<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/api.php?action=feedcontributions&amp;feedformat=atom&amp;user=124.110.152.140</id>
		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
		<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://18.236.240.21/mediawiki/api.php?action=feedcontributions&amp;feedformat=atom&amp;user=124.110.152.140"/>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/124.110.152.140"/>
		<updated>2026-05-17T05:34:33Z</updated>
		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
		<generator>MediaWiki 1.25.1</generator>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&amp;diff=53193</id>
		<title>トーク:荒らされたページ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&amp;diff=53193"/>
				<updated>2009-06-14T05:37:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;124.110.152.140: ShunKikuchi219 (会話) の編集 ( 53170 版 ) を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:500%;color:black&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&amp;gt;ぶっ殺す、一家惨殺する&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.110.152.140</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD_(1933%E5%B9%B4-1945%E5%B9%B4)&amp;diff=52096</id>
		<title>ドイツ国 (1933年-1945年)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD_(1933%E5%B9%B4-1945%E5%B9%B4)&amp;diff=52096"/>
				<updated>2009-05-31T02:31:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;124.110.152.140: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ドイツ国'''（-こく）（Deutsches Reich/ドイチェスライヒ）は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が支配した[[1933年]]から[[1945年]]の元首制的共和国としての[[ドイツ]]を指す。&lt;br /&gt;
以降では分かり易くする為全て「ナチス・ドイツ」と表記する。&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
正式な国名は[[帝政ドイツ]]、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]を通じて'''Deutsches Reich'''（[[ドイツ国]]）である。&lt;br /&gt;
一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、[[神聖ローマ帝国]]（[[962年]]&amp;amp;ndash;[[1806年]]）、[[帝政ドイツ]]（[[1871年]]&amp;amp;ndash;[[1918年]]）に次ぐという意味で、「第三帝国」 ({{lang-de-short|[[:de:Drittes Reich|Drittes Reich]]}}、{{lang-en-short|[[:en:Third Reich|Third Reich]]}}) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の世界では「ナチス・ドイツ」（若しくはそれに相当する語）、ナチ・ドイツ（若しくはそれに相当する語）が当てられることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしドイツではNazi-Deutscheland（ナチ・ドイツに相当）を用いることもあるがより中立的なNS-Deutscheland（NSドイツに相当）が当てられることが多い。（因みに「ナチ（Nazi）」とは国家社会主義ドイツ労働者党の蔑称で党員たちは「ナチ」や「ナチス」の自称を用いない。NSが同党の略称。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として[[第三帝国]]がより広く知られるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また1943年以降は大ドイツ国（大ドイツ帝国）と称する事もあった。しかし正式国名は「ドイツ国」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1923年]] [[ミュンヘン一揆]]。ナチス党は禁止されたが、後継組織が国会議席を獲得。&lt;br /&gt;
*[[1928年]] ナチス党として初の国政選挙。12議席を獲得。&lt;br /&gt;
*[[1930年]] この年の選挙でナチス党は第2党の地位を獲得。&lt;br /&gt;
;[[1932年]]&lt;br /&gt;
*[[5月]] 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。&lt;br /&gt;
*[[7月31日]] 国会議員選挙。230議席を獲得し第一党となる。&lt;br /&gt;
*[[11月6日]] 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。&lt;br /&gt;
;[[1933年]]&lt;br /&gt;
*1月30日[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領|大統領]]は、周囲に説得されて[[クルト・フォン・シュライヒャー]]に代わって[[アドルフ・ヒトラー]]を[[ドイツ国首相|首相]]に任命。&lt;br /&gt;
** [[ヘルマン・ゲーリング]]が無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチス党が掌握。&lt;br /&gt;
* 2月27日 [[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]発生。ヒトラーは緊急大統領令を布告させ非常事態を宣言、[[ヴァイマル憲法|ワイマール共和国憲法]]によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止され、地方行政を支配した。&lt;br /&gt;
* 3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチスは43.9%の票を獲得、288議席を得た。&lt;br /&gt;
*[[3月12日]] 新[[ドイツの国旗|国旗]]を制定するまで黒・白・赤の旧[[ドイツ帝国]][[ドイツの国旗|国旗]]とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。&lt;br /&gt;
* [[3月23日]] 議会において[[全権委任法|授権法（全権委任法）]]が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立された。&lt;br /&gt;
* [[4月26日]] プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局（[[ゲシュタポ]]）と改名。&lt;br /&gt;
;[[1934年]]&lt;br /&gt;
*1月30日 「[[ドイツ国再建に関する法]]」成立。地方自治が許されていたドイツは一元的な中央集権国家に変貌した。各州の主権はドイツ国に移譲され、州議会が解散され、地方長官（または国家代理官、[[:de:Reichsstatthalter|Reichsstatthalter]]）としてナチ党幹部が送り込まれた。&lt;br /&gt;
*[[6月30日]] 「[[長いナイフの夜]]」事件。[[突撃隊]]幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。&lt;br /&gt;
*[[8月2日]] [[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領が死去。&lt;br /&gt;
*[[8月19日]] 国民投票により、ヒトラーの大統領就任が決定される。ヒトラーは大統領の肩書きは名乗らず、国家元首を兼務し「[[総統]]」と呼ばれ、独裁者として全権を担う。&lt;br /&gt;
;[[1935年]]&lt;br /&gt;
*[[1月13日]] [[ザール (国際連盟管理地域)|ザール地方]]が住民投票によりドイツ領に復帰。&lt;br /&gt;
*[[5月16日]] [[ドイツ再軍備宣言]]。&lt;br /&gt;
*[[10月21日]] [[ジュネーブ軍縮会議]]、[[国際連盟]]脱退。&lt;br /&gt;
;[[1936年]]&lt;br /&gt;
*[[3月7日]] [[ラインラント進駐]]。&lt;br /&gt;
;[[1938年]]&lt;br /&gt;
*[[1月26日]] [[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク|ブロンベルク]]国防相を罷免。28日には[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ|フリッチュ]]陸軍総司令官も罷免され、ナチス党による国防軍支配が強固になる（[[ブロンベルク罷免事件]]） &lt;br /&gt;
*[[3月13日]] オーストリアを併合（[[アンシュルス]]）。&lt;br /&gt;
*[[9月29日]] [[ミュンヘン会談]]で[[チェコスロバキア]]の[[ズデーテン]]地方を獲得。&lt;br /&gt;
;[[1939年]]&lt;br /&gt;
*[[3月14日]] チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、[[独立スロバキア]]をチェコスロバキアから独立させる。&lt;br /&gt;
*[[3月15日]] チェコスロバキアの[[ボヘミア]]・[[モラビア]]を[[ベーメン・メーレン保護領]]として[[保護領]]とする（[[チェコスロバキア併合]]）。&lt;br /&gt;
*[[3月22日]] [[リトアニア]]の[[クライペダ|メーメル]]を住民投票で併合。&lt;br /&gt;
*[[8月23日]] [[独ソ不可侵条約]]締結。&lt;br /&gt;
*[[9月1日]] スロバキアと共同して[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し[[第二次世界大戦]]勃発。&lt;br /&gt;
**10月1日までにポーランド全土を制圧。[[ポーランド総督府]]を設置。&lt;br /&gt;
;[[1940年]]&lt;br /&gt;
*[[4月9日]] [[ノルウェー]]、[[デンマーク]]に侵攻（[[北欧侵攻]]）。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。&lt;br /&gt;
**5月にはほぼノルウェー全土を占領。[[ヴィドクン・クヴィスリング]]による傀儡政権が設置される。&lt;br /&gt;
*[[5月10日]] [[フランス]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルグ]]に侵攻を開始（[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]、[[オランダにおける戦い (1940年)]]）。ルクセンブルグは占領、併合される。&lt;br /&gt;
* [[5月17日]] ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。&lt;br /&gt;
* [[5月28日]] ベルギー降伏。&lt;br /&gt;
* [[6月21日]] フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ。北部をドイツの占領下に置き、南部は[[ヴィシー政権]]として存続。&lt;br /&gt;
* [[9月20日]] [[日独伊三国軍事同盟]]締結。&lt;br /&gt;
;[[1941年]]&lt;br /&gt;
* [[4月6日]] [[ユーゴスラビア侵攻]]開始。&lt;br /&gt;
**[[4月17日]] ユーゴスラビア制圧。[[セルビア]]を占領下に置き、[[クロアチア]]には[[クロアチア独立国]]を建国し、[[保護国]]とする。&lt;br /&gt;
* [[4月10日]] [[ギリシャ・イタリア戦争]]にイタリア側として介入（[[バルカン半島の戦い]]）。&lt;br /&gt;
* [[6月22日]] [[バルバロッサ作戦]]を発動し、[[ソビエト連邦]]に侵攻（[[独ソ戦]]）。&lt;br /&gt;
* [[12月7日]] [[日本]]、[[真珠湾攻撃]]を行い[[アメリカ]]・イギリス・オランダに宣戦布告。&lt;br /&gt;
** [[12月11日]] ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。&lt;br /&gt;
;[[1943年]]&lt;br /&gt;
* [[2月2日]] [[スターリングラード]]で、[[フリードリヒ・パウルス|パウルス]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる第6軍がソ連軍に降伏（[[スターリングラードの戦い]]）&lt;br /&gt;
* [[7月25日]] [[イタリア王国]]において[[ベニト・ムッソリーニ]]が首相を解任、逮捕される。&lt;br /&gt;
**[[9月8日]] イタリア王国が連合国に降伏。&lt;br /&gt;
**[[9月15日]] 救出したムッソリーニを首班として[[イタリア社会共和国]]をイタリア北部に成立させる。&lt;br /&gt;
**[[10月13日]] イタリア王国がドイツに宣戦布告。&lt;br /&gt;
;[[1944年]]&lt;br /&gt;
* [[6月6日]] [[ノルマンディー上陸作戦]]。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。&lt;br /&gt;
* [[7月20日]] 反ヒトラー派グループ（[[黒いオーケストラ]]）により、[[ヒトラー暗殺計画]]とクーデターが行われるが失敗に終わる。&lt;br /&gt;
* [[8月25日]] [[パリの解放]]。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告（[[ルーマニア革命 (1944年)]]）。&lt;br /&gt;
* [[9月9日]] [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]がドイツに宣戦布告。 &lt;br /&gt;
* [[10月15日]] [[パンツァーファウスト作戦]]により、[[ハンガリー王国]]を保護国化する。&lt;br /&gt;
;[[1945年]]&lt;br /&gt;
* [[4月30日]] ヒトラーが[[総統官邸]][[総統地下壕|地下壕]]において自殺。後継大統領に[[カール・デーニッツ]]、首相に[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]を指名。&lt;br /&gt;
* [[5月1日]] ゲッベルスが地下壕において自殺。&lt;br /&gt;
* [[5月2日]] [[ベルリン]]がソ連軍に占領される。&lt;br /&gt;
* [[5月8日]] デーニッツの[[フレンスブルク政府]]、[[連合国]]に降伏。&lt;br /&gt;
* [[5月23日]] デーニッツをはじめとするフレンスブルク政府閣僚が逮捕され、占領行政がスタート（[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 政権掌握 ===&lt;br /&gt;
