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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>トーク:アメリカ独立戦争における女性達</title>
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				<updated>2007-05-29T03:27:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;128.197.11.30: すみません。コピペミスで記事名を間違いました。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== すみません、記事名を間違いました ==&lt;br /&gt;
すみません。コピペミスで記事名を間違いました。ログインユーザの方、どなたか移動しておいて下さい。--[[利用者:128.197.11.30|128.197.11.30]] 2007年5月29日 (火) 12:27 (JST)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>128.197.11.30</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC&amp;diff=5345</id>
		<title>ムハンマド・アリー</title>
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				<updated>2007-05-29T02:44:13Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;128.197.11.30: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ムハンマド・アリー&amp;amp;oldid=11853705&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{anotheruse|エジプトのムハンマド・アリー朝の創始者|アメリカ合衆国のボクサー|モハメド・アリ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ムハンマド・アリー'''（[[アラビア語]] : '''&amp;amp;#1605;&amp;amp;#1581;&amp;amp;#1605;&amp;amp;#1583; &amp;amp;#1593;&amp;amp;#1604;&amp;amp;#1610;''' Muhammad &amp;amp;#145;Al&amp;amp;#299;, [[1769年]]?－[[1849年]][[8月2日]]）は、[[オスマン帝国]]の属州[[エジプト]]の支配者で、[[ムハンマド・アリー朝]]の創始者。[[トルコ語]]でメフメト・アリー(Mehmed Ali)ともいう。オスマン帝国のエジプト総督ながらエジプトに半独立政権を樹立し、専制支配のもとで富国強兵政策を強行して近代エジプトの基礎を築いた。&lt;br /&gt;
[[画像:Mehmetali pacha.gif|thumb|right|200px|ムハンマド・アリー]]&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
ムハンマド・アリーは、[[マケドニア|マケドニア地方]]の東部の港町[[カヴァラ]]（現[[ギリシャ]]領[[テッサロニキ]]近郊）で下級軍人の家庭に生まれた。民族的な出自は[[アルバニア人|アルバニア系]]とも[[トルコ人|トルコ系]]とも[[クルド人|クルド系]]とも言われるが、アルバニア系とする見解が多く見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父のイブラヒム・アーはカヴァラ市長官に仕える不正規部隊の司令官に就くかたわらで、[[タバコ]]取引に従事する商人でもあった。幼いころに父を失ったムハンマド・アリーは、父の主君である市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき主君の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ムハンマド・アリーの独特の国際感覚は、このカヴァラで過ごした青年時代に多くの民族、外国人の商人たちと交渉を積む中で培われたと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エジプト上陸 ==&lt;br /&gt;
[[1798年]]に[[ナポレオン・ボナパルト]]率いる[[フランス]]軍が[[エジプト遠征]]を開始すると、エジプトの宗主国であるオスマン帝国は、フランス軍との戦いのためにバルカン半島方面から軍隊を派遣したが、その一部としてアルバニア人不正規軍が編成された。このとき、カヴァラ市でも長官によっておよそ300人のアルバニア人不正規兵が集められ、長官の子息が隊長、ムハンマド・アリーが副隊長に任命されてエジプトに派遣された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カヴァラ市のアルバニア人部隊はオスマン帝国軍の一翼としてエジプトに上陸しようとしたが、最初の上陸作戦はフランス軍に阻まれて失敗に終わり、これに怖気づいた隊長がカヴァラに帰国してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かわってカヴァラ市のアルバニア人部隊の隊長となったムハンマド・アリーは、優れた軍才と政治能力を発揮してたちまちオスマン帝国軍の間で頭角を現していった。フランス軍の撤退した[[1801年]]には、彼は全アルバニア人不正規軍の副司令官にのぼっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 権力掌握 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Sultan mohemmed ali.png|thumb|right|250px|[[トルコ帽]]を着用したムハンマド・アリーの像]]&lt;br /&gt;
遡ってフランス軍の侵入以前、[[18世紀]]のエジプトでは[[マムルーク朝]]以来の支配者である[[マムルーク]]たちが政治の実権を握ってオスマン帝国の中央政府の支配からかなり自由になっていた。しかしフランスの遠征は結果的にマムルークたちの力を大幅に削ぐことになり、エジプトに集結したオスマン帝国軍の内部で新たなエジプトの支配者の座を巡る対立が起こった。[[1803年]]、2年前のフランス撤退後もエジプトに駐留していた[[イギリス]]軍がエジプトを撤収すると、たちまちオスマン帝国軍はエジプトの主導権を巡る内紛を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この内紛において、ムハンマド・アリーは暗殺された司令官に代わってアルバニア人不正規軍の司令官となり、権力闘争の一方の主役となった。彼はエジプト総督、マムルークを次々に破って混乱を収拾し、[[1805年]]に[[カイロ (エジプト)|カイロ]]の[[ウラマー]]（宗教指導者）、市民による推挙という手続きをとって自らエジプト総督（[[ワーリー]]）に就任することを宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オスマン帝国の[[セリム3世]]はムハンマド・アリーの実力を認めざるを得ず、前任の総督の罷免、ムハンマド・アリーの総督就任と[[パシャ]]の称号授与を勅許した。これにより、ムハンマド・アリーは名実ともにエジプトの支配者としての第一歩を踏み出す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== マムルーク覆滅 ==&lt;br /&gt;
ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任した1805年の時点では、エジプトの地方では依然として[[ベグ|ベイ]]の称号をもつマムルークの有力者たちが実権を握っており、彼らはムハンマド・アリーの総督権力と対立していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マムルークたちは、イスタンブルのセリム3世とエジプトのムハンマド・アリーがフランスのナポレオンに接近することを恐れたイギリスと結び総督を牽制しようとしたが、[[1807年]]、エジプト上陸を敢行したイギリス軍はエジプト軍に大敗を喫した。この戦いの結果、ムハンマド・アリーに抵抗していたマムルークたちはその軍事力に威圧されることになり、[[1809年]]までに全てのマムルークがムハンマド・アリーに屈服した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
有力なマムルークたちは屈服すると服従の証としてカイロへ移住させられ、マムルークのほとんどがムハンマド・アリーの膝下に集められた。しかし、カイロにいようとも彼らは旧支配勢力として、依然として新支配者ムハンマド・アリーの潜在的な脅威であり、中央集権化を進めようとはかるムハンマド・アリーにとっては、地方に影響力を持つマムルークは排除すべき対象であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1811年]][[3月11日]]、ムハンマド・アリーは式典を名目としてマムルークたちをカイロのシタデル（城塞）に招き、その帰路にシタデルからカイロの町に降りる途中の隘路で挟撃・虐殺し、降服したものも斬首するという強硬手段を行ってマムルークを一掃した。これにより過去300年間にかつて存在しなかったエジプト全域に対する総督の支配が実現する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 財源の改革 ==&lt;br /&gt;
ムハンマド・アリーは、エジプトの近代化を進めるにあたっての資本として、「[[ナイル川|ナイル]]の賜物」と呼ばれる豊かなエジプトの農業生産力に目をつけた。彼は服属した地方に対して[[検地]]を行って税源を確立させ、戦乱で荒廃した[[デルタ]]地方の灌漑水路を復興させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[古代エジプト]]時代以来、エジプトの灌漑は伝統的な自然の[[洪水]]に頼っていたが、ムハンマド・アリー以降は水路によって常に豊かな水が供給されるようになり、新たな農地の開墾や[[綿花]]や[[桑]]などの商品作物の栽培が進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、それまでエジプトでは地方の有力者に徴税を肩代わりさせる[[徴税請負制]]をとっており、それが地方支配者であるマムルークたちの権力と財力の源泉にもなっていたが、ムハンマド・アリーは税制改革を断行し、農地の直接徴税制を導入して、イスラム法（[[シャリーア]]）に定められた[[イスラム国家]]の原則である土地の国有制を再確認させた。そのために徴税請負人からの請負権の没収、免税地への課税が段階的に進められ、[[1814年]]までに徴税請負制が全面的に廃止された。ムハンマド・アリーの税制改革により、全ての農地は国税台帳に記載されて政府からの直接徴税を受けることになり、わずか十数年の間に税収の総額は10倍に激増した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農業生産を国家の収入とするためのもうひとつの方策は、莫大な利益をもたらす外国向けの輸出を独占することであり、政府が公定価格で農民から収穫物を購入して外国商人に販売する[[専売制]]がとられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトは[[古代]]以来[[地中海]]沿岸諸国の穀倉であったが、ムハンマド・アリーはまず小麦を専売とし、折からの[[ナポレオン戦争]]で補給を必要とするヨーロッパ諸国に売却した。エジプト小麦は主に1807年の侵入後和解したイギリス軍に供給され、エジプト財政に莫大な利益をもたらした。この成功により、専売制の利を悟ったムハンマド・アリーは、ナポレオン戦争の終結した[[1816年]]以降は商品作物に専売を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして綿花、[[サトウキビ]]、[[亜麻]]、[[絹]]、[[胡麻]]、[[蜂蜜]]などが専売制で取引されるようになると、専売制による収入は政府歳入の4分の1強に及んだ。国外からの需要が特に多かったのは綿花であり、ムハンマド・アリーの治世後期には綿花栽培が隆盛を迎えた。輸出を支えるために国内運輸も整備され、貿易港[[アレクサンドリア]]と首都カイロを結ぶ[[運河]]をはじめとする[[水運]]が発達した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 富国強兵 ==&lt;br /&gt;
ムハンマド・アリーは改革で得た豊かな収入を財源として、西洋式の新式軍を整備し、軍需工場を中心に近代的な[[工場]]を国営で設立した。また、これらを支える人材を確保するためにフランスをはじめヨーロッパ諸国から軍人や技術者、教師を招いた。エジプト人に近代的な知識を身につけさせるためヨーロッパ出版物の翻訳・出版を行う翻訳局が設立され、優秀な若者は[[パリ]]に留学生として送られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1822年]]には[[ムスリム]]（イスラム教徒）を対象とする[[徴兵制]]が実施されるが、翌年その対象はエジプト社会の少数派である[[コプト教会]]の[[キリスト教徒]]にまで拡大された。またヨーロッパ人を教師とする近代的な高等学校や伝統的な[[イスラム教|イスラム]]教育にかわって実用的な学問を教える中等・初等学校が設立された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、ムハンマド・アリーは税制や教育、兵役など民衆の義務は、あらゆる面で全エジプト人が宗教の帰属にかかわりなく平等に（ただ兵役に関しては男女差別が見られるが）扱われる新時代の道を開いた。その結果、伝統的な[[イスラム共同体]]の枠組みを越えた近代的なエジプト[[国民]]の意識が創出されていくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍事的拡大 ==&lt;br /&gt;
