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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>三重県</title>
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				<updated>2010-09-14T00:45:36Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;192.251.226.206: vimax&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;nvfpzukauulxiczodaso, http://www.vimaxpills4u.com/ Vimax picture, gMSWMka.&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.251.226.206</name></author>	</entry>

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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4&amp;diff=80136</id>
		<title>胡錦濤</title>
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				<updated>2010-03-07T12:58:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;192.251.226.206: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{大統領&lt;br /&gt;
| 人名=胡錦濤&lt;br /&gt;
| 各国語表記={{Lang|zh|胡锦涛}}&amp;lt;br/&amp;gt;Hu Jintao&lt;br /&gt;
| 画像=Hu Jintao 2004.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ=200px&lt;br /&gt;
| キャプション=胡錦濤（2004年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
| 代数=第6&lt;br /&gt;
| 職名=[[中華人民共和国主席|国家主席]]&lt;br /&gt;
| 国名={{PRC}}&lt;br /&gt;
| 就任日=[[2003年]][[3月15日]]&lt;br /&gt;
| 退任日=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
| 代数2=第3&lt;br /&gt;
| 職名2=[[中華人民共和国中央軍事委員会|国家中央軍事委員会主席]]&lt;br /&gt;
| 国名2={{PRC}}&lt;br /&gt;
| 就任日2=[[2005年]][[3月13日]]&lt;br /&gt;
| 退任日2=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
| 代数3=&lt;br /&gt;
| 職名3=[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]&lt;br /&gt;
| 国名3={{PRC}}&lt;br /&gt;
| 就任日3=[[1998年]][[3月15日]]&lt;br /&gt;
| 退任日3=2003年3月15日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
| 代数4=第4&lt;br /&gt;
| 職名4=[[中国共産党中央委員会総書記|中央委員会総書記]]&lt;br /&gt;
| 国名4=[[ファイル:Flag of the Chinese Communist Party.svg|20px]] [[中国共産党]]&lt;br /&gt;
| 就任日4=[[2002年]][[11月15日]]&lt;br /&gt;
| 退任日4=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
| 代数5=第5&lt;br /&gt;
| 職名5=[[中国共産党中央軍事委員会主席|中央軍事委員会主席]]&lt;br /&gt;
| 国名5=[[ファイル:Flag of the Chinese Communist Party.svg|20px]] [[中国共産党]]&lt;br /&gt;
| 就任日5=[[2004年]][[9月19日]]&lt;br /&gt;
| 退任日5=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
| 出生日={{生年月日と年齢|1942|12|21}}&lt;br /&gt;
| 生地={{Flagicon|ROC}}[[上海]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU4P&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 死亡日=&lt;br /&gt;
| 没地=&lt;br /&gt;
| 配偶者=[[劉永清]]&lt;br /&gt;
| 政党=[[Image:Danghui R.svg|15px]] [[中国共産党]]&lt;br /&gt;
| サイン= Hu Jintao Sign.png&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{中華圏の人物&lt;br /&gt;
| 名前=胡錦濤&lt;br /&gt;
| 職業=政治家&lt;br /&gt;
| 繁体字=胡錦濤&lt;br /&gt;
| 簡体字={{Lang|zh|胡锦涛}}&lt;br /&gt;
| ピン音=Hú Jǐntāo&lt;br /&gt;
| 注音=&lt;br /&gt;
| 和名=こ きんとう&lt;br /&gt;
| 発音=ホゥー・チンタオ （ホゥー・ジンタオ）、&amp;lt;br /&amp;gt;フー・チンタオ （フー・ジンタオ）&lt;br /&gt;
| ラテン字=Hu Chin-t'ao （[[ウェード式]]）&lt;br /&gt;
| 英語名=Hu Jintao&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''胡 錦濤'''（こ きんとう、ホゥー・チンタオ、[[1942年]][[12月21日]] - ）は、[[中華人民共和国]]の政治家。[[江沢民]]の後任として、[[2002年]]に第4代&amp;lt;ref&amp;gt;1982年の総書記制導入以降。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[中国共産党中央委員会総書記]]、[[2003年]]に第6代[[中華人民共和国主席]]、[[2004年]]には第5代[[中国共産党中央軍事委員会]]主席に就任。中華人民共和国の現在の最高指導者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
胡錦濤の統治によって、中国では穏健な政治改革と、過熱する経済成長を統制する政策が推進されている&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;[http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4165209.stm China's Leader shows his stripes.]&amp;quot;, ''[[BBCニュース|BBC News]]'', January 11, 2005.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
胡が国家主席へと上り詰める過程は、若く、実践的で、官僚的な共産党員の確立を示しており、過去の中国の指導者からの変化を表している。彼の人生の転換点は、[[中国共産党]]への入党、[[甘粛省]]建設委員会への異動、[[中国共産主義青年団]]への参加、[[チベット自治区]]党委員会書記としての活動、そして、江沢民のもとで[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]となったことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共産党入党まで ==&lt;br /&gt;
=== 先祖・系譜 ===&lt;br /&gt;
先祖は[[安徽省]][[績渓県]]出身・[[:zh:兵部尚书|兵部尚書]]にまで出世した[[胡宗憲]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU4P&amp;quot;&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』4ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。胡錦濤の曾祖父で胡氏44代目の[[胡永源]]は、16、7歳のころに同郷の商人に連れられて各地を転々とし、江蘇省[[泰州]][[黄橋]]にて雑貨店を始める。貯金がたまると、同郷の者たちとの共同出資で、茶葉専門店「裕泰和」を開業する。経営はほとんど友人に任せて自分は奉公先の雑貨店で働き続けた。その後収入が増えると、新しく開いた茶葉専門店「胡永泰」を持つようになった。「裕泰和」は、同郷人が出資金を引き上げたことで胡永源の店となった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』11ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。胡永源の1人息子で45代目の[[胡樹銘]]は、黄橋と[[季家市]]にある2軒の店を父から受け継いだ。彼には4人の男児がいたが、長男と三男は早世し、次男の[[胡炳華]]が「胡永泰」「裕泰和」の2軒を引き継いだ。4男であり、胡錦濤の祖父でもある[[胡炳衡]]は幼少時から読書を好み、[[科挙]]の合格を目指すも挫折を繰り返し、志半ばで死去。胡炳衡には2人の息子がおり、次男[[胡増鈺]]（1917年生まれ）が、胡錦濤の父親にあたり、のちに「静之」と改名する&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』12ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
[[上海市|上海]]（[[中国共産党]]の公式発表によれば「安徽省績渓」）に生まれ、[[江蘇省]][[姜堰市]]で育つ。曽祖父・胡永源が、商売のため故郷を離れて江蘇省に移り住んだことから、胡錦濤もこの地に移った&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU4P&amp;quot;/&amp;gt;。胡錦濤の父・胡増鈺は泰州姜堰高校を卒業後、上海の小学校で教員として働く。同地で江蘇州東台出身で南通女子師範学校卒業の[[李文瑞]]と出会い、[[1941年]]に結婚、翌年の12月に胡錦濤が生まれている。胡錦濤は長男であり、その下に2人の妹（[[胡錦蓉]]、[[胡錦萊]]）がいる。胡錦蓉は[[江蘇省]][[姜堰市]]建設局幹部を経て、現在は大手建設会社[[正太集団有限公司]]副董事（副会長）を務め、胡錦萊は[[泰県]]にて商業関係の会社に勤めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生活苦のため、一家は[[1948年]]に上海から泰州に戻る。胡増鈺夫妻は地元の小学校で教員をしながら、茶の販売も続けていた。7歳のときに母が死去したことで、胡は妹2人とともに泰州の祖母のもとに引き取られた。胡錦濤は物静かな子供で、よく1人で本を読んでいたという。[[毛沢東]]による中華人民共和国の建国後も、父は茶の販売による収入で生活費の不足を補ったが、経営手腕が乏しかったために店員さえも雇えず、家族はあまり裕福ではなかった。胡増鈺の身分は「小営業主」（農民や労働者よりも身分が低いが、地主や資産家のようなブルジョアよりはずっと高かったという）と決められたが、この身分が幸いして息子の胡錦濤は大学への入学および中国共産党への入党を認められた&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』13ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1956年]]、毛沢東によって中国政府は工業と商業の国有化政策を実地し、各地の私営企業主は個人所有の商店を国や集団へ売却させられた。胡増鈺の店は泰州市日用雑貨会社に合併され、月給30元の経理係として雇われた。数年後、毛沢東は知識人や幹部に地方の農村部で肉体労働に就くよう呼びかけた。胡錦濤の2人の妹は泰県の農村部に移住し、父・胡増鈺も泰県の農村部にある日用雑貨会社に転勤した&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU14P&amp;quot;&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』14ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。父・胡増鈺は[[文化大革命]]で告発され（同時に身分の低い血統であったこともあり）、熱心に父の評判を明らかにしようとしていた胡に大きな影響を与えた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |last=Havely |first=Joe |title=Getting to know Hu |publisher=[[アルジャジーラ|Al Jazeera]] |date=19 October 2007 |url=http://english.aljazeera.net/news/asia-pacific/2007/10/2008525172536374792.html |accessdate=7 April 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。文化大革命後、父は泰県の農村にて病没した。当時甘粛省で仕事をしていた息子の胡錦涛は、泰県に戻って父の葬儀を執り行った。遺骨は祖父の胡永源と同じく、故郷の[[龍川]]に埋葬された。その位牌は、胡氏一族の廟に祀られている&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU14P&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小学校から高校まで ===&lt;br /&gt;
胡錦濤は、2人の妹とともに泰州市内の西倉通りにある大浦中心小学校に通った&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦濤と現代中国』19ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1947年]][[9月]]にこの小学校に入学する。小学校時代の同級生の回想によると、家柄の良くない胡錦濤は政治活動に興味を抱き、読書に没頭していたという。授業態度はまじめで、家での予習復習も怠らなかった。成績は優秀であり、飛び級により、[[1953年]][[6月]]に10歳6ヶ月半で小学校を卒業し、中学校は泰州第二中学校に通った&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU20P&amp;quot;&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』20ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1956年]]9月、胡錦濤は泰州第一中学校高等部1年4組に入学する&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU20P&amp;quot;/&amp;gt;。この学校の大学進学率は100%で、江蘇省でも名門の進学校である。ここの旧校舎は現在は中学部として使われ、高校部は泰州の新市街地に移った。学校の史料館員によれば、「安定書院」跡地に創立されたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU20P&amp;quot;/&amp;gt;。高校での胡は歌やダンスに秀でていた。胡錦濤は成績優秀であり、体育以外の科目で90点以上を取った。高校3年生のときには級長に選ばれている。当時の胡について、教員は「小柄な彼はスポーツはあまり得意ではなかったが、リーダーシップがあり、文芸が得意で、よくクラブ活動に参加した。文化祭のときにはコーラスの指揮者となり、大活躍した」という&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』21 - 22ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。級長に選ばれた3年生のときには、「政治的自覚が強く、クラスメートをよくまとめ、各種の学習および学外活動を自主的におこなった。まじめに学習し、率直な性格のもち主で、責任感が強く、何事も積極的かつ公平に進めるタイプである」と書かれている&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU22P&amp;quot;&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』22ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で、高校時代の同級生によると、当時の胡錦濤は内向的で口数が少なく、クラスでは決して目立つ存在ではなかった。小柄なため体育は苦手だったが、[[卓球]]だけは得意だった。成績は上位であったが、一番ではなかった。[[1959年]]に[[清華大学]]に入学した際には、教員や同級生からは意外に思われたという。16歳半で同大学水力学部に入学した胡錦濤は、当時ではもっとも若い新入生であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU22P&amp;quot;/&amp;gt;。高校の数学教員・葉鳳梧によると、入学志望校の願書提出の際に、清華大学を希望するならば、日頃の成績と家庭の出身を考えて、人気はあるが審査の厳しい学部よりも志望者の少ない学部を志望したほうが受かる可能性が高い、とアドバイスを与えたという。そこで胡錦濤は、清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻を志望した&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU22P&amp;quot;/&amp;gt;。ここの卒業生は、ほとんどが地方（または辺境）のダム（水力発電所）に配属されるため、学生にはあまり人気がなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 清華大学 ===&lt;br /&gt;
1959年9月、清華大学水力エンジニアリング学部に入学する。胡錦濤は友人に「本当は政治家ではなくエンジニアになりたかった」と語ったことがあるという&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』29ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時の胡錦濤は、水力学部では最年少であった。胡錦濤が清華大学に入学した頃の中国は[[大躍進政策]]による農業政策の失敗と自然災害に起因する飢饉に見舞われており、学生の食事は質素なものであった。主食は小麦粉とトウモロコシの蒸しパン各1個ずつ、野菜炒め、白湯一杯であった。当時の清華大学の食堂には椅子がなく、学生たちは立ち食いしていた。胡錦濤のような南方出身の学生たちは、子供の頃から米食で育ったため、小麦粉とトウモロコシには慣れていなかった。彼らにとっては白米が一番の贅沢であった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』33 - 34ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同級生の回想によると、胡錦濤は歌とダンスが上手で、キャンパスで注目される存在であったという。入学後まもなく文芸宣伝工作団に入り、部隊隊長に選ばれた&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』36ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大学在学中、胡錦濤は同級生の[[:en:Liu Yongqing|劉永清]]と知り合う。理工系の大学である清華大学は女子が少なく、女子学生が少ない水力学部における彼女の存在は、男子学生にとっては憧れの的であった。学生たちの唯一の楽しみとして、週末のダンスパーティーへの参加があり、踊れる者もそうでない者も、土曜日の夜になると学生クラブに集まった。ダンスに秀でていた胡錦濤は常にパーティーの主役であり、女子学生たちからは王子様のように見られていた。胡錦濤は女子からの誘いを断らなかったが、視線は目立たないところに静かに座っている劉永清に注がれていた。いつしか2人は恋人同士となった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』39ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。学生時代の胡錦濤は文学と芸術、とくに映画・芝居・小説を好んだ。彼は図書館から中国やロシアの作家の小説を借りてきて読み耽った。恋人の劉永清にも小説を勧め、本を貸し借りし、互いに感想を述べあい、小説の話題を仲立ちとしてより親密になっていった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』40ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共産党入党 ==&lt;br /&gt;
=== 大学卒業後 ===&lt;br /&gt;
清華大学在学中の[[1964年]][[4月]]、中国共産党に入党。翌[[1965年]]7月に清華大学水力エンジニア学部を卒業後は、同大学の水力エンジニアリング学部政治指導員として大学に残り、仕事をしながら大学院に進学して研究を続ける&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』41ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。学生時代は学問よりも社会活動に力を注いだために、成績は80余人中20位前後であった。水力学部の教員になるためには大学院を出なければならず、卒業生のなかには大学に残って助手になる者はいなかった。日ごろの政治態度と活動を見込まれた胡錦濤は政治指導員として大学に残ったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 清華大学における政治闘争 ===&lt;br /&gt;
[[1966年]][[4月23日]]、清華大学に政治部が発足し、胡錦濤ら新任の政治指導員と、各学部の共産党支部書記600名が加わった。この政治部とは、大学内に設置された中国共産党の下部組織であり、思想教育を担当する&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』42ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年[[6月1日]]、『[[人民日報]]』は「いかなる悪人をも打倒せよ」という社説が掲載された。中央人民ラジオ放送局は夜のニュース番組で、[[北京大学]]の壁新聞（大学報）と人民日報の「北京大学の壁新聞を歓迎する」という社説を放送し、「北京大学党委員会が北京市党委員会と協力して北京大学の学生運動を抑圧した」と非難した。この翌日、清華大学に「あなたは誰の指揮に従うか」というビラが貼られ、清華大学の学長・[[:zh:蒋南翔|蒋南翔]]の、政治問題を回避し、学術研究を重視する姿勢が非難された。その後もキャンパス内に「大学党委員会は黒幕だ」「大学党委員会と翔学長を守ろう」といった内容のビラが入り乱れ、文化大革命において清華大学党委員会は革命的立場なのか、それとも反革命的路線なのかといった議論が沸き起こった。これは清華大学における文化大革命の始まりであった。共産党員にして政治指導員でもある胡錦濤は、大学党委員会と学長を支持する立場に立ち、大学を糾弾する教職員・学生と対立し、「保守派」のレッテルを貼られた&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU43P&amp;quot;&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』43ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。水力学部の学生に対して、大学党委員会は、過去において教育や研究を奨励し、大勢の優秀な卒業生を世に送り、国家建設に多大な貢献を果たし、共産党中央の方針を忠実に遂行してきたという説得を試みた&amp;lt;ref name=&amp;quot;KOKINTOUTOGENDAITYUUGOKU43P&amp;quot;/&amp;gt;。[[6月5日]]、北京市党委員会の新メンバーが送り込んだ人物が、清華大学党委員会の責任者に対して「今から清華大学の全ての行政権は工作組みの指導下に置かれることを通知する。明日、工作組みのメンバーが到着次第、大学党委員会の機能を停止する」と宣告する。[[6月13日]]、前項大会が召集され、蒋南翔は解職処分となり、大学党委員会の権限は工作組に委譲されることが正式に発表された。工作組の清華大学への進駐後、かつての党委員会のメンバーと政治指導員は批判にさらされ、政治指導員と教職員を初めとする共産党員の多くが吊るし上げの対象となり、公衆の面前で引き回された。工作組は文化大革命の指導グループとともに、硬軟両様の手段を用いて各学部の党書記と政治指導員を逐一調査にかけて自己批判させた。胡錦濤も批判の対象にされることは免れなかったが、学生や教職員との関係が日ごろから良好であったために引き回しの対象にはならずに済んだ&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』44ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。この政治闘争以後、胡錦濤は自らを深く包み、いかなる政治活動にも関わらない、政治的無関心派となった。政治指導員としての仕事も研究もできなくなった胡錦濤は、大学のキャンパス中に貼られたビラを読んで歩いて対立派の論争を聞いて回る以外にやるべきことがなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、清華大学の学生による工作組への非難、毛沢東の圧力による工作組の大学からの引き上げと清華大学付属中学の[[紅衛兵]]を支持する書簡により、大学で暴力的な出来事が発生する。[[1968年]]4月、北京紅衛兵主要指導者の1人が、反対派弾圧のために清華大学にて100日間にわたる武力闘争を引き起こし、学生と労働者部隊との間で戦争さながらの激しい戦いを展開して多数の死傷者を出した。同年[[7月25日]]、毛沢東は紅衛兵主要指導者5人を出頭させ、労働者たちの背後の「黒い手」が自分であることを明かし、清華大学のキャンパスの秩序はようやく回復された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 初期の政治活動 ==&lt;br /&gt;
=== 甘粛省におけるダム建設 ===&lt;br /&gt;
胡錦濤の恋人である劉永清は、[[甘粛省]]にある八盤峡ダム水力発電所への配属が決まった。清華大学の卒業生は、配属決定後はただちに配属先に就くわけではなく、北京近郊の農村部へ行き、農村社会主義教育運動という約1年間の再教育プログラムに参加しなければならない。政治指導員の胡錦濤も、低学年の学生を連れて北京近郊の村へ行き、農作業を体験した&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』41ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1966年]][[4月3日]]、再教育プログラムを終えた彼らは、一旦大学に戻って一週間の総括を行ってからそれぞれの配属先の会社に赴いた。胡錦濤の恋人である劉永清は、水力省直属の甘粛省第4ダム建設局813支局に配属され、八盤峡ダム[[水力発電所]]の建設現場で仕事を始めた&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』41ページ - 42ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1968年]][[12月]]、胡錦濤は水力省に配属され、さらに甘粛省にある水力省直属の第4ダム建設局への転出が決まる。北京から列車に乗った胡錦濤は[[蘭州]]に向かう。同地に到着した胡錦濤は、劉永清と同じ第4ダム建設局に配属となり、蘭州から100kmほど離れた[[中華人民共和国水利部]]劉家峡ダム工事支局土木建築の一般の作業[[技師]]として働くことになる&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』57ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1969年]]から[[1974年]]にかけて、水利部第4工事局でも技師として働いた&amp;lt;ref&amp;gt;Nathan, Andrew J. ([http://www.columbia.edu/cu/polisci/fac-bios/nathan/faculty.html Biography]); Gilley, Bruce ([http://www.princeton.edu/politics/people/cvs/bgilley.pdf Biography]) (March 2003). China's new rulers: the secret files ([http://www.foreignaffairs.com/articles/58584/lucian-w-pye/chinas-new-rulers-the-secret-files Article]). New York: [[:en:The New York Review of Books|The New York Review of Books]], p.79.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1970年1月、胡錦濤は813支局長の秘書に抜擢され、仕事場も技術課から支局党委員会の事務室に移る。これは技術の仕事から政治工作担当の専門職への転身であり、政界進出への第一歩を踏み出す形となる。政治工作担当の専門職への転身は、政治上の信頼を得たことを意味し、胡錦濤は自らの出自の問題から開放された&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』63ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年2月、胡錦濤は上司に結婚申込書を提出し、劉永清と結婚、夫婦となる。八盤峡ダム発電所は国の重点事業の1つとして投資も多かったため、ほかの国営企業よりも職員宿舎が多く、胡錦濤夫婦は結婚からまもなく宿舎を貰うことができた。[[1971年]]に長男の[[:zh:胡海峰|胡海峰]]（清華同方威視技術股份有限公司社長）、[[1972年]]に長女の[[:zh:胡海清|胡海清]]（[[新浪]]前[[最高経営責任者|CEO]]夫人）を儲けている&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』64ページ - 65ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
813支局長の秘書となってからの胡錦濤は、局長以下、重役の各種挨拶文の原稿作りのほかに、支局のさまざまな年度報告書の競う作業に勤しんだ。これらの仕事は、[[毛主席語録|毛沢東語録]]、『人民日報』の社説、政府公表の報告書から文言を適当に切り取れば簡単にできるもので、それがこの当時流行した創作法であった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』69ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1971年]]、813支局共産党委員会副書記に抜擢された胡錦濤は、専任で党務に当たる。第4建設局は水力省所属の企業体で、その下部企業体の813支局のトップは課長クラスに当たり、胡錦濤の肩書きは副課長であった。清華大学での政治闘争を経験した胡錦濤は党務の仕事を用心深く務めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 甘粛省建設委員会への異動 ===&lt;br /&gt;
[[1974年]][[9月15日]]、[[新華社|新華社通信]]が「黄河流域の青銅峡ダム発電所工事がほぼ完成した」というニュースを配信した。813支局が進めていた八盤峡ダム発電所の工事も終盤に入り、翌年には竣工すると見られていた。このころの胡錦濤は、上司たちとの人間関係も会社での評判も良好であり、このままでいけば将来の昇進が期待されていた。しかし、813支局は水力発電所所属の土木工事会社であり、各地に転勤して工事を行う必要があるため、自分の家庭生活に大きな影響を与えることになることを胡錦濤は悩んでいた。813支局は、甘粛省政府土木管理部門の建設委員会の官僚の接待に当たることがあったが、そのうち、胡錦濤は建設委員会副主任の[[張延青]]と親しくなる。ある日、胡錦濤に付き添われてダム工事を視察した張延青は、胡錦濤と昼食を取っている最中に、ダム工事が終了した後の胡錦濤の予定を聞いた。未定であることを答えると、張延青は胡錦濤に対して「建設委員会に来て自分の秘書になる気はないか」と打診した。この申し出に胡錦濤は大いに喜び、その場で即答した。人事の手続きが難しいのではないかと心配する胡錦濤に対して、張延青は、手続きのことは自分に任せるよう答えた。その後八盤峡ダムの工事現場に、人事異動の辞令が届き、胡錦濤の甘粛省建設委員会への転勤が正式に決定する&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』78 - 79ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。こうして、胡錦濤は甘粛省建設委員会に異動し、張延青の委員会主任室専属秘書として働くことになる。この転勤が、胡錦濤の人生で最も重要な転換点と見られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
張延青は山西省の出身で、共産党の古参幹部である。胡錦濤にとっては官途における最初の恩人であり、彼の口添えがなければ転勤はなかっただろうと見られている。それゆえ、胡錦濤は張延青に絶えず恩義を感じており、毎年正月になれば張延青に電話をかけて新年の挨拶を述べ、甘粛省に出張する者があれば栄養剤や健康食品などの土産を託して届けさせている&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』80ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1974年]]8月、胡錦濤は八盤峡ダム発電所から間縮小建設委員会に移り、張延青の秘書として働く。仕事場から30メートルほどのところにある職員用宿舎を借り、家族4人で2DKのアパートで暮らし始める。職場では、上司に言われた仕事を黙々とこなした。報告書や挨拶文などの原稿づくりが、胡錦濤の主な仕事であった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』85ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1975年]]、同委員会副主任に昇進する。ちょうどその頃、失脚から返り咲いた[[トウ小平|鄧小平]]によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。同年、張延青は胡錦濤を半年間観察したのち、勤務態度がまじめで、上司に忠実で、同僚の評判もよい胡錦濤を、主任の[[単国棟]]に推薦し、幹部会議の討論を経て、設計管理字部長に任命した。このときの胡錦濤は33歳で、建設委員会ではもっとも若い次長となった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』86ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。この頃、のちに中国の最高権力者となる胡錦濤が[[国務院総理]]に指名することになる[[温家宝]]は、甘粛省地質局地質調査測量隊・思想政治課副主任を務めていた。当時の同僚によれば、胡錦濤は次長に昇進したのちも以前と変わらず仕事に精を出し、勤務時間を守り、同僚に愛想がよく、さわやかではきはきとした仕事ぶりで、中間管理職となったことを鼻にかけるような態度は少しも見せなかったという。次長に昇進した胡錦濤は、幹部チームを率いて[[蘭州市]][[永登県]][[六福郷]]へ赴き、農民たちに[[社会主義]]教育の宣伝活動を行った。胡錦濤らは政治思想教育のための資料を数多く用意してきたが、農民たちの関心事は、詩歌の朗読や理論よりも、少しでも多く食料を作り、腹いっぱい食べることであった。そのことを知った胡錦濤は、机上の空論の宣伝よりも、もっぱら生産力回復を第一義とする鄧小平の実務路線に従った&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』88ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。1975年[[5月29日]]、鄧小平は毛沢東の3項目、「ソ連反対主義への修正」、「安定団結」、「経済発展」の3つを各分野の指針とする指示を出し、経済発展を軌道に乗せようとする。胡錦濤は六福郷の社会主義教育プログラムの責任者として、[[ソビエト連邦|ソ連]]の侵入に備えることの重要性を説いて政治理論書の学習を指示し、一方で幹部チームを率いて農作業・かんがい用水路の整備に力を入れて農民たちを食糧不足から脱却させようとした。この教育プログラムは半年にわたって行われ、これのリーダーを務めた胡錦濤は政治活動の経験を積む形となった。プログラム終了後、胡錦濤は設計管理部の指導管理に加わり始めた&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』88 - 89ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後中国の各分野における経済活動が活発化したことで、甘粛省建設委員会も蘭州市のインフラ整備に力を入れ始める。甘粛省建設委員会は胡錦濤に対して蘭州市養鶏場、乳製品製造工場、青少年文化センターの建設工事の計画審査と基礎工事の現場総監督を任せた。胡錦濤は3つのプロジェクトの企画審査と建設用地の選定会議を開き、設計から建設用地の選定、基礎工事、建設施工の管理、完成後の検査までのすべての段階における責任者を定めて責任の所在を明確にした。各段階において工事のできばえに対する請負制を実施し、品質管理を厳格にし、建築物に欠陥を残さない措置を取った。3つの建設プロジェクトは順調に進行し、2年足らずで完成にこぎ着け、各施設とも使用開始が可能となった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』90 - 91ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1980年]]、胡錦濤は建設委員会次長から副主任に栄転し、副局長クラスの幹部となる。清華大学時代から胡錦濤の上司であり、[[胡耀邦]]のかつての部下であり、甘粛省共産党副書記の[[劉冰]]という人物と胡錦濤は親密な間柄となった。胡錦濤は暇さえあれば劉冰を訪ね、仕事についての指示を仰いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
有能な若手党員の一人として、胡錦濤は甘粛省委員会第一書記である[[宋平]]の推薦により、[[1980年]]に[[中国共産主義青年団]]の甘粛省委員会書記に就任した。かつてインフラ整備の建設工事を宋平が視察した際にその案内役を務めたのが胡錦濤であり、宋平は胡錦濤に対して好印象を抱いたという&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』96ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 胡耀邦との出会い ===&lt;br /&gt;
[[1981年]]9月、甘粛省共産党委員会は、胡錦濤を、鄧小平の娘（[[トウ楠|鄧楠]]）と[[胡耀邦]]の息子・[[:en:Hu Deping|胡徳平]]とともに、[[中国共産党中央党校]]にて共産党の高級幹部となるための訓練を受けさせることを決定した。これは、地方の甘粛省から中央に異動していた宋平の推薦によるものであった&amp;lt;ref&amp;gt;Nathan &amp;amp; Gilley, p.42.&amp;lt;/ref&amp;gt;。鄧楠は胡錦濤に良い印象を持ち、そのことを父・鄧小平に報告している。また、胡耀邦の息子も胡錦濤を自宅に招待し、胡耀邦に初めて対面させている。胡耀邦は共産主義青年団出身の後輩である胡錦濤に親しみを込めて握手をしたことで、それまでの緊張がいっぺんに解けた。その日、彼ら2人は膝をまじえて天文地理、歴史文学、政治情勢、国際問題、現在の仕事に至るまで語り合った。その後も胡錦濤は胡耀邦をしばしば訪問し、2人の親交はますます深まった&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』98 - 99ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1982年]]10月、胡錦濤は甘粛省共青団書記に就任する。そのわずか2ヵ月後の12月、共青団中央書記処書記に就任する。2年後の[[1984年]]、共青団中央書記処第一書記に昇進し、共青団の事実上のリーダーとなる。共青団中央書記時代の胡錦濤は中国共産党総書記だった胡耀邦の地方訪問のエスコートをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貴州省党委員会書記 ===&lt;br /&gt;
[[1985年]]、胡耀邦は胡錦濤を[[貴州省]]党委員会書記に就任させた。[[上海幇]]の構成員とは対照的に、胡錦濤はそのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域で積んだ。そのため部分的には、彼は上海幇と比較して西洋的な考えになじみがないと言えよう。1980年代に北京では民主化を求める抗議活動が起こり、その結果胡耀邦が失脚したが、同じように起こった地方の学生の民主化を求める抗議活動に対して胡錦濤は慎重に対処した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チベットでの活動 ===&lt;br /&gt;
[[1988年]]6月、[[チベット自治区]]党委員会書記が重病のため辞職した。中国共産党総書記だった[[趙紫陽]]は、2つの貧しい貧困地域（甘粛省・貴州省）で働いていたことを理由に、胡錦濤をチベット自治区党委員会書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都[[ラサ]]ではデモ活動が起こっていた。[[1989年]][[1月19日]]、ラサにて公開裁判をおこない、前年[[3月]]に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の[[1月28日]]、[[パンチェン・ラマ10世]]が急死したが、多くのチベット人は胡錦濤がそれにかかわったと信じている&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;[http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/2404129.stm Profile: Hu Jintao]&amp;quot;, ''BBC News'',  September 16, 2004.&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に[[3月8日]]午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は[[六四天安門事件|天安門事件]]に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった&amp;lt;ref&amp;gt;Nathan &amp;amp; Gilley, p.42.&amp;lt;/ref&amp;gt;。日本では、この時にチベット[[独立運動]]を押さえ込んだことで党指導部の信頼を勝ち得たと言われることもあり、[[2008年のチベット動乱]]の際にもメディアで批判される根拠となった。その後、1989年6月に天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防ぐため、ラサを戒厳令下に置いた。以降チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの頃、胡本人は自身の将来に対し悲観的であることを友人に話している。キャリアに行き詰まり、今の地位である地方の党書記以上に出世することはないだろうと胡は思っていた&amp;lt;ref&amp;gt;Nathan &amp;amp; Gilley, p.81.&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼は、チベット自治区で貴州省の時と同じように実績を残すことができず、党の高級幹部になることは難しいと考えていたため、チベットでなく北京で過ごすことが多かった&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;[http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/2404129.stm Profile: Hu Jintao]&amp;quot;, ''BBC News'', September 16, 2004.&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;Nathan &amp;amp; Gilley, p.81.&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、胡はチベット自治区党委員会書記在任中も宋平と連絡を取り続けており、このことが将来に大きく影響を及ぼす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ポスト江沢民 ==&lt;br /&gt;
[[1992年]]の中国共産党第14回大会が行われる前に、鄧小平や[[陳雲]]など党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から[[江沢民]]を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した&amp;lt;ref&amp;gt;Nathan &amp;amp; Gilley, pp.42 - 43.&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡錦濤は[[中国共産党中央政治局常務委員会|中国共産党中央政治局常務委員]]に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に[[中国共産党中央書記処]]書記にも選出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
