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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>蒼井そら</title>
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				<updated>2011-11-06T15:12:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''蒼井 そら'''（あおい そら、[[1983年]][[11月11日]] - ）は、[[日本]]の[[AV女優]]、[[タレント]]、[[俳優|女優]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東京都]]出身。[[プライムエージェンシー]]所属。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[2002年]]18歳、水着[[グラビア]]デビューし、同年7月、『Happy Go Lucky!』（[[アリスJAPAN]]）で[[アダルトビデオ|AV]]デビュー（[[マックス・エー]]との2社契約）。「妹系」とも称された[[ロリータ]]フェイスでありながら90cmのバストを持ちブレイク。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]]11月、[[エスワン]]（S1）発足時にセルデビュー。以来、エスワンの看板女優として現在までリリースが続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]]年末に開催されたMOODYZ年末大感謝祭で、エスワンの最優秀女優賞を受賞&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://allabout.co.jp/entertainment/adultvideo/closeup/CU20060119A/index2.htm|title=コレが参加メーカーの2005年の代表作!|date=2006年1月19日|accessyear=2008年|accessdate=11月13日|author=All About}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
AVでの高い人気を背景に、[[テレビ]]や[[ラジオ]]などへ活躍の場を広げる。2003年7月には[[テレビドラマ]]『[[特命係長・只野仁]]』（[[テレビ朝日]]）にゲスト出演。2005年10月には『[[嬢王]]』（[[テレビ東京]]）でメインキャストの1人を演じ、連続テレビドラマにも本格進出した。数多くのバラエティ番組にも出演し、一般タレントにも匹敵する知名度を獲得。男性だけでなく女性にもファン層を拡げ、2005年の[[インターネット]]検索ランキングでは女性部門第2位になっている。2007年11月には[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9]]『[[ガリレオ (テレビドラマ)|ガリレオ]]』に出演。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2008年]]現在、タレント・女優活動を展開する一方で、AV女優としての活動も継続している。タレント活動が目立つ余りに「AV引退説」が度々浮上しているが、本人は続けられる限りはAVの仕事はしたいと語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
* 特技は[[居合道]]。&lt;br /&gt;
* [[ニューロティカ]]のファンを公言しており、[[2004年]]3月にはニューロティカの[[トリビュート・アルバム|トリビュートアルバム]]に『気持ちいっぱいビンビンビン』を提供。同曲が歌手デビュー作となった。&lt;br /&gt;
* 社長自身がファンであるという事もあり、近年特に[[テレビ東京]]の番組への出演が多い。&lt;br /&gt;
* 本人曰く、かなりの出不精であり、撮影などの時以外はほとんど1人でいる（ブログ内での発言）。&lt;br /&gt;
* AV女優という仕事を軽く見られる事を嫌い、立派な職業であると発言している。また、この職業に誇りを持っているとのこと。しかし、自己の公式ブログの2008年02月19日付に「自分の職業に後ろめたさが無いわけじゃない。」とも書いている。&lt;br /&gt;
* お笑い登竜門で共演した[[戸部洋子]]（[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]]）は、テレビに慣れていない時期に色々話掛けてくれたと自身のブログでも感謝の意を示している。年齢は戸部の方が上だが「洋子」と呼んでいる。&lt;br /&gt;
* テレビの共演がきっかけで[[河辺千恵子]]と親交があり、彼女のブログに登場したり、一般人に混じってコメントを書いたりすることがある。&lt;br /&gt;
* 同じ[[AV女優]]の[[Rio (AV女優)|Rio]]を可愛がっている。&lt;br /&gt;
* 本人曰く「理数系が得意」でビデオの配線等は1人でこなすことができる（実際は単なるメカ好き）。&lt;br /&gt;
* [[ソニン (歌手)|ソニン]]似としてビデオを出したことがある。&lt;br /&gt;
* ブログでは「宜しく哀愁」という表現をよく使う（[[郷ひろみ]]のシングルのタイトル。詳しくは『[[よろしく哀愁]]』を参照）。&lt;br /&gt;
* 以前に[[東京ダイナマイト]]の[[ハチミツ二郎]]との交際と同棲が某写真週刊誌により発覚し、自分でも交際をブログ内で公表した。しかし、同ブログ内の発言などから破局したものと思われる。&lt;br /&gt;
* 『[[くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン]]』に出演し[[リスナー]]から送られた童貞喪失時の[[妄想]]（有田が男性、蒼井が相手の女性役）を読み上げた。&lt;br /&gt;
* 一時期「夜なのに 僕が見るのは 蒼井そら（青い空）」という[[川柳]]が流行った。&lt;br /&gt;
* 歌手で俳優の[[武田鉄矢]]がタレントの[[大沢あかね]]のことを蒼井そらと勘違いしたことがある&amp;lt;ref&amp;gt;2007年9月29日の[[東京放送|TBS]][[オールスター感謝祭]]にて&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 牛乳が大好物である&amp;lt;ref&amp;gt;[[MONDO21]]の番組に出演時に発言。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 長年、英語の勉強をしたいといっていたが、2008年に入ってから本格的に[[英会話]]を習い始め、英文ブログ「[http://blog.livedoor.jp/aoi_sola_ura/ 今日の&amp;quot;裏&amp;quot;SOLA模様]」を開設した。以前は[[NOVA]]に通っていた事を自身のブログで明かしている。&lt;br /&gt;
* デビュー以来髪を染めていなかったが、2007年末から2008年1月の間だけ[[茶髪]]にしていた。&lt;br /&gt;
* 『すげぇ。』が口癖。&lt;br /&gt;
* [[モデル (職業)|モデル]]・[[俳優]]の[[山本裕典]]は彼女のファンである&amp;lt;ref&amp;gt;「[[めちゃ×2イケてるッ!]]」の『[[色とり忍者]]』出演時に発言&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品 ==&lt;br /&gt;
=== イメージビデオ ===&lt;br /&gt;
* あおいそら （2002年7月25日、[[英知出版]]）&lt;br /&gt;
* ラブXらぶ （2003年10月10日、[[バウハウス (出版)|バウハウス]]）&lt;br /&gt;
* 裸体 #2 （2004年2月25日、Believe （シャッフル）&lt;br /&gt;
* 不思議の国の蒼井そら （2004年7月25日、バウハウス）&lt;br /&gt;
* キレイナセックス （2005年6月11日、コンセント）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アダルトビデオ ===&lt;br /&gt;
; 2002年&lt;br /&gt;
* Happy Go Lucky! （2002年7月30日、[[アリスJAPAN]]）&lt;br /&gt;
* あおぞら Let's Go Blue In The Sky! （2002年8月23日、[[マックス・エー|サマンサ]]）&lt;br /&gt;
* Virgin Sky （2002年9月24日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* cosmic girl （2002年10月29日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* 50/50 （2002年12月27日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2003年&lt;br /&gt;
* SOLA-GRAPH （2003年1月31日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* ネッチョリ癒されたい （2003年2月28日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* 不法侵乳 14 （2003年3月25日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 色情果実 したがりアイドルの湿恥帯 （2003年4月25日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* 妹の秘密 （2003年5月30日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 女尻 （2003年6月20日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* スプラッシュ びしょ濡れマーメイド （2003年7月25日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 逆ソープ天国 （2003年8月22日、[[JHV|バビロン]]）&lt;br /&gt;
* ようこそMax Cafeへ! （2003年9月30日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 制服人形 コスプレドール （2003年10月24日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* 蒼井そら 秘蔵痴態集 （2003年10月24日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* 口内感染 （2003年11月28日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 猥褻モデル （2003年12月26日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2004年&lt;br /&gt;
* 監禁ボディドール 猥褻迷宮 （2004年1月30日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 裏・スイカップ （2004年2月20日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* Self Produce （2004年3月30日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 隣りの女子大生 悪魔の肉調教 （2004年4月30日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* TABOO （2004年5月28日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 挑発エロティック （2004年6月25日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* Lollipop （2004年7月30日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 風俗で蒼井そらとしたいっ! （2004年8月20日、バビロン）&lt;br /&gt;
* 魔女の棲み家 IV （2004年9月28日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* フェティッシュそら （2004年10月22日、アリスJAPAN）&lt;br /&gt;
* セル初 ギリギリモザイク （2004年11月11日、[[エスワン|S1 NO.1 STYLE]]）&lt;br /&gt;
* BEST OF SKY （2004年11月30日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 女教師×女子校生 淫乱痴女の女教師とカワイイ癒しの女子校生 （2004年12月11日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2005年&lt;br /&gt;
* 淫語 エロい女の淫語あそび （2005年1月11日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリモザ 僕だけの蒼井そら （2005年2月11日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリモザ 接吻スペシャル （2005年3月11日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク そらはアナタのいいなり玩具 （2005年4月11日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク そらのネットリ濃厚セックス （2005年5月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク おっぱいスペシャル （2005年6月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク そらがいっぱい癒してあげる （2005年7月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク はげましセックス （2005年8月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク そらのセックスじっくり見せてあげよっか♥ （2005年9月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク コスプレでい～っぱいHしよっ! （2005年10月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク エッチな隣人♥蒼井そら （2005年11月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 妄想的特殊浴場 本指名 蒼井そら （2005年12月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2006年&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク そらとの共同生活は24時間セックスざんまい! （2006年1月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 新米ナースそらのパコパコ看護 （2006年2月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 激パイズリ 2 （2006年4月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク そらは隣の若奥様 （2006年5月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* 増刊DVD 蒼井そら （2006年6月13日、コンセント）&lt;br /&gt;
* 蒼井そら×ギリギリモザイク 蒼井そらCOLLECTION 1 （2006年7月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク バコバコ乱交15 （2006年9月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ハイパー×ギリギリモザイク ハイパーギリギリモザイク （2006年11月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2007年&lt;br /&gt;
* S1二周年記念!完全撮り下ろしスペシャルまとめてドーンッ!!（2007年2月7日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* S1ドリームコレクション2周年記念スペシャルVer. スーパーS級アイドル8時間!!!（2007年2月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク おっきいチンポでバコバコ! （2007年4月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ハイパーギリギリモザイク 特殊浴場TSUBAKI 貸切入浴料1億円 （2007年5月3日、S1 NO.1 STYLE）…共演:[[麻美ゆま]]、[[吉沢明歩]]、[[穂花]]、[[小川あさ美]]、[[片瀬まこ]]、[[伊沢千夏]]、[[果梨]]、[[西野翔]]、[[遥めぐみ]]、[[美優千奈]]、[[MO☆MO]] ※[[AV OPEN～あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦～|AV OPEN]] 2007エントリー作品&lt;br /&gt;
* ハイパーギリギリモザイク8時間 蒼井そら （2007年10月7日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* 完全限定生産×最新型Mビジョン ギリギリモザイクMV改 （2007年11月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ハイパー×ギリギリモザイク 特殊浴場TSUBAKI8時間 （2007年12月7日、S1 NO.1 STYLE）…共演:麻美ゆま、伊沢千夏、小川あさ美、片瀬まこ、果梨、西野翔、遥めぐみ、穂花、美優千奈、MO☆MO、吉沢明歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2008年&lt;br /&gt;
* S1 3周年! 24時間868タイトルまとめてドーンッ!!（2008年2月7日、S1 NO.1 STYLE）…共演:[[あいだゆあ]]、[[米倉夏弥]]、麻美ゆま、穂花、[[松嶋れいな]]、西野翔、[[小澤マリア]]、[[青木りん]]、[[みひろ]] 他 ※総集編&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 繰り返す昇天、壮絶アクメ （2008年2月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 僕だけのアイドル 蒼井そら （2008年3月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリモザ 犯された蒼井そら （2008年7月19日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ハイパー×ギリモザ ものすごい顔射 （2008年9月7日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
* ギリモザ 無限絶頂！激イカセFUCK （2008年11月7日、S1 NO.1 STYLE）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オリジナルビデオ ===&lt;br /&gt;
* 高校教師 飼育の校舎 （2003年11月25日、[[九鬼 (アダルトビデオ)|ENGEL]]）&lt;br /&gt;
* 新・妖女伝説 セイレーン （2004年10月22日、[[竹書房]]）&lt;br /&gt;
* 揺れる電車の中で ハメられた家庭教師 （2004年10月22日、オンリー・ハーツ）&lt;br /&gt;
* 狂愛 死ぬまでにしたい4つのこと （2005年3月24日、JUNK FILM）&lt;br /&gt;
* くノ一五人衆VS女ドラゴン軍団 （2005年10月25日、[[GPミュージアム]]）&lt;br /&gt;
* 新だまし屋本舗&lt;br /&gt;
:# ～おいしいバイトにご用心～ （2005年11月4日、ネクスタシー）&lt;br /&gt;
:# ～ペーパー商法にご用心～ （2005年12月7日、ネクスタシー）&lt;br /&gt;
:# ～美容詐欺を撲滅せよ～ （2006年、ネクスタシー）…共演：[[藍山みなみ]]&lt;br /&gt;
:# ～フランチャイズ詐欺を撲滅せよ～ （2006年、ネクスタシー）…共演：藍山みなみ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルバム ===&lt;br /&gt;
* A.I カンパニー ～Tribute to NEW ROTE'KA～ （2004年3月17日、ビクターエンタテインメント）…「気持ちいっぱいビンビンビン」（蒼井そら&amp;amp;ロティカ・アミーゴス名義）収録&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== シングル ===&lt;br /&gt;
* 裸のKiss c/w 天使の誘惑 （SO-LA名義） （2006年5月31日、[[BBMC]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゲーム ===&lt;br /&gt;
* アイドルと野球拳 （[[プレイステーション・ポータブル|PSP]]） （2005年9月16日、ゲベット）…共演:[[紋舞らん]]、[[あいだゆあ]]&lt;br /&gt;
* 蒼井そらと対決野球拳 （[[DVDPG]]） （2005年9月22日、ゲベット）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演 ==&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* GUN CRAZY Episode 4 用心棒の鎮魂歌 （2003年5月10日、配給：[[ジェネオンエンタテインメント|パイオニアLDC]]）&lt;br /&gt;
** ビデオ：（2003年9月26日、パイオニアLDC、バージョン違いあり）&lt;br /&gt;
* 制服美少女 先生あたしを抱いて （2004年7月27日、配給：国映/[[新東宝]]）&lt;br /&gt;
** 再公開時は「蒼井そら 美少女つむぎ」、ビデオは「つむぎ」（2005年4月22日、インターフィルム）&lt;br /&gt;
* エロス番長 其の四 ともしび （2004年8月21日、配給：ユーロスペース）&lt;br /&gt;
** ビデオ：（2005年7月29日、アートポート）&lt;br /&gt;
* 援助交際撲滅運動 地獄変 （2004年10月2日、配給：オムロ）&lt;br /&gt;
** ビデオ：（2005年1月13日、[[キングレコード]]、メイキング版もあり）&lt;br /&gt;
* なま夏 （2005年9月28日、Bay Studio,パワーキャットエンターテイメント）&lt;br /&gt;
** DVD：（2006年3月24日、[[AMUMO]]、メイキングあり）&lt;br /&gt;
* [[嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生]] （2006年5月17日、配給：[[東宝]]）&lt;br /&gt;
* [http://www.kikaretaonna.com/ 聴かれた女] （2007年2月10日、配給：トランスフォーマー）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[特命係長・只野仁]]（2003年、[[テレビ朝日]]）&lt;br /&gt;
* [[ミステリー民俗学者 八雲樹]]（2004年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
* [[嬢王]]（2005年、テレビ東京）&lt;br /&gt;
* [[下北GLORY DAYS]]（2006年、テレビ東京）&lt;br /&gt;
* [[快感職人]]（2006年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
* 水曜ミステリー9「[[北アルプス山岳救助隊・紫門一鬼]]9」（2007年） 橘ゆかり 役（車のトランクで死体が発見されたホステス）&lt;br /&gt;
* [[ガリレオ (テレビドラマ)|ガリレオ]]（2007年、フジテレビ） 篠崎怜子 役（自宅のプールにて心臓麻痺で死亡したセレブ女子大生）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バラエティ ===&lt;br /&gt;
* [[やりにげコージー]] （2004年、[[テレビ東京]]）&lt;br /&gt;
* [[寿命H診断]] （2004年、[[東京放送|TBS]]）&lt;br /&gt;
* [[限度ヲ知レ]] （2005年、TBS）&lt;br /&gt;
* [[KEN-JIN DX]] （2005年、[[中国放送]]）&lt;br /&gt;
* [[指名手配]] （2005年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
* [[登龍門F|音箱（CLUB）登龍門]] （2004年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[登龍門F|お笑い登龍門]] （2004年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
* [[お笑い登龍門ガッハ]] （2005年～、スカパー!フジテレビ721）&lt;br /&gt;
* [[レッスルコロシアム ザ芸能界!最強格闘王者グランプリMAX]] （2005年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[めちゃ²イケてるッ!]] （2005年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
* [[ゴッドタン]] （2005年、テレビ東京）&lt;br /&gt;
* [[ドスペ2 まとも人間4]] （2005年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
* [[アダムとイブの恋愛H診断]] （2005年、TBS）&lt;br /&gt;
* [[ラブちぇん]] （2005年、[[名古屋テレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[シンデレラ男]] （2006年、テレビ東京）&lt;br /&gt;
* [[ぷっちNUKI]] （2006年、テレビ東京）&lt;br /&gt;
* [[ダブルH]] （2006年4～6月、テレビ東京）レギュラー出演&lt;br /&gt;
* [[アドレな!ガレッジ]] （2006年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
* [[くるくるドカン～新しい波を探して～]] (2006年、フジテレビ)写真のみの出演&lt;br /&gt;
* [[浜ちゃんと!]] （2006年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[三竹占い]] （2006年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
* [[おねがい!マスカット]] （2008年4月～、テレビ東京）&lt;br /&gt;
* [[探偵!ナイトスクープ]] （2008年12月、朝日放送）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオ ===&lt;br /&gt;
* [[四番 なかやま]] （2006年、[[TBSラジオ&amp;amp;コミュニケーションズ|TBSラジオ]]）&lt;br /&gt;
* [[くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン]]の第7回、第8回童貞妄想選手権 （2006年、[[ニッポン放送]]）&lt;br /&gt;
* [[夜な夜なニュースいぢり X-Radio バツラジ]] いじりっ娘 （2008年3月26日、[[TBSラジオ&amp;amp;コミュニケーションズ|TBSラジオ]]）&lt;br /&gt;
* [[music storage]]　（2008年、[[TOKYO FM]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ミュージック・ビデオ ===&lt;br /&gt;
* [[石川智晶]]「美しければそれでいい」[[ミュージック・ビデオ|PV]] （2006年4月19日、[[ビクターエンタテインメント]]） - 出演 蒼井そら / [[Erina]]&lt;br /&gt;
* [[大山百合香]]「木枯しに抱かれて」[[ミュージック・ビデオ|PV]] （2007年12月5日、[[ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ]]） - 出演 蒼井そら&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 携帯サイト ===&lt;br /&gt;
* どっきりクイーン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 書籍 ==&lt;br /&gt;
* そら模様 （2006年6月8日、講談社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トレーディングカード ===&lt;br /&gt;
* AVC[[ジューシーハニー]] SE 蒼井そら コレクションカード（2006年3月25日、ミント）&lt;br /&gt;
* AVC[[ジューシーハニー]] SE 蒼井そら コレクションカード2（2007年11月23日、ミント）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 写真集 ===&lt;br /&gt;
* Blue （2002年7月21日発売、2002年8月15日発行、インフォレスト/[[英知出版]]）&lt;br /&gt;
* いもうとだけど…お兄ちゃんと呼べなくて （2003年1月24日発売、2003年2月1日発行、[[彩文館出版]]）撮影：[[斉木弘吉]]&lt;br /&gt;
* らぶぱら 運命 （2003年5月10日発売、2003年5月17日発行、[[竹書房]]）&lt;br /&gt;
* Gorgeous #1 （2003年7月18日発売、2003年8月31日発行、[[バウハウス (出版)|バウハウス]]）&lt;br /&gt;
* LOVEx （ラブラブ）#07 （2003年11月22日発売、2004年1月5日発行、バウハウス）&lt;br /&gt;
* KARAMI 21 （2004年1月30日発売、2004年3月10日発行、[[三和出版]]）&lt;br /&gt;
* Solax （2004年2月25日発売、2004年3月6日発行、[[音楽専科社]]）&lt;br /&gt;
* そら （2004年7月27日発売、2004年8月5日発行、[[双葉社]]）&lt;br /&gt;
* Sola Aoi in Doll House （2004年9月13日発売、2004年10月15日発行、英知出版）&lt;br /&gt;
* 蒼井そらcomplete （2004年12月14日発売、MCプレス）&lt;br /&gt;
* 蒼井そら120% （デジ得シリーズ06） （2005年3月10日発売、バウハウス）&lt;br /&gt;
* LOVEx （ラブラブ）#09 （2005年5月27日発売、バウハウス）&lt;br /&gt;
* polgasun aoisora （2005年8月13日発売、パワーショベル）&lt;br /&gt;
* 増刊 蒼井そら （2005年10月27日発売、ジーオーティー）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関連写真集 ===&lt;br /&gt;
* [[けっこう仮面#すっぽんぽん戦隊 けっこう仮面V -FIVE-|すっぽんぽん戦隊 けっこう仮面V -FIVE-]] （2004年7月28日発行、[[講談社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[東京都出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[AV女優一覧]]&lt;br /&gt;
* [[石川敏男]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注・出典 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89&amp;diff=142415</id>
		<title>本能寺の変</title>
