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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-09-26T07:52:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 新たなるチーム結成の動き */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2002年（平成14年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ（1972年から所属）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキ角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキ遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ、東京ボンバーズ結成に尽力&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ2代目コーチ、変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動静を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン。映画「カンサスシティーボンバー」主演女優　ラクエル・ウェルチのスタント滑走をこなした&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1975年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を鮮明に観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=39331</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-09-10T10:50:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 東京ボンバーズの選手名 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2002年（平成14年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ（1972年から所属）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキ角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキ遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ、東京ボンバーズ結成に尽力&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ2代目コーチ、変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン。映画「カンサスシティーボンバー」主演女優　ラクエル・ウェルチのスタント滑走をこなした&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1975年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を鮮明に観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=33338</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-07-16T13:26:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 東京ボンバーズメンバーの写真集 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2002年（平成14年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ（1972年から所属）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ、東京ボンバーズ結成に尽力&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ2代目コーチ、変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1975年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を鮮明に観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=33337</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-07-16T13:20:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* ファンの論議 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2002年（平成14年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ（1972年から所属）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ2代目コーチ、変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1975年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を鮮明に観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=33335</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-07-16T13:04:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 東京ボンバーズメンバーの写真集 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2002年（平成14年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ（1972年から所属）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ2代目コーチ、変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=33334</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-07-16T12:56:04Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2002年（平成14年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ（1972年から所属）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=32943</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-07-13T10:48:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 傘下チーム */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ（1972年から所属）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=32942</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-07-13T10:45:49Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード1970年代）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32914</id>
		<title>パチンコの釘調整</title>
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				<updated>2008-07-12T15:22:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:盤面.png|thumb|right|400px|パチンコ機の遊技盤面]]&lt;br /&gt;
== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘計測用具 ===&lt;br /&gt;
1980年（昭和55年）に遊技機メーカー三共のフィーバー機が登場してからも1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多用な情報が得られるようになり、伴なって釘調整も多様化してゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ゲージ棒====&lt;br /&gt;
[[画像:Gage.png|thumb|right|200px|ゲージ棒]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12ｃｍ-13ｃｍ、直径3ｍｍ程度の金属棒の両端に釘間を計測する金属球が取付けてある。金属球はパチンコ球と同じ直径11ｍｍを基準に0.01ｍｍ単位で大きさの違う金属球が付いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属球を計測する釘間に入れて遊技盤面に接面させながら上下に動かすことで簡便に計測できるが弱点は定点計測ができないことで、球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 板ゲージ====&lt;br /&gt;
[[画像:ITA.png|thumb|right|200px|板ゲージ]]&lt;br /&gt;
フィーバー機の登場でパチンコ遊技のほとんどが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回、図柄表示装置を始動させるかなど細かい配慮が必要になり、時として始動口の釘間を大きく開けることが要求されるようになった。金属球の付いたゲージ棒で対応した大きさが販売されることも無く、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板ゲージは11ｍｍから17ｍｍ程度まで巾の違う板が数十枚有って狙いの始動回数に合う板を選択して使うが弱点は金属球よりも極めて大雑把な調整しかできないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によっては動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== デジタルゲージ====&lt;br /&gt;
1989年（平成元年）にデジタルゲージが考案されて、より正確な釘間計測が可能になった。デジタルゲージは数社から販売されているが必要性を認識しない人が多く普及は進んでいない。デジタルゲージは釘の定点計測を可能としたため、0.03ｍｍ-0.04ｍｍの釘巾の違いが始動回数0.1回の違いに相当することが明らかになった（機種によって違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数社から発売されている様々なデジタルゲージを使ってみるとそれぞれに長所短所が見え隠れする。あるメーカーのデジタルゲージは正確だが重すぎるのと高価すぎる。あるものは手ごろの価格だが機種によっては遊技盤面の装飾類が邪魔して使用不可なときがある。又あるものは持ち易いが柄の部分がパチンコ機の上皿に当たっているのに気が付かずにいたら不正確な数字を取得するなどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 角度ゲージ====&lt;br /&gt;
遅すぎるくらいだが2000年（平成12年）頃からにわかに盤面に植設された釘の角度が重要視されるようになり様々なメーカーから角度の測定用具が販売されるようになった。ステンレス製であったりプラスチック製であったりいろいろだが厚さが1ｍｍ程度、巾が15ｍｍ程度の平板に0度から10度くらいまで計測できるように加工を施してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は用具の先端を遊技盤面に接面させ、ｎ角に加工された用具の一面を釘の本体胴部に接面させて計測する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面の釘配列及び装飾類の配設は、釘調整用具の使いやすさまでは配慮されてない盤面が多く、そのため角度ゲージが使えない箇所など多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 風車ゲージ====&lt;br /&gt;
近年は遊技盤面に取付けられる数が減っているものの、遊技盤面に必ず取付けてある装飾類の１つに風車がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車は遊技球の流下速度に変化をもたらしたり、遊技球の方向を変えるなど重要な役目を担っている。近年の遊技盤面は中央の図柄表示装置が大型化しているために逆ばかま釘下の風車から始動口までの距離が遠くなり勢いよく回る風車でないと遊技球が始動口に到達する前に死に球となる確率が高くなるなど回転状態も以前に増して重要になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然風車の取付き角度は始動口側へｎ％の球を送りアウト側へｎ％の球を送るなどを目論んで調整される。風車本体が角度測定の邪魔になって用具の開発が遅れていたが、風車釘の根元にゲージの一方を差込み残りの一方が風車釘の頭にあって風車釘の頂点のズレから計測する方法のゲージが開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、風車を軽く押さえて物差し状の測定用具で風車の円板部と遊技盤面との距離を計測して取付き状態を確認したり、ノギスのデプスバーを使って計測する用具が考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 渡り釘ゲージ====&lt;br /&gt;
統一ゲージの遊技盤作りを指導する段階で大阪の釘調整者が使っていたのをヒントに考案されたゲージで、使い方は数本から数十本ある誘導釘を一端狙いの角度より叩き上げた後に両端の釘2本を正確な角度に調整してこの2本の釘にゲージ板を宛がい、残りの不揃いの釘をゲージ板まで叩き落してしまう揃え方で簡便で統一ゲージ盤作りの作業は早くなるが、強く叩き落すと釘笠をゲージ板との衝突によって傷めてしまう危険がある。又、釘笠を調整の基準とするため釘本体の並びには少なからず凹凸が発生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘本体の凹凸を減らす方法も考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遊技盤の問題点と統一ゲージ ==&lt;br /&gt;
近年の遊技盤には先に紹介したベニア合板の他に厚さ10ｍｍのポリカーボネートの透明な合成樹脂を使った遊技盤が使われるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年（平成8年）に透明な板に釘を打ちつけて画面上に装着する方法が考案され特許出願されたが審査の申請がなされなかったためにみなし取り下げとなって誰でも開発できるように成ったことから遊技機メーカーによってポリカーボネートによる透明な板に釘を植設した遊技盤が使われるようになり全面液晶画面などが登場して遊技客の興趣を増大させることに成功している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ベニア合板製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
遊技盤はコンピュータ制御された釘打ち機によって釘が植設されるがベニア合板に釘を打ちつけた場合、釘の先端は板の柔らかい方向へと逃げて打込まれるため同一機種でも2台と同じ台を製作できない現状がある。厳密に見たとき全ての台の釘はバラバラの状態といえる。そこで人の手によって基本ゲージに近く成るように修正されて店舗に納入されるが、店舗によっては更に独自の基準を設けて釘の角度、渡りの巾など盤面の全ての釘を触って統一した状態で店舗に設置して開店を迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした釘調整の済んだ台が統一ゲージと呼ばれる。これにより遊技客に同一の遊技機を提供することができるとの建前だが、遊技盤の製造段階で位置ズレした釘が打ち込まれているために「モアベター」な調整に止まっているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポリカーボネート製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
ベニア合板製の遊技盤と比較してポリカーボネート製の遊技盤は基本ゲージにほぼ忠実に仕上がるため人の手を殆ど加えることが無く統一ゲージの製品が製造される。今後は数年でベニア合板に変わるものとして注目されるが、難点は釘を叩いた時の音の悪さで叩いたことによって釘が曲がったのか曲がって無いのか計測ゲージを当てるまで分かりづらいところである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 釘角度と流下方向と確率 ==&lt;br /&gt;
釘調整は釘の並びや形などの美しさも求められるが最終的に遊技客が楽しめる釘にすることが基本だ。そして店舗や遊技客の利益の調和をはかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのために大切なことが釘調整によって球の流下方向や流下量を変えること、つまり遊技盤の狙いの場所へｎ％の球を行かせて残りのｎ％をどこへ向かわせるか、いわば球の方向や量の比率を操作するのが釘調整だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比率の調整であって「絶対」は存在しない又、釘調整は「逆も真」風車ゲージの項目で述べてあるように風車が勢いよく回ると遊技球は始動口まで届くが回転の勢いを殺すことで始動回数を減らすこともできる。このように調整の全てに逆の作用が「真」として存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技台の傾斜 ===&lt;br /&gt;
遊技台を店舗の島（台を1列に設置してある場所を島という）に設置する時「ネカセ」といわれる傾斜を付けることが0度から1度の範囲で認められている。一般的に4分とか4分5厘の傾斜を付けると表現するが遊技台の下部を12-13ｍｍ手前に引き出した状態で島に取付けるか遊技台の上部を12-13ｍｍ奥へ入れた状態で取付けることで遊技台に傾斜が付く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面とガラスまでの隙間は19ｍｍから20ｍｍの距離があって遊技球の大きさを差し引くと約13-13.5ｍｍの自在空間が存在することになる。この空間を流下する遊技球が極力、遊技盤面側を這うように流下させるための「ネカセ」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最大1度までの「ネカセ」であるために効果は薄い。そのため遊技球は釘と衝突する時の速度や衝突した釘の角度によって流下方向が様々に変化して遊技に好不調（スランプ）の波を提供している。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32874</id>
		<title>パチンコの釘調整</title>
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				<updated>2008-07-11T13:19:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 釘角度と流下方向と確率 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘計測用具 ===&lt;br /&gt;
1980年（昭和55年）に遊技機メーカー三共のフィーバー機が登場してからも1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多用な情報が得られるようになり、伴なって釘調整も多様化してゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ゲージ棒====&lt;br /&gt;
遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12ｃｍ-13ｃｍ、直径3ｍｍ程度の金属棒の両端に釘間を計測する金属球が取付けてある。金属球はパチンコ球と同じ直径11ｍｍを基準に0.01ｍｍ単位で大きさの違う金属球が付いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属球を計測する釘間に入れて遊技盤面に接面させながら上下に動かすことで簡便に計測できるが弱点は定点計測ができないことで、球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 板ゲージ====&lt;br /&gt;
フィーバー機の登場でパチンコ遊技のほとんどが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回、図柄表示装置を始動させるかなど細かい配慮が必要になり、時として始動口の釘間を大きく開けることが要求されるようになった。金属球の付いたゲージ棒で対応した大きさが販売されることも無く、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板ゲージは11ｍｍから17ｍｍ程度まで巾の違う板が数十枚有って狙いの始動回数に合う板を選択して使うが弱点は金属球よりも極めて大雑把な調整しかできないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によっては動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== デジタルゲージ====&lt;br /&gt;
1989年（平成元年）にデジタルゲージが考案されて、より正確な釘間計測が可能になった。デジタルゲージは数社から販売されているが必要性を認識しない人が多く普及は進んでいない。デジタルゲージは釘の定点計測を可能としたため、0.03ｍｍ-0.04ｍｍの釘巾の違いが始動回数0.1回の違いに相当することが明らかになった（機種によって違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数社から発売されている様々なデジタルゲージを使ってみるとそれぞれに長所短所が見え隠れする。あるメーカーのデジタルゲージは正確だが重すぎるのと高価すぎる。あるものは手ごろの価格だが機種によっては遊技盤面の装飾類が邪魔して使用不可なときがある。又あるものは持ち易いが柄の部分がパチンコ機の上皿に当たっているのに気が付かずにいたら不正確な数字を取得するなどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 角度ゲージ====&lt;br /&gt;
遅すぎるくらいだが2000年（平成12年）頃からにわかに盤面に植設された釘の角度が重要視されるようになり様々なメーカーから角度の測定用具が販売されるようになった。ステンレス製であったりプラスチック製であったりいろいろだが厚さが1ｍｍ程度、巾が15ｍｍ程度の平板に0度から10度くらいまで計測できるように加工を施してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は用具の先端を遊技盤面に接面させ、ｎ角に加工された用具の一面を釘の本体胴部に接面させて計測する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面の釘配列及び装飾類の配設は、釘調整用具の使いやすさまでは配慮されてない盤面が多く、そのため角度ゲージが使えない箇所など多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 風車ゲージ====&lt;br /&gt;
