[[Category:先代次代系テンプレート|せんたいしたい]]&amp;lt;/noinclude&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
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|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2; line-height:1.5em&amp;quot;&lt;br /&gt;
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!colspan=&amp;quot;6&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:larger&amp;quot;|'''[[天皇の一覧|歴代天皇一覧]]'''&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[image:Imperial Seal of Japan.svg|30px]] &lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;width:10%&amp;quot;|1 [[神武天皇|神武]]&lt;br /&gt;
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|style=&amp;quot;width:10%&amp;quot;|5 [[孝昭天皇|孝昭]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;width:10%&amp;quot;|6 [[孝安天皇|孝安]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;width:10%&amp;quot;|7 [[孝霊天皇|孝霊]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;width:10%&amp;quot;|8 [[孝元天皇|孝元]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;width:10%&amp;quot;|9 [[開化天皇|開化]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;width:10%&amp;quot;|10 [[崇神天皇|崇神]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|11 [[垂仁天皇|垂仁]]&lt;br /&gt;
|12 [[景行天皇|景行]]&lt;br /&gt;
|13 [[成務天皇|成務]]&lt;br /&gt;
|14 [[仲哀天皇|仲哀]]&lt;br /&gt;
|15 [[応神天皇|応神]]&lt;br /&gt;
|16 [[仁徳天皇|仁徳]]&lt;br /&gt;
|17 [[履中天皇|履中]]&lt;br /&gt;
|18 [[反正天皇|反正]]&lt;br /&gt;
|19 [[允恭天皇|允恭]]&lt;br /&gt;
|20 [[安康天皇|安康]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|21 [[雄略天皇|雄略]]&lt;br /&gt;
|22 [[清寧天皇|清寧]]&lt;br /&gt;
|23 [[顕宗天皇|顕宗]]&lt;br /&gt;
|24 [[仁賢天皇|仁賢]]&lt;br /&gt;
|25 [[武烈天皇|武烈]]&lt;br /&gt;
|26 [[継体天皇|継体]]&lt;br /&gt;
|27 [[安閑天皇|安閑]]&lt;br /&gt;
|28 [[宣化天皇|宣化]]&lt;br /&gt;
|29 [[欽明天皇|欽明]]&lt;br /&gt;
|30 [[敏達天皇|敏達]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|31 [[用明天皇|用明]]&lt;br /&gt;
|32 [[崇峻天皇|崇峻]]&lt;br /&gt;
|33 [[推古天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;推古&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|34 [[舒明天皇|舒明]]&lt;br /&gt;
|35 [[皇極天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;皇極&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|36 [[孝徳天皇|孝徳]]&lt;br /&gt;
|37 [[皇極天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;斉明&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|38 [[天智天皇|天智]]&lt;br /&gt;
|39 [[弘文天皇|弘文]]&lt;br /&gt;
|40 [[天武天皇|天武]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|41 [[持統天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;持統&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|42 [[文武天皇|文武]]&lt;br /&gt;
|43 [[元明天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;元明&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|44 [[元正天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;元正&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|45 [[聖武天皇|聖武]]&lt;br /&gt;
|46 [[孝謙天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;孝謙&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|47 [[淳仁天皇|淳仁]]&lt;br /&gt;
|48 [[孝謙天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;称徳&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|49 [[光仁天皇|光仁]]&lt;br /&gt;
|50 [[桓武天皇|桓武]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|51 [[平城天皇|平城]]&lt;br /&gt;
|52 [[嵯峨天皇|嵯峨]]&lt;br /&gt;
|53 [[淳和天皇|淳和]]&lt;br /&gt;
|54 [[仁明天皇|仁明]]&lt;br /&gt;