ムハンマド・アリーがエジプトで着々と改革を進めていた頃、[[アラビア半島]]の内陸部[[ナジュド]]地方では[[第一次サウード王国]]がイスラム教の改革思想である[[ワッハーブ派|ワッハーブ主義]]を掲げて勢力を拡大しつつあった。オスマン帝国は、ワッハーブ運動の拡大を防ぐためサウード王国と戦う必要に迫られたが、軍事的な衰退著しく、独力でワッハーブ運動を鎮圧する力をもたなかったので、ムハンマド・アリーに応援を要請した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1818年]]、ムハンマド・アリーの長男[[イブラーヒーム・パシャ|イブラーヒーム]]率いるエジプト軍はアラビア半島に進軍し、ワッハーブ軍を打ち破ってサウード王国を滅亡に追いやった。これに自信を得たムハンマド・アリーは[[1820年]]から積極的な拡大政策を取り、ナイル川上流の[[スーダン]]に進出してその北部を版図に加えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これと同じ頃、[[1821年]]に勃発した[[ギリシャ独立戦争]]でもギリシャ軍を独力で鎮圧できないオスマン帝国の求めに応じ、ギリシャに派兵する。しかしこの戦いではイギリス、フランス、[[ロシア帝国|ロシア]]がギリシャ側に参戦し、[[1827年]]の[[ナヴァリノの海戦]]でオスマン・エジプト連合艦隊が大敗を喫するなど大きな犠牲を払った末に失敗に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ムハンマド・アリーの覇権 ==&lt;br /&gt;
ギリシャ独立戦争の後、領土拡大の矛先は宗主国オスマン帝国にも向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先にムハンマド・アリーは、ギリシャ独立戦争の代償として[[歴史的シリア|シリア地方]]4州の行政権を約束されていたが、オスマン帝国の[[マフムト2世]]は独立戦争鎮定失敗を理由にこれを反故にした。これに対してムハンマド・アリーは[[1831年]]にイブラーヒームをシリアに遠征させ、武力でこれを奪取する挙に出る（第一次[[エジプト・トルコ戦争]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イブラーヒームの軍が[[アナトリア半島|アナトリア]]にまで進出して[[イスタンブル]]に圧力をかけると、オスマン帝国はロシアに支援を要請して対抗しようとし、ロシア軍を援軍に招いてイスタンブル郊外に駐留させた。しかし、これをきっかけに列強がこの問題に介入し、結局[[1833年]]になってオスマン帝国とエジプトはムハンマド・アリーに一時的にシリアの行政権を譲ることで和解した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一次エジプト・トルコ戦争は結果としてムハンマド・アリーの政治的勝利に終わり、エジプトは先に手に入れていたスーダンと、新たに支配下におさめたシリアに加え、アラビア半島中央部のナジュド地方や[[イエメン]]も勢力圏内に置き、オスマン帝国宗主権下のアラブ圏に広大な支配地域を確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、この戦争は宗主国であるオスマン帝国のムハンマド・アリーに対する敵意を煽り、また[[ペルシア湾]]や[[アデン]]でムハンマド・アリーと勢力圏を接するようになったイギリスとの対立関係を深めることになった。そもそもイギリスは、親フランスであるムハンマド・アリーが勢力を拡大することで、軍事的な要衝である西アジアに対する自国の影響力が失われることを恐れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 拡大の限界 ==&lt;br /&gt;
[[1830年代]]の後半に入ると、老境に入ったムハンマド・アリーは自身の死後にもエジプトとシリアの自立と近代化を進めるためには、エジプト支配圏をオスマン帝国の宗主権から完全に独立させる必要を感じるようになっていた。ムハンマド・アリーはフランスなどの支持を得てエジプトの独立をオスマン政府に認めさせようとしたが、イギリスをはじめ列強の強い反対にあって失敗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この要求を知ったマフムト2世はムハンマド・アリーに対する敵意をより募らせ、[[1839年]]、イギリスの後ろ盾を得てエジプトのシリア司令官イブラーヒームが駐留する[[アレッポ]]に向けてオスマン帝国軍を進撃させた（第二次エジプト・トルコ戦争）。しかしその緒戦はイブラーヒーム率いるエジプト軍の勝利に終わり、さらにマフムト2世が敗北の知らせを聞くことなく急死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新たに即位した[[アブデュルメジト1世]]は若くマフムト2世ほどの指導力に欠け、オスマン政府はムハンマド・アリーの子孫にエジプトの総督職を世襲させるという妥協案を提示して和解をはかった。ムハンマド・アリーはこれを聞いて自らイスタンブルに赴き、全支配圏の世襲支配を交渉で勝ち取ろうとしたが、ムハンマド・アリーのこれ以上の勢力拡大を嫌った列強はただちにこれに介入した。フランスはムハンマド・アリーに同情的であったが、イギリスは列強の強調により圧力をかけようとし、[[1840年]][[7月15日]]にロシア、[[オーストリア]]、[[プロイセン]]とロンドンで四カ国協定を結んでムハンマド・アリーに撤兵を迫った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスはオスマン帝国と共同でシリアへの上陸作戦を敢行し、またこれに呼応してシリアの各地でオスマン帝国に扇動された反乱がおこった。[[11月15日]]、イギリス艦隊がエジプトの目前に迫るとムハンマド・アリーはついに屈服した。長い交渉の末、翌[[1841年]][[6月1日]]にムハンマド・アリーの子孫にエジプト総督職の世襲を認める代償としてシリアおよびアラビア半島の全領土の放棄、陸軍兵数の制限、軍艦新造の禁止などムハンマド・アリーにとって厳しい条件で和平が結ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二次エジプト・トルコ戦争はムハンマド・アリーの政治的敗北に終わったが、エジプトはイスタンブルのオスマン政府からの政治的自立と[[ムハンマド・アリー朝]]による世襲支配を承認され、近代の独立エジプト国家の礎が開かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 近代化の挫折 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Mosquee_mehemet_ali_le_caire.jpg|right|250px|thumb|ムハンマド・アリー・モスク（カイロ）]]&lt;br /&gt;