近年は遊技盤面に取付けられる数が減っているものの、遊技盤面に必ず取付けてある装飾類の１つに風車がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車は遊技球の流下速度に変化をもたらしたり、遊技球の方向を変えるなど重要な役目を担っている。近年の遊技盤面は中央の図柄表示装置が大型化しているために逆ばかま釘下の風車から始動口までの距離が遠くなり勢いよく回る風車でないと遊技球が始動口に到達する前に死に球となる確率が高くなるなど回転状態も以前に増して重要になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然風車の取付き角度は始動口側へｎ％の球を送りアウト側へｎ％の球を送るなどを目論んで調整される。風車本体が角度測定の邪魔になって用具の開発が遅れていたが、風車釘の根元にゲージの一方を差込み残りの一方が風車釘の頭にあって風車釘の頂点のズレから計測する方法のゲージが開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、風車を軽く押さえて物差し状の測定用具で風車の円板部と遊技盤面との距離を計測して取付き状態を確認したり、ノギスのデプスバーを使って計測する用具が考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 渡り釘ゲージ====&lt;br /&gt;
統一ゲージの遊技盤作りを指導する段階で大阪の釘調整者が使っていたのをヒントに考案されたゲージで、使い方は数本から数十本ある誘導釘を一端狙いの角度より叩き上げた後に両端の釘2本を正確な角度に調整してこの2本の釘にゲージ板を宛がい、残りの不揃いの釘をゲージ板まで叩き落してしまう揃え方で簡便で統一ゲージ盤作りの作業は早くなるが、強く叩き落すと釘笠をゲージ板との衝突によって傷めてしまう危険がある。又、釘笠を調整の基準とするため釘本体の並びには少なからず凹凸が発生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘本体の凹凸を減らす方法も考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遊技盤の問題点と統一ゲージ ==&lt;br /&gt;
近年の遊技盤には先に紹介したベニア合板の他に厚さ10ｍｍのポリカーボネートの透明な合成樹脂を使った遊技盤が使われるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年（平成8年）に透明な板に釘を打ちつけて画面上に装着する方法が考案され特許出願されたが審査の申請がなされなかったためにみなし取り下げとなって誰でも開発できるように成ったことから遊技機メーカーによってポリカーボネートによる透明な板に釘を植設した遊技盤が使われるようになり全面液晶画面などが登場して遊技客の興趣を増大させることに成功している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ベニア合板製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
遊技盤はコンピュータ制御された釘打ち機によって釘が植設されるがベニア合板に釘を打ちつけた場合、釘の先端は板の柔らかい方向へと逃げて打込まれるため同一機種でも2台と同じ台を製作できない現状がある。厳密に見たとき全ての台の釘はバラバラの状態といえる。そこで人の手によって基本ゲージに近く成るように修正されて店舗に納入されるが、店舗によっては更に独自の基準を設けて釘の角度、渡りの巾など盤面の全ての釘を触って統一した状態で店舗に設置して開店を迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした釘調整の済んだ台が統一ゲージと呼ばれる。これにより遊技客に同一の遊技機を提供することができるとの建前だが、遊技盤の製造段階で位置ズレした釘が打ち込まれているために「モアベター」な調整に止まっているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポリカーボネート製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
ベニア合板製の遊技盤と比較してポリカーボネート製の遊技盤は基本ゲージにほぼ忠実に仕上がるため人の手を殆ど加えることが無く統一ゲージの製品が製造される。今後は数年でベニア合板に変わるものとして注目されるが、難点は釘を叩いた時の音の悪さで叩いたことによって釘が曲がったのか曲がって無いのか計測ゲージを当てるまで分かりづらいところである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 釘角度と流下方向と確率 ==&lt;br /&gt;
釘調整は釘の並びや形などの美しさも求められるが最終的に遊技客が楽しめる釘にすることが基本だ。そして店舗や遊技客の利益の調和をはかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのために大切なことが釘調整によって球の流下方向や流下量を変えること、つまり遊技盤の狙いの場所へｎ％の球を行かせて残りのｎ％をどこへ向かわせるか、いわば球の方向や量の比率を操作するのが釘調整だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比率の調整であって「絶対」は存在しない又、釘調整は「逆も真」風車ゲージの項目で述べてあるように風車が勢いよく回ると遊技球は始動口まで届くが回転の勢いを殺すことで始動回数を減らすこともできる。このように調整の全てに逆の作用が「真」として存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技台の傾斜 ===&lt;br /&gt;
遊技台を店舗の島（台を1列に設置してある場所を島という）に設置する時「ネカセ」といわれる傾斜を付けることが0度から1度の範囲で認められている。一般的に4分とか4分5厘の傾斜を付けると表現するが遊技台の下部を12-13ｍｍ手前に引き出した状態で島に取付けるか遊技台の上部を12-13ｍｍ奥へ入れた状態で取付けることで遊技台に傾斜が付く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面とガラスまでの隙間は19ｍｍから20ｍｍの距離があって遊技球の大きさを差し引くと約13-13.5ｍｍの自在空間が存在することになる。この空間を流下する遊技球が極力、遊技盤面側を這うように流下させるための「ネカセ」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最大1度までの「ネカセ」であるために効果は薄い。そのため遊技球は釘と衝突する時の速度や衝突した釘の角度によって流下方向が様々に変化して遊技に好不調（スランプ）の波を提供している。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32873</id>
		<title>パチンコの釘調整</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32873"/>
				<updated>2008-07-11T12:05:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘計測用具 ===&lt;br /&gt;
1980年（昭和55年）に遊技機メーカー三共のフィーバー機が登場してからも1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多用な情報が得られるようになり、伴なって釘調整も多様化してゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ゲージ棒====&lt;br /&gt;
遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12ｃｍ-13ｃｍ、直径3ｍｍ程度の金属棒の両端に釘間を計測する金属球が取付けてある。金属球はパチンコ球と同じ直径11ｍｍを基準に0.01ｍｍ単位で大きさの違う金属球が付いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属球を計測する釘間に入れて遊技盤面に接面させながら上下に動かすことで簡便に計測できるが弱点は定点計測ができないことで、球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 板ゲージ====&lt;br /&gt;
フィーバー機の登場でパチンコ遊技のほとんどが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回、図柄表示装置を始動させるかなど細かい配慮が必要になり、時として始動口の釘間を大きく開けることが要求されるようになった。金属球の付いたゲージ棒で対応した大きさが販売されることも無く、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板ゲージは11ｍｍから17ｍｍ程度まで巾の違う板が数十枚有って狙いの始動回数に合う板を選択して使うが弱点は金属球よりも極めて大雑把な調整しかできないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によっては動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== デジタルゲージ====&lt;br /&gt;
1989年（平成元年）にデジタルゲージが考案されて、より正確な釘間計測が可能になった。デジタルゲージは数社から販売されているが必要性を認識しない人が多く普及は進んでいない。デジタルゲージは釘の定点計測を可能としたため、0.03ｍｍ-0.04ｍｍの釘巾の違いが始動回数0.1回の違いに相当することが明らかになった（機種によって違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数社から発売されている様々なデジタルゲージを使ってみるとそれぞれに長所短所が見え隠れする。あるメーカーのデジタルゲージは正確だが重すぎるのと高価すぎる。あるものは手ごろの価格だが機種によっては遊技盤面の装飾類が邪魔して使用不可なときがある。又あるものは持ち易いが柄の部分がパチンコ機の上皿に当たっているのに気が付かずにいたら不正確な数字を取得するなどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 角度ゲージ====&lt;br /&gt;
遅すぎるくらいだが2000年（平成12年）頃からにわかに盤面に植設された釘の角度が重要視されるようになり様々なメーカーから角度の測定用具が販売されるようになった。ステンレス製であったりプラスチック製であったりいろいろだが厚さが1ｍｍ程度、巾が15ｍｍ程度の平板に0度から10度くらいまで計測できるように加工を施してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は用具の先端を遊技盤面に接面させ、ｎ角に加工された用具の一面を釘の本体胴部に接面させて計測する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面の釘配列及び装飾類の配設は、釘調整用具の使いやすさまでは配慮されてない盤面が多く、そのため角度ゲージが使えない箇所など多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 風車ゲージ====&lt;br /&gt;
近年は遊技盤面に取付けられる数が減っているものの、遊技盤面に必ず取付けてある装飾類の１つに風車がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車は遊技球の流下速度に変化をもたらしたり、遊技球の方向を変えるなど重要な役目を担っている。近年の遊技盤面は中央の図柄表示装置が大型化しているために逆ばかま釘下の風車から始動口までの距離が遠くなり勢いよく回る風車でないと遊技球が始動口に到達する前に死に球となる確率が高くなるなど回転状態も以前に増して重要になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然風車の取付き角度は始動口側へｎ％の球を送りアウト側へｎ％の球を送るなどを目論んで調整される。風車本体が角度測定の邪魔になって用具の開発が遅れていたが、風車釘の根元にゲージの一方を差込み残りの一方が風車釘の頭にあって風車釘の頂点のズレから計測する方法のゲージが開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、風車を軽く押さえて物差し状の測定用具で風車の円板部と遊技盤面との距離を計測して取付き状態を確認したり、ノギスのデプスバーを使って計測する用具が考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 渡り釘ゲージ====&lt;br /&gt;
統一ゲージの遊技盤作りを指導する段階で大阪の釘調整者が使っていたのをヒントに考案されたゲージで、使い方は数本から数十本ある誘導釘を一端狙いの角度より叩き上げた後に両端の釘2本を正確な角度に調整してこの2本の釘にゲージ板を宛がい、残りの不揃いの釘をゲージ板まで叩き落してしまう揃え方で簡便で統一ゲージ盤作りの作業は早くなるが、強く叩き落すと釘笠をゲージ板との衝突によって傷めてしまう危険がある。又、釘笠を調整の基準とするため釘本体の並びには少なからず凹凸が発生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘本体の凹凸を減らす方法も考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遊技盤の問題点と統一ゲージ ==&lt;br /&gt;
近年の遊技盤には先に紹介したベニア合板の他に厚さ10ｍｍのポリカーボネートの透明な合成樹脂を使った遊技盤が使われるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年（平成8年）に透明な板に釘を打ちつけて画面上に装着する方法が考案され特許出願されたが審査の申請がなされなかったためにみなし取り下げとなって誰でも開発できるように成ったことから遊技機メーカーによってポリカーボネートによる透明な板に釘を植設した遊技盤が使われるようになり全面液晶画面などが登場して遊技客の興趣を増大させることに成功している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ベニア合板製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
遊技盤はコンピュータ制御された釘打ち機によって釘が植設されるがベニア合板に釘を打ちつけた場合、釘の先端は板の柔らかい方向へと逃げて打込まれるため同一機種でも2台と同じ台を製作できない現状がある。厳密に見たとき全ての台の釘はバラバラの状態といえる。そこで人の手によって基本ゲージに近く成るように修正されて店舗に納入されるが、店舗によっては更に独自の基準を設けて釘の角度、渡りの巾など盤面の全ての釘を触って統一した状態で店舗に設置して開店を迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした釘調整の済んだ台が統一ゲージと呼ばれる。これにより遊技客に同一の遊技機を提供することができるとの建前だが、遊技盤の製造段階で位置ズレした釘が打ち込まれているために「モアベター」な調整に止まっているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポリカーボネート製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
ベニア合板製の遊技盤と比較してポリカーボネート製の遊技盤は基本ゲージにほぼ忠実に仕上がるため人の手を殆ど加えることが無く統一ゲージの製品が製造される。今後は数年でベニア合板に変わるものとして注目されるが、難点は釘を叩いた時の音の悪さで叩いたことによって釘が曲がったのか曲がって無いのか計測ゲージを当てるまで分かりづらいところである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 釘角度と流下方向と確率 ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32810</id>
		<title>パチンコの釘調整</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32810"/>
				<updated>2008-07-08T12:21:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 遊技盤の問題点と統一ゲージ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘計測用具 ===&lt;br /&gt;
1980年（昭和55年）に遊技機メーカー三共のフィーバー機が登場してからも1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多用な情報が得られるようになり、伴なって釘調整も多様化してゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ゲージ棒====&lt;br /&gt;
遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12ｃｍ-13ｃｍ、直径3ｍｍ程度の金属棒の両端に釘間を計測する金属球が取付けてある。金属球はパチンコ球と同じ直径11ｍｍを基準に0.01ｍｍ単位で大きさの違う金属球が付いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属球を計測する釘間に入れて遊技盤面に接面させながら上下に動かすことで簡便に計測できるが弱点は定点計測ができないことで、球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 板ゲージ====&lt;br /&gt;
フィーバー機の登場でパチンコ遊技のほとんどが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回、図柄表示装置を始動させるかなど細かい配慮が必要になり、時として始動口の釘間を大きく開けることが要求されるようになった。金属球の付いたゲージ棒で対応した大きさが販売されることも無く、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板ゲージは11ｍｍから17ｍｍ程度まで巾の違う板が数十枚有って狙いの始動回数に合う板を選択して使うが弱点は金属球よりも極めて大雑把な調整しかできないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によっては動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== デジタルゲージ====&lt;br /&gt;
1989年（平成元年）にデジタルゲージが考案されて、より正確な釘間計測が可能になった。デジタルゲージは数社から販売されているが必要性を認識しない人が多く普及は進んでいない。デジタルゲージは釘の定点計測を可能としたため、0.03ｍｍ-0.04ｍｍの釘巾の違いが始動回数0.1回の違いに相当することが明らかになった（機種によって違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数社から発売されている様々なデジタルゲージを使ってみるとそれぞれに長所短所が見え隠れする。あるメーカーのデジタルゲージは正確だが重すぎるのと高価すぎる。あるものは手ごろの価格だが機種によっては遊技盤面の装飾類が邪魔して使用不可なときがある。又あるものは持ち易いが柄の部分がパチンコ機の上皿に当たっているのに気が付かずにいたら不正確な数字を取得するなどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 角度ゲージ====&lt;br /&gt;
遅すぎるくらいだが2000年（平成12年）頃からにわかに盤面に植設された釘の角度が重要視されるようになり様々なメーカーから角度の測定用具が販売されるようになった。ステンレス製であったりプラスチック製であったりいろいろだが厚さが1ｍｍ程度、巾が15ｍｍ程度の平板に0度から10度くらいまで計測できるように加工を施してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は用具の先端を遊技盤面に接面させ、ｎ角に加工された用具の一面を釘の本体胴部に接面させて計測する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面の釘配列及び装飾類の配設は、釘調整用具の使いやすさまでは配慮されてない盤面が多く、そのため角度ゲージが使えない箇所など多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 風車ゲージ====&lt;br /&gt;
近年は遊技盤面に取付けられる数が減っているものの、遊技盤面に必ず取付けてある装飾類の１つに風車がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車は遊技球の流下速度に変化をもたらしたり、遊技球の方向を変えるなど重要な役目を担っている。近年の遊技盤面は中央の図柄表示装置が大型化しているために逆ばかま釘下の風車から始動口までの距離が遠くなり勢いよく回る風車でないと遊技球が始動口に到達する前に死に球となる確率が高くなるなど回転状態も以前に増して重要になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然風車の取付き角度は始動口側へｎ％の球を送りアウト側へｎ％の球を送るなどを目論んで調整される。風車本体が角度測定の邪魔になって用具の開発が遅れていたが、風車釘の根元にゲージの一方を差込み残りの一方が風車釘の頭にあって風車釘の頂点のズレから計測する方法のゲージが開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、風車を軽く押さえて物差し状の測定用具で風車の円板部と遊技盤面との距離を計測して取付き状態を確認したり、ノギスのデプスバーを使って計測する用具が考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 渡り釘ゲージ====&lt;br /&gt;
統一ゲージの遊技盤作りを指導する段階で大阪の釘調整者が使っていたのをヒントに考案されたゲージで、使い方は数本から数十本ある誘導釘を一端狙いの角度より叩き上げた後に両端の釘2本を正確な角度に調整してこの2本の釘にゲージ板を宛がい、残りの不揃いの釘をゲージ板まで叩き落してしまう揃え方で簡便で統一ゲージ盤作りの作業は早くなるが、強く叩き落すと釘笠をゲージ板との衝突によって傷めてしまう危険がある。又、釘笠を調整の基準とするため釘本体の並びには少なからず凹凸が発生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘本体の凹凸を減らす方法も考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遊技盤の問題点と統一ゲージ ==&lt;br /&gt;
近年の遊技盤には先に紹介したベニア合板の他に厚さ10ｍｍのポリカーボネートの透明な合成樹脂を使った遊技盤が使われるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年（平成8年）に透明な板に釘を打ちつけて画面上に装着する方法が考案され特許出願されたが審査の申請がなされなかったためにみなし取り下げとなって誰でも開発できるように成ったことから遊技機メーカーによってポリカーボネートによる透明な板に釘を植設した遊技盤が使われるようになり全面液晶画面などが登場して遊技客の興趣を増大させることに成功している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ベニア合板製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
遊技盤はコンピュータ制御された釘打ち機によって釘が植設されるがベニア合板に釘を打ちつけた場合、釘の先端は板の柔らかい方向へと逃げて打込まれるため同一機種でも2台と同じ台を製作できない現状がある。厳密に見たとき全ての台の釘はバラバラの状態といえる。そこで人の手によって基本ゲージに近く成るように修正されて店舗に納入されるが、店舗によっては更に独自の基準を設けて釘の角度、渡りの巾など盤面の全ての釘を触って統一した状態で店舗に設置して開店を迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした釘調整の済んだ台が統一ゲージと呼ばれる。これにより遊技客に同一の遊技機を提供することができるとの建前だが、遊技盤の製造段階で位置ズレした釘が打ち込まれているために「モアベター」な調整に止まっているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポリカーボネート製遊技盤 ===&lt;br /&gt;
ベニア合板製の遊技盤と比較してポリカーボネート製の遊技盤は基本ゲージにほぼ忠実に仕上がるため人の手を殆ど加えることが無く統一ゲージの製品が製造される。今後は数年でベニア合板に変わるものとして注目されるが、難点は釘を叩いた時の音の悪さで叩いたことによって釘が曲がったのか曲がって無いのか計測ゲージを当てるまで分かりづらいところである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32809</id>
		<title>パチンコの釘調整</title>
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				<updated>2008-07-08T11:46:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘計測用具 ===&lt;br /&gt;