ナチスは[[ヒトラー内閣]]成立直前の[[1932年]]の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第一党の地位は保持した。一方[[ドイツ共産党]]は11議席を増やし、首都[[ベルリン]]では共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1933年]]1月、ヒトラーは首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部である[[ヘルマン・ゲーリング]]が無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、[[突撃隊]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党および[[ドイツ社会民主党]]員が政治犯として収容所に収容された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月に[[ドイツ国会議事堂放火事件]]が発生した。ヒトラーはこれを口実として「[[民族と国家防衛のための緊急令]]」と「[[民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令]]」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、[[ドイツ共産党]]に対する弾圧を行った。選挙後の議会では共産党議員を排除した上で[[全権委任法]]を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1934年6月には[[突撃隊]]幕僚長[[エルンスト・レーム]]をはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した（[[長いナイフの夜]]）。1934年8月に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領が死去すると、ヒトラーは首相と国家元首を兼務し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相（''Der Führer und Reichskanzler''）、日本語では[[総統]]と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1935年]]にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーは[[アウトバーン]]などの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]のような少数民族の迫害など[[独裁]]政治を推し進めた。[[1936年]]にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって[[非武装地帯]]となっていた[[ラインラント]]に侵攻した（[[ラインラント進駐]]）。同年には国家を威信を賭けた[[ベルリン・オリンピック]]が行われた。また、[[1938年]]には最後の党外大勢力である[[ドイツ国防軍]]の首脳をスキャンダルで失脚させ（[[ブロンベルク罷免事件]]）、軍の支配権も確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家の[[ソビエト連邦|ソ連]]を[[反共]]イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を希望していたと言われる。アジアにおいては[[リッベントロップ]]外相の影響もあり、伝統的に協力関係([[中独合作]])であった[[中華民国]]（中国）から国益の似通う[[日本]]へと友好国を切り替えた。1936年には[[日独防共協定]]を締結。[[1938年]]には[[満州国]]を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。[[1940年]]9月には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を仮想敵国として[[日独伊三国軍事同盟]]を締結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]]には[[オーストリア]]を併合（[[アンシュルス]]）。9月には[[チェコスロバキア]]に対し、ドイツ系住民が多く存在する[[ズデーテン地方]]の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、[[イタリア王国|イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]の提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳による[[ミュンヘン会談]]が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。この時ヒトラーが英国の[[ネヴィル・チェンバレン]]首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌[[1939年]]にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させた[[独立スロバキア|スロバキア]]を除いて事実上併合した（[[チェコスロバキア併合]]）。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、[[ポーランド回廊|ダンチヒ回廊]]であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされた[[ヨシフ・スターリン]]率いる[[ソビエト連邦]]との間で[[独ソ不可侵条約]]を締結。世界中を驚愕させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦 ===&lt;br /&gt;
{{main|第二次世界大戦}}&lt;br /&gt;
ヒトラーはダンチヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の[[1939年]][[9月1日]]に[[ドイツ軍]]は[[ポーランド]]へ侵攻した。ヒトラーは、[[イギリス]]と[[フランス]]は参戦しないだろうと鷹を括っていたが、その思惑に反して[[イギリス]]および[[フランス]]はドイツに宣戦を布告し、[[第二次世界大戦]]が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いて全く生じなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{main|西方電撃戦}}&lt;br /&gt;
西部戦線におけるこの状態は翌[[1940年]][[5月]]のドイツ軍による[[ベネルクス]]3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の[[電撃戦]]により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。翌年の春には、ドイツ軍は[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]を立て続けに占領し、5月には[[ベネルクス]]三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固な[[マジノ線]]が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領の[[アルデンヌ]]の森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は[[電撃戦]]によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスをのぞく西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦（[[アシカ作戦]]）の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けて[[バトル・オブ・ブリテン]]を開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国である[[イタリア]]の救援として[[北アフリカ戦線]]、[[バルカン半島の戦い|バルカン半島戦線]]に部隊を派遣。バルカン半島から[[ギリシャ]]にかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{main|独ソ戦}}&lt;br /&gt;
そして、[[1941年]][[6月22日]]、突如不可侵条約を破棄し[[ソビエト連邦|ソ連]]に侵攻する（[[バルバロッサ作戦]]）。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、[[大粛清]]によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末には[[モスクワ]]近郊まで進出した。しかし、[[冬将軍]]の訪れと補給難により撤退。[[独ソ戦]]は膠着状態となりヒトラーが当初目論んだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「[[大祖国戦争]]」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。ソ連への攻撃はドイツの「[[生存圏]]」''Lebensraum'' を東方に拡張する目的であったが、「[[ボルシェヴィズム]]からヨーロッパを防衛する」ことにつながるとして、この侵攻をイギリスは容認すると考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本]]軍による[[真珠湾攻撃]]の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。[[1942年]]夏、ドイツ軍は[[ブラウ作戦]]を発動しソ連南部に進攻。ドイツ軍は得意の電撃戦で[[スターリングラード]]まで進出した。しかし[[スターリングラード攻防戦]]は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。翌[[1943年]]2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。一旦は戦線を持ち直したものの、7月の[[クルスクの戦い]]を最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアの[[シチリア島]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]が開始された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1944年]]6月、連合軍がフランス北部の[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディーに上陸]]し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍による[[バグラチオン作戦]]が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。7月には[[ヒトラー暗殺計画]]とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、[[ルーマニア]]・[[ブルガリア]]・[[フィンランド]]といった同盟国が次々に枢軸側から離反した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た（[[バルジの戦い]]）が失敗。[[1945年]]に入ると連合軍の[[ライン川]]渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、[[オーデル・ナイセ線]]を越えた。4月、ソ連軍による[[ベルリン]]総攻撃が開始され、30日にヒトラーは[[総統官邸]]の[[総統地下壕|地下壕]]で自殺した。ヒトラーの遺言により、[[カール・デーニッツ]]海軍総司令官が第三代大統領となった（[[フレンスブルク政府]]）。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、[[ベルリンの戦い]]は終結した。[[5月8日]]、ドイツは正式に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対し[[無条件降伏]]した。ナチス党は事実上崩壊しており、ここにナチス政権下のドイツは終わりを告げることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
=== 政治機構 ===&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
ドイツには帝政時代からの伝統を持つ官僚機構が存在したが、ナチス党は政権獲得後、党の幹部を官僚機構の中枢に入れることで官僚機構を掌握した。また、党の組織である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]や各部局が公式な政治機関に昇格し、党と国家は一体化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 対外政策 ===&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 経済政策 ===&lt;br /&gt;
[[アドルフ・ヒトラー#経済政策|ヒトラーの経済政策]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 軍事 ===&lt;br /&gt;
正式名称は「ドイツ国防軍」である。最高指揮権は指導者（総統）のヒトラーにあった。&lt;br /&gt;
世界でも有数の国軍を保有し1936年で50万人、1939年の時点で314万人の兵を抱える世界最強の陸空軍が出来上がっていた。（海軍はUボートを除き小規模）一時期ドイツは全ヨーロッパを占領しイギリス、ロシアに史上最大の危機を与えるなど全世界を席巻した。しかしアメリカの参戦。戦争の長期化に伴い敗退。1945年の無条件降伏後は武装解除され「ドイツ国防軍」は消滅した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プロパガンダ ===&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチス刑法===&lt;br /&gt;
初期ソビエト刑法に極めて類似した、罪刑法定主義を排除した刑法。ナチス刑法は、意思刑法、行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する、意思と人格に対して、国家社会主義的（全体主義的）立場から、応報と殖財を犯罪者に対して要求する。犯罪者は「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を持つという理由で、反抗的人格形成を行った事について国家により報復される。後に、西ドイツ基本法に於いて、罪刑法定主義が明記された理由の一つ&amp;lt;ref&amp;gt;山中敬一 /刑法I   /32P&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 社会政策 ===&lt;br /&gt;
ナチス政権は[[人種主義]]を強く打ち出し、[[アーリア人種]]の優秀さを強調。人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。また抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「[[退廃芸術]]」として嘲られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ホロコースト ===&lt;br /&gt;
{{main|ホロコースト}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナチスは[[ユダヤ人]]、[[ロマ|ジプシー]]のような少数民族、[[エホバの証人]]および[[同性愛者]]や[[障害者]]など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1933年]]に成立した「断種法」の下、ナチスは[[精神病]]や[[アルコール依存症]]患者を含む[[遺伝]]的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。[[1940年]]になると[[T4作戦|T4 安楽死プログラム]]によって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」''Herrenvolk'' とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには[[1941年]]に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1935年]]に[[ニュルンベルク法]]が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどの[[ユダヤ人]]はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。[[1938年]]11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「[[水晶の夜]]」''Kristallnacht''（クリスタルナハト）と呼ばれた。[[1939年]]9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。[[1941年]]からはユダヤ人は「[[ダビデの星]]」の着用を義務づけられ、[[ゲットー]]に移住させられた。[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の監督下、[[1942年]]1月に開催された[[ヴァンゼー会議]]では「ユダヤ人問題の最終解決策」''Endlösung der Judenfrage'' が策定されたとされる。何千人もの人が毎日[[強制収容所]]に送られ、この期間中には多くの[[ユダヤ人]]、ほぼ全ての[[同性愛者]]、[[身体障害者]]、[[スラブ人]]、[[政治犯]]、[[エホバの証人とホロコースト|エホバの証人]]を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー (Shoah) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」''Endlösung'' という用語を使用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチスとバチカン ===&lt;br /&gt;
ドイツ・[[カトリック教会]]に対するナチスの暴力的行為が問題となり、これを終止させることを条件として[[1933年]]7月20日当時[[バチカン]]の国務長官を務めたパチェッリ枢機卿（後の教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]）と[[フランツ・フォン・パーペン]]との署名により、ナチス・ドイツは[[ローマ教皇庁]]との[[コンコルダート]]（政教条約 ''Reichskonkordat 1933''）を締結することとなった。ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて[[教会法]]専門の研究で学位取得し、教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「[[オッセルヴァトーレ・ロマーノ]]」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会[[ヒエラルキー]]の完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。こういった状況が続く中で、後に即位した教皇ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害に沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし歴史的調査によると、大戦中に教皇ピウス12世から[[アメリカ合衆国]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことが明らかにされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後 ==&lt;br /&gt;
[[ポツダム会議]]によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、[[オストプロイセン]]については半分はソ連に併合された。[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア]]、[[ルーマニア]]および[[ハンガリー]]といった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後（[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]]）、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域は[[ドイツ連邦共和国]]となり、東側のソ連占領地域は[[共産主義]]の[[ドイツ民主共和国]]になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