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				<updated>2011-11-06T15:12:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: /* 動機と首謀者に関するその他の考察 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]（[[1582年]][[6月21日]]）、[[織田信長]]の重臣[[明智光秀]]が[[謀反]]を起こし、[[京都]]の[[本能寺]]に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。またこの事件の歴史認識についても、[[クーデター]]とも、信長による社会変革への反動（[[反革命]]）とも言われ、定説が確立されていない。さらには、事件の首謀者についても定説がない（各説については[[#謀反の動機|謀反の動機]]、[[#首謀者|首謀者]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情勢 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）までに、織田信長は京を中心とした[[畿内]]とその周辺を手中に収め、この年[[武田勝頼]]を滅ぼした。関東の[[後北条氏]]、東北の[[伊達氏]]は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国の[[毛利氏]]、四国の[[長曾我部氏]]、北陸の[[上杉氏]]、九州の[[島津氏]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失っていた。また上杉氏は、[[上杉謙信|謙信]]亡き後、養子[[上杉景勝|景勝]]の代であり、関東・越後から猛攻をかけ[[武田信玄]]を苦しめた強力な軍団は[[御館の乱]]で勢いを弱めていた。四国では[[三好康長]]が信長に属し、[[丹羽長秀]]の補佐を受けた[[織田信孝]]が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢で、九州は[[大友氏]]や[[龍造寺氏]]が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安土城]]を本拠に、[[柴田勝家]]・[[明智光秀]]・[[滝川一益]]・[[羽柴秀吉]]、[[織田信孝]]などの軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数えで49歳であり、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
[[明智光秀]]は、武田攻めから帰還したのち長年武田氏と戦って労あった[[徳川家康]]の接待役を務めた（5月15日から17日まで）。家康は信長により安土城に招かれたが、このとき不手際があり光秀は接待役を解任されたとも言われている。光秀は力の限りを尽くし当代随一の京料理でもてなしたが、三河出身で味の濃い赤味噌文化で育った家康の嗜好を考慮しない独りよがりな接待であった。光秀の機転のなさに信長は激怒したが、明確な理由の説明がなかったため、光秀は恨みを抱いたともいわれる。また、15日には羽柴秀吉から応援の要請が届いており、5月17日、光秀は居城[[坂本城]]に帰され、出陣を命ぜられた。5月26日にはいまひとつの居城[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に移り、出陣の準備を進めた。[[愛宕神社 (京都市)|愛宕大権現]]に参篭し、5月28日・29日に「時は今　天が下知る　五月哉」の発句で知られる[[連歌]]の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとする解釈がされているが（下記[[#動機と首謀者に関するその他の考察|動機と首謀者に関するその他の考察]]の項参照）、この句の本当の意味を知るものは当人しか居らず、句の解釈も種々ありうる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[織田信長]]は5月29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。翌2日未明、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、謀反を起こし信長を討つことを全軍に明らかにしたとされるが、これは江戸時代に[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』で書かれたものである。実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとされている。（京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。&lt;br /&gt;
物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗（明智光秀の家紋）である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった[[森蘭丸]]に火を放たせ、自刃したとされる（信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』による）。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺（上立売大宮）の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺（上京区鶴山町に移転）には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ルイス・フロイス]]の『日本史』（Historia de Iapan）では、「（午前3時頃と言われる）明智の（少数の）兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して（6月2日に御所前で[[馬揃え]]をする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる）、信長が[[厠]]から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は[[小姓]]たちを呼び、鎌のような武器（[[薙刀]]）を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の[[鉄砲]]隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた（火を放ち自害した）」という内容になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智謀反の報を受けた信忠は、守りに向かない妙覚寺を離れ、京都の行政担当者である[[村井貞勝]]らとともに[[二条城]]（二条新造御所）に移ったが、多勢に無勢であり、守りきれず自刃し、二条城は落城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である[[織田長益]]（のちの[[織田有楽斎]]）も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て[[岐阜]]へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ　お腹召せ召せ召させておいて　われは安土へ逃げる源五　6月2日に大水出て　織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣[[ヤスケ]]も戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 謀叛の動機 ==&lt;br /&gt;
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。しかしいずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に知られる怨恨説によると、[[徳川家康]]の接待役を解任されて面目を失った、[[出雲国|出雲]]・[[伯耆国|伯耆]]もしくは[[石見]]に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな[[講談]]話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。&lt;br /&gt;
むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。&lt;br /&gt;
そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首謀者 ==&lt;br /&gt;
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 足利義昭説（藤田達生） ===&lt;br /&gt;
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く[[足利義昭]]が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。&lt;br /&gt;
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。&lt;br /&gt;
しかしこの説では、義昭を庇護していた[[毛利氏]]が（定説によれば）本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。&lt;br /&gt;
しかしこれには異説があり、[[太閤記]]や[[佐久間軍記]]などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、[[小早川隆景]]が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになるが、この時点で秀吉が天下を取ることを予想できた者など当の秀吉くらいしかおらず、これは考え過ぎであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝廷説 ===&lt;br /&gt;
朝廷黒幕説も、黒幕は[[正親町天皇]]なのか、[[誠仁親王]]なのか、あるいは[[近衛前久]]等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「[[三職推任問題]]」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、[[山崎の戦い]]の後、[[織田信孝]]が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、[[吉田兼見]]が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『[[兼見卿記]]』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている（逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある）。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも）、これは[[細川藤孝]]の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]説（立花京子） - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説&lt;br /&gt;
*羽柴秀吉説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[毛利輝元]]（あるいは小早川隆景）説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[長宗我部元親]]説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから（[[井沢元彦]]著『[[逆説の日本史]]』より）&lt;br /&gt;
*朝廷と羽柴秀吉の共謀説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*徳川家康説{{要出典}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 説を追加する場合は、出典を明記してください。また、前後の記述のスタイルに合わせてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*朝廷＆秀吉共謀、実行役光秀は口封じに消された説&lt;br /&gt;
本能寺の変が発生した1582年6月2日、大軍の指揮権を与えられた明智光秀と少数の手勢のみで本能寺に滞在する織田信長―――この日の京都には信長に積年の恨みを抱く光秀が謀反を起こすにこの上ない最高の舞台が整っていたのだが、ではこの舞台は誰が演出したのか・・・秀吉が主君信長に援軍を要請した時期と、朝廷が三官推任を行って信長を単身で京都へ召還した時期とが余りにも絶妙すぎるのである。&lt;br /&gt;
また本能寺の変から毛利軍との和睦成立・中国大返し・天王山の合戦へ至るまでの秀吉の凄まじい行動力は明らかに常軌を逸しており、事前に秀吉が何らかの形で光秀の行動を把握していた可能性が指摘されている。&lt;br /&gt;
これらの事から信長暗殺は朝廷＆秀吉が共謀して仕組んだものであり、実行役光秀はこの共謀を漏らす危険性があるとの理由で電撃的に消された・・・とする説である。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 動機と首謀者に関するその他の考察 ==&lt;br /&gt;
*光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、'''「時は今　天が下知る　五月哉」'''は、「時（とき）」は源氏の流れをくむ[[土岐氏]]の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天（あめ）が下（した）治る（しる）」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もあるが、これは間違いで、本当は「時は今　雨が下'''な'''る　五月哉」と詠んでいた。前述の改変は秀吉が「天正記」で広めたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変後の諸将の動向 ==&lt;br /&gt;
=== 明智光秀 ===&lt;br /&gt;
光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の[[山崎の戦い]]に敗れ、同日深夜、小栗栖（[[京都市]][[伏見区]]）で土民に討たれた。京都で政務を執ったのが10日から21日の11日間と短かったため、[[三日天下]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期待していた[[細川忠興]]、[[筒井順慶]]ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴秀吉 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[清水宗治]]の篭る[[備中高松城]]を包囲して毛利氏と対陣していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には[[摂津国|摂津]]まで進んだ。ここで摂津の武将[[中川清秀]]・[[高山右近]]・[[池田恒興]]を味方につけ、さらに四国出兵のため[[堺市|堺]]にいた[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の[[山崎の戦い]]([[天王山の戦い]]）で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を'''中国大返し'''と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに[[清洲会議]]にて信忠の子・三法師（[[織田秀信]]）の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の死の報をいち早く入手した事、[[兵糧攻め]]によりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家 ===&lt;br /&gt;
勝家は[[佐々成政]]・[[前田利家]]とともに、6月3日上杉氏の[[越中国]][[魚津城]]を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、[[上杉景勝]]の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後[[清洲会議]]で秀吉と対立し、[[賤ヶ岳の戦い]]で敗北、自害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康 ===&lt;br /&gt;
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。[[山城国|山城]]綴喜・[[近江国|近江]]・加太峠・[[伊賀国|伊賀]]の山中を通って[[伊勢国|伊勢]]へ抜け、[[伊勢湾]]を渡って本国[[三河国|三河]]に戻った。後に「'''神君伊賀越え'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った[[穴山信君]]は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、[[服部半蔵]]の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、[[堺]]で討たれたと言う伝説も存在し、[[堺]]市内の[[南宗寺]]には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の[[大坂の陣]]の際に生まれた伝説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると[[酒井忠次]]は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃～京へ進軍する方と、伊勢～京に進軍する二手に分かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃・甲斐を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信雄 ===&lt;br /&gt;
信長の次男・[[織田信雄]]は、本能寺の変の後[[明智光秀]]を討とうと近江の土山へ進軍するが、[[山崎の戦い]]で明智光秀が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に大敗したことにより撤退。その後[[安土城]]を焼いてしまうと云う愚かな行動に出る（異説あり）。このことにより[[清洲会議]]にて織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滝川一益 ===&lt;br /&gt;
[[滝川一益]]は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞くとすぐさま撤退するが、小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、敵中突破を試みた一益は大敗して領国の伊勢長島城へ帰還した（[[神流川の戦い]]）。一益の敗戦により上野、信濃の織田勢力は一掃される結果となり、一益は織田家重臣の列から外され、[[清洲会議]]にも出席できなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信孝・丹羽長秀 ===&lt;br /&gt;
[[織田信孝]]は[[丹羽長秀]]、信長の甥・[[津田信澄]]（父は[[織田信勝|織田信勝（信行）]]）らとともに[[大坂]]にて[[四国]]の[[長宗我部元親]]討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部元親 ===&lt;br /&gt;
長宗我部元親は信長の[[四国征伐]]の影響もあり、兵を[[白地城]]に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を[[阿波]]・[[讃岐]]に兵を出し、完全に勢力下に入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の歴史|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:1582年|ほんのうしのへん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89&amp;diff=142414</id>
		<title>本能寺の変</title>
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				<updated>2011-11-06T15:11:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: /* 動機と首謀者に関するその他の考察 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]（[[1582年]][[6月21日]]）、[[織田信長]]の重臣[[明智光秀]]が[[謀反]]を起こし、[[京都]]の[[本能寺]]に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。またこの事件の歴史認識についても、[[クーデター]]とも、信長による社会変革への反動（[[反革命]]）とも言われ、定説が確立されていない。さらには、事件の首謀者についても定説がない（各説については[[#謀反の動機|謀反の動機]]、[[#首謀者|首謀者]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情勢 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）までに、織田信長は京を中心とした[[畿内]]とその周辺を手中に収め、この年[[武田勝頼]]を滅ぼした。関東の[[後北条氏]]、東北の[[伊達氏]]は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国の[[毛利氏]]、四国の[[長曾我部氏]]、北陸の[[上杉氏]]、九州の[[島津氏]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失っていた。また上杉氏は、[[上杉謙信|謙信]]亡き後、養子[[上杉景勝|景勝]]の代であり、関東・越後から猛攻をかけ[[武田信玄]]を苦しめた強力な軍団は[[御館の乱]]で勢いを弱めていた。四国では[[三好康長]]が信長に属し、[[丹羽長秀]]の補佐を受けた[[織田信孝]]が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢で、九州は[[大友氏]]や[[龍造寺氏]]が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安土城]]を本拠に、[[柴田勝家]]・[[明智光秀]]・[[滝川一益]]・[[羽柴秀吉]]、[[織田信孝]]などの軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数えで49歳であり、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
[[明智光秀]]は、武田攻めから帰還したのち長年武田氏と戦って労あった[[徳川家康]]の接待役を務めた（5月15日から17日まで）。家康は信長により安土城に招かれたが、このとき不手際があり光秀は接待役を解任されたとも言われている。光秀は力の限りを尽くし当代随一の京料理でもてなしたが、三河出身で味の濃い赤味噌文化で育った家康の嗜好を考慮しない独りよがりな接待であった。光秀の機転のなさに信長は激怒したが、明確な理由の説明がなかったため、光秀は恨みを抱いたともいわれる。また、15日には羽柴秀吉から応援の要請が届いており、5月17日、光秀は居城[[坂本城]]に帰され、出陣を命ぜられた。5月26日にはいまひとつの居城[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に移り、出陣の準備を進めた。[[愛宕神社 (京都市)|愛宕大権現]]に参篭し、5月28日・29日に「時は今　天が下知る　五月哉」の発句で知られる[[連歌]]の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとする解釈がされているが（下記[[#動機と首謀者に関するその他の考察|動機と首謀者に関するその他の考察]]の項参照）、この句の本当の意味を知るものは当人しか居らず、句の解釈も種々ありうる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[織田信長]]は5月29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。翌2日未明、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、謀反を起こし信長を討つことを全軍に明らかにしたとされるが、これは江戸時代に[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』で書かれたものである。実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとされている。（京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。&lt;br /&gt;
物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗（明智光秀の家紋）である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった[[森蘭丸]]に火を放たせ、自刃したとされる（信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』による）。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺（上立売大宮）の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺（上京区鶴山町に移転）には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ルイス・フロイス]]の『日本史』（Historia de Iapan）では、「（午前3時頃と言われる）明智の（少数の）兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して（6月2日に御所前で[[馬揃え]]をする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる）、信長が[[厠]]から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は[[小姓]]たちを呼び、鎌のような武器（[[薙刀]]）を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の[[鉄砲]]隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた（火を放ち自害した）」という内容になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智謀反の報を受けた信忠は、守りに向かない妙覚寺を離れ、京都の行政担当者である[[村井貞勝]]らとともに[[二条城]]（二条新造御所）に移ったが、多勢に無勢であり、守りきれず自刃し、二条城は落城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である[[織田長益]]（のちの[[織田有楽斎]]）も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て[[岐阜]]へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ　お腹召せ召せ召させておいて　われは安土へ逃げる源五　6月2日に大水出て　織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣[[ヤスケ]]も戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 謀叛の動機 ==&lt;br /&gt;
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。しかしいずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に知られる怨恨説によると、[[徳川家康]]の接待役を解任されて面目を失った、[[出雲国|出雲]]・[[伯耆国|伯耆]]もしくは[[石見]]に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな[[講談]]話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。&lt;br /&gt;
むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。&lt;br /&gt;
そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首謀者 ==&lt;br /&gt;
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 足利義昭説（藤田達生） ===&lt;br /&gt;
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く[[足利義昭]]が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。&lt;br /&gt;
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。&lt;br /&gt;
しかしこの説では、義昭を庇護していた[[毛利氏]]が（定説によれば）本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。&lt;br /&gt;
しかしこれには異説があり、[[太閤記]]や[[佐久間軍記]]などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、[[小早川隆景]]が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになるが、この時点で秀吉が天下を取ることを予想できた者など当の秀吉くらいしかおらず、これは考え過ぎであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝廷説 ===&lt;br /&gt;
朝廷黒幕説も、黒幕は[[正親町天皇]]なのか、[[誠仁親王]]なのか、あるいは[[近衛前久]]等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「[[三職推任問題]]」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、[[山崎の戦い]]の後、[[織田信孝]]が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、[[吉田兼見]]が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『[[兼見卿記]]』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている（逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある）。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも）、これは[[細川藤孝]]の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]説（立花京子） - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説&lt;br /&gt;
*羽柴秀吉説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[毛利輝元]]（あるいは小早川隆景）説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[長宗我部元親]]説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから（[[井沢元彦]]著『[[逆説の日本史]]』より）&lt;br /&gt;
*朝廷と羽柴秀吉の共謀説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*徳川家康説{{要出典}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 説を追加する場合は、出典を明記してください。また、前後の記述のスタイルに合わせてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*朝廷＆秀吉共謀、実行役光秀は口封じに消された説&lt;br /&gt;
本能寺の変が発生した1582年6月2日、大軍の指揮権を与えられた明智光秀と少数の手勢のみで本能寺に滞在する織田信長―――この日の京都には信長に積年の恨みを抱く光秀が謀反を起こすにこの上ない最高の舞台が整っていたのだが、ではこの舞台は誰が演出したのか・・・秀吉が主君信長に援軍を要請した時期と、朝廷が三官推任を行って信長を単身で京都へ召還した時期とが余りにも絶妙すぎるのである。&lt;br /&gt;
また本能寺の変から毛利軍との和睦成立・中国大返し・天王山の合戦へ至るまでの秀吉の凄まじい行動力は明らかに常軌を逸しており、事前に秀吉が何らかの形で光秀の行動を把握していた可能性が指摘されている。&lt;br /&gt;
これらの事から信長暗殺は朝廷＆秀吉が共謀して仕組んだものであり、実行役光秀はこの共謀を漏らす危険性があるとの理由で電撃的に消された・・・とする説である。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 動機と首謀者に関するその他の考察 ==&lt;br /&gt;