1980年（昭和55年）に遊技機メーカー三共のフィーバー機が登場してからも1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多用な情報が得られるようになり、伴なって釘調整も多様化してゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ゲージ棒====&lt;br /&gt;
遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12ｃｍ-13ｃｍ、直径3ｍｍ程度の金属棒の両端に釘間を計測する金属球が取付けてある。金属球はパチンコ球と同じ直径11ｍｍを基準に0.01ｍｍ単位で大きさの違う金属球が付いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属球を計測する釘間に入れて遊技盤面に接面させながら上下に動かすことで簡便に計測できるが弱点は定点計測ができないことで、球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 板ゲージ====&lt;br /&gt;
フィーバー機の登場でパチンコ遊技のほとんどが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回、図柄表示装置を始動させるかなど細かい配慮が必要になり、時として始動口の釘間を大きく開けることが要求されるようになった。金属球の付いたゲージ棒で対応した大きさが販売されることも無く、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板ゲージは11ｍｍから17ｍｍ程度まで巾の違う板が数十枚有って狙いの始動回数に合う板を選択して使うが弱点は金属球よりも極めて大雑把な調整しかできないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によっては動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== デジタルゲージ====&lt;br /&gt;
1989年（平成元年）にデジタルゲージが考案されて、より正確な釘間計測が可能になった。デジタルゲージは数社から販売されているが必要性を認識しない人が多く普及は進んでいない。デジタルゲージは釘の定点計測を可能としたため、0.03ｍｍ-0.04ｍｍの釘巾の違いが始動回数0.1回の違いに相当することが明らかになった（機種によって違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数社から発売されている様々なデジタルゲージを使ってみるとそれぞれに長所短所が見え隠れする。あるメーカーのデジタルゲージは正確だが重すぎるのと高価すぎる。あるものは手ごろの価格だが機種によっては遊技盤面の装飾類が邪魔して使用不可なときがある。又あるものは持ち易いが柄の部分がパチンコ機の上皿に当たっているのに気が付かずにいたら不正確な数字を取得するなどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 角度ゲージ====&lt;br /&gt;
遅すぎるくらいだが2000年（平成12年）頃からにわかに盤面に植設された釘の角度が重要視されるようになり様々なメーカーから角度の測定用具が販売されるようになった。ステンレス製であったりプラスチック製であったりいろいろだが厚さが1ｍｍ程度、巾が15ｍｍ程度の平板に0度から10度くらいまで計測できるように加工を施してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は用具の先端を遊技盤面に接面させ、ｎ角に加工された用具の一面を釘の本体胴部に接面させて計測する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面の釘配列及び装飾類の配設は、釘調整用具の使いやすさまでは配慮されてない盤面が多く、そのため角度ゲージが使えない箇所など多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 風車ゲージ====&lt;br /&gt;
近年は遊技盤面に取付けられる数が減っているものの、遊技盤面に必ず取付けてある装飾類の１つに風車がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車は遊技球の流下速度に変化をもたらしたり、遊技球の方向を変えるなど重要な役目を担っている。近年の遊技盤面は中央の図柄表示装置が大型化しているために逆ばかま釘下の風車から始動口までの距離が遠くなり勢いよく回る風車でないと遊技球が始動口に到達する前に死に球となる確率が高くなるなど回転状態も以前に増して重要になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然風車の取付き角度は始動口側へｎ％の球を送りアウト側へｎ％の球を送るなどを目論んで調整される。風車本体が角度測定の邪魔になって用具の開発が遅れていたが、風車釘の根元にゲージの一方を差込み残りの一方が風車釘の頭にあって風車釘の頂点のズレから計測する方法のゲージが開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、風車を軽く押さえて物差し状の測定用具で風車の円板部と遊技盤面との距離を計測して取付き状態を確認したり、ノギスのデプスバーを使って計測する用具が考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 渡り釘ゲージ====&lt;br /&gt;
統一ゲージの遊技盤作りを指導する段階で大阪の釘調整者が使っていたのをヒントに考案されたゲージで、使い方は数本から数十本ある誘導釘を一端狙いの角度より叩き上げた後に両端の釘2本を正確な角度に調整してこの2本の釘にゲージ板を宛がい、残りの不揃いの釘をゲージ板まで叩き落してしまう揃え方で簡便で統一ゲージ盤作りの作業は早くなるが、強く叩き落すと釘笠をゲージ板との衝突によって傷めてしまう危険がある。又、釘笠を調整の基準とするため釘本体の並びには少なからず凹凸が発生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘本体の凹凸を減らす方法も考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遊技盤の問題点と統一ゲージ ==&lt;br /&gt;
近年の遊技盤には先に紹介したベニア合板の他に厚さ10ｍｍのポリカーボネートの透明な合成樹脂を使った遊技盤が使われるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年（平成8年）に透明な板に釘を打ちつけて画面上に装着する方法が考案され特許出願されたが審査の申請がなされなかったためにみなし取り下げとなって誰でも開発できるように成ったことから遊技機メーカーによってポリカーボネートによる透明な板に釘を植設した遊技盤が使われるようになり全面液晶画面で遊技客の興趣を増大させることに成功している。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32764</id>
		<title>パチンコの釘調整</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32764"/>
				<updated>2008-07-06T13:33:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘計測用具 ===&lt;br /&gt;
1980年（昭和55年）に遊技機メーカー三共のフィーバー機が登場してからも1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多用な情報が得られるようになり、伴なって釘調整も多様化してゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ゲージ棒====&lt;br /&gt;
遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12ｃｍ-13ｃｍ、直径3ｍｍ程度の金属棒の両端に釘間を計測する金属球が取付けてある。金属球はパチンコ球と同じ直径11ｍｍを基準に0.01ｍｍ単位で大きさの違う金属球が付いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属球を計測する釘間に入れて遊技盤面に接面させながら上下に動かすことで簡便に計測できるが弱点は定点計測ができないことで、球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 板ゲージ====&lt;br /&gt;
フィーバー機の登場でパチンコ遊技のほとんどが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回、図柄表示装置を始動させるかなど細かい配慮が必要になり、時として始動口の釘間を大きく開けることが要求されるようになった。金属球の付いたゲージ棒で対応した大きさが販売されることも無く、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板ゲージは11ｍｍから17ｍｍ程度まで巾の違う板が数十枚有って狙いの始動回数に合う板を選択して使うが弱点は金属球よりも極めて大雑把な調整しかできないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によっては動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== デジタルゲージ====&lt;br /&gt;
1989年（平成元年）にデジタルゲージが考案されて、より正確な釘間計測が可能になった。デジタルゲージは数社から販売されているが必要性を認識しない人が多く普及は進んでいない。デジタルゲージは釘の定点計測を可能としたため、0.03ｍｍ-0.04ｍｍの釘巾の違いが始動回数0.1回の違いに相当することが明らかになった（機種によって違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数社から発売されている様々なデジタルゲージを使ってみるとそれぞれに長所短所が見え隠れする。あるメーカーのデジタルゲージは正確だが重すぎるのと高価すぎる。あるものは手ごろの価格だが機種によっては遊技盤面の装飾類が邪魔して使用不可なときがある。又あるものは持ち易いが柄の部分がパチンコ機の上皿に当たっているのに気が付かずにいたら不正確な数字を取得するなどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 角度ゲージ====&lt;br /&gt;
遅すぎるくらいだが2000年（平成12年）頃からにわかに盤面に植設された釘の角度が重要視されるようになり様々なメーカーから角度の測定用具が販売されるようになった。ステンレス製であったりプラスチック製であったりいろいろだが厚さが1ｍｍ程度、巾が15ｍｍ程度の平板に0度から10度くらいまで計測できるように加工を施してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は用具の先端を遊技盤面に接面させ、ｎ角に加工された用具の一面を釘の本体胴部に接面させて計測する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤面の釘配列及び装飾類の配設は、釘調整用具の使いやすさまでは配慮されてない盤面が多く、そのため角度ゲージが使えない箇所など多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 風車ゲージ====&lt;br /&gt;
近年は遊技盤面に取付けられる数が減っているものの、遊技盤面に必ず取付けてある装飾類の１つに風車がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車は遊技球の流下速度に変化をもたらしたり、遊技球の方向を変えるなど重要な役目を担っている。近年の遊技盤面は中央の図柄表示装置が大型化しているために逆ばかま釘下の風車から始動口までの距離が遠くなり勢いよく回る風車でないと遊技球が始動口に到達する前に死に球となる確率が高くなるなど回転状態も以前に増して重要になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然風車の取付き角度は始動口側へｎ％の球を送りアウト側へｎ％の球を送るなどを目論んで調整される。風車本体が角度測定の邪魔になって用具の開発が遅れていたが、風車釘の根元にゲージの一方を差込み残りの一方が風車釘の頭にあって風車釘の頂点のズレから計測する方法のゲージが開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、風車を軽く押さえて物差し状の測定用具で風車の円板部と遊技盤面との距離を計測して取付き状態を確認したり、ノギスのデプスバーを使って計測する用具が考案されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 渡り釘ゲージ====&lt;br /&gt;
統一ゲージの遊技盤作りを指導する段階で大阪の釘調整者が使っていたのをヒントに考案されたゲージで、使い方は数本から数十本ある誘導釘を一端狙いの角度より叩き上げた後に両端の釘2本を正確な角度に調整してこの2本の釘にゲージ板を宛がい、残りの不揃いの釘をゲージ板まで叩き落してしまう揃え方で簡便で統一ゲージ盤作りの作業は早くなるが、強く叩き落すと釘笠をゲージ板との衝突によって傷めてしまう危険がある。又、釘笠を調整の基準とするため釘本体の並びには少なからず凹凸が発生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘本体の凹凸を減らす方法も考案されている。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<title>パチンコの釘調整</title>
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				<updated>2008-07-05T12:53:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘間計測用具 ===&lt;br /&gt;
1980年（昭和55年）に遊技機メーカー三共のフィーバー機が登場してからも1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多用な情報が得られるようになり、伴なって釘調整も多様化してゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ゲージ棒====&lt;br /&gt;
遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12ｃｍ-13ｃｍ、直径3ｍｍ程度の金属棒の両端に釘間を計測する金属球が取付けてある。金属球はパチンコ球と同じ直径11ｍｍを基準に0.01ｍｍ単位で大きさの違う金属球が付いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金属球を計測する釘間に入れて遊技盤面に接面させながら上下に動かすことで簡便に計測できるが弱点は定点計測ができないことで、球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 板ゲージ====&lt;br /&gt;
フィーバー機の登場でパチンコ遊技のほとんどが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回、図柄表示装置を始動させるかなど細かい配慮が必要になり、時として始動口の釘間を大きく開けることが要求されるようになった。金属球の付いたゲージ棒で対応した大きさが販売されることも無く、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板ゲージは11ｍｍから17ｍｍ程度まで巾の違う板が数十枚有って狙いの始動回数に合う板を選択して使うが弱点は金属球よりも極めて大雑把な調整しかできないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によっては動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32724</id>
		<title>パチンコの釘調整</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32724"/>
				<updated>2008-07-04T13:02:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 釘曲げ用具 ===&lt;br /&gt;
釘調整には様々な用具や支援装置がある。こうした用具や支援装置の先端を知る釘調整者の技術は0.01ｍｍ間隔の正確な調整能力がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンマー====&lt;br /&gt;
釘曲げ、釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつで微妙な調整ができる。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘調整者の中にははハンマーにこだわる人が多い。釘を叩いた時の「音」の良し悪しであったり、釘をたたいた時に釘笠に「傷」が付きにくいハンマーを選んだり、ハンマーの「重さ」であったり、柄の「持ち具合」など様々である。特に音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うためこうしたこだわりは大切なことであるとされる。釘を叩く時の音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄製ハンマーは釘をたたいた時の音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすいために手入れに時間を要する。ステンレスハンマーは音では鉄ハンマーに負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 調整棒====&lt;br /&gt;
一見ドライバー風に見えるためドライバーと呼ぶ人もいるが棒の先端が二股に割れており使い方は二股の間に釘を入れて曲げるために用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 釘ばさみ====&lt;br /&gt;
釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷めることが無いように釘笠が当たる位置には溝が切ってある。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E9%87%98%E8%AA%BF%E6%95%B4&amp;diff=32710</id>
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				<updated>2008-07-04T09:12:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 障害釘 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 釘調整の目的 ==&lt;br /&gt;
日本全国に存在する[[パチンコ]]店は営業の終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的に[[ホールコンピュータ]]から得られる情報を基にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したり曲げたり、風車の向きを変えたりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遊技球と障害釘と遊技盤 ===&lt;br /&gt;
パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された球は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で賞球口や始動口に入賞することを可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技球 ====&lt;br /&gt;
遊技球はパチンコ遊技に使われる球、鉄製で直径が11ｍｍ、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った球が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 障害釘 ====&lt;br /&gt;
ベニア合板製遊技盤に使われる釘は真鍮製、全長は35ｍｍで頭部は釘笠部と呼ばれ1ｍｍ本体胴部23ｍｍ螺旋胴部8ｍｍ釘尖端部3ｍｍからなる（遊技機メーカーによって全長以外は多少の違いあり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘胴径1.85ｍｍから2ｍｍ（遊技機メーカーで違いあり）釘尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部があり、この螺旋部によって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風車に使われている釘も真鍮製だがこちらは障害釘とは異なり全長が33ｍｍ、釘本体胴に螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 遊技盤 ====&lt;br /&gt;
遊技盤の縦横のサイズは50ｃｍ以内と規定されている。&lt;br /&gt;
厚さ20ｍｍ、ベニア合板製の遊技盤の昨今は縦巾において50ｃｍの規定ギリギリの大きさまで使用するように成っている。この事は2000年代初期の遊技盤と比較しても5ｃｍから10ｃｍも大きくなっていることを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤には障害釘や風車が植設され、中央には役物と呼ばれ、遊技中にある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置備えられていたりする又、中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や大入賞口、ひかり物や機種のキャラクターなどの装飾類が配設されていて遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技盤の呼び方はメーカーや地域によって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」「面」などと呼ばれ遊技盤などと正式名称で呼ぶことは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釘はこの遊技盤面に遊技釘の先端から17ｍｍ打ち込んであり、釘笠部1ｍｍを加えて18ｍｍが盤面上に突出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤面に植設されている（一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが実際には無駄な釘も存在している）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配列釘の呼称 ===&lt;br /&gt;
遊技盤面に植設された障害釘はその目的によっていくつものグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天釘（てんくぎ） ====&lt;br /&gt;
遊技盤面の最上段に植設された釘で3本から7本くらいまで横一列に並んでいる（2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった）一般的に遊技盤面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連釘（れんくぎ） ====&lt;br /&gt;
釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へと導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨロイ釘、ハカマ釘、逆ハカマ釘、誘導釘、篭釘等あるが地域や店舗によって呼び方が異なることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バラ釘 ====&lt;br /&gt;
1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔が設けられた独立した釘で、よく見ると横一列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 命釘（いのちくぎ） ====&lt;br /&gt;
入賞口や始動口、ワープ入り口や通過チャッカー近傍に植設された2本乃至3本の釘で、遊技球の通過を制御しなくてはならない場所に植設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 添え釘（そえくぎ） ====&lt;br /&gt;
命釘近傍に必ず植設されている1本の釘で、この釘の上げ下げ左右の振り加減調整で入賞が大きく左右される事がある（ジャンプ釘と呼称される場所もある）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>パチンコ</title>