残された[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]、[[ヴィルヘルム・カイテル]]などのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・[[ニュルンベルク裁判]]や[[ニュルンベルク継続裁判]]で裁かれることになった。また、独立回復後の[[西ドイツ]]政府により[[非ナチ化]]裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの[[映画]][[監督]]と言われた[[レニ・リーフェンシュタール]]などが裁かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていた[[ココ・シャネル]]など、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらは[[サイモン・ヴィーゼンタール]]などの[[ナチ・ハンター]]によって追求が行われ続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党および[[ファシスト党]]の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた（参照:[[ナチの子供]]）。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ナチス・ドイツの武力組織 ==&lt;br /&gt;
[[Image:War_Ensign_of_Germany_1938-1945.svg|180px|thumb|ナチス・ドイツ時代のドイツの軍旗 (Reichskriegsflagge)]]&lt;br /&gt;
=== 正規軍 ===&lt;br /&gt;
{{main|ドイツ国防軍}}&lt;br /&gt;
* [[国防軍最高司令部]] (Oberkommando der Wehrmacht, OKW)&lt;br /&gt;
** [[陸軍総司令部]] (Oberkommando des Heeres, OKH)&lt;br /&gt;
** [[海軍総司令部]] (Oberkommando der Marine, OKM)&lt;br /&gt;
** [[空軍総司令部]] (Oberkommando der Luftwaffe, OKL)&lt;br /&gt;
*** [[ドイツ陸軍]] (Heer)&lt;br /&gt;
*** [[ドイツ空軍]] (Luftwaffe)&lt;br /&gt;
*** [[ドイツ海軍]] (Kriegsmarine)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチ党軍事組織 ===&lt;br /&gt;
* [[武装親衛隊]] (Waffen-SS)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 準軍事組織 ===&lt;br /&gt;
* [[突撃隊]] (SA ,Sturmabteilung)&lt;br /&gt;
* [[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]] (SS ,Schutzstaffel)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 警察組織 ===&lt;br /&gt;
* 政治警察部門 ([[国家保安本部]], RSHA, Reichssicherheitshauptamt)&lt;br /&gt;
** 治安警察 (Sipo, Sicherheitspolizei)&lt;br /&gt;
*** [[ゲシュタポ|秘密警察]] (Gestapo, Geheime Staatspolizei)&lt;br /&gt;
*** [[刑事警察_(ドイツ)|刑事警察]](Kripo, Kriminalpolizei)&lt;br /&gt;
** 親衛隊保安部 (SD, Sicherheitsdienst des Reichsführer der SS)&lt;br /&gt;
* 一般警察部門&lt;br /&gt;
** [[秩序警察]] (Orpo, Ordnungspolizei)&lt;br /&gt;
*** [[大都市警察]] (Schutzpolizei)&lt;br /&gt;
*** [[地方警察_(ドイツ)|地方警察]] (Gendarmerie)&lt;br /&gt;
*** 市町村警察 (Gemeindepolizei)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政治結社 ===&lt;br /&gt;
* 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品 ==&lt;br /&gt;
* 『[[オリンピア (映画)|オリンピア]]』''Olympia''（第1部：『[[民族の祭典]]』 - ''Fest der Völker (Olympia Teil I)'' /第2部：『[[美の祭典]]』- ''Fest der Schönheit (Olympia Teil II)''（1938年、ドイツ映画）：1936年の[[ベルリン]]オリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。[[レニ・リーフェンシュタール]]監督作品。&lt;br /&gt;
* 『[[我輩はカモである]]』 - ''Duck Soup''（1933年、アメリカ映画）：[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]・[[バスター・キートン|キートン]]と共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、[[マルクス兄弟]]による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。&lt;br /&gt;
* 『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』 - ''The Great Dictator''（1940年、アメリカ映画）：仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「[[赤狩り]]」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。&lt;br /&gt;
* 『[[サウンド・オブ・ミュージック]]』 - ''The Sound of Music''（1965年、アメリカ映画）：ナチス・ドイツ併合下の[[オーストリア]]を舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。[[マリア・フォン・トラップ|修道女マリア]]が音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『[[ドレミのうた]]』は、この映画が発祥。&lt;br /&gt;
* 『[[地獄に堕ちた勇者ども]]』 - ''La caduta degli dei''（1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画）：ナチス突撃隊粛清（[[長いナイフの夜]]事件）とナチスによる[[ルール地方]]の鉄鋼王一族の退嬰を描いた[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の代表作。ヴィスコンティに重用された[[ヘルムート・バーガー]]主演。&lt;br /&gt;
* 『[[特別な一日]]』 - ''Una Giornata Particolare''（1977年、イタリア・カナダ合作映画）&lt;br /&gt;
* 『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』 - ''Indiana Jones and the Last Crusade''（1989年、アメリカ映画）・『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』（1981年、アメリカ映画）：いずれも[[スティーヴン・スピルバーグ]]の作品で、大いなる力を宿す[[聖杯]]・[[契約の箱|聖櫃]]を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。&amp;lt;!--オカルトじみているが、持つものに世界の支配権を与えるとされる[[ロンギヌスの槍]]にヒトラーが触れていた・もしくは保有していたとされる説が元になっているかもしれない。また、スピルバーグはユダヤ系アメリカ人であり、反ナチス感情が強いのかもしれない。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[戦場のピアニスト]]』 - ''The Pianist''（2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画）&lt;br /&gt;
* 『[[ブリキの太鼓]]』-（1979年、西ドイツ・フランス合作）：[[ギュンター・グラス]]原作。[[第一次世界大戦]]後の国際自由都市[[ダンツィヒ]]を舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。&lt;br /&gt;
* 『[[ライフ・イズ・ビューティフル]]』-（1998年、イタリア）：[[ロベルト・ベニーニ]]主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。&lt;br /&gt;
* 『さよなら子供たち』-（1987年、フランス・西ドイツ合作）：[[ルイ・マル]]監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧]]も参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* [[アドルフ・ヒトラー]]『''Mein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung''』、1925年、ドイツ（邦訳：[[わが闘争]]（上）I[[民族主義]]的世界観）&lt;br /&gt;
* アドルフ・ヒトラー『''Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung''』、1927年、ドイツ（邦訳：[[わが闘争]]（下）II[[国家社会主義]]運動）&lt;br /&gt;
* 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年&lt;br /&gt;
* 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年&lt;br /&gt;
* 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]『私はヒトラーの秘書だった（原題：''Bis zur letzten Stunde''）』、 （2002年、ドイツ）&lt;br /&gt;
* [[ヨアヒム・フェスト]]『ヒトラー最後の12日間（原題：''Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches''）』、（2002年、ドイツ）&lt;br /&gt;
* [[ウワディスワフ・シュピルマン]]『[[戦場のピアニスト]]（原題：''THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45''）』、（1999年、イギリス）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[第二次世界大戦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.axishistory.com/index.php?id=31 Axis History Factbook &amp;amp;mdash; Third Reich]&lt;br /&gt;
* [http://hitlernews.cloudworth.com/ Hitler's Third Reich in the News - daily edited review of Third Reich related news and articles.]&lt;br /&gt;
* [http://www.ns-archiv.de/index.php NS-Archiv] - Large collection of original scanned Nazi documents&lt;br /&gt;
* [http://www.videolexikon.com/view_310-33-505-0704-001.htm The German Resistance and the USA]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/torikai007/bio/anne-ref.html 反ナチス抵抗運動：人種民族差別撤廃]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.110.152.140</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD_(1933%E5%B9%B4-1945%E5%B9%B4)&amp;diff=52095</id>
		<title>ドイツ国 (1933年-1945年)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD_(1933%E5%B9%B4-1945%E5%B9%B4)&amp;diff=52095"/>
				<updated>2009-05-31T02:30:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;124.110.152.140: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ドイツ国'''（-こく）（Detsches Reich/ドイチェスライヒ）は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が支配した[[1933年]]から[[1945年]]の元首制的共和国としての[[ドイツ]]を指す。&lt;br /&gt;
以降では分かり易くする為全て「ナチス・ドイツ」と表記する。&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
正式な国名は[[帝政ドイツ]]、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]を通じて'''Deutsches Reich'''（[[ドイツ国]]）である。&lt;br /&gt;
一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、[[神聖ローマ帝国]]（[[962年]]&amp;amp;ndash;[[1806年]]）、[[帝政ドイツ]]（[[1871年]]&amp;amp;ndash;[[1918年]]）に次ぐという意味で、「第三帝国」 ({{lang-de-short|[[:de:Drittes Reich|Drittes Reich]]}}、{{lang-en-short|[[:en:Third Reich|Third Reich]]}}) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の世界では「ナチス・ドイツ」（若しくはそれに相当する語）、ナチ・ドイツ（若しくはそれに相当する語）が当てられることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしドイツではNazi-Deutscheland（ナチ・ドイツに相当）を用いることもあるがより中立的なNS-Deutscheland（NSドイツに相当）が当てられることが多い。（因みに「ナチ（Nazi）」とは国家社会主義ドイツ労働者党の蔑称で党員たちは「ナチ」や「ナチス」の自称を用いない。NSが同党の略称。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として[[第三帝国]]がより広く知られるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また1943年以降は大ドイツ国（大ドイツ帝国）と称する事もあった。しかし正式国名は「ドイツ国」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1923年]] [[ミュンヘン一揆]]。ナチス党は禁止されたが、後継組織が国会議席を獲得。&lt;br /&gt;
*[[1928年]] ナチス党として初の国政選挙。12議席を獲得。&lt;br /&gt;
*[[1930年]] この年の選挙でナチス党は第2党の地位を獲得。&lt;br /&gt;
;[[1932年]]&lt;br /&gt;
*[[5月]] 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。&lt;br /&gt;
*[[7月31日]] 国会議員選挙。230議席を獲得し第一党となる。&lt;br /&gt;
*[[11月6日]] 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。&lt;br /&gt;
;[[1933年]]&lt;br /&gt;
*1月30日[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領|大統領]]は、周囲に説得されて[[クルト・フォン・シュライヒャー]]に代わって[[アドルフ・ヒトラー]]を[[ドイツ国首相|首相]]に任命。&lt;br /&gt;
** [[ヘルマン・ゲーリング]]が無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチス党が掌握。&lt;br /&gt;
* 2月27日 [[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]発生。ヒトラーは緊急大統領令を布告させ非常事態を宣言、[[ヴァイマル憲法|ワイマール共和国憲法]]によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止され、地方行政を支配した。&lt;br /&gt;
* 3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチスは43.9%の票を獲得、288議席を得た。&lt;br /&gt;
*[[3月12日]] 新[[ドイツの国旗|国旗]]を制定するまで黒・白・赤の旧[[ドイツ帝国]][[ドイツの国旗|国旗]]とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。&lt;br /&gt;
* [[3月23日]] 議会において[[全権委任法|授権法（全権委任法）]]が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立された。&lt;br /&gt;
* [[4月26日]] プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局（[[ゲシュタポ]]）と改名。&lt;br /&gt;
;[[1934年]]&lt;br /&gt;
*1月30日 「[[ドイツ国再建に関する法]]」成立。地方自治が許されていたドイツは一元的な中央集権国家に変貌した。各州の主権はドイツ国に移譲され、州議会が解散され、地方長官（または国家代理官、[[:de:Reichsstatthalter|Reichsstatthalter]]）としてナチ党幹部が送り込まれた。&lt;br /&gt;