*光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、'''「時は今　天が下知る　五月哉」'''は、「時（とき）」は源氏の流れをくむ[[土岐氏]]の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天（あめ）が下（した）治る（しる）」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もあるが、これは間違いで、本当は「時は今　雨が下'''な'''る　五月哉」と詠んでいた。前述の改変は秀吉が「天正記」で広めたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[NHK]]の[[大河ドラマ]]で信長・秀吉およびその周辺人物を題材にした作品では、光秀が謀反に至る経緯がストーリーの大きな軸のひとつとなっている。近年の作品では光秀は従来の「謀反人」のイメージで描かれることはほとんど無く、むしろ光秀に同情的である。[[1996年]]の『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』では[[徳川家康]]と[[千利休]]の謀略として描かれ、[[2006年]]の『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』では、光秀と信長の正妻・[[濃姫]]との関係にスポットを当てている。[[2007年]]1月3日に[[フジテレビ]]系列で放送されたドラマ『[[明智光秀～神に愛されなかった男～]]』では、信長とは違い民衆と仲良く平和に天下を統一したいと考える秀吉、光秀両人の意思が疎通し合い、光秀が謀叛することを秀吉は察知しており、光秀も自ら秀吉に自分を討たせ、秀吉に天下を取らせたという設定で、秀吉・光秀共謀説のように描かれた。また、信長が朝廷を滅ぼす意思を光秀に語った件から光秀の様子がおかしくなっており、朝廷を守護する為に信長を討ったというテイストも見え隠れする。いずれにしてもこれらはフィクションである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変後の諸将の動向 ==&lt;br /&gt;
=== 明智光秀 ===&lt;br /&gt;
光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の[[山崎の戦い]]に敗れ、同日深夜、小栗栖（[[京都市]][[伏見区]]）で土民に討たれた。京都で政務を執ったのが10日から21日の11日間と短かったため、[[三日天下]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期待していた[[細川忠興]]、[[筒井順慶]]ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴秀吉 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[清水宗治]]の篭る[[備中高松城]]を包囲して毛利氏と対陣していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には[[摂津国|摂津]]まで進んだ。ここで摂津の武将[[中川清秀]]・[[高山右近]]・[[池田恒興]]を味方につけ、さらに四国出兵のため[[堺市|堺]]にいた[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の[[山崎の戦い]]([[天王山の戦い]]）で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を'''中国大返し'''と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに[[清洲会議]]にて信忠の子・三法師（[[織田秀信]]）の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の死の報をいち早く入手した事、[[兵糧攻め]]によりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家 ===&lt;br /&gt;
勝家は[[佐々成政]]・[[前田利家]]とともに、6月3日上杉氏の[[越中国]][[魚津城]]を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、[[上杉景勝]]の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後[[清洲会議]]で秀吉と対立し、[[賤ヶ岳の戦い]]で敗北、自害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康 ===&lt;br /&gt;
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。[[山城国|山城]]綴喜・[[近江国|近江]]・加太峠・[[伊賀国|伊賀]]の山中を通って[[伊勢国|伊勢]]へ抜け、[[伊勢湾]]を渡って本国[[三河国|三河]]に戻った。後に「'''神君伊賀越え'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った[[穴山信君]]は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、[[服部半蔵]]の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、[[堺]]で討たれたと言う伝説も存在し、[[堺]]市内の[[南宗寺]]には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の[[大坂の陣]]の際に生まれた伝説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると[[酒井忠次]]は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃～京へ進軍する方と、伊勢～京に進軍する二手に分かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃・甲斐を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信雄 ===&lt;br /&gt;
信長の次男・[[織田信雄]]は、本能寺の変の後[[明智光秀]]を討とうと近江の土山へ進軍するが、[[山崎の戦い]]で明智光秀が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に大敗したことにより撤退。その後[[安土城]]を焼いてしまうと云う愚かな行動に出る（異説あり）。このことにより[[清洲会議]]にて織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滝川一益 ===&lt;br /&gt;
[[滝川一益]]は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞くとすぐさま撤退するが、小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、敵中突破を試みた一益は大敗して領国の伊勢長島城へ帰還した（[[神流川の戦い]]）。一益の敗戦により上野、信濃の織田勢力は一掃される結果となり、一益は織田家重臣の列から外され、[[清洲会議]]にも出席できなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信孝・丹羽長秀 ===&lt;br /&gt;
[[織田信孝]]は[[丹羽長秀]]、信長の甥・[[津田信澄]]（父は[[織田信勝|織田信勝（信行）]]）らとともに[[大坂]]にて[[四国]]の[[長宗我部元親]]討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部元親 ===&lt;br /&gt;
長宗我部元親は信長の[[四国征伐]]の影響もあり、兵を[[白地城]]に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を[[阿波]]・[[讃岐]]に兵を出し、完全に勢力下に入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の歴史|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:1582年|ほんのうしのへん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89&amp;diff=142413</id>
		<title>本能寺の変</title>
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				<updated>2011-11-06T15:05:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: /* 足利義昭説（藤田達生） */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]（[[1582年]][[6月21日]]）、[[織田信長]]の重臣[[明智光秀]]が[[謀反]]を起こし、[[京都]]の[[本能寺]]に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。またこの事件の歴史認識についても、[[クーデター]]とも、信長による社会変革への反動（[[反革命]]）とも言われ、定説が確立されていない。さらには、事件の首謀者についても定説がない（各説については[[#謀反の動機|謀反の動機]]、[[#首謀者|首謀者]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情勢 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）までに、織田信長は京を中心とした[[畿内]]とその周辺を手中に収め、この年[[武田勝頼]]を滅ぼした。関東の[[後北条氏]]、東北の[[伊達氏]]は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国の[[毛利氏]]、四国の[[長曾我部氏]]、北陸の[[上杉氏]]、九州の[[島津氏]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失っていた。また上杉氏は、[[上杉謙信|謙信]]亡き後、養子[[上杉景勝|景勝]]の代であり、関東・越後から猛攻をかけ[[武田信玄]]を苦しめた強力な軍団は[[御館の乱]]で勢いを弱めていた。四国では[[三好康長]]が信長に属し、[[丹羽長秀]]の補佐を受けた[[織田信孝]]が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢で、九州は[[大友氏]]や[[龍造寺氏]]が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安土城]]を本拠に、[[柴田勝家]]・[[明智光秀]]・[[滝川一益]]・[[羽柴秀吉]]、[[織田信孝]]などの軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数えで49歳であり、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
[[明智光秀]]は、武田攻めから帰還したのち長年武田氏と戦って労あった[[徳川家康]]の接待役を務めた（5月15日から17日まで）。家康は信長により安土城に招かれたが、このとき不手際があり光秀は接待役を解任されたとも言われている。光秀は力の限りを尽くし当代随一の京料理でもてなしたが、三河出身で味の濃い赤味噌文化で育った家康の嗜好を考慮しない独りよがりな接待であった。光秀の機転のなさに信長は激怒したが、明確な理由の説明がなかったため、光秀は恨みを抱いたともいわれる。また、15日には羽柴秀吉から応援の要請が届いており、5月17日、光秀は居城[[坂本城]]に帰され、出陣を命ぜられた。5月26日にはいまひとつの居城[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に移り、出陣の準備を進めた。[[愛宕神社 (京都市)|愛宕大権現]]に参篭し、5月28日・29日に「時は今　天が下知る　五月哉」の発句で知られる[[連歌]]の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとする解釈がされているが（下記[[#動機と首謀者に関するその他の考察|動機と首謀者に関するその他の考察]]の項参照）、この句の本当の意味を知るものは当人しか居らず、句の解釈も種々ありうる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[織田信長]]は5月29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。翌2日未明、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、謀反を起こし信長を討つことを全軍に明らかにしたとされるが、これは江戸時代に[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』で書かれたものである。実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとされている。（京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。&lt;br /&gt;
物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗（明智光秀の家紋）である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった[[森蘭丸]]に火を放たせ、自刃したとされる（信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』による）。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺（上立売大宮）の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺（上京区鶴山町に移転）には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ルイス・フロイス]]の『日本史』（Historia de Iapan）では、「（午前3時頃と言われる）明智の（少数の）兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して（6月2日に御所前で[[馬揃え]]をする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる）、信長が[[厠]]から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は[[小姓]]たちを呼び、鎌のような武器（[[薙刀]]）を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の[[鉄砲]]隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた（火を放ち自害した）」という内容になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智謀反の報を受けた信忠は、守りに向かない妙覚寺を離れ、京都の行政担当者である[[村井貞勝]]らとともに[[二条城]]（二条新造御所）に移ったが、多勢に無勢であり、守りきれず自刃し、二条城は落城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である[[織田長益]]（のちの[[織田有楽斎]]）も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て[[岐阜]]へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ　お腹召せ召せ召させておいて　われは安土へ逃げる源五　6月2日に大水出て　織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣[[ヤスケ]]も戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 謀叛の動機 ==&lt;br /&gt;
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。しかしいずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に知られる怨恨説によると、[[徳川家康]]の接待役を解任されて面目を失った、[[出雲国|出雲]]・[[伯耆国|伯耆]]もしくは[[石見]]に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな[[講談]]話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。&lt;br /&gt;
むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。&lt;br /&gt;
そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首謀者 ==&lt;br /&gt;
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 足利義昭説（藤田達生） ===&lt;br /&gt;
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く[[足利義昭]]が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。&lt;br /&gt;
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。&lt;br /&gt;
しかしこの説では、義昭を庇護していた[[毛利氏]]が（定説によれば）本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。&lt;br /&gt;
しかしこれには異説があり、[[太閤記]]や[[佐久間軍記]]などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、[[小早川隆景]]が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになるが、この時点で秀吉が天下を取ることを予想できた者など当の秀吉くらいしかおらず、これは考え過ぎであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝廷説 ===&lt;br /&gt;
朝廷黒幕説も、黒幕は[[正親町天皇]]なのか、[[誠仁親王]]なのか、あるいは[[近衛前久]]等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「[[三職推任問題]]」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、[[山崎の戦い]]の後、[[織田信孝]]が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、[[吉田兼見]]が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『[[兼見卿記]]』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている（逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある）。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも）、これは[[細川藤孝]]の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]説（立花京子） - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説&lt;br /&gt;
*羽柴秀吉説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[毛利輝元]]（あるいは小早川隆景）説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[長宗我部元親]]説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから（[[井沢元彦]]著『[[逆説の日本史]]』より）&lt;br /&gt;
*朝廷と羽柴秀吉の共謀説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*徳川家康説{{要出典}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 説を追加する場合は、出典を明記してください。また、前後の記述のスタイルに合わせてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*朝廷＆秀吉共謀、実行役光秀は口封じに消された説&lt;br /&gt;
本能寺の変が発生した1582年6月2日、大軍の指揮権を与えられた明智光秀と少数の手勢のみで本能寺に滞在する織田信長―――この日の京都には信長に積年の恨みを抱く光秀が謀反を起こすにこの上ない最高の舞台が整っていたのだが、ではこの舞台は誰が演出したのか・・・秀吉が主君信長に援軍を要請した時期と、朝廷が三官推任を行って信長を単身で京都へ召還した時期とが余りにも絶妙すぎるのである。&lt;br /&gt;
また本能寺の変から毛利軍との和睦成立・中国大返し・天王山の合戦へ至るまでの秀吉の凄まじい行動力は明らかに常軌を逸しており、事前に秀吉が何らかの形で光秀の行動を把握していた可能性が指摘されている。&lt;br /&gt;
これらの事から信長暗殺は朝廷＆秀吉が共謀して仕組んだものであり、実行役光秀はこの共謀を漏らす危険性があるとの理由で電撃的に消された・・・とする説である。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 動機と首謀者に関するその他の考察 ==&lt;br /&gt;
*光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、'''「時は今　天が下知る　五月哉」'''は、「時（とき）」は源氏の流れをくむ[[土岐氏]]の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天（あめ）が下（した）治る（しる）」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もある。※「時は今　雨が下'''な'''る　五月哉」と詠んだいう説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- あまり有力な説とは思えないので、いったんコメントアウトしておきます。&lt;br /&gt;
また、[[織田信長|信長]]は[[精神障害]]の一種で、自殺を図るも、単に自殺しては格好がつかないので、最も信頼を置いていた[[明智光秀|光秀]]に、自分を攻め込むように命じ、光秀は単にその命令に従っただけ、という説もある。{{要出典}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[NHK]]の[[大河ドラマ]]で信長・秀吉およびその周辺人物を題材にした作品では、光秀が謀反に至る経緯がストーリーの大きな軸のひとつとなっている。近年の作品では光秀は従来の「謀反人」のイメージで描かれることはほとんど無く、むしろ光秀に同情的である。[[1996年]]の『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』では[[徳川家康]]と[[千利休]]の謀略として描かれ、[[2006年]]の『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』では、光秀と信長の正妻・[[濃姫]]との関係にスポットを当てている。[[2007年]]1月3日に[[フジテレビ]]系列で放送されたドラマ『[[明智光秀～神に愛されなかった男～]]』では、信長とは違い民衆と仲良く平和に天下を統一したいと考える秀吉、光秀両人の意思が疎通し合い、光秀が謀叛することを秀吉は察知しており、光秀も自ら秀吉に自分を討たせ、秀吉に天下を取らせたという設定で、秀吉・光秀共謀説のように描かれた。また、信長が朝廷を滅ぼす意思を光秀に語った件から光秀の様子がおかしくなっており、朝廷を守護する為に信長を討ったというテイストも見え隠れする。いずれにしてもこれらはフィクションである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*織田方の各武将が遠征に出、信長の本拠が手薄のこの時期に茶会を進言したのは、[[堺]]の豪商・[[千利休]]であったが、そのことが何らかの黒幕の存在と結びつくとする考えもある。[[漫画]]、[[へうげもの]]では、[[千宗易]]（後の利休）が秀吉を煽動し、二人が光秀を謀叛に追い込んで信長を抹殺した、という説をとっている（表面上はすべて史実通りの展開）。光秀はツメが甘く信長を殺せないのでは、と危惧した秀吉が自ら本能寺に潜入して信長を斬殺する、という珍しいシーンがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変後の諸将の動向 ==&lt;br /&gt;
=== 明智光秀 ===&lt;br /&gt;
光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の[[山崎の戦い]]に敗れ、同日深夜、小栗栖（[[京都市]][[伏見区]]）で土民に討たれた。京都で政務を執ったのが10日から21日の11日間と短かったため、[[三日天下]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期待していた[[細川忠興]]、[[筒井順慶]]ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴秀吉 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[清水宗治]]の篭る[[備中高松城]]を包囲して毛利氏と対陣していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には[[摂津国|摂津]]まで進んだ。ここで摂津の武将[[中川清秀]]・[[高山右近]]・[[池田恒興]]を味方につけ、さらに四国出兵のため[[堺市|堺]]にいた[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の[[山崎の戦い]]([[天王山の戦い]]）で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を'''中国大返し'''と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに[[清洲会議]]にて信忠の子・三法師（[[織田秀信]]）の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の死の報をいち早く入手した事、[[兵糧攻め]]によりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家 ===&lt;br /&gt;
勝家は[[佐々成政]]・[[前田利家]]とともに、6月3日上杉氏の[[越中国]][[魚津城]]を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、[[上杉景勝]]の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後[[清洲会議]]で秀吉と対立し、[[賤ヶ岳の戦い]]で敗北、自害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康 ===&lt;br /&gt;
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。[[山城国|山城]]綴喜・[[近江国|近江]]・加太峠・[[伊賀国|伊賀]]の山中を通って[[伊勢国|伊勢]]へ抜け、[[伊勢湾]]を渡って本国[[三河国|三河]]に戻った。後に「'''神君伊賀越え'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った[[穴山信君]]は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、[[服部半蔵]]の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、[[堺]]で討たれたと言う伝説も存在し、[[堺]]市内の[[南宗寺]]には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の[[大坂の陣]]の際に生まれた伝説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると[[酒井忠次]]は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃～京へ進軍する方と、伊勢～京に進軍する二手に分かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃・甲斐を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信雄 ===&lt;br /&gt;
信長の次男・[[織田信雄]]は、本能寺の変の後[[明智光秀]]を討とうと近江の土山へ進軍するが、[[山崎の戦い]]で明智光秀が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に大敗したことにより撤退。その後[[安土城]]を焼いてしまうと云う愚かな行動に出る（異説あり）。このことにより[[清洲会議]]にて織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滝川一益 ===&lt;br /&gt;
[[滝川一益]]は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞くとすぐさま撤退するが、小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、敵中突破を試みた一益は大敗して領国の伊勢長島城へ帰還した（[[神流川の戦い]]）。一益の敗戦により上野、信濃の織田勢力は一掃される結果となり、一益は織田家重臣の列から外され、[[清洲会議]]にも出席できなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信孝・丹羽長秀 ===&lt;br /&gt;
[[織田信孝]]は[[丹羽長秀]]、信長の甥・[[津田信澄]]（父は[[織田信勝|織田信勝（信行）]]）らとともに[[大坂]]にて[[四国]]の[[長宗我部元親]]討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部元親 ===&lt;br /&gt;
長宗我部元親は信長の[[四国征伐]]の影響もあり、兵を[[白地城]]に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を[[阿波]]・[[讃岐]]に兵を出し、完全に勢力下に入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の歴史|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:1582年|ほんのうしのへん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:87.98.222.138&amp;diff=142412</id>
		<title>利用者:87.98.222.138</title>
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				<updated>2011-11-06T15:04:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;Dr.jimmyの捏造を是正。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

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		<title>徳川家康</title>
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				<updated>2011-11-06T14:22:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''徳川 家康'''（とくがわ いえやす、[[天文 (元号)|天文]]11年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]〈[[ユリウス暦]][[1543年]][[1月31日]]〉 - [[元和 (日本)|元和]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]〈[[グレゴリオ暦]][[1616年]][[6月1日]]・ユリウス暦1616年[[5月22日]]〉）は、[[日本]]の[[戦国大名]]･[[江戸幕府]]の初代[[征夷大将軍]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[本姓]]を[[藤原氏]]次いで[[源氏]]と僭称するが、実際には[[加茂氏]]、[[在原氏]]とも。[[家系]]は[[三河国]]の[[土豪]]　[[松平氏]]の流れにて家康の代に[[徳川氏]]に改姓する。[[徳川家]]の祖。[[通称]]は次郎三郎。[[幼名]]は竹千代。死の直前（武将としては史上4人目の）太政大臣に叙せられている。死後、江戸時代を通じて、御家人・旗本には「神君家康公」、一般には「権現（様）」と呼ばれていた。&lt;br /&gt;
===海道一の弓取===&lt;br /&gt;