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				<updated>2008-06-29T01:26:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 用語 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パチンコ'''とは、[[日本]]で誕生した[[娯楽]]あるいは[[ゲーム]]の一種。そのパチンコをする店を「パチンコ店」または「パチンコ屋」と呼ぶ。パチンコ店は[[繁華街]]を中心に全国各地にくまなく存在し、庶民の身近な娯楽および[[ギャンブル]]施設として機能している。また'''朝鮮玉いれ'''（ちょうせんたま-）ともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
パチンコ台、あるいはパチンコ機、遊技台（法律上の名称は「遊技機」）は内部多数の[[黄銅|真鍮]]製の『釘』や鉄板製の小さい『風車』を数個打ち付けた板を概ね垂直に近い状態で設置し、釘の頭からわずかな間隙をのこして板ガラスで覆ったものである。因みに、現在は1台あたり平均26万円、高いもので30万円程度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パチンコ球と呼ばれる直径約11ミリ、重量約5グラムの鋼球を玉貸機（サンド）などで借り、パチンコ台に挿入し、内蔵される発射機から球を発射する。弾かれた球は羽根や回転体、「チューリップ」のような機械仕掛けの「[[役物]]」に当たりながら複雑な軌跡で下に落ち、入賞口（当たり穴）に球を入れることにより規定数の入賞球を獲得することができる。役物は機械仕掛け・電気仕掛けにとどまらず、近年ではデジタル部品を駆使した[[デジパチ]]と呼ばれるハイテク度の強い機種が主流である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
球の借り賃は全国一律1個4円以下と決められており&amp;lt;ref&amp;gt;風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行規則・第三十五条 二-イ&amp;lt;/ref&amp;gt;、最低の貸し出し単位は25個（100円）である。ただし警察では[[2000年]]12月に「[[消費税]]分は1個4円以内という制限に含まれない」との見解を示しているため、今後100円で25玉に満たない貸し出しを行う店が現れる可能性がある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.p-world.co.jp/news2/2006/11/17/news1933.htm ■ iクリア導入店が消費税の貸出時転嫁を打診]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1997年の消費税率改訂時には、消費税を売上に転嫁出来なかったため、ホール負担となって売上以外に転嫁する形になった。近年は、主にパチンコ台の稼働率アップを目的に、球の借り賃を1個1～2円程度に下げ、少ない投資で遊戯を楽しめることを売り文句にする店も増加する傾向にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、パチンコ台のほかにパチンコ店には回転するリールをストップボタンで停止させる[[スロットマシン]]タイプの[[パチスロ]]も併設されていることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パチンコ店の営業は[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]]第二条第一項第七号で「設備を設けて客に[[射幸心]]をそそるおそれのある遊技をさせる営業（7号営業）」と規定されており、入賞球は繰り返しゲームに使用できるだけではなく、後述する様々な景品との交換が認められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レジャー白書2005に依れば、[[パチスロ]]を含めた参加人口は1,790万人に及び、市場規模は29兆50億円と約30兆円近くになる&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;。パチンコチェーンストア協会によると、就業人口は約44万人であり、就業人口に対して売り上げが大きいとされる。現在は娯楽の多様化、高くなったギャンブル性と依存性が指摘されるようになり、ピークの参加人口からは年々減少傾向にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 景品交換 ==&lt;br /&gt;
タバコ・菓子などの「（一般）景品」と換金可能な「特殊景品」の2種類があり、約95%のパチンコ客は特殊景品と交換する目的でパチンコを行う&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;。入賞により獲得した玉を景品と交換する場合、一般景品は借りた時と同じ1個4円の'''等価交換'''により交換できるが、特殊景品と交換する場合は店によって'''交換率'''が異なる。等価交換の店もあれば1個3円～2円など様々である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一般景品 ===&lt;br /&gt;
[[タバコ]]、[[菓子]]や、店によって電気製品、[[ネクタイ]]・[[ハンカチ]]・靴下などの洋装小物、[[化粧品]]、[[アクセサリー]]、[[コンパクトディスク|CD]]や[[DVD]]、[[食料品]]など様々で、大型のパチンコ店内の景品交換コーナーはさながら小型の[[スーパーマーケット]]のような感じである。&lt;br /&gt;
かつては景品に、どうしても事務所が売り込みたい[[演歌]]歌手や[[ミュージシャン]]のCDやLPが置かれる事もあった。1990年代までの[[オリコン]]チャートでみられる枚数は、パチンコ店の買い上げ枚数も上乗せされてカウントされる場合もあった。現在のJPOPと演歌業界はそれほどのスターを出せなくなったことに加え、ネット普及で新たな聴取層が生まれる楽曲も無視できなくなったために、このような上乗せはやっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 特殊景品（換金） ===&lt;br /&gt;
特殊景品（主にライターの石やコイン入りのカードなど）と交換した後、店外（一部では店内に設置される例もある）の各都道府県の[[公安委員会]]に古物商の許可を受けた景品交換所で[[現金]]と替えることができ、パチンコはギャンブル的な要素を持っている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nichiyukyo.or.jp/news/pachinkochyosa0305.html （財）社会安全研究財団による「パチンコに関する世論・有識者調査]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしパチンコは風適法第二十三条一、二で、「現金又は有価証券を賞品として提供すること」、「客に提供した賞品を買い取ること」が禁じられている為、パチンコ店が景品交換所を経営することはできない。その為、パチンコ業界はパチンコがギャンブルでは無いという建前で三店方式と呼ばれる方法を採っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ホールは客の出玉を特殊景品と交換する。&lt;br /&gt;
* 客は特殊景品を景品交換所（替場）に持っていき、[[古物商]]である景品交換所は特殊景品を現金で買い取る。&lt;br /&gt;
* 景品問屋が景品交換所から特殊景品を買い取り、ホールに卸す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、法律的な位置づけでは「古物の売買」になり換金にはあたらないとされ、ホール、景品交換所、景品問屋の三店がまったく違う経営主体という建前のもと、パチンコ業界は違法性を逃れている。しかし、[[神奈川県]][[川崎市]][[高津区]]のパチンコの景品交換所では「持ち込まれた景品に偽物が混じっていた」として、偽造景品による[[詐欺]]事件&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shikoku-np.co.jp/national/social/article.aspx?id=20050516000432 川崎でパチンコ景品の偽物/560万相当、詐欺で捜査]&amp;lt;/ref&amp;gt;が発覚したが、この被害届が景品交換所ではなく、ホールから届出されていた。景品交換所とホールの関係が証明されたにも関わらず[[神奈川県警]]は取締りを行っていないことや、パチンコ店チェーンが[[ジャスダック証券取引所]]に株式上場を求めたところ、「出玉の景品を換金する業界慣行の合法性があいまいなため、投資家保護を果たせない。」として上場を認めない&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.p-world.co.jp/news2/2006/4/30/news1695.htm ■ パチンコ店業界、株式上場不発]&amp;lt;/ref&amp;gt;など、様々な疑義が提示されてはいるものの、警察&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.adcircle.co.jp/greenbelt/news/200306/0701.html カジノ議連の質問状に警察庁などが回答]&amp;lt;/ref&amp;gt;および検察が、未だ、パチンコを賭博罪として起訴した例が無く、裁判所によって、パチンコ、及び三店方式が刑法の賭博罪に当たるかどうかについての判断は示されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遊技機 ==&lt;br /&gt;
ひと昔前のパチンコ台は、玉を弾くスプリングを戻す強さの加減をレバーを使って手で行いながら一発一発打っていた。現在のパチンコ台は玉の自動射出機構を備えており、ハンドルに手を添えるだけで玉を打つことができる。手を添えている間は永続的に玉が射出されるため、射出を一時的に停止させるストッパー（ハンドル付近の押しボタン、大概の台は親指で押せる位置にある）も搭載されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パチンコでは最低限の技術介入が求められるため、ハンドルには固定遊技を防止する観点からセンサーが搭載されており、必ず素手で金属部に触れないと玉が射出されないようになっている（手袋をはめてハンドルを握っても玉は射出されない）。ハンドル自体が金属製のもの、ハンドル周囲の輪の部分のみ金属部のものなど、仕様は台により様々である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[CR機]]&amp;lt;ref&amp;gt;Card Readerの略―玉を貸し出すための[[プリペイドカード]]を読み取らせる機器が付いたパチンコ機&amp;lt;/ref&amp;gt;の導入以降、1回の大当たり（特賞）の入賞球を増やしたり、[[確率変動]]（確変）の導入により、大当たりの確率を高めたりして、代わりに特賞以外の入賞球を減らすなど、射幸心を煽る傾向にある。本来の風適法では客に射幸心をそそるおそれのある遊技機を禁止しているのにも関わらず、脱税対策を建前としたCR機の普及の為に、射幸心を煽る傾向にある遊技機を認可したことが原因であると言われる&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年のパチンコ台ではかつてのアニメーション・特撮ドラマなど子供向けキャラクターを題材にしたもの、あるいは著名芸能人が監修・キャラクターを務めるものも開発されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インターネット上では近年のパチンコ台をゲームにした[[パチンコゲーム]]と呼ばれるものも人気を集めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遊技機は[[国家公安委員会]]の指定試験機関である[[保安電子通信技術協会]]によって規定上の条件を満たしているか試験が行われ、その後各都道府県の[[公安委員会]]の検定を受け、その後ホールに設置され、ホール所轄の[[警察]]が試験を行う。全ての試験を合格することで初めて客が遊技することが可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、検定の有効期間は3年間有効とされ、有効期間を過ぎた遊技機は使用することができない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 問題点 ==&lt;br /&gt;
パチンコは特殊景品による換金行為、及び中毒性などからさまざまな問題となっている。以下に例をあげる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== パチンコ依存症 ===&lt;br /&gt;
{{medical}}&lt;br /&gt;
低投資で大金を獲得できる場合もあるため、パチンコにのめり込む傾向がある。また、パチンコの大当たり時には脳から大量の[[エンドルフィン|β-エンドルフィン]]、[[ドーパミン]]などの[[神経伝達物質]]（脳内麻薬とも呼ばれる）が分泌される&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;。この為一種の[[薬物依存症|薬物依存]]に近い状態に陥り、パチンコに依存する恐れがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このパチンコ依存症により若年世代でも依存症により勉学意欲や勤労意欲を喪失し、[[ニート]]化する例や、借金してまでパチンコにのめり込み、[[多重債務]]に陥る例や、[[自殺]]にまで陥る例があり、[[消費者金融]]の在り様と併せて社会問題視（[[クレサラ問題]]）されたことから、2005年頃から[[東京都遊技業協同組合]]などの業界団体でもパチンコ依存症に対する注意の呼び掛けや問題解消のためのカウンセリングの紹介といった事業が始められている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.pachinko-izon.net/ パチンコ・パチスロ依存症を予防するためのホームページ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。2006年からは日本全体の業界団体である[[全日本遊技事業協同組合連合会]]でも同様の取り組みを開始しており、パチンコ依存症は治療を要する病気であると共に、業界団体としても救済を必要とする問題と位置付けて&amp;lt;ref&amp;gt;全日本遊技事業協同組合連合会のアナウンス：[http://www.zennichiyuren.or.jp/recovery.html 「パチンコは、適度に楽しむ遊びです」]&amp;lt;/ref&amp;gt;5年間分の運営費1億円を負担、同依存症に対する研究を進めるほか、専門相談員の育成にも乗り出している。&lt;br /&gt;
また民間では回復施設ワンデーポートと女性用のヌジュミが活動を始めている。パチンコ業界主導の依存症対策には疑問を投げかけている。回復者本人で精神保健福祉士（国家資格）が運営する相談カウンセリングセンター横浜メンタルヘルスサポートセンター&amp;lt;ref&amp;gt;[http://yokohamakokoro.soudancenter.com ギャンブル依存症などの相談センター 横浜メンタルヘルスサポートセンター]&amp;lt;/ref&amp;gt;も活動し効果を挙げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 児童の車内放置 ===&lt;br /&gt;
パチンコに熱中した保護者がパチンコ店の駐車場に止めた[[自動車]]内に子供を放置して、子供が[[熱中症]]や脱水症状などで死亡する事件（→[[ネグレクト]]）が発生し、社会問題になっている。そのため[[全日本遊技事業協同組合連合会]]は子どもの車内放置は[[児童虐待の防止等に関する法律]]の[[児童虐待]]にあたるとして車内放置根絶を目指し注意を喚起するキャンペーンを行っている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.zennichiyuren.or.jp/child.html 全日本遊技事業協同組合連合会 やめて!子供の車内放置!]&amp;lt;/ref&amp;gt;。対策として、加盟店内の一角に壁で仕切られた[[遊び場]]を設けて子供を預かったり、あるいは駐車場を店員が巡回して注意を呼び掛けたりしている。同会の報告によると、巡回などで見つかった車内放置のケースは2006年度で37件、56人になり増加傾向にある&amp;lt;ref&amp;gt;毎日新聞2007年5月5日朝刊 [http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070505k0000m040124000c.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 警察との癒着 ===&lt;br /&gt;
遊技機は警察の外郭団体である[[保安電子通信技術協会]]で試験を受け、各都道府県の[[公安委員会]]に検定を受け、パチンコ店は所轄の警察署によって営業認可、遊技機の検査を受け、風適法に違反した場合は同じ警察によって取り締まられることから、パチンコ業界は全て警察機関の管理下に置かれていると言える。その為、パチンコは特殊景品と三店方式によって賭博罪の適用を逃れ、黙認する見返りとして警察官僚の有力な[[天下り]]先となっている。例えば遊技機の型式試験を行う保安電子通信技術協会の前会長は前[[警察庁長官]]であった[[山本鎮彦]]であり、職員の1/3を警察出身者が占めることや、パチンコメーカー[[アルゼ]]では前[[警視総監]]である前田健治を常勤顧問として迎え入れるなど、パチンコ業界には警察関係者が多いと言われる&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 不正 ===&lt;br /&gt;
CR機導入以降は減少してはいるものの、依然として[[脱税]]が多く、業界全体として、[[国税庁]]の2004年度の調査では不正発見割合でみると50.3%と過半数が脱税の疑いがあり、「不正発見割合の高い業種」、「不正申告1件当たりの不正脱漏所得金額の大きな業種」では4206万2000円と、ともにパチンコがワースト2位にランクされている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.p-world.co.jp/news2/2005/12/2/news1515.htm ■ パチンコは「ワースト2」、脱税体質さらに悪化]&amp;lt;/ref&amp;gt;。不正においては裏ロム、[[遠隔操作]]&amp;lt;ref&amp;gt;NNN 2006年6月15日放送 パチンコ台を不正改造 会社役員ら3人逮捕&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kanagawa/news/20070424ddlk14040621000c.html 風営法違反：パチンコ台を違法機械で遠隔操作 店長ら2容疑者を逮捕 /神奈川]&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[釘調整]]、[[ゴト|ゴト行為]]、[[体感器]]、[[打ち子]]、[[サクラ (パチンコ)|サクラ]]、ジェットカウンターの間引き&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;と、店側、客側問わず不正が行われる問題を抱えており、公平な遊技として成立しない恐れがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 周囲に与える影響 ===&lt;br /&gt;
* パチンコ店は[[ネオンサイン]]や[[LED]]を使った広告スクリーンなどにより派手に外装してあることが多く、景観の悪化を嘆く声がある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/0/ad_vw.cgi?p=dy:2007:5:9 パチンコ店で決着 酒田駅前地区ダイエー跡地 景観へ配慮求める声も]&amp;lt;/ref&amp;gt;。近年では外装に予算をかけずマスコミ媒体に予算を使った広告戦略を行う店も増えている。また、店舗内の音楽が周囲にもれて騒音となっているところも少なくない。&lt;br /&gt;
* 大量の現金を扱うことから、景品交換所では[[窃盗]]・[[強盗]]事件がしばしば発生している&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* パチンコ店のCMが教育上好ましくないという声がある&amp;lt;ref&amp;gt;パチンコ店の出店に反対 京田辺市の住民有志らが市に署名を提出 （2005年12月7日 京都新聞）&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、全国放送されているのは主に台メーカーのそれで、店のCMはほとんどが地方局での放送である。これに対し[[北海道]]や[[新潟県]]、[[島根県]]では射幸心をあおる傾向にあることや、多重債務を招く恐れがあるとして、テレビCMの自主規制を行うこと決めている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=357946004 山陰中央日報2007年4月12日 - パチンコ店が広告自主規制へ]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&amp;amp;newsNo=232281 新潟日報2007年4月27日 - パチンコ店の広告は控えめに]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 廃棄処分になったパチンコ台・スロット台の殆どは[[香港]]、[[中華人民共和国|中国]]などに輸出され、不正なブローカーの手に渡ると、有害物質の鉛が適正に処理されず、中国国内で健康被害を引き起こし問題となっている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mbs.jp/voice/special/200705/03_7853.shtml 廃棄パチンコ台の処分問題]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 18歳未満の者の立ち入り規制が厳しく取り締まられていない。しかしその一方で、上に挙げた「車内放置」の問題もあり、特に核家族では家庭に幼児を置いておけないなどの問題も絡んで、店舗でも徹底しにくい傾向も見られる。託児設備のあるパチンコ店も一部にはあるが、全国的にみても地方郊外店以外では導入に積極的ではない面もある。これについては、[[2006年]]5月から施行された改正風営法により、明らかに18歳未満と分かる者を入場させたホールに対して罰則規定が盛り込まれた。これにより立ち入り規制の徹底がされた店もあるが、以前と比べても立ち入り規制が取り締まられていない店も少なくない。&lt;br /&gt;
* かつては[[分煙]]が徹底されておらず、店舗によっては店内に煙が充満している店も多々見られ、煙に巻かれて気分を悪くする者もいたが、2000年ごろより社会的に分煙志向が強まったことや、[[2002年]]の[[健康増進法]]施行による分煙の義務化といった後押しもあり、空調設備の完備、女性客の増大を見込んでの「清潔で過ごしやすい店内」を実現する上での分煙化なども行われており、紫煙渦巻くような店舗は改善される傾向にある。&amp;lt;ref name=&amp;quot;四海樓グループの女性専門店&amp;quot;&amp;gt;大阪を本拠とする四海樓グループでは2004年5月より「[http://www.kohmei.co.jp/pachi/shoplist/main/ladies_m.html 四海樓レディース店]」を道頓堀に設置。全面禁煙でであるほか、ひざ掛けやスリッパを提供してくつろげる場所を提供するとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パチンコと日本社会 ==&lt;br /&gt;
パチンコは市場規模・就業人口（約30兆円・約44万人）からすでに日本の[[基幹産業]]である。日本を代表する自動車製造業は、日本自動車工業会によると、市場規模約40兆円、就業人口約85万8千人である。パチンコ業界は、他の業界に比較すると就業人口に対して売り上げが大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パチンコと在日鮮人==&lt;br /&gt;