*[[6月30日]] 「[[長いナイフの夜]]」事件。[[突撃隊]]幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。&lt;br /&gt;
*[[8月2日]] [[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領が死去。&lt;br /&gt;
*[[8月19日]] 国民投票により、ヒトラーの大統領就任が決定される。ヒトラーは大統領の肩書きは名乗らず、国家元首を兼務し「[[総統]]」と呼ばれ、独裁者として全権を担う。&lt;br /&gt;
;[[1935年]]&lt;br /&gt;
*[[1月13日]] [[ザール (国際連盟管理地域)|ザール地方]]が住民投票によりドイツ領に復帰。&lt;br /&gt;
*[[5月16日]] [[ドイツ再軍備宣言]]。&lt;br /&gt;
*[[10月21日]] [[ジュネーブ軍縮会議]]、[[国際連盟]]脱退。&lt;br /&gt;
;[[1936年]]&lt;br /&gt;
*[[3月7日]] [[ラインラント進駐]]。&lt;br /&gt;
;[[1938年]]&lt;br /&gt;
*[[1月26日]] [[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク|ブロンベルク]]国防相を罷免。28日には[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ|フリッチュ]]陸軍総司令官も罷免され、ナチス党による国防軍支配が強固になる（[[ブロンベルク罷免事件]]） &lt;br /&gt;
*[[3月13日]] オーストリアを併合（[[アンシュルス]]）。&lt;br /&gt;
*[[9月29日]] [[ミュンヘン会談]]で[[チェコスロバキア]]の[[ズデーテン]]地方を獲得。&lt;br /&gt;
;[[1939年]]&lt;br /&gt;
*[[3月14日]] チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、[[独立スロバキア]]をチェコスロバキアから独立させる。&lt;br /&gt;
*[[3月15日]] チェコスロバキアの[[ボヘミア]]・[[モラビア]]を[[ベーメン・メーレン保護領]]として[[保護領]]とする（[[チェコスロバキア併合]]）。&lt;br /&gt;
*[[3月22日]] [[リトアニア]]の[[クライペダ|メーメル]]を住民投票で併合。&lt;br /&gt;
*[[8月23日]] [[独ソ不可侵条約]]締結。&lt;br /&gt;
*[[9月1日]] スロバキアと共同して[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し[[第二次世界大戦]]勃発。&lt;br /&gt;
**10月1日までにポーランド全土を制圧。[[ポーランド総督府]]を設置。&lt;br /&gt;
;[[1940年]]&lt;br /&gt;
*[[4月9日]] [[ノルウェー]]、[[デンマーク]]に侵攻（[[北欧侵攻]]）。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。&lt;br /&gt;
**5月にはほぼノルウェー全土を占領。[[ヴィドクン・クヴィスリング]]による傀儡政権が設置される。&lt;br /&gt;
*[[5月10日]] [[フランス]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルグ]]に侵攻を開始（[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]、[[オランダにおける戦い (1940年)]]）。ルクセンブルグは占領、併合される。&lt;br /&gt;
* [[5月17日]] ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。&lt;br /&gt;
* [[5月28日]] ベルギー降伏。&lt;br /&gt;
* [[6月21日]] フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ。北部をドイツの占領下に置き、南部は[[ヴィシー政権]]として存続。&lt;br /&gt;
* [[9月20日]] [[日独伊三国軍事同盟]]締結。&lt;br /&gt;
;[[1941年]]&lt;br /&gt;
* [[4月6日]] [[ユーゴスラビア侵攻]]開始。&lt;br /&gt;
**[[4月17日]] ユーゴスラビア制圧。[[セルビア]]を占領下に置き、[[クロアチア]]には[[クロアチア独立国]]を建国し、[[保護国]]とする。&lt;br /&gt;
* [[4月10日]] [[ギリシャ・イタリア戦争]]にイタリア側として介入（[[バルカン半島の戦い]]）。&lt;br /&gt;
* [[6月22日]] [[バルバロッサ作戦]]を発動し、[[ソビエト連邦]]に侵攻（[[独ソ戦]]）。&lt;br /&gt;
* [[12月7日]] [[日本]]、[[真珠湾攻撃]]を行い[[アメリカ]]・イギリス・オランダに宣戦布告。&lt;br /&gt;
** [[12月11日]] ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。&lt;br /&gt;
;[[1943年]]&lt;br /&gt;
* [[2月2日]] [[スターリングラード]]で、[[フリードリヒ・パウルス|パウルス]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる第6軍がソ連軍に降伏（[[スターリングラードの戦い]]）&lt;br /&gt;
* [[7月25日]] [[イタリア王国]]において[[ベニト・ムッソリーニ]]が首相を解任、逮捕される。&lt;br /&gt;
**[[9月8日]] イタリア王国が連合国に降伏。&lt;br /&gt;
**[[9月15日]] 救出したムッソリーニを首班として[[イタリア社会共和国]]をイタリア北部に成立させる。&lt;br /&gt;
**[[10月13日]] イタリア王国がドイツに宣戦布告。&lt;br /&gt;
;[[1944年]]&lt;br /&gt;
* [[6月6日]] [[ノルマンディー上陸作戦]]。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。&lt;br /&gt;
* [[7月20日]] 反ヒトラー派グループ（[[黒いオーケストラ]]）により、[[ヒトラー暗殺計画]]とクーデターが行われるが失敗に終わる。&lt;br /&gt;
* [[8月25日]] [[パリの解放]]。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告（[[ルーマニア革命 (1944年)]]）。&lt;br /&gt;
* [[9月9日]] [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]がドイツに宣戦布告。 &lt;br /&gt;
* [[10月15日]] [[パンツァーファウスト作戦]]により、[[ハンガリー王国]]を保護国化する。&lt;br /&gt;
;[[1945年]]&lt;br /&gt;
* [[4月30日]] ヒトラーが[[総統官邸]][[総統地下壕|地下壕]]において自殺。後継大統領に[[カール・デーニッツ]]、首相に[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]を指名。&lt;br /&gt;
* [[5月1日]] ゲッベルスが地下壕において自殺。&lt;br /&gt;
* [[5月2日]] [[ベルリン]]がソ連軍に占領される。&lt;br /&gt;
* [[5月8日]] デーニッツの[[フレンスブルク政府]]、[[連合国]]に降伏。&lt;br /&gt;
* [[5月23日]] デーニッツをはじめとするフレンスブルク政府閣僚が逮捕され、占領行政がスタート（[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 政権掌握 ===&lt;br /&gt;
ナチスは[[ヒトラー内閣]]成立直前の[[1932年]]の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第一党の地位は保持した。一方[[ドイツ共産党]]は11議席を増やし、首都[[ベルリン]]では共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1933年]]1月、ヒトラーは首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部である[[ヘルマン・ゲーリング]]が無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、[[突撃隊]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党および[[ドイツ社会民主党]]員が政治犯として収容所に収容された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月に[[ドイツ国会議事堂放火事件]]が発生した。ヒトラーはこれを口実として「[[民族と国家防衛のための緊急令]]」と「[[民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令]]」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、[[ドイツ共産党]]に対する弾圧を行った。選挙後の議会では共産党議員を排除した上で[[全権委任法]]を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1934年6月には[[突撃隊]]幕僚長[[エルンスト・レーム]]をはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した（[[長いナイフの夜]]）。1934年8月に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領が死去すると、ヒトラーは首相と国家元首を兼務し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相（''Der Führer und Reichskanzler''）、日本語では[[総統]]と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1935年]]にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーは[[アウトバーン]]などの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]のような少数民族の迫害など[[独裁]]政治を推し進めた。[[1936年]]にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって[[非武装地帯]]となっていた[[ラインラント]]に侵攻した（[[ラインラント進駐]]）。同年には国家を威信を賭けた[[ベルリン・オリンピック]]が行われた。また、[[1938年]]には最後の党外大勢力である[[ドイツ国防軍]]の首脳をスキャンダルで失脚させ（[[ブロンベルク罷免事件]]）、軍の支配権も確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家の[[ソビエト連邦|ソ連]]を[[反共]]イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を希望していたと言われる。アジアにおいては[[リッベントロップ]]外相の影響もあり、伝統的に協力関係([[中独合作]])であった[[中華民国]]（中国）から国益の似通う[[日本]]へと友好国を切り替えた。1936年には[[日独防共協定]]を締結。[[1938年]]には[[満州国]]を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。[[1940年]]9月には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を仮想敵国として[[日独伊三国軍事同盟]]を締結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]]には[[オーストリア]]を併合（[[アンシュルス]]）。9月には[[チェコスロバキア]]に対し、ドイツ系住民が多く存在する[[ズデーテン地方]]の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、[[イタリア王国|イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]の提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳による[[ミュンヘン会談]]が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。この時ヒトラーが英国の[[ネヴィル・チェンバレン]]首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌[[1939年]]にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させた[[独立スロバキア|スロバキア]]を除いて事実上併合した（[[チェコスロバキア併合]]）。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、[[ポーランド回廊|ダンチヒ回廊]]であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされた[[ヨシフ・スターリン]]率いる[[ソビエト連邦]]との間で[[独ソ不可侵条約]]を締結。世界中を驚愕させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦 ===&lt;br /&gt;
{{main|第二次世界大戦}}&lt;br /&gt;
ヒトラーはダンチヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の[[1939年]][[9月1日]]に[[ドイツ軍]]は[[ポーランド]]へ侵攻した。ヒトラーは、[[イギリス]]と[[フランス]]は参戦しないだろうと鷹を括っていたが、その思惑に反して[[イギリス]]および[[フランス]]はドイツに宣戦を布告し、[[第二次世界大戦]]が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いて全く生じなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{main|西方電撃戦}}&lt;br /&gt;
西部戦線におけるこの状態は翌[[1940年]][[5月]]のドイツ軍による[[ベネルクス]]3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の[[電撃戦]]により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。翌年の春には、ドイツ軍は[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]を立て続けに占領し、5月には[[ベネルクス]]三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固な[[マジノ線]]が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領の[[アルデンヌ]]の森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は[[電撃戦]]によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスをのぞく西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦（[[アシカ作戦]]）の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けて[[バトル・オブ・ブリテン]]を開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国である[[イタリア]]の救援として[[北アフリカ戦線]]、[[バルカン半島の戦い|バルカン半島戦線]]に部隊を派遣。バルカン半島から[[ギリシャ]]にかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{main|独ソ戦}}&lt;br /&gt;
そして、[[1941年]][[6月22日]]、突如不可侵条約を破棄し[[ソビエト連邦|ソ連]]に侵攻する（[[バルバロッサ作戦]]）。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、[[大粛清]]によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末には[[モスクワ]]近郊まで進出した。しかし、[[冬将軍]]の訪れと補給難により撤退。[[独ソ戦]]は膠着状態となりヒトラーが当初目論んだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「[[大祖国戦争]]」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。ソ連への攻撃はドイツの「[[生存圏]]」''Lebensraum'' を東方に拡張する目的であったが、「[[ボルシェヴィズム]]からヨーロッパを防衛する」ことにつながるとして、この侵攻をイギリスは容認すると考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本]]軍による[[真珠湾攻撃]]の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。[[1942年]]夏、ドイツ軍は[[ブラウ作戦]]を発動しソ連南部に進攻。ドイツ軍は得意の電撃戦で[[スターリングラード]]まで進出した。しかし[[スターリングラード攻防戦]]は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。翌[[1943年]]2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。一旦は戦線を持ち直したものの、7月の[[クルスクの戦い]]を最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアの[[シチリア島]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]が開始された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1944年]]6月、連合軍がフランス北部の[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディーに上陸]]し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍による[[バグラチオン作戦]]が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。7月には[[ヒトラー暗殺計画]]とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、[[ルーマニア]]・[[ブルガリア]]・[[フィンランド]]といった同盟国が次々に枢軸側から離反した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た（[[バルジの戦い]]）が失敗。[[1945年]]に入ると連合軍の[[ライン川]]渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、[[オーデル・ナイセ線]]を越えた。4月、ソ連軍による[[ベルリン]]総攻撃が開始され、30日にヒトラーは[[総統官邸]]の[[総統地下壕|地下壕]]で自殺した。ヒトラーの遺言により、[[カール・デーニッツ]]海軍総司令官が第三代大統領となった（[[フレンスブルク政府]]）。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、[[ベルリンの戦い]]は終結した。[[5月8日]]、ドイツは正式に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対し[[無条件降伏]]した。ナチス党は事実上崩壊しており、ここにナチス政権下のドイツは終わりを告げることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