ムハンマド・アリーの近代化は短い期間に大きな成果をあげたが、それは農民の大きな負担に支えられていた。免税地の削減や検地は土地税の実質的な増額となって農民にのしかかり、また専売制は農民の労働意欲を失わせた。灌漑水路や運河の建設も農民の労役によって行われ、また水路の底にたまった泥をさらう作業も負担となった。徴兵制も急速な軍隊の拡張のために強引な手段で行われ、兵役逃れが横行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした農民に対する厳しい負担は、外国の[[資本]]に頼らない近代化をもたらすという側面もあったが、第二次エジプト・トルコ戦争の敗北がこれを挫折に追いやった。[[1838年]]にイギリスはオスマン帝国と通商条約を結び、オスマン帝国全土におけるイギリス人の自由貿易を認め、[[関税]]を帝国全土で一律にかけることを認めていた。これが条文通りに適用されればオスマン帝国の一部であるエジプトはイスタンブルが列強に押し付けられて認めた低い関税率を適用せざるを得なくなり、専売貿易制は打撃を受ける。このためムハンマド・アリーはこの条約の履行を拒否し、先の独立の要求もこの条約がひとつの原因となっていた。しかしロンドン四カ国協定はエジプトの独立を否定したうえに、エジプトが通商条約を遵守することを求めたので、屈服したムハンマド・アリーもこれを飲まざるを得なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトに自由貿易が適用されると、専売制に基づく貿易の国家独占は否定され、専売制は崩壊した。また工業の分野でも、生産技術が未熟で高コストな製品しかつくれない国営工場を辛うじて守っていた高い関税が撤廃された結果、多くの工場が閉鎖を余儀なくされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経済発展の資本を農業収入に頼る脆弱なエジプトの近代化は、ムハンマド・アリーのような専制君主の支配する強力な中央集権国家が外国の干渉を退けつつ進めなければ実現不可能な大事業であった。しかし、エジプトはあくまでオスマン帝国の属州に過ぎないという前提条件と、政治的・軍事的に重要なエジプトが独力で近代化することを望まない列強の干渉というふたつの大きな政治的限界を、ムハンマド・アリーは乗り越えることができなかった。こうしてムハンマド・アリー晩年のエジプトは近代国家建設を挫折することになった。もっとも、戦争終結後はオスマン政府や列強との関係が修復されたので、エジプトは政治的には安定をみた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1847年]]、ムハンマド・アリーは高齢を理由に政治の実権を長男のイブラーヒーム・パシャに譲った。しかし翌[[1848年]]、イブラーヒームの総督即位がオスマン帝国政府の承認を得た矢先に彼は父に先立って病没し、かわって孫の[[アッバース・パシャ]]が即位した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
失意と老衰によって衰弱したムハンマド・アリーはカイロ市中の自邸内に篭りきりになり、翌年8月に没した。遺骸はカイロのシタデルの丘に運ばれ、丘の上に生前建設された[[ムハンマド・アリー・モスク]]に葬られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Muhammad Ali Pascha|ムハンマド・アリー}}&lt;br /&gt;
* 新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年&lt;br /&gt;
* 岩永博『ムハンマド=アリー 近代エジプトの苦悩と曙光と』清水書院、1984年&lt;br /&gt;
* 坂本勉ほか（編）『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年&lt;br /&gt;
* 佐藤次高（編）『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年&lt;br /&gt;
* 牟田口義郎『カイロ』文藝春秋、1999年&lt;br /&gt;
* 山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論社、1996年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[ムハンマド・アリー朝]]君主|1805年 - 1848年| |[[イブラーヒーム・パシャ]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:アルバニアの人物|むはんまとあり]]&lt;br /&gt;
[[Category:イスラム史の人物|むはんまとあり]]&lt;br /&gt;
[[Category:エジプトの歴史|むはんまとあり]]&lt;br /&gt;
[[Category:オスマン帝国の軍人|むはんまとあり]]&lt;br /&gt;
[[Category:ムハンマド・アリー朝の君主|むはんまとあり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1769年生|むはんまとあり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1849年没|むはんまとあり]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Featured_article}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link_FA_pl}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|es}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ar:محمد علي باشا]]&lt;br /&gt;
[[cs:Muhammad Alí]]&lt;br /&gt;
[[da:Muhammad Ali Pasha]]&lt;br /&gt;
[[de:Muhammad Ali Pascha]]&lt;br /&gt;
[[en:Muhammad Ali of Egypt]]&lt;br /&gt;
[[eo:Muhammad Ali (paŝao)]]&lt;br /&gt;
[[es:Mehmet Ali]]&lt;br /&gt;
[[fa:محمدعلی پاشا]]&lt;br /&gt;
[[fi:Muhammad Ali (Egypti)]]&lt;br /&gt;
[[fr:Méhémet Ali]]&lt;br /&gt;
[[he:מוחמד עלי (שליט מצרים)]]&lt;br /&gt;
[[it:Mehmet Ali]]&lt;br /&gt;
[[nl:Mohammed Ali van Egypte]]&lt;br /&gt;
[[pl:Muhammad Ali (pasza)]]&lt;br /&gt;
[[pt:Mehmet Ali]]&lt;br /&gt;
[[ru:Мухаммед Али Египетский]]&lt;br /&gt;
[[sq:Muhamed Ali Pasha]]&lt;br /&gt;
[[sv:Muhammed Ali av Egypten]]&lt;br /&gt;
[[tr:Kavalalı Mehmet Ali Paşa]]&lt;br /&gt;
[[ur:محمد علی پاشا]]&lt;br /&gt;
[[zh:穆罕默德·阿里 (埃及)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>128.197.11.30</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6&amp;diff=5250</id>
		<title>生物学</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6&amp;diff=5250"/>