全国に約1万6000～7000店ほど存在するパチンコ店では、就職差別などから自営業が占めるパチンコ産業に携わっている就業者の[[在日コリアン|鮮人]]比率は他産業より高いとみられ、全国のパチンコ店経営者の鮮人の割合は7割から9割とも言われている&amp;lt;ref&amp;gt;パチンコチェーン店[[マルハン]]の韓昌祐会長は、[[2005年]][[5月18日]]放送の[[ワイド!スクランブル]][[インタビュー]]の中で、現在日本にあるパチンコ店の約7割が在日コリアンによる経営だという見解を示した。またその中で北朝鮮送金問題の質問に対し、「北朝鮮国籍の人は北朝鮮に忠誠を尽くしているのでいろいろな形で北朝鮮に奉仕しているのは事実」と語っている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日放送]]の[[ムーブ!]]では全国のパチンコ店オーナーの出自の内訳は韓国籍が50%、[[朝鮮籍]]が30～40%、日本国籍、[[華僑]]が各5%とし、[[1993年]]の[[武藤嘉文]]元[[外務大臣]]の国会答弁で「パチンコの金が何千億と北朝鮮に行っている」と認めている。と報道した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[在日本大韓民国民団]]、及び[[在日本朝鮮人総聯合会]]の最大の資金源&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/article/20060530000012 民団、総連との和解で反発拡散]&amp;lt;/ref&amp;gt;とも言われており、特に朝鮮総連では約20店の直営店を持っている。その為、北朝鮮送金問題に関して[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の資金のひとつとして、朝鮮総連に関係するパチンコ業界がある&amp;lt;ref name=&amp;quot;30兆円の闇&amp;quot;&amp;gt;[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ムーブ&amp;quot;&amp;gt;2006年7月11日放送 ムーブ! 金正日体制を支える 北朝鮮「送金ルート」を断て&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[AP通信]]はパチンコによる資金が北朝鮮の'''[[核兵器|核開発]]'''に流用されていると報道した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://megalodon.jp/?url=http://www.theglobeandmail.com/servlet/Page/document/v5/content/subscribe%3fuser_URL%3dhttp%3A%2F%2Fwww.theglobeandmail.com%252Fservlet%252Fstory%252FLAC.20061204.KOREA04%252FTPStory%252FTPInternational%252FAsia%252F%26ord%3d1167081736019%26brand%3dtheglobeandmail%26force_login%3dtrue&amp;amp;date=20061226062252 Associated Press: Pinball bumper business for N. Korea, Japan fears]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
また、民団傘下の最大団体・[[在日韓国商工会議所]]所属の1万社のうち約70%が直・間接的に係わっている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/article/20060627000014 &amp;quot;日本政府、民団に制裁措置&amp;quot;], [[朝鮮日報]] 2006/06/27&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パチンコと政界 ==&lt;br /&gt;
パチンコ推進団体として[[自民党遊技業振興議員連盟]]、[[民主党娯楽産業健全育成研究会]]などがあり、遊技業界の健全な発展を目標としたり、パチンコの換金を合法化するなどの案が発表されている。また業界団体[[パチンコチェーンストア協会]]には政治分野アドバイザーとして多数の政治家が挙げられている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.pcsa.jp/member.htm パチンコチェーンストア協会理事・会員リスト]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===パチンコと関係の深い政治家===&lt;br /&gt;
*[[平沢勝栄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Wall machine Circle of Pleasure.jpg|thumb|100px|パチンコのルーツとされる「ウォールマシン」]]&lt;br /&gt;
* [[大正]]時代に誕生した一銭硬貨をはじき景品を獲得するゲームが原型とされる。当時は子供向け遊戯。&lt;br /&gt;
* [[1930年]]、最初のパチンコ店が[[名古屋]]で開店。&lt;br /&gt;
* [[1937年]]、[[日中戦争]]勃発。&lt;br /&gt;
** 戦時特例法によりパチンコ店の新規開店禁止。&lt;br /&gt;
** 現在のパチンコと同じ鋼球式のパチンコが登場。&lt;br /&gt;
* [[1941年]]、[[太平洋戦争]]勃発。&lt;br /&gt;
* [[1942年]]、パチンコの全面禁止。パチンコ店は閉店し台は処分される。&lt;br /&gt;
* [[1945年]]、終戦。&lt;br /&gt;
* [[1946年]]、禁止されていたパチンコ復活。&lt;br /&gt;
* [[1948年]]、「[[正村ゲージ]]」が登場。[[Image:Masamura Gauge All 15.jpg|thumb|100px|正村ゲージ]]&lt;br /&gt;
* [[1949年]]、丸新物産（後の[[ニューギン]]）が名古屋市で設立。&lt;br /&gt;
* [[1950年]]、竹屋商会（後の[[竹屋]]）が[[春日井市]]で設立。&lt;br /&gt;
* [[1951年]]、[[ソフィア (パチンコ)|ソフィア（西陣）]]が[[桐生市]]で設立。&lt;br /&gt;
* [[1952年]]、[[京楽産業|京楽]]が名古屋市で、[[大一商会]]が[[愛知県]]（現在の[[北名古屋市]]付近）で設立。&lt;br /&gt;
* [[1955年]]、モナミ商会（後の[[三洋物産]]）が名古屋で設立。&lt;br /&gt;
* [[1958年]]、[[藤商事]]が[[大阪市]]で創業（現在の[[法人]]形態による藤商事設立は1966年）。&lt;br /&gt;
* [[1960年]]、「チューリップ機」が登場。[[平和 (パチンコ)|平和]]が桐生市で、[[豊丸産業|豊丸]]が名古屋市で設立。&lt;br /&gt;
* [[1966年]]、[[三共 (パチンコ)|三共(後のSANKYO）]]が名古屋で設立。&lt;br /&gt;
* [[1973年]]、太陽電子（後の[[タイヨーエレック]]）が名古屋市で設立。&lt;br /&gt;
* [[1975年]]、[[間寛平]]の「ひらけ!チューリップ」が100万枚の大ヒット。[[サミー]]が[[東京都]]で設立。&lt;br /&gt;
* [[1979年]]、「パチンコの日」制定（毎年[[11月14日]]）。[[高尾]]、三星（後の[[サンセイR&amp;amp;D]]が名古屋市で設立。&lt;br /&gt;
* [[1980年]]、[[フィーバー|現在のデジパチの基本である「三共フィーバー」が登場]]。&lt;br /&gt;
* [[1981年]]、[[羽根モノ#概要|現在の羽根モノの基本である「ゼロタイガー」が登場]]。&lt;br /&gt;
** [[警察庁]]が[[フィーバー]]機の大当たり時に開く大入賞口開閉時間を30秒×10ラウンドに規制。&lt;br /&gt;
* [[1983年]]、大同（後の[[ビスティ]]）が東京都で設立。&lt;br /&gt;
* [[1984年]]、フィーバー機の大当たり時の大入賞口開閉時間を15秒×10ラウンドに規制強化。&lt;br /&gt;
* [[1985年]]、[[保安電子通信技術協会]]によるパチンコ機の検定制度開始。&lt;br /&gt;
* [[1986年]]、「[[全国パチンコ・パチスロファン感謝デー]]」制定。&lt;br /&gt;
* [[1988年]]、警察庁が「[[CR機#概要|CR機構想]]」を発表。[[日本レジャーカードシステム]]設立。東洋商事（後の[[フィールズ (企業)|フィールズ]]）が名古屋市で設立。&lt;br /&gt;
* [[1989年]]、[[日本遊技関連事業協会]]設立。&lt;br /&gt;
* [[1990年代]]、このころ車に置き去りにされた子供の熱中症事故が問題視され始める。&lt;br /&gt;
* [[1992年]]、[[CR機#CR機の歴史|最初のCR機「CRフラワーショップ」が登場]]。&lt;br /&gt;
* [[1993年]]、「[[CR機#概要|ダービー物語事件]]」。&lt;br /&gt;
* [[2004年]]、風営法規則改正。新基準機が登場。パチンコの種区分が廃止。確変割合の上限（50%）撤廃、1/500以上まで大当り確率が緩和。&lt;br /&gt;
* [[2005年]]、1/500以上まで緩和された大当り確率が再び規制され、1/400以上となる。&lt;br /&gt;
* 2006年、規則改正。&lt;br /&gt;
* [[2006年]]5月、[[風営法]]改正。閉店前やトラブル時の出玉保証の禁止、明らかに18歳未満と分かる者を入場させたパチンコ店に対する罰則規定などが盛り込まれる。&lt;br /&gt;
* [[2006年]]7月、「みなし機」の完全撤去&amp;lt;ref&amp;gt;検定日から3年以上経過した機種については、ホールから必ず撤去せねばならないことが決められている。だが、実際はその機種を設置しているパチンコ店が所轄の警察署に届け出れば、特例として検定日から3年以上経過しても継続して設置が認められてきた（[[ファインプレー (パチンコ)|ファインプレー]]や[[玉ちゃんファイト]]などがその例）。この検定切れの機種を「'''みなし機'''」と言い、俗に言う「バラエティコーナー」にあるレトロ物の機種がこれに当たった。その特例のためこの決まりは事実上形骸化していたが、ホールによってはなかなか新台入れ替えが行われないといったメーカーサイドの弊害があったこともあり、みなし機の設置は認められないようになった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2006年[[8月8日]]、[[有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構]]設立。&lt;br /&gt;
* [[2007年]][[4月]]、有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構が不正防止対策負担金として各ホールからパチンコ・[[パチスロ]]入替時に新台100円・中古台50円の徴収開始。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 用語 ==&lt;br /&gt;
; 朝一単発&lt;br /&gt;
: 後述する「[[ブラボーキングダム]]」を始めとする単発打ちによる「連チャン打法」が存在した機種には、「モーニングセット」機能が備わっていた。これは、[[攻略法]]と言うより、ホール側の「[[サクラ]]」台で「'''客寄せパンダ'''」になってもらうことで稼働率アップを狙ったものである（開店後、[[無銭飲食]]（食い逃げ）防止の為、一定時間は出玉交換禁止のホールもあった）。&lt;br /&gt;
: これは、遊技台の電源を投入すると一定の確率、又は意図的なセットで'''内部乱数が[[パチンコ#パチンコ用語|連チャン]]ゾーンからスタート'''し、ホールの朝一から「連チャン」の嵐が吹き荒れる仕掛けだった。&lt;br /&gt;
: 当然ながら「モーニング台」につくためには、他の客より早く行列に並ばなければならず、「早起きは3万円の得」と言う新諺まで生み出した。尚、「モーニングセット」は、前日のゲーム状態に関係なくセット出来るので、「モーニング台」を確保したからと言ってそれが優秀台であるという保証はない。&lt;br /&gt;
; リーチ&lt;br /&gt;
: {{Main|リーチ (パチンコ)}}&lt;br /&gt;
; ダブルリーチ&lt;br /&gt;
: 画面上のリールがあと一つ揃えば大当たりとなる演出のうち、[[麻雀]]のリーチでいう「待ち」が二つある状態のこと。麻雀の「[[ダブルリーチ]]」とは意味合いが異なる。&lt;br /&gt;
; 連荘（連チャン）&lt;br /&gt;
: [[大当たり]]終了直後の「次回まで確率変動」または「次回まで時間短縮」中に再び大当たりに当選すること。偶然早い回転数で引いた場合はこう呼ばないことが多い。語源は麻雀の「連荘（連続してあがること）」から。&lt;br /&gt;
; 確率変動（確変）&lt;br /&gt;
: 大当たり確率を通常時よりも上昇させて大当たりを誘発する機能。CR機にのみ搭載されている。&lt;br /&gt;
: {{Main|確率変動}}&lt;br /&gt;
; 時間短縮（時短）&lt;br /&gt;
: 大当たり終了後、強力なデジタル変動の短縮と電チュー開放によるスタート入賞のサポートを組み合わせて持ち玉を減らさずに効率よく回転させる機能。又は保留玉が貯まった時にメインデジタルの変動時間を通常よりも短縮して時間効率を高める機能。&lt;br /&gt;
: {{Main|時間短縮 (パチンコ)}}&lt;br /&gt;
; [[フィーバー]]&lt;br /&gt;
: [[大当り]]状態のこと。通常のデジパチの場合、同一の絵柄や数字が3つ揃うとこの状態になる。ただ、この『'''フィーバー'''』は[[三共 (パチンコ)|三共]]の[[登録商標]]であり、大当りした時に「フィーバー!!」と叫ぶのは三共、ビスティの機種のみである。&lt;br /&gt;
: 実際に、三共の機種には「CR FEVER●●」と、必ず『フィーバー』と名付けられている（ビスティでも機種名にはフィーバーが付けられていたが、「CRフィーバーツインズ」を最後に廃止された）。&lt;br /&gt;
; 電チュー&lt;br /&gt;
: 玉が入ると開いて次の入賞を容易にする役物をチューリップと呼び、電チューは玉が特定の穴やゲート通ると電動で一定時間開いて閉じるチューリップのこと。&lt;br /&gt;
; 交換率（等価交換など）&lt;br /&gt;
: 遊技客側から言う「交換率」とは一般的に特殊(換金性のある)景品と交換する際の価値を指す。&lt;br /&gt;
: 景品買取所で[[両替|換金]]した場合の価値を「100円あたり玉何個必要か?」という表現をする。&lt;br /&gt;
: 例1 25玉交換 = 特殊景品100円分は玉25個で交換できる＝4.00円/1玉の価値。&lt;br /&gt;
: 例2 28玉交換 = 特殊景品100円分は玉28個で交換できる＝3.57円/1玉の価値。&lt;br /&gt;
: 貸し玉料金は「玉1個＝4円」と規定されているが、景品と交換する際の価値はというと警察の見解として「等価交換」とされている。&lt;br /&gt;
: 景品として交換される品物の人気としては、特殊景品が95%以上にのぼることから、遊技客側からみた「玉1個の価値」は「買取所での買取価格を基に計算する」のが常識となっている。&lt;br /&gt;
; [[ハイエナ (パチスロ)|ハイエナ]]&lt;br /&gt;
: 攻略法を知っている客が、他の客が打っている台に目をつけて、その客があきらめて台を空けるのを待つこと。以前は[[オカルト]]としか言えない攻略法しかないのであまり意味は無かった。しかし確率変動状態でありながら簡単に見分けのつかない「潜伏確変状態」を持つ機種が出現したため注意が必要である。&lt;br /&gt;
; ハマリ&lt;br /&gt;
: 相当の金額を投資しても、大当たりが出ないこと。語源は「深みに'''はまる'''」から。&lt;br /&gt;
; ジェットカウンター&lt;br /&gt;
: 獲得した出玉を計数する機器（計数機）のこと。シマの中央にあったり、両端にあったり、小規模な店舗では景品カウンターにあったりと、存在する位置は様々である。&lt;br /&gt;
; 割数&lt;br /&gt;
: ホール側から見た出玉率のこと。ホールコンピューターにより一台ごとの出玉率は瞬時に演算され、この割数と交換率の組み合わせによってホール側の儲けがわかる仕組み。[[営業割数]]と機械割数の二種類がある。&lt;br /&gt;
; フルスペック&lt;br /&gt;
# 全ての通常大当たり終了後に[[時間短縮 (パチンコ)|時短]]が付く機種。確変中の通常大当たりのみ時短が付く機種（'''ハーフスペック'''）と対比して使う。&lt;br /&gt;
# 大当たり確率が内規の下限（400分の1）近辺になっている機種。大当たり確率が300分の1前後になっている機種（'''ミドルスペック'''）と対比して使う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 台の区分・種類 ==&lt;br /&gt;
* [[CR機]]&lt;br /&gt;
* [[正村ゲージ]]&lt;br /&gt;
* [[現金機]]&lt;br /&gt;
* [[デジパチ]]&lt;br /&gt;
* [[羽根モノ]]&lt;br /&gt;
* [[権利物]]&lt;br /&gt;
* [[一般電役]]&lt;br /&gt;
* [[普通機]]&lt;br /&gt;
* [[一発台]]&lt;br /&gt;
* [[アレンジボール]]（[[アレパチ]]…登録商標）&lt;br /&gt;
* [[スマートボール]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本のメーカー一覧 ==&lt;br /&gt;
パチンコ台メーカーの組合として[[1960年]]設立の[[日本遊技機工業組合]]がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[奥村遊機]] http://www.monako.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[三洋物産]] http://www.sanyobussan.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[三共 (パチンコ)|SANKYO]]（ビスティ） http://www.sankyo-fever.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[京楽産業]] http://www.kyoraku.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[サミー]] http://www.sammy.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[ニューギン]] http://www.newgin.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[大一商会]] http://www.daiichi-shokai.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[藤商事]] http://www.fujimarukun.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[平和 (パチンコ)|平和]] http://www.heiwanet.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[西陣 (企業)|西陣]] http://www.nishijin.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[豊丸産業]] http://www.toyotec.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[マルホン工業]] http://www.maruhon-kogyo.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[サンセイR&amp;amp;D]] http://www.sansei.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[高尾 (パチンコメーカー)|高尾]] http://www.takao.gr.jp/&lt;br /&gt;
* [[タイヨーエレック]] http://www.taiyoelec.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[エース電研]] http://www.pachinko-live.com/index.html&lt;br /&gt;
* [[まさむら]] http://www.masamura.com/&lt;br /&gt;
* [[竹屋]] http://www.amusing-takeya.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[銀座 (企業)|銀座]] http://www.ginza-p.co.jp/&lt;br /&gt;
* [[アルゼ]] （ミズホ・メーシー）http://www.aruze.com/&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パチンコチェーン ==&lt;br /&gt;
* [[オータ]]&lt;br /&gt;
* [[ガイア (パチンコ)|ガイア]]&lt;br /&gt;
* ジャパンニューアルファ&lt;br /&gt;
* [[ダイナム]]&lt;br /&gt;
* [[はりまや]]&lt;br /&gt;
* [[パンドラ (パチンコ)|パンドラ]]&lt;br /&gt;
* ピーアークホールディングス&lt;br /&gt;
* [[マルハン]]&lt;br /&gt;
* エスパス（[[日拓ホーム]]）&lt;br /&gt;
* [[ダイエー (パチンコ)|ダイエー]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[チェーンストア|スーパー]]の[[ダイエー]]とは無関係。スーパーのダイエーは、かつて上記パンドラの親会社だった。[[2007年]][[4月27日]]、[[民事再生法]]手続きの開始を[[東京地方裁判所|東京地裁]]に申し立て）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[やすだ]]&lt;br /&gt;
* [[R&amp;amp;Hホールディングス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
[[フランス]]の[[作曲家]][[アンドレ・ジョリヴェ]]は来日中パチンコに心酔し、通い詰めていたと言われる。その趣味は、帰国後彼が作曲した「二台ピアノの為のパチンコ」に結実した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* {{cite book|和書&lt;br /&gt;
 | author = 谷岡一郎&lt;br /&gt;
 | year = 1998&lt;br /&gt;
 | title = 現代パチンコ文化考&lt;br /&gt;
 | publisher = 筑摩書房&lt;br /&gt;
 | id = ISBN 978-4480057495&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{cite book|和書&lt;br /&gt;
 | author = 溝口敦&lt;br /&gt;
 | year = 2005&lt;br /&gt;
 | title = パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない&lt;br /&gt;
 | publisher = 小学館&lt;br /&gt;
 | id = ISBN 978-4093797238&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references/&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[パンク (パチンコ)]]&lt;br /&gt;
* [[デジパチ]]&lt;br /&gt;
* [[羽根モノ]]&lt;br /&gt;
* [[権利物]]&lt;br /&gt;
* [[パチスロ]]&lt;br /&gt;
* [[パロット (パチスロ)]]&lt;br /&gt;
* [[パチンコ機一覧]]&lt;br /&gt;
* [[タイアップ機]]&lt;br /&gt;
* [[攻略]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--*パチンコ、[[パチスロ]]用語--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[パチンコ・パチスロ情報誌]]&lt;br /&gt;
* [[両替]]&lt;br /&gt;
* [[軍艦行進曲]] - 俗に言う『軍艦マーチ』。かつてのパチンコ店BGMの定番。&lt;br /&gt;