=== 政治機構 ===&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
ドイツには帝政時代からの伝統を持つ官僚機構が存在したが、ナチス党は政権獲得後、党の幹部を官僚機構の中枢に入れることで官僚機構を掌握した。また、党の組織である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]や各部局が公式な政治機関に昇格し、党と国家は一体化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 対外政策 ===&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 経済政策 ===&lt;br /&gt;
[[アドルフ・ヒトラー#経済政策|ヒトラーの経済政策]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 軍事 ===&lt;br /&gt;
正式名称は「ドイツ国防軍」である。最高指揮権は指導者（総統）のヒトラーにあった。&lt;br /&gt;
世界でも有数の国軍を保有し1936年で50万人、1939年の時点で314万人の兵を抱える世界最強の陸空軍が出来上がっていた。（海軍はUボートを除き小規模）一時期ドイツは全ヨーロッパを占領しイギリス、ロシアに史上最大の危機を与えるなど全世界を席巻した。しかしアメリカの参戦。戦争の長期化に伴い敗退。1945年の無条件降伏後は武装解除され「ドイツ国防軍」は消滅した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プロパガンダ ===&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチス刑法===&lt;br /&gt;
初期ソビエト刑法に極めて類似した、罪刑法定主義を排除した刑法。ナチス刑法は、意思刑法、行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する、意思と人格に対して、国家社会主義的（全体主義的）立場から、応報と殖財を犯罪者に対して要求する。犯罪者は「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を持つという理由で、反抗的人格形成を行った事について国家により報復される。後に、西ドイツ基本法に於いて、罪刑法定主義が明記された理由の一つ&amp;lt;ref&amp;gt;山中敬一 /刑法I   /32P&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 社会政策 ===&lt;br /&gt;
ナチス政権は[[人種主義]]を強く打ち出し、[[アーリア人種]]の優秀さを強調。人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。また抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「[[退廃芸術]]」として嘲られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ホロコースト ===&lt;br /&gt;
{{main|ホロコースト}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナチスは[[ユダヤ人]]、[[ロマ|ジプシー]]のような少数民族、[[エホバの証人]]および[[同性愛者]]や[[障害者]]など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1933年]]に成立した「断種法」の下、ナチスは[[精神病]]や[[アルコール依存症]]患者を含む[[遺伝]]的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。[[1940年]]になると[[T4作戦|T4 安楽死プログラム]]によって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」''Herrenvolk'' とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには[[1941年]]に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1935年]]に[[ニュルンベルク法]]が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどの[[ユダヤ人]]はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。[[1938年]]11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「[[水晶の夜]]」''Kristallnacht''（クリスタルナハト）と呼ばれた。[[1939年]]9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。[[1941年]]からはユダヤ人は「[[ダビデの星]]」の着用を義務づけられ、[[ゲットー]]に移住させられた。[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の監督下、[[1942年]]1月に開催された[[ヴァンゼー会議]]では「ユダヤ人問題の最終解決策」''Endlösung der Judenfrage'' が策定されたとされる。何千人もの人が毎日[[強制収容所]]に送られ、この期間中には多くの[[ユダヤ人]]、ほぼ全ての[[同性愛者]]、[[身体障害者]]、[[スラブ人]]、[[政治犯]]、[[エホバの証人とホロコースト|エホバの証人]]を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー (Shoah) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」''Endlösung'' という用語を使用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチスとバチカン ===&lt;br /&gt;
ドイツ・[[カトリック教会]]に対するナチスの暴力的行為が問題となり、これを終止させることを条件として[[1933年]]7月20日当時[[バチカン]]の国務長官を務めたパチェッリ枢機卿（後の教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]）と[[フランツ・フォン・パーペン]]との署名により、ナチス・ドイツは[[ローマ教皇庁]]との[[コンコルダート]]（政教条約 ''Reichskonkordat 1933''）を締結することとなった。ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて[[教会法]]専門の研究で学位取得し、教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「[[オッセルヴァトーレ・ロマーノ]]」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会[[ヒエラルキー]]の完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。こういった状況が続く中で、後に即位した教皇ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害に沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし歴史的調査によると、大戦中に教皇ピウス12世から[[アメリカ合衆国]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことが明らかにされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後 ==&lt;br /&gt;
[[ポツダム会議]]によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、[[オストプロイセン]]については半分はソ連に併合された。[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア]]、[[ルーマニア]]および[[ハンガリー]]といった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後（[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]]）、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域は[[ドイツ連邦共和国]]となり、東側のソ連占領地域は[[共産主義]]の[[ドイツ民主共和国]]になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
残された[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]、[[ヴィルヘルム・カイテル]]などのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・[[ニュルンベルク裁判]]や[[ニュルンベルク継続裁判]]で裁かれることになった。また、独立回復後の[[西ドイツ]]政府により[[非ナチ化]]裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの[[映画]][[監督]]と言われた[[レニ・リーフェンシュタール]]などが裁かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていた[[ココ・シャネル]]など、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらは[[サイモン・ヴィーゼンタール]]などの[[ナチ・ハンター]]によって追求が行われ続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党および[[ファシスト党]]の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた（参照:[[ナチの子供]]）。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ナチス・ドイツの武力組織 ==&lt;br /&gt;
[[Image:War_Ensign_of_Germany_1938-1945.svg|180px|thumb|ナチス・ドイツ時代のドイツの軍旗 (Reichskriegsflagge)]]&lt;br /&gt;
=== 正規軍 ===&lt;br /&gt;
{{main|ドイツ国防軍}}&lt;br /&gt;
* [[国防軍最高司令部]] (Oberkommando der Wehrmacht, OKW)&lt;br /&gt;
** [[陸軍総司令部]] (Oberkommando des Heeres, OKH)&lt;br /&gt;
** [[海軍総司令部]] (Oberkommando der Marine, OKM)&lt;br /&gt;
** [[空軍総司令部]] (Oberkommando der Luftwaffe, OKL)&lt;br /&gt;
*** [[ドイツ陸軍]] (Heer)&lt;br /&gt;
*** [[ドイツ空軍]] (Luftwaffe)&lt;br /&gt;
*** [[ドイツ海軍]] (Kriegsmarine)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチ党軍事組織 ===&lt;br /&gt;
* [[武装親衛隊]] (Waffen-SS)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 準軍事組織 ===&lt;br /&gt;
* [[突撃隊]] (SA ,Sturmabteilung)&lt;br /&gt;
* [[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]] (SS ,Schutzstaffel)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 警察組織 ===&lt;br /&gt;
* 政治警察部門 ([[国家保安本部]], RSHA, Reichssicherheitshauptamt)&lt;br /&gt;
** 治安警察 (Sipo, Sicherheitspolizei)&lt;br /&gt;
*** [[ゲシュタポ|秘密警察]] (Gestapo, Geheime Staatspolizei)&lt;br /&gt;
*** [[刑事警察_(ドイツ)|刑事警察]](Kripo, Kriminalpolizei)&lt;br /&gt;
** 親衛隊保安部 (SD, Sicherheitsdienst des Reichsführer der SS)&lt;br /&gt;
* 一般警察部門&lt;br /&gt;
** [[秩序警察]] (Orpo, Ordnungspolizei)&lt;br /&gt;
*** [[大都市警察]] (Schutzpolizei)&lt;br /&gt;
*** [[地方警察_(ドイツ)|地方警察]] (Gendarmerie)&lt;br /&gt;
*** 市町村警察 (Gemeindepolizei)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政治結社 ===&lt;br /&gt;
* 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品 ==&lt;br /&gt;
* 『[[オリンピア (映画)|オリンピア]]』''Olympia''（第1部：『[[民族の祭典]]』 - ''Fest der Völker (Olympia Teil I)'' /第2部：『[[美の祭典]]』- ''Fest der Schönheit (Olympia Teil II)''（1938年、ドイツ映画）：1936年の[[ベルリン]]オリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。[[レニ・リーフェンシュタール]]監督作品。&lt;br /&gt;
* 『[[我輩はカモである]]』 - ''Duck Soup''（1933年、アメリカ映画）：[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]・[[バスター・キートン|キートン]]と共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、[[マルクス兄弟]]による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。&lt;br /&gt;
* 『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』 - ''The Great Dictator''（1940年、アメリカ映画）：仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「[[赤狩り]]」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。&lt;br /&gt;
* 『[[サウンド・オブ・ミュージック]]』 - ''The Sound of Music''（1965年、アメリカ映画）：ナチス・ドイツ併合下の[[オーストリア]]を舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。[[マリア・フォン・トラップ|修道女マリア]]が音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『[[ドレミのうた]]』は、この映画が発祥。&lt;br /&gt;
* 『[[地獄に堕ちた勇者ども]]』 - ''La caduta degli dei''（1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画）：ナチス突撃隊粛清（[[長いナイフの夜]]事件）とナチスによる[[ルール地方]]の鉄鋼王一族の退嬰を描いた[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の代表作。ヴィスコンティに重用された[[ヘルムート・バーガー]]主演。&lt;br /&gt;
* 『[[特別な一日]]』 - ''Una Giornata Particolare''（1977年、イタリア・カナダ合作映画）&lt;br /&gt;
* 『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』 - ''Indiana Jones and the Last Crusade''（1989年、アメリカ映画）・『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』（1981年、アメリカ映画）：いずれも[[スティーヴン・スピルバーグ]]の作品で、大いなる力を宿す[[聖杯]]・[[契約の箱|聖櫃]]を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。&amp;lt;!--オカルトじみているが、持つものに世界の支配権を与えるとされる[[ロンギヌスの槍]]にヒトラーが触れていた・もしくは保有していたとされる説が元になっているかもしれない。また、スピルバーグはユダヤ系アメリカ人であり、反ナチス感情が強いのかもしれない。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[戦場のピアニスト]]』 - ''The Pianist''（2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画）&lt;br /&gt;
