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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C&amp;diff=5615</id>
		<title>源義経</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;166.70.207.2: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{anotheruse|河内源氏の武将|近江源氏の武将|山本義経}}&lt;br /&gt;
'''源 義経'''（みなもと の よしつね、'''源 義經'''、[[平治]]元年（[[1159年]]）- [[文治]]5年[[閏月|閏]]4月30日([[1189年]]6月15日）は、[[平安時代]]末期の[[河内源氏]]の[[武将]]。[[氏]]は[[源氏|源]]、[[仮名 (通称)|仮名（けみょう）]]が九郎、[[諱|実名（じつみょう）]]が義經（義経）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[河内源氏]]の棟梁である[[源義朝]]の九男として生まれ、[[幼名]]'''牛若丸'''（うしわかまる）と呼ばれた。[[平治の乱]]で[[平清盛]]と戦った父の敗北により[[鞍馬寺]]へと預けられるが、後に[[陸奥国|奥州]][[平泉]]へと下り[[奥州藤原氏]]の当主[[藤原秀衡]]の庇護を受ける。兄[[源頼朝|頼朝]]が[[平家]]打倒の兵を挙げる（[[治承寿永の乱]]）とそれに馳せ参じ、[[一ノ谷の戦い|一ノ谷]]、[[屋島の戦い|屋島]]、[[壇ノ浦の戦い|壇ノ浦]]の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せた為、頼朝と対立し[[朝敵]]とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主[[藤原泰衡]]に攻められ[[衣川館]]で自刃し果てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その最期は世上多くの人の同情を引き、'''判官贔屓'''（ほうがんびいき）という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武士/開始|源 義經}}&lt;br /&gt;
{{武士/時代|[[平安時代]]末期-[[鎌倉時代]]初期}}&lt;br /&gt;
{{武士/生誕|[[平治]]元年（[[1159年]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/死没|[[文治]]5年閏[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]（[[1189年]][[6月15日]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/改名|牛若、遮那王、義經、義行、義顕}}&lt;br /&gt;
{{武士/別名|九郎、判官、廷尉}}&lt;br /&gt;
{{武士/官位|[[左衛門尉]]、[[検非違使]]、従五位下、[[伊予国|伊予]]守}}&lt;br /&gt;
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[源義朝|義朝]]流（[[河内源氏]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/父母|[[源義朝|義朝]]、[[常盤御前]]}}&lt;br /&gt;
{{武士/兄弟|[[源義平|義平]]、[[源朝長|朝長]]、[[源頼朝|頼朝]]、[[源義門|義門]]、[[源希義|希義]]、[[源範頼|範頼]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[阿野全成|全成]]、[[義円]]、'''義経'''、一条能保の妻、&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;!--以下異父弟妹--&amp;gt;[[廊御方 (平家)|廊御方]]、[[一条能成|能成]]}}&lt;br /&gt;
{{武士/妻|正妻[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘（[[郷御前]]）、[[静御前]]、他}}&lt;br /&gt;
{{武士/子|正妻の娘&amp;lt;!-- 「亀鶴御前」は室町時代の伝承を編集して創作されたとされる「義経記」に登場する義経の子息の名前で義経の正妻は久我大臣の娘ですが、史実に近いとされる「吾妻鏡」には正妻は河越太郎重頼の娘であり、その息女と年齢、性別が一致せず「亀鶴御前」の名も記載されていない。 --&amp;gt;、[[源有綱]]の妻、静御前の息子}}&lt;br /&gt;
{{武士/終了}}&lt;br /&gt;
[[画像:Minamoto_Yoshitsune.jpg|thumb|200px|源義経（[[菊池容斎]]・画、明治時代）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
* 文中の（ ）の年は[[ユリウス暦]]、月日は全て[[和暦]]、[[宣明暦]]の長暦による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出生 ===&lt;br /&gt;
[[清和源氏]]の流れを汲む[[河内源氏]]の[[棟梁]]である[[源義朝]]の九男として生まれ、'''牛若丸'''（うしわかまる）と名付けられる。母[[常盤御前]]は九条院の[[雑仕]]であった。父が[[平治]]元年（[[1159年]]）の平治の乱で[[平清盛]]に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄[[阿野全成|今若]]、[[義円|乙若]]とともに[[大和国|大和]]（[[奈良県]]）の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知り清盛の元に出頭し、清盛の妾となることを条件に、牛若と二人の兄と母の助命の許しを得た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に常盤は[[公家]]で院近臣の[[一条長成]]に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時[[鞍馬寺]]（[[京都市]][[左京区]]）に預けられ、稚児名を'''遮那王'''と名乗った。そして、11歳（15歳説も）の時、自分の出生を知った。[[鞍馬山]]の牛若丸伝説（鞍馬山で、天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受ける。実際は平治の乱で敗れた時、治外法権の地でもあった寺院に逃げ、僧や僧兵として生き延びた源義朝の郎党たちであろう）は、この時の逸話がもとになって形成されたものである。牛若は16歳の時[[陸奥国|奥州]][[平泉]]の[[奥州藤原氏]]宗主、[[鎮守府将軍]][[藤原秀衡]]を頼って下った。秀衡の舅で政治顧問であった[[藤原基成]]は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高いと考えられている。その途で父義朝の最期の地でもある[[尾張国]]にて元服する（義経記による。平治物語では滋賀県竜王町で元服したとある）。儀式は[[熱田神宮]]にて行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代[[源経基|経基王]]の「経」の字を以って[[諱|実名（じつみょう）]]を'''義経'''とした。藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば牛若16才の時に、[[金売吉次]]という金商人の手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 治承寿永の乱 ===&lt;br /&gt;
[[画像:taimenseki.jpg|thumb|280px|黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が感激の対面をし平家追討を誓ったとされる対面石]]&lt;br /&gt;
[[治承]]4年（[[1180年]]）[[8月17日_(旧暦)|8月17日]]に兄[[源頼朝|頼朝]]が[[伊豆国|伊豆]]で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた[[佐藤継信]]、[[佐藤忠信]]兄弟等およそ80騎が同行した。義経は[[富士川の戦い]]で勝利した頼朝と[[黄瀬川]]の陣（[[静岡県]][[駿東郡]][[清水町_(静岡県)|清水町]]）で対面した。頼朝は、義経ともう一人の弟の[[源範頼|範頼]]に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の[[鎌倉]]に腰を据え東国の経営に専念することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平家]]（[[伊勢平氏]])を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。[[寿永]]元年（[[1182年]]）に範頼と義経は大軍を率いて[[近江国]]へ進出した。翌寿永2年（[[1183年]]）正月、範頼と義経は[[宇治川の戦い]]で義仲を破り、頼朝の代官として入京した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間に平家は西国で勢力を回復し、[[福原京|福原]]（[[兵庫県]][[神戸市]]）まで迫っていた。義経は、範頼とともに平家追討を命ぜられ、[[2月4日_(旧暦)|2月4日]]、義経は搦手軍を率いて[[播磨国]]へ迂回し、[[三草山の戦い]]で[[平資盛]]らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。[[2月7日_(旧暦)|2月7日]]、鎌倉軍は[[一ノ谷の戦い]]で平家軍に大勝する。『[[平家物語]]』などではこの戦いで義経は鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一ノ谷の平家の陣営を奇襲して源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『[[吾妻鏡]]』でも義経が精兵70騎で鵯越から一の谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一ノ谷の戦いの後の[[元暦]]元年（[[1184年]]）[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]によって[[左衛門尉|左衛門少尉]]と[[検非違使|検非違使少尉]]（[[判官]]）に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。これに激怒した頼朝は義経を平家追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて[[山陽道]]を進軍して[[九州]]へ渡り、平家を包囲する遠征に向かう。[[9月_(旧暦)|9月]]、義経は[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘（[[郷御前]]&amp;lt;!-- 出自不明 --&amp;gt;）を正室に迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年（[[1185年]]）2月、新たな軍を編成した義経は[[四国]][[讃岐国|讃岐]]の[[瀬戸内海]]沿いにある平家の拠点[[屋島]]を速攻で攻略（[[屋島の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である[[長門国]][[彦島]]に拠る平家の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、[[3月24日_(旧暦)|3月24日]]（西暦4月）の[[壇ノ浦の戦い]]で勝利して平家を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『平家物語』や『[[源平盛衰記]]』などの[[軍記物語]]では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後は頼朝の代官として[[平安京|京]]にある時は河内源氏重代の館であった'''堀川御所'''に住まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 頼朝との対立 ===&lt;br /&gt;
平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元暦2年（1185年）4月15日に頼朝は、内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、[[平安京|京]]での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を勤めた[[梶原景時]]から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた[[平宗盛]]父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越（現[[鎌倉市]]）[[満幅寺]]に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近[[大江広元]]に託した書状が有名な[[腰越状]]であり、その中で義経は次のように記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まる事は無かった。諸国を流浪し所々に身を隠し身分の低い者に仕えた。しかし機は熟し、平家一族の追討の為、上洛し[[木曽義仲]]を誅し、平氏を傾ける為、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも痛まなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるが為に他ならない。五位[[検非違使]]に補任された事に他意は無く、許されれば必ず一門と子孫を栄えさせる」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝が義経と対立した原因は、許可なく官位を受けたことのほか、[[軍監]]として義経の平氏追討に従っていた[[梶原景時]]と義経の間に合戦のやり方を巡って対立があり、景時が頼朝に義経の行動は軍規を乱すと主張したこと、そして平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されている。特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また腰越状に源義経と自署したことも、源氏姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りを募らせたという指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源氏姓を自身や一部の親族重臣にのみ公的に名乗ることを許す命令を出していた（御門葉）。しかし、これに義経はもちろん範頼も入っていなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は許可なく官位を受けた事を咎められ、東国への帰還禁止と領地を没収を命じられ、京に戻った。6月9日に頼朝が、義経に対し宗盛父子と[[平重衡]]を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と述べた。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく[[梶原景季]]を遣わし、かつて義仲に従った叔父[[源行家]]追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 謀叛 ===&lt;br /&gt;
10月、頼朝は義経討伐を決め、家人[[土佐坊昌俊]]を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った（堀川夜討）が、応戦する義経に行家が加わり、合戦は敗北に終わった。捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、同じく頼朝と対立していた叔父の[[源行家]]らとともに京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の[[院宣]]を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が[[駿河国]]黄瀬川に達すると、義経らは西国九州の[[菊池氏]]を頼って京を落ちた。義経一行の船団は[[摂津国]][[大物浦]]（[[尼崎市]]）から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕の為として、諸国への[[守護]]と[[地頭]]の設置を求め、入洛させた[[北条時政]]の交渉の末、設置を認めさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで義経は[[郎党]]や愛妾の[[白拍子]]の[[静御前]]を連れて[[吉野]]に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は[[藤原秀衡]]を頼り、義経追捕の網をかいくぐって奥州へ到り、[[平泉]]に身を寄せた。伝承は、[[北陸道]]を通り、[[東大寺]]再建のための勧進の一行に身をやつしての旅であったと伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
平泉の藤原秀衡は、義経の追討によって関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、[[文治]]3年（[[1187年]]）[[10月29日_(旧暦)|10月29日]]に没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ[[藤原泰衡]]に圧力をかけた。泰衡はこれに屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の[[藤原頼衡|頼衡]]（[[藤原忠衡|忠衡]]という説もある）を殺害した。そして文治5年（1189年）閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を[[藤原基成]]の[[衣川館]]（[[奥州市]][[衣川村|衣川区]]）に襲った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。[[享年]]で31であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の首は43日かけて、泰衡の弟・[[藤原高衡|高衡]]に護衛されて鎌倉に送られ、文治5年（1189年）[[6月13日_(旧暦)|6月13日]]、[[首実検]]が[[和田義盛]]と[[梶原景時]]らによって、腰越の浦で行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝承ではその後、首は[[藤沢]]に葬られ[[白旗神社]]に祀られたとされ、その際に使われたという首洗い井戸が残されている。また、[[栗原市]]栗駒沼倉の[[判官森]]に胴体が埋葬されたと伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Yoshitune_kubiarai_ido_1.jpg|伝義経首洗井戸&lt;br /&gt;