* [[全日本遊技事業協同組合連合会]]&lt;br /&gt;
* [[マリンパル女川]] - 特大のコリントゲーム台にホヤを投げて景品を当てるイベント、「ほやチンコ」が行われる。&lt;br /&gt;
* [[メダルチギ]]&lt;br /&gt;
* [[釘調整]]&lt;br /&gt;
* [[11月14日]]（パチンコの日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.nichiyukyo.or.jp/ 社団法人日本遊技関連事業協会]&lt;br /&gt;
* [http://www.zennichiyuren.or.jp/ 全日本遊技事業協同組合連合会]&lt;br /&gt;
{{Commons|Pachinko}}&lt;br /&gt;
{{ウィキプロジェクトリンク|パチンコ・パチスロ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:パチンコ|はちんこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ギャンブル|はちんこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:球技|はちんこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30878</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30878"/>
				<updated>2008-06-23T07:30:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 東京ボンバーズの選手名 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●和泉定治&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30629</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-20T03:36:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 東京ボンバーズの選手名 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30568</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-19T08:10:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* ローラーゲーム米国での歴史概略 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-17T06:40:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* ローラーゲーム試合ルール */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル・グリフィス（後にローラーゲーム機構オーナーとなる）がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが2008年（平成20年）においてはビル・グリフィス・ジュニアによって総じて縮小した活動になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり（この時のジャマーの位置は最前列スタート）その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWANO.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられミキ角田（日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた）遠藤優はMASARUがほとんど呼べずにリキ遠藤（日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された）河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りのビンゴバット河野、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけてタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30272</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-14T09:27:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 日本人女性スケーターの獲得 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30238</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-13T13:10:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 東京ボンバーズの誕生 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると同輩の角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクで一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30180</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-13T11:05:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 消えたチーム */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると同輩の角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクで一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天にて]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30177</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-13T10:38:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると同輩の角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクで一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天にて]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズが所属していたナショナルスケーティグダービー日本支社も現在はなくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30176</id>
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				<updated>2008-06-13T07:47:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 東京ボンバーズの誕生 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると同輩の角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクで一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天にて]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズが所属していたナショナルスケーティグダービー日本支社も現在はなくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30175</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-13T07:45:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 傘下チーム */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス・サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ・ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト・デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク・チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア・ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると同輩の角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクで一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越での銀座ホコ天にて]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズが所属していたナショナルスケーティグダービー日本支社も現在はなくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30174</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-13T07:44:13Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* LA T-Birds（ロスアンゼルス　サンダーバード）の選手名 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス・サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニー・ライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリー・ルイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブ・コービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・アダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サム・ワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エド・ドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョン・ジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリー・リンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティー・ストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリ・ーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロル・クルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエン・ミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビー・スミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフ・ヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーン・ミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニー・レインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディー・ソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス　サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ　ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト　デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク　チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア　ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると同輩の角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクで一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越での銀座ホコ天にて]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズが所属していたナショナルスケーティグダービー日本支社も現在はなくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=30173</id>
		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-13T07:39:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''放送当初は'''日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1978年'''（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1982年'''（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ICEP.jpg|right|200px|thumb|1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス　サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニーライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャードブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリールイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブコービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージアダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニーシルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サムワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリーマーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリーサガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エドドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョンジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニーレインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルドジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョンホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリーリンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニーサンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリーパトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディーソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメントンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティーストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリンクルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロルクルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエンミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビースミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファーマーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイルバウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BRA.jpg|ラルフヴァラディアス　サンダーバードコーチ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:T-BC.jpg|コリーンミュレル　サンダーバード所属&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;1972年から東京ボンバーズに応援参加&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYRO.jpg|ロニーレインズ&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのコーチを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:NYJU.jpg|ジュディーソウィンスキー&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;サンダーバードからのちにニューヨークへ移籍チーフスのキャプテンを務める&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス　サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ　ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト　デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク　チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア　ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズメンバーの写真集 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:BOBY.jpg|ボビー加藤&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーターでファンも多かった&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:RAY.jpg|レイ横山&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター優しい性格をしていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:GIMA.jpg|シンディ儀間&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイ在住日系人スケーター社交性豊かで大胆性も持合わせていた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MORI.jpg|タイガー森&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ初代コーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MIKI.jpg|ミキー角田&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター変幻自在なスケーティングで魅了&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAN.jpg|ビンゴバット河野&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター大相撲出身、頭突きがビンゴと呼ばれた&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KEI.jpg|綾部圭子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期ヨーコの強力な助手的存在&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:YUMI.jpg|堀井由美子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケータージャマーで活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:OKA.jpg|岡田恵子&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズ草創期メンバーの1人&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KAWAS.jpg|川島次夫&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーターパックを月面と見立てた宙返りは得意技&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:MASAE.jpg|宮田正江&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズの主軸で攻防両面で活躍&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:KANA.jpg|金沢幸雄&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;東京ボンバーズスケーター安定した滑りを信頼された&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成計画の頓挫 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''原因はローラーゲームの視聴率が低下'''して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームの復活は日本人チームを創ること'''と目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新たなるチーム結成の動き ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも'''滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動性を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志氏、[[電通]]の間宮氏、興行の招聘元[[キョードー東京]]などとも連絡を取れる状態にしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートにもスケーティングスタイル'''がある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴はストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類である当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい'''滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らで他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと'''男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。[[女子プロレス]]でさえ極端にマイナーな時代である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビル・グリフィスの再来日 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日'''することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して（普通は急な貸切には対応してもらえない）グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人チーム結成を即断の時 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は'''「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''「チームを創りましょう日本人チームを」'''「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫'''していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いて計画を実行に移すことをこの時に即断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4名が渡米 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1971年1月5日'''羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い夜はサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けたが、ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は怪我することも無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。&lt;br /&gt;