徳川家康のことを指す。出典は、塚越芳太郎（停春）『徳川家康』上巻（東京：服部書店、1909年）で確認できる。海道とは、鎌倉～京都までの道のりを指す（出典は[[海道記]]、鎌倉時代初頭に成立した）。弓取とは、国持ちの武家を指し、[[甲陽軍鑑]]品第四十に「先づ第一に国持をば弓矢取りと申」とある。塚越芳太郎（停春）『徳川家康』上巻においても本文中に、甲陽軍鑑が引用されている。本文中に、遠江の略取の次ぎに、海道一の弓取という題目が登場することから、三河国・遠江国の2か国の領有時の勢力を称していると思われる。なお、戦国時代には、複数国を領有する場合、太守という用語を使用しており、海道一の弓取は、同時代史料では確認できない。伊達政宗の奥州の太守、[[尼子経久]]の山陽山陰十一か国の太守などである。なお、今川義元を海道一の弓取と記載する資料については、その由来は不明であり、同時代史料の[[三河物語]]などには確認できない用語であり、塚越芳太郎（停春）『徳川家康』上巻を引用し、徳川家康の2か国を超えて、最盛期に、駿河、遠江、三河の3か国を領有することからの命名の可能性がある。平凡社マイペディアでは、徳川家康の項目に、海道一の弓取と記載があるが、今川義元の項目には記載がない。なお、徳川家康の領国は、関東移封以前は、駿河国、遠江国、三河国の海道沿いに加え、信濃国、甲斐国の五か国を領有しているため、今川義元の勢力圏を上回っている。&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[小牧・長久手の戦い]]で10万の秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、当代一の軍略家の一人であり、[[関ヶ原の戦い]]での相手への裏工作から、謀略にも長けていると言われるが、秀吉側の戦術のまずさによるところも多分にある。（数万の軍勢で隠密行動ができるわけがない）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸幕府・開府に始まる[[江戸時代]]は264年に渡って続き、[[日本]]に長き太平の世をもたらしたというが、これは過大評価で、要因の半分は外敵がいなかったためである事が忘れられがちである。ヨーロッパ諸国は日本を侵略するには遠すぎあるいは貧弱すぎ、中国には中華思想ゆえ日本への領土的野心がなかった。もしヨーロッパだったら、室町時代以降の混乱期に必ず外国勢力が攻め込んできていたことだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように日本は周辺情勢にも恵まれていたのである。それを家康や徳川家のおかげと考えるのは勘違いである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Mon-Tokugawa.png|thumb|徳川家の[[家紋]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦国時代に[[三河国]][[岡崎市|岡崎]]に生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、[[桶狭間の戦い]]以後、[[織田信長]]の盟友（事実上の臣下）として版図を広げ、[[本能寺の変]]で信長が[[明智光秀]]に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[豊臣秀吉]]との[[小牧・長久手の戦い]]を経て秀吉に従い、豊臣政権の[[五大老]]筆頭に列せられるが、秀吉の死後は[[関ヶ原の戦い]]で勝利し、[[征夷大将軍]]に任せられ、[[江戸]]に[[幕府]]（[[江戸幕府]]・徳川幕府と呼ぶ）を開く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 忍従の日々 ===&lt;br /&gt;
[[三河国]]の[[土豪]]である[[松平氏]]第8代当主・松平広忠の長男（[[嫡男]]）として、[[天文 (元号)|天文]]11年（[[1542年]]）12月26日の[[寅|寅の刻]]（[[午前]]四時ごろ）、[[岡崎城]]で生まれる。母は[[水野忠政]]の娘・於大（[[於大|伝通院]]）で、幼名は'''竹千代'''（たけちよ）と称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2歳の時、母の父・水野忠政の死後、嫡男・[[水野信元]]（於大の兄）が[[織田信秀]]についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く泣く於大を離縁。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6歳の時、父・広忠は[[尾張国]]の織田信秀に対抗するため[[駿河国|駿河]]の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元のもとへ[[人質]]として駿河国[[駿府|府中]]へ送られる途中立ち寄った[[田原城 (三河国)|田原城]]城主で義母の父・[[戸田康光]]の裏切りにより、尾張・織田信秀の元へ送られる。尾張では2年を過ごし信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は死去し（[[岩松八弥]]に殺された、病死など、種々の説がある）、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子・[[織田信広]]との人質交換によって駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り'''次郎三郎元信'''と名乗り、義元の姪・[[関口親永]]の娘・（通称[[築山殿]]）を娶るが、岡崎への帰還は許されなかった。名は後に祖父・[[松平清康]]の偏諱をもらって'''蔵人佐元康'''と改めている。この時期に今川家へ人質となっていた[[北条氏規]]と親交を結んだという。[[永禄]]元年（[[1558年]]）には織田方に寝返った[[寺部城]]主鈴木日向守を[[松平重吉]]らとともに攻め、[[初陣]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 清洲同盟から三河国平定へ ===&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月、[[桶狭間の戦い]]で[[今川義元]]が[[織田信長]]に討たれた際、今川本隊とは別働で、前線の[[大高城]]（尾張国）にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川家から自立する。西三河の諸城を攻略する。永禄5年（[[1562年]]）には、義元の後を継いだ[[今川氏真]]と断交し'''信長と同盟を結び'''（[[清洲同盟]]）、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から'''家康'''と名を改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、西三河を平定したかに見えた頃、[[三河一向一揆]]が勃発。家康は苦心の末に鎮圧に成功。岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対[[今川氏]]の戦略を推し進める。東三河の[[戸田氏]]や[[西郷氏]]といった諸豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて[[鵜殿氏]]のような敵対勢力を排除。三河への対応に遅れる今川氏とは[[宝飯郡]]を主戦場とした攻防戦を繰り広げると、永禄9年（[[1566年]]）までには東三河・奥三河（三河北部）を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、[[三河守]]の叙任を受け、[[徳川氏|徳川]]に改姓した。この改姓に伴い[[新田氏]]系統の源氏であることも公認させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄11年（[[1568年]]）には今川氏真を駿府から追放した[[武田信玄]]と手を結ぶ。同年末からは、今川領であった[[遠江国]]に侵攻し、[[浜松城|曳馬城]]を攻め落とす。遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れてきた氏真を匿う[[掛川城]]を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った。[[元亀]]元年（[[1570年]]）、本城を岡崎から[[遠江国]]の曳馬に移し[[浜松城]]を築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄11年（[[1568年]]）、信長が[[松永久秀]]らによって暗殺された[[室町幕府]]13代将軍・[[足利義輝]]の弟・[[足利義昭]]を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。さらに後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成した。このとき家康にも[[副将軍]]への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、[[朝倉義景]]・[[浅井長政]]の連合軍との[[姉川の戦い]]に参戦し、信長を助けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田家との戦い ===&lt;br /&gt;
家康は今川領分割に際して、[[武田信玄]]と[[大井川]]を境に東の駿河を武田領、西の[[遠江国|遠江]]を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年（[[1569年]]）、重臣の[[秋山信友]]に一軍を預けて[[信濃国|信濃]]から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに[[北条氏康]]の牽制により失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月3日、武田信玄は遂に西上を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始する。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには[[美濃国|美濃]][[岩村城]]までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は[[天竜川]]を渡って目附にまで進出する。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、[[本多忠勝]]の奮戦により何とか浜松まで帰還した（[[一言坂の戦い]]）。&lt;br /&gt;
[[画像:Mikatagaharasenekizou.jpg|thumb|200px|「三方原戦役像」三方原にて武田軍に敗れたあとに描かせた肖像画]]&lt;br /&gt;
信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった[[二俣城]]が陥落する。そのような中でようやく織田方から援軍として[[佐久間信盛]]、[[平手汎秀]]率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、[[天竜川]]の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかの如く武田軍を転進させる。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ（[[三方ヶ原の戦い]]。（現在の[[静岡県]][[浜松市]]内））。だが、その結果、徳川方は[[鳥居忠広]]、[[成瀬正義]]をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。[[夏目吉信]]に代表される身代わりを何人も置き去りにして、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は妙計「空城の計」によって、それを怪しんだ武田信玄に城内侵攻を躊躇わせ、撤収を決断させたとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画が残っており、自身の戒めのために描かせたと伝わる（しかみ像）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田信玄は[[浜名湖]]北岸で越年して三河へ進軍。元亀4年（[[1573年]]）2月16日には三河東部の[[野田城_(三河国)|野田城]]を開城降伏させ、城主[[菅沼定盈]]の身柄を拘束した。ところがその後、信玄は発病。徳川軍を相手に勝ち続けていた武田軍は突如として西進を止めたばかりか、野田城から長篠城まで退き1ヶ月ほど沈黙する。そこで信玄の回復を待っていたが、容態は快方に進まないために西進作戦を断念、武田軍は甲斐へ帰還する。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。4ヶ月間、徳川領で戦勝を続けていた武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。5月6日、その生死を確認するため家康は武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には[[長篠城]]を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんど無かったことから信玄の死去を確信した家康は、武田方に与していた奥三河の豪族で[[山家三方衆]]の一角である[[奥平貞能]]・[[奥平信昌|貞昌]]親子らを調略し、徳川へ再属させた。奪回した長篠城には奥平勢を配し、武田軍の再侵攻に備えさせている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天正]]2年（[[1574年]]）5月、武田信玄の後を継いだ[[武田勝頼]]が率いる2万5,000人の大軍に遠江[[高天神城]]を侵攻される。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請したが、信長の援軍が到着する前に高天神城を奪われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（[[1575年]]）5月には、1万5,000人の大軍を率いる武田勝頼に三河[[長篠城]]を攻められる。これに対して[[長篠城]]主・奥平貞能・奥平貞昌親子は善戦し、援軍の到来まで耐え抜いた。そして、5月21日に行なわれた後詰決戦では、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した（[[長篠の戦い]]）。戦功の褒美として　奥平貞昌は（信長の偏諱を賜り）信昌と改名し、家康の長女・亀姫を正室として貰い受けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦いで武田軍は[[山県昌景]]、[[馬場信春]]を初め、多くの有力武将を失って壊滅し、徳川・武田の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）、正室・[[築山殿]]と長男・[[松平信康]]に武田勝頼への内通疑惑がかけられる。信長に対し抗弁の使者を立てるも、信長からの要求は、両名の処刑であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室・嫡男の両名を殺害した。この事件は一説によると信長が嫡男・[[織田信忠]]より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためと言われるが、近年では家康と信康が対立したためで、それを信長からの命令という形にした、という説も強くなってきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿である[[木曽義昌]]が織田信長に寝返ってきたことにより、[[武田征伐]]が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、[[金森長近]]を飛騨口から、[[北条氏直]]を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させる。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力が無く、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に[[伊那城]]、[[松尾城]]を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃（[[依田信蕃]]）の[[田中城]]を[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である[[穴山信君]]を調略によって寝返らせるなどして駿河を占領する。これに対して勝頼にはもはや対抗する力は無く、最後は味方だったはずの[[小山田信茂]]にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山田野において自害し、武田氏は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・[[安土城]]を訪れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月2日、堺で遊覧中に京都で[[本能寺の変]]が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、極めて危険な状態となり狼狽し信長の後を追おうとするほどであった。このとき、本多忠勝に説得され家康は[[服部半蔵]]の進言を受け[[伊賀国|伊賀]]越えを決行し、[[加太越]]を経て[[伊勢国|伊勢]]国から海路三河にかろうじて戻った（'''[[伊賀越え|神君伊賀越え]]'''）。&lt;br /&gt;
その後、家康は[[明智光秀]]を討つために軍勢を集めて[[尾張国|尾張]]にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉（[[豊臣秀吉]]）によって光秀が討たれたことを知った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐と[[信濃国|信濃]]で一揆が起こった。さらに[[越後国|越後]]の[[上杉景勝]]、[[相模国|相模]]の[[北条氏直]]も侵攻の気配を見せたため、信濃の[[森長可]]と[[毛利秀頼]]は領地を捨てて逃亡し、[[上野国|上野]]の[[滝川一益]]は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退する。甲斐の領主・[[河尻秀隆]]に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった（ただし家康が影で煽動したという説もある）。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏旧臣の[[岡部正綱]]、[[依田信蕃]]、[[武川衆]]らを先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に攻め入った（[[天正壬午の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父・[[北条氏規]]や[[北条氏照]]ら5万5,000人の軍勢を率いて[[碓氷峠]]を越えて信濃に侵攻する。北条軍は越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下する。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐[[新府城]]、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った[[真田昌幸]]らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、[[板部岡江雪斎]]を使者として家康に和睦を求める。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領有する大大名へとのし上がったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 秀吉との戦い ===&lt;br /&gt;
信長死後の天正11年（[[1583年]]）、織田家筆頭家老であった[[柴田勝家]]を[[賤ヶ岳の戦い]]で破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・[[織田信雄]]は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は[[天正]]12年（[[1584年]]）3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙する。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・[[森長可]]率いる軍勢を[[酒井忠次]]に命じて撃破させた（[[羽黒の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は[[犬山城]]に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず、戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である[[池田恒興]]が「[[中入り]]」によって三河[[岡崎城]]を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣する。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・[[羽柴秀次]]を敗走させ、恒興と長可、[[池田元助]]（恒興の嫡男）らを討ち取った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力は無く、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸（のちの[[結城秀康]]）を秀吉の養子（人質）とすることで[[大坂]]に送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正13年（[[1585年]]）に入ると、[[紀伊国|紀伊]]雑賀党や[[土佐国|土佐]]の[[長宗我部元親]]、[[越中国|越中]]の[[佐々成政]]など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため、秀吉との対立で不利になった家康は、相模の[[北条氏直]]との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃[[上田城]]主・[[真田昌幸]]はこれに応じず、家康から離反して越後の[[上杉景勝]]に寝返った。これに対して家康は、[[大久保忠世]]や[[鳥居元忠]]を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、この頃になると徳川家中は、[[酒井忠次]]・[[本多忠勝]]ら反秀吉の強硬派と、[[石川数正]]ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥ってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正14年（[[1586年]]）4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の[[朝日姫]]を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・[[大政所]]までも人質として[[岡崎城]]に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、[[豊臣秀長]]邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、[[大坂城]]にて秀吉に謁見し（諸大名の前で）秀吉に臣従する事を表明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 豊臣家臣時代 ===&lt;br /&gt;
天正14年（[[1586年]]）11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を[[浜松城]]から[[駿府城]]へ移した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正15年（[[1587年]]）8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年（[[1590年]]）、秀吉による[[小田原征伐]]が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年（[[1589年]]）7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な[[検地]]を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である[[武蔵国|武蔵]]・[[伊豆国|伊豆]]・[[相模国|相模]]・[[上野国|上野]]・[[下野国|下野]]・[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]の7カ国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、[[江戸城]]を居城とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には[[大久保長安]]や[[伊奈忠次]]、[[長谷川長綱]]、[[彦坂元正]]・[[向井正綱]]、[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]・[[日下部定好]]ら、有能な家臣を[[代官]]などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。&lt;br /&gt;
[[文禄]]元年（[[1592年]]）より、秀吉の命により[[朝鮮出兵]]が開始されるが、家康は渡海することなく[[名護屋城]]に在陣することだけで許された。&amp;quot;常山紀談&amp;quot;には、[[本多正信]]が「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。しかし実際に渡海せずに済んだのは、[[小田原攻め]]と奥州攻めでの先鋒を務めた為の優遇措置との見方もある。が、「際限りなき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵に徳川軍が渡海を免れたお蔭で、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた。（[[小和田哲男]]『駿府の大御所　徳川家康』　静新新書　2007年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文禄4年（[[1595年]]）7月に「[[秀次事件]]」が発生。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の沈静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降家康は、開発途上の居城・[[江戸城]]よりも、[[伏見城]]に滞在する期間が長くなった。豊臣政権内に占める家康の比重が高まっていったのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶ事になる（[[小和田哲男]]『駿府の大御所 徳川家康』 静新新書 2007年）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶長]]3年（[[1598年]]）より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である[[豊臣秀頼]]の体制を磐石にするため、7月に[[五大老]]・[[五奉行]]の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 覇権奪取にむけて ===&lt;br /&gt;
[[画像:関ヶ原古戦場.jpg|thumb|250px|[[関ヶ原の戦い|関ヶ原]]古戦場]]&lt;br /&gt;
秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年（[[1595年]]）8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである（ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした）。&lt;br /&gt;
*[[伊達政宗]]の長女・[[五郎八姫]]と家康の六男・松平忠輝。&lt;br /&gt;
*[[松平康元]]（家康の甥）の娘と[[福島正之]]（[[福島正則]]の養子）。&lt;br /&gt;
*[[蜂須賀至鎮]]（[[蜂須賀家政]]の世子）と[[小笠原秀政]]の娘。&lt;br /&gt;
*[[水野忠重]]（家康の従兄弟）の娘と[[加藤清正]]。&lt;br /&gt;
*[[保科正直]]の娘と[[黒田長政]]（[[黒田如水]]の嫡男）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに家康は、[[細川忠興]]や[[島津義弘]]、[[増田長盛]]らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行なった。こうした政権運営をめぐって大老・[[前田利家]]や[[五奉行]]の[[石田三成]]らは憤激し、慶長4年（[[1599年]]）1月19日、家康に対して[[三中老]]の[[堀尾吉晴]]らを問罪使として派遣した。ところが家康は、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。しかし2月2日、家康は前田利家らと対立する不利を悟って、誓書を交わして和解した。しかし、閏3月3日に利家が病死すると、豊臣政権下で家康と互角に渡り合えるだけの勢力を持った人物はいなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利家が死んだ日の夜、福島正則や加藤清正らが、五奉行の石田三成を襲撃した。実は豊臣政権下では、秀吉の晩年から福島ら武断派と、石田ら文治派による対立があり、秀吉と利家が死去したことで、それが表面化したのである。三成は武断派諸将の襲撃をかわして家康に救いを求めた。家康も、現時点で三成を殺せば、自身の信義を問われることを恐れて三成を保護し、武断派諸将を慰撫し、三成に対しては保護する代わりに奉行職を解任して、[[佐和山城]]で蟄居させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して[[豊臣秀頼]]に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・[[石田正澄]]の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城西の丸に居座って、大坂で政務を執り続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに家康はこの頃、豊臣政権下における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、[[前田利長]]（前田利家の嫡男）・[[浅野長政]]・[[大野治長]]・[[土方雄久]]の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総結城の結城秀康に、雄久は[[常陸国|常陸]][[水戸市|水戸]]の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を強行しようとしたが、利長が生母の[[芳春院]]（まつ）を江戸に人質として差し出したことで、征伐を取りやめた。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し兵を挙げようとする三成らの事実無根の謀略であったとも言われている。&lt;br /&gt;
=== 関ヶ原の戦い ===&lt;br /&gt;
{{Main|関ヶ原の戦い}}&lt;br /&gt;