画像:hanganmori_0041.JPG|判官森源義経公墓所&lt;br /&gt;
画像:Shirahata_jinjya_1.jpg|白旗神社（藤沢）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父[[源為朝|為朝]]が鎮西八郎という[[仮名_(通称)|仮名（けみょう）]]であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[源義平]]、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として[[阿野全成]]（今若）、[[義円]]（乙若）がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として[[一条能成]]があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の正妻は[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘であるが、愛妾の[[白拍子]]、[[静御前]]が義経の夫人として非常に有名である。子は女児二人と男児一人があった。頼朝の挙兵前、奥州で数年を送っていた間に娶った妻から生まれた女子は、後に[[伊豆国|伊豆]]の[[源有綱]]（[[摂津源氏]]の[[源頼政]]の孫）に嫁いだ。静御前を母として生まれた男児は出産後間もなく鎌倉の由比が浦に遺棄された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 容貌 ==&lt;br /&gt;
義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した[[史料]]や、生前の義経自身を描いた確かな[[絵画]]は存在しない。ただ、身長に関しては[[大山祇神社]]に甲冑が奉納されているのでこれを元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の死後まもない時代にまとまったとされる『[[平家物語]]』では、義経の風貌に関して「色白で反っ歯の小男」と記されている。これは武士の容姿の表現としてはかなり悪意のあるものであり、平家物語の作者、あるいは当時一般の義経に対する評価は低かったと思われる。義経の印象を形成するのに大きな影響のあった『義経記』では風貌に関する記述は無かった。しかし、『[[平治物語]]』では、母親の常盤は絶世の美女とされており、容姿が重視されて源義朝の側室となった。一方、父親の義朝は苦みばしった美男子と伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には[[猿楽]]（現[[能]]）や[[歌舞伎]]の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 郎党その他 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yositsune.jpg|thumb|280px|right|[[三条駅_(京都府)|京阪三条駅]]に展示された源義経と[[武蔵坊弁慶]]の人形]]&lt;br /&gt;
* [[源有綱]]&lt;br /&gt;
* [[武蔵坊弁慶]]&lt;br /&gt;
* [[常陸坊海尊]]&lt;br /&gt;
* [[鎌田盛政]]&lt;br /&gt;
* [[鎌田光政]]&lt;br /&gt;
* [[佐藤継信]]&lt;br /&gt;
* [[佐藤忠信]]&lt;br /&gt;
* [[伊勢義盛]]&lt;br /&gt;
* [[鷲尾義久]]&lt;br /&gt;
* [[堀景光]]&lt;br /&gt;
* [[駿河次郎|駿河清重]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;all&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝説 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yoshitsune_with_benkei.jpg|thumb|230px|義経と弁慶、明治時代の浮世絵師・[[月岡芳年]]による版画]]&lt;br /&gt;
優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して'''判官贔屓'''（ほうがんびいき、判官（ほうがん）とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い）というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経伝説の中でも特に有名な[[武蔵坊弁慶]]との[[五条大橋|五条の大橋]]での出会い、[[陰陽師]][[鬼一法眼]]の娘と通じて伝家の兵書『[[六韜]]』『[[三略]]』を盗み出して学んだ話、[[衣川合戦]]での[[武蔵坊弁慶#弁慶の立ち往生|弁慶の立ち往生]]伝説などは、死後200年後の[[室町時代]]初期の頃に成立したといわれる『[[義経記]]』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「[[虎の巻]]」と呼ぶようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 不死伝説 ===&lt;br /&gt;
後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の[[御伽草子]]に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた[[北海道]]に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの[[蝦夷地]]（北海道）の[[アイヌ]]に対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義経＝ジンギス・カン説 ====&lt;br /&gt;
===== 概要 =====&lt;br /&gt;
北行伝説の中でも荒唐無稽にして最大のものが「義経＝ジンギス・カン説」である。この説は、義経が衣川で自刃したのが1189年であり、ジンギス・カン（[[チンギス・ハーン|チンギス・ハーン、チンギス・カン]]）の名が[[中国]]の[[歴史書]]に初めて登場するのが[[1200年]]頃であるという時間の関係に着目して、義経は北海道を経て大陸に渡り、[[モンゴル]]の諸部族を統一してチンギス・カンになったのだという。この主張の根拠は、モンゴルで使われていた紋章が源氏の旗印である笹竜胆に似ている、「源義経」の音読みであるゲンギケイがジンギスになまったのだ、などといったものである。紋章の話に対しては、笹竜胆は[[村上源氏]]のものであり、義経は[[清和源氏]]なので、笹竜胆は用いないという反論があり、信憑性はないとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、チンギス・カンに生年に関しては、現存資料での記述がおのおの異なっているため諸説あって厳密に確定しがたいだけで、家系は判明している。昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、[[中央ユーラシア]]の[[遊牧民]]は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、祖先からの遊牧貴族に属することを保障する家系伝承と、子飼いの牧民集団を持たない者が、徒手空拳で政治的指導者に納まることはきわめて困難であることが知られている。祖先の系譜については、『[[元朝秘史]]』に取材した[[井上靖]]の小説などの影響で、日本などではモンゴル部族の先祖として「ボルテ・チノ」との関係が強調される傾向にあるが、実際にモンゴル帝国やその後継政権おいて[[中央アジア]]・[[イラン]]や[[モンゴル]]本土でチンギス・カン家の先祖として重要視されていたのは、むしろその子孫で日月の精霊と交わってモンゴルの支配階層の諸部族の祖となったとされる'''アラン・コア'''とその息子'''ボドンチャル'''であった。また、チンギスの属すキヤト氏族は『元朝秘史』、モンゴル帝国の正史的な位置づけで編纂された『[[集史]]』などによるとチンギスの曾祖父カブル・カンに始まるが、『集史』の記述に従えばチンギスの出自はカブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男イェスゲイ・バアトルの長男とされている。アラン・コアからカブル・カンまでの系譜については資料によって異同が多いものの、上記以外でも『蒙古源流』、『五族譜』や『ムイッズ・アル＝アンサーブ』などの歴史書や系譜資料が13、14世紀以降に多く編纂されたが、どの資料も'''カブル・カン'''→'''バルタン・バアトル'''→'''[[イェスゲイ|イェスゲイ・バアトル]]'''→'''テムジン'''（[[チンギス・ハーン|チンギス・カン]]）という流れは共通して記録している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チンギス・カンに関する現存資料からは、源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため実証史学的に証明できない。またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、この説は中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、チンギス・カンのユーラシア大陸の攻め方、統一の仕方が日本の武士的戦略であることも注目されている{{要出典}}。また、源義経像がシベリア各地に存在していたことも注目された{{要出典}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 経緯 =====&lt;br /&gt;
この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、[[清]]の [[乾隆帝]]の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は[[清和天皇|清和]]から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布したり、[[12世紀]]に栄えた[[金_(王朝)|金]]の将軍に源義経というものがいたと記した偽書『金史別本』（偽作者は日本人）が珍本として喜ばれたりした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し[[女真|女真人]]（[[満州|満州人]]）になったという風説は、明治時代になると日本人が世界に名だたる征服者であって欲しいという願望から、義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]に入り、これを記した[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]] の著書『日本』を留学先の[[ロンドン]]で読んだ[[末松謙澄]]は卒業論文にまとめて発表、『義経再興記』として和訳出版される。[[大正]]に入り、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に学び[[牧師]]となっていた[[小谷部全一郎]]は、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って[[満州]]・[[モンゴル高原|モンゴル]]を旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、[[大正]]13年（[[1924年]]）に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小谷部の著書は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーになり、日本人の間に義経＝ジンギス・カン説を爆発的に広めることになった。同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版されたりしたが、この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が大陸へ進出していた当時の時代的な風潮に適合したことが指摘されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 近年の研究 ==&lt;br /&gt;
=== 菱沼一憲 ===&lt;br /&gt;
[[菱沼一憲]]（[[国立歴史民俗博物館]]科研協力員）は著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像―」（角川選書、2005年）で、源義経について以下の説を述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年（1184年）八月十七日条には、同年[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、[[8月3日_(旧暦)|8月3日]]、頼朝は義経に[[伊勢国|伊勢]]の[[平信兼]]追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉政権内部には、発足当初から「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。東国御家人は親京都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。このことが、親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者であった義経の失脚を招いたのである。&lt;br /&gt;
=== 佐藤進一 ===&lt;br /&gt;
また、[[佐藤進一]]は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。&lt;br /&gt;
===元木泰雄 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--==評価 ==&lt;br /&gt;
古来より「義経は戦術の天才児」という評価が流布してきた。平家が滅亡したのは大黒柱である棟梁[[平清盛]]の死去によるところも大きいが、清盛の死後にわずか4年で滅びたのは、義経の常に敵の裏を掻く戦術があってこそだった、とされることが多かった。そのため、戦功の華々しさやその節度ある行動からの多くの賞賛を受け、その悲劇的末路に対する人々の同情は義経を英雄視する多くの伝説と歴史的文学を現在に残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、平家軍に最大のダメージを与えたのは[[源義仲]]であった。義仲が、[[倶利伽羅峠の戦い]]で平家の主力部隊である10万の大軍の大半を壊滅させ、このために平家は京を放棄して少ない兵力で右往左往しなければならなかった（ただしその後の義仲と頼朝の争いの間に平家は戦力を回復し、一ノ谷の合戦時には6万から7万の戦力を保持していた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の平家追討戦において源氏軍の主力を率いたのも異母兄の範頼であり、義経はあくまで搦手の大将に過ぎなかったことには注意すべきである。義経が一ノ谷・屋島・壇ノ浦で行ったのは、比較的少ない兵力による[[奇襲]]戦である。よって、義経に大軍を指揮する能力があったかどうかを疑問視する意見もある。後に頼朝に対抗して挙兵を試みた時に、軍勢をよく統率しえなかった点をこの傍証とすることも出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、大軍を糾合するには戦場での指揮能力とは別に強力な政治権力・経済力が必要であることを考え合わせると、政治的に既に失敗を重ねていた段階の義経が大軍を動かせなかったことをもって、戦場での指揮能力を論じることは、戦略と戦術という複数の議論の審級を混同しているとも反論できるだろう。また、彼が戦場で少数の兵を率いて決定的な働きをしていた可能性は高く、「万能の軍事的天才」とまでは評価出来ないにせよ、遊撃戦の指揮官としては戦史上屈指の存在と考え得る。加えて、義経参戦後に平家追討戦で源氏軍の勢いが格段に増したことを考慮するならば、やはり軍人としての義経は相当に有能な存在であったと見るのが妥当である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、戦闘指揮官としてではなく政治家としての義経に対する評価は、一般にさほど高くない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（※2005年9月頃に主にとある投稿者によって書かれたもので、適当な文献や研究者の名もなく個人的な考察の可能性が高い。多少ならともかく、一節を設ける程の長さはいかがなものか。削除ないしコメントアウトしておくのが適当と考えます。なお、投降者は1年以上前に活動を停止しています。）--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
=== 史料 ===&lt;br /&gt;
* 『[[吾妻鏡]]』&lt;br /&gt;
* 『[[玉葉 (九条兼実の日記)|玉葉]]』 [[九条兼実]]日記&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古典 ===&lt;br /&gt;
* [[平治物語]]（[[軍記物語]]）作者不詳 成立 - 未詳&lt;br /&gt;
* [[平家物語]]（軍記物語）作者不詳 成立 - 未詳&lt;br /&gt;
* [[義経記]]（芸能軍記）作者不詳 成立 - 室町初期&lt;br /&gt;
* [[天狗の内裏]] 作者不詳（[[御伽草子]]）成立 - 室町初期&lt;br /&gt;
* [[壇ノ浦夜合戦記]]作者不詳 成立 - 江戸中期〜後期&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 能・歌舞伎・人形浄瑠璃 ===&lt;br /&gt;