[[画像:T-B4.jpg|right|200px|thumb|ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4名はハワイアン・ウォリアーズの一員'''として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイでは夏場6月-8月の間'''日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーターラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどと3週間クールで戦い3ヶ月が過ぎた頃にハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人女性スケーターの獲得 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します'''日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫'''させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1968年から1970年の間にファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた'''意外ではなかった、ミキー角田でサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田に聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ会長の相川京子氏を探し当てることができた。森は事情を話して消滅していたファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''待ちに待った女性の応募があった'''100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3名の女性の渡米は約束されていたが'''渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると同輩の角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクで一緒に練習を繰り返すようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハワイアン・ウォリアーズ ===&lt;br /&gt;
'''1972年夏場ハワイに再びローラーゲームのシーズンがきて'''ジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日角田誠、河野一男、遠藤優、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回と同じホテル、アイランダーインに滞在した。ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられており試合と共に多くのファンを獲得するようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイに渡った日本人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成'''をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJIM.jpg|ジム・トロッター&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ハワイアン・ウォリアーズコーチ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWJU.jpg|ジュディー・アーノルド&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ウォリアーズ最強の女性キャプテン&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWMEN.jpg|ウォリアーズ男性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列左に河野、右ジム、 中列左角田、右森、後列遠藤、ボビー&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:HWWMEN.jpg|ウォリアーズ女性チーム&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;前列ユミコ、儀間、後列ダーニャ原田、ジュディー、ヨーコ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズの誕生 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた'''8名が渡米して2週間後にはウォリアーズの日系人スケーター4名を加えサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズはハワイで誕生した。&lt;br /&gt;
[[画像:TBGINZA1.jpg|right|200px|thumb|日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越での銀座ホコ天にて]]&lt;br /&gt;
人気のあるウォリアーズでアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに声援をうけ東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''東京へ戻ったボンバーズ'''は1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX－GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送の反響とチーム活動の休止 ==&lt;br /&gt;
1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 消えたチーム ===&lt;br /&gt;
'''憎悪や興奮、爽快感や感動'''を電波に乗せて送り始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの試合は15％を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズが所属していたナショナルスケーティグダービー日本支社も現在はなくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気 ===&lt;br /&gt;
'''後に一世を風靡したとか'''空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ファンの論議 ===&lt;br /&gt;
「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ！」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1978年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を観ることは不可能に近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チーム名とスケーター名の命名 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」（Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団）と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スケーター名 ===&lt;br /&gt;
草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによりリンクネームが付けられた。角田誠にはミキー角田、遠藤優にはリッキー遠藤、河野一男にはビンゴバット河野、森文雄にはタイガー森。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-08T12:13:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月から箱番組として日本で初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフヴァラディアスや選手コリーンミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか極端に[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1978年（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル　グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1982年（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルスサンダーバード対デトロイトデビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス　サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニーライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャードブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリールイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブコービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージアダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニーシルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サムワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリーマーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリーサガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エドドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョンジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニーレインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルドジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョンホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリーリンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニーサンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリーパトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディーソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメントンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティーストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリンクルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロルクルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエンミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビースミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファーマーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイルバウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス　サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ　ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト　デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク　チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア　ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の変わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズ創設史概略 ==&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成計画'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人チーム結成'''は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本人選手募集'''のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラースケートは子供の遊び'''程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄'''の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われる程度で終わっていた。&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-08T09:35:49Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月から箱番組として日本で初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフヴァラディアスや選手コリーンミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか極端に[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1978年（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル　グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1982年（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルスサンダーバード対デトロイトデビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス　サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニーライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャードブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリールイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブコービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージアダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニーシルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サムワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリーマーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリーサガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エドドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョンジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニーレインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルドジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョンホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリーリンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニーサンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリーパトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディーソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメントンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティーストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリンクルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロルクルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエンミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビースミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファーマーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイルバウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．カリフォルニア州ハリウッド，ノースハイランドアベニュー（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス　サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ　ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト　デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク　チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア　ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド（ひと区切り）は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャムの終了'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''コールオフと権利者'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」（ジャムを終了させることができる）の権利が与えられる。コールオフはそのスケーターの腰に両手を宛がう形で成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々なときに行使される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''勝敗'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''※マッチレース'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ることで決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 競技用語 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャマー（得点役1チームで2名出せる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルジャマー（同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走している得点役を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブロッカー（対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルブロッカー（通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リバースブロック（周回方向を逆走して体当たりなどをする行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央突破（ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・露払い（ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ホイップ（後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルホイップ（2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大車輪ホイップ（3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・レッグホイップ（手の変わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ダブルレッグホイップ（手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パック（スケーター集団の塊を指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・パックコントロール（スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コールオフ（リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・リーディングジャマー（最先頭を滑走するジャマーを指す）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ピリオド（試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ジャム（ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 東京ボンバーズの選手名 ==&lt;br /&gt;