* 『[[ブリキの太鼓]]』-（1979年、西ドイツ・フランス合作）：[[ギュンター・グラス]]原作。[[第一次世界大戦]]後の国際自由都市[[ダンツィヒ]]を舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。&lt;br /&gt;
* 『[[ライフ・イズ・ビューティフル]]』-（1998年、イタリア）：[[ロベルト・ベニーニ]]主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。&lt;br /&gt;
* 『さよなら子供たち』-（1987年、フランス・西ドイツ合作）：[[ルイ・マル]]監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧]]も参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* [[アドルフ・ヒトラー]]『''Mein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung''』、1925年、ドイツ（邦訳：[[わが闘争]]（上）I[[民族主義]]的世界観）&lt;br /&gt;
* アドルフ・ヒトラー『''Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung''』、1927年、ドイツ（邦訳：[[わが闘争]]（下）II[[国家社会主義]]運動）&lt;br /&gt;
* 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年&lt;br /&gt;
* 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年&lt;br /&gt;
* 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]『私はヒトラーの秘書だった（原題：''Bis zur letzten Stunde''）』、 （2002年、ドイツ）&lt;br /&gt;
* [[ヨアヒム・フェスト]]『ヒトラー最後の12日間（原題：''Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches''）』、（2002年、ドイツ）&lt;br /&gt;
* [[ウワディスワフ・シュピルマン]]『[[戦場のピアニスト]]（原題：''THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45''）』、（1999年、イギリス）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[第二次世界大戦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.axishistory.com/index.php?id=31 Axis History Factbook &amp;amp;mdash; Third Reich]&lt;br /&gt;
* [http://hitlernews.cloudworth.com/ Hitler's Third Reich in the News - daily edited review of Third Reich related news and articles.]&lt;br /&gt;
* [http://www.ns-archiv.de/index.php NS-Archiv] - Large collection of original scanned Nazi documents&lt;br /&gt;
* [http://www.videolexikon.com/view_310-33-505-0704-001.htm The German Resistance and the USA]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/torikai007/bio/anne-ref.html 反ナチス抵抗運動：人種民族差別撤廃]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.110.152.140</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89&amp;diff=52094</id>
		<title>大東亜戦争</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://18.236.240.21/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89&amp;diff=52094"/>
				<updated>2009-05-31T02:20:49Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;124.110.152.140: /* 大義名分 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大東亜戦争'''（だいとうあせんそう、Greater East Asia War）は、日本対米英支などの連合国との間で1941年から1945年まで続いた戦争（支那事変は1937年から）。結果は連合国の勝利に終わった。本項では「支那事変」、「対米英蘭豪加戦」両方について記述する。&lt;br /&gt;
今日の教科書では前者は「日中戦争」、後者は「太平洋戦争」の名称で記述されることが多いがこれは戦後に作られた名称である。（後述）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大東亜聖戦と呼称されることもある。&lt;br /&gt;
== 呼称と期間について ==&lt;br /&gt;
「'''太平洋戦争'''」という呼称は、被占領期に連合国軍最高司令官総司令部（GHQ）の占領政策における検閲（'''「大東亜戦争」の語を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせた'''）によって定着した名称であり、当時の日本側の公式な呼称は「'''大東亜戦争'''」である。現在の日本政府は「'''太平洋戦争'''」と「'''日中戦争'''」（支那事変）と区別し呼んでいる。（[[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]]も参照。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスでは「'''War with Japan'''（対日戦争）」と呼ばれ、アメリカでは「'''Pacific Theater'''（日本語に訳せば太平洋戦域）」という術語が広く使用された。ちなみに日本では一般的に1941年12月8日の真珠湾攻撃からを太平洋戦争と呼ぶが、西洋では特に第二次世界大戦と区別されず、日中戦争をふくめ盧溝橋事件の発生した1937年7月7日からを太平洋戦争とみなしている。中華民国と中華ソビエト（現[[中華人民共和国]]）では日中戦争として認識され、8年間としている。なお、日本では日中戦争（支那事変）は1941年12月12日以降は大東亜戦争に組み込まれたが、対戦経緯の違いから前者は'''対中戦'''（日中戦争）・後者は'''対米戦'''（太平洋戦争）として区別し認識される。また日本では昭和に起きた戦争を総称し15年戦争、昭和戦争、アジア・太平洋戦争との呼称も一部で用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同様に「支那事変」という名称も戦後嫌避される様になった名称である。（[[日教組]]、左派勢力による圧力のため。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==開戦理由==&lt;br /&gt;
日本&lt;br /&gt;
*大東亜戦争開戦時、戦争目的は自存自衛を全うしアジアを欧米の支配から解放し、そして「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカ&lt;br /&gt;
*[[ドイツ第三帝国]]とのイデオロギー戦争。対日人種戦争。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==開戦前史==&lt;br /&gt;
==='''中国戦線の泥沼化と三国同盟の締結'''===&lt;br /&gt;
1937年（昭和12年）に勃発した[[支那事変]]（日中戦争）において、'''日本政府は現地解決・不拡大方針など事態を最小限で収拾しようと試みた'''が'''大紅門事件、蘆溝橋城中国軍発砲事件、郎坊事件、広安門事件、大山中尉殺害事件、第二次上海事変など度重なる中国軍側による挑発・攻撃行動が発生、[[通州事件]]（中国共産党の停戦妨害工作の一つとして行われた在支日本人大虐殺事件）&amp;lt;ref&amp;gt;当時国共内戦で追い詰められていた中国共産党が日本と国民党を戦わせために意図的に反日挑発行為を行った。&amp;lt;/ref&amp;gt;などが発生し在支邦人への危険性が迫った'''ことなどから軍事行動（対支一撃論）を主張する陸軍を抑えきることができず国民の大多数の支持もあり、日支両軍による大規模な全面衝突（事変）に発展してしまった。日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助（援蒋ルート）を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を撹乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍（八路軍）も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。支那事変の戦線は伸び未曾有の長期戦に陥っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''劣勢にあった蒋介石は国際世論(欧米世論)を味方につけるために国民党中央宣伝部国際宣伝処&amp;lt;ref&amp;gt;東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、2006年、ISBN479421488X&amp;lt;/ref&amp;gt;を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。（いわゆる「[[南京大虐殺]]もその一つ」）'''これに対しニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し支那事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響（『'''Poor China（可哀想な中国）'''』という標語も生まれた）を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになった。'''また中国大陸に大きな権益を持っていたイギリス、満洲（石井・ランシング協定）以来大陸進出の機会を窺っていたアメリカは日本による中国大陸の平定とそれに伴う中国の覚醒が欧米諸国が支配していたインドやアジア・アフリカなどの植民地に影響を及ぼすのを警戒し撤兵を求めた。'''一方、日本は1940年（昭和15年）9月27日にドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、一層日米関係を悪くする結果となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==='''第二次欧州戦線の勃発と欧米の情勢'''===&lt;br /&gt;
1939年、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]がポーランドに侵攻したことによって欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国が連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠（工場）になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議（通称ABC会議）を開いてABC協定&amp;lt;ref&amp;gt;協定はアメリカが参戦した場合の米英統合の戦略を定めたもので、ドイツを打倒を第一として、その後に対日戦に入るとした&amp;lt;/ref&amp;gt;を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にも関わらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった&amp;lt;ref&amp;gt;当時、ホワイトハウスの前では反戦運動家や婦人団体、孤立主義者達がイギリスと蒋介石を援助するルーズベルトを批判するデモ活動が盛んに行われていた&amp;lt;/ref&amp;gt;。'''もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。そんな中、ドイツと同盟関係にあり、中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めてきた。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となると共に、第一撃を日本に加えさせ&amp;lt;ref&amp;gt;ルーズベルト大統領の側近ハリー・ロイド・ ホプキンスは解読された暗号文を読み、「我々が第一撃を加えて第一撃を阻止できないことは残念だ」といったとされる&amp;lt;/ref&amp;gt;ことで、国内の孤立主義派を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えられた'''&amp;lt;ref&amp;gt;アメリカ合衆国の真の敵は、欧州で膨張するナチス・ドイツであり、日本を過小評価していたこともあって、ここまで太平洋戦線が拡大するとは予想していなかったといわれる。出典:太平洋戦争研究会編著、『オール図解30分でわかる・太平洋戦争戦争-太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて-』、2005年7月29日初版 ISBN 4-807-499181&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==='''日米交渉の決裂と南進論の活発化'''===&lt;br /&gt;
米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側（外務省・大日本帝国海軍）が使用していた暗号解読機（九七式欧文印刷機）のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方日本は、1940年、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナに進駐し、'''援蒋仏印ルート'''を遮断したが、新たに'''援蒋ビルマルート'''が作られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年4月から日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を開始したが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」&amp;lt;ref&amp;gt;もし、日米交渉が失敗し戦争を行うことになった場合、南仏印が連合軍によって占領されると南方進出及び'''ビルマルート'''の遮断が困難になると予想されたことから南部に移駐した。&amp;lt;/ref&amp;gt;（対ソ戦準備・南部仏印進駐）の決定に従い、7月28日に南部仏印へ進駐した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対しアメリカ&amp;lt;ref&amp;gt;7月2日の御前会議では「対米英戦も辞せず」という強硬なものだったが、アメリカ側はその際決定された事項について事前に知っていたという&amp;lt;/ref&amp;gt;は7月25日に在米日本資産を凍結&amp;lt;ref&amp;gt;大英帝国・フィリピンは7月26日、オランダ領東インドは27日に同様の凍結措置をとった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した（ABCD包囲陣）。この制裁は石油や鉄類、工作機械などの70%以上をアメリカから輸入していた日本にとって致命的&amp;lt;ref&amp;gt;例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;なもので、対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも'''「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」'''と発言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米（英蘭）開戦を決意す」と決定された。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月18日に近衞内閣は総辞職する。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍]]司令官に今村均中将、第25軍]]司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、第55師団南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使はコーデル・ハルアメリカ合衆国国務長官国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;A&amp;quot;&amp;gt;実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。&amp;lt;/ref&amp;gt;こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、'''中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する明らかな最後通告(事実上の宣戦布告)であり12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経過==&lt;br /&gt;
序盤は日本が圧勝し続けた&amp;lt;ref&amp;gt;'''この日本の勝利が当時の東南アジアの被支配層に独立の気運を刺激し戦後残留日本軍と共に独立戦争を戦った。'''&amp;lt;/ref&amp;gt;がミッドウェー海戦後から戦局が悪化し後半は物量に勝る連合国が大反抗作戦を展開した。日本は連合国に甚大な被害を与えたが結局は物量に敗れた。1945年に日本軍は無条件降伏&amp;lt;ref&amp;gt;日本政府は有条件降伏であり戦後の[[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム|国家改造]]は不当行為である。&amp;lt;/ref&amp;gt;した。&lt;br /&gt;
===支那事変===&lt;br /&gt;
盧溝橋事件を契機として開戦。終戦まで日本軍は連戦連勝であった。&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1941年 ===&lt;br /&gt;