* [[八島_(能)|八島]]（[[能]]）作者「[[世阿弥]]」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[船弁慶]]（能）作者「観世信光」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[安宅]]（能）作者「観世信光か?」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[義経千本桜]]（[[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]）作者「二代目[[竹田出雲]]・三好松洛・[[並木宗輔|並木千柳]]」成立 - 延享4年(1747)&lt;br /&gt;
* [[一谷嫩軍記]]（人形浄瑠璃・歌舞伎）作者「[[並木宗輔]]他」成立 - 宝暦元年(1751)&lt;br /&gt;
* [[勧進帳]]（歌舞伎）作者「並木五瓶（ごへい）」成立 - 天保11年(1840)&lt;br /&gt;
* [[常陸坊海尊]]（演劇脚本 作者 [[秋元松代]]）成立 - 昭和32年(1957)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ミュージカル ===&lt;br /&gt;
* [[わらび座]]『[http://www.warabi.jp/yoshitune/ 義経]』(作:齋藤雅文、演出:井上思、音楽:甲斐正人、作詞:竜真知子・齋藤雅文)&lt;br /&gt;
* [[宝塚歌劇団]]『[[この恋は雲の涯まで]]』（作：[[植田紳爾]]）、『花のもとにて春-ある日の牛若丸-』(作:[[大関弘政]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* 『源義経』 [[村上元三]]&lt;br /&gt;
* 『[[義経_(小説)|義経]]』 [[司馬遼太郎]]&lt;br /&gt;
* 『成吉思汗の秘密』 [[高木彬光]]&lt;br /&gt;
* 『義経幻殺録』 [[井沢元彦]]&lt;br /&gt;
* 『[[君の名残を]]』 [[浅倉卓弥]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画 ===&lt;br /&gt;
* 『秘本義経記 [[ますらお]]』 [[北崎拓]]&lt;br /&gt;
* 『[[火の鳥_(漫画)|火の鳥]] 乱世編』 1978年、[[手塚治虫]]&lt;br /&gt;
* 『安東 ANTON』 [[安彦良和]]&lt;br /&gt;
* 『[[遮那王 義経]]』 [[沢田ひろふみ]]&lt;br /&gt;
* 『[[修羅の刻]]』 7巻～10巻 [[川原正敏]]&lt;br /&gt;
* 『妖狐伝 義経千本桜』 [[堤抄子]]&lt;br /&gt;
* 『リョウ』 [[上田倫子]]&lt;br /&gt;
* 『[[源平伝NEO]]』 [[あかほりさとる]] 別天荒人&lt;br /&gt;
* 『義経ちゃん剣風帖』 [[小野寺浩二]]&lt;br /&gt;
* 『源氏』 [[高河ゆん]]&lt;br /&gt;
* 『遮那王』 [[沢田ひろふみ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== TVドラマ ===&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(NHK大河ドラマ)|源義経]]』（1966年NHK[[大河ドラマ]] 源義経：[[尾上菊五郎_(7代目)|尾上菊五郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[新・平家物語_(NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』（1972年NHK大河ドラマ 源義経：[[志垣太郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[草燃える]]』（1979年NHK大河ドラマ 源義経：[[国広富之]]）&lt;br /&gt;
* 『[[武蔵坊弁慶_(テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]]』（1986年NHK新大型時代劇 源義経：[[川野太郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(テレビドラマ_1990年)|源義経]]』（1990年TBS 源義経：[[東山紀之]]）&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(テレビドラマ_1991年)|源義経]]』（1991年日本テレビ 源義経：[[野村宏伸]]）&lt;br /&gt;
* 『[[炎立つ_(NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』（1993年7月～1994年3月NHK大河ドラマ 源義経：野村宏伸）&lt;br /&gt;
* 『[[義経_(NHK大河ドラマ)|義経]]』（2005年NHK大河ドラマ 源義経：[[滝沢秀明]] 幼少期、牛若役：[[神木隆之介]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* 『[[虎の尾を踏む男達]]』（1952年 監督：[[黒澤明]]、源義経：仁科周芳（十代目[[岩井半四郎]]））&lt;br /&gt;
* 『源義経』（1955年 監督： [[萩原遼]]）&lt;br /&gt;
* 『源九郎義経』（1962年 監督： [[松田定次]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GOJOE・五条霊戦記]]』（2000年 監督：[[石井聡互]] 遮那王：[[浅野忠信]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゲーム ===&lt;br /&gt;
* 『[[源平討魔伝]]』（[[ナムコ]] [[アーケードゲーム|アーケード版]]からいろいろ 1986年 義経：声:音声合成）&lt;br /&gt;
* 『[[義経紀]]』（[[バンプレスト]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源九郎義経（源義経）：声: [[田中敦子_(声優)|田中敦子]]）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝]]』（[[フロム・ソフトウェア]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源義経：声：）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝修羅]]』（[[フロム・ソフトウェア]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 牛若丸：声：[[阪口大助]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GENJI]]』（[[SCEI]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源九郎義経（源義経）：声: [[浪川大輔]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GENJI-神威奏乱-]]』（[[SCEI]] [[プレイステーション3|PS3]] 2006年）&lt;br /&gt;
* 『[[NAMCO x CAPCOM]]』（[[ナムコ]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源義経：声:[[千葉一伸]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3]]』（[[コーエー]] [[プレイステーション2|PS2]] 2004年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3十六夜記]]』（2005年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3運命の迷宮（ラビリンス）]]』（2006年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝]]』（[[ウェルメイド]] [[プレイステーション2|PS2]] 2003年 源九羅香（義経）：[[声優|声]]: [[山本麻里安]]）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝・弐～刻を越える契り～]]』（[[ウェルメイド]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年）&lt;br /&gt;
* 『[[星の王女～宇宙意識に目覚めた義経～]]』（[[美蕾]] [[Windows XP]] 2007年 源九朗義経：[[声優|声]]: [[柿野聖]]（本名不明）　遮那王：[[声優|声]]: プログレス（[[千葉進歩]]））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史ゲーム ===&lt;br /&gt;
* [[ゲームジャーナル]]第21号 『日本の戦い』、[[シミュレーションジャーナル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 ===&lt;br /&gt;
* 『[[牛若丸 (童謡)|牛若丸]]』（[[文部省唱歌]]）&lt;br /&gt;
* 『組曲「義経」』（2004年 [[陰陽座]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 銅像 ===&lt;br /&gt;
* [[静岡県]][[伊豆市]]（旧[[田方郡]][[修善寺町]]）[[鹿山公園]]の源義経像&lt;br /&gt;
* [[山口県]][[下関市]]、[[みもすそ川公園]]の源義経像&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[判官]]&lt;br /&gt;
* [[判官贔屓]]&lt;br /&gt;
* [[源頼朝]]&lt;br /&gt;
* [[清和源氏]]&lt;br /&gt;
* [[河内源氏]]&lt;br /&gt;
* [[治承・寿永の乱]]&lt;br /&gt;
* [[磨墨塚]]&lt;br /&gt;
* [[幸主名馬尊]]&lt;br /&gt;
* [[白旗神社#白旗神社（神奈川県藤沢市）|白旗神社 (藤沢市)]]&lt;br /&gt;
* [[源氏まつり]]&lt;br /&gt;
* [[平安時代の人物一覧]] - [[鎌倉時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄7100形蒸気機関車]] - 名前が愛称として付された&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』角川選書、2005、ISBN 404703374X&lt;br /&gt;
* [[角川源義]]氏 高田実氏『源義経』角川新書 1966&lt;br /&gt;
* 高橋富雄氏 『義経伝説 歴史の虚実』 中公新書 1966&lt;br /&gt;
* 五味文彦氏『源義経』岩波新書 2004&lt;br /&gt;
* 『書物の王国20　義経』[[国書刊行会]]ISBN 4336040206&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html 吾妻鏡]&lt;br /&gt;
* [http://www.j-texts.com/sheet/seisuik.html 源平盛衰記]&lt;br /&gt;
* [http://www.j-texts.com/sheet/kgikei.html 義経記]&lt;br /&gt;
* [http://www.bashouan.com/jtYoshitune.htm 源義経物語]&lt;br /&gt;
* [http://www.inarijinja.org/ 斗瑩稲荷神社]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|源義経}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の武士|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:源氏|よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:1159年生|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:1189年没|みなもとの よしつね]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>166.70.207.2</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C&amp;diff=5614</id>
		<title>源義経</title>
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				<updated>2007-05-30T04:08:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;166.70.207.2: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=源義経&amp;amp;oldid=12811994&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{anotheruse|河内源氏の武将|近江源氏の武将|山本義経}}&lt;br /&gt;
'''源 義経'''（みなもと の よしつね、'''源 義經'''、[[平治]]元年（[[1159年]]）- [[文治]]5年[[閏月|閏]]4月30日([[1189年]]6月15日）は、[[平安時代]]末期の[[河内源氏]]の[[武将]]。[[氏]]は[[源氏|源]]、[[仮名 (通称)|仮名（けみょう）]]が九郎、[[諱|実名（じつみょう）]]が義經（義経）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[河内源氏]]の棟梁である[[源義朝]]の九男として生まれ、[[幼名]]'''牛若丸'''（うしわかまる）と呼ばれた。[[平治の乱]]で[[平清盛]]と戦った父の敗北により[[鞍馬寺]]へと預けられるが、後に[[陸奥国|奥州]][[平泉]]へと下り[[奥州藤原氏]]の当主[[藤原秀衡]]の庇護を受ける。兄[[源頼朝|頼朝]]が[[平家]]打倒の兵を挙げる（[[治承寿永の乱]]）とそれに馳せ参じ、[[一ノ谷の戦い|一ノ谷]]、[[屋島の戦い|屋島]]、[[壇ノ浦の戦い|壇ノ浦]]の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せた為、頼朝と対立し[[朝敵]]とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主[[藤原泰衡]]に攻められ[[衣川館]]で自刃し果てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その最期は世上多くの人の同情を引き、'''判官贔屓'''（ほうがんびいき）という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武士/開始|源 義經}}&lt;br /&gt;
{{武士/時代|[[平安時代]]末期-[[鎌倉時代]]初期}}&lt;br /&gt;
{{武士/生誕|[[平治]]元年（[[1159年]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/死没|[[文治]]5年閏[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]（[[1189年]][[6月15日]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/改名|牛若、遮那王、義經、義行、義顕}}&lt;br /&gt;
{{武士/別名|九郎、判官、廷尉}}&lt;br /&gt;
{{武士/官位|[[左衛門尉]]、[[検非違使]]、従五位下、[[伊予国|伊予]]守}}&lt;br /&gt;
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[源義朝|義朝]]流（[[河内源氏]]）}}&lt;br /&gt;
{{武士/父母|[[源義朝|義朝]]、[[常盤御前]]}}&lt;br /&gt;
{{武士/兄弟|[[源義平|義平]]、[[源朝長|朝長]]、[[源頼朝|頼朝]]、[[源義門|義門]]、[[源希義|希義]]、[[源範頼|範頼]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[阿野全成|全成]]、[[義円]]、'''義経'''、一条能保の妻、&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;!--以下異父弟妹--&amp;gt;[[廊御方 (平家)|廊御方]]、[[一条能成|能成]]}}&lt;br /&gt;
{{武士/妻|正妻[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘（[[郷御前]]）、[[静御前]]、他}}&lt;br /&gt;
{{武士/子|正妻の娘&amp;lt;!-- 「亀鶴御前」は室町時代の伝承を編集して創作されたとされる「義経記」に登場する義経の子息の名前で義経の正妻は久我大臣の娘ですが、史実に近いとされる「吾妻鏡」には正妻は河越太郎重頼の娘であり、その息女と年齢、性別が一致せず「亀鶴御前」の名も記載されていない。 --&amp;gt;、[[源有綱]]の妻、静御前の息子}}&lt;br /&gt;
{{武士/終了}}&lt;br /&gt;
[[画像:Minamoto_Yoshitsune.jpg|thumb|200px|源義経（[[菊池容斎]]・画、明治時代）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
* 文中の（ ）の年は[[ユリウス暦]]、月日は全て[[和暦]]、[[宣明暦]]の長暦による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出生 ===&lt;br /&gt;