				<updated>2007-05-27T09:10:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;128.197.11.30: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''生物学'''（せいぶつがく）は[[生物]]や[[生命|生命現象]]を研究する[[自然科学]]の一分野。広義には[[医学]]や[[農学]]など[[応用科学]]・[[総合科学]]も含み、狭義には[[基礎科学]]（[[理学]]）の部分を指す。一般的には後者の意味で用いられることが多い。類義語として'''[[生命科学]]'''や'''生物科学'''がある（後述の[[#「生物学」と「生命科学」]]参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Stylonychia.jpg|thumb|120px|[[繊毛虫]]の一種 ''Stylonychia'': 生物学では全ての生物が対象となる]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Vitruvian.jpg|thumb|120px|人体: ヒトは「万物の長」ではないが、ヒト研究は現代の生物学において重要な位置を占める]]&lt;br /&gt;
[[生物多様性|生物の多様性]]と生命現象の普遍性を理解することが生物学・生命科学の目的である。扱う対象の大きさは、[[一分子細胞生物学]]における「[[細胞]]内の一[[分子]]の挙動」から、[[生態学]]における「[[生物圏]]レベルの現象」まで幅広い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生物学の萌芽は[[古代ギリシア]]に見られ、[[アリストテレス]]が生物の分類法を提示しするなどしていた。しかし、古代ギリシアの生物学は[[生気論]]・[[目的論]]的であり、そのような視点は現代の[[自然科学]]では基本的に否定されている。現代生物学の系譜は、[[17世紀]]の[[科学革命]]を経て自然科学が成立した[[近世]]以降に、[[博物学]]の一領域として始まったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代の生物学者は[[機械論]]の立場を取り、生物は[[有機化合物]]などの[[物質]]から構成された複雑な[[機械]]であると見なす。理論的には生命現象はすべて[[物理学]]の言葉で説明できるとされている。一つ一つの要素を解明していく[[還元主義]]の有効性は失われていないが、還元主義だけで複雑な生命現象を理解する試みには限界が見えはじめたため、生物を[[複雑系]]として扱う考えかたも発展してきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生物学では、ヒトを特別な[[種 (生物)|生物種]]としては扱わない。しかし、我々自身がヒトであり、その研究は[[医療]]や[[産業]]などと関連しているため、生物学の中でヒト研究は重要であり関心も高い。「生命科学」はヒトの理解を中心とすると定義されている。生物学研究の成果は医療や農業における基礎を提供し、応用面で人類に大きな利益をもたらしている。生物学に関連する産業は[[バイオ産業]]と呼ばれ、[[情報技術|IT]]産業と並び発展性のある大きな[[市場]]を形成し、[[経済]]的にも重要な位置にあるとされる。生物学の知見や技術は生命の根幹に大きく関わるようになり、[[倫理学|倫理]]的・[[社会]]的な影響も注目されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Portal:生物学]]、[[生物学に関する記事の一覧]]、[[:Category:生物学]]、[[生物学史]]も参照せよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生物学研究の概要 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Illustration_Cheilanthes_marantae0.jpg|thumb|120px|ドイツの植物学者オットー・ウィルヘルムによる[[シダ植物]]の記載（1885年）]]&lt;br /&gt;
生物学では、他の[[自然科学]]分野と同様に、記載・[[実験]]・[[理論]]といった[[科学的方法]]によって研究が行われる（ここでの「理論」は方法論としての理論を指す）。これらは独立したものではなく、それぞれが関連し合って一連の研究を形作る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記載とは、詳細な[[観察]]に基づいて基礎となる事象を明らかにすることであり、研究において最も始めに行われる。[[種 (生物)|生物種]]を[[同定]]するための形態学的観察をはじめとして、実験操作を加えない状態での発生現象や細胞構造の観察、生理条件下での生理活性物質の測定、ひいては[[ゲノムプロジェクト|ゲノムの解読]]も記載と言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実験は人為的に操作を加えることにより通常と異なる条件を作り出し、その後の変化を観察・観測することで、生物に備わっている機構を解明しようとする[[実証主義]]的な試みである。[[突然変異]]の誘発や、[[遺伝子導入]]、移植実験などさまざまな手法を使う。現代生物学は実験生物学の性質が強くなっている。実験操作は[[科学的方法]]に基づき、[[対照実験]]や[[再現性]]の確認などにより、実験者の主観が除かれる必要がある。&lt;br /&gt;
[[画像:Trilobite_southern_France_001.jpg|thumb|120px|left|[[三葉虫]]の[[化石]]: 化石は生物進化を探る手がかりである]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[進化]]や[[生物圏]]レベルの生態学研究のように実験による証明が困難である場合は、様々な[[観測]]データや[[古生物]]の[[化石]]などを用い、比較や構造化など理論による説明を試みる。また[[バイオインフォマティクス]]のように膨大なデータを統合して理解しようとする場合も、理論によるアプローチに重点が置かれる。実験を行う前に[[仮説]]を立て結果を予想したり、実験結果を解釈して抽象化や普遍化させて法則や規則性を見いだしたりすることも理論の一部である。このような理論面に重点を置いた分野を[[理論生物学]]、数理モデルを用いる分野を[[数理生物学]]とよぶ。これらの分野は高度に抽象化するため、対象の生物学的階層には捕われない性質がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新たな方法論として、蓄積したデータに基づいて[[コンピュータ]]上に仮想システムを構築することで構造を理解したり、そのパラメータを変化させる[[シミュレーション]]により実験の代わりとする[[システム生物学]]も登場している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 還元主義と複雑系 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Common_clownfish.jpg|thumb|right|[[共生]]関係にある[[クマノミ]]と[[イソギンチャク]]: 生物と環境が作り出す生態系は複雑である]]&lt;br /&gt;