|55 [[文徳天皇|文徳]]&lt;br /&gt;
|56 [[清和天皇|清和]]&lt;br /&gt;
|57 [[陽成天皇|陽成]]&lt;br /&gt;
|58 [[光孝天皇|光孝]]&lt;br /&gt;
|59 [[宇多天皇|宇多]]&lt;br /&gt;
|60 [[醍醐天皇|醍醐]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|61 [[朱雀天皇|朱雀]]&lt;br /&gt;
|62 [[村上天皇|村上]]&lt;br /&gt;
|63 [[冷泉天皇|冷泉]]&lt;br /&gt;
|64 [[円融天皇|円融]]&lt;br /&gt;
|65 [[花山天皇|花山]]&lt;br /&gt;
|66 [[一条天皇|一条]]&lt;br /&gt;
|67 [[三条天皇|三条]]&lt;br /&gt;
|68 [[後一条天皇|後一条]]&lt;br /&gt;
|69 [[後朱雀天皇|後朱雀]]&lt;br /&gt;
|70 [[後冷泉天皇|後冷泉]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|71 [[後三条天皇|後三条]]&lt;br /&gt;
|72 [[白河天皇|白河]]&lt;br /&gt;
|73 [[堀河天皇|堀河]]&lt;br /&gt;
|74 [[鳥羽天皇|鳥羽]]&lt;br /&gt;
|75 [[崇徳天皇|崇徳]]&lt;br /&gt;
|76 [[近衛天皇|近衛]]&lt;br /&gt;
|77 [[後白河天皇|後白河]]&lt;br /&gt;
|78 [[二条天皇|二条]]&lt;br /&gt;
|79 [[六条天皇|六条]]&lt;br /&gt;
|80 [[高倉天皇|高倉]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|81 [[安徳天皇|安徳]]&lt;br /&gt;
|82 [[後鳥羽天皇|後鳥羽]]&lt;br /&gt;
|83 [[土御門天皇|土御門]]&lt;br /&gt;
|84 [[順徳天皇|順徳]]&lt;br /&gt;
|85 [[仲恭天皇|仲恭]]&lt;br /&gt;
|86 [[後堀河天皇|後堀河]]&lt;br /&gt;
|87 [[四条天皇|四条]]&lt;br /&gt;
|88 [[後嵯峨天皇|後嵯峨]]&lt;br /&gt;
|89 [[後深草天皇|後深草]]&lt;br /&gt;
|90 [[亀山天皇|亀山]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|91 [[後宇多天皇|後宇多]]&lt;br /&gt;
|92 [[伏見天皇|伏見]]&lt;br /&gt;
|93 [[後伏見天皇|後伏見]]&lt;br /&gt;
|94 [[後二条天皇|後二条]]&lt;br /&gt;
|95 [[花園天皇|花園]]&lt;br /&gt;
|96 [[後醍醐天皇|後醍醐]]&lt;br /&gt;
|97 [[後村上天皇|後村上]]&lt;br /&gt;
|98 [[長慶天皇|長慶]]&lt;br /&gt;
|99 [[後亀山天皇|後亀山]]&lt;br /&gt;
|100 [[後小松天皇|後小松]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|'''[[北朝 (日本)|北朝]]'''&lt;br /&gt;
|1 [[光厳天皇|光厳]]&lt;br /&gt;
|2 [[光明天皇|光明]]&lt;br /&gt;
|3 [[崇光天皇|崇光]]&lt;br /&gt;
|4 [[後光厳天皇|後光厳]]&lt;br /&gt;
|5 [[後円融天皇|後円融]]&lt;br /&gt;
|6 [[後小松天皇|後小松]]&lt;br /&gt;
|colspan=&amp;quot;3&amp;quot;|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|101 [[称光天皇|称光]]&lt;br /&gt;
|102 [[後花園天皇|後花園]]&lt;br /&gt;
|103 [[後土御門天皇|後土御門]]&lt;br /&gt;
|104 [[後柏原天皇|後柏原]]&lt;br /&gt;
|105 [[後奈良天皇|後奈良]]&lt;br /&gt;
|106 [[正親町天皇|正親町]]&lt;br /&gt;
|107 [[後陽成天皇|後陽成]]&lt;br /&gt;
|108 [[後水尾天皇|後水尾]]&lt;br /&gt;
|109 [[明正天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;明正&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|110 [[後光明天皇|後光明]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|111 [[後西天皇|後西]]&lt;br /&gt;
|112 [[霊元天皇|霊元]]&lt;br /&gt;
|113 [[東山天皇|東山]]&lt;br /&gt;
|114 [[中御門天皇|中御門]]&lt;br /&gt;
|115 [[桜町天皇|桜町]]&lt;br /&gt;
|116 [[桃園天皇|桃園]]&lt;br /&gt;
|117 [[後桜町天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;後桜町&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|118 [[後桃園天皇|後桃園]]&lt;br /&gt;
|119 [[光格天皇|光格]]&lt;br /&gt;
|120 [[仁孝天皇|仁孝]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|121 [[孝明天皇|孝明]]&lt;br /&gt;
|122 [[明治天皇|明治]]&lt;br /&gt;
|123 [[大正天皇|大正]]&lt;br /&gt;
|124 [[昭和天皇|昭和]]&lt;br /&gt;
|125 [[明仁|今上]]&lt;br /&gt;
|colspan=&amp;quot;5&amp;quot;|※&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;赤字&amp;lt;/span&amp;gt;は[[女性天皇|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:red&amp;quot;&amp;gt;女性天皇&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
|}&amp;lt;noinclude&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:歴史関連記事のテンプレート|れきたいてんのういちらん]]&lt;br /&gt;
[[Category:皇室の系図|*]]&amp;lt;/noinclude&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
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