[[清和源氏]]の流れを汲む[[河内源氏]]の[[棟梁]]である[[源義朝]]の九男として生まれ、'''牛若丸'''（うしわかまる）と名付けられる。母[[常盤御前]]は九条院の[[雑仕]]であった。父が[[平治]]元年（[[1159年]]）の平治の乱で[[平清盛]]に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄[[阿野全成|今若]]、[[義円|乙若]]とともに[[大和国|大和]]（[[奈良県]]）の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知り清盛の元に出頭し、清盛の妾となることを条件に、牛若と二人の兄と母の助命の許しを得た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に常盤は[[公家]]で院近臣の[[一条長成]]に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時[[鞍馬寺]]（[[京都市]][[左京区]]）に預けられ、稚児名を'''遮那王'''と名乗った。そして、11歳（15歳説も）の時、自分の出生を知った。[[鞍馬山]]の牛若丸伝説（鞍馬山で、天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受ける。実際は平治の乱で敗れた時、治外法権の地でもあった寺院に逃げ、僧や僧兵として生き延びた源義朝の郎党たちであろう）は、この時の逸話がもとになって形成されたものである。牛若は16歳の時[[陸奥国|奥州]][[平泉]]の[[奥州藤原氏]]宗主、[[鎮守府将軍]][[藤原秀衡]]を頼って下った。秀衡の舅で政治顧問であった[[藤原基成]]は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高いと考えられている。その途で父義朝の最期の地でもある[[尾張国]]にて元服する（義経記による。平治物語では滋賀県竜王町で元服したとある）。儀式は[[熱田神宮]]にて行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代[[源経基|経基王]]の「経」の字を以って[[諱|実名（じつみょう）]]を'''義経'''とした。藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば牛若16才の時に、[[金売吉次]]という金商人の手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 治承寿永の乱 ===&lt;br /&gt;
[[画像:taimenseki.jpg|thumb|280px|黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が感激の対面をし平家追討を誓ったとされる対面石]]&lt;br /&gt;
[[治承]]4年（[[1180年]]）[[8月17日_(旧暦)|8月17日]]に兄[[源頼朝|頼朝]]が[[伊豆国|伊豆]]で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた[[佐藤継信]]、[[佐藤忠信]]兄弟等およそ80騎が同行した。義経は[[富士川の戦い]]で勝利した頼朝と[[黄瀬川]]の陣（[[静岡県]][[駿東郡]][[清水町_(静岡県)|清水町]]）で対面した。頼朝は、義経ともう一人の弟の[[源範頼|範頼]]に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の[[鎌倉]]に腰を据え東国の経営に専念することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平家]]（[[伊勢平氏]])を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。[[寿永]]元年（[[1182年]]）に範頼と義経は大軍を率いて[[近江国]]へ進出した。翌寿永2年（[[1183年]]）正月、範頼と義経は[[宇治川の戦い]]で義仲を破り、頼朝の代官として入京した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間に平家は西国で勢力を回復し、[[福原京|福原]]（[[兵庫県]][[神戸市]]）まで迫っていた。義経は、範頼とともに平家追討を命ぜられ、[[2月4日_(旧暦)|2月4日]]、義経は搦手軍を率いて[[播磨国]]へ迂回し、[[三草山の戦い]]で[[平資盛]]らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。[[2月7日_(旧暦)|2月7日]]、鎌倉軍は[[一ノ谷の戦い]]で平家軍に大勝する。『[[平家物語]]』などではこの戦いで義経は鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一ノ谷の平家の陣営を奇襲して源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『[[吾妻鏡]]』でも義経が精兵70騎で鵯越から一の谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一ノ谷の戦いの後の[[元暦]]元年（[[1184年]]）[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]によって[[左衛門尉|左衛門少尉]]と[[検非違使|検非違使少尉]]（[[判官]]）に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。これに激怒した頼朝は義経を平家追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて[[山陽道]]を進軍して[[九州]]へ渡り、平家を包囲する遠征に向かう。[[9月_(旧暦)|9月]]、義経は[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘（[[郷御前]]&amp;lt;!-- 出自不明 --&amp;gt;）を正室に迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年（[[1185年]]）2月、新たな軍を編成した義経は[[四国]][[讃岐国|讃岐]]の[[瀬戸内海]]沿いにある平家の拠点[[屋島]]を速攻で攻略（[[屋島の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である[[長門国]][[彦島]]に拠る平家の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、[[3月24日_(旧暦)|3月24日]]（西暦4月）の[[壇ノ浦の戦い]]で勝利して平家を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『平家物語』や『[[源平盛衰記]]』などの[[軍記物語]]では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後は頼朝の代官として[[平安京|京]]にある時は河内源氏重代の館であった'''堀川御所'''に住まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 頼朝との対立 ===&lt;br /&gt;
平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元暦2年（1185年）4月15日に頼朝は、内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、[[平安京|京]]での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を勤めた[[梶原景時]]から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた[[平宗盛]]父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越（現[[鎌倉市]]）[[満幅寺]]に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近[[大江広元]]に託した書状が有名な[[腰越状]]であり、その中で義経は次のように記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まる事は無かった。諸国を流浪し所々に身を隠し身分の低い者に仕えた。しかし機は熟し、平家一族の追討の為、上洛し[[木曽義仲]]を誅し、平氏を傾ける為、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも痛まなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるが為に他ならない。五位[[検非違使]]に補任された事に他意は無く、許されれば必ず一門と子孫を栄えさせる」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝が義経と対立した原因は、許可なく官位を受けたことのほか、[[軍監]]として義経の平氏追討に従っていた[[梶原景時]]と義経の間に合戦のやり方を巡って対立があり、景時が頼朝に義経の行動は軍規を乱すと主張したこと、そして平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されている。特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また腰越状に源義経と自署したことも、源氏姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りを募らせたという指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源氏姓を自身や一部の親族重臣にのみ公的に名乗ることを許す命令を出していた（御門葉）。しかし、これに義経はもちろん範頼も入っていなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は許可なく官位を受けた事を咎められ、東国への帰還禁止と領地を没収を命じられ、京に戻った。6月9日に頼朝が、義経に対し宗盛父子と[[平重衡]]を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と述べた。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく[[梶原景季]]を遣わし、かつて義仲に従った叔父[[源行家]]追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 謀叛 ===&lt;br /&gt;
10月、頼朝は義経討伐を決め、家人[[土佐坊昌俊]]を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った（堀川夜討）が、応戦する義経に行家が加わり、合戦は敗北に終わった。捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、同じく頼朝と対立していた叔父の[[源行家]]らとともに京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の[[院宣]]を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が[[駿河国]]黄瀬川に達すると、義経らは西国九州の[[菊池氏]]を頼って京を落ちた。義経一行の船団は[[摂津国]][[大物浦]]（[[尼崎市]]）から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕の為として、諸国への[[守護]]と[[地頭]]の設置を求め、入洛させた[[北条時政]]の交渉の末、設置を認めさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで義経は[[郎党]]や愛妾の[[白拍子]]の[[静御前]]を連れて[[吉野]]に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は[[藤原秀衡]]を頼り、義経追捕の網をかいくぐって奥州へ到り、[[平泉]]に身を寄せた。伝承は、[[北陸道]]を通り、[[東大寺]]再建のための勧進の一行に身をやつしての旅であったと伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
平泉の藤原秀衡は、義経の追討によって関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、[[文治]]3年（[[1187年]]）[[10月29日_(旧暦)|10月29日]]に没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ[[藤原泰衡]]に圧力をかけた。泰衡はこれに屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の[[藤原頼衡|頼衡]]（[[藤原忠衡|忠衡]]という説もある）を殺害した。そして文治5年（1189年）閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を[[藤原基成]]の[[衣川館]]（[[奥州市]][[衣川村|衣川区]]）に襲った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。[[享年]]で31であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の首は43日かけて、泰衡の弟・[[藤原高衡|高衡]]に護衛されて鎌倉に送られ、文治5年（1189年）[[6月13日_(旧暦)|6月13日]]、[[首実検]]が[[和田義盛]]と[[梶原景時]]らによって、腰越の浦で行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝承ではその後、首は[[藤沢]]に葬られ[[白旗神社]]に祀られたとされ、その際に使われたという首洗い井戸が残されている。また、[[栗原市]]栗駒沼倉の[[判官森]]に胴体が埋葬されたと伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Yoshitune_kubiarai_ido_1.jpg|伝義経首洗井戸&lt;br /&gt;
画像:hanganmori_0041.JPG|判官森源義経公墓所&lt;br /&gt;
画像:Shirahata_jinjya_1.jpg|白旗神社（藤沢）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父[[源為朝|為朝]]が鎮西八郎という[[仮名_(通称)|仮名（けみょう）]]であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[源義平]]、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として[[阿野全成]]（今若）、[[義円]]（乙若）がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として[[一条能成]]があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の正妻は[[河越重頼|河越太郎重頼]]の娘であるが、愛妾の[[白拍子]]、[[静御前]]が義経の夫人として非常に有名である。子は女児二人と男児一人があった。頼朝の挙兵前、奥州で数年を送っていた間に娶った妻から生まれた女子は、後に[[伊豆国|伊豆]]の[[源有綱]]（[[摂津源氏]]の[[源頼政]]の孫）に嫁いだ。静御前を母として生まれた男児は出産後間もなく鎌倉の由比が浦に遺棄された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 容貌 ==&lt;br /&gt;
義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した[[史料]]や、生前の義経自身を描いた確かな[[絵画]]は存在しない。ただ、身長に関しては[[大山祇神社]]に甲冑が奉納されているのでこれを元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経の死後まもない時代にまとまったとされる『[[平家物語]]』では、義経の風貌に関して「色白で反っ歯の小男」と記されている。これは武士の容姿の表現としてはかなり悪意のあるものであり、平家物語の作者、あるいは当時一般の義経に対する評価は低かったと思われる。義経の印象を形成するのに大きな影響のあった『義経記』では風貌に関する記述は無かった。しかし、『[[平治物語]]』では、母親の常盤は絶世の美女とされており、容姿が重視されて源義朝の側室となった。一方、父親の義朝は苦みばしった美男子と伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には[[猿楽]]（現[[能]]）や[[歌舞伎]]の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 郎党その他 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yositsune.jpg|thumb|280px|right|[[三条駅_(京都府)|京阪三条駅]]に展示された源義経と[[武蔵坊弁慶]]の人形]]&lt;br /&gt;
* [[源有綱]]&lt;br /&gt;
* [[武蔵坊弁慶]]&lt;br /&gt;
* [[常陸坊海尊]]&lt;br /&gt;
* [[鎌田盛政]]&lt;br /&gt;
* [[鎌田光政]]&lt;br /&gt;
* [[佐藤継信]]&lt;br /&gt;
* [[佐藤忠信]]&lt;br /&gt;
* [[伊勢義盛]]&lt;br /&gt;
* [[鷲尾義久]]&lt;br /&gt;
* [[堀景光]]&lt;br /&gt;
* [[駿河次郎|駿河清重]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;all&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝説 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Yoshitsune_with_benkei.jpg|thumb|230px|義経と弁慶、明治時代の浮世絵師・[[月岡芳年]]による版画]]&lt;br /&gt;
優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して'''判官贔屓'''（ほうがんびいき、判官（ほうがん）とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い）というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経伝説の中でも特に有名な[[武蔵坊弁慶]]との[[五条大橋|五条の大橋]]での出会い、[[陰陽師]][[鬼一法眼]]の娘と通じて伝家の兵書『[[六韜]]』『[[三略]]』を盗み出して学んだ話、[[衣川合戦]]での[[武蔵坊弁慶#弁慶の立ち往生|弁慶の立ち往生]]伝説などは、死後200年後の[[室町時代]]初期の頃に成立したといわれる『[[義経記]]』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「[[虎の巻]]」と呼ぶようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 不死伝説 ===&lt;br /&gt;
後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の[[御伽草子]]に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた[[北海道]]に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの[[蝦夷地]]（北海道）の[[アイヌ]]に対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義経＝ジンギス・カン説 ====&lt;br /&gt;