慶長5年（[[1600年]]）3月、家康は[[越後国|越後]]の[[堀秀治]]、[[出羽国|出羽]]の[[最上義光]]らより、会津の[[上杉景勝]]に軍備を増強するという不穏な動きがあるという報せを受ける。3月11日には、上杉氏の家臣で[[津川城]]城代を務め、さらに家康とも懇意にあった[[藤田信吉]]が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ、「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起こる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して家康は4月1日、[[伊奈昭綱]]を正使として景勝のもとへ問罪使として派遣する。ところが景勝の重臣・[[直江兼続]]は「[[直江状]]」という有名な挑戦状を返書として送ったことから、家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして、5月3日、上杉討伐を宣言した。このとき、[[前田玄以]]や[[長束正家]]、[[増田長盛]]ら三奉行と堀尾吉晴・[[中村一氏]]・[[生駒親正]]らが征伐の中止を訴えたが、家康は無視して征伐を強行する。6月2日には、家康直属の関東の諸大名に陣触れを出し、6月6日には諸大名を大坂西の丸に集めて軍議を開いた。6月8日には[[後陽成天皇]]から出馬慰労として晒布が下賜された。6月15日には秀頼から黄金2万両、[[兵糧米]]2万石を下賜され、ここに朝廷・豊臣氏から、家康の上杉征伐は、「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月16日、家康は大坂城京橋口より、軍勢を率いて上杉征伐に出征した。同日の夕刻には[[伏見城]]に入る。ところが6月23日には[[浜松]]、6月24日には[[島田市|島田]]、6月25日には[[駿府]]、6月26日には[[三島市|三島]]、6月27日には[[小田原市|小田原]]、6月28日には[[藤沢市|藤沢]]、6月29日には[[鎌倉]]、7月1日には[[金沢区|金沢]]、7月2日には[[江戸]]という、遅々たる進軍を行なっている。家康にはどうも、自分が上方を留守にしたとき、家康に反感を持つ[[石田三成]]ら諸大名が挙兵するのを待っていたものと思われる。というのも、秀吉亡き今、家康の武力は天下随一であるが、豊臣氏の家臣であるという立場上、直接的な武力クーデターで豊臣氏を滅ぼしてもそれは反逆行為であり、他の諸大名や世論から非難されることは明らかである。そこで、家康は三成の挙兵を大義名分として、豊臣氏の乗っ取りを図ろうとしていたものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はたして7月、[[石田三成]]は[[毛利輝元]]を総大将として擁立し、[[大谷吉継]]、[[増田長盛]]、[[長束正家]]らと共に挙兵した。7月17日には家康によって占領されていた西の丸を奪い返し、さらに家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。7月18日には家康の命令で伏見城を守っていた[[鳥居元忠]]を攻め、8月1日に元忠は討ち取られ、伏見城は落城した。さらに三成ら西軍は[[伊勢国|伊勢]]、美濃方面に進出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して家康は7月24日の[[下野国|下野]][[小山城 (下野国)|小山]]の陣において、[[伏見城]]の[[鳥居元忠]]が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康はこれに対して博打を打つ。実は、家康の上杉征伐に従軍していた諸大名の大半は、[[福島正則]]ら三成に反感を持つ武断派グループだった。そのため、家康は「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると武断派グループに告げた。三成は大坂城と秀頼を事実上、擁立していたため、家康は彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたのであるが、この家康の発言に[[福島正則]]、[[加藤嘉明]]らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成されたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東軍は、家康の徳川直属軍と福島らの軍勢、合わせて10万ほどで編成されていた。そのうち、一隊は[[徳川秀忠]]を総大将として[[宇都宮]]から[[中山道]]を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。さらに家康は7月24日から9月14日にかけて、160通近い書状を書き、さらに味方を増やすべく諸大名に回送している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月10日、福島正則ら東軍は尾張[[清洲城]]に入る。8月21日には西軍の勢力下にあった美濃に侵攻し、8月23日、西軍の[[織田秀信]]が守る[[岐阜城]]を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月1日、家康は江戸城から出陣し、9月14日に美濃に着陣した。同日、前哨戦として三成の家臣・[[島左近]]と[[宇喜多秀家]]の家臣・[[明石全登]]が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の[[中村一栄]]、[[有馬豊氏]]らが迎撃するが敗れ、[[中村一栄]]の家臣・[[野一色頼母]]が戦死してしまった（杭瀬川の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月15日午前8時、美濃[[関ケ原町|関ヶ原]]において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた（[[関ヶ原の戦い]]）。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の[[布施孫兵衛]]に命じて、[[松尾山 (岐阜県)|松尾山]]の[[小早川秀秋]]に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の[[大谷吉継]]隊に襲いかかる。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに[[脇坂安治]]、[[朽木元綱]]、[[赤座直保]]、[[小川祐忠]]らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、東軍が形勢逆転した。戦いの最終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ[[島津義弘]]軍が本陣目前にまで猛攻して来るという非常に恐ろしい経験もしたが、ここに[[関ヶ原の戦い]]は家康率いる東軍の勝利に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家康は9月18日、三成の居城・[[佐和山城]]を落として[[近江国|近江]]に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には[[六条河原]]で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各地の大名に預けていた領地がなくなった。その結果として豊臣氏は[[摂津国|摂津]]・[[河内国|河内]]・[[和泉国|和泉]]65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 征夷大将軍 ===&lt;br /&gt;
関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年（[[1601年]]）3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、[[伏見城]]に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、[[征夷大将軍]]として[[幕府]]を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。「将軍になれるのは[[清和源氏]]」という慣例もあった。そこで家康は、[[神龍院梵舜]]に命じて徳川家の系図を源氏の[[源義家]]に通じるように整備させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※注意&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年[[笠谷和比古]]や[[煎本増夫]]の研究によれば、家康が[[本姓]]が[[源氏]]だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年（1588年）であるとされる。[[後陽成天皇]]の[[聚楽第]]御幸に際して提出された誓紙の中で家康が「大納言源家康」と署名している為である。他に天正19年（1591年）、家康が[[相模国]]の寺社に出した[[朱印状]]にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と指摘している。なお、家康は勅許を得て松平姓から徳川姓に改姓した際には本姓は[[藤原氏]]と公称していた。また実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので将軍になれるのは[[清和源氏]]でなければならないというのは江戸期に作られた俗説とする説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長8年（[[1603年]]）2月12日、[[後陽成天皇]]が参議・[[勧修寺光豊]]を勅使として[[伏見城]]に派遣した。そしてここで六種八通の宣旨が下し、家康を[[征夷大将軍]]、淳和・奨学両院別当、[[右大臣]]に任命した。[[征夷大将軍]]への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、[[足利義満]]から始まった慣例である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月21日、家康は[[二条城]]で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行なわれたのは3月27日であり、この日を以て正式に[[江戸幕府]]が開かれたと見てよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家康は秀吉の死から四年半で、豊臣氏の[[五大老]]から武家の棟梁としての地位を手に入れた。家康は秀吉の義弟にして、五大老筆頭、[[足利氏|足利]]とならぶ河内源氏の名門、[[新田氏|新田]]の出であること、何より関東を実質的に支配していることを、朝廷に運動し征夷大将軍の宣下を請うた。一歩間違えば天下簒奪の謗りを免れないが、[[豊臣秀頼|秀頼]]幼少を理由にするとも、西欧列強への備えを理由とするとも、当時の家康の勢力からすれば大義名分はどうにでもなったといえよう。しかるに、豊臣家がそれを心穏やかに見る筈もなく、豊臣方には将軍就任を一時的なものであると印象づけておいた。また、徳川氏の本姓の改姓が関ヶ原の戦い以後であるならば、藤原姓の内大臣であった家康が藤原姓を理由に関白へ就任する事も可能であった。だが、それでは秀吉と同じ様な政権しか作りえない。豊臣政権の脆弱さを目の当たりにした家康にとっては豊臣政権の構想を否定するために征夷大将軍として武家の棟梁となり、朝廷に対しては関白に代わって源氏長者の立場で発言力を確保したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時における主従は武家社会では重要であるが、朝廷の権威をもってしなくては、私的なものでしかない。朝廷から武家の棟梁として認への大義名分を得、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府にあたって[[武家諸法度]]や[[禁中並公家諸法度]]の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形成挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大御所政治 ===&lt;br /&gt;
慶長10年（[[1605年]]）4月16日、家康は三男の徳川秀忠に譲位を行ない、将軍職は以後「徳川家が世襲していく事」を天下に示した。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、[[淀殿]]が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・[[松平忠輝]]を大坂城に派遣したことで、事は収まった。しかし、豊臣家の権威が大きく傷ついたことはいうまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長12年（[[1607年]]）に[[駿府城]]に移って、[[江戸]]の将軍・秀忠に対して[[大御所]]として実権を掌握し続けて[[二元政治]]をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた（'''大御所政治'''と呼ばれる）。ただし、二元政治と言われるが、実際は家康・秀忠の対立も多く、また徳川家臣による権力闘争も少なくなかった。慶長17年（[[1612年]]）の[[岡本大八事件]]、慶長18年（[[1613年]]）の[[大久保長安事件]]などが、それを如実に示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長16年（[[1611年]]）、[[二条城]]にて[[豊臣秀頼]]と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで岳父への挨拶にという名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功。これで秀頼の方から徳川家に足を運んだ形となり、天下の衆目は家康が日本の主君であることを認めることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 方広寺鐘銘事件 ===&lt;br /&gt;
家康は、当初、徳川家と豊臣家の共存を模索しているようにも見せかけていた。諸寺仏閣の統制を豊臣家に任せようとしていた兆候もある。また、（秀吉の遺言を受け）孫娘・[[千姫]]を秀頼に嫁がせてもいるしかし、豊臣家の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣家は、徳川家との決戦に備え、多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の敗残兵であり家康に恨みをもつ者たちであり、打倒徳川の心情であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに徳川家にも問題を抱かえていた。将軍・秀忠と松平忠輝は仲が悪かったし、将軍家でも秀忠の子である[[徳川家光]]と[[徳川忠長]]のどちらが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタン信者の動向も不気味であった。もしこれらが豊臣家と手を結んで打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのような中、慶長16年（[[1611年]]）に[[加藤清正]]や[[堀尾吉晴]]、[[浅野長政]]、慶長18年（[[1613年]]）には[[浅野幸長]]、[[池田輝政]]など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏の天下に対する影響力は衰えてゆく（あまりにも豊臣系の大名の死が相次いだため徳川による毒殺説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして慶長19年（[[1614年]]）、最晩年を迎えた家康は豊臣家を完全に屈服させることを決意、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
豊臣家は家康の勧めで慶長19年（1614年）4月に[[方広寺]]を再建し、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文に不吉な語があると言いがかりをつけた。「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」である。家康は「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽。子孫殷昌」を豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したのである。これは完全な言いがかりであり、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射（右大臣の唐名）源家康という意味である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに家康は8月18日、[[京都五山]]の長老たちに鐘銘の解釈を行なわせた。その結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」（徳川実紀）と返答したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して豊臣方は家老の[[片桐且元]]と鐘銘を作成した[[文英清韓]]を駿府に派遣し、家康を翻意させるため弁明を試みようとした。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、片桐且元を大坂へ返した。片桐且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣方は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に片桐且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は、豊臣家が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に豊臣方に宣戦布告したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大坂冬の陣 ===&lt;br /&gt;
慶長19年（[[1614年]]）11月15日、家康は二条城を発して大坂攻めの途についた。そして家康は20万からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが、力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行なうにとどめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月19日、[[蜂須賀至鎮]]らの攻撃で、[[木津川口の戦い (1614年)|木津川口の戦い]]が行なわれ、徳川軍が勝利する。同日、[[向井忠勝]]ら徳川水軍の攻撃によって、豊臣水軍は敗れた。11月26日には[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]らに命じて今福・鴫野の砦を落とさせた（[[今福の戦い]]、[[鴫野の戦い]]）が、[[木村重成]]らの猛反撃を受けて辛勝するにとどまった。11月29日、家康は[[池田忠雄]]らに命じて博労淵砦の奪取を行なわせた（[[博労淵の戦い]]）。ところが守将の[[薄田兼相]]が遊女屋に泊り込んで留守にしていたため、あっけなく奪取した。このように徳川軍は局地戦で勝利を重ねた。ただし、12月4日に行なわれた[[真田丸の戦い|真田丸攻め]]では、徳川軍は[[真田信繁]]（幸村）の前に大敗を喫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、家康はこの程度の敗戦を気にすることも無く、12月9日に新たな作戦を始動する。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に[[大砲]]（[[石火矢]]・[[大筒]]）を放たせて城兵、特に戦慣れしていない[[淀殿]]らを脅そうとしたのである。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は、12月19日、家康に和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和議の条件は、大坂城の惣堀を埋め立てと二の丸、三の丸の破壊である。12月23日から2日で惣堀を埋め立てた後、12月25日には腹心の[[本多正純]]に命じて大坂城二の丸、三の丸の櫓を全て破却させ、土塁と石垣を崩し、さらに内堀も埋め立て慶長20年（[[1615年]]）1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大坂夏の陣 ===&lt;br /&gt;
豊臣方は慌てて埋め立てられた堀を掘り返そうとした。ところが、家康は、それを「豊臣家が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣家の移封を要求。更に[[徳川義直]]の婚儀の為と称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣方に要求が拒否されるや侵攻を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して豊臣方は、大坂城からの出撃策をとった。しかし兵力で圧倒的に不利な豊臣方は、[[塙直之]]、[[後藤基次]]、[[木村重成]]、[[薄田兼相]]ら勇将を相次いで失ってしまう。徳川方の大軍ゆえの油断や連携の拙さ、[[真田信繁]]や[[毛利勝永]]らの奮闘もあって、一時は家康本陣の[[馬印]]が倒れ、家康自身も自害を覚悟するという危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川方により信繁・勝永らも戦死し、遂に大坂城は落城。5月8日、[[豊臣秀頼]]と[[淀殿]]、そしてその側近らは自害し、ここに豊臣氏は滅亡した（詳細は各項目を参照）。&lt;br /&gt;
なお「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあるが、これは主筋であった豊臣家を滅ぼし非難されることを避けるための後の創作であるとも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後豊臣[[大坂城]]は完全に埋め立てられ、その上に徳川家によって新たな[[大坂城]]が再建されたり、秀吉に死後授けられた[[豊国大明神]]の神号が廃され、[[豊国神社]]と秀吉の廟所であった[[豊国廟]]が閉鎖・放置される、さらには大坂の陣で家康と対立した[[淀殿]]の事を「淀君」と蔑称で呼んで（「君」とは当時の遊女の蔑称）、「神君家康に楯突いて豊臣氏を滅亡の道へと進ませた無謀極まりない悪女」のように評価するなど、江戸幕府によって豊臣家は滅亡後もなおその存在を徹底的に否定される事となる。なお、豊臣家が名誉を回復するのは明治維新以後の事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
[[元和 (日本)|元和]]元年（[[1615年]]）、家康は[[禁中並公家諸法度]]を制定して、幕府の朝廷に対する統制と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにした。また、諸大名統制のために[[武家諸法度]]・[[一国一城令]]が制定された。こうして、徳川家による日本全域の支配を実現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元和2年（[[1616年]]）1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から[[太政大臣]]の位を贈られた。[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]の[[巳|巳の刻]]（[[午前]]10時ごろ）に駿府城において死去した。享年75歳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死因は、[[鯛]]の[[天ぷら]]による[[食中毒]]説がある。鯛の天麩羅死亡説は、家康が鯛の天ぷらを食べたのは[[1月21日_(旧暦)|1月21日]]の夕食であり、亡くなったのは4月17日で（いずれも旧暦）、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て[[胃癌]]か[[梅毒]]と考えられている。尚、家康が問題の天麩羅を食べたのは田中城（現静岡県藤枝市田中）であった。[[辞世の句]]として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」（『東照宮御実記』にこの二首が伝わる）を詠んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
余談であるが、[[江戸城]]内においては天ぷらを料理する事は禁止されていた。これは徳川家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされる場合もあるが、実際には、大奥の侍女のひとりが天ぷらを料理していて、火事を出しかけたがために禁止されたというのが事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* [http://ja.wikipedia.org/ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:徳川氏|いえやす]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83&amp;diff=142410</id>
		<title>今川義元</title>
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				<updated>2011-11-06T14:15:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: /* 出典 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;※ＷＩＫＩＰＥＤＩＡの捏造歴史情報に注意！！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今川 義元'''（いまがわ よしもと）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]・[[大名]]。[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[武田信玄]]の義兄にあたる。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]の一家系・[[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏]]の傍流[[吉良氏]]の分家にあたる[[今川氏]]。[[今川氏|駿河今川家]]第9代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[駿河国|駿河]]（[[静岡県]]中部）の[[守護大名]]である今川氏の第9代目当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7代当主・今川氏親とその正室である中御門宣胤の娘（[[寿桂尼]]）の子。幼名は芳菊丸。正室は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる[[定恵院]]。子に今川氏真、娘は[[武田義信]]の室となった。ライバル・[[北条氏康]]は義弟にあたり、また武田信玄の義兄でもある。寄親・寄子制度を設け、軍事組織力の革命的な改革を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]軍の攻撃を受け討死した。&lt;br /&gt;
==出典==&lt;br /&gt;
今川義元に関する１次史料は、信長公記・三河物語などに桶狭間合戦での討死シーンの記述がある位で、彼の事跡について詳細に記述されたものはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それ以外の歴史書も、江戸・明治・大正・戦前と存在せず、最近になって、静岡大学教授の小和田哲男氏による研究本があるのみである。（国立国会図書館ＤＢ調べ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、今川氏初代から今川氏親までの代について記述されたものに、今川記（斉藤道斎著）、今川家譜（著者・成年とも不明）がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 内乱と家督相続 ===&lt;br /&gt;
[[永正]]16年（[[1519年]]）、[[今川氏親]]の五男として生まれる。生まれたときはすでに同母兄でのちに第8代当主となる[[今川氏輝]]がいたため、4歳で仏門に出されて[[臨済宗]]の駿河富士郡瀬古の[[善徳寺]]に預けられ、'''梅岳承芳'''（ばいがくしょうほう）と称し教育係につけられた今川一族出身の禅僧・[[太原雪斎]]とともに[[京都]]に上って[[五山]]に学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]5年（[[1536年]]）、氏輝が急死したために駿河に戻り異母兄で同じく出家していた[[玄広恵探]]との間で家督争いとなるが、雪斎の尽力で勝利し、還俗して今川氏第9代当主・駿河[[守護]]となり、義元と称した（[[花倉の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北条・織田との戦い ===&lt;br /&gt;
天文6年（[[1537年]]）、兄の時代までの宿敵であった[[武田信虎]]の娘（[[定恵院]]）と結婚し、[[甲斐国|甲斐]]（[[山梨県]]）の[[武田氏]]と同盟を結んだ。そのため、かえって旧来の縁戚であった[[伊豆国|伊豆]]・[[相模国|相模]]（[[神奈川県]]西南部）を領する[[後北条氏|北条氏]]との同盟が決裂し、[[北条氏綱]]が駿河河東郡吉原に侵攻してくる。義元もこれに対して交戦するが、氏綱の前に敗れて河東郡を奪われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[尾張|尾張]]（[[愛知県]]）の[[織田信秀]]が天文9年（[[1540年]]）から[[三河国|三河]]に対して侵攻を開始する。このため、義元は三河の諸豪族と連合して天文11年（[[1542年]]）に信秀と一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れた（第1次[[小豆坂の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 勢力拡大 ===&lt;br /&gt;
北条家では天文10年（[[1541年]]）に氏綱が死去し氏康が家督を継いでいたが、義元は氏康と同じく敵対する[[上杉憲政]]と天文14年（[[1545年]]）に同盟を結んで、連携して氏康を攻めた。その結果、義元と氏康は武田晴信（信玄）の仲介により、北条家の河東郡を今川家に返還するという義元に有利な条件で和睦した。天文20年（[[1551年]]）、氏康によって[[興国寺城]]を奪われたものの、すぐに奪還して[[黄瀬川]]を国境としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河においても尾張の織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の[[松平広忠]]の帰順を受け、広忠の嫡男・竹千代（のちの[[徳川家康]]）を人質に迎え入れようとするが、護送を請け負った三河・[[田原城 (三河国)|田原城]]（愛知県[[田原市]]）の国人領主・[[戸田康光]]が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまった。これは、前年に義元が[[戸田氏]]の一族である[[戸田宣成]]、[[戸田吉光]]を滅ぼしたため、これに憤った戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに怒った義元は戸田宗家をも滅ぼし、その居城であった田原城に朝比奈氏を入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文17年（[[1548年]]）、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の重臣である雪斎・[[朝比奈泰能]]らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した（第2次小豆坂の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）、松平広忠が死去すると義元は今川軍を[[岡崎城]]に送り込んで、事実上松平家の所領とその支配下にあった三河の[[国人]]領主を直接支配下に取り込んだ。また、織田方の三河[[安祥城]]（愛知県[[安城市]]）を攻略し信秀の庶長子にあたる城将・[[織田信広]]を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還。尾張進出の足掛かりを着々と築いていく。天文20年（[[1551年]]）に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に天文22年（[[1553年]]）には亡父の定めた[[今川仮名目録]]に[[仮名目録追加|追加法]]を加えたが、ここにおいて室町幕府が定めた[[守護使不入地]]の廃止を宣言、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文23年（[[1554年]]）、嫡子・氏真に北条氏康の娘（[[早川殿]]）を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで[[甲相駿三国同盟]]を結成した（この会談は善徳寺の会盟とも言われている）。これにより後顧の憂いを断った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永禄]]元年（[[1558年]]）からは氏真と政務の分担を図っている。駿河・遠江・三河で[[検地]]も実施している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa in Okehazama.jpg|thumb|200px|right|今川義元の墓 [[明治]]9年（[[1876年]]）5月建立&amp;lt;br /&amp;gt;愛知県豊明市&amp;lt;br /&amp;gt;桶狭間古戦場伝説地内]]&lt;br /&gt;
[[Image:The grave of Yoshimoto Imagawa.jpg|thumb|200px|right|今川義元胴塚&amp;lt;/br&amp;gt;愛知県豊川市牛久保町]]&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]元年（[[1555年]]）に軍師・雪斎、弘治3年（[[1557年]]）には朝比奈泰能といった名補佐役が次々と病死し、次第に今川家の全盛期に翳りが見え始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）、[[三河国|三河守]]に遷任する。5月には2万2000の軍を率いて[[尾張]]への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた同国[[知多郡]][[大高城]]（[[名古屋市]]緑区大高）を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて[[沓掛城]]で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、おけはざま山で休息中に[[織田信長]]の攻撃を受け、[[松井宗信]]らと共に奮戦するも愛刀・[[宗三左文字|左文字]]の太刀ともども首級を奪われた（通称「[[桶狭間の戦い]]」。『[[信長公記]]（しんちょうこうき）』の記述による）。[[享年]]42。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、残存した今川兵によって[[駿河|駿府]]まで連れ帰ろうと試みられた首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国[[宝飯郡]]に埋葬された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[戒名|法名]]：天澤寺秀峯哲公。&lt;br /&gt;