;　　　　　　　　草創期の1972年10月-1973年3月放送&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ミキー角田（角田誠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リッキー遠藤（遠藤優）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビンゴバット河野（河野一男）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レイ横山（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボビー加藤（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コーチ、タイガー森（森文雄）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラルフヴァラディアス（ＬＡ　Ｔ－Ｂｉｒｄｓコーチ応援参加）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;1973年4月以降の放送から参加したメンバー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●川島次夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●金沢幸雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●若松雅俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●小泉博&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀口善行&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;女性陣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャプテン、佐々木陽子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部圭子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●堀井由美子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岡田恵子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シンディー儀間（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダーニャ原田（ハワイ在住日系人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル（ＬＡ　Ｔ-Ｂｉｒｄｓから応援）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;--------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●綾部喜美江（圭子の妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●守屋素子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●宮田正江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上野満枝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●西島英子&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-07T13:05:46Z</updated>
		
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&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6ｍ。1周40ｍ－70ｍの距離を持ち（会場の面積に合わせて距離を調整した）[[画像:Track.jpg|thumb|right|200px|試合用バンクトラック]]コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役（ジャマーと呼ばれる、2チームで4名）が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル（現[[テレビ東京]]）によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年（昭和43年）4月から箱番組として日本で初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフヴァラディアスや選手コリーンミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか極端に[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1978年（昭和53年）東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78（ミキー角田、二月陽子キャプテン）とトレーニングスクール育ちのブラックホークス（梅原コージ、斉藤メグミキャプテン）の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル　グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1982年（昭和57年）東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル　グリフィス機構のロスアンゼルスサンダーバード対デトロイトデビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年（平成5年）から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技（男性のみ）を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年（平成20年）以降の試合歴は記録に無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム米国での歴史概略 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年（平成20年）は総じて縮小した活動となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== LA T-Birds（ロスアンゼルス　サンダーバード）の選手名 ==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;男性陣&lt;br /&gt;
'''コーチ'''●ラルフヴァラディアス(Ralph Valladares)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ダニーライリー(Danny Reilly)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リチャードブラウン(Richard Brawn)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ラリールイス(Larry Lewis)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ボブコービン(Bob Corbin)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グレッグロバートソン(Greg Robertson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージアダムス(George Adsms)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョージヘルナンデス(George Fernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●レニーシルバーマン(Lennie Silverman)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サムワシントン(Sam Washington)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ビリーマーシャル(Billy Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ヘンリーサガン(Henry Sahagun)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●エドドレッサー(Ed Dresser)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジョンジョンソン(John Johnson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ロニーレインズ(Ronnie Rains)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハロルドジャクソン(Harold Jackson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マネージャー●ジョンホール(John Hall)&lt;br /&gt;
|valign=&amp;quot;top&amp;quot;|&lt;br /&gt;
;女性陣 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キャプテン'''●テリーリンチ(Terri Lynch)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ハニーサンチェス(Honey Sanchez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュリーパトリック(Juliy Patrick)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジュディーソゥインスキー(Judy Sowinski)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ルバータミッチェル(Ruberta Mitchell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●カルメントンプソン(Carmen Thompson)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●リズヘルナンデス(Liz Hernandez)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ベティーストーン(Betty Stone)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●サリーベガ(Sally Vega)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロリンクルース(Carolyn Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●キャロルクルース(Carol Kruse)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●バーバラジェーコブス(Barbara Jacobs)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●コリーンミュレル(Colleen Murrell)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●グエンミラー(Gwen Miller)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デビースミス(Debbie Smith)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ジェニファーマーシャル(Jennifer Marshall)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ゲイルバウワーズ(Gail Bowers)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1960年代のローラーゲーム機構 ==&lt;br /&gt;
機構主宰　ナショナルスケーティングダービー社（National　Skating　Derby　Inc）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　米国．ノースハイランドアベニュー．ハリウッド，カリフォルニア（1717　N．HIGHLAND　AVE．HOLLYWOOD，CALIF　90028　USA）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーナー　ビル　グリフィス（Bill　Griffiths）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傘下チーム ===&lt;br /&gt;
●ロスアンゼルス　サンダーバード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●シカゴ　ホークス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●デトロイト　デビルス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ニューヨーク　チーフス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●フィラデルフィア　ウォリアーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●東京ボンバーズ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東京ボンバーズ ===&lt;br /&gt;
所属　ナショナルスケーティングダービー日本支社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の住所　東京都港区六本木6丁目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動拠点　東京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習場兼トレーニングスクール　板橋区前野町　1972年9月開設&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。&lt;br /&gt;
== ローラーゲーム試合ルール ==&lt;br /&gt;
1960年代（昭和36年以降）から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''試合用リンク'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
走路巾約3.6ｍ、1周は40ｍ－70ｍで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称バンクトラックと呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1ｍ程度の柵（ハンドレール）が設けられている。&lt;br /&gt;
走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''チーム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1チームは男性5名女性5名で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''対戦'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女性は相手チームの女性と男性は相手チームの男性とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリオド'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1試合は8ピリオドに区切られており1ピリオド（ひと区切り）は10分間である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャム'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうしたピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャムと称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジャマー'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローラーゲームには得点役が存在する。得点役はジャマーと呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。（1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった）ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に1周先回りした状態で対戦チームのスケーターを1人追い抜くと1得点となり2人追い抜くと2得点となる。同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に先回りすることを条件に同一選手から2点3点と得点することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''アシストと反則'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力で柵外へ放り出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''反則者への罰と得点'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられたペナルティーボックスへ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.139.71.89</name></author>	</entry>

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		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-02T08:52:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;(ろーらーげーむ とうきょう　ぼんばーず　 Roller Games　Tokyo Bombers)&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1周40ｍ－70ｍの距離を持ち0度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上で得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで1968年（昭和43年）4月から東京12チャンネル（現テレビ東京）がロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードの試合をメインに箱番組として日本で初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけにしていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて資金面などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保し日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイで収録した東京ボンバーズの試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングテクニシャン、ミキ角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、その間に日本における女性の格闘技が少しづつ受け入れられるようになり極端にマイナーであった女子プロレスにマッハ文朱やビューティペアなどのスターレスラーが登場するなどして光が当たるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ローラーゲームの歴史概略 ==&lt;br /&gt;
'''ローラーゲーム'''はローラーダービーから分派したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年（大正11年）頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年（大正3年）にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代（昭和5年以降）で1961年（昭和36年）にビル　グリフィスとジェリー　ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成っていた。&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>ローラーゲーム東京ボンバーズ</title>
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				<updated>2008-06-02T05:32:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;210.139.71.89: 新しいページ: '== 概要 == '''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1周40ｍ－70ｍで0度から45度程度...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
'''走る肉弾戦'''ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1周40ｍ－70ｍで0度から45度程度の傾斜の付いたトラック上で得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで1968年（昭和43年）4月から東京12チャンネル（現テレビ東京）がロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードの活躍をメインに箱番組として日本で初めて紹介した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
放送当初は日本でまったく観た事もない美人スケーターによる髪を引張り合い殴る蹴るなどの信じられない乱闘シーンに驚き、視聴者をテレビの前に釘づけにしていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年（昭和45年）9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて資金面などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル　グリフィス、東京12チャンネル運動部長　白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ　森文雄らの思惑が一致して1972年（昭和47年）6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保し日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハワイで収録した東京ボンバーズの試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングテクニシャン、ミキ角田らの活躍で15％を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年（昭和50年）9月に放送が打切られため東京ボンバーズは忽然と消えたチームの印象を残してその消息を知りたがるファンは多かった。&lt;/div&gt;</summary>
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