===== 概要 =====&lt;br /&gt;
北行伝説の中でも荒唐無稽にして最大のものが「義経＝ジンギス・カン説」である。この説は、義経が衣川で自刃したのが1189年であり、ジンギス・カン（[[チンギス・ハーン|チンギス・ハーン、チンギス・カン]]）の名が[[中国]]の[[歴史書]]に初めて登場するのが[[1200年]]頃であるという時間の関係に着目して、義経は北海道を経て大陸に渡り、[[モンゴル]]の諸部族を統一してチンギス・カンになったのだという。この主張の根拠は、モンゴルで使われていた紋章が源氏の旗印である笹竜胆に似ている、「源義経」の音読みであるゲンギケイがジンギスになまったのだ、などといったものである。紋章の話に対しては、笹竜胆は[[村上源氏]]のものであり、義経は[[清和源氏]]なので、笹竜胆は用いないという反論があり、信憑性はないとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、チンギス・カンに生年に関しては、現存資料での記述がおのおの異なっているため諸説あって厳密に確定しがたいだけで、家系は判明している。昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、[[中央ユーラシア]]の[[遊牧民]]は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、祖先からの遊牧貴族に属することを保障する家系伝承と、子飼いの牧民集団を持たない者が、徒手空拳で政治的指導者に納まることはきわめて困難であることが知られている。祖先の系譜については、『[[元朝秘史]]』に取材した[[井上靖]]の小説などの影響で、日本などではモンゴル部族の先祖として「ボルテ・チノ」との関係が強調される傾向にあるが、実際にモンゴル帝国やその後継政権おいて[[中央アジア]]・[[イラン]]や[[モンゴル]]本土でチンギス・カン家の先祖として重要視されていたのは、むしろその子孫で日月の精霊と交わってモンゴルの支配階層の諸部族の祖となったとされる'''アラン・コア'''とその息子'''ボドンチャル'''であった。また、チンギスの属すキヤト氏族は『元朝秘史』、モンゴル帝国の正史的な位置づけで編纂された『[[集史]]』などによるとチンギスの曾祖父カブル・カンに始まるが、『集史』の記述に従えばチンギスの出自はカブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男イェスゲイ・バアトルの長男とされている。アラン・コアからカブル・カンまでの系譜については資料によって異同が多いものの、上記以外でも『蒙古源流』、『五族譜』や『ムイッズ・アル＝アンサーブ』などの歴史書や系譜資料が13、14世紀以降に多く編纂されたが、どの資料も'''カブル・カン'''→'''バルタン・バアトル'''→'''[[イェスゲイ|イェスゲイ・バアトル]]'''→'''テムジン'''（[[チンギス・ハーン|チンギス・カン]]）という流れは共通して記録している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チンギス・カンに関する現存資料からは、源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため実証史学的に証明できない。またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、この説は中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、チンギス・カンのユーラシア大陸の攻め方、統一の仕方が日本の武士的戦略であることも注目されている{{要出典}}。また、源義経像がシベリア各地に存在していたことも注目された{{要出典}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 経緯 =====&lt;br /&gt;
この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、[[清]]の [[乾隆帝]]の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は[[清和天皇|清和]]から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布したり、[[12世紀]]に栄えた[[金_(王朝)|金]]の将軍に源義経というものがいたと記した偽書『金史別本』（偽作者は日本人）が珍本として喜ばれたりした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し[[女真|女真人]]（[[満州|満州人]]）になったという風説は、明治時代になると日本人が世界に名だたる征服者であって欲しいという願望から、義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]に入り、これを記した[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]] の著書『日本』を留学先の[[ロンドン]]で読んだ[[末松謙澄]]は卒業論文にまとめて発表、『義経再興記』として和訳出版される。[[大正]]に入り、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に学び[[牧師]]となっていた[[小谷部全一郎]]は、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って[[満州]]・[[モンゴル高原|モンゴル]]を旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、[[大正]]13年（[[1924年]]）に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小谷部の著書は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーになり、日本人の間に義経＝ジンギス・カン説を爆発的に広めることになった。同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版されたりしたが、この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が大陸へ進出していた当時の時代的な風潮に適合したことが指摘されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 近年の研究 ==&lt;br /&gt;
=== 菱沼一憲 ===&lt;br /&gt;
[[菱沼一憲]]（[[国立歴史民俗博物館]]科研協力員）は著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像―」（角川選書、2005年）で、源義経について以下の説を述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年（1184年）八月十七日条には、同年[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、[[8月3日_(旧暦)|8月3日]]、頼朝は義経に[[伊勢国|伊勢]]の[[平信兼]]追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉政権内部には、発足当初から「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。東国御家人は親京都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。このことが、親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者であった義経の失脚を招いたのである。&lt;br /&gt;
=== 佐藤進一 ===&lt;br /&gt;
また、[[佐藤進一]]は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。&lt;br /&gt;
===元木泰雄 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--==評価 ==&lt;br /&gt;
古来より「義経は戦術の天才児」という評価が流布してきた。平家が滅亡したのは大黒柱である棟梁[[平清盛]]の死去によるところも大きいが、清盛の死後にわずか4年で滅びたのは、義経の常に敵の裏を掻く戦術があってこそだった、とされることが多かった。そのため、戦功の華々しさやその節度ある行動からの多くの賞賛を受け、その悲劇的末路に対する人々の同情は義経を英雄視する多くの伝説と歴史的文学を現在に残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、平家軍に最大のダメージを与えたのは[[源義仲]]であった。義仲が、[[倶利伽羅峠の戦い]]で平家の主力部隊である10万の大軍の大半を壊滅させ、このために平家は京を放棄して少ない兵力で右往左往しなければならなかった（ただしその後の義仲と頼朝の争いの間に平家は戦力を回復し、一ノ谷の合戦時には6万から7万の戦力を保持していた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の平家追討戦において源氏軍の主力を率いたのも異母兄の範頼であり、義経はあくまで搦手の大将に過ぎなかったことには注意すべきである。義経が一ノ谷・屋島・壇ノ浦で行ったのは、比較的少ない兵力による[[奇襲]]戦である。よって、義経に大軍を指揮する能力があったかどうかを疑問視する意見もある。後に頼朝に対抗して挙兵を試みた時に、軍勢をよく統率しえなかった点をこの傍証とすることも出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、大軍を糾合するには戦場での指揮能力とは別に強力な政治権力・経済力が必要であることを考え合わせると、政治的に既に失敗を重ねていた段階の義経が大軍を動かせなかったことをもって、戦場での指揮能力を論じることは、戦略と戦術という複数の議論の審級を混同しているとも反論できるだろう。また、彼が戦場で少数の兵を率いて決定的な働きをしていた可能性は高く、「万能の軍事的天才」とまでは評価出来ないにせよ、遊撃戦の指揮官としては戦史上屈指の存在と考え得る。加えて、義経参戦後に平家追討戦で源氏軍の勢いが格段に増したことを考慮するならば、やはり軍人としての義経は相当に有能な存在であったと見るのが妥当である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、戦闘指揮官としてではなく政治家としての義経に対する評価は、一般にさほど高くない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（※2005年9月頃に主にとある投稿者によって書かれたもので、適当な文献や研究者の名もなく個人的な考察の可能性が高い。多少ならともかく、一節を設ける程の長さはいかがなものか。削除ないしコメントアウトしておくのが適当と考えます。なお、投降者は1年以上前に活動を停止しています。）--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
=== 史料 ===&lt;br /&gt;
* 『[[吾妻鏡]]』&lt;br /&gt;
* 『[[玉葉 (九条兼実の日記)|玉葉]]』 [[九条兼実]]日記&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古典 ===&lt;br /&gt;
* [[平治物語]]（[[軍記物語]]）作者不詳 成立 - 未詳&lt;br /&gt;
* [[平家物語]]（軍記物語）作者不詳 成立 - 未詳&lt;br /&gt;
* [[義経記]]（芸能軍記）作者不詳 成立 - 室町初期&lt;br /&gt;
* [[天狗の内裏]] 作者不詳（[[御伽草子]]）成立 - 室町初期&lt;br /&gt;
* [[壇ノ浦夜合戦記]]作者不詳 成立 - 江戸中期〜後期&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 能・歌舞伎・人形浄瑠璃 ===&lt;br /&gt;
* [[八島_(能)|八島]]（[[能]]）作者「[[世阿弥]]」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[船弁慶]]（能）作者「観世信光」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[安宅]]（能）作者「観世信光か?」成立 - 室町時代&lt;br /&gt;
* [[義経千本桜]]（[[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]）作者「二代目[[竹田出雲]]・三好松洛・[[並木宗輔|並木千柳]]」成立 - 延享4年(1747)&lt;br /&gt;
* [[一谷嫩軍記]]（人形浄瑠璃・歌舞伎）作者「[[並木宗輔]]他」成立 - 宝暦元年(1751)&lt;br /&gt;
* [[勧進帳]]（歌舞伎）作者「並木五瓶（ごへい）」成立 - 天保11年(1840)&lt;br /&gt;
* [[常陸坊海尊]]（演劇脚本 作者 [[秋元松代]]）成立 - 昭和32年(1957)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ミュージカル ===&lt;br /&gt;
* [[わらび座]]『[http://www.warabi.jp/yoshitune/ 義経]』(作:齋藤雅文、演出:井上思、音楽:甲斐正人、作詞:竜真知子・齋藤雅文)&lt;br /&gt;
* [[宝塚歌劇団]]『[[この恋は雲の涯まで]]』（作：[[植田紳爾]]）、『花のもとにて春-ある日の牛若丸-』(作:[[大関弘政]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* 『源義経』 [[村上元三]]&lt;br /&gt;
* 『[[義経_(小説)|義経]]』 [[司馬遼太郎]]&lt;br /&gt;
* 『成吉思汗の秘密』 [[高木彬光]]&lt;br /&gt;
* 『義経幻殺録』 [[井沢元彦]]&lt;br /&gt;
* 『[[君の名残を]]』 [[浅倉卓弥]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画 ===&lt;br /&gt;
* 『秘本義経記 [[ますらお]]』 [[北崎拓]]&lt;br /&gt;
* 『[[火の鳥_(漫画)|火の鳥]] 乱世編』 1978年、[[手塚治虫]]&lt;br /&gt;
* 『安東 ANTON』 [[安彦良和]]&lt;br /&gt;
* 『[[遮那王 義経]]』 [[沢田ひろふみ]]&lt;br /&gt;
* 『[[修羅の刻]]』 7巻～10巻 [[川原正敏]]&lt;br /&gt;
* 『妖狐伝 義経千本桜』 [[堤抄子]]&lt;br /&gt;
* 『リョウ』 [[上田倫子]]&lt;br /&gt;
* 『[[源平伝NEO]]』 [[あかほりさとる]] 別天荒人&lt;br /&gt;
* 『義経ちゃん剣風帖』 [[小野寺浩二]]&lt;br /&gt;
* 『源氏』 [[高河ゆん]]&lt;br /&gt;
* 『遮那王』 [[沢田ひろふみ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== TVドラマ ===&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(NHK大河ドラマ)|源義経]]』（1966年NHK[[大河ドラマ]] 源義経：[[尾上菊五郎_(7代目)|尾上菊五郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[新・平家物語_(NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』（1972年NHK大河ドラマ 源義経：[[志垣太郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[草燃える]]』（1979年NHK大河ドラマ 源義経：[[国広富之]]）&lt;br /&gt;
* 『[[武蔵坊弁慶_(テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]]』（1986年NHK新大型時代劇 源義経：[[川野太郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(テレビドラマ_1990年)|源義経]]』（1990年TBS 源義経：[[東山紀之]]）&lt;br /&gt;
* 『[[源義経_(テレビドラマ_1991年)|源義経]]』（1991年日本テレビ 源義経：[[野村宏伸]]）&lt;br /&gt;
* 『[[炎立つ_(NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』（1993年7月～1994年3月NHK大河ドラマ 源義経：野村宏伸）&lt;br /&gt;
* 『[[義経_(NHK大河ドラマ)|義経]]』（2005年NHK大河ドラマ 源義経：[[滝沢秀明]] 幼少期、牛若役：[[神木隆之介]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* 『[[虎の尾を踏む男達]]』（1952年 監督：[[黒澤明]]、源義経：仁科周芳（十代目[[岩井半四郎]]））&lt;br /&gt;
* 『源義経』（1955年 監督： [[萩原遼]]）&lt;br /&gt;
* 『源九郎義経』（1962年 監督： [[松田定次]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GOJOE・五条霊戦記]]』（2000年 監督：[[石井聡互]] 遮那王：[[浅野忠信]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゲーム ===&lt;br /&gt;
* 『[[源平討魔伝]]』（[[ナムコ]] [[アーケードゲーム|アーケード版]]からいろいろ 1986年 義経：声:音声合成）&lt;br /&gt;
* 『[[義経紀]]』（[[バンプレスト]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源九郎義経（源義経）：声: [[田中敦子_(声優)|田中敦子]]）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝]]』（[[フロム・ソフトウェア]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源義経：声：）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝修羅]]』（[[フロム・ソフトウェア]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 牛若丸：声：[[阪口大助]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GENJI]]』（[[SCEI]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源九郎義経（源義経）：声: [[浪川大輔]]）&lt;br /&gt;