胡は江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。[[2000年]]に江沢民が提唱した[[3つの代表]]理論に対し、自らを毛沢東や鄧小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した&amp;lt;ref&amp;gt;Nathan &amp;amp; Gilley, p. 84.&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。[[1998年]]には国家副主席に就任していたが、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。[[1999年]]の[[コソボ紛争]]における[[北大西洋条約機構|NATO]]軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。胡錦濤はこの演説で「アメリカをはじめとするNATO軍は我々の大使館を攻撃し、人命を奪い建物を破壊した」&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』270ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;「アメリカの爆撃は中国の主権侵害であり、『犯罪行為』で『野蛮な行動』だ」「市民と学生のデモは人民の怒りのあらわれだ」&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』201ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べた。そのうえで、「中国政府が全ての合法的なデモを支持していることを表明し、国民には、国家の根本的利益を考えて過度な反応は控えるよう呼びかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]]の中国共産党第16回党大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から[[呉邦国]]、[[賈慶林]]、[[曽慶紅]]、[[黄菊]]、[[李長春]]を中央政治局常務委員に配置し、また自身も[[中国共産党中央軍事委員会|党中央軍事委員会]]主席のポストを手放さず、[[院政]]を敷くものだと思われていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
胡錦濤は、常に自分を隠し通してきた。「これといって目立つ特徴がないのが胡錦濤の最大の特徴」なのである&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』194ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 総書記・国家主席 ==&lt;br /&gt;
[[2002年]][[11月15日]]、[[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]]に選出された胡錦濤は、翌[[2003年]][[3月15日]]、第10期[[全国人民代表大会]]第1回会議において[[中華人民共和国主席|国家主席]]に就任。胡錦濤指導部は、中国を「民主文明を持った政治大国」とするべく、漸進的な政治改革を進めている&amp;lt;ref&amp;gt;[[天児慧]] 『巨龍の胎動　毛沢東VS鄧小平』 ＜中国の歴史11＞ [[講談社]]、2004年、348ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 内政 ===&lt;br /&gt;
==== 「和諧社会」 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Wen Jiabao - World Economic Forum Annual Meeting 2009.jpg|thumb|150px|[[温家宝]]]]&lt;br /&gt;
胡錦濤は、[[国務院総理]]（首相）に指名した[[温家宝]]とともに「[[和諧社会]]」というスローガンを掲げて格差の是正に努めた。[[1990年代]]以降、中国社会では[[改革開放]]政策に起因する経済的な地域格差の拡大、また貧富の差の拡大などの矛盾が表面化し始め、それが官僚の腐敗、民族対立などと相まって[[デモ]]・[[暴動]]・騒乱が増加していたためである。しかし胡錦濤が最高権力者になってからも海外でも大規模な暴動が度々報じられるようになり、特に[[2004年]]10月末に発生した[[四川省]]漢源の暴動は、建国以来最大規模のものとなった。そのため、「和諧社会」はいまだ成功しているとは言えない。ただし、農村部住民の足かせとなっていた農村戸籍の廃止に地域限定ではあるが乗り出していること、これまで保険制度のなかった農村部に保険を導入するなど、独自の政策も打ち出している。&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 上海幇との主導権争い ====&lt;br /&gt;
院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に党中央軍事委員会主席の座も胡錦濤に譲り渡した。これにより、胡錦濤は[[中国人民解放軍]]のトップにもなり、党・政・軍の全ての権力を事実上掌握した。しかし江沢民を中心とする[[上海幇]]との権力闘争は以降も続くことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。[[2005年]]8月には人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになった。これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。[[2006年]]9月には上海市党委員会書記の陳良宇が汚職の疑いで解任され、上海幇が勢力を失ったとされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[2008年]][[3月15日]]の第11期全人代第1回会議にて、胡錦濤自身は再び国家主席に選出され、国家中央軍事委員会主席にも選出された&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;[http://www.chinadaily.com.cn/china/2008npc/2008-03/15/content_6539302.htm Hu Jintao reelected Chinese president]&amp;quot;, ''[[新華社|Xinhua(China Daily)]]'', March 15, 2008.&amp;lt;/ref&amp;gt;ものの、自身と同じ共青団の出身である[[李克強]]を国家副主席にすることができず、上海幇の推す[[習近平]]が国家副主席に就任するなど、上海幇の影響力は依然として残っている。それでも、[[2007年]]の中国共産党第17回大会で胡錦濤の勢力が躍進したため、これから胡錦濤の権力は強くなっていくという見方も出ている&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.chosunonline.com/article/20071023000024 上海閥のドン、江沢民氏に押し切られた胡錦濤主席]」 『[[朝鮮日報]]』、2007年10月23日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== マスメディア統制 ====&lt;br /&gt;
伝染病の[[重症急性呼吸器症候群|SARS]]への反応や、国民の公の記念式への注視、[[胡耀邦]]の辞任など、中国政府は概してメディアの批判に敏感であるが、胡は「隠れた自由主義者」という初期の期待があったにもかかわらず、マスメディアの自由主義に対して大きく強硬路線で対応した。ただしメディアは、2008年に発生した[[四川大地震]]のような国民の関心事については報道している。また、胡はインターネットの監視と警告も行っており、江の時代よりも厳格に、敏感に、政治的検閲を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[2010年]][[2月21日]]には[[人民日報]]が運営するミニブログ「人民微博」へ胡本人がアカウントを開設したと話題になったが、一言もメッセージを残さぬまま、翌22日には非表示となった&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.asahi.com/international/update/0223/TKY201002230112.html|title=胡主席、幻の「つぶやき」？　ツイッター中国版に登録か|publisher=[[朝日新聞]]|date=2010-02-23|accessdate=2010-02-23}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&amp;amp;d=0223&amp;amp;f=national_0223_010.shtml|title=あまりの人気でサーバ障害、人民網が国家主席アカウントを閉鎖|publisher=[[サーチナ]]|date=2010-02-23|accessdate=2010-02-23}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。またこのとき、'''濤哥'''（胡錦濤アニキ、という意味）」という愛称で呼ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 道徳規範 ====&lt;br /&gt;
2006年3月、中国国内における多数の社会問題への対応として、胡錦濤は、「8つの名誉と8つの恥」という題目の、中国国民に守らせる道徳規律・「[[八栄八恥|社会主義栄辱観]]」を公開した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://news.sohu.com/20060320/n242378439.shtml 胡锦涛关于“八荣八耻”的论述]」 『千龙网』、2006年3月20日、2008年5月16日閲覧。&amp;lt;/ref&amp;gt;。「8つの名誉と不名誉」として知られている代わりに、良き国民が名誉と考えるものと、恥と考えるものとが要約された、8つの詩趣に富んだ政策が盛り込まれている。いよいよ脆弱になる社会構造の中で主に同世代の中国人が関係している金と権力の掌握と、[[改革開放]]後の中国がもたらした、ますます増加する道徳心の欠如を、胡錦濤の[[イデオロギー]]で解決する方法として広く知られている。これは中国共産党指導者自身のための基準から、[[マルクス主義|マルクス主義者]]の理論に貢献するものへと変わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[北京オリンピック]]と、2010年に上海で開かれる[[上海国際博覧会]]の準備で教室に張られたポスター、街の通りにある旗、そして電子工学による展示板など、普及を促進している。胡錦濤の政策は、前任者のイデオロギー、すなわち、江沢民の[[3つの代表]]、[[トウ小平理論|鄧小平理論]]、そして、時代の中心であった[[毛沢東思想]]とは異なり、社会的・経済的目標を課すことに反対して道徳規範を成文化したものへ推移している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 外交 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:P042006ed-0463-398h.jpg|thumb|200px|2006年[[4月]]、[[ジョージ・W・ブッシュ]]（右）と会談する胡錦濤]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:32nd G8 Summit-3.jpg|thumb|200px|2006年[[7月]]、[[第32回主要国首脳会議]]にて（左端）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Putin and Hu Jintao in 2007.jpg|thumb|200px|[[2007年]]、[[ロシア連邦大統領]]（当時）の[[ウラジーミル・プーチン]]（右）と]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:George H. W. Bush and granddaughter Barbara Bush with Hu Jintao.jpg|thumb|200px|[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]（写真中央）の孫娘である[[バーバラ・ピアース・ブッシュ]]と握手する胡錦濤]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:BRIC leaders in 2008.jpg|thumb|200px|2008年、[[BRICs]]の首脳4人。左から、[[マンモハン・シン]]、[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]、胡錦濤、[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ]]]]&lt;br /&gt;
胡は外交政策として、[[ベネズエラ]]、[[イラン]]、[[ロシア]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]のようなさまざまな国と同盟を結んでおり、江の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]中心の政策からの脱却に集中している&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |last=Marquand |first=Robert |title=China's Hu: well liked, little known |publisher=[[クリスチャン・サイエンス・モニター|The Christian Science Monitor]] |date=19 April 2006 |url=http://www.csmonitor.com/2006/0419/p01s02-woap.html |accessdate=2008-05-16}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2002年[[4月25日]]の午後、[[マレーシア]]を訪問中の胡錦濤に対して香港の記者がインタビューを行い、その中で「海外のメディアは、あなたを『謎に包まれた人物だ』といっていますが、ご自身ではいかが思われますか」と尋ねた。これに対して胡錦濤は「その評価はあまり適切ではありませんね」と返答している&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』262ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
胡は[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の核兵器問題に積極的に従事している点で、江とは異なる。胡はまた、[[:en:China's peaceful rise|中国和平崛起]]の概念に基づき、地域の隣国を保証している。現に、[[2006年]][[3月31日]]の[[橋本龍太郎]]らの訪中団に対しては「[[過去]]も[[未来]]も[[覇権主義]]をとるつもりはない」とし、「他国を[[武力]]で威圧する[[意思]]はない」と明言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は貧しい[[アフリカ]]民族の援助と腕の立つ労働者の引き換えとして、中国の影響力増大を集中させるアフリカ、[[パキスタン]]、[[ブラジル]]のような、資源に基礎を置く国との関係の強化を求めていた。加えて、彼の職務上の立場は、[[テロリズム]]を含めた世界的な問題においてアメリカと類似する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国が世界にもたらす影響は胡錦濤の在職中に増大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 台湾 ====&lt;br /&gt;
国家主席の早期に、胡は当時[[中華民国総統]]であった[[陳水扁]]による[[台湾独立運動]]に直面する。陳は[[九二共識]]の拒否を前提条件としないことには訪問はしなかった。陳水扁と[[民主進歩党]]は、中国が注意を払っている[[台湾問題]]の声明と、最終目標である台湾独立の表明を続けてきた。胡は最初に、硬軟組み合わせた対応を取った。胡は、台湾にとって重大な問題について柔軟に交渉することを表明し、他方で、依然として最終目標である[[:zh:中国统一|中国統一]]についての考えを明らかにすることを前提条件とはしないとした。胡による統治は、依然として台湾政府による中国からの独立宣言の試みを中国本土側は容認しないという堅固な姿勢を取っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2004年に陳が再選されると、胡は方法を変えた。胡は陳の台北での行政方針への接触はせず、民進党の独立傾向や九二共識を認めないというやり方で処理した。胡は、台湾が軍事を増強し、強く孤立化する外交政策を続けていると主張した。2005年3月、全国人民大会で[[反分裂国家法]]が可決され、台湾での独立宣言に対しては、「非平和的に」対応することを決めた。胡は、民進党と対立している[[中国国民党]]との接触を増やした。中国国民党と中国共産党との関係は、[[北伐]]と[[日中戦争]]といった、両者が2度の共同戦線を張った[[国共内戦]]前まで遡る。接触の増加は、2005年4月、国民党主席（当時）の[[連戦]]と胡との歴史的な会談を含めて、2005年の[[:en:2005 Pan-Blue visits to mainland China|泛藍連盟の政治家による中国大陸訪問]]で最高潮に達した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |last=Sisci |first=Francesco |title=Strange cross-Taiwan Strait bedfellows |publisher=[[:en:Asia Times Online|Asia Times Online]] |date=5 April 2005 |url=http://www.atimes.com/atimes/China/GD05Ad08.html |accessdate=2008-05-15}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |last=Zhong |first=Wu |coauthors= |title=KMT makes China return in historic trip to ease tensions |publisher=[[:en:The Standard|The Standard]] |date=29 March 2005 |url=http://www.thestandard.com.hk/stdn/std/Front_Page/GC29Aa02.html |accessdate=2008-05-16}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年[[3月20日]]、台湾で国民党が勝利し、[[中華民国立法院]]でも国民党が過半数を占めた。前任の連戦と比較して影響を持つ状態、とくに台湾での国民党支持者とのつながりを胡は先行して探している&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |last=Sisci |first=Francesco |title=Hu Jintao and the new China |publisher=Asia Times Online |date=28 June 2006 |url=http://www.atimes.com/atimes/China/HF28Ad01.html |accessdate=2008-05-15}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。中国共産党と中国国民党との一連の会合は続いた。2008年[[4月12日]]、胡は[[ボアオ・アジア・フォーラム]]の開催中に国民党副主席（当時）の[[蕭万長]]と会談し、2008年[[5月28日]]には、与党となった国民党とのあいだで、国民党主席の[[呉伯雄]]と初の党首会談を行った。この会談で、胡と呉は九二共識のもとで双方とも公式会談を再開すべきであるという意見で同意した。呉は台湾独立に反対の立場を表明した。胡は台湾の[[世界保健機関]]への加盟を容認するとともに、台湾の人々の関心事への処理、防衛、尊厳、そして国際社会での台湾の立場は、中国共産党政府が決めることを表明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
党の間の路線と同様に、[[:en:Straits Exchange Foundation|海峡交流基金会]]と[[:en:Association for Relations Across the Taiwan Straits|海峡両岸関係協会]]を経由しての半政治的な会談は、北京にて最初に行われるとともに、2008年6月に九二協識の基礎として再開が予定されていた。胡と、彼によく似た[[馬英九]]の両者は、九二協識が[[台湾海峡]]における双方の間の交渉の基礎となることで合意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年[[3月26日]]、胡は[[ジョージ・W・ブッシュ]]に、九二協識では双方が、「中国は1つであるが、その定義については意見を異にすることで同意した」ということを電話で伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |title=Chinese, U.S. presidents hold telephone talks on Taiwan, Tibet |publisher=[[新華社|Xinhuanet]] |date=27 March 2008 |url=http://news.xinhuanet.com/english/2008-03/27/content_7865209.htm |accessdate=2008-05-15}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。海峡交流基金会と海峡両岸関係協会の会談における最初の優先事項は、[[三通]]の開通、とくに中国本土と台湾の間での直行便を出すことであった。2008年[[12月15日]]、三通の開通が実現した。台湾側は中国経済との一体化による実益を期待し、中国側は「中国統一」に向けた前進であるとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 日本 ====&lt;br /&gt;
1990年代の江沢民政権期、中華人民共和国国内の教育は反日的な色彩を強め、[[インターネット]]が普及すると「愛国者同盟網」「[[:en:China Federation for Defending the Diaoyu Islands|中国民間保釣連合会]]」「反日先鋒」など反日的なナショナリスト団体の運営する[[ウェブサイト]]が立ち上げられるようになった。これらのサイトは民衆の社会不満を政治運動に結びつける可能性があるため、胡錦濤が党総書記に就任すると閉鎖や活動停止の処分を受けていたが、2005年春以降次々と復活し、各種メディアでも反日的な記事や戦時中の[[日本]]軍の軍事行動についての批判的な特集が見られるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年4月には北京で[[反日]]デモが発生し、一時政府の制御が及ばない事態となった。翌5月、日本の[[産経新聞]]や[[香港]]紙「[[:en:Sing Pao Daily News|成報]]」は、胡錦濤が党内の保守派に詰め寄られたという記事を掲載した。胡錦濤が影響力を持つ「[[:en:China Youth Daily|中国青年報]]」は愛国的な報道を控えていたが、翌6月には他紙と同様の傾向を見せるようになった。中華人民共和国では、法制上あらゆるメディアが中国共産党の意向を受け入れなければならないため、「中国青年報」の変化や愛国的サイトの復活は、胡錦濤が党内の保守的なグループに一定の譲歩をしたことを示すという見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
胡錦濤自身の対日姿勢は前国家主席の江沢民ほど強硬ではなく、2008年5月に来日した際には、共同文書に歴史問題を含めず、日本が戦後60年間世界の平和に一定の役割を果たしてきたことを評価した&amp;lt;ref&amp;gt;「日中互恵関係を推進」 『[[朝日新聞]]』、2008年5月7日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、来日時に[[早稲田大学]]で講演を行い、日本の円[[借款]]などによる支援が中国の経済成長に貢献したことを認めた&amp;lt;ref&amp;gt;「胡主席の講演」 『[[東京新聞]]』、2008年5月9日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[四川大地震]]の日本の[[自衛隊]]派遣の際には、歴史問題は別として日本に感謝の意を表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早稲田大学では[[福原愛]]と卓球で勝負し、その模様はテレビのニュースでも報道された。胡錦濤は福原に対し、「あなたは私のことを知らないかもしれませんが私はあなたのことを知っています」と話しかけた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|url =http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&amp;amp;d=0508&amp;amp;f=politics_0508_012.shtml&lt;br /&gt;
|title =胡錦濤国家主席が早稲田大学で愛ちゃんと卓球対決&lt;br /&gt;
|publisher =[[サーチナ]]&lt;br /&gt;
|accessdate =5月8日&lt;br /&gt;
|accessyear =2008年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物像 ==&lt;br /&gt;
甘粛省建設委員会時代の胡錦濤の同僚たちは、彼の人柄について、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1. 礼儀正しく、先輩の意見を尊重する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2. 記憶力抜群で、言うことは論理的で説得力がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3. 頭も切れるし、腕も立つ。しかも決断力がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4. 同僚に対していつも謙虚にふるまう。また、各部署との連絡を密にして、ものごとがスムーズに行われるようにする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と、4つの特徴を挙げている&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』91ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 私生活 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:President Hu and 1st Lady.jpg|thumb|100px|right|妻の劉永清（右）と（2006年[[4月29日]]）]]&lt;br /&gt;
胡錦濤は[[恐妻家]]であり、家庭のことについては全て、妻の[[:en:Liu Yongqing|劉永清]]に任せている。私用で訪ねた友人や親戚の接待は、全て妻が行うという。毎日の食事のメニュー、洋服の色・デザイン、収入の使いみち、親戚づきあいなどの細かいこと、子供の進学問題、地方への転勤の際に単身赴任にするか家族同行にするかといったことも、全て彼女の裁量次第であるという。甘粛省時代の同僚の話によると、胡錦濤は出張に出かける前に妻から小遣いをもらい、帰宅すると明細を逐一説明していたという&amp;lt;ref&amp;gt;『胡錦涛と現代中国』10ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉永清との間に[[:zh:胡海峰|胡海峰]]と[[:zh:胡海清|胡海清]]の2子を儲けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 雑誌評 ==&lt;br /&gt;
=== タイム誌 ===&lt;br /&gt;
アメリカのニュース雑誌『[[タイム (雑誌)|タイム]]』が1999年以来毎年発表している[[:en:Time 100|Time 100]]（[[タイム (雑誌)#タイム100|世界で最も影響力のある100人]]）にて、2004年、2005年、2007年、2008年の4回選出されている。最新版2009年の指導者・革命家部門における中国人の選出は[[習近平]]、[[王岐山]]の2名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== パレード誌 ===&lt;br /&gt;
アメリカの日曜版の新聞470紙に配布されている雑誌『[[:en:Parade (magazine)|パレード]]』が発行している[[世界最悪の独裁者ランキング]]にて、胡錦濤は2004年以降選出されている。それによると、2004年には第3位、2005年には第4位、2006年には第6位、2007年には第4位、2008年には第5位、[[2009年]]には第6位に入っている&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.parade.com/dictators/2008/&amp;lt;/ref&amp;gt;。主な理由はメディア統制、インターネット監視、30万人強制収用である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
{{中華人民共和国}}&lt;br /&gt;
* 1942年12月21日 - [[中華民国]]（現在の中華人民共和国）の上海に生まれ、江蘇省姜堰市にて育つ（祖籍は安徽省績渓）。&lt;br /&gt;
* 1956年7月 - 江蘇省泰州市第二初級中学（中学校）卒。&lt;br /&gt;
* 1959年7月 - 泰州中学（高校）卒業。&lt;br /&gt;
* 1964年4月 - [[中国共産党]]に入党。&lt;br /&gt;
* 1965年7月 - [[清華大学]]水利エンジニア学部卒業。[[水力発電所]]の[[技師]]となる。&lt;br /&gt;
* [[1983年]]8月 - 中華全国青年連合会主席に就任。&lt;br /&gt;
* [[1984年]]11月 - [[中国共産主義青年団]]中央書記処第一書記に就任。&lt;br /&gt;
* [[1985年]]7月 - [[貴州省]]の共産党書記に抜擢される。&lt;br /&gt;
* 1985年9月 - 中国共産党中央委員会の常任委員に昇進。&lt;br /&gt;
* [[1988年]]12月 - [[チベット自治区]]の共産党書記に就任。&lt;br /&gt;
* [[1989年]]3月7日 - [[ラサ]]に[[戒厳令]]を布告する。&lt;br /&gt;
* [[1990年]]10月 - チベット軍区中国共産党委員会の第一書記を兼任。&lt;br /&gt;
* [[1992年]]10月 - [[中国共産党中央政治局常務委員会|中国共産党中央政治局常務委員]]に選出される。&lt;br /&gt;
* [[1997年]]9月 - 中国共産党第15回大会で政治局常務委員に再選。&lt;br /&gt;
* [[1998年]]3月 - [[全国人民代表大会]]（全人代）で国家副主席に選出。&lt;br /&gt;
* [[1999年]]9月 - 軍事委員会副主席に選出。&lt;br /&gt;
* [[2002年]]11月15日 - 中国共産党第16期中央委員会第1回全体会議（第16期1中全会）にて総書記に選出。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]3月 - 全人代で国家主席に選出。&lt;br /&gt;
* [[2004年]][[9月19日]] - 中国共産党第16期中央委員会第4回全体会議（第16期4中全会）で[[中国共産党中央軍事委員会|党中央軍事委員会]]主席に就任。&lt;br /&gt;
* [[2005年]][[3月13日]] - 全人代で[[中華人民共和国中央軍事委員会|国家中央軍事委員会]]主席に選出。&lt;br /&gt;
* [[2006年]][[4月]] - アメリカ合衆国を公式訪問。&lt;br /&gt;
* [[2007年]]10月22日 - 中国共産党第17期中央委員会第1回全体会議（第17期1中全会）にて、総書記再任。&lt;br /&gt;
* [[2008年]][[5月]] - 日本を公式訪問。&lt;br /&gt;
* [[2009年]][[7月]] - [[新疆ウイグル自治区]]での騒乱に対応するためと称し、[[第35回主要国首脳会議|ラクイラサミット]]での拡大会合への出席を取りやめ帰国するという異例の対応を取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来日歴 ==&lt;br /&gt;
* [[1985年]]、中華人民共和国青年代表団団長として来日。&lt;br /&gt;
* [[1998年]]、中華人民共和国副主席として来日。&lt;br /&gt;
* [[2008年]]、中華人民共和国主席として来日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[チベット動乱]]&lt;br /&gt;
* [[一党独裁制]]&lt;br /&gt;
* [[金正日]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『胡錦涛と現代中国』 祁英力著 おうちすえたけ訳 2002年11月 [[勉誠出版]] ISBN 4-585-05070-1&lt;br /&gt;
* 『滞日写録』-中国人記者が見た日本 唐暉（とうき）著 東京文献センター ISBN 978-4-925187-34-3&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commons&amp;amp;cat|胡锦涛|Hu Jintao}}&lt;br /&gt;
* [http://www.mofa.go.jp/Mofaj/area/china/cv/r_hujintao.html 日本国外務省:胡錦濤国家主席略歴] &lt;br /&gt;
* [http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_5&amp;amp;wr_id=3 CHINA7:胡錦濤] - 中国総合情報サイト チャイナセブン （株式会社ロングエーインターナショナル）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
! {{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]]&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中華人民共和国主席|国家主席]]|[[2003年]][[3月15日]] - |[[江沢民]]|現職}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中華人民共和国中央軍事委員会|国家中央軍事委員会主席]]|[[2005年]][[3月13日]] - |[[江沢民]]|現職}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]|[[1998年]] - [[2003年]]|[[栄毅仁]]|[[曽慶紅]]}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!　[[File:Flag of the Chinese Communist Party.svg|23px]][[中国共産党]]&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中国共産党中央委員会総書記|中央委員会総書記]]|[[2002年]][[11月15日]] - |[[江沢民]]|現職}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中国共産党中央軍事委員会主席|中央軍事委員会主席]]|[[2004年]][[9月19日]] - |[[江沢民]]|現職}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中国共産党中央書記処|中央書記処]]第一書記|[[1992年]] - [[2002年]]|[[喬石]]|[[曽慶紅]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中国共産党中央党校|中央党校]]校長|[[1993年]] - [[2002年]]|[[喬石]]|[[曽慶紅]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[チベット自治区]]党委書記|[[1988年]] - [[1992年]]|[[:zh:伍精华|伍精華]]|[[:en:Chen Kuiyuan|陳奎元]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[貴州省]]党委書記|[[1985年]] - [[1988年]]|[[朱厚沢]]|[[劉正威]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中国共産主義青年団]]&amp;lt;br&amp;gt;中央書記処第一書記|[[1984年]] - [[1985年]]|[[王兆国]]|[[:en:Song Defu|宋徳福]]}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{中華人民共和国主席}}&lt;br /&gt;
{{中共中央政治局常委}}&lt;br /&gt;
{{G20の首脳}}&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こきんとう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1942年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中華人民共和国の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:中華人民共和国主席]]&lt;br /&gt;
[[Category:江蘇省出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:チベットの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.251.226.206</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:AOI&amp;diff=80058</id>
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				<updated>2010-03-07T11:06:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;192.251.226.206: Yahhhhhhhh----!&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''在日コリアン'''（ざいにちコリアン）は、[[日本]]に[[居住]]する[[朝鮮民族]]である。ただし、どこまでを在日コリアンと呼ぶべきかについては、いくつかの議論がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''在日コリアン'''という言葉は、日本による[[朝鮮]]の[[植民地]]統治時代から継続的に日本に在住し、現在は[[朝鮮籍]]あるいは韓国籍を持ちながら日本に永住する人々に限定して用いられることが多い。この場合、日本[[国籍]]を取得して朝鮮系日本人（[[日本国籍取得者]]）となった者を含まない。ただし、日本の敗戦後になってから日本に渡ってきた者もほとんどの場合は[[在日コリアン]]に含まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[在日コリアン]]と区別するために、近年来日した人を「ニューカマー」、敗戦以前から日本に在住する在日コリアンを「オールドカマー」と呼び分けることもある。（[[鄭大均]][[首都大学東京]]教授によって提唱された概念。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:韓国人　1.jpg|thumb|400px|]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在日コリアンの範囲 ==&lt;br /&gt;
本稿では'''在日コリアン'''を最も狭く捉える用法を冒頭で紹介している。しかし、これをさらに広く捉えると、[[大韓民国|韓国]]との国交樹立後、特に近年来日した韓国人や、日本国籍を取得した者も含む場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰化して日本国籍を取得した者は「朝鮮系日本人」と呼ばれるのが自然だが、現実にはそのような用例は少なく、単に「日本人」とみなされて朝鮮系であることがわからない例が多い。また、日本に帰化した者にも朝鮮系という出自を言明する者は少ない。これらの人々を「日本籍コリアン&amp;lt;ref&amp;gt;集英社新書は姜誠『日本籍コリアン』を[[1999年]]の創刊ラインナップとしていたことがある。その後の発刊予定は不明。&amp;lt;/ref&amp;gt;」と呼ぶこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「日本籍コリアン」は在日コリアンとは区別されるのみならず、単に「日本人」であるとみなされる場合がほとんどだった。帰化したコリアンも日本人と自認する場合がほとんどだった。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいた。これには、日本在住が数世代を経ていっそう日本人からは区別がつかなくなっていること、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと（現在はそうではないという主張と、現在もそうであるという主張もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[金敬得]]、[[鄭甲寿]]など&amp;lt;/ref&amp;gt;）、日本国籍を取得しながらコリアンを自認し表明する者がほとんど見られなかったことなどが関係している。しかし、[[1980年代]]末から[[1990年代]]にかけて、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつある&amp;lt;ref&amp;gt;朝日新聞1989年10月7日朝刊4頁、など。&amp;lt;/ref&amp;gt;。日本籍コリアンを同胞視する在日コリアンも増えている&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝鮮学校]]をはじめとする民族学校においても日本籍を含めて多国籍化している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在日コリアンの呼称 ==&lt;br /&gt;
在日コリアンは、'''在日韓国人'''（&amp;lt;span lang=&amp;quot;ko&amp;quot;&amp;gt;재일 한국인&amp;lt;/span&amp;gt;）や'''在日朝鮮人'''（&amp;lt;span lang=&amp;quot;ko&amp;quot;&amp;gt;재일 조선인&amp;lt;/span&amp;gt;）とも呼ばれるが、名前に関する南北の争いを避けるために英語を借用して'''在日コリアン'''と呼ばれることが最近増えている。'''在日'''とだけ表現する場合は[[日本の外国人|在日外国人]]一般ではなく在日コリアンを指すことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大韓民国|韓国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]においては、一般的に「'''在日僑胞'''」（チェイルキョッポ、&amp;lt;span lang=&amp;quot;ko&amp;quot;&amp;gt;재일 교포&amp;lt;/span&amp;gt;）または「'''在日同胞'''」（チェイルドンポ、&amp;lt;span lang=&amp;quot;ko&amp;quot;&amp;gt;재일 동포&amp;lt;/span&amp;gt;）と呼ばれ、略して「キョッポ、トンポ」と呼ばれることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在日コリアンの呼称について、大韓民国を支持する在日朝鮮人組織・[[在日本大韓民国民団]]は'''在日韓国人'''（&amp;lt;span lang=&amp;quot;ko&amp;quot;&amp;gt;재일 한국인&amp;lt;/span&amp;gt;）であるべきだと主張していた。これに対して北朝鮮を支持する在日朝鮮人組織・[[朝鮮総連]]が、引きつづき日本人は'''在日朝鮮人'''（&amp;lt;span lang=&amp;quot;ko&amp;quot;&amp;gt;재일 조선인&amp;lt;/span&amp;gt;）と呼ぶべきだと主張していた。両者は呼称に限らず、日本に在住する朝鮮人がすべて自らが支持する国家と自らの組織に属するべきだと主張しつづけている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在日コリアンの歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 在日コリアン移入の背景 ===&lt;br /&gt;
''注：ここで述べる背景・経緯は、朝鮮の植民地時代・日本の敗戦以前から日本に居住する在日コリアンに関するものである。''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[韓国併合]]以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、[[留学]]生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[和田春樹]]・石坂浩一編 『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』 [[岩波書店]]、2002年、102頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[韓国併合]]以降はその数が急増した。[[内務省]][[警保局]]統計は、[[1920年]]に約3万人、[[1930年]]には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている&amp;lt;ref&amp;gt;和田春樹・石坂浩一・編 『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』 岩波書店、2002年、102頁。ただし、同書は日本に当時在住していた朝鮮人は[[内務省]][[警保局]]統計よりも多いとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮人が日本に移入した要因として、大きく分けて二つの社会的変化が挙げられる。第一に、朝鮮における農業生産体制の再編である。併合後の朝鮮では農村を含めた経済システムが再編され、特に土地調査事業によって植民地地主制が確立し、日本人[[地主]]と親日派朝鮮人地主へと大量に土地所有権が移動した&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;宮嶋博史 「朝鮮における植民地地主制の展開」 [[大江志乃夫]]・他・編 『岩波講座 近代日本と植民地 - 4：統合と支配の論理』 岩波書店、1993年、103-132頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