* 墓所：[[愛知県]][[豊明市]]の[[桶狭間古戦場伝説地]]。愛知県[[豊明市]]の[[高徳院 (豊明市)|高徳院]]。[[静岡県]][[静岡市]]の[[臨済寺 (静岡市)|臨済寺]]。[[東京都]][[杉並区]]の[[観泉寺]]。&lt;br /&gt;
* 塚：愛知県[[豊川市]]牛久保町の[[大聖寺]]（胴塚）（[[一色時家]]の墓の隣）。愛知県[[西尾市]]駒場町の東向寺（首塚）。愛知県[[東海市]]の今川塚。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後 ==&lt;br /&gt;
織田方に討ち取られた[[首級]]は、尾張国内で孤立する義元の家臣・[[岡部元信]]の信長への度重なる懇願によって後に返還された。義元の戦死により家督は嫡男の[[今川氏真|氏真]]が継いだが、この隙に乗じた松平元康（後の徳川家康）が西三河で自立。この動きに追従するように東三河でも戸田氏や[[西郷氏]]などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。このような三河の動揺が隣国・遠江へも伝播すると、正・誤の判別がつかない情報が飛び交う遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまう（遠州錯乱）。今川氏後継の嫡子氏真は政治的才能に乏しく[[井伊直親]]や[[飯尾連竜]]などの粛清で事態の収拾を期したが、かえって人心の離反を加速させてしまい今川氏は見る見るうちに衰退し始めた。義元没後から8年で信玄によって駿河を追われ、ここに戦国大名としての今川家は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今川氏は桶狭間の戦いからわずか8年で駿河から追放され、徳川氏の庇護下に組み入れられる事で存続する事となった。駿河追放後、氏真は[[京都]]で隠棲していたが、嫡子・[[今川範以|範以]]が病没。その後、徳川家康に召し出されて[[江戸幕府]]に出仕し温情により500石を与えられ、これ以降今川氏は幕府[[高家]]として[[幕臣]]に列した。&lt;br /&gt;
==勢力圏==&lt;br /&gt;
桶狭間合戦当時の最盛期の今川義元の領国は、駿河国、遠江国、三河国の3カ国の69万石（太閤検地）である。なお、尾張国は領国化されておらず、尾張国内に、反織田方として、山口氏、服部氏などが、今川に呼応する動きを見せている。大日本帝国参謀本部作成の日本戦史、桶狭間役の分析で、石高の低い駿河、遠江、三河が水増しされ、さらに尾張が領国に組み入れられ、100万石とカウントされ、1万石につき250人の兵役で、総兵力2万5千とされているが、信長公記では4万5千となっており、正確な実数は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今川義元を海道一の弓取と記載した本があるが、誤りで、徳川家康のことを指す、明治時代に作成された本が出典であり、戦国時代当初に呼称されていた用語ではない（詳細は、[[徳川家康#海道一の弓取]]を参照のこと）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今川氏の最盛期は義元時代ではなく、氏親時代であり、家臣の[[北条早雲]]の相模・伊豆・武蔵、尾張の那古野城の[[今川氏豊]]（氏親の子）、三河の今川方勢力（牧野氏、鵜殿氏、吉良氏など）、完全領国化している駿河・遠江、など東海道に広く勢力圏があった。北条氏綱の独立、三河の松平氏の台頭、織田信秀の那古野城の奪取、今川家中での家督争いの内紛によって、勢力が大きく後退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
* 寸胴短足で馬に乗る事ができなかった為、合戦の時なども輿に乗り移動したと言う俗説が有名であるが、そうした記述がある資料は江戸時代中期の物で信憑性は極めて低い。また信長の家臣・[[太田牛一]]が記した『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたと記述している。義元は[[足利将軍家]]との親密な関係（今川家は足利将軍家の分家）から特別に輿に乗る事を認められており、それが後世の創作と結びついて上記の俗説が生じたのではないかと考えられている。他の説としては幼少時に落馬した恐怖の為に乗れなかったのではないかという物がある。&lt;br /&gt;
* 公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護した為、貴族趣味に溺れた人物とされる事もある。しかし「[[お歯黒]]をつけ、置眉、薄化粧をする」という話は後世の作であるという説もある{{要出典}}。また、たとえ事実であったとしてもそれは家格の高さを示す事こそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。近年ではむしろ積極的な領土拡大を理由とした度重なる軍事行動が、家臣や領民の疲弊を招き、死後の今川氏が急速に衰退した原因の一つであると指摘されている。&lt;br /&gt;
* 『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計（馬高五尺五寸の青毛の馬）なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。&lt;br /&gt;
* 永禄3年（1560年）の尾張侵攻は、上洛を目的とする説と織田信長討伐・尾張攻略説とがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 小和田哲男 編『今川義元のすべて』（新人物往来社、[[平成]]6年（[[1994年]]）） ISBN 978-4-404-02097-0&lt;br /&gt;
* 小和田哲男『今川義元 &amp;lt;small&amp;gt;自分の力量を以て国の法度を申付く&amp;lt;/small&amp;gt;』（ミネルヴァ書房日本評伝選、平成16年（[[2004年]]）） ISBN 978-4-623-04114-5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[今川氏]]&lt;br /&gt;
* [[静岡]]（=[[駿府]]）&lt;br /&gt;
* [[泉岳寺]]（義元の縁者とされる門庵宗関が[[慶長]]17年（[[1612年]]）に義元の菩提を弔うため開創した寺）&lt;br /&gt;
* [[小原鎮実]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]（[[昭和]]40年（[[1965年]]） NHK大河ドラマ、演：[[三國一朗]]）&lt;br /&gt;
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]（昭和44年（[[1969年]]） NHK大河ドラマ、演：[[根上淳]]）&lt;br /&gt;
* [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]（昭和48年（[[1973年]]） NHK大河ドラマ、演：[[花柳喜章]]）&lt;br /&gt;
* [[おんな太閤記]]（昭和56年（[[1981年]]） NHK大河ドラマ、演：[[新みのる]]）&lt;br /&gt;
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]（昭和58年（[[1983年]]） NHK大河ドラマ、演：[[成田三樹夫]]）&lt;br /&gt;
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]（昭和63年（[[1988年]]） NHK大河ドラマ、演：[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]）&lt;br /&gt;
* [[信長 KING OF ZIPANGU]]（平成4年（[[1992年]]） NHK大河ドラマ、演：[[柴田侊彦]]）&lt;br /&gt;
* [[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]（平成8年（[[1996年]]） NHK大河ドラマ、演：[[米倉斉加年]]）&lt;br /&gt;
* [[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]]（平成14年（[[2002年]]） NHK大河ドラマ、演：[[佐々木睦]]）&lt;br /&gt;
* [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]（平成18年（[[2006年]]） NHK大河ドラマ、演：[[江守徹]]）&lt;br /&gt;
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]（平成19年（[[2007年]]） NHK大河ドラマ、演：[[谷原章介]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www15.u-page.so-net.ne.jp/kc4/tomofumi/index.html 今川館]&lt;br /&gt;
* [http://www2.tokai.or.jp/marco/imakawa/imagwa00.htm 今川時代]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/rekishi_chips/saikyo1.htm 今川義元]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川家]]|第9代:1536 - 1560|[[今川氏輝]]|[[今川氏真]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いまかわ よしもと}}&lt;br /&gt;
[[Category:今川氏|よしもと]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:駿河国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1519年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1560年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[cs:Jošimoto Imagawa]]&lt;br /&gt;
[[en:Imagawa Yoshimoto]]&lt;br /&gt;
[[eo:Imagawa Yoshimoto]]&lt;br /&gt;
[[es:Imagawa Yoshimoto]]&lt;br /&gt;
[[fr:Yoshimoto Imagawa]]&lt;br /&gt;
[[id:Imagawa Yoshimoto]]&lt;br /&gt;
[[it:Imagawa Yoshimoto]]&lt;br /&gt;
[[ko:이마가와 요시모토]]&lt;br /&gt;
[[pl:Yoshimoto Imagawa]]&lt;br /&gt;
[[ru:Имагава Ёсимото]]&lt;br /&gt;
[[uk:Імаґава Йосімото]]&lt;br /&gt;
[[vi:Imagawa Yoshimoto]]&lt;br /&gt;
[[zh:今川義元]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E9%82%91%E5%AD%90&amp;diff=142409</id>
		<title>後藤邑子</title>
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				<updated>2011-11-06T13:59:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: /* 人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''後藤 邑子'''（ごとう ゆうこ、[[1975年]][[8月28日]] - ）は[[愛知県]]出身の[[声優]]。[[ぷろだくしょんバオバブ]]所属。[[血液型]][[ABO式血液型|O型]]。[[南山大学]]外国語学部中退。2006年11月には自身初となるオリジナルアルバムを発売した。現在の所、アニメ・歌などを中心に精力的に活動している。[[身長]]160cm。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物紹介 ==&lt;br /&gt;
=== 略歴 ===&lt;br /&gt;
* 字幕翻訳家を目指して大学で英語を専攻。在学中にテレビ局のADのアルバイトをしていたが、そこで個性的な声を褒められたことがきっかけで声優を目指し、大学を2年次限りで中退し上京。バオバブ養成所に入所を希望するが、電話をしたタイミングが募集時期ではなかったため（12月）、直接プロダクションの面接を受けて合格。ちなみに面接写真はチャイナ服で、最初は落ちこぼれだったという。『[[イケてる2人]]』で声優デビュー。涼宮ハルヒの憂鬱の朝比奈みくる役で'''第1回[[声優アワード]]のサブキャラクター賞女優部門を受賞'''した。&lt;br /&gt;
*邑子の邑が「むら」と読めることから、'''むらこ'''と呼ぶファンもいる。また、「ぽんこつ」というあだ名のキャラクター&amp;lt;ref&amp;gt;ゲーム『[[みずいろ]]』の早坂日和。なお、PC版（原作）のみ、後藤ではなく[[籐野らん]]が演じている。&amp;lt;/ref&amp;gt;を演じたことから、彼女自身も'''ぽんこつ'''と呼ばれることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人物 ===&lt;br /&gt;
*少女役が多いが、デビュー作品である『[[イケてる2人]]』の桜井兼人役では唯一少年役を担当した。『[[ふしぎ星の☆ふたご姫]]』のレイン役、『[[涼宮ハルヒの憂鬱 (アニメ)|涼宮ハルヒの憂鬱]]』の朝比奈みくる役、『[[ラムネ (ゲーム)|ラムネ]]』の近衛七海役の様に比較的おっとり濃厚な役柄を演じることが多いが、『[[BLUE DROP|BLUE DROP 〜天使達の戯曲〜]]』のツバエル役、『[[さよなら絶望先生]]』の小節あびる役の様に控えめでクールな役、『[[君が主で執事が俺で]]』の久遠寺未有役の様に小生意気な役、『[[ドラゴノーツ -ザ・レゾナンス-]]』のマキナ役、『[[ひだまりスケッチ]]』のヒロ役の様に落ち着いたお姉さんキャラ、『[[S・A|S・A〜スペシャル・エー〜]]』の華園光のような気っ風のいいキャラ、そして『[[らき☆すた (アニメ)|らき☆すた]]』での本人役であるゴットゥーザ様役では、[[特攻服]]を纏った[[暴走族]]の様な容姿で相当腹黒い演技も見せている。&lt;br /&gt;
* 趣味は旅行・[[オートバイ]]と行動派。これらと[[バレーボール]]で青春時代を過ごす。愛車は青の[[ホンダ・CB400スーパーフォア|CB400SF]]。本当は仕事場に乗って行きたいが事務所から止められている。ファン向けに販売された[[テレホンカード]]の写真で一緒に写っている。インタビューでも、好きな物の1つに、交通量が比較的少なく走りやすい[[北陸自動車道]]を挙げていた。読書も趣味だが、1度読んだ本をまた買ってしまったこともあるらしい。&lt;br /&gt;
* [[実用英語技能検定|英検]]準1級を持ち、[[国際コミュニケーション英語能力テスト|TOEIC]]で818点、[[TOEFL]]で565点を取得したことがある&amp;lt;ref&amp;gt;本人のウェブサイトの「PROFILE」より。なお、本人曰く、TOEFLのスコアは有効期限切れである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのためか、『[[スケッチブック (漫画)|スケッチブック 〜full color's〜]]』のケイト、『[[げんしけん#げんしけん2|げんしけん2]]』のスザンナ・ホプキンスといった、[[英語]]を[[母語]]とするキャラクターの役を演じることがある。&lt;br /&gt;
* 特技は[[イラスト]]・[[漫画]]。イラストは、本人のHPや声優関連の雑誌で目にする事が出来る（『後藤ラジオ』のCDのアンケートはがきも本人手書きである）。&lt;br /&gt;
* [[酒]]好きで、大酒飲みである。&lt;br /&gt;
** 家族全員が大酒飲み。&lt;br /&gt;
** どんなに飲んでも酔わない。&lt;br /&gt;
** 業界の飲み会にはめったに顔を出さない。出るのが年に一度くらいなので『[[七夕#織女星と牽牛星の伝説|織姫]]』のあだ名で呼ばれたこともある。&lt;br /&gt;
** 同じく声優界屈指の酒豪として知られる[[緒方恵美]]と差しで12時間飲み続けた事がある(後藤本人のブログおよび緒方の公式サイトの日記より)。&lt;br /&gt;
* 『[[涼宮ハルヒの憂鬱 (アニメ)|涼宮ハルヒの憂鬱]]』のアフレコの現場にて男性陣と『[[北斗の拳]]』談義で盛り上がった際に[[杉田智和]]より'''ゴトゥーザ様'''のあだ名をつけられる（それを基にした本人モチーフキャラが『らき☆すた』にて登場した際は｢'''ゴットゥーザ様'''｣名義であった）。ちなみに、好きな漫画は『[[拳児]]』。&lt;br /&gt;
* 『[[ねぶら]]』で共演し、先輩声優の[[荻原秀樹]]に「半目ラブチキン」と名付けた。しかし番組CD「ねぶらCDスペシャル」及びそれに伴う公開録音において、荻原や[[王雀孫]]により「後藤もかなりのラブチキン」であるという事が判明した。番組中のコーナー「ハンメルンの笛吹き」でトークが白熱すると、しばしば柄が悪くなったり、壊れかけてしまう事がある。&lt;br /&gt;
* 同じ事務所に所属する声優[[友永朱音]]とは、親友関係。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エピソード ===&lt;br /&gt;
* 主に高等学校で配布された職業紹介冊子の声優の項目に仕事風景とインタビューが掲載されている（当時、声をあてていた『[[くじびきアンバランス]]』の台本を手にしている。）。&lt;br /&gt;
* [[2006年]][[11月19日]]に開催された、第11回『[[アニメーション神戸]]』にて「[[ハレ晴レユカイ]]」が主題歌賞（[[ラジオ関西]]賞）を受賞。[[茅原実里]]と共に授賞式に参加（[[平野綾]]は病気療養中の為、欠席）。&lt;br /&gt;
*2007年1月頃から喉の調子が悪く、薬を服用するも一向に調子が元に戻らない事から、同年4月頃に短期休養に入った影響で4月期開始の出演作は少ない。その間の出来事も随時自らのブログに記している。&lt;br /&gt;
*2007年5月29日付けのブログで「自分のウィキペディア見ました。出身大学が違います！何でだ（笑）」と発言していた。&lt;br /&gt;
* 中学生時代、勉強にも遊びにも一生懸命取り組んでいたため、過労で入院したことがある（[[さよなら絶望放送]]第二十回より）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演作品 ==&lt;br /&gt;
※'''太字'''は主役・メインキャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビアニメ ===&lt;br /&gt;
'''1999年'''&lt;br /&gt;
* [[イケてる2人]]（桜井兼人）&lt;br /&gt;
* [[神風怪盗ジャンヌ]]（生徒）&lt;br /&gt;
* [[∀ガンダム]]（女友達#2）&lt;br /&gt;
'''2000年'''&lt;br /&gt;
* [[だぁ!だぁ!だぁ!]]（さゆり）&lt;br /&gt;
* [[へろへろくん]]（みるみる|ダンボット1号）&lt;br /&gt;
* [[ワイルドアームズ トワイライトヴェノム]]（ファルーナ、ミーシャ）&lt;br /&gt;
'''2001年''' &lt;br /&gt;
* [[しましまとらのしまじろう]]（ケロケロお姉さん|etc）&lt;br /&gt;
* [[ピロッポ]]（モッペ君）&lt;br /&gt;
* [[リトル・ルル]]（アニー）&lt;br /&gt;
'''2002年'''&lt;br /&gt;
* [[Witch Hunter ROBIN]]（少女（メトセラ子供時代））&lt;br /&gt;
* [[おくびょうなカーレッジくん]]（バニー）&lt;br /&gt;
* [[ヘイ!アーノルド]]（ユージーン、ライラルルなど）&lt;br /&gt;
'''2003年'''&lt;br /&gt;
* [[おねがい☆ツインズ]]（女子生徒）&lt;br /&gt;
* [[GetBackers-奪還屋-]]（看護師）&lt;br /&gt;
* [[成恵の世界]]（柏崎ゆき、店員）&lt;br /&gt;
* [[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]]（フタバ）&lt;br /&gt;
* [[ねこぢるうどん|ねこぢる劇場]]（にゃんすけ|etc）&lt;br /&gt;
* [[無限戦記ポトリス]]（市民A）&lt;br /&gt;
'''2004年'''&lt;br /&gt;
* [[出撃!マシンロボレスキュー]]（芦川広海）&lt;br /&gt;
* [[げんしけん]]（山田薫子（劇中アニメ『[[くじびきアンバランス]]』のみ））&lt;br /&gt;
* [[マーメイドメロディーぴちぴちピッチ]]（ジェニファー・ヒューストン）&lt;br /&gt;
'''2005年'''&lt;br /&gt;
* [[らいむいろ戦奇譚#らいむいろ流奇譚Χ|らいむいろ流奇譚X CROSS]]（カシミア）&lt;br /&gt;
* [[今日からマ王!]]（イズラ）&lt;br /&gt;
* [[SHUFFLE! (アニメ)|SHUFFLE!]]（'''芙蓉楓'''、マサト）&lt;br /&gt;
* [[To Heart|To Heart 〜Remember my Memories〜]]（藍原瑞穗）&lt;br /&gt;
* [[ふしぎ星の☆ふたご姫]]（'''レイン'''）&lt;br /&gt;
* [[ラムネ (ゲーム)|ラムネ]]（'''近衛七海'''）&lt;br /&gt;
'''2006年'''&lt;br /&gt;
* [[処女はお姉さまに恋してる|乙女はお姉さまに恋してる]]（高島一子）&lt;br /&gt;
* [[くじびきアンバランス|くじびき♥アンバランス]]（山田薫子）&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒの憂鬱 (アニメ)|涼宮ハルヒの憂鬱]]（'''朝比奈みくる'''）&lt;br /&gt;
* [[ふしぎ星の☆ふたご姫Gyu!]]（'''レイン'''）&lt;br /&gt;
* [[らぶドル 〜Lovely Idol〜]]（'''猫谷海羽'''）&lt;br /&gt;
'''2007年'''&lt;br /&gt;
* [[げんしけん#げんしけん2|げんしけん2]]（スザンナ・ホプキンス、山田薫子（劇中アニメ『くじびきアンバランス』のみ））&lt;br /&gt;
* [[さよなら絶望先生]]（'''小節あびる'''）&lt;br /&gt;
* [[SHUFFLE! (アニメ)|SHUFFLE! MEMORIES]]（'''芙蓉楓'''）&lt;br /&gt;
* [[獣装機攻ダンクーガノヴァ]]（エイーダ・ロッサ）&lt;br /&gt;
* [[スケッチブック (漫画)|スケッチブック 〜full color's〜]]（ケイト）&lt;br /&gt;
* [[桃華月憚]]（黒沼塔子）&lt;br /&gt;
* [[ドラゴノーツ -ザ・レゾナンス-]]（マキナ）&lt;br /&gt;
* [[ナイトウィザード#テレビアニメ|ナイトウィザード The ANIMATION]]（'''ベール＝ゼファー'''）&lt;br /&gt;
* [[ハヤテのごとく! (テレビアニメ)|ハヤテのごとく!]]（魔王・ザ・グレートステイジアン・オブ・阿部（仮）→阿部マオ）&lt;br /&gt;
* [[ひだまりスケッチ]]（'''ヒロ'''）&lt;br /&gt;
* [[BLUE DROP|BLUE DROP 〜天使達の戯曲〜]]（ツバエル）&lt;br /&gt;
* [[やっとかめ探偵団]]（波川舞）&lt;br /&gt;
* [[らき☆すた (アニメ)|らき☆すた]]（ゴットゥーザ様）&lt;br /&gt;
'''2008年'''&lt;br /&gt;
* [[イタズラなKiss]]（クリスティーヌ・ロビンス）&lt;br /&gt;
* [[君が主で執事が俺で]]（'''久遠寺未有'''）&lt;br /&gt;
* [[銀魂 (アニメ)|銀魂]]（お姉ちゃん（きらら））&lt;br /&gt;
* [[狂乱家族日記]]（平塚雷蝶 / 死神二番）&lt;br /&gt;
* [[コードギアス 反逆のルルーシュ|コードギアス 反逆のルルーシュR2]]（アーニャ・アールストレイム、水無瀬むつき、モニカ・クルシェフスキー、機情C、アナウンサー）&lt;br /&gt;
* [[さよなら絶望先生|俗・さよなら絶望先生]]（'''小節あびる'''、(第6話後半部分(Cパート)のみ)糸色倫）&lt;br /&gt;
* [[S・A|S・A〜スペシャル・エー〜]]（'''華園光'''）&lt;br /&gt;
* [[ひだまりスケッチ|ひだまりスケッチ×365]]（'''ヒロ'''）&lt;br /&gt;
'''2009年'''&lt;br /&gt;
* [[ティアーズ・トゥ・ティアラ 花冠の大地]]（'''リアンノン'''）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== OVA ===&lt;br /&gt;
* [[I&amp;quot;s#I&amp;quot;s Pure|I&amp;quot;s Pure]]（森崎佑加）&lt;br /&gt;
* [[さよなら絶望先生|獄・さよなら絶望先生]]（'''小節あびる'''）&lt;br /&gt;
* [[ふしぎ星の☆ふたご姫Gyu!]] スペシャル ぐるり☆ふしぎ星めぐり（'''レイン'''）&lt;br /&gt;
* [[みずいろ]]（'''早坂日和'''）&lt;br /&gt;
* [[よつのは]]（'''柚姫衣織'''）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゲーム ===&lt;br /&gt;
'''1998年'''&lt;br /&gt;
* [[御意見無用|御意見無用2]]（葛木亜矢|野々村瞳）&lt;br /&gt;
'''1999年'''&lt;br /&gt;
* [[ぷよぷよ〜ん]]（アーちゃん）&lt;br /&gt;
'''2001年'''&lt;br /&gt;
* [[SIMPLEシリーズ]]（[[双葉理保]]、多数に出演）&lt;br /&gt;
* [[プリズム・ハート]]（メイプル・リッツ）&lt;br /&gt;
'''2002年'''&lt;br /&gt;
* [[フーリガン (ゲーム)|フーリガン〜君のなかの勇気〜]]（天羽悠加）&lt;br /&gt;
* [[みずいろ]]（'''早坂日和'''）&lt;br /&gt;
'''2004年'''&lt;br /&gt;
* [[こころの扉]]（水原菜々美）&lt;br /&gt;
* [[水月 (ゲーム)|水月 -迷心-]]（'''香坂アリス'''）&lt;br /&gt;
* [[たまきゅう]]（今市伸行）&lt;br /&gt;
* [[HiPai☆パラダイス2]]（梁井一帆）&lt;br /&gt;
* [[ベルセルク (漫画)|ベルセルク千年帝国の鷹篇・聖魔戦記の章]] （ファルネーゼ）&lt;br /&gt;
'''2005年'''&lt;br /&gt;
* [[THE パーティーゲーム]]（ハムスター）&lt;br /&gt;
* [[SHUFFLE!|SHUFFLE! ON THE STAGE]]（'''芙蓉楓'''）&lt;br /&gt;
* [[ダイダロスの迷宮]]（フランカ）&lt;br /&gt;
* [[ラムネ (ゲーム)|ラムネ 〜ガラスびんに映る海〜]]（'''近衛七海'''）&lt;br /&gt;
* [[ロックマンゼロ4]]（ネージュ）&lt;br /&gt;
* [[ロマンシング サガ -ミンストレルソング-]]（ミリアム、モニカ）&lt;br /&gt;
'''2006年'''&lt;br /&gt;
* [[サモンナイト4]]（ポムニット）&lt;br /&gt;
* [[コードフリークAR#チャコっとゲーム研究会 〜すずめ隊長のメイドカフェ〜|チャコっとゲーム研究会 〜すずめ隊長のメイドカフェ〜]] （ラン）&lt;br /&gt;
* [[Dear Pianissimo]]（ナギ）&lt;br /&gt;
* [[Riviera 〜約束の地リヴィエラ〜]]（シエラ）&lt;br /&gt;
'''2007年'''&lt;br /&gt;
* [[クイズマジックアカデミー|クイズマジックアカデミー4]]（リエル）&lt;br /&gt;
* [[くじびきアンバランス 会長お願いすま〜っしゅファイト☆]]（山田薫子）&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒの約束]]（'''朝比奈みくる'''）&lt;br /&gt;
* [[みんなのGOLF|みんなのGOLFポータブル2]]（ミズホ）&lt;br /&gt;
'''2008年'''&lt;br /&gt;
* [[君が主で執事が俺で|君が主で執事が俺で 〜お仕え日記〜]]（'''久遠寺未有'''）&lt;br /&gt;
* [[Scarlett|Scarlett 〜日常の境界線〜]]（'''別当和泉しずかスカーレット'''）&lt;br /&gt;
* [[THE ギャル麻雀]]（'''双葉理保'''）&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒの激動]]（'''朝比奈みくる'''）&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒの戸惑]]（'''朝比奈みくる'''）&lt;br /&gt;
* [[ナイトウィザード|ナイトウィザード The VIDEO GAME 〜Denial of the World〜]]（'''ベール＝ゼファー'''）&lt;br /&gt;
* [[マナケミア2 〜おちた学園と錬金術士たち〜]]（クロエ・ハールトーク）&lt;br /&gt;
* [[Memories Off 6 〜T-wave〜]]（'''嘉神川クロエ'''）&lt;br /&gt;
* [[もえスタ 〜萌える東大英語塾〜]]（'''イディオムエデムアーク'''）&lt;br /&gt;
* [[レッスルエンジェルス サバイバー|レッスルエンジェルス サバイバー2]]（AGEHA、ウィッチ美沙）&lt;br /&gt;
'''2009年'''&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒの直列]]（'''朝比奈みくる'''）&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒの並列]]（'''朝比奈みくる'''）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 吹き替え ===&lt;br /&gt;
* [[キャリー]]（キャリー（子供時代））&lt;br /&gt;
* [[リトル・ウィッチ ビビと魔法のクリスタル]]（アルカディア）&lt;br /&gt;
* [[リプリー]]（シルヴァーナ）&lt;br /&gt;
* [[未知との遭遇 デラックスコレクターズエディション]]（トビー・ニアリー）&lt;br /&gt;
* [[コナン・ザ・ラストウォリアー]]（イガ）&lt;br /&gt;
* [[クライ・ベイビー]]（スージーQ）&lt;br /&gt;
* [[モモ]]（モーリーン|ビビ・レディ）&lt;br /&gt;
* [[ジャニス・ベアードのOL日記]]（ジェーン）&lt;br /&gt;
* [[バーチャルシャドウ]]（ケイト）&lt;br /&gt;
* [[メル]]（スーザン） - 初[[ヒロイン]]の作品。&lt;br /&gt;
* [[シャンプー台の向こうに]]（シャロン）&lt;br /&gt;
* [[ファイナル・デスティネーション]]（ブレイク）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオ ===&lt;br /&gt;
* [[ねぶら|Navel×Lantis インターネットラジオ 「ねぶら」]] （[[ランティスウェブラジオ]]）&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒの憂鬱 SOS団ラジオ支部]] （[[ラジオ関西]]、ランティスウェブラジオ）&lt;br /&gt;
* [[後藤ラジオ]] （[[アニメイトTV]]）&lt;br /&gt;
* [[聖應女学院放送局]]（アニメイトTV：2006年10月5日 - 2007年6月28日、第38回で降板）&lt;br /&gt;
* [[RADIOアニメロミックス]]（[[文化放送]]・[[超!放送局]]：7代目・2007年1月6日 - 2007年3月31日、8代目・2007年4月7日 - 2007年9月29日）&lt;br /&gt;
* [[潮風放送局〜みなとらじお!]]（インターネットラジオ：2007年8月3日 - ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドラマCD ===&lt;br /&gt;
* [[らぶドル 〜Lovely Idol〜]]（猫谷海羽）&lt;br /&gt;
* [[SHUFFLE!]]（芙蓉楓）&lt;br /&gt;
* [[涼宮ハルヒシリーズ#ドラマCD|涼宮ハルヒの憂鬱 ドラマCD　サウンドアラウンド]]（朝比奈みくる）&lt;br /&gt;
* [[ナイトウィザード]]ファンブック「パワー・オブ・ラブ」（エレナ）&lt;br /&gt;
* [[俺フェチ#ドラマCD|俺フェチ いちごちゃん気をつけて!]]（'''長谷川いちご'''）&lt;br /&gt;
* [[まろまゆ]]（妙子）&lt;br /&gt;
* [[アクエリアンエイジ]]7周年記念ドラマCD（ステラ・ブラヴァツキ）&lt;br /&gt;
* [[ナイトウィザード]]ファンブック リーチ・フォー・ザ・スターズ ドラマCD「最果ての数式」（ベール・ゼファー）&lt;br /&gt;
* [[Narcissu|ナルキ]]SIDE 2nd（千尋）&lt;br /&gt;