* 『[[GENJI-神威奏乱-]]』（[[SCEI]] [[プレイステーション3|PS3]] 2006年）&lt;br /&gt;
* 『[[NAMCO x CAPCOM]]』（[[ナムコ]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年 源義経：声:[[千葉一伸]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3]]』（[[コーエー]] [[プレイステーション2|PS2]] 2004年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3十六夜記]]』（2005年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3運命の迷宮（ラビリンス）]]』（2006年 源九郎義経：声: [[関智一]]）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝]]』（[[ウェルメイド]] [[プレイステーション2|PS2]] 2003年 源九羅香（義経）：[[声優|声]]: [[山本麻里安]]）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝・弐～刻を越える契り～]]』（[[ウェルメイド]] [[プレイステーション2|PS2]] 2005年）&lt;br /&gt;
* 『[[星の王女～宇宙意識に目覚めた義経～]]』（[[美蕾]] [[Windows XP]] 2007年 源九朗義経：[[声優|声]]: [[柿野聖]]（本名不明）　遮那王：[[声優|声]]: プログレス（[[千葉進歩]]））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史ゲーム ===&lt;br /&gt;
* [[ゲームジャーナル]]第21号 『日本の戦い』、[[シミュレーションジャーナル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 ===&lt;br /&gt;
* 『[[牛若丸 (童謡)|牛若丸]]』（[[文部省唱歌]]）&lt;br /&gt;
* 『組曲「義経」』（2004年 [[陰陽座]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 銅像 ===&lt;br /&gt;
* [[静岡県]][[伊豆市]]（旧[[田方郡]][[修善寺町]]）[[鹿山公園]]の源義経像&lt;br /&gt;
* [[山口県]][[下関市]]、[[みもすそ川公園]]の源義経像&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[判官]]&lt;br /&gt;
* [[判官贔屓]]&lt;br /&gt;
* [[源頼朝]]&lt;br /&gt;
* [[清和源氏]]&lt;br /&gt;
* [[河内源氏]]&lt;br /&gt;
* [[治承・寿永の乱]]&lt;br /&gt;
* [[磨墨塚]]&lt;br /&gt;
* [[幸主名馬尊]]&lt;br /&gt;
* [[白旗神社#白旗神社（神奈川県藤沢市）|白旗神社 (藤沢市)]]&lt;br /&gt;
* [[源氏まつり]]&lt;br /&gt;
* [[平安時代の人物一覧]] - [[鎌倉時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄7100形蒸気機関車]] - 名前が愛称として付された&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』角川選書、2005、ISBN 404703374X&lt;br /&gt;
* [[角川源義]]氏 高田実氏『源義経』角川新書 1966&lt;br /&gt;
* 高橋富雄氏 『義経伝説 歴史の虚実』 中公新書 1966&lt;br /&gt;
* 五味文彦氏『源義経』岩波新書 2004&lt;br /&gt;
* 『書物の王国20　義経』[[国書刊行会]]ISBN 4336040206&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html 吾妻鏡]&lt;br /&gt;
* [http://www.j-texts.com/sheet/seisuik.html 源平盛衰記]&lt;br /&gt;
* [http://www.j-texts.com/sheet/kgikei.html 義経記]&lt;br /&gt;
* [http://www.bashouan.com/jtYoshitune.htm 源義経物語]&lt;br /&gt;
* [http://www.inarijinja.org/ 斗瑩稲荷神社]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の武士|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:源氏|よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:1159年生|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
[[Category:1189年没|みなもとの よしつね]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured_article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ar:ميناموتو نو يوشي-تسونه]]&lt;br /&gt;
[[de:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[en:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[es:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[fr:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[id:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[it:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[nl:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[sv:Minamoto no Yoshitsune]]&lt;br /&gt;
[[th:มินาโมโตะ โนะ โยชิซึเนะ]]&lt;br /&gt;
[[zh:源義經]]&lt;br /&gt;
[[zh-classical:源義經]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>166.70.207.2</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%AC%AC2%E8%BE%B2%E5%A0%B4&amp;diff=5613</id>
		<title>札幌農学校第2農場</title>
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				<updated>2007-05-30T04:05:36Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;166.70.207.2: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:札幌農学校第2農場.JPG|280px|right|thumb|札幌農学校第2農場内、牧牛舎]]&lt;br /&gt;
'''札幌農学校第2農場'''（さっぽろのうがっこうだいにのうじょう）は、[[北海道]][[札幌市]]、[[北海道大学]]構内にある施設。[[ウィリアム・スミス・クラーク]]の大農経営構想に基づき、[[明治時代]]に建てられた木造の畜舎などの建築物群が位置する。また、施設は「模範的畜舎」を意味する「'''Model Barn'''（モデルバーン）」という名称でも知られる。一部建造物は内部が一般公開され、北海道開拓時代の農具など展示されている数々の資料を無料で見学することが可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1969年]]に農場の建造物9棟が国の[[重要文化財]]に指定された。官報に告示された指定名称は「北海道大学農学部（旧東北帝国大学農科大学）第二農場」となっているが、北海道大学では由来を明確にする目的や、当時の文化庁によって現在地へ移転され建設当初の姿に復元されていることなどから札幌農学校第2農場の名称を用いている。さらに、[[2001年]]には[[北海道遺産]]にも登録された。所在地は北海道札幌市[[北区 (札幌市)|北区]]北19条西8丁目。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
札幌農学校第2農場の歴史は、北海道で農業が始まった[[19世紀]]末頃が始まりである。開拓がまだ十分になされていなかった北海道における殖産興業の方針を決めるため、北海道[[開拓使]]次官を務めていた[[黒田清隆]]が[[1871年]]に[[アメリカ合衆国]]へ渡った。当時は[[江戸時代]]の終わり頃より開始された[[ロシア]]の[[南下政策]]が背景にあり、渡米し海外の技術者の援助を募る目的があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後アメリカ農務局の局長を務めていた[[ホーレス・ケプロン]]や、地質鉱山学者であったT・アンチセルをはじめとする一団が日本に訪れ、北海道を3年ほど調査したのち、開拓の方法には畜力・機械を用いた畑作や畜産がよいと提案した。黒田清隆はもっぱら稲作を中心に生活してきた入殖者達にこうした案を受け入れさせる目的で[[エドウィン・ダン]]らを現在の農業試験場に、[[札幌農学校]]にはマサチューセッツ州立農科大学の学長を務めていたウィリアム・スミス・クラークやW・M・ホイーラー、W・P・ブルックス、D・P・ペンハローを中心とする[[お雇い外国人]]を北海道に招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1876年]]に札幌農学校の教頭に迎えられたクラークは、実践を中心とした農業教育を提唱し、当時は「札幌官園」という名で機能していた土地一帯を「農黌園（のうこうえん）」として移管、実践農場としての利用が開始された。この農黌園という名称は「College Farm」の日本語にしたものである。園内は2つの区域に分けられ、学生の農業教育の研究を対象とした「第1農場」が現在の北海道大学南門周辺に、そして畜産の経営を実践する農場としての役割を担った「第2農場」が現在の大型計算機センターと環境研が位置する場所一帯に建設された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第2農場では、それまで日本人になじみの無かった酪農・畜産経営を実践できる実習施設として機能し、外国種の家畜・牧草や畜力農機具、さらにはマサチューセッツ州立農科大学にならって産室・追込所・耕馬舎を建設した。この建造物はクラークにより「Model Barn」と記載され、日本語でも「札幌農学校模範家畜房」と名づけられた。この名称はクラークの北海道農業の模範となるようにとの願いが込められたもので、建物群が象徴的であることもあり、後になって第2農場の建物群そのものを指すようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モデルバーンは[[1877年]]秋に完成。北海道大学内の記念建造物の中では最も古く、[[バルーンフレーム構造]]や[[木造枠組壁構法|ツーバイフォー方式]]の工法を用いて造られた洋風の農業建築は国内においても珍しいものである。そのほかにも、W・ブルックスが設計にあたったとされる「第2農場[[玉蜀黍]]庫（穀物庫）」も1877年に建築され、こちらは「Corn Barn（コーンバーン）」と呼ばれた。[[1889年]]には日本で最初と推定されている乳牛[[ホルスタイン]]種が導入されるなど、農場は北海道における畜産や酪農が普及する中心となり、日本へ畜産を導入した施設としては[[成田]]の[[御料牧場]]における技術導入と並ぶ国内畜産の発祥の地とも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後札幌農学校は[[帝国大学]]へ昇格することとなり、現在の[[札幌時計台]]が位置する場所周辺から校舎を第1農場があった場所へと移動した。これを受けて、[[1910年]]に第2農場はその規模の縮小を余儀なくされ、建物は現在の位置へと移動された。移設後はさらに畜舎を新設、これは当時最も新しい農業技術であった[[サイロ]]付きの畜舎だった。また、[[1965年]]より農場の近代化整備が始まり、より西の位置へと移動された。この新しい第2農場は「北海道大学農学部附属農場第2畜産部」として機能し、[[1967年]]の移動により終了するまで畜産研究が行われていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1969年]][[8月19日]]、近代化整備により使い道のなくなった建物群はその貴重な建築様式や北海道における畜産の発祥の地であることが考慮され、国の重要文化財に指定された。その後当時の[[文化庁]]により保存に向けた解体や改修工事が行われ、明治時代の初めごろから使用されていた外国の輸入農業器具などを保管して建物の管理を行った。以降は閉鎖管理が続いたが、[[2000年]]1月に行われた北海道大学の評議会で、文化的価値のある建築物群や畜産資料をより多くの人々へ広めることを目的とし、期間を設けてモデルバーンとコーンバーンのみ建物内部の一般公開を行うことを決定した。また、2001年[[10月22日]]には第1回選定分の[[北海道遺産]]登録を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 施設概要 ==&lt;br /&gt;
[[画像:札幌農学校第2農場2.JPG|260px|right|thumb|模範家畜房]]&lt;br /&gt;
札幌農学校第2農場には9棟の歴史的建造物が保存されており、そのうち模範的家畜房（モデルバーン）と穀物庫（コーンバーン）のみ内部公開されている。公開期間は[[4月29日]]から[[11月3日]]で、公開時間は午前10時から午後4時の間である。内部には明治初期に使用されていた輸入の畜力農機具や北海道における畜産全体の歴史資料などが展示されており、&amp;lt;!--入口付近に位置する事務所玄関に設置されている名簿に名前を記入することで--&amp;gt;誰でも無料で見学することが可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入口にある農場事務所は第2農場の管理施設となっており、[[ガードマン]]が常駐している。この建物は[[1879年]]にあった派出所の建物を踏襲した設計となっており、30.5坪の広さを誇る。当時としては珍しく窓ガラスを使用した建築物であり、洋風の木造平屋建ての外観と畳部屋の宿直室を持ち合わせる折衷の建築物となっている。現在は[[文部科学省]]の許可の下、[[フローリング]]を[[和室]]に張り使用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
製乳所は[[1911年]]に新築、[[1972年]]に解体改修工事が施された建物で、3つの部分に分けられた内部は冷蔵庫や[[チーズ]]などの乳製品の加工室に利用された。建物は[[煉瓦]]造りであり、6.5間の長さがある。その北側に位置する建築物は釜場と呼ばれる建物で、1910年に新築、同じく1972年に解体改修が行われている。[[札幌軟石]]を用いて建てられたこの建物は5間の奥行きがあり、おもに設置されていた大釜で家畜飼料を煮込んで加工する作業を行う施設だった。石造りの建物は防火の目的があったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東側にあるサイロ付きの建物は牧牛舎で、明治時代の終わりに海外から伝来した最先端の技術を駆使し、[[1909年]]に建てられた建築物である。1977年に原型をとどめる形で解体・修復工事が施された。むろを煉瓦で、サイロを札幌軟石で建設したこの建物は建築当時、日本全体の産業が発展した時期でもあり、[[デンマーク]]農法と呼ばれる農業形態を北海道の農業へ導入する話が持ち上がっていた。牧牛舎のマンサード型畜舎やサイロなどは、こうした歴史背景を受けている。また、屋根裏には搬送用の木製レールがあったほか、柱を中央に建設しない構造で飼料置き場としての機能を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧牛舎の北側に模範家畜房が位置する。この木造の建物はもともと1877年にW・M・ホイーラーにより建設されたもので、馬車道が地下室と2階を往来できる構造になっていた。その後1911年に地下室および馬車道を取り払って現在の位置へ移動、1979年に原状復帰の解体・修復工事が行われた。建築様式はツーバイフォー式のバルーンフレーム構造で、農業建築物としては日本でも最古のものである。1階部は耕馬舎や乳牛の産室があり、現在は様々な農業資料が設置されている。また、2階は乾草収納室として使用された場所であり、現在は農具が展示されている。後に[[真駒内]]にある七重牧場でもこの建物の設計図が用いられ、同じ形の建築物が建てられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も北側にある施設は穀物庫（コーンバーン）、収穫室、動力室、脱ぷ室が組み合わさってできた木造の建物である。内部が公開されている穀物庫は1877年に建築されたもので、1911年に現在の場所へと移動、1974年に解体修復工事がおこなわれている。W・P・ブルックスにより設計が行われたこの建物もバルーンフレーム構造が取り入れられており、高床式・切り妻造りで造られた内部はとうもろこしを始めとする穀物の保管場所に使用された。また札幌軟石で造られた動力室は、1913年に購入したスチームエンジンによる動力で[[脱穀]]などの機械作業を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、施設内には秤量所、種牛舎、池がある。建物には監視カメラが設けられているほか、木造の建造物が多いことも考慮され全面禁煙となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、建造物の重要文化財指定名称は次のとおりである。（カッコ内は北海道大学で用いている名称）&lt;br /&gt;
*事務所&lt;br /&gt;
*種牛舎&lt;br /&gt;
*牧牛舎&lt;br /&gt;
*産室・追込所及び耕馬舎（モデルバーン）&lt;br /&gt;