これによって多くの農民が土地を喪失、困窮し、離農・離村した。これが日本移住につながった&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;吉田光男編 『韓国朝鮮の歴史と社会』 放送大学教育振興会、2004年、137頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
後に産米増殖計画による増産計画が日本への過剰輸出とセットになってさらに[[小作農]]を困窮させた&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;朝鮮史研究会編 『朝鮮の歴史』 三省堂、1974年、225頁。また、[http://www10.ocn.ne.jp/~war/beikokuyouran.htm 対日輸出量と朝鮮人の消費量の比較]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
ことも日本移住につながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、日本資本主義の発展によって労働力需要が高まったこと、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本移住をいっそう促進した&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;吉田光男編『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学教育振興会、2004年、144頁、148頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに[[日中戦争]]、[[太平洋戦争|アジア太平洋戦争]]の勃発により朝鮮人労働者の日本移住は増加の一途をたどった。併合当初に移入した朝鮮人は土建現場、鉱山、工場などで働く単身者が多くを占めていた。その後、次第に家族を呼び寄せる、または家庭を構えるなどして日本に生活の拠点をおく者が増えた&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;和田春樹・石坂浩一編『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』岩波書店、2002年、102頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1945年]]8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとされている。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった&amp;lt;ref&amp;gt;和田春樹・石坂浩一編『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』岩波書店、2002年、102頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このうちの多くが日本敗戦直前の数年間に渡航したものと思われる。この時期は「徴用/強制連行」が激増した時期でもあるため、朝鮮人の急激な増加と日本による徴用との間に因果関係が疑われている（[[1974年]]の[[法務省]]・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は[[1941年]] - [[1944年]]の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[1959年]]に外務省は、朝鮮への[[国民徴用令]]適用は[[昭和19年]]9月から[[昭和20年]]3月までの7ヶ月間であり、現時点で戦時中に徴用労務者として来た在日朝鮮人は245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は犯罪者を除き自由意志で在留した者であるという調査結果を発表している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1945年]]以降は[[済州島四・三事件]]や[[朝鮮戦争]]にともなう難民・密航者が日本に流入した。1945年に朝鮮半島に帰還したが動乱を避けて再び日本に移入した者も多かった。彼らとその子孫も在日コリアンのうちに入れられて考えられることが多い&amp;lt;ref&amp;gt;項目冒頭・定義部を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦前の在日コリアン ===&lt;br /&gt;
[[日韓併合]]と前後して朝鮮人全般が日本人による差別・蔑視の対象とされてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮人に対する政策は日本政府においても朝鮮総督府においても紆余曲折を経ている。日韓併合後、当時大韓帝国の国民だった者は自動的に日本人となった。参政権も得たが、朝鮮半島には線選挙区がないため、投票するためには内地（併合以前の日本の領土）に住民票を持つ必要があった。また、朝鮮半島に住民票を持つものは徴兵されることもなかった。政治上は、住む場所で扱いが分けられていた。朝鮮系の出自にかかわらず、官庁で職に就いたものや、帝国議員になったもの、軍将になったものも少ないながらいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、依然として朝鮮人差別は残っていた。朝鮮総督府は「内地人（日本人）」による朝鮮人への差別的態度が朝鮮人の民族主義を育てていると警告を発していたが、日本人による朝鮮人蔑視と差別待遇はあらたまらなかった。こうして、朝鮮系の苗字では仕事がしづらい状況にもなった。これを打開するため、改名を手助けした措置がいわゆる「創始改名」である。ただ、強制されることはなく、当時の陸海軍の将校にも朝鮮系の名前で職務に就いた者もいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[関東大震災]]の際には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」との[[朝日新聞]]の流言蜚語により、無数の朝鮮半島出身者が「不逞鮮人」とされて、自称「自警団」に[[虐殺]]される事件が起きた。虐殺された朝鮮人の実数は当局が把握しているものでさえ明らかにされなかった。自警団も検挙されたが警察に反抗したことなどが罪状であり最高刑は4年であった。当時の司法省は関東大震災にともなっておきた「明確な殺人事件」の犠牲者は233人であるとした。これに対して朝鮮罹災同胞慰問班が震災直後、10月末日まで調査し、これに基づいて吉野作造がまとめた調査結果は2613人であった。さらに、その後の調査を付け加えた結果、犠牲者数6433人とされている&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;[[伊藤亜人]]・[[大村益夫]]・[[梶村秀樹]]・[[武田幸男]]監修『朝鮮を知る事典』(平凡社、1986年)288頁を参照。&amp;lt;br/&amp;gt;なお、当時の内務省調査は虐殺による死者を朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人とした。司法省はそれを受けて殺人事件数を認定した。この調査結果に関する精査と反駁からはじまった[[姜徳相]]の研究は現在のところ犠牲者約6000名と推定している。おそらくこれを受けて、朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂、1974年)は「6600人の死亡が確認された」としている（232頁）。&lt;br /&gt;
吉田光男編『韓国朝鮮の歴史と社会』(放送大学振興会)は「数千人の朝鮮人が官民の日本人に虐殺される事件が発生した」(148頁)としている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
[http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html 電網木村書店 『読売新聞・歴史検証』（8-2）「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[布施辰治]]ら[[自由法曹団]]の弁護士たちが朝鮮人虐殺事件の真相究明と責任追及に乗り出したが、少数の動きにとどまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後の在日コリアン ===&lt;br /&gt;
==== 帰国と滞在 ====&lt;br /&gt;
戦後の在日コリアンも有形無形の差別にさらされてきた。戦前・戦中から、在日コリアンの多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾や鉱山、工場などでの労働によって生活してきた。そのため日本語を話すことができず、日本で生活していく基盤は脆弱であった。「大部分の人々は終戦後早々に故郷へ帰ってしまったとしても不思議はなかった」はずであるが、約4分の1が敗戦後も日本に定住するに至ったのにはいくつかの要因が挙げられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 裸一貫で来日し、帰国しようにも渡航費用を用立てられない人々が多かった。&lt;br /&gt;
* [[1947年]]までつづいた日本国外への財産持ち出し制限が影響した。&lt;br /&gt;
* 日本で生活をつづけていた人々は、帰ろうにも故郷に生活基盤が残っていなかった。&lt;br /&gt;
* 朝鮮戦争による南北分断の混乱が影響した。&lt;br /&gt;
* 韓国政府が社会的な混乱のため帰国事業を放棄してしまったことが影響した。これを指して韓国政府による「棄民政策」であったという批判が日本人からも在日コリアンからも起きている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から日本政府に対して「全員帰国を達成するために必要な措置を行え」という指令があり&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター]リファレンスコード A05020306500　「昭和２１年度密航朝鮮人取締に要する経費追加予算要求書」を参照。&amp;lt;br/&amp;gt;''本帝国政府は右の送出率を次第に増加させて行き昭和二十一年五月五日迄に仙崎博多両港が一日三、〇〇〇名と一、〇〇〇名の夫々の規定された送出率に確実に達する為に必要な処置をとること。此の送出率は爾後引揚希望の全朝鮮人が日本から一掃される迄保たねばならない''&amp;lt;/ref&amp;gt; 、希望者に帰国のための船便を提供するなどの働きかけがあったと言われている。しかし、他方では「帰国の船便が確保できなかった/当初より帰国船便は確保されていなかった」という同時代経験者による証言・指摘も多い。これらは、日本およびGHQの施策を批判する論拠とされることがある。にもかかわらず、当時の実態についてはまだ不明な点が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 戦後の入国 ====&lt;br /&gt;
戦後の大きな朝鮮人の日本移入の起因となった最初のものとして、[[1948年]]の[[済州島四・三事件]]がある。同・事件で起きた済州島での虐殺は日本への難民/密航者を大量に生んだ。上記のGHQの朝鮮人全員帰国命令に関連して、戦後の密航朝鮮人に対する追加の予算措置が取られた事もある。&amp;lt;ref&amp;gt;同じく「昭和２１年度密航朝鮮人取締に要する経費追加予算要求書」を参照。&amp;lt;br/&amp;gt;''最近朝鮮人にして密航し北九州及中国西部に上陸する者漸次増加し本年四月中に於て其の総数約一，〇〇〇名に達し益々増加の傾向にあるばかりでなく密輸出入者も亦漸増しつヽあるを以て聯合軍の指示に従ひ関係県に於ては之が逮捕護送送還を行ひつヽあり　仍て此の経費を必要とする''&amp;lt;/ref&amp;gt;このことから「朝鮮人には密航者が多い」との主張に結びつけられることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 阪神教育事件 ====&lt;br /&gt;
[[皇民化教育]]にさらされていた朝鮮人にとって民族教育は悲願であった。そのため、戦後には日本各地で朝鮮人学級が設けられ、続いて朝鮮人学校が作られた。これに対して[[1948年]]には[[朝鮮学校閉鎖令]]が出され、[[阪神教育事件]]に発展した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 法的地位の変遷 ====&lt;br /&gt;
[[1952年]]に[[日本国との平和条約]]が発効すると、在日コリアンは日本国籍を喪失した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 就業実態と経済活動 ====&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--([[国籍]]を失ったことで就職が困難になり)←それ以前から困難でしょう--&amp;gt;戦後の在日コリアンにとって就職・就業は困難であり高い失業率と貧困に喘いだ。そのため[[3K]]職場や水商売につく者も多かった。暴力団員になる者もいた&amp;lt;ref&amp;gt;指定[[暴力団]][[会津小鉄会]]四代目会長・[[高山登久太郎]]&amp;lt;!--本名・姜外秀/カン・ウェス--&amp;gt;は、[[朝日新聞社]]『論座』（1996年9月号11頁）でのインタビューの中で、「[[ヤクザ]]の世界に占める在日コリアンは三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」という内容のことを答えている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、差別と貧困により[[生活保護]]を受けているケースも少なくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 帰国運動 ===&lt;br /&gt;
戦後、在日コリアンの帰国運動が盛り上がったのは、[[1958年]]の日本・北朝鮮赤十字会談の開催からである。これには[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、日本、在日コリアンそれぞれに三者三様の思惑があった。「[[千里馬運動]]」を掲げて多数の労働者を必要とした北朝鮮政府と、当時生活保護受給者の半数を占めていた「在日問題」を解決したい日本政府、さらには極貧の日本生活を抜け出したい在日コリアンにとってそれぞれの思惑が一致した現象であると見ることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このとき帰国運動に参加した在日コリアンのほとんどは朝鮮半島南部、すなわち韓国政府が支配する地域の出身者であった。しかしこのころ韓国は朝鮮戦争による荒廃から立ちなおっておらず、とても帰国者を受け入れる態勢はとれなかった。このこともまた韓国政府の「棄民政策」であったとして後に批判されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の在日コリアン団体である[[在日本朝鮮人総連合会]]は北朝鮮政府の指示の下、在日コリアンの「地上の楽園」北朝鮮への帰国を強力に勧誘・説得する活動を展開した。日本の新聞各社、また民間の研究機関「現代コリア研究所」（旧・日本朝鮮研究所、代表・[[佐藤勝巳]]）もこれに同調した。就職差別・他の在日コリアンをとりまく差別に対して何ら対応をとらず、生活保護費の工面に苦慮していた日本政府はこの誇大広告をむしろ歓迎したようである。当時の総理大臣・[[岸信介]]は国会答弁で帰国運動の「人道性」を訴えて、北朝鮮への帰国事業を正当化した。大韓民国はこれを「北送」と呼んで非難し、韓国民団は「北送事業」への反対運動を展開した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大多数にとって出身地（故郷）ではない北朝鮮へ「帰国」した在日コリアンのたどる運命は過酷であった。帰国者は差別にさらされ、そのいくらかは強制労働に追いやられ、日本での極貧生活を下回ったとも言われる。行方不明者が多く、処刑されたと言われている者も多い。在日コリアンの子弟ほど突然、スパイ容疑で収容所に送られるケースが多かったとの証言もある&amp;lt;ref&amp;gt;姜哲煥・安赫『北朝鮮脱出』池田菊敏訳、文藝春秋、1994年。&amp;lt;/ref&amp;gt;。待遇の実態が次第に在日コリアンへ伝わるにしたがい帰国者は急減し、「帰国運動」は事実上終結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、帰国運動の際に在日コリアンと結婚して帰国運動の際に北朝鮮へ渡った「日本人妻」（一部「日本人夫」）の日本帰国も日朝間の解決課題の一つとなっている。ただし、詳細は不明ながら、一時日本へ帰国したものの再び北朝鮮へ渡る例もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現在 ==&lt;br /&gt;
今日、在日コリアンは、日本に民族的アイデンティティーを重視した独自のコミュニティーを形成する者、新たに形成することを志す者、帰化する者、日本人配偶者を得て同化する者、それらの中間的立場や混合的立場をとる者、と多様な生き方を見出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在日コリアンの諸組織、知識人、朝鮮学校からは長い間「民族の誇りを取り戻そう」という訴えがなされてきた。実際に、本名を名乗り自らのアイデンティティを明確にすることで、在日コリアンが社会の中で認められるようになるケースも見られる。これに呼応して行政側の対応にも変化が起こりつつある。早い時期から民族的アイデンティティの回復を訴えた[[朝鮮学校]]の卒業生は[[各種学校]]卒として日本の[[学制]]から排除されていたが、[[国公立大学]]でも[[2004年]]前後から朝鮮学校の卒業を大学入学資格として認定する動きが生じている。これも行政側の対応変化を反映していると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年では在日コリアンであることを明らかにして本名で活躍する有名人があらわれてきた。芸能人・スポーツ選手など日本人に触れやすい分野でも在日コリアンの本名を見かけるケースが増えている。[[2002年]][[FIFAワールドカップ]]日韓共催では両国間の友好を深めようとする動きが、その成功・失敗は別として、メディアを中心に大きく展開された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--総じて、日本社会での差別意識も次第に薄れつつあるというのが多数を占める&amp;lt;--ソースは?--認識である。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
一時、改善の動きも見えた北朝鮮との関係だが、[[2003年]]ごろから[[日本人拉致問題|拉致問題]]、北朝鮮の[[北朝鮮核問題|核兵器保有問題]]のあおりを受け、再び在日コリアンに対する圧力、とりわけ朝鮮籍・在日コリアンへの圧力が強まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本統治時代を体験した世代、[[朝鮮戦争]]による南北分断の煽りを受けた世代、あからさまな差別を受けなくなった世代。半世紀あまりの間にさまざまな状況を生きた在日コリアンたちは、日本社会に対してのみならず、世代間の葛藤をも内包している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在日コリアンの一部には、差別意識の薄れに比例して、&lt;br /&gt;
# 独自のコミュニティが失われつつあること&lt;br /&gt;
# 民族的アイデンティティへの求心力が落ちていること&lt;br /&gt;
# そのため在日コリアンの個々一人一人で孤立しはじめていること&lt;br /&gt;
などにより個々人が周囲の差別意識に対抗できなくなっていることを危惧する声が絶えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在日コリアンを取り巻く諸論点 ==&lt;br /&gt;
=== 強制連行と渡航 ===&lt;br /&gt;
在日コリアンが日本に移入してきたのは、「戦前または戦時下の日本政府による[[強制連行]]（[[徴用]]）」によるものと語られることが多かった。&amp;lt;!--「語られる」という説明であるから語る側が使った語「強制連行」は必須--&amp;gt;&amp;lt;!--(([[徴用]](戦後、左翼はこれを[[強制連行]]と改名))←少なくとも左翼というのは決め付け。ついでに誰が左翼かも定義できないし。そのうえ文脈違い。これら徴用・強制連行はどのみち移入の背景と関係ないので、この段落自体、必要かどうか疑問です。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
また、同様の認識が漠然としたイメージのまま流布していた時期がある。[[1990年代]]に入って朝鮮人被害者への[[戦後補償]]問題が日本国内で国民的論争課題になると、[[徴用]]/[[強制連行]]に関してもさまざまな角度から議論がなされた。これについては、「[[徴用]]/[[強制連行]]」の定義も絡んで、いまなお認識が分かれている。しかし、少なくとも現在、在日コリアンのうち、その来歴に「旧[[日本軍]]などの[[政府]]機関による組織的な[[徴用]]/[[強制連行]]」が関連する者は少数である、と考えられている。このことは、在日コリアン団体である[[在日本大韓民国民団]]の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ[[1988年]]に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる。尚、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに徴兵・徴用による渡航者の割合は減ることになる。また「官斡旋」による渡航者が徴兵・徴用に含まれている可能性が指摘されている。さらに、[[1974年]]の[[法務省]]・編「在留外国人統計」によると、日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた[[昭和10年]]までに渡航してきた者が全体の53.7%と、半数以上になる点も見逃せない。&lt;br /&gt;
なお、[[1959年]]には外務省から、戦時中の国民徴用令による徴用朝鮮人労務者は極少数&amp;lt;!--文脈上、実数を書くか、後ろに記された内容と隣接して書くべきでは？--&amp;gt;である事が発表されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 在日コリアンの処遇と未来像に関する議論 ===&lt;br /&gt;
==== 帰化と日本国籍取得 ====&lt;br /&gt;
ながらく在日コリアンを日本社会の構成員として取り扱おうという主張があった。この場合「日本社会の構成員」という語は立場によって様々に意味を変える。「社会の構成員」と言うかぎりならば、これには単なる実態の反映でしかないという見方もある。しかし、これが[[地方参政権]]の付与に至ると議論が分かれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、在日コリアンの実態を鑑みれば、単に現行の法制度がそれを反映していないという批判もつづいていた。[[市民権]]概念が存在しないまま[[血統主義]]に基づいて運用されている国籍認定の要件と、多民族化の防止を要諦とする出入国管理行政に対して、排他的かつ植民地主義的であるとするのが主なものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本社会の構成員と認定されるためには[[帰化]]するべきだという主張がある。これに対して、帰化するためには日本式の姓名を事実上強要される、国家への忠誠の有無を厳密に調査・検査されるといった誤解も多い。姓に関しては、カタカナやアルファベットの表記を認めていないだけで、漢字は常用漢字の範囲で使えるし、読みも自由である。つまり「金」と書いて「キム」と読む戸籍の入手も可能。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、正確な知識を有していても帰化がコリアンとしてのアイデンティティの喪失につながると考え、拒否する場合も多い。いなみに、本来「君主の徳に帰服し徳化されること」を意味していた「帰化」の語を忌避する風潮もあり、それを受けて一部のメディアは「日本国籍取得」と言い換えている例がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在日コリアンから日本に帰化する者の数は発表されている。その数は年間約1万人とされている。また[[1990年代]]までに比べれば、「日本籍コリアン」にも朝鮮系であることを言明する者が増えるなどし、帰化した後の生活スタイルも多様化しつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 地方参政権問題 ====&lt;br /&gt;
[[外国人参政権]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
=== 参照文献 ===&lt;br /&gt;
* [[吉田光男]]編著『韓国朝鮮の歴史と社会』[[放送大学]]教育振興会、2004年。ISBN 4595237596&lt;br /&gt;
* 朝鮮史研究会編・旗田巍編修代表『朝鮮の歴史』[[三省堂]]、1974年。ISBN 4385342555&lt;br /&gt;
* [[福岡安則]]・[[金明秀]]『在日韓国人青年の生活と意識』[[東京大学出版会]]、1997年。ISBN 4130560522&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関連文献 ===&lt;br /&gt;
* [[山中修司]]・[[大島隆行]]・[[谷寛彦]]・[[金正坤]]・文・写真 『ダブルの新風 -- 在日コリアンと日本人の結婚家族』 [[新幹社]]、1998年1月。ISBN 4915924858 &amp;lt;!--どのへんで参照したかわからないのでいったん関連文献にします--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [http://world.lib.ru/k/kim_o_i/kkk7.shtml История иммиграции корейцев.Книга первая.Вторая половина 19в.-1945г.Глава 6.Иммиграция корейцев в Японию]（『朝鮮移民史』第2巻、19世紀～1945年、第6章「日本への朝鮮人の移民」、[[ゲルマン・キム]]）&lt;br /&gt;
* [http://world.lib.ru/k/kim_o_i/kht7rtf.shtml Корейцы за рубежом:прошлое,настоящее и будущее.Корейцы в Японии]（『在外朝鮮人：過去、現在、未来』、「在日朝鮮人」、ゲルマン・キム）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[平和条約国籍離脱者]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮籍]]&lt;br /&gt;
* [[日本の民族問題]]&lt;br /&gt;
* [[国際人権規約]]&lt;br /&gt;
* [[民族差別]]&lt;br /&gt;
* [[在日本大韓民国民団]]（韓国民団）&lt;br /&gt;
* [[在日本朝鮮人総連合会]]（朝鮮総連）&lt;br /&gt;
* [[朝鮮学校]]&lt;br /&gt;
* [[外国人参政権]]&lt;br /&gt;
* [[欠格条項]]&lt;br /&gt;
* [[在日朝鮮人文学]]&lt;br /&gt;
* [[在日朝鮮語]]&lt;br /&gt;
* [[在日語]]&lt;br /&gt;
* [[在日朝鮮人の言語状況]]&lt;br /&gt;
* [[パッチギ]]（在日コリアンを扱った映画）&amp;lt;!--←扱った映画は無数にありますが取り上げる必要がありますか?--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[ウトロ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/shinbun/ 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索] 京都大学人文科学研究所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:朝鮮|ざいにちこりあん]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の民族|こりあん]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日コリアン|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.251.226.206</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:AOI&amp;diff=80057</id>
		<title>利用者:AOI</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:AOI&amp;diff=80057"/>
				<updated>2010-03-07T11:04:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;192.251.226.206: ひゃっほう！&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|現実の三重県四日市市の自称音楽家|その他の野田|野田|その他}}&lt;br /&gt;
{{保護依頼}}&lt;br /&gt;
{{性的}}&lt;br /&gt;
{{秀逸}}&lt;br /&gt;
{{先編集権主張|195.93.60.102}}&lt;br /&gt;
{{誹謗中傷}}&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;width:auto; margin:0 auto 1em auto; padding:.2em; border:1px solid #A00; background-color:#FFECF0&amp;quot;&lt;br /&gt;
|{{注意|'''この記事は何度も荒らされております。'''記事の削除があればリバートしてください。}}&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;background-color:#F9F9F9; border:1px solid #A00; margin:0.5em auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|[[Image:Octagon-warning.svg|40px|無期限ブロック]]&lt;br /&gt;
|'''この犬畜生は[[ユアペディア]]及び[[ウィキペディア]]で無期限の投稿ブロックを受けています。'''{{#if: t|&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;[[wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro|Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro]]も参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;|経緯は[[Yourpedia:投稿ブロック依頼/{{{page|{{{1|{{PAGENAME}}}}}}}}]]をご覧ください。&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;[{{fullurl:Special:Log/block|page=User:{{PAGENAMEE}}}} この利用者の投稿ブロック記録]も参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;width: auto; margin: 0 auto 1em auto; padding: .2em; border: 1px solid #A00; background-color: #FFECF0;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|[[Image:Nuvola apps important.svg|50px|荒らしアカウント]]&lt;br /&gt;
|'''この犬畜生は[[{{PAGENAME}}|長期的な荒らし行為を行っているユーザー]]としてリストアップされています。'''この駄犬の関連する荒らし行為については、このページをご覧ください。この駄犬の[[ソックパペット]]であると疑われるユーザーに関しては、[[:Category:Noda,Kentaroの操り人形だと疑われるユーザー]]を参照してください。&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;また、この駄犬のソックパペットの投稿ブロック記録も併せて参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
{{ウィキペディア白紙保護}}{{ウィキペディア|LTA:NODA}}&lt;br /&gt;
{{ActorActress&lt;br /&gt;
| 芸名 = 野田憲太郎&lt;br /&gt;
| ふりがな = のだ けんたろう&lt;br /&gt;
| 画像ファイル = Kentaro Noda.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =240px&lt;br /&gt;
| 画像コメント =↑キモいあほ面だねぇw&lt;br /&gt;
| 本名 = 同じ&lt;br /&gt;
| 別名 = '''ノダケン'''、野田犬、野駄犬、バター犬、[[夜のピアニスト]]&lt;br /&gt;
| 出生地 = {{JPN}}・[[三重県]][[四日市市]]&lt;br /&gt;
| 国籍 = 日本&lt;br /&gt;
| 民族 = 日本人&lt;br /&gt;
| 血液型 = &lt;br /&gt;
| 生年 = 1976&lt;br /&gt;
| 生月 = 2&lt;br /&gt;
| 生日 = 24&lt;br /&gt;
| 没年 = &lt;br /&gt;
| 没月 = &lt;br /&gt;
| 没日 = &lt;br /&gt;
| 職業 = '''自称'''音楽家&lt;br /&gt;
| ジャンル = &lt;br /&gt;
| 活動期間 = &lt;br /&gt;
| 活動内容 = [[荒らし]]&lt;br /&gt;
| 配偶者 = [[松葉裕子]]&lt;br /&gt;
| 家族 = [[オウム真理教]]&lt;br /&gt;
| 公式サイト = [http://musinoda.co.cc/ 公式サイト]&lt;br /&gt;
| 主な作品 = フルートとヴァイオリンの為の「[[最も大切なこと]]」、弦楽四重奏の為の「[[希望なき自由]]」、ピアノ、チェレスタ、グロッケンシュピール、クロタレスの為の「[[五つの精霊]]」、5人の歌手と14人の楽器奏者の為の「[[ツンデレラ]]」など&lt;br /&gt;
| 受賞 = '''自称'''国内外数回の作曲コンクールの入賞実績がある。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[画像:Zenkei1.jpg|thumb|270px|↑野田憲太郎の自宅]]&lt;br /&gt;
[[画像:Monpi.jpg|thumb|270px|↑野田憲太郎の自宅の入り口]]&lt;br /&gt;
'''野田 憲太郎'''（のだ けんたろう、[[1976年]][[2月24日]] - ）は[[日本]]の犯罪者で[[三重県]][[四日市市]]在住の[[インターネット]]上の[[バター犬]]。[[作曲家]]・[[演奏家]]・[[著作家]]を自称しているが、[[2007年]]11月現在で主要な著書やCDを発表してはいない。本人は、コンクールにおける入選歴の誇示など、音楽活動の成果をネット上で喧伝してはいるもの（ほとんどが参加賞のようなものである）の、音楽家としての一般的かつ社会的な知名度は限定的で、目下のところ大学講師としての任務に就いている様子はない。少なくとも[[2009年]]までは[[ピアニスト]]として活動を続けていたが、社会に認められるようなたいした実績はない。よって社会的には[[NEET]]（[[自宅警備員]]）と見るのが正しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、それ以前からのめりこんでいたインターネット上での活動にいっそうの力を入れており、とりわけ[[マミー石田]]を髣髴とさせる攻撃的な妄言により、[[荒らし]]として名高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
'''自称'''[[京都市立芸術大学]]音楽学部にてピアノを専攻後、'''自称'''[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワイオミング大学]]音楽学部や[[ノースフロリダ大学]]音楽学部に在学中にピアノ、作曲等を学んだ。'''自称'''[[ノースフロリダ大学]]在学中まで、学生による個展ボイコットなどのトラブルのために、目立った作品を発表していない。日本へ帰国後、'''自称'''[[若手作曲家の集い]]'''自称'''第一位を含むいくつかの作曲コンクールに'''自称'''入賞。ただしこれらの賞は、いわば「参加賞」のようなもので、ステイタスは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、音楽家としての活動はほとんどしておらず、[[自宅警備員]]となっている。[[パラサイトシングル]]でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パーソナルデータ ==&lt;br /&gt;
*住所：〒510-0891　三重県四日市市日永西4-8-10&lt;br /&gt;
*電話番号：0593-47-0226&lt;br /&gt;
*父親：[[野田芳行]]（[[多田建設]]株式会社一級建築士事務所勤務）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 野田に対して各界からのコメント ==&lt;br /&gt;
{{語録 (塩爺)}}&lt;br /&gt;
{{語録 (磯野波平)|野田の奴荒らしばかりしてないで、たまにはピアノを弾かんか。}}&lt;br /&gt;
{{語録 (ムスカ)|この手の荒らし}}&lt;br /&gt;
{{Q|[[辻井伸行]]の爪の垢を煎じて飲め|日本国民一同}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 野田に与えられた称号 ==&lt;br /&gt;
*[[バター犬]]&lt;br /&gt;
*[[夜のピアニスト]]&lt;br /&gt;
*[[ホモ]]野郎&lt;br /&gt;
*[[エロジジイ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 演奏 ==&lt;br /&gt;
'''自称'''[[ピアニスト]]としては国内外の無名や新作の初演を行うことが多い。演奏スタイルは、前衛的というよりも&amp;lt;S&amp;gt;狂人&amp;lt;/S&amp;gt;狂犬のそれに近く、とても聞くに堪えないものである。したがって演奏途中で気分が悪くなって退席する観客も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公開演奏の音源や画像をネット上に公開しているが、演奏者としての力量や作品の解釈については賛否両論に分かれており、とりわけ[[2ちゃんねる|痰壷]]においては厳しい評価が下されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主な楽曲など ===&lt;br /&gt;
*[[3 shells (木山光)]]&lt;br /&gt;
*[[After his biotope (野田憲太郎)]]&lt;br /&gt;
*[[HINAGANISHI (野田憲太郎)]]&lt;br /&gt;
*[[Piano Waves (ピアノ音楽)]]&lt;br /&gt;
*[[Très lent (ピアノ音楽)]]&lt;br /&gt;
*[[芸大アカデミズム]]&lt;br /&gt;
*[[左脚によるピアノ奏法]]&lt;br /&gt;
*[[無実の投獄者 (2007)]]&lt;br /&gt;
*[[無実の投獄者]]&lt;br /&gt;
*[[Patryk Staruszkiewicz (You Tube)]]&lt;br /&gt;
*[[東音パルス楽派]]&lt;br /&gt;
*[[塵肺症 (ピアノ音楽)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 野田憲太郎の仕事 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Noda Kentaro.jpg|thumb|いかにも粘着質って感じのお姿ですね。]]&lt;br /&gt;
本人はピアニスト・作曲家・著述業を自称しているが、いずれも商業ベースに乗っている作品は皆無である。従って[[自宅警備員]]と見るのが正しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピアノ作品は、一部[[YouTube]]などでも聴く事ができるが、いずれも常人には聞くに堪え難いひどいものである。また神聖なる鍵盤を足で叩く姿も見受けられ、これは本人がピアニストではないことを物語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まっとうなピアニストであれば、絶対にピアノを足蹴にしたりはしないからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
個人差があるが、聴く人によっては吐き気を催すことがあるので、病弱な人は絶対に聴いてはならない。&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/watch?v=-LIw8ykSmGU 野田憲太郎の演奏1] ※途中で雄叫びを上げる。何が言いたいのかは分からないが、ピアノを弾くのが楽しいんでしょ。&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/watch?v=qyy3CRuMQnc 野田憲太郎の演奏2] ※ピアノの鍵盤を足で叩いている。もちろん付加目的&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/watch?v=VdohgnvTzOY 野田憲太郎の演奏3] ※ピアノ線をいじるという暴挙に出る。[[内部調律]]が目的らしい。これをやると日本では、アウトなのだそうです。&lt;br /&gt;
*世界一難しいピアノの曲[http://www.youtube.com/watch?v=wItuWEgs9Sc イングリッシュカントリーチューン]が弾ける稀有なピアニスト。&lt;br /&gt;
*ネット止めてピアノに専念した方がずーっと社会の為になりそうだねぇ。つうか野田はピアノと荒らしが趣味の自宅警備員だろ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オウムのバター犬 ==&lt;br /&gt;
野田は[[野田犬]]がオウム用語であると主張しているが、&lt;br /&gt;
[http://www.google.co.jp/search?hl=ja&amp;amp;q=%E9%87%8E%E7%94%B0%E7%8A%AC&amp;amp;btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&amp;amp;lr= これ]と[http://www.google.co.jp/search?hl=ja&amp;amp;q=%E9%87%8E%E9%A7%84%E7%8A%AC&amp;amp;btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&amp;amp;lr= これ]を見ると、オウム用語でない事が良く分かる。しかも、松葉の[[蛆虫]]と[[泡沫候補]]のカテを剥したのは、[[野駄犬]]である&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90&amp;amp;diff=37487&amp;amp;oldid=37314 その証拠]、しかも名誉毀損だって、カルト殺人鬼に名誉だって、おかしいぜ[[野駄犬]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、野田は[[童貞]]であるという説が有力であったが、松葉の（というかオウムの）バター犬であることが発覚。野田童貞説は間違いであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ野田がオウムを擁護するかというと、実は[[野田犬]]は&amp;lt;big&amp;gt;[[松葉裕子]]の[[バター犬]]であった&amp;lt;/big&amp;gt;!!毎日松葉に命じられて松葉の[[女性器|あそこ]]を嘗め回している。さらに驚くべく事実が発覚！！野田犬は[[麻原彰晃]]の[[イチモツ]]や[[尻穴]]を嘗め回していた。{{極小|おええぇぇぇきもっっ!!!!}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
野田は、ピアノを弾かずに麻原彰晃・[[福井利器]]・[[太田尚志]]と男同士で4Pプレイばかりしているので、[[夜のピアニスト]]と評されている。野田が夜のピアニストである証拠写真を以下に紹介する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 野田憲太郎と松葉裕子のセックス ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎と松葉裕子のセックス　1.jpg|野田憲太郎と松葉裕子のセックスその1&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎と松葉裕子のセックス　2.jpg|野田憲太郎と松葉裕子のセックスその2&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎と松葉裕子のセックス　3.jpg|野田憲太郎と松葉裕子のセックスその3&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎と松葉裕子のセックス　4.jpg|野田憲太郎と松葉裕子のセックスその4&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎と松葉裕子のセックス　5.jpg|野田憲太郎と松葉裕子のセックスその5&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎と松葉裕子のセックス　6.jpg|野田憲太郎と松葉裕子のセックスその6&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 野田憲太郎にクンニリングスされる松葉裕子 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎にクンニリングスされる松葉裕子　1.jpg|野田憲太郎にクンニリングスされる松葉裕子その1&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎にクンニリングスされる松葉裕子　2.jpg|野田憲太郎にクンニリングスされる松葉裕子その2&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎　1.jpg|松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎その1&lt;br /&gt;