* [[ご愁傷さま二ノ宮くん]]（月村真由）&lt;br /&gt;
* [[らき☆すた]] ドラマCD（峰岸あやの）&lt;br /&gt;
*第一回 [[声優アワード]] 記念作品 こゑこひ〜あなたの声に恋してる〜&lt;br /&gt;
* [[クイーンズブレイド]] 美闘士列伝（'''古代の王女メナス'''）&lt;br /&gt;
* [[君が主で執事が俺で]] ドラマCD（久遠寺未有）&lt;br /&gt;
* [[ジャッジメントちゃいむ]]（クリネクス＝ティシュー）&lt;br /&gt;
* [[さよなら絶望先生]] ドラマCD「絶望劇場」（小節あびる）&lt;br /&gt;
* [[よつのは|よつのは 〜雪が溶けきる、その前に〜]]（柚姫衣織）&lt;br /&gt;
* [[DEARS怪談物語～小泉八雲の章～]]上巻・下巻（各種登場人物）&lt;br /&gt;
* 薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク～水川抱月ノ事件簿～（子供A）&lt;br /&gt;
* 恋の診察室1（看護婦A）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== キャラクターCD ===&lt;br /&gt;
※CDタイトル（表題曲以外の部分参加であれば担当曲名、発売日、発売元、タイアップ、備考）&lt;br /&gt;
*  双葉理保ファーストアルバム 〜Feels Like First Time !!（2004年12月22日、[[サイトロン・デジタルコンテンツ]]、[[双葉理保]]役）&lt;br /&gt;
* 『[[ふしぎ星の☆ふたご姫]]』レイン役関連、[[インデックスミュージック]]、[[小島めぐみ]]とのデュオ「ファイン★レイン」名義&lt;br /&gt;
** おしゃれファンタジー（2005年4月27日、前期エンディング）&lt;br /&gt;
** パタタタ・ルン♪（2005年11月2日、後期エンディング）&lt;br /&gt;
* ラムネ・Characters Collection vol.1（2006年1月25、[[インターチャネル・ホロン|インターチャネル]]、『[[ラムネ (ゲーム)|ラムネ]]』キャラソン+ドラマCD、近衛七海役）&lt;br /&gt;
* 『[[SHUFFLE!|シャッフル!オン・ザ・ステージ]]』キャラクターボーカルアルバム（「Love bless You!」を収録、2006年3月24日、[[ランティス]]、芙蓉楓役）&lt;br /&gt;
* 『[[涼宮ハルヒの憂鬱 (アニメ)|涼宮ハルヒの憂鬱]]』朝比奈みくる役関連、ランティス&lt;br /&gt;
** [[ハレ晴レユカイ]]（2006年05月10日、『涼宮ハルヒの憂鬱』エンディングテーマ、[[平野綾]]・[[茅原実里]]との3人名義）&lt;br /&gt;
** [[涼宮ハルヒの詰合 〜TVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」劇中歌集シングル〜]]（「恋のミクル伝説」を収録、2006年6月21日、『涼宮ハルヒの憂鬱』第1話挿入歌）&lt;br /&gt;
** [[涼宮ハルヒの憂鬱 キャラクターソング]] [[涼宮ハルヒの憂鬱 キャラクターソング#Vol.3 朝比奈みくる|Vol.3 朝比奈みくる]]（2006年7月5日、『涼宮ハルヒの憂鬱』キャラクターソング）&lt;br /&gt;
** [[最強パレパレード]]（2006年11月22日、『[[涼宮ハルヒの憂鬱 SOS団ラジオ支部]]』第2期オープニングテーマ、平野綾・茅原実里との3人名義）&lt;br /&gt;
* キーポン!キーポン![Limited Edition] （2006年11月29日、[[avex mode]]、『[[らぶドル 〜Lovely Idol〜]]』キャラクターソング、猫谷美羽役）&lt;br /&gt;
* ひだキャラ（「ストロベリー☆ロマンス」を収録、2007年9月5日、ランティス、『[[ひだまりスケッチ]]』キャラクターミニアルバム、ヒロ役）&lt;br /&gt;
* 『[[さよなら絶望先生]]』小節あびる役関連、キングレコード&lt;br /&gt;
** [[絶望歌謡大全集]]（「fetish」を収録、2007年11月21日、『[[さよなら絶望先生]]』キャラクターソングアルバム）&lt;br /&gt;
** [[空想ルンバ]]（「恋路ロマネスク」を収録、2008年1月23日、『[[さよなら絶望先生#俗・さよなら絶望先生|俗・さよなら絶望先生]]』サブエンディングテーマ、[[絶望少女達]]名義）&lt;br /&gt;
** [[マリオネット (ROLLYと絶望少女達)|マリオネット]]（2008年2月27日、『俗・さよなら絶望先生』メインエンディングテーマ、[[ROLLY]]と絶望少女達名義）&lt;br /&gt;
* Special days（2008年4月16日、『[[S・A|S・A〜スペシャル・エー〜]]』 オープニングテーマ、[[生天目仁美]]、[[高垣彩陽]]との3人名義）&lt;br /&gt;
** 響け! ハイタッチ（2008年4月16日、『S・A〜スペシャル・エー〜』キャラクターソング、華園光役）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オリジナルCD ===&lt;br /&gt;
[[ランティス]]より発売&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アルバム'''&lt;br /&gt;
# [[GO TO SONG]]（2006年11月8日）&lt;br /&gt;
'''シングル'''&lt;br /&gt;
# ヨロシク RED ZONE（2007年8月8日）&lt;br /&gt;
# Butler スイッチ オーン!（2008年2月6日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ネットドラマ ===&lt;br /&gt;
*[[キキコミ]]（イトウマサミ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://homepage3.nifty.com/gotu_web/ Yuuko Gotou's official HP GOTU-WEB（本人のウェブサイト）]&lt;br /&gt;
* [http://yaplog.jp/tubuyaki3/ ツブヤキ3（本人旧ブログ）]&lt;br /&gt;
* [http://ameblo.jp/goto-yuko/ TSUBUYAKI（本人新ブログ）]&lt;br /&gt;
* [http://pro-baobab.jp/ladies/gotou_y/index.html ぷろだくしょんバオバブ（所属事務所）による公式プロフィール]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ことう ゆうこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の女性声優]]&lt;br /&gt;
[[Category:愛知県出身の人物]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=Dr_jimmy%E3%81%A8%E4%BD%90%E9%AB%98%E4%BF%A1%E3%81%AF%E5%90%8C%E4%B8%80%E4%BA%BA%E7%89%A9&amp;diff=142213</id>
		<title>Dr jimmyと佐高信は同一人物</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=Dr_jimmy%E3%81%A8%E4%BD%90%E9%AB%98%E4%BF%A1%E3%81%AF%E5%90%8C%E4%B8%80%E4%BA%BA%E7%89%A9&amp;diff=142213"/>
				<updated>2011-11-06T03:48:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;皆さんこんにちは、私は[[wiki:利用者:Dr jimmy|Dr jimmy]]です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正体は[[藤森京介 (七星)]]です。ごめんなさい。僕は低レベルなので家に引きこもってネットでうだうだするくらいしかできないんです。許してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ソックパペット ==&lt;br /&gt;
*[[wiki:利用者:Vigorous action|Vigorous action]]&lt;br /&gt;
*[[Wiki:利用者:花蝶風月雪月花警部|花蝶風月雪月花警部]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの名前で書かれた記事は僕の自演です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[ウィキペディア日本語版]]での編集方針 ==&lt;br /&gt;
音楽関係、特にJPOPのアーティストや各作品のページで、捏造や荒らしをやりまくってます。現実での鬱憤を晴らせるのでスッキリします。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96&amp;diff=142205</id>
		<title>ウィキペディア日本語版の恐怖</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96&amp;diff=142205"/>
				<updated>2011-11-06T03:36:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: /* ウィキペディアはポル・ポト主義である */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ウィキペディア日本語版の恐怖'''とは以下のような実態である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 実態 ==&lt;br /&gt;
「暇な主婦や無職、厨房、低学歴」による「百科事典フォーマットを持つ[[2ちゃんねる]]」。それが「[[ウィキペディア日本語版]]」である（英語など他言語版はややまとも）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*誰でも編集できる&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
*知性と教養を持った人・ほとんどの一般市民はウィキペディアに感けていられるほど暇じゃない&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
*程度の低い人間の溜り場と化す&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
*無法地帯（[[ネットウヨ]]、[[ヤクザ]]、[[2ちゃんねらー]]の醜い混合物）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2ちゃんねるや[[Yahoo!知恵袋]]、[[BIGLOBEなんでも相談室]]、OKウェブ等々の“誰かが答える”サイトと同じ構図である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一見、百科事典のようであり検索にも引っかかりやすいため（検索エンジン最適化がされていて、[[Google]]検索での結果順位は一、二を争う）、あまり賢明でない人は内容が全て真実であると錯覚してしまう。編集者の程度や内容の信憑性において、それが2ちゃんねる並みであることを周知させる必要あり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ウィキペディアはポル・ポト主義である ==&lt;br /&gt;
「腐った林檎は箱ごと捨てなければならない」。これに考え方がそっくり。ウィキペディアがその林檎だというなら納得できなくもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 例 ==&lt;br /&gt;
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/Noda%2CKentaro&amp;amp;diff=15579122&amp;amp;oldid=15578054]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[wiki:利用者:呪|呪]]は管理者の多重アカウントの1つである。日本語版WPの管理者になれば、mixiの中身を晒してもなぜか犯罪には問われない様子。日本法、米国法のいずれも「招待制SNSの中身及びURLを晒す事」は立派に違法なので十分注意されたし!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ういきへていあにほんこはんのきようふ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディア]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=Dr_jimmy%E3%81%A8%E4%BD%90%E9%AB%98%E4%BF%A1%E3%81%AF%E5%90%8C%E4%B8%80%E4%BA%BA%E7%89%A9&amp;diff=142199</id>
		<title>Dr jimmyと佐高信は同一人物</title>
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				<updated>2011-11-06T03:26:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;皆さんこんにちは、私は[[wiki:利用者:Dr jimmy|Dr jimmy]]です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正体は[[藤森京介 (七星)]]です。ごめんなさい。僕は低レベルなので家に引きこもってネットでうだうだするくらいしかできないんです。許してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ソックパペット ==&lt;br /&gt;
[[wiki:利用者:Vigorous action|Vigorous action]]&lt;br /&gt;
[[Wiki:利用者:花蝶風月雪月花警部|花蝶風月雪月花警部]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの名前で書かれた記事は僕の自演です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[ウィキペディア日本語版]]での編集方針 ==&lt;br /&gt;
音楽関係、特にJPOPのアーティストや各作品のページで、捏造や荒らしをやりまくってます。現実での鬱憤を晴らせるのでスッキリします。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;皆さんこんにちは、私は[[wiki:利用者:Dr jimmy|Dr jimmy]]です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正体は[[藤森京介 (七星)]]です。ごめんなさい。僕は低レベルなので家に引きこもってネットでうだうだするくらいしかできないんです。許してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ソックパペット ==&lt;br /&gt;
[[wiki:利用者:Vigorous action|Vigorous action]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この名前で書かれた記事は僕の自演です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[ウィキペディア日本語版]]での編集方針 ==&lt;br /&gt;
音楽関係、特にJPOPのアーティストや各作品のページで、捏造や荒らしをやりまくってます。現実での鬱憤を晴らせるのでスッキリします。&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;皆さんこんにちは、私は[[wiki:利用者:Dr jimmy|Dr jimmy]]です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですが招待は[[藤森京介 (七星)]]です。ごめんなさい。僕は低レベルなので家に引きこもってネットでうだうだするくらいしかできないんです。許してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ソックパペット ==&lt;br /&gt;
[[Vigorous action]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[ウィキペディア日本語版]]での編集方針 ==&lt;br /&gt;
音楽関係、特にJPOPのアーティストや各作品のページで、捏造や荒らしをやりまくってます。現実での鬱憤を晴らせるのでスッキリします。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

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		<title>アンサイクロペディア日本語版の利用者</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{自己責任}}&lt;br /&gt;
'''アンサイクロペディア日本語版の利用者'''（アンサイクロペディアにほんごばんのりようしゃ）とは[[アンサイクロペディア]]を編集する人たちのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(最新 | 前)  2011年10月15日 (土) 22:19 222.6.142.98 (トーク) (13,460バイト) (取り消し) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
↑&lt;br /&gt;
このページに腹を立てて編集したアンサイクロペディアの人間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
閲覧専門の利用者は含まれない。アンサイクロペディア日本語版の利用者には、数多くの個性的な利用者が存在する。また管理者による投稿ブロックが最近、相次いでいるのも実情である。アンサイクロペディア日本語版に対して問題的な活動を行った利用者が、この項目にリストアップされるだろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アカウントは1人で複数もつことも出来るが、複数で1つを管理することも可能である。したがって、ここにあげたアカウントの人数が実際の利用者の人数とイコールとは限らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== これらの利用者の特徴 ==&lt;br /&gt;
利用者の8割がこの記事を作成した紳士と同じ気違いでありこいつらにはまともな言葉で何を話しても無駄な為、方法としては[[アサヒる]]言葉（捏造、いじめ紛いの言葉）で話すと通じるみたいである。気違い系オタクの溜まり場であり荒らしを生業としている気に食わない存在である。しかも一方的に[[東京放送|TBS]]を擁護しているらしく、アンサイクロペディアのユーザーがTBSの記事を編集した後には必ずTBSに批判的な意味が排除されている。気違いの溜まり場であるため[[2ちゃんねる]]化が進んできている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
hydeの低身長を揶揄するなどこの記事の作成者と同じで他人の悪口は平気で書くくせに自分たちの''本当のこと''を書かれると激しく怒り出す。・・・と思ったらこの記事に載ることを望んでいたりする。性根の腐りきった阿呆どもである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おそらく彼らは、この記事の作成者ほどひどくはなくても独身・童貞・引きこもり（自宅警備員）・ニート・ネットウヨなど廃人ばかりであると予想される。仮に既婚者だったらもっとやばい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、自らのことを「エクストリーム・NRV貼り付けプレイヤー」（NRVとは人が一生懸命作成した記事にダメ出しするテンプレートのこと。《これを貼り付ける奴の神経の方がどうしようもないんだよ!!》）などと豪語している奴もいる。一体こいつらの脳みその中には何が詰まっているのだろうか。ん？脳みその中に詰まる?まあいいさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、アンサイクロペディアの利用者がこの記事を編集するとアンサイクロペディアで投稿ブロックされてしまう。アンサイクロペディアを荒らしていないのに、本当に心の狭い連中が集まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者の一覧 ==&lt;br /&gt;
基地外ども、俺を助けてくれ&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Adam Adam] ===&lt;br /&gt;
[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/Special:Contributions/Adam 野田憲太郎]に対して法的脅迫を行って書き逃げした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ＢＣＤ ＢＣＤ] ===&lt;br /&gt;
ＢＣＤ（Baka Chinkasu Doutei）は削除の方針に合致しないものまで、他のユーザーが一生懸命作成した記事をすぐに削除依頼に提出する削除依頼しかすることができない残念な利用者。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記事と同じで'''意味不明かつ無価値'''な記事しか書けず、ボキャブラリーも低い。アンサイクロペディア史上最大の'''DQN'''でもある。馬鹿・チンカス・童貞の頭文字をとってBCDというんじゃない?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Kahusi Kahusi] ===&lt;br /&gt;
'''削除主義者'''。[[1979年]]生まれかも知れない。詳しくは[[澤田亮太]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Kasuga Kasuga] ===&lt;br /&gt;
{{Main|Kasuga}}&lt;br /&gt;
[[ウィキペたん]]の生みの親。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Lonicera &amp;lt;font color=&amp;quot;#009900&amp;quot;&amp;gt;Lonicera&amp;lt;/font&amp;gt;] ===&lt;br /&gt;
編集はほとんどしていない。Wikipediaの管理者であるくせにウィキペディアから記事を転載し、または会話ページを荒らし管理者によってブロックがかかった。ウィキペディアの利用者ページをみると「'''アンサイクロペディアのLoniceraは私ではありません'''」と名乗っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Murase Murase] ===&lt;br /&gt;
{{Main|Murase}}&lt;br /&gt;
度重なる警告や注意を受けながら理解しているように見せかけている。言葉がたまにおかしいことがある。このことから2ちゃんねるのアンサイクロペディアのスレではたびたび話題になるがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記事をバルスすれば管理者に気に入ってもらえると妄想する人間である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Sts Sts] ===&lt;br /&gt;
{{Main|Sts (アンサイクロペディア)}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Wiki男 Wiki男] ===&lt;br /&gt;
[[ファイナルファンタジーIV]]を完全に私物化しており、関連記事までに手をつけている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Yushimogaki Yushimogaki] ===&lt;br /&gt;
'''自称：最終兵器'''。本人曰く[[2008年]][[3月31日]]までブレイクだが、まったくブレイクしているとはいえない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、男性か女性かのような質問ではなぜか過剰に反応する。なぜだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、八月十五日三十郎のブラックリストに載せられている者の1人。[[ウィキア]]の[http://ja.wikia.com/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Yushimogaki 利用者ページ]によれば兵庫県に住む中学生らしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:（あ） （あ）]　===&lt;br /&gt;
（あ）はアンサイクロペディアの管理者。神奈川県在住。生年月日は[[1983年]][[5月4日]]らしいが、異説もある。血液型は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モナペディアにも馬岱という名前で利用者ページを持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者名が非常に馬鹿げている。アンサイクロペディアの中で最も空気の読めない管理者といっても過言ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
極度の削除主義者である。削除依頼に合致しないものまで、執拗に削除依頼に出すことで有名。利用者名が非常に馬鹿げている。新規ユーザーを「モウロ将軍並みの智謀」と揶揄する外道でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:あなこんだ あなこんだ] ===&lt;br /&gt;
中度の削除主義者であり、気に食わない記事に対しては削除依頼を執拗に出すことで有名。そのため「'''ヤクザ'''」と揶揄されることもしばしばある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:おかやまりゅうせい おかやまりゅうせい] ===&lt;br /&gt;
永遠のアンサイクロブレイクを解除したユーザー。詳細は[[おかやまりゅうせい]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:キリカ キリカ] ===&lt;br /&gt;
キリカはアンサイクロペディア日本語版の利用者。[[Yourpedia]]にも同一人物と思われるユーザーがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この利用者は、はっきり言ってアンサイクロペディア一の嫌われ者である。「'''血塗れの天使 黒焦げの死神 首吊りピエロ'''」など奇怪で意味不明な文字などを並べている情緒不安定者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この利用者はただ言葉の理解能力が低いだけで決して荒らしなどは行なっていないとほざきながら、非常に意味不明な荒らしばかり行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンサイクロペディアの管理者によって追放されていた様だが、なぜかブロックが解除され基地外投稿をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:くぎり くぎり] ===&lt;br /&gt;
[[くぎり]]は休職中の元管理者。年齢は20代前半くらい。気に入らない記事に対して恣意的に削除依頼を出すスパイである。このような言動は[[朝日新聞社]]の職員と大差ない。言動が不条理すぎる。極度の&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:25pt&amp;quot;&amp;gt;削除主義者&amp;lt;/span&amp;gt;である。[[朝日新聞]]読者の可能性もある。Muttleyと比べ物にならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:てやんでい てやんでい] ===&lt;br /&gt;
{{Main|エクレロ孫法師}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ネッツ ネッツ]（[[藤森京介]]） ===&lt;br /&gt;
長野県横浜市在住の利用者。こちらでは[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ネッツ ネッツ]と名乗り、アンサイクロペディアで一番迷惑をかけたユーザーである。管理者になって権限悪用をしようとたくらんでいたがユアペディアの悪口がばれ、結局失敗しアンサイクロペディアを追い出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ふぇんりる ふぇんりる] ===&lt;br /&gt;
ラジオが好きなユーザー。コピペディアで投稿したらかぼに脅迫?された。現在コピペディアの管理者である。&lt;br /&gt;
{{Main|ふぇんりる}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:三焦全欠損症 三焦全欠損症] ===&lt;br /&gt;
本名は下のみであるが「'''克則'''」である。一見普通の削除主義者だが、前述のとおり自分の本名（下のみだが）を表示してしまうヘマをやらかす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:折笠成一 折笠成一] ===&lt;br /&gt;
[[折笠成一]]は元ウィキペディアの[[ウィキペディア日本語版の利用者#利用者:special rapid|special rapid]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィキペディア日本語版で無期限ブロックされてユアペディアに[[利用者:折笠成一|折笠成一]]として登録したが、ソックパペットを使い荒らしを繰り返した挙句無期限ブロックされてアンサイクロペディアに逃亡。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウザ署名もユアペディアと全く同じ物を使っており、確信犯なのかバカなのか分からない。確信犯の意味なんて知ったこっちゃない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 黒土 ===&lt;br /&gt;
何故か知らぬが、語録があまり好きじゃないらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:長野のそうじろう 長野のそうじろう] ===&lt;br /&gt;
{{Main|長野のそうじろう}}&lt;br /&gt;
荒らし常習犯。ソックパペットを作成して[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/Special:Contributions/%E3%81%9D%E2%97%8B%E3%82%84 荒らし]をしていたが、追放された。「[http://ja.uncyclopedia.info/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Muttley&amp;amp;diff=next&amp;amp;oldid=208582 ぼくは、作成していない]」といったがCUにかけられ、すぐにばれた。この記事の作成者並みにばかじゃないのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:25pt&amp;quot;&amp;gt;荒らしが趣味の基地外&amp;lt;/span&amp;gt;である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディアの利用者とのかかわり方 ==&lt;br /&gt;