*穀物庫（コーンバーン）&lt;br /&gt;
*秤量場&lt;br /&gt;
*釜場&lt;br /&gt;
*製乳所&lt;br /&gt;
*収穫室及び脱ぷ室&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本の農業]]&lt;br /&gt;
* [[北海道大学]]&lt;br /&gt;
* [[北海道大学古河記念講堂]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『札幌の文化財』　札幌市市民局生活文化部文化財課発行・編集　2002年4月&lt;br /&gt;
* 札幌農学校第2農場、施設内展示パネル&lt;br /&gt;
* [http://www.hokudai.ac.jp/agricu/mdlbarn/mdltop10.htm 第2農場の歴史概要]&lt;br /&gt;
* [http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition04/campus-tour.html 北大再発見、第2農場のページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.hokudai.ac.jp/agricu/mdlbarn/mdltop00.htm 札幌農学校第2農場 - 北海道大学]&lt;br /&gt;
* [http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/103071.html 北海道文化資源データベース]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|札幌農学校第2農場}}&lt;br /&gt;
[[Category:北海道の建築物・観光名所|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:北区 (札幌市)|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:農業の歴史|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道の重要文化財|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>166.70.207.2</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%AC%AC2%E8%BE%B2%E5%A0%B4&amp;diff=5612</id>
		<title>札幌農学校第2農場</title>
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				<updated>2007-05-30T04:04:32Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;166.70.207.2: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=札幌農学校第2農場&amp;amp;oldid=12823769&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:札幌農学校第2農場.JPG|280px|right|thumb|札幌農学校第2農場内、牧牛舎]]&lt;br /&gt;
'''札幌農学校第2農場'''（さっぽろのうがっこうだいにのうじょう）は、[[北海道]][[札幌市]]、[[北海道大学]]構内にある施設。[[ウィリアム・スミス・クラーク]]の大農経営構想に基づき、[[明治時代]]に建てられた木造の畜舎などの建築物群が位置する。また、施設は「模範的畜舎」を意味する「'''Model Barn'''（モデルバーン）」という名称でも知られる。一部建造物は内部が一般公開され、北海道開拓時代の農具など展示されている数々の資料を無料で見学することが可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1969年]]に農場の建造物9棟が国の[[重要文化財]]に指定された。官報に告示された指定名称は「北海道大学農学部（旧東北帝国大学農科大学）第二農場」となっているが、北海道大学では由来を明確にする目的や、当時の文化庁によって現在地へ移転され建設当初の姿に復元されていることなどから札幌農学校第2農場の名称を用いている。さらに、[[2001年]]には[[北海道遺産]]にも登録された。所在地は北海道札幌市[[北区 (札幌市)|北区]]北19条西8丁目。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
札幌農学校第2農場の歴史は、北海道で農業が始まった[[19世紀]]末頃が始まりである。開拓がまだ十分になされていなかった北海道における殖産興業の方針を決めるため、北海道[[開拓使]]次官を務めていた[[黒田清隆]]が[[1871年]]に[[アメリカ合衆国]]へ渡った。当時は[[江戸時代]]の終わり頃より開始された[[ロシア]]の[[南下政策]]が背景にあり、渡米し海外の技術者の援助を募る目的があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後アメリカ農務局の局長を務めていた[[ホーレス・ケプロン]]や、地質鉱山学者であったT・アンチセルをはじめとする一団が日本に訪れ、北海道を3年ほど調査したのち、開拓の方法には畜力・機械を用いた畑作や畜産がよいと提案した。黒田清隆はもっぱら稲作を中心に生活してきた入殖者達にこうした案を受け入れさせる目的で[[エドウィン・ダン]]らを現在の農業試験場に、[[札幌農学校]]にはマサチューセッツ州立農科大学の学長を務めていたウィリアム・スミス・クラークやW・M・ホイーラー、W・P・ブルックス、D・P・ペンハローを中心とする[[お雇い外国人]]を北海道に招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1876年]]に札幌農学校の教頭に迎えられたクラークは、実践を中心とした農業教育を提唱し、当時は「札幌官園」という名で機能していた土地一帯を「農黌園（のうこうえん）」として移管、実践農場としての利用が開始された。この農黌園という名称は「College Farm」の日本語にしたものである。園内は2つの区域に分けられ、学生の農業教育の研究を対象とした「第1農場」が現在の北海道大学南門周辺に、そして畜産の経営を実践する農場としての役割を担った「第2農場」が現在の大型計算機センターと環境研が位置する場所一帯に建設された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第2農場では、それまで日本人になじみの無かった酪農・畜産経営を実践できる実習施設として機能し、外国種の家畜・牧草や畜力農機具、さらにはマサチューセッツ州立農科大学にならって産室・追込所・耕馬舎を建設した。この建造物はクラークにより「Model Barn」と記載され、日本語でも「札幌農学校模範家畜房」と名づけられた。この名称はクラークの北海道農業の模範となるようにとの願いが込められたもので、建物群が象徴的であることもあり、後になって第2農場の建物群そのものを指すようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モデルバーンは[[1877年]]秋に完成。北海道大学内の記念建造物の中では最も古く、[[バルーンフレーム構造]]や[[木造枠組壁構法|ツーバイフォー方式]]の工法を用いて造られた洋風の農業建築は国内においても珍しいものである。そのほかにも、W・ブルックスが設計にあたったとされる「第2農場[[玉蜀黍]]庫（穀物庫）」も1877年に建築され、こちらは「Corn Barn（コーンバーン）」と呼ばれた。[[1889年]]には日本で最初と推定されている乳牛[[ホルスタイン]]種が導入されるなど、農場は北海道における畜産や酪農が普及する中心となり、日本へ畜産を導入した施設としては[[成田]]の[[御料牧場]]における技術導入と並ぶ国内畜産の発祥の地とも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後札幌農学校は[[帝国大学]]へ昇格することとなり、現在の[[札幌時計台]]が位置する場所周辺から校舎を第1農場があった場所へと移動した。これを受けて、[[1910年]]に第2農場はその規模の縮小を余儀なくされ、建物は現在の位置へと移動された。移設後はさらに畜舎を新設、これは当時最も新しい農業技術であった[[サイロ]]付きの畜舎だった。また、[[1965年]]より農場の近代化整備が始まり、より西の位置へと移動された。この新しい第2農場は「北海道大学農学部附属農場第2畜産部」として機能し、[[1967年]]の移動により終了するまで畜産研究が行われていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1969年]][[8月19日]]、近代化整備により使い道のなくなった建物群はその貴重な建築様式や北海道における畜産の発祥の地であることが考慮され、国の重要文化財に指定された。その後当時の[[文化庁]]により保存に向けた解体や改修工事が行われ、明治時代の初めごろから使用されていた外国の輸入農業器具などを保管して建物の管理を行った。以降は閉鎖管理が続いたが、[[2000年]]1月に行われた北海道大学の評議会で、文化的価値のある建築物群や畜産資料をより多くの人々へ広めることを目的とし、期間を設けてモデルバーンとコーンバーンのみ建物内部の一般公開を行うことを決定した。また、2001年[[10月22日]]には第1回選定分の[[北海道遺産]]登録を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 施設概要 ==&lt;br /&gt;
[[画像:札幌農学校第2農場2.JPG|260px|right|thumb|模範家畜房]]&lt;br /&gt;
札幌農学校第2農場には9棟の歴史的建造物が保存されており、そのうち模範的家畜房（モデルバーン）と穀物庫（コーンバーン）のみ内部公開されている。公開期間は[[4月29日]]から[[11月3日]]で、公開時間は午前10時から午後4時の間である。内部には明治初期に使用されていた輸入の畜力農機具や北海道における畜産全体の歴史資料などが展示されており、&amp;lt;!--入口付近に位置する事務所玄関に設置されている名簿に名前を記入することで--&amp;gt;誰でも無料で見学することが可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入口にある農場事務所は第2農場の管理施設となっており、[[ガードマン]]が常駐している。この建物は[[1879年]]にあった派出所の建物を踏襲した設計となっており、30.5坪の広さを誇る。当時としては珍しく窓ガラスを使用した建築物であり、洋風の木造平屋建ての外観と畳部屋の宿直室を持ち合わせる折衷の建築物となっている。現在は[[文部科学省]]の許可の下、[[フローリング]]を[[和室]]に張り使用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
製乳所は[[1911年]]に新築、[[1972年]]に解体改修工事が施された建物で、3つの部分に分けられた内部は冷蔵庫や[[チーズ]]などの乳製品の加工室に利用された。建物は[[煉瓦]]造りであり、6.5間の長さがある。その北側に位置する建築物は釜場と呼ばれる建物で、1910年に新築、同じく1972年に解体改修が行われている。[[札幌軟石]]を用いて建てられたこの建物は5間の奥行きがあり、おもに設置されていた大釜で家畜飼料を煮込んで加工する作業を行う施設だった。石造りの建物は防火の目的があったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東側にあるサイロ付きの建物は牧牛舎で、明治時代の終わりに海外から伝来した最先端の技術を駆使し、[[1909年]]に建てられた建築物である。1977年に原型をとどめる形で解体・修復工事が施された。むろを煉瓦で、サイロを札幌軟石で建設したこの建物は建築当時、日本全体の産業が発展した時期でもあり、[[デンマーク]]農法と呼ばれる農業形態を北海道の農業へ導入する話が持ち上がっていた。牧牛舎のマンサード型畜舎やサイロなどは、こうした歴史背景を受けている。また、屋根裏には搬送用の木製レールがあったほか、柱を中央に建設しない構造で飼料置き場としての機能を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧牛舎の北側に模範家畜房が位置する。この木造の建物はもともと1877年にW・M・ホイーラーにより建設されたもので、馬車道が地下室と2階を往来できる構造になっていた。その後1911年に地下室および馬車道を取り払って現在の位置へ移動、1979年に原状復帰の解体・修復工事が行われた。建築様式はツーバイフォー式のバルーンフレーム構造で、農業建築物としては日本でも最古のものである。1階部は耕馬舎や乳牛の産室があり、現在は様々な農業資料が設置されている。また、2階は乾草収納室として使用された場所であり、現在は農具が展示されている。後に[[真駒内]]にある七重牧場でもこの建物の設計図が用いられ、同じ形の建築物が建てられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も北側にある施設は穀物庫（コーンバーン）、収穫室、動力室、脱ぷ室が組み合わさってできた木造の建物である。内部が公開されている穀物庫は1877年に建築されたもので、1911年に現在の場所へと移動、1974年に解体修復工事がおこなわれている。W・P・ブルックスにより設計が行われたこの建物もバルーンフレーム構造が取り入れられており、高床式・切り妻造りで造られた内部はとうもろこしを始めとする穀物の保管場所に使用された。また札幌軟石で造られた動力室は、1913年に購入したスチームエンジンによる動力で[[脱穀]]などの機械作業を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、施設内には秤量所、種牛舎、池がある。建物には監視カメラが設けられているほか、木造の建造物が多いことも考慮され全面禁煙となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、建造物の重要文化財指定名称は次のとおりである。（カッコ内は北海道大学で用いている名称）&lt;br /&gt;
*事務所&lt;br /&gt;
*種牛舎&lt;br /&gt;
*牧牛舎&lt;br /&gt;
*産室・追込所及び耕馬舎（モデルバーン）&lt;br /&gt;
*穀物庫（コーンバーン）&lt;br /&gt;
*秤量場&lt;br /&gt;
*釜場&lt;br /&gt;
*製乳所&lt;br /&gt;
*収穫室及び脱ぷ室&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本の農業]]&lt;br /&gt;
* [[北海道大学]]&lt;br /&gt;
* [[北海道大学古河記念講堂]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『札幌の文化財』　札幌市市民局生活文化部文化財課発行・編集　2002年4月&lt;br /&gt;
* 札幌農学校第2農場、施設内展示パネル&lt;br /&gt;
* [http://www.hokudai.ac.jp/agricu/mdlbarn/mdltop10.htm 第2農場の歴史概要]&lt;br /&gt;
* [http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition04/campus-tour.html 北大再発見、第2農場のページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.hokudai.ac.jp/agricu/mdlbarn/mdltop00.htm 札幌農学校第2農場 - 北海道大学]&lt;br /&gt;
* [http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/103071.html 北海道文化資源データベース]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:北海道の建築物・観光名所|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:北区 (札幌市)|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:農業の歴史|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道の重要文化財|さつほろのうかつこうたいにのうしよう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>166.70.207.2</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%96%E9%96%93&amp;diff=5611</id>
		<title>世間</title>
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				<updated>2007-05-30T04:03:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;166.70.207.2: /* 三界 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Buddhism}}&lt;br /&gt;
'''世間'''（せけん）とは、[[仏教]]用語であり、[[出世間]]（しゅっせけん）とあわせてこの世を二分して見る言葉である。移り変り、破壊を免れない迷いの世界という意味である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、日本ではこの用語は一般名詞化して、「この世」「世の中」「[[社会]]」のことを表す用語として使われている。転じて歴史学者の[[阿部謹也]]は、日本社会が Society の訳語としての「社会」に当てはまらない性質があるとして、旧来の「世間」の呼称を採用し、西欧的「社会」との比較研究としての「世間論」を展開した。また、「世間」と書いて「よのなか」と読むこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語源==&lt;br /&gt;
世間の原語である[[サンスクリット]]語のローカ「'''loka'''」は、「砕く」という意味の動詞「luj」から派生して「滅すべきもの」の意味である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このローカに[[界]] (dhaatu) を加えて、ローカ・ダートゥ (loka-dhaatu) といい、世間界の意味である。ダートゥは一般に構成要素の意味であるが、ここでは範囲とか領域と解釈すべきである。このローカ・ダートゥは、「[[世界]]」といわれ、サンスクリット語では「クシェートラ」(kSetra) ともいわれる。この場合は、所有するという意味のクシ (kSi) から派生してクシェートラとなるから、所有地・領地の意味の国土である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==意味内容==&lt;br /&gt;