画像:松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎　2.jpg|松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎その2&lt;br /&gt;
画像:松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎　3.jpg|松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎その3&lt;br /&gt;
画像:松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎　4.jpg|松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎その4&lt;br /&gt;
画像:松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎　5.jpg|松葉裕子にフェラチオされる野田憲太郎その5&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の野田憲太郎と松葉裕子による変態行為 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎にパンティを脱がされる松葉裕子.jpg|野田憲太郎にパンティを脱がされる松葉裕子&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎に潮を吹かされる松葉裕子.jpg|野田憲太郎に潮を吹かされる松葉裕子&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎と松葉裕子のシックスナイン.jpg|野田憲太郎と松葉裕子のシックスナイン&lt;br /&gt;
画像:松葉裕子に手コキされる野田憲太郎.jpg|松葉裕子に手コキされる野田憲太郎&lt;br /&gt;
画像:松葉裕子にパイズリされる野田憲太郎.jpg|松葉裕子にパイズリされる野田憲太郎&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎におっぱいを揉まれる松葉裕子.jpg|野田憲太郎におっぱいを揉まれる松葉裕子&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎に乳首を舐められる松葉裕子.jpg|野田憲太郎に乳首を舐められる松葉裕子&lt;br /&gt;
画像:野田憲太郎に胸射される松葉裕子.jpg|野田憲太郎に胸射される松葉裕子&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ネット上の言動について ==&lt;br /&gt;
{{:野田憲太郎のネット上の言動について}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 使用しているプロバイダ ===&lt;br /&gt;
{{:野田憲太郎が使用しているプロバイダ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 加入プロバイダからの追放 ===&lt;br /&gt;
迷惑行為（コピペ絨毯爆撃による掲示板の可読性の破壊）の常習犯として、[[ぷらら]]から契約を解除された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ギャラリー ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Kentaro Noda.jpg|野田憲太郎の肖像画&amp;lt;br/&amp;gt;なぜ笑う?&lt;br /&gt;
画像:Noda Kentaro.jpg|いかにも粘着質って感じのお姿ですね。&lt;br /&gt;
画像:Zenkei1.jpg|自宅の全景&lt;br /&gt;
画像:Monpi.jpg|自宅の玄関の入り口&lt;br /&gt;
画像:Nodakentaro.jpg|肖像画その2&lt;br /&gt;
画像:nodaken.jpg|肖像画その3&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[夜のピアニスト]]&lt;br /&gt;
*[[Yourpedia:荒らし/Noda,Kentaro]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎 (野田憲太郎による妄想)]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎（アンサイクロペディアにおける議論）]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎（ウィキペディアにおける議論）]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎による偽装項目]]&lt;br /&gt;
*[[野田犬]]&lt;br /&gt;
*[[荒らし大王の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[自宅警備員]]&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアにおける荒らし]]&lt;br /&gt;
*[[菅野茂]]&lt;br /&gt;
*[[木山光]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{ウィキペディア削除}}&lt;br /&gt;
{{ウィキペディア|Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro}}&lt;br /&gt;
*[http://music8.2ch.net/test/read.cgi/contemporary/1165228479/l50 野田憲太郎応援スレッド]（2ちゃんねる）&lt;br /&gt;
*[http://musinoda.co.cc/ 公式サイト]&lt;br /&gt;
*[http://www.wim-apeldoorn.nl/nBin/fsm.php?vwr=productiesel&amp;amp;prd=31&amp;amp;fid=6 www.wim-apeldoorn.nl]&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/results?search_query=Kentaro+Noda&amp;amp;search_type=&amp;amp;aq=f YouTube野田憲太郎]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro|ウィキペディアでの活動]]&lt;br /&gt;
*[http://ansaikuropedia.org/index.php?title=Special%3ALog&amp;amp;type=delete&amp;amp;user=&amp;amp;page=%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%86%B2%E5%A4%AA%E9%83%8E&amp;amp;year=&amp;amp;month=-1 キチガイの削除記録]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{保護}}&lt;br /&gt;
{{野田憲太郎}}&lt;br /&gt;
{{オウム真理教}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:のた けんたろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:野田憲太郎|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:インターネットの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
[[Category:長期荒らしメンバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:辻井伸行の爪の垢を飲ませたい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:岡田虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:1976年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニート]]&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教]]&lt;br /&gt;
[[Category:三重県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:無期限ブロックを受けたユーザー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで白紙保護された記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のピアニスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアン]]&lt;br /&gt;
[[Category:反エクレロ勢力]]&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディアに書くと削除される記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:利用者]]&lt;br /&gt;
[[Category:犬]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.251.226.206</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E&amp;diff=79019</id>
		<title>小沢一郎</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E&amp;diff=79019"/>
				<updated>2010-03-01T10:00:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;192.251.226.206: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{政治家&lt;br /&gt;
|人名 = 小沢 一郎&lt;br /&gt;
|各国語表記 = おざわ いちろう&lt;br /&gt;
|画像 = [[Image:小沢一郎　1.jpg]]&lt;br /&gt;
|画像説明 =&lt;br /&gt;
|国略称 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1942|5|24}}&lt;br /&gt;
|出生地 = [[東京府]][[東京市]][[下谷区]]&lt;br /&gt;
（現在の[[東京都]][[台東区]]）&lt;br /&gt;
|没年月日 =&lt;br /&gt;
|死没地 =&lt;br /&gt;
|出身校 = [[慶應義塾大学]][[経済学部]]卒業&amp;lt;br/&amp;gt;[[日本大学]][[大学院]][[法学研究科]]中途退学&lt;br /&gt;
|前職 = [[大学院生]]&lt;br /&gt;
|現職 =&lt;br /&gt;
|所属政党 = （[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→）&amp;lt;br/&amp;gt;（[[新生党]]→）&amp;lt;br/&amp;gt;（[[新進党]]→）&amp;lt;br/&amp;gt;（[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]→）&amp;lt;br/&amp;gt;[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]&lt;br /&gt;
|称号・勲章 = [[学士|経済学士]]（慶應義塾大学・[[1967年]]）&lt;br /&gt;
|世襲の有無 = 有&lt;br /&gt;
|親族（政治家） = [[小沢佐重喜]]（[[父]]）&lt;br /&gt;
|配偶者 =&lt;br /&gt;
|サイン =&lt;br /&gt;
|ウェブサイト = http://www.ozawa-ichiro.jp/&lt;br /&gt;
|サイトタイトル = ■小沢一郎ウェブサイト■&lt;br /&gt;
|国旗 = JPN&lt;br /&gt;
|職名 = 第34代 [[自治大臣]]&lt;br /&gt;
|内閣 = [[第2次中曾根第2次改造内閣]]&lt;br /&gt;
|選挙区 =&lt;br /&gt;
|当選回数 =&lt;br /&gt;
|就任日 = [[1985年]][[12月28日]]&lt;br /&gt;
|退任日 = [[1986年]][[7月22日]]&lt;br /&gt;
|退任理由 =&lt;br /&gt;
|所属委員会 =&lt;br /&gt;
|議員会館 =&lt;br /&gt;
|元首職 =&lt;br /&gt;
|元首 =&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ↓省略可↓ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国旗2 = JPN&lt;br /&gt;
|職名2 = 第44代 [[国家公安委員会委員長]]&lt;br /&gt;
|内閣2 = 第2次中曾根第2次改造内閣&lt;br /&gt;
|選挙区2 =&lt;br /&gt;
|当選回数2 =&lt;br /&gt;
|就任日2 = 1985年12月28日&lt;br /&gt;
|退任日2 = 1986年7月22日&lt;br /&gt;
|退任理由2 =&lt;br /&gt;
|元首職2 =&lt;br /&gt;
|元首2 =&lt;br /&gt;
|国旗3 = JPN&lt;br /&gt;
|職名3 = [[衆議院議員]]&lt;br /&gt;
|内閣3 =&lt;br /&gt;
|選挙区3 = （[[岩手県第2区 (中選挙区)|岩手県第2区]]→）&amp;lt;br/&amp;gt;[[岩手県第4区]]&lt;br /&gt;
|当選回数3 = 14回&lt;br /&gt;
|就任日3 = [[1969年]]&lt;br /&gt;
|退任日3 = 現職&lt;br /&gt;
|退任理由3 =&lt;br /&gt;
|元首職3 =&lt;br /&gt;
|元首3 =&lt;br /&gt;
|国旗4 =&lt;br /&gt;
|職名4 =&lt;br /&gt;
|内閣4 =&lt;br /&gt;
|選挙区4 =&lt;br /&gt;
|当選回数4 =&lt;br /&gt;
|就任日4 =&lt;br /&gt;
|退任日4 =&lt;br /&gt;
|退任理由4 =&lt;br /&gt;
|元首職4 =&lt;br /&gt;
|元首4 =&lt;br /&gt;
|国旗5 =&lt;br /&gt;
|職名5 =&lt;br /&gt;
|内閣5 =&lt;br /&gt;
|選挙区5 =&lt;br /&gt;
|当選回数5 =&lt;br /&gt;
|就任日5 =&lt;br /&gt;
|退任日5 =&lt;br /&gt;
|退任理由5 =&lt;br /&gt;
|元首職5 =&lt;br /&gt;
|元首5 =&lt;br /&gt;
|国旗6 =&lt;br /&gt;
|その他職歴1 =&lt;br /&gt;
|就任日6 =&lt;br /&gt;
|退任日6 =&lt;br /&gt;
|国旗7 =&lt;br /&gt;
|その他職歴2 =&lt;br /&gt;
|就任日7 =&lt;br /&gt;
|退任日7 =&lt;br /&gt;
|国旗8 =&lt;br /&gt;
|その他職歴3 =&lt;br /&gt;
|就任日8 =&lt;br /&gt;
|退任日8 =&lt;br /&gt;
|国旗9 =&lt;br /&gt;
|その他職歴4 =&lt;br /&gt;
|就任日9 =&lt;br /&gt;
|退任日9 =&lt;br /&gt;
|国旗10 =&lt;br /&gt;
|その他職歴5 =&lt;br /&gt;
|就任日10 =&lt;br /&gt;
|退任日10 =&lt;br /&gt;
|国旗11 =&lt;br /&gt;
|その他職歴6 =&lt;br /&gt;
|就任日11 =&lt;br /&gt;
|退任日11 =&lt;br /&gt;
|国旗12 =&lt;br /&gt;
|その他職歴7 =&lt;br /&gt;
|就任日12 =&lt;br /&gt;
|退任日12 =&lt;br /&gt;
|国旗13 =&lt;br /&gt;
|その他職歴8 =&lt;br /&gt;
|就任日13 =&lt;br /&gt;
|退任日13 =&lt;br /&gt;
|国旗14 =&lt;br /&gt;
|その他職歴9 =&lt;br /&gt;
|就任日14 =&lt;br /&gt;
|退任日14 =&lt;br /&gt;
|国旗15 =&lt;br /&gt;
|その他職歴10 =&lt;br /&gt;
|就任日15 =&lt;br /&gt;
|退任日15 =&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ↑省略可↑ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''小沢 一郎'''（おざわ いちろう、[[1942年]][[5月24日]] - ）は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]]（14期）。民主党幹事長（第9代）。'''小澤 一郎'''（おざわ いちろう）とも表記されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[自治大臣]]（[[第2次中曽根内閣第2次改造内閣|第34代]]）、[[国家公安委員会委員長|国家公安委員長]]（[[第2次中曽根内閣第2次改造内閣|第44代]]）。[[自由民主党]][[自由民主党幹事長|幹事長]]、[[新生党]]代表幹事、[[新進党]][[党首]]（第2代）、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]党首、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]][[民主党代表|代表]]（第6代）、民主党代表代行（筆頭・選挙担当）、民主党幹事長を歴任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;toclimit-3&amp;quot;&amp;gt;__TOC__&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
[[東京府]][[東京市]][[下谷区]]（現在の[[東京都]][[台東区]]）[[御徒町]]に[[弁護士]]で東京府会議員だった父・[[小沢佐重喜]]、母・みちの[[長男]]として生まれる。父は44歳、母は42歳という高齢で生まれたため、まるで“[[孫]]みたいな”子供だったという&amp;lt;ref&amp;gt;[[奥野修司]]『小沢一郎 覇者の履歴書』50頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。母・みちは元千葉県会議員[[荒木儀助]]の四女である。一郎は、みちにとってははじめて生んだ子供である。[[本籍地]]は[[岩手県]][[奥州市]]（旧[[水沢市]]）。3歳から14歳まで郷里の水沢で育った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水沢市立常磐中学校（現在の奥州市立東水沢中学校）の2年生を終了すると、東京の[[文京区立第六中学校]]に[[転学|転校]]する。言葉も[[東北弁|東北訛り]]の一郎は、なかなか級友たちの中に入っていけず、いつも教室の片隅でひとりぽつんと座っていたという&amp;lt;ref&amp;gt;奥野修司『小沢一郎 覇者の履歴書』132頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東京都立小石川高等学校]]卒業後、父と同じ弁護士を目指して[[東京大学]]を志望し、2年間[[過年度生|浪人]]したが断念して、[[慶應義塾大学]][[経済学部]]、[[日本大学]][[大学院]][[法学研究科]]へと進学した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自由民主党時代 ===&lt;br /&gt;
==== 田中派時代 ====&lt;br /&gt;
大学院在学中の{{和暦|1969}}、父・佐重喜の急死に伴い[[第32回衆議院議員総選挙|第32回衆院選]]に旧岩手2区から[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を[[自由民主党幹事長|党幹事長]]として指揮したのが[[田中角栄]]で、以後[[木曜クラブ]]（田中派）に所属し、田中の下で薫陶を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自民党総務局長、[[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]を歴任し、{{和暦|1985}}に[[第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]で[[自治大臣]]兼[[国家公安委員長]]として初入閣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 竹下派時代 ====&lt;br /&gt;
[[Image:小渕・小沢・海部.jpg|300px|thumb|[[自民党総務会]]で新幹事長が了承され握手する[[小渕恵三]]幹事長、[[小沢一郎]]前幹事長、[[海部俊樹]]首相。[[1991年]][[4月8日]]撮影]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1985年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に、反旗を翻した[[竹下登]]、[[金丸信]]らと共に派内勉強会「[[創政会]]」を結成。のちに[[経世会]]（竹下派）として独立した。竹下の総裁就任に奔走し[[日本皇民党]]事件の際には金丸とともに[[稲川会]]幹部の元に出向いている。[[竹下内閣]]の発足後、小沢は党・[[政府]]の要職を歴任し[[竹下派七奉行]]の一人に数えられ、[[官房副長官]]にも就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第1次海部内閣|第1次海部俊樹内閣]]では[[自由民主党幹事長|党幹事長]]に就任。苦戦が予想された[[第39回衆議院議員総選挙|第39回衆院選]]を、[[自由主義]]体制の維持を名目に[[経済団体連合会]]（経団連）傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利したなどの実績から'''「剛腕」'''と称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{和暦|1990}}、金丸を代表とする[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]訪問団（金丸訪朝団）に参加する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[8月]]、[[湾岸戦争]]が勃発し、小沢は[[ペルシャ湾]]への[[自衛隊]]派遣を模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する[[外務省]]を抑え法案を提出した（なお、この法案は[[野党]]の反対で廃案となり、後に[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律]]（PKO協力法）が成立）&amp;lt;ref&amp;gt;『朝日新聞』、{{和暦|2008}}[[2月22日]]付[[夕刊]]。&amp;lt;/ref&amp;gt;。自衛隊派遣について国会で[[公明党]]の協力を得るため、[[東京都知事選挙]]で自民党東京都総支部連合会が推す現職の[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]に代わり、新人の[[磯村尚徳]]を擁立するも都連が鈴木を支援した事もあり敗北。なおこの都知事選公示直前に出馬に意欲的であった[[アントニオ猪木]]と会談し猪木を出馬断念に追い込んだがこの際に多額の金銭が動いたと一部報道で報じられた。{{和暦|1991}}[[4月]]、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となった。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、首相の海部が衆議院の解散総選挙をぶち上げたが、党内の反発を招き、海部は首相辞任に追い込まれた（[[海部おろし]]）。その際、金丸が小沢に対し後継首相となるよう命じ、金丸の意を受けた[[渡部恒三]]なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病（[[狭心症]]）で[[6月]]に倒れたことなどを理由にこれを固辞したとされる。だが、[[田勢康弘]]から「この逸話は実は真実ではない」&amp;lt;ref&amp;gt;[[田勢康弘]]「『緊迫』も『躍動』も消えた政治――大難を前に沈黙・保身…」 『[[日本経済新聞]]』、[[2008年]][[7月21日]]5面。&amp;lt;/ref&amp;gt;と指摘されており、このようなやり取りは実際には存在せず、金丸や竹下は当初から[[宮澤喜一]]擁立を目指していたとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月10日]]、[[自由民主党総裁選挙]]での派閥が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、[[渡辺美智雄]]、[[三塚博]]と自身の個人事務所でそれぞれ面談した（小沢面接）。しかし宮沢や渡辺のような当選回数・年齢も上の者（三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった）を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた（実際は当日[[ホテル]]の会場が満室でどこも予約できず、3人の事務所を小沢が訪ねる予定だったのだが、推薦を受ける立場の人間を訪ねてもらうのは失礼だという話になり、小沢の事務所で面談することになったという&amp;lt;ref&amp;gt;平野貞夫 『虚構に囚われた政治家―小沢一郎の真実』 講談社&amp;lt;講談社α文庫&amp;gt;、2007年、242頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「[[私の履歴書]]」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 竹下派分裂、羽田派結成 ====&lt;br /&gt;
{{和暦|1992}}、[[東京佐川急便事件]]を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した（東京佐川急便事件に関しては、小沢も{{和暦|1993}}[[2月17日]]に[[証人喚問]]を受けている）。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三、[[奥田敬和]]らと共に[[羽田孜]]を擁立し、竹下直系の[[小渕恵三]]を推す[[橋本龍太郎]]、[[梶山静六]]らと対立。当初中立であった参院竹下派に竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと[[改革フォーラム21]]（羽田派）を旗揚げし、派閥は分裂した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[宮沢内閣改造内閣|宮沢喜一改造内閣]]における羽田派の閣僚ポストは、[[経済企画庁長官]]（[[船田元]]）と[[科学技術庁長官]]（[[中島衛]]）の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「[[守旧派]]」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった[[政治改革]]の主張を全面に訴えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中で小沢は、[[5月20日]]に、著書『[[日本改造計画]]』を発表した（実際に店頭に並んだのは6月下旬）。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表する[[ベストセラー]]になった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自民党離党、非自民連立政権成立 ===&lt;br /&gt;
{{和暦|1993}}[[6月18日]]、野党から宮沢[[内閣不信任決議|内閣不信任案]]が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した（[[嘘つき解散]]）。同年[[6月21日]]に[[武村正義]]らが自民党を離党（[[新党さきがけ]]を結党）した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、[[6月23日]]、[[新生党]]を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首（羽田）の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。[[新生党]]代表幹事時代には[[番記者]]との懇談会を廃止し、これまでの[[記者クラブ]]中心の会見から海外[[マスメディア|メディア]]や[[週刊誌]]記者なども会見に参加できるようにし注目を集めた。一方、自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[7月18日]]、[[第40回衆議院議員総選挙|第40回衆院選]]において自民党は過半数割れし、新生党、[[日本新党]]、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した（後任の自民党総裁に[[河野洋平]]が選出）。小沢は総選挙直後から日本新党代表の[[細川護煕]]と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。[[8月9日]]、8党派連立の[[細川内閣]]が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党[[書記長]]の[[市川雄一]]とともに政権の主導権を握ろうとし（[[一一ライン]]）、官邸主導の政治を目論む[[内閣官房長官]]の[[武村正義]]と激しく対立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994年]]、小沢と[[大蔵事務次官]]の[[斎藤次郎]]が中心となり、[[消費税]]を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。[[2月3日]]未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、[[日本社会党|社会]]・さきがけ・[[民社党|民社]]各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、政権の主導権を奪われた武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、[[4月]]に突然辞意を表明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
細川の首相辞任を受けて、小沢は[[渡辺美智雄]]との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、[[1994年]][[4月25日]]の[[首班指名]]直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、[[羽田内閣]]は少数与党となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
羽田内閣は1994年度[[予算]]を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念。[[6月25日]]に内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の[[海部俊樹]]を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、[[番町政策研究所|新政策研究会]]（河本派）代表世話人でもあった。[[1994年]][[6月29日]]、自民党は[[内閣総理大臣指名選挙|首班指名選挙]]で社会党委員長の[[村山富市]]に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「[[自由改革連合]]」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新進党時代 ===&lt;br /&gt;
1994年[[9月28日]]、[[日本共産党]]を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年[[12月10日]]に[[新進党]]結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1995年]][[7月]]、[[第17回参議院議員通常選挙|第17回参院選]]で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年[[12月]]に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1996年]][[10月20日]]に[[第41回衆議院議員総選挙|第41回衆院選]]が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として[[消費税]]率の3%据え置き、18兆円[[減税]]を[[公約]]したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で[[創価学会]]の支援を期待し[[公明党]]系の議員を優遇したため選挙地盤の弱い若手の[[新党ブーム]]世代の議員が多数落選したため、強い反発を浴びこれが後の政局においても禍根を残す事になった。また選挙直後開票中にも関わらず深夜になるまで党本部に姿を見せず雲隠れするなど党首としてあるまじき態度を取った事も強い批判を浴びた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年[[12月26日]]、羽田は奥田敬和、[[岩國哲人]]ら衆参議員13名と共に新進党を離党、[[太陽党]]を結成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1997年]]、小沢は自民党の[[亀井静香]]らと提携する、いわゆる[[保保連合構想]]に大きく舵を切った。しかし、新進党内には、こうした保保連合路線に対して[[二大政党制]]を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、[[鹿野道彦]]は政策研究会「改革会議」を結成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[12月18日]]の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が[[第18回参議院議員通常選挙|次期参院選]]を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。[[12月27日]]に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した[[両院議員総会]]は、混沌のうちに終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自由党時代 ===&lt;br /&gt;
==== 結党・与党復帰 ====&lt;br /&gt;
[[1998年]][[1月6日]]、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]に譲り渡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[7月12日]]の[[第18回参議院議員通常選挙|第18回参院選]]では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり[[比例代表制|比例代表]]で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の[[臨時会|臨時国会]]では、首班指名に民主党代表の[[菅直人]]を野党統一候補に臨み、参院では自民党の[[小渕恵三]]を抑え菅が指名された（衆院では小渕が指名されたため、[[衆議院の優越]]の原則から小渕が首相に就任した）。&lt;br /&gt;
小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年[[10月]]、小沢は内閣官房長官[[野中広務]]と会談、連立交渉を開始し、同年[[11月19日]]、小渕内閣との間での連立政権について合意した。そして[[1999年]][[1月14日]]正式に[[自自連立政権]]が成立し、党幹事長の[[野田毅]]が[[自治省|自治大臣]]として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に衆議院[[議員定数]]20の削減、閣僚ポストの削減、および[[政府参考人|政府委員]]制度の廃止と[[党首討論]]設置を含む国会改革が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1999年7月、公明党が政権に入り、[[自自公連立政権]]が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。[[中曽根康弘]]、[[亀井静香]]等は小沢の復党を認める方針であったが党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と珍奇ともいえる主張を行い両者は[[2000年]][[4月1日]]、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した（なお、この後に小渕は[[脳梗塞]]で倒れ、[[5月14日]]に死去した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 分裂 ====&lt;br /&gt;
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、[[野田毅]]・[[二階俊博]]などの連立残留派に分裂し、残留派は[[保守新党|保守党]]を結成した（分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加）。小沢と袂を分かった保守党は[[政党助成金]]を半分ずつ分け合うために[[分党]]を要求したが、自由党はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]][[6月25日]]の分裂直後に行われた[[第42回衆議院議員総選挙|第42回衆院選]]で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされる[[テレビ]][[コマーシャルメッセージ|CM]]（小沢が顔を殴られる）は話題となった（一方、保守党は7議席へと激減）。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、（過去に小沢から酷い目に合わされたと感ずる）旧新進党や旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は当然ギクシャクしたものにならざるを得なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2001年]][[1月]]、将来の指導者育成を目指し、党内に[[小沢一郎政治塾]]（小沢塾）を開設した。なお、小沢塾は民主党との合併後は小沢個人の私塾として運営。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[7月29日]]の[[第19回参議院議員通常選挙|第19回参院選]]では、自民党に[[小泉旋風]]が吹き、小沢の地元・[[岩手県選挙区]]でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった（第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民主党へ合流 ===&lt;br /&gt;
[[2002年]]、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は[[鳩山由紀夫]]（当時[[民主党代表]]）からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと及び民主党内の小沢に対する拒否反応の為に頓挫した（なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた）。鳩山辞任後に[[民主党代表]]に選出された[[菅直人]]によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.dpj.or.jp/news/?num=4562 民主党・菅代表と自由党・小沢党首が9月末までの合併で合意]民主党公式HP、2003年7月23日&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自由党と民主党の合併の直前に、自由党から13億6816万円の寄付が[[改革国民会議]]に対して行われた。改革国民会議は小沢一郎が代表を務めており小沢の関連団体である。13億6816万円のうち5億6096万円が税金を原資とする[[政党助成金]]であった。後にこの行為は問題視され、政党助成金法改正案として議論された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090708/stt0907081016002-n1.htm 産経ニュース 2009年7月8日]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2003年]][[9月26日]]、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は民主党の代表代行に就任した。[[11月9日]]の[[第43回衆議院議員総選挙|第43回衆院選]]で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の[[横路孝弘]]だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの[[新自由主義]]から「地方経済」と「[[雇用]]」の重視の方針へ転換した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、[[東北地方]]出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]][[5月]]、[[政治家の年金未納問題|年金未納問題]]による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に小沢が内定したが、直後に小沢自身も[[国民年金]]が強制加入制度になる[[1986年]]以前に未加入だったとして代表就任を辞退した（結局、[[岡田克也]]が後任代表となった）。2004年[[7月11日]]に行われた[[第20回参議院議員通常選挙|第20回参院選]]の後、岡田の要請により党副代表に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]][[9月11日]]、[[第44回衆議院議員総選挙|第44回衆院選]]で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞任した。岡田の後任代表となった[[前原誠司]]は、小沢に党代表代行への就任を依頼したが、これを固辞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民主党代表 ===&lt;br /&gt;
==== 代表就任 ====&lt;br /&gt;
[[画像:Ichiro Ozawa election.jpg|200px|thumb|民主党ポスターの張られた様子（[[2008年]]1月、[[広島県]][[甲奴町]]）]]&lt;br /&gt;
[[2006年]][[3月31日]]に前原が、「[[堀江メール問題]]」の責任を取って党代表を辞任、[[4月7日]]の民主党代表選で小沢は119票を獲得し[[菅直人]]を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『[[山猫 (映画)|山猫]]』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にする[[トロイカ体制]]を敷いた。また、前執行部と[[民主党の次の内閣一覧|次の内閣]]メンバー全員を残留させた。小沢は[[政令指定都市]]・[[都道府県]]の[[首長]][[選挙]]に関しては原則として[[相乗り]]禁止の方針を打ち出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大半の民主党議員は、小沢の代表就任まで自民党幹事長時代はおろか、つい最近の小沢の動向すら知らず、「選挙に強い」という噂を頼り半信半疑で眺めている者も少なくなかったが、小沢が党代表に就任した直後の[[4月23日]]に、メール問題での逆風下にあった衆議院[[千葉県第7区|千葉7区]][[補欠選挙]]で、僅差ながら勝利を収めた。半年後の[[9月12日]]の民主党代表選に[[無投票]]で再選された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[5月9日]]の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。[[9月25日]]臨時党大会で正式に代表に再選された後、[[狭心症]]の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。[[10月5日]]に退院し、自身の[[動脈硬化]]が進んでいることを明らかにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 国会運営 ====&lt;br /&gt;
民主党代表時代の小沢の国会での論戦は、前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著『[[日本改造計画]]』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に[[強行採決]]した場合には徹底抗戦や[[審議拒否]]も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 外交政策での党内対立 ====&lt;br /&gt;
2006年10月に北朝鮮が[[核実験]]を行った後の[[朝鮮半島]]情勢は「[[周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|周辺事態法]]」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢ら[[トロイカ体制]]の見解を発表した。しかし、これに対して前代表である前原誠司を始めとする党内の若手から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小沢は「[[核武装論|核武装の論議]]を是認すれば『[[非核三原則]]を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部[[保守]]層などが、自由党党首時代[[2002年]]の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の[[核弾頭]]を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[防衛庁]]の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 統一地方選、参院選 ====&lt;br /&gt;