これまで、生命科学・分子生物学周辺の分野では、一つの遺伝子・タンパク質の機能に注目する還元主義的なアプローチが主体だった。この手法は強力で、さまざまな生命現象を解き明かしてきた。しかし、分子レベルで明らかにしたことを組み合わせるだけでは、脳の活動や行動など複雑な現象は理解しがたく、還元主義のみでは限界があることもわかってきた。このことへの反省もあり、物理学的還元主義への傾倒から抜け出し、近年は生物を[[複雑系|複雑な系]]としてそのままあつかうアプローチもとられはじめている。一方、[[生物多様性]]をあつかう伝統的な生物学や生態学では、生物の作りだす系が複雑であることは自明だったため、複雑系のような全体論は目新しいものではない。生物学の両輪である、生物の多様性と普遍性に関する知見は、[[ゲノム]]解析によって結びつけられつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大きなパラダイムシフト ===&lt;br /&gt;
生物学の[[パラダイム]]を大きく変えたものには[[細胞]]の発見、[[進化]]の提唱、[[遺伝子]]の示唆、[[二重らせん|DNA の構造決定]]、[[ゲノムプロジェクト]]の実現などがある。細胞やゲノムプロジェクトは主に技術の進歩によってもたらされ、進化や遺伝子は個人の深い洞察によるところが大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Clostridium_botulinum.jpg|thumb|right|120px|[[ボツリヌス菌]]: 顕微鏡は、微生物や細胞を見る「目」となった]]&lt;br /&gt;
[[17世紀]]に発明された[[顕微鏡]]による細胞の発見は、[[微生物]]の発見をはじめとして、[[動物]]と[[植物]]がいずれも同じ構造単位から成っていることを認識させ、[[動物学]]と[[植物学]]の上位分野として生物学を誕生させることになった。また[[自然発生説]]の否定によって、いかなる細胞も既存の細胞から生じることが示され、[[生命の起源]]という現在も未解明の大きな問題の提示につながっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
進化は[[チャールズ・ダーウィン]]をはじめとする数人の博物学者によって[[19世紀]]に提唱された概念である。それまでは経験的にも[[宗教]]的にも、生物種は固定したものとされていたが、現在では、同じ種の中でも形質に多様性があり、生物の形質は変化するものとされ、種の区別が困難なものもあるという指摘がされている。単純な生物から多様化することで現在のような多様な生物が存在すると考えることが可能になり、生命の起源を研究可能なテーマとすることができるようになった。進化論は社会や思想にも大きな影響を与え、近代で最も大きなパラダイムシフトの1つだった。なお、俗に進化は進歩とよく混同されるが、進化の本質は多様化であり、より高等・複雑な状態への変化はその一面にすぎない。&lt;br /&gt;
[[画像:Dna-split.png|thumb|120px|複製されるDNA: 二重らせんがほどけて複製されることは、遺伝の最も根源にある物理的現象である]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[遺伝]]自体は古くから経験的に知られていた現象である。しかし、19世紀後半、[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]は交雑実験から[[メンデルの法則|遺伝の法則]]を発見し、世代を経た後にも分離可能な因子、すなわち[[遺伝子]]が存在することを証明した。さらに[[染色体]]が発見され、20世紀前半の遺伝学・細胞学による研究から、染色体が遺伝子の担体であることが確証づけられた（[[染色体説]]参照）。この過程において古典的な[[遺伝学]]が発展し、その後の分子生物学の誕生にもつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1953年]]、[[ジェームズ・ワトソン]]、[[フランシス・クリック]]らが、[[X線回折]]の結果から、立体模型を用いた推論により遺伝物質 [[デオキシリボ核酸|DNA]] の[[二重らせん]]構造を明らかにした。DNA構造の解明は、分子生物学の構造学派にとって最大の成功である。相補的な2本の分子鎖が逆向きにらせん状構造をとっているというモデルは、[[染色体]]分配による[[遺伝]]のメカニズムを見事に説明しており、その後の分子生物学を爆発的に発展させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ゲノム]]という概念は、ある生物種における[[遺伝情報]]の総和として提唱された。ゲノム ''genome'' という語は遺伝子 ''gene'' と、総体を表す接尾語 ''-ome'' の合成語である。技術発展により[[ゲノムプロジェクト]]が可能になり、ゲノム研究は、生物学における還元論と全体論、普遍性と多様性を結びつける役割をもつようになった。生物種間でのゲノムの比較により普遍性と多様性理解への糸口を与え、還元的な研究に因子の有限性を与えることで、個々の研究を全体論の中で語ることを可能にした。他にも様々な総体に対する研究が始まっている（[[オーミクス]]参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 生物学の今後 ===&lt;br /&gt;
生物学が自然史学の一部だった時代には、記載生物学が主体だった。現代生物学は、実験が主体になっている。さらに将来は、ゲノムやプロテオーム研究などで蓄積された膨大なデータをコンピュータで処理し、そこから生命の原理に迫る理論生物学が主体になるかもしれない。同時に、実験や観察技術、コンピュータの高速化など技術発展も進むだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
純粋生物学に残された大きなテーマには[[生命の起源]]、ヒトの[[精神]]や[[心理]]、[[地球外生命体]]などがある。すでに起きてしまった生命の起源や進化は、実験で再現できない。しかし、生物物理学的・生化学的に生命（細胞）の誕生を再現する試みがされていてる。いずれ[[人工生命]]が誕生し、生命誕生を解明する手がかりとなるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトの精神や心理は、複雑すぎて生物学の範囲を超えている。しかし、[[脳科学]]研究などが進めば、いずれは精神も物理法則で説明できるようになり、[[心理学]]・[[精神医学]]と生物学は、現在よりも密接な関係になるかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地球以外に生命は存在するかという問題は、まだ生物学のテーマではないと、現在の多くの生物学者は考えている。しかし、火星やその他の惑星、衛星の探索が進み、生命やその痕跡が発見されれば、重要なテーマの一つとなるだろう。[[宇宙生物学]]も参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、医学や農学などへの応用の重要性は今後も増加していくだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生物学の諸分野 ==&lt;br /&gt;
生物学の諸分野は、各論・方法論・理論の視点から分類できる。各論は研究対象によって、方法論は手法によって、理論は普遍化された学説によって分野名がつけられる。ただしいずれの分野も、程度の差はあれ3つすべての性質をあわせもっているため、分類は便宜的なものになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 各論 ===&lt;br /&gt;