'''世間'''（ローカ）からラウキカ (laukika)、すなわち「[[世俗]]」の語がつくられた。ローカ自身には別に悪い意味はないが、迷いの世界として世間を意味する場合が多い。&lt;br /&gt;
この場合、世間の「世」とは「遷流」（せんる）の意味で移り変わること、「破壊」の意味で壊れること、「覆真」（ふしん）の意味で真実を覆っていることなどと解釈される。また「間」は「間隔」の意味で、ものが個々別々に差別化されてみられることと解釈される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように'''世間'''とは、本来一味平等であるものに区別を作って、それにこだわって生活しているから、真実がおおわれ、無常であり、破滅すべきものと説かれる。このように一般に世間といわれている使い方とは違って、仏教では、深い人間的反省が込められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出世間==&lt;br /&gt;
{{Main|出世間}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような壊れてゆく世界に対して、仏や菩薩のような世界は、'''出世間''' (loka-uttara) といわれ、世間をこえた境界といわれる。この意味で、仏教でいう'''世間'''は、単に物質的なものではなく、精神的な境界の意味が、その根本的な立場である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三世間==&lt;br /&gt;
これらの境界が、いわゆる物質的なものを含めて、環境一般をも意味するようになると、「[[衆生]]世間」「器世間」「五蘊世間」の'''三世間'''が説かれる。&lt;br /&gt;
*'''衆生世間'''とは、生命のあるもの&lt;br /&gt;
*'''器世間'''とは山河大地など&lt;br /&gt;
*'''五蘊世間'''とは、人間を構成し、世界を構成している構成要素をいう。これらも[[五蘊]]（ごうん）が色受想行識であることから考えると、単なる物質的要素でなく、精神的なものを主としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三界==&lt;br /&gt;
この迷いの世界や悟りの世界について、インド古来の[[須弥山]]世界説がもちこまれて解釈がなされるようになると、元来、精神的存在であったものが、物質的存在と解釈されるようになり、[[欲界]]・[[色界]]・[[無色界]]の[[三界]]を立て、また、地獄などの[[六道]]をたてることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、この三界を迷の世界であるとして、&lt;br /&gt;
* 欲界　　四悪趣、四洲、六欲天、&lt;br /&gt;
* 色界　　四禅天、大梵天、浄居天、無想天、無色界に四空処など&lt;br /&gt;
* 無色界　仏国土、浄土など、さらに声聞や縁覚や菩薩などの世界&lt;br /&gt;
迷悟両界で十界などともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、仏教もこの世界を物質的世界として説くが、本意は精神的なものが中心である。よって三界説も、欲界から色界へ、色界から無色界へと、人びとの精神生活の純化の段階を示したものと受け取られる。&lt;br /&gt;
* 欲界は淫欲、食欲の二欲を中心として生活する者の住むところで、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道があり、この天界を六欲天という。&lt;br /&gt;
* 色界は二欲をはなれたものの世界で、衆生の肉体が殊妙であるから色界といい、物質的な世界だが、実は精神的なものが中心となるから、四禅天がそれである。&lt;br /&gt;
* 無色界とは物質的なものを超えた世界で、それをいとい離れて四無色定を修めた者の世界で、高い精神的立場をあたえ、無色界の最高のところを有頂天という。世間において「有頂天になる」といって、得意の絶頂にあることをあらわすのは、この意味で、迷いの世界での最高処にあることからいわれたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja|世間}}&lt;br /&gt;
[[Category:仏教|せけん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>166.70.207.2</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>世間</title>
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				<updated>2007-05-30T04:01:36Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;166.70.207.2: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=世間&amp;amp;oldid=12826987&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Buddhism}}&lt;br /&gt;
'''世間'''（せけん）とは、[[仏教]]用語であり、[[出世間]]（しゅっせけん）とあわせてこの世を二分して見る言葉である。移り変り、破壊を免れない迷いの世界という意味である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、日本ではこの用語は一般名詞化して、「この世」「世の中」「[[社会]]」のことを表す用語として使われている。転じて歴史学者の[[阿部謹也]]は、日本社会が Society の訳語としての「社会」に当てはまらない性質があるとして、旧来の「世間」の呼称を採用し、西欧的「社会」との比較研究としての「世間論」を展開した。また、「世間」と書いて「よのなか」と読むこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==語源==&lt;br /&gt;
世間の原語である[[サンスクリット]]語のローカ「'''loka'''」は、「砕く」という意味の動詞「luj」から派生して「滅すべきもの」の意味である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このローカに[[界]] (dhaatu) を加えて、ローカ・ダートゥ (loka-dhaatu) といい、世間界の意味である。ダートゥは一般に構成要素の意味であるが、ここでは範囲とか領域と解釈すべきである。このローカ・ダートゥは、「[[世界]]」といわれ、サンスクリット語では「クシェートラ」(kSetra) ともいわれる。この場合は、所有するという意味のクシ (kSi) から派生してクシェートラとなるから、所有地・領地の意味の国土である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==意味内容==&lt;br /&gt;
'''世間'''（ローカ）からラウキカ (laukika)、すなわち「[[世俗]]」の語がつくられた。ローカ自身には別に悪い意味はないが、迷いの世界として世間を意味する場合が多い。&lt;br /&gt;
この場合、世間の「世」とは「遷流」（せんる）の意味で移り変わること、「破壊」の意味で壊れること、「覆真」（ふしん）の意味で真実を覆っていることなどと解釈される。また「間」は「間隔」の意味で、ものが個々別々に差別化されてみられることと解釈される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように'''世間'''とは、本来一味平等であるものに区別を作って、それにこだわって生活しているから、真実がおおわれ、無常であり、破滅すべきものと説かれる。このように一般に世間といわれている使い方とは違って、仏教では、深い人間的反省が込められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出世間==&lt;br /&gt;
{{Main|出世間}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような壊れてゆく世界に対して、仏や菩薩のような世界は、'''出世間''' (loka-uttara) といわれ、世間をこえた境界といわれる。この意味で、仏教でいう'''世間'''は、単に物質的なものではなく、精神的な境界の意味が、その根本的な立場である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三世間==&lt;br /&gt;
これらの境界が、いわゆる物質的なものを含めて、環境一般をも意味するようになると、「[[衆生]]世間」「器世間」「五蘊世間」の'''三世間'''が説かれる。&lt;br /&gt;
*'''衆生世間'''とは、生命のあるもの&lt;br /&gt;
*'''器世間'''とは山河大地など&lt;br /&gt;
*'''五蘊世間'''とは、人間を構成し、世界を構成している構成要素をいう。これらも[[五蘊]]（ごうん）が色受想行識であることから考えると、単なる物質的要素でなく、精神的なものを主としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三界==&lt;br /&gt;
この迷いの世界や悟りの世界について、インド古来の[[須弥山]]世界説がもちこまれて解釈がなされるようになると、元来、精神的存在であったものが、物質的存在と解釈されるようになり、[[欲界]]・[[色界]]・[[無色界]]の[[三界]]を立て、また、地獄などの[[六道]]をたてることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、この三界を迷の世界であるとして、&lt;br /&gt;
* 欲界　　四悪趣、四洲、六欲天、&lt;br /&gt;
* 色界　　四禅天、大梵天、浄居天、無想天、無色界に四空処など&lt;br /&gt;
* 無色界　仏国土、浄土など、さらに声聞や縁覚や菩薩などの世界&lt;br /&gt;
迷悟両界で十界などともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、仏教もこの世界を物質的世界として説くが、本意は精神的なものが中心である。よって三界説も、欲界から色界へ、色界から無色界へと、人びとの精神生活の純化の段階を示したものと受け取られる。&lt;br /&gt;
* 欲界は淫欲、食欲の二欲を中心として生活する者の住むところで、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道があり、この天界を六欲天という。&lt;br /&gt;
* 色界は二欲をはなれたものの世界で、衆生の肉体が殊妙であるから色界といい、物質的な世界だが、実は精神的なものが中心となるから、四禅天がそれである。&lt;br /&gt;
* 無色界とは物質的なものを超えた世界で、それをいとい離れて四無色定を修めた者の世界で、高い精神的立場をあたえ、無色界の最高のところを有頂天という。世間において「有頂天になる」といって、得意の絶頂にあることをあらわすのは、この意味で、迷いの世界での最高処にあることからいわれたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:仏教|せけん]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Loka]]&lt;br /&gt;
[[fr:Loka]]&lt;br /&gt;
[[pt:Loka]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>166.70.207.2</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>ナージャ</title>
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				<updated>2007-05-29T03:06:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;166.70.207.2: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ウィキペディア日本語版]]の利用者には、数多くの興味深い利用者が存在する。ウィキペディア日本語版に対してユニークな活動を行った利用者が、この項目にリストアップされるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:KMT ==&lt;br /&gt;
利用者:KMTはウィキペディア日本語版の管理者&amp;lt;ref&amp;gt;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:KMT&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;http://mywebpage.netscape.com/kasumoerer/kmt_dead.htm （←エンコードはUTF-8でご覧ください。）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、自らの利用者ページを削除した馬鹿野郎である。二浪の後大阪歯科大学を2007年4月に卒業していることがわかっている。Mixiのアカウントには「活動終了」などと書かれているが、実は頻繁に深夜にログインしていることがわかっている。自分の発言に法的責任を問われると感じた瞬間、全てのMixiコミュニティから退会したへたれ。利用者:Akinonijiも同種の詭弁を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:kzhr ==&lt;br /&gt;
利用者:kzhrは本名を岡田一祐と名乗るウィキペディアの元管理者。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年ごろから自分の意に沿わない発言を数十もMixiコミュニティから削除したことで、法的責任が問われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィキソースにNoda,Kentaroがログインしたところ、次のような表示になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 ご使用の利用者名またはIPアドレスは Kzhr によって投稿をブロックされています。その理由は次の通りです。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 不適切な利用者名&lt;br /&gt;
 ブロック解除予定: 無期限&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 Kzhr または他の管理者にこの件についてメールで問い合わせることができます。&lt;br /&gt;
 ただし、オプションに正しいメールアドレスが登録されていない場合、「この利用者にメールを送信」機能が使えないことに注意してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岡田くーん！嫉妬は良くないよー！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:Radioactive ==&lt;br /&gt;
利用者:Radioactiveはなぜか一般利用者の癖して、岡田一祐とつるんでいるMixiユーザー。Mixiではいぬみみめいどと名乗っていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Mixiのログを規約違反を行いながらいろいろな所に晒し、発信者開示請求をくらった馬鹿。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:野田文憲 == &lt;br /&gt;
ウィキペディア日本語版にいる、悪質なソックパペットの一つ。「音楽家気取りの息子」がパスポートや住民票で確認されない限り、虚偽を利用者ページに書いたことからはアカウント作成者は逃げられない。この手のソックパペットは管理ユーザーが作成する。はてなキーワードとyourpediaで詳細な追求を行った後に、なぜか無期限ブロックされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:Yassie ==&lt;br /&gt;
人のメールを無断転載することで有名&amp;lt;ref&amp;gt;http://lists.wikimedia.org/pipermail/wikija-l/2007-May/001589.html&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:coq ==&lt;br /&gt;
人のメールを無断転載することで有名&amp;lt;ref&amp;gt;http://lists.wikimedia.org/pipermail/wikija-l/2007-January/001409.html&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:Yukichi99 ==&lt;br /&gt;
人の意見をすぐ削除することで有名&amp;lt;ref&amp;gt;http://mywebpage.netscape.com/kasumoerer/yukichi_dead1.htm （エンコードはUTF-8でご覧ください。）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;http://mywebpage.netscape.com/kasumoerer/yukichi_dead2.htm （エンコードはUTF-8でご覧ください。）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:Koba-chan ==&lt;br /&gt;
クラシックの演奏家に向かって「馬鹿とはさみは使いよう」と吐き捨てることで有名&amp;lt;ref&amp;gt;http:/mywebpage.netscape.com/kasumoerer/koba1.JPG&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;http:/mywebpage.netscape.com/kasumoerer/koba2.JPG&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>166.70.207.2</name></author>	</entry>

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