[[2007年]][[4月8日]]に[[統一地方選挙]]（前半）が行われ、地元・岩手県の[[岩手県知事|知事]]選挙で'''小沢チルドレン'''の代表格である[[達増拓也]]が当選。[[岩手県議会]]議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席（合併前の自由党含む）から145議席増え375議席に躍進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[4月22日]]に行われた[[統一地方選挙]]（後半）では、[[地方議会|市町村議会選挙]]で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[7月29日]]に行われた、[[第21回参議院議員通常選挙]]で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体（共産党を含む）で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、[[7月31日]]の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ねじれ国会 ====&lt;br /&gt;
[[8月8日]]には、[[11月]]に期限切れとなる[[テロ対策特別措置法]]（テロ特措法）問題についてマスコミ公開の中、アメリカの駐日大使[[ジョン・トーマス・シーファー]]と会談した。シーファーは小沢にテロ対策特別措置法の期限延長に対する理解を求めたが、小沢は[[アフガン戦争]]が国際社会の[[コンセンサス]]を得ていないとして[[海上自衛隊]]の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7700/news/20070808i113.htm 小沢代表、シーファー米大使が初会談…テロ特措法で平行線]」 [[読売新聞|YOMIURI ONLINE]]、2007年8月8日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[8月30日]]にはドイツ首相[[アンゲラ・メルケル]]と会談したが、この席でも改めてアフガン戦争が国連によるコンセンサスを得たものではないと主張した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.dpj.or.jp/news/?num=10873 環境、テロ対策などで意見一致 小沢代表メルケル・ドイツ首相と会談]」 民主党ホームページ、2007年8月30日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局テロ特措法は[[安倍改造内閣|安倍内閣]]の突然の総辞職で、有効期限の延長が出来なくなり、そのまま失効した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月12日]]に首相辞任を表明した[[安倍晋三]]の後任となる、[[内閣総理大臣指名選挙]]が[[9月25日]]に行われ、参議院で決選投票の末に[[福田康夫]]（自民党総裁）を抑えて、小沢が指名された（小沢133票、福田106票）。なお、衆議院で指名された福田が[[衆議院の優越]]規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは[[小渕恵三]]内閣下で民主党の[[菅直人]]が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年[[11月2日]]、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。[[11月4日]]、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、[[11月6日]]代表続投を表明。[[11月7日]]の両院議員懇談会で代表続投が承認された。{{main|大連立構想 (日本 2007)}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていた[[テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案]]（新テロ特措法）に対する議決が行われ、民主党が多数を占める参議院では反対多数で否決されたが、[[2008年]][[1月11日]]に衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。この再可決の本会議で小沢は採決直前に退席し、党内の一部や他の政党の議員から批判された。対して小沢は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。[[2008年大阪府知事選挙|大阪府知事選挙]]の応援があったこともあげ、新テロ対策特措法について、「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した&amp;lt;ref&amp;gt;こうした日本の状況に対して米国や英国では、採決に議員全員が出席しないことを前提としたシステムで議会が運営されており、議員は自分の仕事の優先順位によってはあらかじめ投票を行い採決には欠席するのが普通であるが、[[党議拘束]]のある日本では採決前から結果が決まっていることがほとんどである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2月29日]]、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と発言し、強行採決をしたことで[[日本銀行総裁]]人事に影響を及ぼすのは、避けられないとの態度を示す&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.dpj.or.jp/news/?num=12799 「信頼関係が完全に崩壊」小沢代表、与党の予算案強行採決を批判]」 民主党ホームページ、2008年3月1日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。民主党も強行採決されたのを受け[[武藤敏郎]]副総裁の[[日本銀行]]総裁への昇格を拒否する方針を決め、参議院で日銀総裁人事を否決した。[[3月18日]]、政府与党は改めて[[田波耕治]]を総裁候補として提示したが、この人事案も参議院で不同意となり、結果として[[白川方明]]が総裁に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月22日]]、民主党代表選で小沢が無投票での3選を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月23日]]、前日まで衆院選対策のため福岡を訪れていたが、予定されていた[[インドの歴代首相|インド首相]][[マンモハン・シン]]との会談を、体調不良を理由に欠席、「会談の頭だけでも出た方がいいと代表にいってほしい」との[[鳩山由紀夫]]幹事長の説得も受け付けず、党役員会などの公務もキャンセルし、鳩山が代わって会談した。翌24日に公務へ復帰、衆院選対策のため青森へ出張した&amp;lt;ref name=&amp;quot;小沢代表、また体調不良&amp;quot;&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081024/stt0810240001000-n1.htm 小沢代表、また体調不良 「首相務まるのか」との指摘も] 産経ニュース 2008年10月24日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]][[5月11日]]、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任した。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共に[[トロイカ体制]]を支えた[[鳩山由紀夫]]を支持し勝利に導いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民主党代表代行 ===&lt;br /&gt;
[[5月17日]]、選挙担当の代表代行に就任。[[菅直人]]が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は実に5年ぶりとなる&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-5-17&lt;br /&gt;
|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090517/stt0905172147016-n3.htm&lt;br /&gt;
|title=【鳩山新代表会見詳報】「5人が常に心を合わせていく」&lt;br /&gt;
|accessdate=5月17日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-5-17&lt;br /&gt;
|url=http://www.asahi.com/politics/update/0517/TKY200905170106.html&lt;br /&gt;
|title=民主幹事長に岡田氏、小沢前代表は代表代行に&lt;br /&gt;
|accessdate=5月17日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-5-17&lt;br /&gt;
|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090517/stt0905172035015-n1.htm&lt;br /&gt;
|title=【鳩山新代表】小沢氏が筆頭代表代行 岡田氏は幹事長に&lt;br /&gt;
|accessdate=5月17日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第45回衆議院議員総選挙]]で政権交代を果たした後の[[9月3日]]、[[鳩山由紀夫]]民主党代表が小沢に幹事長就任を要請した。これに対し「代表から幹事長の就任を要請された。私は党人だから、お受けすると返事をしてまいりました」と述べ、要請を受け入れる意向を表明した。小沢の幹事長就任については、鳩山の掲げる「政策決定の内閣への一元化」に反して政府と与党の「権力の二重構造」となり、政策面で小沢の影響を排除できなくなるとの見方がでたが、これについて鳩山は「幹事長は党務だ。政策の決定は政府でやると確認した」と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-9-3&lt;br /&gt;
|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090903-OYT1T00998.htm&lt;br /&gt;
|title=小沢氏が民主幹事長、岡田氏は主要閣僚か&lt;br /&gt;
|accessdate=9月4日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-9-3&lt;br /&gt;
|url=http://www.asahi.com/politics/update/0903/TKY200909030376.html&lt;br /&gt;
|title=小沢氏、民主幹事長に　菅・岡田氏の入閣確実な情勢&lt;br /&gt;
|accessdate=9月4日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-9-3&lt;br /&gt;
|url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090903NTE2INK0803092009.html&lt;br /&gt;
|title=民主幹事長に小沢氏　岡田氏、重要閣僚で処遇 &lt;br /&gt;
|accessdate=9月4日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-9-3&lt;br /&gt;
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;amp;rel=j7&amp;amp;k=2009090300991&lt;br /&gt;
|title=盤石政権へ「剛腕」起用＝「二重権力」再来懸念も&lt;br /&gt;
|accessdate=9月4日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民主党幹事長 ===&lt;br /&gt;
[[2009年]][[9月15日]]の民主党両院議員総会において、正式に幹事長に就任した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-9-15&lt;br /&gt;
|url=http://mainichi.jp/select/seiji/seikenkotai/news/20090916k0000m010104000c.html&lt;br /&gt;
|title=民主党：小沢幹事長就任を正式決定　両院議員総会&lt;br /&gt;
|accessdate=9月17日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な政治的主張 ==&lt;br /&gt;
最初の著作である「日本改造計画」では[[新自由主義]]を主張したが、民主党代表に就任すると[[リベラル]]色を強めた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策（[[国連中心主義]]）を主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 外交、防衛政策 ===&lt;br /&gt;
; 基本姿勢&lt;br /&gt;
: 外交では、[[太平洋戦争]]に対する反省を踏まえて二つの「共生」を主張している。一つは人間と人間、国家と国家との「共生」、つまり日本及び世界の平和を確保すること、もう一つは人間と自然との「共生」、つまり日本が率先して地球環境の保全を進めることである。それ以上に重要なのは、安全保障については、日本の法律より国連決議が風船すると「世界」で述べたことである。その結果、小沢氏は多くの批判を受けることとなった（日本国民が民主主義で選択した日本の法律が、国連の常任安保理事国のせめぎ合いによる決定より劣る、という発言であったため）。&lt;br /&gt;
: また、世界の国々、特に[[アメリカ合衆国|米国]]とは相互の信頼に基づく対等な関係を積み上げ、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]をはじめ[[アジア]]諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した。具体的には、米国との真の[[日米同盟]]の確立、核廃絶、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、[[政府開発援助]]（[[政府開発援助|ODA]]）の抜本的見直し等。[[2009年]][[2月24日]]には「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ…あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う…米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090225/stt0902250151000-n1.htm 「駐留米軍は第7艦隊で十分」 民主・小沢代表] 産経ニュース 2009.2.25&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[A級戦犯]]、[[靖国神社]]&lt;br /&gt;
: [[東京裁判]]は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。しかし当時の国家指導者は敗戦責任があり、[[天皇]]陛下が参拝できるよう靖国神社から削除すべき。行く行かないは個人の自由だが、公約をし、政治信念で行くのならば[[8月15日]]に公式参拝を行うべき。ただし靖国神社は[[戊辰戦争]]の招魂社だという問題がある。小沢自身は[[賊軍]]とされる岩手の出身である。&lt;br /&gt;
: 1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」、「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」、「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」、「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」などの発言があった。&lt;br /&gt;
: また、2008年2月21日の[[朝鮮日報]]からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。&lt;br /&gt;
; 核武装&lt;br /&gt;
: 日本には数千発の核兵器を製造する能力がある（2002年）ものの、軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない（2006年）。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。&lt;br /&gt;
; [[日本国憲法第9条|憲法9条]]&lt;br /&gt;
: 「[[専守防衛]]」に徹し、憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。自衛隊は国防に専念させる。なお、自衛権は、個別的であれ集団的であれ、我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。&lt;br /&gt;
; [[自衛隊]]の海外派遣&lt;br /&gt;
: 小沢は[[国際治安支援部隊]]に対しては容認しており、[[ダルフール紛争]]への部隊の参加、国連治安支援部隊（[[ISAF]]）への参加など国連中心主義を強調した。ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている。&amp;lt;ref&amp;gt;「自衛隊のアフガン派遣、政府が『合憲』解釈」 『読売新聞』、2007年12月22日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[集団的自衛権]]と[[集団安全保障]]&lt;br /&gt;
: [[イラク戦争]]型 （集団的自衛権の行使）‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する[[有志国軍]]（[[OEF]]）への参加は憲法違反だとし、[[テロ対策特別措置法]]の延長にも反対した。&lt;br /&gt;
: [[湾岸戦争]]型（集団安全保障に基づく武力行使） ‐ 国連が承認した[[国連軍]]、[[多国籍軍]]の参加には賛成。&lt;br /&gt;
; [[周辺事態法]]について&lt;br /&gt;
: 2006年10月に北朝鮮が[[核実験]]を行った後の[[朝鮮半島]]情勢は「[[周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|周辺事態法]]」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢ら[[トロイカ体制]]の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。&lt;br /&gt;
; [[北朝鮮による日本人拉致|北朝鮮拉致]]について&lt;br /&gt;
: 「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と述べたと報道された。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090302/stt0903020008000-n1.htm 【民主党解剖】第1部「政権のかたち」（1）「小沢首相」は大丈夫か] 産経ニュース 2009.3.2&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
; 領土問題&lt;br /&gt;
: 「われわれが与党になったら領土問題にケリをつける」「例えば、[[尖閣諸島]]は歴史的に見ても日本の固有の領土だ。それを明確にさせる。自公政権のように弥縫策で先送りすることはしない」と述べ、領土問題の速やかな解決を宣言している&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.zakzak.co.jp/top/2008_06/t2008062334_all.html 小沢代表直撃インタビュー]{{リンク切れ|date=2009年5月}}」 [[夕刊フジ|ZAKZAK]]、2008年6月23日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、2008年7月15日には、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&amp;amp;num=13674 2008年7月15日 記者会見]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[チベット]]と中華人民共和国&lt;br /&gt;
: [[2008年のチベット動乱]]の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.asahi.com/special/080315/TKY200804170263.html 小沢代表、チベット問題で中国批判 『独裁政権の矛盾』]」 [[朝日新聞|asahi.com]]、2008年4月17日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; 防衛庁の省への昇格&lt;br /&gt;
: [[防衛省|防衛庁]]の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。ただし、民主党内に反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議は欠席した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 法務 ===&lt;br /&gt;
; 憲法改正（憲法96条）の為の国民投票法案&lt;br /&gt;
: 与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。&lt;br /&gt;
{{main2|国民投票法案については[[日本国憲法の改正手続に関する法律]]を}}&lt;br /&gt;
; [[外国人参政権|永住外国人の地方参政権]]&lt;br /&gt;
: 旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべきと主張している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ozawa-ichiro.jp/policy/05.htm 永住外国人の地方参政権について]&amp;lt;/ref&amp;gt;。外国人参政権の獲得を目的に[[在日本大韓民国民団]]から支援の言葉を貰い、小沢もそれに謝意を表明し「帰化した韓国系」の投票を期待しているとの発言をしている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://s02.megalodon.jp/2008-1212-1234-59/www.asahi.com/politics/update/1211/TKY200812110336.html 民団、民主・公明支援へ 次期衆院選 選挙権付与めざす]2008年12月12日 朝日新聞&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; 公務員改革&lt;br /&gt;
: 幹部職員の内閣一元管理。公務員に対しては、スト権の付与と守秘義務違反の軽減を行う。また、政官接触を自由化する。[[特殊法人]]、[[独立行政法人]]、[[特別会計]]は見直す方向。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 経済、財政政策 ===&lt;br /&gt;
[[小さな政府]]ではなく、「官で出来ることは官で、民で出来ることは民で」。過疎化した地方など無駄な[[公共事業]]を極力減らしていく方針。&lt;br /&gt;
; 税制&lt;br /&gt;
: [[年金]]の特定財源化を行い、すべての年金を一元化する。1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。[[消費税]]は5%に維持するが、その税収はすべて全額を福祉目的税化し、基礎年金に割り当てる。しかし、消費税5%分（約13兆円）だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があったが、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。&lt;br /&gt;
: [[道路特定財源]]の一般財源化を行い、[[揮発油税]]（ガソリン税）の暫定税率を廃止する。2008年[[3月28日]]にはこれに関して「暫定税率を延長する必要はなく、国民生活のために還元をしたほうが良い」と主張した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.dpj.or.jp/news/?num=12977 『暫定税率を延長する必要はない。むしろ国民に還元すべき』小沢代表]」 民主党ホームページ、2008年3月28日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。廃止に伴う地方財政への影響に関しては、道路特定財源の内で地方へ行くと予定されているのは9000億円であるが、そのうち市町村分の3000億円には手当てが必要であるとの見解を示し、その手当てを[[一般会計]]・[[特別会計]]の余剰金の利用や無駄の削減で市町村分へ配分することは可能だとした&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.dpj.or.jp/news/?num=13128 首相の一般財源化では理解得られない 国民に信を問うべき 小沢代表]」 民主党ホームページ、2008年4月20日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[地方分権]]&lt;br /&gt;
: [[中央集権]]体制から地方主権体制への移行。中央政府の権限は外交・治安などに限定し、その他の権限を地方に移譲する。また、個別[[補助金]]は官僚支配を生み[[利権]]の温床となるため廃止し、自主財源として一括交付する。財源・権限を地方に移譲することで地域経済の活性化につながる。地方分権を推進するため、市町村の300程度への集約を行う。&lt;br /&gt;
; 格差是正&lt;br /&gt;
: 社会的格差を是正する。子育て支援をし、親と同居している世帯に対して「親手当」、子供がいる世帯に対して「子ども手当」を交付する。[[管理職]]は自由競争だが、非管理職は[[終身雇用]]にする。[[労働法]]は長期安定雇用を基本とするべき。挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度を拡充する。&lt;br /&gt;
; [[移民]]政策&lt;br /&gt;
: 自民党と財界一部に「移民受け入れ」を検討する動きがある事を受け、「まったくダメだ。現在でも『奴隷労働』と言われる非正規労働者の問題が深刻なのに。発展途上国から単純労働者を受け入れることは、一種の奴隷制度ではないか。治安問題を心配する声もあるが、それ以前に、そういう形での移民受け入れは人間の尊厳に対する冒涜であり、人道的にとても認められない。」と述べ、与党の移民政策を批判した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.zakzak.co.jp/top/2008_06/t2008062334_all.html 小沢代表直撃インタビュー]{{リンク切れ|date=2009年5月}}」 [[夕刊フジ|ZAKZAK]]、2008年6月23日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教育政策 ===&lt;br /&gt;
与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。教育予算は先進国中低位の現状を是正し引き上げる。5歳から高校まで義務教育を広げる。すべての国民に[[高等教育]]の機会を与えるため、[[奨学金]]制度を拡充する。教師などの教育職員は[[国家公務員]]として身分を安定させ、[[労働争議|争議]]権を認めない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 農業政策 ===&lt;br /&gt;
わが国の安全保障を確保するためには現在39%&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/fbs/dat-fy18/sankou2.pdf PFC供給熱量比率、食料自給率及び飼料需給表]」 [[農林水産省]]。&amp;lt;/ref&amp;gt;に低下している食料自給率を他の先進国並みに高める。農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について[[戸別所得補償制度]]を導入する。[[トレーサビリティ (流通)|トレーサビリティ制度]]の拡充と加工食品の原材料も含めた原産地表示の義務づけを行い、食の安全を確保する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他党、支持母体との関係 ===&lt;br /&gt;
; 選挙協力&lt;br /&gt;
: 思想的には保守であるが、自公政権打倒のためには'''共産党を含めた全野党による選挙協力'''も辞さないことを表明した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2006/ar20060412155540.html 参院選候補選定『直接やる。カギは1人区』]」 『産経新聞』、2007年4月11日付朝刊。&amp;lt;/ref&amp;gt;。社会党の[[社公民路線]]以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第一党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の[[反共主義]]者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「[[第三の道]]」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。&lt;br /&gt;
; 大連立&lt;br /&gt;
: 2007年末に取り沙汰された大連立騒動（[[大連立構想 (日本 2007)]]）では、民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で民主党のマニフェストを実現して、実績と政権担当能力を示す必要があると主張した。大連立構想が立ち消えになった後は自民党との対決姿勢を強め、選挙による政権交代を目指している。&lt;br /&gt;
; [[労働組合]]との関係&lt;br /&gt;
: 未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 小沢グループ ==&lt;br /&gt;
小沢一郎を支持する民主党のグループ。もともとは旧自由党出身の議員のみであった。合併当初は「党中党」は避けようという観点からほとんど会合なども行われなかった。その後、2004年6月に当時当選1回～2回の議員を対象とした小沢主宰の勉強会「一新会」が発足。これ以降徐々に会合等を開くようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一新会に加え、2005年秋に発足した落選者や候補者を対象とした「一新会倶楽部」に加え、2001年から続く「小沢一郎政治塾」の存在もあって選挙ごとに勢力を拡大。[[2007年]]の[[第21回参議院議員通常選挙]]で当選した新人議員の多くが加入し、党内最大派閥となった。小沢を中心に旧自由党出身の議員の結束は固いが、[[渡辺秀央]]、[[大江康弘]]のように小沢と選挙等をめぐって対立し離党した議員もいる。一方、一新会のメンバーの場合他のグループに参加しているメンバーも多く結束は自由党出身議員と比べ幾分緩い傾向がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政策的にはかつては右派的、新自由主義的なものが多かったが小沢の政策の変化に加え新人議員の取り込みの過程で様々な立ち位置の議員が所属したことからそういった傾向は薄れつつある。小沢同様、政策よりも選挙や政局を重視する傾向があり、政策重視を掲げる「凌雲会」や「花斉会」とは対立することが多い&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[一新会]] - 約20名&lt;br /&gt;
:* 衆議院議員 - [[三井辨雄]]、[[仲野博子]]、[[松木謙公]]、[[石川知裕]]、[[横山北斗]]、[[田名部匡代]]、[[階猛]]、[[石関貴史]]、[[武正公一]]、[[神風英男]]、[[小宮山泰子]]、[[高山智司]]、[[内山晃]]、[[菊田真紀子]]、[[村井宗明]]、[[篠原孝]]、[[牧義夫]]、[[鈴木克昌]]、[[吉良州司]]&lt;br /&gt;
; 旧[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]グループ - 約10名&lt;br /&gt;
:* 衆議院議員 - [[藤井裕久]]、[[中井洽]]、[[山岡賢次]]、[[山田正彦 (政治家)|山田正彦]]、[[黄川田徹]]&lt;br /&gt;
:* 参議院議員 - [[西岡武夫]]、[[一川保夫]]、[[工藤堅太郎]]、[[佐藤公治]]、[[平野達男]]、[[森ゆうこ]]、[[室井邦彦]]、[[広野允士]]&lt;br /&gt;
; その他 - 約10名&lt;br /&gt;
:* 衆議院議員 - [[奥村展三]]、[[青木愛]]、[[太田和美 (政治家)|太田和美]]&lt;br /&gt;
:* 参議院議員 - [[川上義博]]、[[主濱了]]、[[喜納昌吉]]、[[藤原良信]]、[[大久保潔重]]、[[平山幸司]]、[[米長晴信]]、[[谷岡郁子]]、[[藤原良信]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 小沢ガールズは特に定義のないまま第45回衆院選で注目区を制した女性新議員の総称で使われており、また40名と断定するのは不明確だと思われるためコメントアウト &lt;br /&gt;
; [[小沢ガールズ]] - 40名&lt;br /&gt;
: 2009年8月30日[[衆議院]]議員総選挙にに当選した民主党女性[[代議士]]&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 不祥事 ==&lt;br /&gt;
=== 事務所費問題 ===&lt;br /&gt;
[[2007年]][[1月]]、自身の資金管理団体「陸山会」が2005年分の[[政治資金収支報告書]]に4億円を超える不透明な[[事務所費]]を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は『（小沢から）「東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した」と聞いており「全く問題ない」』と反論した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し（小沢個人名義で保有）、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し、物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2月20日]]、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や[[登記]]費用として1100万円を計上したという、2003年〜2005年の事務所費などを公開した。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判もあるが、それだけ支援者からの寄付金が多かったということであり、また不動産を所有しても政治資金団体の財産なので問題はないと主張した。同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。なお、陸山会の代表は小沢自身であり、この確認書は「陸山会代表である小沢一郎」と「個人である小沢一郎」の間で交わされたものになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後2007年[[10月9日]]、[[第21回参議院議員通常選挙|参院選]]で与野党逆転した後、初の本格的論戦で注目されていた衆議院予算委員会総括質疑の初日、「陸山会」が政治資金で購入したマンションの部屋をコンサルタント会社と財団法人に事務所として貸し、2002年から2006年の間に賃料計980万円を得ていたことが報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9日に民主党幹事長の[[鳩山由紀夫]]は「法に触れるようなことは何もしていない」とコメントし、「このタイミングで問題化させるのは政治的意図があるからではないのか」とも切り返した。また小沢代表も翌10日の記者会見で「1円単位で領収書を公開した2月時点で（メディアから）追及は全く無かった。それが半年以上も経過した今回一面トップで報じることは、政治的思惑でもって意図的に[[誹謗中傷]]した報道であると認識している」とし、これを一面で報じた毎日新聞をはじめ報道を批判するなど強く不快感を示した。なおこれらの違法性を強く否定しつつも今後不動産の売却を進めていく考えを表明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、この件を報じた週刊現代を名誉毀損で小沢は出版社を提訴。しかし、一審二審ともに小沢側の全面敗訴の判決が出され、上告をしなかったため、小沢の全面敗訴が確定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年4月13日参議院決算委員会で自民党西田議員が本件について詳細に発表したとき、民主党議員からの野次により委員会が一時中断した。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.youtube.com/watch?v=jKWnCWyRpuc 小沢一郎のマンション疑惑 2009年4月13日参議院決算委員会]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政策秘書公職選挙法違反容疑 ===&lt;br /&gt;
[[第21回参議院議員通常選挙]]で当選した同党の[[青木愛]]の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。これに対し、小沢自身は8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという（秘書からの）報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断して起訴猶予処分とし、小沢の政策秘書も立件せず捜査を終結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政治資金規正法違反疑惑 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float:right&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{| id=&amp;quot;toc sub&amp;quot; class=&amp;quot;toc&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &amp;lt;div style=&amp;quot;text-align: center&amp;quot;&amp;gt;'''目次'''&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;ul&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;li class=&amp;quot;toclevel-1&amp;quot;&amp;gt;[[#概略|&amp;lt;span class=&amp;quot;tocnumber&amp;quot;&amp;gt;1&amp;lt;/span&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;toctext&amp;quot;&amp;gt;概略&amp;lt;/span&amp;gt;]]&amp;lt;/li&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;li class=&amp;quot;toclevel-1&amp;quot;&amp;gt;[[#経過|&amp;lt;span class=&amp;quot;tocnumber&amp;quot;&amp;gt;2&amp;lt;/span&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;toctext&amp;quot;&amp;gt;経過&amp;lt;/span&amp;gt;]]&amp;lt;/li&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;li class=&amp;quot;toclevel-1&amp;quot;&amp;gt;[[#献金の背景とルート|&amp;lt;span class=&amp;quot;tocnumber&amp;quot;&amp;gt;3&amp;lt;/span&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;toctext&amp;quot;&amp;gt;献金の背景とルート&amp;lt;/span&amp;gt;]]&amp;lt;/li&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;li class=&amp;quot;toclevel-1&amp;quot;&amp;gt;[[#ダミー団体との認識|&amp;lt;span class=&amp;quot;tocnumber&amp;quot;&amp;gt;4&amp;lt;/span&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;toctext&amp;quot;&amp;gt;ダミー団体との認識&amp;lt;/span&amp;gt;]]&amp;lt;/li&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;li class=&amp;quot;toclevel-1&amp;quot;&amp;gt;[[#小沢に対する弁護と批判|&amp;lt;span class=&amp;quot;tocnumber&amp;quot;&amp;gt;5&amp;lt;/span&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;toctext&amp;quot;&amp;gt;小沢に対する弁護と批判&amp;lt;/span&amp;gt;]]&amp;lt;/li&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;li class=&amp;quot;toclevel-1&amp;quot;&amp;gt;[[#報道における問題|&amp;lt;span class=&amp;quot;tocnumber&amp;quot;&amp;gt;6&amp;lt;/span&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;toctext&amp;quot;&amp;gt;報道における問題&amp;lt;/span&amp;gt;]]&amp;lt;/li&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;li class=&amp;quot;toclevel-1&amp;quot;&amp;gt;[[#検察の捜査姿勢に対する賛否|&amp;lt;span class=&amp;quot;tocnumber&amp;quot;&amp;gt;7&amp;lt;/span&amp;gt; &amp;lt;span class=&amp;quot;toctext&amp;quot;&amp;gt;検察の捜査姿勢に対する賛否&amp;lt;/span&amp;gt;]]&amp;lt;/li&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ul&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{see also|西松建設#政治資金規正法違反}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 概略 ====&lt;br /&gt;
準大手[[ゼネコン]]の[[西松建設]]が、OBらを代表とした政治団体を通じて、小沢や[[森喜朗]]・[[二階俊博]]など、与野党の国会議員の資金管理団体へ多額の政治献金を継続していたことが{{和暦|2008}}12月末に表面化した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-21/2008122115_01_0.html 裏金疑惑の西松建設 関連政治団体政界に4億2000万円 森・二階・小沢氏ら] しんぶん赤旗 2008年12月21日（2009年3月12日閲覧）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081231-OYT1T00021.htm 西松建設が違法献金か、政治団体隠れみのに4億8千万円 読売新聞 2008年12月31日]{{リンク切れ|date=2009年3月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。これに関連して{{和暦|2009}}[[3月3日]]に陸山会（小沢の資金管理団体）の会計責任者兼公設第一秘書が[[政治資金規正法]]違反の容疑で逮捕された&amp;lt;ref name=sankei090304&amp;gt;『産経新聞』は[[政治資金規正法#トンネル献金|トンネル献金]]の疑いがあることを報じている（「小沢氏秘書ら逮捕 規正法違反容疑で3人 西松トンネル献金」産経新聞 2009年3月4日朝刊1面[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090304/crm0903041340016-n1.htm]）。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/national/update/0303/TKY200903030171.html 民主・小沢代表の秘書逮捕、規正法違反の疑い東京地検 朝日新聞 2009年3月3日]{{リンク切れ|date=2009年4月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 経過 ====&lt;br /&gt;