[[画像:biological_hierarchy.png|thumb|400px|right|生物学的階層性と分野の範囲: 分野は代表的なものを示した。]]&lt;br /&gt;
生物学の各論には、生物の[[生物の分類|系統分類]]と生物学的階層性という大きな2つの軸がある。前者によって分類する場合、代表的な分野は、[[動物学]]、[[植物学]]、[[微生物学]]の3つである。それぞれは系統分類にしたがってさらに細分化できる。たとえば、動物学の下位には昆虫学や魚類学などがある。これらの分野では、生物の特異性・多様性を重視する流れがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、対象の大きさ、つまり生物学的階層性を軸にすると、代表的な分野は、分子生物学・[[生化学]]、[[細胞生物学]]、[[発生生物学]]、[[動物行動学]]、[[生態学]]などがある（図）。生態学は生物群の大きさによって個体群生態学、群集生態学などに分けられる他、対象とする場所を重視する場合は森林生態学や海洋生態学、極地生態学などの名称も用いられる。生物学的階層性は生物の分類に対して横断的であり、生物の普遍性が注目される。この軸では個体レベルを境として大きく2つに分けることができる。この視点から諸分野を見ると、個体レベル以下を扱う分野は[[分子生物学]]の影響が強く還元主義的な傾向があり、個体レベル以上を扱う分野は全体論的な傾向がある。動物発生学や植物細胞学などの分野は、この2つの軸を考えるとその領域が把握しやすい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 方法論と理論 ===&lt;br /&gt;
方法論は各論分野に必要に応じて導入され、実際の研究を発展させるために必須なものである。理論は抽象化により総合的・普遍的な視点を各論に提供する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も古くからある方法論の一つは、生物の分類を扱う[[分類学]]である。分類は生物学の基礎であり、進化研究の手がかりにもなる。伝統的には形態に注目して分類されていたが、近年では分子生物学の手法を取り入れた分子系統分類がさかんである。生化学は化学的手法、分子生物学は [[デオキシリボ核酸|DNA]] 操作を使う方法論でもある。[[分子遺伝学]]や[[逆遺伝学]]から発展した[[ゲノムプロジェクト]]や[[バイオインフォマティクス]]は、新たな方法論として脚光を浴びている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生物学の理論としては、[[遺伝学]]や[[進化論]]が代表的である。遺伝学は、[[遺伝子]]の機能を間接的に観察するという方法論でもある。[[遺伝]]や[[進化]]の理論は、具体的なレベルでは未だ議論があるが、総論としては生物学に必要不可欠な基盤となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== あいまいになる諸分野の境界 ===&lt;br /&gt;
20世紀に入るまで、各分野はそれぞれ独自の手法や観点で異なる対象を研究し、内容の重複はわずかだった。しかし、20世紀後半の[[分子生物学]]の爆発的な発展や[[顕微鏡]]などの技術発展により、研究分野はさらに細分化されつつも、それらの境界はあいまいになり、分野の名称は便宜的・主観的なものになってきている。例えば、イモリの足の[[再生 (生物学)|再生]]を研究し「再生生物学」という名称を使ったとしても、再生にかかわる[[遺伝子]]は[[遺伝学]]や[[分子生物学]]、その遺伝子が作る化学物質の性質は[[生化学]]、再生する[[細胞]]の挙動は[[細胞生物学]]、[[組織 (生物学)|組織]]が正確に再生する仕組みは[[発生生物学]]、などさまざまな分野が関連する。ただし、生物の[[ドメイン (生物学)|ドメイン]]や[[界 (生物学)|界]]という上位分類ごとの差は大きく、研究の特徴も違うため、伝統的な諸分野の名称は今後も用いられるだろう。このような経緯から、「～学」という古典的な名称を、「～生物学」や「～科学」に変えることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生物学と関連する分野 ==&lt;br /&gt;
生物学は、さまざまな形で他の学問分野と関係している。概念、理論、研究手法などの面で生物学に影響を与えた自然科学の分野としては、先に発展していた[[物理学]]と[[化学]]が挙げられる。特に分子生物学以降は物理学の影響が強い。[[生化学]]や[[生物物理学]]などはこれらの境界領域の分野と言える。応用科学では[[医学]]における生化学や[[生理学]]、[[解剖学]]は、[[動物学]]や[[発生生物学|発生学]]と関連し、[[農学]]における[[育種学]]は[[遺伝学]]の誕生に寄与している。また、[[数学]]は自然科学の基礎として生物学に影響を与えているほか、特に[[数理生物学]]や[[集団遺伝学]]などでは高度に数学的な概念、分析手法が用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年では、[[ゲノム]]や[[プロテオーム]]の解析から得られる膨大なデータを処理する必要があるため、[[バイオインフォマティクス]]（生物情報学）と呼ばれる分野では[[情報学]]の方法論が取り入れられ、[[ゲノミクス]]やプロテオミクスで用いられている。また、生命現象をシステムとして理解することを目的とする[[システム生物学]]が発展しつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生物学と相互に影響しあっている分野も数多い。生態学は理論面で[[経済学]]と強い関連があり、[[地球科学]]と[[観測]]技術を共有している。これらの影響は、一方通行ではなく相互的である。同様に、医学・農学・[[薬学]]とは、研究対象・研究成果を大きく共有しており、今後も密接に関連しながら発展していくだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[人文科学|人文科学系]]の分野の中では、[[自然哲学]]の一分野である'''生物哲学'''、[[科学的方法|方法論]]としては[[科学哲学]]、倫理面を研究する[[生命倫理学]]などが生物学と対象を共有している。[[科学史]]の一分野である[[生物学史]]は、生物学の歴史が研究対象である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生物学から多くの影響を受けた分野に、理論社会学や社会思想がある。ダーウィンと同時代に生き、適者生存などの語の発案者でもある[[ハーバート・スペンサー]]や、[[エミール・デュルケーム]]は、社会の変化、特に分業の発達と構成要素の多様化を生物進化になぞらえて考察する理論を打ちたてた。彼らの学問は社会学の中でも多く知られているが、スペンサーを除けば、生物学から影響を受ける量が多く、生物学への影響は限られている。また、生物をメタファーとして社会を説明する理論にはほかに、[[マーシャル・マクルーハン]]によるメディア論や[[梅棹忠夫]]による情報産業論など、広く知られたものが多くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[システム理論]]やサイバネティックスは、生物学による生命体の理解を手がかりに、秩序や変化についての一般理論を構築している。これは社会学にも社会システム論として影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生物学の応用と問題 ==&lt;br /&gt;