こんなサイトの利用者とかかわるのはこの記事を編集するくらい時間の無駄である（ちなみにこの記事はいたずらされてもすぐ元のような記事に戻すから安心してくれ）。なぜなら彼らは頭が不自由であり、まともな会話が出来ない上、時間を無駄にする自宅警備員でパソコンとしかコミュニケーションをとれない廃人の集まりだから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 釣り? ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;aa&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　＼　　　∩─ｰ､ 　　　====&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　 ＼／　●　､_ ｀ヽ 　　======&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　/ ＼(　●　 ● |つ&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　|　　 X_入__ノ 　 ミ　　　あんさいくろぺてぃあに俺様が釣られクマ――&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　 ､　(＿／　　　ノ　/⌒l&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　 /＼＿＿＿ノﾞ＿/　 /　　=====&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　 　 〈　　　　　　　　 ＿_ノ　　====&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　 ＼　＼＿　　　　＼&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　＼＿__）　　　　　＼　　　======　　　(´⌒&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　＼　　 ＿＿_ ＼＿＿　　(´⌒;;(´⌒;;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　 ＼＿＿＿）＿＿＿）(´;;⌒　 (´⌒;;　　ズザザザ&lt;br /&gt;
&amp;lt;/aa&amp;gt;&lt;br /&gt;
↑[http://standard-burgers.baycrews.co.jp/2007/02/25.html 釣られた人]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
AAがうまくいかなかった件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ちなみに ==&lt;br /&gt;
ユアペディアは真実の辞典であり、このような記事がむしろ例外である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://ja.uncyclopedia.info/ 上記の利用者たちの巣]（アンサイクロペディアは自己中心的な管理者によって乗っ取りが行われているので注意!）&lt;br /&gt;
* [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/アンサイクロペディア日本語版の利用者 天皇の作成したコピペ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{利用者}}&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディア|りようしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネット弁慶]]&lt;br /&gt;
[[Category:童貞]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85&amp;diff=142191</id>
		<title>アンサイクロペディア日本語版の利用者</title>
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				<updated>2011-11-06T03:16:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{自己責任}}&lt;br /&gt;
'''アンサイクロペディア日本語版の利用者'''（アンサイクロペディアにほんごばんのりようしゃ）とは[[アンサイクロペディア]]を編集する人たちのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
閲覧専門の利用者は含まれない。アンサイクロペディア日本語版の利用者には、数多くの個性的な利用者が存在する。また管理者による投稿ブロックが最近、相次いでいるのも実情である。アンサイクロペディア日本語版に対して問題的な活動を行った利用者が、この項目にリストアップされるだろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アカウントは1人で複数もつことも出来るが、複数で1つを管理することも可能である。したがって、ここにあげたアカウントの人数が実際の利用者の人数とイコールとは限らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== これらの利用者の特徴 ==&lt;br /&gt;
利用者の8割がこの記事を作成した紳士と同じ気違いでありこいつらにはまともな言葉で何を話しても無駄な為、方法としては[[アサヒる]]言葉（捏造、いじめ紛いの言葉）で話すと通じるみたいである。気違い系オタクの溜まり場であり荒らしを生業としている気に食わない存在である。しかも一方的に[[東京放送|TBS]]を擁護しているらしく、アンサイクロペディアのユーザーがTBSの記事を編集した後には必ずTBSに批判的な意味が排除されている。気違いの溜まり場であるため[[2ちゃんねる]]化が進んできている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
hydeの低身長を揶揄するなどこの記事の作成者と同じで他人の悪口は平気で書くくせに自分たちの''本当のこと''を書かれると激しく怒り出す。・・・と思ったらこの記事に載ることを望んでいたりする。性根の腐りきった阿呆どもである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おそらく彼らは、この記事の作成者ほどひどくはなくても独身・童貞・引きこもり（自宅警備員）・ニート・ネットウヨなど廃人ばかりであると予想される。仮に既婚者だったらもっとやばい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、自らのことを「エクストリーム・NRV貼り付けプレイヤー」（NRVとは人が一生懸命作成した記事にダメ出しするテンプレートのこと。《これを貼り付ける奴の神経の方がどうしようもないんだよ!!》）などと豪語している奴もいる。一体こいつらの脳みその中には何が詰まっているのだろうか。ん？脳みその中に詰まる?まあいいさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、アンサイクロペディアの利用者がこの記事を編集するとアンサイクロペディアで投稿ブロックされてしまう。アンサイクロペディアを荒らしていないのに、本当に心の狭い連中が集まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者の一覧 ==&lt;br /&gt;
基地外ども、俺を助けてくれ&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Adam Adam] ===&lt;br /&gt;
[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/Special:Contributions/Adam 野田憲太郎]に対して法的脅迫を行って書き逃げした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ＢＣＤ ＢＣＤ] ===&lt;br /&gt;
ＢＣＤ（Baka Chinkasu Doutei）は削除の方針に合致しないものまで、他のユーザーが一生懸命作成した記事をすぐに削除依頼に提出する削除依頼しかすることができない残念な利用者。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記事と同じで'''意味不明かつ無価値'''な記事しか書けず、ボキャブラリーも低い。アンサイクロペディア史上最大の'''DQN'''でもある。馬鹿・チンカス・童貞の頭文字をとってBCDというんじゃない?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Kahusi Kahusi] ===&lt;br /&gt;
'''削除主義者'''。[[1979年]]生まれかも知れない。詳しくは[[澤田亮太]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Kasuga Kasuga] ===&lt;br /&gt;
{{Main|Kasuga}}&lt;br /&gt;
[[ウィキペたん]]の生みの親。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Lonicera &amp;lt;font color=&amp;quot;#009900&amp;quot;&amp;gt;Lonicera&amp;lt;/font&amp;gt;] ===&lt;br /&gt;
編集はほとんどしていない。Wikipediaの管理者であるくせにウィキペディアから記事を転載し、または会話ページを荒らし管理者によってブロックがかかった。ウィキペディアの利用者ページをみると「'''アンサイクロペディアのLoniceraは私ではありません'''」と名乗っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Murase Murase] ===&lt;br /&gt;
{{Main|Murase}}&lt;br /&gt;
度重なる警告や注意を受けながら理解しているように見せかけている。言葉がたまにおかしいことがある。このことから2ちゃんねるのアンサイクロペディアのスレではたびたび話題になるがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記事をバルスすれば管理者に気に入ってもらえると妄想する人間である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Sts Sts] ===&lt;br /&gt;
{{Main|Sts (アンサイクロペディア)}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Wiki男 Wiki男] ===&lt;br /&gt;
[[ファイナルファンタジーIV]]を完全に私物化しており、関連記事までに手をつけている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:Yushimogaki Yushimogaki] ===&lt;br /&gt;
'''自称：最終兵器'''。本人曰く[[2008年]][[3月31日]]までブレイクだが、まったくブレイクしているとはいえない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、男性か女性かのような質問ではなぜか過剰に反応する。なぜだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、八月十五日三十郎のブラックリストに載せられている者の1人。[[ウィキア]]の[http://ja.wikia.com/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Yushimogaki 利用者ページ]によれば兵庫県に住む中学生らしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:（あ） （あ）]　===&lt;br /&gt;
（あ）はアンサイクロペディアの管理者。神奈川県在住。生年月日は[[1983年]][[5月4日]]らしいが、異説もある。血液型は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モナペディアにも馬岱という名前で利用者ページを持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者名が非常に馬鹿げている。アンサイクロペディアの中で最も空気の読めない管理者といっても過言ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
極度の削除主義者である。削除依頼に合致しないものまで、執拗に削除依頼に出すことで有名。利用者名が非常に馬鹿げている。新規ユーザーを「モウロ将軍並みの智謀」と揶揄する外道でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:あなこんだ あなこんだ] ===&lt;br /&gt;
中度の削除主義者であり、気に食わない記事に対しては削除依頼を執拗に出すことで有名。そのため「'''ヤクザ'''」と揶揄されることもしばしばある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:おかやまりゅうせい おかやまりゅうせい] ===&lt;br /&gt;
永遠のアンサイクロブレイクを解除したユーザー。詳細は[[おかやまりゅうせい]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:キリカ キリカ] ===&lt;br /&gt;
キリカはアンサイクロペディア日本語版の利用者。[[Yourpedia]]にも同一人物と思われるユーザーがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この利用者は、はっきり言ってアンサイクロペディア一の嫌われ者である。「'''血塗れの天使 黒焦げの死神 首吊りピエロ'''」など奇怪で意味不明な文字などを並べている情緒不安定者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この利用者はただ言葉の理解能力が低いだけで決して荒らしなどは行なっていないとほざきながら、非常に意味不明な荒らしばかり行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンサイクロペディアの管理者によって追放されていた様だが、なぜかブロックが解除され基地外投稿をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:くぎり くぎり] ===&lt;br /&gt;
[[くぎり]]は休職中の元管理者。年齢は20代前半くらい。気に入らない記事に対して恣意的に削除依頼を出すスパイである。このような言動は[[朝日新聞社]]の職員と大差ない。言動が不条理すぎる。極度の&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:25pt&amp;quot;&amp;gt;削除主義者&amp;lt;/span&amp;gt;である。[[朝日新聞]]読者の可能性もある。Muttleyと比べ物にならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:てやんでい てやんでい] ===&lt;br /&gt;
{{Main|エクレロ孫法師}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ネッツ ネッツ]（[[藤森京介]]） ===&lt;br /&gt;
長野県横浜市在住の利用者。こちらでは[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ネッツ ネッツ]と名乗り、アンサイクロペディアで一番迷惑をかけたユーザーである。管理者になって権限悪用をしようとたくらんでいたがユアペディアの悪口がばれ、結局失敗しアンサイクロペディアを追い出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:ふぇんりる ふぇんりる] ===&lt;br /&gt;
ラジオが好きなユーザー。コピペディアで投稿したらかぼに脅迫?された。現在コピペディアの管理者である。&lt;br /&gt;
{{Main|ふぇんりる}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:三焦全欠損症 三焦全欠損症] ===&lt;br /&gt;
本名は下のみであるが「'''克則'''」である。一見普通の削除主義者だが、前述のとおり自分の本名（下のみだが）を表示してしまうヘマをやらかす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:折笠成一 折笠成一] ===&lt;br /&gt;
[[折笠成一]]は元ウィキペディアの[[ウィキペディア日本語版の利用者#利用者:special rapid|special rapid]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィキペディア日本語版で無期限ブロックされてユアペディアに[[利用者:折笠成一|折笠成一]]として登録したが、ソックパペットを使い荒らしを繰り返した挙句無期限ブロックされてアンサイクロペディアに逃亡。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウザ署名もユアペディアと全く同じ物を使っており、確信犯なのかバカなのか分からない。確信犯の意味なんて知ったこっちゃない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 黒土 ===&lt;br /&gt;
何故か知らぬが、語録があまり好きじゃないらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/利用者:長野のそうじろう 長野のそうじろう] ===&lt;br /&gt;
{{Main|長野のそうじろう}}&lt;br /&gt;
荒らし常習犯。ソックパペットを作成して[http://ja.uncyclopedia.info/wiki/Special:Contributions/%E3%81%9D%E2%97%8B%E3%82%84 荒らし]をしていたが、追放された。「[http://ja.uncyclopedia.info/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Muttley&amp;amp;diff=next&amp;amp;oldid=208582 ぼくは、作成していない]」といったがCUにかけられ、すぐにばれた。この記事の作成者並みにばかじゃないのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:25pt&amp;quot;&amp;gt;荒らしが趣味の基地外&amp;lt;/span&amp;gt;である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディアの利用者とのかかわり方 ==&lt;br /&gt;
こんなサイトの利用者とかかわるのはこの記事を編集するくらい時間の無駄である（ちなみにこの記事はいたずらされてもすぐ元のような記事に戻すから安心してくれ）。なぜなら彼らは頭が不自由であり、まともな会話が出来ない上、時間を無駄にする自宅警備員でパソコンとしかコミュニケーションをとれない廃人の集まりだから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 釣り? ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;aa&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　＼　　　∩─ｰ､ 　　　====&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　 ＼／　●　､_ ｀ヽ 　　======&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　/ ＼(　●　 ● |つ&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　|　　 X_入__ノ 　 ミ　　　あんさいくろぺてぃあに俺様が釣られクマ――&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　 ､　(＿／　　　ノ　/⌒l&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　 /＼＿＿＿ノﾞ＿/　 /　　=====&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　 　 〈　　　　　　　　 ＿_ノ　　====&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　 ＼　＼＿　　　　＼&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　＼＿__）　　　　　＼　　　======　　　(´⌒&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　＼　　 ＿＿_ ＼＿＿　　(´⌒;;(´⌒;;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　 ＼＿＿＿）＿＿＿）(´;;⌒　 (´⌒;;　　ズザザザ&lt;br /&gt;
&amp;lt;/aa&amp;gt;&lt;br /&gt;
↑[http://standard-burgers.baycrews.co.jp/2007/02/25.html 釣られた人]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
AAがうまくいかなかった件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ちなみに ==&lt;br /&gt;
ユアペディアは真実の辞典であり、このような記事がむしろ例外である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://ja.uncyclopedia.info/ 上記の利用者たちの巣]（アンサイクロペディアは自己中心的な管理者によって乗っ取りが行われているので注意!）&lt;br /&gt;
* [http://ja.uncyclopedia.info/wiki/アンサイクロペディア日本語版の利用者 天皇の作成したコピペ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{利用者}}&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディア|りようしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネット弁慶]]&lt;br /&gt;
[[Category:童貞]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.88.186.185</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2&amp;diff=142188</id>
		<title>アンサイクロペディア</title>
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				<updated>2011-11-06T03:12:49Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.88.186.185: ↓厨房乙&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''アンサイクロペディア'''（Uncyclopedia、あんさいくろぺでぃあ）とは'''[[Wikipedia]]'''と同じソフトを使用したサイト。パロディサイト。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冒頭文にある駄文を用いてパロディと称している。全くジョークになっていないが、'''あんさいくろぺてぃあ'''のセンスではこれが限界なのだろう。最近頭の固い[[Wikipedia]]利用者の侵入により、[[ウィキペディアン]]の井戸端となっていて、「独特の痛さ」を垣間見ることが出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==編集方針==&lt;br /&gt;
あからさまな差別記事は、削除という方針である。しかし、遠まわしな差別記事は、ユーモアとして許容される。以下に例を載せる。&lt;br /&gt;
*[[パクリ]]→[[大韓民国]]に転送。[[盗作]]→[[韓国式作曲法]]に転送。、その記事中で「朴理（パクリ）」という韓国の主要産業であると説明している（大韓民国#朴理（パクリ） - アンサイクロぺディア]）。また、[[盗作]]は韓国式作曲法に転送され、ここでは上記の「朴理」を用いて作曲する手法であると述べられている（盗作 - アンサイクロぺディア]）。さらに、[[強姦]]は韓国の国技・朝鮮民族（[[ネット右翼]]の脳内に存在する[[UMA]]で、拉致と食糞が特徴）という記事もある。&lt;br /&gt;
*[[特定アジア]]という記事があり、[[大阪民国]]が含まれる。&lt;br /&gt;
などの人種差別（特に韓国を揶揄する）の記事が多数存在する。&lt;br /&gt;
*[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[創価学会]]・[[公明党]]など政権党や[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]・[[日本共産党|共産党]]・[[社会民主党|社民党]]などの野党まで、政治家を揶揄する記事もある。&lt;br /&gt;
*[[亀田大毅]]が切腹して死んだことになっており、切腹してない等と書き込めば削除される（ただし、亀田はその8日後に復活したことになっている）、切腹してない等と書き込めば削除される。&lt;br /&gt;
*一番揶揄の対象になっているのは、[[hyde]]である。彼の低身長を揶揄する記事が多くみられる。関係の無いところで「'''なお、[[hydeの身長は156cm]]である'''」と書き加えられている。）&lt;br /&gt;
*[[アニメ]]や[[声優]]といったサブカルチャー系の記事が豊富である。また、[[2ちゃんねる]]や[[ニコニコ動画]]と関わりの深い項目が多くあることから、[[2ちゃんねらー]]や[[ニコ厨]]の関与が多いと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 問題点 ==&lt;br /&gt;
ユーモアとは名ばかりの批判・中傷が多数存在する。WIKIPEDIAと同じく管理者や利用者の縄張り意識が強く、かれらの気に食わない書き込みをすると、難癖をつけて消去される（例：「文字数が少ない」「どうしようもない記事」など。その記事よりずっと文字数の少ないページが存在していようが都合の悪い事は無視）。※削除されたものについては[[:Category:アンサイクロペディアに書くと削除される記事|基地外どもの検閲]]を参照の事。酷い時には投稿ブロックされてしまったりと、記事の基準があいまいなために本家ウィキより醜い争いが繰り広げられることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逆に管理者や有力ユーザーが書き込んだ記事については、どんな糞記事（妄想・内輪ネタ・悪口など）であっても除されない。（例：[[ひよこ陛下]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにアンサイクロペディアでは、管理者と一部の悪質な利用者による恣意的な管理がまかり通っている。この傾向は近年とみに酷くなり、新規ユーザーによる新項目の書き込み等に対し色々とケチを付けて積極的に潰している。反面、過去の糞記事は何のかんのと理由をでっちあげて保護する(若干の例外もあるにはあるが、元々パロディサイトという性質を鑑みると、現状ごく些少というのが正直な所である)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滑稽なのは、アンサイクロペディアの「[[マスコミ]]('''マスゴミ'''と書いても同じ所に通じる)」という項目であろう。いわく「'''マスコミがネットを『悪』と決め付けるのは、そこに流れる「生」の情報がマスコミの意図的な偏向姿勢を露見してしまうからである'''」･･････アンサイクロペディア自身がこの記事で言うところの「マスゴミ」になっているわけだが、'''当のアンサイクロペディア(の管理側)は気付いていない'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
基本的にアンサイクロペディアにおいては[[wikipedia]]の風刺も容認されているが、その風刺対象であるwikipediaが陥っている落し穴に、'''自らもまたそれをトレースするかのごとくすっぽりと嵌っている'''その様は、まるで'''自分で自分を風刺してくれ'''、と言わんばかりの滑稽なアイロニーであるといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
但しアンサイクロペディアの場合、ウィキペディアとは決定的に異なり「公平中立」「公正明大」「百科事典」という'''自ら掲げる建前も元より存在せず'''、かつ大手検索サイトと密接な繋がりを持つウィキペディアと異なり、アンサイクロペディアはあくまでマイノリティとしてのスタンスを('''むしろ意図的に''')堅持しており、その属性としても前述のウィキペディアにおける「建前」が存在しない為、ここユアペディアと同様に形式的にはウィキペディアと同じようなものであっても、あくまで、ごく「私」的なHPであるという事であり、である以上、こういった諸々の問題点も(道義的にはともかく)形式的には「問題ない」「嫌なら見るな」で片付けられてしまう帰来があるようだ。ただし近年は少しずつメジャーに近付いており(後述)、このまま順調に世間一般への認知度が高まっていけば、それにつれてそういった杜撰な対応が自分の首を絞める事になるといった、ウィキペディア(特に日本語版)の陥っているドロ沼を忠実になぞっている傾向にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、反感を覚えた一部の利用者が立ち上がり、日本さいころペディアを立ち上げたが、さびれてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アンサイクロペディアに対する批判 ==&lt;br /&gt;
*ユーモアがどうとかほざいているが、アンサイクロペディアの記事にユーモアらしきものは見当たらない。ガキが考えるようなかなり低レベルのギャグ？や、ただの悪口をブラックジョークだと言い張っている勘違い記事はたまに見られるが、まあとにかくクソである。記事を作った本人はおもしろいと思っているのだろうか？&lt;br /&gt;
*'''サーバーが落ちすぎる。'''。重すぎる。'''ほんっと何やってんだ!ユーザーの気持ちわかっとんか?'''&lt;br /&gt;
*明らかに[[著作権]]の侵害と思しき記事や画像などが多く使われている。&lt;br /&gt;
*侮辱罪や名誉毀損に当たるような記事や、ユーモアと全く関係ない完全な個人的見解を堂々と保護しているにも関わらず、俺ルールや管理者の意思を優先（新規ユーザーによる新規ページ作成はイチャモンを付けて積極的に削除するなど）。&lt;br /&gt;
*「免責テンプレート」を貼れば、誹謗中傷がある程度許容される。&lt;br /&gt;
*[[野比のび太]]を悪く書いているが、仮管理者はのび太君と呼ばれている。&lt;br /&gt;
*[[アドルフ・ヒトラー]]と[[金正日]]を美化して書いている。&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディア|本家]]顔負けの非常に厳しい[[検閲]]がある。&lt;br /&gt;
*近年大手検索サイトにおけるヒット率の上昇及びそれによる利用者の増加が見られるが、それとともに管理者&amp;amp;特定投稿人が権力を振りかざすようになり、理不尽な新記事の削除や、そういった姿勢に対し批判するユーザーへのブロックなど、まるで本家[[wikipedia]]と同様の様態を呈するようになって来た。&lt;br /&gt;
*事実を皮肉った[[ポケモン板]]の記事はチラシの裏にでも書いてろとすぐ削除するくせに、明らかにユーモアが欠けまくっている[[鴨厨(ポケモン)|鴨厨]]が書いた悪口だらけのカスミとヒカリの記事は削除しない。&lt;br /&gt;
*データが幾度となく予告なく消失する。&lt;br /&gt;
*管理者権限の付与や剥奪が[[Asakaze|こういう奴]]や[[Muttley|天皇]]の一存にゆだねられており、半ば独裁。&lt;br /&gt;
*知名度が急上昇してるのか、外国からも意味不明な投稿や荒らし行為が行われている。&lt;br /&gt;
**更に暴走を抑えようと[[投稿ブロック]]で誤爆すると、相手の荒らし行為を棚に上げて更にあらゆる言いがかりをつけて逆に投稿ブロックにする。&lt;br /&gt;
*自分が作成した記事を後日改修しても「荒らし」と判断され、その日のうちに無期限の編集停止などの措置も行われているほどであり[[ウィキペディア|本家]]よりも厳しく独裁的かつ規制の基準が不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==？==&lt;br /&gt;
パロディ記事を目指しているのか'''失笑'''されることを目指しているのか不明。ウィキペディアが一般利用者へ募っている寄付金で購入されたサーバのディスクスペースにも、アンサイクロペティアは活用されているようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、アンサイクロペディアにおけるユアペディアの記事は、'''ユアペディアにある「Chakuwikiの管理者」の記事の名刺部分だけを改竄したもの。'''さすがパロディを自称するだけのことはある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
* [[アンサイクロペディア英語版の利用者]]&lt;br /&gt;
* [[hydeの身長は156cm]]&lt;br /&gt;
* [[あああああああああ!]]&lt;br /&gt;
* [[ユアペディア (アンサイクロペディアンの妄想)]]&lt;br /&gt;
* [[アンサイ八分]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あんさいくろぺでぃあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディア|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウェブサイト]]&lt;br /&gt;
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