[[2008年]]12月下旬、[[西松建設]]がOBらを代表とした政治団体（「新政治問題研究会」・「未来産業研究会」&amp;lt;ref&amp;gt;いずれも{{和暦|2006}}末に解散。&amp;lt;/ref&amp;gt;）を通じて、小沢や[[森喜朗]]・[[二階俊博]]など、与野党の国会議員の資金管理団体へ多額の政治献金を継続していたことが表面化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]]3月3日、陸山会（小沢の資金管理団体）の会計責任者兼公設第一秘書が[[政治資金規正法]]違反の容疑で逮捕され、東京にある小沢の資金管理団体「陸山会」事務所には家宅捜索が行われた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-03|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090303/crm0903031826030-n1.htm|title=【小沢氏秘書逮捕】警察官も出動 赤坂の「陸山会」捜索|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月4日、東京地検特捜部は小沢の地元事務所を家宅捜索&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-04|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090304/crm0903041305014-n1.htm|title=【小沢氏秘書逮捕】小沢氏の地元事務所を捜索 東京地検特捜部|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月4日、小沢は「献金が違法ということが明らかになったときに返却するつもりだ」と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-05|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090305/stt0903050043001-n1.htm|title=【小沢氏秘書逮捕】「献金の早期返却望ましい」鳩山氏|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;（政治資金規正法の第二十二条の六の第四項において他人名義による寄附は国庫に帰属するものと定められているため、違法の場合は受取った献金を国庫に納めなければならない&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO194.html#1000000000000000000000000000000000000000000000002200600000000000000000000000000|title=政治資金規正法 第二十二条の六|publisher=総務省法令データ提供システム|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月5日、自民党では二階派及び森が西松建設からの献金の返還を表明&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-05|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090305/stt0903051736007-n1.htm|title=自民で次々に「西松献金返還」 でも、団体解散で方法は…|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-05|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090305/stt0903052009011-n1.htm|title=森元首相も300万円返還 西松献金|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。大阪府吹田市の阪口善雄市長も「違法性のある献金ならば何らかの形で返したい」と西松建設が購入した70万円分のパーティー券について述べている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-05|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090305/crm0903050145004-n1.htm|title= 【西松献金】吹田市長後援会が100万円分パーティー券購入|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方、衆議院議員時代に西松建設に20万円のパーティー券を購入してもらった長野県知事[[村井仁]]は西松建設からの献金の返却について考慮しないと答えている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-05|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090305/lcl0903051853004-n1.htm|title=長野県知事、西松献金返還の考えなし|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月10日、民主党の[[西岡武夫]]参院議院運営委員長が「党執行部と相談した上で検事総長の証人喚問を考えたい」とコメント&amp;lt;ref name=asahi_090313&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-13|url=http://www.asahi.com/special/09002/TKY200903130121.html|title=検事総長喚問、森法相が反対姿勢 「検察の独立脅かす」|publisher=朝日新聞|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月12日、東京地検特捜部は小沢の元秘書・[[石川知裕]]衆院議員を参考人聴取した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-12|url=http://www.asahi.com/special/09002/TKY200903120256.html|title=小沢氏の元秘書・石川知裕衆院議員を参考人聴取 特捜部|publisher=朝日新聞|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月13日、西松建設の捜査について民主党内から検事総長の証人喚問を求められていることに対して[[森英介|森法相]]は「検察官を証人として国会に出頭させることは、検察官の独立性と公正性の保持の観点から悪影響を及ぼす」として反対を表明した&amp;lt;ref name=asahi_090313 /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nishimatsu Ozawa.PNG|thumb|right|200px|西松建設から小沢側へ行われたとする[[トンネル献金]]（検察による起訴内容）&amp;lt;ref name=sankei090304/&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
2009年3月24日、東京地検は政治資金規正法違反として小沢の公設第一秘書と西松建設前社長を起訴&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-24|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090324/crm0903241523023-n1.htm|title=小沢氏秘書を起訴 東京地検 西松建設違法献金事件|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。起訴状によると、公設第一秘書は2003年から2006年にかけて西松建設からの献金と知りながらダミーの政治団体「新政治問題研究会」「未来産業研究会」の名義で小沢の資金管理団体である陸山会には2,100万円&amp;lt;!--新しい出典に基づき金額修正--&amp;gt;、小沢が代表を務める民主党岩手県第四区総支部には1,400万円の寄付を受取り、その上で政治資金収支報告書に虚偽の記載を行ったとされた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009032502000073.html 小沢代表続投表明 虚偽記載で秘書起訴「東京新聞」2009年3月25日]{{リンク切れ|date=2009年5月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-24|url=https://www.nnn.co.jp/knews/090324/20090324146.html|title=大久保被告の起訴状要旨|publisher=日本海新聞|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月27日、民主党代議士会は小沢の代表続投を了承した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-27|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090327/stt0903271901012-n1.htm|title= 【民主代議士会詳報】（3）完 鳩山氏「政権交代を一番願っているのは小沢代表」（27日午後）|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年4月28日、党本部で記者会見を行い、企業・団体献金の即時全面禁止を表明した。企業・団体献金の取り扱いについて「ディスクロージャー（情報開示）が大事だが、解釈の違いが起きたりすると、政治に間違った影響を与える。即時に全面禁止すべきだ」と述べた。民主党として「即時全面禁止」を盛り込んだ政治資金規正法改正案の提出を検討するとともに、次期衆院選の政権公約（マニフェスト）に盛り込む見通し。一方、法案化については、即座禁止ではなく「5年以内の禁止」を盛り込んだ政治資金規正法改正案の提出を目指している&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-04-28|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090428/stt0904281811002-n1.htm|title=もう企業・団体献金はいらない!? 小沢氏が「即時全面禁止」を表明|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-05-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民主党のマニフェストは、菅直人代表代行と岡田克也副代表がそれぞれ党代表を務めていた2002年と2004年の衆院選のマニフェスト（政権公約）では「公共事業受注企業からの政治献金全面禁止」が明記されていたが、小沢が代表に就任した際「個人献金より企業献金の方が癒着が少なく、望ましい」と持論を述べ、2007年の参院選のマニフェストからは削除された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090316/stt0903162150004-n1.htm 企業献金見直し、民主は不一致、与党は様子見 2009.3.16 21:43]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 献金の背景とルート ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Money flow to Ozawa.png|thumb|right|400px|検察側が主張する下請け業者ルート（『産経新聞』による解説）&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankei20090313&amp;quot;/&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1993年の鹿島建設東北支店の談合の仕切り役交代を契機に、公共事業の受注調整に際して小沢側の意向が大きな影響力をもつようになったとされる。一方、西松建設は東北地方を不得手としていたことから、受注の便宜を目的として1995年頃に小沢側と毎年2500万程度の献金を行う約束を行った。その後、東北地方での西松建設の受注高は増加したが、西松内部でも小沢側への献金の効果とする見方&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-24|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090324/crm0903241523023-n1.htm|title=小沢氏秘書を起訴 東京地検 西松建設違法献金事件|publisher=産経ニュース|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;と談合の結果とする見方&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-07|url=http://mainichi.jp/select/jiken/nishimatuuragane/archive/news/2009/03/20090307org00m040042000c.html|title=西松建設裏金：東北の大型工事狙い…小沢氏の影響力期待|publisher=毎日JP|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;に分かれているようである。&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-22|url=http://www.asahi.com/special/09002/TKY200903210253.html&lt;br /&gt;
|title=談合事件後の新仕切り役「小沢氏側寄り」 影響力拡大か|publisher=朝日新聞|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;一方、小沢は献金と工事受注の結果とは関係がないとの認識を表明している&amp;lt;ref name=asahi_090322&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-10|url=http://www.asahi.com/special/plus/TKY200903100290.html|title=「ご迷惑、ご心配、この機会におわび」小沢代表定例会見|publisher=朝日新聞|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西松建設側の供述によれば、公設秘書は西松建設に対して小沢の地盤である岩手県奥州市で建設中の[[胆沢ダム]]について「胆沢ダムは小沢ダム｣と発言し、献金を要請していたという&amp;lt;ref&amp;gt;2009年3月29日 毎日新聞&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
献金は1999年ごろまでは西松建設名義で行われていたが、2003年以降は以下の2ルートで献金が行われている。&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-05|url=http://www.asahi.com/special/09002/TKY200903050174.html|title=小沢氏秘書、下請け迂回献金も認識 西松側に入金催促|publisher=朝日新聞|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:* 西松建設→政治団体（『新政治問題研究会』・『未来産業研究会』）→陸山会・民主党岩手県第4区総支部等（毎年1500万円）&lt;br /&gt;
:* 西松建設→下請け業者（松和会）→民主党岩手県第4区総支部（毎年1000万円）&lt;br /&gt;
この内、起訴されたのは政治団体経由の献金であり、下請け業者ルートの献金については起訴されていない。なお、談合決別宣言等の影響により2006年の500万を最後に政治団体経由の献金も打ち切られ、政治団体も既に解散している&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-24|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090324-OYT1T00034.htm|title=大久保容疑者「どうにか続けて」、西松の献金中止申し出に|publisher=YOMIURI ONLINE|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
また西松建設に限らず複数のゼネコンからの下請け業者ルートも報告された&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankei20090313&amp;quot;&amp;gt;「ゼネコンから年2億円」『産経新聞』2009年3月13日朝刊、一面({{Cite web|date=2009-03-13|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090313/crm0903130203002-n1.htm|title=ゼネコンから年2億円 小沢氏側 下請けダミーに？|publisher=産経新聞|accessdate=2009-05-28}})&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、西松建設がおこなった内部調査によれば、政治家への献金目的について「発注を得たいというより、受注活動を妨害しないでほしかった」と供述する社員がいたとしている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-05-15|url=http://s04.megalodon.jp/2009-0616-2217-59/www.asahi.com/special/09002/TKY200905150303.html|title=「受注のため違法献金」 西松建設、内部調査結果を公表|publisher=朝日新聞|accessdate=2009-06-16}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『毎日新聞』 2009年5月16日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ダミー団体との認識 ====&lt;br /&gt;
小沢は秘書逮捕を受けた2009年3月4日の会見で「政治団体の原資がどういう形でどういうところから入ってくるのか、それは知るすべもありません」としていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankei20090304&amp;quot;&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090304/stt0903041118010-n1.htm 【小沢代表会見詳報（4）】「どっかから持ってきたカネだとか、詮索しない」 MSN産経ニュース 2009年3月4日]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この小沢会見の直後、捜査関係者及び西松関係者を情報源として、小沢側が献金に際し直接西松建設と献金額の調整を行い、同社宛てに請求書を送付していたとの報道がなされた。また、検察はこの請求書や西松側の供述を証拠に小沢秘書が西松建設のダミー団体であることを十分認識していたと判断しているとされた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-08|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090304-527751/news/20090308-OYT1T00084.htm|title=西松献金…小沢氏秘書が直接メモやり取り、額決定|publisher=YOMIURI ONLINE|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-23|url=http://www.asahi.com/special/09002/TKY200903220169.html|title=小沢氏秘書を24日起訴 違法献金認識と判断 東京地検|publisher=ASAHI.COM|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-03-08|url=http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009030801000497.html|title=小沢代表側が西松建設に請求書 ダミー団体献金で、違法性認識か|publisher=共同通信|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。西松建設への請求書報道に対し、小沢は3月22日の会見で、秘書に任せていたため小沢自身は当該政治団体からの献金の存在も知らず、請求書の送付についても「わからない」とした&amp;lt;ref name=asahi_090322/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年[[6月19日]]、検察は国沢前社長の初公判において「新政治問題研究会・未来産業研究会からの献金が、実質的に西松建設側からの献金だと知っていた」、「西松建設側からの支援は会社として行われてきたもので、窓口となっていた幹部の一存ではなく、西松の社長やしかるべく役職の人が決裁し、会社の経営判断で行われてきたと認識していた」とする小沢秘書の供述調書を明らかにした&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-06-19|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090619/trl0906191331012-n3.htm|title=【西松事件公判（5）】“力添え”を頼まれた大久保被告「よし、わかった。西松にしてやる」（11：05~11：15）|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2009-06-29}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-06-19|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090620ddm012040059000c.html|title=西松建設献金事件：検察側冒頭陳述（要旨）|publisher=毎日JP|accessdate=2009-06-29}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-06-19|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090619-OYT1T00830.htm|title=談合が成立し4件を受注…西松事件・検察の冒頭陳述要旨3|publisher=YOMIURI ONLINE|accessdate=2009-07-01}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 小沢に対する弁護と批判 ====&lt;br /&gt;
小沢は[[事件]]について自ら説明をおこなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankei20090304a&amp;quot;&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090304/stt0903041028006-n1.htm 【小沢代表会見詳報（1）】「（捜査は）不公正な国家権力、検察権力の行使」] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月4日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090304/stt0903041029007-n1.htm 【小沢代表会見詳報（2）】「規正法にのっとってオープンになっている問題」] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月4日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090304/stt0903041110009-n1.htm 【小沢代表会見詳報（3）】「何らやましいことはない」] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月4日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankei20090304&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090304/stt0903041148013-n1.htm 【小沢代表会見詳報（5）完】「必ず近いうちに嫌疑は晴れる」] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月4日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;が、この中で小沢が[[捜査]]について「不公正な[[国家権力]]、[[検察]][[権力]]の行使」と述べていることについては[[民主党]]の内外から批判の声が出ている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090305-OYT1T00929.htm 「検察批判「すべきでない」と前原氏、菅氏は小沢代表に理解」]読売オンライン [[2009年]][[3月5日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090304/stt0903042154023-n1.htm 反発と警戒…自民交錯 小沢氏の「検察批判」発言] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月5日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[報道機関]]による[[世論調査]]では、国民が納得していないとの結果が得られたとしている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090309/stt0903091139003-n1.htm 【産経FNN合同世論調査】小沢氏「辞任すべき」47・4% MSN産経ニュース] [[2009年]][[3月9日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090309/stt0903092047010-n1.htm 【産経・FNN合同世論調査】逆風で小沢氏凋落「説明責任果たさず」約8割] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月9日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090326/stt0903261641005-n1.htm 小沢代表「辞任を」66% 79%が「説明納得できず」共同通信調査] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月26日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090330/plc0903301140002-n1.htm 【産経FNN世論調査】「小沢代表辞任を」62% 内閣支持率は上昇] MSN産経ニュース 2009年3月30日&amp;lt;/ref&amp;gt;。3月27日にも民主党の参院議員総会と代議士会で説明しているが、代議士会において[[小宮山洋子]]議員からは「法廷闘争と選挙戦略は全く別だ。地元では『新しい体制を作ってほしい』という声が多い」 と小沢の代表続投に異議を唱えられ、[[近藤洋介 (政治家)|近藤洋介]]議員からは「世論調査では説明に納得していない国民が8割いる。なぜ数千万円の献金をもらい続けたのか」と説明を求められ、一方[[小沢鋭仁]]、[[小宮山泰子]]両議員には代表の続投を支持され、全体として代表続投が決まった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090304-527751/news/20090327-OYT1T01028.htm 小沢代表が党所属国会議員に説明、続投了承される] 読売新聞 [[2009年]][[3月27日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[達増拓也]][[岩手県知事]]は小沢の[[公設秘書|公設第一秘書]]が逮捕された翌日、その[[政治資金規正法]][[違反]]事件について「これほど疑念を持たれている捜査はないんじゃないか。現段階では、よほどのことがないまま政治活動の自由が大きく制限されている」と[[東京地検特捜部]]の捜査を批判し、小沢の[[記者会見]]における[[政治献金|献金]]の違法性の否定については「非常に分かりやすく、得心できた」と大きな意味があったとしている&amp;lt;ref&amp;gt;のちに達増拓也知事自身も西松建設との関連を指摘されている。[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090306/crm0903061324012-n1.htm 岩手県知事「報道で初めて知った」 西松建設規正法違反事件] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月6日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090304/crm0903042229029-n1.htm 【小沢氏秘書逮捕】「政治活動の自由制限」 岩手知事も批判] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月4日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民主党の[[機関誌]]「プレス民主」[[2009年|09年]][[4月17日]]号で、[[ジャーナリスト]][[高野孟]]と[[田中康夫]][[新党日本#歴代代表|新党日本代表]]がこの捜査や小沢一郎代表交代論を批判した。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.smn.co.jp/pod/090420.pdf 代表続投論]「プレス民主」[[2009年|09年]][[4月17日]]号&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民主党の[[枝野幸男]]元[[政調会長]]は小沢の[[民主党代表|代表]]続投の判断について「今後も説明の努力をされ、（世論調査結果に表れる）納得できないとか辞めるべきだというのを大幅に下げる政治責任がある」とコメントし、小沢が多額の企業献金を得ていることについては「政治体質が私と百八十度違う。我が党の党首にはふさわしくないと一貫して思っている」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/special/09002/TKY200903280212.html 小沢氏の進退、世論の受け止め次第と強調 民主・枝野氏] 朝日新聞 [[2009年]][[3月28日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。民主党員である[[小宮山洋子]]議員は公然と小沢の代表辞任を要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090325/stt0903251253007-n1.htm 民主、小宮山洋子衆院議員、小沢代表の辞任を要求] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月25日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、民主党の[[菅直人]]代表代行も小沢代表の辞任を求めたと伝えられたが後に釈明している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090403k0000m010071000c.html 民主・菅氏：小沢氏へ辞任求めた発言で釈明] 毎日新聞 [[2009年]][[4月2日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盟友とされる[[国民新党]]の[[亀井静香]]代表代行は小沢の代表辞任を求めた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090417/stt0904172041005-n1.htm 亀井氏「身を捨てろ」小沢氏に辞任促す MSN産経ニュース 2009年4月17日]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[日本共産党|共産党]]の[[志位和夫]][[日本共産党委員長|委員長]]は小沢には「長年多額の企業献金を受けてきたことの総括」と「国民が納得できる説明」が必要とした&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090319/stt0903191632003-n1.htm 企業献金廃止「まず小沢氏から」 共産・志位委員長] MSN産経ニュース [[2009年]][[3月19日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小沢は、この問題における党内の動揺を受け、[[5月11日]]に民主党代表を辞任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 報道における問題 ====&lt;br /&gt;
公設第一秘書の起訴直後、各報道機関によって『秘書が起訴内容を大筋認める』との報道がなされたが、秘書の弁護人は『大筋を認めたとする報道と弁護人らの認識は全く異なっている』とするコメントを発表した。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/special/09002/TKY200903270484.html 小沢氏秘書の弁護人、報道機関へのコメント公表 - asahi.com 2009年3月27日23時39分] 2009年6月22日閲覧。&amp;lt;/ref&amp;gt;その後、西松の国沢前社長の公判で『私は新政治問題研究会、未来産業研究会からの献金が、実質的に西松建設側からの献金だと知っていました』と秘書が供述したことが判明した。&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-06-19|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090619/trl0906191331012-n3.htm|title=【西松事件公判（5）】“力添え”を頼まれた大久保被告「よし、わかった。西松にしてやる」（11：05～11：15）|publisher=産経ニュース|accessdate=2009-06-29}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
また、報道が[[検察]]や与党の意を汲んだマスメディアによる[[情報操作]]であるとの指摘もある&amp;lt;ref name=&amp;quot;sapio20090422&amp;quot;&amp;gt;『[[SAPIO]]』2009年[[4月22日]]号 p.6-11&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、『[[東京新聞]]』が西松から献金を受け取った与党政治家の件について記事にしたところ、東京検察（[[東京地方検察庁]]？）はそれが望ましくない内容であるという理由で、3週間『東京新聞』の取材拒否をしたという&amp;lt;ref&amp;gt;『[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]』2009年[[5月28日]]号 [[:en:MARTIN FACKLER]][http://www.nytimes.com/2009/05/29/world/asia/29japan.html In Reporting a Scandal, the Media Are Accused of Just Listening] なお、東京地検は、同紙が記者クラブに加盟していないことを理由に取材を拒否している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 検察の捜査姿勢に対する賛否 ====&lt;br /&gt;
{{see also|国策捜査}}&lt;br /&gt;
小沢側は事件に対する検察の捜査が[[国策捜査]]に当たると非難した&amp;lt;ref name=FNN_report&amp;gt;[http://s03.megalodon.jp/2009-0422-2011-01/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090331-00000106-san-pol 【本社・FNN合同世論調査】検察捜査 「不公平」46%、「公平」は40% MSN産経ニュース 2009年3月31日]&amp;lt;/ref&amp;gt;。民主党の[[原口一博]]衆議院議員はこれを否定する一方で捜査当局でしか知り得ない情報がメディアから流布されることを問題とし、国家公務員による秘密漏えいの疑いを指摘している&amp;lt;ref&amp;gt;2009年3月25日衆議院総務委員会&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[上杉隆]]によれば、[[週刊朝日]]をはじめとした一部のマスコミが、小沢よりも検察側に疑義があるとキャンペーンを張ったことで、小沢への批判は弱まったとしている&amp;lt;ref&amp;gt;ダイアモンドオンライン「週間 上杉隆」2009年09月17日[http://diamond.jp/series/uesugi/10094/?page=3 非記者クラブメディアを排除した鳩山首相初会見への落胆]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公設第一秘書らの起訴の際、東京地検の次席検事は記者会見において「国会議員の政治団体が、特定の建設業者から長年にわたり多額の金銭提供を受けてきた事実を、国民の目から覆い隠したもの。規正法の趣旨に照らして見過ごせない重大で悪質な事案と判断した」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090324/crm0903241523023-n1.htm 小沢氏秘書を起訴 東京地検 西松建設違法献金事件 MSN産経ニュース 2009年3月24日]&amp;lt;/ref&amp;gt;と説明し、記者から「なぜ悪質といえるのか」「被告の認識は」との質問がなされていたが、特捜部長は刑事訴訟法第47条において公判前の書類開示は禁止されていることから&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO131.html#1001000000006000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000|title=刑事訴訟法 第四十七条|publisher=総務省法令データ提供システム|accessdate=2009-05-11}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、公判において明らかにすると回答した。また、収支報告書上に記載された献金についての立件については「寄付者の名義を変えてしまうことをどう評価するか。みなさんにご判断いただきたい」と答えている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20090325ddn003040028000c.html クローズアップ2009：小沢氏秘書起訴 異例の立件に波紋 毎日新聞 2009年3月25日]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、小沢と同様に西松建設から献金を受け取った議員のうち、二階を除く自民党議員（森、尾身など）に対し検察側が捜査の動きを見せていないことについて、[[角福戦争]]以降、歴史的に旧田中派と敵対して来た[[清和政策研究会]]の意向が検察の捜査に反映されているとの指摘がある&amp;lt;ref name=&amp;quot;sapio20090422&amp;quot;/&amp;gt;一方、「政治家側がダミー団体と認識していた明確な証拠がないだけ」とする報道もある&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-05-12|url=http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090512k0000m040124000c.html|title=小沢代表辞任：検察幹部「証拠は十分」、公判に自信|accessdate=2009-05-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『産経新聞』が[[フジニュースネットワーク|FNN]]と合同でおこなった世論調査では、半数近くが「検察側の捜査は政治的に不公平」と回答し、「公平」とする回答を上回った（次期衆院選が近づく時期に国政に影響する捜査が不適切かという件については、「思わない」が「思う」を上回った）&amp;lt;ref name=FNN_report/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 労働保険未加入問題 ===&lt;br /&gt;
{{現在進行|section=1}}&lt;br /&gt;
2009年3月3日、小沢の事務所が雇用しているアルバイトや私設秘書について、労働保険に未加入だったことが分かった。同事務所は「少なくとも3、4年は未加入になっており、かなりの人数分の未納保険料を納付することになる」と説明、今後、過去の雇用状況を調べた上で労働局に届け出る予定としているが、労働保険未加入発覚時のペナルティは、発覚時の前年度と前々年度分の保険料と、10%の追徴金のみであり、未加入分の多くは問責されないこととなる。 同事務所では、小沢の初当選以来、「正規の秘書」以外は届け出ていない可能性もあり、対象者は数百人規模になるという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/090305/wlf0903050058000-n2.htm 小沢事務所 労働保険未加入も 社民・福島党首も数年間]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
=== 人物評 ===&lt;br /&gt;
{{独自研究|section=1}}&lt;br /&gt;
かつては「豪腕」、「壊し屋」、と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主であった。[[金丸信]]は小沢、[[羽田孜]]、[[梶山静六]]の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民主党内外では小沢[[アレルギー]]の存在が指摘され、これは若手議員よりも自民党当時を知る議員により強いとされた。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党等がその原因とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評された。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっているとも指摘された。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」。また、強面のイメージであるが私生活では[[恐妻家]]として知られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 健康管理 ===&lt;br /&gt;
1991年に狭心症で入院して以来は健康管理に余念がなく、早朝に30分ほどの散歩をすることを日課とし、アルコールは日本酒を3合までに控えるよう心がけ、約2時間の昼寝を欠かさない&amp;lt;ref name=&amp;quot;産経ニュース2009.3.2 5/5ページ&amp;quot;/&amp;gt;。2008年10月6日から13日まで風邪で入院、同月23日に予定されていた[[インド]]の[[マンモハン・シン|シン]]首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルし、シン首相との会談は[[鳩山由紀夫|鳩山]]幹事長が代理を務めたものの健康不安説も再燃した&amp;lt;ref&amp;gt;『産経新聞』2008年10月24日朝刊&amp;lt;/ref&amp;gt;。第171回国会（会期2009年1月5日 - 6月3日）では、2月末までに11回開かれた衆院本会議のうち4回欠席している。&amp;lt;ref name=&amp;quot;産経ニュース2009.3.2 5/5ページ&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|title=【民主党解剖】第1部「政権のかたち」（1）「小沢首相」は大丈夫か （5/5ページ） |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090302/stt0903020008000-n5.htm |publisher=産経ニュース |accessdate=2009年3月2日 |date=2009年3月2日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信条 ===&lt;br /&gt;
[[田中角榮]]を『'''オヤジ'''』として慕い、政治のイロハと人生の薫陶を受けたと語る。それは「どぶ板」とも言われる、[[人口密度]]の低い農村部から始め有権者の家を一戸一戸回っていく地道な選挙活動を決して怠らない事をオヤジから学んだという。歴史上の人物では、[[福澤諭吉]]を日本文明の祖として尊敬し、[[西郷隆盛]]を尊敬するものの、政治家・人物としては[[大久保利通]]を目指していると述べた&amp;lt;ref&amp;gt;『小沢主義志を持て、日本人』 ISBN 4797671297 より&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[司馬遼太郎]]を愛読している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自民党離党 ===&lt;br /&gt;
小沢が自民党を離党した理由は、「談合政治」と言われる旧来型政治の打破と、[[イギリス]]や[[アメリカ]]のような[[二大政党制]]に持って行きたいという明確なビジョンがあったという。その思惑は、小沢が[[自由党]]を[[民主党]]に合流させることで成就するのだが、[[小選挙区制]]を導入すれば同じ選挙区から[[自民党]]と[[社会党]]の政治家が選ばれるということが無くなるためであった。小沢は、自ら進んで自民党を離党したのでは無く、既得権益を持った一部の議員に追い出されたのだと述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
; 実家&lt;br /&gt;
* 父・[[小沢佐重喜|佐重喜]]（弁護士、政治家）&lt;br /&gt;
* 母・みち（元千葉県会議員[[荒木儀助]]の四女）&lt;br /&gt;