生物学の知見と技術を応用に用いる分野は、[[バイオテクノロジー]]または生物工学と呼ばれる。遺伝子操作に重点が置かれる場合は遺伝子工学、[[発生 (生物学)|発生過程]]に重点が置かれる場合は発生工学ともいう。生物学の成果を実業に活用する産業は'''[[バイオ産業]]'''と呼ばれ、ITとならんで勢いのある市場であり、[[ベンチャー]]企業が次々と誕生している。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では大学の研究者が起業することも多い。[[遺伝子治療]]、[[幹細胞]]を用いた[[再生医学]]、[[一塩基多型]] (SNPs) を用いた[[オーダメイド医療]]や[[ゲノム創薬]]などが注目されている。農業や畜産関連でもバイオテクノロジーが生かされており、これらを支える基礎研究は重要である。政府や企業は多大な資金を提供し、その発展を促している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
応用分野に輝かしい貢献をすると同時に、現代生物学はさまざまな[[倫理学|倫理]]的問題を抱えている。それらは[[ゲノム]]情報、遺伝子操作、[[クローン]]技術など、生命の根幹に関わる技術や情報によりもたらされた。これらは、臨床医療においては恩恵をもたらす一方で、[[差別]]や生命の軽視など深刻な[[社会]]問題を引き起こしつつある。このような課題は[[生命倫理学]]によって扱われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マクロのレベルでは、遺伝子操作によって作られた[[遺伝子組み換え作物]]（GM作物）の[[環境]]への影響（[[遺伝子汚染]]）や、環境破壊によって[[生物多様性]]が急速に失われて行く[[環境問題]]が深刻であり、これらへの取り組みも必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代生物学およびそれに携わる人々は、純粋な科学的研究成果のみならず、このような倫理的側面に対しても熟考し議論を深め、社会的責任を果たすことが求められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「生物学」と「生命科学」 ==&lt;br /&gt;
'''Biology''' という語は、「[[生命]]」を意味するギリシャ語の '''βίος''' (bios) と「言葉・論」を意味する '''λόγος''' (logos) から造られた。K. F. ブルダッハ（1800年）、G. R. トレヴィラヌス（1802年）、[[ジャン＝バティスト・ラマルク]]（1802年）らによって独立に用いられた。生物学が様々な[[生物]]を分類記載する[[博物学]]から発展したことからもわかるように、生物学には[[生物多様性|生物の多様性]]を理解しようとする伝統がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、'''[[生命科学]]''' (''Life science'') や生物科学 (''Bioscience'', ''Biological science'') という語は、[[分子生物学]]が誕生してから新しく作られたものである。全ての生物に共通する「言葉」である[[デオキシリボ核酸|DNA]]を分子生物学が提供したことで、分野ごとに断片化していた生物学が統合されつつある。そこで新たに生命科学という言葉が用いられるようになった。生命科学では生命現象の普遍性を重視し、心理学や人間科学までも含み自然科学の範疇を越え、ヒト研究を中心とした[[総合科学]]を目指すとされる。ただし、生物学も生命科学も広義に解釈すると範囲は広く重なり、実際の生物研究をどちらかにわけることは難しいことがある。また「生物学」の意味も時代とともに変化しており、しばしば「生物科学」や「生命科学」と同じ意味に使われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{ウィキポータルリンク|生物学}}&lt;br /&gt;
{{Sisterlinks&lt;br /&gt;
|wiktionary=生物学&lt;br /&gt;
|wikibooks=生物学&lt;br /&gt;
|commons=Category:Biology&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* [[生物学に関する記事の一覧]]: 関連語句の一覧。&lt;br /&gt;
* [[生物学者の一覧]]: 著名な生物学者の一覧。&lt;br /&gt;
* [[ノーベル生理学・医学賞]]: ノーベル生理学・医学賞とその受賞者リスト。&lt;br /&gt;
* [[生物学上の未解決問題]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード＝スミス|J. メイナード=スミス]] 『生物学のすすめ』  [[紀伊國屋書店]] 1990年05月10日出版 ISBN 431400536X&lt;br /&gt;
* [[八杉竜一]] 『岩波生物学辞典』 [[岩波書店]] 1996年 ISBN 4000800876&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;margin:0.5em 0;background-color:#f6f6f6;border:1px solid #ccc;padding:3px;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;このページは [http://ja.wikipedia.org/ Wikipedia日本語版]由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は[http://ja.wikipedia.org/wiki/生物学 '''生物学''']にあります。執筆者のリストは[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=生物学&amp;amp;amp;action=history '''履歴''']をご覧ください。 [[Yourpedia]]と同じく、[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia Wikipedia]は[http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html GFDLのライセンス]で提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipedia出典元の記事|生物学]]&lt;br /&gt;
[[Category:生物学|*せいふつかく]]&lt;br /&gt;
[[Category:自然科学|せいふつかく]]&lt;br /&gt;
[[Category:理学|せいふつかく]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>128.197.11.30</name></author>	</entry>

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