[[12月8日]]（[[日本標準時|JST]]）、6隻の[[航空母艦]]から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領[[ハワイ]]・[[真珠湾]]のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃（[[真珠湾攻撃]]）が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、[[オアフ島]]の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ[[空母]]が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月10日、日本海軍双発爆撃機隊（[[九六式陸上攻撃機]]と[[一式陸上攻撃機]]）の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していた[[イギリス海軍]][[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]の、当時最新鋭の戦艦[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]と巡洋戦艦[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]を一挙に撃沈した（[[マレー沖海戦]]）。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告文書交付は、駐米[[大使館]]での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、[[外務省]]の指令時間より1時間近くも遅れた。このため、英米への攻撃が「だまし討ちだ」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となった（なお、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったが、このように喧伝されることは無かった。さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点で、これは宣戦布告に等しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と支那事変で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告&lt;br /&gt;
。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズヴェルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[帝国陸軍|日本陸軍]]は12月8日、タイ国国境に近いイギリス領[[マレー半島]]&amp;lt;ref&amp;gt;当時はイギリスの植民地。&amp;lt;/ref&amp;gt;・コタバルへ上陸し、[[シンガポール]]を目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機が[[フィリピン]]&amp;lt;ref&amp;gt;当時はアメリカの植民地。&amp;lt;/ref&amp;gt;の米軍基地を攻撃し、12月10日には[[ルソン島]]へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日にはウェーク島も占領。&lt;br /&gt;
ボルネオ（[[カリマンタン島|現カリマンタン]]）島&amp;lt;ref&amp;gt;当時はイギリスとオランダの植民地&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ジャワ島]]と[[スマトラ島]]&amp;lt;ref&amp;gt;オランダの植民地。&amp;lt;/ref&amp;gt;などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。12月25日にはイギリス領[[香港]]を占領した。しかし日本軍は、ポルトガル植民地[[東ティモール]]と、香港に隣接する[[マカオ]]には、中立国植民地を理由に侵攻しなかった。&amp;lt;ref&amp;gt;しかし後にポルトガル政府の暗黙のもと、両地を事実上統治下においた。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国戦線において、中国国民党の蒋介石率いる中華民国政府は、アメリカやイギリス、ソ連からの豊富な軍需物資、戦闘機部隊や軍事顧問など、人的援助を受けた。日本軍は、地の利が有る国民党軍の攻撃に足止めされ、中国共産党軍（[[八路軍]]と呼ばれた）は[[ゲリラ]]戦を展開、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、[[満洲国]]&amp;lt;ref&amp;gt;1932年に日本の協力の元に設立された「五族協和」を国是とした日本の事実上の[[傀儡政権]]。&amp;lt;/ref&amp;gt;や[[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]]&amp;lt;ref&amp;gt;1940年3月、日本の協力の元に[[汪兆銘]]を首班として南京に設立された政権。&amp;lt;/ref&amp;gt;も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1942年 ===&lt;br /&gt;
東南アジア唯一の独立国だった[[タイ王国]]は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に[[日泰攻守同盟条約]]を締結し、事実上枢軸国の一国となった事で、この年の[[1月8日]]からイギリス軍やアメリカ軍が[[バンコク]]など都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は[[1月25日]]にイギリスとアメリカに宣戦布告した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月、日本海軍[[伊号第一七潜水艦]]が、アメリカ西海岸[[カリフォルニア州]]・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。続く同6月、[[オレゴン州]]のアメリカ海軍基地を砲撃し被害が出た事も有り、アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した。一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、[[日系人の強制収容]]の本格化に繋がったとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本海軍は、同月に行われた[[ジャワ沖海戦]]でアメリカ、イギリス、[[オランダ海軍]]を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続く[[スラバヤ沖海戦]]では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2月15日]]には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点[[シンガポール]]が陥落。&lt;br /&gt;
また、3月の[[バタビア沖海戦]]でも日本海軍は圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなく[[ジャワ島]]に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。この頃、フィリピンの日本軍はコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官[[ダグラス・マッカーサー]]は多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ（現在は[[ミャンマー]]）首都[[ラングーン]]（現在は[[ヤンゴン]]）を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大した。しかし、4月18日、空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]から発進した米陸軍の双発爆撃機[[B-25 (航空機)|B-25]]による東京空襲（[[ドーリットル空襲]]）は、日本の軍部に衝撃を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊は[[インド洋]]にも進出し、空母搭載機がイギリス領[[セイロン]]&amp;lt;ref&amp;gt;現在の[[スリランカ]]&amp;lt;/ref&amp;gt;の[[コロンボ]]、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]]、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した（[[セイロン沖海戦]]）。&lt;br /&gt;
イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だった[[アフリカ]]東岸[[ケニア]]の[[キリンディニ]]まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である[[伊号第三〇潜水艦]]は、その後8月に戦争開始後初の[[遣独潜水艦作戦]]（第一次遣独潜水艦）としてドイツ&amp;lt;ref&amp;gt;正式にはドイツ占領下のフランス。&amp;lt;/ref&amp;gt;へと派遣され、[[エニグマ (暗号機)|エニグマ暗号機]]などを持ち帰った。イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖の[[マダガスカル]]島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、[[南アフリカ]]軍の支援を受けて占領した（[[マダガスカルの戦い]]）。この戦いの間に、日本軍の[[特殊潜航艇]]がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間の[[シーレーン]]を遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」（[[FS作戦]]）を構想した。5月には、日本海軍の[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]が行われ、オーストラリアの[[シドニー]]港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月7日、8日の[[珊瑚海海戦]]では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]を失ったが、日本軍も小型空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]を失い、大型空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からの[[ポートモレスビー作戦|ポートモレスビー攻略作戦]]を推進するが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋の[[ミッドウェー島]]攻略を決定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月4日 - 6日にかけての[[ミッドウェー海戦]]では、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻（[[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]）を一挙に失い（米機動部隊は正規空母1隻（[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]）を損失）。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は太平洋戦争（大東亜戦争）の転換点となった。この海戦後、日本海軍保有の正規空母は[[瑞鶴]]、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻（[[大鳳 (空母)|大鳳]]、[[天城 (空母)|天城]]、[[雲龍 (空母)|雲龍]]、[[葛城 (空母)|葛城]]の4隻）のみであった（なお、アメリカは終戦までに[[エセックス級航空母艦|エセックス級空母]]を14隻戦力化させている）。日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は予想より早く反攻作戦を開始する。また、[[大本営]]は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月には日本海軍の[[伊一五型潜水艦]][[伊号第二五潜水艦]]の[[潜水艦搭載偵察機]]零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた（[[アメリカ本土空襲]]）。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないため、アメリカ政府も、爆撃があった事実をひた隠しにする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、[[ソロモン諸島]]のツラギ島および[[ガダルカナル島]]に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった（[[ガダルカナル島の戦い]]）。同月に行われた[[第一次ソロモン海戦]]ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[第二次ソロモン海戦]]で日本海軍は空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた[[南太平洋海戦]]では、日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を撃沈、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]を大破させた。先立って[[サラトガ (空母)|サラトガ]]が大破、[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]を日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。日本は[[瑞鶴]]以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。&lt;br /&gt;
それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた[[第三次ソロモン海戦]]で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツの[[Uボート]]戦法に倣って、[[潜水艦]]による[[通商破壊]]作戦を実行。日本軍の物資・資源輸送船団を攻撃。ガダルカナル島では補給が途絶え、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、1国でイギリス、アメリカ、オーストラリア、中華民国を相手にする日本は次第に守勢に回るようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1943年 ===&lt;br /&gt;
1月、日本海軍は[[ソロモン諸島]]の[[レンネル島沖海戦]]でアメリカ海軍の重巡洋艦[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]]を撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は絶望的となっていた。2月には、日本陸軍はガダルカナル島から撤退（[[ケ号作戦]]）した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じた。ソロモン諸島での戦闘は依然続き、7月の[[コロンバンガラ島沖海戦]]で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃によりアメリカ艦隊に勝利するが、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月18日、日本海軍の[[連合艦隊司令長官]]の[[山本五十六]][[海軍大将]]&amp;lt;ref&amp;gt;戦死後海軍[[元帥]]となる。&amp;lt;/ref&amp;gt;が、前線視察のため訪れていた[[ブーゲンビル島]]上空で[[アメリカ海軍情報局]]による[[暗号解読]]を受けた[[ロッキード]][[P-38 (航空機)|P-38]]戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の[[一式陸上攻撃機]]を撃墜され戦死した（詳細は「[[海軍甲事件]]」を参照）。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で（討て）」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月には北太平洋[[アリューシャン列島]]の[[アッツ島]]にアメリカ軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し（[[アッツ島の戦い]]）、[[大本営発表]]で初めて「[[玉砕]]」という言葉が用いられた。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ニューギニア島]]でも激戦が続いていたが、物資補給の困難から、8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点、[[ラバウル]]は孤立化し始める。一方、初戦の敗退を乗り越え、戦力を整えたアメリカ軍はこの年の11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官の[[ダグラス・マッカーサー]]が企画した「飛び石作戦（日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう）」を開始する。11月には[[ギルバート諸島]]のマキン島、[[タラワ島]]の戦いで日本軍守備隊が全滅、同島はアメリカ軍に占領された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月に日本の[[東條英機|東条英機]]首相は、満洲国、[[タイ王国]]、フィリピン、[[ミャンマー|ビルマ]]、[[自由インド仮政府]]、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]などの首脳を東京に集めて[[大東亜会議]]を開き、[[大東亜共栄圏]]の結束を誇示する。しかしこの年の年末には、完全に態勢を立て直したアメリカ軍に加え、イギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、中華民国軍など、数カ国からなる連合軍と、さしたる味方もなく1国で戦う上、兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍との力関係は、連合国有利へと傾いていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1944年 ===&lt;br /&gt;