:[[奥野修司]]の著書『小沢一郎 覇者の履歴書』50頁には｢みちは[[明治]]三十四年二月十五日に[[千葉県]]の元[[庄屋]]の娘として生まれている。実家はかなりの[[豪農]]で生まれたときからお嬢様として育てられたという。九段の精華高等女学校では、のちの[[鹿島建設]]会長夫人になる[[鹿島卯女]]も同窓だった。｣、85頁には｢このみちは[[明治]]三十四年に[[荒木儀助]]と妻かのの四女として[[千葉県]][[東葛飾郡]][[風早村]]で生まれているが生家は“[[駅]]からよその土地を踏まずに家まで帰ることができた”といわれるほどの大[[地主]]だったようだ。父親の儀助も[[千葉県]]の県会議員になっているほどだからかなり裕福だったことは推測できる。両親はともに教育熱心だった。のちに[[医者]]や[[弁護士]]になっている家族もたくさんいて、みち自身も東京九段の精華高等女学校を[[卒業]]しているほどである。｣とある&lt;br /&gt;
* 姉（2人）&lt;br /&gt;
; 自家&lt;br /&gt;
* 妻・和子（[[新潟県]]の建設会社[[福田組]]会長・福田正の長女）&lt;br /&gt;
* 三男あり&lt;br /&gt;
; 他家&lt;br /&gt;
* その他の親戚・[[竹下亘]]（政治家、元[[首相]][[竹下登]]の異母弟、妻は福田正の二女）、[[金丸信]]（政治家）など&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
; 小沢家&amp;lt;ref&amp;gt;[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0001/05805140001033c.html 衆議院会議録情報　第058回国会　本会議　第33号]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:小沢一郎は自身の[[家系]]について、[[古代]]東北の英雄として知られた[[蝦夷]]･[[アテルイ]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://homepage2.nifty.com/tanizoko/aterui.html アテルイ]&amp;lt;/ref&amp;gt;の末裔であるため“反骨精神が旺盛だ”と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/2005/05.01.21.htm 小沢一郎（下） アテルイの末裔 だから反骨精神旺盛 ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。父[[小沢佐重喜]]は[[岩手県]][[胆沢郡]]水沢町（現[[奥州市]]）の[[農家]]に生まれ、{{和暦|1923}}、[[日本大学]][[法学部]]を卒業するとその年の12月に25歳の若さで[[司法試験|弁護士試験]]に合格し翌年弁護士事務所を開業する。[[東京市]]会議員、[[東京府]]会議員を経て、{{和暦|1946}}、衆議院議員に当選する。[[第2次吉田茂内閣]]の[[運輸大臣]]、[[第3次吉田茂内閣]]の[[逓信大臣]]、初代[[郵政大臣]]兼初代[[電気通信大臣]]、[[第5次吉田茂内閣]]の[[建設大臣]]、第2次池田内閣で[[行政管理庁]]長官、[[北海道開発庁]]長官等を歴任する。父・[[小沢佐重喜|佐重喜]]について一郎は｢親父は、じいさまが[[酒]]に溺れて身上をつぶして[[水呑百姓|水飲み百姓]]の[[小作人]]のせがれとして食うや食わずで育ったんだ。それで、ものすごく貧乏だったせいかどちらかというと反体制的な考え方だった。[[戦後]]の[[経済]]万能主義の社会や政治を嫌悪していたし、エスタプリッシュメントというものに対する反発を非常に強くもっている男でした｣と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;奥野修司の著書『小沢一郎 覇者の履歴書』105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　（14代）&lt;br /&gt;
　　　竹中藤右衛門━━┳寿美&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　┣竹中宏平━━竹中祐二&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　┗竹中錬一　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　米内光政━━━━和子　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　（元首相）　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　（元首相）　　┃　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┗武永貞一　　　　┣竹下三郎　┣まる子&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┗一子&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┃金丸信━━━金丸康信&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┗竹下亘　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　┃　　　&lt;br /&gt;
　　　　福田正━━━━━┳雅子　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┣福田実　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　┗和子　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　┏男　&lt;br /&gt;
　　　　小沢佐重喜　　　　　┣━━━━╋男　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　┃　　　　　　　┃　　　　┗男&lt;br /&gt;
　　　　　　┣━━━━━小沢一郎&lt;br /&gt;
　　　　　　┃&lt;br /&gt;
荒木儀助━━みち　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
; 田中角栄&lt;br /&gt;
:* [[田中角栄]]の長男である正法（1947年、5歳で夭折）と小沢が同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のように可愛がったとされた。それに対して小沢も角栄を慕い、田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の[[裁判]]をすべて欠かさず傍聴した。旧竹下派の中では唯一田中家・[[田中真紀子]]から許されているため、[[命日]]には田中家を訪問した。そのため親交が深く、真紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。&lt;br /&gt;
:* かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、'''「第二の[[角福戦争]]」'''と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無く、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の[[田中真紀子]]元外相の方が注目され、これが真の「第二の[[角福戦争]]」だと見る向きもあった。&lt;br /&gt;
; 囲碁&lt;br /&gt;
: 2007年10月、[[自民党]]元官房長官の[[与謝野馨]]と囲碁で対決した。二人は政界きっての囲碁の実力者で2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した。小沢は「こっち（与謝野氏）は正統派だしね」、与謝野も「（小沢氏との）最後の一局は、4、5年前、私が負けたんですよ」と互いに勝負の感想を述べた。また、12月には作家の[[渡辺淳一]]と囲碁で対決し、小差ながらも勝利した。&lt;br /&gt;
; 愛犬&lt;br /&gt;
: 2006年4月の衆議院[[千葉7区]][[補欠選挙]]で党の広告に[[柴犬]]の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢によれば当時の小沢の飼い犬であった柴犬「ちび」と似ているという。2007年10月、その「チビ」を失うが、2008年、新たに柴犬の子犬2匹を飼い始め、毛並みの色から「クロ」、「チャイ」と名付けた&amp;lt;ref&amp;gt;「元気の源？かわいい子犬2匹 民主・小沢氏を毎晩お出迎え」 『朝日新聞』、2008年5月22日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; ニートについて&lt;br /&gt;
: 2005年3月の夕刊フジのコラムにて、[[ニート]]について以下のような見解を示した&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/fuji/2005/fuji20050419134025.html 剛腕コラム 第226回]」 『夕刊フジ』、2005年3月25日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:: 「本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。」&lt;br /&gt;
:: 「政府は「[[少子化|少子]][[高齢化社会|高齢化]]の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑（犯罪も含む）もかけず、公共的サービスも受けないことだ。[[無人島]]でも行って[[自給自足]]の生活でもすればいい。」&lt;br /&gt;
: またニートの親については、「僕は自宅で小鳥を飼っているが、親鳥はヒナが大きくなるまでは一生懸命に世話をするが、一定の時期がくると冷たいほど突き放して巣立ちさせる。ニートの親は動物にも劣るといっても過言ではない」と評し、その責任を激しく糾弾した。&lt;br /&gt;
; 韓国をめぐるエピソード&lt;br /&gt;
:* [[1999年]]4月に[[大韓民国|韓国]]を訪問した際、同月18日に日本の党幹部・閣僚クラスの政治家としては初めて（当時）となる、[[ソウル特別市|ソウル]]にある[[金九]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://english.hani.co.kr/arti/english_edition/e_international/374021.html 【Japan’s Election】 Japan’s Democratic Party foreign policy platform prioritizes Korean peninsula] Hankyoreh Aug.31,2009&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[尹奉吉]]、[[李奉昌]]、[[白貞基]]といった、抗日[[独立運動家]]の墓地を参拝した。この事に関して、[[東亜日報]]は「新しい韓日関係のため韓国に近づこうとする努力の一環として評価している」と報じ、[[文化日報]]は「[[極右]]保守的なカラーを薄めるための高度の計算だとの指摘もある」と述べた。&lt;br /&gt;
:* 小沢は日本の政治家としてはじめて韓国人秘書を正式に受け入れた&amp;lt;ref name=&amp;quot;小沢一郎・民主党代表を補佐する韓国人女性秘書&amp;quot;/&amp;gt;。2000年に登用された韓国人女性である[[金淑賢]]は国際担当秘書を務めており、海外の要人との会談時には通訳をしていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;小沢一郎・民主党代表を補佐する韓国人女性秘書&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|title=小沢一郎・民主党代表を補佐する韓国人女性秘書 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2007/08/09/0400000000AJP20070809003300882.HTML |publisher=[[聯合ニュース]] |accessdate=2009年3月2日 |date=2007年8月9日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。身分として国が雇い給与が高い公設秘書（公設第1・第2・政策担当）ではなく、私費で雇い給与の安い数十人の私設秘書の中の一人であった{{fact|2009年2月}}。また、この女性は日本の政界に従事するという関係から、駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;小沢一郎・民主党代表を補佐する韓国人女性秘書&amp;quot;/&amp;gt;。この韓国人秘書は2007年7月に韓国政府の[[大韓民国女性部|女性部]]主催の「世界韓民族女性ネットワーク」に日本側代表として参加している&amp;lt;ref name=sougou&amp;gt;{{cite news|title=한국 여성、 日 오자와 대표 비서로 맹활약（韓国女性、日本小沢代表秘書として活躍） |url=http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2007/08/09/0200000000AKR20070809140900073.HTML |publisher=[[聯合ニュース]] |language=朝鮮語 |accessdate=2009年3月2日 |date=2007年8月9日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。この団体は、欧米各国で[[従軍慰安婦]]に関する日本政府への抗議デモや集会を700回以上行っている&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|title= &amp;quot;사과하라!&amp;quot; 베를린에 울려퍼진 '700회 수요집회' |url=http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000316972 |publisher=[[OhmyNews]] |accessdate=2009年3月2日 |date=2006年3月16日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。なおこの女性は小沢の秘書を務める傍ら東京大学の博士号を取得し、[[2008年]]5月に秘書を離職した後は大学院の教員に就任している。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.publicpolicy.law.tohoku.ac.jp/misc/brochure/brochure_2009.pdf 東北大学公共政策大学院 2009年度大学院案内] 2009年3月2日 閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:* 小沢は、韓国人の一部が領有権を主張し、韓国資本に土地が買収されている問題が発生している[[対馬]]について、前連合会長の[[笹森清]]に「どう思うか？」との質問をし、笹森が「私は対馬のことを心配している。ウォン経済に買い占められそうだ」と答えると、小沢は「今は絶好のチャンスだ。円高だから（韓国領の）[[済州島]]を買っちまえ」と[[山田正彦 (政治家)|山田正彦]][[衆議院議員]]の[[パーティー]]で行ったあいさつで語ったことが各報道機関によって伝えられた&amp;lt;ref&amp;gt;2009年3月11日 時事通信&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090313/stt0903130116000-n1.htm 波紋呼ぶ小沢氏の「済州島買っちまえ」発言][[産経新聞]][[2009年]][[3月13日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、小沢自身はこの発言の存在を否定している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090312/stt0903121344006-n1.htm 【小沢代表ぶら下がり詳報】「済州島買え？　そんなこと言ってない」１２日昼][[産経新聞]][[2009年]][[3月12日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; 米国、中国との国際交流&lt;br /&gt;
: 小沢は、日米、日中の交流が世界の平和と安定に不可欠と考えて、政治家としての公的な仕事とは別に自分のライフワークとして草の根レベルの国際交流活動を続けた。米国とは1990年に「ジョン万次郎の会」を立ち上げ、1992年に財団法人ジョン万次郎ホイットフールド記念国際草の根交流センターを設立した。2001年、日本に関心の高い[[シカゴ]]市の特定中学校の生徒を毎年20人程度日本に招待した。中国とは、1986年に第1回長城計画が中華全国青年連合会の協力を得て開催され、青年指導者、大学生を毎年数十名を招待した。国際交流活動は、実施団体とともに小沢事務所が担当したため、複数の外国人の大学院留学生が事務所で働いていた。&lt;br /&gt;
; ニコニコ動画&lt;br /&gt;
: [[2007年]]7月、[[第21回参議院議員通常選挙]]の直前に[[ニコニコ動画]]へ出演し、話題となった。その後も[[2008年]]11月や[[2009年]]元旦に「1万人ネット会見」を行った。また、2008年9月から公式動画コーナー「小沢一郎チャンネル」を開設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 発言 ==&lt;br /&gt;
* 「公約は膏薬（こうやく）。張り替えれば効き目がでる」（新進党時代の同僚議員への口癖）&lt;br /&gt;
* 「どの女と寝ようといいじゃないか」（1994年、野党連合政権時代に新会派設立への動きを例えて）&lt;br /&gt;
* 「記者会見はサービス」（1993年、記者団に）&lt;br /&gt;
* 「日本人は特殊な人種だ。（世界から）特殊学級扱いされている。ばかじゃないかと」（2003年 [[小泉純一郎]]首相の自民党総裁再選を批判して）&lt;br /&gt;
* 「安倍内閣は脳死状態」（2007年、参院選敗北後の安倍晋三内閣の求心力低下を皮肉り）&lt;br /&gt;
* 「給油法案は、国民にとって重要な法案ではない」（2008年、同法案の衆院再議決を欠席したことについて）&lt;br /&gt;
* 「日本がもたもたして在日韓国人の地方参政権を認めないのは遺憾だ」（2008年、韓国の李明博大統領との会談で）&lt;br /&gt;
* 「総理大臣になって首脳会談ということなら、多少体調が悪くても欠席することはない。私、野党だから。総理大臣じゃない。国務大臣でもない。勘違いしないでください」（2008年、インド・シン首相との会談をドタキャンしたことについて）&lt;br /&gt;
* 「おれはまったく米国のことは信用していない。日本の国益を守るために言うべきことは言わないといけない」（2009年2月14日都内の料理屋で国民新党の亀井静香代表代行らと会談において、クリントン米国務長官から会談を打診されていることに関して）&lt;br /&gt;
* 「私は、日米同盟がなによりも大事であるということをずーっと以前から、最初から唱えてきたひとりでありますと。」 （2009年2月17日クリントン国務長官との会談後のインタビューで）&lt;br /&gt;
* 「政治の細かいことを知る必要はない。自分たちの1票で政権を代えることができる。それだけを分かってもらえたらいい」（2008年10月19日 インターネットのテレビ番組にて）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081019/stt0810192254004-n1.htm 小沢氏、ネットで若者に政権交代アピール]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「僕は選挙担当だから。選挙以外のことは他の人に聞いてください。」（2009年05月30日TBS[[知っとこ!]]西松問題の説明責任を問われて）&lt;br /&gt;
* 「担ぐ神輿は軽くてパーなのが一番だ。」（但し、これは実際には側近平野貞夫の発言「担ぐ神輿は軽いほうがいい」を誇張して小沢の発言として伝えられたもの）&lt;br /&gt;
* 「自民党に投票したら投票に行かなかった人と同じで政治について文句を言う資格はない」&lt;br /&gt;
* 「これ以上何を謝ればいいんだ。」[[盧泰愚]]大統領訪日の際に。&lt;br /&gt;
* 「じゃあやり直したらいいじゃねえか、そんな事を言うんだったらやりなそうじゃないか。」[[宗教法人法]]改正問題で[[大久保直彦]]議員らに小沢の姿勢は弱腰と詰問され野次に対しての応酬で。&lt;br /&gt;
=== 拉致問題に関する発言 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月2日付産経新聞朝刊1面における「民主党解剖1」の記事中において、小沢が、2月上旬、都内で開かれた民主党議員と支持者による会合において「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と発言したことが報じられた。&lt;br /&gt;
この記事を受けて、救う会には、電話やメールで問合せが殺到し、救う会では、西岡力会長代行が「小沢民主党代表発言は事実なのか」と題するコメント&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sukuukai.jp/mailnews.php?itemid=1808] 小沢民主党代表発言は事実なのか（救う会全国協議会ニュース、2009.03.02）&amp;lt;/ref&amp;gt;を発表した。&lt;br /&gt;
これに対して民主党は、民主党幹事長代理から産経新聞社編集局長と政治部長宛に「記事は『事実無根の報道』」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sukuukai.jp/mailnews.php?itemid=1809] 記事は「事実無根の報道」と民主党が反論（救う会全国協議会ニュース、2009.03.03）&amp;lt;/ref&amp;gt;として記事の訂正と謝罪を求め、3月4日中に回答することを要請した。&lt;br /&gt;
この要請に対して、産経新聞政治部長は、3月4日、文書で民主党幹事長代理宛に「正当な取材の結果得られたもので、かつ裏づけもとれているもの」という旨を回答&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sukuukai.jp/mailnews.php?itemid=1810 記事は「正当な取材の結果」と産経新聞が回答] （救う会全国協議会ニュース、2009.03.05）&amp;lt;/ref&amp;gt;している。なお、小沢のこの発言については、産経新聞以外のメディアではほとんど取り上げられず、民主党も、救う会へ宛てたFAX以外では、反論も含めて一切触れていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 所属議員連盟 ==&lt;br /&gt;
* [[憲法調査推進議員連盟]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kenpoukaigi.gr.jp/tyousakai/20040414kenpougiren-kiyaku&amp;amp;meibo.pdf#search='憲法調査推進議員連盟 憲法調査推進議員連盟規約]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 民主党東北議員団連盟&lt;br /&gt;
* 民主党日英議員連盟&lt;br /&gt;
* [[北京オリンピックを支援する議員の会]]顧問など&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 選挙歴 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!当落!!選挙!!施行日!!選挙区!!政党!!得票数!!得票率!!&amp;lt;small&amp;gt;得票順位&amp;lt;br/&amp;gt;/候補者数&amp;lt;/small&amp;gt;!!比例区!!&amp;lt;small&amp;gt;比例順位&amp;lt;br/&amp;gt;/候補者数&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第32回衆議院議員総選挙]]||1969年12月27日||[[岩手県第2区 (中選挙区)|岩手県第2区]]||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''71,520'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''26.71'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/6|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第33回衆議院議員総選挙]]||1972年12月10日||岩手県第2区||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''60,675'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''19.18'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''2'''/8|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第34回衆議院議員総選挙]]||1976年12月5日||岩手県第2区||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''71,449'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''21.98'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/6|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第35回衆議院議員総選挙]]||1979年10月7日||岩手県第2区||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''70,183'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''21.52'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/7|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第36回衆議院議員総選挙]]||1980年6月22日||岩手県第2区||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''72,838'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''22.27'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/8|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第37回衆議院議員総選挙]]||1983年12月18日||岩手県第2区||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''63,212'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''18.87'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''4'''/6|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第38回衆議院議員総選挙]]||1986年7月6日||岩手県第2区||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''95,208'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''24.80'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/7|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第39回衆議院議員総選挙]]||1990年2月18日||岩手県第2区||自由民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''89,449'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''24.08'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/7|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第40回衆議院議員総選挙]]||1993年7月18日||岩手県第2区||新生党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''142,451'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''40.82'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/6|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第41回衆議院議員総選挙]]||1996年10月20日||[[岩手県第4区]]||新進党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''125,619'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''64.68'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/4|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第42回衆議院議員総選挙]]||2000年6月25日||岩手県第4区||自由党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''119,099'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''59.70'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/4|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第43回衆議院議員総選挙]]||2003年11月9日||岩手県第4区||民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''128,458'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''65.11'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/4|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第44回衆議院議員総選挙]]||2005年9月11日||岩手県第4区||民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''124,578'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''59.95'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/4|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|当||[[第45回衆議院議員総選挙]]||2009年8月30日||岩手県第4区||民主党||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''133,978'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''62.55'''||align=&amp;quot;right&amp;quot;|'''1'''/5|| - || -&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;11&amp;quot;|当選回数14回 （衆議院議員14）&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
=== 著作 ===&lt;br /&gt;
; 単著&lt;br /&gt;
* 『[[日本改造計画]]』（[[講談社]]、1993年5月、ISBN 4062064820）&lt;br /&gt;
* 『語る』（小林泰一郎構成、[[文藝春秋]]、1996年4月、ISBN 4163502106）&lt;br /&gt;
* 『男の行動美学』（[[プラネット出版]]、1999年9月、ISBN 4939110028）&lt;br /&gt;
* 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』（[[五百旗頭真]]・[[伊藤元重]]・[[薬師寺克行]]編、[[朝日新聞社]]、2006年6月、ISBN 4022501634）&lt;br /&gt;
* 『剛腕維新』（[[角川学芸出版]]、2006年8月、ISBN 4046210885）&lt;br /&gt;
* 『小沢主義（オザワイズム）―志を持て、日本人』（[[集英社]]、2006年9月、ISBN 4797671297）&lt;br /&gt;
; 共著&lt;br /&gt;
* 『日米関係を読む』（アジア調査会編、[[ジェームズ・ファローズ]]・[[松永信雄]]共著、プラネット出版、1990年11月、ISBN 4881913123）&lt;br /&gt;
* 『ジョン万次郎とその時代』（[[川澄哲夫]]編、[[廣済堂出版]]、2001年7月、ISBN 4331507963）&lt;br /&gt;
* 『政権交代のシナリオ―「新しい日本」をつくるために』（[[菅直人]]共著、[[PHP研究所]]、2003年11月、ISBN 4569631908）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関連文献 ===&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の「真実」―金丸、竹下を手玉にとる剛腕幹事長』（[[アイペック]]、1990年、ISBN 4870471000）&lt;br /&gt;
* 『平成名勝負物語—橋本龍太郎vs小沢一郎』（[[小林吉弥]]著、[[勁文社]]、1990年、ISBN 4766912497）&lt;br /&gt;
* 『劇画 橋本龍太郎VS小沢一郎—激闘譜』（[[さいとうたかを]]著、日本フローラルアート出版局、1991年、ISBN 4930831008）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の政治謀略―政界の裏の裏がわかる本』（菊池久著、[[山手書房新社]]、1991年、ISBN 4841300228 ）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎探検』（朝日新聞政治部編、[[朝日新聞社]]、1991年、ISBN 4022563435）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎・全人像』（小田甫著、[[行政問題研究所出版局]]、1992年、ISBN 4905786908）&lt;br /&gt;
* 『平成動乱 小沢一郎の野望』（[[板垣英憲]]著、[[DHC]]、1993年、ISBN 4887240023）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の秘密』（[[佐藤淳一]]著、[[データハウス]]、1993年、ISBN 4887181698）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎・日本改造計画の危険性』（[[本澤二郎]]著、[[エール出版社]]、1993年、ISBN 4753912345）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の逆襲―ベールに包まれた政界再編のシナリオを読む!』（[[竜崎孝]]著、サンドケー出版局、1993年、ISBN 491493809X）&lt;br /&gt;
* 『あの人 ひとつの小沢一郎論』（[[渡辺乾介]]著、[[飛鳥新社]]、1993年、ISBN 4870311291）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の腕力ポイント読み』（[[伊勢暁史]]著、[[明日香出版社]]、1994年、ISBN 4870307081）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎総理大臣待望論』（板垣英憲著、ジャパン・ミックス、1994年、ISBN 4883211541）&lt;br /&gt;
* 『どっこい小沢一郎は生きている 全発言で探る、この男の次の一手』（[[上之二郎]]著、[[ベストセラーズ]]、1994年、ISBN 4584191131）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎真実の叫び―これだけはいいたい 小沢は日本の未来に危惧を抱き、平和な国と社会のために改革を図る』（[[蒲生輝]]著、[[三心堂出版社]]、1994年、ISBN 4915620778）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎日本国崩壊をすくう』（蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620956）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎―覇者の履歴書』（[[奥野修司]]著、データハウス、1994年、ISBN 4887182457）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の日本vs.武村正義の日本―あなたはどちらの国に住みたいか この2人がわかれば日本の将来が見えてくる』（[[小板橋二郎]]著、[[こう書房]]、1994年、ISBN 4769605080）&lt;br /&gt;
* 『池田大作vs小沢一郎 どうなる日本どうなる両雄の展開』（[[後藤寿一]]著、[[銀河出版]]、1994年、ISBN 4906436412）&lt;br /&gt;
* 『「小沢一郎日本改造計画」への挑戦状! 20代議員の描くキラリと光る改造計画』（「新党20代議員の会」編著、[[マネジメント社]]、1994年、ISBN 4837803431）&lt;br /&gt;
* 『河野洋平と小沢一郎の大戦略―宿命のライバル』（[[本沢二郎]]著、[[総合法令]]、1994年、ISBN 4893463829）&lt;br /&gt;
* 『悪魔の使者小沢一郎―あの強腕を裏で操るのは何者か 日本改造なんてとんでもない』（[[ヤコブ・モルガン]]著・[[忍野昭太郎]]訳、[[第一企画出版]]、1994年、ISBN 4887190166）&lt;br /&gt;
* 『小沢ウオッチング』（[[立尾良二]]著、[[東京新聞]]出版局、1995年、ISBN 4808305216）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の時代』（板垣英憲著、[[同文書院]]、1996年、ISBN 4810380300）&lt;br /&gt;
* 『お笑い大蔵省極秘情報』（[[テリー伊藤]]著、飛鳥新社、1996年、ISBN 4-87031-293-X）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎―その「恐怖支配」の実態』（[[久慈力]]著、[[マルジュ社]]、1996年、ISBN 4896161017）&lt;br /&gt;
* 『政治が歪める公共事業―小沢一郎[[ゼネコン]]政治の構造』（久慈力・[[横田一]]著、[[緑風出版]]、1996年、ISBN 4846196143）&lt;br /&gt;
* 『盛岡大学疑惑を追及する―教育を食い物にする紳士たち』（久慈力著、[[新泉社]]、1997年、ISBN 4787797158）&lt;br /&gt;
* 『拝啓小沢一郎党首殿』（[[松沢成文]]著、[[ごま書房]]、1997年、ISBN 4341017748）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の行動美学』（三菟雅文著 プラネット出版社 1999年 ISBN 4939110028）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の大勝負 竜馬か!? 悪魔か!?』 （板垣英憲著、[[リヨン社]]、2003年、ISBN 4576031910）&lt;br /&gt;
* 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』（板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769）&lt;br /&gt;
* 『政党崩壊―永田町の失われた十年』（[[伊藤惇夫]]著、[[新潮社]]［[[新潮新書]]］、2003年、ISBN 4106100231）&lt;br /&gt;
* 『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体』（[[松田賢弥]]著、講談社、2003年、ISBN 4062117061）&lt;br /&gt;
* 『永田町「悪魔の辞典」』（伊藤惇夫著、文藝春秋、2004年、ISBN 4166603884 ）&lt;br /&gt;
* 『政治の数字―日本一腹が立つデータブック』（伊藤惇夫著、文藝春秋［[[文春新書]]］、2005年、ISBN 4106101173）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の政権奪取戦略』（[[大下英治]]著、[[河出書房新社]]、2005年3月、ISBN 4309243347）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』（大下英治著、[[幻冬舎]]、2006年8月、ISBN 4344408217）&lt;br /&gt;
* 『小沢一郎の真実』（[[平野貞夫]]著、講談社、 2006年9月、 ISBN 4066213557）&lt;br /&gt;
* 『「小沢一郎」入門―カリスマの原点 小沢一郎は何を考えているのか』（[[森田実]]著、[[三笠書房]]［知的生き方文庫］、 2006年10月、 ISBN 4837975887）&lt;br /&gt;
* 『政権交代―小沢一郎最後の戦い』（板垣秀憲著、 [[共栄書房]]、2007年7月、ISBN 4763410334）&lt;br /&gt;
* 『[[小沢民主党は信用できるか]]』（[[高市早苗]]編著、[[PHP研究所]]、2008年2月 ISBN 9784569697949）&lt;br /&gt;
雑誌関連文献抄&lt;br /&gt;
* 『[[月刊現代|現代]]』2004年2月号、小沢一郎・[[横路孝弘]]・伊藤達美「小沢一郎×横路孝弘―民主党の両極 安全保障論で合意する」&lt;br /&gt;
* 『[[週刊金曜日]]』2005年1月14日号、「本多勝一の憂刻ニッポン―小沢一郎（上）現行憲法の下で「無血革命」を目指す」[http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2005/ar20050308142225.html]&lt;br /&gt;
* 『[[AERA]]』2006年1月23日号、[[後藤正治]]「小沢一郎 思想政治家で終わるのか」&lt;br /&gt;
* 『[[世界 (雑誌)|世界]]』2007年11月号、小沢一郎「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[民主党国会議員一覧]]&lt;br /&gt;
* [[民主党の閣僚経験者一覧]]&lt;br /&gt;
* [[民主党の次の内閣一覧]]&lt;br /&gt;
* [[一新会]]&lt;br /&gt;
* [[金竹小]]&lt;br /&gt;
* [[一龍戦争]]&lt;br /&gt;
* [[ネオ・ニューリーダー]]&lt;br /&gt;
* [[ワン・ワン・ライス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.ozawa-ichiro.jp/ ■小沢一郎ウェブサイト■]（公式サイト）&lt;br /&gt;
* [http://www.mag2.com/m/0000033978.htm 小沢一郎メールマガジン]（公式メルマガ）&lt;br /&gt;
* [http://www.minshu-iwate.com/ 民主党岩手県連]&lt;br /&gt;
* [http://mainichi.jp/select/wadai/graph/ozawa/ 小沢一郎 写真特集 （小沢ショック-毎日jp）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-off}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[自治大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[古屋亨]]&lt;br /&gt;
| years  = 第34代 : 1985年 - 1986年&lt;br /&gt;
| after  = [[葉梨信行]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[国家公安委員会委員長]]&lt;br /&gt;
| before = [[古屋亨]]&lt;br /&gt;
| years  = 第44代 : 1985年 - 1986年&lt;br /&gt;
| after  = [[葉梨信行]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{s-ppo}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[民主党代表]]&lt;br /&gt;
| before = [[前原誠司]]&lt;br /&gt;
| years  = 第6代 : 2006年 - 2009年&lt;br /&gt;
| after  = [[鳩山由紀夫]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[民主党執行部|民主党代表代行]]&lt;br /&gt;
| before = [[中野寛成]]&amp;lt;br/&amp;gt;増員&lt;br /&gt;
| years  = 2003年 - 2004年&amp;lt;br/&amp;gt;2009年（筆頭）&lt;br /&gt;
| after  = [[藤井裕久]]&amp;lt;br/&amp;gt;減員&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[民主党執行部|民主党幹事長]]&lt;br /&gt;
| before = [[岡田克也]]&lt;br /&gt;
| years  = 第9代 : 2009年 -&lt;br /&gt;
| after  = 現職&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[自由党 (日本 1998-2003)|自由党党首]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代 : 1998年 - 2003年&lt;br /&gt;
| after  = [[民主党 (日本 1998-)|民主党]]へ合流&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[新進党|新進党党首]]&lt;br /&gt;
| before = [[海部俊樹]]&lt;br /&gt;
| years  = 第2代 : 1995年 - 1997年&lt;br /&gt;
| after  = 解散&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[新進党|新進党幹事長]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代 : 1994年 - 1995年&lt;br /&gt;
| after  = [[米沢隆]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[新生党|新生党代表幹事]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代 : 1993年 - 1994年&lt;br /&gt;
| after  = [[新進党]]へ&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box&lt;br /&gt;
| title  = [[自由民主党幹事長]]&lt;br /&gt;
| before = [[橋本龍太郎]]&lt;br /&gt;
| years  = 第26代 : 1989年 - 1991年&lt;br /&gt;
| after  = [[小渕恵三]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{総務大臣}}&lt;br /&gt;
{{国家公安委員会委員長}}&lt;br /&gt;
{{自民幹事長}}&lt;br /&gt;
{{竹下派七奉行}}&lt;br /&gt;
{{民主党}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:小沢一郎|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:岩手県の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:革命家]]&lt;br /&gt;
{{Lifetime|1942||おさわ いちろう}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.251.226.206</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:79.233.130.140&amp;diff=63435</id>
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				<updated>2009-11-20T15:54:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;192.251.226.206: /* 野田憲太郎の仕事 */ 野田による美化部分を除去&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{OTHERUSES|現実の野田憲太郎|その他の野田|野田}}&lt;br /&gt;
{{OTHERUSES|三重県四日市市の自称音楽家|その他|野田憲太郎 (曖昧さ回避)}}&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;background-color:#F9F9F9; border:1px solid #A00; margin: 0.5em auto&amp;quot; &lt;br /&gt;
|[[Image:Octagon-warning.svg|40px|無期限ブロック]] &lt;br /&gt;
|'''この犬畜生は[[ユアペディア]]及び[[ウィキペディア]]で無期限の投稿ブロックを受けています。'''{{#if: t|&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;[[wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro|Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro]]も参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;|経緯は[[Yourpedia:投稿ブロック依頼/{{{page|{{{1|{{PAGENAME}}}}}}}}]]をご覧ください。&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;[{{fullurl:Special:Log/block|page=User:{{PAGENAMEE}}}} この利用者の投稿ブロック記録]も参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;width: auto; margin: 0 auto 1em auto; padding: .2em; border: 1px solid #A00; background-color: #FFECF0;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|[[Image:Nuvola apps important.svg|50px|荒らしアカウント]]&lt;br /&gt;
|'''この犬畜生は[[{{PAGENAME}}|長期的な荒らし行為を行っているユーザー]]としてリストアップされています。'''この駄犬の関連する荒らし行為については、このページをご覧ください。この駄犬の[[ソックパペット]]であると疑われるユーザーに関しては、[[:Category:Noda,Kentaroの操り人形だと疑われるユーザー]]を参照してください。&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;また、この駄犬のソックパペットの投稿ブロック記録も併せて参照してください。&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
{{ActorActress&lt;br /&gt;
| 芸名 = 野田憲太郎&lt;br /&gt;
| ふりがな = のだ けんたろう&lt;br /&gt;
| 画像ファイル = Kentaro Noda.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =240px&lt;br /&gt;
| 画像コメント =↑キモいあほ面だねぇw&lt;br /&gt;
| 本名 = 同じ&lt;br /&gt;
| 別名 = '''ノダケン'''、野田犬、野駄犬、バター犬、[[夜のピアニスト]]&lt;br /&gt;
| 出生地 = {{JPN}}・[[三重県]][[四日市市]]&lt;br /&gt;
| 国籍 = 日本&lt;br /&gt;
| 民族 = 日本人&lt;br /&gt;
| 血液型 = &lt;br /&gt;
| 生年 = 1976&lt;br /&gt;
| 生月 = 2&lt;br /&gt;
| 生日 = 24&lt;br /&gt;
| 没年 = &lt;br /&gt;
| 没月 = &lt;br /&gt;
| 没日 = &lt;br /&gt;
| 職業 = '''自称'''音楽家&lt;br /&gt;
| ジャンル = &lt;br /&gt;
| 活動期間 = &lt;br /&gt;
| 活動内容 = [[荒らし]]&lt;br /&gt;
| 配偶者 = [[松葉裕子]]&lt;br /&gt;
| 家族 = [[オウム真理教]]&lt;br /&gt;
| 公式サイト = [http://musinoda.co.cc/ 公式サイト]&lt;br /&gt;
| 主な作品 = フルートとヴァイオリンの為の「最も大切なこと」、弦楽四重奏の為の「希望なき自由」、ピアノ、チェレスタ、グロッケンシュピール、クロタレスの為の「五つの精霊」、5人の歌手と14人の楽器奏者の為の「ツンデレラ」など&lt;br /&gt;
| 受賞 = '''自称'''国内外数回の作曲コンクールの入賞実績がある。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''野田 憲太郎'''（のだ けんたろう、[[1976年]][[2月24日]] - ）は[[三重県]][[四日市市]] 在住の[[インターネット]]上の[[バター犬]]。[[作曲家]]・[[演奏家]]・[[著作家]]を自称しているが、[[2007年]]11月現在で主要な著書やCDを発表してはいない。本人は、コンクールにおける入選歴の誇示など、音楽活動の成果をネット上で喧伝してはいるもの（ほとんどが参加賞のようなものである）の、音楽家としての一般的かつ社会的な知名度は限定的で、目下のところ大学講師としての任務に就いている様子はない。少なくとも[[2009年]]までは[[ピアニスト]]として活動を続けていたが、社会に認められるようなたいした実績はない。よって社会的には[[NEET]]（[[自宅警備員]]）と見るのが正しい。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
現在は、それ以前からのめりこんでいたインターネット上での活動にいっそうの力を入れており、とりわけ[[マミー石田]]を髣髴とさせる攻撃的な妄言により、[[荒らし]]として名高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
'''自称'''[[京都市立芸術大学]]音楽学部にてピアノを専攻後、'''自称'''[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワイオミング大学]]音楽学部や[[ノースフロリダ大学]]音楽学部に在学中にピアノ、作曲等を学んだ。'''自称'''[[ノースフロリダ大学]]在学中まで、学生による個展ボイコットなどのトラブルのために、目立った作品を発表していない。日本へ帰国後、'''自称'''[[若手作曲家の集い]]'''自称'''第一位を含むいくつかの作曲コンクールに'''自称'''入賞。ただしこれらの賞は、いわば「参加賞」のようなもので、ステイタスは無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、音楽家としての活動はほとんどしておらず、[[自宅警備員]]となっている。[[パラサイトシングル]]でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パーソナルデータ ==&lt;br /&gt;
*住所：〒510-0891　三重県四日市市日永西4-8-10&lt;br /&gt;
*電話番号：0593-47-0226&lt;br /&gt;
*父親：[[野田芳行]]（[[多田建設]]株式会社一級建築士事務所勤務）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 演奏 ==&lt;br /&gt;
'''自称'''[[ピアニスト]]としては国内外の無名や新作の初演を行うことが多い。演奏スタイルは、前衛的というよりも&amp;lt;S&amp;gt;狂人&amp;lt;/S&amp;gt;狂犬のそれに近く、とても聞くに堪えないものである。したがって演奏途中で気分が悪くなって退席する観客も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公開演奏の音源や画像をネット上に公開しているが、演奏者としての力量や作品の解釈については賛否両論に分かれており、とりわけ[[2ちゃんねる|痰壷]]においては厳しい評価が下されている。しかし、演奏会にやってくる観客がいることは確かであり、彼の前衛的なスタイルを好むファン層がいることも事実である（野田健太郎の仕事の項ではたくさんの観客の前で演奏を疲労している）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 野田憲太郎の仕事 ===&lt;br /&gt;
本人はピアニスト・作曲家・著述業を自称しているが、いずれも商業ベースに乗っている作品は皆無である。従って[[自宅警備員]]と見るのが正しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピアノ作品は、一部[[YouTube]]などでも聴く事ができるが、いずれも常人には聞くに堪え難いひどいものである。また神聖なる鍵盤を足で叩く姿も見受けられ、これは本人がピアニストではないことを物語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まっとうなピアニストであれば、絶対にピアノを足蹴にしたりはしないからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
個人差があるが、聴く人によっては吐き気を催すことがあるので、病弱な人は絶対に聴いてはならない。&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/watch?v=-LIw8ykSmGU 野田憲太郎の演奏1] ※途中で雄叫びを上げる。&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/watch?v=qyy3CRuMQnc 野田憲太郎の演奏2] ※ピアノの鍵盤を足で叩いている。&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/watch?v=VdohgnvTzOY 野田憲太郎の演奏3] ※ピアノ線をいじるという暴挙に出る。もちろん調律目的ではなく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ネット止めてピアノに専念した方がずーっと社会の為になりそうだねぇ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オウムのバター犬 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Noda Kentaro.jpg|thumb|いかにも粘着質って感じのお姿ですね。]]&lt;br /&gt;
野田は[[野田犬]]がオウム用語であると主張しているが、&lt;br /&gt;
[http://www.google.co.jp/search?hl=ja&amp;amp;q=%E9%87%8E%E7%94%B0%E7%8A%AC&amp;amp;btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&amp;amp;lr= これ]と[http://www.google.co.jp/search?hl=ja&amp;amp;q=%E9%87%8E%E9%A7%84%E7%8A%AC&amp;amp;btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&amp;amp;lr= これ]を見ると、オウム用語でない事が良く分かる。しかも、松葉の[[蛆虫]]と[[泡沫候補]]のカテを剥したのは、[[野駄犬]]である&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90&amp;amp;diff=37487&amp;amp;oldid=37314 その証拠]、しかも名誉毀損だって、カルト殺人鬼に名誉だって、おかしいぜ[[野駄犬]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、野田は[[童貞]]であるという説が有力であったが、松葉の（というかオウムの）バター犬であることが発覚。野田童貞説は間違いであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ野田がオウムを擁護するかというと、実は[[野田犬]]は&amp;lt;big&amp;gt;[[松葉裕子]]の[[バター犬]]であった&amp;lt;/big&amp;gt;!!毎日松葉に命じられて松葉の[[女性器|あそこ]]を嘗め回している。さらに驚くべく事実が発覚！！野田犬は[[麻原彰晃]]の[[イチモツ]]や[[尻穴]]を嘗め回していた。{{極小|おええぇぇぇきもっっ!!!!}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
野田は、ピアノを弾かずに[[セックス]]ばかりしているので、[[夜のピアニスト]]と評されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ネット上の言動について ==&lt;br /&gt;
{{infobox user&lt;br /&gt;
| ユーザー名 =Noda,Kentaro&lt;br /&gt;
| ふりがな =のだ、けんたろう&lt;br /&gt;
| 画像ファイル =&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像コメント =&lt;br /&gt;
| 本名 =野田憲太郎&lt;br /&gt;
| 別名 =ちゅちゅもえらーなど多数&lt;br /&gt;
| 初登録 =2004年3月19日（ウィキペディア日本語版）&lt;br /&gt;
| IP = 122.20.160.0/24, 124.99.92.0/23, 125.172.136.0/22, 222.148.148.0/23ほか。ISPはOCN（元ぷらら。過去にはDION（現・au one net）の使用も確認されている。&lt;br /&gt;
| トリップ =&lt;br /&gt;
| 活動期間 =2004年3月19日～&lt;br /&gt;
| 編集傾向 =自称「音楽家の野田憲太郎」。主として現代音楽関係の記事に現れ、独自研究に基づく評論や出典なき記述を繰り返し、そのことを批判されると感情的になり、他の利用者たちに攻撃・粘着を繰り返す（ウィキペディアより）。Yorpediaではウィキペディアの管理者や利用者に対する誹謗中傷記事を多数作成。また、自身に関係する記事にはページを置き換え即時削除のテンプレートを貼り付ける。&lt;br /&gt;
|ソックパペット=[[Wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro#ブロック済みアカウント]]など参照。&lt;br /&gt;
| 配偶者 =&lt;br /&gt;
| 家族 =&lt;br /&gt;
| 外部リンク =[[#外部リンク]]参照&lt;br /&gt;
| 備考 =[[Wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
インターネットに頻繁に出没しており、これまでに[[2ちゃんねる]]、[[mixi]]、[[ウィキペディア日本語版]]、[[ユアペディア]]、[[アンサイクロペディア]]、[[はてなダイアリー]]を主な土俵に選んでいる。少なくともネット上の素行を見る限りでは、一般社会常識はゼロに等しく、Wikipediaをはじめとする複数のコミュニティで永久追放処分を受けている。追放処分の緩やかなサイトでのみ、追放されたサイト管理者の誹謗・中傷を中心とする投稿活動を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[ウィキペディア日本語版の利用者]]として ===&lt;br /&gt;
ウィキペディア日本語版において野田が事実上の追放処分に付されたのには、二つの要因にさかのぼることを認識しなければならない。[[クラシック音楽]]関連（とりわけ[[現代音楽]]関連）の記事に関して、[[出典]]の明記をするよう他のユーザからたびたび指摘を受けていたが、それを頑なに拒否し続け、あまつさえ注意したユーザを要約欄や会話ページでおちょくったり、罵倒するようになったことがまず一点。次に、自分の気に入らないユーザや、自分が「素人」だと見縊った相手を、要約欄で[[罵詈雑言]]を立てて[[恫喝]]するようになったことが第二点である。この結果、[[2006年]]11月末に無期限投稿ブロックという顚末に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それ以来、ウィキペディア日本語版及びウィキペディア日本語版の管理者を憎んでいる。その無念を他人に知らせたかったのか、[[2ちゃんねる]]（[http://music8.2ch.net/test/read.cgi/contemporary/1165228479/ 野田憲太郎応援スレッド]）と[[mixi]]（[http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10353087&amp;amp;comm_id=5454&amp;amp;page=all ウィキペディア日本語版|ウィキペディア日本語版の恐怖政治体制] 閲覧にはmixiへの参加が必要。）でも同時期に不可解な絨毯爆撃を行い、ウィキペディア以外のコミュニティにも重大な迷惑をかけた。現在でもウィキペディア日本語版の諸利用者（管理者を含む）を敵視し、[http://d.hatena.ne.jp/Kasumoerer/ 自分のウェブサイト]や[[Yourpedia]]の本項目でこれらの利用者の中傷糾弾を続けているところを見ると、ウィキペディア日本語版には相当の思い入れがあると考えられる。事実、ウィキペディア日本語版では投稿ブロック以後も数々のサブアカウントを取得し編集投稿を続けているが、悉く発見され、これらの多くは投稿ブロックを受けた。この騒動で犬と推定され投稿ブロックを受けた利用者アカウントやIPの数は100を超える（[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/Noda%2CKentaro Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詳しくは[[:w:ja:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro|こちら]]と[[Wikitruth|日本語版Wikitruth]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼のピアノの演奏（と称するもの）を聴いたもののある者であれば、誰にでも解かることであるが、彼が音楽と称するものは、幼稚園児の落書きか、またはそれ以下である。ピアニストを'''目指す'''のであれば、まずは「猫踏んじゃった」を正しく弾くことを目指すべきであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィキペディアの項では、作曲家、演奏家、著作家と書かれているのに何ら書籍・アルバムの出版、客観的な表彰歴など、出典の不明確な記載が多くなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 状況 ====&lt;br /&gt;
[[画像:Zenkei1.jpg|thumb|300px|↑野田憲太郎の自宅]]&lt;br /&gt;
[[画像:Monpi.jpg|thumb|300px|↑野田憲太郎の自宅の入り口]]&lt;br /&gt;
明白に'''[[ウィキホリック]]'''であり、無期限ブロックを無視して多数の靴下人形を操り、何度でもウィキペディアへの参加を強行している。しかしながらウィキペディアのルールや、言論上のマナーを遵守しようという意思はまったく持ち合わせていない。そのため、ウィキペディア日本語版やその参加者に対して、自分の思い込みや憶測に基づき様々な流言蜚語と誹謗中傷の限りをネット上に並べ立てることにより、自己正当化が図れると確信し、なおかつ自分の恥ずべき言動に酔い痴れている。しかも、周囲からの顰蹙や失笑を買っていることにはお構いなしである。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私怨を基にした行動パターンが見出される。また、たいていの靴下人形が、野田の出没する領域と共通の分野やジャンルで投稿・加筆を行う上、「自分は野田さんの知り合いであり、その人柄や作品の優秀さは知り尽くしている」式の擁護を行い、あるいは野田が攻撃した他ユーザーを名指しでおちょくる……というように、統一された行動様式を見せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以前は日本語版ウィキペディアンの間では、音楽家の野田憲太郎とウィキペディアンのNoda,Kentaroが同一人物であるかは断言できないとする見解が優勢であったが、[[2007年]]7月下旬において野田が自分のHPで、「ウィキペディアの中国人・韓国人投稿者について日本語版Wikitruthに論文（を発表）」と自ら暴露したことにより、野田憲太郎 ＝ Noda,Kentaroであることは動かしがたい事実となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一連の幼稚な言動の執着において、病的な[[エゴイズム]]や[[人格障害]]（[[偏執病]]および[[自己愛性人格障害]]）の気味が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の[[音楽学]]会や作曲界について毒づいているが、以下の3点から、野田が学位請求論文の書き方についてまともな指導をろくに受けていないことや、しかるべき学術機関に論文を作成して受理された経験がほとんどないことは明らかである（少なくとも、「[http://www.google.co.jp/search?hl=ja&amp;amp;q=%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%86%B2%E5%A4%AA%E9%83%8E+%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%AD%A6&amp;amp;btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&amp;amp;lr= 野田憲太郎＋音楽学]」「[http://www.google.co.jp/search?hl=ja&amp;amp;q=%28Kentaro+Noda%29+%28+Acta+Musicologica%29&amp;amp;btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&amp;amp;lr= Kentaro Noda + Acta Musicologica]」などとネット検索で入力しても、論文関係の項目がヒットしない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[宇野功芳]]にも似た特異な（かつ著しく主観的な）言い回しを弄ぶが、それが[[百科事典]]や[[論文]]としての文体や品格にそぐわないという点については、何の自覚も反省もない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2ちゃんねる]]などで指摘されているように、日本語作文に問題があるだけでなく、英作文についても、[[品詞]]の用法や[[単語]]の選択ならびに[[シンタックス]]がおかしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Wikipedia]]界並びに[[Yourpedia]]界において最も注目されている人物の一人と言えるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代を先行しすぎて世に認められないのか、ただの[[キチガイ]]なのか、のちの歴史が証明するだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[かふしゐき]]の利用者として  ===&lt;br /&gt;
[[澤田亮太]]を憎むあまり、澤田に粘着して追放される。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable sortable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!利用者名&lt;br /&gt;
!活動内容&lt;br /&gt;
!投稿ブロックの有無&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[http://wiki.kahusi.org/利用者:Noda%2CKentaro 利用者:Noda,Kentaro]&lt;br /&gt;
|無断でリンクを貼った挙句、自ら{{IPUser2|125.172.137.254}}を晒して[http://wiki.kahusi.org/history/利用者:Noda%2CKentaro]、他の利用者から追及を受けている[http://wiki.kahusi.org/利用者-會話:Noda%2CKentaro]。&lt;br /&gt;
| 　 &lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[Yourpedia の利用者|Yourpediaの利用者]]として===&lt;br /&gt;
[[Wikipedia]]を中心とした、自分を追放したコミュニティを逆恨みし、管理者の誹謗・中傷を中心とした記述を行っている。その素行は「負け犬の遠吠え」と高く評価されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は[[ユアペディア]]で、[[串]]を使ってアクティブユーザーに対し[[オウム]]・[[松葉裕子]]・[[福井利器]]・[[太田尚志]]などと、勝手に決め付け因縁を付けまくったり、性犯罪者の記事に{{tl|sd}}を貼り付けるなどの荒らしを行ってる。そのくせに、オウムの批判記事を不正改竄している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、現在の[[ユアペティア]]における一番精力的な[[執筆者]]であり、最も貢献している人物である（いろんな意味で）。投稿本数が'''10,000本'''([[2009年]]11月1日)を超えたのも彼のおかげである。そのうち[[アンサイクロペティア]]を抜く勢いである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[Yourpedia]]におけるアカウント  ====&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable sortable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!利用者名&lt;br /&gt;
!活動内容&lt;br /&gt;
!投稿ブロックの有無&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{User2|Noda,Kentaro}}&lt;br /&gt;
|ウィキペディアの管理者や利用者に対する誹謗中傷記事を多数作成している。また、野田に関係する記事には即時削除のテンプレートを貼り付けている。&lt;br /&gt;
|width=&amp;quot;20%&amp;quot;|無期限&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{User2|Kasumoerer}}&lt;br /&gt;
|同上&lt;br /&gt;
|無期限&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{User2|Honihoni}}&lt;br /&gt;
|同上&lt;br /&gt;
|無期限&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{User2|Shockrockin}}&lt;br /&gt;
|ウィキペディアの利用者に対する支離滅裂な法的脅迫。[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=17675 「彼&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:smaller;&amp;quot;&amp;gt;（野田）&amp;lt;/span&amp;gt; のMixiのアドレスを晒して喜んでいるようだが、立派に個人情報保護法違反」]と、[[個人情報保護法]]における「個人情報」の定義への無知と無理解を露呈。&lt;br /&gt;
|無期限&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{User2|ちゅちゅもえらー}}&lt;br /&gt;
|[[オウム]]がYPを支配していると妄想。他のユーザーをオウムオウムと攻撃。&lt;br /&gt;
|無期限&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{User2|Comodo}}&lt;br /&gt;
|[[オウム]]がYPを支配していると妄想。他のユーザーをオウムオウムと攻撃。&lt;br /&gt;
|無期限&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{User2|FXST}}&lt;br /&gt;
|JawpのFXST氏への私怨と攻撃のために作ったアカウント。民事訴訟予定。&lt;br /&gt;
|まだ活動中&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 野田犬への中傷 ====&lt;br /&gt;
{{main|野田憲太郎 (偽者)}}&lt;br /&gt;
Yourpediaには野田に恨みを持つユーザーが複数おり、以下の中傷アカウントが作成されている。&lt;br /&gt;
*{{user2|野田憲太郎にマンコを嘗められ善がりまくる松葉裕子}}&lt;br /&gt;
*{{user2|野田憲太郎のネット上の言動について}}&lt;br /&gt;
*{{user2|野田憲太郎はオウム真理教が大好き}}&lt;br /&gt;
*{{user2|野田憲太郎は在日}}&lt;br /&gt;
*{{user2|野田憲太郎は松葉裕子とＳＥＸするのが生きがいのよるのピアニスト}}&lt;br /&gt;
*{{user2|野田憲太郎は松葉裕子のマンコを舐めるのが大好きなバター犬}}&lt;br /&gt;
*{{user2|松葉裕子にチンポをフェラチオされて喜ぶ野田憲太郎}}&lt;br /&gt;
*{{user2|松葉裕子は野田憲太郎と獣姦するのが生きがい}}&lt;br /&gt;
上記のアカウントが作成された以降は野田は姿を消したように見えたが、活動を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 参考 ====&lt;br /&gt;
*[[ウィキペディア日本語版の利用者]] ([[ノート:ウィキペディア日本語版の利用者]]・[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎のネット上の言動]]([[ノート:野田憲太郎のネット上の言動]]・[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%86%B2%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E4%B8%8A%E3%81%AE%E8%A8%80%E5%8B%95&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*[[木津尚子]] ([[ノート:木津尚子]]・[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B0%9A%E5%AD%90&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*[[経済準学士の素行]]([[ノート:経済準学士の素行]]・[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%BA%96%E5%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E7%B4%A0%E8%A1%8C&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎]]([[ノート:野田憲太郎]]・[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%86%B2%E5%A4%AA%E9%83%8E&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*[[小西規勝]]([[ノート:小西規勝]]・[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A6%8F%E5%8B%9D&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎の仕事]]([http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%86%B2%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎が使用しているプロバイダ]]([http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%86%B2%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%8C%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%80&amp;amp;action=history 履歴])&lt;br /&gt;
*なお、アカウント名の一部を全角に変えただけのユーザ名（'''Ｎ'''oda,Kentaro/Noda,'''Ｋ'''entaro etc.）も存在するが、全て第三者による別人によるイタズラと考えられる。&lt;br /&gt;
*{{User2|NK}}は&amp;quot;パスワードが破られたため本アカウントに移行した&amp;quot;と発言し、上記リストにも記載されていたが、同アカウントで野田を中傷するアカウント取得がみられており、別人によるなりすましの可能性が高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 野駄犬の編集傾向 ===&lt;br /&gt;
*自分のブログを始めとする外部のウェブサイトで悪口雑言を並べ陰謀論を喚き散らす等、一連の行動から共同作業に全く向かない利用者であることが窺える。&lt;br /&gt;
*自分の発言や文章を他人が批判し、改訂することを許さないが、他人の発言やミスについては、自分の気が済むまで執拗に追及し、あるいは罵倒するという[[ダブルスタンダード]]の持ち主。&lt;br /&gt;
*「アホか貴様」（[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%88&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=7682960]）「どあほ」（[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E7%8E%8B%E5%A6%83%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=7856889]）など、要約欄での暴言・恫喝・罵詈雑言。&lt;br /&gt;
*批判されると、「お前の日本語は機械翻訳で中国語や韓国語から即席に訳したものだ」あるいは「BOTによる自動応答だ」と決めつける&lt;br /&gt;
*自分の乏しい語彙や拙い表現力、でたらめなテニヲハ、ねじれた主-述関係を棚に上げて、他人については「日本語がおかしい」「日本語が読めない」といった類の攻撃をする。&lt;br /&gt;
*「管理ユーザー」「査読ユーザー」「攻撃ユーザー」など独特の造語（もしくは意味を自己流にねじ曲げた語）を多用する。「仮想アカウント」など既成の語を使う場合もあるが、独自の意味である。&lt;br /&gt;
*記事においても、公式の用語でなく、「前衛イディオム」「中華アカデミズム」のような造語（もしくは生硬な翻訳調）を用いる。また、「作曲様式」「演奏様式」といった用語を使わず、「スタイル」のような外来語や多義語を好む。&lt;br /&gt;
*独自概念や造語で項目名を立てる。&lt;br /&gt;
**自らの語学力や海外渡航歴を喧伝している割には、[[ドミトリ・コゥリャンスキ]]や[[フランチェス・マリエ・ウィッティ]]など、先行資料の表記やネイティブの発音を確認して項目名を立てているのかどうか、すこぶる怪しい例がある。&lt;br /&gt;
*論文の文体の何たるかを理解していない。そのため鄙語・俗語を交えたり、「スタイル」「レヴェル」などのように横文字をカタカナにしただけで済ませたり（あるいは補足説明なしに横文字をそのまま引用したり）、また、印象批評をそのまま表現したりする。&lt;br /&gt;
*第三者には理解不能な、意味不明な「美文調」を弄ぶ。[[ナルシシズム]]的な性格ゆえにか、自分の「立派な日本語」が通用しないことを読者の能力のせいだと責任転嫁する。&lt;br /&gt;
*自分が「専門家」であることをことさら誇大に訴え、それによりかかった暴論を繰り返す。「ど素人は、難しい現代音楽を専門的に理解できるはずないのだから、それに関する記事を起草・加筆・編集する資格はない。ど素人が専門家先生に楯突くのは生意気だ」といった発想が根底にある（同様の見解を[[菅野茂]]と共有している）。&lt;br /&gt;
*矛盾点等を深く突っ込まれると話を逸らすか、曖昧なほのめかしでお茶を濁し、自らの誤りを絶対に認めない。&lt;br /&gt;
*「～に報告しますからそのつもりで」（「～」の部分には何らかの公的機関や権威者などの名が入る）など、他者の権威を笠に着た発言や、人の褌で相撲を取る物言いも多い。&lt;br /&gt;
*自身が無数のソックパペットを操っているため、他人も同じことをしていると決めつける傾向が顕著である。自分を批判するユーザーを全てオウムの工作員だと主張するが、オウムの批判記事の不正改竄をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2ちゃんねる===&lt;br /&gt;
2ちゃんねるでは、'''[[野田犬]]'''の名で&amp;lt;s&amp;gt;蔑まれ&amp;lt;/s&amp;gt;親しまれ、&amp;lt;s&amp;gt;バカにされている&amp;lt;/s&amp;gt;尊敬されているようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 外道野駄犬の問題投稿 ==== &lt;br /&gt;
[[2004年]]10月、[[イラク]]で[[日本人]]青年バックパッカーが[[イスラム過激派]]組織によって拉致された際、[[インターネット]]巨大掲示板[[２ちゃんねる]]において、◆MG64yE6TCEの[[トリップ (2ちゃんねる)|トリップ]]つきで「首ﾁｮﾝﾊﾟマダー？！ ﾏﾁｸﾀﾋﾞﾚﾀ～！！」「ああ首切り画像が見たい」などの書き込みをおこない、非難を浴びた（[[イラク日本人青年殺害事件]]）。結局、同青年はイスラム過激派組織によって頸部を切断されて殺害されたが、この時の発言について野田は一度も謝罪していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 使用しているプロバイダ ===&lt;br /&gt;
使用しているプロバイダは[[OCN]]。アクセスポイントは、[[四日市]]元新町局である。同IPのアドレスレンジは下記である。&lt;br /&gt;
*{{IPUser2|122.20.160.0/24}}&lt;br /&gt;
*{{IPUser2|124.99.92.0/23}}&lt;br /&gt;
*{{IPUser2|125.172.136.0/22}}&lt;br /&gt;
*{{IPUser2|222.148.148.0/23}}&lt;br /&gt;
従って野田を追放するためには、上記全てを排除しなければ意味がない。&amp;lt;BR&amp;gt;&lt;br /&gt;
また、野田は[[公開プロクシ]]を使うことでも知られているので注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 加入プロバイダからの追放 ===&lt;br /&gt;
迷惑行為（コピペ絨毯爆撃による掲示板の可読性の破壊）の常習犯として、[[ぷらら]]から契約を解除された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ギャラリー ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Kentaro Noda.jpg|野田憲太郎の肖像画&lt;br /&gt;
画像:Noda Kentaro.jpg&lt;br /&gt;
画像:Zenkei1.jpg|自宅の全景&lt;br /&gt;
画像:Monpi.jpg|入り口&lt;br /&gt;
画像:Nodakentaro.jpg&lt;br /&gt;
画像:nodaken.jpg&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[夜のピアニスト]]&lt;br /&gt;
*[[Yourpedia:荒らし/Noda,Kentaro]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎 (野田憲太郎による妄想)]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎（アンサイクロペディアにおける議論）]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎（ウィキペディアにおける議論）]]&lt;br /&gt;
*[[野田憲太郎による偽装項目]]&lt;br /&gt;
*[[野田犬]]&lt;br /&gt;
*[[荒らし大王の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[自宅警備員]]&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアにおける荒らし]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://music8.2ch.net/test/read.cgi/contemporary/1165228479/l50 野田憲太郎応援スレッド]（2ちゃんねる）&lt;br /&gt;
*[http://musinoda.co.cc/ 公式サイト]　&lt;br /&gt;
*[http://www.wim-apeldoorn.nl/nBin/fsm.php?vwr=productiesel&amp;amp;prd=31&amp;amp;fid=6 www.wim-apeldoorn.nl]&lt;br /&gt;
*[http://jp.youtube.com/results?search_query=Kentaro+Noda&amp;amp;search_type=&amp;amp;aq=f YouTube野田憲太郎]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro|ウィキペディアでの活動]]&lt;br /&gt;
*[http://ansaikuropedia.org/index.php?title=Special%3ALog&amp;amp;type=delete&amp;amp;user=&amp;amp;page=%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%86%B2%E5%A4%AA%E9%83%8E&amp;amp;year=&amp;amp;month=-1 キチガイの削除記録]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:のた けんたろう}}&lt;br /&gt;
{{保護}}&lt;br /&gt;
{{ウィキペディア削除}}&lt;br /&gt;
{{ウィキペディア|Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Noda,Kentaro}}&lt;br /&gt;
[[Category:野田憲太郎|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:インターネットの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
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