[[ミャンマー|ビルマ]]方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する[[英印軍]]の主要拠点である[[インパール]]の攻略を目指した[[インパール作戦]]とそれを支援する[[第二次アキャブ作戦]]が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いる[[インド国民軍]]まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う（大半が餓死によるもの）など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、[[アウン・サン]]将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される（[[大陸打通作戦]]）。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中国・[[成都]]を基地とする[[B-29 (航空機)|B-29]]による北九州爆撃が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である[[絶対国防圏]]を設けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月、最重要地点[[マリアナ諸島]]にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、[[マリアナ沖海戦]]が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は惨敗を喫する。旗艦[[大鳳 (空母)|大鳳]]以下空母3隻、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊は壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末の[[レイテ沖海戦]]ではそれらを中心とした艦隊が編成される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊が[[サイパン島]]、[[テニアン島]]、[[グアム島]]に次々に上陸。[[7月]]、[[サイパン島]]では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く[[8月]]、[[テニアン島]]、[[グアム島]]が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の[[東北地方]]北部と[[北海道]]を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の[[中島飛行機]][[武蔵野]]製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きく、この段階で日本の勝利の可能性は完全に無くなったといってよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカやイギリスのような大型[[戦略爆撃機]]の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していた[[ジェット気流]]を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる[[風船爆弾]]を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。しかし与えた被害は市民数名の死亡、数ヶ所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「[[伊四〇〇型潜水艦]]」で、当時アメリカ管理下の[[パナマ運河]]を、搭載機の水上攻撃機「[[晴嵐]]」で攻撃する作戦を考案したが、これも戦況の悪化により中止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独裁体制を強化する[[東條英機|東条英機]]首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃、[[中野正剛]]などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官[[細川護貞]]の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の[[高松宮宣仁親王]]黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。[[小磯国昭]]陸軍大将と[[米内光政]]海軍大臣を首班とする内閣が発足した。&lt;br /&gt;
日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、[[鉄鉱石]]などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月には、アメリカ軍はフィリピンの[[レイテ島]]への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、[[レイテ沖海戦]]が起きる。日本海軍は空母瑞鶴などを米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]、[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]を主力とする戦艦部隊（栗田艦隊）で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて[[神風特別攻撃隊]]が組織され、米海軍の[[護衛空母]]撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、[[M4中戦車]]や[[火炎放射器]]など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1945年 ===&lt;br /&gt;
1月にはアメリカ軍は[[ルソン島]]に上陸した。2月には、首都[[マニラ]]を奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。&amp;lt;ref&amp;gt;日本は1940年以来、[[ヴィシー政権]]との協定をもとに[[フランス領インドシナ]]に進駐し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放、[[シャルル・ド・ゴール]]によるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は[[3月9日]]、「明号作戦」を発動してフランス植民地政府及び駐留フランス軍を武力で解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、かなりの戦力を維持していたので連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行なわなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月から3月後半にかけて[[硫黄島の戦い]]が行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で大東亜戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者（米軍の死傷者が日本軍を上回った）を出した末に、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]は陥落した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前年末から、アメリカ陸軍航空隊の[[ボーイング]][[B-29]]爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。日本軍は単発エンジンの戦闘機で体当たりするなど必死に迎撃したが、8,000m以上の高々度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[3月10日]]未明、[[東京大空襲]]によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、[[カーチス・ルメイ]]少将が爆撃隊の司令官に就任すると、夜間[[無差別爆撃]]で[[焼夷弾]]攻撃が行われるようになった。[[東京]]、[[大阪]]、[[名古屋]]の3大都市の他、[[仙台市|仙台]]、[[横浜市|横浜]]、[[神戸]]、[[福岡市|福岡]]、[[岡山市|岡山]]、[[富山市|富山]]、[[徳島市|徳島]]、[[熊本市|熊本]]、[[佐世保市|佐世保]]など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカ軍は占領した硫黄島を、[[B-29]]護衛の[[P-51 (航空機)|P-51D]]戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、B-29迎撃はさらに困難となった。迎撃する戦闘機、熟練した操縦士も、底をついていた日本軍は、十分な反撃もできなかった。当時ドイツの技術を参考にジェット機「橘花」を開発し、敗戦直前の8月7日に初飛行に成功するが、結局実用化には至らなかった。また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカ軍空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、[[艦載機]]による空襲、機銃掃射を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[4月1日]]、連合軍は[[沖縄本島]]へ上陸。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた。支援のため沖縄に向かった戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]も4月7日に撃沈。残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、ここに日本海軍連合艦隊は完全に壊滅した。連合軍の艦艇に対する[[神風特別攻撃隊]]による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は[[練習機]]さえ動員し、必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。沖縄戦は両軍と民間人に死傷者数十万人を出し、日本国内で民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員の反撃で、アメリカ軍に大きな被害を与えたが、6月23日には沖縄は陥落する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
満洲国は南方戦線から遠く、[[日ソ中立条約]]により、ソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、[[昭和製鋼所]]（鞍山製鉄所）などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあった[[ミャンマー|ビルマ]]では開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者[[アウン・サン]]はビルマ国軍を[[ラングーン]]に集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[5月7日]]、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は[[鈴木貫太郎]]首相の下で、連合国との和平工作を始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すでに2月、[[ヤルタ会談]]の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日から[[ドイツ]]の[[ベルリン]]郊外の[[ポツダム]]で、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、日本の無条件降伏と、戦後処理に関する[[ポツダム宣言]]が発表された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、[[九州]]地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。&lt;br /&gt;
アメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす名目と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的、さらに非[[白人]]種への[[人種差別]]意識も影響し、史上初の原子爆弾の使用を決定。[[8月6日]]に[[広島市への原子爆弾投下]]、次いで[[8月9日]]に[[長崎市への原子爆弾投下]]が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員した、アメリカの[[マンハッタン計画]]には遠く及ばなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間（[[1946年]]4月まで）有効の[[日ソ中立条約]]を破棄、[[8月8日]]、[[ソ連対日宣戦布告|対日宣戦布告]]し翌9日、[[満州国]]へ侵攻を開始した（[[8月の嵐作戦]]）。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできずに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に[[中国残留孤児]]問題として残る事となった。また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜として[[シベリア]]へ抑留された（[[シベリア抑留]]）。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は、流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に[[強姦]]され（ソ連軍による組織的強姦）、満洲から引き上げる日本人女性の一部は中華民国国民党軍や中国共産党軍に拉致され慰安婦にされるなど、多大な被害を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御前会議では鈴木首相が[[昭和天皇]]に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。[[8月14日]]、同宣言受諾の意思を通告し、翌[[8月15日]]正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明、全ての戦闘行為は停止された（[[日本の降伏]]）。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音された[[レコード]]の奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件（宮城事件）を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、[[厚木基地]]の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌日、連合軍は中立国[[スイス]]を通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が[[一式陸上攻撃機]]でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も[[樺太|南樺太]]・[[千島列島|千島]]への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。[[北方領土]]の[[択捉島]]、[[国後島]]は8月末、[[歯舞諸島]]占領は9月上旬になってからであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し[[8月18日]]、退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への逃命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が[[厚木]]飛行場に到着。8月30日、[[連合国軍最高司令官総司令部]]（GHQ/SCAP）の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍の[[ダグラス・マッカーサー]]大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月2日]]、[[東京湾]]内停泊のアメリカ海軍戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]艦上において、イギリスやアメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席&amp;lt;ref&amp;gt;8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。&amp;lt;/ref&amp;gt;の元、日本政府全権[[重光葵]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[大本営]]全権[[梅津美治郎]]参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
現在では大東亜戦争は多数の知識人が「自衛戦・解放戦」と評価している。しかし少数の左派勢力は未だに「侵略戦争」と評している&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
解放者としての見方は、アジア諸国が大東亜戦争後に独立を果たせたのは、大東亜戦争がアメリカやイギリスなどの植民地化政策を行った国々との間での戦争であることが要因の一つであるとされ、大東亜戦争そのものを肯定的に評価することが多い。つまりは日本は加害者であるという戦争理解や、近隣アジア諸国に対する謝罪への要求といった事態は、自虐的過ぎるということになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、自衛戦としての見方は、[[ABCD包囲網]]によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとするものである。また、アメリカが日本の大陸利権を否定することで圧力を加え、併せて人種的偏見による移民規制や、日系アメリカ人に対して人種差別的な政策を行ったことが、当時の新聞メディアに先導された日本人の反米感情を刺激し、対米戦へと踏み切らせたとの考えであり、当時の日本政府が大義名分とした「自存自衛とアジアの解放」に基づく評価である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|scroll=1}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:大東亜戦争]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>124.110.152.140</name></author>	</entry>

	</feed>